津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

成否

2009-06-28 18:11:17 | 熊本
 熊本市の政令指定都市の成否を占う住民投票が、今日植木町と城南町で行われた。さてその結果が気に成る。数ヶ月前益城町でも同様の投票が行われ、反対票が圧倒的多数を占め、推進派であった町長は白旗をあげて合併協議会から脱落した。二の舞になれねば良いがといささか気に成る。将来道州制が云われるときには、ぜひとも政令指定都市になっておくべきだろうと思うが、県を上げての議論は無い。熊本市が頑張れば良いといった、突き放した空気が大勢である。雄都熊本の再生はこんなことでは達成できないだろうと思うのだが・・如何。数時間後テロップが流れるだろうが、その成否はどうなるか・・・良い結果を聴きたいものと思っているのだが・・

 PM11:00のニュースで、両町とも合併賛成が過半数を獲得したようです。どうやら政令指定都市の切符を手に入れたようです。まずは嬉しく思います。
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綱利と清高院

2009-06-28 10:47:16 | 歴史
 綱利の生まれは寛永20年(1643)正月8日、生母・清高院は元和5年(1619)6月生まれとされるから、清高院24歳のときの子である。当時からすると大年増ということになる。母子して大変な浪費家であったらしく、家老松井興長から諫言を受け「1/10ほどで生活しましょう」とふてくされた返事をしている。後年そんな母親が病になると、綱利は江戸に止まる期間の延長を幕府に申し入れたりしている。将軍側用人柳沢吉保にべったりとくっつき、「夜中越中」と揶揄された綱利だが、江戸滞在期間の延長なども柳沢吉保に頼み込んでいる。老中の反対を押し切って許可されている。
 
 その後も参勤の帰国出立の延期を数度申し入れをするなど、幕府側からすると「掟破り」の行動が見えるが、柳沢吉保をして「親孝行者」として認められたという。(仲介の労をとった家老の子を細川家に召し出したりしている。)又。吉保の三男を養子に迎えることを画策したが、これは果たされなかった。「押し込め」の噂が聞える頃である。

 清高院は91歳という長寿を保った。宝永7年に亡くなっているが、二人の息子兄綱利は宗家藩主、弟・利重は新田藩藩主となり幸せな人生であったろう。綱利自身も72歳迄長生きしたが、男子二名を亡くし弟・利重の二男を養嗣子となす(光尚)。名君重賢は孫に当るが・・ひいばあ様には似ても似つかぬ感じがする。
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