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スマート ステイ SIZUKU

2022-06-30 04:53:00 | 日帰り温泉


  スマート ステイ SIZUKUというところに泊まった。品川の大井町にあるサウナというか日帰り温泉である。日帰り温泉である上に、カプセルホテルが付いている。これは私向きのものだった。大井町に行ったのは中学生のころ以来だから、昔の様子も当然にない。

 浦島太郎状態であるが、中学生のころ自転車で何度か来たことがある。なんで来たのかは正確には覚えていないが、犬を見に来たのではないかと思う。あの頃愛犬の友を見ては、見たいイヌの広告があると、自転車であちこちへ出かけて行っていた。

 あの頃は松陰神社に住んでいた。山本先生の家が荏原町にあったから、先生の家まで何度かお伺いした。その時に大井町まで行ったかもしれない。恵原町辺りは大井町ほど変わってはいない。テレビで時々商店街が写されることがあるから様子がわかる。

 カプセルホテルと言うと眠れるかどうかという事だろうが。十分に眠れる。全く問題がない。回りで音がしているので眠れないというような繊細さはない。枕が変わろうが、布団が変わろうが何ともなく寝ている。特技というより体質かもしれない。

 若い頃とは違って、どうなったってたいしたことはないという気分がある。だから怖いとか不安とかいう感情はずいぶんすり減った。カプセルホテルのような設備であれば、寝るのには十二分である。避難所で寝たこともあるが、さすがにこれはダメだった。病院の付き添いで床で寝たこともあるが、これは大丈夫だった。

 何かおかしいようだがカプセルホテルは家でよりよく眠れる。スマート ステイ SIZUKUは大井町と上野にあるようだ。今度は都美館に行くときは上野の方に泊まればいい。すぐ予約を入れた。10分も歩けば、美術館まで行ける。弁当を買って、美術館に通えば、実に合理的だ。

 もちろん、都美術館の食堂で食べてもいいのだが、コロナ以来人込みでご飯は食べにくいのだ。まだ1,2年は昔のような気分にはもどれない。上野公園のベンチで食べれば安心である。外なら大抵の所が大丈夫だ。4回目のワクチンという事になるのだろうか。

 スマート ステイ SIZUKUは一泊何と2980円。10日泊しても3万円。これなら小田原から通うよりは安い。水彩人展開催期間は身体も楽だ。不安な電車に乗らないでも良い。その上になんとサウナに入れる。これが素晴らしい。

 スマート ステイ SIZUKUのサウナはどうだったかと言えば、合格点である。清潔という一番大切なところが確保されていた。満点ではないのは、サウナには6人しか入れないせまさにある。これで満員になっていない点にも驚いた。何故なのだろう。こういうサウナが沢山東京にはあるのだろうか。

 サウナ温度は100度越え。水風呂は14度。これはなかなかの熟達者向き。小田原で通うコロナの湯はサウナ90度。水風呂17度。最近若い人がサウナに行くようになって、肩身が少し緩くなった。昔は堂々とサウナに行くなど言えなかった。どこか情けなく恥ずかしい位のものだ。

 変わったのか若者が変えたのか。昔はほとんどが中年以上の肉体労働者中心に、筋肉疲労を回復させるために通っていた。私のような、やせこけた貧相な人間はめったにいないから、目立つぐらいだった。今は若い人ばかりだから、違う意味で目立つかもしれない。

 私流のサウナ利用法を書いておけば、とりあえず9分のサウナを3回。2分の水風呂を3回。先ず体を良く洗う。汚れた体でサウナに入れば迷惑。その前にメガネ腕時計はロッカーで外した方がいい。メガネのコーティングが剥がれた経験がある。時計はサウナで壊れた経験はないが。

 9分のサウナ法は3回に分けている。最初の3分が均しの3分。身体を熱い空気に成らす気持ち。次の3分が味わいの3分。暑さを味わい楽しむ3分。そして最後の3分がサウナの3分。この3分で汗を十分にかけないといけない。汗の出が悪いようなら、延長しての、治癒の3分。何か問題があるのだから、我慢して身体を直す3分。

 その間3回の水風呂に入る。水風呂は一回に200数える。かなり長い。みずがこれは17度ぐらいの場合だ。しずくでは水温が14度これは冷たいほうだろう。気持ちは良いが、じわじわと沈み込む。年寄りは飛び込まない方がいい。そのまま天国に飛び込む事になる。

 水風呂ではなぜか足が痛くなる。足がしびれるように痛くなってきて我慢できなくなり出る。余りいたいと歩けないのでその前につかまり立ちでよたよたと水風呂を出る。足元はどこのサウナも滑る。若者が相次いで飛び込んでくるので要注意。

 水風呂14度は200数えるのは無理だろう。2分ぐらいでもいい。しずくはサウナも高温である。100度越えだ。ここまで高いとびしっとして汗をかけていい。この温度だとどんな時でも汗をかける。十分汗をかけば、体調は悪くない。汗かくのは大切なことだ。100度越えだと治癒の3分は要らない。

 そして、サウナを出てハイボール2杯。泡盛はないから仕方がない。つまみはあぶったイカはないから、から揚げポテト。枝豆ぐらいで結構。これで眠くなったので、カプセルに入り込み熟睡。と言う前に寝入りばなに、眼薬を思い出して仕切り直し。良く思い出したものだ。

 翌朝も4時に目が覚めてしまうから、まずは寝床の中でブログを書いて終わったら、もう一度サウナに行く。これが最高の、ささやかなぜいたくである。9分のサウナ3回。2分の水風呂3回。夏は最後に体を冷やす水風呂に入らないと汗をかいて仕方がない。

 それから、着替えて、朝食。と思いきや大井町では朝食無し。上野は予約制であるようだ。サウナがあり、酒が飲めて、寝る場所がある。ささやかな理想郷だ。東京に行ったときには利用させていただきたい。こういうところは細かい要領が違う。

 例えば、しずくにはゴムマットがある。最近はコロナにもある。スポンジマットがあるのに使わないで入るのはいささか、問題となる。そこのサウナの仕来りのようなものもある。慣れるまでは戸惑うところがある。ついでに書いておけば、しずく出たところには外で食べて飲める中華屋がある。

 朝出るときに気づいた。夜ここで食べればよかったかとも思ったが、サウナを出て着替える気にはなれなかっただろう。酒は何でも構わないのだから、サウナのお酒で十分である。それにしても1杯目と2杯目で味が大分変わった。何故だろうか。
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小田原の農作業

2022-06-29 04:33:24 | あしがら農の会


 6月25日、大豆の会の播種が半分終わった、総生寺裏の1反の畑。参加者は20人を超えたぐらいの人数だった。その前に早朝、欠ノ上田んぼの畔の草刈りをした。それに続けて、マゴノ森の草刈りを行った。すでに大勢が始めていた。涼しい内にやった方が楽だ。

 それぞれがどんどんやっていた。なにしろ、渡部さんは数日前に一通りの草刈りを事前にしたというのだ。雨の不安があるのでということを言われていた。今日の為である。理屈ではなくそういう気持ちが重なって活動が支えられている。

 まごのりさんとはゆっくり話も出来なかったのだが、マゴノ森がきれいに管理できるようになったことは喜んでくれていると思う。草刈り仕事は皆慣れている。草刈り機はほぼ全員が持っての参加である。20台を超えた草刈り機が1時間動けば、広いマゴノ森も一気にきれいになった。

 今回は六日間の小田原だった。短期間だけ小田原に来ることに、慣れなければならない。次に7月に来るのも短期間である。短期間気分転換に来るくらいの気持ちでいないいけないと思っている。もう少し小田原で作業がしたいがそれも出来ない。水彩人展のある9月は、1か月ぐらい小田原暮らしになる。水牛のことも心配になる。

 石垣ののぼたん農園も心配だし。なかなか十分なことはできないが、みんなにお世話になっている2地域居住なのだ。出来るだけこの体制で長く続けたいと思っている。私の役割もほとんど無くなってきた小田原生活だが、もう少し面倒を見てもらうしかない。まだ、幾らかは役に立てることもあるだろう。

 それにしても、家を管理してくれている渡部さんにはお世話になるばかりだ。今回も随分世話になった。それに見合うだけのことは到底お返しできていない訳だが、渡部さんにお世話になっている分を、のぼたん農園でお返しするほかない。

 のぼたん農園を自給農業の修学院離宮にすることが目的地だ。日本も世界も、転覆しかかっている。そんな警告をいくら発したところでもう無駄なような気がしている。しがみ付きたい人たちは不安が増して、強権を望む事になる。この先、政治は悪いところに落ち組んでゆく公算がつよい。

 ささやかなことでも、できることをやるほかない。私にあるのは自給農業の技術だ。たぶん経験のない人が、楽をしてお米を沢山とる技術は誰よりもあるつもりだ。これを伝えて役立ててもらう場を作るのが私の役割だと思う。まだまま船出したばかりの、のぼたん農園は方角は定まらない。なんとか形が定まるまでやり切りたい。

 と言っても体が動く間という期限がある。いつ病気になるかもしれない。何しろもうすぐ73歳である。それでもあと4年半頑張れるつもりだ。役割を全うするまでは、病気にもなれない。毎朝禅体操をして、身体を維持するつもりだ。

 今回の小田原ではまず、24日の夜に田中康介さんお通夜。これは悲しいお通夜だった。同志を失ったのは苦しい。康介さん本人が一番無念なことだったと思う。微力ではあるが遺志は引き継ぐつもりだ。康介さんのようには行くわけもないが、一緒に作った舟原ため池は必ずやり遂げる。

 最後にお会いして一緒に作業できたのも、溜池の草刈り作業だった。もうあの時は辛かったのだろう。長い闘病生活だったが、余りみんなに会いたくなさそうだった。それで私も会いに行かなかった。今思えば無遠慮でも会いに行きたかったが、そういう人だというのが、私の田中康介さんという人の理解だったので抑えた。

 思い出せば、欠ノ上田んぼを作ったのも康介さんのお陰である。自治会長の山口さんに繋いでくれたのも田中さんだった。田中さんの尽力がなければ進まなかった。地域の人が地域のために頑張ると、地域が動き出すという姿を見せてくれた。小田原という伝統の深い地域の中で、百姓として地域のことを動かすという事をやり抜いた人だった。

 私のようなよそ者にはわからない大変さがあったに違いないと思う。そういう事は決して口にする人ではなかった。強い人だったのだと思う。私を久野に惹きつけてくれた、久野の環境を守る会の人たちも、少しづつ亡くなられている。さよならだけが人生かとしみじみ。

 26日は田んぼの畔の草刈りは、朝の涼しい内でなければやれないほどの暑い日だった。引き続きマゴノ森で草刈りをしたことになる。欠ノ上田んぼは良い状態だった。コロガシが徹底して行われていて、草が少ない見事な状態。過去にないほどの見事な水管理。コロガシをしたり、草刈りをしたりしながら、田んぼに入ると田んぼが良く分かる。

 一本植えの苗が、開帳型の分げつを初めていて、見事な成長ぶりである。直播田んぼも悪くない。この後直蒔きがどうなってゆくのか興味深いものがある。小田原と石垣で並行して試せることはとても参考になる。直播の部分と田植えした部分の違いを見ると、直播は滞りのないという事がわかる。但し蒔き過ぎがどう悪影響になるか気になる。

 田んぼのころがしは26日午後の作業になった。午前中は田んぼの畔の強化だった。9番田んぼの草とりも少しやった。中に入ってみると小さいコナギがあった。小田原の田んぼの畔と石垣の畔は全く違うと思った。畔管理は小田原は大変な作業になる。

 コロガシは柿の下のAたんぼ。田んぼには入ってみなければわからない。その意味で、入って転がすと状態がわかる。まだ柿の下の土壌は十分な田んぼ土壌になっていない。土に粘りが少ない。それでも分げつは良くしている。ここまでは順調である。



 28日の午前中は舟原溜池の草刈りである。一ヵ月の間にかなり草が伸びている。毎月草刈りというのも大変であるが、これだけは何としてもやらせてもらう。溜池もだいぶ良くなってきたのだから、もう一息である。廣川さんも来てくれて、渡部さんと3人で2時間ほどで終わった。

 溜池の南東の角辺りに水漏れがある。これを塞がなければ下の溜池には水が溜まらない。石垣の水漏れを止めるのは大変なので、その手前に土を積んで作業道を作ってしまうのが水漏れを止めるには一番良いと思わる。この冬の作業だ。

 28日の午後になったが、玉ねぎ、ジャガイモを石垣へ送った。醤油味噌も石垣に送らなければならならなかった。玉ねぎは確かに一年分の365個以上ある。ジャガイモは段ボール人1箱だけの20キロぐらい。ジャガイモはそれなりには出来が、今年は量がもう一つであったが、面積も狭かった。

 短期間の小田原だったが、それなりに充実していた。田んぼの様子が良かったのが何よりである。来月ん10日ごろには田んぼ観測会をやる必要があるだろう。残念ながら今年は参加できない。梅雨がほとんどなかったという事で、イネはこのあと良くなるのではないだろうか。


 
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農協に入るべきか

2022-06-28 04:42:06 | 暮らし


 農協は新規就農者としては、加入を迷うものである。農協の方でも、加盟の許可を迷うものである。私は現在JA西湘の正会員である。小田原に引っ越す前はあしがら農協の正会員であった。小田原に越してすぐに農協に入れてもらえることはなかった。

  そもそも論から考えれば、農業者は協同組合を作り、自営業者である農家の経済を増進し、連帯して農家の自立を守る必要がある。ところが、そうした共同の原点からかけ離れたところに来てしまっているのが、現状の農協である。

 その為に農業者が入るべき農協が見当たらないことになっているのだ。それならば、新たに自分たちで正しい本来の目的に沿った協同組合を作らなければならないという事にはなるのだが、そんな動くはどこにもない。むしろ、新規就農者の販売先は農協以外という事なのだろう。

 小田原に越したとき、何故か農業委員会から拒絶されて、農家にはさせないと言うことになった。何故隣町の山北町の農業者が小田原では農業者になれないのか。意味不明なことであった。それぐらい小田原というか、当時の農業者の世界は閉じた、農業の未来を見ていないものであったという一例である。

 その理由は農業者であるという事が、特権だと思い込んでいたのだと思われる。特権といえるようなものはどこにもない。にもかかわらず、農業者自身が、農業者であることには、何か守らなければならない特権と言えるようなものが存在すると空想していたのだ。

 だから、新規に農業者になることを希望する者に対して、その特権をかすめ取られたくないので、受け入れたくないという心理が働いていた。理解しがたい心理なのだが、この特権意識が存在した残りかすのような物は、今現在も違った形で継続されている。

 この農業者の特権というアリもしないものが、なぜか日本の農業者保守勢力を形成する一つの縁にもなってきた。団結の旗印のような、何もないのだが、何かあるごとき、団結のための約束事のようになっていた。それもさすがにもう文字が読めない程に薄れてきて、何だったのか忘れられかけている。

 たぶんその特権は農地にまつわる、歴史的な意識に関係したものだろう。農地が資産である。いつか値上がりする。その恩恵を農業者だけが、享受できるという事なのだろう。農地法で規制されている農地の転用という事にもまつわることである。

 農地が値上がりしない、農地を所有していることがむしろ負担になってしまった時代になっても、農業者の中にはいまだに残存している。それは、小作していた農地が進駐軍のお陰で解放され、棚ぼたのように自分のものになったという経験も影響している。もちろん小作人制度はおかしかったのだが。

 すでに隣町で農業者である私を、理由なく小田原市の農業委員会で受け入れないとすれば、それは人権侵害であると小田原市農業委員会に注意勧告が行われた。山北の開墾した農地を小田原の農業委員会の人が大勢で見に来たうえで私を入れないと決定したのだ。

 小田原の農地を借りたいので困っていた。資料を持って横浜の県の農業会議に相談しにいった結果、小田原の農業委員会に注意勧告をしてくれたのだ。もし、このまま農業者にしないのであれば、農業委員会が人権侵害で訴えられれば、敗訴することになると言われたのだ。それで、やっとこさ小田原の農家になった。

 農家にならなければ、農地の貸借が出来ないから、とてもやっかいなことになる。本音としては、よそ者に小田原の農地を使ってもらいたくないという気持ちだったのだろう。こういう意識は今にしてみれば信じがたいものだが、根強く残っていたのだ。

 すでに農地は借り手よりも貸し手の方が多い時代になっていたのだが、やはり、よそ者に農地を貸すというのは、農家としては不安で出来ないと言うところがある。親戚やら同級生ならいいが、どこの馬の骨ともわからない奴に貸すわけにはいかない。だからよそ者が農業者になることを認めない。今でも地域農業委員の推薦が条件になっている。

 農協の方は別段入りたいと言うこともなかったのだが、農協に口座は作る必要があった。準会員という事にまずなった。正会員になるにはどうしたら良いですかとお聞きした。すると、農協は一応地域単位で動いているので、地域の農業者組織にまず入って頂いて、と言うことになっている。と言われた。

 地域の農業者の組織に行ってそこに入れて貰って下さいというと言うことだった。そこで舟原地域の農業者の集まりに聞いてみたところ、ヨソ者は入れないという感じで拒否された。どうしても入りたいと言うことでもなかったので、入らないでそのままにしていた。正直地域に農業者と呼べるような専業農家はなかった。それでも何かを守っている気持があったのだろう。

 7,8年経った頃、突然農協から連絡があり、私が地域農業者になったという連絡があった。まったく身に覚えがなかった。どうも、地域農協役員の引き受け手もいない状況になっていた。専業の農業者もいないのだから当然のことだろう。そこで農業を実際にやっている私の名前がどこかで出たのだろう。

 それを拒否するのも嫌だったので、その時にJA西湘の正会員になり、今も正会員を続けている。JAの役員というのも当然すぐまわってきた。任期の2年間農協の会議に出席させて貰い、総会にも出た。いったいJAはどのような力学で動いているのか、今もって想像も出来ない。

 JA西湘は学校給食に米飯給食を増やせと要求している。私は農協とは別に、地域のお米を地域の学校が食べるようにしよう、という活動をしていたので、いっしょにやりませんかと相談に伺ったことがある。

 ところがこれがあだとなり、JAとの関係はあちこちで悪評を流されるほど悪化した。原因は不明であるが、同じ要求であっても筋が違うと言うことか。自民党としての建前の要求。共産党の要求する真っ当な要求とは、意味が違うという事らしい。背景には利権が絡んでいるという事らしいと後に理解した。公明正大な要求とも違うようだった。

 いったいJAとはどういう組織なのかと常々考えてきた。本来であれば、農業者の集まりである。農業者が共同出荷したり、共同購入する組織である。ところが農協に出荷していたのでは、経営が成り立たない。それに加えて農協の販売品は同じものでもホームセンターよりかなり高い。農協の共同購入制度が生きていない。

 結局農協は農業者から離れてしまっている。しかし、石垣島の状態についてはまったく知らない。農協の売店にしか売られていない農業用資材がある。農協の販売所である、農協のゆらてぃーく市場では良く買い物をする。カードがある法が便利なので、農協に口座はある。特に会員と言うことはない。もしかしたら、準会員というような立場があるのかも知れない。

 JA八重山にイネの種籾をお願いした、ミルキーサマーという品種である。沖縄県の奨励品種だからだ。ところが扱いませんと言うことだった。つまりミルキーサマーを作ってもJA石垣は買い取りませんと言うことなのだろう。奨励品種をそういう扱いにしている農協も珍しくないだろうか。

 石垣島では農業は主要な産業であるから、農協は島の経済にも貢献が大きいはずだ。農協の稲作部会長の方を紹介して貰い、農地を借りるお願いで何度かお会いした。農地の紹介はして貰えなかったが、その方の田んぼを見ると、とても好きで田んぼをされていると言うことが分かった。田んぼが美しい。それで十分という事のようだ。

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抵抗者の思想

2022-06-27 04:13:04 | 暮らし


 権力には必ず抵抗しなければならない。何でもいいからまずは文句を言って嫌われなければならない。権力に好かれてしまえばお仕舞いだ。腹を立ててたてつくことだ。尻を捲って、屁を放って尻すぼめるだ。理由は要らない。先ずは権力から距離を持つことだ。

 権力は常に腐敗する。権力であるために常に腐敗を続けている。それはどれほど善意の権力でも、少しも、何ら変わらない。何故なら、腐敗するのが権力の本質だからだ。腐敗しない権力を目指せば、目指せないことはないだろうが、まずもってそれでは権力にならない。

 だから、権力に近づこうとしてはならない。当然すぎることだが、人間として生きるものは、権力者にはあらゆる場面で遠ざかるっていなければならない。腐敗する権力を正してゆく抵抗勢力がない社会は、自由の失われた独裁権力の存在する社会だ。

 いま世界は独裁者の世界になりつつある。思想で国家統一を求めるのではなく。個人崇拝で国家を率いてもらおうという潮流である。独裁者の存在が競争に有利だからだ。社長が有能で独裁的な会社の方が、民主的な会社よりも競争に勝つというのではないだろうか。

 少なくとも、国家資本主義の方が、日本よりもまともな経済運営をしている。日本では長い間アベノミクスという経済指針出来たが、その間衰退の道を歩んで、ついに先進国から脱落をした。中堅国家としてやり直そうという場面にある。

 アベノミクスがだめだったのか。日本人全体がだめになったのかはよくわからないが、政治に権力者がだめだったことは確かだ。一番のひどさはこの失敗としか言えないアベノミクスをいまだに成功だとしか言えない日本の政権党の姿である。

 日本では安倍に対して造反して新政権が出来るという事がない。スガ氏などはまるで、番頭が社長になったようなことだったが、たちまち交代させられた。造反したかに見えた岸田氏などは造反どころか、今やアベ氏にお伺いを立てて、言いなり政治である。

 権力は腐敗する。少なくとも前政権を批判して自分の路線を打ち立てるだけの人材が自民党内部には居ないのか。自民党内部に路線争いはないのか。忖度人間ばかりなのか。そういう事なのだ。造反有理の人間は自民党には近づくわけもない。

 反対意見がない正義などあり得ない。どれほど正義が強調されようが、必ず正義には当たらない反対意見はある。そのことを忘れてはならない。プーチンの侵略戦争はまさに権力の暴行だ。それに抵抗できないロシアの悲しい現実。

 ウクライナの反撃も、代理戦争化してしまい。ウクライナ人が殺され続けている。原因はロシアにあるとしても何かがおかしい。おかしくない権力にウクライナをさせてはならない。おかしくないのであれば、戦争にはならなかった。プーチンの異常さを察知しなければならなかった。

 日本でも最悪の権力者だったアベ氏はプーチンと友人だと強調していた。プーチンから北方領土を返してもらおうとして、何度も交渉した。シベリア開発も協力をした。そして、何もプーチンと交渉できていなかったことが今回証明された。あの交渉がいかに馬鹿げたものであったのかを説明してもらおうではないか。

 抵抗は理屈ではなく、社会にはなければならない思想のことだと思う。どれほどの善人であれ、権力者になれば、悪人になる。悪人としてしか権力者ではいられない。見てみることだ。この世に権力者がうじゃうじゃ蠢いている。善人のつもりの権力者が、どれほどたちの悪いものか。

 精いっぱい努力をして、頑張っている権力者を批判しなければならない。頑張って成果を上げられない権力者を批判しなければならない。造反有理だ。紅衛兵はどこにいったのだ。

 習近平氏は文化大革命で父は権力者だったが16年投獄された。妹は飢餓によって死んだ。自らは地方に下放した。毛沢東主義の子供として、極貧から権力者にまで上り詰める。どれほど有能で、優秀なのかと思う。主張は正しい。しかしやることは、極端な独裁主義だ。毛沢東の上をゆく締め付けを行う。

 にもかかわらず毛沢東主義を掲げて、中国の独裁者になり、皇帝になろうとしている。権力は腐敗するという事だろう。毛沢東だって腐敗した。習近平は毛沢東の主張した造反有理をどのように理解しているのだろうか。そもそも毛沢東主義を本当に理解できているのだろうか。どれほど屈折しているのだろうか。

 人間には生きる限り批判し抵抗を続けることが求められている。連帯を求める余り、批判勢力内部が権力化することも、同時に許しては成らない。「連帯を求めて孤立を恐れず」 全共闘のスローガンである。美術部の部室の壁にも大きく書かれていた。

 あの時が境目だった。時代から抵抗勢力が消えた。反権力に生きるものがどこかに沈殿した。遅蒔きながら、今からでもバラ蒔きでもいいから、抵抗を続けよう。七無斎ではないが、可愛がられて死ぬよりましだ。善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。親鸞にはこの辺のことが良く良く分かっていた。

 この言葉はあまりに逆説的で様々に解釈されている。これは反権力に生きた親鸞らしい言葉だと思う。善人として生きるような人間は、権力におもねる忖度人間だ。嫌われて生きる悪人こそ本当に、自分というものを生きようとしているという考えではないか。

 自分というものに、まさに向き合えば、人と折り合いというものは無くなる。困りものの悪人の存在である。悪人である自分をまずは認めることからしか始まらない。自分を善人だと考えるような偽善者では往生は出来ない。

 自分に生きようとするものは、誰とも妥協しないでもいい。悪人たれ。悪人こそ本当の道を歩めるのだ。そういう事の実際が絵の中ではできる。悪人である自分というものはどこにあるか。これを探す絵のおもしろさ。

 自らを悪人と自覚するものはその悪を抑えることが出来る。自らを善人だと思い込んだ権力者ほど始末に悪いものはない。良いことをやっているんだと暴虐を続ける。弾圧を正義の為だと平然と続ける。権力とはそういう人間を腐敗させるものだ。


 
 
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第114回 水彩画 日曜展示

2022-06-26 04:00:31 | 水彩画
第114回 水彩画 日曜展示

今回も中判全紙です。






777「夜のイモリ池」
2022.6







778「のぼたん農園」
2022.6







779「境川村藤垈」
2022.6






780「琉球松」
2022.6







781「和歌山の漁港」
2022.6






782「のぼたん農園」
2022.6







783「西表島」
2022.6



  絵を描くことが面白くなっている。絵は始めたころから面白かったのだが、ますますその面白さが分かるようになった。絵は下手は下手なりに絵になる所がとくに良い。上手は絵の外というところがだんだん理化できるようになって、面白いようだ。

上手が絵の外に行ってしまうのは、上手い絵というのは一通りのもので、下手な絵は実に多様だからではないだろうか。上手く描けなくてよかったと負け惜しみでなく思っている。見本通りなぞるという事が出来ないのが下手である。下手は見本を見て描いても、とんでもない絵を作り出してしまう。

 上手いが困るのは思い通りに出来てしまうからだ。これは絵においてはどうしようもないというのが面白い。おととい、宮本三郎氏の若い頃の絵を見た。これが何とも上手である。下手風にさえ上手に絵を作り上げていた。こうなるともう宮本三郎はどこにもいない。絵は不思議なものだ。下手だから自由になれるという素晴らしい方法だ。


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石垣島の風の名前を覚えよう

2022-06-25 05:47:53 | 楽観農園


 石垣島では梅雨が明けると、海の方から南風が吹き始めた。田んぼの上を飛ばしている。凧の向きが逆向きになった。しばらく前から、風向きが動き始めていた。それが梅雨が明けると、一定し吹き続ける強い南風になった。

 カーチバイと呼ばれる風だ。夏至の日から吹き始める風という事らしい。風と季節の変化が結びついている。田んぼをやっていると、この風の影響が強いので、日々気にしている、湿度が普通に70%以上あるのだから、風に救われているともいえる。

 一年の半分以上が熱帯夜である。暑いので暮らせないと小田原に居たころ、石垣島から戻ってきた友人がいる。確かに石垣島でクーラーのない暮らしは難しいと思う。この時期からは寝るときにはいつもクーラーをつけたままである。

 それが風の通る家では、夏だって寒いくらいだという。それくらい風がとおり抜ける家でないと居られない。アトリエカーは風が抜ける。窓を両側明ければ、ほとんど外のように風が吹き抜ける。絵を描いているときに、暑いという事がない。

 炎天下に車を止めて絵を描いている。車の中が大変な温度になりそうなものだが、大体外気温程度である。高くて34度である。そして風が吹き続けているから、暑くはないのだ。風のお陰様。快適に絵を描いている。

 ただこれだけ風に吹かれていながら描く絵は少し様子は変わるのではないかと思っている。目の前のものがすべて風に揺れている。そして、影がない。根風景を見続けていると、どこか落ち着かないものがある。気持ちが変わる。それが絵に出ないとは思えない。

 有難いことに、のぼたん農園ではイネに病気がほとんど出なかった。新しい田んぼという事もあるが、風が吹き抜けているという事で空気が淀まない。いつも雨に打たれていて、湿度がこれほど高いのに、イネに病気が出ない。風と上手く付きあって行くことが大切なようだ。

 病気が出ないもう一つの理由はバンカープランツではないかと思っている。回りに様々な植物がある。一律イネというところとは違う。回りが広い畔になっているというのは、防風林もそうだが、イネに病気を出さないという事にもなる。

 ハイビスカスは防風林として植えたがまだ小さい。ハイビスカスが成長するまでの間は、向日葵とソルゴーで腐食を増やしながら、防風効果を期待したいと考えている。ソルゴーは蒔いて3日目に発芽した。上手く成長しそうで期待している。

 風と言えば台風である。7月3日が次の稲刈りなのだが、何とかそれまで台風に来てもらいたくない。その次のイネは8月初めという事になるひとめぼれである。これは台風覚悟に遅く植え付けた。早く始めた1月初めの浸種のイネは台風を逃れてもらいたい。

 そしてどうもこの種まきの時期が稲の成長にかなり影響がありそうである。同じ品種でも1か月時期がずれると生育が変わる。まだ印象としてしかわからないが、6月天気が回復してからのイネの成長が目覚ましいものがあった。

 5月6月と悪天候であった。それでも6月に強い光が短時間だが当たった。雨は降るのだが、短い強い日照がある。この短時間の強い日照がイネを復活させた。丁度穂肥を与えたころからである。イネが再度成長を始めた。

 それから分げつが増え始めた。普通であれば無効分げつになる。ところが結果的にこの分げつから出た穂が、立派な穂になっている。まだ青いのだが、100粒は超えている立派な穂になった。だから大きな株は30本越えの穂が付いている。

 5番田んぼは途中で鴨と、イノシシにやられた。それは対策をして防いだのだが、何とも寂しい状態のイネになっていた。6番が砂地の田んぼという事がある。もうこれはどうしようもないと思っていたところ、5月あたりから回復を始めて、今はそこそこ取れる田んぼに戻っている。

 6番は後から出た穂がまだ青いので、これが色ずくまでは稲刈りはしないで置いた方がいいだろう。少し先に延ばせば、7,8俵は採れる田んぼになりそうだ。2,3,4番田んぼは畝取りも出来るのではないかという状態まで来た。

 稲刈りが楽しみになってきた。とよめきで心配だったのは、味のことであるが、先日少しだけ精米して食べてみた。これが意外においしいのだ。私の好みという事もあるかもしれないが、さっぱり系の味わいのあるお米だった。これを玄米で食べるとかなり美味しいお米と言えるかもしれない。

 有機農業向きのお米かもしれない。もう少し作り続けなければわからないことだが、私には十分なお米に出会えたという気がしている。籾摺りが出来るのは最後のひとめぼれの収穫が終わってからなので、まだ1か月以上ある。可能であれば、一袋だけ籾摺りをさせて貰いたいところだ。

 以下沢山の風の名前を拾い出した忘れないようにここに残しておく。

ニシカジ 北風トゥラヌファカジ(東風)な アーリーカジ
クチカジ・クチブキで、「クチ」は「コチ(東風)」
「午の方位の風」を意味するンマヌハカジ南東風  
ハイカジ・ハイヌカ ジ類 
イリカジ西風
南西風では八重山地方でのサンヌパカジ 
北西風 八重山地方でのニヌパカジ・ニヌフリカジ。 
旧暦 2 月頃に発生する暴風であ る「ニガチカジマーイ」 
4 月に吹く「シガチフキアゲ」
西風に変化し、最終的に強い北風のイーカジに変化する、時計回りのイーカジマーイ 
東をアガリ、西をイリ、南をフェー、北をニシと言う地域 
北東がトゥラヌファカジ(トゥラヌワカンジ)、南東 にンマヌファカジ(ンマヌワカンジ)、南西にサンヌパカジ(サンヌワカンジ)、北西にニヌパカジ (ニーヌワカンジ)という、十二支の語を持っている。 
夏至南風(沖:カーチーベー、宮・八:カーチバイ)、
新北風(沖:ミーニシ、宮・八:ミーニス)(後略)」など 
カジヌナー(風の名)。ニングヮチカジマーイ(二月風廻り)
四月に来る風をフサーギといい、急に天候が悪化して台風状態になる。これは波を伴う。
五月に吹く風をヘーフキ(南風吹き)
種子取南風(タントゥイベー)、歳暮南風(シーブバイ)、星昼間の南風(プスプローマヌパイカジ)、二月風廻り(ニングヮツィカジマーイ)、うりずん南風、穀雨南風(ククウベー)、白鳥北風(スストゥイニス)、芒種南風(ボースーベー)、夏至南風(カーチーベー)、悪風(ヤナカジ)、涼風(シダカジ)な
梅雨どきの初めに吹く風を“黒南風”(くるふぇー) 
梅雨明けの6月中旬ころに吹く風を“白南風”(しるふぇー)


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大豆の植え付け

2022-06-24 04:55:39 | 楽観農園
 
 
 大豆は防風土手の間の谷底に植え付けた。1m幅の平らなベットがある。脇の溝には水が流れている。水は田んぼから染み出てきている。溜まっている状態だが田んぼに水がある間は、この場所は水がなくなると言うこともないようだ。ベットも水でしめっていてぐずぐずしている。

 上の田んぼの水を調整すると、大豆の湿り具合も調整できる。石垣の土壌は乾けばコチコチになってしまうから、このやり方で土壌の硬さの調整が出来るのではないかと思っている。腐食が増えてくれば、状態が良くなると思うのだが。

 ベット半分には大豆の種を苗箱に蒔いた6月19日に、作った堆肥を入れて、混ぜておいた。半分は何も入れてない。成長がどう違うのだろうかと思う。大豆苗は上手く出来た。水遣りが難しいのだが、注意深くやった。雨が結構降ったという御陰もある。

 不思議なもので雨は降り続いたところで大豆の種は腐ることがない。ところが、水遣りはよく乾いてからやらなければ、大豆の種は腐ってしまう。今回苗箱1個に平均60本の苗として、5箱で300本の苗を作ったことになる。

 苗箱の土は1ヶ月ほど前に、堆肥と混ぜて寝かしておいたものである。肥料当たりはなかった。順調な苗になった。苗は本葉が出たところで芽を摘んでおいた。それが、2分けつした芽が出た辺りの大きさの苗である。



 6月19日大豆の苗の植え付けを行った。白っぽく見えるのは籾殻である。中川さんが貰ってきてくれた。のぼたん農園で作物を作ることは、イネ以外では難しいと考えている。イネは水というものが介在している。様々な条件が水によって緩和される。

 しかし大豆を始め様々な作物は、石垣島の特別な気候と特別な土壌に影響されると思う。これからのぼたん農園では、作れる作物を探して行こうと思っている。先ずは土壌の改善をしてゆく過程での試験栽培と言うことになる。

 大豆は苗箱に大豆を6月11日に蒔いて育てていた。苗は意外に順調に出来た。大豆はいつも上手くゆかないで苦労しているので、かなり難しい作物だ。品種は小糸在来。小田原で自家採種して作っている品種だ。家の脇の畑で採れたものである。

 在来種の大豆はそもそも土地を選ぶ。千葉県の小糸川周辺の大豆は小田原では作れるようになった。余りに条件の違う石垣島でうまく出来るとも思えないのだが。この大豆が際立って美味しいので、出来ればこれを作りたいと思っている。

 石垣島に大豆が無いかというわけではない。宮古在来種の大豆を作られている方がおられる。これは土壌や気候に適合しているのだと思う。しかし、ツル大豆なのだ。ツル大豆は一度に収穫するものではない。サヤエンドウのように次々実ができる。

 収穫時期がバラバラになる。ほっておけば、はじけて落ちてしまう。収穫に余りに手間がかかる。味噌、醤油、納豆、豆腐と自給用に作るには難しいものになる。1年分となる。二十㎏ぐらいは必要になる。10人分となると200㎏の大豆。2反みっちりと作らなくては無理だ。

 何とか小糸在来種を作りたいと6月11日に播種した。大豆は水遣りが難しいところがあるが、旨く乗り切った。雨はいくらでも当たってかまわないのだが、水遣りで濡らし続けると、腐ってしまう。雨水の良さは溶存酸素だと考えている。

 本葉が出たところで、芽を摘んでおいた。その結果二本に分ゲツする。そのタイミングが19日で植え付けを行った。大豆のベットは谷底の水たまりの脇である。1m幅30mある。ここに300本を植えた。30センチ角に一本。

 同じ条件の場所が、後三つある。何か試しに植えたいと思っている。本来果樹の苗が植えられる場所なのだが、果樹の苗の植え付けは来年の2月が良いと言うことになっているので、それまで開けておくより何かを試験的に作る方が良い。

 玉ねぎは9月から11月頃が適期らしい。適期らしいと言うだけで、まだ見当も付かない。九月に種まきして苗作り。11月中旬以降に苗の植え付け。玉ねぎの苗販売を余り見ないので、苗は自分で作らなければならないのだろう。

 ジャガイモは10月から12月。9月下旬ごろに畑を耕しながら牛ふん堆肥や有機肥料を散布し漉き込む。今からソルゴーを蒔いてそれを漉き込むのが良いだろう。10月下旬には種芋を購入して畑に植え付け。じゃがいもは作っているのを見たことはあるが、やはり苦労しているようだ。

 ジャガイモの品種は「ニシユタカ」が石垣向きとある。長崎の農業試験場で暖地向きに品種改良されたもの。水はけの良い土壌が良いとある。高い畝にして作ると言うことかもしれない。のぼたん農園の土壌は余り向いているとは思えない。唯一一番下の畑が赤土なので、候補地になりそうだ。

 小麦はどうだろうか。秋まきだとするとやはり11月ぐらいに蒔くのだろうか。本来小麦は気候的には難しいと思われる。それでも合う品種はあるはずだ。本島ではパン小麦を作っている人がいるようだ。先ずは適期を見付けてと言うことになるが、まずは11月になったら播種してみたい。

 こうなるとなかなか秋も楽しそうだ。あれこれ蒔くだけでも試したい。サツマイモは出来るのだろうが、サツマイモの苗をネットで購入した。薩摩はあまり時期を選ばないから、ともかく植えてみるつもりだ。ポットから芽出しをして、苗を採るものらしい。試してみることにしたい。

 紫芋は石垣で作られている人がいるので、芋を分けて頂き、芋から苗を作ってみたい。サツマイモなら余り時期を選ばず出来るのではないかと思う。サツマイモは水はけの良いところが良いから、防風土手の斜面に挿し芽をしたら良いだろう。

 畑の候補地は緑肥を育て、先ずは腐食を増やすことだろう。早めにソルゴーを蒔いて起きたいと思う。トラックターが戻ってこないので、進められないのだが、溜め池上の畑にもソルゴーを蒔いて土壌改善からやらなければならない。のボタン農園では、まだ畑の作物を作れるような土壌ではない。

 
 
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絵画が行いであるとはどういうことか。

2022-06-23 04:01:36 | 水彩画


  絵のことをあれこれ考えている。引き続き 絵画は行いになったと考えていることや、行いについてさらに考えてみたい。と言って考えに当てがあるわけではないので、おかしな文章になりそうな気がするが。それでも絵が行いであると言うことから始まっているので。

 絵画はそれぞれの個人が生きる証を求めて、画面に記しているものである。絵画によって変化をし続ける人間存在を探すよすがにしようと言うことである。絵画は人間の変化の一断面を反映したものであることは、間違いがないだろう。

 只管打坐と道元禅師が言われたように、只管打画という意味ではないだろうか。何かを求めて座禅をするのではなく、座禅をするために座禅をする。これが道元禅師の一歩進めた生き方に対する考え。素晴らしい発想の転換だと思っている。

 絵を描くと言うことで良い絵ができると言うことが目的ではなく、描くという行為自体に意味を求める。何か結果を求めて、描くというのではなく、ただ描くために描く絵画。それが絵画が行いになったと言うことかもしれない。

 絵画することで生きる手応えを持つ。生きているという真相が描くという行為によって、明確になると言うことだろう。生きて変化し続ける自分を確認したいという思いがある。それは生まれてきて死んで行く人間。それを明確にするのが一つの目的だからだ。

 千日回峰行や座禅修行が何か結果を求めて行う行為や修行ではないように、絵画も結果を求める行為ではなくなった。自分の生き方として絵を描くと言うことになる。絵を描くという手応えが自分の生きるという手応えであればそれでいいと言うことだろう。

 行為に対して結果を求めない。行為そのものの充実に生きる。これが絵画が行為になるという意味なのだ。しかしそれは言うがやすし、行うはかたし。その行いの結果としての絵画は、行いの断面を見せているだろうと言うことになる。

 現状では自分の絵画が、行いと言いきれるまで徹底できているとも思えない。徹底したいともがいていると言うぐらいのことだ。たぶん死ぬまでそんなものかもしれない。しかし、今現在、絵を描くと言うことには日々の充実はある。もう少しやればとは思う。あがきかも知れないが、期待はある。

 絵はその点恐ろしいものだ。自分には何のごまかしもきかない。だめになればだめなのだ。本気の精一杯のものでなくなればすぐに分かる物だ。この絵という断面があれば、自分のひたすらさが量られることになる。生涯ひたすらに日々を生きるための、証として絵がある。

 これは只管打坐に生きることが出来ない情けなさなのかも知れない。情けないからと言って諦める訳にいかないのが、日々の自分のことである。自分なりのやり方で、自分なりの行いで、自分を見極めたいと言うことだ。

 これは大きくは間違いではないように思う。その行い意味を世間にも公開するという意味で、水彩画の日曜展示を始めた。日々一枚の絵を描いてその絵を展示する。ブログという便利なものがあるから、やろうと思えば誰にでも出来る方法である。

 良く出来た絵を見て貰おうという、日曜展示ではない。自分の行いとしてのその週に描いた絵を、ともかく展示すると言うことが主たる目的である。千日回峰行と同じことである。苦行ではなく楽行であるところが自分らしいと言うことになる。

 毎朝ブログを書くのは願掛けなのだが、日々の一枚は自分の生き方である。 これが生きがいと言っても良いのだろう。どんな言い訳を言おうが、絵はやはり正直である。そのままである。頑張っている絵もあるし、ダメな絵もある。だめも頑張りも、日々の一枚である。

 本来の行為というのは消えてしまうので、確認のしようがない。絵という結果が残る画面を、行いとして経過をたどりながらと言うことになる。絵を描くと言うことを行為にしたので、自分という人間の有り様や精進が見えるのではないかと言うことだ。

 人間はどこから来てどこに行くのかと思うが。日々の一枚がその日々の航跡になっているのではないか。上ったり落ち込んだり、様々な足跡が付けられている。足跡を残しながら、生きてみようと言うことだ。そうすれば自分という存在が見えてくるかも知れない。

 何故そうなったのかをもう一度書いておくと、人間の暮らしが多様化したと言うことである。藝術の背景になる共通項が失われたのだろう。表現として対象が細分化を続けて、今は対象を失いつつある実感がある。違うものには伝わらないものが絵画のようだ。

 この余りに頼りなく、社会的な反応が狂ってしまった絵画という分野に踏み込んでしまった以上。社会的な反応を目印にすると、大きな間違いをするだろう。だから自らの生き方として、行いとして絵画すると言うことを求めて行こうと考えている。

 その結果伝える表現という意味は手応えがない。絵がそうした表現に至っていないから手応えがないと言うことはある。しかし、社会全体を見渡しても今はそうした絵画がどこにもないというのが、私の考えである。そうである以上、自分なりの方法で絵と向かい合うほかない。

 
 

 
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絵画は表現から個人の行いに変わった

2022-06-22 04:13:27 | 水彩画


 昨日は絵画は表現でなくなったと言うことを書いた。社会に共通となる暮らしが失われたことが原因だとも書いた。絵画は表現でなくなり、個人の行いになったと言うことを考えてみたい。表現でないという意味は厳密に言えば、社会に対する表現ではなくなったと言うことである。

 ある範囲の中ではいまでも表現として成立はしている。その範囲が年々狭くなり、隣の公募展でも話が通じなくなったという実感があるという意味である。芸術が成立するためには共感する社会の範囲が必要になるが、共感の基盤となる、共通の暮らしがほぼない社会になった。

 このことは絵を描き始めた頃からなんとなくは感じていたことだった。大学を卒業して、フランスで制作したときに、ああ絵の基本が通じないとしみじみ思った。私は中川一政を信奉しているのだから、当然のことだろう。共通となる、画法はあるが、通じ合うためには文化の共通基盤がなければ、芸術としての絵画研究は無理だと感じた。

 共通の絵画の背景というようなものは、何時の時代にもないのかも知れない。ゴッホやセザンヌが同時代の人達には理解出来なかった。又同時に無数の評価された絵画らしきものが大量に生産され続けて、消えて言っている現実。

 無理矢理社会的理解にあわせて、乗り越えようとすると、絵画ではなくなる。フジタ嗣治がその好例である。評価されるために自由に画法も、描く対象も変えた人である。その結果フジタの絵画は、藝術としての絵画ではなく、イラストであり、その時代に受け入れられるためのものだと思う。

 その画法が卓越していたために要領よく時代やその社会での受けるものを探す事ができた。芸術的意味は全くないと考えている。これは一般論ではない。一般論など自分の絵を考える場合まったく意味がない。目立つためには裸になって練り歩くような意味は無意味だと思うだけだ。

 案外に芸術が社会への表現であると言うことすら、すっかりと忘れられている。現代美術というジャンルでは今でもそれが試みられている。社会に訴えているとは思うが、まったく社会とは関係なく存在している。社会が影響受けたというようなことはなかった。

 だから現代美術は表現にはなっていない。といって、従軍慰安婦像が藝術だとは思わない。テーマも姿勢もある。しかし彫刻作品としての表現力が乏しい。まさか韓国の芸術の高いレベルから言えば、あれを藝術作品とは思っていないのではないか。日本で取り除かれた軍人の銅像と同じである。

 美術と芸術が混同されている。巧みな美術品であれば、芸術の一種だと間違って理解している人がいる。誤解されるので、簡単に言えないのだが、苦しみや喜びを共感し、人間に対峙する存在物であるものが芸術作品だと考えている。

 宗達の絵を見た時にはその超絶的な上手さに舌を巻く。しかし宗達の人間は分からない。優れた美術品ではあるが、現代社会における、いま暮らす人間に対しては芸術作品ではない。美術も芸術の一つだとする人は、それでいいのだが、芸術と美術は別物と考えないと、制作者としては大きな間違えをすることになる。

 ウサインボルト選手が100メートルを駆け抜けるのを見て感動をする。人間が走ると言うことの極限を表している。限界に達していると思える完全な人間の行動は、共感を呼び感動を生む。それが芸術の発生だと思う。飛鳥の丘に立ち、柿本人麻呂が朗々と詩を唄ったのも、芸術の表現だと思う。しかし、それもあくまで同時代人だけが甘受できるものだ。

 絵画の描くという行動の中にも芸術行為がある。実際に葛飾北斎は大道芸人として、神社の境内で絵を描いた。現代でもパフォーマンスアートというものがある。見るものへ具体的に目の前で行動をして、何かを作り出したり、あるいは身体表現を行い表現をする。

 江戸時代の江戸という生活空間の中で表現されたものは、その場でのみ成立したものだ。それを現代で行おうとすると、人目を引く奇抜さだけになったり、あるいは卓越した技術だけを見せるものになりがちだろう。

 もちろん大半のパフォーマンスは、社会に対して何の意味もなしえていない。社会を変化させる藝術などそもそもあったためしがない。しかし、その作品がある事で、一人の人間が変わる。これは長年夢見てきたことだ。社会は変えられなくとも、共感できる範囲の人には、伝わる何かを持ち得ると言うこと。

 社会に発信して、社会を変えていない以上、芸術として成立していない。ウサインボルト選手の走りの衝撃にはほど遠い表現と言うことになる。身体表現としては現代舞踏とか状況劇場の演劇とかいうものが、それに近い表現なのだろう。

 行動の絵画で言えば篠原有司男をおもいだす。現代では草間彌生だろう。アーチィストと言うことで海外で評価され日本では、そうなのかと再評価された人だが、残念なことにわたしは今の草間彌生の作品を見ても何も感じない。篠原有司男の作品はどこか伝わってくるものがある。共に同時代の作家である。

 ナンシーにいた頃、ナンシー演劇祭で日本人が逮捕された。教会で裸になって舞踏をしたからである。草間彌生もそうだが、裸になって表現をするというのもあるのだろうが、そういう行動が芸術としてのパフォーマンス表現になっているとは私は思わない。見たくないだけだ。

 表現としての行動ではない。行動そのものが自己完結した芸術行為になるという意味だ。芸術としての行動に成ると言うことは、制作すると言うことが、自己完結しているという意味だ。描くという行為が制作する人間の充実とか生き様とか、その人であるための行為になるのかどうかである。

 行動とは、暮らしの中で作られた身体が生み出す動きだ。百姓であれば百姓の動きがある。禅僧には禅僧の動きがある。絵描きであれば絵描きの動きがある。その身体の動きに伴うものとして、絵画の表現が出てこなければならない。やっとここまで書いた。このことを考えたかったのに。

 書で文字を書く時自分の名前の書き方さえ分からなくなる。絵を描くときも同じである。何を描いているのかというようなことは判断が付かなくなる。画面の動きについて動いているだけになる。別段ごく平静なのだ。静かに画面に従って描いている。

 だからいい絵になると、特別におかしな絵になるとか。そういうことでもない。当たり前の風景画を描いている。筆の動きが自分の行いになるところまで、繰り返すと言うことである。瞑想に陥り、自動描機になりきるわけではない。普通に静かに絵を描いている。一日中車の中に座って絵を描いている。

 このこと自体を一番大事だと思っている。何を描くのかの前段階である。何も出てこないとしてもそれでいい。自分で描いた絵を見て、自分のその時の断面を確認している。そのバラバラにも見る一枚一枚を改めて眺めている。どこかに歩んでいるようでもあり、停滞しているようでもある。

 今それしか出来ない。あるいは今それが出来ること。精一杯やっているだけである。色々の絵が現われる。自分が様々な者だとおもう。自分の名前が書けなくなったときに、それでも線を引いてみているような状態。自分が精一杯になれると言うことが不思議なことでもあり、全力を費やすことだけに重きを置いている。結果など云々したところで始まらない。
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何故絵画は藝術でなくなったのか。

2022-06-21 04:23:34 | 水彩画

 毎日のぼたん農園に行き、この眺めを見ながら、絵を描いている。富士山を描くのこともあれば、伊豆の港を描いていることもある。もちろんこの風景を描くことも多い。すべて意識を消して身体の動きから出てくるものにしたがって描いている。

 筆の動きも意識の動きから身体の反応に進めている。意識が働かないで線を引こうとしている。あの花の花びらは4枚だからと言うようなことは、絵と関係がない。花がみずみずしいとか、艶やかに美しいとうような感性も私の絵とは関係がない。

 絵画は藝術としての表現手段ではなくなったと考えている。それは藝術というもの自体が失われて行く時代という認識でもある。藝術は人間の人間に対する表現である。表現するものと、それを受け取る人間との間に、共通の生活基盤がない時代になったために、現実成立する時間と幅が狭くなった。

 現実を発信するものと、それを受け取る者に共通の感受性がなければ、藝術は成立しない。ルネッサンスの絵画作品を見ると言うことと同時代の芸術作品を見ると言うことでは意味が違う。モナリザを素晴らしいとは思うが、その素晴らしさは同時代の作品から受ける者とは意味が違う。

 飛鳥の高松塚古墳の壁画も素晴らしいものだとは思うが、その素晴らしさはやはり、同時代人の表現する絵画とは意味が違う。同じ平面作品であるから、同様に見ることも出来るが、描いた者の作品に託した内容が、まるで違うわけだから、あくまで想像して作品を解釈する範囲である。

 その意味でいえば、いくら宗達や雪舟の作品がすごいものであるとしても、やはり芸術としての意味が違う。もし一切の時空を越えて、作品を見ているとすれば、それは表現の意味までは見ていないと言うことになる。表現と共感。ここには共通の感性が必要になる。江戸時代の人の感性と現代に生きる人の感性は違う。

 その意味で中川一政の作品から来る感動は同時代人としての芸術的感動である。つたない作品だとは思うが、私もそのつもりで同時代人に向けて描いている。ところが同時代人がいなくなってきた。共感する暮らしの基盤勝ちがいすぎる人間へ表現することは難しい。

 現代のように親子ですら共通の暮らしがないような早さで変化して行く中では、絵画は、今描かれた作品が、モナリザや天橋立図と並立してみる感覚になっている。残念ながら、これでは本当の意味での芸術の表現ではなくなったと言うほかない。

 その原因は時代と空間の変化が大きすぎるからである。私が育った頃にはまだテレビという物がなかった。今はテレビが一般化して、さらにテレビをみないネット中心に情報を得る生活になり始めている。世代ごとに芽を育てているものが違いすぎる。

 見るという暮らしが変わり続けている。私は甲府盆地を藤垈の小高い丘の中腹から眺めると言うことが幼児期の体験である。こうして生の風景で目が育った。この目についての想像は出来るだろうが、あくまで想像の範囲となる。その目は暮らしの中で徐々に出来上がった目だ。

 村山槐多の目や松本竣介の目は当然、現代人の目とは違う。この違いを学んで想像して、味わうと言うことでは芸術作品としての魅力の半分しか見えないことになる。いわばイラストを見る眼でしか、モナリザは見る事ができない。その見方では芸術を共感することは不可能なのだ。

 写真が出来て絵の位置づけが変わった。写真が絵と違うのは写真はこの世の中に実際に存在するものを映像として平面に写す道具だ。写すことへの技術的な訓練は少ない。どこに着目をして、何を見て、どう写すのかと言うことに集中できる道具が出来たことになる。

 もちろん写真も藝術の一つのジャンルではあるが、記憶に残るような写真作品は、対象の意味によることがほとんどである。花や果物の静物画を写真で作ったとしても、芸術表現としての意味はほとんどない。

 ところがゴッホの向日葵の表現はある時代の人間には魂を揺さぶるような力があった。その芸術表現としての力は、未だに維持されている。しかし、ルネッサンス時代の人がゴッホの向日葵を見たら、絵画とは思えないだろう。

 ゴッホの向日葵を絵画として認識できる人間は一定の時代の一定の人である。それがかなり幅広いとは言えるのだが、現代ではその絵画表現も徐々に力を失いつつあるのだと思う。だんだんモナリザが置かれているような位置に、ゴッホの向日葵も置かれることになる。

 芸術作品としての絵画にはそれを見る基盤のある人間がどれくらい存在するかと言うことが前庭になる。分りやすく言えば、文学作品は字の読めない人には存在しない。字が読めて始めて文学を味わうことが出来る。絵画も読むことが出来て始めて成立する。

 ところが、人間の変化が余りに大きいこの時代に置いては、表現された絵画を読むことができる人は実に限られた存在である。現代でも芸術作品のつもりで、大量の絵が公募展や画廊における個展という形で表現されている。しかし、限られた鑑賞者が存在するだけである。

 その鑑賞者の大半は似たような意味があるのかないのか分からない作品を制作している同業者という場合がほとんどである。絵を見る前提となる共通項が失われているのだ。正直に言わせてもらえれば、あらゆる公募展を見に行きたいとも思わない。

 見たところで芸術的な感動が期待できないからである。では何故、公募展を続けているのかと言うことになる。それは同様の基盤のある人間を探しているに過ぎない。分りやすく考えれば、似たような生活体験のある人を探しているのだろう。

 絵を描く同類の仲間を見付けることは困難だ。似たような生活基盤の人が居ない時代の中で、違和感の世界の中に放り込まれた状態では表現は成立しない。ゴッホやセザンヌが時代を超えていたときに、誰にも理解されないで苦しんだことに似ている。

 そんなに優れているという意味ではない。どの程度の自分であれ、自分を表現しているときに反応が無いのであれば、表現は成立しない。また、自分の表現した絵画の不足分に気付くこともない。自分の表現になっていないと言うことも分からない。

 表現が表現として成立するためには、受け手となる見るものが必要である。ところがいよいよに見るものが失われ始めた時代なのだ。我々はまだ良い。似たような生活体験をした者がいる。似たような藝術体験をしたものがいる。ところが、現代社会では似たような者などほぼいない。

 こうなると、表現としての藝術は成立しがたい。小田原の欠ノ上田んぼには絵を描いていると言う人が、なんと5人も居る。農の会全体で言えば、10人を超えるだろう。しかし、一定の距離よりも関係を近づけることは難しいと考えている。

 絵を描くと言ってもその意味が余りに違いすぎるだろうと、想像しているからだ。そして絵画は表現ではなくなり、行動の一つになった。だから絵を描くことに一番影響しているのは朝の禅体操である。身体の動かし方とか、呼吸の仕方が絵に出てくる。そのことは又次回に。

 
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のぼたん園の稲刈りが始まる。

2022-06-20 04:22:16 | 楽観農園
0番田んぼ

1番田んぼ

 のぼたん園では初めての稲刈りが始まった。改めて田植えからの経過を載せる。1月1週目に海水選をして、溜め池の種籾を浸した。一週間が経過してはと胸状態になり、苗代には種まきをして。0番田んぼには直播きを行った。

 播種5週目で4葉期前後になり田植え、田植え6週目10葉期前後になり生育調査。
田んぼ名播種日田植日分ゲツ数高さ品種 気付いたこと
0番

1.16直播き
田植え
1262トヨメキ6月18日稲刈り直播きで進んでいる。
1番1.162.28

ハルミ 6月18日稲刈り田植え後の生育が良いが、早く穂が出る。
2番1.163.21048トヨメキ直播きを失敗して、補植苗で田植え
3番1.162.231250トヨメキ
悪天候の田植え初心者
4番1.162.261154トヨメキ
5番1.162.2740トヨメキ
7番不明
3.20
4.3

ヒトメボレ箱苗 稚苗
8番3.27直播き

マンゲツ

 0番田んぼの直播きをしたトヨメキを6月18日に稲刈りをした。153日で蒔かれた種は刈り取られた。水に漬けた日から数えると160日である。一部だけ田植えをした。5葉期の苗を植えたのだが、田植えから125日と言うことになる。

 1番田んぼのハルミも稲刈りをした。生育障害が起きて、初期不安定になるような状態で、13葉期で止葉になり穂が出てしまった。ハルミは明らかに石垣島の気候に適合しないで、生育が狂った。今になって無効分ゲツがでている。穂も小さい上に粒張りも悪い。

 残念な稲刈りだが、石垣島の気候に合わない品種があると言うことだ。一番の原因は夜の気温が下がらないと言うことにあるとみている。夜温度が下がる必要がある品種は石垣島には適合しないようだ。

 2月28日の田植えだから、田植えから数えると、110日の稲刈りと言うことになる。もう少し置いておければ良かったのだが、稲の様子が中途半端なために、これ以上稲刈りを先にのばすよりも早めにかる決断をした。

 トヨメキは多収品種である。問題は味である。今回、早くできたお米を食べてみたい。どんな味になっているかである。有機農法で作るとお米の味は変わる。食べてみなければ分からないと思っている。多収米でも美味しいお米になる可能性があると考えている。

 初めての崎枝での稲作は風が強かった。これから風対策をどのようにして行くかが課題だ。大苗は稚苗よりも風に弱かった。一本上よりも三本上の方が風に強かった。田植えが遅い方が風に強かった。直播きは風に強かったが、その後の生育には問題があった。

 色々まだ分からないことがある。それでもトヨメキのできは良い。トヨメキならば、10俵とれる可能性は高い。トヨメキに関しては問題は味だろう。まだ食べてみていないのでこの点はまだ何とも言えない。
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第113回 水彩画 日曜展示

2022-06-19 04:38:01 | 水彩画
第113回 水彩画 日曜展示
サイズは中判全紙です。





770「川」
2022.6








771「田ノ原湿原」
2022.6








772「シーラ原の空」
2022.6







773「港の風」
2022.6








774「田んぼのサクラ」
2022.6






775「西表島の見える田んぼ」
2022.6







776「宮良川上流部の田んぼ」
2022.6

 
 絵を描くと言うことは自分という存在のその時を表現しているのだと思う。絵を描いたからと言って変化し続けている自分という存在を、明確にすることは出来ない。自分という代わり続ける存在をとらえるためには、その時々の断片をつなぎ合わせるほかない。

 たぶんそれはブログを書いていることも同じである。書いて表現したもののはその時の断片として、もう変わることは無い。絵も描き終われば自分のあるときの絵を固定化したのだろう。それは自分が見ているという変化して行く何かを、何とかつなぎ止めようという行為かも知れない。

 絵画の時代が終わったという背景には、人間に共通な部分が失われたと言うことがある。描く私と、見る人間との作られ型が余りに違う。私がルネッサンスの絵画を見て、随分違うものだと感じるのと、同じくらいに現代では、見る人間との距離が広がっている。

 


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少子化論

2022-06-18 04:48:16 | 暮らし


 少子化は人間が生き残るために必要なことである。一般に少子化論というと、どうやって少子化を脱するかという話になる。それは明らかな間違いである。少子化を人間知恵と考えて、同賞しか社会を作り上げるかという本来の少子化論である。

 世界の人口が今よりも3分の1ぐらいに減少すれば、温暖化も解決するし、戦争は起こらなくなる。それはたかだか100年前の世界に戻れば良いという話なのだ。この人口の急速な増加に人間は追いつけなくなり、おかしな競争を始めた。

 動物は異常繁殖すると、おかしくなる。増えると言うこと自体で生き物は危機を感じるモノがいる。人間も余りの密には耐えかねない。世界の人口が増加して行くために、世界では不必要な争いが起こっている。日本の人口が江戸時代ぐらいまで減れば、日本ももう少しまともな国に戻るだろう。

 資本主義経済と言う考え方は、人間を労働力という価値で評価を加える。だから人口が多ければそれだけ生産性が上がると言うことになり、競争に勝利するという考えである。その資本主義は競争の原理は限界に達し、様々なところで軋轢が生じ始めている。

 どのようなきれい事を並べようが、政府というか、選挙で選ばれて国の運営を考える人は、そんな考えに陥る。よその国勝るためには人口を増やそう。そうしなければ選挙で落ちる。経済を上手く回すには若い労働人口を増やす以外にないだろうなど、とんでもないことを考え始める。

 その結果地球は温暖化が起こり、マイクロプラスティクの海洋汚染は留まることがない。すでに地球環境は瀕死の状態まで悪化している。地球で問題なことは人類という生き物が増加しすぎたことが諸悪の根源である。だから少子化は目指さなければならない方向なのだ。

 人を出し抜き、競争に勝たなければ良い暮らしが出来ないと思い込んでいる人が増え始めている。少子化した国は滅びるとまで言い切る人まで出てきた。それは資本主義の競争の原理を大前提としているからだ。競争に勝つためには労働力が多くあれば有利だからと考えているからに過ぎない。

 映画監督だった羽生進氏が言っていたのだが、都会ではお前が居なくなれば、みんなにとって有り難い。人間が人のためになるどころか、居ることですでに迷惑をかけている。どうすれば自分の存在が人のためになれるのかについて若い頃自問したと言われていた。

 確かに電車が混んでいるのも、大学入試が地獄だとまで言われるのは人が多すぎるからだった。人間が人間らしく生きる許容量を都会では超えた。中学生の私はそう思ったものだ。都会で暮らすと言うことは人間性をかなり損ないながらと言うことになる。損なっていることすら感じなくなるのだが。

 縄文時代の日本列島では滅多に人に会わないぐらいの人口密度だったようだ。日本列島全体で2万人から26万人の人口が気候変動の中で前後した。その数で充分に日本の縄文文化を形成したのだ。充分活立派な人達だと思う。

 石垣島ぐらいの人口が日本列島各所に散らばれば、ほとんど人の痕跡に出会うことすらなかっただろう。それでも滅びるどころか縄文人はたくましく生きていたのだ。そう日本最古の骨が出土した石垣島だって幾人かの人が暮らしていたはずだ。

 自然の営みの中に人間の暮らしが織り込まれている。本来それが一番永続性のある暮らし方である。そこまでは望むべきもないが、せめて現状よりも人が増えないことを良しとするのは当然のことである。まして今の人口の年寄への偏りなど、一時の問題に過ぎない。

 少子化を考えるときに必ず問題にされるのが、国際競争力である。戦時中には「産めよ増やせよ」の標語があった。戦争に勝つためには人口が増えなければならないと言うことだろう。それが今の時代は、労働人口が国際競争力の要になるから、企業は産めよ増やせよと言いたいのだろう。自己本位の間違った考え方だ。

 台湾は国際競争力が世界で7位だそうだ。日本は34位。台湾は日本の人口で言えば、5分の1しかない。2353万人で九州の諸島部を抜いたぐらいの面積。
国際競争力の世界の順位は(1)デンマーク、(2)スイス、(3)シンガポール、(4)スウェーデン、(5)香港、(6)オランダ、(7)台湾、(8)フィンランド、(9)ノルウェー、 10位でやっとアメリカ。

 大きい国にはそもそも国際競争力などないのだ。台湾の2353万人がむしろ多いぐらいだ。日本が競争力で転げ落ちているのは少子化とは関係がない。ここに並んだ小さな国は人口減少している国が多い。台湾はやはり世界トップレベルの少子化国の一つ。

 日本が少子化さえ解決できれば、国際競争率が上がるなどと思うのは大きな間違いである。日本が競争から脱落したのは人口減少とは違うところに原因がある。一人一人の若い日本人の、教育と暮らしの在り方から国の衰えは来ていると考えた方が良い。

 団塊の世代までの日本人は農村出身者である。私の子供の頃は田んぼ休みが当たり前にあった。農作業は子供だってやらされて当たり前。児童労働が批判されるより、薪を担いで勉強している二宮尊徳がまだ奨励されていた。無理をしたって頑張らなければ生きて行けない。それを子供の頃からやったとしても、悪い事などと誰も思わなかった。

 田んぼ社会で培った能力が工業化社会と結合したときに、日本は力を発揮したのだ。ところが、田んぼを止めた日本人というか、田んぼに伴う協働社会を止めたことで、日本人は変わったのだ。百姓力を失った日本人は国際競争力を失ったのだ。日本を武家社会と考えた明治維新の失敗である。武士など少数派だった。

 日本の高度成長期はブラック労働で国際競争力を得ていた。今はそういう力任せではどうにもならない競争になった。むしろ競争力の高い国ほど、ホワイト労働なのだ。国際競争の質が変わった。日本的な頑張り抜くような仕組みではないらしい。

 この変化に日本は対応が出来ないのだ。トヨタ自動車が今になっては唯一の日本の成功企業例であるが、電気自動車分野ではどうも対応が遅れている。中国が電気自動車時代を作りそうだ。トヨタ自動車でさえこの先だめに見えるのから、日本の産業は残念だとは思うが、今後世界から脱落して行く。

 少子化はそれこそ低迷社会では、結構な話になる気がする。一人当たりの農地面積が増加していく。一人当たりの水資源が増加して行く。一人当たりの二酸化炭素の排出が減って行く。ごみの量は減少する。食糧自給率は増加する。

 少子化をむしろ好機とととらえて、新しい社会の仕組みを見付ける必要がある。それにしても政府は少子化を食い止めるべき、様々な努力をしているらしい。子供の教育の無料化。保育士の給与の値上げ。子供の医療費無料化。当然のことだ。大いにやるべきだ。

 それでも少子化は止まらないはずだ。それは人間に備わった生き物としての本能的予感だからだ。


 

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絵は色彩の組み合わせで出来ている。

2022-06-17 04:22:04 | 水彩画


 色彩が美しいというのは色と色の関係が美しということだ。ある黄色が美しいというような意味での色彩と絵画での色彩は意味がつがう。画面での色の関係により出現する世界が絵画である。絵画としての色彩の美しさと言うことになる。

 美しいという言葉で書き始めたが、美しいという言葉も、一般論としての美しいという意味と絵画としての美しいは少し違うと言うことがある。絵を描くと言うことは、美しさに向かっているわけではない。自分の哲学を画面上に露わそうとしている。

 それぞれの哲学、あるいは世界観を画面上に表現しているのだから、美しいという側面がある人もいれば、醜いという者を表現する人もいるということになる。美しいという世界の捉え方をする人が多いいと言うことは言えるので、絵画が一般的に美術という言葉の枠に入れられる。

 私の場合は、美しいと極めて近いような調和というようなものを画面では探っている事が多い。調和はと言ってこれも一般論の調和という言葉に置き換えてしまうと、絵画での調和は又違うと言うほかない。一般の言葉での調和は安定と言う意味を含んでいるが、絵画での調和は緊張が高まり、限界に達したような調和である。

 調和という中に、飽和というような意味を含んでいる。それは具体的に説明すれば、画面上で色彩の組み合わせが調和すると言うことなのだが、それは風景であっても、人間を描いても、花を描いていたとしても、その意味では違いはない。

 何を描くかと言うことは最も重要なことであるはずなのだが、そのことを意識しないで絵を描いていることになる。だから鳥を描いていたはずがいつの間にか花の絵になったり、海の絵になったりすることは良くある事なのだが、別段そのことは気にならない。

 もちろんその絵が抽象画になったとしても差し支えないのだが、抽象画に見えると言うことはあるが、具体的な意味は常にある。海だか、草原だか、空なのか。揺れ動きながらも、結果的には何か具体的な記憶の中の風景を描いていると言うことになることが多い。

 描きながらずいぶん変わって行く。絵が上下、縦横が変わることもある。画面上の具体的な意味とかけ離れて絵を描いていると言うことになる。宗教画を描く人が、聖母子像を描いていて、いつの間にかリンゴの静物画になったらおかしいのだろうが、私はそれでいいと思っている。

 画面の図像としての意味はほとんど考えていない描き方である。しかし、絵を見るという意味では図の中にある意味がまず大きい。当然のことだと思う。空の絵としてみることで、画面に表現されている色や調子への理解が限定されている。

 もしそれが炎を描いていると見えるように描かれていれば、意味の理解という所から、違う内容を読み取るはずだ。者の意味が重要であるという理解はしているのだが、今のところ描いているときにそのことを整理し、意識できないでいる。

 絵を描くと言うことはその絵で社会に表現をしている。だから、見る人にどう見えるかと言うことは重要な要素だとは理解している。しかし、描く上でそのことを意識して、無理にはめ込むことは予想と思っている。自分というモノの絵画世界に入り込んで行くためには、どうもその結論は先延ばしにしておいた法が、間違えないような気がしている。

 色彩はその調子でかなり違う。マチスの色彩を見ると、色の調子を排除している絵が多い。調子を色彩の中に入れると、余りに複雑化してしまい、論理的な整理が難しくなる。しかし、色から調子を外すことは私の絵画ではあり得ないことになる。

 色彩というモノに透明の度合いや、にじみや、変化して行く要素が大きく存在する。マチスが書いているように1c㎡平方の黄色より1㎡の黄色の方がより黄色である。というようないみで、透明の黄色より、マットの黄色の方がより黄色である。

 いわば墨絵が黒の濃淡だけで絵を描くように、色というモノはすてて、黒の濃淡の調子だけに限定することで表現を絞っている。私は各色の濃淡を含んだ色の調和が重要な表現になっている。マットな黄色とにじんだアカの組み合わせは必要な表現なのだ。

 そのために水彩画を描いていると言うことが言える。水彩絵の具は墨のように各色が多様な濃度で描くことが出来る。マチスのような論理性を重要視する人であれば、煩わしい要素を加えないで、絞り込むことで明確化したのだろうが、その煩わしい複雑系を取り込むことで、自分の世界観に近づくと考えている。

 ついでに書いておくと墨絵で色を感じるという文章を読んだことがあるが、たぶん目がおかしいのだと思う。墨絵はどう描こうと墨の単色である。単色の世界に色を感じるというような思い入れは絵に入らない。色を感じたいのであれば、色を使えば良いだけのことだ。

 絵には何か精神論のような思い入れは排除しなければならない。絵は科学の一つの方法であり、自分の世界をより正確に表現しようとしているものだ。東洋では書道というように字を書くことを人間の道にしようとする。絵も画道にしたがる流れがある。

 確かに絵を描くことは人間の生きる道ではあるが、どこまでも科学的に考えなければ、えせ宗教のエセの道になってしまう。絵に尾ひれはいらない。絵は画面に見える結果だけのモノだ。その結果に向かう、自分の生き方は道であるかも知れないが、そんなことは絵を見る他人にはどうでも良いことになる。

 熊谷守一氏が仙人と呼ばれ、その生き方は一日中ありと向かい合う画仙人のようであった。しかし、問題はすべてを取り除いた絵だけ見なければ間違う。物語はできるだけ取り除かなければ、目が曇る。時間というモノはそういう物語を消し去って曇りを取り除いてくれる。

 水彩画はあらゆる色を水墨のように使う手法である。だからその技法は複雑で、一筋縄では行かない。これほど難しい絵画技法はないのだと思う。そのために、入口で留まることになりかねない。水彩画は今考えられている物よりも、はるかに奥深い世界が存在する。

 まだ水彩画はその画法を十分には切り開かれていない。入口が十分魅力があるので、そこで留まり水彩画が済まされている。しかし、こんご100年もすれば、油彩画よりも表現幅が広い、自由で可能性が無限の画法であると言うことが認識されるはずだ。

 水彩画は色彩の複雑表現に対応した画法である。中川一政の岩彩画がその可能性に近づいていると思う。田だし、強い表現にこだわっていたために、弱い表現を必要とせず、水彩画の魅力に踏み込まなかったのではないだろうか。
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文化国家日本を目指そう。

2022-06-16 04:17:33 | Peace Cafe


 プーチンとトランプはよく似ている。世界の害悪を作り出すどうしようもないところが瓜二つだ。トランプ氏は驚くべきことに、プーチンのウクライナ侵攻を天才的な手法だと評価している。プーチンをよく知る自分ならばウクライナ侵攻をさせなかったと主張している。

 つまりプーチンの悪の天才を読み切れるだけの悪事を自分はしているとトランプは言っているわけだ。世界はこういう悪人が選挙で選ばれる時代になっている。世界がどうしようもないところに来ているから、悪人のほうが政治家向きで、まともな人間では頼りにならないと言うのだろう。

 昔からアメリカ嫌いなところは、アメリカに潜在していた、トランプ的な資質だ。自己本位で人に対する思いやりがない。行き過ぎた能力主義のために、弱いもの能力のないものを、平気で踏みにじる横柄な態度だ。もちろん、一方のアメリカにある限りない博愛的な精神は尊敬しているのだが。この両極がどう共存しているのか理解しがたい。

 プーチンはウクライナの病院や学校へのミサイル攻撃を、ウクライナ自身の自作自演だと主張している。誰が考えてもそれほど馬鹿げたことを自国民に出来るはずがない。それを出来ると考え、世間もそう考えるはずだと。主張しているのがプーチンなのだ。プーチンならやると告白していると言うことだろう。原爆だってやりかねないというのが本音だ。

 ウクライナ政府はネオナチだと繰返し主張する。一方的な軍事侵攻を行っていながら、良くもその被害国の大統領をネオナチだと言えるものだと思う。誰が考えても不自然な発言を堂々と主張してしまう。余りにひどい嘘でも国の代表が堂々と主張すれば、それなりに通用してしまうらしい。

 世界はそういう悪い空気がすこしづつ広がり始めている。戦争の時代にさしかかっているのかも知れない。この76年間の平和の時代の方が特殊な時代だったような気がしてきた。戦時が平時で、平和は特殊状態だったらしい。人間は争いごとが好きすぎる。

 トランプは自分が大統領として再選の選挙戦を行った。いわばその選挙の責任者である。そして選挙で敗れた。すると選挙は不正な物だったと主張して譲らない。不正ならそんな不正を許した大統領が最悪と言うことになる。不正の根拠を示せば良いのだが、不正の根拠は自分が選挙に負けるはずが無いという思い込みだけだ。ただプロパガンダとしてあえて根拠のないことをひたすらに主張する。

 少なくともロシアではプーチンますます支持をされている。アメリカでも選挙で一度はトランプは選ばれたのだし、今もって極右勢力には絶大な人気がある。プーチンは病気らしいという憶測が流れている。余りにまともではない主張をするので、頭がおかしくなったのかと見えるからだろう。トランプだって病気に見える。

 もう一人似たような人物がいる。北朝鮮の金正恩である。三人そろえば「三バカ大将」である。昔のテレビでそういうスラップスティックコメディ があった。余りの馬鹿さ加減が大受けなのだ。底のないバケツで水を汲むようなギャク満載だった。

 考えてみれば、日本でもアソウ、アベ、スガはそんな傾向がある三バカ兄弟だ。言うことがまるで漫画。こんなことを書くと侮辱罪になる時代が近づいている。しかし、当人たちは大真面目。真面目であればあるほど、何かずれが目立って気になるのはコメディーの常道。昔の衛星放送のような音声が遅れてやってくるような、真実味のなさ。

 その時代とのずれの部分こそ、本音の感覚なのだろう。本音が垣間見えるだけで後は建前ごとを述べる人間。本音と言うか生まれつきというか、ここには論拠がない政治家達なのだ。いつの間にかすり込まれた思い込みから来ているから腹話術の木偶人形に見えてくるのだろう。

 この碌でもない連中が世界を揺るがす権力者達なのだから、笑っている場合ではない。トランプはメキシコ国境では、プーチンのウクライナ侵攻から大いに学べる。とまで主張しているのだ。一体何が学べるというのか狂気である。

 世界はなにかが狂い始めている。その結果こういう権力者が登場しているのだ。その原因は結論から言えば競争主義である。勝つことが正義なのだ。勝者はあらゆる事が許されるという妄想である。経済競争が限界を超えたのだ。

 残ることは勝つためには悪事を働いてもかまわないという所に行き着いたのだ。経済が良くなれば、他人がどうなろうとかまわないという限界の争い。こんな世界は耐えがたい。どこかへ逃げたい。そうも行かないのが地球という一つの星だ。

 日本はその競争から脱落した。あらゆる分野で世界から周回遅れになり始めた。これは政治の責任だけでは無い。日本人全員の責任なのだろう。新しいことに挑戦する機運が失われた。政治がそうしたと言うこともあるが、これが日本人の限界だったような気もする。まあ良いじゃないかと思う。

 明治維新以来、富国強兵で結局第二次世界大戦の徹底した敗北を喫した。それで目が覚めたように、エコノミックアニマルで頑張ったのだろう。それなりに達成したような気になって、もう頑張りすぎるのは格好悪いと言うことのような気がする。日本を高度成長に導いたのはブラック企業だ。

 日本にはもう一つの頑張らない文化の流れがある。禅の哲学。茶の湯。農本主義。能や琉球舞踊。絵巻物。浮世絵。園芸文化。江戸時代の経済停滞期に文化隆盛の時代を形成する。これも経済成長のジャパンアズナンバーワン時代以上の、日本独自の世界に誇れる文化隆盛期を作り出している。

 日本は方角を変えるほかない。経済競争はトランプやプーチンにお任せして、競争から降りて日本独自の文化国家を目指せば良い。日本人にはその降りる資質の方が世界で特別だと思う。文化で世界に影響を与えるぐらいの国になれる。

 経済だけではないと言うことを競争に負けて、文化で方向を示せば良い。文化には勝ち負けがない。競争がない。それぞれの物だ。それぞれが文化的に一日一日を充実させて暮らせばそれで十分なことになる。日本人にはその資質が充分にある。

 現代の若者は肉体労働を嫌うらしいが、その柔なところは文化人には向いているかも知れない。文化は深めるだけである。お茶を飲むというようなことを命がけの物に出来るのだ。絵を描くと言うことも同じだ。絵を描くことにすべてをかけて充分おもしろいのだ。

 文化国家日本に向けて一日を大切に暮らして行こう。一日ボーとしているのも文化だ。文化がなければボーとなどしていられる物ではない。今日本の方角を、少しだけでも変えれば、行き着く先は随分違うことになるだろう。
 
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