細川家家臣略系譜の「病死並御暇等之面々(三)」にある両角家が今回のテーマ。
その家祖は諸隅豊後守重之と記されている。川中嶋の戦いで武田(信玄)軍のなかにあって戦死した隊将の中に諸角(ママ)豊後守がいるが同一人物であろうか。
サイト【川中嶋の戦い】
www5f.biglobe.ne.jp/~shingen/yukari/kawanakajima/kawanakajima.html
武田信昌---+---○---○---信玄
|
| 六男 初代
+---諸角豊後守---本田彦太郎重政---刑部大輔頼重---外太夫---又左衛門
虎定・昌清 重之?
同一人物だとすると細川家家臣初代又左衛門は四代の孫ということになる。諸隅が両角になった。
その家祖は諸隅豊後守重之と記されている。川中嶋の戦いで武田(信玄)軍のなかにあって戦死した隊将の中に諸角(ママ)豊後守がいるが同一人物であろうか。
サイト【川中嶋の戦い】
www5f.biglobe.ne.jp/~shingen/yukari/kawanakajima/kawanakajima.html
武田信昌---+---○---○---信玄
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| 六男 初代
+---諸角豊後守---本田彦太郎重政---刑部大輔頼重---外太夫---又左衛門
虎定・昌清 重之?
同一人物だとすると細川家家臣初代又左衛門は四代の孫ということになる。諸隅が両角になった。
諸角玄備虎登には長男の諸角助五郎昌守と次男の諸角彦大夫重政(本田彦大夫重政)がいる。
長男は元亀元年に改易。次男の諸角彦大夫重政(本田彦大夫重政)は長篠の合戦後の武田家滅亡後、肥後細川藩へ。その長男の諸角(両角)刑部大輔頼重(本田刑部)がいる。
外大夫、両角又左衛門、杢左衛門、弥忠太、宇平次、両角彦作、両角鋼吉(細川藩有禄士族)
あたりに繋がったのではないでしょうか。
今後とも宜しくお願い致します。
諸隈・諸角との関係はどこでつながるのでしょうか?
ちなみに、この地域は「五味」姓も多いです。
諸説いろいろありますが、もとは「室澄」や「諸角」「室角」「両角」とありますが「角」とは刀を差します
「両角」は他の「もろずみ」とは違って分家にあたり、侍から鍛冶屋や宮大工、農民へと転職します。その時に、名字の一字を「両」に変え、「両刀は(刀と脇差し)捨てず」(侍の命としての刀は措くが誇りは捨てまじ)の意味だそうですよ
これは我が家の口伝ですから、あてになるかわかりませんが
武田家の通字は信がつくわけですが、親戚筋の家臣は虎が下肢されます
相当な功績か重役であれば信が下肢されます
諸角は信玄の大叔父ですから虎は当然なんですが、何せ歳が歳ですし川中島で出陣戦死したとしが81とも84ともいわれます
一族の皆さん、
川中島古戦場では「諸角さん」とよはれ塚と石碑がありますから、お参りくださいな
参考になりました。
現在、両角は約6900人いるそうです。皆、血が繋がっているわけではなく、苗字のない者が「両角」から買ったり譲ったりしたのでしょうか?
いずれにせよ、これからのそれぞれの両角家を大事にすることですね。
あと、家紋が二種類あると聞いております。因みにウチは
「丸に桔梗」です。
牛の角は均等に生えるからだそうです。
どうやら、両角氏は、2派にわかれます。
丸に桔梗の両角氏は、武田氏、つまり、清和源氏、清和天皇が祖に為ります。(但し、虎定に子はいない)
村上源氏、つまり、村上天皇を祖とする源氏子孫にも、両角氏はいるのです。ひまがあったら調べて下さい。