地場・旬・自給

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有機農業と放射能

2013-03-31 04:17:59 | 自給
有機農業が堆肥を使うということで、その作物には放射能が慣行農法より多くなるのではないかという、不安が言われている。そのことは、良い食べ物とは何かという意味に通じている。良い卵を作るために、生の草を与える。そのことは、放射能を0にはできないという意味でもある。放射能の影響について、有機農業研究会から、「福島第一原発事故が有機農業「提携」活動に与えて影響調査報告」が出た。全体の影響は甚大であるとのことである。あしがら農の会が受けた影響からも想像できることである。農の会の生産者に聞くところ、最近は影響はかなり小さくなってきたということである。笹村農鶏園の卵もそれなりに影響はあったわけだが、むしろ私自身の生産意欲が失われたということが、一番の影響のような気がする。食べていただく人に、喜んで食べてもらえない物を販売するということが耐え難いということだ。年齢的にもやめようという場面であったということもあり、廃業の道を進んでいる。

有機農業は有機物を土壌に投入する農業と考えてもいいだろう。一般には、堆肥や、家畜糞や、緑肥を土壌に入れる。土壌に腐食質を投入することで、土壌を豊かなものにしてゆく。豊かとは微生物が豊富で、さまざまなミネラルを含くんでいて、肥料成分を蓄える力がある土壌ということになる。福島の事故以来、有機農業は堆肥を使ってはならないという、確かではないが圧力がある。箱根の東斜面には、放射能雲がぶつかり、平野部より放射能が高い地域が存在する。100件を超える放射能測定をして、見えてきたことである。土壌でいえば、降り注いだ2年前の段階で、高い農地で100ベクレルから200ベクレルだと思われる。その後2年が経過して、全体としては半減した位である。しかし、場所によっては、さまざまな形で、集まってくる要因があれば、ほとんど下がらない場所もないとは言えない。作物の値は、当初茶葉や小麦のように直接降りかかった状況から見れば、土壌や枝や幹からの影響だけなので、半減以下になっている。田んぼの場合、水の影響が心配されたが、やはり半減程度という状態である。

27日にTウオッチから、中地先生と井上氏が小田原に見えて、5か所(川内村、小川町、那須、小田原、二本松?)で行っている放射能測定活動の中間とりまとめの会が行われた。今まで満遍なく、広く農産物や堆肥や土壌を測定してきた。このことでおおよその状況の把握が出来てきた。その結果を踏まえ、今後の方針を建てようということだった。全体の把握としては、1、小田原でも箱根山麓にはホットスポットのような地点がある。2、昨年、一昨年と比較して、放射能の影響はばらつきはあるが削減してきている。3、今後の見通しでは徐々に減少するだろうが、作物への影響は注意深く測定を継続してゆく必要がある。今後行うことの考え方として1、この地域では久野の農地が高い傾向にあるので、細かく土壌の変化を見た方がいいのではないか。2、水の放射能汚染がどのように変化しているか、一度確認の必要がある。3、そして総合的にどうすれば農作物への移行が減らせるのかを探らなければならない。

農地を見る場合、地形、水の流れ、風の淀みなど。どのような要因が土壌に変化が出てきているのかの確認がしたい。増加しているということがないまでも、減少しない場所と、大きく減少した場所の違いがあるが、この原因の推測が出来れば、対応策も見える。前回土壌の採種した場所を再度計リ変化をみる。変化の違いで、放射能の今後の対応が分かる可能性がある。水の測定は難しいが、前回と同じようなことを6月頃に行う。そのことで、一年経過した結果が分かる可能性がある。水の影響は当然稲には大きい。水の流れ込む田んぼの跡地の大豆にも大きいと思われる。カリウムの投入効果は確かにあるようなので、引き続き高いところでは行う必要があるだろう。放射能については、予想に限界がある。出来る削減対策は行ってゆく。
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北国の春のごとく

2013-03-30 04:24:41 | 里地里山


舟原のしでこぶしが咲いた。3月に入ってすぐである。舟原にこの花が咲くと、春ということになる。杏子やスモモ。そして桃に桜。さして椿から、ミツバツツジまで、今年は一斉に咲いた。こんな年は初めてのことである。「 花の湯に こころさわがしや 山の音 」昨晩行ったなんりゆーでは、客は2人きりだった。強い風に吹かれて、春が一気に近付いたことが分かる。野菜の苗作りもどんどん進んでいる。北国の春というのは、花という花すべて一緒だと聞いたことがあったが、キャベツや白菜も花が来てしまった。



黄色いのは、食べ逃した白菜の花である。緑に広がるのが、麦である。去年よりは花が花として、美しく見える。畑の緑もさわやかである。人間の気持ちは、持ち直すものである。元に戻るということはないが、花が咲いてよかったと思う。いつになったら、花を描く気になるのだろうか。春が美しい季節で、花は美しいものだという、観念はある。しかし、自分の描きたいものと関係することがあるかは、まだまだ距離がある。北国の春が、格別であるのは冬が長く大変なものだからだろう。今年は青森県の酸ヶ湯というところで、5m66cmつもり、観測史上一番の積雪になったという。まだ、4メートルを超えた雪があるというから、ものすごいものである。今年の小田原では、雪がちらついたことはあったが、積雪はなかった。雨は週一くらいで適度に降る。恵まれた冬から春への季節の流れだったと思う。

タラの芽を25日に採った。すぐてんぷらにして食べた。春の味である。フキの葉もだいぶ大きくなってきたので、そろそろ取れるだろう。ワラビもウドももうすぐである。何度もは食べないが、一通りは食べることにしている。常食にするには、山菜は向いていない。やはり野菜というものは素晴らしいものだ。かなり食べても体に変調をきたさないし、飽きない。ご飯もそうだ。毎日食べてもおいしいと思うものなどめったにない。そういうものは特段の味ではなく、単純な味であり、奥深い味わいがあるものだろう。今年の春の植樹は、4月の20日(土)である。舟原ではミツバツツジが咲き始めてしまったので、山に植えた、つつじはその頃が見ごろだといいのだが。まだ花の時期に山に行ったことはないので、今年はとても楽しみである。なんでも早く進むので、少し心配になる。お茶摘みは5月1日ということだが、今の調子だとこれでも遅いのかもしれない。何度か4月中のお茶摘みというのもあった。



「頭山」にも桜が咲いた。毎年咲く。桜の盆栽が流行っているとテレビでは言っていた。土もほとんど入れてない。山ごけだけでくるんである状態だ。特に水をやったこともない。雨がかかるだけだが、今年も咲いてくれた。苔が緑ということは、結構雨が降っているということだろう。今年は、少し桜の枝ぶりを整えようと思う。
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生ごみプロジェクトについて

2013-03-29 04:08:06 | 環境関連

市長の手紙

生ごみプロジェクトは3年で事務局を降ろさせてもらうことにした。3月27日の最後のサロンが終わった。自分の役割が一つ終わってほっとしている。市民協働ということを自分なりに追及して、一つの事例を作るつもりで進めた。それなりの成果と、限界があった。その基本は市民協働ということを行政が良く理解していなかったということが一つ。もうひとつが、行政に経営感覚が欠けていたということである。小さな行政にならざるえない財政状態で、行政でなければやれない仕事とは何か。これが理解されていたない。市民でもやれることや、市民がやった方がいいことを行政がやっている。行政でしかやれない、行政がやるべきことへの自覚と研究が不足している。法的な確認。情報の取り扱、契約の整理などは行政がやる。名簿管理など行政の役割ではないだろうか。市民が法人組織を作り、プロジェクト全体を外部委託することを行政は望んでいたのだと思う。

市民協働は今後も研究を続けなければならないが、経営感覚が行政にはないということでは上手くゆかないだろう。ごみ処理全体を産廃業者が委託されていたとして、その民間企業に対して、生ごみプロジェクトがかかわったとしたら、全く違ったものになったと思う。市民協働と言いながらも、この財政担当との接触や反応は皆無だった。しかし、予算の裏付けがなければ何も動かないのだから、本当はこの部分とのすり合わせが必要である。そして、その責任者たる市長の財政感覚は形式主義で固まって来ている。意気込みプロジェクトでは、無料の基材を提供している。新規の人への3回の無料配布はするが、そのあとは有料にするという変更になった。このプロジェクトの目的は8000世帯への配布である。8000世帯に配布するようになったとすると、毎年2,7%の燃やせるごみの削減ができるそうだ。8000世帯に無料配布すると1000万円ほどの費用である。

1キロ25円がごみの持ち込み料金だから、8000世帯が毎日500グラムの生ごみを削減すると。毎日4トンの生ごみが減ることになる。毎日10万円のごみが減っているのだ。年間3650万円になる。生ごみプロジェクトを進めてゆけば、財政的に年間2500万円がプラスになると考えるべきだ。これに伴う膨大な仕事を市民が協働で担おうというのが、このプロジェクトの進め方であった。しかし、行政は、1000万円の持ち出しのお金が、毎年出てゆくことだけを問題だとしていた。削減される経費を検討せず、この事業は持ち出しの事業であると決めつけている。恒常的な支出をしない、というような、訳のわからないことが理由である。目にみえた形で経費削減が現れないと主張する。こうして市民のお金を節約できるチャンスを逃している。私にはこの程度の計算ができないことに、やっぱり市民協働は無理かと感じた。しかも市長にもこのことを丁寧に資料を付けて、説明をしたにもかかわらず理解ができなかった。

ごみ会計の一方から見れば、財政的に1000万円の持ち出しで終わるという意見も出てくる。今のままの輸送委託量。今のままの焼却場の職員の配置。今のままの処分費の委託料。なにも改善しなければその通りである。ここに行政の役割がある。市民が1000万円で燃やせるごみを2,7%減らす。それが生きるような2,7%削減効果を上げるさまざまなことを行政が行う義務がある。これが民間企業であれば、交渉ができるし、有効に効果を上げるだろうことは確信できる。少なくとも、行政は生ごみは燃やさない。ごみは資源であると、目標を掲げるべきだ。こうした姿勢もついに現れなかった。市長が変われば、少しは変わるかと考えたが、残念なことであった。検討委員会に応募して以来、5年間努力した結果がこんなことで、空しい気分はあるが、努力はしたことなので仕方がない。友人としての加藤市長への、自分のできること、行うべき役割は果たした。
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サーベラスと西武

2013-03-28 04:35:45 | Peace Cafe
西武鉄道の一部廃止を、アメリカの投資ファンドであるサーベラスから西武ホールディングスの公開買い付けが表明されている。西武側は反対を表明している。サーベラスは3分の1の株式を所有して、経営に対して拒否権を発動できるようにしようとしている。理由は西武の経営に対して出した意見が無視されているからのようだ。もともと西武鉄道株を本来80%以上を個人が所有した場合、上場が停止されることを、虚偽記載でごまかしていた事件が発端である。社長の堤氏は解任逮捕された。その後、経営が危機となり、持ち株会社として再出発する過程で、約1040億円を出資したサーベラスは、西武の32.42%を保有する筆頭株主になる。しかし、再上場の申請の前にして、サーベラスは鉄道の廃止路線や西武球団の売却など、経営に提案を行う。

独裁的経営者堤氏による日本的経営の失敗と、利潤だけを目的としたアメリカ的投資会社との、考え方の違いがこの騒動を象徴的なものにしている。鉄道のような公共性のあるものを、企業利益の観点だけで判断すべきではないとする。日本的な主張。そして、利益を第一とするためには、不採算鉄道路線は廃止すべきとする、サーベラス。サーベラスの主張が本当に儲かる方向なのかどうかわからないが、正しい資本の利潤に従う判断であるとしても、公共性のために不利益を継続すべきかどうかである。小田原周辺でもバス路線など、利益が出ていない路線は多いい。そのために廃止され、短縮されている路線も数多くある。公共性と利潤の問題。国家と資本の関係。もし、公共性を優先すべきであれば、資本主義というものの見直しが必要になる。資本の利益が国家の利益を損なう場合、当然、国の利益は考慮に入らないということだろう。このあたりの、確認がないまま、その場の都合のよい解釈できたのが、日本の資本主義ではないか。

日本にある企業は、企業が栄えることがそこに勤務する者の利益であるとして、企業経営を優先してきた。それは、世界での企業の競争において、日本企業が勝ち抜かなければ、結局は日本という国の経済がダメになるという論理で、企業優先の法人税の減税まで行うことを優先した。復興特別税が行われる中、法人は減税になる。それを国家のためとする根拠がもし、不利になれば企業が日本から出てゆくからというのであれば、企業の公共性ということは、何を理由にしているのだろう。ホリエモンが日本放送を買収しようとしたことがあった。あの時も放送という公共のものを、利益だけを目的にした人間に、買収されていいのかということが言われた。病院の経営をサーベラスのような会社が所有して、利益優先の経営をして良いのかということだろう。

資本主義というものが、能力の高いものの競争論理である故に、尖鋭化すればするほど、落ちこぼれる大多数の人間をどうしたらいいのかが問われる。では、徳をもっての経営というような道義性と、資本の利潤をどこで、整合性を取るかである。法律で縛らない限り、資本の論理はあらゆるところに入り込んでゆく。欧米ではキリスト教的福祉意識のようなものが、社会のセイフティーネットとしてあるようだが、外国の資本が唯利益を求めて、日本のような曖昧な社会に登場すれば、弱者は淘汰されるだけになるだろう。今まではかろうじて、日本社会の支えあう気持ちで維持されたが、この先そういうものには期待できなくなるだろう。松下幸之助氏とホリエモンの違いである。ホリエモンは昨日出所した。昨日は悪酔いしたので、何を書いてのかよくわからない状態である。
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自治会の役員

2013-03-27 04:12:50 | 地域
舟原の自治会の役員の依頼があり、引き受けることにした。4月から1年が副会長であり会計。来年4月から一年が会長と言うことになるのが、通例である。以前、同じ形で公民館の役をやったので、これが2回目の役回りである。舟原にお世話になり、13年目である。依頼されて断ることはできない。公民館の役を受けたとき、一度は断るものだと言われた。それが出来るならいいのだが。様々な場面で、抜けられない仕事もあるので、どうなるだろうかとすこし心配でもある。農協の舟原の総代というのも依頼された。これも受けた。農業をやっている人が減っている以上、私のようなものでも役回りは受ける状況だろう。仕事とぶつかったときは、役割を交代してもらうと言う範囲でしか無理だろう。自治会の役員の役割が大変であるのは想像できる。半分勤めているのではと言うほど時間を取られるもののようだ。なにしろそのために早期定年をして引き受けたと言われていた。自治会が担う地域の仕事はとても多い。自治会とは何かという事を考える2年間になりそうである。

自治会の役割は重要。産廃処分場が出来るときに、自治会長の承諾で、地域の合意を得たことになったりする。自治会長の承諾と言っても、自治会の議論と決議を経てという場合ばかりでなく、自治会長が独断で判を押したなどとう事例も、全国的には珍しいことではない。自治会に規約がないということが、原因になる。自治会が集まったものに、自治会総連合と言う組織がある。これがまた、独断で行政に対して陳情書を出したりする。つまり、自治会と言うものはそもそも、民主的な市民を作り出すために、できたはずのものだったにもかかわらず、いかにも形式民主主義という日本的なものに変わっている。これは日本的知恵が良く機能しない例だろう。良い方が会長になられている時には、実に合理的に運営されることになる。まあそうとばかりはいえない場合もあり、つまり私のような人間も成る場合がある訳で、問題が起きないとも限らない。少なくとも、ブログに書いて良いことといけないこと位は考えなければならない。

2月2日の夜に譲り式と言うものがあった。4月からの役員の紹介である。私もそこで初めて名前が出たわけだが、昔は投票があったと思う。今はやってくれる人が少ないのが現状なので、選挙と言うよりは、こういう方にお願いして引き受けていただいたという、紹介かと思う。何か対立するようなことがあればまた別なのだろうが、普通の暮らしでは特別の問題がある訳でもないので、順番でというか、普通にやれるならということだろう。それは農協の総代も、農業委員や教育委員も建前は選挙であるが、そう言うことはまずないという事と同じであろう。選挙と言うような形にこだわることが、日本の地域境に適合しないという事である。こういう姿になる。民主主義的におかしいとは思わない。ただ、いったん事があるときには、このことが問題になる場合がある。その時に対応する知恵がどこにあるのか。このあたりの建前と、本音の理屈を感じ取れるのが、日本社会の大人の定義。大人ではない私が上手くやれるかは心配である。

この舟原がとても良い所で、新しく来たややこしい私のようなものを気持ちよく受け入れてくれたことがある。8か所に今まで住んだ。随分いろいろな所に住んできたものだと思う。小田原の気質は嫌いではない。実に率直である。腹にあることを貯めないで、ずけずけ言ってしまう。わかりやすくていい。疑わしいと思えば、口に出してしまう。ある意味損な性分であろう。疑わしいと思いながら、黙って腹にためている地域は、暮らしにくいところである。自分の住んでいるところに役立たないのでは、申し訳がない。と考えて役員を受けた。いくつかの課題を自分なりに持っている。そのことも、ここに書いていいのかどうか。まだわからないが。舟原地区が土砂災害地区なので、災害時の対応策は、考えたいと思う。

昨日の自給作業:畑の草刈り1時間 累計時間:15時間
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沖縄のゆめ

2013-03-26 04:18:03 | 石垣島
政府が嘉手納基地以南の米軍基地の移転のスケジュールをアメリカと調整することになった。同時に北の辺野古を埋め立てて、新しい基地を建設する計画である。沖縄の中の南北問題もあるきがする。日本の地方は、空洞化している。日本が輸出産業中心の企業社会と考えられるようになった。その企業が利潤を求めて、国という枠組みを超えて活動している。日本の国益を優先しているとは言えない場面もある。そうした世界経済の枠組みの変化に伴い、地方経済というものは、方向をつかみきれないでいる。TPPで日本の農業がどうなるかと心配されている。TPPは輸出産業を中心に考えれば当然の国際条約であろう。企業にはおおむね有利に作用するのだろう。しかし、農家にとっては、このままでは廃業の危機である。このことは、日本の地方はすべて崩壊してゆくということになる。沖縄でいえば、肉牛とか、サトウキビであろう。沖縄のサトウキビは離島の産業として、官民挙げて育ててきた農業である。国際価格の5倍程度らしい。もし、関税が無くなれば特殊な事例を除いて止めざる得ないだろう。菊の栽培が一時行われたが、輸入が増加して成り立たなくなった。

限界集落ということが言われる。多くの集落が消えて行っているのが日本の地方の現状である。山間の集落や離島の集落は経済合理性だけで維持されてきたわけではないだろう。その地域がとても魅力的なところだから、出来ればそこで暮らし続けたいという思いによって支えられてきた土地だ。青鹿氏までも、三宅島でも全島避難が長期に及んでも、期間を切望し実現した。日本人が日本人として出来上がったのは、何千年とそうした暮らしを続けてきたことに由来する。大多数の日本人は土地とともに生きてきた。沖縄でも稲作は盛んな時代があった。昭和30年代までのようだ。今は田んぼはほとんどないといってもいいくらいである。稲作は日本人の暮らしを作り出したものだ。それが各地で失われてゆくことは、日本人が変わってゆくということだろう。ではどう変われば、望ましいのかを考えたほうがいい。北海道は食糧生産の基地になるのがいいのかと思う。大規模で国際競争力がある農業が出来る地域は、限られている。

では沖縄はどうか。「医療や老人施設を充実させた特別地域にするというのはどうだろう。世界から医療の研究や、高度医療を受けるのために人が集まるような地域に出来ないだろうか。若いうちは本土で働き、老後は沖縄で過ごす。政府はそのための税制や設備の充実を行う。老人の増える時代、沖縄のような自然環境の魅力ある地域を生かす方法はある気がするのだが。」ここまでは以前書いたものだ。沖縄という土地は人間を癒す力があると感じている。そういう土地は、世界中探してもそうあるものではない。気候や、自然の力もあるが、そこにくらす人間の持っている回復力を感じる。それは病院というだけでなく。引きこもってしまった子どもたちなどにも、とても良い水土だと感じる。沖縄が祈りの島ということが言われる。確かに、そうした神聖な空気のある場所が、たくさん存在すると感じた。現実に沖縄の元気というものが、日本の重い空気を救っている。

政府は基地負担の削減を主張している。絶対に必要なことだ。10%の土地が米軍の基地であるようなことは、いつまでも続けていることは不自然なことだ。今回の辺野古移転でも、基地という迷惑施設と引き換えに地域開発や、雇用が提案されている。その行われてきた実態をみると、今のところよい成果を出しているとは言えない。基地を削減を主張するならば、基地に代わる経済的な構想を提案する必要があると思う。沖縄にどのような夢が描けるかと言えば、沖縄の自然治癒力のような力を生かした、ものではないかと思う。団塊世代の退職後の移転先にはなり始めている。長期滞在型の、のんびり施設はすでにある。先端医療設備の完備した、滞在型人間ドック。引きこもりの子供たちの、元気になる学校。IT細胞の研究施設。自然エネルギーのモデル地区。スポーツ医学の研究、トレーニング施設。税制等の特区指定をしたらいいのではないだろうか。
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自給農業は農家を超える。

2013-03-25 04:44:39 | 自給





自給農業は農家の農業を超える。品質においても、収量においても、自給農業は専業農家より高いレベルのものになる可能性がある。採算性、労働対価を考えないで済むからである。養鶏を長年やってきたのだが、家庭で10羽程度飼育する家庭養鶏の卵以上の卵を、養鶏業作ることはできないと考えるに至った。笹村農鶏園の卵は販売されているものでは、日本一だと自負しているが、趣味で飼っている人では、私以上の人はいる。ここでいう良い卵とは生命力の強い卵である。現在、養鶏を縮小して80羽くらいになっているが、少なくなればなるほど、鶏は良くなる。米作りでも、野菜作りでも、一番すごいものを作っている人は趣味の人ではないのではなかろうか。絵だってそうだろうと実は思っている。これは、大学の美術部の時、部長だった般若さんが良く言われていたことの影響だ。素人だから、職業の人に比べて、劣るというのでは自給農業はだめだと思う。言うだけでなく、やって実現しなければと考え、研究を続けている。

課題は野菜であった。田んぼは自信がある。品質収量ともに納得している。小麦も、大豆もまあまあだと思う。問題は野菜である。50種ぐらい作るのが、自給農業である。専業農家にはすでにこれが出来ない。農家の野菜よりは品質はいいと思う。由緒が分かるので安心である。自家採種までできる。味の点で手前味噌と同じで格別である。自分の好みの味のものを旬の時期に作るのだから、当然である。価格を考えれば、私のキャベツは500円はするだろう。こういう野菜は専業農家の人にはできない。出来るけどやらないという方が正しい。手間のかけすぎである。たまに行く、お好み焼き屋さんは年間を通して、ほぼキャベツは自給だといわれていた。これがすごい。専業農家には絶対できない実践である。トマトは毎年長く食べている。キュウリが好きだから、長く食べたい。旬を長くしたい。加温までしない農法で、長く食べれる方法を実現しなければならない。5月から10月までは取れるようにできないか、挑戦している。

野菜がなぜ難しいかと言えば、50種あれば50種の違う農業技術があるからだろう。納得できる前に、混乱して忘れてしまう。ハスやクワイの作り方から、大根やニンジンの作り方まで、熟知するのは本当に難しい。やってみなければわからないことなので、時間がかかる。一年一つの野菜をこういうことかと分かっていたら、50年かかってしまう。それが玉ねぎのように、25年作り続けて、まだよくわからないものがある。しかし、やっとわかってきたのがホウレンソウだ。写真のような状態である。今まで食べたホウレンソウで一番おいしかった。叢生栽培である。種を播いてから、何度もくん炭を播き続けた。それだけである。草は取らなかった。面倒だから取らなかったのだが、それで良いようだ。酸性土壌が中和され、土が良くなってきたというのが一番の原因だろう。石灰を入れて酸性を中和するということはしない。石灰は土壌の微生物に良くない。堆肥を何度も入れて、5年目の畑である。

小麦は今年は麦の会と、自分の畑との2か所で作っているが、自分の畑の方がだいぶ出来がいい。土の違いがよくわかる。同じ種を同じ時期に播いたので、違いがよくわかる。麦は一面に播くので、畑の土壌のムラガ分かる。家のわきの畑はだいぶん土が安定してきている。さして堆肥を入れないでも作物が出来るようになってきている。5年間の土作りが成果が出てきたということだろう。それでも客土のところは悪い。麦を一面に播いてみたのは、麦に耕してもらおうという気持ちもある。それで畑は、7月まで使えないということもあり、今年の春は、プランター農法に力を入れている。これが農家を超える農法ではないかと思っている。家の中に入れたり、外に出したり、そんなことは絶対に農家の人にはできないだろう。自給農法技術の確立。

昨日の自給作業:小麦の土よせと追肥1時間 累計時間14時間
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プランター農法

2013-03-24 04:11:02 | 自給
自給の野菜作りはプランター栽培が向いている作物もある。畑で作るのでなく、容器で作る方法である。私にはニンジン、長ネギは畑では作れないが、容器では作れる。大体のもはできると思われる。コンテナ農法という考え方があって、農業用のコンテナに土を入れて、野菜作りを提唱している人もいる。農業用コンテナは陽にさらすと案外に寿命が短い。さまざまどういう容器がいいのか、実験をしている。もちろん野菜によって容器も違うはずだ。



布容器である。腐食布で作られバケツ型のものだ。直径が20センチ、から50センチと何種類かある。意外に丈夫な布である。これで、生ごみ堆肥も作れる。この布鉢は大根を播いてみた。本来、植木の根巻用のもののようだ。国華園の通販で購入したが、いつもあるものかどうかはわからない。



大きめの普通のプランター。木のカバーを作るつもりであったが、まだやっていない。1個1000円くらいだった。置く場所があれば、プランターは大きいものが作りやすい。まだ何も植えていない。苗を作っている間。土をプランターの中で熟成させている。系分堆肥と、籾がらたい肥を混ぜた。良い土を作るには1カ月は見て置く必要がある。



スーパーの袋でのサツマイモ作り。スーパー袋の耐久性の実験のようなものだ。2重にしてみた。現在ハウスの中で、さつまの発芽を待っている。



陶器の植木鉢でのキヌサヤエンドウ作り。花がきれいなので、観賞用にもなる。4本植えてあるが、すでに1ヶ月くらい食べている。絹サヤは案外取れる量が少ない。収穫期間も短いのでそろそろ終わる。次々違うところで出来てくるようにすると便利である。今は日当たりのよい窓下の花壇が咲き始めている。



魚用の発泡スティロール箱でのニンジン作り。これは何度もすでにやってみて、とても良くできることが分かった。ともかく草が取りやすい。種をまいた後、適度に間引きながら、10本ほど残す。草はこの範囲なら、完全に取り除ける。一年中作れる。今は布鉢にも播いてみている。ついでに箱の奥にあるのが、大きくなるにんにく。なにしろ、リンゴくらいになる。いただいて、あまりに見事なもので、全部を食べないで、ハウスの中で作り続けて4年目である。



大きな布袋が置かれている様子。ここには長ネギと、玉になるタイプの山芋が植えられている。長ネギは伸びてきたら徐々に土を加えてゆく。最後に白くなった部分が30センチくらいになるようにやっている。



ついでに踏み込み温床の苗トレーの置かれた写真。キュウリとトマトが生育がいい。今年もナスとピーマンが発芽が遅れている。温度が足りないとも思えないのだが。まあ仕方がない。

色々の作物をやってみているが、一番成功しているのがニンジン。ニンジンを畑に作った時は草に負けてどうも、種まきが上手くいかなかった。つい多くまいてしまうので、逆に食べきれない時もある。そこで、適度にいつでもニンジンがあるという状態を作るためには、プランターでニンジンを作るのがいいと考えた。私のような横着者でもプランターの範囲の草取りならできる。
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停電と原発ネズミ

2013-03-23 04:07:41 | Peace Cafe
ネズミが漏電の原因になり火事なるということが昔はよくあった。天井裏の電気の配線が、十分なものでなかったのだろう。ネズミがかじってそこで電気が何かに流れて熱を持つ。珍しい事故ではない。とくに、私のように養鶏をやっていると、鶏小屋にも電気が引いてある。家畜小屋というのは、どうしてもネズミが来る。ある意味ネズミとの戦いである。家畜小屋が漏電から火事というような話はないわけではない。だから、何箇所かに漏電遮断機がある。昔ならシューズが飛ぶということになる。鉛の線が容量以上の電気が流れたら、解けるようになっていた。この鉛の線を針金で代用したことで、火事になったという話も聞いたことがある。福島第一事故はまだ続いている。終息宣言はしたが、2年たってもまだ、完全に状況が把握されたわけでもない。汚染水は今でも海に流れ出ている。だから原発のそばの海は今も放射能汚染の値が減少しない。

東電はこのことに対して、原因不明であり、汚染水の流出はあり得ないとしている。ではなぜ海の放射能は減少しないのか。誰が考えても不思議なことだ。あれこれ原因不明ということで、2年間が経過した。東電は原発事故が起きたのは、津波によって電源が無くなったためとしている。冷却を続けるということが、原発に対しては絶対条件となっている。ウランというものは核分裂を始めると、熱を出し続ける。もう止めることはできない。だから、冷却用電源というものは、肝心要のものである。原子炉はたぶん大丈夫だったんだが、電源の確保に落ち度があったので、大事故につながった。東電の言い訳である。だから電源が原発の安全性において、最重要項目であるとなっていた。ところが、事故後2年たってから、29時間に及ぶ停電が起き、また冷却が出来ない状況になった。その原因がネズミが配電盤に侵入したためということである。人間はこの事故から何を学んだんだろう。

東電の人間が特に悪いということではなく、人間というのはそういうものなのかもしれない。あれこれ失敗するのが当たり前である。だから、失敗を補完する仕組みを作る必要がある。これも、福島事故後にさんざん言われた話である。東電は何も学習していない。しかし、政府も原燃も東電も、原発の再起動にだけに熱心である。このレベルの安全意識の会社に、日本人の運命を預けていいのだろうか。ネズミがいる位当たり前のことだ。野外に配電盤を置けば、最初に考える当たり前の注意事項である。たぶん電気会社のことだ、漏電に注意するように利用者には言っているくらいだ。知っていたはずだ。知っていても、注意しても、事故が起こる。この程度のことが上手くやれないものが、原発はないだろう。どう考えても、日本人の運命を託す気になれない。原発は事故が起きたら、その被害は取り返しのつかない規模のものになる。この認識が不足しているのではないか。故郷が汚染される悲しみは限りない。

ネズミ対策であるが、まずは配電盤を緊急対応したものから、恒久的なものに変えるべきだ。何故、2年間対応をしないできてしまったのか、検証すべき。しっかりとした建物を建てて、その中に配電盤を入れる。しかも、一つの配電盤事故で、4つの電気がすべて止まる仕組みはおかしいだろう。原子炉ごとに配電し、系統を安全のために2重にしておく。しかし、素人でも考えることをやらないできた東電という会社はひどすぎないか。家庭の電気でも保安協会という別会社がチェックに来る。東電の施設の場合、保安協会は指導に行かないのか。こういう会社にお茶の出荷停止の被害を与えられ、その保障もまだ貰えない。会って話したいといっても拒否されている。こんな状況下、政府は原発を再開しようという方向のようだ。自然エネルギーへの転換が、ヨーロッパに比べて相変わらず遅れている。一番力を入れなければならない日本が何故こんな状況なのだろう。

昨日の自給作業:玉ねぎの草取り1時間 累計時間:13時間
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北陵クリニック筋弛緩剤事件

2013-03-22 04:16:24 | Peace Cafe
北陵クリニック筋弛緩剤事件がえん罪の可能性が高いという記事を魚住 昭という人が、週刊現代に書き続けている。この事件について詳しいことを知ったこと自体が、魚住 昭氏の記事によってというだけであるが。しかし、警察というものの証拠調べが、いかに杜撰なものなのかということがこの事件でも分かる。警察はなぜか、証拠主義にならないのかである。どこかに問答無用、自白重視という、権力意識があるからではなかろうか。予算と科学捜査の人員が足りないのではないか。証拠主義は膨大な費用がかかる。その費用と手間と能力がないのではないだろうか。その結果、刑事の感で印象で決めつけて、進めてしまう。その昔、同乗した自動車で事故にあった。警察で調書を取られたことがある。その時は、滋賀県と福井県の県境の道路が凍りついていて、何十台の自動車事故が相次いであった。私たちもそのそばで事故があったのだが、それとは別の事故であった。

取り調べをするということになり、1時間もかけて調書をとられた。しかし、どうも話がおかしい。場所の特定が違う。取り調べの警察官が、違う事故と混同していたのだ。道路の坂が上りと下りと違う。嘘を着くなとか言っていた。要するに状況が違う場所を勘違いしているのだから、話が食い違うのは当然である。それでも何とかでっちあげてしまった。そして報告してから、間違いを上司に指摘される。それを偉そうにこちらが嘘をついたためだとか主張した。調書取りを、結局5分でやりなおした。申し訳ないなど一言もない。まるでこちらの対応が悪いから、間違えたかのような態度であった。この事故は、滋賀県の道路管理者の責任ということになった。取り調べの警察官は思い込みで、人の主張を嘘だと決めつける性格になる。疑いの眼ですべてを見ているからだろう。冤罪事件というものはこうして作られるということが分かる。警察の取り調べ室で、脅かされたことはあるが、自分の主張は絶対に曲げなかった。今なら可視化してくれと言うつもりだ。

現在、遠隔操作パソコン事件について、取り調べの撮影を希望しているそうだ。しかし、それを取調官は認めない。何故だろうか。この事件も真相は闇である。警察がとても馬鹿にされた事件だ。誤認逮捕を4人も誘導されてしまった。警察の能力不足が策謀によって白日にさらされた。屈辱適事件であろう。だからと言って、犯人と思しき人間の取り調べを、可視化しないというのは間違っている。これはすでに人権無視の犯罪行為である。この間ついに、自ら真犯人とする書き込みまで登場した。その証拠というものも出されている。と言っても私は見てもわからないのだが。5人目の誤認逮捕は目的通りということが書かれている。誰が犯人であるかはもちろんわからないが、どうも、証拠主義で行こうとすると、行き詰まるということのようだ。パソコンに残されたものを証拠とするには弱い。容疑者を、東京地検は3日、処分保留として一度釈放した。そして、他の事件で再逮捕し、取り調べを続けている。

時間をかけ、精神的に追い詰め、可視化せず白状させようと、締め付けているということではないか。もしそういうことなら、誰が犯人であるとしても、警察による人権無視事件になる。長野サリン事件、足利事件、郵便不正事件であれだけ冤罪が暴かれ叩かれても、捜査当局に反省はまったくない。パソコンのウイルスを扱うハッカーの特殊な知識が背景にある。自白がなければ、残念ながら、立証は難しい。そして江の島の猫と映っているビデオ映像。これを証拠とするには、世間はそうかなと思うかもしれないが、裁判所は証拠とはしないだろう。そんなものを証拠として認めれば、誰だって冤罪事件に巻き込まれる。結局警察はお金をかけて、ハッカーを上回る知識を持つ以外ない。それができないということにすでに警察力というものの限界を見せているのかもしれない。
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もみ洗いと土振い

2013-03-21 04:11:36 | 稲作
3月20日は春分の日毎年この日に、籾洗いをすることを決めている。籾洗いという言葉が、どの程度一般的なことかは知らないのだが、良い言葉なので使っている。浸種とか、塩水選のことである。春になり、稲の籾の目覚めを促す日。塩水の濃度は1,3と言われていて、卵が横向きに浮くくらいとされている。卵はずいぶん比重が違うので、利用しない方がいい。ボーメ計というものがあり濃度は簡単の調整できる。しかし、塩水選などしなくても、大丈夫である。より厳しく比重の重い、充実した種もみを選別した方が病気にならないなど言われるが、そんなことはない。ある方向への選別を続けることは、問題もある。50回以上やったが、塩水選別などしなくても、稲に病気などでない。お米も平均以上に収穫してきた。それでは、籾洗いは何を意味するかと言えば、種もみに情報を伝えることである。春が来ましたよ。もう目を覚ましてくださいよ。この時、私は海水が良いと考えた。海水の濃度で浮き上がるような種籾はさすがに問題がある。

種籾が水という情報を出会うことは、とても重要なはずだ。これが三つ子の魂のように、稲の生涯を決めるかもしれない。稲は河岸の植物である。春になり川の水位が上がることで、発芽が促される。鮭の稚魚のように川から海に回遊する魚は、あの広い太平洋にで暮らしていても、生まれた川の情報は記憶している。水には記憶される情報があると考えられる。そこで、久野川の水が入る田んぼの稲作である以上相模湾の海水が感じがいい。たぶん大した意味はないだろうが、少し気にしている。そして出会うべきは、海水だと考えている。唯の塩化ナトリウムでは気に入らない。海水という万物の混合したような、情報に出会う方がいいような気がしている。根拠はない。そういうイメージである。哺乳類の胎児も羊水に包まれて育つ。植物の種に与える情報もあってほしいと思っている。まあ、簡単にいえば儀式のようなものだ。一年の稲作のスタートの祈りのような意味もある。

種子消毒もしたことがない。できるだけ避けたいと思っている。やることになっているという先入観でやりたくない。この日は春分の日である。何故春分の日にやるかとあえて言えば、毎年そう覚えて置くと分かりやすいからが一番である。少し、迷信のような太陽信仰である。稲は太陽の恩恵で育つ。月などなくてもいいが、太陽がなければ絶対に育たない。その太陽が春分点を通過した日、二十四節気の第4が春分。この日から昼間の方が長くなってゆく。生命が広がってゆく感じがする。種籾はこの日から15度以下の水につけて置く。昨日の水温は午後1時で13度だった。何故か毎年高くなってゆく。今年の種まきが4月21日だから1か月水に浸しておくことになる。出来れば育てる田んぼの水に浸種しておきたい。以前、1月1日から川の水に浸けておいたことああったが、これは発芽がそろった。川で何か起こらないか、気になって管理が大変なので、1ヶ月くらいにした。川に良い場所が見つからなければ、水道水でもいいと思っている。井戸水では水温が高い。水温が低いということが意味がある。この場合毎日水を変える。

今年はこの日に土振いも行う。セルトレーに使う苗土を振う日である。苗土は雑草が出ないということが一番の条件である。山土を使っている。今年は物置小屋の土木工事があったので、その時深いところの土を掘り出してもらった。苗土には、クン炭とそばガラ堆肥を混ぜて使う。そばがらたい肥は古いものがあればいいが、今年はほとんどない。なければないでもいいと思っている。苗土自体に肥料分がある方がいいのかは難しいところである。有機苗土の場合、よほど良い状態まで作らないと、種を播いた後からカビが出る可能性がある。苗代に堆肥を入れて、セルトレーから根を下に出して、大苗を作ることを目標にしていた。苗床が良い状態で、水が温かく、水位が上がるのであれば、苗土自体には肥料分はいらないようだ。このあたりは今年の観察課題にしたい。そろそろ苗床の準備が始まる。

昨日の自給作業:籾洗いと浸種、土振い 5時間 累計時間:12時間
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全柔連の責任の取り方

2013-03-20 04:25:57 | Peace Cafe
全柔連は監督の暴力行為に対して、会長ほか執行部の辞任をしないことを決めた。組織が機能していなことを感じさせる。これでJOCが交付金の停止程度で認めるとしても、IOCが許さないだろう。園田監督の暴力行為がだんだん明るみに出てきているが、尋常なレベルではない。これを握りつぶしてしまおうという感覚では、世界の目が許すことはない。これはスポーツだけではなく、日本の組織のあり方すべてが封建的で、民主的運営がないとみられることだ。外部から人材を招くことなど、提言の具体化については6月の理事会までに道筋をつけるとした。あまりに遅い。どうも、相撲や柔道などの伝統的な武道の世界がこんなことでこじれてゆくことは残念で仕方がない。素早く、潔く責任を取るという姿を見せられないものか。未練は、武道家として恥ずかしいことのはずだ。日本の組織の悪弊を痛感する。徹底した民主的な運営である。

日本では芸術の世界でも、さまざまな団体が存在する。これは特異な状況である。絵の世界のことは少し知っているが、大きな団体になればなるほど、前近代的な組織である。絵の団体であるにもかかわらず、絵の話が出来ないところが多い。会長の今回の絵はマンネリだ。などという発言は禁句である。ここには、日本的な師弟関係の意識があると思われる。理屈抜きで師を尊敬しなければ、学ぶことができないという考え方である。それは大切なことではある。同時に、一人の芸術家としては、志がある以上絵に対しては、上下関係もないという意識も大切となる。日本の社会では、このあたりが上手く使い分けられるかどうかが、人間の評価になる。「私を幾つだと思っているのか。」こういうことを言われたことが何度かある。身分をわきまえろというということだろう。正邪に対して、若年の者は黙れというようなことは、悪い社会を作る。これが女性は黙っていろということにもなる。これが変えられなければ、日本はどんどんダメになる。

正しいからと言って、主張すればいいというものでもないこともわかる。正義、正論を振りかざして、背景や歴史を顧みず、云い募るのも良い結果を生まないことも確かだ。気付かないことや、奥深く横たわるものがあるかもしれない、と想像を働かす必要はある。しかし、女子柔道の選手があえて、発言したことは、社会が支えなければならないことだ。これだけのことが起きていることが、明らかになったにもかかわらず、責任もとろうとしない執行部なのだ。まだ、暴力的指導なしに選手が強くなるはずがない、こう信じている可能性がある。ここまで硬直し、状況把握の能力がないのでは、どんな方法をとろうとも、覆す以外にない。いくつかの団体にかかわってきた。決めていることは、役員を長くやらないということである。水彩人もそうした。農の会もそうした。生ごみクラブもそうした。変わることで権威化することを避けたいからである。代表や会長が変わらないような組織からは、遠ざかるようにしている。悪い気が充満して、空気が良くないからである。

日本人の一番悪い姿が組織の作り方に現れる。たぶん企業もそうなのだと思う。経団連の会長の発言など、時代認識がないひどい場合が多い。それでも内部から批判が出てこない。政治家を取り巻く世界もまさにそうで、世襲が多くなるのもそのあたりからきているのだろう。それでうまくやってきたということがある。つまりそうした成功体験が良くない。組織が形骸化して、日本がダメになるということになり始めているのだろう。独裁者の方が上手くゆくこともある。しかし、長続きするものではない。どうやって引き継いでゆくかを常に考えてゆくことが大切ではないか。それには徹底した民主主義である。まずはルールの確立。そうすれば柔道界でも有能な女性が登場する。女性が中心に居ないような組織が、良くなるわけがない。日本が遅れ始めている大きな原因は、女性の有能さを理解できないところにある。
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辺野古と名護市漁協

2013-03-19 04:12:05 | Peace Cafe
名護漁港の正組合員96名のうち91名が総会に参加し、議長を除く88人の賛成で辺野古の埋め立てに同意した。一方、宜野座村(宜野座村)、金武(金武町)、石川(うるま市)の3漁協は反対のようだ。この背景にある状況は複雑で、沖縄の問題はなかなか想像しがたい。ここには日本各地にある、地域の衰退と、補助金によって政策を進める政府の手法があることはまちがいがない。沖縄県知事、県議会、名護市長、名護市議会とも県外移設を求めている。名護漁港の組合長古波蔵(こはぐら)広組合長は「本当は代替施設に来てほしくないし、沖縄県全部が反対して来ないならば一番いい。しかし国が国策として持って来たらどうするかという話で、そうなれば一番損するのは漁民だ」と話した。同意書について「納得いく補償額でないと出さない。うちの同意が必要ならば、我々の申し上げる額を『分かった』と国が英断してくれればいい」

沖縄本島では北部やんばる地区が開発の手が入っていない。沖縄北部地区開発事業という問題がある。経済を発展させるためには、基地を受け入れて、十分な補償を得ようという考えがあると想像される。防衛施設庁が東村で修学旅行生を受け入れる施設を作る事業等々である。普天間基地の辺野古移設問題も名護市の経済問題として意識される。名護市は北部の中心都市である。住んでいないものには、実際の奥深いところはよくわからない。しかし、迷惑施設を公共事業や補助金と引き換えに強行することには問題があるだろう。本来進めるに当たっては沖縄の長期的な展望が必要なはずだ。それが北部開発事業では、不十分に思える。米軍基地の沖縄負担の軽減ということが言われても、本土ではどこにも肩代わりしようというところはない。沖縄が長い間米軍に占領されていたという歴史も本土では認識が浅い。沖縄がどれだけ不当な犠牲を強いられているのかを理解しないと、この名護漁協の全員に近い埋め立て賛成に至る背景は理解できないだろう。日本全国の過疎地域が抱える共通の問題がある。これから人口減少が進み、さらに深刻化するはずだ。

沖縄の地域振興はすべて基地の問題と絡んでくる。普天間基地の辺野古移転に伴い、北部地区の開発計画が政府から出されている。それを以前の名護市は受け入れていた。それが反対になり、民主党政権になり全体の構図が変わった。ところが、政府が自民党に戻り、沖縄の対応も変化を始めている。原発再開と地域振興を抱える全国の過疎地域は同じ問題を抱えている。結局のところ、過疎地域振興が、原発補助金に依存している。原発リスク、基地負担、それどころではない現実との板挟みではないか。東京の電力のために、福島の地元地域が被害者になったという論理は、おかしいと思う。補助金がもらえても、嫌だという施設を受け入れない。反対をすべきなのだ。結局のところ、経済優先意識が日本をだめにしてきている。公共事業が減って地方に仕事がない。だから基地工事であれ、原発工事であれ、ともかく仕事がほしいということではないか。

私は沖縄本島に行って、一番魅力を感じたのは、今帰仁城址(なきじんぐすく)であった。名護市からさらに北部に行き、やんばるに行く途中の半島にある。そばに、すばらしいちゅら海水族館がある。これは海洋博に伴ってできたものだ。名護から見ると、本部町があり、さらに奥に今帰仁村がある。さらに奥の地域となると、手付かずの自然が残されたやんばる地域である。こうした自然の価値を日本全体で、どのように生かすかを考える必要がある。日本全体として沖縄の自然を大切にできるのか。自然の価値が、どのように保証される必要があるのか。医療や老人施設を充実させた特別地域にするというのはどうだろう。世界から医療の研究や、高度医療を受けるのために人が集まるような地域に出来ないだろうか。若いうちは本土で働き、老後は沖縄で過ごす。政府はそのための税制や設備の充実を行う。老人の増える時代、沖縄のような自然環境の魅力ある地域を生かす方法はある気がするのだが。
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絵を描くことと、作物を作ること

2013-03-18 04:09:25 | 水彩画
なぜ、絵を描きたくなるのだろうか。絵を描き始めた時から、不思議に思う。絵を描くことが好きな子供だったことは確かだ。と言って、うまい絵を描ける子供ではなかった。自分の絵を下手で恥ずかしいといつも思っていた。伯父が彫刻家である。祖父は昔のイラストレーターのような仕事をしていたらしい。何となくそういうことで興味を持ったということはあるかもしれない。絵を描くということを、自覚してやり始めたのは、中学1年の時である。渋谷にあった地球堂という画材屋に油絵セットを買いに行った。中学の美術部に入った3人で行った。世田谷中学には稲田先生という素晴らしい絵の先生がいたことが影響したように思う。初めての授業で、その先生は芸大生の時に右手を失ったと言われた。それでいつも手をポケットに入れているが、みんなが異様に感じると困るからだ。と言われた。左手で絵を描き始めたが不自由なく描くことはできると明るくいわれた。

作物を作るのも好きだ。作物を作り、それを食べてくらすということが、とてもいい。やれる間は何とか続けたい。今種まきをあれこれしている。一日5,6回は見てしまう。まだ芽が出ていないか。葉はどうなったか。別段何をするわけではないが、見たくなる。わずかな変化が面白くて仕方がない。特別なことがあるわけでもない。当たり前に推移するだけだが、自然に従って、作物を作るということが嬉しい。折り合いを付けている感じがいい。畑に播いた堆肥で土の今の状態が、苗の生育とどう折り合うかなど予測する。玉ねぎはこのあとどのくらい太ってくれるか。そういうことを見ているだけなのだが、実に飽きることなく面白い。麦は日に日に成長する。これでいいのかどうか。追肥はもう一度した方がいいのかどうか。眺めて考えているだけなのだが、自分がやることが、作物に影響する状態が、自然を読む総合ということで、これが面白い。自給農業の醍醐味だろう。20日にもみ洗いをして、いよいよ田んぼが始まる。

絵を描くことの奥には、素晴らしいものがある。という確信だけがあった。その素晴らしい絵というものが、どこかにあり、それを見つけようというような、青い鳥気分だった。ところが、私にとっての絵というのはそういうものではなかったらしい。と気付いたのは40歳になってからだ。自給自足で暮らそうと山北に住み始めてからだ。自分の絵をこのまま死ぬまで続けられる。そういう安心が出来た。結局のところ、私が絵を描きたいという気分になるのは、、自分の見ている世界を、画面で確認したい、ということのようだ。それは誰かの作った良い絵とは、関係がないということがわかった。それは、自分の暮らしと関係しているらしい。畑を見ている目に移る自然を、絵にする。見ている自分とは何かということが、つまらない取るに足らないものであれ、自分というものを、描く絵をとおして確認したいということらしい。それは世間のいう絵画とは、関係のないもののようだ。鶏を飼い、田んぼでお米を作り、畑をやる。こういうことが絵を描くということだと思うようになった。

私の絵の描き方が、特殊なのか、普通なのかはわからない。たぶんこのブログを書くことと、作物を作ることと、絵を描くこと、すべては似ているのだと思う。描かれた絵の役割が何を意味するのか。作ったお米は食べればなくなる。しかし、なくなるがそれを食べた結果、私は生きている。絵を描くということも、それに近い。絵を描くことで、私の命が命として継続している感覚がある。日に日に、描いた絵よりも、描くということに、さらに見ているという充実の意味が強くなる。描かないでもよくなるのかもしれない。そういうものに近づきたい。確認するとか、確かめたいから描くということだろうか。私の家には私の絵が並べてある。時々眺める。そうすると、自分というものがなるほどと見えることもある。また、一体誰が描いたのかと思うほど、検討すらつかないこともある。もっと絵を描いてみたい。もう少し作物を作りたい。
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TPPの農業への影響

2013-03-17 04:32:24 | Peace Cafe
国の産業競争力会議に加わっている、楽天の三木谷氏は日本農業は国際競争力がある産業だと発言していた。根拠のある考えなのだろうか。関税を撤廃した場合、コメや砂糖など農林水産物33品目の国内生産額計約7兆1千億円のうち、4割超に当たる2,9兆円が失われると見積もった。影響が最も大きいコメは1兆100億円減る。食料自給率(カロリーベース)は2011年度の39%から27%程度に低下する。これは以前農水省が試算した額よりは少し低い見積もりであるが、それでも大変な額であることを政府が認めたことになる。何をどう変えれば、競争力がついてくるのか。そこを説明してもらいたいものだ。TPPに加入する見返りに、農業対策を打ち出す。しかし、補助金農政と減反が日本農業をだめにした元凶である。また補助金でごまかすのではだめだ。この機会に徹底した構造改革を行うことが先決である。人口の減少、米の消費量の減少。農業従事者の老齢化。耕作放棄地の増大。農業後継者、新規就農者の先細り。ここまではだれも異論がない条件だろう。本当に規模拡大と、機械化だけでいいのだろうか。

稲作他五品目が例外品目になる可能性は低いだろう。それでTPPに加盟しないとは思えない。自民党的に、訳のわからない条件で妥協する可能性が高い。農業分野に補助金をどれだけ入れるかが、必ず出てくる政策である。たぶん今回は、大型農家や参入する法人に対して、直接払いをすることになるだろう。補助金目当てに、異業種から参入するものもあるだろう。補助金が農業をアンバランスなものにする。補助金をもらえない農家は止めろということだろう。国の借金は膨大である。補助金にも限界がある。食料の基本である稲作農業が自立して生き残る道を政府は構想すべきだ。それを示したうえで、国際競争力のある農業の主張をすべきだ。利益の出る産業としての仕組みを政府は打ち出す必要がある。地方別の農業の方針を明確にすべきだろう。神奈川県の稲作農家は止めろということなのか。足柄平野に暮らす人間は極力足柄平野の食料を食べるべきだと考える。こうしたあり方は許されないことになるのか。

日本の稲作が最も合理化した場合の生産コストは、60キロ当たり6000円で、将来の可能性として4000円が限界ではないかとされている。(諸説あるが)1キロ、66円程度である。キロ130円消費価格が限界ではなかろうか。特定の地域においては、条件が整えば、現在の半値までの可能性はある。産業としての稲作と、自給的農業に2分化する。大規模機械化して産業として考える経営的農業に対して、補助金で一時的救済をするのはなく、大規模農家の経営基盤を徹底的に整える政策が必要である。満遍なくやるのではなく、地域経済として合理性だけを重視して行う。同時に業として考えていない、小さな農家は老齢化とともに消えてゆくことになるだろう。日本の国土を維持し、文化を支えてきた、こうした条件不利地域の田んぼは無くなる。棚田に代表される小さな田んぼがなくなることにより、日本の自然環境が崩壊するに等しい打撃になる。これは、たしかに直接的な経済の打撃ではないが、長期的に見れば、日本が失われてゆく道筋と言わざる得ない。

経営的には成立しないものでも、残さざる得ないものがある。日本を作り上げてきた、瑞穂の文化を残せるかどうかの問題である。日本文化が世界で評価される背景にあるものは、美しい日本で培われた感性である。それは2000年以上の日本人の暮らしを通し、日本人を作り上げたものである。それを失えば、日本人である価値も失うことになる。中山間地の稲作が、国際的な経済合理性がないからといって、その地域においては、重要な産業である。稲作が消えると同時に地域自体が消滅が増加するだろう。政策としては、中山間地の耕作放棄農地の公共化である。何が何でも維持するという、思想を政府は示す必要がある。自然環境保全地区の指定でもいい。伝統産業維持地区の指定でもいい。このまま限界集落が増え続ければ、日本が日本である一番大切なものを失うことになる。
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