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2021年は特別な年であった。

2021-12-31 04:36:59 | 石垣島


 こんな感じで年賀状の宛名を夜中に書いていた。

  いよいよ今年も終わろうとしている。この一年を大切に暮らせたのか。力は出し尽くせたのか。様々思うところがある。現在の社会の動きへの期待感は年々薄れてきている。その分自分たちで世界を構築する必要があるという気持ちになった一年ではなかっただろうか。

 それはコロナが蔓延しても、経済活動を止めてはならないという考え方に表われていたと思う。経済が破綻すれば、死なざるえない人がむしろ増える。病気か貧困か。この悩ましさまとわりつかれた一年であった。

 競争主義的資本主義が行き詰まり始めた。一方、国家資本主義中国が徐々に世界に影響を強めてきた年でもあった。コロナの蔓延でその両者の違いがより際立って見えた。解決できるどころか、このことが人間が生きるという本質を露わにしてきたと言うことだろう。自分が何を大切にして生きるかが問われた一年と言うことになる。

 2021年はオリンピックが東京で無観客で開かれた。コロナ下の特別な年であった。社会は世界中コロナで混乱続きである。私などはコロナが怖くてお店に入れないという人間である。レストランにはまだ入れない状態の年。石垣島では2ヶ月近く感染者0。ファミマにはおどおど行けるようになった。

 その中で楽観農園の建設に取り組むことになった年であった。人生最後の冒険の出発の年である。人間は自分の体力だけで、自給が出来るのかへの挑戦を若い頃した。達成できたて、みんなの自給を目指した。あしがら農の会の活動である。自給のための体験農場の冒険に出発した2021年になった。

 春の植物観察会で、干川さんと出会った。開拓の経験談で意気投合した。小田原でみんなの農業をやってきたのなら、石垣島でもやらないかという話になった。石垣島では農業をやらないつもりだったのに、干川さんと共鳴したことで、それならやれる限りやってみようと言う気になった。人間の出会いほど大切な物はない。

 そして、田んぼ探しから始め田のだが見つからなかった。シーラ原の田んぼを大浜さんのご厚意で、あくまで一緒に耕作するという形で、石垣島田んぼ勉強会を始める事になった。2期作目は作らないので作っても良いよと言うことだった。

 2期作目のあきたこまちは、開花期に台風の被害を受けて実りは少なかった。病害虫とか、ジャンボタニシとか、土壌に浸透性がまったく無いなど、課題が分かった。思わぬ強風続きで、収穫は少なかったが、良い勉強には成った。

 良い仲間を見付けることが出来た。これは人生の喜びである。新しい長期間栽培できる田んぼを見付けることにした。有機農業を半期だけ借りて行うという不安定さでは無理と言うことがある。崎枝に農林高校の小峰先生が放牧牛の牧場をされていた場所が、止められて貸し地になっていた。石垣島で一番美しい場所である。水も湧いている。

 田んぼが出来るはずだ。そう思えたので、調査を続けて田んぼになると言うことが分かったので、お借りすることにした。3.6㏊である。かなり広いので、田んぼと水牛牧場を併設することで可能になるのではないかと考えた。

 やはりに農林高校の福仲先生は水牛をたくさん飼われているので、その放牧地として利用してくれないかとお願いした。崎枝には3家族田んぼの仲間の熱心な人が暮らしている。現場に人がいれば、ある程度の面倒は見れると思うと言うことで。水牛の草地と田んぼと言うことでお借りした。

 お借りするには石垣島で3条の農家申請もしなくてはならない。書類を整え申請は受理された。伝統農業による自給の体験農場と言うことで認可された。農地に農作業小屋を作りたいと農政課と農業委員会に相談をした。農振農用地ではあるが、必要な作業場は可能と言うことだった。これからあれこれ考えてゆきたいと思っている。

 水牛をつなぎ止めて、徐々に移動を繰り返していった。すると澤筋に水が溜まるところが現われてきた。次第に1970年代の航空写真にある溜め池が現われた。沢筋の水は途中で消えていることも分かった。湧水の量はおおくはないが、田んぼは出来る水がある。

 そこから溜め池作りをやった。その続きを苗床田んぼにした。そこから下に棚田を作って行く。1段目の田んぼの形は年内に出来た。ユンボの操作がだんだんできるようになった。将来の構想は1つの棚田畑を100坪にして、一人の人に担当をして貰う。

 一人の自給のための体験農場の考えがだんだん見えてきた。石垣島には田んぼをやってみたいという人は多い。しかし、一人でやりきりたいと言う人を中核に成る人とする。その他の人は自由に楽しみや勉強としての参加になる。

 始めるときから、ここは修学院離宮の現代版だと考えていた。この少ない水を分け合って自給を行うと言うことは、学ぶものが多いはずだ。ここを楽観のノボタン農園と命名したい。楽観農園では少し露骨である。自分たちで仲間をみつけて、新しい生き方の模索をしてゆく体験農場。

 宮沢賢治のことを思う。理想郷「イーハトーブ 」である。石垣島に自給の世界観の楽観の場を作りたい。「雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ/慾ハナク/決シテ瞋ラズ/イツモシヅカニワラッテヰル/一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ/アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」 
 
 宮沢賢治は私の読み方では楽観主義の表れである。人生という冒険を楽観を持って全力で生きようと言うことだ。ただ一日玄米4合となると200キロ近いお米が必要になる。そんなに食べてはダメだ。ヒニニショクヲタベ/オオクハタベズが良い。

 一人の自給は100坪の面積と1日一時間の労働で可能だ。自分の体験から結論した。そのためには優れた技術とみんなとの共同が必要だ。一昔前の里山の暮らしだ。江戸時代に洗練された伝統農業の技術と、科学的な知識の融合である。

 大切なことは一人よりみんなでやる方が可能性が高まると言うことである。一人でやった方が良いことは一人でやる。みんなでやる方が良いことはみんなでやる。一人一人は自分のやるべき人生の仕事に向かう。食糧自給はそのための後押しである。

 そうした自給の技術の切磋琢磨と、緩い関係の構築。思想にも、宗教にも、影響されない、科学的な世界でなければならない。ノボタン農園の大きさで作る事の可能な棚田は10枚であるが、下の方はノボタン園にすることの方が良いと考えるようになった。

 小峰先生が放牧牛の牧場をされていた頃から、この場所には特別に感じることがあった。小峰先生が引退され、引き継ぐことになることは導かれたことのようにいまでは感じている。ここで一年絵を描いたことはそういうことだったのかと思う。又描いていた田んぼが大浜さんの田んぼだったことも何かの縁を感じる。

 5枚の棚田に、水を回すことは極めて難しいことのはずだ。一つの田んぼの面積は60坪。5枚になれば、丁度1反。棚田に水が回せるためには、棚田全体の協力が必要になる。3段目が身勝手だったり、病になればその下の人には水が行かない。

 1段の毎の耕作は有機農業基準の範囲であれば自由である。ただし、三日月池の管理から、5段目までの水路管理は全員で協力しなければならない。この関係を学ばなければならない。できない人もできる人もいる。誰一人脱落しない関係。

 結局の所今年は石垣島で農業を始めた年だったと言うことになる。そして、日々1枚の絵を描くと言うことも続けた。朝の動禅もやっている。そうかノボタン農園が作務と言うことになるようだ。続けていると言えば、ブログも続けた。2021年が終わろうとしている。
 
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