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地場・旬・自給

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坊ケ峰の漫才

2017-08-31 04:30:35 | 身辺雑記

子供の頃の話だから、今から60年前のことになる。記憶ではあの日は暑い夏の日だった。山梨県境川村の藤垈の坊が峰にテレビ塔が出来た。山梨テレビの開局記念で坊が峰でお祭りが行われたのだ。甲府盆地の南側のなだらかな曽根丘陵に突き出たへそのような山が坊ケ峰だ。このお祭りは田舎の村にとっては東京オリンピック所でない事で、近所の子供が沸き立って出かけた。山の中で突然起われる不思議なお祭りに大いに期待をして出かけた。今思えば金毘羅神社4月10日のお祭りでも頂上にまで出店が出たのだから、当時の人は歩くことを少しも苦にしない。車のない社会というのは歩くのが当たり前。金比羅山の頂上までは2時間はかかかるだろう。800メートル以上の高い山だ。その頂上まで屋台を担いで登るフーテンの寅さんがいたわけだ。子供は普段は人気のない山の中の神社に突如旗が連なり、眩い出店があるのだから度肝を抜かれた。今は金毘羅山も頂上直下まで車が行くようになった。それでもずいぶん上ったところであるのは変わらない。そして、昔の賑わいは完全に失われている。お祭りの時にも昔ほど人が集まることはないのだろう。

近在の村人はぞろぞろと、並んだような行列になってお祭りの坊ケ峰に登っていった。私は向昌院から歩いて行ったのだから、途中で人が増えて一団になり、1時間半はかかった。テレビ塔ができる前には坊が峰には開墾の水を運びで通った。その頃の坊が峰はどこもかしこも開墾されていた。戦中戦後の食糧不足時代は日本中耕作できるところは至る所畑になった。何年か開墾するとその土地が自分のものになるという条件のはずだったから熱が入った。土地がないので移民が出ただ。まだ土地は何よりも貴重な時代だった。土地が貰えるなら、どんな努力でもした。向昌院でもサツマイモを作った。せっかく作ったサツマが猪にやられてしまったのは今も昔も変わりがない。御殿場の米軍の演習でイノシシがこっちに逃げてくるのだといわれていた。その坊が峰で一度だけ、たぶん空前絶後の漫才が行われたのだ。もちろん漫才は初めて見る不思議なものだった。

二人の決まり通りの蝶ネクタイをしたおじさんが、リンゴ箱を並べた狭い台の上に危なかしく載ってしゃべった。「え―こんな高い屋根の下の大舞台で、漫才をやるのは初めてのことで。」と皮肉とも、自虐とも思える冗談で始めた。冗談のつもりなのだろうが、笑って良いのか、失礼になるのかみんなかたずをのんだ。台詞まで鮮明に記憶している。むしろお客の方が気を使って緊張するという例の時間。その二人は空転を続け、ダラダラとつまらないことをしゃべった。誰の笑いもなく終わった。不思議だったのはその二人が少しも落胆をしていなかったことだ。笑いは最高の文化だと思うが、実に難しいものだ。記憶ではリンゴ箱の前に集まった観客は15,6人だったと思う。漫才というものを見るのが初めての子供たちだ。妙にしらじらしい空気の中で聞いていた。これではやる気が出ないのも無理もない。テレビがない時代、ラジオから聞こえるえんたつあちゃこの漫才というものを、初めて見れると期待してしまった子供の思い出。

坊ケ峰で行われたお祭りで漫才だけが強く残っている。そして当時の山の中の暮らしというものを思い出す。あの感覚は今とは全く異次元である。むしろ明治時代に繋がったような感じだ。テレビが出来て世の中が変わる。あの時もテレビ塔のお祭りの挨拶で聞いたような記憶。テレビ塔があっても、テレビなど縁がなかった。そのテレビ塔は今でもある。そして確かにテレビは社会を変えた。そしてテレビもその座をインターネットに奪われるのかもしれない。この春にも坊ケ峰に絵を描きに行った。金毘羅神社にも行った。しかし、あの開墾に通った坊ケ峰はどこを探しても今はない。箒草を集めた金毘羅山もない。記憶の中にあるものの不思議だ。私の絵にはあの坊ケ峰越しに見える甲府盆地が空間の鏡としていつも現れる。今はないのだが、有るものはある。自分という人間の中にしみ込んだもの。「あじのこが あじのふるさとたちいでて またたちかえる あじのふるさと」昔お坊さんから聞いた言葉だ。何故か記憶に残る。坊ケ峰と金毘羅山が私の阿字なのか。

 

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ポテトサラダ食中毒

2017-08-30 04:48:28 | 暮らし

ポテトサラダ食中毒は4店舗のサラダから感染が確認され、16名の感染者となった。生産した工場でも、また取り扱った人たちからもO157は検出されていない。どうも植物の中にO157などの細菌がいるらしい。食中毒の対応を見直さなければならない重大事と思われる。カイワレ大根やトマトやレタスの中にO157がいるらしいのだ。これは確定された話ではないが、ないとは言えない話だと思っている。トマトの種の中にすでにO157が存在して、栽培してその細菌がトマトに出現する。カイワレ大根汚染事件を思い出してみるとそういえる気がする。水が悪かったのではないか。流通過程で関係者からO157が感染したのではないか。色々調べたがついに判明できなかった。判明できないまま、どこかで感染したのだろうという、科学的ではない結論になってほとぼりが冷めた。そして今また似たようなポテトサラダ事件が起きている。ポテトサラダは大好物である。特にタマネギスライスを上手く混ぜたものは好物だ。リンゴポテトサラダは子供の頃の大ごちそうだった。主食にしたいぐらいだ。

カイワレ大根の種にO157が存在したのではないか。そして、それが栽培され細菌の存在するカイワレ大根が販売された。これは防ぎようもない事件だったのではなかろうか。種の生産国は不衛生かもしれない。昔はそういう事件が起きなかった。それは生野菜というものを食べなかったからと考えられる。昔の人は生ものは極力食べなかった。生水も子供は飲まないことになっていた。火を通すという事が食べものの大前提だった。トマトやカイワレは昔はなかったが、きゅうりは生食だろうと思う。157に感染しない植物もある。そしてぬか漬けにするか酢のものである。どうもO157が繁殖しやすい植物があるらしい。トマト、レタス、カイワレ、植物の中に菌が存在するのだから、洗っても無駄なことだ。トマトもレタスも煮込めば問題はない。アメリカではトマトやレタスを大量に生で食べる。どうやって細菌フリーの生野菜の種を作るかが課題になっているらしい。同じトマトでも抵抗性のあるトマトの品種が作られている。

話はそれるが、総菜店「でりしゃす」はなかなか良い。ああいう宅配店が出来れば、商売になるのではないだろうか。店舗も一応街場に構えている。もし、商品は遠くまで宅配で配ることにすれば、繁盛するのではないか。お年寄りはたまにはお店まで行く。月一回は街まで行って買い物を楽しむ。然し日々のことは届けてもらって食事をする。こういうお店があれば年寄りも暮らしやすい。宅配と惣菜店の組み合わせは、登場しそうだ。問題は現在の配達圏が狭いことだ。買い物難民に配達することこそ、ねらい目ではないか。効率が悪いとは思うが、過疎地では行政のかかわるところではなかろうか。地方創生の一つのやり方だ。一人暮らしのお年寄りの食事はこれから大問題になる。作るのが面倒になる。歳をとれば気力が衰える。自分一人ならあるものを食べて置こうという事になる。近場に外食できるところがあれば、毎日外食もあり得る。過疎地帯ではそうも行かない。そこで、総菜の宅配がしえ貰えればと思うのだ。

生ものを極力食べないことだ。特に、小さい子供や年寄りは生ものは食べない。昔の日本の食事を思い出すことだ。刺身を食べるなどという事は、漁村でもなければないことだった。歳をとったら若い時とは違うと考えた方が良い。抵抗力は下がる。免疫力も下がる。生野菜は食べない。この頃の野菜が健康に良いというので、奨励される。そして生野菜が良いと思い込まされている。生野菜はものによっては危険かもしれない。何故そういう事を考えたかと言えば、人間の身体は自分の細胞よりはるかに多いい微生物と共生しているという事だ。自分と思っていたものが、実は半分は自分の微生物なのだ。重さでも数キロあるらしい。それなら植物はどうか。植物も実は無数の微生物と共生しているのだ。この世界はまだ不明なことだらけだ。しかし、植物の中にO157が住んでいたとしても何ら不思議はない。ともかく、結論が出るまでは生野菜を疑ってみることではなかろうか。

 

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民進党代表選挙

2017-08-29 04:10:47 | Peace Cafe

 

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ーーーーーー東京新聞より

日本の政治状況の不幸は自民党を選ぶから、選ばないかだけの選択になっていることだ。その責任は民進党にある。と両候補者も述べている。そして、枝野氏は自民党との対抗軸を明確にしてゆくと述べている。そして、前原氏は自民党によく似た政党を作ることで、自民党が少しでもおかしいと思えば、交代できる政党を作るという事なのだろう。ほぼ自民党を作るか、反自民党を作るかという事だろう。私は反自民党ならば期待できると思う。ほぼ自民党では、自民党を選ばない選択よりひどいと考える。それは何度も書いてきたことであるが、反原発。平和憲法の堅持。この2つに対してどう考えるかである。この点でも前原氏は、ほぼ自民という政策だ。小池都知事が政策的にはまるで自民なので、前原氏との連携は可能という事になる。その意味では維新の会と前原氏は体質も物腰もよく似ている。枝野氏であれば、さすがに小池新党との連携はないことになる。

ほぼ自民党が必要なのかどうかである。昔であれば、自民党の中の新派閥の結成のようなものなのだろう。自民党自体が、金太郎飴的に異論が封じられているから、ほぼ自民党はいくらか意見を述べて修正協議をするような政党という事になる。原発を止めるのか、原発を止めないのかというような論議は無くなり、前原民進党は結局曖昧に原発を継続する政党と考えなくてはならない。憲法に関していえば、前原氏は自衛隊を憲法に明記すべきと考えていると思う。今はさすがに言い出さないが、アメリカへのすり寄りは自民党以上の人物と考える。自民党内には、国粋主義的な抑えがあり、完全なアメリカ属国政策はあり得ない。しかし、前原氏は日本というものを持たない。日本主義的な傾向の自民党と、アメリカ属国主義のほぼ自民党という図式なのだ。

こういう状況の中で、枝野氏は議員票では不利とされている。さらに地方票でも前原氏有利と言われている。つまり、前原氏に近い考え方の、つまり、民進党はほぼ自民党になるつもりのようだ。これでは民進党が衰退するのもわからないでもない。自民党に入党させてもらえなかった落第組が、民進党のメンバーにはかなりいるとみられる。国会議員になれるのであれば、どこの政党でもよいというような人が増えている。議員は就職先のようなものなのだ。だからやりたいことなど何もない。良い企業に就職したいというだけで、企業でこういうことがやりたいなどという人はまずいないのと同じことだ。選挙区の事情で様々な用件で民進党に入ってしまった。だから泥船から逃げ出す人も後を絶たない訳だ。泥船から、国民ファストの会への脱出を計ろう、政党あげて行おうというのが、前原氏のようだ。

ほぼ自民党と自民党の2大政党制。アメリカの2大政党のようなものを目指すという事なのだろう。どちらかが汚職したときに政権が変わる。変わりはするが、政策はさして変わらない。とすると、原発は廃止されないだろうし、憲法には自衛隊が明記されることになる。何故そんなことになるのか、日本は国民ラストの国になるか、アメリカファーストの国になるか。こういう選択を民進党にきたする方が、間違っているのだ。政権党とそれを補完する政党の国。それが日本の現実という事になるようだ。まだ終わったわけではない。枝野氏が党首になる可能性はまだ残っている。枝野氏が党首になれば、原発はなくなる可能性が高まる。平和憲法は守られる可能性が出てくる。何とかならないものだろうか。

 

 

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丘みつ子さんが小田原に引っ越

2017-08-28 04:30:58 | 地域

丘みつ子さんという女優さんが小田原に越すという事らしい。テレビのバラエティーでやっていた。私のホームページをつくってくれたKさんは丘さんと友人だそうだ。丘さんは10年ほど前に突然私の家に訪ねて見えた。卵を売ってくれないかというのだ。あいらんどの卵は、突然見えても売ることは出来ない。私の所の卵は予約している人にも十分に配達できない状態なのでとお断りした。断ったにも拘わず予約できないかなど言われた。もう増やせる状況でないとお話して帰ってもらった。その時はどこかで見たような人だとは思った。たぶんどなたか女優さんらしいというのは分かったが、名前までは思い出せなかった。Kさんから後で話を聞いてあの人が丘みつ子さんだったのかと思った。それで丘さんという女優さんの箱根の暮らしの話をお聞きした。陶芸をされていて広い敷地に作業場などがあるということだった。自然志向の女優さんは意外に多く、取り上げられる事も多いいので、なんとなくそうなのかと思っていた。

先日その陶芸作品を偶然テレビで見た。爬虫類を作ったなかなか面白い作品だった。作品として成り立っていた。元総理大臣の細川氏も伊豆の山中で陶芸をされている。こちらはいかにも名品の写しのようなもので、良くできているとは思うが、本人そのもののようだった。作品として見ることは難しい。もっとでたらめの好きなものを作った方が良いのにと思ったことがある。たぶん、自分が好きでないから、人の作った良さに寄り掛かるのだろうなどと勝手なことを思っていた。丘さんという方は自分の作品を作っているから、世界が違う。命から湧き出ている。作品の評価というような事はどうでもいいと割り切っている人なのだろう。人目を気にしないでやれるのは女性の方が多いい。鷹取さんという人と渋谷の洋画人体研究所で出会ったのだが、備前の窯元の方でその後備前に戻った。東京で2人展をされたのだが、奥さんが備前的でない面白い作品を作る。

丘さんは箱根の広い家の管理が出来なくなって小田原に越すという事らしい。似たような立場なので理解できる。我が家もそろそろ管理が出来なくなっている。私の家の場合は丘さんよりもさらに広い。田んぼや畑も入れれば、さらにさらに広い。怖いほどである。これも生前整理の対象のつもりである。土地は焼却場に持って行けないところが厄介である。管理が出来なくなる前に手を打たなければならないと、丘さんのテレビを見て改めて思った。小田原に越すという蔵のある家は、だいぶ前から物件として出ていたものだ。58坪で3000万円という事ではなかったか。高いことはないと思うが、なかなか買う人は居なかったものだ。私もなんとなく気になる物件をいろいろネットで眺めていたわけだ。小田原から小田原に越すという範囲ではさすがに大きな転換は計れない。それでも箱根の山暮らしから、街場に越すという事は少し違うだろう。

ギャラリーのようなスペースを作るつもりらしい。小田原にはそういうものは必要だと思う。人が小田原に来て見たくなる場所は多様なほど良い。その丘さんの友達のKさんの家はなかなかの古民家である。見物するだけで面白いレベルの家だ。そういう家は小田原周辺にもまだ少しはある。有名なのは瀬戸屋敷である。あれは庄屋さんで別格なのだろう。普通のお百姓の家としては、尊徳の生まれた家であるが、少し立派過ぎないだろうか。あるにはあるのだけれどあまり生かされている状態ではない。私の家もそろそろ100年という家である。古民家の風格というようなものはない家だが、広いことは広い。何かに生かせればといつも思うのだが、良いアイデアのある人は居ないものだろうか。今度みんなで演奏会をやろうと考えている。その時にすこし会場のように片付けてみようかと思っている。

 

 

 

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夏を惜しむ音楽祭

2017-08-27 04:26:43 | 楽器

夏を惜しむ音楽祭をやった。場所は小田原栢山にある自然食レストランの「ハルノキ」全部で6組が出演した。私も厚かましく参加させてもらった。というより私の「夏を惜しんでの音楽祭」企画なので出させてもらえた。三線で「いつも何度でも」を唄わせていただいた。私としては望外のできで大満足であった。練習の時よりも気持ちを入れて歌えた。私以外の人は皆さん長年音楽を続けてきた人だ。こんなに素晴らしい音楽仲間がいるという事が、言いようもなくうれしい。三線を始めたのはそんなに前のことではない。本当ならとても相手にされないレベルだ。それを知らない訳ではない。身の程知らずである。そこを眼をつむってもらって一緒に音楽祭を行わせてもらった。それは、表現というものは上手いとか、下手だとか言う事ではないと思っているからだ。音楽が好きで、歌を唄い愉快になるという事には、専門家でなくても許されると思っている。歌を唄えば誰もが楽しく表現できるはずだ。と言っても人前で歌っていいと言うには最低限のものがあるのは知らない訳ではない。

ハルノキをやられている美帆さんは、自然体の人だ。そのまま音楽のような人だ。その昔私の卵を引き売りで販売してくれていた。本当はピアニストなのではないかと思っていた。今は小宮ブルーベリー園になった場所のお隣のおじさんのパオで演奏したことがある。その音色の美しさに聞きほれた。ところがある時ピアニストは止めたのだそうだ。音楽を止めたのではなく、ピアノを辞めた。自然の人だから、理由など考えたところで始まらない。その後は歌を唄っている。これが全く自然の唄だ。しゃべるまま歌になるというところがすごい。自然というのはありのままという事で、人間ここに至る為に普通は修行するのだが、生まれついてそういう人も居るという事だろう。努力とは縁のない感じの自然のまま。それで一度ハルノキでみんなで音楽祭をしたいと思っていた。音楽をともに演奏することで、共感の世界を味わってみたいと思った。誰もが自分の音楽を表現してみるのは大切なこと。

水彩画を描いている。当たり前だが一人で描いている。私絵画である。それでも水彩人展だけで発表をしている。深めるためには発表は必要と考えているからだ。一人で孤立していたのでは見えなくなる。歌を唄うとしても同じことで、表現として人前で歌う事もある方が良い。私の唄がどういうものかはまだわからないレベルだろう。音楽というレベルとは程遠いい。押し付けがましくなければいいと思っている。それでも自分であれば一番である。今回20人が集まったのだが、それぞれにその人間がくっきりしていることに驚いた。一人の表現者であった。長年音楽をされていてそんな人になったという事もあろうと感じた。良い人は良い人の唄になっているという驚きがあった。音楽というのは直のものだ。絵の画面という間接的なものが媒介しない。これには少し衝撃があった。後に何も残らないそのすがすがしさが表現の根にある。

何も残らないからこそ、共感の記憶が残る。レコードなどというものが出来たことは音楽の堕落なのだろう。三線を始めて心より良かったと思っている。60の手習いどころか、66の手習いである。自分というものを掘り進める探検である。今回、メロディの演奏ではなく、伴奏を弾きながら唄うという初めての経験をした。当たり前のようだが、これがなかなか初心のものには一山ある。まだ乗り越えたとは言えないが、少しは進んだ。八重山の唄の三線は唄とは違う演奏になっている。これがなかなか微妙で難しい。八重山民謡が唄えるようになりたい。収穫祭までには仲良田節を唄えるようになりたい。今でも曲自体は唄えない訳ではないのだが。西表島の今は無くなった仲良田川の田んぼが唄えるようになりたいのだ。密林の中にあった自然に溶け込んだ田んぼ。本来の田んぼとはこんなものではなかったのかと思える田んぼ。そこでの歌が唄えればと、大それて考えているのだ。        

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ひとづくり革命担当大臣

2017-08-26 04:03:06 | Peace Cafe

茂木敏充氏が「人づくり革命」の担当閣僚に就任すると発表された。もしやらせていただける閣僚があれば、この大臣が良い。経済再生と人づくりが同義語という事に驚く。具体策を検討する有識者会議『みんなにチャンス!構想会議』がその内容を話しと書かれている。リカレント教育についても言及とあるのだが、リカレントは初めて聞いた言葉だ。どうも生涯教育というような意味らしい。一体誰がこんな奇妙なことを考え付いたのだろうか。人間革命の池田大作氏への忖度位しか思いつかない。みんなにチャンスというのは、努力して人間革命をすれば、競争の機会は均等に用意されている。という意味だろう。有識者会議というのはすでに決まった結論をもっともらしく、証拠作りするための会議なのだろうから、人づくりの革命の具体案もすでにあるのだろう。総理のお友達の学園がそういう学校を作るというようなことでなければいいが。

革命ともいえるような人づくりなどあるわけがない。多分、ここでいう人づくりは企業の役に立つ人づくりという事だろう。人づくりが国の根本であるというのは江戸時代どの藩でも考えたことだ。革命という言葉を付け加える感覚が奇妙なのだ。ここであえて革命を加えたのは、ただの人づくりでは新鮮味がないという自覚があるからだろう。革命という言葉での印象操作。「レッテル張り・印象操作・怪文書・こんな人たち」と使ったのはアベ政権である。言葉を弄ぶのが好きなのはアベ政権の性格のようだ。動かしているのは電通のような頭脳だ。これからレッテルの張り場違いがとても気になるに違いない。正しいレッテルを張れ、アベ政権にふさわしい印象を作り出せという事のはずだ。そして、地方創生とか、構造改革特区とか、不思議な言葉を生み出し続けている。 テロ等準備罪。カジノを含む統合型リゾート施設(IR)整備推進法案。そして人づくり革命である。言葉を弄ぶ事はいい加減にしないと、言葉によって滅びる。国民に対して印象操作するのはソフト独裁の特徴のようだ。

人づくりとはつまり、国際競争に勝ち抜ける能力のある人間ロボットを作る、画期的な人材育成法案。こんな解釈になる。「子供は勉強をしないで、言葉を覚える。」英語教材。勉強しないで英語が喋れるという盛んなコマーシャルと同列である。いつの間にか、競争人間ロボットが作り出されていれば、革命的だ。アベ政権の期待する人間になぞ、成りたくもない。企業向き改造人間になりたくない。私は対象外だろうか。動けるうちは働けという事らしいから、対象にされるかもしれない。人間らしい人間になるためには革命も何もない。普通に暮らすという事が大前提である。人間ができるためには、一生かかるようだ。私はまだ自分という人間が出来た感がない。68年かかってまだ人間に至れていないという、感触である。これでは革命は達せられないともがいている訳だ。生涯教育されたくもない。自分の思う理想の人間に、何としても死ぬまでにはなりたいというもがきである。せめてそこにたどり着く努力だけはやりたいと思っている。そのために田んぼをやる。そして、絵を描く。

安倍氏の人間はまだまだ未熟で出来ていないと。それは先日の記者会見でも自ら口にし反省して見せたところである。是非とも最初に革命的な人づくりの材料になってもらい、自己革命を起こしてもらいたい。人間であれば原点が大切である。日本を美しい瑞穂の国にするために、先頭に立って頑張るはずではなかったのか。口の根が乾かないうちに、国際競争力の人間ロボット作りである。美しい国はお金の為に、汚いことはやらない国と考えられないのか。身内だけを優遇するようなことは見苦しい国だ。仮想敵国を用意して、煽り立てる国は汚らしい国だ。瑞穂の国はまず何より、食糧自給率を大事にする国だろう。今の日本とは逆の方向だ。やはり国づくりには、真っ先に総理大臣の革命が必要という事のようだ。ぜひとも構想会議ではその辺を話し合ってもらいたい。

 

 

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絵を描くこと

2017-08-25 04:07:24 | 暮らし

好きなことは絵を描くことだ。生きているというのはこういう感じかと思える時間をもてる。頭がフル回転なのに、何も考えていないような爽快な感じ。これ以上のことは思いつかない。子供の頃から求めてきた思いのようだ。幼稚園で好きに絵を描きなさいと言われて、何を描いたらいいのかまったく見当もつかなかった。何とか思いついたのは舟である。舟という形の書き順は教わり知っていたからだ。本当の船を描くことは不可能だが、線で舟を横から見た形を手順として教わり書けた。仕方がないので線を引いてここから海という事にした。海だから青く塗った。それなら上半分は空というので空色に塗った。空なら太陽がある。丸く赤で塗った。周辺を空色で塗っている内に、太陽の赤丸にはみ出てしまった。何故なのか、これは失敗であり恥ずかしくて許せなかった。そうだ夜にしようと考えた。舟より上はすべて黒で塗りつぶした。今度は舟に黒がはみ出た。それなら舟が攻撃されている絵にしようと、めちゃくちゃに火柱を上げた。それは没頭した時間だった。絵を人に見られるのは極度に嫌だった。自分の心のうちが見られるからだ。幼稚園の先生がその絵を見て、精神的に問題がある子供という事になり、精神科に連れてゆかれることになった。他にも兆候があったのだろう。

好きなことを探せと言われて育った。好きなことを見つけるのが若い時代の仕事だと、繰り返し父は言っていた。私は今でも死んだ父と相談しながら生きている。好きなことが見つけられれば、後は何とかなると常々言っていた。勉強は嫌いだった。何のためにやるのかが分からなかった。そこで没頭できる絵を描き始めた。小学校のころから絵に熱中していた。それでも何時も何を描いたらいいのかという事には、苦しんでいた。描き始めてしまえば、そういう事は忘れて描き続ける。絵になりそうなものが分からなかった。絵というものが何をすべきものなのかが分からなかった。それで絵らしきものをまねるていたのだが、さして面白くもなかった。描いているのはいいのだが、何のために絵を描くのかはわからなかった。絵を描くのは一体何をやっているのか。しかし、始めてしまえば没頭してしまい、一切を頭が違ってしまうので、悩むことはない。だから一応終わりだなと思っても何かが出来たという事ではない。その没頭の中立ち現れたものを、不思議だなあ。時にはいいなあ。と他人事のように思う。

現在は絵を描くという事を自分がコントロールすることを避けている。避けることの方が絵を描く喜びと直に繋がっているようだからだ。何故、太陽の赤丸に青がはみ出たらいけないのか。これは太陽というものに空ははみ出ていないと理解しているからだ。絵では青が赤にはみ出ようがそれは構わない。太陽とか、空とかいう観念はいらない。つまり、そういう頭が考えたことを捨てたい。絵の上では、物を理解するという観念を捨てたい。その方が絵を描く喜びに繋がっている。ところがそういう没頭に入れば入るほど、絵はリアルな描写になる。見える世界を描写をしている。それはそれでいいのだが、今は何故そうなるのかという事を考えている。視覚というものは、観念を超えてある。見て意味理解するという事を捨てて、見ていると。意味とは別にそこにある色や線の動きで出来た空間が見える。

あれが田んぼだとかいうのではなく、あの緑があそこの赤に反応しているとみている。そうしてみていると海の色とか、空の色という意味ではなく。色と線で出来たある構造が見える。分かるというような理解しようという意思を捨てている。その没頭した末に出てくるものが、もしかしたら自分というものの核ではないか。意味を確かめるというより、自分というものが絞り出されているのかどうかを確かめる。今のところ全く分からない。分かるところまで行きたいと思うが、行き方もわからない。日暮れて途遠しとは良く言ったものだ。絵で描くべきものが分からないと思った。幼稚園の時と少しも変わりなく、絵を描くことが好きだ。好きなことをして生きれるという幸せの実感がある。その実感までは来れたのだなというありがたさがある。好きなことを見つけられたという事は確かなようだ。好きなことをしていて、生きることに困ったことはなくここまで来れた。幸せな方だろう。今回は少しなぜ絵を描いて居るのかが書けた様な気がする。

 

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ヒアリとトンボ

2017-08-24 04:04:33 | 環境関連

田んぼに来るオハグロトンボ 大好きなトンボで危険外来生物ではない。こちらはオスで身体が緑に輝く。この後3日ほどしてメスを見かけた。

ヒアリの日本侵入が問題になり、外国から怖い生き物がやってくるという話が、気持ちにひっかかっている。先日も岡山の水島港にいたと報道されていた。昨年の夏は確か東京の代々木公園でデング熱と蚊の騒動があった。便乗するようにヤマカガシに子供が噛まれたという話が、大騒ぎになった。報道的には必要と考えた報道なのだろう。そのことの背景まで調査して報道してもらいたい。何千年も日本人とともにあったヤマカガシが、いまさらのごとく危険生物になる。すべては、暮らしが地べたから離れたことがある。子供の頃からヤマカガシに毒があることは知っていたが、おとなしい蛇なのでよほどのことでなければ噛まない。生活の実感というものが失われたところに、情報だけが独り歩きする。有害外来生物に関する学問的厚みがない。専門家と称する人が登場して、一つの偏見を述べると、もうそれが揺るがない事実のように蔓延してゆく。まだ有害外来生物に関しては、分からないことがほとんどの気がする。

稲穂でトンボの抜け殻 ギンヤンマに見えたけど違うかな。オニヤンマの抜け殻も先日見つけたと渡邊さんが言っていた。

千年くらいの単位で、中国大陸から渡来して、日本に帰化した生き物も山ほどある。何万年くらい前に渡来したという事で日本固有種と言えるのかどうか、明確にわからない植物も幾らでもある。つる植物の葛がアメリカではとても困った植物になっているそうだ。アメリカでもくずもちが流行すれば解決するのか。葛根湯で風邪を治すようになればいいのか。有害、有用は人間の身勝手に過ぎない。アメリカザリガニが日本の水辺の生きものを絶滅させてしまうというので、駆除に力が入れられている。子供の頃、アメリカザリガニ取りをしては食べた。あれから、もう60年は経っている。あの頃の境川村でもすでに平地の方にはいくらでもいた。アメリカザリガニが悪い訳ではないが、駆除しなければ日本の絶滅危惧種が危うい状況にある。世界では日々絶滅している生き物がいる。小田原でもザリガニ駆除に何回か参加したことがあるが、トラップで捕まえたのだが、その程度では減る兆候は見えなかった。ここまで広がってしまった状況では環境的に駆除不可能な地域もあるのだと思う。何処で折り合いをつけるかである。環境原理主義に陥ってはダメだ。

沖縄でもハブのいる島とハブのいない島がある。宮古島はハブがいない。だから宮古島に移住するという人にお会いしたことがある。ハブのいない島になりたいと考えて駆除を公的に行っている。毒蛇で死者も出るから駆除されるというのは、生物多様性の考えから言えば、少し疑問がある。マムシは子供の頃から思うとずいぶん減少した気がする。ヒアリは毒があったので、毛嫌いされる。そこらにある一切の草が雑草として、除草剤で駆除される。そういう現実と、生物多様性の原理主義とはどこで折り合うのだろうか。シュバイツアーは病原菌を殺すことは正しいことなのかと悩んだそうだ。まず、ヒアリが来た意味を悩むことは必要なのではなかろうか。人間中心主義だ。人間だけが特別という事は自然界ではおかしい。人間が一番の危険生物である。このことを肝に銘じたうえで考えると、すべてはほどほどに考える必要がある。

日本の自然環境を守るためには、大前提として自給農業を行う以外にない。国際競争力のある農業とは、自然の多様性を破壊する農業である。日本の大半の田んぼには国際競争力はない。間違いなく減少してゆく。生物多様性にとって、生産不利地域の田んぼを維持することが極めて重要になる。田んぼは自然破壊であるが、3000年循環農業を行い、多様性を担う事になった。その中でもお米とともに渡来した、植物や昆虫がいる。メダカだってそうかもしれない。そうした折り合いをつけた自然が日本の自然だ。未来に繋げることができるのは自給農業だけだ。学校で教育としてビオトープをやるくらいなら、田んぼをやるべきだ。自然と暮らしの良い加減を見つけることだ。自然と折り合いをつける暮らしとは、自分が食べるものをもたらしてくれる恵の自然だ。アメリカザリガニを子供の頃食べていた。赤ヒキガエルを佃煮にするほど食べた。蜂の子を求めて山を走って転んだこと。川では沢蟹を集めて、堰堤から落ちた。 豊かな恵みの自然を取り戻すためには、自給農業をやるほかない。

 

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冷たい雨の田んぼ

2017-08-23 04:11:02 | 稲作

 

8月22日早朝の欠ノ上田んぼ まだ光が入っていない。このあと一日陽射しが入った。梅雨明けが言われて以来雨が続いてきた。梅雨時は雨が降らなかった。簡単に言えば、梅雨が1か月づれたと考えれば納得がゆく。7月19日に気象庁は梅雨明けしたようだと発表した。実はこの日を入梅したというべきだったのだ。気象庁が大きく外れるのは、過去の天候データーに従うからだ。それでは農業者は立ち行かない。私は長期予報を信じないことにしている。長い雨だった。7月二十日から1か月間梅雨明け後の長雨という異常気象になった。さらに台風5号が19日間も日本周辺に居座った。あの後一掃雨が降りやすくなったようだ。暑くないので身体は楽な気もするが、夏はからっとはれてくれないと農業は困る。田んぼが心配でオロオロしている。田んぼの病気は暑い時の湿度の高さが悪い。まさに今年のような天候である。8月21日になってやっと梅雨明けになった。この後の回復に期待するしかない。これも地球の熱帯化の影響なのだろうか。気象が以前と変わり、過去の体験が生かせなくなっている。この後巨大台風が来なければいいのだが。

1本植と4本植えの比較の田んぼ 一本植えの方が少し穂揃いが遅れる。遅れると緑が濃い。左に行くと色が濃い。分げつ数はほぼ同数である。頭で考えているだけでは農業はダメだ。やってみて確認できたことは良かった。5色に分かれた田んぼ。それぞれに理由がある。一番奥は田植えが2週間遅い。当然緑が濃い。陽がささないから出穂が止まったまま、2週間を経過した。その隣の赤味が強い田んぼは喜寿糯の田んぼ。中央はすでに穂が垂れて、葉が立ち上がった状態。喜寿糯の方が穂揃いが1週間サトジマンより遅い。一昨日から陽がさしている。農業はお天道様次第だとつくづく思う。昨年は9月晴れた日がないほどの雨続きだった。そして病気が出た。今年は梅雨明け後に雨続きである。毎年悪天候が繰り返される。稲に病気が出たのは初めてのことで、種籾を変える一つの要因になった。それでも8月までの好天があったおかげでそれなりの収量まではいった。今年は去年の9月が8月に来たようだ。このままではとんでもないことが起こりそうな気がする。

もち米の水口が一番遅れている。緑の所だ。ここは水路からの漏れが入水口になっている。もち米全体の背丈が伸び、ほぼ110㎝になった。サトジマンより背丈が高い。この田んぼは放棄伝を今年初めて使った田んぼだ。倒れなければ、相当の出来という事になる。

どの田んぼも穂揃いまで水管理は乾かすわけにはいかなかった。稲の受粉の時期だからだ。この時期は乾かさないことを基本にしている。しかし、深水を続けると倒伏する。そこで水尻を低くして、田んぼ全体を浅水管理にする。時には水が無くなっても仕方がない状態である。間断灌水というよりは走り水管理のようにしてしのいできた。稲の受粉が終われば、今度は間断灌水でいい。土壌が緩んでいるから、何とか固めなければならない。背丈が110㎝にもなっている。それに伴い茎も太い。茎が太ければ穂の重さで倒れることはない。多収するためには背丈が高くなければできない。葉の大きさ、特に止葉の大きさが厚さが、稲の収量には大きく影響する。問題は根本である。稲の根元の土が緩んで倒れる。土がうまく固められれば、多収の上に倒伏もしない稲作が可能になる。花が咲き終わったならば、思い切った間断灌水をする以外にない。

今現在、文枯れ病が出ている。何故、夏の雨で稲は病気になるのか。高温多湿が良くないのだろうか。何しろ葉が一か月間乾くことがなかった。乾かない葉では光合成の量も少ない。そして様々な細菌が葉の上で繁殖することになる。強い日光が当たれば、かなりの病原菌が死滅する。葉を守る方の微生物群が活躍できる。8月21日になってやっと乾いた葉の状態になった。ここで稲の回復力が発揮できるかどうか祈る気持ちだ。全体に稲の根元が病気が出ている。多分、紋枯れ病が発生している。明日えひめAIを散布してみる。効果があるとも思えないが、気持ちを治めるためだ。発生の顕著な箇所にじょうろで撒くようにする。少しでも止まれば有難いのだが。天候が良くなったので、ここで止まるような気もする。いずれにしてもこの後水を辛くして、地面を固めてゆく。いわゆる間断灌水を強めてゆく。受粉さえ終われば、地面がひび割れるほど乾いても影響は少ないようだ。

 

中央が湧き水の水路に実験的に捕植した苗。今穂が出てきたところで110㎝ある。背丈は他と変わらない。つまり、背丈が伸びるのは窒素だけではないという証明である。この水路はほとんど肥料分はない。砂地である。

 

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植物共生微生物と農業

2017-08-22 04:23:40 | 自給

<<小田原有機の里づくり協議会>>主催講演 「土壌や作物と共に生きる微生物の世界から考える(有機)農業」池田成志氏(農研機構北海道農業研究センター)

8月19日梅の里会館で行った素晴らしい講演だった。農業分野の天才にお会いしたのはこれで二人目だと思った。土壌の宇宙が明確にイメージ化されている人がいる。その綜合される土壌世界を想像させてもらえた。植物と微生物の共生の姿は目に見える訳ではない。見えないけれどある世界だ。人間が微生物と共生している生き物だという事は何度か書いた。この人間という宇宙もどこまで、その内部世界を描けるかが重要なのだと思う。腸内フローラが云々という話は、もう普通の話題になった。しかし、そのミクロの世界を自分の命とともに具体的に、意味あるものとして見えるかどうかが重要なことになる。その具体的な姿が見えなければ、不安を煽る企業の宣伝に載せられて、〇〇菌サプリを飲まされるだけだ。植物の世界でも全く同じことになる。今私は稲が病気になるのではないかと不安に駆られている。オロオロしている。そういう時に農薬に手を出しかねないのだ。生きものの世界を知っていれば、そんなに単純なことではないことが分かる。

有機農業の稲がよその田んぼより緑が濃い。これは肥料をやろうがやるまいが同じことが起きている。それすら認めない有機農業の関係者もいる。私は田んぼの絵を描いて居るから、田んぼの色に関しては、絶対の自信がある。その緑の濃さを単純に窒素が多いいからだと、説明しては稲と田んぼの世界は見えてこない。私はその世界を見たいから、田んぼをやっているようなものだ。ここにある宇宙は実に神秘であり、科学的な世界だ。世界観と言ってもいい。土壌分析をすると、慣行農法の田んぼより窒素は必ず少ない。私は100回以上田んぼの土壌分析をしているが、ふつう必要とされる窒素量を超えたことは一度もない。しかし、稲の緑は濃いのだ。つまり植物の窒素吸収能力が高いと考えることが正しい。なぜ有機農業の田んぼでは窒素吸収が高まるのか。それが共生微生物の力だ。田んぼの中で微生物と稲が共生しながら、窒素の生産をしている。その原料が腐植である。腐植にある炭素を餌にして、窒素を植物に供給している。この姿を頭に描けるかである。

微生物の宇宙は人間であろうと、植物であろうと、大きな違いはない。生きとし生けるものすべてが、微生物と共存している。だから、病気だからと言って悪いものだけを排除するという訳にはいかない。ニワトリが好きで、発酵飼料を何十年も作ってきた。その経験から微生物の不思議な宇宙を日々感じてきた。それは自分の体内の世界にも通じているという事が感じられるようになった。そして、この講演を聞いて実は田んぼの中で起きていることも、微生物の宇宙なのだと想像が広がった。何故、除草剤を使うといけないのか。何故、殺菌剤、殺虫剤を使うといけないのか。抗生物質を使ったようなものだ。共生の均衡が崩れる。良いものも、悪いものも、どちらでもないものも、実は綜合され成立している。今悪いと思えるものが、実は未来においては良いものとかかわるのかもしれない。分からないければ淘汰するではなく、分からないのだから共存の道を模索する。

微生物共生農法と言えばいいのだろうか。未来農業の方向が示されたように思えた。人間の医療が耐性菌の出現で変わろうとしている。同じことが畜産の世界では、深刻な形で起こっている。鳥インフルエンザである。病院の内部で起こるようなるより、畜産の世界ではもっと深刻なことが、もっと極端なことが行われる。世代交代も早い。狭い範囲で莫大な数の生きものが飼育される。まるで、新しい病原菌の登場の為の実験場のような状態である。大規模養鶏場は危うい存在である。国際競争力のある農業への道は、略奪的農業への道である。堆肥を作り畑に入れるような、東洋3000年の循環農業と逆行する農業である。農業というものは国の基本である。そこが病んでしまえば、国も病んでゆく。微生物共生の農業とは日本の昔の稲作を、科学的に説明したものだった。

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セントバーナードのフクちゃんが死んだ。

2017-08-21 04:56:44 | 暮らし

南相馬から避難して来ていた、セントバーナードのフクちゃんが死んだ。生年月日は想像するしかないのだが、2009年ごろではないかと思われる。獣医さんはそう言われていた。そして死んだのが2017年8月18日。世話をしていたというより、心の支えになっていたような気がする。心の一角に空いた穴がある。今でも、そこにいるようで、いつも寝ていたところを見てしまう。私にとって最後の犬になるのではないか。フクは優しい心穏やかな犬だった。セントバーナドの特徴でもあるのだろうが、いつも気使ってくれていた。何処か遠慮がちで、一時避難なのだという気持ちを捨てなかった。いつか南相馬の生まれ故郷に帰るつもりだったのだろう。キングケンネルという南相馬のブリーダーのところにいた犬のようだ。預かった夏にキングケンネルのあった場所を訪ねたがたどり着くことは出来なかった。よく訓練をされた犬で、誰の命令にも従った。迷惑をかけないように居させてもらっているというような、態度を一貫させた。その辛抱強さのまま、辛かったろうに、苦しいこともあったろうに、一切表わさないまま、死んだ。犬という動物は学ぶところの多いい生きものだ。

大震災の時に南相馬の避難所の小学校に紆余曲折あってたどり着いたらしい。そこで、人を噛んでしまったというのだ。うちに来てからの様子では、人を噛んだことがあるなど信じられない犬だった。よほどの辛いことがあったのだろう。避難所で困って、寒川で救助犬の活動をしていた、湘南タッズさんの所に預けられた。タッズさんは今福岡で救助犬の活動を続けらている。湘南タッズの庭に繋がれていた。その頃のは溢れんばかりの犬がいて、もうケージが足りない状況であった。週一の状態で手伝いに行った。フクちゃんが大きすぎて入れるケージがないという事でもあった。毎日、預かってくれる人が現れて、犬は引き取ら手が見つかったり、家に戻れたりしてゆくのだが、フクちゃんはさすがに引き取り手がいなかった。来てから1か月ほどたってから、私が預かることにした。タッズさんは困っているような顔は見せない人ないのだが、なんとなく引き取ってくれればというような空気を感じた。私の家でもぎりぎりだったのだが、他にできることもないので預かることになった。前からいた、雷田とドンちゃんの2匹の犬ともすぐ仲良くなってくれて、困ることは全くなかった。

2011年5月20日に我が家に来た。家に来てからこの犬はセラピードックになるのではないかと思えるほど、おとなしくて、何をされても怒らない犬だった。やっと少し安心しできたのかもしれない。はしゃぐこともほとんどなかったから、着た時はすでに2歳は超えていたかもしれない。散歩に行くととしてもまるできままで、家の下まで降りるとすぐ戻りたがる日もあれば、何処までも歩いて行ってしまう日もある。一度だけ脱走してしまったことがあった。無理に扉をあけて出て行ったので、家に帰ろうと考えたのではないかと思う。警察に通報してくれた人がいて、すぐに引き取りに行けた。家の位置はよく覚えていたから、帰ることは出来たのに帰らなかった。何年も一緒に暮らしているのに、南相馬を忘れることはなかった。ブリーダーさんが手放さなかった犬なのか、売れなかったのかはわからないが、私には最高の犬であった。

 

体重は来たとき獣医さんに視て頂いたらば、46キロだった。2ヵ月の避難生活で大分痩せていて時だ。その後大くなって60キロはあった。私より重いと良く言っていたのだが、セントバーナードのメスとしては小さいほうかもしれない。何か大事なものが消えた。それは自分が死ぬという事にどうも繋がっている。死ぬという事がどういうことなのか、実感できたぐらいフクは自分の中にあった。原発が許せず、ソーラーパネルを作ったのも、フクが自分の中にいたからだと思う。フクは私の保護者だったようだ。だから両親が死んだときと変わらないような思いに陥る。友人だったそれまでの犬とは少し違った。書いて思ったのだが、誕生日である。68歳になった。そういう事かと、何がそういう事かわからないのだが、何か納得した。

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田んぼの水質の分析

2017-08-20 04:40:24 | 稲作

稲作では水が大きな要素になっている。魚沼産のコシヒカリが美味しいのは、山の絞り水が入る田んぼだからではないか等言われる。実際に耕作していて、水が大きな要因になるという事は感じるが、実際の水の分析という事は行われることは少ない。今回、神奈川県環境科学センターにおいて、水の分析を行わせていただいた。環境センターでは

●環境学習のための指導者養成と地域における環境保全活動を実践する人材講座の開催

●環境学習のための大気・水質環境の分析ができる実習室の利用

●環境学習のためのビデオ・DVDなど貸出教材の利用

●子供向け環境教室の開催

さらに、出前講座として、田んぼの生きもの調査なども行っている。

出てきた数字は大変興味深いものになっているが、科学的な意味で正確な数値という訳ではない。例えば、水尻の水を採取するとき、そこまで水が来ていないために、濁ってしまったところなどあった。ただその失敗の結果、泥が混ざると水質はどう変化するのかという事は参考になった。田んぼの中はまるで一つの宇宙のようだ。実に様々なことが起きている。欠ノ上田んぼでは、入水の全窒素量排水の全窒素量の方が減っている。逆にリンは入水時より排水で増えている。この2つの違いは何かを意味しているのだろうが、よく理解はできない。田んぼにより、両方が減少していたり、両方が増えていたりもする。PHは何処でもほぼ同じで、入水が7,3前後。そして排水が、6,8前後。全体としては田んぼの環境によって水というものはずいぶん違うという事もわかった。それは田んぼの状態によって、田んぼの中で水の変化が異なってくる。この水の変化をきちっと把握できれば、田んぼの宇宙を知る手掛かりになるに違いない。

稲の生育のステージで吸収するものが違っているという事が水の変化で見えた。穂を育てる時期は、窒素の吸収が高まる。リンの吸収はもうしないようだ。COD(化学的酸素要求量)は田んぼの中で増加する。田んぼの中で有機物が生成されていることを意味している。入水口と排水口でのこの値の差は重要なものになる。

田んぼの中での溶存酸素量は減少する。田んぼで酸素が消費される。

水温は8月になれば、永塚も欠ノ上でもさして変わらないという事。入水温度が21度。一番高いと想像していた。新永塚で23度。

今まで土壌の調査は繰り返し行ってきたが、水については初めての事であった。まだわからない事ばかりだが、継続することで何か見えてくるという確信を得た。では調査の方向はどこに置けばいいかと言えば、入水口と排水口の水を測定し、田んぼの状態を判断とする手掛かりにできる可能性がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  採取
時刻
水温
(℃)
pH 電気
伝導度
EC
(mS/m)
全窒素 全燐 化学的酸素要求量COD 生物化学的酸素要求量
BOD
測定濃度
(mg)
全窒素
(mgN/L)
測定濃度
(mg)
全燐
(mgP/L)
測定値 COD
(mg/L)
溶存酸素量 D1 D2
(5日後)
BOD
(mg/L)
BL         0.0077   0.0002   0.50        
舟原 入水 1 8:05 19 7.32 7.73 0.0219 0.6816 0.0008 0.0288 1.60 2.20 8.69    
排水 2 8:10 27 6.7 3.91 0.0484 1.9536 0.0095 0.4464 7.67 14.34 7.61    
子の神 入水 3   20 7.45 9.19 0.0217 0.6720 0.0007 0.0240 0.95 0.90 8.55    
排水 4   21 7.26 7.9 0.0187 0.5280 0.0006 0.0192 1.09 1.18 8.00    
欠ノ上 入水 5   21 7.39 9.69 0.0235 0.7584 0.0010 0.0384 1.97 2.94 8.43    
排水 6   27 6.82 9.66 0.0146 0.3312 0.0015 0.0624 2.41 3.82 5.62    
坊所 入水 7 8:45 21.6 7.53 12.11 0.0242 0.7920 0.0015 0.0624 3.05 5.10 8.18    
排水   8:45 26                      
山ちゃん 入水 8 9:15 22 7.63 15.41 0.0279 0.9696 0.0028 0.1248 2.91 4.82 8.43    
排水 9   26.5 7.02 15.92 0.0589 2.4576 0.0059 0.2736 7.61 14.22 6.18    
新永塚 入水 10   23 7.53 15.47 0.0304 1.0896 0.0032 0.1440 5.82 10.64 8.39    
排水 11 9:20 28 7.25 15.02 0.0135 0.2784 0.0015 0.0624 5.95 10.90 7.62    
                               
                0.3696            

 

 

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ポピュリズムとは何か

2017-08-19 04:08:34 | Peace Cafe

ポピュリズムとは何か。最近時々聞く言葉だ。外来語は出来るだけ避けるのだが、日本の政治状況にとって、この言葉は重要な言葉になってきている。インターネットの広がりと関係があるようだ。日本語は特にないようだが、大衆迎合的政治手法とでも訳すのだろうか。ポピュラー音楽などというから一般に広まりやすい軽い思想というような意味もあるののかもしれない。政治に関して理性的に判断する知的な市民よりも、情緒や感情によって態度を決める大衆を重視し、その支持を求める手法あるいはそうした大衆の基盤に立つ運動をポピュリズムと呼ぶ。(知恵蔵の解釈)正しいかもしれないが大衆というも野の考え方に、嫌な匂いがする。何が理性的に判断する知的な市民だ。その不愉快な市民とはかかわりたくないものだ。こんな嫌味な説明しかできないような言葉なのだろうか。この解釈だと大衆というものを知性的でない、無知蒙昧な烏合の民というような決めつけではないか。ここに階級的な見方が潜んでいる。安倍政権がポピュリズムなのだろうか。このあたりに興味がある。

 
イギリスのEUからの離脱や、トランプ政権の成立がポピュリズムの結果とされることがある。移民が職を奪い、自分たちの暮らしを圧迫しているようで、腹が立つ。というような感情を上手く利用して、投票を有利に導くように利用する手法。韓国では、植民地時代の日本批判を煽ることで、現在起きている韓国内部の格差社会への進行から目をそらせる手法がある。こういうのはポピュリズムという事でいいのだろうか。トランプ大統領は人種差別、ロシア疑惑、様々な批判を受けている。そしてその批判に対応するというより、北朝鮮の批判を過激にすることで、対応している。現代社会に起きている様々な問題は、国際的にも経済的にも複雑に絡み合い、利害も単純に割り切れるものではない。TPPに対してトランプは離脱を決めた。経済には両面があり、同じ国内でも利益の出る人と、不利益を被る人がいる。アメリカファーストで感情的な批判を煽るには、TPPを批判することは選挙には有利であったのだろう。メキシコ国境に壁を作るなどという政策が票になるのと同じだ。ポピュリズムが民主主義政治が危うくしていることは確かなようだ。しかし、ポピュリズムというようなレッテルをつけることは正確に内容を把握する前に切り捨てているようだ。
 
ポピュリズムは直接民主主義や多数決制を擁護する点では、民主主義の発展を促すと見える点もある。国民が冷静で正しい判断を必ず下すのであれば、直接民主主義ほど優れた手法はない。スイスにおける直接投票の伝統の中で移民排除が決まる。危険な点はカリスマ的なリーダーが現れると、その影響力の為に理性的な判断を失う点である。トランプ、橋下徹、小池都知事、アベ政権、すべて敵を作るのが得意だ。アベ政権がわざわざ、中国との対立を強めている理由は「加計、森友、情報隠し、」が発表されると出てくる中国の領海侵犯。民主主義は国民が理性的な判断ができないのであれば、良いものにはならない。報道が正しい批判精神を持てるかであろう。悪いものが悪いものを民主的に選択したとしても、良いものにはならない。ではどうすればいいのか。これが今起きているポピュリズムと呼ばれるものの課題なのだろう。
 
 
 資本主義がグローバル経済化して、地球全体に格差を広げている。極端に富が偏在し始めた。イスラム諸国では、石油利権による極端な格差が存在し、国内でもイスラム国家間でも不安定要因を持つことが、テロリズムを広げる結果になっている。難民の大量発生が生じ、EUの国家統合の理想主義を崩し始め、イギリスの離脱に繋がる。フランスの選挙で、ルペンが選ばれたらとんでもないことになるところだった。日本人は御上からの圧力に迎合しやすい民族だと思う。日本人全体が弱気になり、焦りを感じている所が不安だ。中国を悪者にすることで、悪者だから日本を凌駕したのだと思いたいという事かもしれない。人が良くなることを喜べないことは恥ずかしいことだ。今の日本の経済の問題は、経済が国を超えて動き出している結果だ。日本が平和国家として、尊重される立場を目指すことを明確にすべきだ。その軸がぶれなければ、大衆迎合主義に惑わされることはないのだろう。
 
 
 
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水彩画と素描

2017-08-18 04:00:29 | 水彩画

水彩画を描くときに鉛筆で下描きをする人がいる。これはやめた方が良い。書をやる人で、まず鉛筆であたりをつける下描きをする人は居ないだろう。水墨画を描くときに鉛筆で下描きをする人は居ないのではないか。水彩画も全く同じことだ。鉛筆で下描きをしてから描く理由は、油彩画から始めた人の間違った癖に過ぎない。油彩画の場合、木炭でデッサンをしてから、それをフキサチーフで止めて着色に入る手法が指導される。油彩画の性質からさして木炭デッサンが残らないからだ。それは色彩で見ないで、「形の骨組みを見る」という考え方から来ているのだろう。ところが、水彩画の場合最初の鉛筆の下書きが完成した画面に残る。そしてこの下描きの鉛筆線が水彩画のみずみずしさを阻害し、絵を台無しにする。油彩画を主に描く人にはこの繊細な味わいが理解できないらしい。だから、無神経に鉛筆線を残す。それくらいならまだましな方で、明らかに自慢げに鉛筆デッサンを見えるように残す人も居る。素描を腕の見せ所と考えている驕りが見えてしまう。絵描きとして恥ずかしいことだと思う。

水彩人でも鉛筆の線は減ることがない。私に影響力がないというのは、当然かもしれないが、たぶん鉛筆の線が必要で外せないのだと思う。正直に言えば、絵画というものの意味を誤解しているのだろう。表面的な描写までで十分な絵画だと考えている節がある。真っ白の紙に筆で水彩絵の具を付けて始めるのは度胸がいる。一度描けば取り返しがつかない。ドキドキする。この先出来るのかどうか。たどり着けるのかどうか。もう出だしでダメにしてしまうのではないか。何十年やっていても緊張する。水彩画も何枚も描くくらいの覚悟で挑むべきなのだ。私も水彩画の初心の頃は鉛筆でデッサンをしていた。油絵を描く流れで始めたからだ。ところがある時から残って見える鉛筆線が汚いものだと気づいた。そしてこれを無くす方法を考えた。簡単なことだ。ステッドラーの水彩鉛筆の黒を使ったのだ。これなら、描いている内に消したいところは消せる。1年ほどそれをやっている内に水彩鉛筆もいらなくなった。

鉛筆線を取り除いて見て、初めて水彩画というものが分かった気がした。紙を薄く覆う色彩の調子の美しさである。鉛筆の黒い線はその微妙な調子を台無しにする。しかし、逆もまた真なりであり、鉛筆の線があるから美しい水彩もある。さらに、汚いから良い絵だという事もある。そういう矛盾したものだから絵は難しい。本当の美しさをわかったうえで鉛筆を使うのであれば問題はない。中川一政氏が自分の名前に下描きの鉛筆線を入れていたのだ。それがまた自由で気持ちが伝わる良いものだった。その鉛筆の線とは別の動きで名前が書かれている。その名前に悲しい思いが込められていた。私の師匠の山本素鳳老師の葬儀に送られた花に掲げられていた。若く死んだ甥に対する悲しみが溢れていた。その字を見て泣けてならなかった。その字をもらって帰ろうかと思ったが、やはり燃やすことがふさわしいと考え、私の頭の中にだけ残した。

素描というものの意味が肝心だ。絵を描くという事は描くべき真実が見えるという事がまずある。その真実の表わす方法として絵画を選ぶという事なのだろう。その真実を探る素描というものがある。音楽でそれを表す。詩で表す。文章で表す。様々な方法があるだろう。その前提に真実が見えるという事がなければ、どうにもならない。真実と書いた言葉ではその実態のすべては表していない。私には絵で描くしかないのだが。そのある様相を描くためには、見えている物の成り立ちが見えなければならない。それを見付けようというのが素描の目的になる。水彩人の仲間の松波氏がブログに分かりやすく書いている。すべてを言い表している。全く同感である。付け加えることもない。デッサンとは骨組みを見つけることだと。だから水彩画に鉛筆線の下書きは困るのだ。 

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畑の会の報告

2017-08-17 04:22:43 | あしがら農の会

農の会には、いくつかの自給の為の共同の畑がある。共同の田んぼから始まった。そこからお茶の会、大豆の会と続いて、小麦の会となった。今回小麦、タマネギ、ジャガイモ、長ネギ、小豆と多様化してきたので、全体で畑の会という事にしようという事が定例会で決まった。定例会は毎月第2土曜日の夜開かれている。どなたでも参加できるので、興味のある方は連絡をください。

これは大豆の会の畑、A B である。苗を植えた翌朝の写真。久野地域は大豆には向いていないといわれている。様々な障害が起きて苦労している。今年は、前の場所よりは良いだろうというところだったのだが、何と発芽が極端に悪い。ハトが食べたり、虫が食べたり、種豆自体の発芽率が低かったり、ともかく苗が足りない状態になっている。

現在の大豆畑。大きくなった株がちらほらあり、その間に捕植した株がある。何とか大きくなってくれるように祈っているが。捕植した苗は何とか根付きはしたが、今からどれだけ実らせてくれるだろうか。頑張らなければ味噌が出来ない。

大豆の畑 Cの写真。ここは土は良さそうなのだが、どうなることやら草がすごい。

これは小豆の畑である。ずいぶん伸びてきている。小豆の前には玉ねぎをやったのだが、まあまあ採れた。

8月13日の草刈りの後。小豆は全く虫にもやられない。発芽もそろった。しおれているのは捕植をした株。

これが白ネギの会の畑。活着して急に大きくなり出している。私の所は写真中央の畝で、そば糠を追肥した。

8月13日の土寄せしたところ。間を耕運機で耕し。ネギの周囲は手で除草をした。見たところネギはそれほど大きくなったようでもない。

 畑の会に参加すると、初めての人でもなんとか栽培ができることになる。タマネギを作るのは私には難しかった。10回以上作ったが十分にできたことはなかった。いろいろ原因はあるのだと思うが、どうしても草取りが遅れる。みんなでやると回りの人と較べるので、少しは草取りができる。そしてきつい作業も案外に乗り切れた。一人よりみんなの方が楽しいという事がある。楽しく、苦にならずに1年分の野菜が確保できる。この調子で来年も何とかやりたいと考えている。誰でも参加できるので興味のある人は参加してみたらどうだろうか。参加費は実費を人数で割って賄っている。地代分は年間で一人500円くらいだろう。当然一人でやるより安いものになる。しかし、単純に安いと言えば、スーパーで買えばもっと安くなるという事もある。自給は労賃を入れないので安いという事だ。

畑の会は共同作業で、作業を効率化するというのが目的だ。機械でやれることは機械でやる。肥料なども共同で準備をする。苗作りなど難しい技術の向上もある。そして辛い作業をみんなでやることで、楽しく乗り切ろうという事でもある。素晴らしい農地が耕作されなくなる時代だ。市民が共同することで、大切な農地を守ることができる。このやり方を試行錯誤して、何処でも、誰でも取り組める活動にしたいと思う。

 

 

 

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