地場・旬・自給

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吉田調書の示すもの

2014-07-31 04:52:28 | Peace Cafe


東伊豆海岸 10号 手前にある赤い屋根とみかん。こういうものを入れるのが、絵づくりなのだろうか。その辺が良く分らない。





吉田調書斑目委員長の3年目の証言さらに、細野剛志氏のインタビューの一部だけだが読んだ。日本がどれほどの危機に直面したのかが分る。運良く今ここで生きているとしか思えない、あの3月11以降の日時がよみがえる。あの時福島原発で起きていたことの証言である。これほど日本人にとって恐ろしい事態が迫っていたということに、改めて恐怖を覚える。人間は不思議なものだ。あの命の恐怖の感覚を、私自身も忘れかけている。完全に忘れ去った、政府を笑うことはできない。日本は消滅しかかったと言っても良いほどの危険だった。こんなことは2度とやっては成らないということが教訓である。あの後のしばらくは、大多数の日本人がそう思ったはずだ。ところが、もうそのことを忘れて、まるでなかったことのように、原発の再稼動を受け入れようとしている。人間は忘れる。

あの当時も、東電や政府のやったことを記録して置かなければならないと、よく言われていた。ところが案の定すでに、良く分らない部分が出てきている。東電と政府の指示の関係が良く分らない。東電は福島第一から、撤退すると言ったのか、言わなかったのか、そんなことすら良く分らない。幸運が重なり、原子炉の爆発だけはまぬがれたというのが、あのときのあった状況である。日本の半分が住めなくなり、半数の日本人が高濃度の放射能に被災するところだった。政府が、本当の所を発表出来なかったのは、それを現実として受け止めていたためということだ、避難対応すら立てられなかったのが実情のようだ。それはそうだろう、5000万の人間が、どうやって避難すればいいのか、そんな方法があるわけがない。それが、たまたまの偶然で、水がプールにあり、その水が何らかの加減で流れ込んで空炊きになることが避けらてたというようなことを、当時の管総理大臣が述べている。

原発での発電は、高いエネルギーコストになるということは、日々明確になってきている。日本の貿易赤字が、火力発電所のエネルギー輸入の為だと、だから経済が好転しないと政府や報道や有象無象が説明している。これは虚偽で騙そうとしているのだ。天然ガスの輸入量は2011年が、83,183千トン、2013年が87,731千トン。5%の増加に過ぎない。原発が止まっていても、この程度にすんでいる。貿易赤字の大半は円安の為である。電気が高くなっているのは、明らかに円安の為である。原発停止の為ではない。円安を歓迎しているのは、安倍政権と日銀であろう。放射性廃棄物の行き先はない。現実に、今回の事故に伴う、8000ベクレル以上の放射性廃棄物の行き先すら、見つけることができない。こんな状況の中、何故原子力発電の推進を政府が主張するかが、理解できない。理解できない中、想像するには、日立などの原子力発電メーカーの圧力ではないか。大企業だけを日本と考えている安倍政権は、原子炉メーカーを救済したのだろう。

このまま行けば、間違いなく世界のどこかで次の原発事故が起こる。さらなる悲惨を味わうことになる。原子力発電所の安全基準が、3,11の津波の前も、特別に日本だけが緩かったと思わない。世界では今も、その低い安全基準で原発稼働をしている国がある。そこで必ず事故が起こると考えることが普通の想像だ。それは明日かもしれない。その時に、世界はさらなる不安を抱え、反原発の機運は高まる。その時にやっと自然エネルギーにシフトするしかない。と気付くはずだ。その日の為に日本は先行して技術開発をすべきだ。次の事故の対応の為に、福島原発で何が起きたのか、そしてどんな対応に成ったのか。このすべてを世界に公開して、危機に際して何ができるのか。何ができないのか。どんな混乱が起こるのか。こういうことを、率先して公表して行かなければならない。このことを吉田氏の個人の尊厳というようなことで、非公開としている政府の姿勢は、意味不明である。
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どうなる裁判員裁判

2014-07-30 04:17:28 | Peace Cafe


真鶴半島から大島 10号 ワトソン 夏の海である。やっとこういう海を恐れず描いている。





裁判員裁判の判決を、最高裁が基本精神から覆した。最高裁が著しく刑が重いということで、懲役期間を3分の2程度に減刑に変えた。こういう結果になることも当然ある。しかし、この流れの中で、裁判員制度をわざわざ導入したことを、最高裁が否定したことになる。最高裁は裁判員の評議を指導する、裁判官の指導を強化しろという意見を出している。それなら、わざわざ素人の感覚を、一般市民の感覚を裁判に導入すると言った、裁判員制度の主旨がおかしくならないのだろうか。私が心配していた通りの経過が始まった。今回の最高裁判決では、裁判員裁判で、求刑を大きく超える判決が増える中、過去の判例との公平性に配慮するよう促した形だ。とくに幼児虐待死事件の様な、現代社会の矛盾の噴出の様な事件では、前例主義には収まらない素人の感想がある。こんな事件がこれ以上続いてはならないという危機意識がある。その為に求刑を越える判決が出ているのだろう。むしろ過去の平均的な判決事例を変えてゆくということが、市民から突き付けられているのだ。

裁判員裁判は早急に止めるべきだ。裁判員を拒否する人が多いそうだ。精神的なストレスを抱えてしまった人もいる。それでも裁判員をやってくれた人がいる。立派な人だと思う。しかし、一般の人でない可能性も出てきていないか。立派すぎる市民が、中庸的な素人感覚の判決を出すとは限らない。私はもしくじが当たったらどう断るかと、いつも心配になる。決められた義務は果たしたいが、人を裁くということが心理的に耐えかねない。いざやるとなると、厳しく裁いてしまうような気がする。実際に裁判員裁判は一般の裁判に比べて、求刑越えになるケースが10倍もあるそうだ。つまり検察の求刑を飽き足らないとする感覚が働く訳だ。こういうことは、一般の裁判ではめったにないことらしい。どちらかと言えば、検察の求刑より軽くなるというのが普通の判決である。となると、裁判員裁判に当たった犯罪者は不運ということになる。こいつは重くしてやれ、それなら裁判員裁判にしてしまおう。こういう意図が働いたらさらに怖い。

しかも、今度は指導する裁判官への最高裁からの圧力である。量刑を前例から越えないようにということだ。出世主義の裁判官がかなり居る可能性がある。最高裁の裁判官に気に居られたい。何とか量刑が治まる様な指導をするようになるだろう。こうなるともう裁判員の普通の市民感覚というのは無意味ということになる。市民感覚などという物ほど当てにならないものはない。その時代に流されながら出来ている。それが世論であり、世論操作で政治を動かしたのが、ヒットラーである。独裁者は麻生財務大臣のいうようにその辺を上手くやるのだ。世論が健全なものであるには、自由な報道が不可欠である。現状のテレビ報道は、事件を週刊誌的にというか、興味を煽るように報道する。より刺激的な事実を掘り起こしす報道が、視聴率を取る。凶悪事件が減少しているのに、増加しているような印象を受ける。それが、世論が監視カメラ社会を止む得ないものだと受け入れることに繋がる。

何故裁判員制度を止められないかと言えば、メンツだけである。日本の社会に適合しなかったことは、明らかな結果として現われている。裁判は一つでも不公平であっては成らないものだ。結局裁判員制度は、裁判官の責任逃れの手段だ。しかも、被疑者の捜査段階の可視化の範囲も裁判員裁判に限定するというような、意味不明の判断すら出ている。裁判員裁判を隠れ蓑にしようという気がしてくる。そして、徐々に重罰主義が進んでゆくのではないか。子供の殺された親にしてみれば、死刑廃止は到底容認できないというのが、感情的に当然の反応である。そうした感情が社会的に共有されてゆくかどうかは、報道の姿勢であり、政府の世論操作である。そういうところから、監視社会が強化され、すべての行動が把握される社会。隠れることのできない社会。これは生きにくい社会でもある。そのバランスをうまく取ってゆくためには、裁判員制度は止めた方が良い。

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日本サッカーが残念な理由

2014-07-29 04:22:41 | 身辺雑記


海と空 10号 海とか空だけを時々描いてみる。何でもできるからである。説明が不要だからである。説明するということと、抽象ということ。これを身体で探っている。自分の感覚がどう反映するのかである。





日本サッカーはWカップで、勝つことはできなかった。それでも、何故か世界ランキングは一つ上がった。引き分けが一つできたことが評価されたのだろうか。スポーツは好きなのだが、さすがに今回のWカップは特にテレビも見なかった。日本チームの力からして勝てるわけがないと思っていたからだ。サッカ-が強く成れないのは日本の文化の問題ではないかと、大げさに言うなら、言えるのだと思う。食生活から、ライフスタイルすべたが変わらない限りサッカーには勝てないという人もいる。ザック・ジャパンという名前が負けの原因である。ザックで重荷でも背負ってサッカーをやるという意味ではない。監督の名前から来たようだ。この考えでは勝てない。今度はメキシコ人だというが、勝ちたいならドイツから監督に来てもらうべきだ。それはドイツ人なら、日本人を理解できると思うからだ。イタリアやメキシコはちょっと日本人のスタイルに合わない。日本のサッカー選手の態度というものがそもそも他のスポーツの選手とは違う。実に偉そうにしている。本当の敗因はその辺にあるのかも。

目立ったのは本田選手のビッグマウスである。優勝を目指すと本気で公言しているようだった。世界の40位以下のチームの選手の発言とは思えない。己を知らないという以外の何物でもない。まず己を知るということが勝負の大前提である。弱いものが強い物に勝つ方法というものもある。勝つと思うな思えば負けよと、美空ひばりが柔で歌っていた。己を知らないのか、世界を知らないのか、日本のチームとしての力量と言えば、チームとしての個性すらないレベルだ。選手一人ひとりがレベルが低いということではない。良い選手が世界に散らばっていて、チームとしてのまとまりが出来ていないということになる。強いチームの国には、強いサーカーリーグがある。当たり前で、そういう自国に良い環境のある国より強くなるには、よほどの戦略が必要になる。ところが、日本のサッカーリーグは、コマーシャリズムに飲み込まれている。まず、商売優先ということの中で、ナショナルチームの運営である。成功した商業モデルではあるのだろう、

日本で鎖国しているような状態で、商売が成り立つことを目指している。その為に弱いということを認めることができない。自分達の状況の把握が上手く行かない。実は日本の政治や経済と同じだと思っている。日本の国力の正確な把握が出来ていない。希望的過ぎる観測や、大和魂的な精神主義が、現状分析に反映してしまう。日本の農業を考えるという時に、日本人の資質や、日本の環境条件すら軽視されてしまう。これが国際競争力という言葉になって、頑張りが足りないから、近代化が足りないから、大規模化、工場農業という、場当たり的なコンサルタント的な話になる。結果、日本という環境の中に一律に、プランテーション農業を持ちこんで成功させようとしている。たぶんインドに登場したイギリス人農園主のように、大企業がファンドで集めた資金で、世界から安い労働力を集めて、国際競争力のある農業をやろうというような、政府のイメージなのではないか。農業では、ワールドカップ出場もできないだろう。予選落ちである。

日本が恵まれた島国で生きてきた幸運の為だろう。鎖国の江戸時代から、富国強兵の明治時代への、前近代社会の尻尾が色濃く残っている。その為に、日本人の持つ能力を見極めることができない。日本という社会環境を分析できない。厳密な人間の運動能力でいえば、どこの国も大差はない。しかし、それをチームとしてまとめる方法が、あまりにおかしい。日本人の良い選手を、上手く使っているヨーロッパチームがある。それは、完成度の高いチームの中に、異質な日本人要素を加えることで、試合に勝つことができるという、スパイス効果を考えているのだ。何故、外国人監督でなければ、日本のチームが作れないのだろうか。この状況ではお雇い外国人の時代を思い出さざる得ない。当然もう少し違う事情がある。Jリーグの鎖国的商業主義である。この事情が日本のサッカーが、Wカップで勝てない最大の理由だと思う。 
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タニタの体重計

2014-07-28 04:28:10 | 暮らし


傾斜地の畑 10号 自然に戻ろうとする力が、常に働いてくる。手入れという範囲で、畑状態を保ってゆく。そのバランスの取れた所が面白い。



以前購入した体重計が壊れてしまい、新しいものを買った。壊れたまま何とか一年ぐらい使って、ついに買い換えた。体重が正確に測れない体重計ではいたしかたない。お風呂屋さんに行けば必ず、体重計に乗る。この体重と違い過ぎるのだ。風呂屋の体重計もだいぶ怪しい気はするのだが、家の方の体重計もかなり古くなっているし、たぶん15年ほど前に小田原に来る前に買ったのではなかったか。そこでどうせ買うなら、身体組成計という物を買うことにした。こういう機械で、どこまで正確に測れるのかは分らないが、体脂肪とか、内臓脂肪とか、計ってみたいと考えている。ついに、これが到着した。早速年齢や身長を登録して、何度も計ってみている。何でも計ることが好きなのだ。色々の数字を眺めていると、いよいよ面白くなる。それでもう一度乗ることになる。朝起きた時から、一日10回ぐらい計ると、人間の変化というものが見えてきて、これも無意味に興味深い。

基本病院には行かない。65歳になるので、一度病院で人間ドックという身体検査はしてもらいたいと思っている。そう思いながらまだ行っていないのだが。病気を発見してもらおうというのでなく、身体を測定してもらいたいと考えている。稲もそうだが、測定するのが好きなのだ。それで買ったのは、タニタのインナースキャンDUALというものだ。これはどうもIPhoneと連動しているということが、新しい機械らしい。と言ってもアイホーンを持っていないのだから、これを買ったのは間違いのようだが、計る機能が精密だという説明で、これしかないと考えてしまった。家で広げてみたのだが、細かな説明書の様なものが無い。どうもインターネットで調べるシステムのようだ。結局説明書をインターネットから印刷した。インターネットの記事が、おもしろすぎる。所が計り方が分らない。どこを押せば、測定を始められるのかがついにわからず、教わったのだから恥ずかしい、ただ機械に乗れば電気が入り測定が始まる。さすが最新式だ。

体重、BMI、体脂肪、筋肉量、骨量、内臓脂肪、基礎代謝量、体内年齢、体水分量と9の材料がタチドコロニ出てくる。これが果たしてどういうものか、どうやって計るのかについては、現在勉強している所で、まだ詳しいところは分らない。計るたびに、骨量が変わる訳はないのだから、正確な骨量はどういう時に測定できるのか、徐々に極めたい。たぶん電気の通過の違いが計れるのではないだろうか。デジタル表示で50グラムまで測定できるというところが今までにない所で、気にいった。眼鏡をしているかしていないかも数値が出てくる。眼鏡が無いと見えないのだから、確かにアイフォーン連動は良いかもしれない。やはり一番気になるのが、内臓脂肪である。内臓脂肪は今のところ、10か9,5である。やや危険数値ということだ。確かに体重が少ない割には、内臓脂肪はありそうな気がしている。そんなはずはないという気もする。

これは、中性脂肪の多いい食事をすることと、運動が少ないということになる。ところがこれに心当たりがあまりない。肉はめったに食べないし、毎日畑仕事をしている。まあ納得はいかないとしても、数値は数値である。心当たりがあるとすれば、梅酒の飲み過ぎだろうか。内臓脂肪はCTスキャンでおなかの中を計らないと本当のところは分らないようだ。一度これをやるべきだろう。内臓脂肪面積が100cm2以下なら良いと書いてあるが、これも意味までは良く分らない。痩せている割に、内臓脂肪が多く、成人病のリスクがあるというのは、よく言われることだ。内臓に脂肪が付いているとしたら、それは良くない。鶏を食べるとき、内臓に脂肪のある様なものは何か問題があると考えてきた。地獄絵のさまよう亡者は、痩せこけて腹が膨れている。さすがにああは成りたくない。
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大豆:津久井在来と小糸在来

2014-07-27 04:55:30 | 自給


島の教会 10号 平戸の山の中の教会である。まるで地域の集会場の様な感じだった。



大豆畑の24日の様子。畑の土はかなり乾いている。








大豆はその土地土地の品種がある。、神奈川県には丹沢の津久井地域に残っていた、津久井在来品種というものがある。食べてみた上での判断だが、特に作ろうという気にはならなかった。味の点で、それまで作ってきた小糸在来という千葉県の在来種の方が味が良かったからである。しかし、同じ神奈川県の品種を作るという意味もあるので、気になっていた。それは10年以上前になるかと思うが、現代農業で美味しい在来品種の大豆という特集があって、畦くろ豆というものや丹波の黒豆のどこかのものが面白そうなので、お願いして分けていただき作ってみたが、ごくありきたりのツルノコ大豆と較べて、出来も悪く、味も良くなかったのだ。大豆が地場の水土の影響を強く受けるものだと痛感した。その土地のものを、その土地で作ることがやはり一番ということを大豆は表していると感じた。しかし、津久井在来という、神奈川でも丹沢山中の品種より、千葉県の小糸川周辺で生まれた品種の方が、小田原の土壌、気候に適合しているということもあるのかもしれない。

今年の大豆の会は又小糸在来を播いた。種が悪かったことと、途中からの雨模様の為、発芽率はとても悪かったが、別に苗を土中緑化法で作ったので、何とかなったようだ。さらに、大瀬さんが家で作っていた苗を提供してくれた。それにしても作物一つ一つで難しいことがある。大豆の栽培では、鳥の害が大きい。今年は、かかしと糸と風車で鳥は近づかなかった。2年続けて成功である。失敗したのは土中緑化法の苗である。水やりである。水をやり過ぎて腐ってしまった。みんなで当番を決めて水やりをやったがこれでは水やりは無理だった。水は植物の顔を見ながらやらなければ無理だ。天候の予測をしながらやらなければ、枯れるものだ。畑に植え付けてしまえば、ある程度対応幅があるが、苗トレーにある間は無理ということが分った。昔、種を配ってそれぞれで苗を作っていたことがあった。私一人で作る分の方が、何十人に分けた分より苗の量が多かった。それで面倒になり、苗は私が全部引き受ける方向になった。それでもみんなでやるということは大切なことだ。技術の必要な要所要所は、慣れた人がやりきることとの組み合わせの問題。

大豆の播種機が途中で雨が強くなり、播種の状態が悪くなった。種の問題もあったのだが、雨のなかった初めのうちの畑の半分は、良く発芽している。畑の後半の雨が強くなってからは発芽が悪かった。今年の場合、途中からの雨で、仕方が無かったのだが、播種機が重くて動かなかったということだった。播種機の作業は2時間ぐらいのものだったから、一人が前で紐で引き、2人引きにすればよかった。みんなでやるには連携が必要になる。みんなでの技術の蓄積ということは、これからの課題になる。一人でやるのは、結構継続力がいる。自分はひとりで出来るとうそぶく人がいる。それではまだ道半ばである。大抵の人は一人ではできないので、みんなでやれば少し楽になるということで、力を出し合うことで乗り切る。しかし、本当の力というのは、一人でやれる人が、みんなの為にやるということのはずだ。これが出来る人に出会うと、人間は捨てたもんじゃないなと思う。

来年の課題としては、1、小糸在来と津久井在来の食べ比べを行い、品種のことを再考してみる。2、土中緑化や苗作りの進め方を見直す。3、播種機の扱いを良くマスターする。4、種大豆の選別を徹底する。5、収穫時期の見極めを的確に行う。大豆は日に日に大きくなってきている。土中緑化法の苗と直播の物が幾らか違うかといっても、27日現在、それほど目立った差はない。これから違ってくるのかどうか。興味深いものがある。梅雨明け後雨が全くない。畑は一気に乾ききった。今朝の様子では、夜の間に湿るということもない。さすがに後から抵触した苗は、少し萎びてきている。水やりをすればいいのだろうが、その気に成れないので、何とかしのいでくれるよう願う。今朝はよその田んぼの草取りを手伝いに行く。
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田舎の暮らしと都会の暮らし

2014-07-26 04:15:22 | 地域


黒姫山 10号 道を描いている。道を描くのは何か思わせぶりで、好まないのだが、黒姫あたりには良い道が沢山ある。




田舎の人口が急減している。そして、地方の町や村が消滅して行く。政府は地方の人口減少に歯止めをかける政策を年明けに発表するそうだ。それでも地方の人口減少は続くとしなければならない。私は田舎暮らしが好きだ、都会暮らしは嫌いだ。地場・旬・自給をこのブログでも主張している訳だが、世間全体がそうなるとは考えていない。人間の自然の流れだと思う。私としては地場・旬・自給の主張は正しい主張だとは思うが、世界は崩壊に向かっていて、正しい方向など見向きもされないだろうと、不安を抱えながら考えている。残念なことだが、地場・旬・自給は軟着陸の思想だ。つまり、空中分解はせめて逃れようという、緊急避難的な考え方だ。それぐらい世界の方角を悲観して考えている。田舎から、都会に人が移動するというのは、水が高みから低い方角へ流れるのと同じことだと思っている。田舎はまともで、総合的な人間でなければ生きることができない。日々、身体を使い、健全に暮らさなければ生き抜けない。生きものとしての人間の世界である。都会は、頭だけでも生きることができそうだ。そう見える。

私は絵を描いて暮らそうとした。都会での暮らしだ。絵を描くのは田舎でもできるのだが、絵を販売する道を探るのは、都会でなければできない。そう思ってあれこれ画策したが失敗に終わった。失敗して良かったのだが、都会でなければ、絵を描いて暮らす道は探せないということは理解できた。肉体労働を出来ればしないで済ませたいというのが、人間の本性だと思っている。豊かな社会になれば、肉体労働を避けるようになるのが人間ではないか。肉体労働は健康にも必要で、動物としての人類には、健全なことなのだが、出来れば避けたいという肉体の発する負担感がある。身体より頭を使う方が良いというか、楽で大儲けが出来ると人間は考えているのではないか。そういう本音があるから、私のように失敗でもしなければ、なかなか田舎暮らしに進むような人間は少ない。もちろん、田舎には驚くほど立派な人がいて、身体を使うことを喜びとして、健全に暮らしを立てている人がいる。この久野にもそういう偉人ともいえるような前向きな労働として農業をしている人が、100人くらいは居るという実感がある。

しかし、それは久野の1万人の中の100人ぐらいではないだろうか。つまり1%ぐらいのものだ。無理に多く見積もっても300人であって、決してそれ以上にはならない。私などはその300人には入れない人間だが、その300人の素晴らしさを人に伝えたいと考えている。どんなタイプの人間も3%は存在するというのが、保険の成立する理論なのだそうだ。つまり、学校のクラスに1人くらいは、それぞれの方向に極端に変わっている人間がいるという感じだ。オリンピックを目指す人、学者を目指す人、芸能人を目指す人、伝統工芸を受け継ぐ人、農業を目指す人。自堕落に生きる人。3%は常にいる。この少数派をいかに評価するかが、良い人間社会だと思っている。この3%の動きだけを見て、大きな世界の動きを見誤ってはならないとも思っている。少数だからと言って価値が低いということはない。しかし、少数だから下手をすると無視をされたり軽視されたりして、消滅して行く。

人口が減少するのは、人間の生き残るための本能の反映だと思う。政府が人口減少を止めたいのは、経済の国際競争力強化からだ。むしろ、少数派の中にこそ、軟着陸のヒントがあるというのが、私の地場・旬・自給の考え方である。消滅する集落を生かすことこそ、人類の軟着陸の可能性を秘めていると考えている。消滅集落を維持再建できるとすれば、この少数派を生かすしかない。消滅する集落が、過去のように、江戸時代のように、人間の暮らしの基盤になるとは思っていない。しかし、江戸時代のような人間の暮らしを伝えて、守ってゆくことが、人間の生き残る細い道だと思っている。資本主義社会は遠からず終わりを迎えるだろう。すでにその兆候は強まってきている。その時には、悲惨な争いが起こるはずだ。競争に勝とうとしてあがくことだろう。あがいてもあがいても、勝てない競争に陥るはずだ。それでも人間らしく生きるというところに、地場・旬・自給の軟着陸思想がある。
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田んぼの楽しさ

2014-07-25 04:31:23 | 稲作


瀬戸内の橋 10号 牛窓のあたりによく描きに行った。海がまるで川のようだった。




田んぼを始めて面白くて止められなくなった。いくつも理由は考えられるのだが、草取りが面白いと思う位の変な話だから、やったことのない人には理解しにくいことにちがいない。田んぼを始めて一番変わったのが生き方である。田んぼが生きることにこんなに影響するとは思いもよらないことだった。田んぼを始めたのは25年前になる。丹沢の標高350メートルの山中の、杉林を開墾して田んぼを作った。すべてを自分の体力でやってみようと考えていたので、シャベルとつるはしで、絵を描く合間に気分転換にやっていた。その頃は絵を描くことに忙しかった。絵もいくらかは売れていた時代だ。何とか一年がかりで、30坪ぐらいの田んぼを作った。最初の頃は福岡式自然農法にあこがれて、直播でやっていた。3年目には30坪で60キロのお米がとれた。これで自分のご飯が確保できたと思ったら、眼がさめるように視界が開けた。

これで絵を描いて行けると思って安心立命を感じた。後はそこそこ養鶏をやれば暮らして行けると思えた。鶏は子供の頃からの得意分野だ。何とかなるだろうと考えたわけだ。自分で山に作った田んぼで、簡単にお米がとれたので、田んぼの技術を極めてやろうと考えることになる。田んぼに取り組み、専門に研究する学者も沢山いる。江戸時代からの色々の創意工夫があったようだ。産業としても研究が進んでいる。自然農法でも色々ある。ますます、自分流で稲作技術を極める事に興味が湧いた。自給の稲作の最も合理性のあるものを作り出そうと考えた。最初は直蒔きを試行錯誤した。しかし、麦と2毛作すべきだと考えるようになって、苗作りの必要性を考えるようになった。結論としては、自給の田んぼの合理性は、一人でやるより10家族くらいの自給を共同することだと分った。昔の村落が、稲作を中心に共同作業が回っていたのは、必然のことだ。一人でやるよりはるかに省力化できる。その後、一日1時間100坪の自給に至ることになる。

小田原あたりの昔からの考えでは、1軒の家には1反の田んぼがあるといい。田んぼでは、お米と麦を作り、畦で大豆を作る。米、麦、大豆とあれば、昔の大家族の自給が出来るということになる。これを何とかみんなで実現してみたいということで、あしがら農の会の自給の活動に繋がってゆく。昔の村落共同体というものが、それぞれの生き方まで限定してしまうものであったことを考えて、どこまでも自由な緩やかな共同を実現したいと考えてきた。その為には労働と対価という資本主義を捨てることだった。そのように考えられるようになったら草取りが楽しくなった。自分の為がみんなの為であり、みんなが自分の為にやってくれる。それなら自分が出来ることは田んぼの技術を高めて提供することだ。有機農業だからこそ、みんなでやる田んぼだからこそ、最高のお米を、地域で一番取らなければいけないと思うようになった。これが全く面白い。田んぼの草がどこに多く出てくるのか。分げつを多く取るにはどうすればいいのか。トロトロ層を厚くするのはどうすればいいのか。

農の会は共同研究ということだ。農の会の30か所はある田んぼはすべて研究圃場である。稲作ではごまかしがない。生命力だの、美味しいだの、様々な価値が言われるが、自給の田んぼでは自給できることが価値である。一軒に120キロのお米が配布出来る。1万円の費用。年間100時間以内の労働時間であること。この技術の完成をめざす。つまり、再現性のあるものにすることだ。これを自然相手にいろいろ挑戦できる。これが実に楽しい。絵を描いた訳だが、絵を描く基を作っているのが田んぼではないかと思うようになった。絵を描くということは、見るという力を磨くということになる。見えないものは描けない。見えるということも、目に映っているとは違うものだ。ランチュウの幼魚の頭の煙など、見える人にしか見えない。トロトロ層の何を見るかは、田んぼ力の力量になる。このあたりの奥行きの深さが、田んぼの面白さだ。
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邦人の救出

2014-07-24 04:11:13 | Peace Cafe


紀伊半島 10号 インドの水彩紙





安倍総理の国会での答弁というか、説明によると、邦人の救出の際に自衛隊が出動できない現状を変えるために、集団自衛権という、憲法解釈の変更が必要ということのようだ。日本人の同胞意識というところに、感情的に訴えて説明しようとしている。しかし、憲法解釈を浪花節的にやっても仕方がない。明確に論理的に法律論として答弁してほしい。たぶん出来ないので、分りやすいつもりで、邦人救助や、石油輸送経路の機雷撤去などを持ち出すのだろう。しかし、ここでいう邦人というのは、誰を意味しているのだろう。安倍氏の頭の中にある邦人は、日本企業の社員である邦人ではないか。日本経済の先兵となって危険地域で働いている邦人のことではないか。アルジェリアであった、人質事件が具体的には頭に浮かぶ。旅行者はどうなのだろう。あるいは、紛争地報道の人達や、現地の方と結婚されている邦人は法律的な位置づけはどうなるのだろうか。

普通の旅行者や企業関係者は本来その地域が、戦争状態になる前に、旅客機でそれぞれの国に戻るのが、当然のことである。外務省からのそうした指示もあるし、渡航が制限されている所もある。その警告を無視して、あるいはその危険を承知の上で、危険地帯に残っている邦人というのは、一体どういう人だろう。大使館員とか、現地によんどころない事情で残っている技術者、国境なき医師団の関係者もいるかもしれない。あるいは紛争地域を取材している報道関係者、現地で暮らしている邦人もいるのかもしれない。安倍氏が説明に用いた邦人の母子の絵は、ここでは何を意味するかと言えば、現地の方と結婚された邦人ということなのだろうか。集団自衛権の説明とは思えない。ただでさえ分りにくい集団的自衛権の説明に、意味不明の母子を登場させなければならない理由は。感情に訴えることが、一番有効と考えただけではないか。もちろん安倍氏は文楽人形だ。

機雷の除去の説明も不思議だ。石油が来なければ経済危機の原因になるとの説明である。現代日本人は経済に弱いというところを、的確に突いているつもりなのだろう。これも全く集団的自衛権とは関係が無い話だ。ホルムズ海峡に機雷が置かれるということが意味しているものは、イランによる海峡封鎖である。原子爆弾を保有するというので、世界から経済封鎖されている。この対立から、ホルムズ海峡の封鎖を主張しているのだ。対岸のオマーンとの領海内の問題である。もしこの2国の領海に機雷が置かれたということになったとする。ここに自衛隊が集団的自衛権で機雷除去に向かうということは、イランと日本が戦闘状態に入るということになるのだろう。これが集団的自衛権の範囲との、安倍氏の説明である。イラク戦争の様な戦争に参加は、アメリカの要請があっても行かないと言いながら、その舌の根が乾かない内に、イランとの戦争には行くと言っているのだ。

日本企業に勤務する駐在員は世界中に散らばっている。それも単純ではない。日本から派遣される人もいれば、現地採用の人もいる。今の時代日本の大企業は、グローバル企業ということなのだろう。さらに、外国企業に勤務している、邦人という場合はどういうことになるのだろう。国籍が日本でない、日系人という場合は、邦人扱いとなるのだろうか。あれこれ考えてみると、日本人的感情に訴えての邦人救助という概念は、明確になることがない。日本人だけを特別視することは、経済社会ではもう無理なのではないだろうか。これが同盟国との絡みとなると、さらに複雑化する。しかも、自衛隊の出動対象の国側から見れば、日本軍が軍事進出してきたということになるのではないか。安倍氏はむしろ正直に、日本企業の救出と言った方が良いのではないか。集団的自衛権の解釈変更は、憲法改定への第一歩のはずだ。だからその意図は、自民党憲法草案にある。
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斎藤史門遺作展

2014-07-23 04:03:22 | 地域


庭の眺め 10号 




秦野を中心に、3つの会場で斎藤史門さんの遺作展が開かれていた。最終日に見に行った。斎藤さんを知っていた訳ではない。史門さんと皆さん呼ばれていたようだが、小田原市立病院の前庭で作品は知っていた。前から気になり、時々眺めていた。何が気になっていたかというと、作品になっていたからだ。野外彫刻展というものが、全国津々浦々で開かれ、その作品が各地に残されている。彫刻をやる人にしてみれば、自分の作品を発表する場として良い場所なのだろうが、果たして日本の風土にあっているのかと思う。思わぬところで、彫刻作品とは到底思えない、ゆるキャラの一種かと思うような不思議な物体が、どでっと駅前に置かれていたりする。無い方が良い作品を残してしまうと、芸術作品となっている物の撤去ということはいつかできるのだろうか。渋谷のハチ公像はまだしも、モヤイ像のまねごとの様な像は全く日本の風土になじまない。日本の伝統にはない、銅像の文化というものが、明治時代のグロテスクな遺物として、後世の批判を待っているのだろう。

立身出世主義の嫌なにおいが漂っている。あの母親を背負って階段を上る像に思わぬ場所で出会う。当人は立派な親孝行像として誇らしかったのかもしれないが、歴史の審判を経て、物としてのあの像が、まさか彫刻作品としては見られないだろう。ハチ公像のように、何度も映画に取り上げられ、模範足る犬の姿のように言われるが、私には到底良い犬とは思えない。ただハチ公が放し飼いだったことが、当時の犬の飼い方を表していて、現代の犬の飼い方が狭い飼い方だということが分る。世の移り変わりの記念像。飼い主がもう電車で戻らないことぐらい、1週間で分る様でなければ、良い犬とは言えない。あの年寄りがさらに年寄りを背負って階段を上るのは、アブなかっしくてハラハラする。2人もろ共階段を転げ落ちるのではないかと思うと迷惑なのか孝行なのか。明治の精神を伝える忠犬ハチ公像という名前だった。もう一つ言えば、薪を背負い、本を手にする金次郎像である。あれで伝えようとしている内容には、耐え難いものを感じる。困りもんの野外彫刻は数限りない。

彫刻のことである。日本の文化の中に溶け込んでいる野外彫刻はお地蔵さんである。あるいは道標の、右相模国というような物である。ただ形ある物が存在しているということで、その空間の濃密さを増しているようなものが、野外彫刻の作品だと思う。日本人の彫刻というものは、床の間に置くようなものがほとんどだ。無限の空間の中に置かれて、その位置を確認できるようなものは、めったに出会うことが無い。そのめったにない出会いが、市立病院の前の作品にはあった。それで通りがかると、誰の物かは知らなかったが、つい眺め入ってしまった。今になって、秦野駅前にも作品があるという事を知った。思い出してみると、これも前に立ったことは3回あるが、しかし興味が持てなかった。同じ人の物とはわずかも思わなかった。私に作品を見る目が無いということだろう。

斎藤義重氏の息子さんが、寄に住んでいるということは聞いていた。斎藤義重さんは学生の頃の私にはスターだった。絵画という枠を持っていないということだけでも、私には圧倒的な存在だった。その作品の良し悪しというより、自分の作品に固執しないすがすがしさの様なものを感じていた。作品の中にすら、作家の人間的なにおいは消してしまう。作家としての作品とは何かを学んだような気がする。その息子さんの史門さんということで、そういうえらい人の息子さんがいるのだということだった。その為に却ってかかわりたくないような、気がしていた。史門さんの作品を、遺作展でまとめて見せてもらうという失礼な形になった。物の形に対する微妙な感性が鋭い。わずかな傾き形のゆがみを絶妙に総合する。空間から削り取られた物体の形。3種類の傾向があったが、やはり私立病院の前にある様な傾向の物に、惹かれた。61歳で亡くなられたというが、その完成度は高く、やり残した感が全くない所が、やはりすがすがしく良かった。当人には辛かったのかもしれないが。後は作品が語り続けるのだけだ。ご冥福をお祈りする他ない。
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旅客機撃墜と戦争のはじまり方

2014-07-22 04:28:13 | Peace Cafe


館山の日の出 10号 房総は山の様子が違う。しかしここも人間が長く暮らしてきた味わいがある。暮らしの匂いの濃厚な風景だ。






ウクライナでマレーシアの旅客機が撃墜された。ミサイルによる攻撃と見られる。戦争というものはこうして始まる。両者又、その背景にある両陣営は、互いに撃ち落としたのは、ロシア系の独立派だ、ウクライナ政府軍だと、言い募っている。誰がやったのかというのも重要なことではあるが、マレーシア航空機の乗員乗客は298人が命を奪われたことは、無残な事実だ。日本政府は邦人が含まれているか居ないかをまず問題にしていたが、それどころではない。この戦争が深刻化して、世界が巻き込まれてゆく可能性だってないとは言えない。戦争は憎しみの連鎖である。この間、イスラエルと、ガザ地区でも深刻な戦闘が起きている。3人のイスラエル少年の殺害が起こる。それの報復とみられるパレスチナの少年の殺害。両者の言い分は対立したまま、深刻な地上戦が起きている。それに対して世界中が有効な手段を持たない。

マレーシア航空では先日も旅客機が行方不明になった。全く不運なことだ。しかし、大韓航空機のロシア上空での撃墜を髣髴させるところでもある。あのときも明確な原因は分らなかったが、大韓航空機がロシアの基地を撮影するために、通常のルートではなく、進入禁止の基地方向へ進路を向けたため撃ち落としたと、ロシア政府は発表した。真実は分らないが、武力主義の前では、人の命がいかに軽んじられるのかということを表している。あのとき韓国は我慢をしたのだと思う。パリに住んでいる頃で、飛行場に友人を出迎えに行くことがあったが、大韓航空機で日本から来る人が多かった。クルーは確かに軍人の様であり、異彩を放っていた。マレーシア航空機がなぜ、こんな危険な地域を通過していたかである。どう考えても安全なルートには思えない。対空ミサイルは、すでに用意されている、戦闘地域の上空を通過するルートが安全な飛行ルートの訳がない。その程度の安全思想が無い航空会社では、こまる。

日中戦争を考えてみても、武力のにらみ合いがあり、満州鉄道の爆破事件があり、両者が責任をなすり合い、戦争に向かってゆく。真実は常に闇の中である。ウクライナの問題も、どこに正義があるのか等は、全くに不明だ。パレスチナ問題でも背景には、ハマスにはイスラム勢力全体の支援がある。イスラエルにはアメリカの支援がある。戦争の背景には、大きな勢力争いがある。世界全体にイスラム勢力と、経済主義勢力との対立が起きている。イスラム勢力は石油という財力を持って、その勢力圏を主張し、グローバル資本主義との対立を起こしている。直接には、民族的対立ではあるが、代理戦争化する。日本と韓国の対立も、歴史的軋轢もあるが、それは理由づけであって、経済競争のライバルということなのだろう。最近日本が北朝鮮に接近し、それを外交交渉の材料にし始めている。

現代の戦争は、巨大な武力の均衡を背景にした末端での代理戦争である。直接の戦争は巨大な武力どうしでは、リスクが高すぎるので、勢力の外の淵で両者の武力の本気度が試される。大国同士が直接戦えない為に、より地域の小戦争は増加する。日本もこの武力の話の中に入りたいとするのが、安倍政権の発想である。誘われてもいる。世界の全体な武力バランスが、世界の端々の経済にまで影響している。北朝鮮のトラブルも、イスラエルの攻撃性も、イスラム世界との対立も。すべて巨大武力に対して反撃しようとする原子爆弾の保有である。日本がその仲間になりたい。そして世界と対等になりたいというのが、安倍政権なのだろう。仲間として対等にメンツを張るには、武力だという考えから抜けられない。武力など持たないでも尊敬される国になる。そうならない限り、巨大武力の先兵にされるだけだ。
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実践は矛盾する

2014-07-21 04:16:37 | 自然養鶏


妙高岳 10号 これは笹ケ峰から少し登った位置から描いたものだったと思う。位置によってまるで違った山に見える。





養鶏を始めて何年かしたころ、縁があって自然卵ネットワークという平飼い養鶏の会に入った。茨木の名越さんという方が熱心に事務局をされていた。私はいつの間にか会を止めたようになってそのままである。紙媒体から、インターネット会員になったことで、関係が薄くなり、また、記事を書いたぶん会費が相殺になったりしている内に、会費を忘れてしまった。この自然卵ネットワークの記事に会員のアンケートがあった。これが実に面白かった。それぞれが色々の鶏種を飼っている。飼った鶏種の感想を様々な角度からアンケートしているのだ。これがまったくバラバラであり、逆の答えもある。当然だと思った。二つ原因がある。コマーシャル鶏は、親鶏に変化がある。もう一つは、飼育する人がそれぞれに違うから実践の結果なのだと思った。

同様のことが、稲作の米糠抑草で起きた。これで全く草がなくなるという感想と、少しも効果が無いという感想が、今でも繰り返し言われる。これも2つ原因がある。実施する人の観察力と、栽培条件の違い。土壌や環境やタイミングで、結果が相反して当たり前だ。研究室の実験でフラスコでやってみても除草剤のような明確な結果は出ない。しかし、この方法は江戸時代から出ては消える技術と言われている。自然農業技術は実践者の観察力に支えられている。どの方法も、工場での技術とは性質が異なる。しかし、自然農業の技術が一子相伝の様なものであっては、これから自給農業を目指す人には困るだろう。これを克服しようというのが、私のこの20年の実践である。誰でもできるように、微妙さを取り除き、一般化する。例えば田植えの深さというものがある。どの深さが最適かという名人芸もある。と同時に度の深さに植えても克服できる苗作りということもある。一人ひとりの体験を単純化する。重要性。

学校田が全国で行われている。とても大切なことだと思う。この実践の授業で大切なことは、種まきから、収穫して、食べるところまでは、子供たちに見えるようにして、しかも周辺の農家より、自然栽培で、沢山収穫することである。そんなことできるわけがないと思うのは、技術化されていないからで、子供たちの沢山の手があれば、むしろ普通の農家の稲作より良く成る。というところを子供たちに体験してもらわなければだめだ。その為に実体験を、どのようにすれば一般化出来るかの工夫である。最近100時間の稲作ということに集約してきた。稲作に費やす年間100時間での自給法の確立である。技術として現在挑戦しているのが、大豆と麦、である。大豆は水田地帯での栽培法はほぼ確立したのだが、山の畑でやるとかなり調子が違う。今年の大豆では、観察をしながら、土中緑化法が根を切る意味が分るように栽培している。

そう思って自分の絵のことを考えると、完成ということが無いのだ。いつも経過である。もうこれで良しという感じが無い。まだまだ不十分という感じがいつも残って、今はここまでという感触である。結論を出すことができないというようなことをかんがえている。その内、死ぬのだから、それまでに結論めいたところに行けるのかどうかさえ危うい。いつも、やり残しているような気分で暮らしている。これは性格からきているのだろうか。諦めが出来ない。明らかにならない。養鶏も結論というものはなかった。田んぼも分らないことがやればやるほど出てくる。来年の百姓というそうだが、実践というものには結論が無いのかもしれない。大きな流れをつかみ、それに乗ることができれば、そこそこの収穫に至る。生きるということはそこそこのことなのだろうか。もっと良い流れがあるのかどうか、それは終わってみてわかることである。たぶん私の絵も、終わってみれば分ることなのだろう。

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10万年の迷惑

2014-07-20 04:34:51 | Peace Cafe


妙義山 10号 とても不思議な山だ。なかなか良い描く場所が無かった。





原発が、いよいよ再稼動されそうだ。鹿児島川内原子力発電所が、安全審査に合格して、再稼働に入りそうだ。日本のリスクが一つ増加した。世界が脱原発に向かうことは、間違いのないことだ。これから、技術を持たない国が、原発の稼働を始めるだろう。技術立国と主張してきた、先進国のはずの日本ですら事故が起きた。間違いなく世界のどこかで原発事故は起こる。そうなって初めて、世界は原発の問題に気付くことになる。温暖化現象と一緒のことで、この時始めて先進国は脱原発を主張し始めることになる。たぶんそれまでの余裕が10年あるのか、どうか。これも世界崩壊の一つの兆候かもしれないが、何とか軟着陸するためには、自然エネルギー技術への転換である。技術の歴史を考えれば、未来の社会が原子力エネルギーでないことは、明らかである。自然と融合した技術が未来技術であることは当然の帰結だ。日本の企業が先を見る野心を持てないということが、実に残念だ。

日本は起こるべくして、原発事故を起こしてしまった。そして、現政権は愚かなことに目先の景気だけに、目を奪われ、40年の耐用年数の近づいている発電所の再稼働に莫大な費用をかけている。輸入原油の代金に、経済がつぶされそうという当面の経済界の苦しみからの、ごり押しの言い成りになっている。企業のちょうちん持ちのような安倍政権では当然のことかもしれないが、もう少し先を考えてみなければならない。米百俵の小泉さんを思い出すが、この先の世界を思い描けばだれにでも分ることだ。もう一度、世界のどこかで原発事故が起こる可能性は高い。賢明な先進国から、脱原発をせざる得なくなるだろう。その時の技術こそ、その国の産業になる。このように考える人がいた国こそ、次の技術大国になるはずだ。今のところドイツなのかもしれない。日本は原発大事故を起こし、国民の大半は自然エネルギーへの転換を望む、土台ができている。

私達21世紀の人類は日々の電気という便利のために、10万年未来の人類にまで、迷惑を及ぼしている。もちろんそれは、人類だけでなくあらゆる生物への迷惑である。果たしてこういう人類の生き方が、許されるものなのだろうか。20世紀、21世紀の人類は、地球環境を激変させるような、様々な環境汚染を行ってきた。すでに、温暖化現象は気候の激化となって日々の暮らしにまで影響を与え始めている。様々な合成化学物質の増加で、大気や水への影響も、深刻さを増している。しかし、こうした地球環境全体の危機の中でも、原子力というものの深刻さは、他の様々な要因より、具体的かつ、深刻さで圧倒的な形で、人類の文明を問いただしているのではないだろうか。昨日新しく出来た、原子力規制委員会から、川内原発の再稼働が、容認された。このことは、3,11福島以前の科学倫理に従い、再稼働が審査され、少しの疑問は残したが、許容範囲の安全が確保されたという判定である。

この再稼働への政府の熱意の最大の材料は、経済の問題である。日本が経済で負ければ、さらに大きな不幸が日本という国に起こるだろうということだ。電気が止まれば、病院で死者が出る。安倍総理大臣も述べたし、今でも多くの人がそのように主張する。企業の電力価格は30%も値上がりし、日本国内での企業活動は不可能になろうとしている。こうした主張も良く聞く。多くの日本人が、確かに原発は危ない物のようだが、今日の暮らしが少しでも豊かな方が良い。こうして、原発に関する思考を停止しようとしているのだろう。中国などの経済で追い上げてくる国は、環境汚染対策もなおざりにして、原発の推進にも熱心である。こうした国との競争の中で、原発という、重要な武器を捨てることなど出来ないというのが、経済競争から出てくる結論となるのだろう。問題にはそこそこ目をつぶり、現実に目を向けろということになる。

しかし、原子力というエネルギー手段が、人類文明にとってどのようなものなのかという、福島事故で問われた命題には、まだ回答が出た訳ではない。そうした問いかけ自体が、喪失され始めている。それが人類という総合的な生命の宿命なのかもしれない。知性とか頭脳を持った生き物ではあるが、楽をしたいという欲望には、知性は勝てない。石油文明というべき時代が現在の資本主義社会を作り出した。これは資本が労働力を対価として判定する考え方である。人間というものの価値を、利用価値で、つまり能力で計る考え方である。
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ベネッセ情報流出事件

2014-07-19 04:42:43 | Peace Cafe


北信の山 10号 千曲川沿いに美しい山が沢山ある。人の手の入り方の加減が良い。





約760万件の顧客情報が流出した通信教育大手のベネッセホールディングス(HD)は12日、個人情報を集める目的で全国の行楽地や観光施設で開いてきた子ども向けのイベントを原則、中止する方針を明らかにした。

ベネッセが集めた個人情報が流出した。延べ1億件と言われる子供たちの家族情報である。今までとはケタ違いに問題が大きい情報流出である。規模が大きいこともあるが、問題は暗証番号とか、口座番号が出たということではない。子供の年齢とか、親の名前、住所、その他アンケートと称して集めた情報が全て出た可能性がある。子供たちの生命にかかわる危険な流出である。取り返しのつかない、重大事件である。犯罪者がこの情報を悪用すれば、誘拐などが起こる可能性がある。お父さんは、○○次郎さん36歳ですか。あなたはお子さんの太郎君血液型A型の13歳ですか。お父さんが今交通事故にあってしまい、県立病院に緊急搬送されました。太郎君今迎えの車が行くので、それで病院に来てください。こういう誘拐が起こるかもしれない。この時ベネッセは言い訳出来ることではない。

しかし、不思議な時の事件発覚である。内部告発ではないだろうか。ベネッセの社長の記者会見で、ずいぶん硬い顔をした人が頭を下げていた。どこかで見た人だと思ったのだが、元マクドナルドの会長で業績を上げた人だ。業績の上がらないベネッセの社長になると報道されていたのを思い出した。こういう事件には必ず裏がある。全く何も知らないので分らないが、何か胡散臭い。大体ベネッセは各種イベントで情報集めをしていた。どうも情報を集めて何かをしようとしていたらしい。アンケートと称して、色々の会場に陣取って色々書いてもらう。特に家族ずれが集まる会場を狙っていたらしい。そしてちょっとしたお礼の景品を渡す。こういうときは、間違っても本当のことを書いてはならない。私の家なら、笹村雷田11歳男と書く。犬である。うちの奥さんなら、笹村リン14歳女と書く。猫である。住所は沖縄県今帰仁村と書く。一番好きな村だからだ。

個人情報がともかくお金になる。ベネッセが多額の費用をかけて家族情報を収集していたこと自体が、許されることなのかと思う。ベネッセが犯罪には使わないとは思うが、経営の為には必要と考えていた。これが流出したとたん、犯罪になるのだが、集めていたことだって、名簿業者とさして変わりのないことではないか。名簿業者というものがあって、日本に居るすべての人の、名簿が出来ていると取材に答えていた。確かに今の技術であれば、基本台帳を作り、出てくる情報を上載せしてゆけば、日本人全体の名簿を整理することは、不可能ではない。これに個人の消費行動や、乗り物の移動情報、等を加えてゆけば、私よりも、私の行動を詳しく情報の整理をしている組織が存在するということになる。そろそろ箱根の温泉旅行に行きたくなる人の一覧を出して下さい。等と言えばタチドコロニ出てくれば、その情報はお金になる。お金になるなら、そういうものを準備しようという業者が現われる。

今や顔認証技術で、業者の全国民一覧には顔写真もあるのかもしれない。私が今まで描きに行った写生地の一覧を季節別に、出してもらいたい。その時泊まった部屋の番号もついでに。等とお願いすれば出てくるようになるのかもしれない。どんどんそういうことが避けようがなくなってゆくのだろう。政府や行政や警察はどうだろうか。こうした情報整理をしていないのだろうか。たぶん、政府にとって不都合な人間の把握は掴んでいる可能性が高いと思う。出来るのにやらない訳が無いと思っている。デモ参加者の顔認証を行い、警察は掴んでいるだろう。特に問題のありそうな人間は、盗聴まで行っている。私は過去たぶんオウムと間違えられて、かなりのことまでやられた経験がある。農の会の田んぼはオウムの食糧基地だというデマまで流れたことがある。それ以来、隠すより、すべてをさらけ出す方がましだと考えるようになった。
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田んぼの中干し

2014-07-18 04:19:26 | 稲作


瀬戸内の島 10号 手前の点描の海の表面と、遠くの島影の実在感。絵ではこの違いは、筆触の違いになる。水である、島であるという意味はどこに行くのだろうか。





毎年であるが、田んぼの中干しを迷う時期である。やるとするなら1回目は始めていい時期だ。中干しの技術が整理されているのは、大規模稲作の場合である。自然栽培で行う場合は、干し田は田んぼごとに独自の観察が必要となる。自然栽培であれば、出来る限り中干しは行わないで行きたい。それが自然の理であるのだから。一番は茎数の確保ということが、自然栽培では大抵の場合この時点ではできない。平均して20本以下の茎数が普通である。私の20年の経験で、棚田の手植えでこれを越えたことはない。無効分げつを抑えるという中干しはいらない。茎数をどう確保するかが水管理の基本である。幸い水は地域全体で干されてしまうということが、久野ではないので、最後まで水を入れ続けることもできる。水が自由にならないところでは、自然栽培は難しい。稲という植物の野生の生育の姿を想像すると。河畔で芽を出し、水位が上がるに従って背丈を延ばし、徐々に水位が下がるのを待って、種を実らすものだ。そして冬の間は稲藁ごと河畔に横たわり、春を待つ。

自然栽培でも中干しが必要な時もある。土壌の状態次第なのだが、この判断が難しい。縦浸透の良い田んぼ土壌であれば、棚田にはそういうところが多いいのだが、土は秋まで酸欠になり腐敗方向に進むことは少ない。これも一般論である。田んぼに入り、何となく土壌が悪く、腐敗方向に進みそうなら水を抜く。土のにおい。あぶくの匂い。ズイ虫の発生などで判断する。そして最も重要な要素が、稲の倒伏との関係である。稲は畝どりを越えると、倒れる場合が増える。そこで稲の根元を固めて物理的に倒れにくくする必要がある。その為には相反する要素があるかと想像している。一つは根が最後まで生きていて、稲藁の軸がしっかりしていれば重い穂を支えられて、倒伏しないということだ。自然栽培では、稲の背丈が高くなる。本来の植物の資質が発揮されるために、背丈が伸びる。その分軸も太くなるので、がっちり大柄の稲ということになる。

以下は平均的な中干しの考えである。
font color="blue">●中干しの程度
(1)茎数の多い、葉色の濃い、排水の悪い、粘土質の田は、土面に1~2cm の割れ目が出来るまで干しこのままの状態を保ちます。極端に乾いて日中葉が巻くようであれば、いったん走り水をして再び干し、これを繰り返します。
(2)茎数の少ない、葉色の淡い、水保ちの悪い、砂質土の田には、土面に細かい割れ目が現れるまで干し、間断潅水(注)を繰り返します。
●中干しの終了
中干し期間は一般に2週間程度を標準としますが、生育の寂しい稲は期間が短く、過繁茂生育の稲は長く行います。以上のようにして、中干し終了後に1株20 本の太い茎を残すことを目標に水管理を調節します。
出穂の25 日前以降の水不足は穂の生育に影響が出るので、遅くともこの時期には中干しを終了して入水します。
一度に湛水状態にすると、酸化状態にあった根が、急激な酸素不足により根腐れする場合があるので2~3回走り水をした後湛水とするのがいいでしょう。
●中干し後の水管理
幼穂形成期から穂揃い期までは浅水管理、穂揃い期以降は7~10 日浅水管理後、1~2日落水管理の間断潅水が理想です。
注・間断潅水とは、田面に軽い亀裂が生じるまで干した後、入水および自然落水を繰り返すこと。これにより根に酸素供給し稲体の活力を保持させる。

3)有効分げつ決定期~穂首分化期
 この時期は,過剰な窒素吸収を抑え,遅発分げつを抑制し,病害抵抗性や耐倒伏性の強化を図るため,稲の体質改善と生育調節を行う上で重要となる。このため,目標茎数を確保したら,直ちに中干しに入る。中干しは上の効果だけでなく,地耐力を高め,機械作業能率を向上させる効果もある。中干しの程度は,田面に1cm以内の小ヒビが入る程度(足跡がつく程度)を基準とするが,稲わら施用田や生育過剰の水田では強めにし,生育量が充分に確保されていない水田では弱めにする。中干し終了後は,稲体の活力を低下させないために,水分と酸素を交互に供給する間断灌漑を行う。

4)穂首分化期~穂ばらみ期
 この時期は,幼穂の発育期に当たるため低温や干ばつなどの影響を受けやすい。また,梅雨明け後の気温の上昇によって土壌の還元化が進みやすいので,間断灌漑を行う。この期間(特に減数分裂期)は低温による不稔障害を最も受けやすい時期なので,低温が予想されるときは可能な限りの深水にして,幼穂を保護する(参照:図説東北の冷害「深水灌漑」)。

5)穂ばらみ期~開花期
 出穂直後の穂は物理的な損傷を受けやすく,体内の水分生理の乱れによって,開花・受精にも影響するので,水分補給を重視した湛水(花水)とする。

6)登熟期
 開花後は,間断灌漑を行い,分枝根の発生と伸長を促して,根の活力維持に努める。落水時期は機械収穫を考慮し,出穂後30日が目安とされているが,収量ならびに品質の向上のためには,落水時期は遅いほど良く,収穫日と土壌条件によって落水時期を決定する。


欠ノ上田んぼの平均的な出穂の時期は、8月21日である。これは決まりではないが、私の誕生日で覚えている。つまり出穂の出(いずる)ということである。ということは、7月28日までに干しをするなら、行う限界である。まだ、20本の係数確保が出来ていない。上記の2つの記述を較べても考え方に違いがある。慣行農法の中でも様々な干しに対する考えがある。土壌の還元化を防ぐために干しを行うのだとすれば、棚田では干しの意味は少ないと言える。根張りを良くするための干し、根際を固めるための干し。これが今年どの程度必要で、いつ行うのが適期なのか、まだ迷っている。
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羽鳥ダムに行ってきた。

2014-07-17 04:44:11 | 稲作


爪木崎 10号 面白い場所なのだが、なかなか描く位置がない。爪木崎は須崎御用邸のとなりにある。海の水が澄んでいる。あの透明感はこのあたりでは別格だと思う。





羽鳥ダムは江戸時代から切望された新田開発の夢の実現である。ようやく昭和30年になって着工された農業用のダムである。福島の大河阿武隈川が水量が少なく、新田開発には限界があった。日本海側に流れる、阿賀野川水系の鶴沼川にダムをつくり、太平洋側の阿武隈水系に流し入れ、矢吹ヶ原へ東流し太平洋側に流そうとするという広大な構想があった。明治時代に入り、猪苗代湖を水源とした安積疏水が1882年(明治15年)に完成し不毛の土地であった安積原野が開墾されたことから、阿賀野川水系を利用した新規農地開拓ガ勢いづく。同じく水源確保に難渋していた白河・矢吹地域への開拓を促進するため1941年(昭和16年)より国直轄事業として「国営白河矢吹開拓建設事業」が策定された。戦後の食糧難時代に、この構想を実現すべく着工され、昭和39年になって完成したものである。1500ヘクタールの新田開発が行われた。

ダムが完成してから、50年が経過した現状を見ておきたいと思った。一番の印象は放射能除染作業の続行である。すでに、白河市までの一帯の開発された水田は田植えが終わり、緑も色濃くなり始めていた。除染作業は至る所で行われている。復興事業ではあるのだろうし、仕事の創出にもなっている。こうして、人手不足が深刻化しているのかなど思った。このダムで潤された1500タールの田んぼが現在どれだけ継続されているかは分らないが、福島原発事故は、地域の何世代もの夢を汚してしまった。現在も田んぼのあちこちに除染された土壌が積み上げられている一角があった。これはあまりに見苦しい。美しい瑞穂の国にふさわしいものではない。ここで、田んぼをやっている人の気分も重いものだろう。現在では間違いなく、基準値を上回る様なお米はどの田んぼにもないはずである。最終処分場が50年先まで出来ないようでは、原発は止めるほか道はない。

大平地区では羽鳥ダムによって、出来た村ではないかと思われた。ダムのすぐ下にあった。そこにも区画整理された、田んぼがあったが、耕作されていなかった。この集落から白河方向にでる道に、トンネルを作ってほしいという、看板が立てられていた。トンネルが出来るまで、果たしてこの集落が維持されるのだろうか。原発事故がなかったとしても、東北の山奥の集落はどこも、限界的集落であろう。どのようにその集落が維持されるのかの展望がなければ、交通の便が良くなった所で、何も解決はしないだろう。羽鳥ダム周辺には、スキー場やゴルフ場、別荘地のリゾート開発が行われてきた。良い温泉もあるし、可能性は相当にあると思う。しかし、今のところ、開発の方向が時代に取り残されてきている。ありきたりで、古臭い気がした。果たして別荘地など売れているのだろうか。日本中で多くの別荘地やリゾートが、すでに陳腐化している。どのようにリゾートとしての新しい魅力が作れるのか、未来の社会を勘案して考えるべきだろう。

羽鳥ダムによって新田開発された農地が、今度は国際競争力の名のもとに、耕作できなくなろうとしている。コンクリートから人へ。それだけでないことを羽鳥ダムは示している。問題は、大きな方角を見据えたうえで、国土の整備が出来るかである。ひたすら植林した杉檜を、切り倒して自然林に戻そうとする。いずれも仕事があればそれでいいという、公共事業の地元の要望である。日本という国がどういう国になろうとするのかは、国民一人一人で違うのは当然である。しかし、日本人の良さを育んできた、稲作というものから、離れてはだめだと思う。IT産業であっても、宇宙開発であっても、その根底には、身体を使い食べ物を作るという、人間の生きる原点というものを忘れてはだめだなのではないか。稲作から培った日本人というものが、日本の文化を生み、経済でも世界でトップレベルの国に加われたのだ。今その根が弱り始めて、徐々に衰退の兆しがある。日本人は循環型の稲作農業を作り出し、永続性のある社会の基盤として、文化レベルを高めた所にその価値ある。
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