津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

綱利と清高院

2009-06-28 10:47:16 | 歴史
 綱利の生まれは寛永20年(1643)正月8日、生母・清高院は元和5年(1619)6月生まれとされるから、清高院24歳のときの子である。当時からすると大年増ということになる。母子して大変な浪費家であったらしく、家老松井興長から諫言を受け「1/10ほどで生活しましょう」とふてくされた返事をしている。後年そんな母親が病になると、綱利は江戸に止まる期間の延長を幕府に申し入れたりしている。将軍側用人柳沢吉保にべったりとくっつき、「夜中越中」と揶揄された綱利だが、江戸滞在期間の延長なども柳沢吉保に頼み込んでいる。老中の反対を押し切って許可されている。
 
 その後も参勤の帰国出立の延期を数度申し入れをするなど、幕府側からすると「掟破り」の行動が見えるが、柳沢吉保をして「親孝行者」として認められたという。(仲介の労をとった家老の子を細川家に召し出したりしている。)又。吉保の三男を養子に迎えることを画策したが、これは果たされなかった。「押し込め」の噂が聞える頃である。

 清高院は91歳という長寿を保った。宝永7年に亡くなっているが、二人の息子兄綱利は宗家藩主、弟・利重は新田藩藩主となり幸せな人生であったろう。綱利自身も72歳迄長生きしたが、男子二名を亡くし弟・利重の二男を養嗣子となす(光尚)。名君重賢は孫に当るが・・ひいばあ様には似ても似つかぬ感じがする。
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