地場・旬・自給

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鶏飼い小言

2008-12-31 05:35:55 | 自然養鶏
鶏は元気はつらつで、眠そうな鶏はいない。寒さにもめげず、やっと卵を増やしてきた。自然そのままに飼っていれば、冬至を過ぎて1週間、毎年おなじように卵の数を戻してくる。暮れから正月と宅配が休みなので、卵を持ってお世話になった人にお礼に伺う。
やれやれ、昔の数え方ならば、年が明けて、いよいよ還暦の60歳。隠居として、あれこれやかましく小言を語らなくてはならない。孔子によれば子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩。60歳に成ると耳にしたがうとある。私のような無学のものにはとても無理なことである。孔子様が言うことは大体逆でも成り立つ。どうも論語と言うのは中国人の性格に困り果てた結果できたような、逆も真なりの不思議なものだ。歳をとればたいていは、頑固になり聞く耳を持たなく成るというのが普通だ。だからあえて、耳順ということだろう。15で学に志せれば良かったのになぁーと、70過ぎてからの発言は残念感覚が響く。

「稲作小言」と言う、ざれ唄のようなものがある。明治二十年、船津伝次平と言う人が作ったものらしい。まったく今の現状を予測したような文章で、古くて新しい。今年最後に写させてもらう。船津氏は駒場農学校に奉職し、日本と西洋の農業技術を比較研究していたらしい。所が案の定、政府は西洋式の大型農業を提唱する。しかし船津氏はそれは日本の気候風土に適合しない農業であると主張する。職を辞して、自分の研究する自然に従う小農主義を主張することになる。それが稲作小言に集約された思想。いつの時代も小泉元総理のように、一見筋が通ったように聞こえる自説が声高々の農業改革。現場を見ていない。いよいよ持って、日本農業の成立基盤を崩壊させるような人がいる。大きければ合理性がある、大量生産ならコスト削減になる。そうとは限らないのが日本農業の複雑な現場だ。大きくすれば、生産コストが下がるような農地は少ない。

今年の稲作の作況指数は102だそうだ。この生産量は過去2番目だそうだ。減反政策を2年前政府主導は止めたが、又今年になって復活した。JAと政府のすりあわせがおかしい。そもそも減反は一時しのぎの政策のはずだった。米を援助物資にしたらどうだろうか。日本は自動車を売るための道路建設に援助したりする。日本の工場を作るためのインフラ整備にダムを作る。その工事を日本の企業が受け持つ。これを米に転換する。世界には食べる物にも困る人達が何億人も居る。日本の援助は全て、米にする。この先の世界の食糧事情を考えれば、アメリカでも文句が言えなくなるはずだ。日本円は米本位制に変えたらいいぐらいだ。江戸時代のように、公務員の賃金は米にする。大体に食糧価格が安すぎる。農家が買ったほうが安いというくらいお米の価格は変だ。

稲作小言は世界を肉食から、米食にするよう進めている。さすが先見の明がある。米ほど環境に負荷の少ない作物はない。アメリカがパン食を援助にかこつけて、日本の子供を洗脳したように、米食の世界普及に頑張る必要がある。日本人が米作りから学んだ、村社会の暮し方の知恵で、穏かな協働の暮らしを再生する必要がある。いよいよ小農の出番が来る。経済格差はこれから、恐いほど極端なことになるだろう。世の中益々不穏が予想される。ありえないような悲惨が起こりそうだ。何とかそうならないためにも、肉食を止めて、お米を食べましょう。この歌「稲作小言」が出来た明治22年。日本の人口は3800万人。新潟県が1位で166万人。人口は3,5倍、農業生産性は3倍にはなっていない。苦しい所である。

「稲作小言」
ヤレヤレ皆様   しばらくお耳を拝借しますよ
 私と申すは ずうっと昔の その また昔の神代の時代に 
豊葦原より現れ出ましてそれより日本に広まりましたる お米であります

 飯にはもちろん 酒でも寿司でも 菓子でも味噌でも お米で作れば
 味わいよろしく 紙すく糊にも 布はる糊にも 調法いたして 無類のものなり 
とげる時分に 出たる粉糠は 牛馬の食料
 風呂場に有用 肥料に要用  沢庵漬けには最も必要 
 糠味噌にも これまた同様

その茎わら 飢饉の食料 製紙の材料
 縄・みの・むしろに俵に叺に 草鞋に脚半に 農家のふき草
 垣壁なんどに 添えるはもちろん 貯蓄のたねもの 包んでおくなら
 温気は通さず 湿気も犯さず 焚きてはその灰 種々に必要
 腐敗しますりゃ 肥料に適当 そのほか効用 枚挙はつきせず

然るにこのごろ お米を廃して 肉食世界に 改良しなさる
 お説も聞いたが 肉食世界を 拒むじゃなけれど 獣類なにほど
 繁殖なすとも 値段が高くちゃ 下等の人民 食うことかなわず
米なら三銭 四銭でたくさん
 穀類作れば一反二反の 僅かな田地の 収穫ものでも一戸の家内の
 四人や五人は 年中食して余りがあります
 牛馬を一頭育ててみなさい ある人申すに数年原野に 
放牧するには一頭飼育に 六,七町余りの 地面を要すと
ヤレヤレ皆様 よく聞きなされよ
 六,七町余に 一頭ぐらいを 飼うよなことでは 三千八百余万の人民
匂いをかぐには 足りるであろうが
食うには足るまい 足らざるときには肉類輸入し つまりは必ず お国の損耗
 
近年お米が 豊作続きで 安値であれども 安値であるとて捨ててはいけない
 十分はげんで 智力をつくして光沢味わい 最もよろしき 上等種類を多分に作りて 
どしどし輸出し外国一般 その良き味わい 十分知らしめ
肉食世界を 米食世界に 変ずるようにと 尽力するこそ 農家の職分
 皆様はげんで勉強しなされ 勉強なさればお金はどっさり 日本に充満 日本に充満

  明治二十年 船津伝次平 作

2008年自給作業累計:302時間
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中心市街地の空洞化

2008-12-30 08:46:03 | 地域
街が寂れてゆく、このことはそもそも問題なのだろうか。街が寂れると税収が減る。所有財産の資産価値が減少する。こうしたことは何か問題だろうか。成り行きに任せる方がいい。お年寄りが買い物に不便である。こんなことが言われるが、昔に較べれば随分便利なものだ。便利さには限界がないだけだ。商売になるなら、必ず変わるものは生れてくる。購買力があるなら、そこを埋める力は水位が下がれば忽ちに注いで満杯にする。それが商売というものだろう。埋める力がかつての商業者にないならば、それは仕方がないと言うもので、常にそうして勢力は後退してゆく。自分の商売の不振を社会の性にするようでは、そもそも商人としてダメだ。全国に展開する大型チェーン店が進出してくる。そこに商圏を奪われる。当然の事であり、商業者自ら解決するべきことで、他人が関わることがそもそもおかしい。

街づくりのデザインというものは、地域全体で作るものであろうが、商売に行政が関わるようなことは、あってはならない。それは農業でも、工業でも、商業でも、すべからく等しくなければならない。町というものの機能は何か。小田原の街づくり検討委員会での議論の方向の圧縮版が公表された。なるほどという意見もあれば、不思議に成る意見もある。しかし、いずれも予想の範囲内の見解で、これで何とか成るな。というような画期的なアイデアは今のところ無さそうだ。当然の事だろう。街づくりにおいて、誰かが何かをしてくれる。などと言う事はない。行政のやることはグランドデザインに限るべきだ。そして最低限必要なものを、必要に応じて作ればいい。商業に踏み込むようなことはすべきでない。多くの意見は、商業の活性化に期待しているようだ。とんでもないことだと思う。そんなことに市民の財産を使って欲しくはない。自動車会社がつぶれるから、税金を投入すると言う事はおかしい。

ホールについては、小田原だけのことを考えてはいけない。足柄地域全体の施設として考えなければなりたたない。郊外型のショッピングセンターも御殿場や、沼津辺りまで商圏として考えて作られる。平塚の美術館に行ったり、秦野のホールに出かけたりと言う事は、当たり前の事だろう。個人的な必要度からいえば、大きなホールなど必要にはおもえない。小田原はまともに絵を飾る場所も無い街だ。それはそれでいいと思っている。それよりも、検討委員会というものが、駅周辺の市街地の事に限っていることが、まことに残念だ。街というものがどうあるべきかが充分に議論する。経済の縮小する構造の中で、街はどうあればより良く暮して行けるのか。対抗要素としては郊外のショッピングセンターよりも、ネットショッピングだと思う。

動きづらい年寄りが増えてゆく時代。ネットショッピングの時代が来る。そして宅配である。移動店舗である。中心市街地の商業云々など。個人の利権の問題に過ぎない。全ての前提を取り払って、必要不可欠なものは何か考えた方がいい。これはあってもいい。これは、別に駅前でなくてもいい。仕分けして行く。駅前の自治会では、舟券売り場が必要だと考えているらしい。自分が舟券を買うのに便利、と言うのでなくそうすればお客が増えるだろうと言う事か。駅前はパチンコ屋が一番欲しいと言う人もいた。ともかく歓楽街だ。こう言った人もいた。駅のそばに駐車場が欲しいと言う人も多数いる。中心市街地には一切の車を入れないという考えの人もいる。お城が小田原のシンボルなのだから、お城中心の街づくりを考えると言う人もいる。賑わいの演出には足並みが揃わないとダメだ。その辺の方向が定まらないと、固定店舗衰退の流れの中で、困ったことになるだけ。
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小さいことは迷惑か

2008-12-29 05:15:06 | 地域
市町村合併が経済危機が現実となり、いよいよ小田原でも取りざたされている。小さいほうがいいことがある。大きく合併した場合、取り残される小さいことのよさをどう維持できるのだろうか。日本一小さい行政は青ヶ島の人口181人。八丈島との合併と言う話も出た事はあるそうだが、何としても独立してやっていこうと言う事らしい。江戸時代この島の人口は700人とも言われ、今の4倍の人が自立して暮らす事が出来た。所が現代のこの島では村税が村全体の収入の4%弱である。地方交付税、国の交付金、都からの支出金等でほとんどがまかなわれている。仕事の方も港湾整備のような公共事業が継続して行われている。何故、青ヶ島を例に挙げるかといえば、ここが日本の一つの典型的な事例だと思うからだ。他所からの税金の投入がない限り、成立しない地域と言う事。今苦境に立つ地方行政においては、国の税に対する分配がおかしいと、盛んに主張する。この大半が筋違いだ。宮崎県が経済独立すれば、間違いなく現在よりも財政困難に陥る。

これは日本の産業構造が、大都市集中になっているからだ。青ヶ島の一次産業による収入は4600万程度。一次産業従事者が一割程度。大雑把過ぎるが、全体で5億円ぐらいの生産が想定される。そして島の運営にかかる費用は、11億が村の歳出である。生産している総額の、倍以上が行政支出である。青ヶ島は極端であるかもしれないが、多くの地方がこうした状況になりかかっている。日本の平均的な暮らし、憲法で言う所の『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。』具体的に言えば、生活保護費によって可能な暮らしのレベルが、地方によっては経済的に独立したなら、不可能になってきている。産業的に空洞化している地方。もちろん地方が子供の教育などを担い、大都市というものが成立していると言う構図が背景には存在する。

小さいから成り立つ、好例が自然養鶏である。あるいは兼業農業である。出稼ぎ農業である。専業化や、規模拡大に経済の合理性がない。小さいからできることがある。暮らしに密着したことはおおよそそう言う事だろう。自然養鶏では田んぼや畑の肥料となる鶏糞の生産も、大規模に成れば鶏糞は採算に合わないものになる。曲がったキュウリも家で食べる分には問題がないが、流通に乗せるとなれば、ゴミと化す。生産調整と言って、できたキャベツを捨てていたり、作らなければお金になる田んぼがあったりと。大きくなれば不合理になることになることがある。そして、大きい所は、小さいことを迷惑と呼ぶ。国にいたっては、町村合併すれば、補充金を出すと、誘導までする。本当に小さいことは迷惑なことなのだろうか。小さいながら、大切なことを失わない。そうした精神が足柄地域が一つの行政になったとき、生かされるだろうか。瀬戸屋敷を大切にするお年寄りの集まりは、開成町と言う単位の細やかさが背景だと思うのだが。

地域にある暮らしの細部を大切にする。行政単位が大きくなることで、失われたり、取り残されることが必ずでてくる。もちろん、大きくするメリットはある。大きくした方がいいことは大きくする。事業ごとに広域連合を結成して、合理性を求める。大きく合併する前に、小さい事を大切にする体制を作ることだ。大きくするならそれが、出来てからの事だ。小田原では地域の位置づけも形式だけで、農業地帯であるべき地域が、住宅開発がされ、農業行為まで迷惑行為と考える住民が増えている。こうした事は、大きくなればいよいよ紛れてしまい、おかしなことになる。いつの時代も暮らしの大きさは変わらない。1人の暮らしが大切にされること、この視点がグローバリズムの崩壊後の方向だろう。生きることのどの部分が大切なのか。大きな車を乗り回し、飛行機で世界を飛び回り、三ツ星レストランで美食するような暮らしが、目標ではない。一日一日を深く生きるためには、小さい目の前の事が大切になる。
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水彩人10回展

2008-12-28 06:26:43 | 水彩画
水彩人展の作品が描き終わった。M150号を5枚である。喜びのようなものを描いた。私自身が生きている喜びのようなものを、絵にしたかった。秋になって農の会の友人の所で、相次いで3人の子供が生まれた。新しい生命に出会って、つないで行くものの事を思うようになった。来年還暦である。一周したと言う事あろう。そうした気持ちが強まる所に新しい命である。それはたまたま身近で起こったことで、心底喜ばしい感情に満ちた。そうした喜ばしい気持ちを絵にしてみたくなった。始めのうちは、そうした気持ちで描いているのだから、自然そういう風に成るという具合であった。所が描き続けている内に、私の絵においての、メッセージのようなものを考えていた。自分の子供の頃の喜びに満ちた明るさのようなものは何だったんだろうと。思い出す感情はまばゆいようなものである。

たぶん私が愛情に満たされていたと言う事だろう。泣いてばかりいたらしいが、悲しみの様な感覚は少しも残っていない。明るく、暖かく、耀いた、光に満ちた空間である。そのことを描きとめてみたくなった。そのことが意味があるとか、意味がないとか、そう言う事は判らないが、きわめて個人的な感情を個人的に書き留めたくなった。この感情は、たぶん「共感」と言うかたちで育てられたような気がする。この花は美しい、と言う気持ちは学んだものである。いつの間にやら刷り込まれていたものである。そうやって人間としての感性が、育まれる。私が美しい初日の出だ。と思うのも実は文化的伝承だろう。桜が美しい。桜の下には腐った死体が埋められている。幸せな家庭は軒から火が燃え上がっている。ふとそう思うときがあるのは、文化的伝承の感覚が育っているのだろう。

水彩人の共感によって10年間育てられたもの、これは大きなものだった。10年前少しも感じられなかったものが、今美として認識できる。49歳の芸術の全てを理解したような気分の、傲慢な自分が、いかに浅はかな存在であったかと言う事が今になって良く分かる。むしろ自分が出来ない世界が以下に広がっているのかが判る。それだから、この後自分の出来ることが極めて限定されたものであることも、少しわかってきた。この10年は絵画芸術は表現手段である、と言う認識が薄れてきた、時間でもあった。絵画的表現が社会的存在の意義が失われている、事実の確認。もちろんいつの時代も、社会は芸術に好意的であろう訳がない。商業絵画の時代。投資価値としての絵画。貴金属や宝石のように、ものとしての投機的価値が絵画にあるとして、一番、解るはずの絵を描き続けてきた者には見えない価値観。そうしたうその蔓延。

反動としての、内側に向いた私的世界での制作。公募展に集う膨大な作品群への、興味の喪失。他人の絵画への関心の喪失。そうした中で、保たれたものが、唯一水彩人の仲間の絵であったかもしれない。私の美意識が、幼児の私の周辺にいた、家族を中心にした共感の世界によって育てられたものが、基盤であったように、水彩人の本音の絵画への共感が、唯一繋ぎとめてくれたような気がする。それは、学ぶと言う事が、主張すると言う事。指導すると言うような立場で、一緒に描いたもの、そして一生懸命語ったことが、繋ぎとめる大きな要素であったと思う。水彩人も約束の10年が過ぎた。この先どう変わるのかは、まったくの未知である。ただ、今の絵画認識に到る大きな力が、水彩人によってもらったものであることは判る。
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2008自給のまとめ

2008-12-27 05:29:38 | 自給
ほぼ今年の自給農作業は終わりのようだ。時間の記録を拾ってみる。1月14時間、2月11時間、3月16時間、4月28時間、5月36時間、6月37時間、7月23時間、8月14時間、9月33時間、10月41時間、11月25時間、12月13時間(麦踏の1時間を加える)2008年合計時間295時間これが集計した、笹村の今年の自給に要した時間である。記録を忘れていたり、30分以下の作業で、記録しようのないものは省かれている。例えば畑を眺めた。これは記録されていないが、それなりに大切な作業である。これを加えて丁度、365時間と考えるのがやはり良いのだろうか。毎日1時間で人間食べ物の自給はできると言う事だ。昔やったときは開墾からやっていたので、1日2時間であった。技術も環境も今より劣る。ただし、体力は今より勝る。もう畑が完成してしまえば、作業量は減るばかりだが、体力も減少するから、今後もこんな物と考えて於ける。来年も記録してみて精度を上げる。

全体では草刈の作業時間が多い。攻め寄せる草を何とか凌いで、たまにはやられながら、一年を過ごしたような気がする。本当に草と言うものはすごい物だ。草生栽培と言うか、自然農というか、草の中で作物を作ることは、本当に難しい。作物の事を熟知していなければ出来ないことだ。100の作物があれば、草との関わりも100の個性がある。そうは簡単ではない。その上、土の状態や天候の変化、全てが動いている条件の上だから、限りなく複雑化する。所が上手な人は難無くやっている。理屈でなく感性でこなしている。その上に無限ともいえる記憶の蓄積を持っている。その名人の技を、素人の誰もが出来るものに置き換えたいと言う、野望があるのだから荷が重い。勝手に担いでいるのだから、重いなどおこがましいこと。農業は難しいようで簡単。自給など出来るわけないと思い込んでいた私が、一日1時間で自給ができるようになったのだ。

今年は「良い土」このことをずーと考えていた。良い土は何故雑草が生えないのか。土がよければ雑草だって蔓延りそうだ。作物にだけ良い土とは何か。そんな物ないだろう。一言で言えば腐食質が多く。ミネラル分に富んでいる。そのため微生物が増加し、適度の湿度が保たれ、又水はけが良い。もう一つ難しいのは「わたくしという者」のクセに適合する、土の良さ、の事がある。やるときはやたら集中してやりたくなるが、やらないときもそこそこ保たれる状態。自給はそれで出来ないと困る。作業が集中してあってもよいが、毎日こまめな継続力がない。そういうクセを乗り越える栽培法である。そんな都合いい話があるかと、言われそうだが、畑の方が耕作者ごとに適合してくる、と言う現実もありそうなのだ。水道の水を毎日撒くような人もいれば、雨任せの人もいる。そんな様々な違いと、耕作法は連動している。

稲とトマトに相当入れ込んでいる。今年トマトの個性がだいぶ判って来た。路地で結構採った。11月まで採っていた。トマトが水を嫌う感じが少し判った。連作障害が起きるといわれる、地中の状態も何となく推測が出来た。根圏というものをイメージしないといけない。根は深く広く張ればそれでいいというようでもない。順次使う根を変えてゆくというのもある。トマトは茎が地面に触れば根が出る。そこで徐じょに倒しながら、新しい根を利用する。トマトなら良い管理ができるのは5本が限度だ。それ以上に成ると雑になる。以下に作っているものを思い出すまま、上限を書き留める。来年はどの程度考えが変わっているか。いずれ、作りすぎないことが、自給のコツだ。

追記、ピーマンなら3本、キュウリは3本をずらして2回、ナスも3本。オクラ2本。タラの目10本、フキも3坪、山ウド10本。ジャガイモは5キロ2回。タマネギは300本。キャベツ10本を2回。里芋10株。ヤマイモ10株。牛蒡10本。アスパラ10株。エンドウ10株。ニラ5メートル植えっぱなし。セロリー3メートル。ニンニク15メートル。蓮根3坪。インゲン10株。菜花10メートル。白菜10株2回。ブロッコリー10株。冬瓜1本、カボチャ10本、ソラマメ20本。トオモロコシ、10メートル2回。さつまいも5株。しょうが10本。青梗菜、ター菜少し。ミョウガ3坪。シソも少し。山椒。春菊3メートル。空芯菜エンサイ、サニーレタス、小松菜、青物5メートル順次。大根、株なども順次。麦は3畝、米も3畝、大豆は20メートル(共同)長ネギは成功したことが無いので、葉ネギを5メートル植えておく。そのほか、スイカとか、イチゴとか、メロンとか、やってみてもいいものなど少々、ホウレン草はできない。果樹も一通りあったほうが楽しい。しかし、随分やっている、50種はある。100種やる百姓と言うから、半人前で丁度か。
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家で勉強をしない中学生

2008-12-26 05:35:46 | Peace Cafe
9%の中学生が家で勉強をまったくしないそうだ。91%の中学生が家で勉強をするらしい。この多さに驚いた。家で勉強は丸でしなかった。学校でやれば沢山だと思っていた。今の勉強と言うのは学校でやるだけでは充分じゃないらしい。学校で日に6時間も勉強して、まだ足りないとは驚く。学校でちゃんとやってないのだろう。試験前に慌てて勉強するぐらいは必要だろうが。学校で充分足りるようにするのが、学校のやるべきことだ。学校の6時間で足りないぐらいなら、家で少々やっても無理なものは無理だ。子供が忙しい訳だ。義務教育の中学校の学習内容が、学校で勉強するだけで習得できないとすると。内容が多すぎるのか。教師の教え方が悪いのかしか考えられない。家でやるべきことは勉強どころでなく沢山ある。暇を持て余すぐらいで、本当の好きなことが出てくる。わたしの父が言ったのは「好きな事を見つけろ。それが子供の仕事だ」これだけである。

中学生の頃を思い出せば、学校から帰えればその日やるべき、好きなことを考えていた。どうせくだらないことで、ブルドックを見に行こうとか、どこの熱帯魚屋に何が入る。運送屋に虎がいるとか。どこに銅線が落ちているから掘り出しに行こうとか。ツリーハウスを作るか。穴を掘って地中の家を作るか。焚き火をやって、やきいもを作るか。パン工場に行って、パン作りを手伝わしてもらうか。毎日毎日、ぶらぶら次のおもしろそうなことを探していた。それが中学生の仕事だ、好きなことをやっていればいいと、思ったし言われていた。当時生地屋を父はやっていて、その手伝いも結構好きだった。生地の仕入れでどちらが売れるか、などという相談を本気で私にしてくれた。私の選んだ生地の方が売れるというのが、ジンクスとしてあった。私も問屋さんの持って来た生地を見る目が養われた。しかし、生地屋など絶対にさせないとも言っていた。

中学校は義務教育なのだから、日本で暮してゆくのに必要な知識を教えているはずだ。所が要らないことばかり教えている。だからくだらなくてやる気にならなかった。生きていくには何が必要かは、それぞれに違う。時代によっても違う。読み書きそろばんと言うのが、江戸時代に出来た教育の基本要素だ。鎖国しているのだから、英語は要らない。ゆとり教育というはずが、これで学力が低下したと言う事で、今度はゆとりはなくなるらしい。それでは、ゆとりで培われたものは、きちっと評価がされているのだろうか。すぐにはどうなる物ではないだろうが、何年もやったのだから、止める前に何だったのかは国民に示すべきだ。ゆとり教育の目的は何で、その結果どんなことが起きたか。いいことも、駄目なこともあったはずだ。

そうだ私が好きだったのは本を読むことだ。本ばかり読んでいて生活できる、いい職業は何かと言う事で、学者と言う事が目標に成った。たぶんこの辺に父の誘導があったのだろう。父は何かと言うと、柳田先生はこう言われたが、口癖のようだった。学者になりたかったが、戦争に8年行って、戦後は生活に追われ、断念した。私の本好きは乱読もいいところで、本より文章が好きだった。文章なら、機械の取り扱いの注意書きでも、毛沢東の話でも、つい読んでしまう様な状態だった。中学の図書館にある本を端から全部読もうとしていたぐらいだ。91%の中学生に言えることがあれば、どうせ勉強するなら、いい勉強をして欲しい。学校の勉強は勉強のほんの一部に過ぎないこと。農業など全くない教育内容で、これからの日本でやっていけるのだろうかと心配になる。
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日本経済の再生法

2008-12-25 06:05:51 | Peace Cafe
一つだけ考えがある。最低賃金制度を止める。いま神奈川県では736円ですか。農家の暮らしにも是非ともそれだけ戴きたいぐらいだ。最低賃金は生活保護費との整合性で決まるらしいが、おかしなことだ。こんなことを書けば、怒り心頭の労働組合が居る位は分かる。それとは又別の事として言いたいのだ。派遣社員を雇用できないで、解雇するのは労賃が高いからだ。解雇する社員の給与分を全社員がかぶれば良い。一企業の全ての社員の労賃を値下げする。派遣社員の切捨てもしないで済む。今より減るのでは暮せない。こう言う事だとは思うが、路上生活を始めるより、他に道がないとしたら、それを選ぶしかない。社宅で暮せるだけありがたいと思わなくてはならない。労働時間は短縮に成るだろう。企業が農場をもって、ここで働いてもらうのもいい。ともかく自分たちが食べる食糧を作ることだ。生活費が減る。社宅だって、出てもらった後、空き家になるだけだ。企業が借り上げている場合は、経費がだいぶ浮くだろうが、大家の方も、空き家になって困るだけだから、この際半額にする。

最低賃金736円が高すぎる。私の自給で考えても一ヶ月30時間として、22000円だ。これに100坪の地代と道具や種苗など入れれば、食糧自給に25000円は必要となってしまう。4人家族なら、10万円必要。食糧を買って暮らすのなら6万円と言う事だ。賃金が自給350円ぐらいになればトントン、色々違ってくる。畑をやった方がましになる。736円が何故出てきたかといえば、やりたくない仕事をやらされるための価格だ。労働力を売るという発想で勝ち取ってきた価格だ。しかし、みんながやりたい仕事と価格は別物であるべきだ。野球選手はタダでもやりたいなら、何億は高い。みんながやりたい仕事をやるのが本来なら、賃金と言うものは存在しない。好きなことをやれるなら、後は生きてさえいければ良いはずだが。なぜかそうはならない。何故、企業は賃下げより解雇を選ぶのか。制度的に難しい、労働協約上難しい。この時のための、契約社員制度のはずだ。結局は自分たちが、資本が良ければいいのだ。

好きなことなどどうでもいい。楽して暮したい。これまた当然の人間の本性の事だ。そこでバランスが必要になる。最低賃金350円でどうだろう。路上生活より増しじゃないか。もちろん好きで路上で暮している立派な人もいる。そうじゃないと、雲水などいなくなる。あくまで一般論。そうして少々嫌だけどやらなきゃならない仕事を350円で我慢して働く。そうして社宅で暮させてもらう。企業が食糧生産をしない場合は、週休3日ぐらいになる。食糧を作る楽しみを見つける。釣りが好きなら、漁業だ。植物が好きなら農業だ。山が好きなら樵。スポーツが好きなら土木作業。プラモデルが好きなら大工さん。もちろん荒唐無稽なことを書いている。しかし、生きていくのが楽になりすぎていたと思う。生きるのが精一杯がもともと普通の事だ。おとなしい羊にされてきた。毛を採らせてくれるなら、後はただ草を食べているのがいい羊。

契約解除が言い渡されたら、人間が生きる原点に帰って判断するしかない。何でもして働くしかない。350円でいいなら仕事はある。正直そこまで状況は行き詰っていない。しかし、だんだんにそこまで行くと考えて於いて損はない。農業分野は人手不足だ。しかし、農家の人が最低賃金以下で働いているのに雇用は出来ない。結局、生れて死ぬ。それ以上もそれ以下もない。たまたま戴いた生命を出来る限り、味わいたいじゃないか。充分に日々を生きる。と言っても、誰だって日々いい加減なものだ。充分どころか、昨日も、今日も遣り残し、アーァ、だめだったの日々。出来る範囲の事で、納得してゆくしかない。それは何も人と比較したりして判断することじゃない。充分出来ないからと言って辛くならない気分。シッタコウベヲメグラシテヘイヲダス。瓶を割っても気にしない。得意の方で、そこそこやればいい。そう、格好悪くギリギリに暮らす事を社会が容認することだ。
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財務省予算原案

2008-12-24 05:29:39 | Peace Cafe
税収が大幅に落ち込む。にもかかわらず、予算規模は88兆5480億円と当初予算ベースで大きく膨らんだ。当然、国債発行額という借金額が、33兆円を超えた。財政健全化路線は終わった。100年に一度の経済危機なのだから、経済が回復するまでの緊急処置と言う事らしい。3年後に景気回復が出来たらば、消費税を10%にする。3年後と言うのもよくわからない。それまでは借金を増やす。と言う判断だろう。もう返せないほどの借金があるのに、さらに借金をして、悪いお金を借りていないのか心配になる。3年後に景気が回復するというのは、あまりに甘すぎる。景気云々どころか、その時世界の経済状況は新しい局面を迎えているはずだ。資本主義経済というものが変貌している。アメリカ主導のグローバリズムは形を失う。きっと3年後のオバマ大統領の評判はわるいだろう。下手をすると新しい戦争を始めているかもしれない。

アメリカは大企業へ返済の保障のない税金による融資を始めた。これは資本主義の崩壊の第二歩に成る。当然ヨーロッパの企業も、日本も同じような手法がとられるだろう。国家資本主義とでも呼ばれる状況が生れる。これはグローバリズムと逆行する動きが表面化する。今までは、グローバリズムだからと言う理由付けで、アメリカの有利を主張してきた。すり替えが行われてきた。所が、アメリカが平等の競争に敗れそうになった以上。一国資本主義が許されることになる。これは中国等後発急成長の国が取っているやり方と同じだ。経済状況が並んだら、特別枠をはずすと言うのが今までのやり方だ。所が、アメリカがなりふり構わず、特別枠に入り込んだ。これを各国が批判しないのは、自分も遠からず同じことをやるだろうと考えているからだ。財務省予算案は楽観に過ぎる。米100俵を忘れたか。今のような緊急事態でこそ、主張されなければ意味がない。

今財政的には、地方の方がさらに苦境に立つ。税制の落ち込みが激しい上に、直接的に住民の生活を支えている予算の立てようがない。一例で言えば、医療体制の維持が出来ない。公立病院はどこの地域でも不可能になる。先ず病院を減らして、一病院の診療担当範囲を広げて、効率化する以外道はなくなっている。小田原で言えば、足柄地域に県立病院と、市立病院の二つは成立しない。いや必要だが、減らすほか道はなくなる。東海大学病院との連携を高める必要が生じる。もちろん開業医と総合病院のネットワークの整備も必要になる。さらに言えば、東京の病院とも、どう連携が出来るのか。生活レベルを下げる痛みは相当な物になるだろうが、全ての分野で同じことが起こらざる得ない。そして、予防医療を徹底する。病気則病院と言う発想をやめる。病院にからざるえない人を減少させる以外に道はない。

消費税は早急に上げる。3年後では遅い。誰だってたまらないが他に道はない。自分だけいい子になろうなど公明党の態度は情けない。消費税を上げると言う事は自給の暮らしを奨励すると言う事。ある意味小さな農家保護策。消費は美徳でなくなる。美徳でないのだから、大いに高い税を払う。タバコと同じことだ。本来の人間の暮らしに戻ると言う事で、悪い事ではない。またぞろ出ているのが、公共事業で景気浮揚案。とんでもないことだ。景気と公共事業は関係がない。必要不可欠なことはやるにしても、景気のための公共投資の時代ではない。それこそそんなことは民間がやれば良い。民間企業の投資意欲が減退している状況で、何で公共だけが景気浮揚の為に投資を出来る。一時しのぎなら、それもあるが、状況は100年に一度の経済転換場面だ。大きな発想の転換をしなければ、この状況を受け入れることはできない。希望的予算としては、太陽光発電への補助金の復活。誤りを改むるに恥ずることはない。カネカではベルギーに太陽光発電装置の新工場を建設するという。何故日本じゃないのと残念だが、最近の政府の冷たい目線では仕方がなかったか。
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総務省プラン

2008-12-23 04:22:56 | 地域
地域力再生プランとも、鳩山プランとも呼ばれている。素晴しいプランである。鳩山邦夫総務相「地域力創造プラン」を公表した。都市の若者らが1~3年程度の期間、人手不足の地方で森林保全といった農林水産業などに従事する「地域おこし協力隊員(仮称)」の創設で、数百人規模の募集を想定している。地方自治体が隊員に一定の報酬や住居などを提供する仕組みで、総務省は平成21年度の地方交付税で自治体を支援する方針だ。悪化する最近の雇用情勢の解消や過疎に悩む地方の活性化、環境保全といった相乗効果を期待している。
このほかプランには、複数の市町村が連携して地域振興に取り組む定住自立圏構想の推進を盛り込むと共に、都市と市町村が自然保護環境の協定を結ぶ仕組みを新設する。


プランの詳細については不明であるが、方向についてはきわめて正確だ。どういう方々が策定したかも判らないが、こういうプランがでてくるぐらいだから、まだ大丈夫だ。鳩山邦夫氏は数々の無礼な発言で、辟易していたが、今回のプランは評価できる。大きくは三つの枠になっている。一、定住自立圏構想の推進 二、地域連携による「自然との共生」の推進 三、条件不利地域の自立・活性化の支援 の3つと成っている。問題はこのプランの実効性である。農水省にある、様々な例えば、水環境云々、地域営農云々など等補助金事業は100と言う数がある。それぞれの形で運用されているはずであるが、農村がそれによって再生してきたとまでは、とてもいえない。悪くはないこともたくさん行われているのだが、なぜか大きな方向が整わない。片方で生物多様性を重視した、環境保全水路を作ると同時に、規模拡大のための圃場整備に伴う3面張りの、水路が作られて環境破壊も行われる。

100年に一度の経済危機だという、レッテルが貼られている。これは、だから私には責任がないという、転化の言い逃れだ。こうなり、さらに困難に成ることは、目に見えていた。迷走飛行からの、ソフトランディング。バブルの経験がまったく生かされていない。何せ、バブル崩壊の銀行の救済を自慢げにアメリカで吹聴した麻生総理大臣だ。鳩山プランで行くことに決めたらいい。農水も、環境省も、この方向に全てを併せて、一致協力して進む。例えば定住自立圏構想の立案には小田切徳美氏が入られている。以前から地方主権農政への転換を主張されている。5万人の中心都市を想定し、その周辺との連携を作る。医療・福祉・交通・住宅・ショッピングセンターなど暮らしに必要な要素を、中心都市に必要な機能を集中し、周辺の町村との連携を作る。

ピンチはチャンス。農業分野では戦後のアメリカ主導の農地改革以来の構造改革をするチャンスが訪れている。大規模機械化だけが日本農業の道ではない。既に人口減少期に入った日本は、若年層の地方での減少は10年経てば、40%の減少が起こると予測される。人口が減少することは、チャンスでもある。明治以来、日本の国土の健全な維持には人口が爆発的に増えすぎた。今から半減すれば、状態としてはバランスが取れる。江戸時代のような、手入れを行いながら、永続的に環境が維持できる状態となる。不便で、不健康な生活に戻れというのでなく。新しい形のバランスの取れた暮らしは、考え方の転換一つで可能だと言う事だ。派遣を切られたから路上生活に入るなど、驚くばかりだ。地方には幾らでも耕作放棄地がある。農地を耕せば食べる物は出来る。100年に一度の危機ではなく、100年に一度のチャンスだ。
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田母神論文のその後

2008-12-22 04:46:08 | Peace Cafe
政府は21日、田母神俊雄前航空幕僚長が歴史認識に関し政府見解と異なる論文を発表したことでシビリアンコントロール(文民統制)の緩みが指摘されていることを受け、官邸に設置された「防衛省改革に関する有識者会議」を25日にも開き、幹部自衛官の教育の在り方見直しなどについて協議する方針を固めた。

田母神氏の懸賞論文は、相当に配慮されたタイミングで、出されたと思われる。それは社会情勢もあろうし、又定年までの時間的配慮もされている。田母神氏の論文が波紋を呼んだとはいえ、政府は憲法解釈に関わる、自衛隊問題を、改めて巧みに蓋をしてしまった。本来この機会に自衛隊の文民統制が、どうあるべきなのか。自衛隊の思想教育は可能なのかどうか。公務員の言論の自由はどういう範囲であるか。その背景に厳然と存在する日本の安全保障体制について、根本から問い直すべきではないだろうか。憲法9条の事は、随分と議論が広がったと思う。しかし、軍備そのものについては、九条は堅持を主張する人達の中でも意見は様々だ。一切の軍備を放棄すべきとするものから、現状程度は必要とするものまで存在する。私も3つの9条の会に入っているのだが、このことを正面から議論したことはい。

田母神論文では、日中戦争も、対米開戦も「アメリカによって慎重に仕掛けられた罠(わな)」で、これも「コミンテルンに動かされていた」とする。当時、米政権には三百人のコミンテルンのスパイがいて、そのトップはハル・ノートの作成にかかわったハリー・ホワイト財務次官補。彼がルーズベルト大統領を動かし、日本はその罠にはまり真珠湾攻撃を決行した。論文内容は、「大東亜戦争の正体」清水馨八郎著、と酷似している。この本が種本なのか、あるいは他にもこのような考え方をする人がいるのか。知る所ではないが、驚くほど似ている。もしこの説で行けば、日本の当時の軍人と言うのは、随分愚かな世界情勢の読めない、簡単に騙されるレベルの連中だったとなる。そのはずがない、軍はいうに及ばず、大半の国民、政治家、昭和天皇に到るまで、戦争以外に道はないと、思いつめて戦争に突入したはずだ。日本にのみ責任が存在するはずもないが、日本が罠にはまった愚かな国で、いわば精神鑑定が必要な責任の取れないような国で、責任が無い。などと言えない。もちろん世界情勢を読み違えたことを、罠と言えば言える。

罠であろうがなかろうが、日本国がアジア諸国にどんな侵略的行為を行ったのか、という事実の確認とその後の対応が問題。文民統制などと大きいことをいいながら、議論を避けているのは、政治家であり、官僚である。自虐史観などと切り捨てながら、きちっと過去を見ようとしない態度が、田母神氏を産んでいる。背景には歴代自民党総理が田母神氏と同種の認識と、思想を、持っていることにある。それ故にこうした出発点で、そのことを議論したくないというのが自民党政権の本音であろう。三十年前にも自衛隊トップの“暴走発言”があった。栗栖弘臣統合幕僚会議議長が「現行法では奇襲攻撃を受けても首相の出動命令が出るまで動けない。第一線部隊指揮官が超法規的行動に出ることはあり得る」と述べ、いわゆる超法規発言として政治問題化した。文民統制上、不適切と同氏は解任されたが、時の福田赳夫首相が有事立法の研究促進を指示するなど国防論議に大きな波紋を投じた。こうした幕僚長による自衛隊から武力蜂起が起きた場合、政府はどんな対応を考えているのだろうか。

自衛隊が巨大な世界に影響を与えるレベルで現実に存在している以上、充分に文民統制とは何か議論をすべきだ。田母神氏が幕僚長であるように、自衛隊の思想の基本はこの論文ままであると考えた方がいい。現場と言うものがそういうものになりがちなのは、想像に固くない。そこでどうする。これを議論せず、ごまかしてしまうことは、確かに日本的な始末の仕方ではあるが、この先経済困難時代が来る。それは国家危機が迫ると言う事だ。必ず、武力的に問題を解決しようと言う勢力が現れる。仮想敵国を想定し、危機状況を高めて、国民の目をそらすと言う事は必ず起こる。現実には北朝鮮問題であろう。あまりに理不尽さに国民が怒りを向ける。こう言う筋書きが用意されているかもしれない。大いに気おつけなくては成らない。軍事力でない、平和創設隊に自衛隊を変える。世界のあらゆる困難に、現在の軍備費全てを投入して、災害復興、危機状況解決のため働いてゆく。そうして日本の国際貢献が世界に評価される状況を作り出す。日本を攻撃することは、さすがにできないと言う、世界世論を作り出す。そう自衛隊を改変することだと考えている。
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鳥インフルエンザ

2008-12-21 06:47:21 | 自然養鶏
今年も、鳥インフルエンザ感染の要注意の季節に入った。中国では香港や、江蘇省で発生している。発生を1ヶ月隠していたと言う情報も流れている。100羽以上の養鶏場は、県に状況報告の義務がある。昨年は韓国での発生があり、日本も危険状態になった。案の定日本に飛来する白鳥には感染があった。見つかったのはだいぶ後の事だが、感染が起こるタイミングとしては、やはり冬の間がリスクが高まる。今年の春の白鳥感染は色々の事を表している。今でも、自然界の野鳥の状態については、ほとんど分かっていない。あの時も慌てて周辺の野鳥を調べたが、何も分からなかった。ウイルス感染鳥は見つからなかったが、何億羽と言う野鳥の内、100羽程度を調べても、何かがわかると期待することがおかしい。自然界で鳥インフルエンザがどのように存在するのか、もっと地道な、深い研究を重ねる以外にない。当面は起きてしまった結果的な事象を、繋ぎ合わせ推理してみる他ない。渡り鳥の移動状態すらまだ解明されていない。その冬韓国で強毒の鳥インフルエンザがかなりの広がりがおきて、春になって白鳥の移動期に青森で起きたことである。私はこのつながりを推理するが、国の調査委員会はそう判断していない。

最近又ぞろ、テレビや映画で、人間に対する鳥インフルエンザの流行が始まることが、不安感を煽るような形で、騒がれ始めた。これは医薬品会社の思惑が反映している。と睨んでいる。養鶏業の家禽や自然界の野鳥での流行と、人間のインフルエンザとは、直接は関係のないことである。この辺の情報が抜け落ちて騒がれるために、そのたびに養鶏業が嫌われる職種になって行く。この点をもう少し科学的な視点で、この病気を見るようにして欲しい。テレビで人間への感染が報道される時は、「シングルマザーの、弟を病気で亡くして医師を目指した、若い女医」のWHOの担当官として、世界をリスク覚悟で飛び回っている、なんとも頭の下がる姿が報道される。ちょっとズルクナイカ。確かに立派な方だとは思うが、人間への感染爆発は、この方の言われたようにはおきていない。もう7年近く経ったがこのことの理由を説明をして欲しい。

この病気は、ウイルスの変異が原因している。鳥に感染が広がるタイプのウイルスは今のところ、人間には感染しない。まったく感染しないという事ではないが、1年に死ぬ人が、全世界で40人である。これは本当に少ない数字だ。珍しい病気ではあるが、原因が解明されている病気と考えた方がいい。日本人のリスクなど、当面まったくない。インドネシアの状況を考えればよくわかる。まったく感染対策が取られていない。それでも感染爆発などおきない。対策を取らない国は幾らでもある。その上そうした国は、動物と暮らしがとても近い。それで何故感染爆発が起きないか。そちらを考えてみる。今のところウイルスが特殊な人にしか、感染しないタイプなのだ。そうでなければ既に、感染爆発が起きている。

では人人感染が起こる、タイプに何時変異するか。これはまったくそのシステムも、原因もわからない。判らないから怖いと言う事はあるのだが、このまま変異しないかもしれない。ともかく、インドネシアで起こる事を注意深く見ておくことだ。インドネシアで起きないことは、日本ではおきない。絶対をつけてもいい。丸で明日にでも日本で発生するかのように、防疫体制の訓練の必要を騒いでいるが、空が落ちてくる、不安で悩む人は悩む。又、何にたいしても体制を整えておくことは大切だが、空が落ちてくる対策はお金がかかる。リスクの程度を冷静に見る目も必要だ。私なら、インドネシアに007諜報員を送って、情報を流してもらう。一方、ウイルス変異の原因を学問的に究明する。そしてその元を断つ。元を断つことができないような原因であるなら、諦める。
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有機農業モデルタウン

2008-12-20 09:07:23 | Peace Cafe
農水省では有機農業推進法に基づき、全国に化学肥料、農薬を使わない農業を普及する為のモデルタウンを40箇所指定している。小田原市でも申請はしたが、昨年度は指定されなかった。再度、申請するべく進めている。小田原では現在関係4団体が、協議会を再調整し、設立する準備を進めている。一方、神奈川県では有機農業推進計画の素案が検討委員会に出され、22日までに意見を出す段階になっている。全国的には今年度中に県段階では、推進計画が作られるところが、多くなるだろう。その後市町村段階の課題となるのだろう。先行県の推進計画では、市町村の推進計画の策定を、計画に入れているところもある。頭の中は、この二つの事で一杯になっている。実は昨晩は一睡も出来なかった。昼間あった電話のためである。

小田原市の加藤市長は自身も有機農業を目指したことがあるし、マニュフェストでも、小田原をモデルタウンにすると明言している。現在調整を進めている4団体は有機農業をどうこう言うよりも、小田原の農業を何とかしなければならないという思いで一致している。有機農業よりも、耕作放棄が進む小田原の農地をどうすればいいのか、このことが論議の大半を占めている。あえて有機農業協議会を作り、モデルタウンを目指すことは、このことで小田原の農業の活性化のチャンスが得られれば、と考えている者ばかりである。小田原と言う大都市近郊の農業の展開には、生協等の安全な食材を求める、消費者の存在が無視できないと考えている。そうした市民が、農業体験的に農業に関わる数は、どの団体も極めておおい。延べ人数では、何万人と言う数になるようだ。

先ず、農協と協力体制を組まなくては何も出来ない。今のところ良い連携がとれていないが、何とか次回の集まりでは、一緒に話し合える所まで行きたい。会議では、今までの取り組みが、農協への誠意の示し方が足りないのではないか。みんなで率直にお願いに伺えば道は開けるかもしれない、こう言う事になった。しかし、その前に市の農政課が充分4団体の気持ちを、農協に再度伝えてくれることになった。現状では市の農政課の関わりの位置づけも、明確に成っていない。出来れば久野の里地里山協議会での市の位置づけのようなものが、良いのではないかと成った。ただ、地域によってははっきりと事務局体制、会計を行政が担う。それの方が、国の補助金の処理など明確に成るという、先行事例の組織作りを見習うべきだ。と言う意見もあった。

加藤市長はマニュフェストでもモデルタウンを主張しているくらいだから、当然代表としてかかわるべきだ。それが出来ないなら、話が違うので、降りたいという団体の意見が出た。つまり、小田原農業の活性化を目指しているのに、有機農業協議会が、農協や行政と軋轢を増すぐらいならやりたくない。又申請しても、指定されることにはならない。そういう当然の意見がでた。では、と言う事だったのだが、眠れない原因の電話が来た。眠れないから、一晩県の推進計画の素案をあれこれいじった。愛媛県のものが優れている。今治市の推進計画も優れている。有機農業に、希望を感じて、本気で推進する思いが伝わってくる。神奈川県では市民が有機農業に関わって行く、都市有機農業の形を打ち出すことが重要であろう。加えて重要なことは、市民が動き出して、それに市が協力していく、小田原の新しい前向きな市民参加の形が、ここに存在していることが大切だと思う。
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自治基本条例の制定

2008-12-19 06:12:32 | Peace Cafe
神奈川県では自治基本条例を制定した。県レベルでは全国初となる、県政の重要事項に関する県民投票とともに、市町村の県政参加も盛り込まれた。このほか、情報公開条例や県民意見反映手続要綱をはじめとする既存の条例・要綱などを体系化し、それぞれの基本原則や理念を定めた。これは松沢知事の立候補した時のマニュフェストに書かれていた。市においては、川崎市、平塚市、海老名市、大和市がすでに制定している。愛川町など5町でも制定。その他6市が検討をしている。残念ながら、小田原市では制定の検討も始まっていないようだ。南足柄では市民団体が、検討会を続けていると聞いている。小田原でも、市民参加が重要な課題になる中、考えてゆくことは重要であろう。特に地域コミュニティー検討委員会ができ現在、鋭意検討中である。当然、自治基本条例の制定も視野に入れて検討してもらいたいものだ。

自治基本条例と言っても、その内容は様々で、大体の場合は理念規定のように読める。例えば川崎市の条例での市議会議員については――「(議員の責務)第12条 議員は、地域の課題や市民の意見を把握するとともに、市政全体の観点から的確な判断を行うことにより議会が前条第1項の権限を適切に行使できるよう努めます。2 議員は、市民に開かれた議会運営の実現に寄与するための活動を行うよう努めます。」――当然の事が書かれている。どうせ作るなら、もう少し踏み込んだものにする必要がある。自治会の位置づけなども、基本条例の中で決めるべきだろう。当然住民投票に対する、規定なども盛り込まなくてはならない。市民、自治会、協議会、検討委員会、市会議員、市議会、行政、市長。それぞれの役割と責務を明確にする必要がある。

議会の規定も基本条例の中で決めたらどうだろうか。現在議会の議論が形骸化し、低迷しているのは、質問形式が悪い。一問一答方式に変える。質問者も答弁者を指名して、答えさせる。市議会が市政の最高議決機関であり、全てがそこで明らかにされるようなららなければならない。城下町ホールについて、混乱が起きた最大の責任は、この予算が決められた、市議会にある。市議会が充分なチェック機関になっていなかった。後に市民の多数が反対署名するような、問題ある建物に対し充分な把握が出来ないまま、市議会では承認されている。問題があると感じた議員がいたなら、当然市民にその問題を公報してゆく義務が、市会議員にはある。建設が後戻りできない所に来てから、戻る現状に対し市議会はどれほど責任を自覚しているだろうか。

ごみ広域化問題でが、現在では急務の問題である。予算的にも、城下町ホール以上の経費が必要な事業だ。所が、12月議会でこのことを取り上げた議員は佐々木議員1人だ。では自治会ではどうだろうか。現状情報も伝えられていない。火葬場が広域化する問題でも、地元自治会でも充分な情報が伝えられないまま、決定されている。現在、市は検討委員会方式を立ち上げ、諸問題に取り組む姿勢のようだ。これは一歩前進だが、この検討委員会の位置づけを、基本条例で取り決める必要がある。様々な場面で、この人選がどう行われたかが取りざたされている。客観性ある審議が保障されるためには、条例としての取り決めに基づき、審議がされなくてはならないだろう。県が先駆けて、制定した以上小田原市でも、早急に取り組みを始めてもらいたいものだ。
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蜜柑ジュース

2008-12-18 05:02:15 | 自給
今年は、緊急に蜜柑を摘み取った。コンテナに10箱あった。既にかびてきたミカンがある。甘みが増してきて、美味しいのだが、とても食べきれる物ではない。と言って、出荷できるような、きれいな物でもない。一番はもぎり取ったからだ。面倒になって、はさみで切らずにどんどんもぎった。もぎ取れば早く腐るのは判っていたが、そのときはそれしか出来なかった。いい加減なものである。いい加減でも平気になった。やらないより増し、ヘイちゃらのちゃら。やる方がいいのだけれど、又やれないと言う事が幾らでもある。それで何ともなくなった。やれる範囲でやれることをやる。それで充分だ最近思っている。そういえば「ダメだからいいじゃん。」と言うのが昔の言いグセだった。それぐらいちゃんとやらなきゃと言う圧迫があった。それでも、田んぼに草を生やさないとか、蜜柑は早くもぎ取るとか、これは地域で生きてゆく条件である。これはいいとか悪いとかじゃない。

蜜柑ジュースは10リットル搾った。3時間の作業であった。20キロぐらいの蜜柑だ。ジューサーは韓国製だ。ジューサーは低温圧縮とか言う方式が、韓国では普及。これがなかなかの優れもので、家庭用ではあるが、1回5リットルぐらいまで搾れる。普通の家庭用はモーターに負荷がかかり、熱を持って、連続使用が出来ない。業務用と成ると、大きいし中古でも10万円以上はする。それでもいつかは欲しいと思っている。3時間と言うのは大体皮をむく時間だ。20キロのみかんの皮をむくのが、3時間。それぐらい皮が向きにくいのだ。皮が剥きにくいほうが美味しいと言われている。どういう訳か判らないが、うちの蜜柑がおいしい。自然農法のとか、どこの著名農家の蜜柑とか言われても、家の蜜柑ほどではない。もちろんよその人が食べればそうじゃないのだろとは思うが、それが自分で作る美味しさだ。

ジュースは保存である。これを出来れば暑くなるまで取っておく。夏に売れば、すごい商品になる。今あるジュースは大半が、濃縮還元である。味にも何もならない。その上、ブドウ糖果糖などと添加物欄に書いてある。ブドウなどといい名前なので、良さげだが、澱粉から合成するらしい。安いし、低温でも甘いからジュース類には良く使われる。100%の生ジュースも置いているお店もある。メグミルクが出している、農協ジュースの中の1品だ。りんご、蜜柑、桃だったかがある。一度でいいから較べて飲んでもらいたい。ジュースの味を思い出す。もうジュースも合成の味しかわからなくなっている。しかし、高くて売れないから、小田原では置く店が減った。そういう風に不況は近づいている。

小田原の傾斜地の蜜柑は、生ジュースで再生できる。かも知れないと思っている。海の見える蜜柑畑で、夏場に蜜柑ジュースを出す。そこは、摘み取り園でもある。できれば、オリーブや椿など、油の搾り取りも出来る。いずれ摘み取って搾る生ジュースもある。ミカンは摘み取ってすぐでは美味しくない。夏まで上手く保存するのが大切。お茶とも組み合わせる。お茶も飲める。ハーブティーもいい。これも摘み取り園の組み合わせがいい。簡単なランチとして、地場産野菜のカレーなども食べれる。やはり小田原だから、冬場はおでんも食べれる。もちろんダシは笹鶏である。考えれば考えるほど、小田原は恵まれている。これからの農業の見本になるような、条件がそろっている。そうだ、蜜柑ジュースの事だ。夏まで持たせる保存法だ。予定ではあと、20リットルは搾る。それで夏場飲んでみる。

昨日の自給作業:蜜柑ジュース絞り3時間 累計時間:12時間
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非正規雇用

2008-12-17 05:47:48 | Peace Cafe
派遣労働者を生み出した、改正労働者派遣法に問題がある。この法が在る以上、生産が下がれば、突然の解雇は起こる。法に従った処理であり、企業はその予定での雇用であった。道徳や正義を持ち出してくるのは筋違いだろう。雇用の問題は生きる基本の問題だ。職業に真剣に対面してこなかった労働者と、それを利用してやろうと言う企業の思惑の付けが来ている。労働組合の運動論が間違っている。労働者たる自己認識に欠けている。企業の繁栄が自分の身分保障にも重要であるから、非正規雇用を受け入れる判断をしたのではないか。こうした正規雇用の自分だけがよければよいという、組合の姿勢が、最悪の非正規雇用で生産を調整する企業を生み出した。それが日本企業の強さとして承認してきた。労働者の権利を主張しない姿勢が、企業の理念目的の変貌に繋がったのではないか。

強者をコントロールするのが政治の力のはずだ。今更ではあるが、特別な職種の一定の雇用期間、以外の非正規雇用を禁止するしかない。企業への解雇の中止依頼を政府はしているらしい。非正規雇用者が解雇された場合、先ず住宅がなくなる。それが外国人労働者だったら、どうなるのだろう。国に帰れで、済むのだろうか。弱者をより弱い立場に置き去りにした政策の結果である。報道も今更のごとく騒いでいるが、そもそもこの法が出来た時この結果が、予測できた。騒がないよりはましだが、この法を容認した、自らの反省の上に経たなければ、何も解決はしない。企業の圧力による政治の方向性のがこの状況を生み出した。日本企業の国際競争力が技術力や、先見性に基づかなく成り始めたのだろう。

改正労働者派遣法ができたのは、平成16年3月1日問題が起きる前に予知して、大きな衝撃にならないようにするのが、政治の行うべきことだろう。現在の大不況も、予知して対応するのが政治の力のはず。日本国の現在を、困難な所に導いた一番の責任は、ただただアメリカの言いなりに、グローバリゼイションに日本を導いてしまった。小泉政権である。イラク戦争において、原爆も大量破壊兵器も存在もしないのに、存在するとの思い込みまたは、虚偽に踊らされた日本。その巨額の戦費が、今のアメリカの経済破綻の元凶である。米政府によるイラク復興ですら、官僚的な縄張り争いや甘い見通しなどの結果「1000億ドル(約9兆1000億円)の失敗」に終わったと指摘する報告書の内容を報じた。復興内容を検証しているボーウェン特別監察官がまとめ、2月に公聴会に提出されるという。

それでは日本はどこに向かえばいいのか。このことを真剣に、国民一人一人が考えるしかない。政治家は自分の保身や野心で、国の事など考えているようには到底見えない。この苦境は国の方向を変える、大きな契機にもなる。失業者がいるなら、どうやって農業分野で働いてもらえるか。その仕組みを考えたらどうか。アメリカは巨大企業の救済に、税金を使っている。日本が失業者の為に、農業に税金を投入しても、問題はない。労働力に余剰のあるこの機会に、もう一度食糧自給率100%の国戻れる。本当の環境立国に立ち戻れる。間違ったグローバリゼイションから離脱できる。国民の間に、この国の未来に向けて、大いに議論が起こることを期待する。
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