地場・旬・自給

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欠ノ上田んぼ始まる。

2012-01-31 04:08:40 | 自給
自給の田んぼは10ほどのグループに分かれている。昨年まで舟原田んぼでやってきたが、今年から欠ノ上田んぼの代表として参加する。舟原田んぼの代表を木村さんが引き継いでくれた。欠ノ上の代表だったIさんが辞めたので、そちらが手薄になり移ることになった。身を切られる思いだ。日曜日に初めての作業があった。11人の人が参加した。穂田さんがユンボをもってきて協力してくれた。2日かかると考えていた作業が半日で終わった。今年一年このグループで精一杯頑張りたいと思う。中心となるメンバーはほぼ確定して来たので、良い田んぼになりそうである。この田んぼは条件が良い。自慢になるが農の会の田んぼの中で、一番良い条件だと思う。久野川沿いで環境が良い。駐車も傍の山聖さんの協力の御蔭で何とかなる。何より水の取り入れが充分に出来る。昨年の渇水期でも水が足りないということはなかった。さらに土壌が棚田にしては良い。昨日は耕していて、思わず嬉しくて笑いが出た程である。昔からの土を移動しないで済んだ所はとても良い土壌。

この田んぼは、江戸時代の初めには作られていたと思われる。水路が山の中を1キロから2キロほど掘り抜いて通されている位だから、田んぼに対する気持ちは強かったと思う。欠ノ上集落には、観音堂と言うなかなか味のある古いお寺がある。子の神社と言う立派な神社がある。この集落が力のある地域であったことは確かだ。少し田んぼから話がそれるが、久野はあしがら平野に流れ出る、久野川沿いの谷あいの地域である。その出口が下宿、少し上って中宿があり、上宿は無いのだが、坊所がそれに当たるのではないか。その意味で箱根への道は坊所から、つながる。欠ノ上、舟原は久野川本流沿いで有りながら、どうも別の感触がある。一番上の舟原は山の入り口で、むしろ山仕事中心の豊かな村。その意味で一寸木の苗字が多い。欠ノ上は田んぼや水力を利用した、農業中心の実力のある独立した地域ではなかったか、欠けは崖であり、崖の上に位置する地域。その意味で、諏訪野原台地への斜面から丘陵の全体へのかかわりがある南斜面に広がる地域。

その地域がどんな歴史風土を持つかは、田んぼと関係がないようであるが、田んぼと切り離すことはできない。田んぼが命だった農業地域であるということは、田んぼをお借りするということは、気持ちの上で疎かに出来ない。自給の田んぼをやるということは、農家以上の覚悟が必要である。この田んぼのお米以外には食べない。そのくらいの真剣なものでなければ、許されるものでない。いくらでも格安にお米が売られるている世の中だ。それを買わないということは、よほど強い気持ちが無ければできない。何故そんな原理主義的なことを言いだすかと言えば、土と言うものに申し訳がない。田んぼ土は自然に出来たものではなく、人間が育て上げた粘土質の人工の土壌だ。棚田に置いてこの土壌を作り出すことは、それだけに生涯をかけた人が居ると思わなくてはならない。

有難いことである。こんなに素晴らしい田んぼで耕作をさせてもらえるなどと言うことは、身に余ることである。能力は無いとしても、全力であたらなくては、許されるものではない。地域の人に対してということもあるが、土の神様に申し訳がない。丘の上から見てくれている、子の神様に申し訳がない。観音堂の観音さまに申し訳がない。他所から来た我々のような他所者が、自給の田んぼができるということは、過去の日本人の歴史にはなかった、驚くべきことである。未来に引き継ぐと言う役割があるから、こういう稀有なことが可能になった。田んぼからいただくものには様々なものがある。日本人が田んぼで学んだものを失ったから、日本人の能力低下が起きた。田んぼの水をどう確保するか。これは安全保障だ。武力で、軍備で守るというようなことではうまく行かないという事を、百姓は知っていた。

昨日の自給作業:田んぼの冬起こし7時間 忘れていたもの果樹剪定4時間 累計時間:15時間
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水彩人同人展

2012-01-30 04:19:24 | 水彩画
2012年2月7日(火)~16日(木)銀座の「ギャラリー一枚の繪」で同人展を開催する。同人18名が3,4枚の絵を出品することになっている。絵は現在小田原のアートポイントと言う額屋さんに出して額装してもらって居るのだが、タイミングが悪く取りに行けなくなっている。何とか今日中には発送したい。絵を描いているということは、自給生活の一環である。自給生活は仙人生活ではない。表現するということも含んでいる。絵を描くことはこのブログとほとんど同じことである。願いのようなものだ。文章とは違う形で、考えている事を絵にしている。当然原発事故以降の日本の現状を描いている。しばらくは絵を描けない日が続いていたが、何とか昨年の暮れあたりからは、少し描いている。絵が描けないということは、捉えきれないということだろう。文章は書いているのだから、絵と文章は似ていてやはり少し違う。わたしの絵の描き方では、分からないことは描けない。文章の方が混乱の状況を書きやすい。

何故か、私の絵の描き方では、結論が分からないことは描けない。私が描いているものが絵と言うジャンルであるのかどうか。正直自分が描くものが絵という芸術にかかわるものとまでは言えない。だから、発表するということはとても申し訳がない。それで個展と言うものは出来なくなった。文春画廊で生前葬のような形で行った個展を最後にした。今は、恥ずかしながら、まだ何やらを描いているという状態である。水彩人展は研究会であるから、許していただこう。と言うことである。その意味で画廊の方には、本当に理解していただいている。お詫びが先に来る。絵を販売してそのお金を支援に回すというのもあるだろうが、私の絵は売れる様なものではない。わたしの絵で気分を紛らわす事が出来るなら、福島の方に差し上げたい。そんな気持ちで描いていた。

絵は描く人と見る人とが居て成り立つ。ただ描いているというのでは、絵ではないと考えている。絵によって、自分と他者とに向かってゆく。この明確な意思をもつものこそ芸術としての絵画だ。自分の内部に向かって行くのだが、その根底で人間そのものにぶつかる。人間全体の本質に直接ぶつかり合うようなものでありたい。絵画は誤解されている。絵は事象を説明するものではない。心情や気持ちが図式として、こんなに悲しいですよとか、こんなに嬉しいですよとか。説明が現われて来るのであれば、それは絵画ではない。具体的に書けば、赤色を画面一面に塗るとする。赤は血を表しているかもしれない。赤い花かもしれない。太陽かもしれない。命そのものかもしれない。そのすべてかもしれない。そう言う意味を越えて、自分の奥底にある赤色として、赤を塗りこめながら、その表現者としての内包するすべてを総合したもの、飛躍し直結する赤色として表す。この感触は描くものでなければ伝わらないかもしれない。ある種の妄想のような世界だとおもう。

この醍醐味が絵を描くと言うことになる。説明でなく、意味合いでなく。目が見て、「ああ、あ・・・」と深くしみ込んできたものを、沁み込んだ形のままに、ただ再現して行く。この感じは絵を見てもらうしかない。出来ているかは別にして、そうやって絵を描こうとしいていることだけは確かである。もしかしたら伝わるのかもしれないという期待がある。残念なことはわたしという人間の底の浅さである。浅さがもろ出て来る。こういう目で、マチスの絵を見るとその人間の豊かさに驚嘆する。絵と言うものが素晴らしい芸術的方法であると言う気持ちは捨てきれず。表現してみたところで意味のないような浅薄な自分であるのだが、描いているということになる。私が会場に行ける日は、7、15,16の予定である。その内、15日あたりで、会場で水彩画を描くことをします。
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ロケットストーブ・ワークショップ

2012-01-29 04:12:07 | Peace Cafe
ロケットストーブを作るとなると、何故かワークショップという言葉がつい出てしまう。これが学習会とか、体験教室とか、ではどうもしっくりこない。10年ぐらいたつと思うが、行政の「めだかの集まり」で、ワーキンググループとか呼ばれて意味が理解できなかった。分かりやすい名前にしてほしいと発言したのだが、分かりにくいというところが良かったらしく、変えられないまま今に至っている。ロケットストーブを自分の手で作ってみて、その基本原理を研究し実用応用を目指す。これは自給の精神の体得でもある。見ていればいいとか言うことであれば、ユーチューブを眺めていれば十分である。自給の暮らしの本当のところは、やってみなければわからない事ばかりなのだ。やってみて、自分の暮らしに具合良いように改良する。この考え方がとても重要になる。つまり販売されているロケットストーブを買ってきて組み立てるのでは、進歩がない。

昨日、11組20名ほどが集まりロケットストーブを作った。もっとも基本となる、エンジン部分を作ってみようと言うことである。ではなぜ大勢に呼び掛けるかである。これは沢山の失敗をし、工夫を重ね、それぞれに適合するストーブにしたいという計画である。床暖房に使いたい人もいれば、日々の調理に使いたい人もいる。災害用ストーブと考える人もいれば、農業用ハウスの暖房と言う人もいる。このエンジン部分から先のの工夫である。作ってみなければわからないし、使ってみなければわからない。今回は、煙突の径を120ミリにした。それとペール缶を二つ重ねて、目一杯高くした。これが構造的にいいことなのかどうかもわからない。背丈が低いより高い方が燃えがいいということは確かである。あくまで今回のものは、基本構造であり、各自が検討を加えてくれるということになる。

2時間位の工程であった。作り方の説明は言葉では難しい。ユーチューブでの映像を見てもらった方がいい。様々な形態が出ている。工夫を加えて行く参考になると思う。ペール缶に穴をあける。ペール缶を切る。こういう作業を出来るかどうか。ペール缶はガソリンスタンドなどに頼んでおけば、もらえると思うので、あれこれやってみればいい。パーライトを断熱に入れるのだが、多分耐熱性の高いグラスウールでやっている人もいる。煉瓦とか、砂とか、灰とか、コンクリートと言う人もいる。地域で手に入るもので具合の良いもを見つけたい。断熱材と言えば、畳を断熱材にした、非電化冷蔵庫がある。ダクト式のさらに簡単な、少し涼しい位のものもある。これも一度みんなで作ってみたいと思う。味噌の保存。種籾の保存。電気よりもむしろいいはずである。ワークショップ方式の良いのは、結論がある訳ではない。みんなでアイデアを出し合いながら、よりよいものに出来ると言う事だ。

自給の暮らしは暮らしに手入れをしてゆくものだと思う。暮らしの形がそれぞれに違うのだから、暮らしの道具は当然少しづつ違ってくる。道具の自給も暮らしの中のとても大切なことだ。だから、あえて農の会でもロケットストーブのワークショップをやってみた。色々やってみない限り、良いものは出来ない。農作業でも、道具の工夫はとても大きい。よい例がチェーン除草である。チェーンを使って草を抑えようという発想が素晴らしいが、そのアイデアが、現在多様に展開されている。チェーンも、乗用車のものから、トラックのものまである。重さから長さまで、様々自分の田んぼにあるもんがある。当然草に効果のない田んぼもあれば、チェーンだけで成功している所もある。良い道具を作り出す観察と発想が重要になる。この手入れをしてゆくものとのかかわり方を育てて欲しい。ロケットストーブも、頻繁に使わないと改善が出来ない。是非ともロケットストーブを使うような暮らしの機会を増やしてもらいたい。日々の調理をこれでやってみる人が居ないものだろうか。
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何故、生ごみは堆肥になるのか?

2012-01-28 04:35:24 | 地域
1月22日、佐倉朗夫先生の講演会を開催した。小田原生ごみクラブ主催である。佐倉先生は明治大学の農場を担当されていると特任教授である。以前、神奈川県の農総研におられ、有機農業について考えてこられた。「有機農業と野菜作り」を筑波ブックレットから出版されている。小田原有機の里づくり協議会では、小松菜による堆肥の比較実験を指導していただいている。今回の講演はとても格調が高いもので、わたしたちの暮らしの背景となる、自然の営み全般にわたるとても重要な視点のものであるった。レイチェル・カーソンの「土壌の世界」に始まり、「センス・オブ・ワンダー」に終わるものであった。「すべての生物は土壌の恩恵を受けている。」「自然と言う力の源泉から遠ざかり、人工物に熱中するという愚にいたる。」まとめきれないほど、内容は広く大きいものであったが、思いに溢れている素晴らしい講演であった。

何故、生ごみは堆肥になるのか?「生ごみは有機物だから、堆肥になる。」では、有機物とは何か。緑色植物は空気中の炭素と根から吸収する栄養素に、光のエネルギーを利用して、「光合成をおこなう。」この植物を昆虫や動物が食べ物として利用する。その廃棄物が、有機物堆積物となる。それをバクテリヤや菌類は分解をして、栄養素を作り出す。その栄養素が、生産者足る植物に吸収されるという「自然界の循環の秩序」、自然の摂理が存在する。有機物はかならずC炭素をもっている。無機物は例外的には炭素をもつものもあるが、一般に持たない。植物遺体は土壌動物や土壌微生物により、分解され、炭酸ガス、水、アンモニアになる。一部は高分子化合物として残り、これらが重縮合して高分子化合物の腐植物質となる。森林では、落ち葉や倒木により、腐植の循環が起こり、自然の安定した循環が起こる。しかし畑においては、腐植は自然に生成されることは無いので、堆肥や肥料として、腐植物質として施されることになる。「農耕は、土壌形成にとって、危うい行為であり、土壌劣化的プロセスの上に位置する。」

「堆肥化」とは、人間が、自然の循環の輪の中で、農耕をおこない食糧生産をするために、生物の力を借りて、「有機廃棄物を腐植物質に還元する。」ことである。段ボールコンポストでは、基材を土壌の腐植層として位置付け、生ごみを投入しながら、箱の中の微生物を活性化させる。有機物を還元、分解をして行くこととなる。堆肥化の技術では、1、原材料の水分量 50~60%2、空気量 容積重の0,6 3、C/N比 20から30 の3つが重要になる。農業でのたい肥製造では、「2,3メートルうずたかく積み肥え」する。量がまとまることで、微生物の活動による温度が蓄積され、さらに高温での微生物の活動が促進されている。様々な物質の分解はそれに適合する多様な微生物が行う。水と酸素を加えながら、温度の上がり下がりを繰り返し、やがて、堆肥の分解が進むと、温度が下がり、微生物が遺体として蓄積し、有機質に富んだ堆肥となる。

段ボールと言う小さい世界での分解は、化学的分解が中心になる。つまり、小動物や虫がかじるような、物理的分解ではなく、バクテリア、放線菌、糸状菌(カビ)などの微生物が体内で化学反応させながら分解する形である。バクテリアは物質に合わせて分解に必要な酵素を作る能力を持つ。中温から高温で多くが活動する。温度が低下すると21度から24では糸状菌の活動が促進される。放射菌は中温性で、有機物分解の過程で、炭素、窒素、アンモニアを遊離したり、抗生物質の生成をしたりする。段ボール内では、生ごみに限定されるため生物の多様性が低い。生物間のバランスが崩れやすい。また、分解還元に速度差があり、残存する栄養分が多く成りやすいので、熟成期間を取る必要がある。畑での堆肥化とは違う、こまやかな管理が必要になる。
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放射能を削減する稲作法

2012-01-27 04:09:32 | 稲作
小田原では水田稲作に置いて、土壌放射能が50ベクレル程度で、玄米に50ベクレル程度のセシュウムが検出された。これはセシュウムの米への移行が土壌放射能だけとは言えないという事を表している。今年の稲作においてはこれが10ベクレル以下に抑えられるような稲作を目標に、耕作を考えている。少し方法を整理してみる。1、カリウムを施肥する手法は、草木灰のような物の内、安全の保証されるものを使用する方法。2、堆肥化した腐植質を入れる場合、地域由来の堆肥は放射能を含有する。また、一度吸着したセシュウムは又放出するまでの期間はどの程度か。3、天地返しは有効であるが、果たして、その労力や機械の使用が可能であろうか。4、これは全くの推定であるが、放射能が水から直接吸収されていないか。水からの放射能は土壌には蓄積しないほど、低レベルと予測されるが、イネの根が給水する可能性がある。入水口に何らかの方法を講ずる。

カリウムを施肥して、セシュウムの吸収を抑えるという考えである。この効果は理屈も分かりやすいし確かで、有効な手法と言われている。どんな有機農業で利用できるカリウムがあるか。身近にあるものでは、一番は鶏糞だろう。笹村農鶏園では草をたくさん与えている。一昨年の藁を相当量入れている。これを出来る限り田んぼに入れれば、カリウムの補給が出来る気がする。分析値は
鶏フン試料 水分 32.2 N 3.56 C 25.8 C/N 7.26 P2O 51.93 K2O 1.41 CaO 3.83 MgO 0.81 Na2O 1.89
一度の測定なので決めつけは良くないが、カリウムがあることは確かなので、冬の間に入れて見るのは良いかもしれない。資料を探してみると、「1トン中9キロから16キロが鶏糞たい肥中にはカリウムが存在する。」「鶏糞1トンには27キロのカリウム。」となっている。資料によりだいぶばらつきがあるが、水分量の違いがあるらしい。いずれにしろ、堆肥の中では鶏糞たい肥はカリウムは多いいもののようだ。

次に言われているのが、腐植質の藁、落ち葉、もみ殻などを大量に投入するという考えである。具体的には、草木灰にはカリウムが多く含まれる。6~7%として100キロで6~7キロとなる。これにはカリウムが植物には存在するということと、どうじに、腐植質がセシュウムを吸着するという両面から起きているようだ。しかし、小田原ものは計算上では、樹木や藁に100ベクレルあれば、30倍から50倍に濃縮されるから、1キロ4000ベクレルの灰を入れることになる。これは避けた方がいいだろう。輸入の草木灰となるのだろうか。100キロぐらいは入れる必要があるだろう。キロ800円として、8万円にもなる。これは東電は出してくれるだろうか。ただし、炭は陽イオンで良くないという説もあるが、灰はどうなるのだろう。

さらに、耕作法として深く耕すか、天地返しをして、表土5センチに存在するセシュウムを拡散及び埋め込むという方法が言われる。これは出来る限りやってみるしかない。やった方がいいに決まっているが、大型機械がない、又入れない。やれる範囲でやるしか仕方がない。根が深くはいることが、効果があるようだ。浅い表面に根が集中すると、水根となりセシュウムを集める可能性がある。不耕起の田んぼでは少し高くセシウムが検出されている。今年は草が出ることがあっても、できる限り深く耕してみたい。

水に問題が存在するとして、溜池を作り池底にセシュウムをとどめる手法も考えうる。昨年の経験では、溜池の土壌放射能の濃度が高まるようなことは無いレベルのようだ。溜池より田んぼの方が方が土壌放射能が高かった。溜池の作り方が重要であろう。つまり、水に混入している状態が良く分からない。溶け出しているのか、落ち葉のようなごみに付着して流れて来るのか。先日久野川上流で測定した、落ち葉は50ベクレル程度で、意外に低かった。しかし、これが水に混ざって流れるとすれば、イネが吸収する可能性は高い。

いずれも長所と短所がある。また、地域自給や有機農業考え方に反する方法もある。このように集荷場で話したら、放射能は他所から飛んできたのだから、この際対策に他所からのものを入れるのも止むえないだろう。こう言われていた。一理ある。
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政治が行うべき3つのこと。

2012-01-26 04:18:52 | Peace Cafe
今度の国会で即やるべき政策は3つ。まず、国会議員の歳費の半減。公務員給与の世間並みへの削減。外郭団体の廃止を含む徹底した行政改革、これは福祉予算の削減を含むことになる。この3つを行ってから、消費税10%への移行。支出の削減も行い、増税もする。国会議員の定数削減を言うが、これは間違っている。身近な市議会でもそうなのだが、たいして役に立たないから数を減らしてしまえというのは、乱暴な考えである。確かに何をやっているのかと思う場合が多いいのだが、それでも議員数は多いほどいい。無駄だと一見思えるが、無駄でもいいから数は多い方がいい。現在、国会議員一人当たり、7千万円から8千万円の歳費がかかっているということらしい。議員歳費を半減する。良く言われることが議員活動にはお金がかかる。一体どんな議員活動にお金がかかるのか不思議でならない。選挙運動にお金がかかるということだろう。選挙活動と議員活動を同一視している議員が多くて情けない。

議員が勉強をしたり、資料を集めるために経費がかかると言うならそれはいくらかかっても必要なことだ。その為に国会図書館がある訳だが。国会議員の利用は少ないと聞いた。議員自身の学習が不足しているから、官僚に支配されることになる。各議員が専門性を持ち、官僚以上に熟知しているのでなければならない。農業を考える議員は、単に利益代表として農業者出身ということでなく、世界の農業について熟知して欲しい。その歴史も十分に知っていて欲しい。農業と言う文化を深く理解し、日本の未来の姿を考えて欲しい。利益代表に専念し、補助金だけでは、この国難に際して解決が見えない。農地制度を改革するという考えが出ているが、どう改革するかは、研究に基づく理念と英知が必要である。TPPがどう影響するのかを考えて欲しい。農業者を導いて行けるような、政治家になって欲しい。その経費なら、誰も惜しまないだろう。

日本の今の時代、考えを表明するには、インターネットを使えば格安に出来る。国から市町村まで、議員歳費半減で良い。民主主義においては、多数決の背景には、多様な少数意見を尊重する精神が必要である。定数削減を前面に出すのは、問題をそらすためである。公明党をはじめとする少数野党が飲めない案を出し、定数問題を争点にする。税金の節約をしようと言うのに、野党が飲まないから出来ない。という構図を作る安易な目論見。定数削減分を歳費の削減に振り向けること。公務員給与が高すぎる。これも国から市町村まで同様に高い。せめて日本人の平均給与にすべきだ。安定した職業である。半額ぐらいにしても成り手はいるだろう。公務員も議員と同じで、待遇がいいからなりたくなる職業であってはならない。待遇は今一つだが、尊敬される仕事だから選択するものであればいい。外部委託とか、職員定数の削減を進めるより先に、給与の削減である。

野田氏は解散をちらつかせている。出来る訳がない。この状態で解散すれば、民主党は崩壊する。社会党と同じ道をたどることだろう。小泉郵政解散とは状況が違う。原発事故を抱えた国民の思いが理解できていない証拠である。確かに自民党もひどかった。しかし、それよりもひどいと私には思える。悪いものともっと悪い物を比較する選挙。選挙制度が悪すぎる。小選挙区制はこういう時に、行き詰まる。第三勢力が育成できない。非常時には、冒険を承知で、第3勢力にお願いすることも知恵だ。選挙制度を多数決で操作してしまうのでは、民主主義は死んでゆく。投票率の低下もさらに深刻化するだろう。歳費の削減がまず先。期待できるものは、地方政党の誕生である。大阪では原発停止の直性投票の請求が成立している。やはり橋下政治の影響だろう。小田原でも手掛けなければならない所なのだろう。地方政党は現在の衆議院の小選挙区制を補う可能性がある。それには足元の市町村の議会の改革である。
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制御不能社会の恐怖

2012-01-25 04:35:13 | Peace Cafe
鈴木幸一IIJ社長のエッセイのようなものが、日経新聞に乗っていた。インターネット関連の企業の社長のようだ。この人の年頭の感想が、世界が制御不能に陥っているという話である。殆ど私のようなアウトサイダーと同じ現状分析である。どちらかと言えば、個人的には少数派と言う意識で生きてきたが、今や企業人まで似たような認識に至ったのかと、驚きである。もちろん企業人であるから、社会の制御不能の姿を分かりやすく整理している。なるほど頭の出来が違う。しかし、結論は人口が膨張している世界の制御不能の姿に到っている。これもまた同様な結論である。違いは、この制御不能な現状分析から、ITビジネスの会社を経営する人が鈴木幸一氏であり、自給農業を進める認識に至るのが私である。それほど考えが似ている。全く違うところに生きているにしても。今の社会がどういう状況であるかの分析は、似たような所に到る。政治家はどうなのだろう。まるで能天気に見えるが、胸の内は同じなのであろうか。

野田首相の民主党大会の挨拶、始まった国会での所信演説は、党員の無関心度に比べて、えらく力が入っていた。この人は演説が好きだということが分かる。なかなか上手い言い回しをする。「民主党が崖っぷちなのではなく、国民と日本国が崖っぷちだ。」と叫んでいた。「政局ではなく、大局を見なければならない。」その通りなのだが、総理大臣に言われたくない。「次の選挙の為ではなく、日本の為に頑張ろう。」こんな状況にした第一責任者は、「お前だろう。」と思わず声が出てしまった。確かに世界は制御不能であり、「ぼくちゃん知らないもんね。」こんな他人事のオコチャマ政治が、松下政経塾の感覚のようだ。衆議院解散をちらつかせた姿など、自分は関係ない意識の表れそのものである。今総選挙をすれば、間違いなく民主党は崩壊する。主張するなら、「定数削減ではなく、歳費の削減である。」変革の掛け声は消え失せ、たちまち保身だけになった民主党。自民党の方は、民主党批判の前にマニュフェストで消費税10%だったのだから、それを守れ。

鈴木氏は「グローバル化した経済が、制御不能に陥っている。」「経済復興から、福祉国家への道が崩れた。」「甘やかされた人々による国家運営の危機。」「アメリカの物質至上主義の崩壊。」「インターネットがグローバル化を加速し、過去にない世界を作り出した。」と上げている。要するに現実を直視しなければならない。原発事故を収束宣言しても、何ら状況は変わらない。問題はより深刻化しながら、放射能汚染は蔓延してきている。採石が持ち出されていたなど、まさかのまさかである。この程度がコントロールできない政府である。制御不能はグローバルなことどころではない。稲藁からの牛肉汚染、杜撰な事前測定からの汚染米の流通。「原子力災害対策本部」が議事録を作っていない。要するに制御不能は人間の劣化に現われている。唖然とするような事故や事件。そして政治の制御不能。

人間が立ち直るためには、地道な暮らしである。当たり前の日々である。自然に接しその摂理を知ることで、普通の感性を取り戻す必要がある。後数年すると、あの頃はまだ良かったと今を振り返ることになると予測している。世界の経済が一体化して、競争が激化し、国家資本主義と言えるような韓国や中国が登場している。日本はこの競争に勝てないだろう。勝者であるはずの、すべてを経済競争に当てる国も、勝利は一時のものであり、さらに大きな崩壊を迎えると考えざる得ない。日本が向かうべき方角は、ソフトランディング地点の発見である。これは死んだ窪川真氏から、杉並の中学校の警備員室で聞いた話の受け売り。と言うことは、もう40年も同じことを考えてきたことになる。希望はある。新しい人たちが登場している。段ボールコンポストをやろうと言う人が、そしてその活動を支えようという人たちが、どんどん現れてきている。
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ネットの口コミ

2012-01-24 04:07:40 | Peace Cafe
良くネットで買い物をする。トラブルがあったことは無い。安い所が探せる。時間のないものでも吟味して買い物が出来る。最近ではロケットストーブの煙突を17セット購入した。一般に売られている価格から思えば、4分の1くらいである。1万円位するのものが、2400円である。17万円もするものが、4万円位だから、驚いてしまう。何故こんなことになるかは流通の問題がどこかにあるのだろう。街の金物屋さんは大変なことだと思うが、安い方がいいのは仕方がない。今は炊飯器を検討している。電気炊飯器は相当電気を使うと言うのでためらうが、色々の事情から、炊飯器を使わざる得ない。どうせなら、美味しく炊ける炊飯器が欲しい。こういう時にネットの口コミ情報を探す。どうも象印が評判が良いようである。もちろん信用している訳では無い。ネットはコマーシャルの滑り込ませ方がテレビ以上に巧みである。なるほどね、と一応思う。こうした口コミの書き方を長らく見ていると、操作を感じることがある。電気製品では、会社の人としか思えない書きこみの場合もある。

最近、レストランなどの口コミサイトの情報が、専門業者によって動かされていたということが出ている。「ステルスマーケティング」と言うらしい。何を今さらである。騙されていた人が居たのに驚いた。詐欺ではない。無料でしかも、無署名の情報はそんなものである。これをおかしいというのは、ネットの情報で商売をしている人たち自身が危ういからである。今やコマーシャル産業としてはテレビ以上らしい。ネット情報と言うものは、あくまで自分の分析力が問われる世界である。放射能関連では情報の混乱から、すっかり我を見失って居る人をみる。レストランで美味しくなかったぐらいなら罪は軽い。ダイオキシンの騒動の時も、似たようなことがあった。必ず便乗して一儲けしようという企業が登場する。除染ビジネスなど注意しなければ、税金の無駄遣いに成る。できもしない、無駄な除染の仕事を住民の健康のためと莫大な税金を使って展開する。

この話に進むときりがないので、口コミ情報に戻る。美味しいが分からなくなっている。自分の美味しいは自分が決めればいい。ミシュランガイドが売れている。どうせならランク付けより番付がいい。西の横綱はどこである。東の前頭、3枚目はどこそこである。江戸時代の「おもと番付」「キンギョ番付」。ラジオで歌謡曲の横綱は?と言うのはおもしろかった。美空ひばりの『お祭りマンボ』と、三波春夫の『ちゃんちきおけさ』はどっちが横綱か、などと談詰めする。根拠はないところがいい。当然春日八郎『別れの一本杉』派も出て来るし、三橋道也の『古城』派もいる。松山恵子の 『だから云ったじゃないの』を推す人もいる。なにが横綱だろうが、罪は無い。ランク付けは星3つでなく、自分の決める横綱番付がいい。江戸時代の温泉番付など、湯河原温泉や、箱根芦ノ湖温泉などが東の前頭に居て、眺めているだけで楽しい。

順位を決めるにしても、番づけにした所に江戸時代の味がある。これが国の番付と言うことになると、アメリカの格付け会社の勝手なトリプルA等、いい迷惑である。格付け会社の番付をやりたい。ヨーロッパ各国が大変な事態であるのは誰の目にも明らかである。この時点でランクを下げる意味は、足を引っ張ろうと言うことになる。その位なら、日本を下げた時点で下げるべきだった。どうも公表時期に政策的タイミングを感じる。話は口コミだった。口コミに書きこむという条件で、安くなる通販サイトがある。そんな口コミが信頼できるはずがないだろうか。あちこちネットアンケートに答えるだけで、生活しているという人がテレビで紹介されて居たぐらいだ。自分の感性を磨くほかない。フェイスブックとか、ツイッターとかわからない不気味さを感じる。やらせ口コミのもたれ合いのような気がしてしまう。ネットには刷り込みのような、気がつかないさらに巧みな商売の仕組みがあるに違いない。
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地域の暮らし

2012-01-23 04:07:02 | 地域
先日消防団に入っている若い友人と、地域の事を話した。彼の熱意にとても感銘を受けた。彼は最近松田町に引っ越して住んでいる。松田に戻ってきたのは、両親が大井町に暮らしていて、震災以来近くに暮らしたいと考えたからだそうだ。松田に越してすぐに、陸前高田の被災地の支援の募集があり、参加したそうだ。この時に松田町の人たちの積極的な姿勢と、団結力に驚き、尊敬した。それ以来、地域の人間関係を作り出す事がとても重要だと思うようになる。消防団で集まって飲み会をする。お酒を飲まないから、とても苦手だ。案外に飲み会があるから消防団は厭だと言う人が多いいそうだ。しかし、日常の交流が無ければ、緊急防災には対応できない。地域の人が集まる、リクレーションを考える必要がある。楽しいことで集まり、お互いを顔の見える関係にして行くと話していた。私が住んでいる舟原は、5つの地区に分かれている。今度、第5地区が分かれて、5と6地区となる。

新たに出来る第5地区に、私の家は所属することになる。この地区は12軒である。その内、5軒はつい最近越して来た方達で、顔と名前がまだ繋がっていない。一軒自治会にはいられない家もある。殆どの家族の事を知らない。当然電話番号も、緊急時連絡先も知らない。この第5地区は、国の指定した土砂災害準指定地域である。防災に関しては、要注意地区で開発は特別の許可が必要、と言うことになっている。最近、舟原地域の外れに当たる場所で火事があった。昼火事ではあったが、留守の家で出火したらしい。留守と言うことと、乾燥していたということもあり、全焼になってしまった。もし、私の地区で災害があり、中に人が残っていないのか、家の人に連絡はどうしたらいいのか。こうした場合、情報はどうしても必要である。しかし、この時代個人情報はとても慎重に扱わなくてはならない。まずはご近所として、互いの事を必要最低限は知りあう必要がある。さてどうしたらいいのだろうか。

この災害指定地域での情報管理をどうするかと言うことで、行政に聞いてみた。方針はどうもまだ整理されていないようだが、一つには情報袋を作り管理すると言うのがあるという話を聞いた。必要な情報を話し合い、それを各自が封筒に入れ密封し、さらに全体を大きな袋に入れて密閉して管理する。そしていざという時にだけ開いて、連絡をとるなど利用する。確かに、そのくらいのことは最低限必要なことかもしれない。互いの、プライベートは出来る限り尊重すると言うのが、この時代の暗黙の合意のようでもある。こういうことを個人が提案するのも憚れる気がしてしまう。そういう場合、行政が方針を決めて方針を打ち出すのが、公共的な対応であり、良い事だと思うのだが、行政は及び腰な感じであった。そう言うことは地域地域が育てるものでしょうと言う、事であった。もっともではある。その松田の友人も、その程度ではいざという時には、たいして役立たないと言っていた。

自治会の活動への参加が減少している。私自身も参加することが出来ない場合が多い。例えば、舟原自治会では正月1日の1時から、恒例の集まりがある。参加率は年々減少し、今年は20軒を割っていた。20%位の参加率である。昔は何をさておいても、正月に顔を合わせることが当然であったのだろう。そうした昔からの空気が変わろうとしている。ではどういう風に変わるのが妥当なのかといえば、私にはよく分からない。初めてだと思うが、自治会からの回覧の連絡に、「出席できないものは、組長に理由を伝え、委任すること。」という一項が書かれていた。自治会を担う方々が、とても苦労されているだろう。自治会と言うものが、地域と言うものが、個々人の暮らしとどのように関係しているのか。いないのか。それぞれが、自分の時間に追われる暮らしのなかで。それでも防災だけは、不可欠なものである。M7級首都直下地震、4年内70%…東大地震研と今朝の報道にもある。どうして行けばいいのかと思う。
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神奈川県の震災廃棄物の受け入れ

2012-01-22 04:27:23 | Peace Cafe
どの地域でも震災廃棄物の受け入れば、当然のことである。やらなければならない。。黒岩知事は宮古市のがれきの搬出を視察に行ったという。一日も早く引き受けて欲しいと考える。被災地の現状を考えれば、必要な協力である。同じ日本人としてこの困難を生きている以上、出来る限り分担をしたい。放射能に関する不安がある。政府が、県が騙すだろうということである。1キロ100ベクレル以下という条件で受け入れると言う。それでも危険だから、受け入れたら神奈川県を出て行くと、抗議をした人の発言が、耳に残っている。神奈川県の全域の土壌の表土は、その程度の汚染はしている。その状態を安全と主張する訳ではない。現状を認識すれば、どうにもならないことであることが分かる。辛いことであるが、その辛さを分かち合う以外、この苦難は乗り越えられない。市民サイドに監視と測定の自由を確保すること。違反が判明した時には、黒岩知事の退職を約束させればいい。

放射能はどこに置いておくにしろ、当分なくなる訳ではない。うまく対応するしかない。神奈川県でも、表土100ベクレルの状態の中で上手く対応することである。放射能リスクを主張する人は、どれほどわずかであれ、存在することが不安になっている。それは電磁波や環境をかく乱する化学物質への不安などと、共通の感触である。科学的事実がどこにあるかではなく、得体の知れない、それゆえに根拠のない不安と言うものが根底に横たわっている。言い方に問題があるが社会的ヤマイ現象と受け止めた方がいい。不安を持つ人を責めてはならない。不安と言うものは少ないからそれで解決とはいかない。全体0にならない限り、解消されない。卵を販売しているが、絶対の安全でもないし、美味しくもない。こう言い続けた。つまり、お墨付きが欲しい心理を拒絶してきた。すべてのものはかならず危険は持っており、美味しいはそれぞれのものだ。

むしろ深刻なものは、足元の神奈川県でも発生している焼却灰の方だ。小田原の焼却灰も2度測定している。飛灰については1000ベクレルを越えている。下水汚泥焼却灰についても似たような数値の値である。相模川流域の方が、酒匂川流域より幾らか高かったが、徐々に同じ程度になりながら日に日に減じている。有難いことである。少し希望が見えて来る。しかし、この灰は地域によって8000ベクレル以下と言うことで、他県に持ち出され処理されている可能性がある。又、セメント材料になっているかもしれない。そうでなければいいのだが。実は最近測定した、今年の久野川上流部の落ち葉の測定値は、50ベクレル程度である。不安を持つのは当然必要なことだが、神奈川の現状も正確に把握すること。自分で費用を掛けて測定する他ない。この点行政が十分には義務を果たしていないために、信頼関係が出来ていない。それががれき処理の受け入れの拒絶反応に繋がっている。

100ベクレル以下のがれきは、被災地と苦難を分かち合う社会を目指すという精神で、約束を破った時には、原状復帰と、知事の辞任の約束の前提のもとに受け入れる。安全だと言うのでなく、「一定危険ではあるが、共に生きて行くためには、受け入れざる得ない」という考えである。そして、神奈川県が今やるべきことは、神奈川県の現状を正確に測定することである。それを通して県行政の信頼を回復すること。神奈川県のお米の測定については、放射能が出る可能性が一番低い所を、2か所を測定して、全県のお米を不検出にした。焼却炉の灰は2回の測定だけである。これをもっと頻繁にやる。現状の市民の納得できる測定をする。数値の把握の上に、放射能への対応策考えなくてはならない。宮古市より神奈川県の方が放射能が少ないなど、言いきれないのが現状である。
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エコカー補助金

2012-01-21 04:31:39 | Peace Cafe
車に関するニュースがいくつかあった。
経済産業省は20日、2011年度第四次補正予算案の閣議決定を受け、省エネ基準を満たした自動車の購入に対する「エコカー補助金」の概要を発表した。20日から13年1月末までに新車登録した車が対象で、乗用車十万円、軽自動車七万円を交付する。
米自動車大手3社(ビッグスリー)で組織する米自動車政策会議(AAPC)は、日本の自動車市場の閉鎖性を理由に「現時点では反対」と表明し、参入障壁となっている軽自動車規格については、「廃止すべきだ」と主張した。
スズキはエンジン性能を上げて、リッター30キロと言う低燃費車を発売した。さらに、と言うかついに、軽油の低燃費エンジンの開発を目指すと言う。


朗報である。ケイトラ研究会に関心のある軽トラファンとしては、いつか軽油のケイトラが発売されて、それを廃油で走らせるのが夢のようなもの。インド向けに開発すると言う。車の買い替え時期に来ている。本来なら、昨年暮れに車を買い替えた方がいいと、購入したホンダ自動車で言われた。そこでいつも見てもらう、自動車屋さんに相談した。とてもいい自動車屋さんで信頼している。田んぼの仲間の紹介で知った「小砂モーターズ」さんと言う。そうしたらまだ直せるから大丈夫だということで、かなり直してもらった。そうして一年無事使えた。有難いことである。今、即調子が悪いということではないのだけれど、遠からず買い変えざる得ないだろうとは思っていた。しかし、色々考えて見て、乗れる間は修繕しながら乗って、いよいよになった所で廃車にすることにした。ケイトラの方は痛みはあるのだが、まだ乗れる。15年にスズキ自動車が軽油のエンジンを開発すると言うから、それまで何とか使って、待つつもりである。

電気自動車で家庭で蓄電池機能としても使える軽自動車タイプが出来ればと思っている。いずれにしろ軽自動車は素晴らしい。360ccから550ccそして現行の660cc。それをアメリカが貿易障壁だと主張している。なるほどアメリカと言う国の正義はこういうものだ。トヨタパッシングもすごかった。その後の裁定では問題なしとなっている。あのガソリンを垂れ流しているような、大型車を乗り回しているアメリカ人を正義とは言えない。人類がアメリカ人流になれば、地球は忽ちに終わりになる。日本が軽自動車規格を作り、小型車の性能を上げてきたことは、地球的に素晴らしい政策である。道路だってせまくて済む。すべてに節約である。こうした規格を作り、税制で優遇し、技術開発を続けていることは、世界に誇るべき考え方である。最近はエンジン性能を上げ、ハイブリット車と同等の燃費の軽自動車に成ってきている。それをアメリカは競争の都合で、軽自動車規格がおかしいなど余計なお世話だ。スズキが軽のジーゼルエンジンを開発するのを大いに期待する。

私が大きい車を必要としたのは、車をアトリエにしていたからだ。大きな絵を輸送するということもあった。大きな絵を描くと言うことも今はない。それで大きな車はめったに乗らないことになってもいる。軽トラが好きだ。軽トラの荷台で絵を描ければ一番いいと、常々思っている。軽トラの幌と言うのもあるが、あれを厚手の透明のビニールにして、風と雨は避けるように出来ないものだろうか。海岸の高台で描くときなど、どうしても外では風で描けないことがある。少し不安定な感じだろうか。落ち着いて絵が描けないかもしれない。そこで今検討しているのが、軽トラの荷台に付ける、着脱式のアトリエである。甲斐市にあるミステックと言うところで、そうしたものを作っているらしい。少々高いので考えてしまう。それでもほしいくらい面白い。
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汚染砕石の流通

2012-01-20 04:23:44 | Peace Cafe
政府は放射能について、制御不能に陥っている。しかもその責任を感じてすらいない。まさか汚染地域の砕石の流通を止めていなかったなど、バカバカしくて話にもならない。無能な政府を持っている国民の哀れさである。稲藁からの牛肉の汚染。事前調査の甘さからのお米の汚染。何度でも繰り返す失態。誰も責任を取らないことがおかしい。事態を悪化させる政策放棄。これで何が収束宣言だ。こんな事だから、被災地のがれきの処理に不信が持たれる。政府が無能である前提で、自己防御しなくてはならない。風評被害うんぬんどころではない。わたしは材木を心配している。福島の材木を30年出荷停止にしたらどうだろう。そして立派な大径木にする。その経費を国と東電が補てんする。放射能汚染された材で作られた家には住めないだろう。焼却灰をコンクリートに混入することもただちに禁止すべき。

小田原でも山の汚染を考えたら、状態の確認をせず伐採するのはためらう。放射能を問題視する人たちは、政府が無能なのだから、これから先何がリスクが高いかを予測しなければならない。なぜならば、放射能汚染された材で建てられた家に住むということは、採石がコンクリートに混ざる以上にリスクが高まる。床に寝ころべばある意味内部被ばくに近い状態になる。常緑樹が幹にまで放射能を吸い込むことは確認されている。以前にも書いたのだが、伐採するなら外皮に止まっていた半年ぐらいの事である。その後は30年は注意した方がいい。小田原の焼却灰の汚染が1回目より2回目は下がっている。これは、枝葉の放射能が全体でいえば下がってきている可能性を示している。その分落ち葉で落ちたものと、幹に吸収されたものがあるだろう。材の汚染の確認が必要と言う意味である。川の汚染も徐々に下流域に及んでいる。地下水全体も下流に放射能が流れているだろう。そして、何年後かには海に流れ込む。海がどうなのか。

普通の感覚なら、今回の採石場の位置からして出荷するなど、考えにくいことである。採石場の社長は、復興の為だと考えたので良かれと思いしていたということである。被害者の一人である当事者を責めてはならない。指示を出すべき政府が、単に無能であるに過ぎない。人間の避難すら、指示が出来なかった政府である。すでに終息宣言を出した恐るべき政府である。命にかかわることで依存していてはならない。自ら判断をしてゆく必要がある。今は非常事態である。平時ではない。平時に起こったような、ダイオキシンがうんぬんという感覚では乗り切ることが出来ない。リスクはすでに高まったのだ。それを避けて移住するのもよし。受け入れてどうリスクを低減するかを考えるのもよし。それぞれが生き方を問われている。一番まずいのは、怖れるだけで判断が出来なくなることだ。私は100ベクレル以下のものは喜んで食べることに決めている。それは年齢の事と、この土地とともに生きてゆく覚悟をしたからである。

水の問題である。最後は海に行く。海の汚染どうなるのかは良く見ておく必要がある。河口海岸地帯には放射能が高まっている所があるようだ。こういう所の魚介類はこれからリスクが高まる。植物連鎖からして、1年、2年経過してからの方が、リスクが高まると見ておかなくてはならない。田んぼで言えば、昨年は谷戸田のことだったが、これから平野部の田んぼは昨年よりリスクが高まる所がありうる。徐々に汚染は下流部に移るかもしれない。稲の場合は、土壌との関連より、水に混入する放射能である。それもきわめて少量で、土壌に蓄積するようなものですらないのではないか。その放射能は測定しても出ない位濃度が低い物のようだ。その極めて低い放射能を稲は栽培状態によって吸着するようだ。昨年クリアーしたからと言って今年もそうとは限らない。小田原では50ベクレル以下の数値は出ている。
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小田原電力

2012-01-19 04:08:47 | 地域
昨年12月7日小田原電力の集まりがすでに行われていたらしい。お願いしていた連絡も当然なく、全く気付かなかった。このブログでも何度も書いているように、自給エネルギーにはとても関心があり、それなりに勉強もしてきたつもりであった。市の行う市民が参加できる会議は、何時も出ている。資金的に準備もしている。小田原市に対しても意見書を出し、進展があれば連絡が欲しいとしてきた。にもかかわらず何の連絡もなく、進められている。私があえてこうした姿勢を出しているのは、加藤市長の市民参加が本音かを問うているという意味もある。会議冒頭に市長の挨拶が出ている。「市民を主体にする、エネルギー自治を行うための協議会を立ち上げる。」一体どこを見ているのだろう。この進め方のどこが、市民主体と言うのか。こうした口先だけのきれいごとは、もう聞きあきた。小田原電力には期待していただけに、何とも空しさだけが出て来る。

小田原という怪物の壁は厚い。私も市民のはずである。公募もせず、うちうちで進めているようである。それが小田原的な実践的な事業の枠組みと言う考えらしい。小田原電力は市の事業である。市長のいう、開かれた市政。市民参加の市政はどこに行ったというのだろう。こんな言葉を信じる方が、馬鹿だということなのか。飯田氏と、市長との対談の中でも、市民全体に周知して行く重要さを、二人で述べていたのではなかったのか。全く逆行して、一部のいわゆる小田原経済の関係者によって、公的な事業が取り仕切られている。その方が合理的、実践的ということらしい。市民を烏合の衆と考えていて、まとまるまでは入れない方がいい、というのが本音と思われる。数々の市民参加の仕組みを失敗したと考えている、ということになる。

再生可能エネルギーの問題は、市民意識の改変を根底にすえる必要がある。100年先の小田原の暮らしの事である。どうすれば市民全体の課題に出来るかが、スタートの枠組みでなければならない。こんなことは今さらの事で、全国の事例を見れば当たり前の事だ。小田原の枠組みの意識の古さはつらい。このような前時代的な手法を取るとするなら、まず参加資格として1千万円以上の出資を求めたらどうだろうか。この協議会メンバーにはその覚悟があるということだろうか。今までの成り行きのような人間関係ではなく、お金をきちっと出す人間が集まり、話をした方がさらに実践的と言う頃にならないか。気に入らないがまだ覚悟が分かる。口だけ出し、事業の成立を難しくする人間を排除する。こういう意識と市民参加とどこに接点があるのだろう。いずれ儲かりそうならやるというレベルになりかねない。

身内でやりたいという気持ちが、小田原的と言えばいいのだろうか。メンバーを見ていると、残念ながらこれが、加藤市長の本音に見える。うまく国の事業に出来たのだから、体裁は作れた。と言うことだろう。加藤市長はマニュフェスト自己採点を85点としている。とんでもなく甘い。今の市政を合格点とする自己分析は、いかにも自らには甘い人間という印象である。手をつけたということだけで評価とするらしい。成果を出して初めて評価は出て来る。まして、自己評価などどうでもいい。外部評価もどうでもいい。市民がどう評価をするかだけが重要である。85点など付ける市民は極めて少ないだろう。多くの市民ががっかりしている。それでも、1期目だから、止むえないきもする。他に人材もいないので、もう一期だけは見て見ようではないか。これが私が聞く加藤支持者の声である。85点は甘い。
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インサイダー取引

2012-01-18 04:25:09 | Peace Cafe
経済産業省の木村雅昭元審議官が、株のインサイダー取引の疑いで東京地検に逮捕された。経済産業省の職員及び、家族の株取引の全面禁止は出来ないものか。職業倫理を持ち合わせていない人がいる。金権社会の普通の姿である。倫理で制限した所で、隠れるだけである。金儲け以上に価値あるものを持っていな人が、国家公務員の中にいたということ。いつの時代にもこういうことはあるのだろうが、現代金権社会では、恥げなく蔓延している気がする。ホリエモン方式である。法律違反すれすれのところで、上手く金儲けをすることが、賢い生き方に成っている。バレないのにやらない人間を、愚鈍なやつだと言う空気。木村元審議官は以前から注意も受けていたらしい。審議官から一度は内部情報と株取引の事で注意され、外されていたこともあるらしい。勤務中も携帯電話で株売買を指示していたという。それでも審議官という重責を担っていたのだから、おかしな職場といわざるえない。

経産省内ではこういうことが普通のこととして受け入れられていたということ。人前でお金のことなどなど恥ずかしいというようなことは、時代錯誤なのか。自慢げに株で儲けた話などしている姿が目に浮かぶ。こんな状態では法律で縛るほかない。株取引の全面禁止である。木村容疑者は平成19年7月から2年間、商務情報政策局担当の審議官を務め、IT産業に関する重要政策に関与する立場にあった。木村容疑者の代理人弁護士は「報道された公知の事実に基づいて、妻が行った取引。インサイダー取引には当たらない」としている。何とかうまくごまかそうと言うあがきである。ホリエモンもそうだったが、罪の意識と言うものが全くない。審議官と言うのは局長の次くらいの立場らしい。こういう重要ポストに、株取引を就業中に行うような、人があてられることの方が驚くべきことだ。妻の口座と言うことは、犯罪意識もどこかにはあったということだろう。これが友人の口座で行っていたというような場合も多いい気がする。バレタやつが馬鹿な奴。

倫理が失われた時に成立しない職業と言うのは、いくらでもある。社会が豊かになれば、職業倫理は向上し、こうした卑しい行為は徐々に減少するだろうと思っていた。ところが、なんら変わらない。むしろ、金儲けを自慢げに誇る土壌すら生まれている。ホリエモンを自民党が衆議院の公認候補として立候補させたことは記憶しておかなければならない。木村容疑者を審議官にした経産省と言うものも、記憶しておく必要がある。インサイダー取引が禁止されているという建前は、株取引に一般の多数の人を引き込む作戦である。公正な株取引が行われているというイメージ作りを行わなければ、株式と言うものが成立しない。株が上がるか下がるかは、その会社の浮沈に従うのだから、情報を精査するのは当然だろう。それが内部からも手に入り、第3者と組んで行って居た場合、犯罪立証することは、ほぼ不可能。政治家へのわいろが株情報などという図式も想像できる。

インサイダー取引が表面化したのは、氷山の一角に違いない。上場会社の役員に倫理観がない場合など、いくらもあるだろう。先日の大王製紙の社長を見ればすぐわかることだ。彼も株の損失をばくちで取り戻したことが、出発だったようだ。相当にばれにくい金儲けの悪だくみが目の前にあって、見過ごすわけがない。蔓延していて、一般の投資家は馬鹿を見ている人がいそうだ。関係のないどうでもいい話ではある。問題は普通に労働して、普通に暮らすという本来の人間の暮らしが、バカバカしく見えて来る社会の姿である。農地が宅地化し高騰をして行く過程で、農業が馬鹿らしくなってしまった多くの人。暮らしの本来を見失ってしまった都市近郊の農家の友人をたくさん知っている。人間の幸せは地に足を付けて、働ける所にあることだと思いたい。やはり自給生活にもどることだ。
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米麹の使い方

2012-01-17 04:06:27 | 自給
米麹を利用して、作るものには4つある。1、味噌 2、塩麹 3、甘酒 4、どぶろく 米麹は米を食べてきた日本人の身体に合う気がする。是非とも生きたままの麹菌を生活に取り入れて、免疫力の向上に使いたい。

「味噌」の基本は大豆である。麹の良しあしより、煮た時に美味しい大豆でなければ美味しい味噌は出来ない。美味しい大豆を手に入れたかったら、自分で作るほかない。市販の大豆と自給の大豆では味がかなり違う。理由は分からないが茹でて比較してみれば、誰にでも確認出来る位違うものだ。良い大豆を良く煮る。煮る時間は長めの方がいい。大量の大豆を大釜で高温で煮る。仕上がりで水が焦げない程度で減って行くように煮る。7時間くらいは煮る。仕込んだ味噌容器の置き場が問題。じっくり寝かす発酵が進み過ぎたような味噌が好きなので、3年味噌を日ごろ食べている。半年ぐらいのものの方が好きだと言う人もいる。置き場は出来る限り涼しい所に限る。夏の昼間、閉め切って出かけるような部屋では無理である。理想を言えば、南向きでありながら、陽のあたらない半地下で、風通しは良く、冬は底冷えのするようなじっとりした味噌部屋。そんな場所は今どきないので、一番それに近い場所を考えて置いておくこと。

「塩麹」は麹1キロに塩を300グラム。塩は減らしても良い。タッパーに入れてよく混ぜて、ひたひたに水を加える。一日すると水を吸い込んでしまうので、又水をひたひたに加えて調整しておく。表面にはラップを掛けて空気に触れないようにしておく。仕込んで1週間したら使える。と言っても時間が置いた方が、より馴染んでまろやかなものになる。最初の段階ではただしょっぱいだけの様なものである。毎日1回かき回しているが、麹が徐々にとろけて行く。糀らしい匂いが徐々に高まってくる。色は少しずつベイジュが濃くなる。部屋に普通に置いてあるだけだが、楽しみでついついかき回して様子を見てしまう。この段階の管理はでは室温で構わない。まろやかになり完成したら、冷蔵庫に入れて、変化を抑える。このまま使えば、半年ぐらい変化しないで使える。調味料としてあらゆるものに使ってみると良い。私の好みとしては、魚にまぶして使う。野菜の漬けものとして使う。キュウリ一本に対して、さんま1本に対して、小しゃじ1杯程度を加える。急ぎの時は、切ったキュウリに加えて軽く揉み込むといい。

「甘酒」は麹と同量のご飯を混ぜて、水を加えればいい。ご飯の炊き方はお粥が普通であるが、普通に炊いたご飯でもてもさして違わない。焚きたてのご飯に麹と良い水を加えながら、60度に温度調整をする。カルキの強い水道水の場合、置き水にして加える。ご飯を冷やしながら、麹を加えて60度前後に成るように調整する。水の量はひたひた水である。そして、わたしはタイガーの保温調理鍋に入れる。そのままで24時間経て出来上がる。まだ甘さは控えめのものである。さらに甘くしたい場合は、一度冷蔵庫で冷やして、もう一度60度に上げて、もう一晩保温鍋に入れておく。これを繰り返せば甘くなる。保温鍋が無ければ、発泡スティロールの箱に入れて、そこに湯たんぽを入れておくのも良い。甘酒は、健康飲料で本来は夏バテ防止と言うが、もちろん冬に温めて飲むととても体が温まるものだ。

「どぶろく」は作り方が難しい。美味しいどぶろくというものを飲んだことがない。やはり清酒の方がおいしい。どぶろく好きという人も居るが、日本酒のおいしさと較べてしまえば元も子もない。しかし、自給するという以上、市販のものより美味しくなければ、やる気に成れない。何度やっても大した味にはならないので、しばらくやめている。美味しく作るための、ある方向が少し見えたので、今回もう一度どぶろくに挑戦している。そこそこのものが出来てきたので、その経過的な方法を書いておく。美味しいものを作るには、まず糀の発酵である。これで良しという発酵がなかなかできるものでない。麹菌の種類もあるようだが、それより、発酵の進み方のようだ。最近米袋法に変えてから、今までよりはいい麹が出来る。しかし、アルコールの度数がある程度高くないと、美味しいとはならない。度数を上げようとすると、すっぱみが出てしまう。課題である。
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