地場・旬・自給

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籾すりがやっと年内に終わった。

2022-12-31 04:03:15 | 楽観農園


 12月30日に籾すりを行った。今年のお米の処理がやっと終わった。今年はのぼたん農園の初めての年でまだ試験栽培という段階だ。お米の収穫量は少なかったがみんなに配ることが出来て、それなりに安堵感がある。こんなに籾すりが遅れたのは、機械小屋の完成が遅れたからだ。

 機械小屋は6月が完成予定で進んでいた。それがまだ完全には出来上がっていない。なんと言うことだろう。理由は様々在ったが、これぐらいの遅さで当たり前らしい。そういえば、家が出来上がるまでも、理由の分からない不可思議な延期が繰り返されていた。

 一番はお役所仕事がコロナで延々と延びていった。最後は余りに腹が立って、抗議に出掛けた。何しろ担当職員がコロナで休んでいるのだから、仕方がないだろうというのだ。つまり一人が担当していて、その人が休めば平気で一ヶ月も延びる。こんなこと、あんなことで半年延びた。

 それでも1年目で機械小屋が出来たことは良かったとしなければならない。まだ機械小屋は台風対策や周辺の強化などやりたいことがある。特に休憩室はどうしても必要なことだと思う。昨日も作業をしてきて雨が降り出した。機械小屋の中にいれば濡れないのだから、随分ホットした。

 籾すり機を中古で購入した。小田原の渡部さんに頼んで、茨城の方まで取りに行ってもらい、沖縄に送ってもらったのだ。有り難かった。脱布式の籾すり機は石垣島にはないらしい。みんな始めてみると言っていた。ローラー式よりも自給農業には向いていると思っている。

 コンテナに預けてあった。随分長いことコンテナの中にあったので、随分汚れてしまった。掃除が驚くほど大変だった。籾すり機の機械の整備も大変だった。籾すり機は広いところで、すべてを外して回しながら、コンプレッサーでゴミを吹き飛ばさなければ掃除は出来ない。

 50ヘルツから60ヘルツに対応するために、プーリーの交換が必要だった。石垣島で売られているプーリは適合する穴のサイズがなかったので、鉄工所で旋盤で開け直してもらった。これは普通には考えつかないことだった。干川さんの長い石垣島での経験が生きた。直して貰ったものはぴったりとはまった。

 プーリーを換えればベルトも変えなければならない。こういうことを自分たちで出来るのは干川さんの長年の経験があるからだ。石垣島の農業者として、継続するためには自分で機械が直せなければ無理と言うことになる。機械のことは有り難いことに日々学ばせてもらっている。

 電気はまだ3層200ボルトは来ていない。電気そのものが工事仮設という状態のままだ。何しろ、正式に引けるのはまだ半年ぐらい先になると言うことだ。どうものぼたん農園の前を通る電線は、電力不足らしい。ここは崎枝半島。

 トランスを付け替えなければ電気は来ないらしい。トランスを付け替える工事というのがまだ半年ぐらい先になる。ここは石垣島なのだから仕方がないことだ。あえて希望を述べれば、半年も前に電気は申請したのだから、その時に分かることではなかったのだろうか。言ったところで仕方がない。

 そこで今回は発電機を借りてきて今回は機械を動かす。今回のやり方が上手くゆくならば、200ボルト電源は引かないでも良いかとも思っている。籾すり機の電力から言って、3㎏の契約をしなければならない。電気をまったく使わない月は2500円。2ヶ月だけ200ボルトを使うとして、年間4万円くらいになる。

 もし発電機を借りてくると、8回借りられる計算になる。借りてくるとしても年間4回ぐらいがせいぜいだろう。昨日の発電機の使い勝手から言って、借りてくることはそれほど困難なことではないようだ。初めての経験だったが、電気については何の問題も無かった。

 自給農業では三ヶ月ごとに籾すりをするというのが、お米の保存から言っても一番良いやり方ではないだろうか。石垣島では保存と言うことがとても難しい。石垣島ではお米はいつでも作れるのだから、時期をずらしながら作ってゆくのが一番賢いことになる。

 一回目の播種を1月に始めて、二回目の播種は3月に始める。今年の場合、下の方の田んぼの9,10,11番は3月播種にする。次は6月の収穫のひこばえになる。全体をこうしてずらせば、一年4回の収穫が出来る。20㎏づつのお米が、三ヶ月ごとに配られれば、理想的ではないだろうか。

 20㎏の玄米であれば、各家庭で三ヶ月保存すると言うことで、何とかなるだろう。石垣ではお米に虫がすぐ湧いてくる。これを防ぐのであれば、ぱっくんを使って真空パックしておけば良い。5㎏づつ3袋。1袋はすぐ食べる分。経費的にも安上がりだ。

 発電機方式は価格的には明らかに借りた方が良い。半額で済む。面倒とか必ず借りられるかなど問題が無いわけではないが。しばらくは借りて済ませて、どうしても無理なようなら200ボルトを引くことにしたい。たぶん大丈夫だろう。

 籾すり機は使用後ぜんぶ開いて、空転してコンプレッサーでごみを飛ばした。ずいぶんのゴミが出てきた。お米という食品を扱うのだから、できる限りきれいにしなければならない。それがなかなか難しいものだ。ともかくネズミがお米によってくる。機械小屋のネズミ対策は徹底したい。
 
 小麦は種籾が何故か行方不明になってしまった。どうしたのだろう、どうしても見つからなかった。仕方がないので種籾を手に入れるところからやり直しだ。最近私がやることはこういう失敗が増えてきた。コンテナの中に入れておいたのだが、片付けの時に捨ててしまったのかも知れない。

 小麦はそれでも播きたい。小麦の種をどうして手に入れようかと思っている。困った。もう一度出直しである。

 ジャガイモを植えてみようかと思っている。出来るのかどうかは分からないが、種芋らしきものがあるので、試験栽培をしてみようかと思っている。大晦日のジャガイモの植え付けというのもおかしいものだが、何でもやらないことには分からない。

 今年一年、のぼたん農園の冒険は、どきどき、はらはらであった。未知の領域に進むと言うことはおもしろいことであった。石垣島で有機農業、確かに困難を極める。それでも1年目でそれなりの収穫が出来たのだから、前途有望だとは思う。

 サジオモダカは極めて順調な生育を見せてくれた。品種が適合して、栽培の流れさえ把握すれば、石垣島でも有機農業は可能だと言うことは確かなことだ。
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2022年に起きたこと

2022-12-30 04:06:46 | 暮らし

  静かなのぼたん農園の姿である。直播きがされて、すこしづつイネは延びてきてはいるが、まだただ水面が広がっているようにしか見えない。のぼたん農園に熱中していることで、この辛い時代を楽しく過ごしている。逃避しているとも言えるが、諦めたので楽観の農園作りを始めたとも言える。

 それにしても2022年は厳しい年だった。3年目になったコロナが、年末になって一番深刻な状態になった。政府は感染対策は経済にマイナスと言うことで、対策をいわば放棄した。コロナの深刻度合を2類から5類に変えるということまで言われる。その結果死者は一日450人と過去最高を記録した。

 これは先日予測した悪い方の結果だ。個人的には過去最大の感染注意である。石垣島も今年末年始の観光客で賑わっている。観光が良くならなければ、石垣島の経済は回らない。コロナも怖いがそれどころでは無いと言うことだろう。正月明けにはさらなる感染拡大が起こるかも知れない。

 にもかかわらずコロナの流行は終わったかのような報道の風潮である。感染者数とか、PCR検査数とかいろいろの数値はあるが、コロナの深刻度は死者数で見るのが一番正確な情報になる。このコロナ蔓延のピークに、旅行割引をしている政府をどう考えれば良いのだろう。お金は命より重いと言うことらしい。

 政治が崩壊している。これが2022年の一番の特徴だ。政治に期待できないのは野党がだめだからだというのだが、共産党はだめではない。ただ資本主義の次に共産主義があると考える人は少ない。維新と立憲が連もうというのでは野党に期待などできない。

 アベ時代が日本を実に悪い国にした。ほりえもん、ひろゆき、へいぞう、でんつう。こういう連中が跋扈する時代だ。金権主義の結果社会が崩壊し始めている。それは日本だけのことではないのだろう。資本主義社会の限界が来ている。

 資本主義は高度成長を生み出し、生活の豊かさを世界中にもたらしている。その点ではすごい成果を出した経済の仕組みだ。競争は行き過ぎになり、敗者の階級が出来る。日本が急速に階層化が進んだ一年でもあった。円安不況は企業だけが利益を上げ、物価高で庶民の生活は追い込まれつつある。

 その何よりも経済競争を重視した資本主義の形が、国家資本主義を生んだ。企業優先でなければ、世界の競争に勝てない。それが世界に過酷な競争を生み出した。そして、まさかの軍事大国ロシアのウクライナ侵攻が起きた。戦争で何も解決など出来ないにもかかわらず、暴挙にでてしまう。これは展望がない、資本主義の末期現象の表れだと思わざる得ない。

 国家も能力が高ければ弱者を虐げてかまわないという論理である。資本主義は豊かな社会を生み出すが、資本を持つものと、持たないものの階級を作りだす。資本のない階級は能力を高めることも出来ずに弱者と固定され、努力不足は本人の招いた結果だと決めつけられる。

 能力差別は人間だけでなく、社会組織にまで及び、都市と地方との格差が深刻化する。それは利益の出ない産業は不用とされる社会でもある。お金を生み出す産業だけが重要な産業で、利益を生み出さない産業はいらないとされる社会。その結果食糧自給率38%の日本である。

 教育はすぐ役立つ能力が重要視されて、人間の豊かさを育む、情操教育などは軽んじられていく。藝術もお金になるものだけが評価され、投資の対象としての商業藝術の時代が顕著になった年。人間が藝術によって、その生命を高め、安寧に生きるという本来の人間の目標が、競争主義により壊される。

 日本の軍事化が始まった2022年として記憶しておく必要がある。平和主義の努力が放棄された年でもあった。戦後75年の日本の努力は空しくなった。75年戦争に巻き込まれない出来たことは武力を持たなかったからだ。武力を持てば必ず戦争に繋がる。

 平和憲法は完全に否定された。敵基地先制攻撃ミサイルを南西諸島に配備するのだ。もしどうしても配備したのであれば、憲法を変えてからでなくてはならない。多くの国民が中国が怖いから、軍事強化が必要と考えるのであれば、憲法の改定を行う必要がある。

 それは間違った道である。その前に憲法に示されたとおりに平和的努力をすべきだ。やろうともしないで、対立だけ煽る政府のやり方は余りに稚拙だ。その稚拙な情報戦略に単純に乗せられる日本人であるのなら、もう仕方がないというのが、今の心境である。

 戦争がどれほど空しい、悲惨なものだ。それを世界中で知らない人はいない。無駄なことを知らないからまた戦争をするのではない。悲惨を十分認識していながら、人間はまた戦争をするのだ。プーチンは狂気なのだと思うが、大きな武力を持ったが為の鬼畜化だ。

 すでに同胞の10万人ものロシア人を殺している。ウクライナ人も10万人は殺されただろうと推測されている。その目的は領土を広げたいという馬鹿げた望みだ。日本でも北方領土、竹島、尖閣諸島という3つの火種がある。膠着状態であるが、平和的に解決をする努力がされていない。

 尖閣諸島のある、石垣市に住んでいるわけだが、尖閣諸島領土問題があるという状態が一番の不安材料だ。何故話し合い解決を目指さないのだろう。互いに武力強化の方向に進んだ2022年であった。専守防衛の最後の守であるはずの軍事力が、先制攻撃を目指す、敵基地攻撃ミサイル部隊になった。

 地方社会の衰退と言うことが、顕著になった一年でもあった。結局は財政再建の目途が立たないが為に、地方社会への公共投資が一年ごとに細くなってきている。地方は農業によって基盤が出来ている社会だから、農業が厳しくなれば社会全体が衰退する。

 それでも2022年で楽しかったことを思い出してみると。藤井聡太五冠の圧倒的な強さ。大谷翔平選手の大リーグでの活躍。この二つぐらいしか無い。藤井将棋は将棋の定跡感覚を覆した。先入観がないところが魅力的だ。そのおおくをAIから学び、藤井将棋に作り上げている。

 玉を囲うということがない。矢倉囲いとか、穴熊囲いとか、美濃囲いとか将棋には玉を固めるという感覚があった。それは江戸時代以来の将棋の考え方だった。ところが、藤井将棋はギリギリのところで、きわどく勝負をする。玉を固める一手を省いて、攻撃の陣形に使う。

 こうして、AIソフトが出来ても、人間の頭脳の魅力はあると言うことを藤井将棋は見せてくれた。何故、ソフトが何億手順を読んでも、気付かなかった手を藤井五冠は発見することがある。人間の能力の得体の知れないほどの深さを感じるときだ。

 もちろん藤井将棋も新しい定石になって、多くの棋士が取り入れ、さらなる研究をして勝負をしている。しかし、藤井五冠はその上を行く研究を続けている。すべての棋士に研究されつくされてもさらなる深化をする。藤井将棋は常に新鮮だから見飽きることがない。

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2022年のまとめと、これからのこと

2022-12-29 04:11:43 | 楽観農園


 2022年は「のぼたん農園の冒険」に乗り出した一年であった。農園の土木工事を続けて、形としては想定していた完成の形までおおよそ来た。12枚の田んぼと畦の畑。田んぼは一つ多くなった。2反ほどの果樹園。1反弱の小麦、大豆畑。2つの水牛の放牧地。11の溜め池。

 冒険の進路に向かって1年目の目標は達成したと思う。身体が何とか持ったというのが実感である。石垣の土壌や自然環境が予想以上に難しいと言うことを痛感した。この点では想定を超えた困難が待っていそうだ。1年目が終わりここまで来たが前途が見えてきたと言うことでも無い。

 田んぼは1年目の2月から耕作を始めた。どうなるか試験栽培のつもりで始めたのだが、意外に土壌は田んぼ向きだと言うことが分かった。一番の困難は腐植が無いと言うことだった。石垣島の牛糞堆肥よみがえりを使ってみたのだが、悪くないようだった。

 苗作り、田植え、直播き、ひこばえ農法、ウキクサ緑肥、様々に試みてみた。すべてがこれからの課題だ。特に直播きとひこばえ農法はのぼたん農園には必要な技術だと思うので、来年は本格的に取り組みたいと思っている。沢山の失敗をしたので、沢山の学習が出来た。

 だんだん石垣島の土壌や気候やネヅミや鳥やイノシシの状況が見えてきた。始めた頃よりも被害は増えてきた。病虫害にも学ぶところがあった。完璧な対策はまだ出来ないのだが、乗り切らなければ、のぼたん農園の農法は確立できない。

 お米の品種の選定は実験段階という所だが、「とよめき」と言う品種が石垣島で作れそうだと分かったことは成果だろう。台湾の品種が持ち出し禁止だと言うことが分かったので、とよめきの栽培をもう少し追求するほか無いだろう。

 とよめきという品種は玄米で食べると案外に美味しいのだ。その上に畝取りの可能性が高い品種でもある。石垣の熱研におられる、小林先生が作出に関わられた品種である。色々指導をして貰えるので有り難い。追肥の必要な、また追肥効果が高いお米だという気がしている。

 ひこばえ農法についてはかなり方向は見えてきたと考えている。今年はなんとしても収穫まで進めるつもりだ。すぐに幼穂を形成させないための様々な試みをしてみるつもりだ。そのためにはまず余り水を抜かないで、稲刈りをしなくてはならない。

 ともかく稲刈りを一週間早めに行う。水を切らないで手刈りで行い、ひこばえを出す。出てきたひこばえを、再度刈り戻すことも試みてみたい。違いがあるのかどうかまだ分からない。水草緑肥はアカウキクサがどの田んぼにも現われていて、かなりの緑肥になったはずだ。

 大豆は小糸在来種を試してみたが、上手く作れないようだ。何しろ石垣の気功と土壌は独特である。特に大豆畑予定地の土は、海岸からの土を運んで作られている。珊瑚や貝殻が沢山混じっている。この性質がまだつかめていない。何時播種すれば良いかも分からない。

 先日、小麦、大豆の予定地には、バガスを軽トラ3台と牛糞堆肥のよみがえりを500㎏入れた。良く攪拌してある。小麦畑は牧草地だったとこだ。ユンボで雑草や牧草をまず取り除いた。大きな石はその時に外に出した。その後に石を拾いながら、トラックターで4回耕した。

 小麦は12月30日に「ニシノカオリ」をまく。50センチ間隔で播いてみる。間を管理機で通おり、除草をしようと考えている。どうなるだろうか。初めてでよく分からないのだから、試験栽培である。だめならば、緑肥を蒔いたと考えようと思っている。

 たんぼの畦の畑はやっと平らに出来て、トラックターが入れるようになった。石を大分拾い出した。その後に、播種機のゴンベイで向日葵の種を蒔いた。緑肥である。今の腐植の無い状態では畑としては作物は難しい。十分に腐植を増やしてから、それぞれの人の管理する畑にしたい。

 今年は田んぼと向日葵の重なり合う景色を楽しみたい。上手くゆけばのぼたんの花とも季節的に重なるかも知れない。そうなればかなりの魅力になるだろう。バナナと扇芭蕉の並木道もすこしづつ形が現われてきた。花は人を呼ぶはずだ。もっともっと美しい場所にしてゆかなければならない。

 農園内の循環する道路はまだ整備が足りない。トラックターのフレールモアーで何度か回って、整備して行けるかも知れない。トラックターのロータリーの交換がかなり難しい。ユニバーサルジョイントの長さを加えて、やっと付け替えることが出来た。

 道路にはまだ、ひっくり返ってしまいそうなところがあり、まだまだ怖い。将来は水牛車で農園内を通行できるぐらいのゆったりとした道を作りたい。そのためにはユンボを借りなければならないのだが、それはまだしばらく先のことになりそうだ。

 フレールモアーでは農園の一部の細葉ススキの出ている当たりを一度刈り取りたい。きれいに刈り取って再生してきたものであれば、水牛も食べてくれるだろう。刈り取った後肥料を播いておけば、よりよいだろう。よみがえりを入れたいが、軽トラダンプが入れるところがあるだろうか。

 農園の土木工事を通してユンボの運転がそれなりに出来るようになった年でもある。この歳になっても新しい機械の運転が身につくものだと、自分ことながら不思議に思った。この勢いで諦めないでトラックターももう少し上手にならなければ、成らないところである。

 機械の整備については、福仲先生と干川さんの御陰で大分理解できてきた。分からないことをすぐ聴ける人がいるということは、勉強になる。今回も籾すり機の整備を教わりながらしたので、随分全体の構造が理解できた。プーリーの交換やベルトの掛け替えなどもだんだん分かってきた。

 30日には籾すりである。まず発電機を借りてきて行う。これが上手くゆくのかどうか。課題だ。籾すり機を完璧に整備して、上手く動かせるようになりたいものだ。これも来年の課題かも知れない。来年は作業小屋を快適な物に出来るように、整えるつもりだ。

 絵のことを描くつもりがのぼたん農園のことばかりになった。明日に描くことにしよう。

 
 
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機械小屋が出来た。

2022-12-29 04:00:36 | 楽観農園



 随分長い時間がかかったが、素晴らしい機械小屋が出来た。籾すり機とコンバインは小屋に入れた。30日に籾すりを行う。いよいよ小屋の使用を始めることになる。徐々に使いやすい作業小屋にしてゆきたい。中で休憩できるスペースを作りたい。

 周囲のコンクリート舗装が作業スペース、お米の干し場として役立つだろう。お米の収穫までにはこのスペースに屋根を作ろうと考えているのだが、使いながら検討してゆきたい。コンクリート部分に屋根が出来れば機械小屋全体がさらに有効に使えるとは考えている。

 もう一つ計画しているのは休憩室の設置である。何しろ夏場は暑い。休憩するときに休める場所が必要である。一か所断熱材で囲い、冷房機を入れたいと考えている。これも夏までに自分たちで出来るか、大工さんに頼むか、検討したい。

 暑い時期の休憩場所がなければ、夏場作業が全く止まることになる。冷房休憩室で、休み休み作業をしたい。風のある日であれば、風を通すと言うこともあるが、鉄板で出来ているから、フライパン状態になるはずだ。何とか断熱材で熱さを遮る必要がある。アトリエカーは断熱材で囲われているので、風さえ通れば石垣島の真夏の炎天下でも何とか絵が描いていられる。

 今入れてあるのはコンバインと籾すり機である。本当は小屋の中にトラックターも入れたい。そうなると、もう一杯である。やはり小屋の外に屋根が居ると言うことなのだろう。せめてその下にトラックターなど置きたい。あるいはトラックターは下のコンテナの中が良いか。

 いずれにしてもロータリーを外して、今度はフレールモアーに付け替えておきたい。必要なときに付け替えられるように上手く配置しておかなければならない。外でも良いのだが、きちっとビニールシートがけしておけば良いだろう。

 コンプレッサーを買ったので、籾すり機の中を掃除した。他の機械ももう少しきれいにして、油を挿して置く必要がある。どうもこういうことがきちっと出来ないので、心を入れ替えないと行けない。いつも掃除と整備だけはきちっとしたいと思う。

 機械小屋に作業テーブルが必要だろう。コンパネに組んだ足の組み立て式でも良いのだが、どこかにいらない机はないだろうか。机がないと作業に不便で困る。棚もいるだろう。道具をまとめないと使い勝手が悪い。トイレも設置をしたい。やらないとならないことが次々あるが、順番に片付けてゆこう。

 
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台湾侵攻はない

2022-12-28 04:39:38 | Peace Cafe


 石垣島に住んでいるが、台湾侵攻の心配はしていない。東京に行くと大丈夫ですか、などと言われることがあるが、何の心配もしていない。理由はロシアと中国は国柄が違うからである。ロシアは軍人の国で、中国は商人の国だ。中国は経済が悪くなるようなことはやらない。

 自民党の中には今年中に台湾軍事侵攻があると、空騒ぎしていた議員がいた。はずれたわけだから騒乱罪で、議員を辞任してくれることを期待したい。下劣な議員は大変だと騒いで注目されたいと言う自己顕示欲で議員になった人。騒いでいれば必ず一定の支持が見込める。

 しかし、狼議員の悪質な遠吠えも3回で終わりにしろ。まさか本気で台湾侵攻があると考えているのならば、その予測能力の低さは議員を続けるのは迷惑と言うことになる。早々に引っ込むことが日本の為になる。そういえば、岸何とかという人は辞めることになったが、遠吠えが原因か。

 習近平政権は経済を最優先事項にしている。ロシアとの関係もいかにも経済優先である。戦争開始前の予測ではロシアを支持しておけば、安い石油や食料が手に入る。中国にしか売れないとなれば、喜んで安く買える。と踏んでロシア寄りの政策をとったように見える。

 それが、戦争を長引かせ、反ロシア勢力の結束に繋がった。日本の再軍備政策に拍車もかけた。中国にとっても結局のとコロナにも良いことがない結果になった。戦争で解決できる紛争など無い。紛争を悪化させ、歴史的な憎悪になるだけだ。

 中国にはロシアを敵に回して経済に良いことなど無い。この時点ではロシアが簡単に勝利すると踏んでいたに違いない。北京冬期オリンピックでのプーチン北京訪問。オリンピックは平和の祭典どころか、戦争の打ち合わせに利用していたのだ。

 しかしロシアに軍事支援をするわけではない。そこまでやれば、中国にも世界からの経済制裁が始まるからだ。中国経済は世界に前例がないほどの高度成長を続けてきた。ここに来ていよいよ成長の鈍化が始まっている。急速な経済成長は必ずどこかで止まる。中国の経済は正念場にあるのだろう。

 0コロナ政策の転換がコロナ感染爆発を生んだ。これは中国の経済停滞に繋がる。世界も中国の非民主主義を理由を理由にして、いつでも経済制裁を科そうと準備している。ロシア軍事侵攻で、中国に対する制裁が強まり始めれば、経済の停滞が続く事になる。その時には習近平独裁政権も弱みが出てくるだろう。0コロナ反対デモの様子は反習近平活動が起こる可能性を感じさせた。

 今の中国は国内経済の舵取りで、台湾侵攻どころではないに決まっている。台湾侵攻はこの先20年はない。その間にむしろ平和的な統一が行われる可能性の方が高い。それはいずれにしても経済の成り行き次第だ。統一が台湾にも経済的恩恵が産まれる時だろう。

 日本政府は敵基地先制攻撃ミサイルを配備するために、仮想敵国中国による台湾侵攻が、明日にでもあるように騒いでいるわけだ。こうした空騒ぎは世界平和の害でしかない。明日にも軍事侵攻があるなら、政府の特使でも派遣して平和交渉をするべきだ。

 中国の原爆ミサイルに対して、日本が準備しようとしているちゃちな小型ミサイルぐらいで、何が出来るというのだろう。中国は今や核大国なのだ。世界は核戦争に向かっているのだ。こんな状況下に石垣島にミサイル基地を作ることは火に油を注ぐだけだ。それをやれと焚き付けているのがアメリカなのだ。

 むしろ日本は台湾問題に何も関わりません。と宣言した方が良っぽど安全である。これでは台湾には申し訳ない訳だが、戦争となれば人ごとどころではない。先ずは日本の安全の確保だ。誰の文句もないはずだ。南西諸島は日本国民が平和に暮らす島で、防人の島ではない。

 日本はアメリカにそそのかされて軍事国家になろうとしている。アメリカは世界の支配を継続するためには、日本が軍事国家になり、中国に対する防人になる事を期待しているのだ。それが台湾支援を表明した理由だ。中国の独裁は耐えがたいが、その問題と日本の軍事化とは別個に考えなければならない。

 中国はロシアとは仲は良いが、軍事支援まではしない。日本は台湾とは仲は良いが、日本は平和国家なので、軍事支援はしません。アメリカにも自衛隊基地は貸しません。と世界に宣言すれば良い。このように中国に伝えれば、中国も日本に先制攻撃をかける必要がなくなる。少なくともやりにくくなる。

 日本が間違って先制攻撃などすれば、中国の総攻撃が始まる。戦争はいつもそういう掛け違いがつきものだ。どのみちアメリカは日本を前線基地と考えているだけだ。日本を防人にして、アメリカ本土を守ろう作戦なのだ。まあ、日本の本土の人は沖縄だけを防人にしておきたいと言うことなのだろう。

 石垣島の中山市長は何を血迷ったのか、何か弱みを握られているとしか思えないのだが、石垣島に自衛隊基地を誘致してしまった。今先制攻撃ミサイル基地も誘致している。このことを石垣市民の安全の為だと主張したのだから、驚くほど石垣島市民の命を軽んじた人だ。島民の命をどう考えているのだろう。

 ミサイルがある方が石垣島の市民は安全だとでも言うのだろうか。ミサイルが危険を生むと大半の石垣市民は考えている。戦争になり避難するとなっても、石垣市民の島からの脱出は10日かかると試算が出た。自衛隊が先制攻撃をする10日前に教えてくれるなら良いが。それではばれてしまう。住民が逃げる前にミサイルが撃ち込まれると言うことになる。

 当たり前の事だろう。石垣のミサイル基地を叩かなければ、(ないとは思うが)台湾侵攻が出来ないと言う事になってしまう。中山市長の頭ではどういう訳かこの簡単なことが理解できないようだ。石垣市民の命の危険を冒しても、仕方がないほどの、どうにもならない弱みを握られているのだろうか。

 どのように考えてもミサイル基地を持たなければ台湾侵攻に際して無視してくれるだろう。最近も中国海警局の船が尖閣諸島に長時間居座っている。それでも中国と話し合いを持たないようだ。抗議を繰り返すだけだ。何故これを機会に平和的交渉をしないのか。

 国際紛争を平和的に解決しろと日本国憲法は政府に命じているはずだ。まず日本は国際裁判所に提訴しなければならない。そのことで、日本を攻撃する理由が一気に減るはずだ。何故それをしないかと言えば、それでは石垣島にミサイル基地を作る理由がなくなるからだ。ともかく防人の島にしたいのだ。

 平和的解決の努力を、やろうともしないことは政府は憲法違反ではないのか。日本の軍事化だけに尖閣問題を利用しているに過ぎない。到底軍事競争では中国に勝てないのだ。平和的な交渉をする以外に、道はない。岸田政権は目を覚ませ。中山市長は市民の命を守れ。

 

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年賀状を描いている。

2022-12-27 04:37:12 | 水彩画
 年賀状をやっと始めた。年賀状の絵の方は大分前に描き終わっていたのだが。そこに宛名を描いたり、文章を付けたりする時間が無くて、延び延びになってしまった。プリンターの故障もあった。のぼたん農園の作業が年末に重なったこともある。

 今年は年賀状欲しい人募集をやらないのですか。と言うメールが来ました。有り難いことです。今からやりますので、是非希望の方はコメント欄に書いてください。今年は元旦には届かないかも知れませんがその点お許しください。

 年賀状はすべて水彩画を描くことにしている。ともかく水彩画を沢山描くことで、絵を描くことを小脳化しようとしている。大脳を通さないで、見て感じて考えないでそのまま反応として描く。そんな描き方を試みている。石垣島に来てからは、日々の一枚を続けている。

 絵がよくなるというようなこと以前に、絵を描くと言うことを日々行いたいと決めた。絵を描く努力だけは限界までしたいという気持ちだ。だから年賀状も良い機会だと思って続けている。水彩画はこれだけ描いてもまだ始めて表現方法が出てくる。まだまだ絵画としての水彩画は現われていない気がしている。

 以下の写真はこれから送る年賀状の一部である。どれが誰に行くかは分からない。これから宛名書に入るところだ。この中で、これがもらいたいという人がいたら、番号とお名前宛先をコメント欄に書いてください。間に合えばその絵を出します。

 

 
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小脳で描く絵画へ

2022-12-26 04:53:57 | 水彩画


 ラジオで小脳と大脳の関係を専門の方が、説明されていた。運動選手は小脳で動いているという話だった。野球選手の投球ホームやゴルフ選手のスイングは大脳で考えてやっているのではなく、小脳が動きを反射的なものとして動かしている。はじめは大脳で考えて行うのだが、小脳の動きになるまでやる。

 大脳は考えたり指示を出したりしていて、小脳は運動系だというような単純な関係でも無いと言うことが分かってきたらしい。両者がフィードバックしながら、巧みに機能しているらしい。この関係をより緊密にしてゆくことが必要なようだ。

 太極拳を続けている。最初の一年は形を覚えることに専念した。覚えは昔から悪い方だから、太極拳の動きを覚えるのに、一年間かかった。次の一年は忘れるように努力した。3年目は思い出すというのでなく、動きが自然に出てくるようになった。たぶんこれが小脳で動くようになったと言うことかと理解できる。

 動きが自然に出てくるところまで来て、始めて正しい動きが出来るように努力をしてきた。そろそろ3年目が終わるので、今度は一切の目標をを忘れなければならない。動作の中に自分というものが、入っているようでありたい。動きに自分がにじみ出てくると言うことだろう。

 大脳は動きを覚える為に、繰り返すことで記憶してゆく。それが完成すると今度は小脳によって考えること無く反応として動作を行えるようになる。だから運動選手はフォームを考えて行う間はまだ途中で、考えないでもその形になるところまでやらなければならない。そこまで行かないと本当の動きにはならない。

 私のやり方は1年目で大脳化して、2年目で小脳化すると言うことだったようだ。歩く動作は思い出しているのでもない。考えているわけでも無い。あそこに行くという意志で自然に身体が反応をして歩いている。この動きをつかさどっているのが小脳と言うことらしい。

 だから歩きながら大脳で他のことを考えられるわけだ。小脳に歩く方はまかせている状態。これが慣れないステップを踏みながらでは、考え事は出来ない。言語も小脳が関係している。考えたことが言葉に自然に出てくる機能。小脳は人類の進化数100万年のあいだに大きくなった器官だ。人間が人間になるためには小脳が関係しているらしい。

 と言うことは私が絵を描いているのは、小脳が作用して絵を描供養になろうとしていると言うことなのかもしれない。だから、大脳の指示通りではない動きを手がするのだろう。手の反応にまかせる方が良い結果があると言う経験の積み重ねで、徐々に大脳ではなく、小脳で絵を描くと言うことになってきたようだ。

  小脳は後頭部の奥深くにあり、中に詰め込まれた神経細胞の数では大脳を大きく上回り、極めて高度な情報処理が行われている。 機能的には大脳と連携して、身体を思い通りに動かすために必須の役割を果たすのだが、最近は運度だけではない機能が分かってきた。

 小脳はその運動指令に基づいて次の瞬間の身体の状態を実際に身体が動くよりも前に予想し、小脳核を通してその予想結果を大脳へと送り返えす。 大脳はその予測情報を元に、更に次の瞬間の運動指令を生成する。 手がコップを掴むまで、大脳と小脳がこの様な情報のやり取りを繰り返すことにより、スムーズな運動が実現できる。

 小脳の機能は、短期記憶や注意力,情動の制御,感情,高度な認識力,計画を立案する能力のほか,統合失調症(分裂病)や自閉症といった精神疾患と関係している可能性も示される。小脳は筋肉に動きの指令を出すというよりも,入ってきた感覚信号を統合する役目を果たしている。

 以上は付け焼き刃の小脳の知識だが、この入ってきた間隔信号を統合する役目が絵を描く上の要。絵を描いているのはますます小脳なのだと言うことが想像される。小脳で描くようにならなければ、その人の絵にはならないと言うことなのだろう。絵を習うと言う範囲は大脳の作業なのだろう。

 絵とはどういうものかを考える。社会の中での藝術の意味を考える。こういうことは大脳が行う作業だ。そして自分の目的にかなう絵を描けるように技術を獲得して行く。絵を自由自在に描く技術の獲得。絵画というものの目的。こういうことはまだ大脳が行うことだ。

 次には絵の描き方を忘れる必要がある。つまり絵はその目的や、描く方法を思い出して描くようなものではないのだ。まったく未知の世界に向かって切り開いていくことになる。大脳的な筋道を捨てたところから、小脳の描く絵が始まる。この辺りからが「私絵画」の始まりになる。

 考えながら描くもののは絵らしきものではあるが、大脳の考える自分の絵というものの模写と言うことになる。良い絵はこういうものだから、そんな絵を自分が描こうというのは、大脳的自分を過信しているに過ぎない。自分と言うものはもっと深い総合的なところに存在するはずだ。

 絵は頭を使うのではなく、感性で感じたままに描けば良いのだと言われる。絵は感じたもので描くとも言われる。それは、大脳ではなく小脳で描けと言っているのだろう。つまり、技術を覚えるとか、良い絵を学ぶというようなことは、すべて忘れなければ始まらないのが絵だと言うことを言っているのだろう。

 これは左脳と右脳のことを言っていることでもある。左脳がデジタル脳で右脳が感性脳とされている。そう単純ではないようだが、一応絵は左脳で描くもので、理屈で描くものではないと言うことなのだろう。そのもう一歩踏み込んだ考えとして、小脳の動きにまで行かないと描く行為が絵にならない。

 歩くように、絵を描く。何も意識せずに絵が立ち現れてくる状態に進まなければならない。分かってきたのは「私絵画」というものの背景に存在することだ。大脳に構成される絵画は、学んだ絵画である。知識の絵画である。それは描くという行為を重視した場合、邪魔になるものなのだ。

 その人が歩く時に、歩き姿が自ずと現われるように、私絵画はその人がそのまま努力も意識もすることなく、自ずと立ち現れてくる絵画のことだったのだ。そのためには大脳の浅はかな制御を解き放たなくてはならない。絵画の意味とか、先入観の一切を放棄しなければならない。

 絵画の一切を忘れるところからである。禅宗では一切放下と言うことが言われる。すべての執着を捨てろ。絵画は小脳で描く。と言うようなことも忘れろ。ただ描くという一事になる。絵を描くときには大脳を働かすようなことがなくならなければならない。

 描くことを小脳化する方法はただ一つ。繰返し繰返し描くことしかない。腕が覚えるまで反復練習をする。自然に筆が動くようになるまでに成る。天才であれば、この時間が短い。凡人であればよほどの時間がかかるのは当然のことだ。しかし、凡人でも長い反復練習の後には、小脳で描けるようになる。

 弓を見てこれは何に使うものですかと尋ねた、弓の名人の意味はそこにあるのだろう。筆を見てこれは何に使うものですか。と言えるところまで行かなければ絵の名人にはならないと言うことなのだろう。岡本太郎は藝術は最後は指を指すだけで良いと言っていた。この人は言うこと書くことは素晴らしい。ただ反復練習が不足したかもしれない。
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第141 水彩画 日曜展示

2022-12-25 04:33:15 | 水彩画
第141 水彩画 日曜展示

10号前後です。






21「根子岳高森」






22「藤垈の山」







23「波の海」








24「石垣の畑」








25「紀伊の海」








26「月の海」










27「山北の畑」








28「崖の上の耕地」








29「残されたような木」







30「篠窪の花」


 
 のぼたん農園の作業の間に描いている。どの絵も描いているときには記憶をたどっているような気はするのだが、篠窪を描いているつもりがいつの間にかのぼたん農園になっていることもある。出てくる場所は紀伊半島や伊豆半島そして甲府盆地が多い。

 当然今描いている石垣の風景が一番多くなる。見てその場所を写生すると言うことは少ない。のぼたん農園を描く絵は多いのだが、見て描いているわけでも無い。その理由はよく分からない。その場を見て描いてみたいと思って始めても、いつの間にか絵の方に従っている。

 絵の方の都合で、ある意味見ている風景とは変わって行く。変えた方が絵として都合が良い方に変わって行くのかもしれないが、余り意志が反映しているわけではない。自分の絵なのに無責任のようだが、その方が自分の見ているものに近づいて行く気がする。この描き方でもう少し続けてみたい。

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「心の教え」「命の教え」東井義雄著

2022-12-24 04:33:34 | 


 「心の教え」「命の教え」東井義雄著。この本を学生時代に読んでいれば、生き方も変わったのかも知れない。続けて3冊の本を読んだ。どの本も読んでいる間涙が流れてきて仕方がなかった。年寄は涙腺が弱いというのを実感したわけだ。本にある体験談にある澄んだ心が圧倒的なものとして心に迫ってきた。

 1970年代日本が悪い方角へ転がり出した。子供達の状況が日に日に悪くなって行く。この悪い流れをなんとしても食い止めたいという教育者の切実な想いが溢れている本だ。素晴らしい小学校の先生がいたのだ。そういう先生は全国各地にいて悪戦苦闘してきたのだと思う。

 教育学部の学生だったので、友達から東井先生の話は聞いていた。にもかかわらず読まないでいた。何故読まなかったのかと自分の心の狭さを残念に思う。校長先生であり、後に大学の先生に成られた、浄土真宗の僧侶。と言うことで、なんとなく読まないでも、たぶんありがちな教育者の本だろうと勝手に思ってしまった。

 教育に関係する本で素晴らしい本は色々あった。遠山啓氏という数学者が「人」という雑誌を発行していた。その雑誌は創刊からずっと読んでいた。熱量がすごくて、魅了されるようなことが沢山書かれていた。大学の生協の本屋にはそういう本が並んでいたのだ。

 東井先生の本も著作集があるのは知っていたのだ。教育学部の友人達が余りに感激して話すもので、読まなかったのかも知れない。浄土真宗の僧侶であり、暁烏敏と関連もあるに違いないと思っていた。大学には暁烏文庫があり、その関係の本はかなり読んでいた。

 教育学部には出雲路暢良先生がおられた。暁烏氏の弟子である浄土真宗の僧侶であった。出雲路先生は暁烏文庫の整理をされていた方だ。週一回茶話会のようなものがあり、それに出ていた。素晴らしい方だと先生の話を聞くのが楽しみだった。それでも浄土真宗の方というので、これもまた距離は置いていた。

 こうしてみると、素晴らしい僧侶の方は浄土真宗の方に多い。今注目されている阿満 利麿 氏も素晴らしい宗教者だ。この方の統一教会に対する発言は納得が行くものだった。現代社会の問題点を一番深く洞察されているのではないかと思われる。

 2040年までに、仏教寺院を含め、35%の宗教法人が消えてなくなるといわれている。江戸時代檀家制度によって仏教が日本人の生活の中に、根ざすものになった。多くの家庭には仏壇がある状態、日本人が無宗教とは言えない現象に見える。

 既成宗教が衰退して行く中、新宗教が広がり始めている。この科学の時代にまさかと思うような、幻想的な非科学的な教義を主張する。方角を失った社会では新宗教が信者を増やす。オウムや統一教会は氷山の一角である。信者以外の人から見れば、まさかと思うような教義や主張を、熱狂して受け入れているのだ。

 それを洗脳とか、マインドコントロールとか分析して、一種の催眠状態で騙されているという解釈で社会は理解しようとしている。果たしてそれは本当のことであろうか。天国があると言うキリスト教の教義は、非科学的の極みである。そもそも宗教は非科学的なものだ。

 どうもそれだけではない、マインドコントロールされたい精神状態が、社会に蔓延してきているとも思える。東井先生の心配されていたことが、現実化した社会なのだ。1970年代に時代の分かれ目があった。あそこで実現できなかった結果が今の時代である。

 オウムがテロ事件を起して、解散命令を受けたときに、これは始まりだと感じた。オウムが主張した社会の問題点の指摘は間違っていたわけではない。どうしようもない社会が始まってしまったという認識は、社会共通のものではないか。もちろん暴力で解決など出来るわけもない。

 宗教に心の解決を委ねたいという思いが、一部の人に広がっている。それは安定した家族とか、家庭というようなものが、薄なわれてきたが為だろう。ご先祖様を大切にして、次の世代につなげて行くというような家庭はほぼ無くなったのだろう。

 何をよりどころに生きて行くのかという意味で、日本人の安定が消滅したのだろう。その根底にあるものは能力主義の広がりだと思っている。東井先生も繰返し能力主義を否定している。能力の高いものは、能力の低いものよりも、人間としての価値が高いのだから、社会で優遇されるのは当然だという考えは間違っている。

 能力主義は拝金主義を生んだ。金儲けが旨い人間を評価する時代。お金を上手く投資をして、儲けることは人間として立派なことだという、かつては守銭奴と呼ばれたような生き方が、正面を切って社会的に認知されたのだ。しかも学校教育にまで金融が入った。

 既成宗教は拝金主義を否定している。健全な労働を評価して、お金がお金を生むような価値観を排除している。もちろん拝金主義はどの時代にも存在したのだろう。しかし、それはいつも少し陰に隠れていて、悪い事だという認識が普通だろう。お金は不要とは言わないが、卑しいものなのだ。

 ところが資本主義が限界まで来た現代社会では、国家までもが投資を良い行為だと奨励する状況が生まれた。学校教育の中でさえ、金融というような授業が行われる事態である。かつてのお金にとらわれてはならない、お金は不浄のものというような感覚は、払拭されようとしている。

 価値観というものが失われて不安定化している社会に於いて、お金という価値観だけが広まっている。統一教会の家庭崩壊に至る献金の原因は、お金という最も重要な価値を献金することで、始めて自分の救済が始まるという考え方なのだろう。

 そこに前世の因縁やら、ご先祖の悪行などが持ち出されて、洗脳されてしまう。様々な新宗教が広がっているが、そのほとんどが集金を第一としている。しかし、前世やらご先祖が持ち出されて思い当たるのは今が苦しいからだ。現在の社会が救済を求める苦しい人を、生み出しているからだ。

 その苦しい人を救済する社会ではないのだ。弱者は能力がないのだから、苦しい生活でも仕方がない。社会は弱者を切り捨てているのだ。能力がないと言うことを自己責任としているのだ。努力が足りないのだから、差別されても仕方がないと思い込まされている。

 最後の差別が能力主義なのだ。誰もが能力によって差別を受けない社会ができない限り、新宗教の欺瞞は広がり続けるのだろうと思う。これからさらにIT社会になればなるほど、宗教の意味は重くなって行くはずだ。人間の労働が変わって行くときに、心の問題が残されて行くからだ。

 どう生きれば良いのかと言うことを、自分自身に求めるのが曹洞宗の考え方である。只管打坐という修行である。その日々の姿が僧侶に求められるのだろう。ボランティアをする僧侶の価値など間違っている。社会における意味を、ボランティアにしか見いだせない僧侶では力が無い。

 自分の生き方で示す意外に無い。これが禅宗の僧侶ではないかと思っている。結局の所私は私のやり方で進む以外にない。学生の頃東井先生の本を読んだとしても、変わることは無かったのかも知れない。

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コロナ死者数は深刻化している。

2022-12-23 04:23:39 | 暮らし


 コロナの5回目のワクチンを打ちに行った。最近ワクチンを打ったことで死んだ人が15人いるということが報道されていた。私の知り合いでもひどい後遺症で一ヶ月も体調が優れなかった人がいる。ワクチンをためらうような情報が出てきているが、それでも年寄はワクチンは打った方が良い。

 一晩経ったが全くの変化がない。5回とも熱も出ないし、注射のところが居たくなると言うようなことも無い。何か気が抜けたサイダーのようで、効果も無いのではないかという方を心配している。これで台湾に行けるので一安心である。

 ワクチンは身体に良いものではない。必要悪なものだ。打たないですめば、その方が良いに決まっている。ワクチンという悪いことと、コロナ感染というもっと悪いことを比較しているのだ。ワクチンを打たないでコロナに感染してしまえば、老人には死の病である。高い確率で死んで行くのだ。70歳を超えたらば、いくらかのリスクがあってもワクチンは打つべきだ。

 そもそもの私はワクチン反対の考えである。自然養鶏の経験でワクチンは不要と考えてきた。人間も同じだと思う。基本ワクチンをやらないですめばその方が良いに決まっている。鶏の場合、淘汰の考え方で強健な鶏の選抜が出来る。

 人間の場合それでは優性思想になる。優秀な人間を選抜をするというのではナチスである。人間は歳をとっても、病気がちであってもコロナにかかるリスクを減らすために、ワクチンが必要になる。コロナと老人の関係は明らかに、老人はコロナに対して弱者なのだ。必要悪のワクチンを必要としている。

 70歳以上とそれ以下でのコロナ死亡の確立は極端に違う。正確に比較する事はできないのだが、姥捨て山のコロナ感染かと思うほど、老人には過酷な病気なのだ。特に肺が悪い老人には致命傷になると考えた方が良い。私はその対象者だ。

 コロナの蔓延は死者数で見ると最近は1日300人に近づいている。第3派が来ていると考えた方が良い。感染者数や重症者数は余り当てにはならない。一番ぶれないコロナの蔓延状況の判断は、どのくらいの人が死んで行くかだと思う。

 コロナの蔓延の度合いが見えると思う。いかにもピークが過ぎつつあると言う一般に広がっている観測は、そうありたいという願望に過ぎない。これは何度も裏切られて、今に至っている。コロナとの新しい対応というのは、コロナに対して過度の社会的な隔離はしないと言うことだが、老人はその結果リスクが増している。

 PCR検査数や、治療薬の出現、コロナウイルスの変異。しかし、結果としては死者は増えている。死者の数で今のコロナの危険度が分かる。その意味ではパンディミック3年目となった、2022年がコロナの流行の山なのだ。死者数の3つの死者数の山はすべて2022年にある。

 コロナを感染症の程度を示す2類から5類に変えるという考えは、医療機関や行政の負担軽減と言うことが目的に在るだけで、感染者の医療はないがしろにすると言うことだ。2類には結核がある。5類にはインフルエンザがある。病気の深刻さとは関係の無い対応に見える。コロナの深刻度が軽減したわけではないことを死者数が表している。

 もう一つ大きな要因は公費負担である。現在ワクチンも治療も2類なので公費負担である。5類に成ればすべて自己負担と言うことになる。ワクチンもそうなるのだろう。自己負担にして、ワクチンを打つ人が減少すれば、医療機関が崩壊しないだろうか。政府も財政難で費用がない。しかし、老人のことを考えてくれるならば、まだその時期ではないと思う。

 多くの知事から5類変更希望が出ているが、70歳以下なのだろう。経済と行政負担の軽減なのだろうが、5類に変更して大丈夫とは老人である私には思えない。コロナは死者数から判断すべきものなのだ。オミクロン株に変異して、病原性は弱まったなどと主張することは死者数から見れば完全な間違えだ。

 この山はさらに続いて行く可能性もある。もしかしたら、これからが本格的なコロナ流行なのかも知れない。経済のためにはコロナで死者が出るのは年寄なのだから、余り重視しない方が良いというのが、政府の考えというか、社会の本心のように見えるが、ひがみか。

 若い人はもううんざりだ。いい加減にしろと叫んでいる感触がある。確かに年寄が医療崩壊に輪をかけたのでは申し訳がない。なんとしても感染しないようにやって行かなければならない。日本の累計死者数は53、318人。世界では6,665,052人 の死者数である。

 一つの感染症で5万人以上が死ぬというのでは、大変な病気である事は間違いが無い。やはり年寄の外出禁止以外に打つ手はなかったのだ。何故中国がそれをやらないのか不思議な気がしている。それをやれるのは中国だけだろう。

 たぶん中国でもこれが出来ないのは、年寄が権力を握っているからだろう。70歳超外出禁止だと、習近平が再任されない理由になる。もうすぐ70歳になる。中国が出来なかったくらいだから、世界中で老人が権力にいるのだから、出来るわけがないだろう。

 コロナに対応するには暮らし方を変える以外にないのだろう。多くの人が実際に暮らしを変化させている。いやコロナに暮らし方を変えさせられた。結果的に徐々に、都会と地方の立ち位置が変化をしている。田舎暮らしも悪くないという若い人が、増えてきた。

 行動に移さないまでも、人間の考え方に変化を与えている。ペストが宗教を変えたように、コロナは人間の生き方に変化を与えるのかも知れない。ペストが流行して、ルネッサンスまでは100年くらいはかかったのだ。人間が変わるには100年ぐらいは必要なのかも知れない。

 コロナによって、野外生活の意味が再確認されただろう。大勢が集まる場合は室内がリスクが高い。本来大勢が集まるのは野外が良い。国会だって野外で運営されればもう少し、良いものになるだろう。雨だから今日は休会ぐらいで丁度良い。

 野良仕事はいかにも人間らしいものだ。野外で身体を使うというのが本来の人間だ。それなら感染症の蔓延もない。ペストの流行も石の家での都市生活が始まったからだろう。コロナともうしばらく付き合わなければならない。今が一番危険度が増している。こう考えて生活して行く。

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次の時代の職業

2022-12-22 04:51:17 | 暮らし
 
 新しい溜め池から、のぼたん農園を見ている。

 百姓とは良く出来た職業名だ。農業を中心に生きる暮らしは、百面相のような多様な能力が無ければ成り立たないと言うことだろう。最近農業は6次産業だというような不思議な行政用語が使われている。百姓という言葉に競べて、言葉に力が無い。

 要するにこれからの時代はやれることは何でもやって生きて行くのが良い。と言うことなのだろう。半農半Xという言葉も一時使われたが、これも感心しない言葉だった。半分農家で後は他のことをするということなのだろうが、Xでは中途半端な感じで力不足に感じた。
 
 数字で分類するような言葉の中でも六などと言うのでは捉えどころがなさ過ぎる。仕事を分類できないのが百姓だ。百姓は自然科学者である。百姓は気象予報士である。百姓は機械整備士である。百姓は祈祷師である。つまり百姓は人間である。

 百姓は大工も杜氏も土木業も水利業も井戸掘りも、道具も作れば、機織りもする。季節に応じてあらゆる仕事をこなす。それこそ何でもやるのが百姓で、生活のすべてを自分の手でこなす人のことなのだろう。だからあらゆる仕事をこなすという意味で百なのだろう。Xや6よりも百がいい。

 生活者という意味には、働くものという意味がある。本来の人間が生きると言うことはすべてと言うことだ。自分で何でも出来て生きて行けると言うことは、ある意味どれか一つに特化していないということかも知れない。専門が無いと言うことでもある。

 これからの時代そういう融通無碍に生きる時代が戻ってくる。それが生きる面白さだからだ。人間は自由に働く生き物だ。強制された労働や義務化された労働から、自由な労働に変わって行く。その方が生きる面白さがあるからだ。

 もうすぐ来る次の時代は専門家に成ればなるほど、無用な職業になる可能性が高い。どんな職業がロボットやコンピュターがやれないかなどよく分からない。人間はロボットやITの隙間の仕事に割り込むようなことかも知れない。もうその時には、働いていることを仕事とは呼ばないのかも知れない。

 既得権益の社会では「言われた通り」に動く人が出世する構図になる。政界や学界はもちろん、企業の中にもこうした忖度がびこっているのだろう。自民党など年功序列と議員相続だ。多くの人が自分の意見を強く持たないようにしている気配がある。

 日本に新産業が現われないことの原因はここに在る。立ち回りの術に秀でた人のほうが出世しやすくなっている。学術会議の任命拒否などその好例である。それが、日本企業の苦境を招いた原因になっている。イエスマンが集まる組織は、政党でも企業でもいずれ衰退する。

 言われた通りにしているだけが一番尊重されているような、ご無理ごもっともな社会では新しい仕事が現われてこない。それが日本が下り坂に入ったと言うことだったのだろう。忖度社会は忖度されるべき、上級人間と見えない形で支配されている下級人間に階層化される。

 高度成長期を体験した人間として、現在は明らかに社会が変容したと思う。羊化したような社会に感じる。羊を率いる鵺がいる。鵺は結局の所資本なのだろう。資本に人間が支配されてしまったのだろう。言葉を換えれば、拝金主義の時代。

 この時代の行き詰まりは、自由に生きると言うことで抜け出すことが出来る。お金に縛られない人間は鵺に支配されない。自由に生きるためには百姓になることだ。百姓で生きていける。人間は一日二時間の肉体労働で、食料は確保できる。

 このことだけは伝えたいと思う。私の一生はその証明のようなものだ。自由に生きるためには百姓でなければならない。科学者であり、肉体労働者であり、哲学者でなければ、百姓にはなれない。生きる為の技術者でなければ、百姓ではない。

 石垣島でのぼたん農園を始めた。繰返し跳ね返されている。それが百姓を育ててくれる。農業者という目で見る石垣島の自然環境がまだ把握できない。1年2年で分かるはずもない。科学的に自然を見ると言うことは実験を繰り返すと言うことになる。

 今までの自給生活で確立したものは、百姓仕事の実験の仕方だと思う。もし石垣島で田んぼを行うとすれば、どうすれば良いかという構想力のことだろう。小田原で行ったことで役に立つのは、考え方にすぎない。同じことをやったところで、上手く行くはずもない。

 結果は石垣島で稲作百姓の目標である畝取りである。化学量や農薬を使わないで、一反、1000㎡で一俵、600キロのお米がとれたときである。5年かかると考えている。今1年目が終わり、2年目に入る。やっと状況が把握されてきたぐらいだ。

 1年目にやっと道具がそろった。農作業小屋が出来たところだ。できる限り手作業でやる農業である。そうでなければ次の時代に役立つ農業ではないからだ。ここではお金にはしない農業を行う。それぞれが自分が生きるための農業を身につける場にしたい。

 それが次の時代を生きるためには役立つと思うからだ。のぼたん農園はあと4年間農場の整備にかかる。形が出来上がれば自給自足で生きる最も合理的な形が、誰の目にも見えることになる。それが目標である。コロナが私にやれと促したものの気がする。

 人間は本来おもしろいことで生きたいものだ。いやいや生きるのでは辛い。なかなか好きなことで生きると言うことは困難なことだった。しかし、科学技術の加速度的な進歩で、人間の生き方は変わる。コンピュター頭脳とロボット労働が人間が人間らしく生きるても良いよと、解放してくれる。

 あと、30年くらいかかるだろうか。人間が今その狭間にいる。コロナとプーチンはその膿である。時代が生み出した膿である。武力競争が人間を滅ぼしてしまうのか、気候変動が人間を滅ぼすのか、拝金主義が人間を悪魔にするのか。時代は危機にある。

 しかし、この危機を人間は乗り切ることが出来ると信じている。もっとひどい状況になるのかも知れないが、必ず人間は次の時代を希望のある時代に出来る。その可能性は百姓にある。田んぼを作る百姓である。自分一人の力で生き抜くことの出来る百姓である。

 そこから人間は再生する。かなり苦しい時代が続くだろうが、考えが変わりさえすれば、むしろ未来は明るい。人間には拝金主義を捨てることは出来る。人間の生きる面白さを知れば、人間の未来には希望がある。そのためにのぼたん農園の形を残したい。

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石垣島に越したのは2018年11月

2022-12-21 04:14:37 | 暮らし

 のぼたん農園の準備中の麦畑。大豆と麦で輪作して行ければと考えている。もらってきたバガス(サトウキビの絞りかす)を入れた。2年間積み上げてあったものだそうだ。意外に発酵はしていなかった。良さそうなものだが、使ってみなければまだ分からない。

 石垣島に来て4年と1ヶ月が過ぎた。なんとなく石垣島に自分が住んでいる気持ちになったようだ。小田原から石垣に帰る。家に戻る気持ちでいる。小田原には出掛けてゆく。小田原で目が覚めると、石垣の家で目が覚めたような、そんな気持ちになるときが出てきた。身体が石垣になじんできた。

 この4年間の内の3年がコロナ生活だったのだから、まったく想定外なことが起きたものだ。と書きながらも、こんな危うさを感じて石垣に越した気もする。今やコロナ前の最初の一年の消費的な楽しかった石垣暮らしが懐かしくなる。最近は、夜に出歩くことが全くなくなったので、6時半に寝てしまう。コロナの石垣島での蔓延で、絵とのぼたん農園だけの生産者的な暮らしに自分を導いたような結果である。

 結局コロナで三線も止めることになった。三線はみんなでやれないのではおもしろくもない。赤松さん、木村さん、ミホさんなどの専門家レベルの人達に混ぜて貰えたので、楽しかったのだ。笹村さんの唄が心に響いたなどと言われて、そんなわけが無いと思いながらも、内心調子に乗っていたのだ。

 石垣に来たらもっともっと三線をやると思っていたのに、トゥーラバーマ教室もなくなった。これでは三線は続かない。石垣島に来たら、絵だけ描いているのだろうと思っていたにもかかわらず、干川さんとの出会いから、のぼたん農園の冒険を始めることになった。想定外はコロナから色々に波及した。

 コロナがなければ、のぼたん農園はやらなかったことかも知れない。時代の転換期というのは、こういうものなのかも知れない。石垣島も小田原もコロナの感染は変わらない。人混みにでることが出来なくなった分、野外での田んぼの活動が必要になった気がしている。のぼたん農園の御陰で、コロナ生活にもかかわらず多くの人と出会えることになった。

 コロナがなければ、コンサートを聴きに言ったり、食べ歩きをしたり、もう少し違った暮らしになっていたはずだ。石垣にある様々なおもしろい、観光客的な受け身の暮らしを味わっていたことだろう。一時間かからないで行ける台湾にも頻繁に行く予定だったのが、行けなくなって3年と言うことになる。これは一番残念なことだ。来年の一月には久しぶりに行くつもりだ。

 絵を集中して描くことになった。車で絵を描きに行くことはコロナ蔓延期でも問題が無かった。石垣島中をくまなく絵を描いて回った。絵を描く眼にも石垣の色が染み込んできた。そしていよいよ田んぼを始めてからは、毎日弁当を持って田んぼに行くので、田んぼがアトリエのようになった。

 その御陰で、つまりコロナの御陰で、絵とのぼたん農園の冒険に集中することになった。おかしなことだが、そう考えればコロナも有り難いことである。14世紀のペストがルネッサンスを生んだとも言えるのだから、21世紀のコロナが新しい人間の暮らし方のきっかけになると言うことは、在りそうなことだ。中国のかたくなな習政権すらコロナには勝てない。

 コロナは終焉したような言われ方をしているが、死者数から見れば実は今が第三の山場である。まだまだ続くと考えざる得ないのだろう。コロナの蔓延は収まるどころではないのだ。みんなが不安な状態に疲れて、どうとでも成れという心境なのだ。経済を考えれば、これ以外無いというのが世界の選択になった。私は台湾に行く以上5回目のワクチンは接種する。

 コロナが導く次の時代があるとすれば、発展主義、能力主義が終焉を迎えると言うことでは無いだろうか。誰でもが自分らしい小さな暮らしを求めて生きる、地味なその人らしい暮らしの時代である。拡大主義から、調和主義の時代へ変わって行く。人間が賢いものであるなら、そうなるに違いない。そう信じたい。

 調和主義と言うのは言葉が思いつかず、一応使ってみたが、現在の社会に存在する科学的知見を、どのように使うかの法に力点が置かれる時代を想像している。新しい農業の方法を探求するのではなく、それぞれの場面で自分にあった農業を探求してゆく。生産物よりも働くこと自体に喜びを感じて行くのではなかろうか。

 社会が発展を求めるのではなく、調和を求める時代である。違いを違いとして受け入れて、競争しない社会である。能力の高い人は能力を生かしてその人なりの探求をする。そうであるとしても、その探求は評価をされても、弱者を押しつぶすような物にはならない。

 弱者は弱者なりのよい暮らしが可能な社会である。弱者を社会が支えることが社会のためになると言うことが、すべての人に受け入れられる社会である。当然のことだが、能力の高い強者が権力を用いて、弱者を従わせる。時には弱い国を戦争で従わせる。

 こうした非人道的な行為を行うこと自体が無駄になる社会である。そんな社会を想像するだけで、わくわくする期待するものがある。人間は人間らしく生きることが出来れば、もうそれだけで十分なものだ。何故人を圧倒して自己存在を確認しようとするのだろうか。

 人より能力がすぐていると言うことは社会から尊重される。しかし、その尊重は劣る人も、同じく尊重されることでなければ、何にもならないことになる。高い能力の人はその成果が大きく社会に還元されることで、感謝されるものであるが、能力の低い人を否定するような物では意味をなさない。

 経済力が人間の生き方に最小限しか、影響しない仕組みが作られる。努力する誰もが、その努力自体が評価されることになる。能力で比較され、選別がされない社会である。それぞれの能力を十分に生かし、伸ばすこと自体を喜びに出来る社会である。

 コロナ後の世界が始まりつつある。ルネッサンスが始まったように、次の時代を希望のある時代にすることが、今の時代に生きるすべての人に課せられた役割ではなかろうか。拝金主義をもう捨てなければ成らないとコロナが教えていると考えた方が良い。

 のぼたん農園を始めて一年になる。まだやっと形と道具がそろって来ただけだ。実際の栽培はこれからと言うことになる。来年はのぼたん農法の確立に頑張ると言うことになりそうだ。新しい土地に合う農法は必ずある。石垣島の江戸時代の稲作法に学ばなければならない。

 同時に石垣の暮らしの中で整理して行くべきものもある。石垣島に来た最大の目標は、絵を描くことである。それ以外のことはそのために役立つことだけを行う。生きていればやらなければやらないことはある。余分なことを切り捨てたい。

 絵以外のことを切り捨てるために石垣島に来たと言うことを思い出さなければならない。のぼたん農園を始めたことが、絵を描く為だと言うことを考える。日々の一枚の水彩画がそのことを示していなければならない。日々新たな気持ちで絵を描こう。

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日本の経済力を超えた防衛費

2022-12-20 04:07:53 | Peace Cafe


 防衛費をこの経済不況の中で、増額するという。財政再建の目途も立たない中で、到底大丈夫とは思えない。経済が破綻して、国が潰れてしまえば国防など何の意味も無いだろう。ロシアのウクライナ侵攻の危機に乗じて、この際できる限り国防費を増額しようと言う、いかにも浅はかな考えに過ぎない。

 仮想敵国の倍ぐらいの軍事力、国力、が無ければ安心できないのが、武力による国の安全保障の前提である。ところが到底そんなことはできない日本の経済状態である。東日本大震災からの復興予算を、国防予算に回すという発想は論外のことだ。

 復興税は臨時の緊急対策だから、国民も寄付をするような気持ちで受け入れたことだった。しかも、法人税は早々に復興特別税から外されている。こうやって、国民から搾り取るのが税金と言うことでは、消費は増加どころか減少して行き景気の悪循環になっている。さらにその上乗せと言うことだ。

 まず経済の安定が、安全保障の第一である。日本の財政破綻の固まってしまった構造は、エネルギーでも、食料でも、経済封鎖されればひとたまりも無い状態になっている。戦争は出来ない経済になっている。戦争をしない前提で、日本の経済は出来ている。

 もし戦時体制と言うことになれば、日本経済の海外依存度の高さから、軽い経済封鎖で日本の経済は崩壊することになる。食べるものがなければ、則無条件降伏しかない。日本はアメリカの真似は出来ない。すべての国と仲良くして、仮想敵国など作らないで行くのが国是である。

  中国が台湾に武力侵攻を行えば、日本も巻き込まれる可能性がある。 自民党の議員の中には年内に軍事侵攻があると、発言している愚か者もいるくらいだ。年内になかった場合、狼議員と言うことで、辞職して貰いたい。責任の重い国会議員としての騒乱罪である。

 日本が実効支配する尖閣諸島について、中国は領有権を主張している。石原慎太郎の発案で2012年に日本が尖閣諸島の国有化を行って以降、中国海警局の船が巡回したり、了解への侵入を繰り返している。それでも日本は話し合いを持とうとしない。何故なのだろうか。抗議だけしていても解決するはずもない問題だろう。

 国際問題は平和的手段で解決すると、憲法に書かれている。平和的努力をどれだけしただろうか。まったくしていないと行っても良い状態だ。それどころか、尖閣を日本の軍事力増強の材料にしている。この愚かさが悲しい。さらに、敵基地攻撃ミサイルの準備に入るというのだ。これでは日本から近隣諸国に刃を向けていると言うことになる。

 日本の防衛政策の大転換になる。残念ながら、国民から反対の声が盛り上がらない。ウクライナの悲惨な状況を見ていると、不安になるからだろう。しかし、敵基地攻撃ミサイルを持つことが、より危険度を増していると考えるべきだ。

 敵基地攻撃能力を持ち、アメリカに自衛隊基地を提供すれば、ウクライナの状況に近づくと言うことになる。日本に攻撃能力がなければ、中国としては余計な戦況を広げるだけのことになるのだから、台湾有事の際に無視してくれる可能性が高い。

 反撃能力の保有はこれまでの日本の安全保障体制を大きく転換させる。つまり明らかに憲法違反を犯すと言うことになる。憲法に触れずに、ここまで拡大解釈を続ける政治を果たして信頼できるだろうか。憲法は国の政治の在り方を規定しているものだ。それを好き勝手に解釈する姿にはうんざりする。

 これまでの自衛隊は反撃能力を持たないがゆえに、防御に重きを置いてきた。ミサイル防衛網を整備し、イージス艦も保有している。こうしたことは、反撃能力を持たないが故に、特例として許されてきた。これを攻撃的な敵基地先制攻撃となると、すべてが変わることになるのだろう。 

 どのように変わるのかが問題であるにもかかわらず、具体的な方向や準備してゆく兵器も明確ではない。これでは小出しにしながら、核ミサイルまで進むというような解釈も可能なのではないだろうか。つまり小さい弱い方が、強い相手に対抗するためには、原爆の保持は不可欠と言う意見が次に出てくる。

 いずれにしても防衛費の増額はどんな防衛費を増額させるのかが明確にならなければ、判断が出来ない議論である。大多数の国民が原爆の保持までは望んでいないだろう。石垣島に配備する敵基地攻撃ミサイルというのは一体どんなミサイルなのだろうか。

 中国のどこまで届くミサイルなのだろうか。北朝鮮まで届くミサイルなのだろうか。本当にそのミサイル配備が、日本の安全を高めるだろうか。ウクライナは迎撃はしているが、ロシアにミサイルを撃ち込んではいない。NATOもロシアを直接攻撃する武力を提供していないのだ。ここはよほど慎重に判断が必要だ。

 ウクライナはあくまで国内で戦うと言うことである。侵攻してきたロシア軍に対して攻撃をしている。ロシアが侵攻してきたのは、ウクライナの領土の一部をそもそもロシアの一部と主張しているからである。何故領土問題を話し合いで解決しようとしなかったのか。ここに戦争の原因がある。

 話し合いを拒否して、NATO加盟を進めたことに対して、ロシアは軍事侵攻を選んだのだ。日本で考えれば、台湾有事が起きないようにするのがまず第一である。台湾と中国の話し合いを推進することだ。中国もまず平和的な交渉によって、台湾を併合すると主張している。併合の条件は何も定まっていない。

 もしそれが出来ない場合は、軍事的な選択も排除しないと言うことだ。確かに台湾が中国になることは現状では悪い事になる。それは中国が民主主義国家で無いからである。年々その独裁的政治体制を習近平政権は強めているからだ。香港の二の舞いになると台湾は考えているだろう。

 しかし、台湾にしても中国が民主主義国家になれば、統一することを否定するわけではないはずだ。台湾が中国を併合すると考えれば良いだけのことだ。中国が民主主義国家に動いて行くことを、手助けすることが日本の役割ではないだろうか。交流を広げて行くことだ。

 日本に多くの中国人が観光に来る。中国の国民に民主主義の良さを知ってもらうことだ。中国は素晴らしい勢いで経済成長をしているので、独裁的な習近平政権を表面的には受け入れている。これが経済成長が鈍化すれば、状況は変わる。中国の経済成長も必ず止まる。その時に自由主義、民主主義の素晴らしさを中国人も考え始めるはずだ。

 日本はそのお手本になるような国として、中国の国民と交流して行くことだ。中国人は信頼に足る人達だ。能力も高い。今高度成長期の中にいるために、問題はあるが、習近平政権で行こうと言うことだろう。もうしばらくすれば中国は立ち止まって考えるはずだ。

 費用の足りない軍事力で対抗するようなことではなく、財政の潤う平和的な交流を続けて、日本の良さを知ってもらうことが一番の平和外交のはずだ。岸田氏は軍事力を高めることで、外交の力を高めると記者会見で述べたが、本当の外交は後ろ手に銃を隠したようなものではない。

 日本自身が民主主義を大切にして、平和憲法を守る国である事を示すことが、日本の外交能力を高めることになる。武力など無くとも堂々と平和外交をすれば、十分なはずだ。一人でも多くの中国の人に日本に観光に来てもらおう。円安はチャンスだろう。そして中国人と仲良くしよう。
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食糧の安定供給の確立

2022-12-19 04:33:43 | 自給

 のぼたん農園の麦畑予定地の土壌の様子。

 日本は食糧が自給できない国になった。それはここ50年ほどの間に起きたことだ。江戸時代の日本は完全自給の国だった。食糧自給は国を維持する上で最も重要なことだ。食糧は価格の安い国から買えば良いというのが、竹中平蔵の指導したアベ政権の考え方であった。安倍が目指すとした瑞穂の国とは随分と矛盾した国だった。

 この50年日本人の主食がお米でなくなったと言うことがある。50年前は1年間で2俵120㎏食べていた日本人がその半分以下しか、お米を食べなくなった。今は一人が1俵のお米も食べない。1年に50㎏のお米しか食べなくなった。日本人はお米が主食で無くなったと考えて良いくらいのことだ。

 主食ばかりの食事から、副食中心の食事になったと言うことがある。昔はご飯をおかわりする子供が、元気なよい子と言うことになっていた。食が細くて食べられなかった私は、お代わりするのが大変なことだった。それでも無理をしてお代わりをしていた。良かったのか悪かったのかはいまでは不明。

 お米から肉を食べる食事に変化している。肉は食べない食事だった。経済成長と共に肉の消費量が増えるのは、世界的な傾向である。縄文人もやはり肉が好きだったらしい。イノシシと鹿の骨が遺跡からでる。沢山取れれば、肉を多く食べたらしい。

 健康と食事というものが完全に覆った。ご飯だけでなく、炭水化物の取り過ぎが不健康の原因と言われるようになった。1日に250gから325gの炭水化物を摂取することが望ましい とされている。これはご飯3杯分ほどである。この炭水化物の1日の摂取基準量は食事から摂取するエネルギーの半分ほどを良しとする。

 私の場合で言えば、年寄だからご飯を軽く2杯と泡盛100ccと言うことになる。このほかに間食は一切なしと言うことになる。せんべいやクッキーなど間食をすれば、泡盛はその日は飲めなくなる。それが嫌で間食はしない。これが一年50キロの泡盛を含めたお米の消費量になる。実際はもっと少なそうだ。

 体重を55キロで一定するように食事で調整している。超えたならば、泡盛を飲まない。時々超えるので泡盛休みが入る。週2回ならば丁度よい。一日玄米4合(600グラム)もお米を食べていた時代がある。いくら肉体労働をしているとしても、これでは長生きは出来ない。日本食が健康食というのも、ご飯を減らしたときの話である。

 宮沢賢治の詩のように、3合の玄米を食べたいたら年165キロである。それくらい日本人がお米を食べた時代ならば、日本は瑞穂の国である。食糧自給は稲作で可能になる。これから世界は食糧難時代に入ってゆく。飢餓は今まで以上に深刻な問題になる。その時また日本は瑞穂の国に戻るほか無い。

 小麦の輸入はだんだん困難になる。価格はお米に競べてかなり高くなるだろう。国産小麦と言うことになるのだろうが、これは現状ではかなり難しいとみている。戦後の日本は関東平野の里山はほぼ麦畑と行って言い。日本が小麦を大量に作っていた場所は、傾斜地であるか、現在市街地になっている所だ。

 食糧危機が訪れて、かなりの無理をしても日本の農地で麦を作るとすれば、また米麦の二毛作と言うことを考えなければ無理だろう。二毛作は東北では出来なかった。関東から南の温かいところであれば、冬に麦を作り、夏にお米を作った。しかし、これが百姓に過酷な労働になった。

 私も米麦の二毛作に挑戦していたが、なるほど難しいと言うことが挑戦してよく分かった。二毛作をするには機械が無ければ出来ないと考えた方が良い。すべて手でやろうとすれば、身体を壊すほどの過酷な労働に成る。特に梅雨時に麦刈りをして、田植えに入る。

 この時期を乗り切るには、コンバインと乾燥機が必要になる。大農家でなければ無理だ。こうした大型機械が出てきて、米麦の二毛作が可能になったころには、米余りが言われだした。米麦の二毛作は戦後の食糧危機時代のやりかただった。麦は麦畑でつくり、大豆などとの二毛作の法が具合が良い。

 すでに海外から食糧危機が始まっている。日本の38%の食糧自給率を早急に今の倍の75%ぐらいまで上げなければ、国の安定がなくなる。簡単に考えれば、農家も農地も2倍必要と言うことだ。政府も建前としては食糧自給率の向上を掲げている。しかし、向上どころか相変わらず低下傾向である。建前だけで本気に成らないからだ。

 理由は明確である。農業は企業が取り組んでいないからである。日本の政策は企業中心に考えられている。もし三井農林が米の一〇%を生産していれば、政策も変わるはずだ。農家など止めれば効率的だというのが政府の考え方なのだが、なかなか農家はすっきりとは止めない。

 政府はどこかでこのことを苦々しく考えているので、農家を保護するような政策が出てくるはずがない。しかし、もうそんなことも言っていられなくなってきた。このままでは国内の農業がさらに衰退する。安い海外の食料を買えば良いというような甘い考えは通用しなくなる。

 具体的に田んぼと麦が作れるような体制を確立しなければならない。例えば行政が機械を所有し、貸し出す仕組みが全国どこでも行われるようにする。大型機械の貸し出しがあれば、米麦の二毛作も復活できるかも知れない。貸し出し機械があれば、若い人の新規就農もかなり楽になる。

 地方では人口減少が急速に進んでいる地域がある。農地の放棄も進んでいる。放棄農地を政府が集約、新規就農者に無償で貸し出す制度を作る。農業技術はその地域地域で違う。地域の就農学校を充実整備する。そして卒業者への農地の斡旋の責任を持つ。

 たぶん政府は予算が無いと言うだろう。軍事費予算なら安全保障のために倍増するが。農業予算など無いと説明するはずだ。国の安全保障を考えたときにどちらが重要だろうか。明日の食料を確保すると言うこと以上に、重要なことなど無いはずだ。ここに国民の合意が出来るかどうかである。

 食料は確実に不足して、価格が高騰してゆく。それは原油の供給以上に明確に、遠からず起こる世界の問題である。エネルギーは価格が上がれば、供給も自然に増える。しかし、食料は作らない限り量は増えない。世界の人口増加に競べて、食料生産可能な面積は限界に達している。水資源も同様に限界である。

 今整備さえすれば、日本の農地は十分に活用が出来る。一番の問題は農業者の減少である。経営が出来ないから、減少している。経営が出来るようになれば、間違いなく農業者は増加する。農業はおもしろい仕事だから、生活可能なら間違いなく増える。

 定年もないから、80歳代の現役農業者もいる。自衛官を増やすらしいが、80歳では採用されないだろう。自衛官は生産をしない。労働人口が減少する中で、どちらが緊急的に重要なのかは明白なことだ。まだ間に合う。国民が明日の食事が一番重要だと当たり前に認識すれば、日本も変わる。

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第140 水彩画 日曜展示

2022-12-18 04:05:19 | 水彩画
第140 水彩画 日曜展示
10号前後の作品です。






11「海越しの富士」
2022.12










12「田ノ原スキー場」
2022.12







13「蘇我富士」
2022.12







14「根子岳大戸口より」
2022.12








15「早春のやま」
2022.12








16「阿蘇山」
2022.12






17「赤富士」
2022.12





18「箱根富士」
2022.12







19「根子岳」
2022.12






20「三津富士」
2022.12


  山の絵を並べてみた。多くの場合、日曜展示する時には大体30枚くらいの最近描いた絵がある。その中から選んで展示している。先週は港を描いた絵を並べた。今回は山の絵を並べた。たまたまそれぞれが10枚ぐらいあったからだ。

 山の絵では富士山、御嶽山、妙高山、根子岳、鳥海山が好きでよく描く。どの山も活火山と言うことが共通である。何か勢いを感じて描きたくなるのだと思う。他の山とは違う、エネルギーが沸き立っている。見て描いているわけでは無いが、ついつい描きたくなる記憶の中に食い込んでいる何かがある。

 中でも富士山は生まれた場所も近いし、小田原に住んでいたと言うこともあるので、よく描いた。こんな魅力的な山は他にはないと思うぐらいおもしろい。今は飛行機の上から見る富士山が印象に残っていて、現われてくる。
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