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地場・旬・自給

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2017年の終わりに

2017-12-31 04:49:59 | 身辺雑記

転換期を生きる人間としては、2017年は潮目が変わった年か。流れが岩にぶつかり、しぶきを上げ流れの方角が崩れた。その年もいよいよ終わる。北朝鮮問題。森友家計問題。トランプの自国優先主義。九州北部豪雨。共謀罪の成立。深刻な殺人事件。大企業の相次ぐ偽装の暴露。世界中が危うい。来年は良い方角が見えてくる年になってもらいたいものだ。日本は福島原発事故で変貌せざる得ない状況に追い込まれた。明治以降日本が求めてきた科学万能の負けまい主義の終わり。人間が暮らしから生み出す生の声が遠くに聞こた年でもあった。原発事故が起きて、小田原も汚染された。小田原に暮らすことを恐怖として、移住した人も多数居た。そんなことを馬鹿げた非科学的なこととして、蔑んだ人も居た。人間が安心して暮らしたいという思いが根底が揺らいだのだ。何の影響もなかった、強靭というような人が多数派なのだろうが。この文明の転換に気づかない無神経だと言いたい。科学的に安心だと考えて生きているという事が、実は全く根拠のない安心神話であった。それは原発に象徴されるの巨大な科学の神話の虚構が崩れ去る姿であった。

人間がこのまま、科学的発展という虚構に向って生きることが、必ずしも人間の幸せな世界とは言えないということを、人は暮らしの中で体験してしまった。発展と停滞。発展が人間にとって良いとは限らないという深刻な現実。過去の暮らしを掘り起こさざる得ない。月にまでロケットが行き、宇宙旅行ができるという希望や夢。一方に、北朝鮮がアメリカまで核ミサイルを撃ち込めるようになるという現実が繋がっているという事。科学という怪物のコントロールを失えば、人類は滅亡の奈落へ消える。発展が必ずしも人間の幸せとは限らないという当たり前のことが、原発事故という共通体験によって、それぞれの現実になった。これほどの体験でも体験とできない人と共存する居心地の悪さ。放射能など何の心配もないと、廃棄すべき中古原子炉を修繕して再稼働するという、根拠なく自信満々の人間たちがいる。その一方にこのままでは危ういのではないかという不安の予感のなかに生きる人たちも確実に増加した。そして、自信も、不安も曖昧なままという大多数の大衆というものが揺らぎながら埋め尽くすように存在する。そして混沌の世界に大衆のうねりがわずかに動いた。

未来が見通せないが故に生まれている対立が社会の不安定要因となり、日本の社会の混迷度を目一杯高めている。それゆえの安倍一強政治。山北に移住した1990年前後には、日本は社会という全体では、いよいよ期待ができないであろうと結論を出した。反社会的な気分に襲われたこともあり、山の中に移住し、すべてをやり直してみようと考えていた。国が終わるのであれば、自分だけの世界を構築するほかない。一人で山の中で自給生活を始めた理由の一つだった。直接的には社会の中で絵が描けないという事であった。社会の方で受け入れてくれないという現実もあったが、私の制作が間違っているわけではないという、確信もあった。社会が誤った方向に闇雲に向っているという諦め。価値を共有できる者だけで、仲間と生きる道を探すほかないという思いであった。自給自足で生きられるという人間の原点からやり直してみた。福島原発事故を体験して意識が変わった人も、急激に増えた気がする。このままではまずいという事に気づいた人たち。人間の幸せはもう少し違うところにありそうだと思う人たち。

アベ政治が5年間も続き、国民はこの理不尽な政治をいまだ已む得ないものとして支持している。これはあまりに世界全体が不安であり、日本が衰退の淵に存在するが故の、狼狽のような支持と思うほかない。その一方で、こんな不幸な時代が続く中にも、新しい人間が生まれ始めている気配も感ずる。一人一人が社会の枠組みから外れたとしても、自分の生き方を模索しようとする時代の始まりを感ずる。原発事故で逃げ惑う人間がもう一度、それぞれの位置にしがみついて、それぞれに初めてみようかという動きを感じる。いくつかのそうした胎動を感ずる年でもあった。それはわずかな響きであるが、緩やかにその響きは共鳴を始めている。その共鳴が社会の底の方でわずかずつ動いているようなのだ。転げ落ちている石は止められないが、落ちてしまった石なら押し上げることができる。競争のばかばかしさ。経済だけではない価値観。つぎの時代の模索が動き出している気がする。2018年には新しい生き方を探してみようという前向きなものが感じられるようにも思える。私はいよいよ農業最後の2年間に入る。

 

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来年こそ憲法9条の議論を

2017-12-30 04:08:01 | Peace Cafe

憲法改定に関して自民党は来年1月の国会に法案を出すといわれていた。しかし、党内に異論が多く、まとまらないようだ。出すのは構わないが、憲法に関して自民党内では将来の自民党憲法草案との整合性を明確にすべきだ。妥協的改正など提案してもらいたくない。公明党内では議論の見える化をした上で、党内議論をしてもらいたい。憲法に関して教祖の指示で動くように見えるのでは困る。そして国会では野党の考え方を十二分に聞いて、議論を徹底して行なわなけばならない。特に憲法9条に自衛隊を明記するという事は、国民的議論を時間をかけて行う問題である。日本の未来を大きく変えることになるからだ。世界は戦争の勃発する危機的状況にある。その情勢の中日本がどういう立ち位置に立つか、極めて重要な岐路にある。

このままの競争社会を目指すのであれば、日本が明治日本に戻るという事になる。自衛隊はできればない方が良いものだと思っている。警察と同様の性格がある。警察などない社会が望ましいのだが、世に盗人の種は尽きない訳で仕方なく警察が存在する。自衛隊もない方が良いに決まっているが、世界には日本に対して武力攻撃をする国もないとは言えない。その場合に備えて、専守防衛の範囲の武力は必要だと思う。警察予備隊が正しい位置付けではないだろうか。警察は行政の中に存在する。いわば県の業務の延長線上に存在する機関と考えて置けばいい。自衛隊も同じである。特に憲法に位置づける必要は無い行政権の一部とされている。憲法ではむしろ警察権の濫用を禁止する条項がある。例えば警察は国会に入ることはできない。議長の要請で初めて入ることになる。

現在の政府の解釈は憲法の制約上、自衛隊は軍隊や戦力ではないとされている。警察予備隊として始まった。自衛隊は警察の延長線上の存在とされている。これは日本という国の作り出してきた、賢い選択であったと思う。この頃の保守党には知恵があっつた。この賢い選択があったがために、日本は70年以上戦争をしないで来れたのだ。もし日本国憲法が存在しなかったとすれば、朝鮮戦争にも出兵した可能性がある。アメリカから要請はあったのだ。韓国軍のように、ベトナム戦争に派兵されていた可能性はかなり強かった。しかし、日本には憲法9条があり、派兵することは出来ないとアメリカの要請を断ることができたのだ。それを良くない判断だったとする人も居るだろう。こうした点を正面から議論すべきだ。ベトナム戦争に日本が武力的に加わり何かいいことがあっただろうか。まったく正義が果たされない戦争に参加したことになった。アメリカをはじめとする、西側諸国はベトナム戦争に敗北したのだ。正義の戦い、反共産勢力戦線の戦いのはずが、歴史的に見直せばベトナムという国を苛め抜いただけのような結果になってしまった。

アベ政権は憲法の拡大解釈を重ね、ついに同盟国アメリカの戦争には追随できるという解釈にまで広げてしまった。新安保法だ。自衛権のはずが同盟国の危機には、日本が戦力として加わることが出来るとした。そのことは、北朝鮮に対して、アメリカとともに、先制攻撃を加えるという事が可能になるという解釈が行われる可能性が出てきたという事である。もし憲法9条に自衛隊が明記されれば、自衛隊がアメリカ軍と行動を共にすることが、当然のこととアメリカに解釈される事態が生まれるのでは無かろうか。北朝鮮のへの先制攻撃には、地上兵として前線に参加させられるのではないか。その時は日本の軍事的行動に、憲法による歯止めは無くなったとされるだろう。自民党内には、日本に対する攻撃が予測されるのであれば、先制攻撃は現憲法でも可能とする人たちがいる。戦争は常に正義の戦いと主張されるものだ。北朝鮮がアメリカに原爆を撃ち込んだとしても、それは正義の戦いと主張されることだろう。日本の軍事力はあくまで抑止力としての効果にとどめなくてはならない。自衛隊が抑止力としての力を持つ必要はあるとしても、あくまで専守防衛の抑止的能力にとどめなくてはならない。

その為には、憲法9条で戦力不保持が明記されていることは大きな建前になる。この建前を掲げて、日本は平和外交に向う事が出来る。平和外交が正しく効果を上げるためには、戦力不保持、専守防衛を明確にすることが必要なのだ。自衛隊の存在を憲法に明記することが、むしろ日本が攻撃可能の国と位置付けられ、危険を招くことになる。政府は平和外交がなんであるかを行動によって示す義務がある。確かにアメリカとの同盟が必要悪として存在する。その現実は無視を無視する訳にはゆかない。しかし、それはいつかは克服すべき課題として認識しておく必要がある。原爆による抑止力が核保有国の専有的権利として存在している国際情勢自体が間違っているのだ。その意味では北朝鮮の主張は筋が通っている。ただ、だからと言って核保有するという方角は世界が核戦争によって崩壊する道だ。だからこそ日本は憲法9条を守り、日本独自の主張をすべきだなのだ。それでも必要悪としてのあくまで、歴史としての過程として、自衛隊を持つという範囲が、日本の安全保障上望ましいことなのではなかろうか。

 

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68歳と4か月の希望

2017-12-29 04:35:11 | 暮らし

歳をとって少し良くなったと思う事は根気が良くなったことだ。何しろ毎朝ブログを書き続けられるようになっている。小学生のころはまるで同じことが5分と続けられない落ち着きのない子供だった。10年前までは東京に行く1時間半の時間が耐えがたいものだった。今は当たり前の気分で乗っていられる。鈍くなったという事なのだろうが、考えようによっては粘り強くなったという事でもある。豆の選別のような単調な作業でも、我慢ができるようになった。単調な作業の意味が理解できて、味わえるようになったのかもしれない。どの作業の意味も前より理解できるようになった。理解した上で作業計画を立てるので、無駄な労力は使わなくなった。今年は草刈りをしようと思っても、草刈りが遅れた。草刈りぐらいならまだしも、絵を描く意欲はどうなのだろうかと思う。しばらく絵を描かないでいた。描きたくならなければ描かないことにしているので、1か月ほど絵を描いて居なかった。何かをやりたいという気持ちが衰えるというのも歳をとるという事なのかもしれない。12月に入り年賀状を描きだした。今度は絵を描く気持ちに入り込みほかのことが出来なくなった。

田んぼが一段落つくまで、頭がそれで一杯という事があった。常に気になっていることがあるという状態では、絵を描く気にはなれない。今年の田んぼの終盤は厳しいものがあった。絵を描くというのは全く他にやることのない状態が良い。こういう状態は歳をとると可能になる。ただ、たいていの絵描きは年齢とともに衰える。暇になると、それっきりになって弱い絵になる。地域の世間的な役割はお断りできる。一通りは役目が終わったと言い訳が通る。それで畑と田んぼなのだが、今年は田んぼに気持ちを入れた。今年も本気で田んぼがやれたのはつくづく良かった。グタグタしていたのだが、突然、草刈りがやりたくなった。久しぶりのことだ。待っていれば意欲というものは年寄りでもまだ出てくるようだ。身体も動かしていると調子が戻る。調子が戻ればやる気も再燃する。絵もそうだと思う。描きたいところに立てば、描きたくなるに違いない。年賀状が引き金になるとは思っていたのだが、始めると描きたくなるものだ。年賀状は何とか今年も一枚一枚絵を描いている。楽しいものだ。希望者があればメールをくれればどなたにも送る。

 子供の頃からやりたい病だと言われていた。何でもかんでもすぐやりたいやりたいという子供だったらしい。自覚はなかったが。普通に面白そうに思う事をやっていたという事ぐらいの記憶しかない。興味が偏っていたかもしれない。絵に関しては何故か描きたくて仕方がないばかりだった。絵を描いて居ては怒られていた。今はどうだか知らないが、絵描きになるなどという事は、忌み嫌われたものだ。私の場合勝手に、絵を描くことが素晴らしいことだと思い込んでいた。子供の頃ほど、ただただ素晴らしいとまでは思わなっている。思う絵が描けるという事がまずないからだ。ほどほどでいる生煮え状態は辛いものだ。絵で出来ることはあるのだろうかなど、迷いの日々だ。それでも絵を描きたくなる。この描きたくなるという気分が面白いもんだと思う。これはまだ衰えない。そして、最近になって、少し絵が分かったようになったことがある。

いい絵を描きたいというようなことよりも、自分という人間を確認したい。こういうことが人間の最後の仕事ではないだろうか。絵を描くという事で自分というものが確認できるかもしれない。歳をとるという事は先が少なくなったという事だ。結論を出す時間が刻々迫っている。すべての人が死ぬときが結論である。大したものであれ、ささやかなものであれ、自分という人間の命があと3年なら3年で結論を出さざる得ない。自分では出せないとしても、命が尽きるという事は、否が応でもはたから見ればそれが中途半端であろうとも結論である。何にもわからないものだというのもあるだろうし、こんなものかということもありそうだ。死ぬつもりで残りの時間を生きなければならない。その残り時間が見えてきたというのが年を取った有難さかもしれない。まあ悲しい有難さであるのだろうが、生きるという事の悲しさをしみじみ味わえるというのも年寄りの特権かもしれない。どう見えるようになるか。そして、何を制作できるのか。このことは改めて書いてみたい。

 

 

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鳥インフルエンザの真実

2017-12-28 04:18:15 | 自然養鶏

東山動植物園は20日、飼育する鳥が鳥インフルエンザに感染した場合、別の施設に隔離できれば、原則は殺処分とせずに治療する対応マニュアルを決めた。

長い時間がかかった。ついに私の主張の正しさを認める動物園が現れた。正しいことは何を言われても主張し続けなければならない。やっと鳥インフルエンザに対する科学的な正しい対応策を公的機関でもやっととるようになった。時間がかかったが、良い方針転換である。誤りをあらたむるに恥ずることはない。どれほど貴重な鳥がこの悪法で殺されたことか。現在でも鳥インフルエンザに感染した家禽は、同じ養鶏場にいる鶏すべてが、健康であろうとも殺処分されることに法律でなっている。この愚かな対応に抗議することがこのブログの初期の目的であった。10年以上の年月がかかり、やっと正される方向が見えてきた。家禽類はまだ殺処分が強制化されている。こんな非科学的な対応がされていたという愚かしさが、必ず反省される時代ががくるはずである。現状の鳥インフルエンザに対する科学的な対応が行われていない。社会的な恐怖心を煽った政府や報道機関。

人間のインフルエンザと名前が同じがために、悪用されたのだ。現在の偏見を作り出しているのは宗教ではなく、経済である。経済が目を曇らせて、自然の姿を冷静に見ることを忘れたのだ。鶏は自然界で、何百万年もワクチンなぞなく生き抜いてきたのだ。その姿の中にこそ真実はある。間違った鳥インフルエンザ対応の為に、日本の鶏文化は今消滅の危機に陥っている。動物園では家禽を飼うという事を控えている。学校でも同じく鶏を飼うという事はない。鶏の品評会というものも行われなくなった。鶏を集めるという行為自体が禁止された状態である。すべては鳥インフルエンザに対する無知が原因である。こうして世界に誇るべき日本鶏の文化はほぼ失われつつある。すでに鶏の声が騒音であるという事で、街場では飼えなくなっていた。農村でもよほどの山奥以外では飼えない状況がある。鶏を飼っているという理由で、ときどき警察が見回りに来るような事態では神経的に圧迫されてしまう。鶏を飼うという事が、忌み嫌われる趣味になったのだ。天照大御神の神使は「鶏」とされている。神話の時代から日本人が親しんだ鶏が、似非科学によって消されようとしている。

鶏のことだけなら、大したことはないかもしれない。しかし、この背景にある不安を募らせる社会の根底に、日本の社会の了見の狭さを示されている。些細なことから、不安を増幅させる社会である。付和雷同に一辺倒化する社会。大本営発表をうのみにしてしまう危うい社会性。それは社会が病んでいるという事である。社会全体が神経症的な状態である。ゆったり感がない。余裕が失われている。鳥インフルエンザにおいて、人ひと感染が起こりうるというようなデマが流された。忽ちに世間は不安に満ちて、養鶏場を忌まわしい眼で見るようになった。今は世間はそのことを忘れている。新しい、苛立ちの対象を探して、鵜の目鷹の目である。この時点では大相撲が血祭りになっている。あることないこと騒ぎ立てている。新聞の社説で、貴乃花が批判されているのには驚く。新聞は公的な批判精神を忘れて、個人攻撃をするようなはけ口を求めている。

鳥インフルエンザ騒動の結果、人間の方のワクチンの備蓄が行われるようになった。今年もワクチン不足だというので、大騒ぎである。こうして騒げばまるでワクチンを打たない人間が健康に無神経であるかのような騒ぎだ。ワクチンの効果など一定のものだ。万能の薬などそもそもない。私にはワクチンなど全く不要だ。各々が判断すればよいことだ。似非科学がワクチンを義務的なものとする圧力を社会に蔓延させているのだ。どうもこれが日本だけではないようだ。死ぬことを明らめきれない社会。ここに根本原因がある。人間は必ず死ぬのだ。何らかの理由で、遅かれ早かれ死ぬのだ。すべてはそれまでのことだ。生きている今を十二分に味わう以外に生きるという事は何処にもない。このことを自覚すれば、どこかにはけ口を求めるのでなく、自分自身の納得というものを見つけることになる。

 

 

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捨てられる不動産の時代

2017-12-27 04:08:58 | 地域

所有者不明の不動産が多数存在している。誰のものなのか不明の家が街の中で荒れ果てて存在する。危険だというので、それを行政が費用をかけて取り壊さざる得なくなっている。所有者不明の土地は、九州と同じ面積だそうだ。近々北海道と同じになる。いまさら北方領土やら、尖閣諸島という時代ではなくなった。今ある日本をどうするかである。コンパクトシティーというものが始まっている。特に雪の多いい地域では、過疎地域のインフラ維持が不可能になってきた。お年寄りが山の中で暮らしているとしても冬場孤立してしまい危険になっている。と言って道路の除雪にも限界がある。そこで町の一定の範囲だけを整備することにして、そこにできるだけ住んでもらおうという政策である。地域崩壊が進むなかの防御的政策である。地方都市の維持のためには周辺の辺境部は放棄せざる得ないという事だ。しかし、こういうことが進められる地方都市はある程度の規模の都市だ。一定規模以下の都市ではそうした手立てすら打つ余力もない。その地方都市自体が消滅しかけている。

こうして地方の山村部の過疎はさらに進むという事だろう。人口減少はさらに進む。7,8千万人まで減少すると考えておかなければならない。国のやっていることを見れば、それを変えることなど出来ない。そして、東京への、また地方の中心都市への人口集中はさらに進むはずだ。あと10年もするとこの流れは顕著になるはずだ。国が経済優先だけで動いている結果である。地域の将来を考える上では、あらゆる分野で人口減少を前提として、その中での自分の暮らしを考えた方が良い。人口が半減すれば、ごみも半減して、今のままではごみ焼却場自体が維持できなくなる。経費の維持が負担になる。都市インフラに対する考え方を変えざる得ない。道路、学校、病院、必要なものを止めて行かざる得ないだろう。行政サービスどころか、行政はサービスをどう切り捨てるかの時代に入る。大都市以外の不動産というものが放棄される時代に入る。不動産を資産と考えていた人たちには受け入れにくい状況が現実化してゆくだろう。これは新たな農地解放のような事態が来たことになる。日本の農業を新たな枠の中で考えるチャンスになるはずだ。

農地や山林ではすでにそうした方向は現実化してきている。山林は放棄された場所が農地以上に広がっている。林業としての維持は困難になる。無意味な公共事業などやれない時代が近づいている。利用の少ない道路は放棄されるような時代に入る。小田原の農地は業としての維持は困難になる。遊休農地と呼ばれる使われなくなった畑が増えれば、サルや猪やシカの活動する場所になり、周辺も耕作が出来ない農地になる。何とか、地域全体で守るべき畑をの範囲を決めなくてはならない。スマートシティーと同様の考え方だ。一定地域の畑は何としても耕作すると決める。その中の畑が農業者には効率の悪い畑であれば、市民的な利用にも道を開かなくてはならない。守るべき農地の所有者には、遊休農地の場合課税の強化をする。また、守るべき地域の農地が相続などで農業者以外が相続する場合、利用の可能性がない農地については、行政が物納を認める。物納された農地は、行政が利用促進策を工夫する。

農地を新たに2反6畝お借りすることになった。農の会全体では毎年、1町歩くらいの農地の利用を増やしているのではないだろうか。市民や新規就農者の中にはまだ農地利用の余力があるという事だろう。市民に対して農地利用のお手伝いをすれば、まだまだ利用は増加するはずだ。市民の農地利用が無秩序に進むことにも問題がある。きちっとした農地管理がされるような農の会的な法人組織が必要なのだろう。新規就農者が農地を荒らしているのも目立っている。現状では放棄されるよりは良いというので、相対で契約書もないままの貸し付けが、かなりの面積行われている。農業委員会でもこれを承知はしているが、地域の維持のためには仕方がないとしている。これは決して良いことではない。耕作もあいまいなものになっている事例もかなり見受けられる。不動産が資産であった時代が終わろうとしている。新しい時代に応じた農地利用を考えなければ、放棄住宅以上に街の周辺農地が荒れてゆくことになるだろう。

 

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お寺のクリスマス

2017-12-26 04:01:35 | 暮らし

お寺育ちだから、子供の頃からクリスマスはやらないできた。暮れの忙しい時期という事もあるし、東京の家の方には暮れから正月にいたという事は一度もなかった。山寺の暮れの仕事は薪づくりである。お寺の一年分の薪を作るのだから、大変な作業だった。山村のではどの家も薪づくりに相当の労力が費やされた。正月前に何とか薪づくりを終わらせるのが、毎年の行事のようなものだ。だから、12月は毎日朝から真っ暗になるまで山仕事である。雪が降ろうがどれほど寒かろうが、子供も総出で山で木を伐り、引きずり降ろし、薪割りである。これはどの家でもそうだったはずだ。燃料を自給するということが、かなり大変なことだった。その仕事半ばにクリスマスというものが一応やってくる。まだ耳慣れないことではあったが、村でもクリスマスという新しい風習を取り入れる家が現れてきた。サンタクロースから子供が何かもらえるというのだ。正月になれば貰えるというので、もういくつ寝るとと歌うほどに楽しみだったのだ。それが早々暮れの内に、「小学4年生」がもらえたという話を聞いて驚いたものだ。

昭和30年代の藤垈のではまだクリスマスは遠くの話だった。その代わりというか4月8日には甘茶でお釈迦様の降誕会を行った。花まつりである。お寺ではお釈迦様の像を中心にした小さなお堂をつくる。おみこしくらいの大きさである。小さな像を囲むように花を一杯に飾る。花まつりの特徴的なことは象の張り子を作る点にあった。そしてそれをお寺の庭をぐるりと歩く。花まつりの歌を唄う。村の子供たちは瓶をもって甘茶を貰いに来る。その場で飲むだけでなく、一升瓶などにひしゃくで汲んで帰った。甘茶というから甘いかと思えば、かすかに甘さが感じられる程度のものだった。子供たちは毎年同じことなのに飲んではがっかりしたものだ。でも、併せて「おぶっく」を貰えるから楽しみはあるのだ。ささやかな花まつりだが、あの時の明るさは鮮明に記憶に甦る。だから、クリスマスの思い出の代わりに、桜の花びらの舞う花まつりが、お釈迦様でも知らぬ仏の誕生会だった。

クリスマスは何故やらないの。おじいさんに聞いたことある。おじいさんはお寺ではクリスマスはやらないと言って、それ以上の説明はしなかった。お釈迦様の花まつりも、キリストのクリスマスも子供には意味が分からなかった。その他大抵のことを大人は子供に説明をするという事はまずなかった。あれは我が家だけのことか、世間一般にそういうものだったのか。大人というものは苦虫をかみつぶしたような、怖い存在として権威を保つものだった。今は子供も人間として同等という事らしい。クリスマスと花まつりが入れ替わったように、子供の立場もずいぶんと変わった。最近はカボチャの仮面やら、チョコレートのプレゼントやら、記念日が商魂によって、新たにあれこれ生まれている。そのすべて子供文化である。丑の日にはウナギを食べるいうような、大人相手では今の時代商売にならない。大人は我慢しても子供の為ならというのは当然のことである。

やはりクリスマスというと、フランスにいた頃に出かけた教会のクリスマスが思い出される。ナンシーでも、パリでもさすがに教会に出かけてみた。大聖堂の一角にキリスト生誕の馬小屋が再現されていた。ろうそくで明るくなったあたりが、何とも言えない明るさだった。周りを取り囲むローソクは一本いくらで購入できて、自分でお供えをすることができた。私も何本か火を灯して、聖母子を照らした。星の光を見つけ、あそこにキリストが生まれると探し当てる聖人3人。馬小屋に至るまでの、キリスト生誕の物語が各場面として作られ、飾られていた。揺れるロウソクの光りと相まって、今でも忘れられない一場面だ。。人が溢れる聖堂の奥からは神父のフランス語のミサが流れてきた。フランス語ではどうもありがたくないなあ―。などとくだらない感想を持ったものだ。今もフランスのクリスマスは少しも変わっていないことだろう。日本の花まつりの方は、ほぼ消滅したようだ。日本人というものの陽炎の様な姿が消え去るようで心配になる。

 

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普天間第二小学校の米軍ヘリ窓落下事件

2017-12-25 04:56:45 | Peace Cafe

普天間第二小学校に米軍ヘリが人為的ミスで窓を落下させてしまった。本来飛んではならない学校の上空の事故で、校庭に落ちた。そばで子供が遊んでいるときだった。危機一髪のところ、子供たちには当たらないで済んだという。落ちてきた窓が弾いた小石が当たった子供が居たというほどの危うい事故であった。その数週間前にはやはり、幼稚園の屋根にヘリコプターから部品が落下した。もう今年は沖縄ではヘリコプターが大破する落下事故が2度もあり、いつ何時人身事故が起こるのかわからない状況になっている。にもかかわらず、米軍はヘリコプターの訓練を継続し続けている。それに対して、政府は相変わらず何も言えないでいる。及び腰というか、アメリカの傀儡政権としか思えない。沖縄への米軍基地負担削減どころか、ますます増加しているのが現状である。その背景にあるものは、北朝鮮のアメリカに対する核ミサイル攻撃の脅しである。アメリカは初めての本土攻撃の現実化に焦りを深め、北朝鮮先制攻撃を用意し、軍事訓練を強化している。

アメリカ軍の軍事訓練がエスカレートしているのだ。米軍は軍事予算が不足、人員も不足する中で、北朝鮮攻撃の準備に入ったために、兵士の疲労が深刻化して、事故が連発している。日本政府の形ばかりのヘリコプター運航中止の要請も全く無視されることになっている。こうした沖縄での事故の多発は、ベトナム戦争時、湾岸戦争時、にもあって、今回の事故多発はまさに臨戦体制に入っていることを示している。トランプ大統領はエルサレム首都発言によって世界から孤立した。国連での撤回要求に対して、賛成した国には援助をしないと脅すほどエキセントリックになっている。孤立したという意味では、北朝鮮もアメリカも同様の事態だ。北の暴発の恐ろしさは、暴君がまともではないかもしれないというところにある。そしてトランプの恐ろしさは、圧倒的な武力を背景にした偏狭な利己主義者というところにある。日本では第2次大戦後最高に戦争の危機が迫っている。

その中で起きているのが、沖縄差別である。普天間第二小学校をわざわざ普天間基地のそばに作って、事故を待っているのだろうなどという、心無い誹謗が宜野湾市に送られているという。国家主義というものは危機に至ると弱者攻撃が始まる。関東大震災で起きた、朝鮮人の虐殺事件と同様である。アベ政権支持者たちは、沖縄が悪いから日本が危ういのだと、問題を弱者に転嫁しようとしている。北朝鮮問題に対して何も前進が出来ない現実から目をそらせようとしているのだ。北朝鮮問題の解決が出来ないでいるのは、拉致問題を見えればわかるように何十年も続いている。政府が努力をしていないとは言わないが、効果的なことは何もできなかったのは事実である。そして、北朝鮮は経済苦境に陥っていると、間違った情勢判断を持ってしまった。まさか核ミサイル開発ができるなどと予想していなかった。それは中期防衛計画を見れば、中国が仮想敵国であり、北朝鮮仮想敵国になっていないという事でも分かる。

日本政府は対応を誤ったのだ。石原氏の誘導によって、尖閣問題でわざわざ中国と事を構えてしまった。韓国で起きていることを見ればわかる。韓国は中国へ工場進出など行い、あれほど接近しようとしても、米軍利用のミサイル基地をつくるということになれば態度が一変する。中国は韓国への団体旅行の禁止を打ち出した。日本はどこまでも中国との平和的関係を深めるほか道はない。石垣にミサイル基地を作れば、石垣への中国からの旅行は禁止される可能性が出てくる。アメリカ一辺倒のアベ政権のやり方では、リスクが高まるばかりなのだ。中国やロシア、との関係を深めるためには、アメリカとの軍事同盟は邪魔になるばかりだ。日本の安全保障をトランプに依存してもよい結果には間違ってもならない。中東での戦争に自衛隊の派兵を求められても困るばかりである。北朝鮮は核ミサイルを持つことで、北朝鮮自身のリスクが高めている。軍事力で国の安全が高まるなどという事はもうないのだ。日本は平和外交とは何か、本気で模索すべきだ。

 

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農業の困難

2017-12-24 04:17:20 | 自給

雪かとまごう霜のタマネギ畑。

一時バカの壁という本が評判になった。養老先生の本だ。まさに私などバカの壁化していると実感したものだ。年月が立って老人の壁になろうとしている。良く言えば経験主義の頑固である。去年こうだったのだから、間違いないという奴である。そして、昔はこうだったとついつい口に出ている。その馬鹿を補強するために、昔からこの地域ではこういわれているという事を持ち出したりする。大反省をしなければならない。農業は日々刮目してみなければならない。農業の壁は技術にあると考えている。昨日まで正しいと思い込んでいたことが、正しいとは限らないとつくづく思い知る。今年の大豆がその意味で良い経験をした。未だ何故、発芽が悪かった理由はよくわからない。鼠がいる。ハトがいる。種が悪い。蒔き時と天候の影響。などなど想像はしたが、結局今思っているのは、来年は沢山蒔くと言う位だ。苗箱にも撒いておこう。ともかくたくさん作りたくさん植えるほかに。分からないことをわからないままに、対応しなければならないのも農業のようだ。

大豆を引き抜いて見て、根が例年になく、大きく深い。そしてまだ生きていた。実も比較的よくついている。粒も大振りである。これで、発芽が良ければどれほどの豊作か。しかし、かなり減収してしまった。発芽が少なかったから、大株になったという事があるのだろう。後から苗を作り植えたものははっきり小ぶりである。それでも平均20サヤぐらいはついている。大株の方は50サヤ以上である。モノによっては100サヤのものもある。後から植えた苗の方が早く枯れている。根も早く枯れた。畑が使われていなかった新しいところだから良かったのだろうか。大豆は少しもわかってきた感じがしない。小糸在来から品種を変えるという事もあるのだろうか。大豆は品種いよってずいぶん収量が違うようだ。小糸在来はおいしいが収量の少ない豆だ。味が良い方が良いのかもしれないが、余りに収量の少ないのは寂しいことだ。

農業が分からないことの意味は、自然というものが分からないという事なのだろう。自然が分からないのであれば農業のやり甲斐がない。自然という無限にも思える巨大な綜合世界は、一年10年などという、循環の歪みは当然のことだ。この不可思議な世界に自分が生きているという事を理解したい。何でも理解したいという辺りが馬鹿の証拠なのだろうか。分からないことをわからないまま受け入れるという事が上手く行かない。来年多く蒔いて解決すればよいという気にならない。こんなに遅くまで根が生きているとすれば、タマネギの予定を来年は変えなければならないのだろうか。大豆タマネギの2毛作は変えた方が良いのか。タマネギ畑は毎朝凍り付いている。心配でオロオロしている。霜で持ち上がるのではないだろうか。麦も麦踏をしなければならないのだろうか。

農業をしているという事は、諦めるという事だ。それは収穫を明らめるという事である。そして、生きているという事は死ぬという事を明らめるという事になる。必ず訪れる死というものを日々覚悟するという事。この体験の積み重ねることが農業をするという事にはある。体験的に知るという事は、自分という命の意味を知るという事になる。何故種が発芽するのか。これは理屈では誰にでもわかる。小学校の時に、発芽には水分と温度が必要だと教わった。肥料も、光もいらない。ここが大切だと先生に言われた。種に備わっているものがある宇宙。理屈では理解できても、この不思議は体験を繰り返さない限り分かるものではない。発芽しないという失敗を重ねない限り身体が理解できない。これが農業の痛い理解の仕方だ。それでも今年も味噌づくりができる。豊作の年は倍作り、不作の年は半量作る。それでうまく回るのが暮らしである。

 

 

 

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有機農業市民講座の提案

2017-12-23 04:55:51 | あしがら農の会

有機農業による、市民講座の提案

昨日市民講座設立に関して、農の会の関係者5名で話し合いを持った。有機農業を始めようとする者に、有機農業を一通り体験してもらう事が必要という事では一致した。ただ、これを行うにはよほどの労力が必要であるという認識と、それを誰が担えるのかという事が課題として残った。有機農業市民講座は有機の里協議会の事業として行う事になる。その具体的な担当があしがら農の会という位置づけである。ただそれだけでは主体があいまいになるという意見があった。運営主体の別組織が必要なのではないかという事だが、これは補助金関係で少し難しいところがあるだろう。いずれにしても、有機の里協議会で話し合いを持つ必要があるようだ。具体的な作業については、話し合うほどにやってみなければ見えてこない感じが深まった。私は畑の会を広げた程度と考えている。週1回3時間の作業を2人が行う程度と考えている。機械のこと、道具のこと、資材のこと、種苗のこと、なかなか複雑なことになるだろうから、まず1年半を試行期間として行ってみるのが現実的ではないだろうか。

有機農業は技術的難しいものである。化学肥料と農薬を使わないという事になるだけで、公的機関の指導はないというのが現状である。しかし、市民が自給的農業を考えた時には、有機農業でやってみたいという人の方が多数派なのかもしれない。問題はその技術指導がないという点にある。個人で試みて失敗してあきらめる人も多いいかもしれない。あしがら農の会では、有機農業での市民農園を提案したいと考えている。その理由は小田原の農業の可能性は市民との距離が近いというところにある。都市近郊の農業の利点を生かす必要がある。消費者が身近に存在する。農業者の側では後継者不足が始まり、農地の遊休化が始まっている。小田原の農業の可能性は市民参加型の農地利用を考えてゆくことだと思われる。市民は農産物を身近で作ることができる。農業者は農地の管理者として、又技術指導者としての営農の新たな方向が見つかるかもしれない。

明治大学の黒川農場では有機農業による市民公開講座が開かれている。実に合理的な仕組みで有機農業が学べる仕組みが出来ている。機械を利用したり、まとめて準備をするところは、大学の作業員が行う。そして日常管理や収穫を参加者が自由に行う事が出来る。黒川農園では市民を募集し、明治大学の市民講座として有機農業の市民農園が行われている。畑を縦横に考えている。たとえば、横一列にジャガイモ、タマネギ、長ネギ、小豆、小麦と作る。(黒川農場では果菜類や青物)それを縦2メートル幅で個人の持ち分の畑となる。横一列が5メートル幅であれば、幅1メートルで、長さ25メートルが一人分の畑という事になる。農場の作業員が、トラックター作業や堆肥の投入などは、横一列の作業を一遍に行う。そして、参加者一人一人が、幅1メートルで草取りや、手入れ、収穫などを行う。

あしがら農の会には畑の会という活動がある。保存可能な野菜を協働で作る自給農業の協働の畑。ジャガイモ、タマネギ、長ネギ、小豆、小麦、などを同じ畑で協働で作ることで省力化を図ることができる。この活動は、明治大学の黒川農場のやり方からヒントを得て始めた。これから計画する有機の市民農園の活動には大変参考になるもの。機械で一度にできる大きな作業は、農家の方が行い一定の収入を得ることができる。市民は楽に合理的な作業を学ぶことができる上に、他の参加者と学び合う事で技術向上が図れる。他の人と比較しながら、より良くできる農法を身に着けることができる。加えて有機野菜を自給できることになる。小田原には農業に関心のあるたくさんの消費者がいる。それは小田原タマネギオーナー園の活動でもわかる。この黒川農場方式を小田原方式として取り入れれば、耕作放棄地の有効利用になる。その上に、農家の新しい仕事の創出にもなる。小田原の魅力を演出することにも繋がってゆく。

月1回の活動日を設ける。日曜日とする。基本を第2日曜として、変更がある場合は前月に連絡をする。まず、9時にフラワーガーデンに集まる。午前中を中心に講義を行う。毎月誰かを講師としてお願いする。有機の里づくり協議会の農業者にお願いする。それから畑に移動し作業を行う。現場の指導には農の会の2名が当たる。畑の準備は事前に行っておく。月一回の作業でその月の作業ができるようにする。当然日常管理はすべて参加者が行う。毎月の作業日には、必ず収穫物があり新しい作業が行われるようにする。日常の草取り作業などは参加者が来れる日に自主的に行う。一年半の作業に合格した者には、あしがら農の会で農地の斡旋をし、新規就農の道にも協力する。市民農園ではあるが、有機農業の研修農場にもなる。

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暴走北朝鮮

2017-12-22 04:38:44 | Peace Cafe

北朝鮮の暴走を見ていると、大東亜戦争を叫んで、突き進んだ大日本帝国を彷彿とさせる。唯一違うのは当時の日本は日独同盟を希望としていた。短期決戦で持ちこたえれば、ヒットラードイツが勝利してくれるだろうと考えていたのかもしれない。日本の軍隊にはドイツ信仰があったようだ。孤立した北朝鮮は世界からの圧迫を一身に受けている。いつ暴発するかとハラハラしてみている。周辺国の対応としては、中国、ロシアは話し合い解決以外にないとしている。武力では解決できないと主張している。しかし、アメリカは先制攻撃をちらつかせ、韓国と共同軍事演習による挑発を続けている。そのアメリカと韓国に対して、アベ政権は全面的な支持を表明し、さらなる経済的圧迫をする以外に、北朝鮮の核ミサイル開発を止めることができないという判断である。現状は核ミサイル開発を止めるどころか、予想以上の速度で実戦化が進んでいるだけである。経済封鎖に効果がないとなれば、先制攻撃という事になるのだろう。

このままでは、北朝鮮は過去の日本と同じように、窮鼠猫を噛むことになりかねない。今にしてみれば、なぜ日本がヒットラーに期待して、無謀な戦争に突き進んだのか理解しにくいことだ。結局のところ国内の経済的苦境だ。日本は石油を絶たれたことによって、戦争に進んだ。自分が強国であるという妄想の上に救いを求めるほかなかった。北朝鮮もこのまま座して死を待つより、打って出ようという事になりかねない。北朝鮮を暴発に進めない方法は、中国とロシアの存在以外にない。先日の中国からの特使が追い返されて、ミサイル実験が行われた。日本でも、日本会議では核武装が主張される事態になっている。アメリカの属国から抜け出られない原因はアメリカの核の傘である。核に守られている以外に安心がない。それは北朝鮮も同じことである。傘をさしかけてくれる人がない以上、自分で核武装する以外に道がないと思い詰めるのは、独裁者の陥る不安の意識であろう。中国やロシアの属国でいたくない北朝鮮の核武装なのだろう。

北朝鮮の独裁者が一番必要としているのは面子である。名誉ある撤退に違いない。憎たらしいから圧迫してへこませてやれというような対応は暴発が近づく。核保有もミサイル保有も認めてあげるという悪の道ですら、戦争よりはましだ。何故、核保有が一定の国だけに許されるのかには道理がない。道理のない背景にあるのは、強い国の過去の成り行きによるだけだ。世界の非核化が道筋としてあるのであれば、まだ道理が見える。日本は核兵器禁止条約に加盟しない、口先だけの核兵器削減論である。被爆国であり、原発大事故の国である日本ですら、核武装を主張し始めている。自民党の中には本音としては核武装論者が相当数存在する。現状では何故、北朝鮮の核武装が許されないのかの根拠がない。河野外務大臣は、核軍縮の道を模索すると書いている。その実効性のない現実は、北朝鮮の核ミサイル開発をやめさせることができないことと同じだ。日本は世界平和のため、紛争解決の為、軍事力を使わない平和的手段による解決を提案しなければならない。憲法にはそう決められている。

このままでは核戦争に突き進むと言わざる得ない。アメリカが先制攻撃をすれば、日本の米軍基地、自衛隊ミサイル基地がミサイル攻撃を受ける可能性が高い。アメリカに向けられた少数の長距離ミサイルは、迎撃される可能性が高い。アメリカの先制攻撃が起きたら、ともかく軍事基地から離れることだ。反撃の形が作れるのは、韓国日本の軍事基地の攻撃である。このままゆけば、軍事基地のない島にでも逃げる以外にないことになる。原発安全性も神話だった。北朝鮮の攻撃があるはずがないと思い込んでいたら何が起こるかわからない。この馬鹿げた状況で、ミサイル基地を作ることが地域の安全を高めるなどと、主張をする石垣島の中山市長は市民を危険に追い込む市長にしか見えない。基地がなければ、北朝鮮の攻撃はまずは受けない。それは中国にしても同じだ。武力があることが危険を呼ぶのだ。

 

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殺人事件の増加

2017-12-21 04:15:36 | 暮らし

神奈川県では恐ろしい大量殺人が続いている。障碍者施設を襲い、殺人を正義と叫んだ、病んだ事件。この事もよく理解できないでいた内に、また海老名で9人もの連続殺人。こちらは自殺願望者を誘い出してはの連続殺人。かつてないような事件が近隣で起きている。殺人事件は減少しているという事を言う人もいるが、ここ数年増加し始めている。最近では殺人事件の半分をかなり超えて尊属殺人である。尊属殺人の増加も社会の弱まった部分の何かを表しているのだろう。殺人は2013年には一日1件以下まで減少した。人口比で言うと10万人あたり、0,3%まで減少した。それが2017年はほぼ1日3件近くになっている。アベ政権になって急増していると言える。10万人あたり、0,7%である。これはドイツと同じくらいなのだそうだ。アメリカはさすがに多くて4%もある。日本は一度かなり減少したものが、また高止まり傾向にある。理由を考えなければならないところである。

神奈川県で起きた2つの大量殺人事件は現代社会の歪みが生み出した殺人。社会的な闇が表面化した事件としなければならない。日本は若年自殺が多いいという事では韓国と双璧とある。若い人が死にたくなるという事の背景には日本人の文化的資質もあるのかもしれない。私自身も若い頃死にたくなったこともあったので、死にたいという事は少しは理解できる。日本には武士道とは死ぬことと見つけたり。などという言葉さえある。〇〇心中などと死が美化されて物語りされることもある。死に誘い込む誘惑が存在する。自ら死を演ずることは高揚したような気分がある。私の場合を正直に書いてしまえば、川に沈むというイメージであった。しかし、今思えばあんな浅い川でおぼれるという事は不可能である。幻想にすぎなかったのだと思う。死の願望も人により様々であろう。

自分というものに絶望して死にたくなった。絶望等という感覚がそもそもちゃんちゃらおかしかったのだが、その時には希望はわずかも感じられなかった。それにしても思い切りが悪くて幸いした。絵を描いて居るという事で救われたという事がある。絵を描くという事が希望の具体化だからだ。絵を描くという事で落ち込んでいたのであろうに、絵を描くことで光も見ていた。親しくしていた美大の友人が前触れなく死んだことも衝撃だった。自己に絶望したものの、やはりどこかには自己実現の希望が残っていたのだろう。すべてがだめではあるが、絵ならダメでもいいじゃん。という逃げ場が残されていた。ダメでもそれがダメと表わされていれば良いという絵画さえあるという事の救い。他人と関係なく絵というものがあった。褒められたり、生活の糧にしたりではなく、絵が自分なのかもしれないという、かすかな思いである。死ぬくらいなら、ダメのままいる方が楽。というくらいの消極的な希望。希望というよりは諦め。

尊属殺人の増加は家族崩壊の予兆であろう。家族に依存しているのが引きこもりなのだろう。依存心が強い分その崩壊が殺人という行動につながる。甘えの社会の中での人間の分断が起きている。その分断は強ければ強いほど、家族というものに依存する。社会からの阻害によって、家族だけの狭い世界が成立する。その依存の維持が不可能になり殺人に至る。社会の矛盾が家族というものに凝縮してくる。社会的価値観の崩壊。殺人という最悪の事態の背景に社会がかなり不安定化してきている。未来の見えにくい社会。共通価値の喪失した社会。共同体としての社会の喪失。自分なりにダメでもいいから生きる。ダメとか良いとかいう圧力から抜けである。ダメだろうが、良かろうが、あくまで自分というもののを十二分に生きるという事が面白い。私はそう思ってやっている。

 

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大相撲を裁くテレビの劣化

2017-12-20 04:41:09 | 身辺雑記

モンゴル力士懇親会で起きた、酔っ払いの暴力事件が、いつまでもいつまでも、面白おかしくテレビを騒がせている。ここに現代の報道の劣化が表現されている。それは想定される視聴者という愚劣な塊の存在を前提としている。視聴率を稼げるものは何でも盛り上げればいいと言う、特に民放局のくだらなさを象徴している。イライラ世相の反映なのかもしれない。裁きたい欲望が視聴者の中にある。それを刺激して盛り上げようという下心。コメンテーターを連れてきたり、元力士や、元相撲記者が登場しては、何が正しいかを力説する。そして今や貴ノ岩を聴取しなければ深層が分からないなどという、意味不明なコメントを叫ぶようになった。貴ノ岩を聴取しなくとも充分に状況は把握されている。被害者を相撲協会が聴取するなどという意味はどこにあるのか。この事件に関する調査は警察が行い、結論を出し検察に送られたのだ。相撲協会はそれに従えばいいだけのことだ。嫌だという被害者本人に何を聞こうというのだ。

テレビでは、八角理事長と貴ノ花理事との対立構図を面白おかしくエンターテイメント化して視聴率を上げようとしている。そして悪人を仕立て上げ、裁きを加えようというのだ。本来この問題を解決したいのであれば、静かに見守ることが一番である。当たり前のことだ。被害者を引きづりだして、さらし者にして、悪い方向に進むだけだ。まあ、大相撲だからまだ影響は少ないが、北朝鮮についても似たような面白がりをしている。北朝鮮問題を解決することは誰にとっても極めて困難なことだ。テレビの報道の大半は、長年北朝鮮が飢餓に苦しみ崩壊寸前であると、主張し続けていたのだ。もちろん政府の誘導もあったのだろうが、きちっとした調査報道が出来ないでいたのだ。そして、北朝鮮の暮らしはそれほど悪くなさそうだなどと言えば、視聴者の期待に反するとして、自粛していたのだろう。つまり、良いところだけを見せられて、騙されてるほど馬鹿ではないとしていた訳だ。そのくだらない面白がりの間に、核ミサイル開発が進んでいた。この取り返しのできない事態に入る前に、報道には何かできなかったのか。

報道は自分の観点を持てないでいる。公平とか、中立とか、神の様なあり得ない立場に立とうとしている内に、自らを失い、視聴率の上がることが良いことであるという唯一の下卑た価値観に寄り掛かる、拝金主義者になったのだ。それは期待されるものを追い求め、自分の観点というものを捨てたという事だ。大相撲暴力事件でもその為に完全に貴ノ岩聴取というそっぽに流れて行っている。どうすれば大相撲が良くなるのかという視点がない。大相撲という伝統文化の意味などとうに忘れ去った。北朝鮮のミサイルをどのように解決すればいいのかも、経済封鎖を唯一の解決策のように主張する愚かさ。このままどこまで進んでも解決する問題でないことぐらい理解しなければならない。問題は現状より悪くなっている。どうしたらいいかは確かに難しい。核廃絶が本質の解決である。核兵器禁止条約である。それを、除いた解決法だけを模索するから解決が無くなる。報道は政府の誘導に従い、経済封鎖で解決できると妄想を広めてはならない。

 テレビは翻り自らのことを考えるべきだ。「東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)『ニュース女子』が2017年1月2日に放送した沖縄基地問題の特集が何故でたらめな放送になったかである。BOPの調査結果でそのでたらめの原因が明らかなになった。現状を知る前に、先入観と思惑があったのだ。そして政府を忖度する報道になった。自ら何も調査せず、現地にも足を運ばず。何を言えば、政府にも、視聴者にも気に入られるだろうか。そんな低劣な人間が、テレビ報道には多数存在するのだ。今でもでたらめ報道をしたキャスターは反省を示していない。こうして、テレビ報道は信頼を失う。政府を忖度しているのではないかという、疑いで報道を見なくてはならない現状。スポンサーを忖度して作っているのではないかと疑わなくてはならない現状。愚劣な視聴者を育てようとする現状。

 

 

 

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ブログの恥ずかしさ

2017-12-19 04:18:51 | 身辺雑記

ブログを書いていると、いつも自己陶酔ではないかという不愉快感に陥る。そんな自己嫌悪を感じるくらいなら止めればいいようなものだが。心の底に向けての意見が貰えることもある。不安を感じながら続けている。いやらしい人間に見えようとも続ける方を選択している。言い訳はある訳だが恥ずかしさに変わりはない。結局のところ自分の役に立っているからだ。一つには備忘録である。備忘録はブログを始めるより、15年も前から続けていた。自分の自給自足の生活の記録を書いておかないと、翌年の参考にならなかったのだ。足長キノコを北のどの沢で、何月何日に見つけた。とか、タケノコが何月何日に猪に食べられた。と書いておくことが翌年大いに役立つ。それは、ハエが初めて出た日を毎年記録していたという、桧枝岐のおじいさんの話を思い出して始めたことだった。自給生活に記録は不可欠なのだ。畑ではいつ何の種を蒔くのが良いか。などという事は何年も経験を積み重ねてわかることだ。

ブログをやろうとした動機は、ピースカフェーというミニコミ通信のウエッブ版という事である。これは当時やっていたピースカフェの仲間との約束である。紙媒体の継続が難しくなった時に、何とかみんなでブログを連帯して、平和を伝えてゆくという事になった。その後、平和は危うくなるばかりで、辞める訳にはいよいよ行かない心境になった。どれほどこのブログが役に立つものかわからないが、平和への不安がより強くなり、止められなくなった。さらに直接的な動機も生じた。鳥インフルエンザの流行である。養鶏業を行う者として、深刻な状況に陥った。自分の鳥インフルエンザに関して学習したこととからすると、政府の対応があまりにずさんで、見当違いに見えた。その結果日本から鶏を飼うという文化そのものが消えかかっている。日本の伝統文化である日本鶏の飼育はほぼ終わりに向かう事になってしまった。動物園から日本鶏が消え、小学校からも鶏が消えた。政府の鳥インフルエンザウイルスに対する認識がおかしい。これを主張する場がどうしても必要だった。

ブログを書くことで分かることもよくある。書き始めてだんだん事の真相が見えてくるという事を何度も経験した。書き始めていた時の理解と結論が逆になるという事すらある。ブログは公開することだから、確認をしてみる。思い込みで違う判断をしていたという事もある。自分の頭の中を整理できる。整理している内に発見することがある。だから、作物のことでも書いているうちに手順が確認できてくる。特にグループでの活動では手順やスケジュールをよほど整理しておかないと、合理的な栽培は出来ない。最初の頃は良いコメントを頂いて、それで考えを深めたいという気持ちもあった。ところがこれは結局ダメだった。以前、フェースブックというのものを始めたが、これは上手く対応できなかった。ホームページもやっている。ブログで書いた記事を整理する場所にしているだけだ。

ブログという武器で意見を公表することで、押しつぶされない力を得るという事がある。これはブログを書いてきて、実際に経験したことだ。個人が違うと考えていても、権力というものは押し黙らせてしまうという力で迫ってくる。放し飼いの養鶏が許されなくなったのだ。不安が広がり、周辺の人から注意を受けることになった。その根拠はあまりに薄弱だ。野生の鳥がいて、それが感染を広げている。野生の鳥にはワクチンも消毒もできない。これが自然の環境である。養鶏場の鶏が放し飼いであることがどれほどのリスクを増すのだろうか。論理が成立していない。そもそも、インフルエンザが流行したのは大規模な工場養鶏だ。こういうことを主張して押しつぶされないためにはブログを続ける必要があった。小さなささやかなブログでも、意見を公表しているので押しつぶされず、放し飼いを続けることができた。この事件では、おかしな自殺や不可思議なワクチン使用。人ひと感染のデマとか。いろいろ事件が起きたのだ。

どう言い訳をしても、ブログを書くという事は恥ずかしい行為だ。恥知らずの方ではあるが、それでも耐えがたい場面もない訳でもない。何年かぶりに会った友人に、ブログ読んで様子は分かっていたなどと話してもらう事がある。手紙の役目もしているのだと思う。ブログをまとめたホームページも作っている。こちらは部門別に整理して、稲をどう作ればいいか等整理している。自給生活を目指す人がいれば、きっと参考になると思うからだ。これは私が死んだ後も役立つようにと思うからだ。私が開墾を始めるときにはほとんど参考になるものがなく、全くの手探りだった。だから可能か、不可能化すらわからないまま始めた。100坪1時間の自給生活の実際がどういうものかを、体験のままに示す価値はあると考えている。残す価値のあると思える記事は、ホームページの方に、整理してある。とあれこれ言い訳のようなことを書いてみたのも、やはりどこか恥ずかしい気分があるからだ。それでもともかく続けられる間は続けてみたいと思っている。

 

 

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山之口貘という詩人の不思議

2017-12-18 04:16:37 | 暮らし

山之口貘という詩人がいる。なかなか難解な詩で一筋縄では行かない詩だ。

   生活の柄

        山之口貘

  歩き疲れては、

  夜空と陸との隙間にもぐり込んで寝たのである

  草に埋もれて寝たのである

  とろ構わず寝たのである

  寝たのであるが

  ねむれたのでもあったのか!

  このごろはねむれない

  陸を敷いてもねむれない

  夜空の下ではねむれない

  揺り起されてはねむれない

  この生活の柄が夏向きなのか!

  寝たかとおもふと冷気にからかはれて

  秋は、浮浪人のままではねむれない

 

鮪に鰯

 
鮪の刺身を食いたくなったと

人間みたいなことを女房が言った
 
言われてみるとついぼくも人間めいて
 
鮪の刺身を夢みかけるのだが
 
死んでもよければ勝手に食えと
 
ぼくは腹だちまぎれに言ったのだ
 
女房はぷいと横にむいてしまったのだが
 
亭主も女房も互に鮪なのであって
 
地球の上はみんな鮪なのだ
 
鮪は原爆を憎み
 
水爆にはまた脅やかされて
 
腹立ちまぎれに現代を生きているのだ
 
ある日ぼくは食膳をのぞいて
 
ビキニの灰をかぶっていると言った
 
女房は箸を逆さに持ちかえると
 
焦げた鰯のその頭をこづいて
 
火鉢の灰だとつぶやいたのだ
 
 

不思議というしかない詩である。詩というものが、一体何なのかと言っているような暮らしの実写の詩だ。絵と同じだ。絵だって何だとは言えない。何でもないと言えば、何でもないものだ。山之口貘さんの詩は高田渡さんの歌で知った。ずいぶん変えているから、高田さんの緩い変え方が分かりやすくしてくれていたのだ。「である。をです。」「浮浪人と不良者」ではだいぶ違う。山之口貘をフォークシンガーの高田さんが分かりやすく歌ってくれていたので、何とか難解な山之口貘さんが近くに感じられたのだ。山之口獏さんのことは沖縄を調べる中で、際立ってきた。沖縄の那覇出身の人だ。若い頃一家が没落して、東京に来た。日本美術学校に入学する。没落したとすれば、どうやって入学したのだろうか、少し不思議だ。一ヵ月で退学。その後は、浮浪人でいた訳だ。その暮らしの中で、生活に根差した詩を書いた。だから浮浪人の詩である。今風に言い換えればフリーターの詩である。16年畳の上に寝ていないともあるから、路上生活時代の16年は長い。きっと身体の強い人だったのだろう。友達の世話があってあちこち勤めもしたようだ。

一遍の詩を書くには相当の推敲が必要だったという。一つの詩に400枚の原稿用紙があったというから、簡単にできた詩ではない。生涯200篇弱の詩が残された。高村光太郎賞を受賞というから、認められた詩人である。反戦や反核をどのように表現出来るのか。マグロを食いたいというような、実生活からにじみ出てくるしとしての表現。こういうやり方が芸術的方法なのかもしれない。おかしみという事が大切にされている。戦争協力の高揚詩を書いた高村光太郎が、戦争中にも浮浪者で暮らした反戦詩詩人に賞を与えている不可思議。昭和初年から敗戦後の日本の東京で、浮浪者として正しく生き、生活の柄をつづった詩人。日本の芸術家を名乗る大多数の人間たちが、戦争協力に走る中、人間として生きようともがいていた。そういうすごい人の詩なのだ。今も何ら変わらない、芸術の能天気時代。商品絵画の時代。商品は消費されて、消え去るのみ。せめて、今日も高田渡さんを気取って、泡盛を飲んで、生活の柄を三線で鳴らそうか。

 生きるということは何とも悲しいものである。 この悲しさが詩になるのだろう。悲しいのだけれど愉快でもある。悲しいから愉快ということかもしれない。悲しいという根源には、人間が生まれて死んでゆくという厳しいものがある。八木重吉は幸せな家庭は軒先から火が上がっていると歌っている。だらだらと生き続けるわけではないのだ。この軽い表現が、ユーモアーを含んだ詩だからこそ伝えられる大切なもの平和という物の実態。暮らす、生きるそういう大切なことが、国柄よりも、生活の柄ということなのだろう。それは平和の心が内側で光り輝いているからの話のことだ。競争して人より優れたものになるという事ではない。自分であること。平和の本質を知らないものに、こうした詩が書けるわけがない。絵はその心の中の安寧を表していたい。できないだろうが、そのわずかなかけらのようなものが絵の中に漂ってくれることを祈って描いている。

 

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世田谷学園の部活顧問

2017-12-17 04:37:35 | 暮らし

教員の部活の顧問が負担という事で話題になっている。部活動の顧問をやっていた経験があるので、思い出して書いてみる。学校によってずいぶん違うのだと思うが、私は私立世田谷学園の美術講師の体験である。教員をやっていれば、美術に特に熱心な生徒の対して、嬉しい気持ちになり協力したいと思うのは普通だろう。世田谷学園にも、1500人近い生徒がいたのだから、その3%は美術が好きだったはずだ。45人である。1%の者は将来美術分野で活動したいとまで考えているはずだ。15人である。学年に2,3人くらいは美術好きがいる。実際に卒業生の各年代1人や2人は美術関連の道に進んでいるようだ。美術に熱心な人間が、美術部に来る。美術部は30人くらいいた。私もその学校の生徒だった時は美術部に所属していた。中学生から高校生までの成長期の生徒である。美術部の活動を生徒と一緒にやることはけっこう面白かった。若い人たちと一緒に絵を描くのだから、指導するという事より以上に興味ぶかく面白かった。

学校には週3日か4日通ったのだが、そのほとんどの日の放課後は、美術部の部活動があった。生徒が何かやりたいと言って一人でも来れば、帰らないで一緒に何かしていた。だいたいが午後3時からはじまり5時までである。土曜は昼からやった。くる生徒はしょっちゅう来る。時には6時になっても帰らない生徒もいた。多くはアニメを描いて居たのだと思う。家でやっていれば怒られたのかもしれない。その中にはアニメの世界で活躍している人も居る。以前偶然渋谷の雑踏で会った卒業生がアニメ映画を作っていると話していた。その部活指導は特に言われた訳ではなく、自分の意思でやっていた。講師という立場だから、部活動の指導をしていても給与はもら得ない。私はその学校の美術部の先輩という立場でもある。その美術部で絵を描いて居て、そのまま絵を描くようになった。中学生の頃の美術の教師だった稲田先生も加藤先生も美術部の絵の指導もしてくれていた。

私がいたころの世田谷学園はお寺のお堂もあるような、なんとなく寺子屋の延長的な空気があった。給与の為に学校に勤めていた訳ではないので、どこか修行のような気持でかなり長いこと勤めた。私が今僧侶であるのも、世田谷学園での講師の経験があるからだ。そんな私でも部活顧問はかなり負担になってはいた。生徒と一緒に美術展を見に行くようなこともあったが、それは自分が中学生のころ、先生からしてもらっていたことだったからだ。そういう自分にとってありがたかったことを、生徒にして一緒にやりたいと思っていた。その頃の校長は中学2年の時の担任だった、山本先生である。中川一政氏の甥にあたる人だ。この人も実に熱心な人だった。私が生徒の頃の校長先生がが杉先生でこれほどの人格者はその後もお会いしたことは全くない。たぶんそのことに同感の人は多いことだろう。そいう環境であったので、自分が部活動を指導することは、自然の成り行きだった。生徒の部活動はそういう教師と生徒の関係の中で維持されていた。

教科指導の中で不足している部分を部活動が補っている。生身の人間としてのかかわりが深まり、生まれるものの中にあるもの。だから今も記憶にある生徒は、美術部の生徒ばかりだ。ある意味学校の中の逃げ場の位置であった気がする。それは美術というものも、私という人間の性格も、受験競争の中にいなかったからだと思う。学校の教師は多様である方が良いのだろう。生徒もさまざまであるから、一通りであれば波長がづれる生徒もいるだろう。意識して学校での自分の立ち位置を外れたものにしていた。教師が忙しくてはダメだろう。教師がやらないでも良い仕事を行う事務的職員を充実させる必要がある。病院には看護婦さんと医師と事務職員が必要だ。学校が教員だけで出来ているのでは上手く行くわけがない。カウンセラー、事務担当、用務員等様々な目が学校には必要である。世田谷学園のなかにある家には用務員の方の家族が暮らしていた。このお母さんが優しい人で俳句を作られていた。取れたボタンを付けてくれたりした。忘れられない重要な存在であった。 

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