地場・旬・自給

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あしがら農の会感謝の25年

2018-12-31 04:01:01 | あしがら農の会

石垣に来て、新しい暮らしを始めた。小田原であったことが、日に日に客観的に見えるようになってきている。一区切りがついた。視点が変わるということは、自分を変えるということになるようだ。小田原での自分はあしがら農の会のことがほとんどを占めていた。農の会にかかわることで自分が出来ていた。その意味ではとても大きな柱が取り払われたことになる。生来無一物。いつも何もないところに戻ることが、絵を描くうえで大事だと思うので、よかったことだと思う。自給自足の暮らしへの興味で、山北で開墾生活を始めた。そのことばかり考えていたのだが、いつの間にか、みんなの自給ということになっていた。一人でやっているつもりだったのだが、いつの間にか大勢の中にいた。暮らしは合理的に行おうとすれば、だんだん周りとの共同が始まるのだろう。絵を描くのも一人のはずだが、水彩人の仲間がいることでよかったと思っている。

あしがら農の会は始まって25年経った。「地場・旬・自給」を目標にした25年であった。一人の食糧自給は、100坪の農地で、日々1時間の農作業を行えばできる。その目標を目指してやってきた。それが実現できた実りある、あしがら農の会の25年だった。25年経ちすこしだけ形が見えて来た気がしている。みんなの田んぼもそれぞれに試行錯誤が重ねられ、形ちが実現できている。みんなの畑も、ジャガイモ、タマネギ、長ネギ、小麦と徐々に姿が明らかになり始めている。有機農業塾の一年間の試行も、今後の展開に期待できる形が見えたと思う。あしがら農の会の周辺では、沢山の新規就農者が誕生した。新規就農者を側面から手助けするという目標も、すこしだけ成果を上げた。

この農業環境の厳しい状況下、農業を目指す人には専業であれ、自給であれ、様々困難が待っていたと思う。苦しい中、あしがら農の会が小さな灯であった。志を同じにする人がいる。心強い仲間がいた。私たちの小さな試みを、様々な形で、支援してくれる地域の農業者の方がおられた。それがなければ、到底ここまで来れなかったと思う。行政の方にも本気で心配してくれた人が何人もいた。後押しをしてくれた先生方もたくさんおられた。そうした人に出会えたおかげで、苦しい時も「何とかなる、大丈夫だ」と進んでくることができた。お陰様の25年だった。

この25年が切り開く25年であったとすれば、次の25年どのように継続し、発展できるかの25年であろう。農業の環境はますます厳しい、次の25年になる。厳しいからこそ、心を合わせることが大切になる。農の会はそれぞれの思いだけで出来ている。実に個性的な人たちの集まりである。それぞれの自立する個性が、互いを思いやる思いに繋がったときに、本当の力が出てくるのではないか。人を思いやる心があれば、誰かが助けてくれる。何度も、何度も助けてもらえた25年であった。

農の会は人を募集したことも、人を誘ったこともない。やりたい人を受け入れるという、実に緩やかな集まりである。だからこそ200人の輪に広がっている。この大勢の人は楽しいから集まっている。それだけに嫌な思いをすれば、自然に身をひいてゆく。配慮のない人が一人登場することで、10人の人が自然消滅した。しかし、良い人が一人現れると、10人の人がいつの間にか集まってくる。「地場・旬・自給」の高い志だけは、忘れず持たなければいけないのだと思う。

舟原の笹村の家には「農の会の家」にしたいと思っている。立派な機械小屋もみんなで完成した。何とか良い形の管理方法を見つけて、次の25年に役立ててもらいたいと思っている。幸い、お隣に住んで新規就農された黒柳さんが、当面管理をしてくれることになっているので、みんなで協力をお願いしたい。

 

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石垣島、絵を描く暮らし

2018-12-30 04:34:47 | 水彩画

石垣島にきて名蔵湾を描いた。描き始める前は少し怖い気がした。石垣暮らしになって何をどう描くのかわからない自分がいた。期待もあるし、不安もある。いつものように名蔵湾を描いた。前に描いたことがある気がしなかった。初めて見る場所のような気になる。この場所が相当に複雑な場所のせいではないだろうか。もう30枚ぐらいは描いて居るのに、見ないで描くということは全く不可能な気分になる。描き始めてみてそうだった、前もこの感じを描いたなと思い出すぐらいだ。描く場所を少し変えてみた。前回は一段上から描いた。その前は畑の中に入って描かせてもらった。畑が何もなかったからということもある。そして今回は道から描いた。道にも良い場所があるのだが、車を止めておくのに不都合な場所なのだ。昔は描いて居ると観光客がたまには来てどかなければならなかった。ところがこの場所はなぜか人が来ない場所になった。草が道路を覆い始めたし、孔雀が描いて居る場所まで平気で来るようなった。石垣にきてからの時間を思う。

それにしても人が来ないのはありがたい。落ち着いて描いて居られる。石垣一の場所なのになぜ人が来ないのかはわからない。カピラ湾が良いというので観光客は行くらしいが、カピラ湾は絵を描いて面白いとは今のところ思わない。一度行っただけ。ただの美しい自然を描きたいとは思わない。3日いて誰とも会わなかった。下の方でサトウキビの始末をしながら、トラックターで耕す人がいただけだ。その畑がどんどん色が変わってピンクになった。これがなんとも美しかった。石垣の土の色は実によい。下の方の田んぼは今なにもない。区画だけが見える。この耕作の区画というものが、空間にずいぶん影響を与えている。人の自然に対する刻印のようだ。風景を作り出す。ここに惹かれる。なぜ、絶景のカピラ湾ではなく、人の暮らしのある名蔵湾を描きたくなるのかは重要なところだ。それにしても名蔵湾の空は今までの空とは違う。どうやればよいのか呆然としてしまう。できないということが絵に出ればまだいいのだが、ついついでっち上げているところが情けない。

気が付いたことは絵が薄めになって、めりはりがなくなっている。メリハリや濃淡で絵作りをしていたらしい。絵にするという意識はおかしなものだ。絵を描いているのだから絵にするということは当たり前だが、絵というものの意識が、学習によって出来上がっている。今までの絵画史的価値観の影響は大きい。絵を見てきてなるほどと感心した蓄積の意味。それが自分が今見ている世界のすばらしさとどう関係するのかが難しい。どうも眼前にある世界を画面に持ってくるために、この蓄積されたものが大いに邪魔になる。眼前のものが、自分の中に蓄積された絵の常識によって染まってゆく。その結果できたものは絵らしくはあるが、自分の見ている世界とは離れてゆく。見ている世界を画面に持ってくるのが絵なのかどうかはわからないが、まずは自分の絵を描くということは、そこから始めるほかないのではないか。それができないのに、誰かが作り上げた過去の絵画を、まねたところでつまらない。一つ新しいやり方を取り入れた。一呼吸する都度、お前という人間はこの絵でいいのかと問うことにした。お前がいなくなったときに、この絵が笹村出であるといえるか。こう問うことにした。

それにしても、車で10分も行けば絵を描きたくなる場所があるという状態はなんともありがたい。2時間ほど描いたら家に戻る。描きたくなればいつでも出かける。いくらでも絵が描くことができる。大した絵が描けるわけではないのだが、「この大したことのない絵」に慣れなければと思っている。人の作ったそれなりの絵を描くより、自分の眼の方がはるかに意味があるという姿勢でゆく。ただ一つ。この絵を笹村出と呼んでいいのかと問いかける。このところ雨続きである。冬の石垣は雨が多いいということらしい。雨がまた良いのだ。絵を描くには雨は悪くない。濡れることで現れる色がある。人はいよいよ来ない。車の中から描いて居るありがたさだ。こんなに恵まれて絵を描いて居ていいのだろうか。幸運すぎる。たぶん父親と母親のおかげだと思う。よく働いて、私の行く末まで心配してくれた。これで自分の絵までたどり着けないとしたら、合わせる顔がない。

 

 

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石垣アトリエの座り机を作る。

2018-12-29 04:05:52 | 石垣島


長机を4つ作った。楠材が3つ。天板の厚さは30ミリ。幅が30から50センチ。長さが2.7m。一つは杉のような古材の立派なもので厚さ60ミリ。絵を描く壁の下に並べた。柿渋を何度か塗り仕上げた。なんとも良い風情である。壁側だけまっすぐに切りそろえ、手前側は自然のまま。この4つの机は、まっすぐに切りそろえた方を向かい合わせて並べて、宴会用の80㎝×540㎝の大机にもなる。伐採から6年は経過したから、十分枯れている。この材は燃やされてしまう寸前のところを、確保して板に挽いてもらった。6年寝かせてあったものだ。そしてある程度ゆがみが出たものをもう一度挽き直してもらった。それからまた2年経過した。ほぼ歪みはでなくなっている。アトリエを設計した時から、この壁にはこの机が来ることは決めていた。白い壁で絵を描くのだが、その下に少し締まった色が必要だった。そこを絵を載せる台にすれば描きやすい。想定通り、うまくいった。

中央の2点が今描いている絵。絵のサイズは中判全紙。ファブリアーノ。こうしてみると少し絵がおとなしくなっている。

絵を並べるとこんな感じになる。これも予定通りである。絵が見やすい。描きやすい。今、名蔵湾で描いて居るものも、帰ってきたらここに置いてみる。中央の2点が描いてきたものだ。そして眺めている。天井の天窓からくる光である。光の加減、静かで柔らかく絵が見やすい。この光も予定通りである。この壁には絵を上からつるせるようにもしてある。机の上には、柿渋で染めた、結城紬を敷いた。その上に昔、高校生の方がくれた、手織りの布も置いてある。その高校生だった人が、台湾に住んでいる。右に下がっているのは、友人の壁掛けの作品。奥に少し見える机は杉材だと思うのだが、すごい存在感がある。こんな立派な板はめったにないから、利用しないわけにはいかなかった。ともかく重い古材だ。上には陶芸の作品を並べた。

 

 兼藤忍さんに指導していただいた時の私の作品が5つ並んでいる。左端は小島郁子さんという青森の方の作品。

ここが篆刻と書の場所。壁には絵が飾れるようになっている。時々字を書きたくなるのだが、書きたいと思ってそのまま座って書ける状態がいい。気に入った硯が5つ並んでいる。このすわり机は大正期笹村の祖父が指物師に頼んで作ったもの。関東大震災も、戦災もしのいで今に残ったものでやはり捨てがたい。収まるところに収まるものが据え付けられた。絵を描く気が盛り上がってきた。すべてが片付かなければ絵には入りにくい。やらなければならないことが全くない。こういう状態が絵を描くにはよい。それが石垣に来た大切なところとなる。

 

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石垣、街散歩

2018-12-28 04:37:52 | 石垣島

石垣、町散歩。天気さえよければ歩いている。写真は石垣氏庭園。

 石垣は散歩の街だ。一つ新しい角を曲がれば、違う街の姿が現れる。石垣の街は実に変化に富んでいる。海の方に行けば、漁港があり、離島ターミナルがある大型クルーズ船がビルのようにそびえていることもある。山の方に行けばかなりの登山といえるほどの山もある。ダム湖も3つある。御嶽やお寺も歴史を感じさせる風情がある。田んぼの広がりも、古い姿を残していて見ごたえのあるものだ。畑の方へ行けば牧場の放牧。サトウキビやパイナップルの畑が広がる。商店街を歩けば、まるで銀座のような人の賑わいに紛れることになる。一軒一軒お店を覗くだけでもおもしろい。公園、図書館、市民会館ホール。晴れれば必ず歩くことにしている。4000歩ほど歩く。2キロほど行き戻る。家に戻って1時間ぐらいである。

石垣散歩を日課にしている。最初は朝歩いていたのだが、朝がなかなか明るくならない。明るくなってから出かけると、絵を描く時間を削ることになる。それで夕方歩くことにした。写真はまず、家から出てすぐのところにある石垣氏庭園。ここの石垣はとても整備されたものだ。こういう石垣は至る所にある。石垣を眺めて歩くだけでも飽きない。つい、だから石垣市と言いたくなる。南の方に向うとだんだん町はずれ。昔の農家だった家ではないかと思われる大きな屋敷が続く。奥には赤屋根の低い沖縄家屋がある。どの方向に歩いたとしても、必ず、沖縄建築の赤屋根に出会う。多くの場合シーサーが載っている。シーサーはライオンだと思う。アッシリアのライオン。いつかシーサーを作りたい。沖縄の隆起したサンゴの石で作りたいと思っている。建築現場にはかならず石が転がっている。良い石を見つけて作ろうと思っている。なぜ作りたいかといえば、見ているともっと良いのが作れそうな気になるからだ。張りぼて人形タイプではなく、中身の詰まった造形としてのシーサー像。作って家の屋上に置こうと思っている。石垣小学校の正門のシーサーはなかなか良い。

 

 細い、軽自動車だけが通れる道が多い。ブロック塀もかなり多いから、地震の際の通行路は考えておいた方がいいだろう。結構車は来る。ともかく忙しい生きた街だから仕方のないことだ。緑のネットで囲んで野鳥除けのようだ。たぶん中に果樹があるのだろう。鳥が多いから、囲わなければ食べられてしまうのだろう。中にはこんな感じでランを栽培している家もある。鶏の声は、歩いているとあちこちで聞ける。まだまだ飼っている家があるようだ。

 ここは広い道で上り坂になっている。登りきるあたりはお墓の多い地域になる。お墓と人家が混在している。これも考えようによっては悪いものではない。一つのお墓が大きいから、主張している。お墓にお寺が付随していない。明和の大津波で街が全壊するまでは、低地が人家で、見晴らしの良い高台がお墓だったのではないか。津波以降高台のお墓の方に人が住むようになった気がする。それで人もお墓も同居した。

 御嶽にある、大きな気根の伸びるガジュマル。

 

散歩用に作った、結城紬のずた袋。これに財布とタブレットを入れて出かける。

 

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商業捕鯨再開の是非

2018-12-27 04:05:50 | Peace Cafe

捕鯨問題は複雑なところがある。ところが、賛否の両論とも考え方が一方的で、かみあった議論になっていない。世界の大勢を占める意見としては、感情のある高等動物だから、捕鯨はやめるべきだという主張。一方に牛や豚を食べているのに、なぜクジラがいけないのかというような素朴な意見。どちらの意見も、不十分すぎる。高等動物だからいけないという根拠があいまいすぎる。菜食主義であるべきというなら理解できるが、下等な動物なら食べてもいいという考え方が、論理として整理されていない。牛や豚を食べてよいという意味は家畜は食べてよいが、野生動物はいけないということだろう。ではイノシシやシカは食べてはいけないのだろうか。ここにさらに伝統文化だから食べてもよいという意味がまぜこぜに加わる。つまり、議論が成立しない状況のまま、日本政府は国際捕鯨委員会(IWC)に脱退を通告した。このことが日本の一国主義を世界に示すことになってしまったところが、極めて残念なことだ。アメリカがCO2排出枠を決めたパリ議定書からの脱退をしたのと同じように世界からは見える。

この脱退という行為は、捕鯨云々ではなく、日本は自国の利益のためには国際協定の枠から抜ける国だとみられることになる。日本は一国主義では生きて行けない国だ。領土問題であれ、徴用工問題であれ、日本政府の世界に対する主張が一国主義に基づくものとみられる可能性が高まったということだろう。国際捕鯨委員会での参加国の委員が、聞く耳を持たないということもあるが、長年の日本のやり方への不信もある。調査捕鯨と言いながら、商業捕鯨をやり続けるという姑息なやり方である。科学的調査というだけなら、殺さないで調べることも方法はいくらでもある。象の生息状態を調べるのに、殺して肉を食べながらというやり方は、どれほど科学的調査と言いながらも理解されにくいものだろう。

では伝統的食文化という意味はどう考えればよいのだろう。日本の近海のみで捕鯨を行うと日本は主張している。遠洋での捕鯨は行わないということは決まった。日本近海にいる3種類の、資源の豊富なミンククジラなどをとるというのだ。この考え方は第三の道で、一歩前進である。ところが捕鯨委員会を脱退するという行為が目立ち、第三の道も評価されないことになってしまったのではなかろうか。議論の進め方が下手すぎる。伝統的食文化であるからと言って、許されないものもある。犬食文化を考えるとわかりやすい。世界では毎年何千万ぴきの犬が食べられている。東アジアが中心である。畜産として行われている。世界からの批判は強く、徐々に縮小禁止される方向ではあるが、今も犬食は行われている。そもそもどの民族も犬は食べていたはずだ。それが、宗教的な意味、実用的な意味、愛玩的な意味から徐々になくなってきた伝統文化である。犬を食べない大半の日本人にしてみれば、伝統文化ということで食べている人が異様に見えるわけだ。伝統文化というだけで許されるものではないと考えた方がいい。

第4の道として、日本も捕鯨を禁止するという将来像を宣言するのはどうだろうか。ただし、今捕鯨に携わる人のみ、沿岸捕鯨を特例として許してもらう。その人たちが働けなくなる時が捕鯨が終わるときとする。食べる側の人も、伝統食としてどうしても食べないと居られないという人も、老齢化が進んでいる。この先新たなクジラ肉好きを作らないことだ。小学校で捕鯨オリンピックの映画が上映された。日本が捕獲頭数で金メダルだと誇らしげに示す、宣伝映画である。クジラを大切に食べるのは日本人だけだと主張していた。あんなとんでもない映画を上映していた文部省の将来の展望のなさを、反省してもらいたい。私は養鶏業をしてきた。鶏肉を食べてきた。偉そうなことは言えない立場ではあるが。

 



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石垣の生活事情2

2018-12-26 04:16:18 | 石垣島

石垣島で一番大変なのはゴミ出しである。戸別収集で楽なはずなのだが、ゴミ袋の中に平たいプラステックの紐が見えるというので、置いて行かれた。プラステック類の分類が極めて煩雑である。プラ・リサイクルマークがあるものでも、燃やすごみに行くものと再生ごみに行くものとがある。容器リサイクル法とは別枠で収集している。マークがあるものでも、ダメなものがあり置いてゆかれる。プラステックのリサイクルの流れが崩壊しているのだからこうしたことが起きる。プラステック類に関して言えば、リターナブル以外は使用禁止が本来である。それまではすべてを燃やすのが一番である。このままプラステックを使っていれば、人類はごみで滅びる。再生利用したとこで最後はマイクロプラステックになる。再生利用で公園の椅子になったとしても、その椅子の行く末がどうなるか考えてみると恐ろしい。最後の処理費用まで見ないといけない。プラステック類は使わない以外にない。再生利用にお金がかかるくらいなら、燃やしてしまう方がましだ。

我が家のごみで一番多いものがプラステックだ。ごみのほとんどがプラステックだ。プラステックのごみで頭を悩ませている。水彩絵の具の空になったチューブをどうするか悩んだ。判断を持ち越して小田原に持ち帰ることにした。しかし飛行機に乗るときに見つかるとこれまた大変だろう。処理困難物を持ち込むところはあるのだろうか。生ごみは分解して土にしてプランターに入れる。紙類は大半を再生。アルミ類も難しい、例の銀紙と呼ばれるものからアルミ箔まである。燃やすごみに入れるものと資源ごみ行きがある。難しいゴミ分類となるとごみステーションが必要だろう。少なくともゴミ処理場に分類を判断してくれる施設がなければ学習ができない。以前青ヶ島でごみ処理を見学して、島でのごみ問題の深刻さを知った。出口のない場所に、様々な処理困難物が持ち込まれ、埋め立て処理される。埋め立て処分場は忽ちあふれてゆく。問題は理解しているが、引っ越し当初指導的に厳しいようだ。なれれば難しくはないと聞いた。

買い物に行くと、モノがあふれていることに驚く。スーパーでは小田原より充実したものがある。えごま油を探していたら、有機の製品がおかれていた。多様な商品の品ぞろえ。すべての食材が有機で賄える島である。L字金具を探しにホームセンターに行ったら、小田原よりで種類が充実している。こんなにモノがあふれていていいのかとむしろ心配になった。水彩パレットを探したのだが、これも良いものが3軒目で見つかった。体組成計を買いに行ったのだが、ネットで探したものより良いものが、お店で見つかった。お店で見つからない場合は、アマゾンに頼めば2000円以上にまとめれば送料無料で何でも送られてくる。このアマゾンの制度は石垣の場合かなり有利と言える。地域の平等がアマゾンにある。ネット環境で言えば、光回線が全く問題がなく使える。パソコンの速度も小田原の家より早い気がする。フィットビットの同期が小田原の家ではなかなかうまくゆかなかったのだが、タブレットを開くたびに同期している。

本屋さんはユーグレナモールに山田書店という。いいお店がある。沖縄関係の本が、図書館並みにそろっている。沖縄県で一番と聞いたことがある。この本屋さんは盛り立てたくなる。つい増やしてはいけないと思いながら、買ってしまう。図書館はすばらしく良い。充実していてこれも小田原以上だ。水彩絵の具はぺんてる以外にない。ぺんてるのアクリル絵の具というものも初めて見た。学校ではこれを使うのだろう。良い考えだ。どのみち水彩絵の具は注文して送ってもらっていたのだから、困ることはない。水彩紙はない。これは死ぬまでの分を荷物で送ったから当分大丈夫だろう。水はどうか。水の配達や、販売は目立つのだが、今のところ水道の水で大きな問題は感じていない。飲み水だけは購入しようか迷っているところだ。高い湿度も心配なことだったが、2つの除湿器を運転している。水彩画の保存戸棚と、クローゼット。55%に自動運転している。それで時に30%に乾燥する。今日は雨なのだが、1時間に一回、5分ぐらい動く程度。一つ困っていることを思い出した。ニュートロジーナがないことだ。捜し歩いて気が付いたのだが、石垣では冬の乾燥肌がないのかもしれない。(この翌々日ドンキーでニュートロジーナ発見。299円)クリスマスの昨日の晩も歩いている感じが、夏の夕涼みのようだった。寿命が、一割ぐらいは伸びそうである。これなら100歳も冗談じゃなくなるかも。

 

 

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石垣島泡盛で古酒(クース)を仕込む

2018-12-25 04:28:59 | 石垣島

石垣島では建前や新築祝いに泡盛が送られるらしい。嬉しいことに40本ぐらいの泡盛がそろった。ラベルが祝い用になっている。そこで、かねてから用意の5つの甕に泡盛をクースに仕込んだ。贈り物だから、様々な泡盛がある。まずは、「玉那覇酒造の玉の露」石垣島最古の泡盛製造所である。私の家のお隣になる。これをまず一つのに仕込んだ。次が「八重山酒造所の八重仙」そして「請福酒造の請福」さらに「仲間酒造所の宮之鶴」これで4つの甕になる。最後にもう一つ「玉那覇酒造の玉の露」を仕込む。一斗甕が3つと、5升甕が2つある。1斗甕だから18リットルと思っていたが、21リットル入った。84リットルの泡盛を仕込むことになる。一年経過してから飲むことにする。前から貯めてあるお酒が、小田原の方にあるからだ。一年は持つ予定である。毎年10リットル飲むことにする。1回に50cc飲んで200回ということだから、ちょぴりづつである。お酒はのちょぴりづつが良い。

石垣で古酒を仕込むということは、自分が飲むということが主目的ではない。首里王朝の接待と同じ気持ちなのではないだろうか。もてなしである。時間をもてなすということだろう。これほど大切にしてきたものでもてなしたいという気持ち。私の家の泡盛甕は8年半で一巡することになる。クースというものは、飲んだだけ泡盛を継ぎ足してゆくしきたりになっている。今年もこれだけ飲んだのかと、隣の甕から注ぐ。そして減った甕には新酒を加える。戦災にあう前の沖縄では、あちこちに100年クースがあったそうだ。始まりが100年前で継ぎ足してきたということになる。だから、もし私が100歳まで継ぎ足せば、30年クースということになる。それはきっと酒好きの誰かに引き継がれることになる。そしてそれがいつかは百年クースになる。形に残る受け継がれゆくおもいが甕に満たされてゆく。その思いを飲むのが泡盛文化のような気がする。

石垣の4つの酒造会社の泡盛がそろった。ほかにも酒造会社はあるのだろう。さらに高価なお酒もあるようだ。が、いただいたものは意味の入り方が違う。皆さんが普通に飲まれるお酒をくださったと考えていいのだろう。それを甕に仕込むところに気持ちがこもる。石垣に住み始めた記念に皆さんがくれた泡盛だよ。その始まり方が気に入っている。これから買う泡盛は玉の露に限る。ほかのお酒に玉の露を加えてもいいと思っている。人によるとお酒のブレンド割合でおいしくなるという人もいた。お世話になるお隣さんなのだから当然玉の露だ。どれも30度とあるが、本来クース用のものはもう少し強いものになるのだろうか。時間の経過で度数は下がりそうなものだ。別段強い酒が好きというわけでもないので、下がってかまわない訳だが。10年クースは飲んだことがあるが、その味の良さはわからなかった。正直に言えば、酒好きではないから、酒の味は少しも分からない。分からないのに酒は不思議なものでについ飲みたくなる。酒を飲むにはいろいろ言い訳がいるのだ。




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沖縄防衛論の確立

2018-12-24 04:19:53 | Peace Cafe

沖縄では強引な辺野古米軍基地建設が進められている。石垣に来て、当事者として気になることだ。沖縄という場所からこの問題を考えたいと思う。沖縄からの視点での沖縄の防衛論が必要である。住民を無視した、米軍基地の建設で日本の防衛力は低下している。沖縄県民に支持されない米軍が、日本の防衛に有効に働くとは思えない。どれほど、兵器が近代化されたとしても、軍事力は、人間が人間を守る為には行う行為だ。もし、兵器を使う人間にとって他人事であれば、命がけで戦うことなど出来る訳がない。いざというときに無力な軍隊はなるであろう。人は石垣人は城と武田軍では言われた。と子供のころ山梨ではよく言われたことだ。親愛なる日本の為に戦う。そのような思いがなければ、命など張れるわけがない。日本人から憎まれたアメリカ人がどうして、日本の為に戦う事が出来るか。アメリカ兵はアメリカの為にだけ戦うはずだ。辺野古への埋め立て開始が何故行われたのか。同盟国アメリカへの安倍政権の忠誠のパフォーマンスに過ぎないのではなかろうか。経済交渉も絡んでいるはずだ。

宮古島でも、石垣島でも、市長は住民投票を無駄だとしている。市長が防衛は国の専権事項だから、地域住民が口を出すようなことではないとしているのだ。石垣の市長は地域住民の安全について、国に従うだけで、独自の考えがないという状態が推察される。私には米軍基地の移転先が辺野古以外にないという理由がわからない。中国の脅威が、沖縄の捨て石作戦という以外、政府から説明があったことは一度もない。まともな理由などないはずだ。説明をすれば、代替案が出てくるのを怖れているのではなかろうか。要するに米軍は普天間基地を気に入っている。だから、移転先が見つからないことはむしろ好都合なのだ。普天間基地の危険除去は米軍の問題ではなく、日本政府の問題になっている。では、アベ政権の妄想としての中国仮想敵国論ではどこに基地があることが有効なのか。沖縄に集中することが、戦略として有効とは思えない。最近は兵器や戦争の形態も変わってきている。中国に近いということが、それほど大きな意味にはならない。無数にある無人島の活用の方が意味がある。地勢的、距離的な問題よりも、長い占領してきた意識から、沖縄ならば自由に使えるような意識があるのではないか。さすがに本土での米軍は、委縮するところがあるのだろう。米兵の犯罪も本土の方が少ない気がする。

手順として、当面、沖縄の米軍基地はすべて自衛隊基地にする。日米は同盟関係であり、基地は共用は可能である。出雲航空母艦は米軍機も利用するとしている。米軍基地は自衛隊基地よりも透明性に欠ける。日本政府の管轄下にもない。普天間でヘリコプターの窓が落とされても、何も言えないのが日本政府だ。総理大臣がしばらく飛ばないようにお願いしても、全く無視されている。それならば、普天間が当面だけでも自衛隊基地になれば状況が変わるはずだ。さすがに同胞である日本人である自衛官なら、そこまで非人道的な行動はとれないだろう。沖縄では自衛隊の指揮下に米軍を入れる。その方が、沖縄の安全にも寄与するだろう。確かに、アメリカ軍は嫌だというだろう。そこにアメリカ一国主義の軍隊であることが明確になるはずだ。

わずかの希望として、アメリカはこの提案を受け入れる可能性はある。米軍の費用の削減になる。アベ政権は現実としては、八重山諸島に自衛隊基地を配備して、米軍に共同使用させようとしている。現状では米軍は沖縄で訓練をしている。訓練はどこでもできる。何も沖縄に集中させる理由がない。沖縄の負担軽減を主張するなら、まず、米軍基地を自衛隊に転換する努力を行うべきではないだろうか。日本全土から反対の声が上がるはずだ。しかし、国の専権事項であるそうだから、安倍政権が決めれば済むことだろう。沖縄に寄り添うはずの安倍政権だ。そのくらいのことはできるだろう。日本も本気で専守防衛の意味を考える時が来ている。日米関係も絶対的な同盟とは言えなくなっている。中国を一番敵視しているのは、アメリカだ。日本が捨て石作戦に使われる可能性もある。結論としては、軍事力に頼らない平和外交を、日本独自に作り上げることが必要になっているということになる。尖閣諸島の領有権など小さなことだ。

 

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2018年から2019年へ

2018-12-23 04:15:04 | 身辺雑記

2018年が終わろうとしている。来年はいよいよ70歳になる。石垣島生活を始めることができてよかった。つくづくよかった。30代後半で山北で開墾生活を始めた時は、東京の暮らしに追い込まれた結果であった。小田原に引っ越したのが50歳前半で、様々な事情が重なりそうした方がいいと判断した。石垣に越したのは心機一転して、自分の生きる目的ともいえる絵の道を模索したいからである。絵を描くということはほかに何かやることがあってはうまくない。それを片付けてからという事になると、純粋な気持ちが動かない。何もやるべきことがない状態にいることは大切なことだ。無為な状態で絵を描きたくなる気持ちを待つ。そのように考えて石垣に越した。何歳まで絵が描けるのかはわからないが、一応100歳までの30年と決めている。30年あれば、根本からやり直せる。絵を描く自分の、人間として行きつけるところまで行く。今描いているような絵でない絵があるはずだ。まだ嘘なのだという意識から抜け出ることがない。

2019年は石垣生活が始まる。石垣では冬至の日を新たな始まりの日とする風習がある。昨日である。アラテーダとか聞こえたが、もう一つ判読できなかった。要するに一陽来復ということだろう。冬至の日の初日の出を拝むのだそうだ。太陽がよみがえるということだ。と言っても夏日が続く石垣では、冬至の太陽は真夏のような強さである。机を外で作ったのだが、たちまちに日に焼けた。太陽が弱まる感じは少しもない。こうして間違いなく、石垣での再生生活は始まった。やれるところまでやる決意である。今日から絵を描きに出かける。どういう絵を描くのか自分自身が楽しみである。前回は見えるまま描いた。そして絵になり始めたというところで筆を止めた。この絵になり始めた感を確認したかった。その絵は小田原の部屋にかけてあり毎日見ていた。意味は分かったわけではないが、それもまた良いということだった。

水彩人に関しては、今まで通りだ。今まで以上に水彩人を自分の確認の場にしたい。絵を描くということは危ういことだ。独りよがりになる。私絵画の一番危険なところが、自分が見えなくなるということだ。私絵画の行く先は誰にも分らない。それだけに、客観的判断がないという世界である。自分がいいのだからいいだろうと居直ることもできる。自分が見えるということは自分を客観視できるということ。それは他人の目で自分を見ることができるかである。そのためには水彩人はとても大切な場だ。絵を語る会も継続したいと思っている。本音で絵を語る場は必要だ。自分の行為を言葉化する意味はますます重要になる。先日、絵について言われた私の絵は教条的である。ということがどういうことか今も考えている。思い当たるところもあるからだ。考えて何かがわかることは少ないのだが、心に残るということは意味がある。

小田原生活は、田んぼを続けるつもりである。体の動く間は田んぼをやりたい。それを自分の指標にしたい。もう田んぼは続けられないなというときが、次の転換期なのだろう。自分では気づきにくいことなので、仲間に教えてもらおう。遠距離恋愛ということで、田んぼに行かせてもらいたい。田植え前後の1か月。稲刈り前後の1か月は小田原暮らしである。あと草取りに少し行けば、何とかなるはずだ。三線も楽しみである。でん田楽団も続けたい。石垣でもう少し練習をして、音楽仲間の足を引っ張らないところまで向上したい。石垣で良い三線の先生を見つないといけないだろう。元旦にはクルーズがあるようだ。日の出を見るクルーズのようだから一度乗ってみようと思う。

 

 

 

 

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石垣島の生活事情

2018-12-22 04:49:44 | 石垣島

 

石垣島で生活を始めて、暮らし方が徐々にわかってきた。まずは人間はごみを出す生き物だ。ゴミによって人間は滅びるだろうという意見が納得できる。ゴミは戸別収集である。旅行できていた時には、ここがわからなかった。旅行ならホテルで捨てる。あるいはコンビニのごみ箱に入れる。飛行場でもよく捨てさせてもらった。町にごみの集積場がないから、どうなっているのかとは思っていた。有難いことに戸別収集に来てくれる。こてってれから年を取るものには朗報である。ただし、ドイツ以上の厳密な分別が要求される。違うものがごみの中にわずかでも混ざっていれば、置いて行ってしまう。果たして、全島民に行われていることかはわからない。街中に暮らす、新住民に対しては驚くほど厳しい。教育的指導という気もしないではないのだが。私はごみには詳しいつもりでいたのだが、ちょっとゴミ出しが怖くなるほどの厳しさである。

これは島のごみ処理施設のことを考えれば、当然のことである。石垣島の最終処分場は満杯である。小田原と一緒で掘り起こして再処理をしている。問題はプラステックごみであろう。ゴミの半分以上がプラステックごみだ。処理方法がない。プラステック製品を禁止する以外に、解決はない。買いたくないのだが、すべてのものがビニール包装である。便利こそ悪魔。ビニールごみを燃やさないで処理することは不可能である。再処理のコストを考えれば、プラステックを使わない方向しかない。困ったのは一回に収集してくれる量は、2個まで。引っ越しの梱包材のごみが、ひと月経過してもまだ山のようにある。今になって、直接搬入の方法もあるらしいということが分かった。絵を描きに行くときに、よくとおる場所がごみ処理施設だった。

食べ物は大体をゆらていく市場に買いに行く。歩いて10分ぐらいの場所だ。片道1500歩。散歩がてら行く。何でもあるので心配いらない。石垣牛から石垣のお米まである。調理済みの食品まで、大体は地域の産物が並んでいる。野菜の味は小田原のスーパーよりはおいしい。物価的に言えば、小田原と大きくは変わらない。魚介類が少し安いとは感じる。外食をすると、小田原と変わらないと感じる。お店によっては観光地価格ということもある。もう一つ不安だったのが通販の商品の配送料である。離島は送りませんとか、配送料がバカ高いものがありそうだった。しかし、実際のところ、配送料無料を探せばいくらでもある。これも心配無用だった。風の強さはどうだろうか。日々の様子では、台風以外はそう心配ない場所のようだ。ご近所の方も静かに暮らされていて、こちらが音を出すのがはばかれるようだ。金物屋さんも商品がそろっていて、どんなものでも基本ある。むしろ小田原よりも必要な物がそろっている。さすがに三線に関するものは、すぐに手に入るのでありがたい。壁に三線の吊り金具を付けた。石垣では箱に入れておかないでも、湿気があるから大丈夫らしい。外に出しておけば、稽古が進むと先生に言われた。

車の渋滞は以前に増している。車が増えているのだろう。観光客は我が家の周辺も歩いている。車でも来る。交通事故が心配である。車は絵を描きに行くとき以外、使わない暮らしを基本にする。役所は税務署も登記所も市役所もおおむね普通の対応である。案外に島の人ではないと思われる人がそういう場所には多い。除湿器はクローゼットと絵の収納庫には常時運転で入れてある。順調に作動しているようだ。屋根裏の温度が高くなると、廃気する装置を付けてあるのだがこれが、12月でも普通に作動している。床板は湿度でそりが生じる不安があったのだが、今のところは全く問題ない。

 

 

 

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石垣島の暮らしが始まる。

2018-12-21 03:58:13 | 石垣島

石垣に来る飛行機は必ず、相模湾上空を通過する。飛行機の座席は必ず、右側の窓のところにする。見えるとただうれしいからだ。このところ、見えることが多い。この上から見る富士山も実に面白い。同時に小田原が見えるときもある。今回は最高の情景。何かこの先の幸せにあふれる。石垣島に戻ってきた。前回は引っ越しだけしてとんぼ返ったので、今回は石垣島の年の暮れと正月を楽しもうと思っている。おいしい食べ物がある。古酒も早く仕込みたい。ともかく暖かい。感覚としては、夏である。昨日は26度あった。朝小田原が氷点下だったことを思うと、別世界に来た気持ちになる。夕方、5時半で暗くなる。冬至も近いのにこの夕暮れの世界が、冬の気持ちにはなれないところだ。私の家は、博物館前でバスを降りて、10分ほどにぎやかな通りを歩く。夏の夕涼みの散歩のようだった。また新しい店ができた。石垣は散歩の街だ。住宅街もよい。商店街も楽しい。港まで海を見に行くのも悪くない。明るくなったら出かけようと思う。

石垣では家を建てたときに、建築業者さんがそれぞれにお祝いに、泡盛をくれる習慣があるようだ。38本ある。68リットルある。毎日50cc飲んで1568日ということになる。たったの4年半年だ。これでは足りない。もう少し長生きするつもりだ。今日、玉那覇酒造さんに行って、一壺分買ってくるつもりだ。これを甕に仕込んで古酒を作りなさい。古酒ができるまで末永く、安寧に暮らせるようにという、お祝い事のようだ。これを仕込まないうちは、石垣の暮らしは始まらない。実は先日仕込むつもりだった。ところが、今回は見送って、次回来た時に仕込めばよいと、盛んに言われたので、残念ながらやらなかった。別段クウスの味がわかるわけではない。それでいい。この全体しきたりが好きなのだ。時間という、誰にでも共通にある価値を、お酒に加えてゆく文化。暮らしを見つめてゆく時間を味わう。だから、クウスは10年物を買えばよいということではない。小田原では東京から持ってきた梅酒を飲んでいた。30年ものさえあった。これは小田原で飲み切るつもりだ。

諏訪野原圃場でとれた、野菜。過去最高の出来だった。根守さんの計画のおかげだろう。食べきれないほどニンジンがあるのは初めてだった。大根も過去最大の大きさ。株も、長いこと食べた。長ネギは私のものが一番良かった。理由は、3つある。土寄せ、ぼかし肥料、密植。作物によっては、密植が好きなものもある。

 

 

くわいを掘った後。くわいの出来はあまりよくなかった。これも不思議、一番手をかけた年なのに、出来はそれほどでもなかった。

石垣から、年賀状を投函するつもりだ。年賀状はふつう消印を打たない。切手の年賀状にしたから、石垣スタンプを打ってくれるかもしれない。年賀状は今年は小田原にきて読めないだろう。出さなかった分の返事もかけない。残念だと思うが仕方がない。業者さんには石垣の絵を描いて、送りたいと思っている。20人くらいの方がかかわってくれたらしい。気持ちの良い人たちばかりで、こんなに良い工事は初めての経験である。これからの暮らしが落ち着いてできそうでうれしい。もし、石垣で家を作ろうという人がいたら、紹介したいと思う。沖縄は移住先希望では、日本で一番である。ダントツだそうだ。石垣は離島であるにもかかわらず、人口増加が起きている。私のような新住民もかなり多いといわれている。石垣の新住民の暮らしを少しづつ書いてゆこうと思う。

 

 

 

 

 

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国の方角が決まらなければ改憲はない。

2018-12-20 04:53:02 | Peace Cafe

憲法を変えなくてはならないという時は、国の現状と未来展望が憲法と合わなくなった時だろう。現在憲法を変えなければならないほど、日本の状況は変化し、危ういのだろうか。フランスは憲法の変更検討が繰り返し行われている。例えば、国会議員の4選禁止というようなことを憲法で取り決めると検討している。国会議員の廃止という意見すらあるらしい。それほどのことをしなければならないほど、フランスの状況がおかしくなっている、と思っていたら、なんとフランスでは暴動が毎週起こるようになった。これでは憲法を変えるという事も考えざる得ないだろう。つまり、憲法とは国の方向をこうしようという事が定まらない限り変えようがないというものだ。平和主義で行くのか、武力均衡主義で行くのか。当然だが、軍事力に関してだけではなく、食糧自給はどうするべきか。地方と都市の関係はどう考えてゆくのか。経済は貿易立国で良いのか。企業と国家の関係はどうあるべきか。教育は何のために行うのか。そういうこと全ての国の方角に対して、国民全体の意見が一定定まらない限り憲法をどう変えればよいかは、考えられないという事になる。

確かに世界情勢は緊迫度が増している。対立が深まっている。ヨーロッパではEUが難民対応でおかしくなり始めた。アメリカと中国の経済戦争は相当深刻な状況になってきた。北朝鮮の核開発は日本では現実の脅威である。加えてアベ政権の軍事力傾斜も東アジアの緊迫度を上昇させている。この現状に対して日本の国づくりはどこに向うのかである。アベ政権は普通の軍事力のある国にすることが日本の安全保障に必要と考えている。その為には憲法の改定が必要と考えているのだろう。果たしてそうであろうか。日本が中国に対抗できるだけの武力を持つという事は、核武装するという事である。そこまでの覚悟がない限り、なまじの武力化はかえって危険ではなかろうか。中国は日本に数十発の核中距離ミサイルを撃ち込めるだけの軍事力をすでに持っている。アメリカがそれを抑止してくれているという事実はある。もしもの時はアメリカが中国に核ミサイルを撃ち込むであろう。それはアメリカの防衛であり、現実としてはその時には日本はもうこの世界から消えているのではなかろうか。

ここまで武力が大きくなってしまった現状では、どこの国も簡単に核ミサイルなど発射できない。核ミサイルの抑制は一国の問題ではなく、世界中で話し合う必要がある。核爆弾を所有していない国も、所有している国もお互いの安全を担保する仕組みを世界中で考える必要がある。そうでなければ、第二の北朝鮮が登場する。日本は非核の平和国家として世界の核の管理を国家の自由にさせないような呼びかけをする必要がある。武力で脅して有利を得るような野蛮をやめさせることが、武力を否定した憲法を持つ日本の役割のはずだ。現状アメリカの核の傘の下にいるのも現実である。核廃絶は少し未来の目標として、この核の傘を世界中の共通の傘にするべきだ。互いに傘の下に入ることで、第2の北朝鮮の登場を抑制する。アベ政権は結局のところ核保有国への道を歩んでいる。アメリカと仲違いすれば、そうせざる得ない方向に歩んでいる。アメリカは日本が利用できる間は傘の下に入れてやるが、利益にならないなら、傘から出てゆけという事になる。当面、核廃絶が出来ない以上世界平和の道はそれしかない。

こうした日本の主張が受け入れられるためには、日本の平和憲法は大きな力になる。日本は核武装しない。中途半端な軍事力など持たない、安全な国づくりという事になる。日本は一切の攻撃的な武力がない。日本は近隣祖国に対しても一切の脅威にならない。こう宣言して、専守防衛に徹する。専守防衛とは何かの議論は深めなければならないだろう。防衛の為に特化した武力の研究が必要である。現実にはこれからの戦争は武力戦争よりも、サイバー攻撃であり、経済戦争あり、細菌攻撃であるかもしれない。さらに手におえないような武力が登場することだろう。米中は経済戦争に突入した。経済封鎖に対する備えに徹しなければならない。日本は日本なりの一国主義の覚悟が必要である。経済自立型の国づくりである。アメリカにも頼らず日本国が成り立つ体制の確保が必要である。食糧自給がまずは必要では無かろうか。そういう事が定まらない以上、憲法の改定はあり得ないこととなる。

 

 

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小田原有機の里づくり協議会

2018-12-19 04:40:38 | 地域

小田原有機の里づくり協議会が出来て10年が経過している。小田原市長が代表であり、小田原市が事務局を担当している。そこに加わっている小田原の有機農業にかかわる4つの組織がある。それぞれ独立した農業者の組織である。4つの団体が、それぞれ行っている活動を協議会の目的にかなうものにまとめ上げ、国に事業申請してきた。あしがら農の会であれば、有機のコメ作りの緑肥の効果の実証実験を担当してきた。しかし、国の農業政策が変わり、有機農業の技術的な研究より、直接的な業績の向上が求められるようになった。有機農業を行う農家数や、耕作面積の増加、売り上げの増加等が協議会にも要求される。残念ながらこのような目標は無理になっている。有機農業の農家の老齢化も顕著である。農家数の減少も年々拡大している。この状況を打開するためには、有機農業だけの取り組みでは解決はできない。国の農業政策の方向が変わるまで、現状では有機農業の基礎的な技術の蓄積をすることだと考えてきた。農業者の中の有機農業に取り組む人の比率を高めることを、当面の目標にするべきである。

有機農業の普及を妨げているのは有機農業の技術的整理だと考えている。有機農業は最も優れた農法だ。技術さえ理解されれば、一般農家であっても取り組みやすい優れた技術である。分かりやすい有機農業技術を提案することが有機農業の普及につながると考えて活動してきた。その成果は稲作においては出ている。今年作った、「有機のコメつくり」冊子にはその成果を示した。有機農業は一般の農業より収量が上がるという事だ。確かに手間はかかる。しかし、ふつう行われている農業よりも生産性が高い。このことを実践として証明しなければ、有機農業の普及は不可能だと考えている。農の会の稲作では神奈川県の平均収量が7俵台である中、畝取りを達成している田んぼもある。有機農業の優秀さを示す事例が、近年日本全国で現れている。あしがら農の会としては、大規模化できない中山間地や、都市近郊において、小規模農家の方向性として、畝取りできる有機農業稲作技術の確立を行うことが、有機の里づくり協議会の役割と考えている。今年度有機のコメ作りを冊子にまとめ、有機農業学会で報告させて頂いた。

有機農業が何故普及されないかについては、明確な理由がある。日本農業自体が衰退してゆく状況が背景があるからだ。この中で、政府は大規模農家中心の農業経営を考えている。手作業の占める割合の大きい有機農業は大規模農業には向いていない。都市近郊の小規模農地における農業経営は難しいという事が原因している。こうした状況下、都市近郊の耕作放棄地の再生のためには、自給農業の農地利用以外にないと考えてあしがら農の会は25年活動してきた。自給農業であれば、経営というより趣味的な側面も加わることになる。退職者などの農地利用は将来有望になるはずである。楽しみながら農地利用が出来ることになれば、耕作放棄地は減少する。特に、自給農業では有機農業がおこなわれる可能性も高い。自分の食べる野菜にはそれほど農薬をかけないという農家の現実。その為にも有機農業技術の確立と普及こそ、今の都市近郊の農地利用には不可欠なものである。

有機農業については農業試験場や国の機関などでも、試験農地を組んで検証するという事は出来ないでいる。それは有機農業というものが、気候や土壌に応じて変化の多い、熟練を要する手法の占める割合が高いからではなかろうか。農の会のように多数の人間が、多様な田んぼで、様々な実証実験を行う事が効果的であった。そしてとくに緑肥の実験を行う事で、一定の成果が出ると考えて始めた。有機の里づくり協議会で活動した成果である。補助金が貰えたという事もある。自分たちがやっていることが国によっても評価され、期待されているという励みが大きかった。ところが、農水省は今年度から有機農業も、6次産業化とか、大型農業に特化することで、生産量を上げるという方針に変わったようだ。これが私にはよくわからない発想転換である。有機農業こそ、中山間地の失われつつある農業の方向性ではないか。大型農業を否定するわけではないが、小さい農業を否定してしまう事は、地方再生という大きなものを失う事になる。

有機の里づくり協議会がこれから取り組むべきものは、有機農業技術の確立と普及である。4団体それぞれが確立した技術を新規就農者や自給農業者にいかに普及してゆくかが重要な協議会の目的になる。その意味で、諏訪の原で行っている有機農業塾は、協議会において取り組無価値のあるものだと考えている。有機農業塾で、新規就農者の技術的向上をはかる。実際に今年は4名の新規就農者がこの事業に加わり、目覚ましい技術の向上があった。ますます、有機の里づくり協議会の役割は大きいと考えている。

 

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災いの年、転の年

2018-12-18 04:08:44 | 暮らし

今年は「災」の年だ。安倍総理大臣によると「転」の年だそうだ。一文字でその年を表せば確かにこうなるのかもしれない。自然災害は過去にないほど巨大化し、頻発している。大きな水害が、台風が相次いだ。自然災害はことしだけではない。昨年も、大きな地震があった。一昨年もあった。日本列島の災害頻発はそういう周期にあるという事なのだろう。災害の中で暮らしをしのぐしかない。昔なら遷都したいところだ。確かに大きな転が必要になっている気もする。憲法を変えようという日本の大きな転換を総理大臣が主張している。憲法を変えなければならないほど、日本が大変な状況にあるという、総理大臣の認識はどこから来ているのだろうか。安倍氏は「起承転結の転です。」と言っていた。ブログを書くときに、なんとなく起承転結で書いていることがある。三節目でそれまでと観点を変えるという事である。同じことを伝えるためには、違う角度から眺めてみるという事が必要。どうも安倍氏の視野にある、転ずるべき日本の方角とは、明治の御代なのであろうか。安倍氏の転に不安の増した一年であった。

災難と言えば、いつまでも安倍氏が総理大臣でいることが一番であろう。過去最悪の政治的災い。本人も深層心理として、多くの国民に疎まれている不安があるから、転じたいという表明になるのだろう。分からないではない。何しろ仮想敵国中国と思い詰めている人だ。あの一国主義者トランプとお友達であることが支えの人である。今までの安倍氏は自分を総理大臣にしてくれた何ものかにいいように動かされていた。もう最後の3年間だから、その傀儡政権を転じてアベ本人政権で行こうという転じ方なのだと想像している。お坊ちゃんやりたい放題やっちゃうぞ政権。という事になりそうだ。ここまでくると憲法改定を本気でやるとしなければならない。安倍一族の怨念。アベ加憲案は自衛隊を明記するだけだ。と軽く見せながら、本当の意味は普通の軍隊が持てて、歯止めなく運用できるという意味である。間違っても甘く読んではならない。軍国主義憲法に転ずるという憲法案だ。これは、多くの法律学者の指摘しているところだ。曖昧な文言に騙されてはならない。公明党の憲法案に乗じた、極めてずる賢い表記になっている。

世界が分断状況に入った。アメリカに移民させてもらおうという、崩壊しかかった中南米諸国からの人の波。その波をメキシコ国境でとどめようという、トランプの壁。この姿こそ世界の危機を表している。イギリスのEU離脱。フランスでは毎週のごとく暴動がある。米中は経済戦争の真っただ中である。日本も他人事ではない。すべては世界の経済の歪みが極限に達し始めていることに由来する。この大きな転の中で日本は、人手不足で移民法を成立させた。背に腹は代えられない。と総理大臣は言うが(バッカじゃなかろか)。ドイツまでもが、移民受入を制限し始めた状況で、日本は何の体制も整えられないまま、緊急的に人手不足解消だけを焦っている。ますます、社会の分断化が進むことに違いない。こういう状況に至れば、誰もが自分は下層に分断されてゆくと思わなければならない。自分だけは大丈夫だと立ちすくんでしまい、行動がとれない。あの時のように日本人は今思考停止。なんとなく上層に入れるという幻想。アベ政治は企業優遇政治のようだ。

私にとっても転の年であった。農業から、絵を描く暮らしに転ずる。まずは自給生活である。一日玄米3合がある安心。と30年間やってきた。これからは絵を描かせていただく。申し訳ないがこの年になれば、許してもらえるだろう。競争のない穏やかさ。人と較べず、自分の中に充実を作り出す。これを私の転にしたい。なんだかんだと言いながらも、人と較べるという事から抜けきれない自分がいる。絵を描く中で、自分の生きるを全うするだけになりたい。動ける間は小田原に来て田んぼをやる。田んぼは五月と九月小田原にいれば、なんとか出来る。みんなの田んぼであればたぶんできる。後は単発で草取りをする。こんな次の暮らしを試みてみようと考えている。9月の水彩人展。5月には絵を語る会を入れて、何とか治まるのではなかろうか。これからは皆さんにお世話になることが増してゆくのだろう。よろしくお願いいたします。

 

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ジュゴンの海が埋められている。

2018-12-17 03:54:21 | Peace Cafe

沖縄名護市辺野古の海が埋められている。あの美しいジュゴンの青い海を埋めている。米軍基地の為に、あの美しい海が埋められている。何もできない自分が情けない。アベ政権は選挙で民意が表明されても、やりたい放題である。これで民主主義国家と言えるのだろうか。日本本土が沖縄を差別している。沖縄に日本防衛の犠牲を強いている。この事態は歴史的に沖縄に犠牲を押し付け来た日本人全員の責任である。アベ政権は日米同盟の抑止力の維持のためには、住民投票など関係がない。このように言い切っている。確かに法的拘束力はないが民意を無視して、国の専守防衛はあり得ない。民主主義国家である以上、住民の意思は最優先されなければならない。沖縄では繰り返し行われてきた選挙において民意は辺野古米軍基地反対である。2月か月先には住民投票を行う事になっている。それを一切関係がないとしたら、一体住民は政府に対してどういう行動をとればいいのだろう。政府と暴力的に戦うしかないのか。これでは分断が深まるばかりである。沖縄に防人になれで、本土の犠牲を強いてばかりでは沖縄が反旗を翻したら、日本の安全保障はどうなるのだ。果たしてこんな民主主義国家で良いのであろうか。

アベ政権はトランプ王様の為には、沖縄を犠牲にしても良いという断言である。こんな国に誰がした。私たち日本人が選挙によって、みんなでこんな情けない国にしてしまったのだ。困るのは沖縄であって、自分たちの安全が高まればそれでいいという、独善の日本人。この国はどこに向おうとしているのか。中国という隣国の亡霊におびえているのだろうか。アメリカトランプが世界一のアメリカを脅かしかねない中国におびえているのだ。自分たちだけが豊かであれば構わないと公言してはばからない国アメリカ。おうむ返しでアベ政権は真似をして中国脅威論を振りまいている。必死にご機嫌取りでアメリカの軍事物資の購入をしている。アメリカについてゆくことは、もう見切りを付けなければならないことは、日に日に明らかになってきている。最後はトランプのババを引くことになるのは日本になる。

日本がどこに行くのかが定まらない限り、民主主義も復活できない。日本国は美しい瑞穂の国である。修学院離宮が日本の行く先の世界観である。循環型国家である。里地里山型の手入れの文化国家である。日々安心して生きて行ける暮らしが確保できる国づくり。贅沢はせずつつましく、日々の暮らしを大切にする地域、地域の暮らし。人を憎まず恐れない。そして、学問、文化をそれぞれに深めてゆく生き方。貧富の差は出来るだけ小さくしてゆく。大金持ちになろうなどという事は見苦しいことと考える。みんなで苦しみ、みんなで喜ぶ世界。最低限の暮らしが出来れば、後は心の豊かさであろる。能力のある人はない人の為に働く。能力の乏しい人は、能力のある人をありがたく感謝し、尊敬する。人に勝ることではなく、自らを深めることを大切にする社会。こうした循環する自給的な国づくりを日本の目標とする。

総理大臣であるなら、何故辺野古以外に米軍基地の設置場所がないかを説明する義務がある。普天間の安全を語ることはあっても、辺野古以外に米軍基地の場所がない理由の説明がない。沖縄には多数の無人島がある。滑走路がすでにある島さえある。そういうところでは何故ダメなのか。総理大臣として、国民に、特に沖縄の人々に説明する必要がある。ただただ、普天間の危険除去を口にしても、トランプの木偶人形としての無能をさらけ出しているようで哀れだ。要するに「アメリカが辺野古なら妥協する。」と言っているだけだろう。無人島では米兵が嫌だと言っているのだろう。アメリカに対して、意見が言えないのがアベ政権である。トランプの一国主義はいざとなれば、アメリカ優先で日本など、防人にしておけという事になる。

石垣島の人たちも、このアベ政権の無残な姿をよくよく見て置かなればならない。特に中山市長はこの状況をどう考えるか、石垣の安全を考え反省してもらいたいものだ。与那国町議会が県内で初めて投票関連経費を削除する予算案を可決した。与那国島には自衛隊基地が出来て、自衛隊員が住民のかなりの数いるのだ。石垣もこうなってよいのか。中山市長はアベ政権からの指示で、辺野古是非の住民投票すら拒否する方向である。自衛隊基地が石垣に出来れば、抑止力の為に米軍が駐屯することに繋がる。同盟国であれば、基地の共用は当たり前という事になる。当たり前どころか、お願いしてもやらなければとアベ政権は主張するだろう。トランプアメリカは沖縄の基地がただで使えることを、有利と考えているに過ぎない。万が一、中国が日本を攻撃することが起きたとすれば、石垣自衛隊基地は、中国の最初の攻撃目標になるだろう。基地がなければ石垣を無視するはずだ。尖閣諸島は国際裁判所の判断に任せればよいだけのことだ。話し合いで解決する努力もせずにいるのは、日本の不安感を高め、仮想敵国中国を強調するために過ぎない。石垣の公明党はどうしたのだ。

 

 

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