津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・両角氏

2009-06-22 09:41:10 | 歴史
 細川家家臣略系譜の「病死並御暇等之面々(三)」にある両角家が今回のテーマ。
その家祖は諸隅豊後守重之と記されている。川中嶋の戦いで武田(信玄)軍のなかにあって戦死した隊将の中に諸角(ママ)豊後守がいるが同一人物であろうか。

    サイト【川中嶋の戦い】
           www5f.biglobe.ne.jp/~shingen/yukari/kawanakajima/kawanakajima.html

 武田信昌---+---○---○---信玄
         |
         |  六男                                     初代
         +---諸角豊後守---本田彦太郎重政---刑部大輔頼重---外太夫---又左衛門
               虎定・昌清 重之?

 同一人物だとすると細川家家臣初代又左衛門は四代の孫ということになる。諸隅が両角になった。
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20 コメント

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諸角(両角)豊後守の一考察 (shibaurablue)
2009-11-04 01:16:58
諸角豊後守昌清(諸角虎定)には子供がいなかったので、武田二十四将の一人である板垣信方の実弟である板垣虎登を養子とし、諸角玄備虎登とする。
諸角玄備虎登には長男の諸角助五郎昌守と次男の諸角彦大夫重政(本田彦大夫重政)がいる。
長男は元亀元年に改易。次男の諸角彦大夫重政(本田彦大夫重政)は長篠の合戦後の武田家滅亡後、肥後細川藩へ。その長男の諸角(両角)刑部大輔頼重(本田刑部)がいる。
外大夫、両角又左衛門、杢左衛門、弥忠太、宇平次、両角彦作、両角鋼吉(細川藩有禄士族)
あたりに繋がったのではないでしょうか。
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御礼申上げます (津々堂)
2009-11-04 17:48:03
ご示教有難う御座います。板垣信方・弟に繋がっているとは驚きでした。本田氏を木田と表記しておりましたので、早速訂正させていただきます。
今後とも宜しくお願い致します。
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両角 諸角 室住 (両角 功)
2010-08-08 20:42:16
木田重政の曾祖父である実政が二十二歳のときの永禄年中、諏訪を攻めた武田氏を大角・小角という山の間で破ったことにより、「両角」と名乗ることを命じられたと伝えられているそうですが、実際に茅野には大泉山(大角山)と小泉山(小角山)があります。諸角豊後守との関係がわからなくなってきました。豊後守は武田家から出てきていると聞いていますが‥‥‥。

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両角の多い村がある茅野 (両角理恵)
2011-08-12 16:41:28
武田氏と戦った時に宮川を境にしたと言われていますが、安国寺も宮川村にあるのでnhkなどで諸角となっていたのは間違いではないかと思いました。茅野に残る地名の大角山・小角山の話からも武田の家来は「両角」だと考えます。
諸隈・諸角との関係はどこでつながるのでしょうか?
ちなみに、この地域は「五味」姓も多いです。
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我が一族の集まり (両角 淳)
2016-05-01 11:05:35
ここは、我が一族の集まりですか(笑)
諸説いろいろありますが、もとは「室澄」や「諸角」「室角」「両角」とありますが「角」とは刀を差します
「両角」は他の「もろずみ」とは違って分家にあたり、侍から鍛冶屋や宮大工、農民へと転職します。その時に、名字の一字を「両」に変え、「両刀は(刀と脇差し)捨てず」(侍の命としての刀は措くが誇りは捨てまじ)の意味だそうですよ
これは我が家の口伝ですから、あてになるかわかりませんが

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Unknown (両角 淳)
2016-05-01 18:55:44
侍は元服すると改名するわけですが、通常は拝領されるわけです
武田家の通字は信がつくわけですが、親戚筋の家臣は虎が下肢されます
相当な功績か重役であれば信が下肢されます
諸角は信玄の大叔父ですから虎は当然なんですが、何せ歳が歳ですし川中島で出陣戦死したとしが81とも84ともいわれます
一族の皆さん、
川中島古戦場では「諸角さん」とよはれ塚と石碑がありますから、お参りくださいな
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(両角氏一族の皆様へ) (霧の川中島)
2016-06-20 14:43:55
私の母方が両角豊後守の子孫と代々伝わっています。 槍・刀・甲冑・籠・長持・等・・・戦前まで多く残っていましたが火災や戦後に米軍兵による刀剣の徴収があったとの事で、現在はほとんど残っていません。 武士から帰農するにあたり、諸角から苗字を両角に変えたとの言い伝えがあります。 現在、代々の大小のお墓があり、お墓参りにはお線香が多々必要な位なのですが、古い大きな塚があり、その塚の上に当家両角氏三代の石塔三基が立てられています。 風化と数百年の長い年月で刻まれている文字の判別は難しい状況です。 他にもエピソードが伝わっています。
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両角6900人 (両角功)
2016-07-16 16:56:43
各位
参考になりました。
現在、両角は約6900人いるそうです。皆、血が繋がっているわけではなく、苗字のない者が「両角」から買ったり譲ったりしたのでしょうか?
いずれにせよ、これからのそれぞれの両角家を大事にすることですね。
あと、家紋が二種類あると聞いております。因みにウチは
「丸に桔梗」です。
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互角 (両角功)
2016-07-16 17:00:07
余談ですが、互角は牛頭両角からきたそうです。
牛の角は均等に生えるからだそうです。
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家紋について (両角 淳)
2016-11-18 20:49:13
両角諸角一族という本が国立国会図書館に有ります。
どうやら、両角氏は、2派にわかれます。
丸に桔梗の両角氏は、武田氏、つまり、清和源氏、清和天皇が祖に為ります。(但し、虎定に子はいない)
村上源氏、つまり、村上天皇を祖とする源氏子孫にも、両角氏はいるのです。ひまがあったら調べて下さい。
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