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298 水彩画 日曜展示

2025-04-20 03:58:01 | 水彩画
298 水彩画 日曜展示

298水彩画 日曜展示



 
 
685「睡蓮池」
中判全紙 2025.4






686「川の畔」
2025.4 中判全紙
 
 

 
687「宮良川」
2025.4 中判全紙




 
 
688「川の畔」
2025.4 中判全紙
 
 川を書いた。川は光って流れている。光を受けて反映しながら動いている。うねりながら、一筋に名って流れる。絵も静止した絵にはならない。光が色になり画面が輝くような物でありたい。石垣の川は緑が濃い。緑に飲み込まれるように川が流れている。

 最後の川のほとりは畑の脇に流れる、小さな川である。田んぼに水を取り入れる川である。せぎというような物だ。名蔵のアンパルである。どこのせぎでも言い訳だが、アンパルの平たく重なって広がる景色はなかなか面白い。ただ展望できる場所がないことが残念なところだ。

 今週は何か進んだ部分があったと感じた。思い過ごしかもしれないが、そう感じることがたまにある。今までではない何かが出てきたときだ。と言って良い絵になったというようなことでもないのだろう。ただ自分が前にす寸見ながら描いていることだけは確かだ。

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絵を描く尽きない面白さ

2025-04-14 04:24:48 | 水彩画


 毎日絵を描けることが喜びである。絵を描くことに生きる手応えがある。ありがたいことだ。一日を生きる意味を絵というものに見ることが出来る。絵という画面の世界が、それだけの価値があると思える。その理由はわからないが、実に面白い、おもしろいの一日である。

 アトリエカーで描いている写真である。絵からすると小田原から戻り、小田原の絵を描いているときのことだ。ここに座って絵を描いている。小田原に越した頃から、何十年もそうしている。死ぬ時も、絵を描いていることが出来れば安心なことだろう。死ぬことにきっと気づかないで終わることだろう。

 絵というものはそれほど尽きない面白さがある。描いていると新たな世界が開けてくる。自分が想像もしていなかった世界で生きることに向かい合うことが出来る。次の世界の中にいる。次の自分というものに向かい合うことが出来る。昨日までではない自分の世界が見えてくる。

 描いた絵の価値というものはどうでも良くなっている。世間の評価から離れることが出来たとき、絵が自由になったことが良かった。画家になりたいと考えたときとは、ずいぶん絵を描く気持ちが変わった。描き終わった絵そのものよりも、描くという行為が大切なものになった。

 千日回峰行の僧侶が2回目の回峰行を始める心境だろう。千日で修行は終わらなかったのだ。本当は死ぬまでの回峰行に生きていると言うこと。楽しく苦しい修行が続いている。つまり修行すること自体が目的化しているのではないか。私には絵を描くのはそういうものでありたい。出来ているとは言わないが。

 只管打画である。描くことの意味を求道している。座禅が出来なかったから、描くと言うことが代替なのだ。そうでなければ進むことが出来なかった。そういう言い訳がなければ、進むことが出来なかった。ダメでも良いじゃんとてぇーげぇに生きてきた。

 それでも絵は社会の中のものだとは思っている。社会に必要なものだし、人類が生きる上で重要なものだと思っている。描くことだけが重要だと言うことは、描かれた絵が、社会的なものでなくても良いというわけではない。描くことに全力を費やされた絵の姿が、社会に意味を持つと考えている。

 当然私の絵もそうありたいと考えているわけだが、到底及ばない。しかし諦めたわけではなく、死ぬその日まで努力を続けて一歩でも近づきたいと考えている。それで私の生きると言うことはいいと思っている。出来ないからとやる前に諦めたくはない。どこまで行けるか只管打画である。

 芸術としての絵画の意味は装飾としてや、美術品としての意味ではない。どこまでも人間の生きるということに関わるものだ。生きると言うことを突き詰める手段が、絵を描くと言うことである。その証の絵が、社会の中で生きると言うことを、突き詰めたいと考えた人につながるという意味である。

 私というどうしようもない、テェーゲェーな人間が、テェーゲェーな絵を描くわけだから、それほど大それた絵ではないだろう。それでも日々、只管打画に向かう。絵に向かって努力している課程であれば、それでいいと思えるようになった。絵は只管打画修行の証。

 自分が描いた絵だ。と言うことだけあれば、素晴らしいものでなくても良いと思うようになった。そもそも絵というものはアルタミラの壁画であろうが、モナリザであろうが、それぞれの評価であって、どれが素晴らしいというような客観的価値はない。貴金属や宝石のような宝物ではない。

 求めているものは芸術としての絵画なのだろう。芸術としての判断の基準はある。説明ではない。装飾ではない。写生ではない。自分自身の心の創作物である。大上段に言ってみれば、自分の中の揺るがすことの出来ない、芸術の真実の部分が、画面にあるということだ。

 そういう画面になるまで描くという基準が、絵というものにはがある。この感触は不思議なもので描いていると導いてくれるように立ち現れる。これでいいのかと考える自分もいるのだが、「良いんだよ、これで」と言う自分も現われる。自分を越えたような、ある感覚としか言い様もないものが判断している。

 描いているとあるとき絵が立ち上がる。絵らしきものになり始める。どうしようもなかったものが、輝きだし強いものになる。そこに至るための方法論はない。ただ描き続けて、そこに行けることがたまにはあると言うだけだ。到達することがあるのだから、諦めることなく、また描き続けている。

 見ている世界の写生、世界を描き止めると言うことが、一番危ういことになる。と考えている。世界はあまりに確かである。確かであるからそれを参考にして写せば、それが正しいことだと安心してしまう。所がそれではどこまで行っても自分の見ているにはならない。見ている現実は捨てなければ、自分の世界観には近づけない。

 しかし、自分の世界観から絵に入れば、これまた頼りない根拠のない世界にさまようことになる。確かな目の前の現実を、自分という生きている眼が捉えた上で、自分の世界観で創作できるかである。その世界の奥深さと、無限と、真理を自分なりに解釈できるかである。

 世界を肉眼で見ている現実に、絵が引き回されてはならない。絵はあくまで画面の上に描き出している世界である。私が見ているという現実世界は、材料なのだ。その材料の奥にある自分の世界観との共鳴のようなものを探っている。

 言葉にはなかなかしがたいことなのだが、日々こんなことが頭の中をぐるぐるしている。そしてそれを一切忘れて、考えもしないで、画面に向かう。絵に従うだけである。そして、今も視野の先には絵が並んでいる。その並んでいる絵を見て、様々に感じている。


 
 絵を見ながら絵のことを考えている。そしてブログに絵のことを書いている。なんともこの程度かと思うこともある。何かしら素晴らしいと思えることもある。結果を考えることはしない。描こうして並べてあるのは、何か気づくことがあるからだ。

 4月25日から船堀タワーホールと言うところで、水彩人春期展がある。そこに出す絵はもう小田原の家に置いてある。睡蓮池の絵である。今描いている睡蓮池の絵の方がもう少し進んだ気はしている。毎日わずかだが進んでいる。それでいいと思う。

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297 水彩画 日曜展示

2025-04-13 04:10:00 | 水彩画
297 水彩画 日曜展示





682「睡蓮池」
2025.4 中判全紙







683「赤崎貝塚」
2025.4 中判全紙







684「赤い耕作地」
2025.4 中判全紙


 耕作地の赤い土は沖縄に来て一番印象に残ったものだった。レンガのような色だと思った。これが赤土だと思えた。家の壁の色もこの色にしたかったのだが、実現できなかった。この土の色を描きたいと思っている。何度も描いてはいるのだが、少し見ている色になったかもしれない。

 絵では見ていると言うことは、葉色版で4とか5とか正確に比べて、見るという意味ではない。自分の頭の中の絵の色を見つけられるかである。赤い赤い土の色、鮮血のような土の色。燃える太陽のような土の色。言葉にしてみれば赤い土の色も様々である。

 その様々ある赤さの中で、自分がこうだという土の色を作り出そうとしている。その見いだそうという「見る」なのだ。だから私の沖縄の赤土なのだ。この赤土に腐植を増やし、耕土にしようとしている。簡単なことではない。亜熱帯の太陽と風と気温が作り出した土を変えようとしているのだ。

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296 水彩画 日曜展示

2025-04-06 04:22:31 | 水彩画
296 水彩画 日曜展示





678「沼代の棚田」
2025.4 10号







679「沼代の棚田」
2025.4 中判全紙







680「沼代の棚田」
2025.4 中判全紙






681「沼代の棚田」
2025.4 中判全紙


 小田原から石垣に戻り、小田原の棚田を描いている。桜馬場から見下ろした風景である。ここも何度も描いた。何度描いたとしても面白い。見下ろした谷間に棚田が続いて行く。その先には沼代の部落がある。さらに二宮の丘陵が続いている。

 絵を描くと言うことほど面白いことはない。画面という場所に新しい世界を作り上げることが出来る。その世界は自分の心の中の世界なのだろう。絵を描き続けていると、だんだんその絵の世界が、自分が現わし、作り出しているような気になってくる。

 描いているものが、芸術なのかどうかはわからないが、私が考えてきた絵画というものに近づいていることはわかる。もう一息のような気がしている。結局絵を描くと言うことは、絵がどう言うものかがわからなければどうにもならない。自分の価値観の絵というものはわかってきた。

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295水彩画 日曜展示

2025-03-30 04:39:05 | 水彩画
295 水彩画 日曜展示






672「山」
2025.3 中判全紙








673「農園」
2025.3 中判全紙









674「海」
2025.3 中判全紙







675「沼代田んぼ」
2025.3 6号







676「沼代田んぼ」
2025. 3 6号







 677「沼代」
202.3 6号


(小田原に来て描いた3枚を後から加えた。)

 山と海と農園を描いた。この3つの風景を描くことが一番多い。山は記憶の中の立山連峰と雲ノ平である。50年以上前の学生の頃登った山のことは鮮明に頭の中にある。写真機とか、スマホとか持たないで登っていた。絵を描く道具も持っても行かなかった。北アルプスの峰の中でテント生活したことは、大切なものになっている。

 海は大島で離岸流に流されて以来、怖いものになった。できる限り近づかないできた。あの大津波の映像は今でも見ることができない。大学で体育の単位のために水泳実習で能登に行って、遠泳を泳いだ時も怖かったが、泳ぐことには問題はなかった。石垣の海を見ても泳ごうどころか、近づこうと全く思わない。

 毎日、農園で絵を描くことだけで十分に満足である。絵の世界は無限である。頭の中に残っているものを描いている。見て描くということはないが、いつかは水牛を描いてみようかとは思っている。水牛を描けば水牛がもっとわかるかもしれない。まず水牛のデッサンをやってみるのがいいのかもしれない。
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294 水彩画 日曜展示

2025-03-23 04:14:33 | 水彩画
294 水彩画 日曜展示






689「のぼたん農園」
2025.3 中判全紙








270「とうまつ田」
2025.3 中判全紙







271「のぼたん農園」
2025.3 中判全紙



 ユンボ作業ばかりしていて、絵を描く時間は少なかったかもしれない。ユンボ作業は身体は疲れないのだが、神経が疲れる。睡蓮池から離れて、描き始めた。やはりのぼたん農園の景色になる。少し新鮮な気持ちで絵を描いていた。睡蓮池はまた時間をおいて描いてみたい。

 見て描いてはいないのだが、その場所を見ている自分の眼。絵を見ている眼というものは意識している。絵は私はこう見ていますというようなものなのだろう。たとえ抽象画であっても制作した人の見ている抽象の世界というもののはずだ。

 見る、視る、観る。いろいろあるが、絵のみるはそのすべてを総合したものだと思う。見てはいないのに観ている。見えていないものを観ている。自分の世界観が絵に表現されていなければ意味がない。その世界観がつまらない責任は自分という人間のつまらなさ故だ。しかし、つまらない人間がつまらない姿を絵に出来たらその絵は面白いはずだ。
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293 水彩画 日曜展示

2025-03-16 06:10:18 | 水彩画
 293 水彩画 日曜展示







687「ヒカゲヘゴ」
2025.3 10号






688「睡蓮池21」
2025.3 10号








688「睡蓮池22」
2025.3 中判全紙



   睡蓮池を3ヶ月ほど描いていた。描けたということでもないのだが、何か他のものを描きたくなってきた。またしばらくして描いてみようと思う。睡蓮池を描きたくなったのは、睡蓮池の整備をしていたからのようだ。大分綺麗になった。一段落したらもう良いかなという気分になった。

 その後、睡蓮池の周りにヒカゲヘゴの苗を植えた。今度はヘゴばかり気になる。ヘゴが絵に出てくるようになった。ヘゴも絵にするとなかなか手強いのだが、描きたくなるのはやはり、根付くか根付かないか気になるからなのだろう。

 今度は田んぼの周りに風よけネットを張っている。このパイプの準備やら、打ち込みやら、ネットを張り巡らせる作業をしている。これもまた気がかりで仕方がない。といってこれは絵に描けるようなものでもない。そういえば、コーヒーの苗を植えた。今度はコーヒー園を描いてみようか。
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293 水彩画 日曜展示

2025-03-09 04:25:22 | 水彩画
293 水彩画 日曜展示







 684「睡蓮池18」
2025.3 中判全紙








685「睡蓮池19」
2025.3 中判全紙








686「睡蓮池20」
2025.3 中判全紙


 睡蓮池を描き始めて20枚になった。20枚ぐらい描いたからと言って何かわかってきたというわけではないが、睡蓮を見ているときに絵を描く眼になる。溜め池には一日何度も行くので、様々な光で、変化の激しい池の様子をじっくり眺めている。

 絵を描く眼で見て初めて気づくこともある。動じに漠然とみていたときの全体像のようなものが失われてきている。細部的な眼、分析的な眼、説明的な眼、こういう眼になったら、つまらない。最初の絵を描こうなどと全く思っていたときの溜め池を描く必要がある。

 ただそこに溜め池がある。そんな存在感の溜め池がある。という状態でに描きたい。溜め池をとことん覚え込んで、次に忘れなければならない。すっかり忘れてしまって、また漠然と描けるところまで描いてみたい。それが自分の枝と思うから。



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JL971便6時25分発 羽田→石垣線

2025-03-05 04:36:41 | 水彩画
 JL971便6時25分発 10時着 羽田→石垣線 私が一番好きな飛行機便だ。特に冬の間はこの便に乗ることにしている。10時に石垣に着けば、普通の一日として有効に使えるのもいい。そして、乗るのであれば、必ず右側の窓際の席にしなければならない。









 この景色を見たくて、JL971便にのる。冬期の青天であれば、これ以上はないだろう山岳風景に出会うことが出来る。この景色を目に焼き付けて、山の絵を描いている。富士山の絵もそうだ。少し上から見た富士山の姿は特別なものに見える。山の形を見ることの出来る飛行航路だ。

 俯瞰で見る山の形に引き込まれる。自分の絵の世界に入り込んでしまう。別段上から見たように、山を写して説明をするという意味ではない。山が自分のものになる感じだ。自分の中に山が入れば、後はどう描こうと自分の山になるわけだ。だから、飛行機から山を見ると言うことは、応えられない面白さだ。

 今回は白山と思われる山までかすかに見えたような気がした。すぐに雲に隠れてよく確認までは出来なかった。八ヶ岳が富士山の隣によく見えた。甲斐駒から南アルプスの連山が、光岳まで見事に連なっていた。北アルプスが多分北の剱岳から南の乗鞍岳までつながり、少し離れて、木曽駒に飛んで中央アルプスと思われる山も見えていた。

 多分その半分くらいの山には登っている。実際には縦走で通った山と言うことなのだが、もう登ることは出来ないが、こうして上から眺めることは出来る。北岳に登ったのは畠山君と一緒の高校生の時だ。八ヶ岳の縦走はまだ中学1年生の世田谷中学の登山だった。62年も前のことになる訳だ。

 この早朝便に乗るためには、6時前に羽田に着かなければならない。蒲田に泊まることにしている。京急蒲田5時19分が始発で、5時29分に羽田に着く。これだと羽田で大分余裕がある。次の5時25分で羽田5時35分なのでこれでも十分時間がある。京急蒲田から10分で羽田に着く。

 本当は小田原4時30分発で羽田に5時54分である。これでもなんとか乗れるのだ。しかし、この場合、4時にタクシーを頼まなければならない。3時に起きなければならない。しかもギリギリの出発まで30分しかない。何かあれば乗り遅れる。といいながら、本当のところ蒲田に泊まりたいのだ。

 蒲田は今でもなかなか面白い街である。昔はもっと良かったのだが。前の晩に蒲田の飲み屋で飲めるのも、かなりの楽しみである。チープな一時代前のような飲み屋がある。あの場末感はなかなかである。ああいう場所で一人飲む酒は、しみじみ飲んで、酔い潰れる。気分が悪くない。

 どうも自分が安物だから、そういう安っぽい所だと落ち着くのだろう。高級ホテルのラウンジとか、気取ったバーとか、高級レストランとか、行ったこともないし、行きたくもない。大嫌いだ。場末ぽい飲み屋で飲んだくれて帰るのが、カプセルイン蒲田である。

 カプセルイン蒲田のキャビンタイプは4100円である。なぜかカプセルだと家よりもよく眠れる。もちろん、サウナがあるからだ。乾燥サウナと蒸気サウナのサウナが2つある。どちらも100度はある。そして何より空いている。なぜあんなに充実したサウナが空いているのだろうか。

 キャビンタイプだと小さな机があり、パソコンが使える。ルターを借りないとならないのが欠点。ルターの不調があるのだが、使えれば良い。羽田に遅く着いたときも、ここに泊まるのが一番良い。12時5分が羽田からの最終電車である。遅く着く飛行機でも全く問題がない。羽田からすぐ着くので実に便利だ。

 羽田にもサウナカプセルがあるのだが、これが案外に不便な上高い。高い分綺麗なのだが、綺麗よりレトロの方が好みだ。第1ターミナルまでの移動が時間によっては案外にやっかい。飛行場内の移動のバス時間が限られている。それくらいなら、蒲田から行けば10分で行けるのでむしろ確実である。まあ場末好みの飲み屋もあるし。

 7時頃に富士山のそばを通るのだろう。晴れた日の早朝であれば、見通しがよい。雪のある季節だと、山の形の確認がしやすい。飛行機はどう言う訳か、いくらか飛ぶコースが異なる。富士山の真上かと思うような位置の時もあるし、少し離れた海の上を行くこともある。何故なのだろうか。

 4月1日もまたこの便に乗る。なんとか窓側がとれた。雪はまだあるだろう。晴れると良いね。晴れるとね。見る楽しみに勝るものはない。山が見えなくなるまでまた絵を描くことになる。写真を撮りながら、頭の中で絵を描くことになる。写真を見て絵を描くことはないのだが。
 
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292 水彩画 日曜展示

2025-03-02 03:55:35 | 水彩画
292 水彩画 日曜展示






677「舟原」
2025.2 15号







678「舟原」
2025.2 10号







679「暗い山」
2025.2 15号







680「舟原」
2025.2 15号







681「三津富士」
2025.2 10号 以前の絵に手を入れた。







682「夕暮れ」
2025.2 15号







683「公園」
2025.2 15号変形


 小田原で描いた絵である。場所が変わると絵も変わるようだ。一週間小田原にいたのだが、あまりに寒くて篠窪まで描きに行くことは止めた。以前寒い場所で無理をして、肺を痛めたので怖い。今回は家で描けばいいと思い、少しづつ描いた。

 前に描いた絵が置いてあるので、その続きを描いた。だから絵が変わったと言うことだろう。前に描いた絵の続きを描くというのも面白い。描きたくなれば、一度はもう出来たと思う絵でも続きを描き始める。そして何かが見つかることがある。

 それにしても、小田原で描くと絵が重くなる。色が重くなる。小田原の空気が重いのだろう。石垣の空気が軽いともいえる。絵にはどちらも必要なことのようだ。こうして行き来しながら絵を描くというのも、絵を描く気持ちを揺さぶるところがあり、悪いことではないようだ。

 アトリエカー写生旅行も行きたいのだが、今の状況では1ヶ月は到底無理だ。4月には水彩人の展覧会があるし、その後もし時間が出来たら出かけたいものだが。まだまだわからないことばかりだ。何かその写生旅行が自分の絵にとって良いような気がしてならないのだ。

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291 水彩画 日曜展示

2025-02-23 04:27:06 | 水彩画
 291 水彩画 日曜展示






674「睡蓮池16」
2025.2 中判全紙 






675「睡蓮池17」
2025.2 中判全紙






676「睡蓮池17」
2025.2 中判全紙



 3枚しか描けなかった。小田原に来てしまった。どうしても移動して幼児をしていると、絵を描く時間が取れない。帰るまでに一枚でも描きたいものだ。氷点下の寒さだから、厳しいと思うが冬枯れの中で描いてみたいと思う。大島に行って、水彩の水がジャリジャリと凍る中描いたことを思い出す。

 睡蓮をだんだん絵として描けるようになってきたと思っている。初めて睡蓮を描いて、17何度も描いているうちに、頭の中に睡蓮池が見えてきた。もう一息だ思っている。自分で堀って作った池である。自分で整えた竜神の湧水である。


 睡蓮を育てて4年目である。ずいぶん大株の睡蓮に育った。見事な花を咲かせるようになった。睡蓮がむかごで増えることを見つけた。気づいたときに感動があった。やっと睡蓮を描いてもいいのかと思えた。その意味では水牛を飼って5年目である。そろそろ描けるかもしれないと思っている。

枚。
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290 水彩画 日曜展示

2025-02-16 04:51:40 | 水彩画
 290 水彩画 日曜展示






668「睡蓮池12」
2024.2 中判全紙









669「睡蓮池13」
2025.2 中判全紙







670「睡蓮池14」
2025.2 中判全紙








671「睡蓮池15」
2025.2 中判全紙






673「海越の鳥海山」
2025.2 12号和紙


 睡蓮池を覚悟を決めて描き始めたら、描きたいものが掘り出されてきたような気がして、次を、次をという気持ちで描いている。実際の睡蓮池とはまるで違う世界なのだが、それはそれでいいような気がしている。まるで写したような睡蓮池を描きたいという気持ちはない。

 水面に浮いている丸い葉の作り出している形とか、池の水の中の暗闇のようなものとか、水面に反映する空とか。そして、睡蓮の驚くような青い花。数えてみたら、花が30もあった。睡蓮は一年中咲き続けている。蓮と似てはいるのだが、水面との関係が蓮よりも面白い。

 睡蓮池というとモネの絵になるが、モネの睡蓮が入り込んでくるかと思ったが、そうしたことはおきななかった。モネは確かにすごい眼なのだ。見えていることを絵にするという意味では完璧かもしれない。しかし、私の考える絵は肉眼で見えている、その先が問題になる。

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289 水彩画 日曜展示

2025-02-09 04:29:54 | 水彩画
289 水彩画 日曜展示





664「睡蓮池8」
2025.1 中判全紙









665「睡蓮池9」
2025.1 中判全紙









666「睡蓮池10」
2025.1 中判全紙









667「睡蓮池11」
2025.1 中判全紙


 続けて3週睡蓮池を描いている。新しいところに行ければと思い描いている。何もわからないが、ともかく睡蓮池を思い浮かべて描いている。池の水面だけ描いているものもある。池の周りを入れたものもある。その時々の反応で進めている。

 睡蓮池の不思議な空気に反応して、何か不気味な空気になってゆくものもある。この水の流れた先には貝塚がある。多くの人骨もここにある。そう古くない時代のお墓のあった場所でもある。ともかく古くから人が暮らしていた場所なのだ。

 何か不思議な気配を感じる場所である。別段意識しているつもりではないが、何かに自分が反応しているのかもしれないと思う。睡蓮池は3つあり、どの池もも素晴らしい場所になっている。スッポンとオオウナギがいたのだが、このところ姿を現さない。
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絵画の線

2025-02-03 04:00:23 | 水彩画















 どの絵も素晴らしい絵だ。絵画には線が現われる。西洋画では線のことをトウシュウとかタッチという。先日の水彩人の総会の後の飲み会で、中川一政の線の話になった。私は「あの汚い線が魅力的だ」ということを口にした。所が、回りにいた人が、一斉に「汚いとはどういうことだ、あの美しい線がわからないのか。」というのだ。

 まさか中川一政の線が美しい線だとは思わなかった。素晴らしい線だとは思うが、美しい線ではないだろう。あの汚さにすごみがあるのだと思っている。書の素晴らしさと通ずる線なのだろう。素直にあの線を美しいと感じる人もいるようだ。マチスの何でもない線の素晴らしさと対極のものだ。

 マチスの絵が好きだと言われたときと同じおかしさを感じた。マチスの絵を好きだとか、簡単に好ききらいで見るのか言うのか、という驚きだ。そうしたらなんと井上有一の線まで話が広がった。一体美しい線とはどんな線のことだろうか。こんな話をしながら飲むのが楽しいのだけど。

 絵の線で特に注目すべき線は、マチスの線。ボナールの線。モネの線。中川一政の線。梅原龍三郎の線。鈴木信太郎の線。小糸源太郎の線。児島善三郎の線。須田克太の線。松田正平の線。野見山暁治の線。どの人もその人の線があり素晴らしい。マチスの線は全く何でもない線でそれがいいと思う。

 当然のことだがそれぞれに違うのだ。その違いに着目して、その違いの意味を考えてみる必要がある。というように面倒くさいのが、私の絵の考え方だ。わあーきれい!とかで済ますことができない性格である。絵の線に感動したならばその理由を考えたくなる。線の意味を分析的に考えたいということではない。線の味わいの奥深さの違いを確認して味わいたい。

 ここにあげた絵は私の好きな絵の一覧のようなものだ。小さな写真では何もわからないが、それぞれに違う。そしてどの絵も私だと語っている。絵はそれだけでいい。絵がマチスですというのであれば、それが最高のことだ。絵が笹村ですという線を描きたいだけだ。

 線に浪花節が入ってはならない。といった人がいる。線が見栄を切ったらみっともない。ヘタウマの線はまだいいが、上手い線はどうにもならない。線はありきたりに引け。線は当たり前なのに、宇宙を感じさせる。線は決定的なのだが、何も感じさせないように引け。線に意図が入り込んだらだめだ。

  などなど様々考えている。そして何も考えないで線を引く。誰が引いたのかと思えれば幸いである。自分から一番遠いものであり、自分であるもの。そんなことを考えながら線を重ねてゆく。私の線はまだまだ線とか言えるものではないかもしれない。自分の中のよく見られたいとか、立派でありたいとかが災いしている。


 
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288 水彩画 日曜展示

2025-02-02 04:04:38 | 水彩画
288 水彩画 日曜展示








661「睡蓮池5」を描き進めた。
2025,1 15号







662「睡蓮池6」
2025,1 中判全紙






660「睡蓮池4」を描き進めた。
2025,1 15号








663「睡蓮池7」
2025,1 中判全紙

 
 石垣島では熱帯睡蓮を野外で育てることができる。水温が15°C以下になると熱帯睡蓮は生育ができない。のぼたん農園には、湧き水で作った池がある。一年中20度より下がらない。ティナという青系統の花を栽培している。一年中
咲いている。

 熱帯睡蓮は20センチもある美しい花だ。新しい品種の作出が進んでいる。妖精のような青い花がある。ムカゴと呼ばれる小さな球根状の芽をつける品種がある。ムカゴは葉の中央に現われて、葉が枯れてゆくに従って親株から離れて
ゆく。実に神秘的だ。

 池では絶滅危惧種のアカウキクサが育っている。ほとんどの自生地で外来種との交雑が進んでしまった。 石垣島でもアカウキクサは滅多に見ないものになっている。のぼたん農園では田んぼの緑肥として育てている。石垣島と西表島
にはかろうじて残っている。交雑しないように保存してゆかなければならな
い。
 
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