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第38回 水彩画 日曜展示

2021-01-31 04:14:53 | 水彩画
第38回 水彩画 日曜展示








123「石垣島 大里」
F10号 ファブリアーノ
2021.1






124「石垣島 名蔵」
p10号 ファブリアーノ
2021.1






125「石垣島宮良川」
M10号 ファブリアーノ
2021.1






126「笛吹市境川」
p10号 ファブリアーノ
2021.1







128「笛吹市境川」
p10号 ファブリアーノ
2021.1







129「塩山桃源郷」
p10号 ファブリアーノ
2021.1






130「名蔵 アンパル」
p10号 ファブリアーノ
2021.1





131「崎枝まっとぅんだ」
f10号 インド水彩紙
2021.1




132「西表仲間川の流れ」
f10号 ファブリアーノ 
2021.1





133「瀬戸内海 大三島 宗方」
m10号 ファブリアーノ 
2021.1 15年ほど前の絵をもう一度描いたもの



 


134「名蔵奥の放牧地」
m10号 ファブリアーノ
2021.1






135「妙高山 ゆき近し」
f10号 ファブリアーノ
2021.1 10年ほど前の絵にてをいれた





136「伊豆戸田漁港」
m10号 ファブリアーノ
2021,1 10年ほど前の絵に描き加えたもの。


 13点10号の作品を展示する。このところ描けている。良くなっているのかどうかは別にして、絵がどんどん出来る。来週も同じくらい展示できるだけの絵がある。葛飾北斎が毎日一枚100歳までと言っていたということに刺激された。

 やれる間は続けてみようと思っている。10号前後にしたことによる。中判全紙モコの速度で描けるのか描いてみようと思っている。割合一直線に終わりまで行くようになっているようだ。

 石垣島の風景になじんできた気がする。海の色、空の色、山の色、森の色、草の色、田んぼの色が見えてきた。描き始めて5年くらい経つのだが、慣れてきた気がする。やっと見えるようになった。見えなければやはり描けないものだ。

 後は自分の絵として、納得の行くものにまで行けるかである。ここがどうにも難しい。何をやっているのやらである。ともかく描きたいと思うままに描く以外にない。やれそうなことを今日もやるほかない。
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動禅の工夫 4

2021-01-30 04:29:01 | 暮らし
 

 名蔵の田んぼの写真である。この田んぼの向こうは海である。昔はこのあたりは湿地であり、マングローブなどが生えていたのだろう。左の方へ行くと名蔵アンパルの湿地が今でもある。右の方には崎枝半島、川平湾と続いている。

 冬期湛水をしている今の時期、一番絵を描きに行く場所である。いつまでも夜が明けるのが遅くて、七時ではまだ暗い。8時頃やっと明るくなる。明るくなるのが待ちきれない気分だ。今日は夜明けが早そうである。天候にもよるのだが夜明け頃が一番面白い状態になる。

 毎朝、動禅を続けている。動禅についてこれで4回、書くことになる。一年を経過して、新たに考えるところもある。動禅は言葉を換えれば、健康体操と言っても良い。動禅という方がその気になれるから一応動禅と勝手に名付けている。そういう言葉があるのかどうかも知らない。

 何とか、二年目に入りこの調子ならば、身体が動く間は続けられそうになっている。動きは頭に入った。目をつぶっていても一通り出来る。ただ、何回やったかがわからなくなり、数は良いなと思うだけやっている。呼吸も数えているのだが、これもすぐ忘れてしまう。

 何で続けられているかには理由がある。どれほど意味のあることでも続けられなければ意味がない。続けてその結果こそ意味がある。つまり、100歳まで生きて、良い絵を描いていれば、意味があったと言うことになる。今良い絵が描けていれば、こんな言い訳入らないので残念であるが。

 何に対しても継続してきた方だと思う。性格はだらしなく、好きなこと以外は何でもすぐ投げ出す方だった。それもあって継続するための工夫をしている。誰でも工夫をすれば、継続力は増すと考えている。続かない人というのは継続の工夫が足りないだけで、根性が足りないわけではない。

 ブログ5500日現在継続している。この経験で何に対しても継続できる工夫があることが分かった。ブログダイエットというのがあるそうだ。毎日体重を書く。これだけでダイエットできると言うことだ。確かにこれも工夫だろう。継続の工夫というものは生きることに実に役立つものだ。

 今や散歩にすら出れない暮らしである。なんとなく不安な目で見られているようで嫌なのだ。ますます、朝の動禅が重要な日課になっている。50分ほどだ。スワイショウと体幹体操だけは昼と、夜にもやることにしている。

 夜泡盛を飲むことにしている。泡盛のことを健康酒と呼んでほぼ毎晩飲んでいる。夕食は食べないと言いながら酒は飲んでいる。健康と名付けた方が気分が良いからである。酒は百薬の長というような、酒好きの言い訳を都合良く取り入れている。

 泡盛を健康のために飲まなければならないのは、体重が55キロ以下の日である。健康酒なのだから、これ以上あるときは飲まないことに決めた。決めたのだが、週に2日ほど越える。55キロというのはそのぐらいの所に設定した。身長からするともう少し体重はあっても良いが、55キロと決めた。ともかく決めることも大事だ。決めたならば少々のことでは変えないことだ。

 この健康酒は飲むと確実に300グラム体重が増える。逆に飲まなければ300グラム体重が減る。健康体重が55キロだから、ここに安定するように、日々健康酒が飲めるように、動禅を行うわけだ。酒が飲める、酒が飲める、酒が飲めるぞ。と思いながら動禅をする。

 これが続いた第一の理由だ。しかし、それだけではまだ続かなかったと思う。まだ続いた理由がある。それは動禅が心地よいぐうたら禅であると言うことになる。らくで又やりたくなるものでなければ、ぐうたらには体操は続かない。千日回峰行などもってのほかだ。

 座禅は厳しい。無念無想でただ50分座っていると言うことは、耐えなければならない。耐え続けるようなことはぐうたらには続かない。動禅は何も厳しいところがない。少々きついところも無いわけではないが、最後に脳内に快適ホルモンが出る工夫をしている。

 半身浴である。50分ぐらいが身体を動かす動禅である。そして最後に半身浴を10分ほどする。昨夜の風呂は冬の今でもそれほど冷めていないので、そのままぬるま湯に入り、再湯沸かしをする。徐々に温度が上がる。この10分ほどが天国気分である。

 ただ呆然としている。全く腑抜け状態にいる。これは湯快爽快で誰でもそうなるだろう。この快適半身浴を10分することで、動禅を又やりたいと思うようになったのだ。酒が飲みたいのと同じである。毎晩酒を飲むのは我慢しているわけではないが。

 飲めば気分が良いから飲みたいのだ。動禅も最後の10分のぬるま湯状態がぐうたらには実に気持ち良かった。朝湯の庄助さんである。こんなことをさせて貰って罰が当たらないか心配なほど湯快である。これを動禅に加えることで、動禅そのものが、継続できるやりたいものになったのだ。これが二つめの動禅の工夫である。

 脳の中にあの最後の気分の良さがすり込まれ記憶されている。すると少々辛い筋肉強化体操部分もあるのだが、難なく乗り越えられることになった。そもそも体操などというものは、冷静に考えればどうでも良いようなことをやるのだ、辛いだけでは続かない。健康酒だって、健康に良いと自分を説得させるのは、じつはなかなか難しい。

 動禅の全体が、一年を過ぎて心地よいものになりつつある。継続する大変さがほぼ今はない。ほぼであって.実はまだいくらかあるのだが。こう書いてしまうことも自分を思い込ますために大切な工夫だ。このおっくうさは始めるときのどっこいしょである。これを乗り越えれば後は終わりまで自然に続く。

 これが動禅の工夫第三である。継続にはこの始まりのどっこいしょ気分を越える工夫も必要である。これはゆる体操的なスワイショウから始めることにある。スワイショウはおっくうなところが少しもない。身体をふるだけの体操である。最初はぶらぶらと揺する。ゆる体操とまったく同じである。揺すっている打ちにおっくうさが消えて行く。

 スワイショウはいつでもやる方が良い。絵を描いているとき、気分転換にやるのも良い。別段大変なことではないから、一日3回ぐらいはやっている。これをしていれば、絵を描いていても肩こりと言うことがなくなる。ここまでは継続の工夫であった。

 そして、1年経過して気付いたことをいくつかあげておく。スワイショウは背骨をねじり背骨回りの筋肉をほぐす。この時頭も回すことで首までほぐす。腰から下は余り重要ではないのだが、出来れば膝や足首までほぐせればと思っている。

 八段錦は呼吸を鍛える体操であるとの再確認である。一つの呼吸を一つの動きと捉えて、自分の呼吸をより長くしながら、呼吸を限界まで行う。呼吸は筋肉が行うものだから、呼吸を司る筋肉を鍛える体操を、八段錦と考えればいい。

 呼吸をより強く、より長く、より大きく出来るように動きを工夫する。動きはユーチューブにあるものを参考にしながら、自分の気分の良いようにかなり変えた。呼吸が深く長くなるかどうかが、工夫の要点である。人に良いからと言って自分に良いとは限らない。

 膝を緩めて今はやっている。この方が厳しい動きになる。足を突っ張らせず緩めたままで、呼吸のための筋肉を強く使う。この方が難しくなるが呼吸の筋肉が鍛えられるようだ。

 呼吸は一つの動きと一つの吸気、一つの吐息を連動させる。二〇数えていた吸気であれば、これをできるだけ長くするように努力している。動きによって三〇数えられるものもある。吐く場合も同じである。

 太極拳ではできる限りゆっくりと行う。24式行い、13分であれば良い。長ければ長いほど良いと考えている。長くて困ることはどこにもない。太極拳で重要なことは、体重の安定した移動である。身体が足の上にしっかりと乗っている状態を目指す。ゆっくりと行えば行うほど安定することが難しくなる。

 動きをできるだけゆったりとさせる。止めの時間も長くても良い。このことで日常の動きも安定してくる。気持ちもゆったりと安定してくる。絵もゆったりと安定してくるはずだ。そう期待しているがどうだろうか。

 

 
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自公衆議院議員と銀座のクラブ

2021-01-29 04:24:01 | Peace Cafe


 自民党国対委員長代理の松本純議員は、18日夜、銀座のクラブをハシゴ。(週刊新潮)公明党幹事長代理の遠山清彦議員は、22日深夜まで、銀座の高級クラブで過ごした。(週刊文春)

 いったいこのコロナ緊急事態時に、どうしたことかと思う。議員という人の考え方は実に特殊なものになっている。議員ともなると肝が据わっている。このコロナが蔓延している中で、銀座のクラブで夜中まで飲んでいられるのだ。飲んではいなかったと弁解はしているが、嘘だと思う。

 わたしはコロナが不安で、レストランで落ち着いて食べれない心境だ。総理大臣が暮れに老人で大勢の忘年会をして、記者会見で国民に謝ったことをもう忘れたらしい。どうも議員という人は特権階級になってしまい、普通の人の意識を忘れる。先日は石破茂氏がやはり9人でふぐ料理を食べていて謝罪したばかりだ。いずれもまともな神経の人達とは思えない。

 これが日本の与党の国会議員がやらかしていることだ。29名もの人がコロナで自宅で死んでいる。医療崩壊で入院も出来ずに自宅で突然悪化して、亡くなられているのだ。過去に例のない悲惨な悲しい出来事が続く中での、深夜までのクラブだ。

 政府は八時以降不要不急の外出もするなと要請している。それでも出歩く人があまり減らない。緊急事態宣言の効果が上がらないので延長すると言われている。医療崩壊が起きていて、医療関係者から悲鳴が上がっている。国民は自粛疲れで我慢が出来なくなっている。この困り果てた状況で、国会議員のこの不始末の連続はなんたることかとおもう。別世界の人達である。

 見つからなければ大丈夫だとでも思っているのだろうか。あるいは自分たちは別格とでも考えているのだろうか。たぶん上級人種意識であろう。いずれにしても神経がまともな人とは思えない。頭のどこかが常人とは違う。

 二階氏によると国会議員の会食は食事を食べるわけではないと言い放っている。密談をするなら事務所でやればいい。年寄は家にいる方が良いのだ。野良犬の群れ同士のようなもので、お互いの匂いを嗅ぎ合わないとまずいのだろう。ヤクザと大差ない人達だ。

 石破氏など日ごろ偉そうなことを発言しているが、国の事をあれこれ言う前に我が身を省みて、しばらく黙っていろと言いたい。私ごときでも、こういうことを書いて、公開する以上それなりの覚悟をしている。レストランで食事をしたことはこの一年無い。ソーキそばぐらいは食べたいが我慢している。

 緊急事態宣言下でも、高級クラブやふぐ料理店に出かけて行くと言うことは、日ごろ国会議員というのはどんな暮らしをしているのだろうか。えらく庶民とはかけ離れた暮らしをしているに違いない。異常な日常を過ごしているうちに、庶民的な神経が麻痺してしまっているのだろう。

 上級国民という言葉が出てきている。国会議員というものこそ、下級国民感覚でいなければいけない仕事だ。一種のステイタスになり、もう私たちとは違う世界の人間のつもりでいるのだろうか。もしそうだとしたら大間違いだ。

 国会議員でいるということは国民の代理となって、公僕となり社会のために働くと言うことではないのか。そのために多額の給与を貰っているのだ。クラブ通いの経費ではない。たぶんこう言う費用も政治資金として国民の税金が出費されているのだ。

 代表を委託して一票を投じた国民が、自粛で我慢の日々を送っている。しかも医療崩壊が起きて、コロナに感染をしても病院に入院できない人が何千人といるのだ。医療関係者は我が身の危険も感じながら、今の今も必死の努力をしてくれている。それを思うと自粛する気持ちになる。この状況に国会議員はもっと責任を感じて貰わなければならない。

 感染して入院を拒否したら、刑務所に入れられる。しかし、入院したくても出来ないのが実用である。これが医療刑務所に入れられるのであれば、家にいて死ぬよりましかもしれない。たとえ、普通の刑務所であっても、個室で食事付きなら、家に一人でいるよりはましと言うことかと思う。

 他の病気で入院していた人が、病院でコロナが確認された。その病院はコロナに対応していないというので、救急車で運ばれた先がなんと自宅だったというのだ。冗談にもならない地獄だ。一方で、コロナ感染した石原衆議院議員は症状のないにもかかわらず、すぐ入院させて貰っている。

 どう考えても国会議員は特別扱いと言うことらしい。特別ではなかった。当たり前の扱いを受けられている。一般の国民が地獄扱いと言うことだ。間違っても感染しないように、年寄は気をつけなければならない。今日は病院に行く日だが止めにした。緑内障で出来るのは確認だけだ。

 もっとも驚いたことは公明党の国会議員についてである。まさか公明党議員が自民党並になっているとは思わなかった。公明党は忖度政党で嫌いな政党だが、行動の節度に関してはまともな人達だと思っていた。汚職を一バンしないと聞いたことがある。

 「遠山きよひこ財務副大臣として一律一人10万円の給付を盛り込んだ緊急経済対策の成立に尽力した。これからも、国民の暮らしを守るために走り続けます。」このようにホームページに書いている。銀座のクラブを走り回っているらしい。

 神奈川県6区に鞍替えして衆議院選挙に出る。間違っても投票してはならない。この人は創価大学出身で公明党のホープと言われている。いったい創価大学で何を学んだのだろう。宗教政党の意味が分かっているのだろうか。仏教の心のことは学ばなかったのだろうか。

 創価学会は生命の尊厳を説く仏法哲理を基調として、豊かな文化、人間性あふれる教育の創造を推進し、人類社会の向上に貢献することを目的としています。とある。遠山議員には潔く辞職するなどと言わず、公明党議員として止まって貰いたい。そうすれば、選挙で公明党の票が10%ぐらいは減るだろう。是非貢献して欲しい。

 緊急事態宣言の中、公明党議員が夜中に銀座のクラブに出歩くなどあり得ないことだと思っていた、私の認識が甘かった。もう公明党は完全におかしくなっている。長年の与党にへつらっている内に、忖度だけがうまくなり、肝心の政治の目的を見失っている。

 今や平和の党のはずが、武力容認の党に変わっている。石垣島では自衛隊ミサイル基地の建設に賛成なのだ。この基地は敵基地先制攻撃のための基地を予定している。選挙前は曖昧に反対を主張していたが、市会議員になったら自衛隊基地推進に変わってしまった。しかも住民投票を行うことにも反対している。

 コロナは国民が心を合わせることだけが、撲滅できる方法である。その中で連続しての衆議院議員の掟破りだ。この様子ではコロナに追い詰められると覚悟しなければならない。オリンピックが出来なかった暁には、こうした国会議員には責任を取ってもらおうではないか。
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辺野古米軍基地 自衛隊使用の密約

2021-01-28 04:12:01 | Peace Cafe


 自衛隊と米海兵隊が、辺野古新基地に陸自の離島防衛部隊「水陸機動団」を常駐させることで2015年、極秘に合意していたことが24日、分かった。沖縄タイムスと共同通信の合同取材に日米両政府関係者が証言した。日本政府は新基地を米軍用と説明してきたが、実際には日米が共同使用し、一体化を進める中核拠点となる。(沖縄タイムス編集委員・阿部岳)

 加藤官房長官は密約を完全否定した。何故認めないのだろうか。この機会に日米安全保障の実態を示すべきだろう。国民に猜疑心を持っている。共同利用しないと言うはずがない。このままでは国防が安定をしないだろう。日米が協力して有事に当たるということが、現在の安全保障の骨格なのだ。隠すこと自体がおかしなことになる。

 アメリカの一国主義の変貌を見れば、日本の自衛隊がアメリカへの攻撃の防御も担うことが要請されて当然である。中国が太平洋に進出してアメリカのリスクが高まることを、琉球弧の島々の自衛隊基地が、監視をする。中国の攻撃を確認した時には、いち早くミサイルによって先制攻撃をして、日本本土およびアメリカ本土の被害を防ぐ。これが現状の防衛戦略の計画である。

 どのようにごまかしてみたところで、自衛隊と米軍が基地を共同利用し、共同訓練をしないことには、今のままでは中国に軍事的には対抗できないという現実認識が日米政府にはある。自衛隊の敵基地先制攻撃ミサイルの配備はまさにこの現状を日米が確認して合意していることだろう。

 そして、中国は琉球弧に並んだ米軍基地および自衛隊基地がどのような配備をしているのか、偵察衛星で監視していることだろう。あの北朝鮮の核実験場の車の通過まで観察していることと同じである。石垣島の自衛隊基地も当然、建設の初めから、徹底して施設の建設状況を見ているに違いない。

 石垣島にはミサイル基地を作ろうとしていると中国が考えて当然のことだ。なぜ、石垣島の神聖な守護の山である於茂登岳の山麓に基地を作ったかと言えば、於茂登岳に穴が掘れるからである。カモフラージュされた穴蔵の倉庫からミサイル発射台が引き出されるはずだ。

 中国にしてみれば、自分を狙っているミサイル基地を研究しないはずがない。孫子のように敵を知るということから軍事は始まる。そして尖閣への中国艦船の領海侵犯が始まったのだ。中国にしてみれば、中国包囲網に対して黙っていられないというところである。

 中国にしてみれば、自国の権益を守るために、どのように日米の間にくさびを打ち込み、不信の関係を作るかがこれからの戦略だろう。これからの日中関係は極めて難しいことになる。攻撃用のミサイル基地を作りながら、お互いの腹を探ろうという外交の状況である。

 平和外交とは正反対の現状である。日本は中国に対抗出来る軍事力など持てるはずもない。そもそも、原子爆弾を持てない国なのだ。日本は北朝鮮にすら脅かされてしまう。日本はなまじの軍事的な対抗策は採らない方が安全だと考える方が良い。

 専守防衛に徹する。中国を攻撃する能力はないと言うことを、明確にする。そして、攻撃力のない国であることをむしろ平和外交の力として、アジア諸国との友好関係を作り上げる。日本はアジア諸国を侵略する意志がまったく無い国であることを証明する。その武力も明確にないことを示す。だから安心してお付き合いくださいと、良い経済関係を構築していく。

 日本はアメリカとの関係を見直す。独立国家として対等な関係を作る。日米地位協定を見れば、アメリカが日本を軍事基地利用としてしか見ていない本質が分かる。米兵の米軍基地の外での犯罪の裁判権すら日本にはないのだ。米軍ヘリコプターが日本で墜落しても調査する権利もないのだ。

 沖縄では頻繁に米軍飛行機からの落下物がある。しかし、そのことすらまともに取り合ってくれないのが現状である。夜間の発着訓練はしないと約束しながら、平気で行う。落下傘の訓練も行わない約束をしながら、頻繁に行っている。しかし、日本政府はせいぜい要請をしましたぐらいの範囲である。
 
 辺野古には米海兵隊の基地が建設中である。沖縄の民意を踏みにじっての建設である。米軍基地負担の軽減と言いながら、まさに基地強化の一環として辺野古基地の建設が進められている。沖縄を又日本本土の犠牲にしようとしている。無人島はいくらでもある。しかし、辺野古なら我慢するという米軍に対して無力なのだ。これが、日米安保の実態である。

 この米軍基地は自衛隊が常駐するものであると言うことが密約されていた。当然のことで、南西諸島全体に配置され始めている自衛隊基地は米軍との共同使用が想定されているのだろう。これは日米安全保障条約に基づく、米軍への基地の提供ということである。

 アメリカがどれほど沖縄の人々の生活を脅かしているとしても、日本政府は一切目をつぶり、日本の防衛を肩代わりする代わりに、日本は基地を提供する約束なのだ。沖縄の基地負担の軽減を口にするなら、まず日本政府は日米地位協定の見直しを始めるべきだ。それはいつでも始められるもののはずだ。

 中国の経済力が急速に増大し、軍事力もアメリカに対抗しうるような強大なものになろうとしている。アメリカも当然、太平洋の防波堤として、日本列島に基地を並べることが戦略の上で重要度が増している。アメリカは日本に防人になれという。日本は沖縄に防人になれという、より弱いものが犠牲になる構図。

 軍事力を増大する共産党独裁の中国に対抗するためにはどういう方法があるのか考えてみる必要がある。一番は中国に対抗するアジアの近隣諸国による平和連合である。中国の増してくる圧力に対して、近隣諸国は大いに不安を感じている。その不安を感じる国は同時に、中国に強いことも言えない国でもある。

 中国は外交の巧みな国であるから、近隣諸国を衛星国にしてしまおう、援助と圧力を同時に進めている。そのことはアジア各国は日本以上に十分承知しているから、それぞれの国が複雑に中国との関係を模索している。軍事力で対抗しようなどとしている国はない。

 日本ほど、アメリカに軍事的に利用されている国はない。日本はアメリカに偏りすぎている。アジア諸国と対等で友好的な関係を作り上げることが日本の安全保障になる。中国が軽視できないような、強固な平和の絆を作り上げることだ。

 そのためにはアメリカと一定の距離を持つこと。そして、攻撃的な軍事力を持たないこと。自由経済と議会制民主主義を目指す国家であること。これらのことを明確にしなければアジア諸国との、平和で対等な関係は生まれない。

 アジア諸国は日本と同じような立場で、強大化する中国を不安な眼で見ている。日本はアジアと諸国と連帯を基盤として、中国との関係を模索すべきだ。そのためにはアメリカと余りに依存し又利用されすぎる関係は終わりにしなければならない。

 中国の低賃金による優位は遠からず終わるはずだ。アジア各国の労働力が日本経済にとって重要度が増してくる。同時に、中国にしてもアジア諸国との経済関係の強化が必要になるはずだ。この時に平和国家である日本がアジア諸国と良い関係を持ていることが重要になる。

 日本がなまじの軍事力を持つことは、アジア諸国との信頼関係を損なう可能性が高い。過去日本はアジア諸国に侵略戦争をしたことを忘れてはならない。その反省に基づき、どこまでも攻撃的軍事力のない国である必要がある。飛行機に竹槍で対抗するような愚を又犯してはならない。
 
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途中まで描いた絵のつづきを描く

2021-01-27 04:00:09 | 水彩画

  外の明るい日は電気を付けないでもギャラリーは明るい。このところいろいろな絵を出してきて並べてある。よくよく眺めている。自分の絵だと言えるのは、どの方向なのかを考えながら見ている。こうしてみると何故描いたのか不思議なものもある。

 水彩画は一度画面を中断して、その続きを描くと言うことが面白いし、この継続のやり方こそ絵を描く、つまり制作と言うことになる。この絵の継続の仕方には覚悟が必要だと考えている。写生から制作に変わり、自分の絵に向かい合うことになるからだ。

 分からなくなると途中でも止める。分からないまま終わりまで行かないようにしてきた。最近は以前に比べると、終わりまで描くようにしている。終わりまで描くことで、進めることもあると気付いたからだ。それでも分からないままでっち上げるようなことは極力避けている。

 水彩画の材料の特徴で乾くまで次の色を塗れないと言うことにある。たぶんその点では水墨画に近いのだろう。一気に描こうとすれば掛ける水彩画もあるのだが、同じ色を、繰返し4,5回重ねて出したい色を出すことがある。もちろん違う色を重ねることも良くある。結構面倒くさいような描き方なのだ。

 そのために一日で描き終わることは滅多にない。一見短時間で一気に描いたように見えても、意外に複雑な手順が必要なことが多い。一日描いて数日眺めていて、描きつないで、2,3回で終わることが多い。場合によっては何年もしてから、思い出したように絵が進むこともある。

 ただ進め方が分からなくなって、描きかけで終わりにする物の方がはるかに多い。こうしたものを1,2年して又見ていてこの先こうしてみたらと思うこともよくある。いままで分からなかったことの進め方が、最近の努力で身についたもので突破できることがある。

 水彩画は技術的な難しさがかなりあって、かなり技術については努力してきたつもりだが、今でも新たな技法に気付くことが良くあるのだ。技術的な蓄積なくして、水彩画は描けるものではないと今更ながら感じている。

 技術を高めると言うためには、過去の方法を否定しなければならない。一度身につけた技術に止まっていれば、新しい方法は発見できない。いつも自分が否定しているものにまで手を出してみないとならないようなところがある。

 どんな表現でも出来るという自由がなければ、自分の絵など描けないと考えている。北斎が100歳まで毎日1枚描くと決意した気持ちがよく分かる。私ごときものが自分の絵を描こうというのだから、それ以上の努力が必要と言うことになる。一日2枚、120歳まで描かない行きつけないか。

 描いた絵を捨ててしまうと言うことはない。数百枚の描きかけの絵が残してある。このところ整理のつもりで、描きかけの絵のすべてを見直していた。そしてその半分位はどこにも希望もない、良くもこんなものを描いたというものだ。この先を描くどころではなかったので、廃棄をした。

 そして見ている間に、あれこれは行けそうだぞと言う作品を取り出してみた。ほとんどは石垣に来てからの絵なのだが、中には小田原にいた頃の絵もある。石垣に移るときに希望のないものは一度廃棄している。もちろん可能性がありそうな絵を持ってきているのだが、それでも又廃棄しなければならなかった。

 希望のありそうなものは、描きたくなったらいつでも描きつなごうと思っている。描きつなげる絵は良いところで分からなくなり、中途で止めた絵だ。分からないまま最後まで描ききってある絵は良いかダメかのどちらかである。

 もちろん今の目で見てである。情けないが何故これでいいと思ったのか不思議な絵が沢山ある。しかし、中には結構良くてすごいなと思うものもある。今は描けない分からないまま飛び越える若さのようなものがあるものだ。しかし今目指しているのはその程度のものではない。

 今描いている絵と、描きつなげそうな絵をギャラリーに並べて眺めている。それで何かあれば続きを描く。その時にはそれを描いた場所に持って行くこともあれば、他の場所で描くこともある。もう一応は描いてある絵なので、別段風景を見ると言っても、確認しているのは空間とか光とかであって、具体的なものの説明ではない。

 それでもどこかの風景を見ないと、空間の関係は時々見ないとやりにくい。その絵を描いたところに行く必要もすくない。先行き希望を感じる絵は、分からなくなったところで適当なことをしていない絵だ。分かった描き出しの気持ちが残っている絵は、その先が見えてくることがある。

 その分からなくなった絵の目的地が、時間を空けて見えてくることがある。これがかなり重要に思える。その意味で今も分からなくなったらば、止めることにしている。先の分からないまま描いてしまうと、観念的な過去に獲得した他人の作り出した絵を利用することになる。これで道を誤る。

 よさげな絵をでっち上げてしまい、私絵画ではなく、人の作った絵の後追いをやってしまう。そういうでっち上げ仕事を払拭するために苦労しているのに、今更無駄なことになる。人と比べないでかつてないもの、過去の自分でもないもの。新しく創造する仕事に向かいたい。

 絵の繋ぎ方である。一度途中まで進んで止めたあった絵をどのようにつなぐかである。新鮮な気持ちで始めて出会うようにしたいと思っている。何より修正するとか、直すとかという気持ちは一切捨てる。そういう邪念のような気持ちが湧いてきたら、どうせくだらないことになるから、すぐに止める。

 途中まで描いてあった道の先に進むだけである。未知の世界が何かその昔の絵に覗いていたから描きつないでいる。糸口をたぐる。完成というようなものではなく、その先を探る、見失えばそこで終わりにする。絵を描くと言うことは自分の世界観と画面との関係を探っているのだろう。

 絵が自分になれば、それが一番良い。私が描いたと言って良い絵になれば良い。そう考えてみれば、まだ道の先は見通せない。しかしこのなんとなくこっちの方角らしいをたどる以外に道もない。当ての無いことではあるが、毎日絵を描きに行く充実が嬉しい。

 問題は只管打画が自分への道であるかどうかである。絵を進めると言うことと自分を進めると言うことが、同じであるのかどうか。毎朝動禅をしている。この動禅は健康体操なのだが、100歳まで生きたときに始めて間違ってなかったかと言うことになる。

 絵も同じことだろう。どんなやり方であろうが、絵がすべてを物語っている。100歳まで描いて自分の絵にたどり着ければ、間違ってなかったという話だ。その時間違っていたとしてももう一度やるというわけにはいかない道だ。こんなことを考えながら、ずーと絵を見ている。
 
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無意味なクソ仕事 「ブルシット・ジョブ」

2021-01-26 04:14:57 | 暮らし


 エッセンシャルワーカーのことを考えていたら、その対義語の方のことが気になった。「ブルシット・ジョブ」と出ていた。無意味なクソ仕事と訳すらしい。エッセンシャルワーカーの方は人間社会がある以上必要な職業である。なければ社会が成り立たないのだから当然である。

 一方、ブルシット・ジョブはなければない方が良いような職業のこととある。実際にどういう職業か社会に役立たないか、いろいろ想像してみたら面白かった。絵描きはまず思いつく。坊さんというのもそうだろう。経営コンサルト、投資家、総会屋。反社会的勢力。ところが、読んでみるとこういうものばかりではなかった。

 20世紀になって、「ブルシット・ジョブ」が増えた雇用との説明がある。専門職・管理職・事務職・販売職・サービス職。とくに管理系の仕事が増え、金融サービスやテレマーケティングなど新しい情報関連産業が創出された。

 管理職と言う呼び名からしてない方が良い仕事に違いない。管理などなくとも動いて行く働き方こそ、楽しい仕事である。監視され、指図され働かされるのは奴隷仕事である。奴隷仕事の方がらくで良いという人がいるから、管理職などというものが出来るのだろう。

 経営コンサルティングなどという職業もある。これもおかしな仕事だろう。何か仕事を興そうとして、あれこれ工夫し、満ちに挑むことが楽しいのだ。人に教えて貰い、それに従い、金儲けがうまく行ったからと言って少しも面白くないだろう。そうでもない、儲かれば良いという話なのだ。

 そもそも、やっている本人たち自身が何の役に立つかわからない職業。あなたの職業は社会に貢献していると思うかという、アンケートに対して、働いている人の37%の人が貢献していないと思うと答えたそうだ。社会に貢献すると言えるエッセンシャルな職業はむしろ少ないだろう。すぐ思うのは医療従事者である。こんなに明確に貢献する職業はまずない。

 受付係やドアマンなどの「太鼓持ち」職業と考えるといい。自分が重要な人物だと思わせるために存在している職業だ。案外こう言う職業は多いのかもしれない。中国では美女と目される大柄な女性がチャイナドレスを着てただ立っているホテルや、レストランが良くあった。今もあるのだろうか。日本にもあるのかもしれないが、そういう場所に出会ったことがない。

 もう1つはロビイストや企業弁護士、広報などの「雇われ暴力団員」といえるような仕事。雇用主のため、攻撃的に防御的に活動する職業である。企業にはそうしたない方が良いような仕事がいくらでもありそうだ。クレーム処理係などもなくてもいい。

 製品や契約のことで困って企業に電話すると、クレーム係に電話は繋がり、巧みにはぐらかされる経験が何度かある。私どもの会社が直接担当するものではありませんので。とかなんとか、うまくはぐらかす角の立たない話術だけの人である。

 そのほかにも中間管理職などの「ムダな仕事製造係」などがある。どうも要らない仕事を作り出す必要が、企業にはあるらしい。労働者の働き具合を監視するような仕事ではないだろうか。監視などないほうが楽しく働けるだろうに。ーー以上のように様々説明が書かれている。

 案外に、こうした無意味な仕事が重視され給与が高いことがままある。管理職の方が、管理される方より安くて当たり前だがどうだろうか。その結果エッセンシャルワーカーの待遇が悪いと言うことになる。監視する方が、実際働く労働者よりも上に立つ。

 昔の農村では道普請は娯楽でもあった。みんなで久しぶりに集まり、村の暮らしのために楽しみ仕事をする。こう言う仕事は、仕事のようでもあり、娯楽でもある。終わってのお茶が、一杯が、村の結束を固める。

 同じ絵描きでも、芸術家はかなり怪しい。イラストレーターはまだ良いのだろう。文筆家でも詩人とか、思想家など名乗ると怪しげになる。哲学者となるとほぼインチキのような気になる。小説家はまだ良いのだろう。まあ良いと言っても何が良いのかが難しいが。本当に必要なものの中には要らないものが混ざっている。

 資本主義と言うものは、末期的になればなるほど、怪しげな職業を作り出すのだろう。資本は自己増殖するために、暮らしには関係のない要らない職業を作り出す。人間が生きるために不可欠なものだけでは、資本が増殖できなくなる。

 食べて生きる。この素朴だけであれば、料理人は存在しない。ミツボシシェフなど要らない。いなくとも人間はひとまずは生きて行ける。しかし、美味しいものを食べたいと言うことだけでも、どこまでも先鋭化して行く。下層労働者の一ヶ月分の給与を一食で費やすような上層階級もあり得る。

 資本は利益を生むものを探して、どこまでも自己増殖して行く。三つ星シェフを認定する美食評論家など、ブルシット・ジョブの代表になるだろう。そもそもテレビに出てくるタレントなど要らないと言えば、すべて要らない。

 そうしたなくても良いような幻想世界を作り上げ、その尾ひれの中で生きる人達もブルシット・ジョブ。どうも、なくても良い職業にも、ない方が良いものから、どっちでもいいようなものまで、順番があるようだ。

 私のような坊さんの絵描きはかなり要らない職業になる。傍から見れば困りもんだ。要らないものだから選んだ生き方だったのかもしれない。申し訳ないのだが、本当に申し訳ないことなのだが、エッセンシャルワーカーと呼ばれるような立派な仕事に就きたいと思ったことは一度もなかった。責任というものに堪えられない人間だ。

 その意味では養鶏業だけは唯一エッセンシャルな仕事だったかもしれない。イネ作りもそうだったかもしれない。百姓は胸を張れる職業だ。しかし、私の場合これもあくまで自分の興味本位であった。自分が鶏と一緒に暮らしたいと言うばかりで、日本鶏を飼った。猫好きの猫のようなものだ。それでは申し訳がないので、何とか仕事にしなければと自然養鶏を始めた。

 こうして、世間に後ろめたい気持ちを抱いて生きてきた。それで何とかその体験を本にして残せば、いくらか世間のためになるだろうと言うことで、イネ作りの本と、自然養鶏の本を書いた。好き勝手に生きた贖罪のようなものなのだろうか。
 
 本当のクソ仕事はない方が良い職業のことだ。はっきり言わせて貰えば資本の手先となって這いずり回る仕事のことだ。拝金主義者のことだ。金儲けの何が悪いとうそぶくような連中のことだ。竹中平蔵教の信者のことだ。竹中氏の肩書きを見ると、まさに要らない仕事を増産している。

 広告代理店も要らないだろう。要らないものを宣伝広告で売るための仕事。レストランの前に立つ美女のようなものだ。尾ひれにさらにリボンを付けるのが広告。もう社会は要らないものの方が多くなっている。社会が大きくなりすぎたのだろう。

 その結果、エッセンシャルワーカーの待遇が悪くなっているのではないか。どうすれば良いのかをもう少し考えてみなければならない。
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石垣島を選ぶ理由

2021-01-25 04:51:32 | 石垣島


 きっと日本に暮らす何百万人もの人が暮らす場所を変えようかと考えている気がする。コロナで暮らしをもう一度考え直しているのではないかと思う。もちろん大多数の人は簡単には移動はできないだろう。しがらみがある人、勤務先の関係。普通に暮らす人にとってはよほどのことである。

 それぞれの生き方である。ただ何度も場所を変えてきたものとして、石垣島を選んを理由を書きたい。生まれた場所は山梨県の藤垈の一軒家のお寺。そして東京の三軒茶屋で小学校。世田谷の松陰神社で中高時代。大学は金沢。そしてフランスで美術学校。戻って三軒茶屋で絵描きを目指す。そして丹沢山北の山中で開墾生活。その後小田原で養鶏業。そして、終の棲家として石垣島で今暮らしている。

 一カ所で一番長くいたのが、小田原の14年ほど。葛飾北斎は100回の引っ越しをしたと言うが、都内である。全く違う環境に移動して生きてきた。その年齢に相応しい場所を選んできた結果である。数えれば9回である。平均8年に一回となる。

 現在3年目の石垣島暮らしは小田原超えの15年以上のつもりである。これからである。石垣島で家を作るときも、設計の方に一番に言ったのは、家は死ぬまで持てば充分なので、100歳まで生きるつもりなので、30年の耐久性でお願いします、と言うことだった。

 残りの長くても30年の石垣での日々は絵を描くばかりである。この30年は集大成の30年のつもりである。人生には起承転結がある。25年づつとすれば、これからが結論を出す25年である。いままでやってきたこと、坊主になったこと、養鶏やイネ作りをやったことも絵を描く為と言ってもいい。

 絵を描く為に最も良い場所を選んだ末、石垣島と言うことになった。石垣島というと川平湾の景観が観光パンフレットには出てくるが、まだ描いたことがない。石垣島には現在20カ所以上の写生地があるが、川平湾はまだ描きたいと思ったことがない。

 選んだ石垣島は日本の里の風景なのだ。日本にはすばらしい里が、あちこちに残されている。どこも絵を描きに行ったことはあるが、確かにすばらしいのだが、そこに暮らそうなどとは思わなかった。理由はどこも保存され作られた感がある里だからだ。

 観光に竹富島に行くのは良いと思う。緩やかに流れる時間は他にはない。しかし、私にはテーマパークに見えるのだ。今現在の生活で出来た風景ではないのだ。だから竹富島は絵を描こうと思わなかった。

 人が美しく作り上げた庭や家屋では絵にならない。絵を描く気持ちにはとうていなれない。それは長野や能登の棚田であれ、一関市厳美町であれ同じことなのだ。見れば美しいのはわかるが、どうも絵を描きたい気持ちが湧いてこない。

 石垣島はごみだらけである。竹富島とはまるで違う。どうしようもない生活の場である。観光客がレンタカーからごみを放り投げて行く。コンビニで買った弁当やジュースの捨て場がないので放り投げるのだろう。農地であっても景観を意識して耕作されているような所はどこにもない。

 生活をするためにごちゃごちゃになりながら、農地が残されている。その残された農地が絵を描きたくなる農地なのだ。特に水田の面白さは他にはない。修学院離宮の棚田は確かに一つの理想世界である。しかし、その作られた世界を絵にするのは、観光案内図のようなものだ。描きたいとは思わない。

 この違いは絵を描く上で重要だと思っている。似顔絵とモナリザとの違い。モナリザは人間の存在というものの不思議に迫っている。風景を描くと言うことは風景の説明や案内しているわけではない。そこに惹かれて描く人間自体を、見ていると言うことの意味を探求している。

 人間が田んぼの近くに暮らすということは、江戸時代の天皇が想定した田んぼのある離宮という、日本人の理想の暮らしとは違う。どうしようもないものをはらみながら、人間は日々に必死に田んぼを開き生きてきたのである。この人間が生きるという田んぼを描きたい。それが石垣島の田んぼにはあるのだ。

 耕作地というものは人間が自然と折り合いを付けながら、切り開いたものである。いつでも自然に戻ろうとする力が働いている中で、耕作をしている。手入れされて維持される、自然と人間の暮らしとの関わりの姿である。

 悪く言われる代表的なものに特定外来植物というものがある。これは自然なようで、自然ではない違和感があるものだ。石垣島にも結構はびこっている。しかし、もう限界を超えてしまい諦めたのか、新しい調和を始めているようなものも多々ある。

 石垣島はある意味植物の混沌地帯である。農薬を使っている桃の花が美しく見えるわけがない。こういったことがある。美し見えない人もいるだろうし、それでも美しく見える人もある。絵は理想を描いているわけでは無い。

 ハブを駆除するためにマングースを導入したようなものである。孔雀が野生化してしまってもう当たり前のような顔をして歩いている。石垣島でビオトープを作りの自然観察をすれば、ごちゃ混ぜの世界が出現するだろう。このごちゃ混ぜ感が私には丁度だったのだ。人跡未踏の自然を描きたいなどとは全く思わない。人間を研究するのがアカデミーだそうだ。石垣島はいかにも人間が暮らす島なのだ。

 石垣島は観光業で生きて行かざる得ない。観光業を否定すれば、この島は1000人ぐらいの島になってしまうだろう。竹富島であればそれも良いが、スーパーから病院まで一応すべてのある場所としてはそういう訳にはいかない。だから、ホテルも、牧場も、ゴルフ場さえ、目をつぶるほかない。それをふくめて落としどころを探るのが石垣島の現実である。

 トラックターが入れるような田んぼにしなければ、農業と言うことでは放棄されて行く。軽トラがそばまで行けなければ、田んぼはこれからは作れない。もうそうなれば、イーハトブーではないというのだろうか。宮沢賢治はどう考えるだろうか。

 人間が暮らすと言うことは自然破壊であることには変わりはない。しかし、手入れの加減を見る。この枝は折った方が良いか。この草は抜いた方が良いか。いちいちに自然との関係性を受け止めて行くことが出来るかであろう。わたしの目には、石垣島の土壌の性質からできた冬水田んぼはすばらしい景観なのだ。自然保護だけの冬水田んぼはそれほど美しいとは思えないのだ。

 島の普通の暮らしが維持されるためにはゴルフ場を作ることが止むえないことであるなら、その赤土の流出をどのように抑えるかである。美しい沈殿池を作れないものだろうか。そうした混沌の総合されたものが石垣島の今の現実である。そしてそれを描いてみたいと感じている。
 
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第37回 水彩画 日曜展示

2021-01-24 04:26:38 | 水彩画
第37回 水彩画 日曜展示






120「名蔵アンパル」
10号大 ファブリアーノ
2021.1







121「名蔵田んぼ」
10号大 ファブリアーノ
2021.1







122「ふさきリゾート」
10号大 ファブリアーノ
2021.1






123「大浜丘陵」
10号大 ファブリアーノ
2021.1







124「宮良川中流部」
10号ファブリアーノ
2021.1






125「大里田んぼ」
10号大 ファブリアーノ
2021.1






126「崎枝の畑」
10号大 ファブリアーノ
2021.1

127「





128「宮良川中流域」
10号大 ファブリアーノ
2021.1






129「宮良川中流域」
10号大 ファブリアーノ
2021.1






130「宮良川中流域サトウキビ」
10号大 ファブリアーノ
2021.1







131「崎枝の田んぼ」
10号大 ファブリアーノ
2021.1






132「与那国島内陸部」
10号大 ファブリアーノ
2021.1







133「名蔵アンパルの田んぼ」
10号大 ファブリアーノ
2021.1


 今回まとめて一三点を展示する。途中まで描いてあった作品。それを進めてみた。調子よかったのかどうか、ともかくどんどん終わりまで描いた。10号ぐらいまでの作品だと、いくらか早くできる。年賀状を描いた勢いが続いているのかもしれない。

 あえて続けて小さいものを描いたのは、同じ大きさばかり描かない方が良いんじゃ無い。と大原さんに言われたことが頭に残っているからだ。中判全紙ばかり描いていたのは長沢節さんだ。他の大きさの絵を見たことがなかった。

 他の大きさの額を持っていないからだと言っていたが、そうではないと思う。それぞれに自分の大きさがあるのだと思う。水彩画は中判全紙までが一番特徴がでると思っている。より小さいものは水彩らしい絵が描けるが、複雑なことがやれる大きさとなると、中判全紙だと思っている。

 ときどき大判全紙を描いてみるのは、その自分の大きさというものの感覚を動かした方が良いと思う時だ。10号ばかり描いてみたの10号の大きさの感じが面白くなったからだ。今の水彩絵の具の使い方で、10号を描いたならばどうなるかと言うことがあった。

 次に5号ぐらいのものを続けて描いている。来週にはこれもまとめて展示したいと思う。何枚ぐらい出来ているだろうか。ともかくやりたいことをやりたいようにどんどんやって見るほかない。今はできるだけ自由になる必要がある。
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中国は日本に大きく影響する

2021-01-23 04:09:14 | Peace Cafe
竹富島が低く見えている。

 中国はTPP加盟を希望した。アメリカよりもさきに参加を表明した形だ。抜けたアメリカトランプよりも、よほど賢い選択である。アメリカに対抗するためにはTPPに加盟するメリットは大きいはずである。日本はこの状況をどう判断することが出来るのだろうか。

 たぶん、大統領がバイデンになればアメリカも入るのだろう。そのときでも中国は加盟するのだろうか。そうなれば少し状況も変わってくる。

 アベ長期政権下の日本の外交的情勢は何も成果を得られず、悪い方向にだけ進んだ。対韓関係は史上最悪である。対北朝鮮政策では政権が最優先とした拉致問題は進展なし。北方領土交渉は明確に後退した。対中関係では習近平国家主席の訪日の失敗で中途半端になったまま次の手が打てない。

 アベ政権の掲げた積極的平和主義ほど怪しげなものはなかった。アベ政権のように、標語だけの張りぼて政権では外交は後退するだけだった。しかし、この間の世界の緊迫度は一段と高まったわけで、日本の無策がむなしいばかりである。日本には中国さえ敵に回しておけば、それでよしという人が未だにいるのだが。

 安倍政権下の積極的平和主義とは自衛隊の海外派兵では無く、実質は琉球弧への敵基地攻撃のミサイル基地の建設であった。これはアメリカトランプを忖度したものだ。加えてアジア諸国に対する武器提供等による、対中国包囲網の形成であったと言える。

 アベ外交は世界中を歩き回ったばかりで、アフリカや中東からは手を引いたと言える。自分の周辺の不安に専念せざる得なかったと言うことが現実かもしれない。対中国に対する防衛政策が中心であった。アメリカトランプとの関係も、対中国関係悪化の結果と言うことであろう。

 アベ政権は国際貢献とか、積極的平和主義とか、旗印を掲げはしたが、実はトランプと同じ日本一国主義だったと考えたほうがいいように見える。アメリカとの関係も何も整理が付かなかった。日本のポピュラリズムだったのかもしれない。世界の中の日本がいつも井の中の蛙で終わる大東亜共栄圏と同じで、東亜の夢となり敗戦になるわけだ。

 日本に取って中国は重要な隣国である。日本外交の最も重要な要素になる。地政学的にみれば当たり前すぎることで、反中国主義者でも異論が無いだろう。しかし現状では中国は単純に最大の脅威でもあるとされている。同盟国アメリカへの配慮であろう。この状態を解消できるかどうかが、日本の命運と言えるぐらいに大きなことだろう。

 中国は一方で最大の経済的機会でもあると見られている。巨大な市場であり、文化的親和性があり、14億人の人口である。石原慎太郎氏のように中国をシナと呼んで嫌う人でも、日本の経済的な発展に関係が不可欠なこととは考えざる得ないだろう。後6,7年でアメリカ経済を追い抜く可能性が出てきている。投資家であれば見逃せない状況だろう。

 その中国がTPP加盟を模索している。今やアメリカを凌駕する中国。日本の未来にとって中国の経済発展は軽視できない大きさであるのは当然のことである。しかし、中国の未来は不安定である。覇権主義的な国であると同時に、民主主義が成立していない一党独裁の国である。この難しさをどうするかである。

 そして、中国は14億人という日本の10倍、面積25倍の国である。この巨大さが経済成長の要因であるわけだが、同時に過去の少子化対策で、日本以上に深刻な人口のゆがみを迎えるはずである。このときもすでに迫っても居る。それは日本にも影響してくるゆがみと考える必要がある。

 一番大きな不安は食糧危機である。この巨大国中国も食糧自給が出来ない国なのだ。中国が経済成長をして、輸入できる状態になったために、世界全体の食糧危機はより深刻化した。貧困な国はより食糧危機に陥ることになった。

 労働人口が減少し、老人国家になったときに一党独裁の国家が乗り切れるかどうかである。国民に不満が生じることになれば、収まりが付かなくなる可能性が高い。人間を力で押え込めば、必ずどこかで破綻が広がって行く。中国は日本との関係を改善したい気持ちもあるはずである。

 国家資本主義とも言える企業を国が統制を取る国である。しかし、資本は自分で動き始めるから、アリババのように国との調整が付かなくなる。どのように国家を越えて行く資本を統制できるかが、中国の次の課題なのだろう。

 戦後の日本は長きにわたってアメリカとの同盟に寄りかかりすぎてきた。アジアの一国としての進むべき方角を考えなければならないときがきている。日本はアメリカに対して、自由と民主主義の正義を守る国で存り続けるよう働きかけるべきだ。

 当然日本が正義の独立した国で無ければならない。アメリカがアジアと関係を後退させることは、世界平和のためにならないだけで無く、アメリカの国益を損なうことになる。菅政権にはアメリカがここまで成長できたことは、アメリカの世界に対する自由主義経済と議会制民主主義の正義を貫いてきたからだと言うことを思い出させて貰いたいものだ。 

 日本は中国に対して、TPPに加盟を求めるのであれば、覇権主義を止めて、大国に相応しい振る舞いに改めるよう働きかけるように要請するべきだ。法治国家であること。民主主義を尊重すること。人権を守ること。世界のどのような小国も、共に発展する道を歩むこと。これらの価値観が大国としての中国の国益であることを理解して貰うように、日本は行動しなければならない。

 習近平の腐敗一掃は、いつ自分に火の粉が降りかかってくる分からない独裁でもある。新自由主義経済を目指す、日本やアメリカにしてみれば、自由や人権が無い場では能力主義が育た無いと考えている。だから、中国の経済成長はあり得ないと考えてきた。

 ところが現実には中国は国家資本主義と言う今までに無い形の経済政策をとり、世界に例を見ない急成長を遂げている。国家資本主義にどのような限界が存り、どこで頭打ちになるのかは今のところ意見の分かれるところである。中国の経済はアメリカを凌駕するところまでは行くとみている。

 しかし、そのまま上手くゆくとも言えない。中国は「老人人口の偏り」「食糧問題」「資本の国家越え」「自由への希求」から、変調を来すのではないだろうか。中国人は充分に自国の問題点を理解している。それが今起きている企業への圧力である。

 習近平政権もやはり修正主義政権である。経済成長のためには共産党の理念、毛沢東主義も簡単に捨てている競争の原理を取り入れながら、国家主義的な合理性を巧みに国民に押しつけている。ある意味競争にさえ勝てば良いという、経済至上主義なのだろう。

 このやり方は国家運営者が有能であり、自分の利益に固執し裸の王様にならない限り、当面成功を続けるとみていいのでは無いか。その意味で、習近平政権は今のところ、順調な様子である。その中国にも大きな問題がまっていることは自覚しているはずだ。

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エッセンシャルワーカーの待遇改善

2021-01-22 03:59:44 | 暮らし


 
 エッセンシャルワーカーは待遇改善をされる必要がある。医療従事者、警察・消防関係者、公共団体関係者、銀行やスーパーマーケット勤務者というようなライフラインに関係する労働者をエッセンシャルワーカーと呼ぶらしい。コロナで重要性が確認された。

 エッセンシャルという単語が示すように、そこには尊敬の思いが込められている。デジタル化が進み、様々な仕事がリモートで可能になっても尚、どうしても物理的に対応しなくてはならないことは残る。その中には社会活動をささえている、無くてはない仕事がある。

 それを担う職業の給与や労働条件は、需給バランスを踏まえれば、今後、上がっていくことは間違いない。しかし現状ではまだまだ不十分と言われている。厚遇されるようになるであろうエッセンシャルワーカーの処遇はどのようになるべきだろうか。

 自粛期間中であっても出勤しなければならない職務に就く人。スーパーマーケットや銀行や医療従事者などには、まず特別ボーナスが支給されるべきだ。感染リスクがあり、身体的な負荷や家族の負担も大きいのだから当然のことである。
 
 今後は社会として、有事だけのものではなく、平時から特別な慰労金が支給されるようになる必要がある。現在でも、危険手当といったものはあるのだろうが、社会インフラを回すために必要不可欠な職業は人員確保のためにも、待遇改善は絶対条件である。

 必要不可欠な職種は、時間管理は厳格にならざるえない。場合によっては、休むことさえ許されにくい職業もあり得る。多くの方が、正月休みもなく、コロナ対応で頑張ってくれた。成果よりも物理的拘束の方が重視される評価報酬に変わる可能性もある。

 また、手間や時間をかけて出勤していることから、職場で自分の役割とは関係のない仕事をやるよりも、自分に求められる仕事だけを専門に行うと言うこともあり得るだろう。専門性と時間の自由裁量も必要になる職種もあり得るだろう。すべてのエッセンシャル・ワーカーが医師に近い待遇になる必要がある。

 物理的に拘束されざる得ない、エッセンシャル・ワーカーは社会インフラに関わる仕事に多い。インフラであるとすると、そこに必要なのは、一定のサービス品質であって必要以上の付加価値は期待されにくくなるだろう。そのことで現在、待遇が社会的に見ると低くなっている傾向がある。

 このような業務は、同一労働・同一賃金の考え方と相性良く、中長期的には社会レベルでの適用が加速する可能性が高い。同一労働、同一賃金の体系が整備され、賃金水準のガイドラインが策定される必要性もでてくるだろう。
 
 「エッセンシャル・ワーカー」を訳すと生活必須職従事者。始めて聞いた言葉である。具体的職種が出ていたので並べてみると「医療従事者」「スーパー・コンビニ・薬局店員」「介護福祉士・保育士 」「自治体職員」「バス・電車運転士 」「郵便配達員・トラック運転手」「ゴミ収集員」「銀行職員」「警察官」「消防士・救急隊員」

 コロナでその重要性が際立った職業である。コロナがあろうが無かろうが重要であったのだが、危機にいたり社会が気がついたわけだ。無ければ社会が即座に成り立たない職業である。職業はすべてが無ければ社会が成り立たないとも言えるのだが、特に生活に直結していて、必要不可欠な職業と言うことのようだ。それぞれの人の暮らし方で、必要不可欠も大きく異なるだろう。


 政府は医療従事者や介護関係の職員には一時金を確か20万円補助したことがあったと思う。しかし、今の状況を思うと、その程度の慰労金ではとうていすまないと思う。コロナ前の勤務状況と現状との労働の過重の違いは半端ではないだろう。今頑張って働いてくれているのは職業に対する誇りと社会に対する愛情があるからなのだろう。感謝の気持ちを何とか、待遇改善につなげられないものだろうか。

 エッセンシャル・ワーカーに対する待遇が見直されるべきだと思う。余り良い待遇では無い職種も多い。無ければ社会が成り立たないにもかかわらず、余り待遇的には優遇はされていないと言う職業。必要ではあるが、誰にでも出来ると言う側面が存、それほど特殊な技能を必要では無い職業がある。

 なぜ、一部のエッセンシャルワーカーの待遇が悪いのかであった。理由を調べると特別な技能や資格が無くても出来る職業は待遇が悪いと言うことが理由にあげられる。確かにごみを集める仕事は特別な技能はいらない。しかし、本当はかなり熟達が必要な仕事ではある。

 本来であれば、必要不可欠な仕事なのだから、給与は高くしておく必要がある。望んだ勤め先を見いだすのが難しい人たちの多い状況下では、仕事が不快であればあるほど、立場の弱い人たちに転嫁されて、反比例した低賃金になる

 資本主義ではそもそも給与はどうやって決まるのだろうか。望んだ勤め先を見いだすのが難しい人たちの多い状況下では、仕事が不快であればあるほど、立場の弱い人たちに転嫁されて低賃金になる。

 社会では株式の急騰で不労所得を増加している富裕層が存在する。こうした不均衡な状態は、社会の不安定化に繋がる。どうやってこうした社会的正義に反する状況を改善するかが、政治の役割なのではないだろうか。日本では政治が富裕層向きになっている。

 エッセンシャルワーカーの対義語はBullshit Jobsと言うらしい。無意味なクソ仕事と言うらしい。実はBullshit Jobsが世界中で高給取りなのだそうだ。上級ホワイトカラーに多いらしい。社会の役には立たないが、一応その職に就いているだけで高給を受け取る仕事。

 これを逆転するためには二つの方法があるとも書いてあった。一つはエッセンシャルワーカーの待遇を改善する。当たり前のことだが、これは難しいことで不可能に近いとも書いてある。もう一つが、例の賛否両論渦巻く、ユニバーサル・ベーシックインカム。

 人が食べていける最低限の現金をすべての国民に渡す方式。一定の生活がすべての国民に保障される。その上で、いかに社会に貢献していくかは、それぞれの人が考える。そんなことでは誰も働かなくなると考える人が多いわけだが、実証実験の結果ではそうでもないらしい。

 ドイツ経済研究所が、120人が毎月約15万円を3年間渡す。研究所はその後、1380人の現金支給を受けていない人々の体験と比較分析を行うことになるということである。世界ではこうした社会的実験が数多く始まっている。

 非常に興味深い。資本主義が末期的な状況になってきている。ここを乗り切るためには新しい経済の考え方を模索するほかないだろう。もう少し勉強してみたい。
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コロナは深刻な新局面に

2021-01-21 04:28:10 | 暮らし


 コロナの感染爆発は新しい局面を迎えた。予想通り、非常事態宣言は効果を上げない。そして、感染力の強い変異ウイルスが広がり始めて、抑えられないことが見えてきた。これから、一段と深刻な事態になることを覚悟しなければならなくなっている。

 100人を超える死者が出ている。すでに医療崩壊が起きている。コロナの感染が確認された、持病がある人であっても、自宅にいる他ない状態が始まっている。保健所の自宅療養の患者の状況確認すら出来ないという。自宅待機中に死んでいる人も、全国に及んでいる。

 石垣島では健康維持と生活物資買い出し以外の外出が禁止された。2月7日までということである。28日には眼科の検診があるのだが、行かないことにした。どのみち検診といっても確認だけで治療があるわけではない。

 眼の確認をするぐらいで、コロナに感染する可能性があるのでは困る。小田原では検診は二ヶ月に一回だった。石垣島では一ヶ月に一回である。確かに石垣島の眼科医院の方が設備も良いし、熱心によく見てくれている。年寄だからといっておろそかにされている感じがない。しかし、毎月ではなく、二ヶ月に一回でも大丈夫だ。

 眼科医院はいつも満杯で密である。考えてみれば、患者よりも先生や看護師さんが不安なことだろう。待ち時間が長く2時間ぐらいかかる日がある。いつも感染が不安で仕方がない。感染者数から類推してみると、医院では毎日一人ぐらいの感染者と接触している可能性が無いとは言えない。目薬だけは貰いたいのだが、薬は処方箋なく薬局で売ってくれるのだろうか。

 果たして、絵を描きに車画堂で出かけては行けないということなのだろうか。絵を描くのは一人だし、車からほぼ出ない。ライフワークのリモートワークとなる。しかし不要不急であるし、不要不急の外出は禁止ということではある。

 今度、法律が出来ると違反者の名前の公表をして、罰則を行うということらしい。絵を描いていたら、警察に捕まり、始末書ぐらい取られるのだろうか。まさか、そんな馬鹿なとおもうが、菅さんなら見せしめにそういうことをやりかねない雰囲気がある。

 民間の自粛警察が、昇格して本物の警察になったということなのだろうか。鼻だしマスクで受験禁止になった40代おじさんがいた。トイレに閉じこもり、警察に捕まったらしい。そういえば同じような40代のおじさんが、マスクを拒否して飛行機から降ろされ、威力妨害で捕まった。

 社会にストレスがたまり始めている。40代のおじさん達は辛いのだ。私も30代後半は大変な思いで生きていた。人生の折り返し地点を過ぎて、後半にさしかかる。道を変えるなら今でしょう。そんな天の声がした。それでつまらないことにも妥協できないでいた。

 菅さんは虐め体質である。政府が無能で何も出来ないので、批判が自分に向かって来ている。そこで批判を一部の国民に向けるために、罰則を強化し、名前を公表して悪者を作り出そうとしている。

・緊急事態宣言下で事業者が都道府県知事からの休業や営業時間短縮の命令に応じなかった場合、50万円以下の過料
・緊急事態宣言の前段階として「予防的措置」を新設し、緊急事態宣言と同様に命令に応じなかった場合、30万円以下の過料
・入院措置に従わなかったり、保健所の疫学調査を拒否したりする人への刑事罰
・コロナ病床を増やす勧告に応じない医療機関名を公表

 一ヶ月で感染を抑えると公言したにもかかわらず、何の効果も出せない政府は国民を虐め始めた。政府が悪いのではなく、従わない国民が悪いというわけだ。しかし、従いたくとも従えないということもある。店が潰れるのが分かっていて従えるだろうか。店が潰れて一家心中というのは珍しい話ではない。

 店を閉めても、何とか暮らして行けるだけの補償がなくては無理だろう。もし補償も出来ないというのであれば、日本がいよいよ終わりということになる。とばっちりで若者が感染源だということを菅氏は言っている。若者は感染してもたいしたことがないのだ。若者にいくら言ったって、1年も我慢してきてもう無理なのだ。人間はそういうものだ。

 有効な対策があるとすれば、老人の外出禁止である。若者には老人接触禁止である。これ以外に医療崩壊を防ぐ手立てはない。他のことでは自粛疲れで効果が出ない。菅氏自身が、言うそばから老人忘年会をやってしまったぐらいだ。国のエライ政治家が夜の会食をやめられないのに、何故若者が止められるだろうか。

 新年に親族で集まるなと言われたって限界がある。成人式で若者に集まるなと言ったって、出来ないことは出来ない。出来ないことを見越して、可能な政策を考えるほか無い。店を8時に閉じさせるためには、脅かしただけでは無理だ。

 それを名前を公表するというのは、みんなでいじめろという指示なのか。罰金を科すというのはいよいよお金足りなくなったのか。自粛警察が公的警察に変わっただけだ。こんな国が信頼されるだろうか。政府に対して不満がますだけだろう。

 政府も民間も一緒になってコロナと戦う覚悟がなければ、感染症とは戦えない。悪者を作っていじめたところで、どうにもならないことなのだ。コロナウイルスは左遷されようが、人事の優遇を受けようが、屁でもないのだ。日本の政治が空洞化し、ここまで劣化していたことを明らかにしてくれたのは、せめてものコロナの恩恵だろう。これを機会に変わらねばならない。

 スエーデンの福祉はすばらしいと散々言われていた。幸せな国とも言われていた。ところが何かがおかしい。コロナに対して、無防備で社会的免疫で対応した。それが大失敗であったことは死者数の極端な増加であきらかになった。政府が悪いと、幸せの福祉国家でもこういうことが起こるのだ。

 台湾の素晴らしさは政治と社会と人間の素晴らしさである。強制力で抑えた中国とは違う。みんなで力を合わせようという気持ちでコロナに勝ったのだ。日本は台湾に学ぼうではないか。どうすれば心を合わせられるかを政府は考えるべきだ。

 罰則の強化など火に油を注ぐ結果になる。今更であるが、老人の外出禁止である。若者には老人接触禁止である。まず、菅氏から始める。老人の政治家はこの際自宅待機である。官邸でのリモートワークで良いだろう。政治家がそのくらいの覚悟で範を垂れなければ国民の気持ちが合わさることはないだろう。

 まず、いままでの非常事態宣言では全く効果がないと言うことを認めるところからやらなければ無理だ。尾身感染症対策部会長もこの際若い方に交代して貰った方が良い。何故、老人の外出禁止を検討しないのか、しているのだが出来ないのか。

 以前にも書いたがこれはイスラエルの、スーパーコンピュターの判断である。そしてそのイスラエルは実行できずに、感染が広がった。そして、世界で先頭を切ってワクチンを打っている。イスラエルのワクチンが効果をあげるのか、後遺症はないのか注目である。

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アトリエカーは待庵の茶室

2021-01-20 04:08:19 | 水彩画


 アトリエカーは茶室のような気がしてきた。禅堂と言うより、戦場に作ったと言われる茶室である。待庵は二畳の正方形の広さと言うが、アトリエカーも長方形だが、ほぼ二畳くらいの面積だろう。絵を描くにはちょうど良い大きさである。自分を集中させて行くためには最善の空間である。

 待庵は千利休の佗茶の空間である。国宝で千利休の作った茶室で唯一残っている茶室である。一間一間の広さで、天井の高さも一間、180センチ角の真四角な空間。方寸というが、方間と言うことなのだろうか。余計なものは何も無い空間である。床の間は小さく土壁だけである。余分な装飾は無い、狭い空間。これが精神が開放される空間と利休はした。

 私のたどり着いたアトリエカーも待庵によく似ている。待庵を真似たわけでは無いが、絵を描きやすい空間を考えた結論が、待庵に似ていたのだ。壁が土壁で素朴な待庵。壁が白いデコラ張りで無味乾燥な車画堂。絵を描く場所は余り雰囲気などない方が良い。

 実用一辺倒の方が絵が描きやすい。最初は白い結城紬の布でも張ろうかと思ったのだが、むしろ白のデコラ張りで丁度良いようだ。水彩画の微妙な調子を感じるためには、回りに複雑な土壁のような調子などない方が良いのかもしれない。

 必要最小限こそ無限の宇宙空間に通ずる。人はただ広がる原野では安らかに眠ることが出来ない。山際の窪地とか、土の中の穴ぼこのような閉じた空間の方が安心して眠ることが出来る。野外で絵を描くことは余り得意では無い。心を集中して行くことが出来ない。山椒魚が穴の中で悟りを開いたように、閉じた小さな空間が良い。

 車画堂で一番良いことは確認するために風景を見れると言うことだ。絵を描いていて、風景を見ることは実際には滅多に無いと思う。別段風景を写しているわけでは無いから、見る必要は無いとも言える。しかし、時々見ないわけにも行かない。

 描いている絵と、観ている世界との関係を確認したくなる。この時に茶室から眺めると言うことが具合が良い。自分の穴蔵から、世界をのぞく。そこで始めて自分の絵を描くことが出来る。閉じた空間の中でこそ自分のことを考えやすいのでは無いだろうか。

 こういうことはその人それぞれであろう。中川一政氏は野外の風の吹きさらす場所で、長時間絵を描いていたようだ。熊谷守一氏は自分の家の穴ぼこのような庭の底で虫を眺めて絵を描いた。ボナールは外で絵を描くことは無かったという。

 私の場合は車画堂の中がちょうど良いのだが、これは絵が描けた時の話で、現状では余り偉そうなことは言えない。ヤドカリは自分の身体に合う貝殻を見つけて、引っ越しをする。蟹は甲羅に似せて穴を掘るといわれる。千利休には待庵が丁度なのだろう。菩提達磨大師は穴の中で9年間座っていた。

 国宝の小屋が丁度という千利休はさすがであるが、車画堂も馬鹿にはならない。日本の最高の車である軽トラの上に乗っている。これは農業好きの満足である。窓付きの冷蔵車によく似た車画堂である。この器が丁度であるとしたら、私なりにたいしたものだ。

 茶室は入口が狭い。人間の平等を表していると言う。刀を差した人が入れないためとよく書かれているが、いかにもこれはこじつけだと思う。外界からの攻撃への防御の方が大きいだろう。ここは戦場なのだ。入口が狭いことで、心理的な安心を得て、茶の湯に集中ができると言うことだと思う。

 それにしてもお茶を飲むことに命がけというのも不思議なことだ。英国などでもテータイムは暮らしの要らしいが、お茶を飲むことを道にまで高めようという文化はなかなかのものだ。それなら当然絵を描くことも画道と考えてもいいだろう。

 車画堂の入口は登るのに、一段高くなかなか大変である。にじり口ではなくよじり口である。バリアフリーの反対で、ハイバリアの段差である。一段高いから、簡単にアトリエには入れない。入るぞと思わなければ入れないところが、絵を描くにはいいと思う。

 茶室には茶室までの道のりがある。車画堂にはまず運転という手順がある。運転して写生地までの道のりである。何も考えずに運転しながら、絵を描く気持ちに変わって行く。一呼吸あるのは悪くない。車画堂には入ればたちまちに描き始める。

 待庵で茶室に始めて窓が作られたと言われている。出入りできないほど小さい、外の様子が伝わる戦場の窓。アトリエカーは広い窓である。4方に窓がある。光がどこからでも入るようになっている。絵を描くのだから、外光が重要である。絵を描くには外と同じくらい明るくなければならない。直射光があたるのではなく、静かに明るいというのも、世界が解放されていていいと思う。

 お茶を飲むことに命がけになる。命がけの戦場で一杯のお茶に命を見つめる。絵を描くことに全身全霊で向かうためには、自分なりの場所が必要だと思う。私にはそれがアトリエカーの立方体の箱である。この二畳あまりの立方体が道を究める場所になっている。

 ところが、アトリエカーは制作の場所で、絵を見ることは出来ない。アトリエカーの中ではほとんど自分の絵を判断できない。何故かと思うほど、何をやっているのかの判断が難しい。だいたいは碌でもなく見えている。今日もダメかと見えている。車画堂の中でこれで良いと思えたことはまだ無い。

 家のギャラリーに並べる。すると始めて絵のことが見え出す。なかなか完全には分からないのだが、こういうことをやっていたのかと言うことが分かってくる。他の絵と比べるからでは無いだろうか。石垣島のギャラリーには菅野啓介氏の山の絵が一枚だけある。

 今もブログを書きながら、目の前に20点ほどの絵が並んでいる。頭がクラクラする。しかし、すこしづつ明日描く絵のことになってくる。やりたいことが浮んでくる。はっきりはしないのだが、あの絵のつづきを描こうかと言うことは決まってくる。そしてギャラリーで確認した事を車画堂で進めてみる。
 
 車画堂では午前中絵を描いている。8時半から昼までである。時には午後まで描くことがあるが、午後まで描くと、翌日にまで回復できないことがある。午後は絵を見る時間にしたほうが、合理的だと思うようになった。

 一番良い3時間ほどに集中して絵を描く。この時間の質を高めるためには、3時間ぐらいが良いようだ。お茶はどのくらいの時間で飲むのだろう。だいたいの場合それ位い描くとやる事が無くなる。何をやったら良いのかが分からなくなる。それがその日の終わりである。
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宮古島市で基地を誘致した市長が落選

2021-01-19 04:10:20 | Peace Cafe


 宮古島市の市長選挙は17日投票が行われ、玉城知事を支える「オール沖縄」が支援した新人の座喜味氏が、自民・公明両党の推薦を受けた現職を破って初めての当選を果たしました。今回の市長選挙では、自民・公明両党が下地氏を推薦したのに対し、立憲民主党や共産党などは玉城知事を支える「オール沖縄」が支援する元自民党県議会議員の座喜味氏を推薦する構図となりました。ーーーNHKニュース

 宮古島で自衛隊誘致の市長が落選した。常々下地元宮古島市長の民主主義を無視した市政にはおかしいと思っていた。自衛隊基地が出来て、実際の運用が始まると弾薬庫問題など、事前の説明にはなかったことが頻繁に起きていたい。辺野古の県民投票も反対をしていた。

  それでも下地元市長は選挙で支持されていると、強引な市政運営を繰り返していた。さすがに宮古島市民も自衛隊を支持する元自民党の座喜味氏あっても、宮古市民も民主主義的な議会運営は願っているということだろう。

 日中関係、そしてその背景にある日米安全保障条約は転換点にある。従来の日本の防衛政策は根本から、発想の変更を迫られている状況である。ところが、政府与党の自民党の外交部会の部会長は元自衛官の武力主義者である。

 外交に対して軍事力強化以外にないと考えているのが自民党なのだ。平和外交の意味など全く頓着がない。敵基地先制ミサイル攻撃を主張するような人間が、自民党の外交方針をリードするようでは危険極まりないことになる。

 外交は平和主義のものがやるべきことだ。どうやって武力衝突を避けるかが外交である。先ずは仲良くなることがすべてに優先する。お隣とは朝起きたら挨拶をするというのはごく当たり前の考えだろう。それが先ずは無難に暮らして行く当たり前の社会の在り方だと思う。

 お隣の親父が挨拶もしないので、忌々しいから自分もしないというのでは上手くゆく関係も悪くなるばかりである。ましてお隣とは地境でもめているのだ。譲れば沽券に関わると、突っ張り合っている。小さな地境のことなど、別に互いの今の暮らしに影響がないことは分かっていることではないか。

 しかも、沖縄はアメリカから返還されて50年経っても、いまだ占領地である。日米地位協定という世界で類を見ない理不尽な条約が、未だにまかり通っているのだ。政府は不平等条約に対してもの申すことすら控えている状態である。日米隷属関係である。

 こんな状況で沖縄の基地負担の軽減など空言を言い続ける。もし基地負担軽減というのであるなら、まずアメリカに対して、米軍兵の日本での犯罪の裁判権が日本にあることを、法治国家として主張しなければならない。これこそ国際法上当たり前のことだ。

 こうした隷属関係のままに、アメリカの要望を忖度して、宮古島の自衛隊基地も、石垣島に建設中の自衛隊基地も設置される。日米安全保障条約に基づき、米軍の自由使用が見こまれるのだ。当然、基地が出来たことで住民の危険は大きく増している。基地が出来たことで、尖閣諸島への中国戦艦の侵入が頻繁に起きている。

 もし中国が尖閣諸島を占拠する動きがあるとして、中国軍に対して、石垣島から先制ミサイル攻撃をしたらどういうことが起こるか。当然石垣島は中国のミサイルで壊滅状態になるだろう。それを見込んでいるのが、自衛隊の先島諸島の防衛計画なのだ。

 住民の避難計画は全く立てられていない。まさに石垣島の住民というものは防衛計画の中では、防人であり、人間の盾である。自分でどうにかするしかないのが、石垣島の住民である。戦闘が起きている際に軍用の基材で住民の避難は出来ない。もし避難をすれば、それは攻撃対象になっても仕方がないというのが、国際法である。

 国民保護という観点で石垣島の住民の避難は現状全く考えられていない。石垣島の住民は見殺しにされる以外にないのだ。現状では民間の船の航路はない。民間の飛行機での避難以外にないということになる。

 中国が石垣島に武力攻撃を始めたときに、石垣の住民は避難できるのかと言うことである。避難には一日3000人で、18日間かかると言うことが計算上では出ている。こうしたことを踏まえて、自衛隊は中国が攻撃してくれば、一度中国が石垣島を占領するだろうと言うことになる。自衛隊はむしろ石垣島をどのような方法で奪還するかという戦略を研究している。

 この状況で、石垣島市長の中山氏は自衛隊の誘致を先頭に立って行っている。今や売島奴と言えるのではないか。宮古島元市長の下地氏も同様である。住民投票など要らない。選挙で結果は明らかだとうそぶいてきた。

 この自衛隊基地の問題は、保守も革新もない。島をどれだけ愛しているかだけである。島を日本国のために、防人の島として差し出して良いのかという問題である。自衛隊基地を誘致するということは島を売り渡したということ同じなのである。

 日中関係は大きく変わり始めている。中山市長が自衛隊を誘致したときには、日本の経済力が中国を上回っていた。たぶん中山市長は先見の明がなく、中国に負けるはずがないと考えていたのだろう。ところが、日本の経済は、中国と軍事的に対抗できるようなの力量ではなくなってしまった。

 アメリカの経済的後退も見え始めている。あと、6,7年で中国の経済力はアメリカを追い抜くと言われている。コロナでさらに早まるのかもしれない。この状況では敵基地先制攻撃のミサイル基地がどれほど危険なものになっているかは、日々明らかなり始めている。理解できないのは精神主義の右翼だけだ。

 あらためて、国民保護という観点から、石垣島の住民をどのように考えるべきかを議論すべきだ。日本の防衛計画の中では、基地の島の住民の存在が完全に欠落しているという現実を考え直さなければならない。

 今ならまだ引き返せる。先ずは住民投票をすることだ。中山市長が島を愛する人であるなら、すぐにでも住民投票を行うべきだ。そしてその結果に従い、国と交渉をすべきだ。いまなら、まだ間に合う。中山市長は売島奴になるか、石垣島の危機を救う人になるかの最後の場面ではないだろうか。


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農水大臣が大臣室で賄賂を受け取る。

2021-01-18 04:01:21 | 自然養鶏


 鶏卵生産・販売大手「アキタフーズ」(広島県福山市)の前代表(87)が、自民党衆院議員だった吉川貴盛・元農林水産相(70)=北海道2区、議員辞職=に6年間で計1800万円を渡した疑いがある問題で、前代表が東京地検特捜部の任意聴取に対し、西川公也(こうや)・元農水相(78)にも2014~20年の7年間で1500万円超を渡したと供述していることがわかった。自民党の「農水族」議員に長年現金を提供し、関係を深めていたとみられる。

 汚職が長年慣習化してきた理由は、養鶏大手は鶏卵価格を維持するために農水省の補助金を使っていた。「成鶏更新・空舎延長事業」と「鶏卵価格差補塡事業」の2つからなる「鶏卵生産者経営安定対策事業」には、2018年度の農林水産省の予算額は48億6200万円にのぼる。事業実施主体は一般社団法人 日本養鶏協会だった。

 鶏卵生産者経営安定対策事業 【5,189(5,189)百万円】 対策のポイント 鶏卵価格が低落した場合に価格差補塡を行うとともに、更に低落した 場合、成鶏の更新に当たって長期の空舎期間を設けて需給改善を図る取 組を支援し、採卵養鶏経営と鶏卵価格の安定を図ります。と農水省の説明にはある。

 卵は安すぎるのである。つまり、余りに安いので日本にまともな卵は無いのだ。消費者は安ければ良いと思いがちだが、必要以上に安いものにはどこか問題が内在している。ところが高い卵なら良いかと思うと、そうでもないのが現状であるから困る。

 一言で言えば、動物虐待の最たるものが大手の企業養鶏である。新自由主義経済教の国際競争力の優等生が、養鶏業なのだ。競争に勝つためには手段を選ばない大手企業が勝つ現実。そしてこれを有り難い優等生と黙認しているのが、日本の消費者である。

 今、鳥インフルエンザで何万羽もの鶏が淘汰され、養鶏業者は困っているのだろうか。インフルエンザがはやらないでも卵の価格が下がると、鶏の淘汰を行って、一定価格に卵価格を維持している。もしかしたら、インフルエンザが流行して有り難いと考える業者もいるのではないか。

 私のやっていた自然養鶏では卵一個の原価計算を、細かくやってみたことがある。一個230円になった。まともな自然養鶏には3つの基本がある。1,緑豊かな自然環境への放し飼い。2,自家鶏種の孵化からの養鶏。3.安全な醗酵飼料。

 本来病気を生み出さない養鶏を考えたときには、この3つを守るような養鶏業になるべきなのだが、そうした養鶏場は日本全国にただの一つも無い。中国にはあった。230円以上の価格で卵は売らないと、まともな養鶏は業としてはなり立たないのである。しかし、現実にはその10分の1以下の価格で卵は売られている。

 私は直接は50円。東京では100円で売っていた。食べる卵は赤字の販売であった。230円の卵を平気で食べるような金持ちのために、養鶏をしたくなかったからである。わたし自身が買えないような価格の養鶏は出来なかったのだ。笹鶏や日本系の種卵やひよこも販売もしていたので、総合的には何とかやれていた。

 日本の卵が安い理由は簡単なことで、生き物とは言えないような動物虐待の環境で鶏が飼われているからである。本来禁止すべきバタリーケージという飼い方である。又高いから良い卵とも言えないところが良くある。消費者が高ければ良いものだと思い込んでくれるので、その心理を悪用しているにすぎない卵だ。

 良い卵は簡単なことだ。昔の農家のように自分で飼えば必ず良い卵になる。出来れば、1,緑豊かな自然環境への放し飼い。2,自家鶏種の孵化からの養鶏。3.安全な醗酵飼料。を守って飼育して貰いたい。

 競争主義のコスト削減が鶏の生き物としての尊厳を無視し、劣悪な環境を強いているのが現状である。安すぎる卵の赤字補てんをおこない。又価格維持のためにまだ産む鶏を調整淘汰すると、生産者へ国からの補助金が交付される。このように、物価の優等生と言われる卵に税金が投じられているのだ。

 こうした余りに劣悪な鶏の飼い方に対して、世界では基準作りが進んでいる。ところがこの基準に対してバタリーケージを良い飼い方だと主張しているのが日本養鶏協会である。その声を賄賂を貰い代弁しているのが、農水相である。

 「アニマルウェルフェア(動物福祉)」に関する国際機関の基準づくりが進んでいた。秋田氏は同年11月12日、業界団体の幹部として大臣室で吉川氏や、農相経験者の西川公也内閣官房参与(当時)らと面会し、この国際基準の内容に政府として反対するよう求める要望書を提出するなどしている。

 日本も加盟するOIE(世界動物保健機関)は、2017年から採卵鶏のアニマルウェルフェア基準「アニマルウェルフェアと採卵鶏生産システム」の策定を進めており、これまで各国と内容についてすり合わせを行ってきた。採卵鶏だけでなく、これまでもOIEは豚や牛のアニマルウェルフェア基準を作っている。だが残念ながらそのたびに日本はアニマルウェルフェアのレベルを下げるようにOIEに意見(コメント)を提出してきた。

 そして「生食文化だからケージでないとだめ」「高温多湿の日本はケージでないとだめ」「平飼いは死亡が増える」「ケージの場合、ケージを掴むことで止り木の役割を果たしている」などと発言しバタリーケージを支持した。

 この発言は真っ赤な嘘だ。自然養鶏で生卵を食べても問題はない。放し飼いこそ健康な鶏になる。弱い鶏が死ぬことは自然淘汰であり、強い鶏種が作られて行くことにも成る。止まり木が無いような小屋がまともなわけが無いだろう。

 ところがこのメチャクチャな主張が通ろうとしている。そのために、OIEと言う養鶏の世界基準を策定中の組織に対して、農水省に強くケージ飼いを問題なしと主張して貰うために、養鶏業界から賄賂が出ていたと考えて、間違いないだろう。

 そして残念なことにというか、その圧力は成功をしたのだ。今年基準が不十分な形でまとめられることになっている。このひどい状況を変えられるのは消費者である。まともな卵を、まともな価格で買う消費者がいれば、たちどころに状況は変わる。

 
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第36回 水彩画 日曜展示

2021-01-17 04:11:24 | 水彩画
第36回 水彩画 日曜展示






116「傾斜地の耕作地 大里」
50号 ファブリアーノ
2020.10






117「崎枝の田んぼ山の中腹から」
中判全紙 ファブリアーノ荒目
2020.4






118「下田・夕照」
中判全紙 ファブリアーノ荒目
2010.2





119「石垣島・朝の海」
中判全紙・ファブリアーノ荒目
2021.1

 今回はいろいろの時期の絵を四点にした。119が新しい。116は少し前に描いていたもの。最近少し手は入れて、出来た気がしたので今回出した。117は少し前の絵である。118は10年以上前に描いた絵がたまたま出てきたので、今回出すことにした。

 余り判断は出来ないが、今は色で描こうとしているようにも見える。しかしよく分からない。何が変わっていて、何が変わらないのか。どこに進むのかいつも迷う。それでも何をやるかは、その日の気持ちに従うことになる。

 自分の見て受け取ったものを表現すること。色で描くこと。大きく描くこと。筆触を大切にすること。説明をしないこと。こういうことを意識していると思う。
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