津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

杖を買うか・・・

2009-06-21 10:30:23 | 徒然
 GW前に転倒して痛めた左膝の病状が固定してしまった。相変わらず痛みが取れないし、杖が欲しいとさえ思うときがある。妻は薬を飲め、リハビリしろとうるさいが、完治するとは思えない。最近は足首が痛み出した。膝をかばう歩き方がまずかったのだろう。昨日の県立美術館での講演会で、講師熊本大学の吉村教授は冒頭、「今日は自転車で来ました。棒庵坂を登ってきました」とおっしゃって、まずは笑いを取られた。棒庵坂の傾斜の物凄さを知っている皆さんの驚嘆と敬意の笑いである。スリムな体型が教授のそんなフランクな日常を物語っている。私も随分自転車で走り回ったが、転倒事件以来車で出かけることが多くなり、すっかりメタボに逆戻りしてしまった。「散歩でもしなさいよ」と妻が言う。(本人もメタボなのだが) その気が無い訳ではないが、絶え間ない鈍痛と時折来るぎくっとくる痛みを思うと中々一歩踏み出せない。本気で「杖を買うか・・」と考え始めた。

「杖をついたメタボな爺さん」・・・さまにならんなー。
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昨日の講演会

2009-06-21 08:17:50 | 歴史
 熊本県立美術館で、【熊本大学教授・吉村豊雄教授 の講演「藩主の座60年、講座 細川コレクション2 細川綱利の時代」】を拝聴する。5頁のレジュメの中に始めて知る事実があった。綱利に「押し込めの危機」があったというのだ。宝永4年(1706)の頃だとされるから藩主になってから57年を経過し、長期政権に対するほころびが生じ始めている。二人の男子を失った綱利は、「夜中細川」と揶揄されながら側用人・柳沢吉保に接近し、その三男を養子にしようと企てている。吉保は承知したというのだが、細川家と大変親しかった老中稲葉正往に非難されこの話は頓挫した。弟・利重の次男利武(宣紀)を養子としたのはその直後のことであろう。(この話を聞きたかったが・・触れられず残念)。幼くして父親を亡くした綱利は、生母清高院とともに自由奔放な生活をつづける。細川家生え抜きの最後の重臣とも云うべき松井興長は痛烈な諫言を行っているが、綱利の初入国の年に亡くなった。綱利の取り巻きによる治世が展開していく。

  綱利の継嗣問題については過去にもいろいろ書いた。
   ■ 細川家家臣・薮田氏 2008年04月05日
   ■ 夜中越中      2008年04月19日
   ■ 綱利の跡継ぎ事情  2008年04月28日
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ボケ極まる

2009-06-19 17:26:27 | 徒然
 今日の午後は熊本県立美術館で、【講座 細川コレクション2 「藩主の座60年、細川綱利の時代」】が、講師熊本大学教授・吉村豊雄教授により行われることをすっかり忘れていた。メールアドレスを変更し補助的に使っていたアドレスに、昨日ある方からお誘いのメールが入っていたものも気がつかずにいた。二重のミスである。・・残念の極み・・

 最近はいろいろ物忘れがひどくなったのだが、このような大事を忘れるようになると、「ボケ極まれり」と大ショックである。後期高齢者に突入したらどういうことになるのやら・・・熱さの所為もあるか !

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                  さて、今後のスケジュール

     ■講座 細川コレクション3 「永青文庫に現存する細川重賢関係資料」
              7月25日(土)本館講堂 【時間】13:30~15:00
              川口恭子氏(熊本大学客員教授)
     ■講座 細川コレクション4 「中国水墨山水画の謎」
              9月26日(土)本館講堂 【時間】13:30~15:00
              井出誠之輔氏(九州大学教授)
     ■講座 細川コレクション5 「細川斉茲と肥後の陶磁器」
              11月7日(土)本館講堂 【時間】13:30~15:00
              福原透氏(八代市立博物館未来の森ミュージアム)

  6/20追記
 又大ボケです。講演会は今日のことでした。昨日は「今日は土曜日」と思い込んでいました。
 早速出かけて吉村教授の名調子を拝聴して来ます。


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細川家家臣・嶋田氏

2009-06-19 12:11:47 | 歴史
 嶋田氏の家祖は嶋田伊豫守光定とされる。満貞ではないのか。遠祖は美濃源氏土岐氏の一族だとされる。
埼玉県坂戸市に永源寺がある。三河武士旗本嶋田次兵衛尉重次がこのお寺を建立、父永源を招いて開祖としたと伝えられる。(お寺の縁起によると文禄元年(1592)とされる)
      
    長渓山永源寺 www.eigenji.com

              +---○・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→旗本・嶋田家
              |   五代孫           松平越中守家臣300石
 嶋田伊豫守光定---+---→平蔵---○---養三---左五右衛門---+---○
                                           |  初代
                                           +---嶋田平蔵

 平蔵の召出しが安永六年とされるが、そうすると父・左五右衛門が仕えた松平越中守とは、松平定信のことであろうか。召出は定信の肝煎りかもしれない。
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海舟日記を読む

2009-06-18 22:24:51 | 書籍・読書
 (株)勁草書房の勝海舟全集18の「海舟日記Ⅰ」を読み始めた。
熊本県立図書館から、福岡県立図書館蔵書を借り受けていただいた。
「日記Ⅰ」は、文久二年から慶應三年までであるが、海舟と熊本藩との接触が結構有ったことが伺えて驚いている。肝心の坂本龍馬をつれての、佐賀関から熊本をへて長崎に至るその往復は、新たな発見には至らなかった。横井小楠との接触などが興味深い。
編者の勝部真長氏は、勝海舟の独特の筆跡に往生したとされるが、「一年半にらめっこをしていたら読めるようになった」と述懐して居られる。明治31年に至るまでの大作だが、大変なご苦労であったろうと推察される。さて当方はといえば、「Ⅰ巻」だけで音を揚げそうだが、大変興味深い記述もあり二三日はまりそうである。
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田中意徳養嗣子・甚左衛門の迷惑

2009-06-18 18:14:44 | 歴史
 忠利に殉死した田中意徳の跡目は、意徳の実弟・永野一閑(絵師・狩野甚右衛門)の嫡子・甚左衛門(初名・田中作丞)が継いだ。永野一閑は豊前中津で亡くなっているが、転び切支丹であり死後数代に渡って穿鑿されている。先のTK様のご教示にあるように、意徳も又医学修得の為に一時期切支丹であったとされる。
 正保四年三月継嗣・作丞(甚左衛門)は堺の玄齊なる人物に、「作丞はかって切支丹であった」と堺町奉行所に告訴されている。二十年も前のことだという。甚左衛門は堺町奉行所に出頭、玄齊と対決無実が晴れてお咎めなしとされた。玄齊が永野一閑に遺恨あってのことであった。迷惑千万な話ではある。

 肥後國飽田郡熊本城下浪人転切支丹永野一閑系

 永野一閑---+--○○---田中一入---庄右衛門---+---勘十郎
         |                       |
         |                       +--庄右衛門
         |                       |
         |                       +--帰空
         +--離世---+--村上平内
                 |
                 +--なつ

     ○○が甚左衛門(作丞)だと思われるが、何故か○○と表記してある。
     夫々の人の届出の記録が記入されており、転切支丹の子孫が徹底して追跡調査
     を受けていることが判る。
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田中意徳関係

2009-06-18 16:25:56 | 歴史
 昨日の田中意徳に係わるブログに対し、埼玉のTK様から貴重な関係情報を頂戴したので厚く御礼申し揚げると共にここにご紹介する。

■ 備前池田家中にも田中意徳の家筋がございます。
  「吉備温故秘録」に引用されている田中が家の記によりますと、

  近江佐々木高嶋の末裔にて代々近江の住人田中猪右衞門は、織田信長に奉公し、
  安土在郷方の御役を勤め、信長滅亡後は山城八幡田中に住し、剃髪して休味と号
  しました。

  其子田中猪右衞門は、二十四歳の時京都に出て浪人のまま弓稽古などしていまし
  たが、南蛮渡りの金瘡外科の秘法を習得し、剃髪して意徳と号しました。
  医術習得のため一旦切支丹となりましたが後に転び、川家康・家光より赦免され、
  禁裏参内宮方療治に与ったりもしました。叙法眼。万治元年十一月二十九日病死。

  其嗣子田中意徳、実は猪右衞門弟の子。明暦三年金瘡外科の家業を継ぎ法眼常安
  と号しました。寛文六年八月二十二日池田光政へ二百五十石にて召出されました。

■ 「先祖書上並御奉公之品書上」によると田中家は池田家中にて、田中意徳常安以降、
  田中意徳常悦、田中意徳.、田中意通、田中意通、田中意庵、田中意策、田中省元、
  田中意気揚昭と代々続いているようです。

■ 意徳だらけで分かりにくい上に、「おきく物語」の記事と比べると、年齢、世代ともにい
  まひとつしっくりこない感じがあります。
  岡山の池田家文庫の家譜史料と、熊本の先祖付や綿考輯録を比較して精査すれば、
  田中意徳の係累がより明らかになり、「おきく物語」の周辺が多少明確になるとかね
  がね思っているのですが、大坂陣とはいささか遠くなるので、調査するパワーが萎え
  てしまいこれまで手付かずのままでおります。

■ なお、防長毛利家の記録によると、近江佐々木高嶋の末裔永田喜左衞門正定は、慶
  長末年大坂城に籠りましたが、其次子長綱が京都にて田中意徳より南蛮流外科医術
  を学び、後に医業を以て毛利家に召出されています。
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おきく物語

2009-06-17 10:44:39 | 書籍・読書
                        雑兵物語 おあむ物語
 
                    昔「日本の古本屋」で手に入れました。
                    古い本ですがなかなか面白いですよ。
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細川家家臣・田中(祖・意徳)家

2009-06-17 10:13:50 | 歴史
 家祖意徳(以得)は忠利の愛宕山時代の学友、淀君に仕えた祖母お菊の大阪城落城のありさまを「お菊物語」として語り伝え、最後は忠利に殉じた。
二代目・甚右衛門は甥に当る人で父親は永野一閑、長くその人物について判らなかったが、詳しい系図を発見した。それは一閑が転び切支丹であったからだ。熊本城下で生涯を浪人暮らしをしたようだ。

■意徳(以得)
 元来上方出生之者ニ而、いまた御家に不被召出幼少之節、妙解院様(忠利)於愛宕山
 御学文被遊候節(文禄三年五月愛宕山福寿院に御登山、慶長三年二月御帰国被成候
 --吉山市右衛門家記)御一同ニ学文仕候処、昼夜御出精被遊、意徳儀段々心を付奉り
 御介抱仕上申候、或時御側近被召寄、御出家可被遊旨御内意被成下候間、乍恐最三
 御留申上候、右之儀共後ニ御満足被為思召上、以後被任御心候節は御知行をも被下、
 御懇ニ可被召仕之旨、度々御意被成下候、然共御互ニ幼年之儀故其後意徳は存懸も
 無御座候処、於豊前御代に成早速意徳を上方より被召寄、御知行弐百石被為拝領候
                          (綿考輯録・巻二十八)
 【忠利殉死】 
 寛永十八年六月十九日 五人扶持廿石 六十三歳
       於・坪井泰陽寺 介錯・加藤安太夫 
       跡式妻子に五人扶持家屋敷  忠利代豊前召出、忠利愛宕山学文の時に附らる

 【祖母菊についての「阿菊物語」】 
    www.enkoji.jp/okiku/1716.html
       古文書を読む勉強にもなりますから、どうぞ御覧下さい。
         そして大坂城落城の様子が大変興味深く記されています。

    www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/nihon/okiku.htm

 浅井家1200石  大坂城戦死
  山口茂助---茂左衛門---
                  ∥
                  ○---○---+--田中意徳===甚左衛門
                          |            ↑
                          +--永野一閑---甚左衛門

■甚左衛門(養子 実・意得弟永野一閑嫡子)  
       御詰衆 二百石 (真源院様御代御侍名附)
       二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
    田中意徳か甥、大阪ニ浪人にて居候処、原城に来働有、御時服、御銀等拝領、大阪に
    帰居申候、意徳男子無之候ニ付、甚左衛門被召出弐百石拝領(綿考輯録・巻五十)
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細川家家臣・魚住氏(祖・加賀)

2009-06-16 20:49:04 | 歴史
 加賀を祖とする三流の魚住家がある。
  右衛門兵衛
   加賀---+---与右衛門---+---武右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・→勝門助家
        |           |
        |           +---市郎右衛門・・・・・・・・・・・・・・→武兵衛家
        |
        +---与兵衛----------源右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・→太郎家

■ 加賀(右衛門兵衛) 
       丹後にて被召出御知行三百石被下候、此節(立石表於鑓下)之御加増千七百石都合
       二千石被仰付名を加賀と改被下、御鉄砲五十挺御預被成候、其後病死

  与右衛門 別禄三百石被下加賀果候以後弐百石御加増、於豊前病死
                  (転切支丹 慶長拾九年頃)

  武右衛門(初・杢之允) 
       当御国にて忠利君より新知百五拾石被下候(綿考輯禄・巻十五)
       原城にて武功之面々御褒美被下候 百五十石先知被可返下 寛永十五年九月朔日   
                            (綿考輯録・巻四十九)

■ 杢之允(与右衛門二男・市郎右衛門) 
       有馬御陳にも罷越候、御帰陳の上御中小姓与に被召加、貞享二年新知弐百石被下 
                            (綿考輯禄・巻十五)
       御馬廻衆二番・谷内蔵允組 百五十石
       寛永九年十二月~同十五年十一月 玉名郡奉行

■ 与兵衛(加賀二男)  
       岐阜戦功吟味--与一郎様御意御傍ニ居申候衆(綿考輯録・巻十四)
       魚住与助 後休無様(与一郎・細川忠隆)二而与兵衛と云、右衛門兵衛か二男なり
       加賀二子与兵衛休無様へ被成御附休無様より御知行三百石被下候
                            (綿考輯禄・巻十五)

  源右衛門(孫右衛門) 与八郎様御供ニて御国へ罷越候処、光尚君より御知行三百石被下候
                            (同上) 
     魚住加賀、与兵衛については、当ブログ 「細川内膳家・家譜 その二」 に詳しい。
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性懲りも無く・・・

2009-06-16 15:25:15 | 徒然
 BBSを再開しました。トップページの左下の「瑣事奏論」がそうです。
この言葉は筑紫哲也さんの「多事争論」に引っ掛けて、私が作った造語ですがちょっと気にいっていて再登場です。前回はいかがわしい投稿に手を焼き、止めてしまいましたが、今回は管理を充分行っていこうと思います。ご活用ください。
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東禅寺

2009-06-15 15:30:46 | 歴史
 熊本県上益城郡御船町辺田見という所に、東禅寺という古刹がある。
   www5b.biglobe.ne.jp/~joma/touzenzi.htm

 ある人がここに「阿部一族のお墓があるから見に行こう」という。
お寺のサイトをながめると、それらしいお墓の写真があり、森鴎外の「阿部一族」の全文が紹介されたりしている。サイトの中の説明文にもあるが、荒木精之先生により「阿部一族の墓ではない」とされている。私もそのように承知していた。そのことを縷々説明すると、「そいじゃ止めた」という。「是非出かけて、写真でも沢山撮ってきてくれよ」と頼んだのたが、気持ちが折れてしまったようだ。

 地元の新聞社が昭和46年に発行した「熊本の歴史-歴史と風土」という古い本に、前進座の中村翫右衛門が舞台で「阿部一族」を上演するにあたりこの地を訪れたらしい。1964年(昭和39年)のことだという。その一文があるが、当時はまだそう信じられていたのだろう。誅伐を受けた人たちのお墓が、熊本よりいささかの距離があるとはいえ、このようなお墓があるというのはありえない話だと私も考える。荒木先生のお説に合点している。
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軌道敷内緑化

2009-06-14 12:40:14 | 熊本
 熊本では路面電車の軌道敷内を緑化(芝張り)しようという計画がなされている。なかなか粋なことを考えたじゃないかと思っていたら、お隣鹿児島県にお手本があった。二番煎じだが結構なことだ。熊本城は一口城主をつのり数億の資金を作った(現在も継続中)が、この軌道敷内緑化についても寄付を募っている。ところがこちらはあまり捗々しくないようだ。しかし少しせこい感じもする。新幹線開通を間近にして様変わりを見せる熊本だが、駅前再開発などは間に合わないらしい。熊本人特有の協調性のなさにはうんざりさせられる。景観や温暖化などにも有効なこの軌道敷内を緑化は、是非とも間に合わせて欲しいものだと願っている。
 
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泰勝寺のお墓

2009-06-14 10:04:33 | 歴史
 現在は立田山自然公園と称する、細川家菩提寺泰勝寺跡には3~9代・12代を除くお墓がある。藤孝、同室麝香、忠興、同室玉(迦羅奢)のお墓は覆屋のなかにあって、特に四つ御廟という。少し離れた場所に10代齊茲・11代齊樹・13代韶邦・14代護久・15代護成と続いている。10代齊茲以降のお墓が出来るまで、このお寺が長い間藤孝・忠興夫妻を祀る特別な空間であったことが判る。10代以降は非常に家族的色合いが強い。齊茲の墓の横には嫡子斎樹と共に末娘・耇姫のお墓がある。右奥に護久・護成・韶邦とならんでいるが、そのまえには、韶邦の子・毅三郎、齊茲の子・鋼之丞、韶邦の子・穀丸、同・延鋭丸のお墓が並んでいる。とりわけ耇姫のお墓の立派さに驚かされるが、齊茲の生前の指示が会ったのかもしれない。深い愛情が感じられる。10代以降が宇土細川家の血筋である事も興味深い。
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細川藩豊後領・佐賀関、鶴崎

2009-06-13 12:57:38 | 歴史
 重賢公に関する事蹟を記した「銀台遺事」によると、細川藩の参勤は「常に豊後の内、君の領分鶴崎といふ所より御船出し、播州室津に押渡して、夫より陸路をうたせ給ふ」と記されている。当然陸路小倉を経ることもあったが、豊後路をへて鶴崎より発舟する事が多かった。帰りもまた同様である。しかし、潮の関係で佐賀関から出入りしたともいう。先日のブログで書いた「海舟と龍馬」の蒸気船はこの佐賀関に入っている。

 TVのニュースを見ていたら、日鉱佐賀関の港に着岸していた鉱石運搬船の中で、死亡事故があったことを報じていた。このニュースで佐賀関港の現況を知るとは思いも寄らなかったが、ここがかっての「上浦」と呼ばれた所だろう。かっては細川藩の舟でうめつくされていたことだろう。
 佐賀関といえば、「関さば」「関あじ」で有名な所である。岬をぐるりと廻った反対側が、佐賀関漁港があり「下浦」と呼ばれていた。鶴崎番代の下部機構として上浦に佐賀関番所が設けられた。遠見山に遠見番所があり、舟影を確認すると鶴崎道を駆けて鶴崎番所に注進に及んだという。

 地元神崎の郷土史家・神埼信博先生から、御著「浦番所その実相」「関手永の農民生活史」をご恵贈たまわり、愛読書として親しんでいるが、細川藩豊後領の内実を知る上で貴重な書籍である。過日40年振りに旧交を温めた親族のご先祖様が、佐賀関上番并浦奉行を勤めていた。これも神崎先生の御著のお陰により知りえたことである。海舟、龍馬の事をふくめて今、佐賀関・鶴崎にはまっている。

    ■鶴崎歴史散歩 turusaki.town-web.net
    ■佐賀関ポータルサイト www.saganoseki.info
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