地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

石垣島と小田原の2つの自給活動

2024-02-29 03:59:45 | 楽観農園

 舟原溜め池

 2018年の11月14日に石垣島に越した。石垣に来て5年と4ヶ月である。70歳を前にしての引っ越しだったのだが、引っ越しが移住になった。移住というのは、新しい土地で生活を行うことだと考えている。石垣では絵を描くだけだと考えていた。それで引っ越しのつもりだった。

 それが、干川さんという石垣島で開拓生活をした方と出会い、みんなでやる自給農場をやることになった。3.6ヘクタールもある大きな農場建設なのだから、どう考えてもこれは移住して、新たな生活を始めることになる。まさか、70歳近いのに農場を始めるとは考えていなかったことだった。伊能忠敬である。

 80歳まで農業が出来る身体でいる覚悟を決めた。それからは健康オタクである。80歳の農業者は結構居る。健康であれば、そのくらいまではなんとか農作業が出来る。身体を動かしていた方が、健康によいと言うこともある。それなら最後の冒険をしてみようと覚悟した。

 農場で作業の合間に絵を描いている。絵だけ描いているより絵の調子が良い気がしている。結局農作業が好きなのだと思う。毎日農場に行きたい。今も小田原に1週間行って留守だったので、早くのぼたん農園に行きたくて、うずうずしている。稲がどうなっているのか楽しみなのだ。

 小田原の1週間もなかなかおもしろかった。舟原溜め池の整備をしたのだが、17人の仲間と目一杯働いた。小田原の溜め池はもう10年以上整備を続けている。一年一年良い場所に成ってきた。溜め池には植え付けたカキツバタがあり、それなりに広がってきて、見応えが出てきた。

 まだ溜め池の完成も先のことになる。あと5年くらいは必要だろう。根気よく手入れをして行くことが、里地里山作りには不可欠なのだ。舟原溜め池は江戸時代初期1658年頃に建造されたものだ。350年前に小田原久野地区は田んぼの造営が進み、人口が増加した。そして溜め池が3つ、天子台下に水利トンネルも作られた。
 
 舟原溜め池は久野地域の始まりを表わしている農業遺構である。小田原城よりも歴史的な意味は大きいと考えている。重要なことは権力者の歴史では無く、庶民の歴史だ。田んぼは年々失われ、久野の棚田もかろうじて農の会が維持している状態になってきた。このままでは久野地区に田んぼが開かれた歴史が消えるのではないか。そんな不安から、溜め池の整備を始めた。

 小田原に行けば、それなりにやることがある。月に一回1週間は小田原暮らしになっている。これが継続できているのは農の会の渡部さんの御陰である。小田原の家の維持管理をしてくれている。そういう人が居なければ、2地域居住はやりたくても出来ないことだった。

 小田原には200人の仲間が居る。石垣島「のぼたん農園」にも30人くらいの仲間が居る。仲間が居るから自給のための農園作りは出来る。これほど有り難いことはない。石垣島に来て一年ほどで田んぼを始めた。フェースブックで仲間を募集したら、すぐに62名の応募があった。

 田んぼの活動を待っている人が沢山居たのだ。最初に始めた、名蔵田んぼから、1年して崎枝にあるのぼたん農園に移った。新しい場所で再出発して、今では30名の仲間になっている。新しい農場を何も無いところから作る大冒険だ。湧き水のある美しい場所である。またとない機会を頂いた。私たちの修学院離宮を作ろうと考えた。

 自給自足のための模式図である。未来永劫継続できる自給農園である。環境を創造する農園である。環境活動の大半は守る活動である。環境保護だけではもう限界に来ている。例えば珊瑚の保護活動をどれだけしても、水温の上昇があれば、珊瑚は死んでしまうのだ。

 江戸時代の里地里山は人間が作り出した調和した永続性のある暮らしの場である。人間が自然環境の中に織り込まれた暮らしである。自然を大きく変えずに、人間の方が自然に溶け込んで行き、自然を改変しないことで、永続できる暮らしを探したのだ。江戸時代の暮らし方は、次の時代の暮らし方の方向を示している。

 普通の農家が行う農業の継続は経営が難しくなっている。これから残る農業は、合理化された企業的大農業が中心になるだろう。大面積を大型機械で行うスマート農業は政府に推奨されている。食料の安全保障と言うことで、政府の補助金も出ている。そしてその対極に生まれるのが自給農業だと考えている。

 企業農業に対して、小さな農家経営が競争できなくなるのことは目に見えている。その結果条件不利な農地は、統合されることが出来なくなり、放棄されて行くことになる。これは35年前に山北で開墾生活を始めた時に、予測したとおりの結果である。日本中に耕作放棄地が広がっている。

 石垣島でも事情はそれ程変らなかった。30年前の足柄地域を見るようだ。経営が困難になるから、後継者がいる農家は少ない。農家数が減少している。そして徐々に耕作放棄地が広がり始めている様子が見える。その分企業的農家が増えてて行き、農地を吸収してくれればありがたいことだが、条件不利な農地は経営上利用できない。

 こうした条件不利な農地を利用できるのは、市民が行う、自給的農業である。山が荒れていれば、一気に水は海に流れ出してしまう。山が管理されるためには木が産業として切り出され、更新されて行かなければならない。そして山際には水を溜める田畑が必要になる。

 赤土流出を防ぐ沈殿池を作るよりも、田んぼをが継続して作られて行くことの効果の方が大きいのだ。田んぼダムである。一度田んぼで雨水を溜めることは、海を赤土で汚さないためには必要なことなのだ。上部に畑や放牧地があるならば、下に田んぼがあり一度水を溜めることが必要になる。

 上部の放牧地での糞尿がそのまま流されてしまえば、窒素の流出が地下水汚染にも繋がる。一度田んぼでその水を涵養し、浄化して、下流に流すことの意味は大きいのだ。田んぼは地下水を涵養する場にも成る。水の不足する島では田んぼダムの意味は大きい。

 条件不利地域の小さな田んぼが無くなることは、自然環境が痩せて行く大きな原因になる。田んぼは生き物の多様性を守る場所なのだ。それを支えることが出来るのは、市民の自給田んぼしか無い。自給のために田んぼをやりたいと考える人は多い。そのためには小さな田んぼの技術の確立である。

 稲作技術では小田原での技術は石垣島では通用しなかった。石垣島には石垣島の自給稲作技術がある。「ひこばえ農法」と「あかうきくさ農法」である。14世紀にはベトナム周辺にあった熱帯の稲作農法である。石垣島の気候では可能である。のぼたん農園では、この技術の確立を目指している。

 今年はやっと技術になりかかってきた。観察整理して、石垣島の自給のための農業技術を完成したいと考えている。ともかく実践である。自分の身体でやってみる。実践以外に自給技術の確立はない。もうそこまで来ている気がする。いよいよおもしろくなってきた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絵に習うことはない。

2024-02-28 04:15:53 | 水彩画


 リーダーのわかばが種付けのために、出かけたので今は桜とのぼたんの2頭。人の後を着いてくる。

 絵を描くためには頭の中で、描く絵を想像できなければ絵は描けない。だから子供にお母さんの顔を描いて下さいと言っても、母親の顔を想像して描くことは出来ない。リンゴを見て、リンゴを描くこととはまるで違うことになる。お母さんを描く子供の絵は、一度知識に置き換えて描くのだ。例えば眼鏡をかけているとか、頭はくるくるパーマであるとか、太ってまん丸であるとか。言葉にすればなんとか描ける。

 図像としての母親を想像できて、その頭の中にある図像を写し取ることは、幼稚園児では出来ない。たぶん小学校三年生ぐらいまでは出来ない。だから子供は顔と言えば、へのへのもへじ的に、マルを描いて眼をヨコに二つ描くと言うように、実際の顔では無く、図像として出来上がっている図を書くことから始まる。

 いわば、顔を書くであって、描くではない。書写のようなものだ。日本画には画家になってもそのような絵が多数ある。朱竹のような、出来上がった図があってそれを、描く決まった筆法があり、手順でなぞるだけで、竹らしい姿ができてくると言う方法である。中国画は今でも大半がそれである。

 正月の掛け軸と言うことで、鶴亀図とか。松に日の出。海越しの富士。翁媼図。決まった図柄を描くことが、伝統的な日本画の描き方で、この図を徒弟制度の職人と同じように、先生に教わると言うことだったのだ。そういう装飾絵画が、絵師の仕事であったわけで、まあ今の日本の絵画にもその伝統が息づいている。

 その意味では、庶民の絵画であった、浮世絵は少し違う。面白い、新しい意匠が人気を集めたのだ。次々に過去にないものが現れる。そこには従来の日本画にはなかった。絵画の本流に触れるものがあったのだ。庶民文化が、貴族文化を凌駕した江戸時代のすごさ。

 縁日にでる大道芸のような、昇り龍の一筆書きというのもあった。子供の頃お祭りには必ず出ていたもので、その描き方を家でも遊びで良くやっていた。今でもあの龍図の寅さんはどこかにいるのだろうか。筆を前後に揺すりながら進めると、龍のうろこに見えるのだ。指でパチッと目を入れる。お絵かき遊びと言うことで結構やっていた。

 絵を描くと言うことと、図を再現すると言うことは全く異なることなのだ。アルタミラの牛の図は絵であり、牛の記号では無い。縄文の土偶は造形である。子供の頃に絵を習おうとしたときに、図を写すことから始めるとすれば、大きな間違いをすることになる。絵を描くとは、見えている世界を再現するのではない。紙の上に新しい世界を作ると言うことなのだ。

 明治期の図画教育は、まさに写画である。教科書に見本の絵があり、それを写すことが図画の時間だったのだ。書道の時間は書写である。見本の文字を真似をして写すのだ。はいこのように筆は入れて、横へまっすぐ引く線の速度はこのくらい。止めは力を込めてと。絵画はそんなことを覚えれば、自分というものが遠のくばかりである。

 藝術としての書ではなく。代書屋さんの看板文字である。それらしくだけの物にすぎない。絵をかくと言うことが、何かの図を真似を覚えることだった。その伝統は根強く今にも続いている。だから絵を描くというとデッサンをすることが基礎と言うことになる。日本美術の衰退の原因はここにある。

 デッサンは美術学校の受験の基礎であって、絵描きになる道を誤らせている。上手に写し取る能力は、確かに商品絵画の製造に関わるなら意味があるが、絵を描く為には何の意味も無い。むしろ芸術を志すとすれば、害になることの方が多い。芸術としての絵画は写すのではなく、作り出すものなのだ。

 お母さんの顔を描いてください。幼稚園でもやる事かも知れないが、これはなかなか奥が深い話なのだ。それを言われたときに、途方に暮れてしまった。お母さんを絵に描くことなど出来るはずがないと思ったのだ。いわゆる顔の形の図を書いてもお母さんには成らない。

 どうしたら良いのか、全く考えつかなかった。舟を描くと言っても、舟の図の書き方は分かっていて、手順通り書けばそれらしく舟になる事の方が不思議だったのだ。それは、見たことのある舟とはまるで違うが、舟の図ではある。この違いが分からないのに、お母さんと言われても、それは立体的な存在で生きている。どうすれば図になるかはとうてい分からなかった。

 この絵を描く要領は私にはなかなか突破できなかった。所が要領の良い子供も居るもので、こんな風に顔は描けば良いんだよと、手順を示してくれる子が居た。なるほど、そうかそうやれば顔らしきもになると、気がついてやり方を真似てしまって安易な解決をした。

 あのときは重要な分岐点だった。お母さんというものを絵に描けるかという命題は、実は今でもある。確かに、絶対的な愛情を持って面倒を見てくれた存在である。あの感じを絵に描くけるかと言えば、これは大きな命題になる。聖母マリア像もそうなのかも知れない。

 金沢大学の美術の授業は光風会の北浜淳先生だった。この人に教わったことは、「せめて絵の具を混ぜるなら、よく混ぜろ。」と言うことだった。この言葉が頭に残り、50歳ぐらいまで悪影響が残っていた。あるとき読んだ中川一政の言葉に、絵の具はあまり混ぜないで塗るようにした。と書いてあり呪縛が解けた。

 絵の描き方は自分が発明するか、発見するかするしかないものなのだ。だから石膏デッサンをするというような、馬鹿げたことは避けた方が良い。それが上手に出来ることが、絵を描く基礎ではない。下手が絵の内。上手いは絵の外。藝術としての絵は生み出すもので上手に写すものではない。

 明治時代がいかにだめな時代かが、美術の授業を考えてみても分かる。学校教育が、人間教育になるのは、大正自由教育が始まってからのことだ。自由学園の美術教師だった山本鼎によって人間教育としての絵画が始まる。私の叔父は山本鼎の授業を受けていたので、その様子を話してくれた。

 藝術は人間の表現である。その人間がどこまで深い世界を感じているかにかかっている。言葉にすれば世界観の表現なのだ。幼稚園の時のように、お母さんを描いてくださいということは、子供には実は、それはあなたの世界観を描いてください。と言うことなのだ。
 
 言葉には書ききれない世界観も、絵なら表現できるかも知れない。これが藝術としての絵画の目標だと考えている。薔薇や富士山の図を、手順道理に巧みに写すものではないのだ。そういうつまらないことが絵に混ざれば、どんどん自分の世界観から遠ざかることになる。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新しい「山の人」に成る。

2024-02-27 04:15:03 | 暮らし


 わかばが留守なので、なんとなく物足りないサクラとのぼたん。

  山の人という言葉は柳田国男の民俗学の中に出てくる。「山の人」とは「原遊動民」と考えて良い。権力から離れた流浪の民である。定住をしないで移動しながら暮らしている人々。国家から離れた自由な集団と考えて良い。これからの時代に、新しい山の人が生きる余地が生まれるのではないだろうか。

 90歳まで生きていると、全国の自治体の半数が消滅しているらしい。地方社会が消えてゆき、どんな社会になっているのだろうか。人口減少から起こる地方消滅は困った問題と言われているが、案外に良い社会のように思う。私のように、山の中で自給自足を体験したものとしては、ずいぶん条件が良くなりそうに見えてくる。

 例えば、新しく開墾して畑を作る場合、山に戻っているにしても、その昔は農地であったところの方が、ずっと農地に戻すことが簡単なのだ。この先、山は荒れ果ててゆくのだろう。イノシシや、クマや、鹿などの野生動物も増えるはずだ。猟をすれば、売ることも出来るだろうし、案外食べ物には苦労しないのかもしれない。

 山菜だってとる人がいなくなれば、いくらでも取れるだろう。採種生活中心で、後は田んぼと狭い畑があれば、何とか食糧の自給自足は出来るはずだ。そこまで覚悟すれば、何も怖いことはない。石垣島でも人口が減少すれば医療は限界が来るかもしれないが、ITを利用した医療が始まるだろう。

 生まれたのは山梨県の藤垈の外れの、山の中にある向昌院という曹洞宗の寺であった。今はいとこが住職をしている。同じ藤垈にあるお隣のお寺は、今では誰も住まなくなり、崩れ落ちたままである。藤垈も私が生まれたころは、外地からの引揚者が沢山いて、人口は一番多かった時期ではないかと思われる。

 日本中の山村や離島の戦後は、そういうところから始まったのだ。明治以降人口が急増して、政府は移民政策を行った。実際は棄民政策を行った。日本の社会が急増する人口を支えきれない状態になった。農家では後継者となる長男以外は家から出てゆく以外なかった。

 橋田寿賀子作の「おしん」の世界が明治の山村の現実だったのだ。明治政府はとんでもない方角に日本を進めた。日本の歴史の中で、最も農民が飢餓に苦しめられた時代だ。先進国に追いつくという発想しかできなかったところに、限界があった。日本は明治帝国主義の競争心で、江戸時代まであった日本らしい良いものを捨てた。

 敗戦後、外地に出て行った人々が日本に引き揚げて、山村や離島に戻り暮らす以外になかった。都会は焼け野原だったのだ。いくらかでも平らな場所があれば、段々畑にされて、藤垈の周囲の山も開墾畑が広がっていった。占領軍が行った農地解放は大きな希望だった。開墾をすれば自分の農地が広げられる制度もあった。

 人海戦術で里山の開墾が進められた。残された里山は薪炭の供給地で、地域のエネルギー源になっていった。あの開墾から、戦後の民主主義社会が始まる。何故か、青年団の人たちの、ばかに明るい、希望に満ちた空気を思い出す。青年団活動や生活改善クラブのお母さん達の取り組み。

 何か新しい時代への期待が、敗戦を忘れさせてくれたのだろう。映画上映会やお祭りの開催の盛り上がりは、山の中に特別な賑わいが生まれて、まばゆい夢のような出来事であった。今では荒れ果ててしまった河原に何百人の人が集まったのかと、想像すら難しいことだ。

 頑張って働けば誰でも豊かになれる気がした。未来に豊かな暮らしが待っている希望のある社会。努力して農産物を作れば、農業で豊かになれる山村が、一時だけ出現したのだ。開墾しても、充分な農地が手に入らないものは、街に働きに出た。子供が街に働きに出た家は、忽ちに裕福になってゆく。

 むしろ農地が少なかった家の方が、職業転換が早くできたのだ。土建業や建設業などを中心に様々な仕事が、人手を求めていた。村には自動車を買う家まで現れた。村に小さな工場も出来て、そこに働きに行く人もたくさんいた。養鶏を始める農家も現れた。

 戦後の復興期から、高度成長期に入る。もはや戦後ではないと言われたのが、敗戦から10年の1956年である。それからの急速な変化は地方の様子も、都会の様子も、一変していった。1970年までである。万博が開催された年だ。高度成長の方向が危ういものに変わってゆき、この流れは公害を生み、最後についに原発事故に至る。又間違ってしまった。

 あれから、半世紀が経過した。あの急激に肥大化した地方社会が、維持が出来なくなり、消えて行こうとしている。たぶん問題は人間の変貌にあるのだ。戦後の民主主義社会の希望に満ちた社会の中で、頑張れば何とかなると信じて、ひたすら働いたあの人たちであれば、今の地方社会は何とも魅力的に見えるはずだ。

 一番の違いは、今の社会は農地が放棄され、そこで農業をやろうと思えば、手に入ることだ。あの頃の日本人は働く農地がないというので、海外に出て行かざる得なかったのだ。誰だって日本で働きたかったにちがいない。あの頃の青年であれば、希望に満ちて日本の地方の中山間地で、頑張ることだろう。

  日本の問題は、人間の問題なのだ。病院がないから地方社会では暮らせない。学校がないから地方では暮らせない。ないものを数えている人間では、地方でのこの先生活を立てることは難しいだろう。あるものを見れば、豊かな土地が目の前にある。これほどの自分の力で生きてゆくには、良い条件はないだろう。

 社会はIT革命で大きく変わるはずだ。産業革命で世界が変わったように、コンピュター社会になることで、社会の在り様は激変する。今ある職業の半分は無くなると言われている。どんな職業が残るかなどと、つまらない想像をするより、自分らしく生きることを考えるべきだ。

 問題になるのは人間がどう生きるのかという事だけだ。原点にあるものは「食べもを作り生きる。」ここに立ち戻ることだと思う。それが出来れば何も怖れることはない。都会での暮らしよりも、中山間地の暮らしの方が、よほど安全な暮らしだろう。

 現代人はビニールハウスで育った軟弱野菜だ。自然の中で生きることをためらう。あらためて日本の中山間地をみれば、これほど希望のある場所はない。私は今石垣島の崎枝という場所で、3,6haの牧場の跡地を開墾をして、自給の農場を作ろうとしている。借地料は年1反7500円である。

 耕していて、どれほど小田原の農地が恵まれていたかと思う。小田原でも反7500円ならば、貸してくれるところはあるだろう。いや、もっと安く貸してくれる農地があるかもしれない。中山間地であれば、無償で使える場所すらないとは言えない。そうして誘致している地域もあるのだ。

 人間次第だと思う。ビニールハウス育ちが、野外生活に耐えられるかである。その強い肉体があるか。その気力があるか。その捨て身があるか。結局、開墾途上で死んでも構わないと思える覚悟があるか。自分で作ったもの以外は食べないという覚悟を持てるかである。大げさに言えばで、本当は何気なくやればいいことだ。

 35ねんまえ5年以内に自給生活を成し遂げると覚悟をして始めた。そして達成した。その自給自足の安心立命が何より良かった。自己管理をして病気にはならない決意をした。それでも病気になれば死ぬのも仕方がない。運命を受け入れる覚悟だ。幸いあれ以来一度も病気はない。

 そして、一人の自給が出来たら、今度はみんなの自給だ。自分が確立した自給技術をみんなの自給技術にして行く。そうすれば、一人の自給は100坪の土地と、1時間の労働で可能になる。あとの時間は自分の目的に向い生きて行けばいい。みんなの連携が全国に緩やかに広がる。

 まず、便利さの社会を捨てることから始まる。それは精神主義でもないし、宗教でもない。現代の普通の暮らしをしながら、自給生活をしようとすれば、社会に引きづり込まれるのだ。先ずは一時代戻る覚悟ですべてを捨てて、やり始める。

 これから中山間地で暮そうと考えるものに必要なものは、科学的な思考だ。農業高校の教科書を買って読むと良い。当たり前の農業の知識から始めることだ。趣味ではないのだ。命がけのことだ。カリスマの自然農法などにはまらないことだ。趣味の農業に引きづられないことだ。まず食糧自給から。

 新しい「山の人」は軽トラアトリエで移動しているぐらいのイメージである。縄文人のような暮らしをしているわけではない。自給自足をしながら、緩やかな連携を取り合う、同族がいる。その同族間で交流を持ちながらアトリエカーでふと訪ねてきて、技術交流をする。そんな山の人だ。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月の小田原での農作業

2024-02-26 04:18:49 | 地域


 雨ばかりの小田原だった。この雨が石垣島で降ってくれればと思うばかりである。2月24日土曜日、一日だけ雨が降らない日があった。この日を溜池の整備の日に当てていた。何かの力が、晴れた作業日を引き寄せたと思った。こういう経験は何度もある。天我に味方する。

 この日がもし雨ならば、溜池工事は最悪な展開になった。トラック2台分の土が、この日の9時に運ばれたのだ。降ろしてもらう場所は道路の脇で早くどけなければ、成らない場所なのだ。工事現場までは一輪車で滑る鉄板の上を運ぶのだ。雨に濡れた土は重い。危なくて、工事は中止するほかない。

 当日は17人の人が集まってくれた。一人以外はすべて農の会の人たちだ。農の会の仲間の思いが結集する。こんなに有難いことはない。心より農の会の仲間に感謝をした。作業は一人一人が、精一杯やった。それで一日かかるだろうと予測していたものを、何と午前中で終わらせたのだ。



 これでしばらくは溜池も水を維持できるだろう。たぶん溜池を守るという事は、常にこうした工事をして行くという事だ。以前は舟原の溜池は、欠ノ上の水利組合が管理作業を年2回やっていた。しかし、欠ノ上でも田んぼをやる人が減少して、管理の維持が出来なくなった。

 管理が出来ないくなった途端にごみ捨て場と化した。どこの悪徳業者化が目を付けたのか、ごみで溜池は埋められてしまった。こんな悪徳ごみ業者が多い。熱海の住宅地の不法投棄土砂崩れを生じさせたのだ。舟原の周囲にはこういうごみの不法投棄があちこちにあった。私の養鶏場もそういう場所に作った。

 溜池をなんとか復活させようと清掃を開始した。たぶん、20年ぐらい前の話だ。農の会の仲間と久野の里地里山協議会の仲間で、こうした荒れ果てた場所を農地に戻そうと、活動を開始した。その一つが今の欠ノ上田んぼでもある。4か所の整備をした。国の補助事業として行われた。

 溜池管理の問題はかなり複雑で、所有者が明確ではない土地だった。国の土地だと言われてはいたのだが、調べた結果、旧久野村の所有地のままであった。という事は小田原市が合併したのだから、この土地は小田原市のものにできないかと動いた。



 何とか小田原市の土地にしてもらうことが出来た。小田原市の溜池であるなら、欠ノ上の水利組合に、水利権を正式に放棄してもらう事が出来た。欠ノ上の自治会長さんにはお世話になった。今後は小田原市が管理しなければならないという事になった。そうした契約書を作成した。

 そして、小田原市と里地里山協議会の間で、管理委託書を作った。小田原市は必要な工事材料は提供してくれる。そして、溜池の管理は里地里山協議会の者が行う。小田原市は舟原ため池を史跡として、表示もして行くという事だったのだが、まだ看板を作られていない。

 しかし、実際の所の管理は、農の会の仲間が行っている。草刈りは年4,5回必要になる。水路の清掃なども年2回は行う。私が小田原に来た時にやらしてもらうことにしている。舟原に越して来た時に、この溜池にオシドリの番が泳いでいた。あの光景にもう一度戻したいと思っている。



 今回の工事は溜池の水漏れ箇所に、泥を入れて道を作る工事が中心だった。泥にセメントを混ぜながら、歩ける程度の幅の土手をつくり、洩れている石垣の脇を高くした。これだけで午前中かかるとみていたのだが、10時半ごろには終わった。次に中央を仕切る土手の水漏れの補修。

 これも毎年やらないと少しづつ洩れてしまう。その頃には砂利が運ばれてきたので、上の道路の崩れ箇所に砂利を入れる。これで一応は軽トラダンプが通れるようになる。その後さらに4回来た軽トラダンプの砂利を奥の道に降ろす。

 最後に、入水口にあるコンクリート管の中の土砂を取り除く。危ういところだった。完全に詰まれば、簡単には水が抜けなくなる。かろうじて水が通っていたので、何とかどしゃを取り除くことが出来た。この作業が終わるころに丁度弁当が来た。溜池の作業が午前中に終了。

 力を合わせて、みんなで作業することのすばらしさを痛感した。清々しい気持ちで作業を終わった。昼食が終わり、それならばという事で、ジャガイモ畑の区割りをして、ジャガイモを植えてしまおうという事になった。明日の予定だったが、明日は朝から雨予報である。

 手分けをジャガイモ畑の区割りなどを進めると、あっという間に仕事が進み、何と2時半ころにはジャガイモ、私の畝11mに男爵を4キロを植え終わる。これで20キロ採れるのが目標だ。仕事がはかどるので、この勢いで、小麦畑の肥料振りをやってしまおうという事になる。これも4時には終わった。すごい勢いだった。

 本当は3日に分けてやるはずの作業だったのだが、雨でやれないでいた。その作業が一日で全部やれてしまった。みんなの働き方がすごい。小田原に来ると私が一番手が遅い状況になる。それでも何とかまだついて行ける範囲である。いくらかでも役立てることが嬉しい。

 肉体的はかなり疲労したはずだが、気持ちは壮快の大満足。いつもそうなのだが、こうしたみんなとやる作業がやりたくて小田原に来ているのだと思う。動ける間は続けさせてもらいたい。溜池がカキツバタでいっぱいになるように頑張りたい。今年はカキツバタの回りの雑草を早めに取り除く予定。

 今回は、小麦とタマネギの草とりはやらないで済んだ。上手くそばガラのコーティングが効いている。そば殻を播いて、その上から米ぬかを播く。そして水やり。これでかなり雑草が防げる。しかも肥料になり、土壌をよくする。これは素晴らしい方法だ。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第200 水彩画 日曜展示

2024-02-25 04:04:56 | 水彩画

第200 水彩画 日曜展示









404「ヨットハーバー」
2024.2 6号






405「赤い林」
2024.2 6号





406「春の伊東」
2024.2 6号






407「フサキ」
2024.2 8号







408「花」
2024.2 10号







409「篠窪秋」
2024.2 中判全紙







410「海辺」
2024.2 10号







411「マゴノ森」
2024.2 15号





 200回目の日曜展示であるが、特別なことはない。考えないで続けている。絵は様々なものが表れてくる。毎日何の脈略もないが、自分の絵ではある。それでいいのかと思っている。無理やりどこかに向いたくはない。小脳的に、反応的に絵を描いて見ている。

 いつか絵を描く方法を忘れたい。歩き方は忘れても歩いている。歩き方を思い出すこともないが、何とか歩ける。たぶん姿勢も悪し、みっともない歩き方なのだろう。しかし、それが74年かかった歩き方なのだろう。千田是也は歩き方で人間は表現できると書いている。

 私の絵は私の歩き方であればいい。無理やりこさえたような、立派な歩き方はいらない。健康になるウオーキングレッスンはいらない。とぼとぼ自分らしく歩ければいい。毎日7000歩ぐらいは歩く暮らしでいたい。そんな感じで日々1枚の絵を描いてゆくつもりだ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日々の一枚の1400日

2024-02-24 04:18:51 | 水彩画


 日々の一枚で水彩画を描くことを続けている。何でこんなことをやっているのだろうかと思う日もある。ただ、決めたことなので続けてみよう、と思って何とか続けている。日々の一枚は葛飾北斎から学んだことだ。その心意気がすごいと思ったから真似をしている。描きたい思いが湧いて来るので、続いている訳なのだが。

 続けてきた今の状態を少しまとめておこうかと思う。日曜日には200回目になる。はじめて200週1400日ということになる。描いた絵の数は1411枚。これが私のすべてである。毎日1枚は描いてきたことになる。始めたのは2020-05-17 04:00:46とある。こういうことが、すぐ分かるのがブログの良いところである。

 始めたのはコロナの流行が契機だった。絵を発表すること自体が難しくなった。水彩人も中止せざる得なかった。絵を描いて行く気持ちの維持と言うことがあり、このままではいけない。ブログで発表して行こうと考えたのだ。始めた頃は絵が出来たら出すと言うことで、毎日描く日々の1枚は考えていなかった。

 北斎は日々の1枚を行い100歳を超えれば、何でも生きたように描けると書いている。「画狂老人卍」の画号を用る。長寿を得て百数十歳に至れば、一点一格が生きるがごとき絵を描けることだろう、と記す。そして絶筆を昇り龍にした。

 その龍は絵から抜け出て空に舞い昇って行く。その龍が北斎なのだ。所が北斎は残念なことに、1840年北斎は90歳で亡くなる。北斎は歳をとっても衰えなかった、数少ない絵描きの一人である。日々の一枚の意欲が北斎の絵を最晩年まで北斎の精神をその絵は伝えている。

 書いておけば、葛飾北斎の絵は島根県立美術館が多数保存している。ウエッブで一部の絵を公開しているので、いつでも北斎の絵を見ることが出来る。代表作とも言える富嶽三十六景は、70歳代前半のもので四十六作品の連作である。今の私と同年代だ。今更のことだが、改めて考えてみるとすごいものだ。

 江戸時代に70歳を超えた老人が歩いて、富士を巡り回って絵を描いている。愛知県当たりから富士山を描いた絵もある。今の私が富士山の周りを何年もの間、歩き回り絵を描くようなことが出来るかである。富士山にも登って描いているとおもわれる。本当に絵を描くことに狂った人だったのだろう。またそれを受け入れた江戸の庶民もすごいものだ。

 北斎では無く、自分のことであった。北斎に匹敵する、絵に対する情熱はあるつもりだ。しかも、マチスも、セザンヌも、ボナールも、私には付いていてくれる。改めて100歳を超えて、描いてみようと思う。それが北斎が出来なかったことだ。

 自分の絵の空間を作ることが、最近の目標のようだ。意識してそうしていると言うよりも、自分の絵がいつの間にかそうなってきていた。どういうときに絵になってきたと感じるかというと、絵に空間が出てくると、はっと、その勢いに気付くのだ。何か絵が現われた感じがするのだ。

 空間が表れていない絵もいくらでもある。それは絵が出来ないと言う感じが無いまま、終わりまで行った絵だ。なかなか絵にならないで、試行錯誤している絵は、ある時絵が立ち上がる感じがする時が来る。どこかに線を引いたり、色を付けたりしたときに、何故か画面が大きく変り動き空間が広がる。

 何故、そんなことが起こるのかは分かっていなかったのだが、繰り返している内に、どうも空間が現われたときらしいと思うようになった。空間が現われるとはどういうことか、言葉になりにくいのだが、平板な絵の姿が突如立体的になる感じだろう。その絵画空間は写真のような陰影による空間でもないし、ぼかしによる空間でも無い。もちろん遠近法による空間でも無い。

 平板な色面の組み合わせが、突如空間を表わし始める。その中心となる原因は画面の中の色や形に動きの調整が付くというような感じだ。西洋画の言うところの、いわゆるムーブマンというものなのかも知れないが、もう少し違う感じもしている。もったいぶって言えば、絵が精神的なものになるという感じがする。

 どちらかと言えば、北斎の絵にある絵の気韻生動という姿である。絵に命が宿るという状態。どうしてそうなるのかは分からないが、あれやこれや訳が分からず、やっている内に偶発的に起こる。それで、はっとしてあれこれさらにやる。それで絵が終われる時もあれば、また絵が死んでしまうこともある。

 線の動きが絵に流れを生む時もあれば、色彩が命を吹き込むときもある。一枚一枚絵によって違うので、絵を描く公式があると言うことではないようだ。自分の気持ちの方の違いもある。その日はそれで生きたと思えたものが、翌日には死んでいると言うこともままある。

 多分水彩画がかなり自由に描けるようになってきた気がする。沢山描いたからだろう。日々の一枚の成果と言える。色々の紙に描いている。しかし、和紙に描いたとしても、木炭紙に描いたにしても、ケント紙に書いたとしても、水彩画紙に描いても同じことである。

 描く技術が巧みになったために、その紙に応じて描けるようになり、自分の世界観をどんな紙でも対応できるようになってきた。そのことが良い方向に進んだと言うだけの意味では無い。むしろ上手は絵の外に気を付けろと言うことである。

 下手で無くなってしまうことで、絵では無くなってしまうことは、絵の世界ではむしろありすぎるくらい、普通のことなのだ。上手に描けたために、絵の世界観が無いにもかかわらず、一般論としての絵らしきものに見えてしまう危険がある。絵で唯一意味のあることは、作者の世界観が絵の中に表現されているか、どうかだけである。

 当たり前の事で、絵は作者の内的な世界を表現するものなのだ。外界をきれいに写すものは、装飾品としては良いが、芸術表現としての絵画とは関係がないものなのだ。内的な世界と言うことが以前よりは、絵の表現として感じられるようになった気がする。

 自分に至ると言うことが、絵の目標である。それは絵の宗教的目的のようなものだ。ある意味信仰の世界と言えば言えるようなものだから、他の人の絵とは関係の無いことだろう。絵を描くことで、自分とは何かを考えていると言うことになる。

 人間として生まれて、遠からず死んで行く以上、自分というものを知りたい。その思いを絵を描くことに託したのだ。仏教で言えば、回心とか、悟りとか、言うようなものなのだろうが、私の場合は、その修行の道が絵を描くと言うことらしい。坐禅とか、念仏とか、そういう形の無い修行が出来なかったのだ。

 絵であれば、自分の成長とか、変化とか、衰えとか、そういう物が画面に現われる。その形を頼ろうという姑息な修行の方法なのだ。姑息に見える方法ではあるが、私にも出来る唯一の方法なのだ。自分の死ぬまでのことだ。やり尽くしてみるほか無い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちばあきおを憶えていますか。

2024-02-23 04:04:21 | 


 昔自殺してしまった、一番すきだった漫画家、ちばあきおさんのことを思い出した。女性の漫画家の方が自殺されたからだ。それで、「ちばあきおを憶えていますか」千葉一郎著集英社(あきおさんの長男の方)という本を読んでみた。

 いろいろ思い違いがあった。「ふしぎトーボくん」が最後の作品と思っていたら、その後に「ちゃんぷ」と言う作品があったのだ。しかもその仕事が自殺をされる要因になったらしい。そんな事さえ知らなかったのだから、尊敬していたなどと言える資格がない。

 ちばあきおさんはうつ病での自殺だと思っていたのだが、実際は創作の苦しみから、アルコール中毒になり、飲み続けていて、漫画を書けなくなっていた。しかし、何とか再起しようとして、もう一度「ふしぎトーボくん」を書いた。その漫画の不思議に静かな透明感はさすがのものであった。

 もちろん私は当時、何故か、プレーボールが途切れるように終わり、その続きがはじまら無いのかと期待していた。全く理由が分からないままいたので、何時プレイボールが再開されるのか。などと安易な想像していた。谷口君が墨田二中の後輩達と高校で甲子園に出る努力を、何時始めるのかなどのんきに考えていたのだ。

 それから三年間、何とか再起しようとしていた。そして、危険な最後の賭けのような創作に戻ったのが、トーボ君だったのだ。やはりそれが無理だったのだろう。完全主義者だったようだ。何しろ出版後の本が、赤ペンでびっしりだったそうだ。

 しかし、プレーボールは再開が無いまま力尽きて、つまりまた酒浸りになり、自殺してしまったのだ。そういうことは全く想像していなかった。辛かったことだろうと改めて思う。私には創作の苦しみはないので、分からない。が、あの谷口くんの世界観は身を削って生まれていたことは分かる。

 トーボくんの透明感は、死を予感させるものだったのだ。全く迂闊な読者である。ちばあきおさんは元気で、次のプレーボールの合図を待って、準備体操をしているのだと思い込んでいた。その先入観は、どうしても、あの谷口くんが戦いを諦めるとは思えなかったのだ。谷口くんとちばあきおさんがごっちゃに成っていた。
 
 ちばあきおさんは、ちばてつやさんを長男とする、漫画家一家、千葉家の4兄弟の一人なのだ。4兄弟は皆さん漫画の世界で立派に生きている方だ。もちろん長男のちばてつやさんは「あしたのジョー」で一世を風靡した。今や漫画界を代表する芸術院会員である。

 ちばてつやさんの助手から、ちばあきおさんの漫画への人生が始まる。ちばあきおさんは満州の奉天で生まれた人だ。千葉さん一家の満州での暮らしのことは、読んだことがあった。家族6人がなんとか栄養失調になるが、命を失うこと無く引き上げることが出来た。

 その中国からの引き上げの過酷さが原点になる。国から見捨てられたのだから、自力で生き抜くほか無かった。千葉家の6人は、お父さんの工場での同僚だった友人の中国人の徐集川さんに救われる。徐さん家の屋根裏にかくまわれて、命拾いをする。そして、引き上げてからの苦難を長男のちばてつやさんを中心に生き抜く。

 ちばてつやさんが、徐集川さんを探しに中国に行くドキュメントを見たことがある。やっと探し当てるのだが、徐さんは3年前に亡くなられていた。娘さんがちばてつやさんのお父さんから貰ったという、古いタオルを大切にしなければ成らないものだと言われて、今も取ってあった。

 私の父も中国に兵隊として七年間も行かされたわけだが、中国語を学んで、民俗学の学問の姿勢で中国人と関わろうとしたと話してくれた。長沙という町でお世話になった先生の話を良くした。中国人の友人が出来て、敗戦後やはりその友人に助けられて、日本に戻れた話をしていた。中国人の実像がそういう話からできた。

 ちばてつやさんは弟のあきおさんを漫画家にしてしまったことを悔やんでいる。自分の仕事が忙しすぎて、優秀な弟をアシスタントに頼んでしまったのだ。その結果他の誰にも書けない素晴らしい漫画を書いたのだから、良かったとも言える。

  しかし、兄弟として、漫画家として、創作の苦しみが一番分かるのもちばてつやさんだったはずだ。何としても酒を止めようとしたらしいが、どうしても、アルコール中毒から抜け出られなかったらしい。谷口くんになりたかった、あきおさんの苦しさなのだろう。

 創作と実際の人間は当然違う。自分の中にある、こんな人間でありたいという、理想の自分になれないという苦しみが、繊細な精神を痛めつけたのだろう。愛読者だったものとしては残念だと思う。多分一番残念だったのはあきおさん自身だろう。

 漫画というものが、自分を追い詰めてしまう、危うい創作なのだと思う。これが映画であれば、まだ共同責任的な創作になる。小説であれば、文字の世界のことだから具体性が薄い。絵画となれば、具体性がさらに薄くなる。漫画の持つ総合性が人間を追い詰めやすいのかも知れない。

 一人で全部やれる創作。子供のころ漫画を作って見せてくれた友達がいた。彼はある新興宗教の教祖になった。漫画を描く発想が宗教に繋がったような気がした。漫画にはそういう危うい部分がある。子供のころ小説を書いてみたいと努力したことがあった。ある場面を書くという事は出来るのだが、そこまでだった。

 小説が始まる場面なのだ。それをストーリーと組合すことが上手く出来なかった。実は今もこのブログの先の方のページには書きかけで、止まっている小説がある。もしかしたら、紙芝居ならば、出来るのかなど思ったりするがつまらない。

 散文詩というようなものかもしれない。梶井基次郎さんが好きで時々出してはまた読んだ。ストーリ性よりもその文章の感触に憧れがある。ちばあきおさんの漫画も同じようなものがある。谷口くんが手帳に書き留めている姿とか、夜に素振りをしている姿とか、一場面に詩がある。

 その切ないような詩情がにじんでくる漫画なのだ。芸術院会員のツゲ義春氏の漫画もそういうものだろう。私が知らないだけで、埋もれている散文漫画はいろいろあるのだろう。絵本とも違う。絵本のどこか高尚ポイところがはそれほど好きではない。

 白土三平氏の忍者武芸長の貸本漫画で育った。子供のころは白土氏の絵が好きだった。あの激しいデッサンが格好いいと思っていた。それがいつのまにか、ちばあきおさんの絵になった。私も成長したのだろう。あの絵の素朴なすごさにやられた。

 それは自分のデッサンの基になった気がしている。単純な線描デッサンにいまでも憧れている。時々樹を線描で描く。面白と思う。一本の木が村山槐多 のデッサンになる。ちばてつやさんがあきおさんの漫画の続きを書こうとして、あの絵は描けなかったらしい。とこの本にはあった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岸田総理の説明責任

2024-02-22 04:32:52 | Peace Cafe

 見たことのない怪しげな舟が石垣島沖を通過した。多分クルーズ船だろう。何しろ大型船の向こうに見える竹富島が小さく見えるぐらい大きかった。

 岸田総理の口から良く出るのが説明責任である。問題があれば、当人から説明することが、まず行うべき事で、それをまってから岸田総理は判断するという考えのようだ。例えば、今国会では盛山文部科学大臣は、統一教会から選挙の支援を受けていたと疑われて居る。それは忘れたと説明した。岸田総理はそれなら良いという判断である。これが責任ある説明だろうか。

 その背景には統一教会の宗教法人資格を取り消す命令を文科大臣が行うことがある。政府は教団と戦闘状態だ。そのために教団は岸田内閣を潰すことで、教団を維持したいと言うことなのだろう。それで統一教会が情報を報道にリークしているのだろう。すべては暗殺されたアベに原因がある。

 岸田内閣は藁をつかむ状態で、当人が忘れていたと説明しているのだから、問題がないだろうと言うことにすがるしかない。この国会議員は説明をすれば終わりという考え方はどこから出てきたのだろうか。説明責任と言うことは、政治家に何かあったときの特別の対応策にしか見えない。

 企業で何かあれば、写真まで出てきてしまえば、説明では無く謝罪会見をする。細かな説明に関しては第三者で構成される調査委員会を設けて、何でこのような事態が起きたのかを調査をしますので、となる。先ずは謝罪会見から始まる。政治家は何かに守られている。

 原因調査より以前に責任者が、疑われた段階でまず謝罪をすることが多い。盛山氏の場合、写真が存在するのだから、統一教会と関係があったことは明白な事実だ。写真がAIで合成されたものかも知れないが、忘れているのだから、何とも言えないのかもしれない。もちろん本当は良く覚えている。

 盛山氏が世間に対して、自分の過去の不注意を謝罪をするのが始まりでは無いのだろうか。しかし、説明では忘れていたというだけである。そして岸田氏は忘れていたのだから、自民党へ調査の時に、ウソの報告をしたとは言えないというのだ。忘れていたことに責任はないので、問題が無いという論理だ。

 忘れていたことには責任がないなどと、政治家だけの考え方だろう。普通の企業では、1年前に取引で会った人を忘れていたために、取引で大きな損害が起きたとすれば、その忘れていたこと自体が問題になるのだ。何でこんな重要なことを忘れたのかと、責任を取らされることになる。

 大勢に会うからなどと言うことは言い訳にも成らない。所が政治家の説明責任は忘れていたのだから、責任はないとなる。と言うことは政治家の約束することはすべて信用が出来ないと言う事になる。明日お会いしましょうとなっても、忘れていたので会う必要もなくなる。政治家はこれほど信用できないものに成ってしまったのか。

 忘れている場合は免責されるという前提で、政治家は約束をします。などと選挙の時に叫んでいるのか。確かにその約束が果たされることが少ない。平気でウソをつく人間が、政治家だというのが、日本の政治の不幸だ。だから、何かあれば忘れていたのでと説明をする。それで終了。

 推薦書にサインをしたことも忘れたと説明した。それは政治家に必要な知能がないと言わざる得ない。もう明らかにウソだろう。そもそも、推薦してくれる組織が200もあるというからすごいが、その一覧表を作らないというのだ。選挙の報告のために、一覧ぐらい作らないはずが無い。

 一覧がないと言うことは、ウソをついているに違いないとは思うが、名前が残るとまずい組織が、200の中に色々あるので、公表できる一覧表は作れないという事情もあるかも知れない。ともかく、選挙が大事なのだ。次の選挙のこともある、推薦組織の一覧が無いなど考えられない。

 また政策協定書にもサインがあるとも言われている。これを忘れていたとしたら最悪である。政策を協定するのに、読まずとサインはしないだろう。それを忘れるような人間では国会議員を任せられない。まして、文科大臣なのだ。こんな重要なことを忘れていたとしたら当然罷免だ。任命責任は総理大臣にも及ぶ。

 何でも忘れたことで終わらせようという説明では、説明責任を果たしたとは言えないだろう。これから統一教会と対決しなければと言うときに、文科大臣に任命された人だ。肝心の統一教会関係を忘れてしまい、申告できなかったなど、普通ならありえない。忘れたために、岸田氏は間違った任命をしたのは事実だ。知っていて任命は出来ない文科大臣だ。

 パー券キックバック方式でも、その説明は似たようなものだ。申告するのを忘れていたので、修正申告をしましたと言えば済んでしまう。税務署も総額では何億円というお金を取り忘れていたのだ。普通の企業であれば、修正申告では済まないはずだ。

 政治家がとんでもない化け物になっている。世間も政治家などそんなものだと受け入れるのか。しかし、自民党を支持するものはどこの調査でも20%以下だ。世間は申告時期だ、納税拒否運動が起きたって良いはずだ。少額の領収書まで準備して、税務申告をするのが何か馬鹿馬鹿しくなる。

 政党助成金の制度が悪い。領収書が無くてもかまわないお金は一円でも許されないのが、税金の使い道では無いのか。何故政治家だけは特別なのか。政治にお金がいるのは、ある程度は分かるが、領収書の貰えないようなお金がどうして政治にいるのだろうか。

 政治家の公金の出入りはクレジット決済に限定すべきだ。そして必要に応じて公開を義務ずける。これだけで良い。企業献金も禁止する必要は無い。企業の名前が見える化されれば良い。ものの価格にはこういうものが入っていると言うことが分かる。

 そのお金の出入りを見て、国民は投票するようになれば良い。そしておかしな党に献金ばかりするような企業の商品は使わなければ良い。二階氏が3年間で書籍代3472万円を支出していたことについて、自分の本など購入して、配る予定だったが、コロナで配れなかったとした。巧みな弁明だが、自分の本を自分で購入して、選挙民に配るのも公金で許されることにも驚く。

 これなら出版社もどれほどつまらない本でも、政治家本は出版してくれるだろう。政治家の裏金の使い道は賄賂だ。確かにサイン入り本も配るかも知れない。出版記念会も行い、お帰りには本が何冊かのお土産がある。読み終わった本は〇〇古書店にて、買い取ってくれますと、ささやきがあるかも知れない。

 実はこんな形でお金を配下に配っているのだ。本にある政策に、そのお金で協力して下さいということかも知れない。まあ本を読むよりお金の方が効果があるということだろう。サイン入りのその本を、ある古本屋に持って行くと、特別に高く買ってくれると言う制度なのかも知れない。

 実は絵画がそういう使い方をされていると言う話を聞いたことがある。買い取り制度があるものなら、何でも違法には成らないだろう。値段があってないようなものなら何でも良いのだ。統一教会の壺や水晶玉と同じことだ。本でも無いとは言えない。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2月20日ののぼたん農園

2024-02-21 04:11:20 | 楽観農園

 水牛放牧地に出来た緑の円形。遠くにもある。これは何だどろう。分かる人はいるだろうか。私には分からなかった。放牧地に5つくらいこういう円形の牧草が緑になるところがある。どうしてもここだけ食べないのだ。何で緑で美味しそうな草なのに食べないのか不思議で成らなかった。ーーー最後に回答を書く。



 浸種から2週間。播種から1週間。発芽してきた。20㎜くらいになっている。随分大雑把な苗代なのだが、私がやることはだいたいこんなことになる。適当にどんどんやるのが好きなのだ。いつもあれこれやる作業があるので、一つのことを丁寧にやるよりも、早く終わらせて、そっちもやらなければと思っている。

 それで失敗することが無いわけではないが、だいたいは何とかなる。植物には大雑把な方が、良いと言うことも少なくないのだ。まあ、言い訳のようなものだが、山ほどこなさなければならないことがあるから、全部を手がけるためには、何でも同時進行である。無事発芽してきた。



 1番田んぼ。台光の稲刈り後1ヶ月でバラバラにひこばえがでた。すべての株からひこばえはでたのだが、黄色い弱そうな株も5株ほどあったので抜いた。すべてひこばえをを刈払機で刈りそろえた。刈り取ってから2度目に再生してくるひこばえにも、黄色くなるものはありそうだ。これも抜き取る予定。

 ひこばえは病気になる確率が高い。だから思い切って怪しい株は取り除いて行く。そうしないと、病気が蔓延しかねない。三回収穫するために必要なことのようだ。大きくあいた空間が出来たならば、そこには大きい株を分けて田植えをする予定。少しの空間ならそのままでもかまわない。

 出てきたひこばえを刈払機で刈りそろえた。大きいものは、もう出穂期のような様相であった。その当たりの株はシロハラクイナに穂を食べられた株だ。穂を十分に実らせなかった株は、再生するのも早いし、大きい。十分に実のさせすぎた株は、力を使い切ったかのように、ひこばえの再生が弱い。刈りそろえて、ある程度成長をそろえる。



 コロガシを縦横に入れた。ここからがひこばえ農法のまだ未知数なところである。ここでのコロガシは根を切ることになるだろう。根を切り再生させることで、新し根に置き換えたほうがいい気がしている。根の活性化と言うこともあると考えている。元気な根は切ってしまうと終わりで無く、むしろ枝分かれして増える。

 追肥をすべきなのだが、まず我慢をした。1週間後の生育の様子で追肥をする。かなり追肥はいると思うのだが、最小限にして進めようと考えている。今回は多収穫よりも、安定した収穫が目標。40キロを3回とれば、畝取りになる。



 2番田んぼ、「ゆがふもち」である。大分良い状態になってきた。崎枝は石垣島でも風の強い地域である。どうしても田植えの後風に吹かれて、乾燥させられて、弱ってくる。これを防風ネットで防ぐのだが、ある程度はやられる。そのために三本植えにしている。

 ネットをしっかりとして、一本植えにするのが良いかも知れない。一本植えの方が、三本植えよりもお米が美味しく出来ると台湾でさかんにいわれた。その理由は、三本植えると、主たる株にしてみれば、他の2株は雑草と同じだというのだ。弱い株のお米は美味しくないという説。面白い。



 3番田んぼ。8葉期になった。田植え後5週間は経過しているのだから、少し成長は遅い。9葉期になるのが普通の成長。分ゲツは12本近くなってきている。1月6日田植えでは、さすがに成長はゆっくりである。ゆっくり成長であれば、もしかしたら15枚葉が揃う可能性がある。それを期待して、正月田植えをしてみたのだ。

 12月初めの種まき、1月初めの田植え。5月の稲刈り。2回目の稲刈りが8月。3回目の稲刈りが11月。石垣島で一番良い稲作りの流れではないだろうか。今年の稲刈り12月1月が暖かったということはあるのだが、これからはこのぐらいの気温が普通になるだろう。
 

 一番生育の良い4番田んぼ。ここは10葉期。15分ゲツぐらいありそうだ。十分基肥を入れて、トラックターで代掻きを7回も行った。そのため、減水深は10㎜。満水ならば、1週間水が保つ。蒸散分くらいで、ほとんど地中浸透が無い状態。その分何度もコロガシに入っている。

 4番田んぼの渡部さんは1回で畝取りを目指している。とことんやれることはやって見るということである。今のところ生育は順調。8俵はゆきそうな様子。どうだろうか。



 アオウキクサの多い6番田んぼ。青浮き草が出るとしばらくして、アカウキクサに変わる。ここは1月13日、3番、4番より1週間後の田植え。まだ6葉期ぐらい。株が弱いが、成長が始まったという感じ。この遅れた一週間後から、寒さが来た。寒い最中の田植えだったもので、その後の成長も悪かったようだ。それでもこのところ良くなってきた。

 やはり転がしを入れると生育を始める。土壌のためか、初期に土壌を撹拌することは効果が大きい。今年は40センチ角植えにして、転がしをしやすくした。収量は減るだろうが、やりやすい方がいいということになった。畦際も一列空けてある。



 7番田んぼは、田植えした後、地面を柔らかくしたいと言うことで、鍬で耕した。それで水持ちが悪くなり、コロガシを繰返し入れている。すこしづつ改善されてきたところだ。まだ、コロガシが足りない感じだ。水持ちは転がしだけでは、一度での改善は難しい。

 田植え前に十分な代掻きが必要である。石垣の田んぼは代掻きのやり過ぎということはないようだ。ともかく水が少ない天水田なのだから、水を大切にするということが、何より重要である。7回代掻きは与那国島の稲作のやり方に出ていた。



 麦畑は草がすごいが、手刈りだからこの程度でも何とかなる。毎日キジが来ているから、相当食べられてしまいそうだ。鳥の防ぎ方も検討が必要だ。まだまだ麦まで手が回らない状況。



 この丸い草の緑は、水牛のトイレである。窒素分が多くなるので、草の生育は良い。しかし、そういう草は水牛は嫌いなようだ。人間にも窒素の効き過ぎた野菜は身体に悪い。水牛にはそういうことがよく分かっているようだ。草がなくなっても食べない。

 今後の予定

1,サトウキビを植える。
2,パイナップルを植える。
3,コンテナの脇にテラスを作る。
4,大豆を播種する。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本人は無宗教なのか。

2024-02-20 04:10:54 | 暮らし


 一番成長の良い4番田んぼ。転がした後、分ゲツが始まっている。平均で15分ゲツある。

 日本人は宗教を問われて、「自分は無宗教だ。」と答える人が大半だろう。日本人は無宗教という言葉は、私が小学生の頃によく言われた記憶がある。外国では無宗教というと、信用されないという話がされた。私自身も信ずる宗教が無い、無宗教者だと思った記憶がある。このことは日本人の普通の意識だと思うが、果たしてそう言って良いのだろうか。

 何故日本人が無宗教と感じるようになったのかを考えてみる必要がある。私は山梨の藤垈にある向昌院という曹洞宗の山寺で生まれた人間で、しかも、現在曹洞宗の僧侶である。だから、当然仏教徒である。仏教の教えやお釈迦様を信仰しているのか、坊さんとして暮らしているのかと言われると、違うかも知れないと言わざる得ない。

 それでも道元禅師の教えに従い生きているつもりである。道元禅師は宗教家と言うより、哲学者としてとらえている気がする。お寺の住職さんが仏教徒なのかという疑問がある。神社の神主さんが神道の宗教者なのかという疑問がある。日本では宗教者と呼べる人は数少ないのではないか。日本人の宗教という枠組みがどうも、欧米のキリスト教の信仰とは意味が違うと感じる。

 江戸時代のキリシタンの人達は確かに信仰者である。オウム真理教の信者も信仰者である。一向一揆の真宗の信者も信仰者である。統一教会の信者も信仰者なのだろうが、騙されているだけなら信仰者では無い。創価学会の信者なら信仰なのか、現世利益なのか。少し疑問である。

 まず何を宗教と考えるかが明確でないと、宗教の信者であるかどうかは見えないだろう。原始宗教というものがある。多分縄文時代の日本人も祈りの気持ちがあっただろう。アイヌの人達にはアイヌの祈りの思いがある。ここに在る祈りの気持ちは自然宗教と呼ぶものだ。

 この自然宗教を一応外して、あなたは何か宗教を信仰していますかと聞いているのだ。だから、日本人の大半の人は、無宗教と答えるのが当たり前の事になるのだろう。しかし、「日本人とユダヤ人 」山本七平イザヤペンダソン著では、日本人の大半の人は、日本教の信者だと解き明かした。

 日本人は原始から継続する宗教を持ち越して、近代化した希な人種なのだ。柳田国男氏の民俗学がそのことを解き明かしている。多分縄文人も私にも同じ樹木や岩や水に対する畏敬の念があると思われる。このような自然宗教を抱えた民俗の中に、無理矢理あてがわれた宗教が仏教なのだ。

 ややこしいことには、明治政府は無理矢理天皇を持ってきて、国の神にした。そのために神道を国教にしてしまう。廃仏毀釈である。恐ろしい暴挙である。一見村の氏神である神社や祭りと、国の指定した神社とは似てはいるが、まるで違うものなのだ。そもそも江戸時代に神主、神官などと言うものは存在しない。

 明治政府はこの天皇を神とする君主制を、国民に押しつけた。それに合せて神道を国教にしようとしたのだ。教育は臣民教育である。天皇を神として、それに仕える日本人を作り出そうとしたのだ。この明治政府のメチャクチャな手法に、日本の宗教者は仕方がなく、追随したのだ。新たな国教である神道の中心者になった天皇家の菩提を弔い、寺院の継続を手にしたのだ。

 そもそも江戸時代の天皇家は伊勢神宮とは何の関係も無い。明治政府が作り上げた即席の神官に仕立て上げられたものだ。本来の天皇家は神官と言うよりも、日本の伝統文化と、水土技術と、農業技術のしきり役の家、と考えた方が近い。

 この明治政府の急ごしらえの帝国主義のために、日本の宗教はめちゃめちゃな混乱が起きたのだ。特に村の鎮守様と国家神道とは何の関係も無いのだが、なんとなく神社であるから、似た系列ぐらいに受けとらえられるようになる。日本人は天皇家の国家神道を信仰したことなど一度も無いにもかかわらず。

 そのために、日本人は日本教の信者ではあるが、特定の信仰はないという不思議な状態になった。ここに、既成の宗教が存在するので、日本人の宗教はごっちゃで訳の分からない話になる。曹洞宗の坊さんである私が宗教者であると断言することにためらうのもここに在る。

 これは宗派宗教とは異なる。つまり、キリスト教のカソリック○○派の信者ですという意味や、自分はオウム真理教の信者ですというのは、縄文人の祈りとは異なる、教祖が存在する宗派信仰である。日本人の多くの人が、無宗教というのは、オウムや統一教会の信者ではないという気持ちだろう。

 一方から言えば、日本人の心の中には縄文人から持ち越してきた祈りはある。神とは呼ばずとも何ものかに、手を合せる。頭を下げる祈りがある。縄文人も明日は沢山の食べ物が手に入りますようにと、自然を司る何かに祈りを捧げたはずだ。

 こうした原始宗教がそのまま奈良時代まで持ち越されていたところに、仏教が入ってきた。それが沖縄の琉球王国に到達するのは、江戸時代である。各地域地域で仏教の広がりは違ったのだろうが、仏教の流入に従って、徐々に死者の弔い方法が、仏教式になって行く。

 古代社会では死者は恐ろしいものであった。死は理解しがたいものだ。死は感覚的な把握が出来ないものであるから、それを都合良く仏教に任せることにして、死という理解不能なもの、死者という恐怖のものを、仏教に片付けてしまった。奈良時代から仏教での弔いと言うことに、ご都合主義で進められるが、それは原始宗教と混合されたものだった。

 本当に仏教が死を仕切ることになるのは江戸時代の檀家制度の成立以降と考えて良い。奈良時代から戦国時代までの間は、原始宗教と仏教が折り重なり、存在していた時代である。死も死者も死後のことも、理解しがたい恐怖を伴うものだから、お寺に任せて安心しようとした。

  宗教は死という事への向かい合い方だ。死という理不尽で、避けがたいものをどう考えれば良いのか、人間の理解を越えている。すべてが失われると言うことが待ち受けている中を生きている。この絶望をどう受け入れるか。人間の生きる有限性をどう考えるかである。

 それは原始宗教であっても、縄文人であっても人間であれば現代に生きるものと何ら変わりない、大問題である。ただのサルである間は、死というものを想像し考えると言うことは無いだろう。人間が進化し、想像し、思考するようになれば、死は究極の大問題になる。

 その向かい合い方に宗教というような祈りの心情が生まれる。死後の世界を想定してみたり、生まれてくる前の世界を想像してみたり、思考を広げて行く。そして、どうしても理解不能なこの過去と未来を、どのように考えれば良いかという所に宗教が誕生してくる。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国脱出が始まっている。

2024-02-19 04:27:29 | Peace Cafe

 コロガシ後の田んぼの様子。濁りは3日はなくならない。粘土では無いが細かい土である。のぼたん農園の中だけでも随分、色々の土があるのだが、田んぼは水持ちは良い、4番田んぼは減水深で10㎜くらいだ。2番、3番田んぼは20㎜くらい。

 中国からの脱出が続いている。昔から中国人は世界中に出て行く人達であった。海外で孤立して暮らすことが平気なようだった。中国人は世界中どこにでも居て、中国人として暮らしてきた。最近また、中国からの脱出が始まっているらしい。

 習近平政権の独裁が進み、富裕層は資産保全のための脱出が始まっている。国家が個人資産を没収をするのではないかという、不安が出ている。若者達は自由な暮らしを求める脱出。香港の弾圧以来、政治的な圧迫からの脱出が始まった。

 アメリカには433万人の中国系の人が居る。アメリカは白人の国ではない。白人が57%と半分の国だ。黒人系が12%やヒスパニック系18.7%が多いが、カリフォルニア州ではアジア系も15,1%を占めるように増加している。アメリカは人口増加を続けている国なのだ。

 最近またアメリカへ中国からの密入国が増加しているという。南米から歩いて密入国するらしい。1970 年代末から 2002 年の 20 数年間、アメリカに移住した中国出身 の新移民の規模は約 85 万人に達している。そして2023年の中国系の密入国者は急増している。アメリカは密入国後して、その後亡命がしやすいようだ。2023年は前年の10倍の数2023年には2万4314人 にになったとされる。

 中国は急速に労働人口が減り始めているにもかかわらず、中国から出国する若者のが急増している。民間企業への規制強化、厳しいゼロコロナ政策、政治体制への不安、米中対立の激化、そして台湾有事、そして香港の一国化。などが背景だ。とくに富裕層、知識人に国外脱出が増える傾向が強い。

 アメリカへの脱出だけでなく、日本へ来る富裕層もかなり居るらしい。シンガポールは積極的に受け入れていれるため、富裕層の移住が増加している。シンガポールは経済が好調な上に、中国語の国なの中国人が商売をするには良いのかも知れない。

 中国から来た人が、会社を次々と立ち上げるために、シンガポール経済は好調だという。シンガポール富豪ランキングのトップテンのうち、4人が中国出身者。 中国とシンガポールは今回、両国の輸出入食品の安全性や、中国の「一帯一路」の国際仲裁枠組み、科学技術や芸術、環境などでも覚書を結んだ。ビザの30日間免除も結んだ。
 
 シンガポールリー首相は中国を公式訪問し、李強首相と会談。環太平洋パートナーシップに関する包括的および先進的な協定CPTPP、いわゆるTPP11への中国の加入申請を原則的に支持した。また、中国のデジタル経済パートナーシップ協定DEPAへの申請も歓迎した。

 シンガポールは以前は日本をモデルとして、高度成長を目指したのだが、いち早く中国の経済成長を見越して、関係を強化してきた。中国の21世紀の海のシルクロードの拠点として参加している。中国との文化教育分野での協力もASEANの中では、一番協力的に進めている。さすが中国系の国だけあり経済優先である。その方法は、韓国や日本より巧みな気がする。

 中国で今後何かが起きてくるかを考えなくてはならない。習近平政権の独裁政治の強化。国民の監視の強化。しかし、国内に強い反習近平の動きは起きていない。経済の高度成長の恩恵を感じている層が大半なのだと思われる。ここ10年でも明らかに生活水準は上がっている。日本とは逆なのだ。

 日本の報道では意図的に中国の経済崩壊がされているから、何か中国経済が明日にでもダメになると思っている人が居るが、現状でもGNPの成長がまだ5%はある国なのだ。あれだけ大きな国の5%成長は、侮れないものがある。まあ、その数値がウソなのだという人が居るのだが。

 ひとりあたりのGDPを見れば、日本が32位でシンガポールはアジア一位の6位である。そして中国は70位である。まだ一人当たりで見ると日本の37%しかない。20年前には日本の10%の国だったのだ。徐々に差を詰められている。そして遠からず、半分の国には成るだろう。

 不満層が増えてはいるが、全体としてはまだ社会不安を招くほどではないと思われる。未だ中国は5%程度の経済成長を続ける国なのだ。これが日本のようにマイナス成長になれば何かが起こるだろう。これからの中国経済は厳しいものがある事は確かだ。

 習近平政権も経済成長の持続にかけているだろう。その意味でも台湾有事は言葉の戦争であり、現実的なことではない。経済が成長している間に、戦争を起すほど、経済音痴の国ではない。何もしないでも台湾が中国になる可能性があるのに、戦争などするはずがない。

 台湾有事が明日にでもあるように叫んでいるのは、日本の軍国主義者達だけなのだ。自民党がその政党である。明治の帝国主義を理想とする自民党は、植民地があった頃の日本を、再現したいと考えているのだ。そのためにあるはずもない台湾有事を理由に、沖縄を基地の島にしようとしている。

 中国人には中国から出獄する自由はない。監視社会だから、要注意とされた人物は中国から出ることは出来ない。日本に中長期滞在できる在留資格を得て在留する中国人は22年12月末現在、前年同期比6.3%増の76万1563人に上った。同年中に4万4957人増えた。そのうち日本で事業を営むために必要な在留資格「経営・管理」を取得した中国人は前年同期比16.3%増だ。 

 習近平の主張する「共同富裕」 政策を恐れているのだ。富裕層を作ることが今までの中国の経済政策だった。これは社会主義国家としてはおかしな事だった。富裕層が急速な中国の経済成長を作り出したのだが、経済が徐々に普通の成長に変わり始めた。習近平はそこで本来の共産党の主張である、共同富裕を主張し始めた。

 これは社会主義国としては正しい方向であるから、富裕層はその共同富裕政策を恐れ始めたのだろう。そして一族の内に存在する海外での生活者に資産を移動し、資産保全をする。一族主義の国だから、誰かが生き残れば良いという思想がある。またそのつてを頼りに海外移住をするものも出てくる。

 シンガポールのようにそうした富裕層の中国人を受け入れることを、自国の経済の好循環に取り込もうという、政策もある。日本は外国人労働者政策を見ても、労働者不足の穴埋めを場当たり的にしているだけだ。国としての指針がない。今後中国はさらに変化して行くだろう。

 今後中国とどのように関われば良いのか。これは台湾有事どころではない。日本の将来に必ず大きな影響がある事だ。日本の未来は中国との関わり抜きには考えられないのだ。アメリカとの属国関係を止め、中国の仮想敵国を止めるところから、日本の独立は始まるはずだ。

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第199 水彩画 日曜展示

2024-02-18 04:11:11 | 水彩画
第199 水彩画 日曜展示






397「ソルゴー」
2024.2 10号








398「海と空のあいだ」
2024.2 8号







399「のぼたん農園」
2024.2 中判全紙









400「ヤラブダケ」
2024.2 中判全紙







401「ブザマダケ」
2024.2 10号






402「農園」
2024.2 10号







403「岬」
2024.2 8号


 絵に集中して描けた1週間だった。静かに描いていた。絵が動き出すのを待ちながら描いた。一枚一枚に時間がかかったかも知れない。苦しんでひねり出しているわけでも無い。楽しんで描いているわけでも無い。自分の中の大切な物が、画面に現われるのを待っている。

 何故か画面があるときに、強く動く。そう思うのは何か自分の命に触れたのだと思う。それをもっと強く感じたいと思って絵を描き続けている。何故絵は動き出すのだろうか。動くはずがない絵が立ち上がるとか思うのだろうか。不思議なことだ。

 自分の妄想なのかも知れない。多分そうなのだろう。それでも確かめずには居られない気持ちでいる。自分の絵になる。自分が描いたと言える絵になる。今だってそうに違いないのだが、もっと親密なものが、現われると思っている。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石垣島での自給の夢

2024-02-17 04:30:22 | 楽観農園


 こんな感じになると、あかうきくさは増え始める。まだ増殖法は完全ではないが、今年はどこの田んぼでも広がり始めている。よくよく観察して、自給農技術として、安定してあかうきくさを増殖する方法を完成して行きたい。

 石垣島に来て、5年である。来る前には来たら絵だけ描くつもりだったのに、今の夢は石垣島に、10くらいの市民の行う自給の農業グループが出来ることを考えている。それぞれが自立して田んぼや畑をやっている。それが緩やかな連携で繋がっている10のグループ。そんな夢だ。

 のぼたん農園を初めてみて、自給農に関心を持つ人がそれなりに居ると言うことは分かった。しかし、実際に行える人が少ないことも分かった。人様々な生活の中に暮らしている。石垣島の生活は小田原よりも厳しいと思われる。生活費は小田原と同じで、給与は日本一安い。

 自給農を暮らしの中に取り入れると言うことは、普通に暮らしている分には、余分と言えば余分のことなのだ。よほどの思いがなければ、続かない。生活が厳しい中で、自給農をやってみようと言うことは、よほどの思いがなければ続かないと言うことになる。

 農業って自然に触れられるので、なんかおもしろいかも知れない。そのくらい軽い気持ちの人が、農作業を体験してみて、生き方が大きく変ることがある。その入り口にのぼたん農園が成れば良いと思う。そのためにも、10くらいの様々な自給農グループがあり、近い場所に参加しながら、緩やかな連携ができるのがすばらしい。

 自給農が楽しく出来るか挫折するかは農業が技術化されているかどうかである。技術化とは普通に誰にでも再現できる方法が確立できると言うことだ。そして様々に起こってくる問題を、解決できる方法が確立されていることだ。自然農の分野は、おかしな思い込みに支配されている。故人の独特の技であって、技術までは進んでいないことが多い。

 小田原での35年間の自給農の結論は、「一人の自給は100坪の土地と1時間の労働で可能だ。」と言うものだった。その技術にたどり着くために35年かかったと言うことだろう。もちろん一人で出来たわけでは無い。大勢の明日柄農の会の仲間が居たから、たどり着くことが出来た。

 そして、石垣島に場所を変えてまた、自給農の技術の探求を始めた。誰がやっても同じことが再現できる自給技術である。自然農の福岡さんがやればとか、川口さんがやればとか、リンゴの木村さんがやればとか言うものではなく、どこの誰でも再現可能な一般化された自給農技術の確立である。

 驚いたことは小田原と石垣島では農業技術がまるで違っていたのだ。田植えをして、ネットを張らなければ、風が強くて苗が枯れてしまう。ネットを張ると言うことに気付くだけで、2年もかかった。もう違うことばかりで、毎日が発見の連続である。まだ三年目では技術といえるところまでは進んでいない。

 今ここぞと可能性を感じて探求しているのは、「ひこばえ農法」と「あかうきくさ農法」である。これを安定した技術にするためには、分からないことが沢山ある。600年も昔から熱帯地方では行われてきたものだから、石垣島で再現できないはずはないと考え、日々観察と研究を重ねている。

 技術はそれぞれが自分にあったものを見付けるほか無いのだが、農業技術という基本の枠組みはある。その根底には、「一人の自給は100坪の土地と、1時間の労働で達成できる。」と言うものにしなければならないと考えている。しかも、74歳の体力でも何とか成る楽な農法である。

 何故「100坪1時間」の原則にこだわるかと言えば、そういう物でなければ仕事のある人に、継続できないと考えているからだ。楽しい農業、健康農業の範囲で食糧自給を達成できなければ、継続が出来ない。それでも続けられない人の方が多いのが現実である。人間はそんなものなのだ。

 石垣島の自給農は小田原より難しい面と、ずっと楽な面がある。難しいのは土壌が良くないと言うことだ。小田原の土壌はそのまま耕作してもほどほど出来る土壌だ。昔は耕作地だったところであれば、まず復田してお米は普通に最初から出来る。むしろ、農家から借りた田んぼより良く出来ることの方が多かった。

 耕作放棄されている間に土壌が良くなっているのだ。草が積み重なり、良い土壌になっている。所が石垣島の土壌は、放棄されている間に作物が出来ないものに変っている。強い陽射しが続くために、放棄された農地では、土壌微生物が死に絶えてしまい、土壌を豊かにしてくれると言うことが無いようだ。

 腐植質が強い太陽で消耗されてしまい、失われ消えてしまう。腐植質が不足しているから、肥料が効かない感じがする。肥料の効果が無いだけでなく、入れた堆肥がおかしな結果を招くこともあるようだ。田んぼならまだ水が緩和してくれて良いのだが、畑作りはかなり大変なことになる。

 畑では作物が十分に出来た経験はまだ無い。ジャガイモは小田原の5分の1くらいの収穫しかない。大豆であれば、全く採れない。サツマイモは病気が出る。まだましなのは、トマトと小麦くらいかも知れない。何でこれほど作りにくいのか、第一の原因が腐食質の不足だと考えている。

 「ひこばえ農法」はいくつかの課題が見えてきた。病気がひこばえに持ち越される。病気気味のひこばえを取り除き、健全な株を分けて田植えをする必要がある。穂が実る時期がばらつくので、これは稲刈り後1ヶ月ぐらいで、刈り戻す必要がある。

 収穫を早めにするというのも、必要な技術のようだ。最後の最後まで実らせると、稲が精力を出し切ってしまい、次のひこばえを出す力が落ちてしまうようだ。かなりの頻度で追肥が必要になるが、丁度良い頃合いに追肥を入れて行かなければならない。この時期の見極めが重要。

 「あかうきくさ農法」ではあかうきくさの再生は、かなり出来るようになってきた。まだ十分に技術化は出来ていない。どうすれば確実にあかうきくさを出現させることが出来るかは、まだ技術化されたとまでは言えない。今の時点で分かってきたことは、いくつかある。

 1,太陽光が強く当たることがあかうきくさを広げる。
 2,水が十分あることが必要。多分、湧き水の方が良いらしい。
 3,土壌の影響があるらしい。
 4,広がっている田んぼから移してやると、無い田んぼで広がるようだ。

 こうして自給農技術が確立されてゆき、石垣島に自給農グループがいくつも出来ることが夢である。

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

好きなことを好きなだけやれる幸せ

2024-02-16 04:22:42 | 身辺雑記


 生きていて一番嬉しいことは好きなことを好きなだけやれることだ。これ以上のことは他にはないと思う。幸いなことに今そういう暮らしが出来ている。生きる喜びは、一日の充実以外にない。それはやりたいことがあるという幸せなのだろう。74年かけてやりたいことにたどり着いたのかも知れない。

 井原西鶴は、『日本永代蔵』で、「二十四、五歳までは親の指図を受け、その後は自分の才覚で稼ぎ、四十五歳まで一生困らないだけの身代を築き固め、それで遊び楽しむのが理想の生き方ときわまったものである」と書いている。なんとなく人ごとではない。

 江戸時代で言えば隠居を意味している。私は30代後半で自給自足生活を目指した。そして、45の時にはあしがら農の会で、みんなの自給を始めている。自給自足を達成して、今度は一人の自給から、みんなの自給をしたいと考えた。後は好きなことだけして、生きていけると楽観できたのだ。一人よりみんなの方が楽しい。

 それから30年好きなことだけをして生きてきた。全く楽しいばかりの毎日だったと思う。今はのぼたん農園の完成を目指している。好きなときに田んぼや畑をやる。水牛と遊ぶ。そして、気が向いたときに絵を描く。身体も30歳後半以降どこかが悪いと言うことは無い。全く幸運な人生としか言いようが無い。

 このありがたい毎日が送れるのは戦争のない平和な時代だったからだろう。父は戦争に7年間も連れて行かれ、やりたかった民俗学の道を絶たれた。そして、戦後は食べるものに困りながら、家族の生活のために必死に働いてくれた。その御陰で、今私は安楽に暮らしていられるのだ。

 それは母も同じで、子供のために一生懸命な人で、私の山北での自給自足生活を15年間一番支えてくれたのが母だった。母は自給自足の山の中の小さな寺で育ち、自給自足の体験があった。だから、私の自給自足の挑戦を一緒になり、面白がり挑戦してくれたのだ。一番の戦力で私以上に役に立ったのだ。

 父母の恩と言うが、今こうした暮らしていたのでは、恩に報いているのかどうか、申し訳ないような気持ちになる。ただ今となれば、父も母も最後まで家で看病出来たことがせめてもの恩に報いた気持ちだ。もちろん十分などとは到底言えないのだが。多分父や母なら分かってくれると、甘えているのかも知れないが。

 好きなことを好きなだけと言っても、まず好きなことが無いというのではどうしようもない。定年退職したらやることがないと言うような人も居るらしい。まさかと思えるようなことだが本当である。隠居していよいよやりたいことがやれるようになったわけだ。所がないのである。

 絵を描く人で学校で美術の教師をしている人は多い。退職したら絵三昧の暮らしには入れると、意気揚々と定年生活に入る。所が絵が忙しかった教師時代よりも、一気にひどいものになる。こういう人をよく見てきた。忙しい頃の方が、まだ精神が緊張していたのだろう。

 隠居をして、絵まで隠居をしてしまう。結局の所絵が好きなわけでは無かったというのだろう。絵が本当に好きならば、定年まで学校に勤めていられないのが普通だ。西鶴が言うように、45歳頃には教師を辞めて、後は何とか生きて行けるのだから、絵を描くばかりの遊興生活に入るはずだ。

 もちろんこの何とか生きていけるの範囲が違うのだろう。私は絵を描いて生きて行くと決めていたから、他のことはどうでも良かった。どんなものを食べようが、破れた服を着ていようが、生きて居さえすれば、それで十分おもしろくて、良かったのだ。

 日本鶏を飼い、自給の田んぼをやる喜びは、これ以上にないほど素晴らしいものだった。実に愉快な毎日だった。明るくなればもう開墾作業をしたくて、作業を開始した。先の見えない日々であったが、希望に満ちていた。若い時代の最高の暮らしだと思う。

 そんな開墾生活でもう一度絵を描く気になった。気持ちが回復したのだ。絵描きには成れないと言うことが、分かってきて、絵を描くことまで滅入ってしまったのだろう。絵を売る暮らしがあまりに屈辱的で辛かったのだ。卵は胸を張って買ってくれと、行商まで出来たのに。絵はそれが出来なかった。

 山北で一軒一軒家を訪ねて卵を買ってくれませんか。と歩いたのが始まりだ。誇りを持って卵売りが出来た。ところが画廊の個展会場では、絵を買って下さいとは言えなかった。絵は商品ではないという意識が強かった。それにも関わらず、毎月のごとく個展をして、何かが壊れた。

 それで自給自足生活を目指した。食べるものから自力更生である。始めて見ることこれほど興味深いことはなかった。開墾生活は今思えば最高の冒険だった。それから自給自足生活の探求を今でも続けている。もう35年になるが、その面白さは変らない。一年でも長く、1時間でも長くやっていたい。

 動禅体操を続けるのも、自給農が長くやれるためなのかもいれない。身体がそこそこ動かなければ、自給農の探求は出来なくなる。何とか石垣島で自給農法を確立しなければ、と言う思いだけだ。しかもその目的を大勢の人と共有できている。

 みんなでやれると言うことが楽しいのだと思う。到底一人では続けられない。絵も同じことだ。絵は一人で描けることは描ける。しかし、一人で描いていたらおかしなことになる。絵を進めるためには一人になってはだめだと考えている。同じ志のある仲間がなければならない。

 水彩人という仲間が居る。絵のことを自由に何でも話し合える仲間が居る。だから、楽しく絵を描くことが出来るのだと思う。絵を並べてみて自分の絵がなんたるかを気付くと言うことは良くある。だから、水彩人展の開催中は会場にいて、自分の絵とみんなの絵を見て歩く。

 これがなければ、独善に陥る。坐禅ですら一人でやるのはだめだと言われている。只管打坐なのだから、一人で良さそうなものなのだが、一人でやるとおかしくなるとよく言われた。みんなでやると言うことは、人間らしく生きるためには、とても大切なことなのだ。

 一人でやれるようになる。そうしたら次はみんなでやる。これが楽しく暮らす一番のコツだろう。好きなことを見付けるコツでもある。本当に好きなことなのかどうかは、みんなと一緒にやってみなければ分からないことだとおもって居る。

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤井8冠のタイトル戦20連勝

2024-02-15 04:13:39 | 身辺雑記


 藤井8冠が不滅の記録と言われた、大山康晴15世名人のタイトル戦19連勝を越えた。と言っても大山名人の時代はタイトルが4つから5つになった時代だから、38連勝しなければ、追いついたとは言えないのかも知れない。時代が違うのだから、どちらが強いとか考えるは止めた方が良い。どちらにも違った難しさがある。

 藤井8冠は今も強さを増しているので、さらにタイトル戦を勝ち続けると考えて良いだろう。38連勝と言っても勝ち続ければ2年少しで、達成してしまうのだから、無いとは言えないだろう。それくらい外の棋士を引き離して強い。タイトルを取ってから、奨励会の頃のどんどん強くなった頃と同じくらいの速度で強さを増しているのだから、人間として別格な人だ。

 藤井聡太8冠はまだ21歳である。まだまだ強くなって行く年齢である。現状でタイトル戦で勝てる可能性があるのは、永瀬9段だろう。31歳で一番強い時かも知れない。王座戦でも、もしかしたら永瀬王座は勝てていた可能性がかなりあった。

 きわどいタイトル戦だった。最終盤の永瀬王座見落としの藤井7冠の逆転勝ちが2回もあった。あの2番の将棋で永瀬王座の見落としがなければ、王座防衛で連続5回となり、永世王座になれたはずだ。将棋自体はほぼ互角と言えるものだった。過去藤井8冠との対戦成績は7勝15敗 となった。

 永瀬9段は先日の朝日杯の決勝戦で、藤井8冠に勝ち優勝した。1戦だけならば、しかも持ち時間が短いトーナメント戦では、永瀬9段は藤井8冠に勝てる可能性が最も高いといえるだろう。問題はタイトル戦は持ち時間が長いし、5戦か7戦だから、勝ちきるのは難しい気がする。

 藤井8冠と5回以上戦った棋士で一番対戦成績が良い棋士は、大橋貴洸七段で4勝2敗である。唯一勝ち越している棋士である。B1組の棋士で31歳であるから、タイトル戦に出れれば、藤井8冠とおもしろい対局になるはずだ。しかし、今年度の成績は 14勝12敗なので、当分無理と考えなければ成らない。

 次に対戦成績がよいのが久保9段である。藤井8冠の4勝3敗である。久保九段ならば、タイトル戦の経験もあるし、出てくる可能性はあるが、最近振り飛車戦で負けなくなっているので、タイトルを奪うと言うことになれば難しいと考える。

 現状では対藤井8冠戦で成績の良い棋士は他には居ない。まず、当分タイトルを奪うような棋士はいないと思える。それくらい外の棋士との実力差があると思える。何しろ一流棋士との戦いの中で、8割5分の勝率なのだ。これはほぼ負けないという恐ろしい成績なのだ。

 今後藤井8冠を追い越せる棋士が現われるとすれば、藤本4段と伊藤7段ではないだろうか。伊藤7段は21歳。藤井8冠には小学生大会時代に勝ったことがある。それで藤井少年を泣かせたのだ。しかし、現状では連敗が続いている。

 伊藤7段はすでに藤井8冠とタイトル戦を戦っている。現在2回目の対戦中の棋王戦が行われている。第1局は持将棋だった。伊藤7段が後手だったので、持将棋を狙ったとして、批判する人も居るようだが、とんでもない話だ。これは将棋である。藤井8冠の先手番。勝てる可能性は低い。

 まずここで負けてしまえば、藤井8冠が勢いに乗り、タイトル奪取はないと思わなければならない。まず、持将棋を狙いで藤井8冠に挑んでいこうというのであれば、立派な戦略である。今まで負け続けているのだ。何かしなければならないというのは、当たり前の事だろう。

 持将棋は引き分けである。藤井8冠に一度も勝ったことがなく、8連敗中の伊藤7段としては、引き分け作戦も流れを変えるためには悪くない作戦ではないだろうか。まず初戦で負けてしまえば、もうタイトルを奪う可能性はほぼ無くなる。

 その意味で、まず連敗から引き分けに変え、流れを変えたとも言える。問題は今度は先手番の二月24日の金沢対局である。ここで伊藤7段が勝てば、勝負は全く分からなくなる。24日は大注目の1線になる。あと10日今からわくわくする。

 藤本4段はまだ18歳である。今年度の勝率42勝7敗(0.8571) である。藤井8巻を超えている。まだまだ強くなる可能性が高い。藤本四段は、初参加となった王位戦で挑戦者決定リーグ入りを決めた。トップ棋士を含めた12人で、藤井王位への挑戦権を争う。タイトル戦初挑戦になる可能性もある。

 後生畏るべしという。つまり、将棋名人を目指す若者は藤井8冠の将棋とその勉強の仕方を学んで、研鑽を積んでいる。藤井8冠がここまで強くなったのは、AIの登場である。AIは羽生7冠の全盛期に現われた。現われて一番注目して、AIが人間を越えると断言した最初の人だ。

 羽生永世7冠はAIを最初に取り入れたわけだが、その学習方法はまだ、藤井8冠のように有効には出来なかった。そのためにだんだん後れを取った。しかし今また藤井8冠の学習法を研究し、取り入れてまた復活をした。復活をしてまたトップ棋士になったが、さすがに藤井8冠からタイトルを奪うのは、53歳、体力的に無理かも知れない。

 やはり、次の世代がAI学習法を取り入れて、こなして強くならなければ、藤井8冠には勝利できないだろう。今将棋がおもしろいのはこの点なのだ。私は将棋が理解できて良かったと思っている。AIは人間の暮らしを変えようとしている。どういう可能性があるか、またその危うさは何なのか。将棋を通してみることが出来る。

 生成AIと言うものがあるらしい。人間よりも判断力が高い可能性が出てきている。裁判のような、法律という判断基準があるものでは、人間よりも客観的判断がすでに出来るはずだ。早く取り入れるべきだと思う。そして、すぐにでもやるべきは、行政の許認可業務である。

 条件を入れれば結果は明かである。行政の業務は激減するはずだ。人間が判断するから、おかしな事が起きがちだ。おかしな事を既得権とする人達がいて、行政の許認可業務をAI任せにしたくないと考えているのだろう。そう、パー券キックバック方式が無駄になる。

 情状酌量とか、精神鑑定とか、さじ加減とか、その裏に人間関係や社会の情勢とか、世論の力とか、政治力の違いとかが関わってくる。こういうことはないほうが良い。きっぱりと客観判断された方が、健全な社会と言えることは多い。特に裁判所の判決のゆがみは、裁判官の人事が絡んでいて、政府に有利に働いている。

 将棋の話から、話がそれてしまったが、「はやく、AIを利用する、客観判断が出来る世界になって貰いたいものだ。」



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする