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維新の会分裂

2014-05-31 04:02:26 | Peace Cafe


下田の夕景 10号 下田湾からは色々の位置取りで夕景が描ける。山並に沈む夕日がおもしろい。







維新の会はずいぶんおかしな政党だった。独自憲法制定がもともとの太陽の党の理念である。その理念の下に、作られたはずの政党だと思っていたが、そうでもなかったらしい。維新の会橋本氏が大阪市で何の為なのか意味不明の辞任して再立候補がそもそもおかしい。世論というものは、不可思議なものだ。時にバカなこともやるかと思えば、冷静に判断することもある。だから、民主主義というものは、正しく運用すれば有効な統治手法なのだろう。橋下氏に投票した人は、37万7472票という結果だ。75万0,813票が前回だから、ほぼ半減した。有権者数からすれば、17.85%しか橋下氏に投票をしていない。この結果は橋下氏の意図からすれば、大阪都構想は支持されなかったと見るのが、普通だろう。ところが、維新の会の幹事長によると、支持されたと述べている。18%の支持しかない選挙が、支持を表しているという考えは、無駄な選挙を行い、無駄な結果をもたらし、そのうえ自己正当化している。

ひどすぎるだろう。そんなことを主張する前に、この選挙は無駄だったということで、6億円を返還しろ。大義のない選挙ということが言われていたが、大義どころか、泥棒の選挙だ。人気タレント市長でなければ、こんなバカな手法を考えたはずもない。いくら議論しても、都構想のプラン決定に至らない。それは維新の会以外の政党が、維新の会だけがいい子にんる方式での都構想を、やりたくないからに違いない。やりたくないとはっきり言えば、損なくじを引くから、プランを立てるのには十分な議論が必要といって、1日延ばしにする。これが大阪市議会の実態なのだろう。だからと言って、それを打破できない、市長も能力の不足。能力不足を棚に上げて、辞職選挙に打って出るなど、まともな人間のやることではない。議会をリコールすればいいではないか。リコールが成立しない。またはリコールした所で、大阪都構想が支持されないとしたなら、構想が良くない訳だ。いずれ、くだらない所で何をやっているのだろう。無駄な、情熱の空転。

公明党がここでもやり玉に挙がっていたが、この党が日本をダメにしている気がしてならない。公明党はきちっとした思想に基づき行動しないというあたりが、ヌエのようで全くつかみどころがない。一体、維新の党との連携は何だったのか。都構想に賛成だったからではないのか。国政でも公明党の自民党との選挙協力が、実に悪い結果に成っている。確かに少数政党にとって、今の選挙方法は、不利になる。公明党としては、宗教団体としての創価学会が大切だから、時の権力と連携をしたい。これは、明治維新時のあらゆる宗教が取った姿勢と同じである。宗教は権力におもねる。石原氏は、自民党に対して公明党との連立を止して、自分と連立しろと主張している。橋本がダメなら、安倍というところだろう。全く妄想老人になってしまった。

公明党と自民が連立しているのは、創価学会票という基礎票が、自民党議員を当選させているからだ。議員の数で衆議院過半数という意味ではない。これが小選挙区制の害悪である。日本では小選挙区制は良い政治にならないということを、今の政治状況は如実に表している。2大政党になるどころか、革命のような新憲法を主張する政党と、平和憲法を基本理念とする政党が、両者のご都合主義に基づき、連立政権を作ることになる。一方野党の方は、対抗勢力として団結するどころか、2分割どころか、5分割して、勢力としての力を失う。力が持てないから、もがいて分裂ばかりが進んでゆく。中選挙区制に戻す以外に日本の政治は回復しない。選挙制度はどちらの方が問題点が少ないのかで考えるしかない。どんな方法でも、問題は解消できない。しかし、小選挙区制は今最悪の結果に向かっている。平和憲法の破壊である。
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小田原市環境事業センター

2014-05-30 04:09:20 | 環境関連
小田原市環境事業センターというのが正式名称であるが、ごみ焼却場とリサイクルセンターである。61名の働いている方々に申し訳ないがついごみ焼却場と呼んでいる。新任自治会長研修で、見学をさせてもらった。今回の特徴は、日立の作ったごみ焼却炉のコマーシャル映像を見たことだ。いいことだけが映像化されていた。会場で質問が出たのだが、小田原市の紙の分別の内容を正確に分っている人は、どのくらいいるだろうか。絵を描く昔の友人にとてもこだわる人がいた。その人はごみを指定通り、正確に出さないと気が治まなくなっていった。事業センターに問い合わせては、出していたのだそうだが、ついに、出せなくなり、ごみ屋敷になってしまった。嘘のような本当の話である。紙の分別は大きく3つあるらしい。段ボールなら、段ボールでまとめて出すこと。雑誌本類は又別にまとめて出す。こうしたものはひもで縛って出さなくてはならない。カレンダーならどこに出すか。新聞紙はどうするか。ビニールコーテングのような紙は、どうなのか。

紙と言っても、ビニールと境界の様なものもある。役所などから送られてくる大量のA4の案内はどうするのか。それが入っていた封筒はどうするか。もう一度使える紙は、切ってメモ用紙行くべきか。封筒は宛名を消して、他に郵送するべきか。その他紙というジャンルもあるが、何を持ってその他なのかが難しい。ガムの包み紙はその他紙か。こうした複雑で面倒な仕訳を考えてゆくと、手間暇の結果のメリットがない限り、続けてやれる人は少ないだろう。結果30%のごみが紙ごみである。これを減量しようとするなら、もう少しシンプルなシステムが出来なければだめだろう。紙の引き取り業者と一緒になってもう少し良い方法を研究すべきだ。何年たっても紙のリサイクルの方法に気がつかないようなら、止めた方がましだ。ペットボトルの分別に、動物のペットが入れられた事例が2件あるそうだ。電池や包丁まで入っているという。

こうした複雑化した分別をどうすればいいか。方法はただ一つごみ処理費の自己負担である。コスト意識を持たせることだ。ごみ有料化である。ただし簡単に減量できる方法を、市民が共有しなければならない。自分で持っていって捨てられる。ごみステーションを作れば学習的にかなり解決する。例えば、ペットボトルのカバーは付けたままでいいと変更になっている。まだ周知ができない。環境事業センターに乗り付けて、分別を学びながら、自分でごみを捨てられるコーナーを作り、学習する。。そこでごみの分別を誰でも学べるようにする。現在は分別をいい加減にして、ゴミ袋に入れてしまえば無料である。事業センターに持って行けば、有料ということだ。私は生ごみをごみとして出したことはない。紙も(正しく言えないのが残念だが)かなり出さない。だから人より50%は少ないと思う。燃やせるごみはかなり少ない方だ。しかし、ごみ処理費は減額されていない。ごみ処理の流れが、良くないことが主たる原因である。

これについては、生ごみ検討委員会に加わって、それなりの方向付けを出したのだが、小田原市はついに実行しなかった。せっかくの市民参加のシステムも、理解されなかった。久しぶりに環境事業センターに行って、何一つ変わっていない。やっぱりだめだったということを痛感した。質問したいと考えていたことがあった。ごみステーションに、自治会に入っていない人が出せないのか。これについて、大村市会議員がタウンニュースに意見広告を出している。これだけでは出せないのか、出せるのかよく理解できない。ごみを出させないということが、自治会加盟の根拠になっている事だけは分る。多くの自治体が、判断を自治会にゆだねている問題。ところが、自治会というものがその役割の実態を失い始めている。しかし、行政はその仕事を自治会に委託しようとしている。そうした中、犠牲的精神のある人が我慢して担っている場合が多々あるのが現実。この問題については、改めて書きたい。
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戦争の始まり方

2014-05-29 04:14:59 | Peace Cafe


舟原の畑 10号 舟原も戦後は、すべてが開墾され、見渡す限り畑だったそうだ。大根を作り、たくあんを箱根の旅館に収める人がいたそうだ。それが少しづつ、山に戻りつつある。竹藪に成りつつある。




中国軍戦闘機が日本の自衛隊の偵察機に、30メートルまでの接近した。中国の最近一方的に設定した防空識別圏の中である。自衛隊機中国機2機にがスクランブル(緊急発進)したと発表した。中国は「中国とロシアの合同軍事演習を監視、妨害した」と主張、中国機は必要な識別と警備的措置を取ったとしている。小野寺防衛相は25日午前、「常軌を逸した近接だ。偶発的な事故につながる危険な行為だ」と懸念を示した。両者に言い分がある。もう一つは、中越艦船がにらみ合いを続ける南シナ海のベトナム沖で26日午後、ベトナム漁船が中国漁船に体当たりされて沈没した。漁船の乗務員10人は救助されて無事だった。さらに、ウクライナ東部のドネツク国際空港に26日未明、数十人の親ロシア派武装集団が押し入り政権側部隊に立ち退きを要求。インタファクス通信によると政権側は「違法に侵入した」親ロ派が武装解除に応じなかったとして26日午後に空爆したと明らかにした。不穏な雲行きである。

日中関係の悪化が始まったのは、石原氏のアメリカでの尖閣買い取りアピールからである。引き継いだ猪瀬氏が、5000万円を掴まされた事件と連動していると思っている。石原氏の暴走は今でも継続しているが、あのとき、国が買い上げないければ、東京都が灯台や港湾施設を作り、戦闘状態も起こりえただろう。今後日本が戦争に巻き込まれる可能性を考えてみる。まず、中国で内乱がおこる場合である。もう一つが朝鮮半島が戦闘状態になる場合。その他、世界各地にある紛争に日本軍が参加する場合。その他の可能性も常にあるが、おもに前者2つの場合を考えてみたい。中国では、ウイグル族など、少数民族の不満が増加している。背景には経済的な格差と民族差別が存在し、宗教的な対立も存在する。中国政府は、軍事力を強化する一方で、国際的にも、ロシアとともに、孤立化の道を歩み始めている。このまま行けば、どこかで不満が暴発する可内乱が能性がある。そこで目をそらすために、海外に対して緊張を作り出すことになる。

アメリカが中国の標的になるだろう。その意味で、ロシアとの軍事的連携はさらに強まってゆく。その一方、アメリカの軍事的支援を期待するのは、日本だけでないだろう。ウクライナ問題でアメリカに同調させられた日本政府の不明な態度の理由がここにある。中国の周辺国は中国の衛星国になるか、アメリカとの同盟関係を強化することになる可能性が高い。緊張が徐々に高まってゆく。一方中国は国内の民族的紛争が深刻化するおそれが強い。同時に格差問題、人権問題、等深刻化してくる。その流れを食い止めるために、どこかで戦闘状態を作り出そうと、武力的行動に出る。こうした内乱的中国の国内事情に応じて、ある中国内の勢力がアメリカや日本に共同戦線を求める。人権とか、正義とか、建前論が登場し、大東亜の平和論の再現がないとは言えない。劣った愚かな中国を正してやる的な暴走。

もう一つの朝鮮半島での有事。北朝鮮と韓国が戦闘状態になる。背景には、中国とアメリカがあり、アメリカは、日本、韓国と同盟関係にあるのだから、北朝鮮に対して軍事行動を取ることになる。日本がこの戦争に巻き込まれてゆくという可能性。北朝鮮が戦争状態に持ち込むときは、常軌を逸したときである。国内の事情もあるかもしれないし、金ジョンウンが幼稚な冒険主義で暴発する時である。その時には日本の憲法の解釈など、関係がない。常識的な判断力がある間は、最終的に自らが滅びる道に進む訳がない。当然日本本土への原爆の投下まで予測せざる得ないだろう。こういう暴発的な想定では、常識的な抑止効果や、生半可な防衛能力など何の意味もなさない。日本の戦争のはじまり方は、この数年かなり現実化してきている。しかし、何としても防がなければならない。それには、過去の軍拡競争から、戦争に至った失敗から学び、新たな平和戦略を構築する以外にない。平和的手段が、どれほど頼りないものであっても抑止力等、逆効果以外の何物でもないことを考えなければならない。
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温泉地学研究所

2014-05-28 04:12:43 | 地域


雲海 10号 谷間の村はもう暗く、明りが目立っている。遠くの山は赤く染まった海のような雲に浮かんでいる。




新任自治会長研修で、神奈川県の施設である温泉地学研究所に行った。研究所の行竹洋平技師は、「内陸地震の発生過程に関する研究」で、「2013年度日本地震学会若手学術奨励賞」を受賞している。レベルの高い研究施設である。道家さんという職員の方から、この地域の地震と火山爆発について丁寧なお話を聞くことが出来た。この施設には、温泉という名前があるように、箱根等の温泉を調べるために、1961年に温泉研究所として設立されたものである。1995年に地球博物館の隣の場所に移転した。展示などもあり、誰でも見せてもらうことができる。展示を見ていると、なんともいつ、富士山、箱根の噴火や、地震や津波が来るかもしれないという気分になる。過去の災害の説明が中心である。何とも災害地域なのかと思ってしまうが、たぶん日本中調べれば調べるほど、忘れられた災害が出てくるはずだ。箱根では昨年群発地震があった。何年か前には震度6の大きな地震もあった。箱根は今もガスが大涌谷で噴き出ている。マグマが地下7キロから10キロにあって、この変化を測定しているそうだ。群発地震は収まってきていて、今のところ噴火の兆候はないそうだ。

GPSで箱根の向こう側の裾野市と研究所との距離を細かく測定を継続しているそうだ。この距離が広がることと、火山性のガスの噴出量が増加は連動しているそうだ。群発地震がおおいい時期は2センチほどの広がりがあったそうだ。しかし、マグマが上がってきた場合は、もっと大きな距離が開いてくると推測されるそうだ。現在のところ、群発地震は収束して噴火の可能性は近づいてきていないそうだ。安心した。そして、最近よく言われる、富士山噴火である。まず、1707年の宝永の噴火の被害の話に成ったが、これについては先日、南足柄の老人大学で細かな、前兆現象など教えていただいたので、前兆としてあった大地震の意味には、興味があった。火山灰は、小田原では8センチくらいのもので、山北では30センチだそうだ。これは実際に山北でも小田原でも開墾をしたので、体験的に実感している。火山灰はガラスで細かいので灰色に見えると言われていた。

灰はそうだが、実際降り積もったものは、1センチから2センチほど火山礫である。これでラン栽培が出来ないか、色々試してみたことがある。使い方によっては有用なものである。富士山では2011年3月15日にマグニチュード6.4の地震があった。これが富士山噴火の前兆ではないかと、心配された訳だ。道家さんの話では、2000年にマグマの変動による地震が多かったということである。富士山もGPSで測量がされていて、ふくらみの変化が刻々わかるそうだ。当然微細な地震の測定もされている。何か富士山に聴診器をあてて、診察しているようだ。そうした測定が整備されてきているので、噴火予測は数日前には予測できる可能性が高いそうだ。これを聞いてずいぶん安心できた。不安を煽るテレビは視聴率が高くなるので、テレビはまるで明日にでも起こるような作りがちである。

小田原は、何とも世界で最も複雑なプレートの衝突場所である。太平洋プレート、北米プレート、フィリピン海プレートが交差しながら潜り込んでいる。伊豆半島は島として誕生し、プレートの移動で日本列島にぶつかって半島に成った。その根本なのだから、大きな火山が当然存在する。過去の9つの地震による地域の災害や、また今後の災害予測はEかなマップに出ている。という説明があった。私もこれは時々見ているが、まだ土砂災害等の調査が不足していて、それほど精度の高い予測とは思えない。しかし、見ていると興味深いものがあることは確かである。占い師の様な災害予想師による、地震や噴火の予測がインターネットでは流れることがある。いつ起きてもおかしくないと言われる状況の中で出てくるので、動揺する人もいる。こういう施設には十分な予算措置をして、精度の高い機器を導入し、正確なデーターをさらに深めてもらいたいと思う。
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棚田の田植え準備

2014-05-27 04:28:21 | 稲作


波 10号 波だけを良く描く。一時描く気に成れなかったが、今は又描いている。




欠ノ上田んぼは棚田である。全体で3反ほどの田んぼだが、11枚に分かれていて、段差は全体では5mほどあるのではないか。入水の経路は複雑で、3つに分れていると言えるのだが、大きく2つの経路が途中の7番の田んぼで合流するようになっている。10番、11番は入水口がなく、そもそも湧水で作っていたらしい。10番には塩ビ管で8番から水路をまたいで水を入れるようにした。11番は今でも湧水だけで作る田んぼだ。昨年覆田してもち米を作った。実際に田んぼで説明しても、1年ぐらいでの参加では理解しにくいほど、分りづらい状態である。また、隣接して耕作している上の田んぼと、下の田んぼ人たちの、水を優先しなければならない状況なので、その水廻しの複雑さは、なんとも言えない。たぶん棚田というものは、こうした水で繋がる、運命共同体と言えるのだろう。今は、久野川の上流部の方で、代かきのピークで川からの入水自体が、減少している。雨が少ない訳ではない。

一昔前までなら、流域の田んぼということで、田植えの時期も調性がされていたことだろう。今は田んぼ自体がだいぶ減って、水が足りないというようなことはない。それでも、代かきを行うためには、少ない水を上手く回すために、工夫がいる。当然のことだけど、入水口から水漏れがないように、代かきをしながら徐々に下の田んぼに水が入るように、水を廻してゆく。その為に、3反の田んぼの代かきに、1週間ほどの時間が必要になる。同時に、田んぼの畦からの水漏れが頻繁に起きるので、常に直し直しである。これを繰り返していると、成るほど手入れの力というものを感じるようになる。完全になおそうなど出来ないので、その場しのぎを繰り返す。いつも気になる部分を残しながら、綱渡りをしていても何とかなるという精神である。この為に、ついつい田んぼに日に3回も行くようになる。まあ、それが楽しいといこともあるのだが。

水を水尻から排水するということはない。水を廻して、一番下の田んぼで、浸み込ませてしまって終わりである。それは途中で水漏れが起きているということもある。そもそも一番上の入水口で入れられる水の量が限定されているためでもある。しかし、不思議なことはそのしみ込んでしまう、最後の田んぼが収量が多いい。水が足りないということは、乾いていて草が出るといことになるが、草さえよく取れば、水の量はそこそこでもお米はできるということのようだ。この草さえ取ればがそう簡単なことではないのは、当然のことではあるが。しかし、昨年の経験ではヒエは、見たら田んぼに入って取っているのだが、10本ほどしか生えなかった。8センチ以上の水位を保つことがある程度できているということになる。ソバカス抑草がそれなりに成功しているということでもある。トロトロ層の形成である。まだトロトロ層については、把握しきれてはいないのだが。田植えが終われば、ソバカスの散布をする。

コナギやクログワイやセリはそれなりに出てくるのだが、早め早めの、コロガシで対処している。トロトロ層を作り、それをコロガシで天地返ししてゆくという感じだ。表土を発酵状態にしてゆく。その見極めは泥の匂いでしている。匂いのしないのがいいのではなく、良い発酵の匂いがするようにソバカスを追加して行く。ソバカスは土壌の為でもあるのだが、表面に浮遊して日照を制限しての抑草効果もある。米糠より全面に広がり、散布しやすいということがある。入水口に播く場合と、風上から播くことがある。一番上の、保温の為のクワイを植えたため池にソバカスを播いて、下の方に順繰りに廻すということもできる。ある程度は追比の効果も期待できる。散布回数や量は生育や草の様子を見ながらであるが。1反50キロぐらいは播くだろうか。今日は、残念なことに自治会長研修ということで一日つぶれる。こういう時に研修日を持ってくるあたりに、小田原がすでに、農業から離れていることを表している。
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家族の事件と監視カメラ

2014-05-26 04:17:15 | Peace Cafe


鳥海山の村 10号 田んぼが美しかった。田んぼの作業の人に邪魔だからどけと怒られた事を思い出す。確かに絵を描いているなどということは、邪魔なことだ。





監視カメラの設置が増えている。先日の自治会長の会議では、ごみをでたらめに出す人がいるから、監視カメラを付けてほしいという行政へのお願いの話があった。よく考えてみたら怖い話である。監視カメラについては、凶悪犯罪が増えているから、仕方がない側面があるというのが、大方の人の感想だろう。これは事実が違っている。凶悪犯罪は、減少している。そもそも犯罪の少ない国だった日本が、さらに犯罪総数は減少している。しかし、一般には凶悪犯罪が増加している印象が植え付けられている。テレビや新聞の作った虚像である。意図的に作っているというよりも、報道機関のイデオロギーが後退していることが原因と考える。つまり政治報道をきちっと出来る能力を失ってきている。その代わりに野次馬的な報道で、読者、視聴者をつないでいる。ネットの中に展開されている様々な意見の方が、新聞よりよほど興味深い見方がある。ブログではその仕事をしている人が、その仕事の問題を書いている。

本来の報道よりも、経営を考えた3面記事的な記事が増加している。昔の新聞は政治的思想を主張するために作られた側面が強かった。所がいまの報道の頭の中は、経営や経済が中心課題だ。そこで消費者の興味を引く事件報道が中心になってきた。しかも、後追い報道が大半なので、一つの殺人事件が根掘り葉掘り、ほじくり返されるものだから、事件の増加印象が生まれるのではないか。凶悪事件の減少は確かなことだ。ところがその反面、悲惨な家族の事件は増加している。親が子供を虐待する事件や家族間で起きる尊属殺人。根本には、核家族化と貧困が考えられる。核家族化して子育ての力不足が起こりやすい。もと同居人のストーカー行為からの、凶悪犯罪も熱心に報道される。類似事件としては韓国のフェリー沈没事件は盛り上がる典型パターンである。残された映像が、監視カメラのように真実が明らかになってゆく。いずれもどうでもいいとは言わないが、何の意味で、報道しているのかという報道の精神が怪しげな気がする。

何故、家族内の事件だけは増えてしまっているかを考えてみる。格差社会の貧困が主たる原因と推測される。そもそも日本的と言われてきた親子心中というものが、親による、子供に対する殺人ととらえる意識が、日本社会には希薄なのではないか。子供は殺されたのであって、自殺したのではない。日本的な家族関係がこの意識の背景に潜んでいる。子供が親とが一体化していて、一心同体という意識である。この親子関係が自分が自殺した後に、残された小さな子供がどうなるかと思うと、一緒に死んだ方がいいと考えてしまうのだろう。こうした自立できない意識が、増加している家族の事件の、背景になっているのではないか。苦しんでいる親を殺してしまう事件。ストーカー事件でも、対象への依存の背景に、自立した人間でないということがある。自立せず、どこか他者への責任転嫁、失われた自己確認のためにストーカになる以外に自分を保てなくなる。

監視カメラは場合によっては有効なものである。しかし、家族の事件には機能しない。必要な所には、付けざるえない社会状況がある。法律で設置できる場所を決めて置く必要がある。どこにでも監視カメラがあって、いつの間にか写されている社会が良くない。子供の虐待をしかねない家族には、監視カメラを義務ずける。その内、政府の文句ばかり言う、私の様なものはテロをしかねないから、監視カメラが必要だ。当然盗聴など当たり前のことになる。チップも埋め込んでおく方がいい。犯罪は減っているのだ。にもかかわらず、不安が増幅されている。これは、国境の緊張状態でもそうなのだが、誰かが意図してやっていると考えた方がいい。不安をわざわざ作りだし、監視社会を作り出そうとしている意図がないか。注意深く見ておかなければならない。強い権力を持とうとする者はいつも不安なものだ。
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水彩絵の具について

2014-05-25 04:20:06 | 水彩画


爪木崎の朝日 10号 朝日と夕日は描かれた絵では一見似ている。しかし、その場に立てば全く違うものである。この全く違う空気を書きたいと思っている。





水彩画は水彩絵の具を使う絵である。水彩絵の具は微細な顔料をアラビアゴムで溶かして、良く練ったものである。チューブに入ったものと、グリセリンを加えて固めた固形のものとがある。エジプトの古代文明ではすでに使われていた。水彩絵の具は透明度が重要なものなので、細かな良質な顔料を使う。顔料は細かくなればなるほど、白濁する。これをさらに純化して透明度を高め、彩度の高い顔料を取りだす必要がある。良い絵の具の製造は手間のかかるものになる。この為に、良い絵の具は高価になる。なかなか満足の得られる絵の具はない。正直、もっとこういう絵の具があればということになるが、仕方がないという妥協の気持ちで、ニュートンを中心にして使っている。しかし、ニュートンも実に色が悪くなった。濁りがあるし、彩度が落ちた。それでもシュミンケなど他の絵の具も使う色もある。我慢するしかない。どうも正確なことは分らないのだが、公害対策ということで、毒性のある顔料は精製が難しくなったらしい。そこで、先進国では作りずらくなっているので、中国で生産しているという噂もある。

どんな会社の絵の具を使うかという問題とは別に、どんな色を使うのかがある。1、コバルトバイオレット2、セルレアンブルー3、コバルトブルー4、ウルトラマリンブルー5、カドミュームレット6、カドミュームイエロー7、カドミュームレモンイエロー8、ニューガンボージュ9、ローズマダ―ジャニュイン10、コバルトグリン11、ビリジャン12、ローシェナ―。そして、13、ブラック14、ホワイト(その場に応じて色々)白黒は特色という形で普通は使わない。どの色も、良いグレーを混色して作れるということが基準に成る。この12色のあらゆる組み合わせで、色を作ってゆく。色数を多くしないのは、この12色で出ない色はないからだ。たぶんこの順列組み合わせ数に加えて、色の割合の違いまで考えれば、無限と言える色が可能である。特に紙の白が全ての色に加わる。また紙による吸い込みによる変化も多様。絵具自体の濃度によって、水分の量によって、さらに多様になる。使う色はむやみに増やすのでなく、最低限の色数で、無限の色が作れるようにしている。

混色をほぼ無制限にする訳だから、各々の色は、出来る限り彩度が高く、透明度は深く、濁りのないい絵の具が良い。それで選んできた12色である。絵具は混色せずこのままに描くことが、保存性からいえば望ましいが、それでは色の巾が出ない。名前の付くような色のみで描くべきだというマチス的な考えもある。純度の高い色に置き換えて描くことで、絵画のあいまいさを排除する考え。ところが、日本の自然を描いていると自然の持つ色彩のあまりの多様さに、曖昧さなしに表現しきれない感じを持ってしまう。水墨的に色彩を殺して考えれば、あらゆる調子と明度が複雑に絡み合った自然ということになる。自然から学ぶものが全てと思うので、混色を行い、色の微妙な調子を加えてゆくことになった。それが出来る絵の具が良い絵の具ということになる。当然、絵具を作る段階で顔料や体質顔料を混ぜたものは、使わない。

絵具は、会社によって名前も材料が違う。同じ名前でも材料が異なる場合すらある。いつの間にか変わっているということもある。時々調べておく必要がある。水彩絵の具には、対向性の弱い絵の具もあるので、対光性のあるものにする。コバルトバイオレットが濁りがでてしまったので、多くはシュミンケのマーガニーズバイオレットを使う。いずれ、グレーを作って気に入った色になるかならないかが、絵具の選択の基準である。チューブの絵の具を基本にして、ビリジャンは固形を使っている。ビリジャンも変わってもう一つ良くないので、昔買いためた固形の絵の具の在庫を今のところ使っている。チューブの絵の具もパレットに出して、半乾きの状態で溶かしながら使う。絵具は大量に購入し在り余るほどなければならない。無駄になる絵具も多いが、どうせ描いた絵だって無駄になると思えば、仕方がない。
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原発否定判決が出た。

2014-05-24 04:50:01 | Peace Cafe


黒姫山 10号 朝空が少しづつ明けてきた。朝色も目覚める。生まれ変わる。始めて色彩が見えた時の新鮮な感触。水墨から、色彩の世界に変わる時、色というものの価値と意味を知る。色即是空とは良く言ったものだ。




司法は生きていた。心ある裁判官が居た。日本の為にはそうあってもらわなければ困る。国内の原発訴訟で住民側が勝訴したのは、高速増殖原型炉もんじゅ(福井県敦賀市)の設置許可を無効とした二〇〇三年の名古屋高裁金沢支部判決と、北陸電力志賀原発2号機(石川県志賀町)の運転差し止めを命じた〇六年の金沢地裁判決だった。原発事故前には、司法は安全神話を補完する役割しか出来なかった。どう考えても危険きわなりないという、住民の訴えに対して、跳ね返す判決だけを行ってきた。そうして、福島原発の大事故を起こした。間違ってしまった司法判断には、大きな責任があるはずだ。原発問題にまともな判決が出せなかった裁判官には、失望を重ねてきた。柏崎刈谷の事故の際は、原発の安全性について見直す、ラストチャンスだったはずだ。しかし、司法は見直しが出来なかった。今回はりっぱな判決が出た。司法は生きていた。司法を動かすのは、住民運動だと言われた梶山弁護士の言葉を思い出した。勇気を持ってこうした、正しい判決が出された意義は、極めて大きい。

樋口裁判長は「生存を基礎とする人格権は憲法上の権利であり、法分野において最高の価値を持つ」と述べ、差し止めの判断基準として「新規制基準への適否ではなく、福島事故のような事態を招く具体的な危険性があるか」を挙げた。「使用済み核燃料も原子炉格納容器と同様に堅固な施設によって囲われてこそ初めて万全の措置と言える」判決は、福島第一原発の使用済み核燃料プールをめぐるトラブルで250キロ圏内の住民の避難が検討されたことを踏まえ、大飯原発から同じ距離圏内に住む原告166人について差し止め請求を認めた。判決文がメールで送られてきた。あまりに嬉しいことで、涙が出たというのだ。国会前で再稼働反対と叫んだ時のことを思い出した。何度叫んでも空しいと事だと思いながら帰ってきた。それでも我慢できずに、叫びに行ったのだが、司法だって福島事故で変わった。また変わらなければおかしい。何万人もの人がすでにふるさとを離れ、帰れる見込みすらない。今回の判決は、ごく普通の人間が、福島事故を経験した結果、当たり前に考える判決だ。

こんな事態を見ながらも、人が死ななかった大した事故ではない、との声が自民党から出てくる。そして安全基準を見直したとして、再稼動である。原子力村で日本を破滅に導こうとしている。地震国日本で二度と事故がないというのは、安全神話そのものだ。日本の様な地震国、火山国では、原発のような施設は無理なのだ。原発事故の不幸を幸いの機会に変えない限り、この国に未来はない。自然エネルギーの生産国になることだ。自然エネルギーの有効活用で、原子力のようなリスクのあるエネルギーを使わない国になる。そして、自然エネルギー施設の輸出国をめざす。それが平和憲法の国日本にふさわしい、未来産業に違いない。原発の背景には常に、原爆の影が存在する。核保有国による、力の政治だ。日本がそうした枠組みから抜け出て、新しい世界平和の道を示すことこそ、平和主義国家の道だ。

中国も、韓国も、日本の軍事強化に批判的だ。それなら、日本との間で一切の軍的脅威を無くす、平和同盟の様な努力を、互いに行うべきだろう。日本は侵略戦争をおこし、周辺国に多大な被害を与えた。そして原爆投下という、悲惨な結末を迎えた。敗戦という情けない結果から、経済的努力でやっと息を吹き返した。しかし、最近は、その行きすぎた経済主義の為に、原発再稼動、そして日米同盟の強化、核保有すら視野に入れ始めている。その為に大企業重視の政府は法人税の減税である。TPP締結である。原発に伴う、事故の悲惨な現実を忘れようとしている。判決では人の命と経済性を較べることすら否定した。温暖化問題よりも、放射能汚染問題の重大さを指摘している。政府も、関西電力も、平静を装うコメントを出している姿が却って、この判決を深刻に受け止めている証拠だ。原発0の道が少し見えてきた。

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ヤンバルの蜂蜜

2014-05-23 04:08:18 | 暮らし


畑の中の鉄塔 10号 景色を壊している鉄塔と、景色を作っている鉄塔がある。





今帰仁城跡の好きな眺め

今回の沖縄行きは、古謝さんの歌を聞くこと。そしてもう一つの目的が、ヤンバルのオーシッタイ(大湿帯)という所に移住した蜂蜜やさんを訪ねることだった。やんばるの蜂蜜を食べてみたいと思って探して、ときわファームというものが、オーシッタイというやんばるの山中にある事が分った。タチアワユキセンダングサ(通称サシグサ)蜜という物を見つけた。沖縄に行くと今の時期至る所に咲いている草の花だ。この花の蜜を集めて、蜂蜜としている。きっとヤンバルの香りがすると思った訳だ。ますます、オオシッタイ(大湿帯)という所に行ってみたくなった。調べるとなかなか興味深い所のようだ。藍染をやられている上山さんという方も30年も前に、オオシッタイ移住したらしい。昭和55年に大阪から当時1人の住民(崎山朝吉さん)だけという廃村寸前状態にあったオーシッタイに入植されたとのこと。藍はヤンバルの山の中で暮らす人たちの、欠かせない作物だったらしい。ヤンバルの山中に寄留してきた人たちには土地がない。険しい山の暮らしの中で、まず始めるのは藍作り。と書かれている。

自給自足で暮らしたというヤンバルに寄留した人たちの暮らし。沖縄で使われている寄留という言葉は様々な意味があるようだ。大阪からの寄留商人。那覇からの寄留士族。中国からの寄留民。他所から来た人すべてを示すようだ。やんばるのような厳しい環境に入植する人たち。何重にも加わる、圧政から逃れる。あるいは、権力から強制的に寄留させられる。こうして、寄留という言葉がふさわしい、人の暮らしが生まれたのだろうか。大正中頃のヤンバルには200余りの開墾集落があったという。現在44集落で,残りは廃村になった。ここでいう開墾集落とは,主に明治20年代~30年代に国策的にできた集落国(沖縄県)は,明治12年(1879年)の廃藩置県により失職した琉球王府勤務の士族層(人口の2~3割)の救済のために,ヤンバルでは杣山(そまやま;公有林野)の開墾を推進した。これが寄留士族とある。下北に送られた、会津藩士族を思わせるものがある。暮らすに困難な地での開墾生活。

そして今の、20軒ぐらいありそうな移住民の集落的なオーシッタイ。1970年代のヒッピー文化的移住の香りが少しした。当時の写真から比べると、現在のオーシッタイはどことなく、老齢化とジャングル化が感じられた。ともかく緑が深い。湿度が高い。川が流れている。梅雨時にもかかわらず晴天になって暑い。沢山の梅の木が植えられていて、丁度成り頃であった。蜂蜜をやられているカフェー:シャクマールの常盤さんは20年前に、静岡から移住されたのだそうだ。どこか外国に移住したいと考えて、場所を探していたのだが、たまたま沖縄のオーシッタイを案内される運があり、一目でここに移住を決めたそうだ。静岡市内に暮らしていたそうだから、外国と言えば外国の様な所と見えたのかもしれない。岡山から移住された木工をされる方がやはり暮らしていた。その人の情報から最初この集落を知ったのだが、この方は今は岡山に戻られたそうだ。

トキワファームのミツバチの箱は、やんばるの森のあちこちに点在して置かれているそうだ。一か所にまとめて置くのではなく、広い範囲に置いて、管理に一日かけて回るそうだ。蜂蜜は7年前から始められたと言われていた。蜂蜜をやられて、やんばるの環境が変わってきていることを感じる、と言われていた。こうした所の珍しいカフェーということで、観光客が案外に来るのではないかと思う。ラオスの民芸品が所狭しと置かれていたから、外国というのはアジア方面なのかな、などと思った。家も自作ということだ。来たときはまだ若かったから何でも出来たと言われていた。それは私にもよく分る。開拓暮らしが楽しい年齢というものがある。オーシッタイをぐるぐると回ってみたのだが、上山さんの藍畑の管理が行き届いていることが印象的だった。機械を使っている印象もない。この緑濃い森の中で、畑をやる困難を思うと、上山さんの所は人手があるのだろう等と思いながら、オーシッタイを後にした。
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古謝美佐子さんの歌を沖縄に聞きに行った。

2014-05-22 04:15:50 | Peace Cafe


根府川海岸 10号 根府川の海岸線は古くから農業に開けた。根府川海岸の軽便鉄道は芥川龍之介の小説「トロッコ」と、志賀直哉の小説「真鶴」の舞台である。





古謝美佐子と仲間たち ~沖縄の心を歌い紡ぐ~を聞きに行った。身体全体が沖縄の歌に堪能した。魂を揺さぶられた。沖縄から戻り、まるで生まれ変わったような気分だ。歌の力というものを、まざまざと体験した。沖縄の歌がすごいということもあるのだが、古謝さんの人間力の大きさがすごい。実に人間存在として魅力的で、人間はここまで行ける、すごい生き物なのかと感動した。歌も人間が歌っている。当たり前のことだが、改めて人間が、歌によって人から、人へと伝えてきたものは、なんとも魅力的で尊いものだったのかと思う。今回のコンサートは、初代ネーネーズの再結成であるうないぐみとしても歌った。一度聞いてみたいと願っていたものが、熟成しての登場である。「うないぐみ」は姉妹ということらしい。名前が変わったが、あの力感あふれたハーモニーは少しも変わっていなかった。変わらないどころか、さらにすごく、すごくなっている。古謝さんは60歳で還暦だそうだ。60歳の人間にしか歌えない歌を聞くことが出来た。

歌の持つ本来の力は、人間の魂が発する声なのではないだろうか。今回のコンサートでは、特別に生の声で歌いたいということで、沖縄のたぶん八重山の古民謡と思われる歌を、自分でサンシンを弾きながら歌った。宜野湾のコンベンションホールというところは、3階席まである、大きな会場である。1740人という会場。そして満席の観客。ここで生で歌う、歌唱の力量の凄さ。静かに歌った。その声は、会場を満たし、空の果てに消えゆく様だった。この古民謡が始まると、会場の空気が一変した。荘厳な悲しみが、沖縄の悲しみなのか、人間の悲しみなのか、魂が凍りつくようで、ただ一つのしわぶきもない。静寂に包まれた。波静かな、月光に明るい浜辺になった。言葉は分らないが、沖縄のどこかにある島の美しさと、豊かさと、悲しさと、そこに生きてきた人間の発する歌がある。生の人間存在を歌という形で、示めされた。歌が私の人間の底に届く。稀有な体験をさせてもらった。

沖縄で聞いてよかった。沖縄の人たちの中で、作り上げられる明るい空気は、この悲しみに満ちた歌を、限りない美しいものへと変えてゆく。この歌がどういう歌だったのかは、まったく分らなかったが、1995年ネーネーズを辞める時に、古謝さんは古い沖縄の歌を勉強したい。と言われている。たぶん還暦を迎えた今のその解答を出そうとしたのではないか、と思った。沖縄の八重山の古い民謡では、2重3重の差別の中で、逆説的な美しい歌を創造する。美しいと歌えば歌うほど、移民され、棄民された悲しみが溢れる。戻りたい心を背景に秘めて歌いながら、暮らしている土地の豊かさを、言葉としては歌う。全く言葉の意味は分らないのだが、魂が発するものは、私のような音楽に無知な鈍感な人間にも切々と響き、届いた。伝統的なものの上に、今生きている命がほとばしる。

沖縄の平和の願いのことも、何度も言われていた。悲惨な戦争という体験を生かして、平和の島沖縄を願う。そういう思いを込めた歌を歌う。今日の日も沖縄返還40年の様々な活動があることを言われた。そういう思いを込めて歌を歌うと。さらに、70歳になったら70歳の歌を歌うと言われていた。古謝さんのCDには、9歳の時の歌が入っている。9歳の時の歌で十分なのだ。そして、60の今の歌も60としての十分である。全く年々その通りだ。表現者に引退というものはない。生涯その時々に出来ることをする。それが生きるそのままであり、生きるということをしっかりと踏みしめるということに違いない。出来れば沖縄で、又古謝さんの歌を聞きたいものだ。沖縄という文化を産み出している根っこが、、未来の社会の可能性を感じさせるからだ。沖縄がいつまでも沖縄であってほしい。
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腸内細菌

2014-05-21 04:20:17 | 暮らし


志賀高原木戸池 10号 田の原湿原という標高1000メートルを超える場所から、見上げるように描いている。前山の紅葉と後ろの山の影が何とも面白かった。







藤田紘一郎 東京医科歯科大学名誉教授。免疫学者。
 私は今の若い人よりも、腸年齢は若いという自信があります。なぜなら子供の頃に、野山でカエルやヘビを食べて、川底にはいつくばってウナギやナマズを捕まえ、菌をたくさん腸に入れたからです。O-157に感染して重症化する人、軽い下痢で済む人の違いは、腸内細菌。普段から腸に雑多な菌を入れていれば、腸内細菌が鍛えられて大事に至らない。インフルエンザやノロウイルスが猛威を振るい、花粉症やアトピーが増えた原因は、行き過ぎた清潔志向が免疫を低下させているためです。
 泥まみれになって遊んだ子供は丈夫で、風邪をひきにくいものです。大人も、衛生的にはある程度おおらかなほうがいい。私は抗菌・除菌グッズは使わず、手を洗うときにも薬用せっけんは使いません。「落ちたものも食べる」くらいが、本当は腸にとってはいいのです。


藤田先生の言葉は、とても大切な考え方だと思う。山の中で育った子供時代は、藤田先生と似ていて良かったと思う。「汚いはきれいで、きれいは汚い。」である。鶏の育て方で、このことは何度も経験して、身にしみて知っている。ヒヨコを育てるときに、近代養鶏では隔離的な育て方をする。地面と接すると病気をするから、地面から放して、バタリー鶏舎で飼う。餌は抗生物質入りである。ワクチン注射を何度も行う。鶏舎はウインドレスで外界との接触をできる限り避ける。その結果病気はせず成長する。しかし、長生きは目的にもされていない。私の所の養鶏では堆肥の上で雛を育てる。外に出して遊ばせる。死んでしまう雛もいる。薬は一切使わない。しかし、生き残った鶏はめったに病気をしない鶏に成る。ニューカッスル病の自然免疫すら、持っている鶏に成る。それは、育つ過程で、厳しい淘汰の試練を受けているからである。ヒヨコがわずかに病気をして、それを乗り越えることが重要なことなのだ。

人間が困るのは、淘汰が出来ないことである。人類の素晴らしさでもあるのだが、だんだん人類が弱くなってゆく。私は虚弱体質であったが、生き延びてきた。こうした結果を繰り返しながら、人類はかなり弱い体質に変わってきている。だから、汚い環境に放り込まれたら、生き残れない人種もすでに多数居るとしなければならない。最近の、集団食中毒を見ると、何やら日本も危うい状況にあるような気がしてくる。こうした方向に社会環境を推進するのも、経済競争ではないだろうか。医薬品業界は、自然免疫などと言っていれば商売にならない。消毒、殺菌、の方がいい。毎年変わるインフルエンザウイルスを追いかけて、効果があろうが無かろうが、より多くの人にインフルエンザワクチンを打たそうとする。国も、効果があるのかないのか不確かな、薬の備蓄に何10億円もかけて、使わずに期限切れで廃棄である。それが経済効果ということになっている。その莫大な利権のために、国連のWHOまで収賄罪が及んでいる。

テレビでは、除菌剤のスプレーまで宣伝されている。黒い煙のような、悪い菌の蔓延した部屋の映像がデモンストレーションとして流されて、恐怖を煽る。畳や布団にはダニがうじゃうじゃいて、いたたまれないような状況だと説明される。すべては、製品を販売したいからである。除菌剤など使わないでも人間は健康に生きられる。むしろ、使わない方が健康体が出来あがる。私はそうしてきたし、それを証明するためにも、100歳まで生きるつもりだ。子供のころから常に下痢をして、おなかが痛かった。虚弱体質の代表のような小学生時代であった。しかし、中学に入って皆勤賞になった。今は無事64歳を元気に暮らしている。ともかくテレビの宣伝は金もうけの為に作られているものだ。除菌、殺菌キャンペーンに洗脳されてはならない。

と言っても、汚ないほどいいというものでもないだろう。ほどほどの加減である。昔は、病気で沢山の子供が死んだ。江戸時代の暮らしを現代的に、生かすことではないだろうか。泥まみれにになって遊ぶことも大切なことで、土を不衛生ないものとして遠ざけるような発想は、自然免疫の能力を下げてしまう。発酵食品も大切である。人間の体は、自分の細胞数より、体内に居る微生物数の方が多いということである。そうした微生物が順調に育つように、発酵食品を沢山食べることだ。自然の食べものを取りこむことだ。免疫力を十分に付けながら、自然にまみれて暮らす。日本人は清潔好きな民族だと思う。その清潔が、除菌、殺菌に及んでいる。清潔は菌がないということではない。人間は菌だらけで、菌とともに暮らしている。菌を排除すればすぐ死んでしまう。要するにバランスが重要なのだろう。
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自治体消滅

2014-05-20 04:56:53 | 地域


瀬戸内の島 10号 瀬戸内を行くフェリーの中で描いたもの。瀬戸内の土の色は魅力がある。




2040年には自治体の半分が消滅する。日本創成会議の報告である。全くその通りだと思う。この予測は、私の肌感覚では、だいぶ前からの現実である。もちろん過疎地に人が全くいなくなる訳でもないが、集落が消え、自治体が消えることは確かだ。今の日本の方向は、世界との無理な競争に明け暮れている。それ以外生き残る道はないと、あえいでいる。墜落しかかった飛行機が、無理にエンジンをふかしているのだから、空中分解の危機が迫っている。何とかソフトランディングの道を探す以外にないことに気づかなければならない。誰にもそう感じられているのではないか。何故、自治体が消滅するのか。若い女性がまずいなくなるのだそうだ。若い女性が一番、暮らしの場所の移動の可能性が高い。田舎が嫌いということもあるのだろう。若い女性が自由にどこに行っても良いと言われれば、その時代の流行しているところにゆく。そういうことに一番敏感なのだから、当然である。田舎で百姓やりたいという若い女性は特例である。

都会の方がいいというのは、世界中の傾向だろう。田舎の人間関係に辟易するという人が普通。ふるさとの風景はいいのだが、ふるさとの人間は嫌だ。こういう人には良く合う。田舎にはパチンコやキャバレーがないから、若い者には住めないと言ったのは田中角栄氏だ。世界のどこにでも行ってみたいという夢を持つのが、若い人でなければ困る。しがらみとか、生活とか、親とか、資産とか、そこで暮らしてゆこうかなと引き留めるものがあるから、何とか田舎でも我慢した人が多いのだろう。しかし、若い女性は一番身軽だ。都会で、生きて行ける可能性が一番あるのかもしれない。実はこの女性が減少する地域の予測図には、西湘地域も入っている。私の住んでいる辺りは当然入っている。私は当然そうだと考えているが、現状では、私が越してきた14年前は、70軒だった集落が現在86戸である。このほか自治会には入らない家が2軒あるらしい。小田原は人口減少だが、久野舟原は人口増加である。これはなぜか。

小田原市全体では、2040年では若い女性は38%減少するとされている。50%を越えると地域が消滅するとされているらしいので、危ういところまで行くということだ。仙台の一部や安曇野市と同じ位に推計されている。こういう推計以上に減少すると考えた方がいい。政府のやり方では、切り捨てられているからだ。女性の登用とか、少子化対策とか、待機児童を無くすとか、口先では言うが、現実を見ればその反対のことが起きている。弱者がさらに追い詰められてゆくのが今の経済競争重視の結果と想像しておくしかない。転がり落ちている球は、落ちてからしか戻すことはできない。人口減少を本気で留めるなら、中途半端なことでは、到底無理である。フランスが成功例として最近いわれる。様々な、政策的な対策を徹底したということだ。そうした政策の効果が上がった背景に、フランス社会の地方尊重の精神があることも見て置く必要がある。そもそも、人口密度の低い農業を重視した国なのだ。

日本の場合、人口減少を前提とした地域の再生を考えるべきだ。人口が今の半分位に成ったとして、日本人がこの国土に暮らすにはちょうど良い加減だ。悲しむのでは無くこの事態を受け入れ、生かすべきだ。人口が半分になれば、今の食糧生産でも、自給率は80%になる。健全なものだ。どうやって減ってゆくなかでバランスを取り戻すかだ。その人口減少過程では、困難なことも多々あるだろう。しかし、それを乗り切れば、むしろ今より良い状態が生まれる。今減少を嘆いているのは、国際競争力の衰退と、地方の消滅である。人口が半分になってGNPが同じなら、一人当たりは倍増である。地方に暮らせる条件を作れば、必ず暮らしたい人は増える。山の中で暮らしてきたが、その暮らしの魅力は、計り知れない。あの魅力がある以上、暮らせるならそういう所で暮らしたいという人は増える。地方で暮らす人の役割を問い直すことではないだろうか。
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水彩筆について

2014-05-19 04:43:27 | 水彩画


瀬戸大島から見た2つの島 10号 






水彩筆は大きくは、日本画の筆から来たものと、ヨーロッパのコリンスキーに代表される水彩用のものがある。日本画の筆は、文字を書く用途から始まっている。文字が書きやすいというところから、文字に書き手の人格まで表現できるようにということで、微妙な筆触が反映されるように工夫された。その意味で多様性を受け入れ、個別性が強調出来るように作られている。ヨーロッパの水彩筆は、基本は刷毛から来ていて、正確に塗れるということが重視されている。幾何学的な意味での精確な太さとか、変化のない線とかが引けるということの方が重んじられている。そういう性格から、テンの毛ならテンの毛一種で作られている。日本の筆は外を取り巻く毛と中に置かれる毛が異なる。このバランスで、筆先の微妙さと、絵具の含み具合が調整されている。もちろん日本の水彩筆と呼ばれるものは、ヨーロッパの筆に学んで作られていて、単一の材料であることが一般的である。

私は日本画の筆というか、相撲字を書く様な筆を使っている。これも多様でどれがということはないのだが、隈取筆言われるものだ。清晨堂の水彩筆 というものがあるが、それではなく、清晨堂の隈取筆を使っている。一般にはないのだが、白雲というさらに太いものを作っていただいて使っている。先代の宮内さんという名人である。この方は、先々代のお父さんが名人と言われて、大観筆を作った人である。「先代の筆には及ばないと、いまでも言われているんだ。」と、最晩年言われていた。「日本画の人は嫌だ、筆を消耗品にする。その点水彩ならいい。」と言われて、私の希望した筆を作ってくれた。もう30年は隈取筆中心に書いてきた。隈取筆の別大2本と白雲2本を常に使う。加えて、豚毛のダビンチの18番の筆を使うので、基本5本で描いている。最近宮川さんの弟子だった阿倍さんという方が、水彩人という筆を出しているが、これは使ったことはないのだが、相当微妙な調子の筆のようだ。淡彩の人に向いているのかもしれない。

筆で重要なことは、手になじむことだ。大抵の場合は、使いこまなければその筆の良さは出ない。つまり水彩筆は使い育てる筆である。買ってきてそのままで調子がいいなどということはない。どうしても消耗して行くものだから、常に新しい筆を準備して、馴染ませて準備しておかなければならない。自分のくせや調子が筆に反映して行き、自分の筆触を作り出す。この筆触というものに自分の感じているその時の鼓動の様なものが、乗り移ることを願っている。油彩画の人に手の指で描くという人がいるが、手以上に自分の見ている微妙さが反映できる筆で無いとならない。先日、私の絵と交換で筆屋さんをされている、○○さんから、扱っているピカビアという筆を一式頂いた。戴いたので使ってみているのだが、やはり自分の調子とは違う。違うのだが、淡い調子を重ねてゆくには、良く出来た筆のようだ。なんやかんやと筆の数は、200本ぐらいになる。

水墨の筆が使えないかと、広島の熊野の筆屋さんを訪ねて、希望を伝えて作ってもらったことがある。今はなでしこジャパンに送られた化粧筆で有名になったが、そもそもは日本中の学校の書道筆を作っていた。その大量の安価な筆を作るので、一部の高級な材料が抜き出せたのだ。筆の原材料は玉石混合で輸入される。しかし、私には熊野筆はどうも使いずらいもので、上手くなじまなかった。水墨の筆は穂が長い。長いのだけど、腰があって自由がきく。だから、使い馴染めば良いということは分るのだが、私のように全力で擦りつけるような書き方だと上手く使えない。これは水彩紙と水墨用のドウサの無い和紙との違いだろう。筆触としては、油彩画のような筆触が欲しいのだ。
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それほどでない紅茶の作り方

2014-05-18 04:23:56 | 自給


西伊豆 10号 実は正確な場所が思い出せない。確か西伊豆も井田の先だったと思う。田子漁港を上から見ているところか。また行ってみたくなった。



紅茶も何度かやってみたが、なかなかおいしいものが出来ないでいる。昨年初めて粉砕してしまう方法をやってみた。世界で最も生産量が多い製法で、より短時間で茶を抽出できるように開発された。CTCとは、Crush(押しつぶす)、Tear(ひきさく)、Curl(丸めて粒にする)の略だそうだ。昨年はそこそこの成功をした。今年こそは、よりおいしいものをと考えて、紅茶の作り方を整理してみた。第一に、紅茶はいつの時期の、どのくらい成長した茶葉がいいかということがある。夏の茶葉を使うことがいいという製法が載っているが、これはいわゆる番茶(晩茶)と同じ発想なのだろう。夏の旺盛な茶葉を少し大きめに育てて、カフェインは少ないが、独特の味わいと深い趣のあるミネラル豊富なお茶になる。もちろん、春の一番茶の新芽を紅茶にするという発想もあって、どちらがよりいいかということは、好みによるのだろう。今回は、緑茶として摘み残した、一番茶が大きく成ったものを5月16日にお茶摘みをした。






新茶のお茶摘みが、5月4日と7日だったので、新茶から10日ほど経った所でのお茶摘みである。大きいから1時間だけお茶摘みをやったのだが、なんと、スーパー篭(買い物かご)に4杯とれた。重さで一かご2キロで8キロくらいだと思う。これを20時間陰干しをした。この陰干しを萎凋というらしい。要するに葉をしおらせるということになる。2度ほどかき混ぜたが、全体としては濡れて新鮮な感じの葉がまだあった。案外しおれないものだ。






次に挽肉の機械で、すりつぶしてゆく。鶏のひき肉を作るための機械なので、家庭用のもよりかなりパワーがあるものだ。それでもこれに2時間ぐらいかかった。ビニール袋の中に落ちてゆくようにしておき、3分の一が終わったところで、クーラーボックスに入れた。当然、冷やすのではなく保温のために使う。細かくしているときに熱を持つので、最初の温度は40度くらいには成る。クーラーボックスの中のの気温はは27度くらいで、茶葉自体は、38度くらいに下げてそのままである。やかんの水温で調整した。温度もどこが最適なのかは分からないが、この程度で今回は進めてみる。全体がが終わるころには、最初の袋は、すでに1時間30分から2時間の発酵が進んだ状態である。







まず、1時間30分発酵のものはすでに飲んでみた。何となく前回と同じで、味が弱い。前回より味はあるのだが、強い味とは言えない。私は強い味の紅茶が好きなのだ。大量に葉を使えばいいのかもしれない。後は2時間発酵のもの。3時間発酵のもの、5時間発酵、6時間発酵とつくった。発酵時間をの最適を探したいと考えている。発酵の温度は20度から30度が一般的なようだが、茶葉自体が熱を持ち始めるから、中心では40度に近い場合もある。温度の上がりすぎも感じたので、全体をほぐすように、手でかき混ぜしばらく外に置いてみたりした。良い香りがするところを探した。







一休みして、今度は乾燥に入る。乾燥はホットプレートを使ったが、作業としては、5時間くらいかかり一番大変な作業だった。温度は130度くらいにして、腕が痛くなるほど、かき回し続けた。15分くらいしたら、そこそこ乾いたことにして、広げて干した。乾かすと同時に、茶葉が100度を越えれば発酵が止まるということがある。広げて干せばなんだか香りが抜けてしまいそうだが、仕方がないので広げた。3,4日乾かしておこうと思う。部屋はそれは、それは紅茶の香ばしい香りで充満して、さぞかし美味しい紅茶が出来ただろうと思うがどうだろうか。今朝、6時間発酵のものを飲んでみた。こちらの方がいい。それほど発酵時間の差で味は変わらないものだ。紅茶になった。でも、6時間の方が少しいいという位にはなものだ。まだまだ研究の余地がある。紅茶も奥深いようだ。

23日に乾燥が終わり袋詰めをした。総量で2,5キロだった。
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地下水、放射能のデーター

2014-05-17 04:27:08 | Peace Cafe


能登の畑 10号 能登には学生の頃から、よく描きに行った。あの頃から何が変わって、何が変わっていないのかと思う。絵はそういうことが分るから面白い。






福島原発の流入地下水の放射能汚染の分析結果がやっと出た。基準値を下回った。産経新聞にだけ出ていた。東電が目標としている基準はセシウム134が1リットルあたり1ベクレル、セシウム137が1ベクレル、ベータ線を出す放射性物質全体が5ベクレル。以前水の放射能濃度をどうしたら分析できるのか、努力したことがあったが、今回はどういう手法だったのだろうか。1リットル当たりの最大値はトリチウムは240ベクレル、セシウム134は0.022ベクレル、セシウム137は0.047ベクレル。貴重なデーターである。地下水というものは、土中に浸透する時に、放射能をどこかに吸着して、水自体としては、濾過された後ということかもしれない。水を大量に必要とする、主食となるお米は慎重に測定をしてゆく必要がある。田んぼで毎日1反の田んぼで最低でも10トンの水が必要とすれば、690ベクレルとなる。これが100日間となれば、69、000ベクレルのセシュームが一作の耕作で田んぼに流入したということになる数字だ。

実際には田んぼから外に出るものもあるが、私の水管理では、田んぼから外に水はほとんど出さないので、田んぼの中に蓄積されてゆく放射の量と考えられる。すでに土壌にある放射能を一切無視した計算であるが。もし稲が水から放射能を10%吸収したとした場合、稲全体でキロ当たり11、5ベクレルのセシュームということになる。その内がお米に集まるものが10%とすると、1、15ベクレルということになる。土壌にある放射能の影響は、畑作と似たようなものとして、すでに2ベクレル以下になってきているので、合計しても問題ない数字である。地下水と川の水は異なるとは思うが、小田原で今年一番多く検出される田んぼでも、この福島原発周辺の水のさらに10分の1よりは低いと推測される。また、土壌に降り注いだ、セシュームが小田原でも100ベクレルあった。しかし、田んぼの土壌に蓄積されているかというと、やはり根が存在するあたりで、10ぶんの1くらいになっている。また残っているとしても何かに吸着されて、稲には吸着されにくい状態になっているようだ。稲の放射能の数値も、多かった時の、10分の1以下である。2ベクレル以下の田んぼが大半になってきている。このことは他の作物、畑の作物の放射能の変化から類推できる。

田んぼは、水から放射能が集積される可能性があるので、よほどの注意が必要と考えていた。以前野外に放置されていた、お茶の刈り込んだ枝葉が急激に放射能の値が減少したということを書いた。これは堆肥の肥料成分が野ざらしでは、大きく減少する姿とよく似ていた。雨によって肥料成分が無くなるから、堆肥は屋根の下で作らないとだめだと、昔から言われる。同じことが放射能でも起きている。それは水に混じり流れ出る。だから、福島原発に流入する水は、周辺の山から地下水に混ざり、流れ込んでいるはずである。この数字を知りたかったのだが、やっと今回これが分った訳だ。やはりこの結果は、海は申し訳ないが、まだ汚染は進んでいると考えなければならないだろう。特に河口付近の汚泥などには、今でも汚染は増加していると想像できる。又そういう調査結果もある。農業分野では、作物への以降は10分の1以下に成っている。

田んぼの土壌調査は今年はまだ必要である。そろそろ結果が出ると思うが、想像よりかなり早い減少が起きている。こうした放射能は、河口あたりに蓄積しているのだろうか。海でも、ある深さの海底付近に蓄積されるということも言われる。放射能が簡単に消えない物質である以上。時間とともに溜まってゆく場所はある。それはやはり海であろう。海産物についてはむしろ増えているものもないとは言えないはずだ。キノコや山菜のように、意外なものに放射能が多いということも分った。乾燥や煮詰める食品は放射能度が高まるものがある。イノシシや川魚が生物濃縮をするということもある。海の魚や、海藻の中には、放射能を集めている可能性もある。全体で見ればスーパーにあるような魚の大半は問題のない数字になっているが。まだまだ長い間、海底に居る魚、あるいは貝類、カニやエビ、海藻等は注意を要するのではないだろうか。
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