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2012年8月の天候

2012-08-31 03:51:45 | 地域
雨の降らない8月だった。それでも、久野川の水は2010年よりはまだ流れている。田んぼは8月中水があれば、この後水が足りなくなっても何とかなるので、ここまでくれば一安心である。欠ノ上は水がギリギリであったが、2010年も2012年も大丈夫であったので、水の足りない田んぼではないということである。いずれにしても、異常気象や温暖化が、際立ってきた2010年の気候によく似ていた。あまり嬉しくはないが、こんな気象がこれからの傾向と考えなければならないのだろう。今年の8月の降雨量は30ミリほどだろう。このてんでは、60ミリは降った2010年よりさらに少ない。平均気温、日照時間で言えば似たようなものである。雨については、明星岳での雨量が久野川の雨量である。気象庁の統計の観察地点は酒匂川の河口付近の足柄平野の海岸線なので、相当に開きがある。雨量で言えば、2,3倍も開いているから、傾向はある程度見れるが、川の水に関しては類推が必要になる。

毎朝久野川の水の流れは見ている。公民館脇の下河原橋から上流を見る。その状態を記憶している。それで2010年よりまだ水があるという見方である。もう一つの判断材料は湧水の量である。渇水が余りに続けば湧水は途絶える。今のところ湧水は湧き続けている。新しく作った田んぼも水が切れたことはない。2010年の9月は暑い日が続いた。そしてかつてないほどの豪雨の9月になった。今年もそのつもりでいた方がいいと考えている。田んぼの土壌は固めておく。九州、沖縄ではかつてない雨量が繰り返されている。関東では今までのところ影響が無かったが、9月になって台風や豪雨はあると考えておいた方がいいだろう。稲刈りの時期もできるだけ、天気が安定するまで先に延ばしたい。台風も大型化する傾向があるから、ハザ掛けも必ず飛ばされるから、予測は大切になるだろう。

久野川の水の減少が意外に少なかったのは、山の状態がこの2年良くなったという事ではないだろうか。何かをしたというのではなく、何も変なことが山に無かったという事ではないか。山の木を切らないで2年経てば、それなりに保水力が変わるのではないか。しばらく前までは、林道工事ばかりやっていた。林道作りが山を荒らしている状態が続いていた。公共事業が削減されて一段落した。少しの雨でも川の水は茶色く濁っていた。しばらく濁りが消えなかった。今も、酒匂川はそういう状態である。久野川は濁らなくなった。6月の記録的な豪雨で久野川河岸は4か所崩壊した。多分上流部でも土砂崩れがあったと思われる。檜が根こそぎ流れてきた。田んぼの水路にも、土砂の流れ込みは例年になく多い。しかし、全体で言えば濁りは少ない。6月後半の大量の雨がまだ山に貯まっていて、水の減少が8月の少雨にもかかわらず、しのいでいると思われる。それは湧水や井戸水にも表れている。

この先気候はさらに荒くなると考えなければならない。降れば豪雨で、降らなければ1カ月降らない。こういう気候が平年の気候だと考えて農業をしなければならない。風についても、竜巻ではないかと思われる強い突風が数年前から目立っている。6月吹いた風でも、みかんの根が浮き上がっている所が結構ある。浮き上がった後、雨が無いから枯れて来るような木が見受けられる。以前にはみられなかったような現象である。豪雨でも、突風でも狭い地域で起こる。久野川の事を考える上でも、和留沢あたりに正確な気象観測所が必要である。山の気象と平地の気象最低でも、両方のデーターが常に手に入れば、この違いから数時間後の変化が判断がしやすくなる。気象情報を行政が出すという事では、天候に対応しきれなくなっている。
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加賀山中温泉

2012-08-30 04:02:08 | 日帰り温泉
山中温泉に行ってきた。2年に一回開かれる大学の美術部の同窓会である。卒業して、40年以上たつのだが、楽しみな機会になっている。今回も「ササムラ、もう絵だけ描いていても良いんじゃないか。」こう言われたことが、ず―うと頭に残っている。こんなことを本気で言ってくれるのは大学時代の友達だけだ。山中温泉は金沢から見れば、福井との県境にある。何かがあるという所ではないが、伝統的な温泉場として賑わっている。河鹿荘ロイヤルホテルという所に泊まった。参加したOさんが何か20人分の券を提供してくれたそうだ。そのおかげで安く宴会が出来た訳だ。有難いことだった。宴会の料理はとても美味しかった。特別豪華という事ではないが、味がとても良かった。いつも思うのだが、金沢に行くと、魚が新鮮でおいしい。小田原も新鮮な魚が無い訳ではないが、日本海の魚の方が、どうも美味しい気がしてしまう。そう言う素材を生かした料理という事もあるのだろう。

泊りがけだから、1時まで飲んだ。こんなことはもちろんこの時以外にない。翌日はやはり4時過ぎには目が覚めてしまったが、すっきりそのまま温泉に行った。朝から温泉というのも極楽気分である。8時から朝食ということだったので、散歩やら何やら、時間をつぶすのに苦労した。川沿いに散歩道があるのだが、こおろぎ橋も、あやとり橋もどうという事もない。そのまま早朝の街を歩いてみたところで、なにもなかった。何か特別のことがないのに、ホテルは人でいっぱいであった。実ににぎわっている。日本人ばかりである。やはり夏休み終わりという事もあったのだろうか。温泉は特別に良いお湯という事も無い。サウナはある。含石膏芒硝泉と書いてあった。調べると今ではナトリウムカルシウム硫酸塩泉というらしい。芭蕉は大層気に入ったらしいが、奥の細道の温泉よりいいとは芭蕉は温泉が分からないようだ。

みんなに会うと、自分が確認できる。自分が出来上がって行く年齢で出会った人たちである。会ってみたいなと思う人でも、同窓会というような形では顔を出したがらない人も結構いる。まだ忙しくて、とても時間が取れないという人もいる。路頭に迷っているのか、音信不通になってしまったひともいる。社会的な立場で言えば、随分偉くなっちゃた人もいる。小さな農家のおやじはどちらかと言えば見劣りするが、そうでもない雰囲気だ。あって何でも話せればもう十分である。私の場合は、大学の美術部にいた頃のまま、つまり、笠舞の下宿で、夜が明けて今日になった様な暮らしをしてきた。そして今回原発事故には打ちのめされた。日本経済にどういう影響が起こるかなど、本気で語っていた人もいた。実際に仕事をしてきた人の実感だから、参考になった。インターネットゲームの世界を事細かく教えてくれた人もいた。

「絵だけ描いても良いんじゃないか。」この言葉がこころに響いている。確かにそれが本当の事だ。いい訳も含めて、実際にやってきたことは「絵だけ描いていても、本当の絵は描けない。」こう考えてきた訳だが、しかし、「絵をどうするかをいつまでも遠回りしてもいられないぞ。」「なんで、水彩画をやっているのだ。油をやらないのだ。」こういう事を言う人もいた。多分これも同じことを言っているのだと思った。正面からの取り組むしかないという事を言っているのだと思う。それは、それぞれが生きてきた裏付けのある言葉だ。逃げている訳でもないし、水彩画が迂回作戦だとも思わないが、何となくそういう風に見えるのだということは分かる。絵を描くということは、自分の中にあるものを出しつくすということ。こういう共通認識は、時代的なものもある。自分の中を育てない限り、だめ。これをいつまでもいい訳に使っていてはだめだよという警告。

昨日の自給作業:イノシシ対策2時間 累計時間:17時間
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愛国主義教育

2012-08-29 04:42:05 | Peace Cafe
中国や韓国では、愛国主義教育というものが熱心に行われている。日本でも国を愛する心を育てる教育が言われるが、そうしたことがどういう結果になるか、良く隣国見ておく必要がある。私のブログでもどうも自称、愛国主義者と思われる人のコメントでも、私を工作員であるとか、中国共産党の指示を受けているとか、意味不明の暴言を吐く人が多々ある。つまり、自称愛国主義者はどうも、攻撃的になるのではないか。他人を、他国を、罵倒することで、気分を晴らそうというような精神状態になる気がする。中国、韓国での愛国主義教育というものは、実は反日教育とイコールである。国を愛するということは、高いレベルの精神的情操である。国家とは何か、国の目的とは何か、それは哲学を含んだ、多様性のある深い思想である。現代社会に暮らす人間を統一的にまとめることは難しい。しかし、敵を憎むというのは、分かりやすいスローガンレベルの思想だ。

その意味で、愛国主義のつもりが、いつの間にか反日教育になってしまった。特に中国においては、民俗的にも多様であり、広い国土で風土も多様であり、国内に民族問題、宗教問題も内在する。こうした背景のなか強烈な格差社会が広がっている。この過程で20年ほど前から江沢民政権では「愛国主義の旗を高く掲げ、中華民族の精神を発揚し、祖国を振興しよう」と主張した。ある意味、国内のきしみを愛国を掲げることで、吸収していく現実路線としての愛国主義である。いつの間にか分かりやすい反日教育にすり替えられていった。各国ともナショナリストが暴力的様相で身を固めるのと似ている。それは、愛国の思想と軍国主義とは関連しやすい思想構造にある。軍国主義は、敵が無ければ成立しない。愛国も低いレベルでは、外敵や異民族を意識して成立しがちである。韓国では、戦後一貫して反日的教育をしてきた。それは北朝鮮と国が切り裂かれ、同胞と敵対していなければならないという、自己矛盾を抱えている。どこまで経済成長してもこのとげを抱えたままの情勢である。加えて、国内の格差的な不満の方向を日本に向ける愛国主義教育で、しのいできたという事が言える。

しかし、本来の愛国は敵を必要としている訳ではない。敵を必要としない農本的愛国主義もある。実は中国も毛沢東の思想は、決して排他的なものではなく、反日教育はしていない。むしろ80年代までの中国は親日的大国の様相があった。その後天安門事件後の中国は、経済成長に特化したような政策を始める。そして、その結果生まれた共産主義とは、かけ離れた国内的な格差を抑え込むように、反日教育が徹底されている。今そうした隣国のゆがみが、日本の国境の離島の軋轢として現われている。日本の取るべき態度は、そうした隣国の低レベルの愛国ではなく、本来の人類愛ともいえる、愛国を持ってこの問題に接するべきだ。世界的な視野で見れば、中国や韓国の非礼な態度は、誰の目にも明らかなことである。日本として誇りを持ってこの問題にあたらなければならない。日本人らしい紳士的な態度を世界に示すべき時だ。

中国人と同レベルに、尖閣列島に上陸するなぞ、信じがたい愚かさである。あんな地方議員がいるから、せっかくのチャンスを逃しそうである。こんな日本人がいるために、世界の目からは、日本の正当な主張も、中国の主張のレベルにみられることになりかねない。正しい主張であれば、正しい態度で主張すべきである。野田総理の親書を送り返すような、非礼な態度を世界に示すだけでいい。そして繰り返し、国際司法裁判所に提訴したいと言えばいい。もし、中国が沖縄も中国であるから裁判をしようと言えば、応ずればいい。韓国が対馬は韓国であるという裁判を主張するなら、応ずればいい。竹島も、尖閣も向こうの意識では、対馬や沖縄ぐらいのもので、そう言う主張をする人もいる。歴史認識は両国ともかけ離れている。第三者以外この溝は埋められない。
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原発0の選択

2012-08-28 04:18:01 | Peace Cafe
国民の大半が予想通り、脱原発を選択した。国民の声を聞くとした、政府の方針は定まったと言える。日本という、地震の巣のような国で、原子力発電は不安過ぎるという当然の気持ちの現われである。電気代が少々高くなっても、日本の産業構造に影響があろうとも、この不安の中で暮らすのはごめんだ。子孫にまで、この付けを回す訳にはいかないという至極当然の結果だ。多分、こう言うことは事故後起こる前も、うすうす誰もが気付いていたことだ。だから、いよいよ事故が起きてしまった時に、ついにやらかした。という絶望に陥ったのだ。電気代が高くなれば、企業の海外流出が進行する。そして、日本の産業が競争に負ける。原発が作れないということは、確かに不利条件である。しかし、地震国日本は、仕方が無い日本の条件だ。日本には地震という悪条件はあるが、それにも増して素晴らしい、自然条件がある。これを生かした国づくりをすることである。

原発は安い電力であるということは、実は廃棄処理が抜けているからである。今まで処理法が無いので、ただ積みあげてあった。これが原発に隣接して積みあげてあった。それ以外方法がなかったのだ。本来ならどこかへ移動すべきだろう。リスク分散である。しかし、安く上げるためには置いておくのが一番だった。我が家にも、捨てるにはお金がかかるので、置いたままになっているものはある。しかも、核廃棄物はまだ処理法が確立していない、捨て場も定まらない手に負えない代物である。この処理費をまともに考えるなら、少なくとも地震国日本では、原発は高い電力になる。残念なことかもしれないが、日本に石油が出ないから情けないと嘆いてみても仕方がないことだ。何も無いが日本には人的資源がある。これが戦後日本の高度成長の掛け声だった。その言葉通り、特別に優秀な人達は、新しい産業分野を切り開き、普通の日本人は精一杯働いた。

日本の豊かさは自然環境である。その水土が稲作文化が育んだ。稲作文化は、手先の器用で、感性の細やかない日本人を育てた。この特徴は江戸時代に平均的な水準を押し上げたのだと思う。里地里山文化の成熟。日本人がこの豊かな日本列島という島国を生かして生きて行く事をもう一度見直すべきだ。その具体的な転換が、自然エネルギーの模索だ。現代の技術水準であれば、充分に江戸時代の4倍の日本人が、日本列島に豊かに暮らせるはずだ。物に囲まれた安心でなく、暮らし全体が見通せる安心を模索すべきだ。柳田国男氏が見た、椎葉村の物質的には貧しいが、精神的には安定した豊かな日本人の暮らし。先祖に見守られ、ともに生きる安心立命。安定した繰り返しの中に、自分の生き方を織り込む里山の暮らし。明治以降の富国強兵、立身出世をもう一度見直してみる。

原発に傾斜して、使用済み核燃料は六ヶ所再処理施設で再処理を行う。多くの国が諦めた、この方角を捨てきれずに進んで来たのは、日本人の富国強兵の渇望感ではないだろうか。西欧文明に脅迫され、追われてきた焦りではないだろうか。物質的豊かさに圧倒された。その方角の善悪の判断をしないままに、ものが無いよりある方がいいだろうという欲望的な価値判断に誘導されてきた。そうした西欧的な物質文明に、東洋の精神文化は凌駕されてきた。しかし、原発が爆発した今は、転換の機会がやってきた気がする。この機会を逃せば、日本文化は完全に西欧文明に飲み込まれることになるだろう。日本人の稲作水土文化は風前のともしびである。田植え機が出来て、飛行機で種をまく稲作になった時には、稲作水土文化が消えた時である。経済合理性の前に、手植えの田んぼは難しいとは思う。しかし、食べ物を作る行為が、丸で信仰に生きるような日々であることが、どれほど豊かな暮らしであるか、見直してみるべきだと思う。
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民主党に来たチャンス

2012-08-27 04:20:37 | Peace Cafe
八方ふさがりだった民主党に、わずかの光がさして来た。領土問題である。リミョンバク氏の非礼極まりない態度は、民主党の窮状を見かねてかと、疑いたくなる。こう押せばこう鳴くという人形のように、予想通り日本人が急に一辺倒に領有権を主張し始めた。もし、竹島の韓国の実効支配がおかしいなら、李少晩が占領した際徹底して問題にすべきだった。確かあの頃は、人も殺されたはずだ。大勢が拿捕され、とんでもない要求を韓国は繰り返していた。あの頃より今の韓国は良い国になったと思っていた。それが又何故、先祖がえりをしたのか。未来志向はどこに消えたのか。いずれにしても、日韓の当時のこじれた問題を、曖昧なままアメリカが容認したから、容認というよりアメリカの方針によって、こういう結果になっている。すべては、サンフランシスコ講和条約が原点である。今になってアメリカが不愉快だなぞ、何をとぼけたことか。

当時も今も、韓国は対馬まで領有権を主張している。領土問題はそもそもそう言う互いの理不尽だ。中国は、沖縄まで主張している人がいる。ロシアは北海道まで主張する準備をしている。しかし、そう言う事が起きなかったのは、アメリカという後ろ盾が怖かったからだろう。そのアメリカの後ろ盾をはずして、東アジア共同体構想を主張したのが、鳩山民主党であり、又それは私も長年願っていたことだった。民主党のダメな所は、願う所は正しいのだが、そこへの道筋がどれほど困難かを自覚していないこと。アメリカとの関係を後退させれば、当然隣国の態度は豹変する。そこをどのように押さえて行くか。外交的準備をして行かなければならない。ところが、普天間基地の移設で良く分かったように、グァム移設、徳之島移設は様々な妨害が入り実現できなかった。鳩山、小沢両氏の力量不足である。そして、東北大震災である。政治の不能が明らかになる。隣国もそれぞれに体制の変換が起きている。

民主党は消滅の危機であった。それが、この国難に乗じて、国は一つにならなければならないという主張から。何やら再生の兆しである。石原氏が吠えれば吠えるほど、野田氏を利することになるという不思議な構図。野田氏を弱腰だと責めれば、それに合わせて強気を増して来た。石原氏を上陸させる位なら、民主党幹部を先に尖閣に上陸させることになる。今後起きて来ることは、又政局である。国が一つにならなければならないという掛け声だ。戦時体制は現政権が有利になる。政権批判が利敵行為になりかねない。民主党政権が何故か、初めて動いているように見える。仮想敵国を作るということは、こういう事だ。だから、日本の為に、我慢せよ。マスコミも、ネットでも、ほぼ竹島は日本だで一色である。私は人のいない離れ小島ぐらいどうでもいいと思っている。きちっと位置付けることの方が重要だ。

いつの間にか、命がけの消費税もあっさり決まった。今度は領土問題に熱心な自民党が目立つ。しかし、領土問題は民主党に来た、起死回生のチャンスになる。政権の足を引っ張っている時ではない。国が一つになって、領土を死守しなければならない。追いこまれていたのは、リミョンバクだけではない。野田政権は何もできない、何もやらない言うだけ政権。これが定着していた。怖いのは訳の分からない命がけの実行力である。竹島を取り返せなど、自衛隊を勝手に出動させるような、幕僚長が現れないかである。前幕僚長は随分人気で講演をして歩いている。イラクに出動した、元自衛官のひげの衆議院議員も、とても張り切って弱腰外交を非難していた。こういうときは日本は、あくまで紳士的に、韓国が儀礼を欠くくなら、まずます礼儀正しく国際社会にアピールすることだ。尖閣も同様である。今のタイミングで、中国に国際司法判断を仰ごうと提案することだ。北方4島交渉もむしろ今が結論を出すチャンスである。

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生活保護のこと

2012-08-26 04:31:32 | Peace Cafe
生活保護は出来れば無い方がいい。無くて済むなら、ない方がいい。こう言い切ると弱者の切り捨てということになる。たしかに生活保護が無ければ、明日を生きることも困難であるという人もいる。しかし、無くても周辺で助け合える社会ならその方がいい。そうした社会が出来るまでの、この境目の世界は、とても一筋縄ではいかない領域と考えなければならない。暴力団が不正に受給するなどという事に、目を惑わされてはならない。路上生活の人を見ていると、生活保護を受けられる人は、とてもうらやましい人である。生活保護を受けることが出来ない人も結構いる。理由は様々である。逃げている人もいる。戸籍がないという人もいる。お金の支給は分かりやすい方法だが、実は本質をはずしている。本当の解決にはなっていないと思う。緊急避難のようなものだろう。

路上で暮らすと言っても、ネットカフェで一夜を過ごしたり。ドヤやファーストフード店で一夜を過ごす人。様々な条件の中を行きつ戻りつしながら、より悪い状況に追い込まれてゆく場合が多い。要するに安心して寝泊まりできる場所を持たない人達。住まいがない人。この不安な状況から、憂鬱な気分が増してゆく。前向きな精神状態を失う。住まいの世話をすることが、生活保護の前に必要なことだ。空き家は、760万軒もあるという。これを制度的に上手く活用できれば、住まいの確保は出来るはずだ。この事は震災の仮設住宅として利用すべきと言われたが、やはり機能しなかった。まず安定して住める体制を作る。これが出来れば、次に仕事のことに入れる。そうすれば、生活保護を受けなくとも済むようになる。何にしても住まいの確保である。これからどんどん家は余るだろう。ここには行政のやるべき役割がある。震災の仮設住宅も時間が立ちその運営が困難を増しているようだ。どうもこういう事が上手く機能しない社会や暮らしになっている。

確かに、行政が直接かかわりにくい部分がある。近隣とのトラブルや、法的にボーダーなことが多い。行政は直接管理運営することは苦手である。確かな市民との連携をするほかない。確かな市民を作り出す事が、市民協働社会の最重要課題である。仕事につくと言っても、まず本格的な仕事の前に、訓練的仕事の領域が必要である。いつも主張することだが、農業をやれば、生きていることはできる。割の良い、楽してお金になる仕事はなかなかないだろうが、普通の生活費ぐらいは、まだ稼げる社会である。そう考えて、農業分野で仕事を提供して行こうという活動にかかわった。コッコ牧場である。鶏を飼って共同生活をしてゆこうという活動を目指した。今も活動は続いているのだが、苦労が多い。今も長く使っていた農地の返還を言われている。どうしてもより弱いものが集まることになる。それは当然の結果であるし、悪いことではないのだが、運営は苦しく成って行く。

お金で済ます仕組みもよくない。ボランティアで支えることも問題がある。(昨日書いた)しかし、行政のやれる範囲は狭まってきている。当然ながら、市民の意識が変わり、自主的に福祉的な役割を受け持つことにならなければ、社会自体が成立が揺らぐ。その為には市民の意識が変わる必要がある。自分達の社会をどう組み立てるか、自分達からなにを受け持ったらいいか、問題意識が生まれる必要がある。今、酒匂川の川辺で暮らしている人たちが、移動するように言われている。江戸時代の加賀藩では、長崎で追放になった、キリシタンの人たちが預かりになる。そして、犀川の河原に住むことになる。金沢の庶民は受け入れて、ドジョウを採って売る仕事をすることになる。周囲の農家の許容度が大きかったのだろう。そうして今でもドジョウのかば焼きが金沢の名物である。住む所と仕事を作り出す知恵の暖かさ。
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ボランティアの位置づけ

2012-08-25 04:18:18 | 地域
行政から盛んにボランティアの呼びかけがある。それは行政がやりたい、やるべきだ。こう考えるが、それを実行するには市民の協力が不可欠だからだろう。特に環境関連の企画では、大半がボランティアの募集が行われる。このボランティアの位置づけが、気になって仕方がない。例えば、久野の里地里山協議会では、明星ヶ岳の登山道を作り、その管理を行っている。作りたい、作るべきだと考えた人が発案し、協議会で作ることが決まった。そして、実際に作る人が募集され、地域の山仕事の方の協力を頂きながら、登山道は完成された。その後の管理も続けられている。一方、南足柄の明星岳登山道は、地域の自治会が管理を任されている。地域の自治会で年に1回出るらしい。出ると労賃が出る。

里地里山協議会で登山道の再建の話が出た時、反対をした。それは、その後の管理が難しいと考えていたからだ。山仕事が行われなくなり、登山道はいつの間にか消えた。それを復活すれば、誰かが管理を続けなければならない。その管理は困難だと考えた。そこで、山につつじを戻す活動を提案した。ツツジを山に戻しツツジの登山道にする。そこまで特徴のある、登山道になれば、人が通り、自然に道が確保される。ツツジを植える人を有償で募集する。植える人からは500円をツツジの苗木代としていただく。その費用が登山道の管理費用にもなる。苗木は小田原植木さんが山に元気回復事業で整備した圃場で、育ててくれている。この圃場の管理も、会員に協力が呼びかけられる。こうして、経済と繋がる形で登山道の管理体制を作ろうとした。ただ、ボランティアに労働提供を期待するというのでは、継続性が無い。

里地里山の環境が健全に維持されるためには、地域の農業や林業が産業として成立していることである。里山の棚田が、維持されるためには、そのお米が販売できることである。平地の大規模で機械化され、政府の補助金が入った田んぼの、結果的に安いお米にたいして、販売で負けないことである。今の政府の農業政策では、ますます価格差が開くだろう。山間地農業にもいくらか補助金はあるらしいが、小田原ではない。こういう所の農業を、あるいは林業を経営としての維持の方法を知恵を絞ることが、小田原の環境を守るために必要なことだ。産業として成立しないのだから、ボランティアで補おうという発想は、知恵が足りないのではないか。市民協働の社会が、実はボランティア維持社会ではおかしい。市民がになうべき仕事は確かに多い。これを善意のボランティアに期待するという事でなく、やりたい人が率先してやれる体制を、どうして作り出すかの枠組みを、思想、哲学、として模索すべきだ。

地域の自治会も新しい活動を受け入れる余地は少ない。自治会の活動に負担感が強い。それが参加率の減少になっている。役員の動員が増えている。家では健康普及員というのをやっているが、それは出動が多い。なにしろ地域のそば作りまで、健康普及員の参加が呼びかけられる。それぞれの活動は、大切な仕事なのだとは思うが、忙しい暮らしをしている者には、到底役員を引き受けられる状況ではない。押し付けの伴う仕事になり、義務的なボランティアになるのでは、どこかで破たんする。やりたいものがやる。やりたくないものはやらないで何の問題も無い。これが地域で必要な仕事であるというのでは、何かがおかしい。企画から運営まで、すべてが民主的に、自主的に構想するので無ければならない。農の会もそう言うものを目指して来たし、今やっている生ごみクラブもそう言う組織を目指している。やりたいものがやりたいことを発案して行う。この精神が失われると、ボランティアというより、勤労奉仕と言ったことになる。
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神奈川県警の犯罪

2012-08-24 04:26:52 | 地域
神奈川県警の巡査部長が17日夜、飲酒後に車を運転し、物損事故を起こしていたことが県警への取材でわかった。直前に速度超過で警察官に制止され、すり抜けていた。 先日警察からの情報流出は罪が重いと書いたばかりである。神奈川県警は、昔から警察の不祥事が多い方だと感じる。自分が住んでいる地域だから、目立って感じるのだろうか。インターネットで調べてみると、どうもそればかりでない気がする。99年9月、厚木署警邏隊の集団暴行事件が発覚しました。一連の神奈川県警「不祥事」の開始です。以降連日のようにメディアを賑わすことになりました。市民として何かできないか、単発の刑事告発運動というのではなく、継続的な市民運動に発展させることはできないか。そんな思いを持つ市民オンブズマンのメンバーや弁護士などが中心となって、「警察見張番」が発足しました。と言うような話もある。坂本弁護士事件の神奈川県警の手抜き捜査をみても、神奈川県警の問題は日本の警察全体の問題ともいえる。警察官の処分件数は過去最大になっているとも書かれている。

神奈川県警で不祥事発生が頻繁に起こるのは、職場環境に問題がある、ということになる。当然のごとく民主的な職場でないことが推察される。気になるのは、結構ベテラン警察官の不祥事が多いことである。若手の警察官がセクハラをした、とかいうのではない。4人のベテラン警察官が部下の婦人警官を呼び出して、強制わいせつ行為を行ったのである。しかも、驚くべきことにこれを犯罪として、警察は立件しないとしているのだ。こうした対応にも、神奈川県警の度重なる犯罪の原因を作っているのでないだろうか。もう一つある。神奈川県警はネズミ捕り捜査を良くしている。隠れていて、一時停止違反を取り締まるというものが日常化している。あれが警察官を悪くしていると思う。道端の隅に隠れて、犯罪者を上げる手法。若いお巡りさんが、一時停止で必ず引っ掛かるという所を確保していて、ネズミ取りをしている。こんなことを若い人にさせていたら、人間の精神をダメにする気がして心配である。

私の家のすぐそばの火葬場の方に大きくカーブする所でも、良くネズミ取りをしている。質問があったので窓をたたいて大きな声で、「コンニチハ」と言ったたら、とてもひきつった顔をして、攻撃的な態度で、二人でけんか腰で飛び出てきた。なるほど、警官がネズミ取りをしている時の、悪い心境が現われていた。私の聞きたかったのは、その3差路での直進車の優先順位のことだった。表記が無いし、道路のセンターラインは消えているので良く分からないのだ。こんにちはと大きな声で挨拶したのだから、普通の人なら、挨拶を返すべきだ。ところが、そう言う当たり前の対応ができない。その時も、結局優先表示について、何の回答も無かった。隠れて頻繁にネズミ取りをやる位なら、そういう車がいなくなるように、交通標識を変えるなり、道路形態を変えるなりすべきだろう。こういう点数稼ぎ的な方法が警察官の精神を蝕んでいると思う。勤務評価を上げるために、上手く隠れてやれという精神が推奨されていると。ありもしない犯罪のデッチ上げにつながりかねない。

多分警察の考え方や、主張もあるとは思う。しかし、私は若い人に人の裏をかくようなことはさせない方がいいと思う。警察官が人間の裏側ばかり読むようになる。もちろんそう言う職場ではあるのだろうが、人間の尊厳とか、大切さとかいうものを根底には持っていないと、結局は自分自身の精神を歪めて行きかねないと思う。「分からなければ、犯罪を犯しやすくなる。」勤務評定のような形で、上から成績を監視されている職場と言う事も聞いている。職場の空気が良くないのではないだろうか。こうして警察の問題点を普通に書けるということは、まだまだ日本の警察はまともなのだと思う。警察官が地域の暮らしにとって大切であり、無くてはならない存在である。その意味でも、警察官の中に倫理が育つような、職場になることを願っている。
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学校でのイジメ

2012-08-23 04:03:04 | 暮らし
大津市のイジメ問題は注目されたが、全国の学校で似たような問題が起きている。この事で学校を責めてはならない。イジメは社会全体の問題である。学校でこの問題が深刻化してきた第一の原因は、学校が学力重視に追い込まれているからである。世界の学力の何番目であるとマスコミは騒ぎたてる。一番でなければいけない。一番でなければ、有用な人材と言えない。こういう方向に学校がなったのは、ここ10年である。リーマンショック以降、企業が人材確保のため、教育のゆとりや多様化にストップをかけた。このままでは、世界の学力競争から落ちこぼれ、日本経済が競争に負ける。盛んにこうしたキャンペーンがマスコミぐるみで行われた。全国学力テストを行い、学校を順位化して、競争させようという事だ。子供たちへのそうした圧迫は必ず何かに現われる。もちろん地域や、学校によって大きく異なるが、全体では競争社会が先鋭化すれば、必ずイジメのような現象が現れる。

競争の原理は大多数の人間をダメにする。大多数が駄目でも、優秀な少人数の勝ち組がいれば、構わないというのが、一番でなければ意味のない世界だ。10番目も、100番目も、びりの人も、人間の価値は少しも変わらず、普通に生きていける社会。競争が無くても、普通に努力できる社会。これが人間が目指すべき大切方角なのではないだろうか。農耕社会では、一番多く採れる人も、水害が起こり流されれば、何もなくなる。その上、優秀な働きものが、どう頑張っても人の倍取れれば、限界である。自然条件に従う仕事の中での競争は、収量は地域平均とさして変わらない。労働時間が長くなったとしても、その労働が楽しいものであれば、負担というほどではない。地域に農作業の工夫をする人がいれば、その工夫はいつの間にか、全体の共有の技術になる。自分だけ技術を独占して利益を独り占めする訳にはいかない。

世界の競争に負けてどうする。韓国の企業は日本の企業を追い抜いた。中国の経済成長によって、日本は圧迫される。こういう不安感がすべての出発点ではないか。原発のジレンマもそうだ。誰だって、これほど始末の悪い方法を選択したくはない。しかし、原発を止めて、経済の競争に負けるのではないか。こういう不安から、社会的焦りが高まる。負けるとどうなるかである。それは勝ち続けられるなら良いが、日本の金メダルは、全体の一部である。それで十分である。どこの民族にも得意不得意がある。日本が他国に迷惑をかけないで、そこそこにやって行けば、国としては良いのだと思う。一番にならなければならないという競争をし続ければ、「その社会的矛盾は弱いものに行く。特に、子供たちにその矛盾はあらわれる。」金沢大学の教育学の小松周吉教授は繰り返し語っていた。小松先生は教育史を研究されることを通して、能力主義教育とナショナリズムの問題を研究されていた。

先生が危惧していたことが、今学校ではいじめとして現われている。現代の先端産業の競争では、最優秀の一番の人が一人いれば、スティーブ・ジョブズ一代でアップル社のように、世界の時価総額の1%達する会社が生まれる。つまり、そう言うずば抜けた人が100人いれば、世界の企業は十分という事だ。もちろんそう単純ではないだろうが、もし世界が100人の村だったらという現実。その有能な100人に世界の大半の残りの人間が指導してもらえば、一番合理的だという方向に動いている。企業が世界を支配するなら、そう言う事になる。こんな馬鹿げた競争に、つまり、大多数には関係のない競争に、大多数の人が巻き込まれている。日本人の遅れかけた不安は、だんだんそう言う心理状態に追い詰められている。100坪の土地で、毎日1時間、働けは人間は生きていけるのだ。それ以上のものを求めて、幸せから遠のいて行くのでは話がおかしい。
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「卵かけご飯」が食べられない日がやってくる

2012-08-22 03:35:35 | 身辺雑記
「生レバーと同様に、菌で汚染されているものの提供を禁じるとなると、最終的には卵かけご飯に行き着くかもしれない」
 こう指摘するのは、細菌学の分野から食の安全について研究している大阪府立大大学院の山崎伸二教授(51)。「食品に雑菌はつきもので、どんな食べ物でもリスクがゼロというのはあり得ない。それを理解していない若い世代が増えている」産経新聞から


生レバ騒動がやっと収まってきた。こんなことを国が決めなけば判断もつかないという事が情けない。私は一度も生レバと言うものを食べたことも無いし、食べたいとも思わない。子供の頃は虚弱体質と言われていた。それで、蛇とか、カエルを捕まえると、必ず肝を飲まされるのが私の役目のようであった。その後お婆さんが病気をしてからは、肝を飲む役はお婆さんとなった。子供の頃さんざん肝を飲まされたお陰か、今は虚弱児童の面影も無く丈夫な方だ。21日で63歳だが別段悪い所はない。子供のころを思えば不思議なくらい元気になったものだ。嫌々飲み込まされていたレバーの御蔭かどうかは分からない。マムシが弱い子供にはいいというので、近所のおじさんも捕まえると、よく持ってきてくれた。だいたいはかば焼きにして、まるでウナギのようにして食べたが、焼いて食べれば骨っぽいだけで別断まずいものではない。

肝が健康にいいというのは、当然生の肝である。食べるのはいやと言うほどではなかったが、効果を感じるという事も無かったから、あると気お婆さんに聞いてみた。「命の源であって、その源を頂くのだから、命を強化するような効能がある。」こんな風に答えてくれた。肝が生命の肝心かなめの所であるという意識があるようだった。多分、そう言うことは言い伝えとして山梨にはあって、真冬にカエルの肝を食べさせなければならないというので、甲府の方で病人を抱えた家族が、赤ヒキガエルを探しに来たことがあった。私は冬ならどの辺に冬眠しているか知っていたので、一緒に探してあげたら、すごい感謝をしていた。なにしろ向昌院は、夜外へ出ると一面にカエルが出てきて、踏んでしまうほどのカエルの産卵地だった。

もちろん今の生レバー人気はそんなこととは別物で、美味しいから食べるらしい。昔の人ならともかく、今の病気に弱い日本人にはもう無理である。あと50年したら、刺身も禁止になるだろう。人間の身体がどんどん劣化してきている。犬と暮らしている子供は、感染症になりにくいというデーターが北欧から出てきた。当然のことで、清潔主義は病気に弱いというのは、あたり前のことで、どこまで自然免疫を高められるかは、ギリギリの線で微生物や病原菌とともに暮らす事だ。といってもこの良い加減は実に難しい。自分の身体を観察しながら、自分で加減を見つけなくては出来ないことだ。国が決めてくれるのは、単純な良し悪しだけである。大事なのは、悪いものの中の良い影響。良い物の中の悪い影響。こういうことは国が決めてくれるようなことではない。まあ、国がいいと言ったにしても、食べて死んでしまってから文句を言う事も出来ない。

自分が生きて死ぬのは、自分の力量である。総合力のようなものだ。人にいいことでも、自分には悪い。そんなことはいくらでもある。今でも生レバーを食べて、病気になる人がいる。お店は生レバーで出したのでなく、焼いて下さいと言ったのに、生で食べてしまったのだといい訳をするのだろう。生レバーがインターネットでも販売されている。買って焼こうが生で食べようが、ご自由にということらしい。その内刺身が駄目になると、書いたことはあったが、生卵も駄目とは参る。確かにそう言う事も無いとは言えない。サルモネラ菌がいる可能性がある。卵の中は菌が繁殖するには理想の環境である。ワクチンを作るのに、卵を使う位だ。サルモネラ菌が1個中に入れば、忽ちに増殖する。それが不安なら、あるいは免疫力の低い人は食べないことだ。
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ビルマの稲作農業

2012-08-21 04:27:06 | 稲作
1920年代のピーク時,ビルマは年間300万トン以上のコメを輸出し世界最大のコメ輸出国となる。第2次世界大戦後も60年代初めまではタイと並び世界1位の座にあった。この分析は、日本の農業を考える上でも参考になる考え方だと思う。小学校で習った記憶では、まだビルマは筆頭のコメ輸出国だった。何故、ビルマの稲作が衰退したのかについての、興味深い論考があった。「米輸出大国への可能性」室屋有宏ビルマの現状がリアルに見えて来る。軍事政権とアウンサンスーチー氏だけでないビルマの普通の農民の姿が、浮かび上がって来た。第一は、何故ビルマがコメ輸出国であったのか。第二は、社会主義政権の大失敗。第三は、軍事政権下のさらなる農村の疲弊の原因。第四は、現政権の民主化の実像と展望。米という具体的なものを通してみると、ビルマの実体経済のことが見えてくる。驚いたのは、米の生産量や人口統計すら正確なものが欠落しているということ。統計の元になる数値は、何を考える上でもとても重要である。

米輸出筆頭の国が、国民が食べるお米にすら困るようになる過程の分析は、興味深いものがある。一つはプランテーション農業であったこと。インド資本によるものとあるが、この辺は実態がどうなのかもでは書かれていない。つまり、自然環境的には生産能力があるのだが、様々な要因からそれが果たせなくなる。62~88年の社会主義期において,①農地国有制,②供出制,③計画栽培制が導入。殆ど生産が上がらなくなる。その後軍事政権下では、自由経済が取り入れられるが、実態としては国による計画生産が続き、殆ど生産は上がらる事はなかった。そして現政権の開放政策にあいまって、08年以降少しづつ、米生産は増加傾向にある。しかし、国内需要がやっとという状況で、輸出環境から考えても、輸出可能になるには厳しい状況である。生産量,金額とも他の農作物を圧倒する規模である。総農地面積1,364万haの約3分2にあたる830万haで栽培されている(09年度)。このうち雨期作面積が700万ha,乾期作面積が130万ha,また単収は4.1トン/haである。

農業について経済の観点抜きに、文化的なあるいは、政治的な考察をしても意味がない。しかし、その経済が、人間の為の経済学でなければならない。人間の暮らしが良くなるためにどうしたらいいかという還元が、経済学には不可欠である。「文化系による文化系のための経済学の考え方入門」栗原裕一郎著に書かれたものが、あまりに一方的な経済学の概観で驚いた。経済学というものが文科系でないという事が、つまり理科系の数学のようなものだという前提なのだろうか。土台そんな分類の仕方は物を考える上で意味はない。農業には経済もあれば、技術もある。もちろん文化もある。その意味で、ビルマの稲作の分析の迫り方は、本来あるべき経済学的な意味でも、とても参考になった。プランテ―ション農業の問題である。米輸出大国になど、そもそもなる必要はない。

巨大な国インドと中国に挟まれた、多民族国家ビルマ。そこに暮らす人々は、類まれな人間力があるらしい。複雑な社会と、各民族の調和。そして、大変ではあるが、したたかに生き抜く人たち。これからどう変わるか注目の国である。ビルマの米輸出はインド資本によるものだったと初めて知った。インド商人は古くからアフリカに進出しているということはあるらしい。潜在的に農業生産力が高い地域であるとすると、今後、中国の資本進出などもあるだろう。外国資本が、ビルマの労働力が安いから、米のプランテーション農業を行おうということは、ビルマの将来にはとても悪い結果になる。時間がかかっても中国が行ったように自力更生である。農産物輸出に国の方向を見ない方がいい。どこの国にとっても農業はあくまで国内に充分な食料が生産される範囲ではないだろうか。
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竹島問題

2012-08-20 04:39:13 | Peace Cafe
次々に領土問題が起きている原因は、福島事故以来の政治の不能状態にある。竹島にリミョンバク韓国大統領が出掛けたのことは、日本のチャンスと考えた方がいい。相手が焦っている時こそ、問題解決のチャンスである。このタイミングで無理やり騒ぎを起こすことは、追いこまれている証拠ではないか。その後の、天皇の謝罪要求や、日本の国際的後退についての言及も、隣国の大統領としては、稚拙極まりない。李少晩時代に戻ったかのようである。朝鮮民族の優秀性を思うと、不思議な大統領だ。従軍慰安婦問題は謝罪すべきと思うが、この組み合わせで出されたら応じる訳にはいかなくなる。韓国には日本カードという言葉があり、いよいよ困った時に切るカードらしい。このカードを個人的理由で使うなど、国を売るような行為である。国際企業となった「現代自動車」と「サムスン電子」に韓国が見捨てられる日もそう遠くない。日本の財界は、韓国の経済政策がうらやましくてならないようだが、もう少し時間が経てば、韓国流が国としては成功しないことが、具体的に見えてくるはずだ。

日本は静かに国際司法裁判所に提訴したいと、世界各国に繰り返しアピールすること。その歴史的背景を分かりやすく、書いたパンフレットを同封しておく。韓国が裁判を何度でも避けていることは、不法占拠を証明しているようなものだ、と付け加える。もし、固有領土を確信するなら裁判をしたらいいと言う主張。日本はここまではやる。後はむしろなにもすべきでない。韓国選手のように、バカな行動を取れば、信用を失うだけである。それは、北方領土もそうであるし、尖閣列島も同じである。冷静に対応すればするほど、日本人の国際的評価が上がる。そのことを通して、不法占拠している以上の利益が得られるはずだ。そうした理性的な対応を、弱腰とか、腑抜けとか言い募る人がいるが、そんなものではない。石原氏などの焦った挑発行為はリミョンバク氏を彷彿とさせる。弱いものほどよく吠える好例である。。こういう手法に引きつけられる人はどこの国にもいるので困る。

領土問題は相手側が忘れてくれない。中国や、ロシアは、何かとちょっかいを出してくる。こちらも国際司法裁判所に、提訴すればいい。領土問題は存在しないなど、韓国と同じ態度を取っていても、良い結果にならない。国際司法判断などに、客観性があるかどうかも分からないが、他の手段よりはましである。どうしても権利を主張したい方々は、歴史的研究を徹底して行い。明確な証拠を積み上げることだ。韓国にしてみれば、日本帝国主義の大陸進出の流れの中で竹島の領有権が成立したことで、韓国の植民地化したことと、同列であるという主張。結論を出す事が重要なのであり、どちらの所属であるかなど大した問題ではない。こう言うとまた怒りまくる人がいるだろうが。国境などどこにあってもさしたる問題と思わない。経済的な利害を主張する向きもあるが、そう言う事も、隣国の利益になるならそれも良し位に考えておきたい。石油産出国が、いつまでも幸せな国とは思えない。

これもいきり立つ人がいることだが、国境などと言うものは、人類がまともで、1万年生き延びていれば、無くなっているに違いない。そうでないなら、人類は滅んでいる。薩摩藩と幕府の交渉事では通訳が必要で、今でいえば外交交渉のような状態であったらしい。当時の移動時間を考えると、今のどこの外国より遠いい国である。生涯行く可能性すらない所であった。現代は情報分野では、国境は失われてきた。言葉の壁もだんだんに無くなるだろう。インターネットの翻訳機能でも、そこそこ意味は分かる。そうなればますます重要になるのは、国境ではなく各々の民族文化の独自性である。日本民族が世界で尊敬されるのは、稲作で培った、ものを深く見る目。繊細な感性である。日本人本来の暮らしである。日本語である。このままでは、日本人がいなくなる内部的危機だ。ここには国境の離れ小島どころではない深刻な問題が横たわっている。
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放射能正義論

2012-08-19 04:15:03 | Peace Cafe
正義を振りかざした、議論には危ういものが潜んでいる。正義と言う御旗が、批判的論理を寄せ付けないからだ。農業者は今回の放射能汚染では、小田原でも出荷停止を伴う被害を受けた。その賠償すら今だ果たされていない。それに加えて、不安増大した人の心ない正義論に、大きい精神的ダメージを受けている。自称・福島の子供の命を守る人たちだ。気分的に食べたくないとか、自分の子供が放射能の害を受けたらどうしようとかいう、不安の増大、想定上の被害が増幅。横浜市と鎌倉市では、教育委員会が学校給食に8、8ベクレル以下のみかんを給食では使うべきではないと決めた。ヒステリックな子供の命をないがしろにしていいのか、と言う科学を越えた論理がまかり通る。不安感から来る発言が、農業者の良心をさいなむ。

ここで議論は両者の溝を作ったまま終わる。今や、0ベクレルでなければ食べないという人さえいる。しかし、そんな食べ物は地球上にない。もしそう言う根拠のない不安が、これ以上広がれば日本の農業は成立しない。良心のある農業者こそ生産を止める。特に有機農業においては、堆肥の問題がある。堆肥を10アール当たり1トン入れるとして、キロ当たり1000ベクレルの堆肥であった場合でも、土壌は表土だけでもの1キロ当たりのベクレルは1ベクレルも上がらない。これが水の場合、毎日10トンの水を100日使うとして、この水が、0,001ベクレルの場合。土壌への影響はやはり1ベクレル程度の小さなものである。これが1000ベクレル種の場合など、考えるのも馬鹿らしいほど小さなものになる。作物への移行計数から言って、土壌の1ベクレルの上昇など、影響にならない。こういう事をどれだけ説明しても、全くの無駄である。0を求めているし、内部被ばくに科学的な知見はないという思考停止。そして、子供の命の正義。

その為に、公的な活動は放射能委縮をしている。私がこうした文章を書くことすら、止めて欲しいと言われる。風評被害を却って広げるというのだ。静かに、ほとぼりが冷めるのをやり過ごすしかないという訳である。堆肥化の活動など出来ない実害がある。行政も教育委員会もモンスター達を恐れる曖昧な態度は辞めるべきだ。想定外の事故以来、あり得ないことまで想定するようになった。農の会の放射能の測定のメンバーが畑の土壌が、昨年より数値が高くなっている可能性があると、主張していた。今までどこを計ってもそのような結果はない。不安だけで、根拠なく、気軽に発言しているのだと思う。そこで農業をやっている人たちの気持ちを考えてみるべきだ。昨年全く平常値だった畑である。河口の中州のような所ならいざ知らず、今年高くなる要因など間違ってもない。

善意と、正義感から、内部被ばく問題をエキセントリックに騒ぎ立てることは、状況を悪化させるだけだ。放射能については、自分なりのラインを引き、その範囲で喜んで食べるほうがいい。1950年代に育った我々世代は、間違いなく核実験の放射能汚染の影響を受けてきた。色々の記録を調べて見ると、小田原においては福島事故以上の放射能汚染だったことが推測される。今よりひどい環境汚染はそれだけではない、農薬の汚染、排気ガスの大気汚染、そして食品添加物。その為にがんの発生も高まったのだろう。しかし、おおむね生き延びて、寿命を延ばしている。マイナス要因はいつの時代にもある。最悪の想定ばかりしないでも大丈夫だ。今回の福島原発の爆発は、日本人全体の命に影響は与えるだろうが、限定的なものになる。放射能正義論にまどわされず、自分の頭で論理的に考えて、「正しく恐れろ。」と言いたい。
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森は海の恋人

2012-08-18 04:05:57 | 環境関連
小田原でも「森は海の恋人」の畠山氏が宮城から講演に見えている。そしてブリの森プロジェクトが計画されている。
「森の再生からブリの来るまちへ」をテーマとし、
まずは手入れ不足の人工林の整備から始めました。
腐葉土のない人工林は、枝打ち間伐によって地表に光を届け、
適切な採光により下層植生の回復を図ります。
そして地域の自然植生を大切にし、腐葉土を作る広葉樹、照葉樹の成長を促します。
必要な所は植樹を行います。
長く地道な活動が必要ですが、いつかこの山並みがもう一度大きな魚付き林となるように、
地域に根ざした森づくりを一歩一歩進めたいと思います。

このように訴えている。この計画は素晴らしいとことだ。しかし、農業者として残念なことに、田んぼと言う重要な要素が抜け落ちている。あえて抜いているのかは分からないが、田んぼの水に対する調整能力は不可欠な要素である。木々の生い茂る豊かな山から、豊富に流れ出た水は、ひとまず稲作を支える。田んぼに一度溜められた水は、多様な微生物を育み水も力を増す。そして海に豊潤な水を流れ出す。それが東アジアの海を豊かにして来たのだとおもう。山があり、海があるという、自然循環の中に、田んぼという人間の営みが織り込まれている見事さが、東アジアの農業には存在した。自然を大きく改変しないように、手入れを続けて行く、人間の暮らしのあり方。箱根丹沢の山の木々は大消費地江戸への薪炭の生産地であった。国内でエネルギー自給していたのだから、相当の量の森が必要だった。森の持つ資源的意味が消費地に近い、有利な薪炭生産地域を形成する。二宮尊徳は、森のファンドづくりをしている。

海の健康度、日本は69点 世界で11位。海の汚染の程度や生物の状況などから「海の健康度」を数値化して求める方法で、世界の約170の海域を評価した。日本周辺の海は100点満点中69点で世界平均の60点を超え、11位だった。江戸時代であれば、80点くらいにはなっただろう。それでも69点と言うのは、かろうじて過去の遺産が生きている姿ではないか。山や海は許容度が大きいので、まだ汚染が具体的に出ていないだけのような気がする。気が付いた時には、海の魚が激減しているような、取り返しがつかないということになりそうで怖い。まだ間に合うということでもありそうだ。間に合うとすれば、田んぼの事をどうしても織り込む必要がある。豊かな田んぼをどのように広げて行くかである。稲作も大規模工場化される方向だ。農薬を多用する農業では、水を育てるという事にはならない。小田原でもブリの来る森のプロジェクトに、めだかの保全の田んぼを連動させることはできるのではないだろうか。

山から海まで水が下って行く姿を考えた時、広く張り目ぐされていた、農業用水路の意味も重要である。暮らしを潤すものであり、又田んぼを育む水であったはずだ。里山の薪炭林の管理が、農業用水の管理となり、豊かな田んぼを作り出していた。その結果として、海を豊かにしていたのだろう。農業用水の見直しが必要である。農業用水が、生活雑排水と混ざって、まるで下水化している所がある。神聖なる水に対する信仰の終焉。少しの心遣いで回復できる用水路も多い。農業も人手不足、経営的な合理性から、3面張りの用水に変わり、生物相の豊かさを失い始めている。どうやって豊かな水環境を取り戻すかは、農業者だけの問題では到底済まない状況である。山から、森から、川から、田んぼから、海まで、町はどこに位置するのか全体の総合性を見つめ直す必要がある。故郷は、小鮒釣しかの川と歌っている。
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ロンドンオリンピック

2012-08-17 04:06:23 | 身辺雑記
素晴らしいオリンピックだった。日本選手の姿がくっきりとしていて、好感が持てた。好きなことに集中している人たちは、何とも素晴らしい。特に、打算が入り込むことも無い種目の選手は、すごい。ただ好きだからひたすらやるという人たちの、素晴らしさ、清々しさは心を打つものがあった。さらに、みんなでやる競技は、一人の時より力を出せるという、人間の可能性を感じた。個人種目であってもニチニチの練習は一人ではできない。仲間がいるからつらい練習も出来た。多くの人のサポートの御蔭だと、どの選手も語っていた。メダルを取れた人も、運がなく取れなかった人も、本当の努力はその人を高めたに違いない。そうした人間としての高い精神が溢れ出ていることが、伝わってきて嬉しくなった。日本の選手は日常の於かれた条件は、外国の選手より厳しいのかもしれない。充分の施設も無いのかもしれない。しかし、そうした条件の中でも、これだけの活躍をしてくれたことが素晴らしい。

上村春樹選手団長は競技半ばで、記者会見をして敗北宣言をした。これからやる選手はがっかりしたことだろう。上村講道館館長は述べている。柔道の目的は、柔道修行を通して身体精神を鍛錬修養することで「己を完成し世を補益すること」、つまり「柔道修行を通した人づくり」です。この本音と、建前の乖離が、柔道の連続金メダリストの犯罪を生んだのではないか。何の支援も受けない、地方予選に出ることもできない、スポーツ選手でも人間を磨いている人も無限にいる。東京オリンピックを誘致するので、選手強化をしろ。こういうことになる位なら、金メダルなどいらない。柔道競技に出た選手も、団長に比べて選手は立派だった。金メダルを取れなかったかもしれないが、世界選手権の流れからみれば、良くやったと言っても良い結果だ。相撲を考えてみたら、上位陣は半分以上が外国人である。どのスポーツの目的も人づくりである。その点、日本選手は立派な姿だった。

素晴らしいオリンピックだった。17日間。注目し続けた。有難いものを見せてもらった。プレッシャーに打ち勝つ見事さ。プレッシャーなど初めからない人もいる。そう言っていた内村選手もまさかの失敗をして、人間らしい姿を見せた。それをはねのけて個人戦では力を出した。しかし、押しつぶされそうになりながら頑張っている姿こそ、胸を打つものがある。絶体絶命においての逆転術。本命の選手より、挑戦者は力を発揮する。オリンピックの魅力はプレッシャーに立つ人間の姿の魅力なのかもしれない。人間がギリギリのところで、どのように打ち勝つか、あるいは押しつぶされてしまうのか。スポーツと言うものは、戦いであると同時に、人間修養であることが、むき出しになる。勝ち負けを越えて多くの人が、学んだのだろう。北島選手は「金メダル以上のものをもらった。」と語っていた。オリンピックに政治主張を持ち込む、韓国サッカー選手の未熟さを反省しなければならない。同じことでメダルの数を争う、政治的な国威発揚は、時代遅れの思想だ。

十二分にスポーツをやれる環境を整える。これは、エリート運動選手だけの問題ではない。国民等しく全体のことだ。オリンピックにない種目も、同様である。スポーツをやるということは、各々自身の問題である。競技者が引退後どのような道が開かれているか。海外協力隊から帰り、再就職が難しいと聞いたことがある。日本の旗を掲げて頑張ってくれた人に報いるということは、また別問題である。本人はただ自分の為に生きている。しかし、それを気持ちよくフォローがされる志の社会。こうした自然の社会環境こそ大切である。そうした意味で、プロスポーツと言うのは、好ましいものではない。アマチィアリズムこそこれからのオリンピックでは見直されなければならない。すべての分野で言えることだ。絵描きも、自分の絵を描きたいから描いているのであり、絵が売れるとか、売れないとかは、どうでもいいことである。農業でも、素人の方が徹底して理想の作物を作れるという事がある。
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