地場・旬・自給

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2021年は特別な年であった。

2021-12-31 04:36:59 | 石垣島


 こんな感じで年賀状の宛名を夜中に書いていた。

  いよいよ今年も終わろうとしている。この一年を大切に暮らせたのか。力は出し尽くせたのか。様々思うところがある。現在の社会の動きへの期待感は年々薄れてきている。その分自分たちで世界を構築する必要があるという気持ちになった一年ではなかっただろうか。

 それはコロナが蔓延しても、経済活動を止めてはならないという考え方に表われていたと思う。経済が破綻すれば、死なざるえない人がむしろ増える。病気か貧困か。この悩ましさまとわりつかれた一年であった。

 競争主義的資本主義が行き詰まり始めた。一方、国家資本主義中国が徐々に世界に影響を強めてきた年でもあった。コロナの蔓延でその両者の違いがより際立って見えた。解決できるどころか、このことが人間が生きるという本質を露わにしてきたと言うことだろう。自分が何を大切にして生きるかが問われた一年と言うことになる。

 2021年はオリンピックが東京で無観客で開かれた。コロナ下の特別な年であった。社会は世界中コロナで混乱続きである。私などはコロナが怖くてお店に入れないという人間である。レストランにはまだ入れない状態の年。石垣島では2ヶ月近く感染者0。ファミマにはおどおど行けるようになった。

 その中で楽観農園の建設に取り組むことになった年であった。人生最後の冒険の出発の年である。人間は自分の体力だけで、自給が出来るのかへの挑戦を若い頃した。達成できたて、みんなの自給を目指した。あしがら農の会の活動である。自給のための体験農場の冒険に出発した2021年になった。

 春の植物観察会で、干川さんと出会った。開拓の経験談で意気投合した。小田原でみんなの農業をやってきたのなら、石垣島でもやらないかという話になった。石垣島では農業をやらないつもりだったのに、干川さんと共鳴したことで、それならやれる限りやってみようと言う気になった。人間の出会いほど大切な物はない。

 そして、田んぼ探しから始め田のだが見つからなかった。シーラ原の田んぼを大浜さんのご厚意で、あくまで一緒に耕作するという形で、石垣島田んぼ勉強会を始める事になった。2期作目は作らないので作っても良いよと言うことだった。

 2期作目のあきたこまちは、開花期に台風の被害を受けて実りは少なかった。病害虫とか、ジャンボタニシとか、土壌に浸透性がまったく無いなど、課題が分かった。思わぬ強風続きで、収穫は少なかったが、良い勉強には成った。

 良い仲間を見付けることが出来た。これは人生の喜びである。新しい長期間栽培できる田んぼを見付けることにした。有機農業を半期だけ借りて行うという不安定さでは無理と言うことがある。崎枝に農林高校の小峰先生が放牧牛の牧場をされていた場所が、止められて貸し地になっていた。石垣島で一番美しい場所である。水も湧いている。

 田んぼが出来るはずだ。そう思えたので、調査を続けて田んぼになると言うことが分かったので、お借りすることにした。3.6㏊である。かなり広いので、田んぼと水牛牧場を併設することで可能になるのではないかと考えた。

 やはりに農林高校の福仲先生は水牛をたくさん飼われているので、その放牧地として利用してくれないかとお願いした。崎枝には3家族田んぼの仲間の熱心な人が暮らしている。現場に人がいれば、ある程度の面倒は見れると思うと言うことで。水牛の草地と田んぼと言うことでお借りした。

 お借りするには石垣島で3条の農家申請もしなくてはならない。書類を整え申請は受理された。伝統農業による自給の体験農場と言うことで認可された。農地に農作業小屋を作りたいと農政課と農業委員会に相談をした。農振農用地ではあるが、必要な作業場は可能と言うことだった。これからあれこれ考えてゆきたいと思っている。

 水牛をつなぎ止めて、徐々に移動を繰り返していった。すると澤筋に水が溜まるところが現われてきた。次第に1970年代の航空写真にある溜め池が現われた。沢筋の水は途中で消えていることも分かった。湧水の量はおおくはないが、田んぼは出来る水がある。

 そこから溜め池作りをやった。その続きを苗床田んぼにした。そこから下に棚田を作って行く。1段目の田んぼの形は年内に出来た。ユンボの操作がだんだんできるようになった。将来の構想は1つの棚田畑を100坪にして、一人の人に担当をして貰う。

 一人の自給のための体験農場の考えがだんだん見えてきた。石垣島には田んぼをやってみたいという人は多い。しかし、一人でやりきりたいと言う人を中核に成る人とする。その他の人は自由に楽しみや勉強としての参加になる。

 始めるときから、ここは修学院離宮の現代版だと考えていた。この少ない水を分け合って自給を行うと言うことは、学ぶものが多いはずだ。ここを楽観のノボタン農園と命名したい。楽観農園では少し露骨である。自分たちで仲間をみつけて、新しい生き方の模索をしてゆく体験農場。

 宮沢賢治のことを思う。理想郷「イーハトーブ 」である。石垣島に自給の世界観の楽観の場を作りたい。「雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ/慾ハナク/決シテ瞋ラズ/イツモシヅカニワラッテヰル/一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ/アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」 
 
 宮沢賢治は私の読み方では楽観主義の表れである。人生という冒険を楽観を持って全力で生きようと言うことだ。ただ一日玄米4合となると200キロ近いお米が必要になる。そんなに食べてはダメだ。ヒニニショクヲタベ/オオクハタベズが良い。

 一人の自給は100坪の面積と1日一時間の労働で可能だ。自分の体験から結論した。そのためには優れた技術とみんなとの共同が必要だ。一昔前の里山の暮らしだ。江戸時代に洗練された伝統農業の技術と、科学的な知識の融合である。

 大切なことは一人よりみんなでやる方が可能性が高まると言うことである。一人でやった方が良いことは一人でやる。みんなでやる方が良いことはみんなでやる。一人一人は自分のやるべき人生の仕事に向かう。食糧自給はそのための後押しである。

 そうした自給の技術の切磋琢磨と、緩い関係の構築。思想にも、宗教にも、影響されない、科学的な世界でなければならない。ノボタン農園の大きさで作る事の可能な棚田は10枚であるが、下の方はノボタン園にすることの方が良いと考えるようになった。

 小峰先生が放牧牛の牧場をされていた頃から、この場所には特別に感じることがあった。小峰先生が引退され、引き継ぐことになることは導かれたことのようにいまでは感じている。ここで一年絵を描いたことはそういうことだったのかと思う。又描いていた田んぼが大浜さんの田んぼだったことも何かの縁を感じる。

 5枚の棚田に、水を回すことは極めて難しいことのはずだ。一つの田んぼの面積は60坪。5枚になれば、丁度1反。棚田に水が回せるためには、棚田全体の協力が必要になる。3段目が身勝手だったり、病になればその下の人には水が行かない。

 1段の毎の耕作は有機農業基準の範囲であれば自由である。ただし、三日月池の管理から、5段目までの水路管理は全員で協力しなければならない。この関係を学ばなければならない。できない人もできる人もいる。誰一人脱落しない関係。

 結局の所今年は石垣島で農業を始めた年だったと言うことになる。そして、日々1枚の絵を描くと言うことも続けた。朝の動禅もやっている。そうかノボタン農園が作務と言うことになるようだ。続けていると言えば、ブログも続けた。2021年が終わろうとしている。
 
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苗代田んぼに水を入れ始める。

2021-12-30 04:13:25 | 楽観農園
1日目

2日目

 楽観農園ではついに、苗代に水を引き始めた。28日に苗代になるベットの形が一応出来あがった。苗代は10㎝ほど高いから、低い場所に水を入れる事はできる。少し早いのだが、水を入れてみたくなってしまった。早いに越したことは無い。

 溜め池の畦を少し切り水を入れ始めた。一応流れ込んだのだが、しろかきをしたわけではない。雨の日だったこともあって、すこしづつ水が溜まっている。水が溜まる所を目で確かめたくなってしまったのだ。どのみちいつかはやることだ。

 翌日も同じくらいには水があった。溜め池からわずかずつ入水があるのだが、その程度では代掻きをしないでも水が溜まるというわけには行かないようだ。しかしどこかへ完全浸透してしまうと言うことでも無い。トラックターでロータリーをかければ何とかなる。トラックターなしでやるには、少し工夫がいる。

 土壌は田んぼに出来るものだと言うことは分かる。水持ちはそこそこある。トラックターがなくとも根気よく代掻きをしてゆけば、水は溜まるだろう。今のところはトラックターでの代掻きも出来ないし、クワで少しかき回している程度である。わくわくするし、ドキドキする。もし水が溜まらない場合どうしようという不安にときどき覆われる。

 朝田んぼに行ったときには、怖くて田んぼを見れなかった。ああ、そこそこ水がある大丈夫そうだ、といくらか安堵した。それでも安心できるほどの状態ではない。少し不安は今もある。不安はあるが、何とか良い方に進んでいると考えていいだろう。

 トラックターがあればと思うのだが。伝統農業を主張しているのだから、手作業で水くらい溜めてやるぞという思いもある。出来るだろうか。今は不安ばかりだが、同時に自分の何度もやってきた、復田の田んぼ作りが問われていると思うと、やってやるぞと言う思いもある。

 楽観農園の楽観である。必ず何とかなる。土の中には粘土がかなり混じっている。雨の時に歩くとたちまち靴は土で重くなる。昔からの田んぼの土が混ざっているのだ。溜め池に溜まっていたベタベタの土壌を田んぼに入れてやれば、水持ちが良くなるかもしれない。

 併行して一番田んぼの土木工事をしているのだが、こちらも何とか形が出来上がった。33m×6mでもけっこうな大きさである。2畝の田んぼである。120キロのお米が採れる可能性のある田んぼだ。ここに40坪の畑になる畦である。

 ただ畦の方の整備はまだ進んでいない。風の強い場所だから、防風にかなり力を入れなければならない。ノボタンと月桃を植えるつもりだ。ただ、最近は少し考えが変わってきた。6番田んぼ以降のノボタンの群生地は残す価値があるのではないかと思えてきた。

 段々畑の目標を5段までにして。楽観園の田んぼの下はノボタンの群生地も良いかもしれない。そして、最後の5段目の田んぼの下の適当なところに田んぼの水が落ちる溜め池を作る。溜め池のそばには東屋があり、座れる石がある。ため池で遊ぶ水牛と遊べる場所だ。

 東屋はどういうものが良いだろうか。風に強くて、水牛が押倒してしまわないないもので、風景を壊さないものでなければならない。伝統的なもので良いものがないか研究しなければならないところだ。ノボタンと調和しなければならない。

 回りにはノボタンが咲いている。幸いなことに水牛はノボタンは食べない。水牛をノボタンの群生地に繋いでいたら、だんだんノボタンだけが残ってきた。木の葉でも水牛が好むものもあるのだが、ノボタンは嫌いなようだ。

 では防風林のノボタンはどうするかと言えば、道路際の一段広い草地にもそれなりの数ノボタンがある。その当たりは駐車場や作業小屋を作る予定地である。ノボタンも取り除かざるえない。防風林になるノボタンは上の草地から移植することにする。

 早速今日楽観園に行ったならば、水牛を道路脇の上の草地に繋いでみる。水牛を一週間繋げばきれいになるだろう。そうしたら、ノボタンを掘り起こして田んぼの畦に移植することが出来る。それは一月半ばに出来れば遅くないだろう。

 下の方のノボタンの群生地には遊歩道を作りたい。今でもなんとなく歩けるような道は出来ているから、うまくそれを生かして作れば言い。どうせなら下の方は一面をノボタンにしたい。楽観農園の魅力の一つになりそうな気がしてきた。ノボタンには種がついているから、それを蒔いておけば良いだろう。いっそうのことノボタン農園の方が良いかもしれない。楽観は心の中にしまっておけば良いことだ。

 自給農園は美しくなければならない。江戸時代の日本の美しさに多くの外国人が驚いている。それはまるで農地や集落が庭のように手入れが行き届いていたことである。農地は生産の場であるからこそ、美しく場所でなければならなかった。江戸時代の人達の美的感性には祈りが込められていた。

 この日本人の美意識は失われようとしている。それは産業革命移行の産業のすべてが、生産効率とか、労働管理とか、労働が経済の中だけのものとして考えられるように成ってしまったからだろう。農を生業にするものは、美しい場で働くこと自体を喜びに出来る。

 主食を生産することが、美しい暮らしの場を維持してゆくことでもあった。経済活動が、自然を育てることだった江戸時代の循環型社会を世界中で研究しなければならない。国連もSDGSの中で実際に250年永続性のある社会を構築した日本の社会構造を研究すべきである。

 日本政府が江戸時代の見直しを出来ない理由は、自民党が明治政府を理想としているからである。江戸時代を否定するところからしか、明治政府は出発が出来なかった。そのために日本人の暮らし方すべてを否定してしまった。それが第二次世界大戦を起し、敗戦した理由だ。

 それは天皇を軍事的な象徴に仕立て上げる愚かさでもある。天皇は稲作をつかさどる神官なのだ。その精神を形として表現したものが修学院離宮である。アベ氏のような日本主義者を自称する人が、実はアメリカの傀儡であったように、天皇の本質をゆがめているのだ。

 ノボタン農園をどこまで美しいものに出来るのかが、石垣島の天水田を中心とした伝統農業を伝えてゆくことになる。ますます、田んぼは5段あればその意図は充分に伝わる気がしてきた。二畝毎の5枚一反のたんぼ。これでいいのだろう。
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電話の出来るタブレットを買った。

2021-12-29 03:53:21 | 身辺雑記
形の出来たイネの苗代。1m幅で15メートルほど

 クリスマスプレゼントで、タブレットを貰った。ファーウエー社のMatePadである。中国製品である。中華タブレットである。アメリカから拒絶されている、評判に問題のある会社のタブレットである。これで私の情報も中国政府に筒抜けになるのかな。どうでも言い情報であるが。ちりも積もれば山になるのか。

 恥ずかしながら、使用目的にかなう製品が中華製だけしかないのだ。しかたがなく購入させていただいた。自分でネットで購入したのだが、.たまたまクリスマスに到着したので、サンタクロースからのプレゼントと思うことにした。そもそもプレゼントを貰ったのはもう60年還暦の時の財布ぐらいしか無いのだから、しかたがない。

 今回迷いに迷って、ファーウエーのタブレットを購入した。電話が出来るタブレットが必要だったからだ。ソニーのタブレットを2台使いきった。いよいよ使えなくなったからだ。ところがソニーはもうそう言う製品を販売しようとしない。日本やアメリカの会社でも、電話可能タブレットを作ろうとしない。

 何故か中国製品には希望のタブレットがある。それは以前からよく分かっていた。しかし、購入したらすぐ壊れたらどうしようとか。機械の故障対応はないに違いない。などと心配して買えなかったのだ。もちろんドコモショップでは対応はしないとはっきり言われていた。

 要するにスマホとタブレットの2台持ちにしろというのだ。ところがスマホでは文字の入力が出来ない。眼が衰えていると言うこともある。指の動きが悪いと言うこともある。頭の覚えが悪いと言うことが一番の原因。止むえずソニー製のドコモで販売していたスマホを使っていたのだが、結局文字を打つのに時間がかかりすぎて、イライラしてしまう。

 それで色々問題はあるのだが、ファーウエーのタブレットを購入せざるえなかった。中国に情報が漏れるとアメリカの主張するタブレットである。そのために使えるアプリが少ない。アメリカはファーウエーにアプリを閉じているからだ。まあ仕方がない。いままでもスマホではアプリというものをうまく使っていたわけでもない。

 Gメールが使えない場合困ることは困る。使い方はあると言う情報もある。ファーウェーのホームページにはgメールの使い方というのが出ている。時間が取れたらやってみたいのだが、今はその余裕がない。当面電話利用だけだ。

 別段アメリカ製のアプリがなければ、どうしてもダメだと言うことでも無いので、思い切って一か八かでついに購入した。何年も迷いに迷った最終判断だ。何故、ソニーは電話の出来るタブレットを止めたのだろう。私にはこんな便利なものがないので、意味不明である。と今も嘆き悲しんでいる。

 発売を止めてからも、私はネットで同じ製品を探して購入した。それもついに電話の音がおかしくなってしまった。雑音が多くて聞き取れないと人から言われるようになった。蓄電池も衰えたようだ。さすがに何とかしなければと、スマホに変更した。

 何故なのか。中国製では電話の出来るタブレットは様々売られている。中国では売れるから作られるのだろう。長くタブレット電話を使っている私にはスマホよりもはるかに便利である。理由ははっきりしている。身につけて持ち歩いているのではなく、アトリエカーで使っているからだ。

 崎枝から家に電話してみたら、5本アンテナが立っていた。これなら大丈夫である。またドコモのlite通信どうなっているのかは分からない。利用しているのか、うまくWi-Fiと使い分けてくれているのだろうか。どこで見れば良いのかがまだ分からない。
 
 何故日本ではソニーが販売を中止したのか、残念だ。ファーウエーは電話での対応をしてくれている。これが意外に優れていたのだ。電話で教わらなければ出来ないとはある。少し他社よりは値段が高いが、仕方がない中華製の中での選択になった。

 ドコモのSIMカードを入れるだけで、問題なく電話もWi-Fiによるインターネットも出来た。案外この点の説明が不足している。ドコモのインフォメーションでは周波数は分からないから出来なくても知らないとだけの回答、いかにも買わせたくないような反応だった。

 細かなところでは分からないことばかりだ。メールはまだ。データー移行はしたのだが、出来たのか出来ていないのだか。結局慣れるまであれこれやらない限り使いこなせないないのだろう。スマホはあれこれやることすら出来なかった。タブレットなら暗証番号も入れられた。画面上のキーボードが案外使いやすい。

 今回タブレットに付属するキーボードも購入した。キーボードの方も届いた。かなり期待をしている。キーボードで打てるのであれば、ブログもタブレットで書けるかもしれない。せめてメールが出来れば有り難い。キーボードも様々だから、小さなキーボードで打てるのかどうかは疑問だが、ともかく購入した。

 何故、電話の出来るノートパソコンというものが売り出されないのだろう。最近はタブレットパソコンというような物がでてきている。確かにパソコンならある程度は使えるものとしては、その延長線にタブレットがあれば良い。

 そのジャンルもリモート授業などに利用されるようで、色々販売がされている。電話機能を加えてくれたらもう言うことなしなのだが、今のところそうした製品はない。持ち運びできる大きさのパソコンで電話が出来れば、もっと便利だと思う。販売されたならば、買い換えたく成るのだろう。ネットを調べているとそうしたものを探している人は他にもいるようだ。

 ファーウエーの画像は中々きれいだ。操作方法がソニー製とは違う。ホーム画面が最初に立ち上がるわけではないのだ。アプリページに行くのも様子が違う。慣れるまではそこそこ大変だが、慣れるだけ操作の練習時間が取れるのはいつになるのだろうか。
 
 ブログを書き終わってから、挑戦してみた。まず、モデム接続の入れ方、切り方が分かった。そしてキーボードもブルースで接続が出来て、けっこうブログも書けることが分かった。さらにグーグルも入れることが出来て、gメールも使えるようになった。一時間ぐらいで出来たので、案外使い勝手が良いのかもしれない。

 但し、相変わらず、どうすればホーム画面に戻れるかが分からない。この最初の出だしで手こずっているのだが、何か印をクリックすれば戻れるという事もあるはずだ。画面をこすって行き来するという仕組みではどうもうまくない。もう少し研究しなければ、楽な利用が出来ない。
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石垣島と小田原の2地域生活

2021-12-28 04:37:56 | 石垣島


 石垣島と小田原の2地域居住の選択して、4年目に入っている。最初の予定ではもう少し頻繁に小田原に戻るつもりだったのだが、コロナが広がり、気楽には移動ができなくなった。そのためにかなり石垣島生活の方が長くなっている。

 計画ではアトリエカーによる小田原までの写生旅行とか、台湾旅行なども考えていたのだが、今のところ出来ないことになった。小田原での農業が出来ない事も、石垣で農業を始めるきっかけになったかもしれない。

 農業をしている気持ちが好きなのだと思う。石垣で農業を見ているだけという暮らしでは物足りなくなったのかもしれない。石垣の素晴らしい環境の中で、田んぼをやりたいという気持ちが抑えられなくなったのかもしれない。

 石垣の稲作の将来も沖縄本島や与那国島の稲作と同じ経過をたどるように見える。普通の農家が稲作の継続が難しくなる。販売力のある農業法人が規模を拡大してゆくのだろう。その結果経営の合理性のない田んぼは耕作放棄されてゆくのではないだろうか。

 そんな思いが強くなり、自給のためのイネ作りを石垣島でも始めた。そのことから、石垣島で田んぼ仲間が出来た。移住してきた同じような気持ちの人ばかりなので気心が知れている。また田んぼを始めたことで、石垣島の農業者と話す機会が出来た。すこしづつ実態が見えたきたこともある。

 石垣島はSDGS推進の自治体である。にもかかわらず稲作農業がその推進項目にはない。持続可能な地域であるためには食糧自給は不可欠である。農業の中で考えれば、稲作ほどSDGSに相応しい農業はない。何しろ5000年も同じ場所で継続できた農業なのだ。

 農家がやれない田んぼが増えるのであれば、市民が耕作を始めることが重要になる。また地域の安定のためには必要なことだと思う。そのためには市民が稲作技術を持たなければならない。自給菜園のように、自給のイネ作り技術を学ぶ場が必要だ。

 そんなことを考えている内に、楽観農園作りを始めることになった。これが石垣生活に大きな変化になった。興味が次々に湧いてくるし、課題も次々に出てくる。頭の中にはいつも楽観農園作りが占めていることになった。そうなると小田原の農業のこととどうしても距離が出来る。

 小田原の田んぼが気にならないわけではないのだが、今作っている田んぼのことを思うと、もう手一杯と言うことになる。小田原には能力の高い人達が沢山いるから、私が出る幕も、ほとんど無いと言うことになる。今は石垣の楽観農園にかけろと言うことなのだろう。

 これは2地域居住の当初の計画とは少し違うことだが、計画にはコロナのことは入れていなかったのでおきた変更と言うことになる。ただ、本質的なところで考えてみると、都会生活の危うさというものは予感していたので、石垣島に来たと言うこともある。何かが都会では起こるだろうという予測が当たったのかもしれない。

 都会が良いとか、地方が良いとか言うのでは無い。移動が難しくなったと言うことなのだろう。岸田内閣では石垣島でも5G通信が使えるようにしてくれるらしい。地方も通信インフラが整えば、かなり状況が変わるきがする。石垣島で都会と連絡を取りながら仕事が出来る時代が来るかもしれない。

 小田原には一月末頃行くつもりだ。しかし、石垣島の田植えが2月半ばにはある。気が気では無い。石垣島で田んぼを始めれば、けっこう難しい行き来になる気もする。オミクロン次第と言うこともある。あと一年間はいずれにしても、何かを決めると言うことは難しいだろう。

 2地域居住もコロナによって、かなり考えが変わってきた。暮らし方というものは結局の所始めて、その状況次第で変化してゆくものだろう。余り決めつけて考えても仕方がない。小田原の暮らしがあるので、こうした石垣の暮らしを軌道に乗せられた。

 いつも絵のことがある。絵を描く為には小田原や、甲府盆地の景色を見に行きたい。理由はよく分からないのだが、自分の中をたどってゆくとどうしても、そうした風景がある。その風景と石垣の風景との関係を確認したくなる。

 記憶の中の風景を描いている。いつか石垣島の風景が記憶になるのだろうか。たぶん、子供の頃に眼に焼き付いたものはやはり変わらないもののような気もする。この先自分の絵がどこに行くのかはわからないのだが。最近描きたいものが見えだした気がするときがある。

 明確ではないのだが、よい絵でもなく、立派な絵でもなく、自分が描く方角が少し見えてきたような気がする。既存の絵画から抜け出られそうな気がしてきた。ダメでもいいじゃが絵の上でも、言えるようになってきたようだ。いい加減でも良いというのではない。

 原点に回帰するというようなことでもない。この先に新しく見えてくるものがありそうな気がしてきたのだ。それが2地域拠点の成果なのかもしれない。暮らしがあって絵である。その人間が変わらなければ絵は変わらない。最後は人間次第と言うことだろう。

 人間が一歩進めば、絵も一歩進む。歳をとり身体を動かさ、絵に専念するようになって、絵が陳腐になると言うことが私にはありそうだ。私絵画は暮らしがあって絵が生まれる。石垣島で絵に専念する計画は間違っていたと言うことになる。

 絵を描く以前に、自分がやりたいことをやる生活がなければ、絵に現われてくるものもない。こういうことはそれぞれのことなのだろう。他の人のやり方は参考にならない。私には農業をやるという身体の動かし方が、絵を描くと言うことには良いらしい。

 コロナな蔓延下の暮らしが一番大事なことが何かを教えてくれたようだ。作品の発表は難しくなったコロナ社会。その結果、私絵画という意味で存在している芸術としての絵画の意味がより明確になった。絵画が社会性を失ったときに、何が残ったのかと言うことである。

 これが現時点での2地域居住の中間報告になる。中間報告は絵で示されていると言いたいのだが、それは私が言うことでは無く、見る人が判断する事になる。何の報告も無いじゃないという意見もあるような気もする。どうとでも解釈できる報告なのだが、日曜展示は続けて、絵の報告はしてゆくつもりだ。

 

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苗代部分の土木工事が完成した。

2021-12-27 04:44:45 | 楽観農園


 苗代の土木工事がほぼ出来上がった。すべて福仲先生がやってくれた。本当に有り難いことだ。いつも始めるとこうしてすごい力を貸してくれる人が助けてくれる。大きな方角がみんなのためになることだからだ。人間という存在を信じることが出来る。

 「楽観農園」は未来の石垣島のための農園だ。そういう思いは行動を始めなければ伝わらない。毎日農園にいる。せめて出来ることに自分の一日を費やしたい。居たからと言って何にもならないようだが、誰かが来たときに誰もいないよりは良いだろう。私の存在などその程度であるのだが。

 修学院離宮によって日本の未来に託された精神は伝わってくる。世間ではそのことを指摘する人はいない。なんと鈍いことだろうかとおもう。多くの天皇主義者もそのことを指摘していないようだ。修学院離宮自体にそうした説明すらない。

 300年後楽観農園が何かを伝えてくれると考えている。それが出帆した冒険の目的であり、夢だ。溜め池の脇に溜め池よりやや広い面積の苗代になる田んぼが出来上がった。苗代田んぼをふくめて、全体に水が張られると13夜の月のような形になる。月形池である。何故か地形に導かれた必然である。

 なかなか美しい溜め池になった。一番長い直線で30mある。一番広いところで8m。水神の方向に向かって池を渡る畦が作られている。偶然であるが参道のような気もする。とぅかみっかと石垣では13夜のことを言う。苗作りが終われば、全体を溜め池にしても良いのだろう。そうだ溜め池は「月形池」と命名しよう。しばらく、新月が続いていた崎枝の湧水に、再び月が見え始めた。

 予定では5m×8mの苗代だったのだが、福仲先生がどうせ作るなら、ここの地形に合せて、目一杯の大きさにして、苗床が終わったら田んぼにした方が良いという考えを言われた。確かに田んぼは少しでも広い面積に越したことは無い。後々全体を溜め池にするにしても、今年は一番田んぼにしやすい場所が、溜め池の隣だ。

 田んぼにすると、水牛が入れないことになるところが残念なところだが、当面は仕方がない。将来一番下の棚田まで水が行き渡るように、全体が出来上がったならば、水も安定することになる。そうなれば、三日月池全体を溜め池にすれば良い。

 苗代田んぼの現状は硬盤がほぼ完成したというところ。土曜、日曜で石拾いをした。これからの進め方は、トラックターの購入が出来たならば、一度ロータリーをかけたい所だが、まだ買えていない。トラックターが無いままであれば、シャベルや鍬でかき回しながら、石をできる限り拾う以外にない。

 そうしていたら、福仲先生が小さな耕運機を持ってきてくれた。これで耕してしては、出てきた石を拾うようにした。これでかなり石が減ってきた。月曜日、今日にはすべての石を拾い終わろう。そうしたら、堆肥を入れてベット作りだ。28日には出来上がるだろう。

 畦部分に水をれて、コロガシで水を入れてみよう。苗代田んぼの排水方法を考えていなかった。苗代田んぼから一番田んぼへ排水を口を考えておかなければならない。入排水が自由に出来なければ、田んぼには成らない。一番田んぼの土木工事が出来たらば、下から溜め池に向けて、一部を切り開き排水を可能にする。

 溜め池から苗代田んぼへの入水口は畦を切り、調整板を設置する予定。そして排水口をその対角線になる場所に作り、水位調整板を置き、一番田んぼに流し落とすようにする。ここは少し距離があるから、塩ビ管を入れた方が良い。

 三日月池は13mが溜池、17mが始め苗代になり、苗作りが終わったならば田んぼになる部分。田んぼが終われば全体が溜め池になる。それはどの田んぼも同じで、基本通年通水をしている。一度水が溜まれば、その溜まった状態をできる限り維持する。

 栽培に於いても干し田はしない。有機農法では一般に干し田をする人は少ない。楽観農園の田んぼでは干田をすると、水を急に戻すと言うだけの水量が無い。湧水の量は弱い水道程度の流れである。これを有効に使うための農法を確立しなけばならない。

 何度でもコロバシャをすることだろう。稲刈りが終われば、すぐに耕耘して、コロバシャを繰り返す。上の田んぼから順次水を溜めて、下に落としながら、すべての田んぼに水が戻るようにする。稲刈り後に水を田んぼに戻す作業は必要なことになる。

 田んぼが終わり、水田化したならば水草による緑肥の生産が必要になる。ミズオオバコが良いのではないかとやはり福仲先生が言われていた。ミズオオバコは希少植物とは言え、そもそも水田雑草である。これをわざわざ田んぼに入れて、問題が起きないかと言うことも考えておく必要はある。先ずは溜め池に入れて観察したい。

 在来種であるアカウキクサをを入れると言うこともある。これは外来種であるアゾラとは違う。かつては水田雑草ではあったが、窒素固定に利用することは可能である。外来種のアゾラと混同されて、あらぬ疑いを持たれている可哀想な植物だ。石垣にいまあるのかどうかが分からない。もし見つかればアカウキクサは是非入れたいと考えている。

 水田雑草と呼ばれる植物が希少植物のレッドデーターに入る例は多い。小田原ではデンジ草とかタカサブロウなどがそうだ。除草剤で駆除されて無くなったことが喜ばれて普通だ。しかし、例えば希少なアカウキクサが無くなり、かえってオモダカやコナギが増えていると言うことがある。過ぎたるは及ばざるがごとし。

 話がずれてきた。三日月池は東西の長さが30mで、南北の一番幅の広いところが8mである。面積がおおよそ150㎡になった。ということは1㎝の水で150リットルと言うことになる。毎日あちこち漏れながらも1~2㎝は水位が上がる。その上がり方は弱くなってきた。どこか漏れているのだろう。溜め池自体を調整すればもう少し増えるとみている。満水で6㎥の溜め池に成る。

 この水を一番田んぼに一気に入れると、一番田んぼは200㎡だから、20㎝位いの水位に成ると言うことだ。染み込んでしまうのだろうけれど、それだけあれば代掻きが出来る水位である事は確かだ。つまりこの調子で行けば、一番田んぼと苗代田んぼの田植えが、2月6日あるいは13日に田植えが可能になってきた。

 上手くゆけば、二番田んぼも一週遅れぐらいで可能になるかもしれない。一番田んぼで田植えをして、二番田んぼで水牛コロバシャをする。こんな状況になるかもしれない。そんなことになれば第一次の計画の達成である。できる限りを費やし、やり遂げたい。

 この後は10段の田んぼの形を作り上げる。田んぼには出来ないでも土木工事としては先ずは段々畑の形状にはしたい。防風林の植え付けだけでも早めにやった方が良い。そうしなければ、風よけの役目を果たす事ができない。

 ただ植えたならば水遣りが必要になる。一株だけ、掘り起こし次の山の上に試しに植えてみた。枯れるかどうかの確認である。やればやるほどおもしろくなってきた。考えると色々出てくる。ブログを書いていると進め方の整理がされて間違いが減る。

 
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第88 回 水彩画 日曜展示

2021-12-26 04:16:28 | 水彩画
第88 回 水彩画 日曜展示







555「シーラ原田んぼ」
2021.11








556「海までの耕地」
2021.11







557「森へ続く道」
2021.11







558「林の流れ」
2021.11







559「田野原湿原」
2021.11





560「志賀高原スキー場」
2021.11






561「モーター小屋」
2021.11







562「松原湖」
2021.11








563「小川」
2021.11







564「秋のシーラ原田んぼ」
2021.11

 この日までの絵は小田原に行く前の絵だ。来週から戻ってからの絵になる。だから11月に描いた絵である。一呼吸になる。そうした変化も時に必要だと思う。

 年賀状の絵を見ながら、変化はしているのだと思った。悪くなるにしろ、同じであることが一番まずいと思っている。昔の絵が出てくると、よく描いているなと思うことがある。でも、装いが過ぎるとも思う。

 絵はどうやって自分に近づき、その自分が絵の上にに現われてくるかの挑戦だ。その日の自分である事ができれば、あとは自分次第である。それがたいしたことがないものであれ、そこから始まるほか無い。次に描く絵なら出来るかもしれない。
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年賀状希望者に送ります。

2021-12-25 04:41:02 | 暮らし

 今年の初詣は楽観農園の守り神である水神様にすることにしよう。個人的にはどこの神様よりも霊験あらたかである。ここでお参りをしていれば、100歳まで元気で暮らせることだろう。この水神様でお祓いをした年賀状を希望者に送ります。大判ハガキの水彩画の年賀状です。御利益が無くても、返品、交換は出来ません。コメント欄に名前、住所をお書き下さい。

 年賀状は今年は12㎝×210㎝の大判ハガキサイズにした。少し絵らしく描こうと思ったからだ。それでもちょっと絵と言うには小さいかとは思うが、ハガキサイズに描くよりはおもしろかった。毎年のことだが、年賀状は自分の水彩画の研究だと思い描いている。

 25日までの郵便局に持って行けば、元日に届くことになる。今日出さなければならないが、ぜんぶは出来ないかもしれない。宛名書が今日中に出来るかどうかである。宛名は鉛筆で描こうかと思っている。鉛筆の感じが好きだからである。失礼と思う人もいるらしいが、宛名も書のつもりで我慢いただく。下手も書の内上手は書の外。

 今年はすべて、楽観農園の建設をしながら描いたものだ。ユンボが壊れたので、何とかその間に描けたようなものだ。楽観農園の周りの様子が絵の中に入っていると思う。といっても何が何だか見ても分からないと思うが。是非とも心眼で見ていただくしか無い。

 実は年賀状自体の準備はもう3ヶ月も前にしていた。大判ハガキサイズに紙を切ったのだ。そして、気が向いたら描くつもりでとアトリエカーに載せてあった。すこしづつ描きためていた。だから、シーラ原田んぼで描き始めて、崎枝楽観農園で完成した絵と言うことになる。

 来年は近いうちに紙だけは切って、車に乗せておきたい。そしてその気になったときにすこしづつ描きためたい。失敗を恐れず色々試せるから、年賀はがきに描くのがおもしろい。絵を描く時に試しに描いてみる紙のようになっている。まるで自分の絵とは思えないようなものもあるのだが、それでもそれが自分なのだ。

 さすがにダメで出せないと思ったものが5分の1くらいだ。250枚描いて40枚がやり直しだ。もう一度描いてみる。もう一度、もう一度と描いている内に驚くほどよくなることもある。ダメと言うことが可能性だと言うことがよく分かる。40枚もさらに学ぶことが出来ると考えた方が良い。

 そう年賀状は出してしまえば、もう記録が残せないから、投函する前に写真だけは撮らなければならない。楽観園作業で時間が取れないが、写真はどうしても撮りたい。そのために元旦に届かなくとも仕方がない。絵は250枚すべてが同じ人の絵とは思えないほど違う。

 中には残しておきたいと思うようなできの良いものもある。せめて写真の記録は残さなければならない。元旦に一部掲載する。残したからと言ってどうなるものかも分からないが、水彩画はすべて記録している。振り返る必要があるからだ。一歩でも前に進みたいからだ。

 必ず人は衰える。特別な人だけが、成長を続けて高みに達する。本当の絵が描けるとすれば、それは100歳を越えても前の絵よりもいい絵を描いているときだけだ。今描いている絵より、一万回前の日よりすこしづつ良くなれば、それはすごい絵にならざるえない。そのすごさが何だかはまるで分からないが。

 大事なことはいま全精力を持って描くこと。その全力が本物であれば、昨日よりもあしたの方が深く本当の世界にいくらかでも近づいているはずだ。一万日の間、僅かでもにじり寄ってゆけば、どこかに到達できるかもしれない。そんな気持ちで描いている。

 その行為の確認が絵なのだ。私絵画とはそういう物だ。これからの時代の芸術としての絵画の意味はそこにある。見て貰うと言うこと以前に、自分自身の成長のための芸術である。描くという行為に重きを置いた芸術の在り方。

 現代社会においては絵を描く無数の人がいる。この無数の人が行っている行為のなかに、人間の尊い行為が紙一重で隠されている。大多数の人は少しでも評価されようと、人の眼に揺らいでしまう。私だって大差ない。文化勲章を貰えば有り難いと思えるのだろう。

 しかし、自分の一生を生きるという自分自身の価値に於いては、人の評価よりも大切なことがある事を自分自身が知っている。ゴッホが行き詰まったのは人の評価が何より意味があると考えたからだ。現代の社会における絵画の意味は、個人の中にある。そう確信できれば日々前向きに描ける。

 賭け事の好きな人の多くは、賭けないと何をやってもおもしろくないという人がいる。将棋を指すにもお金がかからないとつまらないという人がいる。麻雀ならなおさらそうだろう。それと同じことで絵を描くことでも人の評価が無ければおもしろくないという人がいる。

 絵が売れるから価値があるという考え方だ。絵が投資対象になり、値上がりするから素晴らしい価値のあるモノだという考え方。これは芸術とは関係の無いことなのだが、ほとんどの人が混同している。商品絵画の時代であるから、そんな風に見えるのだが、次の私絵画の時代から見れば、浅はかな考えの時代だったと見えるに違いない。

 私の描いた絵は誰がどこでどう利用しようとまったくかまわない。イラストレーターが模様として自分が描いたと主張してもいい。まあ使い物にはならないだろうが。私自身に対する著作権というモノを一切認めない。余分なことを描いているようだが、年賀状も同じ意味で描いている。

 年賀状は絵で描く自分の最近の様子である。いま、こんな風に暮らしています。という挨拶である。ブログで毎日の様子はお知らせしているけれど、絵に現われてくるモノは、それとは違う生の日常のようなモノを反映している。文章や写真では伝わらない、実際のところが現われていると思っている。

 何でそんなにまで自分が自分がなのかと情けなくも成るが、これがどうも私の業なのだ。そうしていてやっと何かしている気になるようだ。やらなければ居られない。やり続けなければ生きている気がしない。できる限りやり続けていることを、表現して確認しないではいられない。

 まあ、嫌らしい奴である。情けない奴である。ダメな奴である。しかし、ダメでもいいじゃん。これで生きてゆくと決めて死ぬまで進むつもりだ。若い頃はさすがに、もう少し恥を感じていて、いくらかは抑えていた。しかし、もう今更どうにでもなれ。

 やりたいように、やりたいことをやりきる。これが乞食禅との覚悟の道である。ダメかどうかは100歳の時の年賀状を見て貰えば分かる。そんな年賀状の実物を見てみたいという方は、コメント欄に住所名前を載せて下さい。もちろん公開しません。必ず年賀状を送ります。正しくだらなくてもすぐには捨てないで下さい。

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冬至から始まる農作業

2021-12-24 04:17:48 | 楽観農園


 ため池で遊ぶゆずとゆずマメの親子である。溜め池の漏れを止めるためにため池で遊んで貰った。ゆずマメはまだ7ヶ月である。お乳を貰っている。水牛は一年くらいは親のお乳を貰う。モミジをふくめて3頭とも元気で不安が無い。草が充分にあるので、水だけ心配してやればいい。

 太陽は冬至の日によみがえるという考え方が沖縄にはある。冬至の日を大切にする意識は強いような気がする。中国で言う「一陽来復」である。日本のどこにでもある考え方なのだが、いくらか風習への影響が中国に近いと言うことかもしれない。易経にある考え方のようだ。

 一年のうち最も昼が短くなる冬至は、日の短き日に至るを意味する。冬至の前後になると太陽の力が弱まって一時的に死んで、太陽は帰り来ることになる「一陽来復」によって再びよみがえる。 太陽をすべての命の根源として考える。

 クリスマスも太陽の誕生日に合せて、キリスト教では冬至の日にしたという説もある。天照大神が岩戸に隠れたのも、この日なのでは無いか。いずれにしても、この日が太陽の誕生日なのだ。今日から始まる一年が農業者にとっての一年の巡りになる。

 沖縄の冬至はカボチャとゆず湯では無い。タイモのジューシーを食べる風習である。三枚肉とタイモの入った雑炊か、混ぜご飯である。タイモは見たところは里芋であるがいくらか大きい。タロイモの一種ということだ。タロイモはそもそも日本人の主食の一つであったとされるものだ。南の島々の人は長くタロイモ主食である。

 サトイモ科のものはすべてタロイモでもいいのだが、沖縄では語源のポリネシアのTAROに近いタ(ろ)イモになり、田いもに変化したのではないか。里芋の類は東アジアの人々のお米の前の主食の一つである。だから祭事にはタイモを使う沖縄の風習は、赤飯に近い意識があるのだろう。雑炊には豚の3枚肉を入れるところがいかにも沖縄的である。

 小田原に行った時に渡部さんから頂いた、里芋は際だって美味しい。特別な味がする。柿の下田んぼのさらに下で作った。土寄せがすごい。ソバ殻を70㎝ほどかぶせて作っていた。どんな味になるのか、楽しみで見ていたのだが、まさに絶品だった。今度は石垣島の楽観農園でもタイモを作りたいものだ。

 タイモは水の中で作る。本島で田んぼを探していて、見付けたと思うと、タイモの田んぼだった。昔はお米が作られていただろう所にも、タイモが植えられていた。お米よりは利益が出るのかもしれない。田んぼを探し歩いていて、見つからないので、タイモの畑を見るとがっかりすると言うおかしな感じになった。タイモだって立派なものだ。ただ里芋の味になれていると、少し違和感がある。

 月の満ち欠けに従う農法があるが、太陽の日照時間に競べれば、植物の影響などほとんど無視していいほどのものだ。日照時間は影響などという程度では無く、すべてを司っている。植物は太陽光の巡りに従って生きている。だからこそ冬至が重要な再生の日になる。農業を行うものには冬至に新しい一年が始まる。そうもう次の活動が始まったのだ。

 南にある石垣島では冬至と言ってもそれほど日は短くならない。7時24分日の出。18時2分が日没。夏と冬の日照時間差は二時間半ぐらいのものらしい。東京が五時間と言うから、生活感覚としては日が短くなったというような特別な感じはしない。昨日も6時まで農作業ができた。

 朝がいつまでも暗いという感じはあるが、夕方6時まで外で動けるということであまり冬という感じがしない。早朝の今も22度あり、昨日の昼も28度まで上がった。先日台湾で農業をしている、友人の話では台湾は石垣島より気温が大分下がると言うことである。

 これは意外だったのだが、台湾には高い山があり、その影響で石垣のような海洋性気候とは違うようだ。山脈に遮られて気候に大きな違いがある。台湾には山岳民族と呼ばれる原住民とされる人種も存在する。生物の生存も随分違うのだろう。一時間で行ける所だすぐにでも行ってみたい。緯度は石垣島と同じでも、気候も風土もだいぶ違うと考えなければならないようだ。

 季節が変わると言うことの影響の小さい石垣島ではあるが、気分は一朝来復で、心機一転して楽観農園の建設に向かう。冬は暑すぎないと言うことで農作業には向いている季節で有り難い。一応の田んぼが出来る水は確保できた。これは第一の恵みである。

 そして、冬至の22日に石垣市の農業者になることが認められた。農業者の新たな冒険の出発の日には相応しい日だった。これも日和見の一つであった。役所に書類を頂きに行った。こういうことは小田原でも、山北でも無かった。

 役所で作業小屋の建築許可のことを聞いた。農振農用地でも作業小屋であれば建設をして良いと言うことだった。設計書や様々な書類が必要と言うことで、それも貰ってきた。倉庫についてはもう少し待とうと思っている。田んぼがともかく優先である。

 これで3回目の新規就農である。農業者は引っ越しはしないという、驚くべき小田原の農業委員会の見解で、山北で農業者になっていたにもかかわらず、小田原では認めないという、人権侵害を受けた。県の指導により、小田原市の農業委員会は、私に対して謝罪をして農業者になることを認めた。

 石垣市ではどうなるのか、不安な気持ちで届け出の受理を待っていた。もしダメだったら面倒なことになると心配だったのだが、幸い認められた。楽観農園の完成まで、あと5年は体調を整えでできる限りの事を行う。楽観農園の構想はどんどん広がってゆくので、冒険の果ては今だ見えない。

 1年目の本当のスタートは地主さんとの契約では1月1日である。今はフライングで建設を始めているわけだ。といっても1月9日に稲の種を浸種するのだから、苗床は年内に出来ていなければならない。残り一週間である。ユンボ作業ばかりだから、自分には出来ないので歯がゆい。

 ユンボが昨日の午後やっと復帰して、少し作業が進んだ。今日は苗代の形が出来上がるはずだ。いよいよ肥料を入れたり、ベットを作ったり出来るところまで進んできた。よみがえり堆肥を入れて、水牛でコロバシャである。田んぼの硬盤作りと作土を入れるところまではユンボの仕事である。

 今日は「水遣り」の準備をした。一番田んぼと溜め池の水の出口には杭を打ち付けた。杭に水の高さの印を付けるのだ。溜め池の底の高さが一番田んぼの高さより高くなくては成らない。一番田んぼで代掻きをするときには溜め池の水がすべて田んぼに入らなくては成らない。

 今日はバケツと10ミリの透明ホースを使って水遣りを行う。40メートルのホースにうまく水が入るだろうか。やったことがないので、少し心配になる。田んぼの方が高くなければ良いのだが、見た目はほぼ同じに見える。ということはもう少し掘らないと、耕土が入れられないと言うことか。

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楽観に至る動禅

2021-12-23 04:23:04 | 身辺雑記
 

  ノボタンの花が楽観農園に一株だけ咲いていた。いわゆる狂い咲きなのかもしれないが、開園を祝って咲いてくれたようだ。この美しい花が水田の防風林になる。図鑑など見ると2ḿになる灌木とあるが、実際は1ⅿぐらいである。

 人生をやりとげるという人間として生まれた大冒険が、誰にも待っている。この大冒険をやり遂げるためには、日和見と楽観が必要である。と私は考えるようになった。大きな冒険になるほど、船出の日和見が必要になる。嵐が予測される日に出発する人はいないだろう。

 人間が生きると言うことにある、どうしようも無い悲しい絶望がある。それは死が待っていると言うことではないだろうか。生まれたことはまたとない幸運であったが、残念ながら死ぬのである。今をどれだけ充実させて生きるかと言うことになる。

 今をより良く生きるためには日々の準備がいる。日和見は到達できない目標への、失敗の中で生まれてくる知恵では無いか。良い日を選ぶことが出来る判断力が日和見を産む。冒険には確かな技術が必要なのだ。そして、時を定めて実行される。

 知恵によるためらいと同時に心の奥底に楽観的な心持が無ければ、冒険に出発することが出来ないにちがいない。心配が先に立つのでは、人生の冒険を始められない。人間が生きるという冒険は誰もが一人でなんとしても成し遂げなければならない、またとない大冒険なのだ。

 明の永楽帝の時代の大冒険家鄭和の冒険は、インド、アラビア、アフリカ東岸など、南海諸国に及んだ。未知の世界に挑む冒険という意味では、まさに先駆者である。鄭和はもとは雲南出身で馬和を名乗るイスラーム教徒であったという。

 明国に捕まり、宦官にされたという複雑な人生である。世界に冒険の船旅をすることになるには、数奇な人生の挫折の末である。世界で最も優れた、最初の冒険家の日和見は相当のものであったはずだ。そうでなければ、アメリカ発見などできるはずがない。

 バスコダガマよりも100年も前の時代の人である。そんな鄭和に突如、永楽帝から“南海大遠征”の命が下る。明の威信を四海に広めるべく、200隻の大艦隊と2万8千人の総員を率いた鄭和は、1405年に史上空前の第一次航海に旅立つ。

 その後、生涯で大艦隊を指揮すること実に7回。鄭和の航跡はアフリカの喜望峰を越えて、コロンブスより60年早くアメリカ大陸の発見にまで達したという。 鄭和が日和見の優れていたことは、その複雑な人生にあったのだろう。中国の覇権主義とはいったいどういうものなのかと思う。

 「冒険と日和見」は花田清輝の著作である。学生時代一番影響を受けた人だと思う。大きな冒険ほど日和見をしなければならないという柔軟な思想家。日和見の先にあるものが楽観主義なのだと思う。どれだけ日和見をしたところで、冒険の行く先は見えてくるものではない。

 出来ることの範囲で行うことは冒険では無い。出来ないかもしれない冒険に乗り出すことが、すべての人の人生である。だからこそ面白くなるのが人生である。冒険の無い人生を生きると言うことは、人生を生きてないと言うことだ。

 出来ないかもしれないことに乗り出してゆく楽観。これが生きると言うことの醍醐味では無いだろうか。最近そう思うようになった。そう思うと今日一日絵を描くと言うことは実に冒険への挑戦だと思えてくる。人生を費やす価値があるという一日の充実。

 楽観と言う思いに至る事ができたのは動禅によってである。毎朝動禅を行うと言うことを決めた。だいたい一時間ぐらいの動禅体操である。スワイショウに始まり、24式太極拳。蹴り上げ。腹筋体操。手足バッタン運動。足開き体操。蹴り上げ。手足上げたまま体操。仰臥禅。3回目の蹴り上げ体操。最後に片足立ち金魚運動。

 これをできる限り目をつぶったまま行う。それは未だ半眼が出来ないからである。半眼とは目を薄く開いているが見ていない状態である。半眼が出来るまでは、つまり目から見るという意識が消えるまでは目をつぶっていることに決めた。薄眼で見ているよりはましだと思うからだ。

 パラリンピックの視覚障害者の部、出場の気持ちが少しある。もちろんそんな大それた事では無いが、両目に緑内障があり、すこしづつ進行している。見えなくなったときの、体の動き方というのも少し意識していると言うところもある。

 目を閉じて動けば、難しくなる動きもある。両手を上に上げて片足に重心を置いて動くというような場合、私にはうまく運動することが出来ない。よろける。よろけることが体操である。立派に出来るだけが体操では無い。ダメな動禅こそ本当の動禅のようだ。

 特に最後の片足立ち金魚運動など、片足20で4回やるのだが、その20回が情けないが出来ない。眼を空いても出来ないのだから、目を閉じればなおさら出来ない。でもいつか出来ると思い、よろけながら立ち金魚になる。出来る運動より、よほどの運動になることが分かった。

 この出来ないと言う事がむしろ重要だと思うようになったのだ。出来ることをやると言うより、出来ないことを何とか出来るように努力すると言うことの中に、色々のことが隠れている気がしてきた。出来る日もたまにはある。また翌日まったく元にできないに戻っている。

 こうして2年も出来ない体操を繰り返している。そろそろ出来ても良いのではないかと思うのだが、相変わらず前進が無い。何か問題がある。体感が弱い。腹が決まっていない状態である。これでは何事にもグズグズは仕方がない。

 おおよその体操というものが、体幹の強化、柔軟性、強靱に由来する。だから片足立ち金魚運動はとても重要な運動なのだが、だから出来るまでやろうと考えている。出来ない体操を出来ないまま日々続けている内、何か人生というのは出来る出来ないと関係のないものらしいと感じるようになってきた。

 出来ないままであるが、それを受け入れる。それでいいと思えるようになれるかどうか。それが楽観に繋がる。楽観の哲学はビックボス新庄さんと同じである。ちょっとビックボスではどうかと思うが、大きくは違わないと思う。だから前に進める。

 監督になり、来年選手として選抜試験に出てみたいと言っていた。選考する人が監督なのだから、自分が選ばれるのでは無いかというのだ。なかなかおもしろい。楽観は誰の人生にも必要な素晴らしい思想だ。今日も勇気を持って絵を描くことが出来る。

 絵の大冒険の最中に、楽観農園に挑戦するのは余計なことに思えたのだが、そうではなかった。人生はやり尽くせるわけでは無い。できる限りの事をやろうとすることだと思い直した。そう思い無理かもしれない楽観農園の実現に向けて頑張る。
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沖縄県米軍基地のオミクロン株蔓延

2021-12-22 04:36:00 | Peace Cafe


 沖縄県の米海兵隊基地「キャンプ・ハンセン」で、日本人従業員2人と、米国籍の軍属、その日本人の夫の計4人が、新型コロナのオミクロン株に感染していることがわかった。基地内では最近クラスターが発生し、20日までに米兵ら186人の感染が確認されている。ーーー朝日新聞

 以前から沖縄県が10万人当たりのコロナ感染者数が、断然日本一が続いた原因として、米軍基地からコロナウイルスが漏れ出て広がっているのではないかと推測されていた。しかし、いままでそのことを精査することは拒否されてきた。しかしオミクロンに至っては状況が異なる。

 何しろ米軍はアメリカ本土から自由に行き来しているのだ。つまり伝染病という非常事態にも、治外法権の意識なのだ。米兵が成田空港でコロナ感染が確認されたにもか変わらず、そのまま沖縄に来てしまった事例がある。その後処分がされたと言うことも無い。外国人の入国禁止も米兵には特例除外なのだ。

 これが日米安全保障条約における日本の従属関係だ。特に沖縄に於いては、アメリカは占領軍意識が、今もまったく抜けていない。日本を守ってやっているのだから、基地を提供するのは日本の義務である。アメリカ軍は何をやってもかまわないと考えている。嫌なら出て行くがそれでもいいのか。中国は怖くないのかと脅しをかけている。

 どんなジェット機事故があっても、ヘリコプターの落下事故があっても。その翌日は、これ見よがしにまた訓練をしている。住宅地にものが落ちてくるなど、日常茶飯事になっている。アメリカ軍は日本人に対して、植民地差別意識を強く持っている。情けないのは日本政府はその尻馬に乗るだけの弱腰の態度だ。

 普通のアメリカ人でも人種差別意識は強いといわれている。それが軍人である。武力を持って人を制する訓練を毎日しているしている肉体派の人達だ。気分が強気になっている。日本人を一段下に見ている人が普通にいるのだ。言うことを聞かないなら、体力で決着を付けてやるというような間違った意識の占領軍である。

 基地から出てこないで欲しいと、玉城知事が米軍に依頼した直後に、アメリカ兵が町で酒を飲み、飲酒運転で逮捕された。一帯どういう意識をしているのか。アメリカ軍には軍律は無いのか。兵隊の制御は出来なくなっているのか。

 米軍基地内はアメリカ本土なみのコロナ感染率である。そうなるのは当然のことではあるが、そのアメリカ兵が普通に町に出歩いているのだ。日ごろの訓練の厳しい命がけの兵隊であれば、酒を飲みに街に繰り出すのが普通のことだろう。その結果那覇当たりではコロナ感染者の比率が全国一が続いたと考えていいのだろう。

 ところがそんなことは無いと、米軍は一切認めない出来た。日本政府は「沖縄県の米軍に対する要望は伝えました」程度の煮え切らない態度を続けている。対応すらしないのが日本政府なのだ。それでいて沖縄を日本の防波堤にしようとはとんでもない話だ。属国で守って貰っているから仕方がないという意識なのだろう。この政府の態度には米軍以上に腹が立つ。

 そして今回のオミクロン株では岸田総理大臣の思いきった外国人の日本渡航禁止である。これは評価して良い政策だ。しかし、米兵は別扱いだ。最初から尻抜けだと思っていた。予想していたとおり、アメリカ軍は別枠で何のチェックも無いままなのだ。成田を通過する以外に、沖縄米軍基地にそのまま来てしまう兵隊もいる。日本政府には米軍関係は治外法権地域なのだ。

 日米地位協定という悪協定の結果だ。この差別協定によって、アメリカ軍が特権を維持している。今回の海兵隊員の186人のコロナクラスターを起しても、それがオミクロン株かどうかさえ、米軍は自ら調べようともしないし、調べさせもしないのだ。個人情報だとか嘯いている。

 それ以上踏み込めないのが日本政府なのだ。岸田さんになり少しはましになるのかと思いきや、隷属的日本政府の姿勢は変わらないようだ。思いやり予算の名前を変えた。「同盟強靭化予算」 とレッテルを貼り替えて、増額するのではなにも本質は何も変わらない。

 沖縄では同名の足下がグズグズになっている。日本の愛国主義者はこういうことを国辱と思わないらしい。日本主義者の中途半端な皆さんにはあきれ果てる。日本主義と言うものがこんなに情けないものに成り下がった。アメリカを忖度していると思うと、何という偽物かと思う。精神が不純な連中だ。

 いままで沖縄県が日本で一番の感染地域になっていたのを、ここに来てやっと抑えてきた。ところがまた増え始めている。いままで曖昧だった米軍兵からの感染拡大と想像されてきたものがついに、はっきりと原因がわかった。無断入国の海兵隊員からの感染拡大だと証明された。

 それなら、米兵は当分の間基地から出てくるなと言いたいところだが、実は米兵もかなり基地の外に住んでいる。しかも日本人もかなりの数米軍基地に勤務している人がいる。これではすでにオミクロンの感染拡大は、防ぎようはない状況では無いか。コロナオミクロン感染が沖縄本島に広がってゆく可能性が高い。

 今ならまだ間に合う。米軍基地からの外出禁止はまずすぐにも行う。米兵全員のPCR検査による感染確認。そして感染者の隔離。日本人の基地勤務者も米軍関係者として、特別な監視体制下に置く。必要意外な外出の禁止。

 沖縄県人が本土渡航禁止などと言うことになるのだろうか。政府にはそんなことさえやりかねない差別意識を持っている。その場合でも米軍人だけは自由に本土を渡り歩くのだろう。こんなにひどい話はないだろう。しかも日本政府は見て見ぬ振りだ。要望は伝えました対応だ。ひどい。ひどすぎる。

 防人は辺土で野垂れ死んでもかまわないという差別意識なのか。この現代社会に於いて、あり得ない沖縄差別が起きているのだ。これが果たして民主義国家なのか。中国のウイル具弾圧。日本政府の沖縄差別。何ら根本派からラナイでは無いか。

 こんな状況に遠くの話だと声を上げない本土の人間は結局の所、沖縄が犠牲になるのは仕方がないと主張していることになる。それどころか、被害が沖縄にとどまれば有り難いと主張していると言うことなのだ。日本人はここまで身勝手だったのだ。

 
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溜め池苗代を作る。

2021-12-21 04:01:21 | 楽観農園
 

  水が浅く溜まったところの溜め池である。正面に水神の立て札を立てた。井戸をおろそかにしないためだ。だんだん分かってきたことは水の湧いている地層があると言うこと。今の水面の少し上あたりのそうに水のにじみ出る層がある。

 溜め池の上の崖部分の草やいらない木を大分切り払った。溜め池と合せて景観的に良いものにしたい。特に石の様子を生かすようにしたいと思っている。またここの樹木が溜め池への北風を防いでくれているので、それも考えないとなら無い。

 全体では水道を普通に出したくらいの水の量が湧いているようだ。排水溝を少し上げて一㎝の水位を上げようとしたら、二時間ではまだ上がらなかった。水位が始めてその高さまで上がると言うことは周囲の土壌に浸透してゆくので、時間がかかるようだ。

 水が回ってしまい、他から溜め池では無いところに水が出てしまう場合もあるのだろう。それでもすこしづつ上げてみようと思う。今日の夕方から雨という予報なので、雨になれば一気に水位は上がる可能性があるので、水位はすこしづつ上げてゆこうと考えている。

 溜め池からは沢沿いに130メートルほど小川のあとがある。水牛が遊んでいる内にすこしづつ川が見えてきた。そして所々にダムのように水が溜まった場所が出来た。それが毎日5メートルずつ下の方に進んでいる。それに合せて水牛を繋ぐ位置も下に下げている。だから、ほぼ一番下まで歩ける状態になった。

 今70メートル地点だ。この小川に何カ所も溜め池を作ろうと思う。沢の断面には水がにじみ出ている場所が数カ所ある。その当たりに水を溜めては田んぼの方に流す。そうすれば少ない水でも広く田んぼが出来ることだろう。下の方の田んぼはあわてないでも良い。ゆっくり時間をかけてやるつもりだ。

 色々考えた末に溜め池の半分を苗代にすることにした。今の苗代から、5m×8m広げる。1月10日から2月10日までの一月だけは苗代になり、あとの11ヶ月は溜め池になっている。溜め池の水位の調整で、溜め池を広げたり狭めたり出来るように調整する。

 形状的に少し変形になるかもしれないが、先ずは1メートル×8メートルあれば今年には間に合う。昨日計ってみると、面積的には十分の場所があった。ため池の周辺は石のないよい土なので、広げさえすれば、苗床の土壌にすぐに使えそうだ。米ぬかや堆肥を先ずはここに入れてコロバシャをしてみたい。

 水位を上げるのは今の配水管にエルボーを付ければ出来る。徐々に水位を上げると良いのだろう。まずは水位の低い内に、苗床になる場所を40センチぐらい一度堀り下げると良いだろう。そして、土に米ぬかや堆肥を混ぜながら、その当たりを水牛で代掻きをする。

 そこまで出来たならば、溜め池の水位を10センチ上げて、苗代部分に水がかぶるような状態にして、何度も水牛コロバシャをする。回りは畦塗りもきちっとして水漏れが起きないような田んぼ状をにする。掘った土は溜め池の南側に堤のように置く。

 そうすると溜め池は4方が土で高くなる。これでかなり風が防げると思われる。何しろ崎枝は風の強い場所なのだ。その堤の上が最初の田んぼの4m幅の畑になる。防風のために月桃とノボタンも一段高い堤に植える。そうすれば溜め池は風の無い心地場所に出来るだろう。

 全体が水が漏らなくなったならば、溜め池と苗代部分の境に畦を作る。先ずは、畦なみシートを立てるだけでも良いかもしれない。苗代には水が来ないようにしておき、1メートル幅でベットを作る。今年は8メートルあれば良いだろう。800グラムだけ種籾を蒔く。

 余裕があればもう少し作っておけば安心である。時期をづらせて作ってみた方が良いかもしれない。何しろ田んぼの方の出来上がり時期が分からないのだから、二週間ぐらい遅れて種まきをしても良いかもしれない。二本苗代を作るにしてもたいしたことでは無い。

 今年は試験栽培だから、3種類か4種類の種籾を200グラムづつ蒔いて生育を観察する。200グラムの種籾で、200㎡の一番田んぼの田植えが出来るはずだ。もし田んぼが2段目まで出来れば、二番目に良く出来た品種の田植えをすれば良いだろう。

 ベットを作るときには何か肥料分を考えなくては成らない。まっさらな土壌で苗床を作る訳なので、苗床の部分だけには肥料を考えたい。同時に液肥も作っておく。これはすぐに購入して仕込んでおきたい。床田さんに水を分けて貰おう。

 昨日はユンボのエンジンがかからず、残念なことに修繕だけになった。スターターがダメだった。それを取り外すことが大変なことで、6時過ぎまでかかった。それでもスターターを外すことが出来たので、今日直しに行ってくれると言うことになった。有り難い。

 きょうは雨だと言うから作業は出来ないかもしれない。雨でどのように溜め池の水が変わるのか、様子が楽しみである。11月12月と小雨が続いている。湧水を利用している田んぼはどこでも水が涸れてきた。それでも楽観園の溜め池は弱い水道ぐらいの水は出ている。



 この溜め池の手前当たりの5m×8mが苗代予定地である。池の面積も増えるから、水牛も喜んでくれるはずだ。ここの掘った土は左側の方に積み上げる。すでに下の田んぼ予定地から堀り上げた土がすでに積み上げてあるので、それに足してゆくことになる。幅が4mに成るようにする。

 溜め池の回りの地面から見ると1m近く高くなるだろう。ここに月桃とノボタンが植えられるから素晴らしい防風の堤が出来る。かえって良い考えが生まれたと思っている。土を運ぶ場所が無いと言われたのだが、むしろその土を最初の田んぼの畑にして生かすことにできる。この土手が水牛が越えられないような形状にしなければならない。何か工夫をしたいと思う。

 苗代だけは福仲先生にお願いしなければならない。溜め池の作り方を見ていると、こういう作業に卓越されている。御陰で溜め池は何とか出来たようなものだから、苗代作りはぜひお願いしたい。そのあとの田んぼ作りはみんなですこしづつやれば良いと思っている。

 田んぼは2月までに出来れば良いのだからまだい時間の猶予がある。それでも今の調子なら、大きな土木作業については、年内に出来るのではないだろうか。苗代を作るのに1日。田んぼを作るのに3日。そして1月9日には浸種だ。
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崎枝楽観農園で今年のお米の試食会

2021-12-20 04:06:54 | 楽観農園


 昨日は朝から崎枝田んぼで作業を行った。20人くらいが集まってくれた。13家族である。暮れも押し詰まってからの野外で試食会が暑くて暑くて、石垣島以外では考えられないことだろう。良い一日だった。こういう一日を過ごしたいから、みんなの田んぼをやっている。

 シーラ原のお米は美味しかった。玄米を炊いて食べたのだが、炊き方も上手と言うこともあったが、甘さがあってなかなか美味しいお米だった。しかし、いままで様々お米を食べて、自分で作ったお米がやはり一番美味しいといつも思う。えこひいきである。

 食べ物というのはそういう物のはずだ。客観的な味覚など無い。自分の心が感じるのが味何だからそうでなければ困る。自分が丹精込めて作ったお米だと思えば、美味しいに決まっている。渡部さんが豚汁を作ってくれた。これも美味しかった。石垣島のお米も美味しいと言うことだけは確認できた。

 豚汁は料理が上手なので美味しいかった。使って貰った農の会の味噌の会で大豆から丹精した、みんなで仕込んだお味噌と言うこともある。3年も寝かした特別の味噌がまずいはずが無い。と私は思うことにしている。これも客観的な話ではない。それぞれの思いがあって味覚というものは成立している。石垣の人には石垣のお味噌の方が美味しいはずだ。そこが良いと思うところが、自給の暮らしの良さ。

 6月からシーラ原田んぼで一緒に田んぼをやった仲間達である。初めての田んぼが終わり、稲作としてはうまく出来たわけでは無いが、美味しいご飯が一緒に食べられたことだけは確かで、それだけで満たされた思いがあった。収穫祭である。自給祭である。シーラ原田んぼありがとう。崎枝田んぼ頑張るぞ。

 なんと言っても初めての石垣島で取れたお米だ。収穫は問わずと言うほか無い。まだ半年の共同作業ではあるが、気心はすこしづつわかり合えてきたのではないか。一緒に働くと言うことは人間としてふれあえることになる。コロナ下で一番失われたものだろう。これこそ石垣島田んぼ勉強会の学習成果だ。

 風の強い石垣島での野外活動であれば、オミクロンコロナでも先ずは大丈夫だ。人間肉体を使って付き合うと言うことが一番わかり合える。こう言うときに人間の本当のところが現われる。そして、色々のことがこれからあるだろう。

 今のところまだ皆さん紳士淑女であるから、もめ事など何も無い。こうしてだんだん付き合いながら、喧嘩したり、我慢したりしながら、収まるところに落ち着いてゆくのだろう。ほとんどの方が石垣島に移住してきた人達なので、人間が似ているとも言える。

 今日は溜め池回りを整えた。随分きれい庭園のように見えないことも無い。修学院離宮ほどではないが、楽観園離宮といえるかもしれない。溜め池からは水がすこしづつ流れ出ている。溜め池が落ち着いてきたのだろう。何とか水はあると言うことだけは分かった。

 溜め池の水を流しては一段づつ代掻きをしてゆく事はできるかもしれない。溜め池に10㎥の水があれば、200㎡の田んぼに入れるならば、5センチの水張りが出来る。雨の時に代掻きをすれば、何とかなる水量かもしれない。天水田と考えればいいだのだろう。やれるはずが無いだろうということをやってみるのが、楽観の精神である。

 一回ではダメならば、二回、三回とやればいい。強い雨を待って代掻きをする。そして一度溜めた水はなかなか落とさないことだろう。そうして2段目の代掻きは1段目の水と溜め池の水をまとめて入れて、代掻きをする。3段目は一段と二段と溜め池の水をまとめて入れて代掻きをすれば良い。

 こうして田んぼ全体をできる限り水張りをしておくようになれば、一〇段の田んぼの耕作が可能にいつかはなるのだろう。何もあわてることはない。水の様子を見ながら慎重に根気よく。田んぼに仕上げてゆく。今のところ苗代田んぼのユンボでの堀上が進んでいる。

 将来的に考えれば、苗代田んぼは25メートルの長さがあれば大丈夫だろう。1メートルに種籾を100グラム播種する。25メートルで3キロ 。これで2反の田んぼの苗代になる。もし溜め池の脇で3列にするのであれば、8メートル3列もよいかもしれない。5メートル×8メートルになる。今日計ってみよう。

 その場合、苗代の季節が終われば、そこを溜め池にしてしまうのも可能なことになるかもしれない。そうしなければ、水牛のつかる水場に成らないわけだし、溜め池で一年置いた場所を、苗場にするというのも苗作りには良い条件になるのかもしれない。

 今年はまず一列だけで作り、来年は広げて三列にする。2反が一〇段の田んぼが完成したときの大きさである。今はそれほどの大きさはいらないから溜め池のそばに8メートル×1メートルぐらいの。に小さな苗代を作るのが無難かもしれない。

 今回25メートルの形だけは作り、10メートルぐらいの部分だけで苗代で試すのも良いだろう。そして苗代が終われば、そこも遅れて田んぼにすれば良いのだろう。そして、1段目の田んぼの200㎡と2段目の田んぼの200㎡にた植えが出来れば今年の目標は達成である。

 今回ユンボの運転を5人ほどが練習をした。高梨さんみんなに指導をしてくれた。うまくなりそうな人もいた。石垣で農業するにはユンボの作業は必要なのことなので、みんなが何とか使えるようになって貰いたいものだ。ところが私にはとうてい出来ない。覚えが悪すぎる。もう一度挑戦はしてみる。

 トラックターも購入したいものだと思っている。水が少ないときに代掻きを丁寧にして水を溜めるにはトラックターは必要かと思う。トラックターも若い人に覚えて貰いたい機械だ。若い人はさすがにすぐ覚える人もいる。何とか覚えられれば、仕事も進むことだろう。

 水牛耕耘だけで出来れば良いがそうも行かないと思っている。こだわってあくまで水牛だけでとかは考えない。水牛だけで出来るように、土が漏れなくなってきたら水牛コロバシャだけにすれば良いことだ。こだわりすぎるのも良くない。

 ハーベスターはどうしても必要になる。ハーベスターが無ければ、コンバインと言うことになる。籾すり機も当然必要になる。そうなると機械小屋がどうしても必要だ。この辺の整備もどうすれば良いか今後の検討材料である。

 機械を管理するためには、水が必要になる。そばまで市営水道は来ているので、それを農場まで入れるのも良いかもしれない。入口の所まで引いて貰い、あとは自分たちで延長すれば大丈夫だ。整備をしてゆくにはもう少し時間がかかる。

 
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第87回 水彩画 日曜展示

2021-12-19 04:32:08 | 水彩画
第87 回 水彩画 日曜展示

今回もサイズはおおよそ10号です。紙はほぼファブリアーノクラシコです。





545「御嶽山」
2021.11








546「箱根芦ノ湖」
2021.11







547「蔵王」
2021.11







548「信州牟礼リンゴ畑」
2021.11






549「川のほとり」
2021.11







550「蔵王山麓」






551「塩山桃」
2021.11







552「シーラ原」
2021.11








553「飯縄山」
2021.11







554「大里付近」
2021.11


 今回は山の絵を集めて展示した。山の絵ばかり描いていたこともあった。山は描きやすい。山という対象に向かい合いやすい。子供の頃から山の風景を見ていたと言うこともあるのだろう。山が好きなのだ。山に登るのも好きだったし、山にいるという空気感がいい。

 そういう気持ちの絵なら良いかと思う。あの山の空気が描ければ良い。新鮮で深呼吸したくなるようなすがすがしさ。そこに向かい合う自分というものがはっきりしてくるような気がする。自分の眼が見ているものをはっきりとさせることが出来るかもしれない。

 一番最後の絵は石垣の山である。まだ石垣の山を描いたという感じまでは来ていない。描いてみたいとは思うのだが、描くべきものがまだよく見えていないのだろう。
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田んぼの神様のお祭り

2021-12-18 04:18:48 | 楽観農園


 崎枝の楽観農園の事ばかり考えているので、崎枝の水神様のことを書きたい。井戸には神様がいるということは、よく言われることである。水が暮らしの生命線である。水の無い所に人が住み始めると言うことは無い。人は水を見付けてその近くに暮らし始める。

 石垣島でも同じことだったに違いない。崎枝半島には山からの湧水があるところが何カ所もあった。今はいくつかの理由で湧き水が涸れてしまったところの方が多くなっている。水道が来るようになって湧き水の尊さが薄れてきたと言うことがあると想像している。ほんの些細なことで水は涸れてしまう。
 
 水道が各家庭まで来たと言うことは、崎枝でもみんなの記憶にある。それほど昔のことではない。電気が来たと言うことも記憶されている。今の市営水道が来る前には崎枝では簡易水道が利用されていたという話だ。その簡易水道の水源も現状では水が乏しくなったと言うことらしい。

 山の中腹に道路が出来て、その下には水が来なくなると言うこともある。意外に遠くの山の造成が行われて、水が切れると言うこともある。もちろん山の伐採がされてと言うこともあるし、山の手入れがされなくなってと言うこともある。すべては山の神様、水神様の祟りと言うことだろう。それは海の豊かさも失われると言うことになる。

 よほど用心深く水を守らなければ、水は来なくなる。現代のような大きすぎる土木工事の力を人間が持つと、思わぬところで巡り巡り水が止まってしまう。その関連は直接的では無いことも多く、よく見えないことが多いのだが、水神様の祟りと言うほか言いようが無い。

 石垣島ではカーの(井戸)神様と言うことがよく言われる。井戸は神様から授けられたもので、永遠に守らなければならないものとなっている。私の家にも古い井戸のあとがあるが、そのまま触らずに残されている。何かをするときにはマースを捧げてお祈りをする。

 楽観農園をやろうと決意した理由は湧水があったからだ。その湧水とは崎枝に人が暮らし始めたときから、利用されてきた井戸である。崎枝の皆さんがこの牧場の話をすると、必ずあの場所には井戸があると言うことを言われていた。

 つまり、神様のいる場所だと言うことである。神様のおられる場所だから、あだやおろそかにしてはならないと私に暗に言われていたのだ。強い思いがある場所なのだ。井戸と言うから、なんとなくつるべのある掘り抜き井戸があり、井戸の枠のようなものあるのかと想像していた。

 昨日夕方国仲さんが見えたので、井戸のことを詳しく聞かせて貰った。まず井戸の場所が想像していたところでは無かった。溜め池の右奥であった。そこには月桃の茂みがある。なんとなく違う場所だと言うことは感じていたので、その当たりだけは草刈りをしないでいた。

 そのままにしておこうと思っている。たぶん石が積まれていてその間から、水が湧いているのだと想像するが、わざわざ、月桃をどけて見るまでも無いと思う。見えないと言うことこそ意味がある。見ようなことをすれば、水神様が不愉快に思って水を止めてしまうかもしれない。

 そういういわゆる迷信のような信仰心など全くない人間であるが、この水神様だけは大切に思う。正しい思いがあると思う。田んぼが出来るか、出来ないかのすべてを司っているのが田んぼの水神さまである。もし水が止まれば、どれだけ努力をしたところで田んぼは出来ない。祈る気持ちである。国仲先生もマース(塩)を供えてから仕事を始めた。

 私も今日は塩を持って行こうと思う。感謝の気持ちとこれからの無事と継続のお願いである。水神様ではあるが、田の神さーでもある。子供の頃の藤垈ではサクガミ様と呼んでいた記憶がある。田んぼを始める前にはサグガミ様にお祈りをしてから始めるのが習わしであった。ここでもそういうことをやるのは良いことだと思う。イネの浸種もこの井戸の水でやることにしよう。

 そのことは楽観農園でも行いたいと思う。楽観農園は宗教的ではありたくないが、田の神さんだけはお祭りしたい。それは水の湧いているカー(井戸)の場所以外にはない。農園の守り神様である。カーの前には溜め池が出来た。すでに基本の形は作られた。あとは守り神を形にするかどうかである。

 溜め池は現在予定の半分位の面積である。水が漏れるようになっては困るので、徐々に広げるのだそうだ。排水口に5メートルの塩ビ官を入れた。この5メートルの長さが一杯にある5メートルのダムを造った。これなら水圧で漏れることは無いだろう。

 乾いた泥と、溜め池に溜まっていた泥とを交互に重ねていった。時々鎮圧をしては土を入れて、1mぐらいのダムになった。まだ上を歩くと緩くぶよぶよする。この土が乾いてしっかりするまでは水は溜めないのだそうだ。塩ビ管の排水溝も現在は流れるままである。

 一月ぐらいして、土が安定したところで水を増やす。その頃から、本田の準備も始まることになる。1月後半から本田の準備に入れば、2月半ばには田植えが出来るだろう。先ずは苗床だけを先行させて準備をすることになる。

 夕方になってから、いよいよ苗床の予定地を掘り始めてくれた。60センチくらいの厚さで表土がある。表土は草と混ぜながら掘った部分の上側の脇に積んでいった。あとで作土として戻すためだ。33mの長さでほった後に水を入れることになる。そこまでは今年中に出来ないと、苗が作れないことになる。

 33mの長さの均平をとると言うことはなかなか難しい事だろう。バケツとホースで水位を出す予定だ。いずれにしても相当の水土工事になる。ユンボだよりで、福永先生の作業を見ているばかりで、何に一つ出来ることが無い。情けないが仕方がない。目に焼き付けておくぐらいしか能が無い。

 福仲先生の作業速度を見ると、一日やれば、5m幅で33m長さの苗床予定地は掘られるのではないかと思う。20日にはまたきてくれるということなので、20日には石拾い、均平を出せるかもしれない。少なくとも苗床は来週中の完成があるかもしれない。

 次の作業は米ぬかを入れて、コロバシャ作業になる。土はよいとは言えない。やはり腐食が少ない感じだ。牛が草を食べ尽くしていたからなのか。その前のパイナップル畑の時代の問題なのかはまだ分からない。いずれにしても十分な腐食を加えて、苗代作りをやることだと思う。

 今回は苗は十分な肥料分は無いわけだから、油かす液肥料を作るつもりだ。苗に薄めた液肥をかけて生育を補助しようと思う。油かすの良いものが手に入らない場合は、現代農業の一月号に出ていた光合成細菌の液肥料研究の必要があるかもしれない。
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崎枝楽観農園にユンボが入った。

2021-12-17 04:18:38 | 楽観農園

 
   昨日夕方、一度家に帰ったときに福仲先生から電話があった。ユンボを崎枝の田んぼに搬送してくれたというのだ。まだだと思っていたのだが、あわてて崎枝に戻った。これで、崎枝の楽観農園は一歩進むことになるとおもうと、不安と喜びであわてふためいていた。

 ついに楽観農園に待ちに待ったユンボが入った。福永先生がユンボを入れてくれた。気分が一気に変わった。景色も一気に変わった。土壌はどうなのか。溜め池の湧水量はどうなのか。もう色々に待ちに待った瞬間だった。すべてがかなり楽観園の名前の通り、希望に満ちて良かったのだ。

 これなら楽観したとおり、できると言うことが分かった瞬間だ。嬉しかった。久しぶりに跳び上がりたいほど嬉しかった。先ずは田んぼ予定地を下の方まで試しに土壌を試験的に掘って貰った。すると表面にはそこそこ石があってすごく堅いが、その下には田んぼをやれる土があったのだ。

 6カ所掘ってみてくれたが、よく似た黒っぽい土だ。先ずは大丈夫と言うことが分かった。赤土でないところが不思議だったのだが、赤土のように漏らないでくれるのだろうか。砂っぽいと言うことは無いのだろうか。一つ良いとなると次の心配が出てくるが、崖の所にある、赤土と大きくは違わないはずだ。

 土があるのだから、代掻きさえしっかりすれば、水は溜まるはずだ。根気良く石を拾い、田んぼの均平を出すことだ。そして水牛でコロバシャを続ける。少々浸透してしまう土壌でも耕作を続ければ大丈夫なはずだ。どうしてもダメであれば、溜め池の泥を加えてやれば良い。溜め池の底の土はいかにも漏れない土だ。

 なんと言っても、石さえ拾えば田んぼになる。贅沢は言えない。石を拾うのは根気よくみんなでやればいいだろう。水牛のコロバシャを入れてからも石は出るだろうから、出る度に拾い出せば良いだろう。何故か分からないが10センチ程度の石である。それより大きいのは見あたらなかった。

 石拾いのような人海戦術は共同の田んぼの得意分野だ。拾った石は隣の田んぼとの境に集めておいて、棚田の段差部分に積んでおけば見た目も良いだろう。先ずははたけ予定地に放り上げておけば良い。あとで積み上げれば良い土手になる。

 昨日は、たまたま地主さんの国仲さんが大きなトラックターで通りかかった。そこで田んぼ予定地を鋤で起して、土壌を天地返してもらえないかお願いした。草が生えているので、一度草を漉き込んで柔らかくして貰いえないかと考えた。

 ユンボだけではとても大変なので、まずトラックターで可能なら鋤起こしだけはお願いした。土曜日にやってくれることになった。草ごと土を天地返してもらうことになった。その前に出来れば米ぬかなどの肥料分を蒔いておきたい。そうすれば草が良く分解するはずだ。

 米ぬかが無いのであれば、蘇り堆肥でも良い。肥料分を入れて草ごと漉き込めば2月半ばの田植えの頃には草は落ち着いているだろう。生草を漉き込むと土がダメになると、言われるのだが田んぼでは問題が無い。むしろ腐植の少ない石垣の土では草は漉き込んだ方が良い。崎枝田んぼの方にある、藁堆肥や落ち葉堆肥も運んで田んぼに入れたいと思っている。

 そのあと、溜め池を調べてみてくれた。土をさらいすこしづつ溜め池を広げて、水の湧いている当たりの土を取り除いた。すると土の断面から水がすこしづつ染み出ている。これだけ雨が降らないのに水が出ていると言うことは、希望がさらに大きくなった。

 水があるのだから当然と言うことでもあるが、やはり土から水が出てくる実際の姿というのは不思議な感動ものだ。わずかずつでも湧いているので、かなりの水量と言えるかもしれない。一日に、10トンくらいの湧き水だろうか。うまくこの水を使えば、5段目までのつまり1反の田んぼくらいは出来るはずだ。

 場所としては、目一杯広げれば200㎡くらいの溜め池は出来るだろう。水深が50㎝だとしても、10㎥の水量になるそこに水が一杯になっていれば、田んぼに水を時々入れるという事はできるはずだ。もう一カ所同じくらいの溜め池が出来そうだ。

 水牛も充分に広いため池で嬉しいことだろう。水牛池の実現ははっきりした。もう少し木陰があると良いのだが、溜め池の上に棚を作り、藤のようなものを這わしたらどうだろうか。それは溜め池の上ではなく、他の炎天下の場所に必要なのかもしれない。

 上手く二つの溜め池に水が溜まれば、10段の田んぼが可能になるのでは無いか。かなり希望が出てきた。日本一美しい田んぼ実現が一気に現実に近づいた。頑張りがいがある。確かに全体の田んぼの完成はまだまだ先になるのだろうが、先ずは上の二段だけでも出来れば、ともかく田んぼの継続になる。

 水牛を使った伝統農業がいよいよ、本格的な展開になる。腐植を増やすことだ。水牛の糞などをうまく利用して、田んぼに腐植を増やしてゆく努力をしなくては成らない。亜熱帯の土壌を有機農業向きのものに、変えてゆく努力をしなければならない。

 昨日、台湾で稲作をやられている昔からの友人が、台湾の田んぼのことを色々教えてくれた。それはなかなかおもしろい話だった。いつか見に行きたいものだと思う。台湾でやれていることが、石垣島で出来ないはずが無い。台湾のインディカ米とジャポニカ種の交雑種が評判という話もしている。美味しくて、多収で、有機農業向きと言うことだ。

 自分の持てるものすべてを駆使して、田んぼ作りに邁進したい。福仲さんのユンボ技術は実に素晴らしいものだった。トップレベルの技能者である。キャタビラが途中で外れたのだが、あっという間にうまく直した。石垣の人には万能な人が多い。

 しかし、作業を見ていたら、怖くてとうてい私がやれるようなものでは無いとも思った。もっと小さいユンボで、練習しなければダメに違いない。大型のユンボ仕事が終わったら、今度は小さいユンボを借りてくると言われていた。その時試してみたいものだ。

 小さいユンボで田んぼの均平をとりたい。田んぼをきれいにしてゆく作業の練習ならば平らの所なので、初心者でも可能かもしれない。これはまだ先の話だ。ノボタンを抜いて、畦に移し植えるなどという作業も、小さなユンボならば出来るかもしれない。

 下の溜め池はかなり土を移動させないとならないのだが、これは福永さんにお願いして、やって貰わなければダメだ。下の溜め池は湧き水と言うよりも、斜面からの雨水が溜まる構造になる。一町歩くらいの面積からの水が入るから、少しの雨でも水は溜まるのではないかと思われる。

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