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豊かさの本質

2009-01-31 05:01:21 | Peace Cafe
中学生の頃、「ニューギニア高地人」本多勝一氏の朝日新聞の連載を読んで、大きな影響を受けた。確かな記憶ではないのだが、カナダ・エスキモー、ニューギニア高地人、アラビア遊牧民と極限の自然の中で生活して居る人達と共に暮した記録を、新聞に連載していた。世界で最も幸せに暮しているのは、ニューギニア高地人である。一緒に暮したいと、書いてあった。それは柳田国男氏が民俗学を始めるきっかけとなる、椎葉村での充足し安寧に生きる人との出会いと重なった。「貧しいと言う事と、不幸とは違う。」人間が生きるそぎ落とした暮らしに、本当の充実があるのではないか。それは私が曹洞宗の僧侶として生きようとした、動機でもあった。道元の時代の僧侶は自給自足である。葬式とは関係がない。それは中学生のときから、今に到るまでほとんど変わりがない意識としてある。物に囲まれる他に与えられる幸せもあれば、生涯無一物というそぎ落とした、自立した充実もある。

「生を明らめ 死を明きらむるは 仏家一大事の因縁なり。」道元の正法眼蔵を明治時代にまとめたものの冒頭の言葉である。この明らめる、実は諦めるでもある。明からかに成れば諦めることができる。認識できた時に解決できると言う事でもある。と私なりに解釈している。資本主義経済は欲望の再生産によって成り立っている。それが人間の本質であるとしている。これは競争の原理であり、最後には躓く考え方ではないか。欲望には切りがない。物質的側面だけで考えれば、今の暮らしは、私の子供の頃で言えば、夢のような暮らしが実現されたはずである。それでも、あの戦後の時代でも今より幸せ感があったのは、過去のフィルターがけだけではない。物をあふれさせようと言う力は、物がないという飢餓感を煽る仕組みだ。もっと、もっと、隣の芝生を幻想させる。一代で大金持ちになった「ホリエモン」のようなモデルを作り出す。それ以外の人間は、まだ不足で不幸せであると意識させる。

アメリカでは3人に1人の人間が軍とか警察とガードマンとか、防備の仕事をしているそうだ。そうしなければ安心して暮せない社会。不安の拡大再生産。金持ちに成ればなるほど、安心できない社会。拳銃を防備の為に受け入れている価値観。世界を敵と見方にわけて、軍事力の増強を重ねる。こうした軍事競争の果てが、憎しみを育てて、テロを生む。この増幅現象をどこかで断ち切らない限り、人間は滅びる。その断ち切る理想主義が日本国憲法だと思う。まるでニューギニア高地人のような、現実とは思えない思いが、後にトランジスターラジオのセイルスマンと言われる国に、舞い降りたのである。この奇跡が起きたのは、我々日本人の贖罪の思いの表現であった。それは、ドイツ人のナチスへの反省と、同等のものと考えたい。大変なことをしてしまった反省として。世界平和の為に、軍事力を放棄し、全力で努力するので、許していただきたい。と言う思いだ。与えられた憲法であるにしても、この思いが根底にあったから、今まで平和憲法を守ってきたし。又、近隣諸国も受け入れてくれた。

しかし、実質的には相当変質している。資本主義経済のなかで、グローバリズムと言う、強者有利な競争を行う以上、止む得なかった成り行きに巻き込まれた。しかし、今の状況は限界を超えかかっている。地雷を踏んでしまえば終わりというような、実に危険な状況を歩んでいる。武力増強の結果必ず陥る、冒険主義である。今のグローバリズムの中心的役割を担っている日本の状況。次の社会に進む過程で、行うべき中期的目標がある。いつか、一国自立主義に到達した段階での役割もある。段階ごとに考える問題が異なって来る。むしろ経済やお金とは違う側面で、世界に貢献してゆくことが出来るはずである。お金がなければ何も出来ないと言うのは、資本主義的まやかしに与えられた幻影である。一国自立主義についても、もう少し言及しなければならないが、いまは、それは方角と言う事である。

1月の農作業 総計5時間詳細は明日。
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麻生総理の所信表明演説

2009-01-30 04:34:27 | Peace Cafe
麻生氏はなかなか話のおもしろい人だ。秦野のJCでの講演会のビデオを見たが、上手い話し手だと感心した。ちょっと裏麻生ファーンになりそうなぐらいであった。座談はさらに上を行くらしい。前回の小沢民主党を挑発した、所信表明はその片鱗はあったと思う。ところが今回の所信表明はなんともさえない、麻生らしさにかけている。いよいよダメかと思わせる空気だが、変じゃないか。「辞めるなよ」の野次が冗談に聞こえなかった。二度あることは三度あるで、又投げ出しになりかねない。と言って大事に扱おうと言う気には、到底成れない。これは国民の暮らしに関わることだ。麻生氏がおかしければ、みんなの明日に大なり小なり影響する。異常な経済情勢には尋常な対策ではだめだとの発言だが。ではどういう対策がいいのかと成ると、具体性がない。

変えると言う事は力説している。(1)世界最高水準の環境技術と社会システムの構築を目指す「低炭素革命」(2)最先端の医療研究の活用や、効率的な医療・介護サービスを実現する「健康長寿」(3)日本らしいソフトパワーをいかす「底力発揮」(日経)――これが麻生さんの変える方向らしい。再生に予算をかけるとは、発言している。国民がなるほど、こんな風に頑張れば、経済が浮揚すると納得した人は居ない。麻生氏が口にする、『低炭素革命』など宙に浮いている。誰がやってもダメなのだから、仕方がないじゃないか。こう言うレベルの受け止めじゃないだろうか。チェーンジの次はチャンスだ。この国を変えるチャンスだ。昔に戻ることはもうない。新しい経済の枠組みが見つかるまで、世界経済は長期低落を続ける。アメリカを中心にした、グローバリズムは崩壊した。中南米ではアメリカ離れ、ユーロ圏でもドル脱却が始まっているらしい。一心同体に見えたイギリスですら、アメリカと距離を置く。金の切れ目が縁の切れ目。

日本はアジア諸国との新しい経済の枠組みを模索すべきだ。これから中国の大混乱が始まる。中国が近代国家としては未熟であるのは、餃子事件でも良く判る。政治指導部が幼稚なのだ。まだ日本政府の方が、少し大人である。ロシアなども序々に成長はしているが、まだまだ人の事までは見えない、中学生くらいか。しかし、ソビエト時代よりは増しになっている。韓国、台湾を見ると、成熟度が相当のレベルに来ている。それは国際的約束を守る。とか、国民が自国の独善に流されない。世論形成が感情的反応だけでなくなる。領土問題などというと、それだけで張り切って、いきり立ってしまうのも同じだ。日本もそうなのだが、アジア各国も付き合えるレベルになってきている。衣食足りて礼節を知る。

新しいアジアの枠組みは、何も経済的ワク組み。つまりユーロのような枠組みでなくてもいい。アジアらしい、文化的な交流のワク組みの構築。互いの不足を支えあえるような、いたわりを基本にした結いとか、頼母子講のような枠組みなど、考えられないものだろうか。話がそれた、麻生氏の所信演説には、具体性がない。消費税の必要性など、国民の一定は認識はしている。もう少し、説得力のある、その先の事が知りたい。消費税を公共投資に回すとか、定額給付金の穴埋めに回す。これではタマッタモノデハない。自民党の玉虫色解決は日本人の知恵ではある。そうして妥協して、何とかバランスを取る。しかし、現状は古い手法の通用しない、尋常でない事態だ。具体色を決める必要がある。座談の名手は、風呂屋や床屋にも居る。何しろ日本国麻生総理大臣なのだ。
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テレビ番組の海外転送

2009-01-29 04:57:08 | Peace Cafe
NHKと民放9社が録画して、海外転送するサービスを著作権法違反として訴えていた裁判で、高裁判決はテレビ局側敗訴の判決となった。当然の判決である。他の同様の裁判でもテレビ局側の敗訴判決が出ている。録画ネットというサービスがあるようだ。海外に暮していてパソコンで日本のテレビを見る仕組みのようだ。ここに予約を入れると、パソコンにファイルで送ってくれるらしい。各テレビ局が主張する所の、何が悪いのか良くわからない。民放各社も著作権法違反と訴えている所からして、視聴料の問題ではないらしい。テレビを録画して、営利目的に販売していると言う、訴えなのか。録画ネット側の法解釈は、『私どもが販売しているのは「テレビパソコン」であり、私どもが直接提供しているサービスは「テレビパソコンの運用保守」です。』つまり、日本で変わりに録画してあげているのは、営業ではないと言う事を意味するのだろうか。全体の問題点が良く理解できない。

法的解釈論は判決が逆転している位だから、さらに素人に判ろうはずもないが、著作権と言ういつも気になる言葉である。水彩人展でも写真を映していいのかどうか。議論になった。当然私はかまわないと主張した。私のを模写したってかまわない。盗作してくれるなら是非して貰いたい。そういう考えである。大体描いた絵の版権のようなもので商売したいなどまったく思いもしない。勝手に印刷物にして、配ってくれれば、心からありがとうと言いたい。理由は簡単である。私の絵は、メッセージである。そのメッセージを広めてくれることは、感謝してこそ、怒る理由はまったくない。それで商売する人が居るほどなら、ありがたい。ある時、私の書いたものが、知らない間に印刷物に他の人の名前で出ていて、驚いたことがあった。しかし、それも何らかまわない。抗議もしない。もちろん希望があれば、どうぞお使い下さいで、提供してきた。所が水彩人では、絶対に写真を取らせない、こういう人が居たので、撮影禁止になった。

テレビ局は度量がない。自分の制作したものに、本質的な意味で自信がないのだろう。良い本物を作れば、それはいかような形であれ、自分に戻ってくることだ。ましてテレビ放送は公共的な仕事である、テレビ局は本来自由にみんなに使わせればいいはずだ。それが基本。しかし、テレビで放映したものを営業的に利用されたのでは、テレビ局が成り立たない。その点では判る。その範囲で、営業権を犯さない限り、かまわないと言うのが私の見方だ。海外にいる日本人が日本のテレビを見たいと言う、そこにテレビ局は放送したものを送って居て競合する。その営業とぶつかると言う事はないようだ。資本主義社会では、利益と言うものがややこしい。「利益を出す権利」と創作物の著作権の関係が、作品と言うものの意味論から言えばおかしい。儲からなければ再生産できない。この仕組みがどうもいやだ。つまり儲からないもの、商品でないものは生産されていない社会。

少なくとも、芸術作品においては、そうした卑しい仕組みが反映したのではだめだ。だから、この時代を商品絵画の時代となずけた。自給生活を提唱する一つにはそのことがある。食べ物を確保すれば、自分の作品の販売で生計を立てようなどという、卑しい(そう言い切れば)要素が混入しない。純粋に芸術的魂に従い、制作できる。評価と言う事からすら、離れられる。商品というものは、おおよそは不用な物である。不用な物を、コマーシャルによるイメージ戦略で、幻想を作り上げ、消費者と言う得体の知れない怪物に餌を食わそうというのだ。本当にいらないものがあふれている。だらから、一旦幻想が消えれば、車の売れ行きがしぼむことになる。家だって借金して建てれば儲かるなどと言う幻想で販売される。現在、私を含めて、絵画不毛時代だ。芸術などと言う言葉を語る者は少数派である。
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小田原市の「市長への手紙」制度

2009-01-28 05:58:26 | 環境関連
昨日、小田原市から手紙が来た。市長への手紙の返信であった。ごみ問題に対する、小田原市の方針を聞く為に、メールで市に意見を書いた。内容については、このブログにあるものとまったく同じだ。1、広域化の現状について2、今後の行政の進め方について、3、ごみ会計について、4、住民参加の方法について、この4つについて、相当に長い文章を送った。どういう対応があるのか。楽しみに待っていた。加藤さんと、市長と市民と言う形で、対応したいと言うのがある。それを超えては接したくない。友人としてのけじめだと思っている。以前、城下町サミットを小澤前市長が提案した時、市長への手紙を出したことがある。「小田原で世界に呼びかける理由がない。彦根とか、弘前とか、金沢とか、相応しい町は幾らでもある。もしやるなら、その前に城下町と言える、体裁を整えるべきだ。そうでなければ、市民として外国の来客に恥ずかしい。」

やるべき理由の返信は来たが、まったく納得は出来なかった。が、返信があったことは1市民としてちょっと嬉しかった。今回の市長の返信によると、1、生ごみを資源として捉える重要性。2、市民参加の検討会の早急な設置。3、ごみ処理広域化については、各行政の調整のため、まだ市民に公開出来る段階でない。おおよそそんな返事であった。ごみ会計に対する、回答がなかったことを除けば、おおむね納得できる回答であった。ごみ会計はやる気さえあれば、いつでも出来ることだ。既に取り組んでいる行政は相当数に成ると聞いている。環境省もやるように準備していることで、特に広域化する前に、ごみ会計を共通の土俵に乗せる。それは広域化の基礎調査として、行わなければ成らないことである。市議会でも例の「前向きに検討する。」と言う回答になっている件である。

一番の住民参加について、早急にやると言う回答は、嬉しい限りである。ごみは住民自治の一番の教材である。良いも悪いも住民に跳ね返ることだ。これから増加してゆくに違いない、ごみ処理費についての住民の考え方が大切だ。今の暮し方では、環境破壊をしてゆくだけ、費用負担をするか、暮らしを変えるか。そう言う事が生きている以上誰もが問われている。「そんなの関係ねぇー。」という市民が70%を超えるだろう現実がある。だから、この現実を変えてゆく仕掛けを作ることしかない。それには、草の根的住民参加を作り出さなければ、解決はない。悲観的なことではない。むしろ、ここに住民自治の原点が存在するはず。ごみから掘り起こし、住民が地域で暮すことを再構築出来る可能性がある。施設を作る。道路を作る。こう言うプラス問題より、ごみのようなマイナス問題の方が、暮らしの現実に響いてゆく。

行政は既にごみ問題では、出発の姿勢で失敗している。広域化の是非と言う究極の選択に対し、住民は無視されている。何も知らされていないし、選択の余地もなかった。当時の小澤市長は迷惑施設については、行政の責任で行う。この姿勢であった。今も担当部署はその残像が残っている。迷惑施設だからこそ、スタート前から、住民に知らせなくてはならない。市民自治においては当たり前の事だろう。迷惑なことを、突然押し付ける手法が、行政の姿なのでは、対立構造を行政が作り出そうと言う事だ。長年の行政の経験から出た結論ではあろう。それが大人の知恵と言う考えも理解は出来る。しかし、もしそんな押し付けが久野地域で行われたらば、どんな紛争に繋がるかは、今までの歴史を見れば理解できるはずだ。結論を出す前に、住民ともども、ごみの事を考える。遠回りでもこの方法しかない。その為には、今やることがいくつもある。それも市長への手紙には書いた。
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朝青龍の優勝

2009-01-27 05:52:49 | 身辺雑記
相撲ファーンではあるが、なかなかその時間テレビが見れない。NHKを見ないことにしているので、相撲が見れるのは風呂屋にその時間行けたときだけだ。サウナのテレビで、大相撲が観戦できるのは、極楽のようなものだ。しかし、今回の朝青龍の千秋楽の白鳳との結びの一番、それに続いた優勝決定戦。これは、見ものだった。何度でも、ニュースでやるので、頭にこびりついている。近年まれに見る名勝負であった。名勝負になるには、やはりそれにいたる物語が必要。大相撲は昨年一年散々であった。朝青龍ほどの名横綱が、ここまで言われるのは、どう考えてもおかしい。態度が悪いとか、マナーが良くない。日本の伝統を理解していない。確かに腕が痛くて、地方巡業を休んだ。そのはずが、モンゴルでサッカーをしていた。これは良くない。大相撲はタニマチとかご贔屓で成り立っている。

昔、大相撲の巡業が山北のほうに来たことがあるらしい。この興行を引き受けた人の話を聞いたことがあるが、それは費用のかかるものらしい。この不景気で、巡業が出来なくなって、短縮になるらしい。行くはずの横綱が、休んでモンゴルでサッカーでは、巡業が成り立たない。それでは大相撲自体が成立の基本が揺らぐ。そこで朝青龍は、謹慎処分と言う事まですすんだ。稽古と称した暴力で、若い力士が死亡するという事件も起きてしまった。外国人力士のマリファナ所持。それに便乗した、八百長疑惑騒ぎ。全ての鬱憤が、朝青龍に集中してしまった感がある。相撲好きの1人として、いい相撲が見たいと言う事では、今年の初場所はいい相撲が多かったと思う。良い相撲をとるしか、道はないという事に力士達が気づいた。

朝青龍がパッシングにあった姿を見ると、日本の社会がとても悪い状況であることがみえる。モンゴル人であること。日本の力士を寄せ付けないこと。それが引き金となる原因は、日本人の追い詰められた、余裕のない精神状態があると思われる。東京オリンピック柔道で神永選手がヘーシンクに敗れた時と較べてみる。神永選手を責める空気はあっても、ヘーシンクを非難する空気はなかった。むしろ、敗れた神永選手を気遣い、喜びのあまりマットに駆け上がろうとする、コーチを厳しい顔で押しとどめた。後にヘーシンクはプロレスラーとして、日本のリングに上るが、柔道の姿を守り、プロレスを理解できないまま、選手としては大成できなかった。心技体、と言うがむしろ、ヘーシンクの方が柔道精神を深く理解していた。それはオリンピックに優勝して、総合格闘技に進みたいと言う、日本選手を見ると、日本人に失われたものが見える気がする。

モンゴル人である、朝青龍にはモンゴル流の相撲精神と言うものが、失われていない。決定戦の後思わず両手を挙げたのもそこからきている。彼に日本の相撲道を伝えられていないのは、相撲界に既に相撲道というものが、希薄化した、形骸化した結果である。オリンピック優勝者が総合格闘技に進むなど、まるで柔道を違った形で考えているようだ。スポーツでなく、武道として、武士道として、修養の道と考えてきた、伝統としての何かを失っている。強ければ良い。これがスポーツの精神になってしまったら、スポーツは精神を蝕む可能性もある。朝青龍は最後の仕切りが終わると、左腕を大きく空に上げて、力強く羽ばたくように、振り落とす。なかなか美しい形となる。これはモンゴル相撲の鷲の踊りから来ているのだと思う。江戸時代、独り相撲の芸能が存在したと言う、特に負け方の見事さが、讃えられたと言う日本文化。
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コッコ牧場の引越し

2009-01-26 07:07:58 | Peace Cafe
こっこ牧場は小田原で始まった、路上生活者の生活再建の活動として、始まった。やっているのは杉山さんと言われる、小さなおばあさんのクリスチャンだ。ダチョウの飼い方を教えてもらいたい、と言うのが最初の出会いであった。ダチョウは飼った事がないので、その時は山北で飼っている人がいるので紹介した。所がその方が、病気をされたとかで、ダチョウを飼っていなかった。それで、なぜダチョウの事が知りたいのかと言う話になった。路上生活者の生活再建の為に、ダチョウを飼うというのだ。場所も無い、資金もない、協力者もいない。良くこんな不可能なことを考えたと思ったが、テレビで今後良い仕事だと言っていたと言うのが根拠だ。やったこともないことに路上生活の人を巻き込むのは、良くない。まず、自分がやれることをやってみて、上手く行ってから路上生活の人に呼びかけたらいい。こんなことを話したのが、たぶん10年は前になるだろう。

その後、畑をやりたいので、教えてほしいと言う事で再度訪ねて見えた。聞いてみると中井の方の山に畑が借りられたから、そこで農業をやると言うのだ。そんな遠い悪条件の所では、農業は出来ないから無理だと。よくよく、説明したが、始めてしまった。その後しばらくしたら、早川のやはり山の中で、蜜柑畑の跡地を貸してくれるという。そこで今度は養鶏をやりたいので、教えてほしいと言う事だった。見に行ったが、何しろ急坂を歩いてしか入れない所だ。これでは無理だから止めるようにいった。やるなら、もっといい場所を紹介すると話したが、始めてしまった。その頃は城山にアパートを借りて、路上生活の人たちが共同生活をしながら、養鶏と畑をやっていた。到底無理だと話していたので、あまり教わりにはこなかった。どうも、黒磯の方でやっている、牧師さんにやり方を教わったようだ。しかしそのやり方では、経費がかかりすぎて、経営どころか、持ち出しばかりのはずだった。

その後、入れた雛が、コクシジュームにやられて、何とかしてほしいと言う事で、指導することになる。私の所にそれでは、研修に来るようにと言う事になる。何度か訪ねて見えたが、素直に教わろうと言う人がいない。このようにやりなさいと言っても、あれこれ理屈をこねて、面倒なことはやろうとしない。そのうち杉山さんと大喧嘩になる。歩いてしか登れない悪条件だから、結局、笹村のやり方では無理だと言う結論になる。今度は農地を借りて、野菜を本格的に作りたいと言う事になる。中井の畑を返すなら、捜してあげると言う事で、荻窪に素晴しい条件の農地を4反見つけて、NPO法人化して、正規に借りようと言う事になる。農の会で経験があったので、NPO化を行って、私は理事になる。NPOなら内部の風とうしよく成ると考えた。その頃には、城山のアパートから、早川に移っていた。

NPO化して、早川で本格的に展開を始め、10名を超える共同生活になった。実際の生活はある方の土木作業で働くことで、生計を支えた。この頃の3年ほどはある意味順調で、自立できる人は自立して行った。ところが、障害のある人が残るようになった。全員が平等の共同生活だから、収入のある働ける人と、働けない人、がいる訳で、働ける人にしてみると、何で自分が面倒を見なければならないのか、不満が出てきた。徐々に働ける人はいなくなった。働ける人がいないから、どんどん苦しくなった。畑は荒れてしまう。養鶏は出来なくなり止める。早川の宿舎を出ることになる。この間行政の支援を様々な形で、お願いするが、対応はしてもらえない。ある意味障害者施設なのだと思うのだが、形が変則である。住民票すらない人もいる。最近、S地域にやっと次の宿舎が見つかって、引越しをしたと言う連絡があった。荒れているが、畑はまだ、8反ぐらいやっている。この先どうして行けばいいのか、悩む所である。しかし、電話の杉山さんはまったく、明るく楽観的で、キムチの材料を作りたいので、下大井の方にも畑をさらに借りたいので、紹介してもらえないかと、言われていた。
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子供の仕事

2009-01-25 08:01:43 | 身辺雑記
毎日新聞によると、文部科学省と内閣府は、不登校と高校中退の経験者約3300人の4年後の意識や就業状況などについて、緊急の追跡調査を行う方針を固めた。ニートなど若年無業者(15~34歳)は62万人で、フリーター(同)は181万人。不登校の小中学生は2年連続増の12万9254人で、中学生の不登校の割合は2.91%。高校中退者は7万2854人。同様の調査が、99年93年と過去2回行われているらしい。調査と言っても都道府県の協力で、書面アンケートを行うと言う事らしい。体力テストでも感じたが、一体調べて何をしようというのだろう。想定するとするなら、不登校の児童生徒は、フリーターやニートになる。と言う事を把握したいのか。体力がなくなっている程度の事なら、無神経に行っても許されるが、無目的に国がこう言う事をやってもいいのだろうか。

と考えるのは、実はタイミングと背景が悪い。「派遣切り、期間労働者の解雇。」この問題が見える。財界や麻生首相の主張は正規雇用を避けたがる、若者の傾向をクローズアップしようという、意図がどこか見え隠れする。今起きている社会現象を、企業や政治の問題ではなく、個人的な人間のタイプとして処理しようとする。社会の必然的に生じる、人間の性向としての不可避な問題に摩り替えようという意図が見えなくもない。勘繰りかもしれないが、自己責任の回避傾向が政治にも、官僚にもある。100年に一度とか説明して、自己責任を逃れる。不登校の生徒は、正規雇用社員にはなりがたらない。学校や文部省、まして政府にはどうにもしょうがない個人的問題なのだ。こう言う事を言いたいがための調査になる不安がある。

問題は、日本という国が目的を喪失したことにある。目的を喪失した結果、お金だけが共通目的として、登場した。ホリエモンが自民党から立候補した事が象徴的だ。子ども達は本音で観察している。「金持ちが偉い」こう思っている子供が沢山居るように思う。明治時代は「末は博士か、大臣(大将)か。」が価値観。その影響か、博士には憧れがある。今や大臣よりお大尽であろう。そうした社会の傾向の中で、格差が広がってゆく。戦後狭まってきて、60年代は格差がなくなるのではないか、日本独自の修正された資本主義が作られるのではないか。こう言う幻想がうまれた。ところが、資本の方向はむしろ、グローバリズムの中で、国家目的を越えた利益の追求が生れる。企業税を高くするなら、企業そのものを外国籍にしてしまうというような、選択。政治も企業の脅かされるように、徐々に格差を広げる政策を選択する。優良企業が外国に出て行ってしまったらどうする。こんな言葉を聴いた。

日本という国は一体、何を目的にしてきたのだろうか。金儲けの前に、資本流れである利益追求の前に、国の目的を見失ってしまった気がする。その結果が、ニートであり、フリーターではないか。経済危機といわれたとたん、日本社会全体がフリーター化してしまったようなものだ。お金にならなくても、働きたくて働く。そういう仕事はどこにもない。仕事が人生の目的とはならなくなった。仕事で得られる金銭的価値だけが、重要なことになった。金銭的な成功者と敗北者の2極化した社会がさらに強まる。こう子ども達は感じている。政治や行政は、社会はここを変えなければならないのだろう。「子供の仕事は人生の目的を見つける事。」これは父に繰り返し言われたことだった。
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インフルエンザ

2009-01-24 05:55:58 | 自然養鶏
インフルエンザというと、鶏の方と人の方の二つある。両方で気になる情報が出ている。鶏の方は幸いなことで、韓国でも、もちろん日本でも発生がこの冬はまだない。中国では山西省、湖南省で今年始めに3人の感染が確認されている。これで中国の感染確認は34人目で、死亡者が22人と言う事である。現在ネパールで鶏の集団感染が起きている。しかし中国では鶏の感染は発表されていない。にもかかわらず、1月6日7日と人感染が起きている。どこから来たのか気に成る所である。鳥インフルエンザについて、今後どんな展開があるかは先進事例がある。インドネシアや中国である。中国ではここ1年なぜか鶏の集団感染がないままに、人の感染が起きている。もちろん正確な所など誰にもわからないが、世界では騒ぎになっていら6年間397例が確認されている。徐々に減少してきている。しかし中国の問題は気になる。

それは鶏の発生がないにもかかわらず、人の感染が起きている背景は何か。中国では鶏に対するインフルエンザワクチンがある。一年ほど前にカラスへの感染が香港であった。その後も鶏への感染は報告がない。ワクチンを使い始めると、どうなるかも中国について、正確な追跡調査の必要がある。そうした環境下で人の感染が続いて見つかて居る理由は。何が起きているのか。ワクチン由来と言う事は無いか。可能性もないか。もし、これがワクチン由来であると、大変複雑な厄介なことになる。自然というものには、厄介な病気でも吸収してしまう力がある。ウイルスの突然変異と言う事は、繰り返し起きてきたことで、生命の発生以来何百万回も起きていることであろう。それを自然が様々な、例えばその感染する宿主とも言える種類の生命が絶滅するなどという形で、収束を繰り返してきた。

もう一つの気に成ることは人のインフルエンザウイルスの変化での、タミフル耐性インフルエンザウイルスの登場である。これはたまたまの事でなく、必然の事と考えた方がいい。突然変異と言う事で、変異の理由はあらゆる所にあるだろうが、ウイルスというものは結構変異をするものらしい。わずかづつ変化をしているので、どこから感染が始まりどこに到ったか、などという追跡も後からできるらしい。この変異をしやすいという正確からすると、変異して、タミフルに耐性のものが、増える。こう言う事が一番推測できる。所が即座に「タミフルに由来する、変異ではない。」と言う事だけが根拠なく発表された。何かではないと確定するのは、変異の原因を探ることと同じくらい難しい。変異というものがなぜ起こるのか。このことがまだ解明されていない。

以前からタミフルはさしたる効果はない。効果があるとしても感染から、2日以内に服用した時とされている。10代の患者には基本的に使わないことになっている。現在、政府はこのタミフルを備蓄している。これに対する批判も強いこともあり、タミフルの耐性ウイルスの登場には神経質なのだろう。鳥インフルエンザが日と人感染に繋がるかどうかは、まったく不明である。今自然が吸収できるか。ウイルスがさらに変異して人感染に繋がるか。勝負が続いているのだろう。少なくともWHOが予測した、感染拡大の経路には進んでいない。まったくの予防措置すら取らない、インドネシアでも感染例は急速に減少していた。この理由も難しいのだが、タミフルを備蓄させようという、強い力が働いていることは確かだ。
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子供の体力低下

2009-01-23 05:44:41 | 身辺雑記
子供の体力が落ちていると、今更ながらのテスト結果が公表された。文部科学省の全国体力テスト。どうしてこんなことまで、全国テストをしないと気が済まないのだろう。調査に費用を掛るまでもなく、誰にも判っていることだ。もし、どうしても調査したいなら、調査した結果を利用して、具体的な方策を展開するぐらいの、先の計画を立ててからやって欲しい。中央教育審議会がスポーツ振興基本計画の見直しを提案した為に、こう言う事になったという。体力とスポーツという安直な連想が、おかしい。むしろ、作業の時間でも授業に入れて、大いに農業をやってもらって、給食ぐらいは自給するようにしたらどうか。さらに家庭が行うことに、国が指図をするなどもっての外である。体力の低下の根本は、暮し方の変化にある。

多くの新規就農者に体力がない。体力不足で諦めざる得ない人が、沢山居る。自然農などと、草を取らない農法に飛びつく半分は、何もしないですめば楽だ。という思い込みがある。実際は自然農ほど、手のかかる体力勝負の農法はない訳で、そこで挫折する人はごまんと居る。近代農法は省力のための農法だ。体力がなくなったのは、暮らしの中で、体力が必要とされないからだ。会社や大学の試験に体力テストがあれば、すぐスポーツ振興になる。学問や社会では体力が基本だ。頭脳以上に体力が大事だ、と言う現実があるなら、そうなる。実際の所そんなことは考えても居ないのが、今の社会だろう。以前、自衛官の1500メートル走の平均タイムが、6分を超えていたのでまったく驚いたことがある。今はどうなのであろう。軍人でも体力は要らない時代かもしれない。インターハイの優勝タイムは3分台である。私は体力こそ必要だと思って、陸上部に入りひたすら走った。頭脳を鍛えるより、体を鍛える方が意味があると思ったのだ。

健康志向的なスポーツは大嫌いだ。スポーツをするなら、それを目的とすべきだし。体力不足解消にスポーツ振興。こう言う発想は人間の精神に良くない。定年帰農と言う事が一時言われた。団塊世代が退職期に入り、帰農するという提案であった。退職してから農業をやるなら、農と考えないほうがいい。園芸ぐらいにしておくべきだ。アーサーミラーの「チェリーブロッサム」を思い出す。私ももうすぐ退職だが、後は楽しもうとは思わない。いよいよ、本音でやってみようと思っている。一時間の草取りを楽しく出来るか、辛いと思うか。体力次第である。急に身体を使えば、腰でも痛めて、負担になるばかりだ。普通の農家なら、もう一線を退く60歳になって、新たに始めるのは、想像を絶するくらい大変なことだ。農家の方が子供の頃からの暮らしで身につけた体力は、まったく別物だと考えなければならない。夕方になってもいささかも疲労していない、農家の方はその体力で、人間国宝のようなものだ。

子供が運動をする環境を作ることが先だ。いまや、私の住む舟原で考えても、子供の遊び場や環境がない。山や川があるだろうといっても、その経験が伝承されていない。そうした子供の集団がない。今思い出して考えれば、子供時代やっていた遊びは今の子供がやれば、すぐに事故になるような危険なものだ。箒草を取る。これは山の中を縦横無尽に歩いて、捜し歩いた。度が過ぎた運動だが、売れたから頑張った。それでもつつがなく行われていたのは、そうした地域の伝統や暮らしが存在したからだ。大人の暮らしを地域から、離脱させてしまった。地域には子供を見守る仕組みがない。思い切って遊ぼうにも子供が安全に遊べる場がない。その結果が体力不足にでているのである。体力テストをやって、観念的なことを幾ら指摘しても仕方がないことである。全ては具体的な方策である。
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景気回復

2009-01-22 06:20:31 | Peace Cafe
景気回復ということばが相変わらず使われている。100年に一度の経済危機と言いながら、一方で景気回復をしたら消費税を上げるというようなことを、言う人が居る。今の世界状況の把握が違っているのではないか。100年に一度という決まり文句も、だから私の責任ではない。という説明に使われているだけのようだ。今起きている、経済の状況を考えれば、今までのような経済の仕組みに戻ることはもうないと考えておいた方がいい。アメリカを中心にした、グローバル経済が崩壊し始めている。先ず消費意欲の衰退と言う事が、顕著になっている。今までの経済は、必要不可欠なものが消費されるのでなく、あってもなくてもいいが、あれば便利そうだとか、カッコが良さそうだ、買っておけば値上がりする、と言うような作られた意識によって、無理に消費が喚起されてきた。気持ちが変われば、買わないでもすんでしまうような消費だ。

消費は美徳というような、儒教精神に反するような、価値観の転換を誘導し、消費が炊き付けられる社会。それは雇用の形態にも反映し、職業というものに幸せになる基本を見つける事が出来ない社会にもなった。職業が労働力の販売先としての意味しか見出しにくくなってきた社会。職業への希望そのものが、消費と同様に操作され形成される。もちろん選択の余地もなかった、江戸時代に較べて、生きることの自由度の拡大が進んできたはずであった。確かに戦後から70年代までは、そうした現実が感じられた。しかしその後の動きを見ると、本当の自由ではなく、枠の中での飼いならされた自由に変わってきた。消費という欲望も制御、操作される。生きるという実感が急速に失われる時代の流れ。日々生きるという困難を乗り越える、体験。こうした実体験から遠ざかる、日常感覚。

グローバル化という形で、世界一辺倒に作り上げられた、消費的価値意識。作られた消費社会の清算が始まっている。パリ以来の友人に、ファッション産業の人が居るのだが、流行を作り出す手法の事を伺った事がある。単純に図式にすれば、「この色Aを売る。その場合、裏としてBの色を抑え、AとBの為にCを使う。というような方式で、消費者の意識操作をする。」家を作らせる為には、新たな生活のステータスを形成しなければならない。人間の生き方のイメージ戦略。所が世界中が同じであるということは、本来おかしいことだ。無理のあることだ。特にイスラム社会では、生理的にグローバル化を受け入れられない価値が存在する。伝統とか独自の文化という背景が存在し、自動車というものを必需品として、暮すような世界共通に作り上げられた価値観へ揺り戻しが起きている。

アメリカンドリーム的豊かさからの、大量消費システムからの、価値観の変貌が始まっている。グリーンニューディール政策が世界で言われているが、これは今までの流れに対し、反省し、方向転換をしようと言う事だ。自動車に乗らないで暮すことが、ステータスになるような転換なのだ。これは大量消費社会の衰退を意味する。この転換では日本はたぶん一番遅れて転換する国に成るだろう。成功体験がここでは、大いに障害になる。ソーラーシステムの普及、省エネ家電の開発。こう言う方向は考えられるだろうが、省エネルギーの電気を使わない価値観が作れるか。
というような予測は、たぶん私の期待に満ちた展望である。バブルが崩壊したときも、同じことを予測した。所が、転換を出来ず、20年かけて問題を深刻化しただけだった。もし、ここで景気が回復するようでは、その先は大きな墜落になる。むしろ、景気は回復せず、やむを得ず、徐々に方向転換する方が、不時着できるのだが。
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オバマ大統領就任

2009-01-21 04:56:54 | Peace Cafe
オバマ大統領はアメリカの衰退を見届ける大統領になるだろう。そのことはアメリカの不幸かもしれないが、世界には良いことになる可能性は、わずかにある。ともかく、お金がなくなれば戦争は出来ない。ヨーロッパ各国はアフガニスタンから撤退する可能性が出てきた。アメリカと日本でアフガニスタンの(占領でなく?)平和維持活動を継続は出来ない。タリバンの支配になろうが、ビルラディンが大手を振って闊歩しようが、どうにも手が打てない状況が待っている。こう言う事をどう考えるかだろう。オバマ氏の就任騒ぎを日本のメディアまで大喜びで伝えている。ライブ中継までする放送局もある。麻生氏に期待してもだめだから、せめてオバマ氏に期待したいということか。北朝鮮は原爆については、世界が廃棄するのに併せて廃棄したいので、核保有国間で廃棄を協議をしたいと主張している。是非ともそうしてほしいものだ。

イスラエルはオバマの就任に合わせるようにガザの戦闘を中止した。そうする必要がイスラエルにあったとすると、オバマ政権はどんな約束をイスラエルと交わしたのだろうか。今後もイスラエルを引き続き支援すると言う事と思われる。中東からのアメリカ引き上げを阻止するガザ侵攻ではないかとは、開戦の時から想像していた。幸いだったのは、ハマスの誘導にシリアやイランやエジプトのイスラム原理主義グループが、参戦しなかったことだ。これは本当に良かった。そうなれば、原爆の投下まで可能性はあった。今回の戦闘を見ると、残念ながら、現実の国際情勢では原爆の所有が抑止力になっていることを認めざる得ない。北朝鮮は既に核弾頭を所有していることを、状況証拠として見せた上で、施設の一部廃棄を見せた。ウランの売却などは協議に乗る。しかし、原爆は放棄しない。

世界経済は変化をする。世界が環境重視の産業に転換することを目指し始めた。しかし、それは拡大再生産ではなく、縮小経済の流れを作ると言う事を意味する。一部の肥大化したような世界の経済が、一定のレベルまで縮小し、世界人口も激減し、収まる所に収まる以外、人類の不時着は出来ない。グリーンニューディールとはそう言う事ではないだろうか。それは人間にとって不幸なことではなく、まともな生き方に人間が立ち戻る道のはずだ。競争を止めて、それぞれの充実に向かう。この世界の変革に対し、経済のバブル再生可能としか、考えられないのは、オバマにしても本質は同じことだ。それはグローバリズムという、強者のみ豊かさを享受する結果になる。どんなにきれいごとを主張しようと、アメリカという強者が、有利になる結論が待っている。

イスラエル人はナチに虐殺された不幸な民から、パレスチナ人を虐殺するナチ同等の暴虐の民になってしまった。ガザは強制収容所だ。ホロコーストが続く。人間はこれほど学習することの出来ないものであるのか。絶望的になる。国家の大儀の前に国民の命は、何の価値も意味も持てない。こうした不幸から、脱却するには、一国自立主義しかない。経済を縮小させ、各国が自国の領土の中で自立する経済を目指すことだ。たぶんその選択を、人間は自分達の意思では出来なくなっている。キューバや北朝鮮が、やむなく選択した道である。日本ができることも少ないが、先ず食糧の自給からだろう。貧しくなる道程は苦しいが、平等であれば、不幸にはならない。
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議会質問

2009-01-20 06:12:06 | Peace Cafe
国会では補正予算案の審議が行われている。蓮舫氏がなかなかいい質問の仕方をしていた。日本では議論の伝統がない。「小田原評定、久野寄り合い」こういう言葉がある。何時までも話だけしていて、結論が出ないことだが「久野寄り合い」というのがつくのが、小田原言葉である。小田原評定以上に結論が出せない話し合いを意味する。しかしこの話し合いが長いというのは、日本人の知恵であって、戦争という急場には間にあわないが、普通の暮らしにおいては、とても良い審議の方法だったと思う。この言葉にはそのニュアンスもあるのだ。所が今の暮らしというのは、敵がそこまで来ているような、待ってくれないような事が続いている。それを百年一日のペースを想定した話し合いの習慣で対応しようというのだから、埒が明かない。

蓮舫氏の国会質問がとても良い見本だと思った。この人がどういう経歴の人なのか、よくは知らなかったが、中国人の父親で日本に帰化した人らしい。とても議論というものを理解している。問題化している、出産受け入れ体制が崩れてしまった今の産科医療の事を問題にしていた。少子化対策担当大臣小渕優子氏厚生労働大臣と舛添氏への質問は緊張感のあるものだった。今の状況を先ず共有させる。小渕氏のブログを取り上げ、まったく子育てについて同じ認識を持つと評価。出産の受け入れ態勢には600億円あれば先ずは整備が出来る。今の予算では600億円を3000円づつ子供の居る家庭に、補助することになるが、そのお金を使って、出産医療体制を立て直すほうが、緊急課題ではないか。こう主張して、小渕大臣も同じ考えなのに、なぜ、3000円のバラまきを選ぶのか。ほとんど小渕氏は立ち往生状態であった。内閣において何の発言も出来ない大臣であることが、想像通りであることが理解できた。返す刀で、舛添氏に予算の配分の不自然さをついていた。先ず基本精神を共有する。その上で、それならこの配分はおかしい。こうあるべきだと、鋭く指摘していた。

小田原の市議会質問では、ほとんどの議員が自分の考えを述べている。一体誰に向けて、自分の演説をしているのつもりだろうか。議員個々の考えの表明など、他でやってくれと、言いたい。行政の行う予算のあり方を、立案から執行まで、問い正すことが、質問の基本であろう。先ず質問の技術に劣る。「私はこんなことを考えております。」まるで中学校の生徒会の立候補演説のようだ。議会中継というものを時々見てみるのだが、今まで中継をしなかった理由が良くわかった。議会というものが、機能していなかったのではないか。議員と職員が馴れ合いで、舞台をやっているような雰囲気である。茶番劇である。丁々発止の緊張感がない。議会のチェック機能が働いてこなかった結果は、城下町ホールでよくよく判った。大半の議員が反対なのに、なぜあそこまで、すんなり進んだのかが不思議だった。誰も本当の所に気付いていなかっただけなのだ。

市議会議員の皆さんは是非とも、蓮舫氏の国会質問を研究して欲しい。短時間の中で、小渕優子氏が単なるお飾りであることを明確に、国民に印象付けたこと、舛添氏がきれいごとを言っていて、実質的には少しも実行できていないこと。このことを明確にしていた。その論議の流れで、もう一度麻生首相に定額給付金の問題が、いかに馬鹿げた政策であるか。念を押した。麻生氏の小ばかにしたような態度が、いかにも国民感覚から遊離しているかを、上手く演出した。何を獲得するかが、明確なのだと思う。市議会で言えば、もう少し具体的に、成果をあげる質問技術を磨くべきだ。この質問でどういう結果を出すのか。絞り込む必要がある。などなど、こんな所でぶつくさ言った所で、どうにもならないことだが。
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民間保険の工夫

2009-01-19 07:49:50 | 地域
鎌倉時代に発生して、江戸時代にほぼ究極の形まで発達した様々な、相互扶助の仕組みがある。これを現代に再生できないものだろうか。アイデアについては、難しく考えればあれこれ問題が想定できるが、本当に信頼できる人が20人居れば可能である。内山節氏が現代農業で提案している。内山氏は我が家に来てくれたときは、なにやら哲学をされているとかで、ほとんど発言もなく、瞑想に入られている印象があった。鶏小屋の隅で座り込んでいた印象の人だ。こんなに現実的な提案をされる人とは思わなかった。無尽というのはお金を出し合い、落札する金融システムだ。実際には相互扶助的なものもあり、利息のないものや、困った人が優先入札するように他の者が入札しないこともある。単純に順番性のものもある。結いの方はそれを労働力を出し合うシステムである。

現代でも市民バンクのようなものは存在し、小田原でもデイケアーの「デイみどり」はWCCの融資で作られたものである。以前向田さんといわれる方のお話を伺ったが、「市民による、市民のための、市民による非営利・協同の金融システム作り」が3年前で融資実績が3億5千万円規模で行われている。野宿者支援からリフォームまで、市民的な融資が様々実践されている。身近で思うことは、もう少し小さな輪で、結いと、つまり労働提供と、お金の提供が、並立された形の保険のようなものが出来ないだろうかと言う事である。昔の無尽講でもお金の入札をしたものが、返済できない場合はあった。このときの救済方法に、出資者の代わって神社にお参りに行くというものあったようだ。お札をもらってくることで、返済金に換えるという知恵だ。

実際的な方法を考えてみる。30人が集まる。そのうちのだれかの所で、怪我でもしたとき、30人が1万円だして、30万円を治療費に充てる。しかし、現金で出すより、労働で出したいというものは、1日労働提供する。15日の労働提供と、15万円で、急場を凌ぐことになる。これは保険システムである。さらに加えて、毎年、1万円か、あるいは労働提供を積み立てておけば、いざという時に対応できる。労働提供を借りている人は、いざという時にお金で返すか、その人の分まで労働で返すことになる。ここまでは信頼関係さえあれば、案外に簡単に出来そうだ。どんな時に出すか。火事になる。子供が生れる。怪我をする。これらは既に農の会の中で実際にあって、形は違うが、それに近い形で行われたことだ。

私は今年、子供の生まれたトレスさんの宅配の手伝いをして、牛蒡を掘ってもらった。こうしたことを、全体で共有することは出来ないか。入院保険とか、学資保険とか、様々な考えられる限りの保険を企業が運営している。そのお金が軍事産業に運用されていると言う事だってある。お金に支配される関係から、お金を権力から引き降ろす活動。これがこれからの市民活動の基本理念ではないだろうか。家を建てる、土地を買う、建築資金を銀行から借りる。こう言う事でお金に支配される。これを自分達の力量に引き戻す。この道を作り出せれば、市場原理主義の資本主義社会と一定の距離で生きる事が出来る。今後、とても混乱した状況が生れる。その中で次の社会の理念を模索する。自給すると言う事の精神はそこにあるのではないだろうか。
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三つの市民運動

2009-01-18 07:19:30 | Peace Cafe
現在、小田原における三つの市民運動に関わっている。一つは久野の里地里山協議会。二つ目が、小田原有機農業協議会。三つ目が市民ゴミ会議。どの活動も市民がと行政がどのように連携をとるかが、模索されている。今日は里地里山の集まりがある。この活動の内実的な意味での、活動をまとめたのは、神奈川県の里地里山条例の制定がある。県の条例を作り、実際の活動を取りまとめてゆきたい。こうした県の考え方が、根本にあったのかと思う。当初は先行的な取り組みとして、条例ではなく、モデル地域のような形で事例が積み重ねられていた。その中で、小田原久野、荻窪地域が有望な地域として、取り上げられた。そして小田原市と県が合同する形で、地域住民に呼びかけがあった。この呼びかけ方が今の枠組みに繋がっているのだが。広く平等にではなく、行政の把握する可能性のある市民に声をかけると言うやり方だった。

既にいくつもの里地里山保全的活動が存在していたが、関係者でも声がかかっていない所もある。まったく知らないという人も居る。この辺りが市民活動と地域の地元組織との関係という当たりが微妙に難しい。私はこの地域に住んで、市民活動的に里地里山保全に取り組んでいるという、両者にまたがっては居るが。基本的に外部者である。江戸時代からこの地域で、暮してきた方が、地域の人である。この辺りは実に微妙な所で、良い保全活動にするためには、外部者はその点の深い配慮がないと、活動が盛り上がらない。又一方に外部者の無神経でもある、先走ったような動きが、活動を推進することもある。ともかく良いバランスと深い読みが大切。要するに市民活動と農業者の関係である。市民活動の人間は平気で、管理されない人工林とか、耕作放棄地とか言い放つ。地元農業者にはたまらない言葉だ。

有機農業推進協議会は加藤小田原市長が代表を受諾してくれた。副代表にジョイファームの長谷川氏と自然農法の石綿氏が就任してくれた。ほぼ骨格が出来た。農協や、農業委員会でも、一定の距離で協力して頂けることにもなった。この会の目的はあくまで小田原の農業の活性化だ。有機農業という名前が、利用できるなら利用しようじゃないかというのが、これが本音である。小田原の農業の活性化の為に、有機農業とか、市民参加とか、新規就農とか、既存の農家の人に役立てる形を見つけたいだけだ。めだか米というものがある。こうの鳥米と同じで、めだかの保全と言う事を建前に掲げ、地域の農業に利益をもたらす、道を探ってきた。メダカのいる地域では、メダカの為に少し農法を協力してもらう。その代わり、有利に販売できるよう協力する。それ以外何も他意はないのだが、農協や地元農業者には、まだまだ理解をされていない。当然の事で、我々のやり方の方に配慮が不足している。

ゴミ市民会議この活動が一番進まない。昨年が一番重要な一年と考えていたが、時間が過ぎるばかりで、市民活動として何も進まない一年だった。ゴミ問題のような、迷惑施設がかかわる問題での、市民参加への考え方だ。ゴミは企業的なかかわりも大きい問題である。ある意味景気対策であったり、雇用問題であったり、企業社会の論理と、市民社会の論理の、大きなぶつかり合いが起こる。この2つの座標軸が、問われている。例えば、大きな溶融炉を造ることは、産業政策である。(この内容は深いので、又まとめて考えたい。)所が市民社会の論理では、暮らしのあり方とゴミという形で、生活の基本に結びつく、生き方の事となる。ダンボールコンポストは究極のゴミ処理施設だ。こう相原さんが言っていた。さすが、これも深い意見だ。ごみ処理の為に養豚を考えた人だけの事はある。何としても、ゴミ問題を切り開きたい一年だ。
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ジャーナリストの精神

2009-01-17 04:49:45 | Peace Cafe
報道人のモラルとはなにか。考えさせられる事件の裁判があった。奈良であった少年による「家族放火殺人」を「僕はパパを殺すことにした」という本で、少年の供述調書をコピーしそのまま出版した問題だ。その少年の精神鑑定を行った崎浜医師の調書を無断でコピーし、本にしてしまった。そのままであるから、当然崎浜医師が情報源であることは、誰にでも判る。果たしてこの行動は正しいのか。草薙厚子という人は報道の精神を判っているのだろうか。裁判で草薙氏は調書は公文書であるから、公開すべきという意見を述べている。この考えが既におかしい。少年による事件であり、全ての調書を公文書として、公開するという根拠は、報道人として、プライバシーについての考え方なのか。まして、週刊現代の記者と同行し、崎浜医師の留守の間に、許可なく写真撮影をした。そしてそのまま発表してしまった。この人のブログにその考え方が出ている。本当に本人のブログなのかと心配になる感覚である。

この人は本当にこの少年の起こした、放火殺人事件の背景を伝えたかったのだろうか。自分が目立ちたかっただけに思えるのだが。有田芳生氏は草薙氏の著作がなければ、少年が放火にいたる原因は解明されないと主張している。つまり父親の異常ともいえる暴力が、この事件の背景にある。自分のあとを継いで、医師にさせたいという思いと、離婚した少年の実母への、見返したいという気持ちによって、尋常でない暴力を振るって医師にさせるべく勉強を強制した。その事実をジャーナリストとして、伝えたいと考えるのは正しいとする。一方的な調書が全てとは思えない。それが例え少年による犯罪行為であったとしても、調書の公開は正しかったとする。おいおい待てよだ。何か間違っていないか。この放火殺人事件の注意深い報道からでも、その程度の想像は調書など見ないでも普通の人間ならだれでも想像できる。私はそれ以上の興味本位名細部を読む気もないが、この本が出た後でも、事件が起きた時からの想像範囲を超えては居ないと思う。草薙氏は、単なる虚栄心の強い、売名行為の人と見ていい。

草薙氏は居直ってその取材源を法廷で証言することも、ジャーナリストとして正しい行為だと主張する。そのことによって、崎浜医師が無罪に成ると考えている。つまり本人が知らない間に、盗んだのだ。こう言う考えらしい。自分が盗んだのは公文書だからかまわないと考えるらしい。まったくジャーナリズムの何たるかも知らない人だ。元法務官という立場を悪用して、精神科医の無用心な態度の隙をついて、鑑定調書を無断で写真撮影する。もちろん許可なくそのまま本として出版してしまう。当然の結果として医師が告発される。そうなれば、平気で取材源の医師の名前まで証言してしまう。ちょっとひどすぎないか。こんな人物を擁護する、有田芳生という人もいったいどういう人だろう。又取材源を公表することで、精神科医の無罪が勝ち取れるという論理らしいが、正当なものか意味が理解が出来ない。単に証言拒否をして、自分が罪に問われることを避けたのではないか。

ブログでは、浜崎医師以外の人からの情報源は見えないように書いたと、自慢げに書いている。その精神があるなら、調書をそのまま出すという雑誌の編集方針になぜ拒否をしないのか。「重大な少年事件が発生すると、直後には洪水のような情報が氾濫するが、一ヵ月も経たないうちに収束し、やがてまったく報じられなくなってしまう。その理由は少年法の壁に遮られ、取材者が情報を得ることができなくなるからだ。」としている。私は違うと思う。社会というが、すべてを飲み込んでしまうものだ。確かに残念な場合もおおいいが、その調整が出来なければ、人間というものは生きていけない。忘れたように見えても、神戸の少年事件。あるいは、受験生父親バット殺人。というだけで、あれではないか。と、とても辛い事件として、忘れられない人が多いいと思う。忘れてはいけないが、誰だって忘れたいのだ。
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