津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

齊茲のむすめ達 ・ 続

2009-06-11 17:24:19 | 歴史
 耇姫の立ち姿は寿像(生前に書かれたもの)であろうと、齊藤研一氏は推測されている。耇姫のことを書いた「梅の薫」という一文が永青文庫にあるそうだが、これによると耇姫はわずか四才ながら狂言が好きであったとされる。この立ち姿の絵は右の手に扇を持ち、あたかも舞い出しそうな風情であるが、実のところ片言に小唄を謡い、真似事の舞いをされたという。「瓢の神」「花折」を特に好まれたらしい。「その可愛らしさはなんとも表現のしようがない」と筆者は記しているという。愛娘を亡くした齊茲の落胆振りは如何ばかりであったろうか。(齊藤研一氏 「子どもの肖像画--細川耇姫像によせて」から引用)
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齊茲のむすめ達

2009-06-11 10:41:27 | 歴史
 2009年02月11日 のブログで「こう姫様」を書いた。
図書館で吉川弘文堂のPR雑誌「本郷」(2003・7月号)を読んでいたら、日本中世史の斉藤研一氏の「子どもの肖像画-細川耇姫展によせて」という一文を発見、ここにあのおざぶに座った絵のほかに、立姿の「耇姫」の絵が掲載されていた。顔つきがまったく同じで同一作者(狩野弘信)のものであろうとされる。斉茲はこれを模写したのだろうとされている。

 斉茲は継嗣斉樹をはじめとして11人の子をなしたが、すべて斉茲より早く亡くなっている。「耇姫」は末娘でもあり64歳の時の子とされるから、可愛がりようも格別であったろう。女子6人のうち長じたのは一条関白忠良に嫁いだ長女のみで、耇姫の他の4人は夭折している。五女の「融姫」は文化十年の生まれで耇姫より10年早く生まれた人だが、斉茲はこの姫の絵も書き残している。(芸術新潮 2007-10月号p23掲載)
わずか六ヶ月ほどで亡くなったこの姫君は後姿として描かれているから、その面差しは窺い知れないが、可愛い夏服のふくよかな姿である。耇姫の絵と共に斉茲の娘たちに対する深い愛情が感じられる。

 (2008年11月発行の「熊本歴研-史叢」に、蓑田勝彦氏の「細川耇姫と荒仕子清七」という一文が掲載されている。興味ある一文である)

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新事実「天草四郎に妻」

2009-06-11 07:38:40 | 新聞
 今日の熊本日日新聞は、「天草四郎に妻が存在」したことをうかがわせる、新史料が見つかったことを報じている。在熊の郷土史家・鶴田倉造氏が、尾張徳川家の史料「蓬佐文庫」の「天草陣雑記」のなかに発見された。「有馬籠城の覚」の中に「出丸大将有江監物貞次、是ハ四郎舅、城二テ総取仕候」とあった。

 綿考輯録は四郎の最後を次のように記している。
陳佐左衛門走廻り首二ッ討取候か、四郎か居宅の焼落る比煙下をくゝり其屋の内にかけ入る、佐渡か軽卒三宅半右衛門もつゝいて入に、創を被りたる者かと見へ、絹引かつき臥居ける側に女壱人付添泣居たり、佐左衛門つと入足音に驚き、かつきたる絹を押除る所を透かさす一刀に斬て首提け走出る、女驚き引留んとするを、三宅是を切捨にして走出ると忽棟を焼落し候、寺本久太郎ハ先時夜明ると早速忠利君の御意を蒙り、今日討取所の首をも拾せ、本陳前の堀に集め候に夥しく有之候、佐左衛門も其所に至るへきと思ひ、右の首を提、忠利君の御目通り近くを行くを急き行を屹と御覧被成、其首見所有、大将四郎なるへし、念を入候へ、扨々冥加の者哉と御意候か、果して四郎首也、御近習の輩驚き奉感候、扨佐左衛門惣首の所に至始終を語候へハ、久太郎猶も委しく様子を尋ね聞、陳か高名を感し候

この四郎の側にあった女性こそ、四郎の妻ではないかと考えられる。倉田氏は今年御年86歳、天草四郎研究の第一人者だが見事な成果を得られた。今後の新たな展開が楽しみではある。(私は単純に、傷を負うた四郎の介護をしていた女性と思っていたのだが・・・考えが甘かった)
コメント (1)
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