地場・旬・自給

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2010年のメモ

2010-12-31 04:44:24 | 身辺雑記
62歳の今年も、それなりに終わろうとしている。日々の決意からすれば、この程度に過ぎなかったのかという反省もある。限界までやったではないかという言い訳もある。こうして2010年も終わる。毎年今年こそというものがある。やりたいことが次々に現れてくる。「何とか人の言葉を聞けるようになることが、今年の課題なのだろう。」これが元旦の思いである。一年どうであったのだろうか。そうは変わるもんでもないが、一年間という時間経過が、いくらかはあるようで、やはり決意はするものである。

今年出来たことを書きとめるて置く。

1、舟原田んぼが出来た。出来たというのは、納得のゆく形で出来たということになる。田んぼを始めて、20数年になる訳だが、やっと自分なりの田んぼになったという気がしている。反収が上がったということもあるが、予測しておおよそそれに従って経過したということである。

2、生ごみの堆肥化に明け暮れた一年であった。家庭で生ごみをたい肥にする方法を様々に試行して、紹介して、それなりの普及がすすんだ。また来年の新展開に期待できる基礎的状況が出来た。これは一年前から思えば隔世の感がある。小田原の市民力は想像以上である。

3、自給畑が軌道に乗ってきた。土壌が良くなってきて、それほどの手間をかけなくとも野菜が出来る。「笹村農鶏園」の形が徐々に出来てきた。こんな風にやれば、「1日1時間の自給」はできます。このことが、誰にでも見てもらえるような、具体的な形になっている。意外に早く整ってきた気がしている。

4、水彩人展の東京都美術館での開催がきまった。北海道水彩人展も無事開催が出来た。13年前本格的な水彩画の研究の為に作った、集まりがその精神が評価され、都美術館での開催になった。これは画期的なことで、水彩人一同のひたすらな研究と努力が認められた。見ている人は見ているものだとの感慨がある。

5、麦の会を本格的に始めることができた。長年の課題であった、麦作りをグループでやるということで、始動を始めた。良い活動になりそうで楽しみである。呼びかけてすぐ10人も集まる。中村さんの方では、30人も集まったそうだ。何か農業を取り巻く空気が変わり始めている。

6、欠ノ上田んぼが一応軌道に乗った。新しい田んぼグループの立ち上がりに、協力することが出来た。農の会を代表する田んぼになりそうである。田んぼのみならず、果樹から畑まで総合的に取り組み、新しい方式を模索している。来年は、久野の3つのグループの連携を模索することになる。

7、自分の絵を展示するギャラリーを作った。これは自分の絵と対峙するという意味で実に大きなことであった。自分としては、中盤戦としての納得のゆく絵が描けた年であった。農に没頭することが私の絵を描くことである。この冒険が徐々に船出している。

8、「うつくしい久野里地里山協議会」として、山につつじを戻す活動が始められた。小田原植木さんの支援が大きいところである。資金的にも軌道に乗せられそうである。山が良くなることは、すべてにつながる第一歩である。

9、奥の養鶏場の閉鎖が完了。10年という予定が少し伸びたが、何とか終わることが出来た。一区切りつけるという意味では、この一年での一番大きな仕事であった。片づけるものは片づけ、始めなければならないことを始める。いよいよということになる。

10、体調はとても良く、体力も普通にはまだある。意外でもあるし、しばらくは今の調子で行けそうであることがうれしい。このあとどのくらい維持できるかは分からないが、60を越えての2年目は無事過ぎて行く。


それでは今年出来なかったことがあるのかというと、あるようなないような、一応ないということで来年の計の方でまとめて見よう。

2010年の自給作業累計:295時間
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里山の生業

2010-12-30 04:24:31 | 地域
里地里山の環境が崩れてしまったことは、そこに暮らして行く『なりわい』が失われたことにある。これは多くの人が繰り返し主張してきている。都市近郊の神奈川県の里山は、大半の人が勤めに出ていて、ちょっと不便な住宅地というのが実情であろう。話は飛んでしまうが、TPPに参加して自由貿易を進めることは、避けて通れないことになっている。それは都市の論理が優先されているからともいえる。都市の論理とは、競争の論理ともいえる。勝利者の論理である。里山に暮らす人も都市に依存して暮らしている。しかし人間が暮らしてゆくということは、勝ち負けではない。大多数の普通に暮らす者は勝利者に従って暮らしているようなものだ。なんとなく諦めて、それを受け入れて生きている。私のようなひねくれ者は、何とかこの流れから離脱しようと、いわば都市の論理でいえば敗者の道を生きている。それが自給の暮らしということになるのだろう。

どうすれば里山に生業が再生できるのか。都市的な競争の原理に巻き込まれてしまった現状から、どのように離脱で出来るのか。小田切先生にお会いしてから、もう一度考えている。都市的な再生法を押しつけることではだめだということである。良くある意見が里山の特徴を生かした、競争できる商品を作り出して、というような、都市的論理が持ちだされることが多い。多分都市に暮らしながら、解答を模索すれば、そういうことになるだろう。しかしその再生の方策は特殊解に過ぎない。ある特定の里山の中での競争の勝者を生み出す結果となる。そのような方向が解決に成らないことは、直感的に感じ始めている。里山に都市の論理を持ち込んだところで、違和感のある不思議な成功事例が、ニンジンの馬としてぶら下がるだけだ。では補助金で再生する。これも駄目である。人間の誇りを台無しにしてしまう。結論としては里山は里山に戻るしかないのである。

都市の論理や、資本主義の論理での再生は考えない方が良い。里山には里山の競争があったはずだ。とことんの競争がなければ、里山で暮らして行くことなど出来なかった。里山での競争は人間が生きる共存の原理の中での、技術と感性と体力、そうした総合の人格の競争である。有能なものがその能力を十分に発揮して、地域を形成する。能力の不足する者も、その能力に応じた役割を持って協力する。人を出し抜くのでなく、人ととも生き他ない世界。そこでの競争は人間が生きる能力を深める競争である。循環する環境の中での競争は、育む競争である。深める競争である。他地域との競争は、滅ぼしてしまう競争である。地域主義の再生だけが次の時代の展望。TPPがさらに地域を崩壊することだろう。地域循環を断ち切る様々な要因が強化される。暮らしを構成する「食べ物、住まい、燃料」が海外から押し寄せる。中東の石油と競争を強いられる炭焼き。アメリカ米と棚田のお米。

しかし、里山暮しほど生命として生きている実感がある暮らしはない。都市に生きることが経済的豊かさへの競争であるとすれば、里山に生きることは、日々生きる充実を深めることである。里山の暮らしほど確かで、充実した暮らしはない。この20数年その有難さをかみしめる毎日であった。自分でやっと作った不出来な秋ジャガイモを少しづつ掘って食べている。安納いもも小さなものだが、焼いて食べる。何と美味しいことか。食べているのは出来た生産物だけではない。苗を作るところから、栽培技術の工夫などすべてを頂いている。何とも限りなく有難いことか。生きるということを確認し深める。この深い豊かさを次の世代にも味わってもらいたい。それは里山に暮らしてみない限り見えない世界である。そこまで戻っても人間は大丈夫だ。
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最高検検証結果は

2010-12-29 04:47:46 | Peace Cafe
冤罪が何故作られるのか。このことにとても関心がある。権力が国民をどのように扱かっているのかが見えるからである。権力を持つ側は権力を持っているという自覚が不足するものである。今回の村木さん事件は一連の異常な特捜部の権力行使が問われている。検察そのものの信頼が維持できない状況に至っている。注目点は捜査の可視化に踏み切れるか、と見ていた。所がこの点で、前進があったどころか、大きな後退をしている。今回の最高検検証結果は、検察の異常な権力行使に対する自覚が欠けている。自浄作用はやはりないということが良く分かった。身内が身内を検証するということが、不可能なものだということが改めて、分かるものであった。この事件の調査にに外部のものが加わるべきだという意見は、最初からあった。泥棒が泥棒を調査するようなものだと、書いた記憶がある。検証結果が出るころには、事件が風化しているだろうという、計算が働いている。

想像の通り世間の空気は、変わっている。村木さんが復帰したからいいではないかぐらいのことである。今回の村木さんの国家賠償請求に対しても、何やら冷やりとした報道になっている。報道は権力を監視するのが仕事のはずだ。報道機関の野次馬化と問題意識の低下。検察が何故村木さんを逮捕拘留してしまったのかを、正確に判断することが第一義であろう。まず村木さんへの聞き取り調査を全くしていない一方的な調査の歪み。組織の在り方をどのように変える必要があるのか、不明瞭な最高検検証結果である。もしこの程度の検証で良しとするなら、また冤罪がでっち上げられる可能性がある。いつ罠に陥れられるかという、国家の脅しの下に生きなければならない。100人の犯人を逃すとしても、1人の冤罪を起こしてならない。強い決意がなくてはならない。疑わしい位で処刑してしまうのが独裁国である。

検証すべき大阪特捜部内が次々逮捕された。彼等は専門家である。自己保身のためにまともな証言をしないだろう。この聴取は可視化されているのだろうか。組織的、構造的な問題点こそ問われなければならないにもかかわらず、到底そうした方向には行くどころでない。事故機のパイロットを免責しなければ、次の飛行機事故は防げない。個人的な資質に問題を矮小化しようという動きと考えている、権力としては都合がいい結論がすでにある。供述偏重の姿勢が問題であり、証拠主義に変わるべきという、原点がまた忘れられている。取調べ全過程の録画(取調べの可視化)しかないのである。一分録画化はより問題を混乱させれることを忘れてはならない。一部録画はデッチ上げに利用しやすいのだ。検察の都合の良い部分だけが、録画化されているのでないかという、疑念が残る。いかに今回の検証が甘い、政治的配慮であるかが分かる。

以上のような最高検の自己検証力の弱さから判断しても、高検・最高検への報告や了承の制度を強化したところで、冤罪の再発、事件のデッチ上げが無くなるとは言い難い。今やるべきは、村木さんの国家賠償裁判で、国の犯罪を暴きあげることだ。報道は権力を監視する機能としてこの裁判を広く伝える義務がある。多くの報道は社説で取り上げてはいるが、今のところ表面的である。全過程の可視化を要求する必要がある。秋田さきがけ、南日本新聞、高知新聞、では全面可視化を取り上げている。日経はあいまいに可視化賛成のようで、朝日や毎日はさらにあいまいさが目立つ。読売は全面可視化反対である。読売はなぜ反対なのかを、示す責任がある。
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中国の期待と不安

2010-12-28 04:28:04 | Peace Cafe
日本はアジアに位置する国である。文化的にも歴史的にも経済的にも、中国とは古く長い付き合いである。不幸な時代もあった。侵略的移民をしたことさえある。尖閣列島やノーベル平和賞受賞で急速に、中国の危うい側面が世界にさらけだされてきている。そして、この間も日本の方角はアジアの一国である現実に向かい始めている。それは国というものを越えるという動きでもある。国家主義の克服に苦悩しているのかもしれない。経済というものが国家を越えて動いて行く。アメリカへの輸出は伸びない。中国への輸出の方大きくなっている。経済圏としてのアジアは数年先には、域内貿易がEUを越えるだろう。アメリカはアジアへの、日本への輸出の増加で、経済の苦境を打開しようとする。アメリカという国家のいつもの正義と、アメリカの経済とが、矛盾しながらも経済を優先して動こうとしている。アメリカの正義の建前についてきた日本。軍事的に保護されて、国の運営をしてきた日本、今やその矛盾を増幅して受け取らざる得ない状況になっている。

アメリカの軍事的傘に入るなら、牛肉を買え。韓国はアメリカとの自由貿易協定(FTP)の道を選んだ。北朝鮮の暴虐にさらされているから、国内の農業を切り捨てたようなものだ。日本はTPPというアジア全体の、関税撤廃の協定に入ろうとしている。自由貿易協定を避けてきた政府の姿勢を、後れを取るということで、報道も急速に自由貿易主義者に変貌しようとしている。いずれにしろ、経済が輸出産業に依存しているのだから、経済苦境を抜け出すためには、国内に犠牲となる産業があっても仕方がないという論調が広がる。経済がそのことで好転するなら、その方向もたしかにある。しかし日本の経済が自由貿易協定によって、良くなることはまず無いと考えておくべきだ。企業の業績は上がるかもしれないが、日本人の暮らしとは違う。日本は日本の自力の位置まで、後退して落ち着く。今まで要領よくやりすぎただけだ。そのことがどこかの国の犠牲の上に成り立っていた事に気づくべきだ。経済は競争なのだから、負の面もある。EUの経済状況を見れば、ギリシャの問題をドイツが抱えなければならない。

日本は日本の自力を高め、その自力に従い暮らしてゆくことだ。それは人間という、個の単位に立った時も同じことである。学んで自力を高める。これ以外に深く豊かに生きることはできない。その原点を固めることが第一である。その上で国という枠組みをどのように解消して行くことが出来るかを考えるべきだ。幸い日本は恵まれた水土の国である。普通に生きようと思えば、不可能ではない国である。何も持たない人間であっても、働ける身体と、努力する精神があれば、農業をやって普通に暮らして行ける。それは日本という国という大きさになっても、その身の丈に合わせた力量で生きるべきだ。どこかの国に迷惑をかけたり、どこかの国を押しのけて、日本だけが良い暮らしをすることが良いことにはならない。エネルギーと食糧を輸入に頼らなければ、成り立たない国では、いかにも不健康である。地域としての自立と、域内という枠組みの理念を明確にする。アジアの一員としての日本の責任と安定である。来年半ばにはその決断が待っている。

中国はその本質に、中華思想がある。他を顧みないという国益意識がむき出しになる。中国の格差社会は限界を迎えている。国内の危機的な状況が、日本敵視政策に表現されている。しかし、各国の経済が国を越えて結びつくことで、国益がすでに変わって来ている。すでに日中の経済規模は、日米を大きく超えている。アジア全体でみれば、60%を超えている。尖閣など実は小さなことだ。尖閣で見せた中国の牙は中国の国内事情であり。中国に対する危うい国という不評の方が、大きな影響として残るだろう。中国が大国として利己主義をどう克服できるか。まさに儒教精神が問われている。中国が大国としての見識と正義を持たない限り、すぐにも行き詰る。アジア経済も同時に、危機を迎える。もう中国の国内事情と言って居られない程の経済的かかわりである。経済は領土を越える。領有権など、会社の所属が異なる程度のことに成る。
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明治大学農学部への訪問

2010-12-27 04:37:33 | あしがら農の会
小田切徳美教授に面会に明治大学に伺った。農山村の問題で、興味深い論説があり注目して読ませていただいてきた。昨日送られてきた、「TPP反対の大義」(農文協)でも理路整然と分析されている。一番の問題は都市と農村の対立構造を作り出しかねないという点である。今回、農の会の岩越さんの案内で、市の環境再生委員会の座長の小沢氏と共にお尋ねする機会をいただいた。お会いして驚いたことは、小田切先生が農の会のことを良くご存じだったことである。東大の池本教授と、東大におられた頃同僚であって、先生から聞いていたとのことである。以前選定委員をしたコンクールに農の会が応募をして、それを読んでくださっていた。その応募の文章が分かりにくくて、今なら天皇杯に選んだのにと残念そうに言って下さった。天皇杯というのは良く分からなかったのだが、どうも私が応募した文案を、県の方の書かれたものですか。と言われていたので、分かりにくいとしたら、私が書いたものに違いない気がした。その頃、農の会は周辺からとても圧迫を受けていた時期で、何とか公的な評価が必要だった。それなりの評価を頂いたので、それで目的を果たしたのですっかり忘れていた。

「農山村再生」限界集落問題を越えて(岩波ブックレット)をいただいた。様々な事例がある。農山村にいかに寄り添うか。都市と山村が分断されてゆく現実。それは実は都市的な暮らしが、農山村に及んでゆく姿でもある。開拓集落の意味を先生にうかがった。形を変貌しながら、新しい集落に再生した北海道の事例。30年代にすでに消滅した東北の事例。集落としての機能は失いながら、農村の衰退と同じような経過を経ている多くの事例。農山村の再生は、プラスの期間がある。この期間は外部から、押し付けるようなアイディアは良くない。どれほど優れた解決策であるとしても、内発的なものに育つまで時間を待たなくてはならない。ゆっくりと寄り添って行くこと。農の会の在り方こそ、この時代の新しい寄り添いの仕組みではないのか。地域再生の鍵はむしろ農の会にあるのでは。このように言わた。先生からとても具体的で、良い指導をいただいた。焦ったところで何もできない。ゆっくり待つこと。時が来ればおのずと変わる。変わり始めれば早い。

頭が沸騰しそうに詰まってきていた。ところが、小澤さんが早田先生のところにさらに伺うという、農学部の教授で以前から親しく交流があるという。新しい黒川新農場に県産材を使う。というような話で岩越さんとフォーラムをやると言うような打ち合わせになった。県産材の流通からの再生。3人で話されていて、なかなか面白い話であったが、農場には有機農業の畑も作ると書かれている。これはと思い、どんな有機農場に成るのかお聞きした。それではその責任者を呼んでくるからと、気軽に言ってくださり、佐倉教授に来ていただいてしまった。3人目の農学部の先生で、こんな贅沢をしていいのかと思う盛りだくさんである。有機農場は時間をかけて自然が作り出す土壌をつくってゆく。人為的なものを外から持ち込むことはされないそうだ。黒川農場の時間経過を見て見たいと思う。

佐倉先生は元農総研におられた方だ、若い方だから途中で現職に移られた方なのだろう。所長だった久野の初瀬川さんの話をしたら、3年後輩であると言われていた。小田原生まれでこちらの有機農業の内容は把握されていた。村越さんのことが出た。そう言えば村越さんは農水省の技官だった。有機農業の実証圃場について、その検証方法をどのようにして行けばいいか、どういう視点でデーターを集めれば良いか。次から次に質問攻めにしてしまった。頭がすでに沸騰していて、爆発気味であった。有機農業が再現可能な技術として成立するためには、大学での本格的な科学的な取り組みこそ重要である。もし実践的な実証実験など、必要があれは協力したいので、是非とも構想を頂けないかとお願いした。小田原有機の里づくり協議会の取り組むべき道が見えかけた。それにしても大学で学問をする。また学生に成って、一から学びたい位だ。
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就農相談

2010-12-26 04:51:43 | あしがら農の会
就農相談があいつでいる。2週に一人ぐらいのペースになっている。一年前は月に1人位だったから、急激な増加である。喜びと驚きと戸惑いがある。当然のことながら、その多くの人が、農業で生計を立てようと考えている。まず書けば、それは不可能である。これから農業を取り巻く環境は、さらに困難になる。農業で生計を立てることはほぼ不可能になると考えた方が良い。そのことを正確に書けば、農業のほうは戦後それほど変わらない。世間のほうが大きく変わった。子供を大学に進学させる。そういうことは、出稼ぎでもしなければ、普通の農家では出来ないことだった。今も変わらずそうである。以前藤沢の有機農家のAさんが言っていたが、「自分の家の暮らしは特段昔と変わらないのだが、子供が家は貧乏なのと、言うので驚いた。自分は今で十分満足なのだがが、子供のことを考えると世間並みでなければ、農家はやって行けない。」

農家をやって世間並みに暮らす。そういうことはできない。多くの新規就農者は農業に入ることを、就職と考える。当たり前だが、農業の場合少し違う。近い感覚でいえば、絵描きに成りたいに似ている。成れない訳ではないが、めったにはなれない。以前は「喫茶店をやりたいのですが。出来ますか。」これと同じくらいの困難さと思っていた。今は、様々な困難を生き抜いてきた超人的農家の人が、いよいよ無理だというような状況である。しかし、世間の就職も困難を極めているようだ。農業なら試験はないから、やろうと思えばやれないことはない。しかし、有機農業技術がじつは身につかない人が半分である。有機農業は絵を描くに似ている。いくら教わったところで、誰にも絵が描けるものでもない。理屈は良いのだが、絵にならない人が大半である。しかも絵は描けるのだが、商売にはならないというところも同じだ。農地があればできるというなら、既存農家は土地も家もある。続けられない訳がない。

就農の条件を考えて見る。
1、「体力があること。」同じ肉体的作業を一日続けられるような体力があること
2、「観察力があること。」明日の天気が自分で判断できるような能力が必要。
3、「経営的計算が出来ること。」日本の社会状況の中で、自分の農家設計が立てられる人。
有機農業で農家に成るには、知力・体力・感性の3拍子揃った人でないと出来ないということになる。しかも、政府のその場限りの方針転換を読み切らないとならない。有機農業の有利販売も危うくなってくるだろう。国際競争力のある農業生産物の生産。こういうことが想定できる人でないと、駄目となるのだろうか。資本主義社会の競争がたまらなくなって、農家に成る。あるいは社会の人間関係に耐えかねたから農家に成る。こういう思いはこれからの農業には、全くないと考える必要がある。

生業としての農家に成ることの困難さが増す中、自給農業の条件は様変わりしたほど楽になった。農家が出来ないから、農地が借りられる。ここ10年の激変である。止める人が多いので、農業機械は格安で手に入る。場合によってはもらえることもある。地域によっては家まで貸してもらえることまである。自給農業は観察力があればいい。体力も経営手腕もいらない。そろそろの加減の分かる人間であれば、可能である。ここが面白いところだ。1日1時間100坪、シャベル1本で可能。自分がどちらを望んいるのかを自覚しなければならない。その中間はない。趣味と実益。これは駄目だ。自分の生き方があって、その道筋に自給の農業がある。自給農業があれば、自分の生き方が貫ける。
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津田塾の学生の意見

2010-12-25 04:35:23 | あしがら農の会
なるほど、なるほどと、読ませてもらった。伝えるということの難しさは常日頃、感じていること。絵を描くというのはそもそもそういうことである。最初に見てもらった岡田監督の映画と、私の話が違っているというもっともな感想は、実に面白い。同じものを違う人が説明すれば、違うことになる。ただその違いを含めて、というか覚悟をして、伝えて行く努力はある。今大学の4年生は就職で苦しんでいるらしい。就職試験というものを受けたことが無いので、良く分からない。大学を卒業した時は、フランスに行くことにした。別段、清算があった訳ではない。絵が描きたかったからだ。どこでどう絵を描くことが一番やってみたいかを、考えただけだ。それならというので、ありとあらゆる方法で、お金を貯めた。だから大学を卒業してからも働いた。渋谷にあった職安に行って、一番高い給与のところをお願いしたら、エレベーターの組立工であった。三菱エレベーターの下請けの下請けである。

一人ひとり読んでゆくと、どんな人かは分からないが、それぞれの生き方があって意見を持っている。実に、しっかりしている。大学生なのだから、当たり前のことか。私だって、あのころが頭は一番動いた。パソコンでも買ってから何年目かに実に使い良い時期がある。賞味期限切れ。多分頭の中も、使い勝手がいい時期があるのだろう。頭がフリーズすることはまだないが、ときどき回線が切れるので、コンセントの差し直しが必要になる。舟原がケーブルテレビ局の電波が弱いのと、似ている。読みながら、ゆっくり一人一人と話し合って、その人の問題として、考えなければとか思ってしまった。一人と50人では、ここまでかなと思う。話す内容は考えてメモしておいたのだが、話しているうちに肝心なところは抜けるものだ。生業として成立していない社会の領域を、どのようにフォローして行けばいいかということを話したかった。

しかも、地域にコミュニティーが失われている。混乱するのは、形骸化したものとしてあいまいな地域コミュニティーが残っている。次の時代を考えれば、個々人が暮らしてゆくということをとりまく、社会をどう形成するか。人間は一人で生きられる訳ではない。しかし、地域とは全く別の社会で生計を立てている人が大半である。そのほとんどが給与所得者である。地域のコミュニティーを必ずしも必要としていない。行政を挟んで、地域の一員となっているに過ぎない。繋がりがあるとすれば、税金ぐらいである。その対価を住民サービスしろということになるだけだ。昔は良かったとする地域住民もいる。としても、昔は厭だったから、地域の崩壊は起きたとも考えなければならない。地域の煩わしい人間関係が厭だから、都会に出て行くというのは、日本のどこでも起きていることだ。再構築しなければならないのは、煩わしくない人間関係である。いつでも入ることが出来て、いつでも抜けることのできる、コミュニティーである。そんなゆるゆるのものでは、どうにもできない。把握もできなければ、運営も出来ない。というような具合でなければ、人は集まらない。

就職のことであった。就職は全く結論ではない。解決でもなければ、回答でもない。ただ一度の人生を生きるということは、好きなことをやるということだと思っている。それが面白い。それさえやっていればもうそれでいいという事さえ見つかれば、後のことはどうでもいい。まあ、それが難しいという実感もある。結局本当に好きなのかは、やり切ってみなければわからないものだ。先日ラジオで、列車の車内販売のカリスマ売り子という人が話していた。この人は本当に車内販売が好きなのだ。全身全霊で、その仕事を全うしている。立派な姿で感銘を受けた。そう言えば、マッチ売りの少女のような、買わずと居られない、車内販売員の話もどこかで読んだ。田んぼが好きだから田んぼをやる。その原点を支えようというのが、農の会である。好きでやってみたいという人がいるのに、機会がないということを何とかしようということになる。
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自転車の危険走行

2010-12-24 04:51:17 | 地域
先日小田原鴨ノ宮の打越跨線橋から、降りてきて、イトーヨウカ堂方面に抜ける「打越跨線橋入口交差点」で、交通警官が2名で左右で取り締まりをしていた。警官を見るとつい緊張をしてしまう体質なっている。手前の消防署出入り口で停車したとか取り締まっているのかなど、考えたが違った。自転車を優先で乗ったまま通過させているのだ。意味が分からない。自転車は交差点で信号を渡る時は降りて渡る。そういうものだと考えていた。だから、いつも自転車が乗ったまま突っ込んできて、危なくてしょうがないと思っていた。つまり右折、左折の場合、自転車が突如現れるという状態である。この場合、自転車を優先させるべきだというのが、警察官の判断のようだ。わざわざ横断歩道の両側に立って、自転車を乗ったまま行け、と指導しているのだ。驚いてしばらく車を止めて見ていた。どうもわざわざその指導の為に、やって来ていたのだ。

巡礼街道は、そもそも自転車が危ない。何度も自転車の事故を目撃している。歩行者を無視した、暴走自転車である。自転車にしてみれば、車道が危険で走れないから、しょうがないだろうという事になる。しかし、最近のこの道は、夕方など人通りも多くて到底自転車がすり抜けて行ける状態ではない。特に危険なのは、ファミレスや銀行の駐車場への出入りの車である。二度激突を目の当たりにした。車道に出ようとしたのだろう車が、左右の車の切れ目を狙っている。そこに何を好んでか、突っ込んで自爆である。その際は怪我には至らなかったが、危険極まりない。夜黒い車が歩道にいるのが、横からは良く見えないのだろう。人との接触事故も何度か見ている。子供連れやお年寄りなど、おちおち歩いていられない。自転車を注意してほしいと考えていた。ところが、警察による自転車走行の奨励である。

これはおかしいと考えて、翌日小田原警察に電話をして、交通担当に状況を聞いてみた。「調べて見ないと分からない」というのが、担当の返事だった。お名前と電話を教えてください。圧迫した感じで、文句を言うなら身分を明かせ。ということのようだ。クレーマーが多いから用心もあるだろう。しかし、交通担当が、こんな簡単なことも分からないことがそもそもおかしい。今、状況を聞かせてほしいというと、法律が変わって、横断歩道を乗ったまま渡ってよい、「自転車横断帯」横断歩道が出来たという。その指導をしていたのだろうという。横断歩道の手前に自転車の絵が書いてあったはずだ、というのだ。そう言えばそういう横断歩道はある。しかし打越跨線橋入口交差点にそういう絵はあったとは思えなかったが。その時は、記憶が不確かだったので、次に確かめたが、自転車横断帯はない交差点である。交通担当であり、知って居てのごまかしとしか思えない。知らなかったを許さないのが警察ではないか。

自転車横断帯というのが、何を目的にあるのだろう。長い交差点を自転車が歩くのも大変ということか。歩道を乗ってはいけない道でも、自転車横断帯がある。交差点だけ乗れということのようだ。歩行者の危険が増すばかりの気がするが。見ていると、横断帯部分を自転車が渡る訳でもない。どこでも走って行く。歩道走行の危険を増加させていやしないか。交差点は一番危険部分だ。交差点位降りて渡る習慣をつけさせた方が、事故が減るのではないか。結局は道の作りに無理がある。自転車と人と車が安心して通行できるような、条件がない。こういう状態で事故が起きた時に、道路管理者に責任がありそうだが。小田原でいえば、駅周辺の自動車乗り入れ禁止ぐらいはそろそろ考えてもいいのだろう。ゆっくりとしたペースを町が取り戻す。そういう意味でも街づくり全体から考えた方が良いだろう。

昨日の自給作業:小麦はるゆたか播種2時間 巨大ニンニク播種一時間 累計時間:16時間
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みかん栽培

2010-12-23 04:58:08 | 自給
昨日はみかんをすべて採った。採っていたら、お隣の近藤さんや、山室さんが手伝ってくれた。遅くなるだろうと思っていたら、4時には終った。みかんの北限の地での、自然栽培は難しい。何度も枯らしながら、やっと方向が見えてきところだ。今年のミカンは、それなりのまあまあの味になってきている。リンゴの木村さんは居るが、みかんの木村さんは余り聞かない。木村さんのリンゴがどういう品種のものか知らないが。果樹は嗜好品の傾向が強く、改良や栽培法が人工的な管理を前提に行われている。接ぎ木苗であり、強剪定が基本である。自然と言っても完全管理の下の、自然をどのように考えればいいのだろう。海外では当たり前のことが、日本では変にもてはやされてしまう。福岡さんもみかんの自然樹形が分からないと書かれている。MOA農法の自然栽培に近いみかん園を沢山見せてもらった。何十回と食べさせてもらった。が、みかんの樹の樹精が弱いことを痛感する。旺盛な生命力が感じられない。近代農法のみかん園の方がむしろ活力がある。

小田原周辺がみかんの適地でないために、自然栽培が出来ないということを感じる。自然農法の原理から言っても、適地適作である。金さんのヨーロッパの有機農業の報告でもリンゴの栽培農家が、シードルまで作る話が面白かった。昔見たナンシ―周辺のリンゴ園では自然栽培が珍しくなかった。小さなリンゴで、色付きも様々だがとても味が深かった。エピナールから来ていた学生の家に泊まりに行ったとき、出してくれたアップルパイは美味しかった。そのリンゴは広い牧草地の淵の、道沿いに植栽のように植えられていた。それが延々と続く景色は田園そのものである。小田原でも片浦みかんと言って、海が見えるみかん園は景観も味も素晴らしい。別格で指名買いされる。潮風が良いといわれる。日照が充分あるということが何よりである。積みあげた石垣がまた風情がある。ヨーロッパに引けを取らない、というか小田原農家の誇りと言っても良い。

我が家の3本のミカンも今が収穫の時期である。まだ本当の味にはなっていないが、枯らさない技術が少しだけ見えてきたところである。大津という品種で、このあたりでは早くも古くなった品種である。昭和52年9月に品種登録された大津4号ミカンは、神奈川県湯河原の吉浜の大津祐男さんによって作られた。「十万温州を接木した物から発見した。珠心胚実生」とある。どこのみかん農家にも、沢山の苗の中に、この木は美味しいという木があるものだ。それを庭の一角に移植したりしてある。親木にして継穂を作る。そうして、みかん園全体に広げて行く。多分そうした改良の一種のような気がする。12月初旬がみかん狩りの時期だ。年内にはすべて採らないとならない。栗にも小田原改良の全国普及種があるのだが、湯河原で出来たミカンが全国に広がったということは嬉しい。今は、根府川の県の試験場で作出された、湘南ゴールドである。この木は3月4月が摘み取り時期というところが良い。丈夫だというので、3本苗を頼んだ。

みかんは相当に肥料がいるようだ。肥料分と言わないにしても、豊かな土壌を作ることが重要である。私は炭素循環農法のように、上から上から、堆肥を入れている。土はまるで見えない。草すら生えない。当面これで枯れることは無い。放任では徐々に活力が失われ、衰弱したように枯れる。選定も最小限にする。放棄みかん園はいたるところにみられるが、草に覆われていないとしても枯れている木が目立つ。虫が根元に入るということも言われているが、木が弱ることの方が先だと思う。しかし古くからミカンをやられている方が言われるには、樹を大事にしたらよいみかんはとれないそうである。昔は小「小みかん」と呼んだ小さな果実のみかんが小田原では作られていたらしい。白秋のみかんの丘は小みかん園を見てのことと想像している。「白秋のみかん」小みかんを復活させたらいいと思っている。自然栽培で作ることのできる品種の作出こそ、これからの課題だと思う。話では根府川の試験場には大木になった親木があるらしい。

昨日の自給作業:ミカンもぎ2時間 累計時間:13時間
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冬至来る

2010-12-22 04:39:19 | 自給
12月もさすがに2週目に入って寒さが増してきた。寒さという意味では、まだこれら強まる訳だが、笹村農鶏園ではこの22日が一年の締めくくりの日である。冬至は特別な日だ。養鶏をやっていると、そういうことになる。今日からは一日一日陽が伸びる。産卵も、この時期が底になる。この時期をしのぎきればという思いがある。鶏は不思議な生き物で、まさに太陽の子である。天岩戸の時代から、新しい時を切り開く生き物であった。山北に暮らしていたころ、確実に1時間おきにときの声を上げる雄鶏がいた。ああ2時だな、と始まって、4時の声を聞くと起きる。真っ暗闇で鳴いているのだから、朝を遠くに感じて鳴く。鶏にとっては日照の短いことほど堪えがたいことは無い。いかにも辛そうにとさかの色もくすんでくる。寒さもあるだろうが、太陽が恋しいということが良く分かる。彼ららは夏でも日向で寝ていたい動物なのだ。農業をやるものは太陽を見つめながらということになる。

冬至にはカボチャを食べて、ゆず湯に入る。これだけはやりたい。思い切ってかぼちゃのほうとうでも作ろうとおもう。子供の頃は、小豆とかぼちゃを煮た。あんこでかぼちゃを煮たような不思議な食べ物を作ってくれた。丈夫になるから食べろと毎年言われていた。虚弱な子供だったからだろう。北半球では太陽の南中高度が最も低く、一年の間で昼が最も短く夜が最も長くなる日。太陽が最も弱まる日である。かぼちゃだから、江戸時代も末に出来た習慣であろうか。中国や日本では、冬至は太陽の力が一番弱まった日であり、この日を境に再び力が甦ってくる。陰が極まり再び陽にかえる日という意味から「一陽来復」。日本かぼちゃは、16世紀中頃ポルトガル船によってカンボジアからもたらされ、「かぼちゃ」の名は、このときの伝来先に由来している。中風(脳卒中)や風邪を引かないとか、金運を祈願する意味がある。真夏に出来る、南からの伝来の食べ物でありながら、冬至まで保存が出来るということが、農作物としては実に有難いものだ。冬至の日にご先祖に感謝のお供えした。保存のかぼちゃがこの日まであるのは、幸せな農家だと実感する。我が家にはまだ6個ほどある。

農家にとって、この日からが新しい年の耕作が始まる。農家は太陽とともに暮らしている。照っては日照り。雨が降っては作業が出来ない。太陽の呼吸に合わせるように一年を暮らして来る。この季節は夕暮れの速さに迫られながら、農作業を終わる。朝は日の出を待ちわびながらの作業となる。冬至に来てほっと出来る感覚は、乗り越えたという実感であろう。新年という実感がむしろ冬至に宿っている。寒さはこれからの方が厳しいに違いない。極寒の中でも今日よりも明日の方が良くなって行く、という期待感がこもってくる。鶏も、作物も、そのことを実感させてくれる。来年の農作業の希望が膨らんでゆく。今年も出来なかったあれこれが、思い出される。来年こその農業は、一陽来復に託すことになる。出来ないことの積み重ねが、生きている日々のようだ。出来たことの喜びより、出来なかったことの残念が溜まって行く。それでもという思いがこの日にはある。

禅寺では、日の出と夕暮れに坐禅を組む。この時間が良い時間とされている。座るに相応しい時間である。空けて来る明るさとともに、また、暮れて行く日差しとともに、坐禅を組む。坐禅はただ座るという意味のほか何もないと、思うようになった。何かの為に何かをするのでないということ。畑に種をまくということは、収穫物を得たいがためである。そうでないというのだ。確かにやっているとそれだけでない。出来なかった残念も、実は無くなってゆく。「収穫を問わず。」は最善を尽くすということ。最善を尽くせば、残念もない。人間の生死に遡れば、有意の行為の無益さ。冬至なので、ついつい余計なことを考えてしまった。いつものことだが理屈を捨てることも来年の課題であろう。かぼちゃのほうとうを食べて、ご先祖のありがたさを今日一日思い出している日だ。
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野鳥のインフルエンザ

2010-12-21 04:19:29 | 自然養鶏
野鳥に強毒のインフルエンザが相次いで発見されている。ハクチョウや鴨などである。鳥取県は18日、同県米子市の民家のベランダで見つかったコハクチョウから、強毒性の高病原性鳥インフルエンザウイルス(H5N1亜型)を検出したと発表した。山陰地方では11月から鳥インフルへの感染例が出ている。現場から中海を挟んで約4キロ離れた島根県安来市の養鶏農家でも今月2日、感染が確認された。富山県高岡市の動物園で高病原性鳥インフルエンザに感染したコブハクチョウが見つかった.不安が増幅されるような事態であるが、状況が変わった訳ではない。「人間には感染しない。」「以前からこうした状況であった。」この病気のことでは、誤情報が広がっている。間違えそうな情報が意図的に流されているのではないかと思われる、報道さえある。養鶏場には、外部の人間を入れない。野鳥と接触させない。こうした対応は北から水鳥が渡ってくる間は必要である。

野鳥が鶏小屋に紛れ込み鶏も感染する。この感染の経路が、ほぼ確定されてきた。但し、野鳥からの相次ぐインフルエンザウイルスの発見は、調査を行うようになったからである。野生動物は様々なウイルスを昔から保持している。ワクチンも打たないし、薬も飲まないのだから、当たり前のことだ。そうした環境で生き残って今存在しているのが、野生動物である。自然淘汰の仕組みが機能している。たまたま人間というひ弱な動物が、現われて、少々頭脳が優れていた。ついには野生動物とはまるで違う、病気への対応を始めた。この近代医学の姿は、現在途中経過状態で矛盾に満ちている。完成されたものと考えない方がいい。医学が完成されたとしても、人間はいつかは死ぬわけで、それを受け入れ難くとも受け入れるところに、哲学や宗教がある。野生動物はあがくことなく、死を受容している。種の保存の原理から言えば、一つの対応である。

「ある国の鳥インフルエンザウイルスが変異し、患者数が急増したとして、世界保健機関(WHO)が新型インフルエンザと確認した、と仮定。」新聞ではこうした無知というか、悪意のある報道。鳥インフルエンザは、人間には感染しない。人間に感染しやすいように変異するのは、豚インフルエンザが主流である。間違った情報をいつまでも流す報道も、WHOも、悪質なデマの根拠を捏造し流布している、結果になっている。昨年はWHOのパンデミック宣言で、製薬会社はぼろもうけをした。随分の期限切れの薬が捨てられたことであろうか。現代人の不安感を上手く突いたやり方である。何度も書くが鳥インフルエンザは人間を発病させない。極めて特殊な事例をいかにも一般化して不安感をあおる。多分、自己アピールして、尊重されたいとか、予算を多く欲しいとかいう、官僚的な発想なのだろう。

問題はむしろ、人間の都合で付き合わされている、「家畜」という存在である。人間と同様の発想で、医療が施される。しかし、医療というものが不完全なところに、さらに経済動物という意味が加わり、家畜は動物虐待そのものの状態にある。家畜を食べたくないとする、菜食の思想が仏教はもとより、広く世界に存在する。大規模畜産という、元を断たねば人間は滅びる。大規模畜産は、中国に置いて問題を増幅しながら展開されている。養殖魚も同じである。相当危険な実験が行われている、と見ておいた方が良い。日本の家畜保健所は、養鶏場には網を張って下さい。こういう情けない様な指導をしている。無意味である。昨年からは、人目につく範囲で野鳥の感染が確認されている。放鳥したトキもコウノトリも感染するだろう。自然を人間が管理するなどということはできないということである。養鶏場だけ消毒をしたところで、筋違いである。
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欠ノ上田んぼ

2010-12-20 04:07:30 | 稲作
欠ノ上田んぼは11月21日に田んぼの作業が終わった。総括の集まりが、和留沢の禅堂「明真寮」で18日にあった。まだ、ハザ掛けの竿をしまう場所を作ったり、田んぼの石積みを直したり。やることは残ってはいるが収穫までの作業は終わった。欠ノ上田んぼは、放棄された棚田を修復するという意味では、成功に終わった。昭和30年ころに田んぼをミカンに転換した。そして、最近までミカンの果樹園だったところと、放棄されていたところを一年前から復田をした。ギリギリ田植えに間に合うというような中で、何とか田んぼが終わった。メンバーは13家族で、すべて初めて集まった人たちである。田んぼの一年が終わり、いろいろの人と知り合いになれた。そういうことが田んぼで一番面白いことである。欠ノ上田んぼも、小さい子供がいる家族が多い。赤ちゃんから、小学生までで10人以上いそうだ。そういう子供たちが、田んぼに来てくれることが何より楽しい。

来年は私はその上の大子神社の向かいの田んぼを手伝うことになる。欠ノ上のメンバーからは外れる。欠ノ上は農の会の集大成のような活動である。すべて耕作できなくなっていた、農地や竹やぶである。全体では1町歩ぐらい戻したことになるのではないだろうか。国交省の元気回復事業、県の里地里山保全事業、そして農の会による実施。耕作放棄地を農地に戻す活動の典型的な事例だと考えている。農地が耕作されなくなるには、様々な事情がある。担い手が居なくなる農村では、どこにでもあることだ。しかし、形状的には農地に復帰しても、経営可能な農地は意外に少ない。大きくまとまらない、大型機械が入らない。周辺に樹木が迫っている。獣害が相次ぐ。私が暮らすあたりが、中山間地とまでは言えないのだろうが、企業的農業では、かかわれない農地が放棄されている。こうした農地を耕作して行くには、市民的な農業に可能性があると思う。そのひとつの事例ではないか。国交省でも直接進捗状況を見に来たのだから、今の耕作の終わった状況こそ確認してもらいたいところである。

欠ノ上の田んぼでは、2,7反がグループ田んぼで、1、400キロの収穫があった。反収8,64俵。会費が1万円である。お米は90キロもらった。1年目で費用的にも様々な用具の購入が必要だった。また、周辺の土木工事に相当出費もあった。そうしたものも含めて、何とか1年目の目標が達成できた、第一の要素は岩越さんの観察力と、土木力である。もちろん全員がその指示に頑張ってついて行ったこともある。たとえば、川の対岸の木の伐採をする。こういうことは、一見田んぼの作業ではないが、実はあの田んぼにとって、一番の改善であったはずだ。水路の整備もそうだ。入水口の整備が出来たことで、漏水が相当に減った。田んぼを行う総合力を持っている田んぼグループ。柿、栗、さくら、綿、タケの子芋。畑のほうも3反以上を管理している。この総合的な農地管理の市民グループ方式は次の時代の農業の在り方を、示していると考えている。そのことに1年かかわれたことがよかった。

来年は、舟原田んぼ、子ノ神田んぼ、欠ノ上田んぼ、と3つの田んぼの連携を模索したい。市民の場合、やりたい田植えが日程的に出れないということがある。しかし、3日指定されてどこかに出れるというのは合理的である。昔から、田んぼは村の協働作業である。不足するところを補い合いながら、より大きな輪を作り出していた。市民の行う田んぼでも、田んぼグループ間の助け合いが出来るようになれば、より合理的な形が作り出せると思う。同じ水を使う仲間として、連携を深めて行く。次の段階が生まれるてくるように思っている。1年目でこんなに良いグループが生まれて来るということが、田んぼの持つ力の素晴らしいところである。
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トロ箱コンポスト

2010-12-19 03:56:37 | 環境関連
発泡スティロールコンポストの実験を始めた。始めて1か月ほどだが、すこぶる調子が良い。今朝は67度まで上がった。トロ箱とも言われる。鮮魚などが氷詰めで入れられている軽い箱のことである。大抵は白であるが、中にはブルーのものもある。保温性が良いのが特徴である。生ごみサロンで2名の方から調子がいいという報告があった。以前小泉さんから、トロ箱方式で素晴らしいたい肥を作っているという話は聞いていた。なんとなく聞き逃していた。3人からいいという話を聞いた。それならやってみなければならないと思い、始めて見た。3つの特徴がある。保温性が良いので、温度を保つことは楽である。もう一つは段ボールと違って耐久性が高いので、長く使えるということがある。3つ目が雨に強いということだ。軒下などでやるにはいいだろう。一つ重要な課題がある。毎日最低1回は手袋をして、隅々まで良くかき回す必要がある。手間を少々かけても良いという人には、良いたい肥を作るという意味では、優れた方法のようだ。

冬場置き場所にもよるが、温度を上げやすいということは、とても大切なことだ。犬の糞の処理では、木箱の方式をやっている。これは温度を上げるためで、発泡スティロール箱方式似ているが、糞の場合手でかき回すのが若干抵抗がある。鉄の熊手でやっている。それで木箱である。生ごみの場合は台所の脇でやっている。しっとり感もあり、粉が飛ぶというような不安も少ない。トロ箱の大きさはいろいろ変えて見たが。使っているのは34cm×54cm、深さ21cmの標準の箱である。最初はもう少し小さい箱でやってみたが、段ボールと違って隅に押し付けて置けるので、このぐらいあっても邪魔にならないようだ。容量が大きい方が管理が確実である。中に入れる基材は、段ボールと同じでいいが、おがくず5ℓ、薫炭2ℓ、ピートモス2ℓ、腐葉土1ℓ。米ぬかを1ℓぐらい入れて水が1,5ℓ。ふたの部分に沢山穴をあける。酸素の補給と水蒸気を抜くためである。

立ち上がりには、ペットボトルの湯たんぽを入れて、毎日変える。3日から1週間で温度は発熱する。この間も良くかき回すことが大切である。20度くらいになったら生ごみを入れ始めることが出来る。最初は500グラム程度が適量。毎日入れることが出来る。温度が30度を超えたら、1キロまでなら入れることが出来る。生ごみは3角コーナーデ水切りしたものを入れる。水分の多いごみの場合は、適時米ぬかを加える。発熱がしやすいので、60度は簡単に超える。外に出してあっても、温度上昇がしやすい。上部は通気性のある布で覆い、虫が入らないようにピッシリとゴムで止める。あるいは五ミリ程度の穴を三〇個ほど開けた蓋をかぶせても良い。少し雨に当たる場所に置く事もできる。このやり方で問題があるとすれば、中が酸素不足になりやすいので、良く良くかき回すことに尽きる。水分が箱の周囲に溜まりやすいので、くま無くかき回したいので、どうしても手袋をして手で行う必要がある。

トロ箱は今は大半が発泡スティロール製である。昔は木材であった。買えばそこそこの価格のするものであるが、魚屋さんやスーパーでも頼めば無料で呉れるものだ。これを植木鉢にして、野菜を育てる人がいる。見た目が少し悪いところが難点だが、実用的にはすぐれものである。断熱に良し、保温に良し、耐久性もあり、水漏れもせず。プロの農家がトロ箱トマト栽培を進めている位である。野菜農家のハウス栽培では、実用化事例が現代農業にある。かなり耐久力があるということだ。蘭の温室で、1〇年間水をためてもらなかった。トロ箱方式は冬場の虫の来ない時には、間違い無く良い方法のようだ。今後実験を進めて行く。

昨日の自給作業:大豆の選別3時間 累計時間:11時間
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久野欠ノ上の水利

2010-12-18 04:39:45 | 地域
久野欠ノ上地区は私が住んでいる舟原地区の一つ下の集落である。今年田んぼを3,2反やらせていただいた。その他畑や果樹もやらせていただいた。隣の集落なのに水の条件が随分と違うことを体験した。久野では、三国の上、諏訪ノ原、星山、坊所、舟原と農の会関連の圃場がある。欠ノ上は初めてであった。こうして2反3反という単位で圃場はわかれている。足柄平野全体でいえば、おおよそ40ヘクタールぐらいの農地が分散している。良く言われるようにこれが、大規模化、集約化で、一か所にまとまっていたらどうだろうか。効率的と言えば言えるが、何か違うような気もする。こうして、地域に入れていただきながら、分散して存在することも良いことはある。農の会の趣旨からすれば、農家の方が耕作できなくなった農地をお借りして、耕作地にしてゆく。そうした役割も必要だと考えている。

欠ノ上で始めて耕作をさせていただいた。頑張って耕作をして、みかんから田んぼに戻したその年から、9俵の収穫という素晴らしい結果になった。この夏の高温と、充分な水量が幸いした。管理責任者として徹底した管理をしてくれた岩越さんの、力量が素晴らしい。夏ごろに、2軒の方からやりきれない田んぼがあるから、やってもらえないか。と声をかけていただいた。田んぼの状態を見て、任せても大丈夫と見てもらえたことが有難い。これは何とか引き受けなければならないと考えた。幸いというか、田んぼをやりたいという、4名の大学院生のグループがいた。その内二人は、久野に越してきて本気でやってみたいという。また、昨年5畝を一人で管理して、さらに広げたいという岡本さんもいる。何とか耕作できそうな方向になった。場所は大子神社の入り口である。全体が5枚に分かれていて、その中央を神社に続く道が通っている。神社には橋で久野川を渡るのだが、なかなか風情がある。参道のような田んぼである。

2軒の方が、そばで暮らしている。1軒は農の会のメンバーの堀内さんの叔母さんである。奥の家は大きな農家である。その方に水のことを伺った。現在3名の人が下で耕作しているので、了解をまずとらないといけないということだった。それから、何度かお尋ねした。「下の田んぼの水を優先させる。」こういう条件なら良いよ。ということになった。現在やっている方の耕作に迷惑をかけてまで、田んぼをやることはしたくない。むしろやりやすく環境を整備して行きたいと考えている。水路の事を伺う内にこの水路は下の三国の方まで使っていた、幹線水路であることが分かった。当然市の管理であるはずだから、直すにしても市の了解がなければできない。農政課に伺うと早速地域の人に立ち会ってもらって、状況把握をしてくれることになった。瀬戸さんに相談すると、自治会長と耕作している3名の方に声をかけていただけた。くまなく水路を調べたが、暗渠部分の中で、水が漏れていることだけはわかった。これが水が不足する一つの原因のようだ。

さらに驚いたことには、柿ノ上の水は、昔は深刻に不足したのだそうだ、坊所から山をくり抜いて水を通したというのだ。そう言えば舟原にある、江戸初期の溜め池群も欠ノ上に水利権のあるものだった。久野川が扇状地化して、欠ノ上では地下水化してしまうのではないだろうか。坊所から山の中を掘った水路は、石綿さんという郷土史家が調査しているそうだ。今度お話を聞いてみたい。水路が久野川の上を渡るための橋が、大子神社への参道に見えたのだ。坊所への掘りぬき水路がある山の名はは天子台という。何かとても意味ある歴史の深い場所のようだ。溜め池から来る水路はやはり、神社の北側を通り、久野川に合流する。この地点の田んぼとは本当に神田だったかもしれない。突然よそ者が来て、田んぼをやるから水を使わせてくれなど、簡単に言えることではない。田んぼの水を確保するためにこれほどの努力が重ねられている。水土の国日本、おろそかにはできない。
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水土の再生8 腐植と堆肥

2010-12-17 04:21:19 | 自給
和留沢の耕作放棄地の開墾をした。その土壌の素晴らしさにほれぼれした。上層から積み重なる腐植質が厚く覆っている。その下の黒々とした土壌の層はしっとりとした湿度を保ち、芳しい香りを発散していた。樹木によって覆われた土地は、日照に照らされている土壌とは違う。日照は土壌生物にとって障害になることが分かる。農地を作り出すということが、土地を劣化する事になることの第一原因は日照である。永続的に豊かな土壌を保持するためには、裸地化しないということが大切になる。何かで畑の土壌は覆われている必要がある。落ち葉が良いたい肥になっている場所を山で探すと。吹き溜まりではあるのは当然であるが、加えて南斜面ではあるが、日照のない窪地の場所である。そうした竹やぶでも、落葉樹の林でも白い菌層の厚い堆肥が積もり積もっている。こうした場所を耕作地で再現することが土壌を育てるには大切であることが分かる。

良い土壌が培われる場所は風と雨に吹きさらされない場所でもある。降った雨が流れるような土地では土壌は疲弊して行く。風によって土壌が飛ばされるようなところも土壌は疲弊して行く。しかし、全く動かない土地も土壌では土壌も停滞する。土壌の下にはゆっくりと流れる地下水脈が必要である。緩やかな傾斜地の方が、良い土壌が出来る。土壌に浸透して行く生成物が土壌から地下水となって緩やかに流れ出て新陳代謝が行われる必要がある。その浸透の状態を保つためにも裸地化していることは良くない。広葉樹の森が豊かな土壌を作り出し、また豊かな土壌が広葉樹の森を維持している。農耕地に置いて、作物を育てながら、そうした森の豊かさをどのように維持できるかが、重要な見方になる。その点では、近代農法は肥料によって作物が育つという、側面だけを利用したため、土壌からの略奪的な農業になった。土壌の豊かさが失われることで、病害虫の多発ということになる。

耕作地育みながら行う農業が水土の農業である。山を豊かに育てる。その豊かな山から染み出る水を集め、稲作を行う。降る雨をダムに集めて、死に水にしてから利用するのでは、農地の豊かさは維持できない。生きた石清水を集めた農耕地であることが大きな要素になる。その山を形成する樹木も多様であるほどいい。杉檜であるから駄目ということではない。単一化することで、農地を潤す要素の何かが不足して行く。農耕地を囲む里地里山はできる限り重層的な環境である必要がある。それは農地そのものも、単一化しないことである。田んぼのように、水を大量に使えば別であるが、畑地に置いてはイネ科植物の単作にならないように、間に他の作物を作る2毛作が原則。イネ科作物を作らないとすれば、敷き藁や堆肥としてイネ科作物が畑に入れる。

堆肥の組成も、作る作物によって調整する必要がある。落ち葉中心であるか。樹木中心であるか。稲藁や麦藁中心であるか。米ぬかを加えるか、鶏糞を加えるか。笹村農鶏園では鶏小屋に藁を入れることを基本にした堆肥作りを行う。鶏糞によって、藁の発酵が促進される。そして十分発酵した1年以上を経過し堆肥化した養鶏場の床を畑に入れる。畑では漉き込むのでなく、上層を覆うように撒く。作物の耕作に応じて、適時蒔いて行く。基本的に不耕起である。作物の収穫や種まきや苗の植え付けによって畑は掘られるだけである。踏み込み温床で出来るたい肥は苗作りに利用して、畑に入れない。作物の周りはネギ以外は草に覆われている。たとえば白菜などでも、土壌が出来て来ると。特別に肥料的なものは入れない栽培でも、草に覆われた状態でも結球してくる。畑の草は、刈り払う。刈り払っても繰り返し出てくるが、その草が敷き藁のように地表を覆っている。邪魔なものは畑の一角に積み上げ、養鶏場の床を混ぜておく。
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