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第18回「水彩人展」作品評

2016-09-30 04:29:12 | 水彩画

同人の絵で言えば、その人の作品の最高の作品を今回4名の人が出品している。その絵が他と較べて、どういう水準であるかはまた別のことであるが、その人が描いた絵としては、今までになく面白いと思える絵という意味。橘史郎さんの絵がまずその第一だと思う。絵が橘史郎という人間に立ち至ったの感がある。何を語っているのかは判然としないのだが、ぶつぶつと私事をつぶやいているようである。その語るものはかなり厳しい。茫漠とした荒野である。枯れ野である。春の芽吹き時でもいいが、秋の夕間暮れでもいいが、ただの風景を描いて居る。人間の中を通り抜ける風だ。見ている私の眼にその風が当たる。深刻になる訳でもないし、希望がある訳でもない。わずかな風は頬にもあたるが、懐かしい匂いがした。確かに記憶にはある世界。しかし、見たことはない世界。こんな世界に佇み、存在する悲しみと言えば、簡単な理解になる。東北で生まれ、東京で生きた人の今。何を語っているのだろうか。 

山平博子さんの作品は、重圧である。この度の北海道の大水害を思い起こさざる得ない。開拓の末にやっと成り立つ農業に、自然の理不尽な暴虐。そして、これからの農業環境にも、離農を迫るような、政府の仕打ち。開拓以来の苦難の連続である。山平さんの筆触の中にその思いが伝わる。静かな線が無限に積み重なり、それがいつの間にか立ちはだかる、黒々とした岩の壁になる。ゴロゴロの溶岩だったころの自然の怒りのようなものが、聞こえる。黒い岩が土石流のように流れる。私事ではある。私事であるからこその憤りのようにも聞こえてくる。冷めきったように見える岩がいつの間にか、黒いエネルギーに変わる。「黒漆の崑崙、夜裏に奔る」真っ暗闇の中を巨大な黒い塊が走り抜けている。恐ろしい勢いの疾走する姿ではあるが、ただ静かな闇とも思える。さらに言えば「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては、飯を喫す」と応えたという。

三橋俊雄さんはほとんど同じ絵の繰り返しである。何十年と同じ対象を同じように描いて居る。全くあきれるように変わらない。動きたくても動けない、高い塔の上で揺らぎながら、揺らすな揺らすなと動揺を見せずに、バランスをとっている。塔が風に揺らげば揺らぐほどに、ここは微動だにしない大地であると思い込もうとしている偽装。良くある静物であり、良くある風景である。同じような対象を同じように描いて居る。しかし、この何処へも行こうとしない停滞こそ、三橋俊雄という人間の、絵空事の行き着いた世界らしい。そういう事が今回画面として吹っ切っている。停滞した前線が実はエネギーのぶつかり合いであるにもかかわらず、その何かは歯がゆく語ることができない。頑なであり、頑迷たる何ものかが隠される。この平穏な静物の装いは、じつにありきたりで、凡庸な姿を装う事しかできない何か。余りに当たり前すぎて、何もないのかもしれない。何もないという事に立ち至る。良く考えてみれば、それですごいことだ。

そして、松波照慶さん。空間を物語として見ている。画面の下の方には、人の暮らす場所。そして画面の大半はそら。空の動きをとらえようとしている。空という自由な素材を使い、動きをとらえようとすることがすべてと言ってもいい絵だ。ところが、下に街があることによって、その動きをとらえるという、絵画的動機ともいえる行為に人間とのかかわりになる。3つの絵がその変容として示される。街は、3つの段階に抽象化され、一枚は空と同じ解釈になる。作者が絵を描く意味を自問していることがよく分かる。画面という場で絵らしきものを示そうという行為がむき出しにされる。絵を描くという行為の意味合いをはぎ落してここまでに至る。その結果空の動きと、人間界のかかわりという物語が、絵本のように示される。松波絵本の最終ページが開かれたような気がした。

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縄文時代と江戸時代

2016-09-29 04:28:31 | 暮らし

縄文時代と江戸時代には日本人の暮らしの2つの典型がある、と私は考えることにしている。縄文時代は採取狩猟の暮らし。人間が自然の一部であった時代。人口密度が1㎢に1人程度と言われている。日本の豊かで複雑な自然と戦いながら、独特の文化を形成した。江戸時代は瑞穂の国の文化である。を基本単位として、大都市江戸を成立させた時代。この2つの時代を材料にして、自分の暮らしを考えてきた。縄文時代は世界的に見ても優れた土器文化を形成した。その土器には縄文があるので名付けられた時代名だ。新石器時代というような名称に近い。一方、江戸時代は江戸にある幕府が日本を支配していたために付けられたちいき名称である。徳川時代と言わないところにこの命名の仕方の特徴と奇妙さがある。江戸時代の発掘物の研究から来た縄文時代の命名と場所による時代名。1603年から1868年の日本と江戸時代を言うのでは分かりにくいというだけのことだ。

人間の暮らしを考えるうえでは、江戸幕府の鎖国にによる国づくりが実に用意周到で、一般の人の暮らしはという単位の中に固定化された時代。の基本的大きさは稲作をまとまって行う合理的範囲。水利権でつながる人の暮らし。土地所有以上に暮らしを司る水。土地は大庄屋が所有し、小作農として多くの人々が暮らす。庄屋は水を管理運営する。水は田んぼの水であり、水車の水であり、生活水である。そして集落を取り囲む里山。里山はエネルギー源であり、里山は里地での暮らしと不可分のものとして成立していた。土・水・木を育むことに自らの暮らしの向上がかかっている。暮らしの永続性は時代の循環が要になる。小作農の仕組み。土地所有者に隷属するのではない、地域全体として経済が成り立つ、小作形態。日本独特の封建制の成立。地域と離れがたい、家と離れがたい、封建思想の成立。そこには天皇が存在していない。もちろん縄文時代にも天皇は存在しない。

縄文時代は時代の意味や暮らしまではよく見えていないまま、出土される土器にある縄文から付けられた名称。縄文時代は人間も自然の一部であったような時代である。しかし、その土器や土偶の優秀性は人類史上でも特出できるものである。民族の未来を考えるにあたって環境とのかかわりは最大の問題となるであろう。世界でもっとも長期にわたり人間と自然のかかわりの詳細なデータの得られている縄文時代の情報は重要な意味が有る。人類がアフリカで生まれ、新天地を求め移動を続け、日本列島に至る。3つの地点から日本列島に来たとされている。それは、現代にいたるまで、日本列島に来る人たちが存在する。その影響に従い徐々に日本人が構成されてゆく。ただいえることは日本列島という自然環境は人間が暮らすためには、実に優れた地域であった。自然災害は頻繁に繰り返される場所ではあるが、自然の生産力の豊かさゆえに、縄文時代の日本の1㎢1人は人口密度的に言えば過密な地域という事である。

どちらの時代も豊かな日本の自然環境の中で、自然と融合した日本人が独特の暮らしを形成している。どちらもぎりぎりの暮らしを続けている、苦しい時代ではあるが、平和に、文化的な人間として生きている時代。災害に満ちた日本の自然。創意工夫の中で、次第に里山を形成してゆく、手入れの暮らしの成立。災害や気候変動による、人口の増減は大きかったようだが、世界史的に見れば、幸いな豊かな時代と考えることもできる。縄文時代で言えば産みだした土器や土偶に見られる造形的能力の高さに表れ要る。専業的な人でなければ作れないレベルの作品である。江戸時代の循環型社会はまれにみるち密さである。どちらの時代も、行き詰まりを見せる現代社会の暮らしの次の展開に、大いに参考になる。人間が何に向かう方向を探るときに、参考になる暮らし方である。

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川崎キャンピングカーショー

2016-09-28 04:53:01 | 暮らし

24日川崎競馬場でキャンピングカーの展示会があった。興味のある、軽トラに乗せられるキャンピングカ-が出るというので出かけた。キャンピングカーには、私の中の脱出願望が反映している。そういうテレビドラマがあった。今のこの場ではなく、どこかに行きたい願望。川崎競馬場というものは初めててみた。実に広いところだ。競馬はやっていない日なのに、大勢が馬券を買いに来ていた。巨大な画面があって、巨大でもまだ足りないほど大きなスクリーンがあった。どこかで開催されている競馬が映っている。広い場内をつんざくような音がしていた。いや音はなかったか。あったか。ともかく目がくらむような巨大スクリーンだ。結構鮮明な映像で、まるでその場にいるような気になる。広い競馬場の向こう側にある大スクリーンに映されているのを、多分400人くらいの人が反対側のスタンドから眺めている。不思議な光景である。その間の緑の芝生で、少しも影響されずに、関係なくキャンピングカーショーは開催されていた。

80台位のキャンピングカーがあった。そのうち10台位が軽自動車でそれだけを見て歩いた。狭い車内が絵を描くことに具合が良いかどうかである。以前はライトエースをアトリエにしていた。車内で50号が普通に描くことが出来た。こういう描き方は現場主義なのか。アトリエ制作なのか。出かけて行っても外を見ないで描いて居たこともある。今は、ワゴンタイプの軽自動車タントで描いて居る。案外この中でも描けるという事が分かってきた。中判全紙までしか描かなくなったからだ。農道の少し広いところに止めて描くという事がほとんどである。自分の耕している畑を描くという時でも、庭の畑を描くという時でも車の中から描く。車の外に出て描くことはまずない。描く場所が軽自動車でないと行けない場所もよくある。たいていは軽トラでなければ入れないような場所だ。日本の中山間地の農道はそうできている。すれ違い場所に車を止めて描いて居ても、一日一台もすれ違わないというようなことも多いい。

軽トラに乗せるタイプは、想像通り目立ち過ぎでダメだった。目立ち過ぎの車を農道に止めていたら反感を買いそうだ。車を止めたとたんに消毒を始める人がいる。居なくなると消毒を止めるのだから、明らかに迷惑だからどこかへ行けという合図なのだと自覚している。軽トラを止めているなら、まずこういうことはない。タントがぎりぎり許容範囲かと思われる。ところがタントにはいくつかの問題点がある。窓ガラスがスモークになって居て変えられない。天井までの距離が少し低い。それであれこれ探していると、どうもワゴンタイプではなく、商用車タイプのハイルーフというのであれば、窓ガラスが透明で、天井高も10センチは高い。その上後座席がベンチになっていて、折りたたむと薄い。それで床も低くなる。それで5センチは低いだろう。その結果空間はかなり広く感じる。これがキャンピングカーになった時どういう空間になるのかと確認したかった。

想像通りだった。やはりだいぶタントよりかなり描きやすいようだ。どの会社でもエブリのワゴンタイプを推奨していた。自動車としての性能が良いというのだ。音が静かとか、断熱性能が良いとか言われていた。絵を描くときに車は止まっているのだから、音はどうでもいい。断熱に関しては、自分なりに工夫が可能だと思う。見積もりをしてくれたのだが、私の希望のようなことを会社に頼むと70万円くらいのようだ。結構高いお思った。自分で作れば、たぶん3分の1はかからない。床も絵がかきやすいものにするには自分で作った方が良い。机などははるかに良いものが安く売られている。自作することにした。アトリエなのだから描きやすいように作るのは当然だろう。

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行政システムの無責任体制

2016-09-27 04:32:53 | 地域

豊洲市場の盛り土問題で行政のシステムに、管理機能や責任体制がないという事が表面化してきた。自分の家を建てるような気持ちとは程遠い。小田原市の行政の問題点を繰り返しここにも書いた。行政が関係することで本気になるのは止めようという気になっている。先日書いたのは、舟原の溜池の問題である。これも何度も書いたのが、生ごみ処理のことだ。里地里山のことでも、有機の里づくりでも行政がかかわる部分はどうも納得がいかないところがある。情熱がない。当事者意識がない。豊洲市場で分かってきたのは、豊洲市場にかかわる行政の関係者でも、担当の責任者までもが、最近まで建物の下に地下空洞があることは知らなかった人が結構いる。広報にかかわる人も知らなかった。関係者が実際の建物を見に行かない。つまり出来上がる建物に興味がない。自分の仕事の範囲を決めていて、それ以上ははみ出ないという事だろう。

以前小田原市の防災の関係者に、小田原で時間72ミリの新記録の大雨が降り、舟原でも何か所も崖崩れが起きたことがあった。防災課に状況の報告行ったのだが、誰一人現場を見回った人がいなかった。私は一市民であるが、新記録の大雨の後危うそうな個所はどうなったか、ついつい見て歩きたくなった。直接は自分の家とは関係のない場所でも、72ミリの雨でどうなるかに興味が湧いたからだ。防災課に勤務していながら、何故そういう現場で起こることに興味が持てないかに不思議だった。何故見ないでいられるのか、思わず驚いて聞いてみた。そんなことは仕事の範囲でないし、興味もない、その上忙しくてそんな時間がある訳もない。という主張だった。防災課はそんな仕事ではない。と強く主張していた。一体どういう仕事と認識しているのだろうか。今でも不思議である。危険個所の実際を自分の目で確認しないで、どうして防災が出来るのだろうと思ったが、何も言わないで帰ることにした。

豊洲市場で起きたことは、東京都の職員が豊洲市場に興味がなかったという事だろうい。豊洲に作る卸売市場の仕事は、めったにないほどの、100年に一度の面白い仕事のはずだ。範疇を決め、割り切ってかかわる人が優秀な東京都の職員。自分の好奇心や仕事の目的使命など持ってはならないのだ。市場の仕事は本気になれば実に興味深い。私も何度か見学したし、外国人も好奇心で大勢訪れる。日本の生鮮食品の流通を担ってきた場所である。世界的にも注目を浴びる、築地市場の移転である。この歴史を思えば、ここを革新し、現代の流通の核を作る訳だから、これほど興味深い仕事はないはずだ。築地の伝統的な業者の抵抗があり、すったもんだの中で、土壌汚染問題が登場した。当時の石原都知事はごみ処理問題でもめちゃめちゃの、最低の独裁者だった。理解もしていないのに言いたい放題だった。私は東京都とごみ裁判をしていたのでそれを痛感した。お頭がだめなので、子分が働かないのか。

卸売市場の意味など関心もない人たちが、行政の上部にいて、仕事として割り切って要領よくやったのだろう。だから現場から、流通と建物に関しても不満が続出する。権力闘争と、日本帝国だけに興味のある人が都知事なのだ。どうもそういう人が人気を博するのが日本人の悪いところだ。地道な行政的業務に無関心。元都知事葉が東京都は伏魔殿だなどとほざいているが、自分がすべての責任者であるという事を忘れている。多くの自治体で似たような傾向だろう。それを監視するはずの市町村議員が名誉と、権力と、お金に明け暮れているのだらから、ろくな結果にはならない。一応は、都議会議員というのもいたのだろう。共産党をはじめ全員が騙されていたわけだ。自らの責任は感じないし、恥ずかしいと思わないところが、議員というものの特徴である。政務調査費はこういうことに使うべきお金だ。人間の質が問われる。こうして、日本の社会全体が、使命を失い始めている。

 

 

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待機児童は無くならない

2016-09-26 04:51:17 | Peace Cafe

恐ろしい国になってしまったものである。保育園落ちた日本死ねと叫んだ人がいた。確かアベ総理大臣は参議院選挙前に2017年度までに40万人分の保育の受け皿を確保して『待機児童ゼロ』を目指すとしたはずだ。総理大臣が宣言しても待機児童は増えている。本当はやる気がないのか、無能なのかのどちらかである。まさか日本の政府が、待機児童を減らす能力がないとは思いたくない。そこまで無能であればもう日本政府に期待したところで無駄である。やはり、やる気がないと考えた方がまだましである。「保育園落ちた日本死ね」と言われて、反射的に待機児童を減らすと宣言してしまったに過ぎない。いつもの口先の参議院選挙対策だけのことだったのだろう。この口先だけというのが、アベ政権の特徴だ。アベは買いだ。アベノミックスに任せろとこれも世界中で宣言して歩いたが、結局のところ日本の経済は一向に良くならない。経済先進国の中では最悪である。理由はやる気がないのか、無能なのか。これに関しては能力を超えて無理だと思う。

アベノミクスで最も肝心なことは新しい産業の創出。第3の矢だ。これが全く出来ない。これは産業界の日本の実力であり、政府の方針のなさではなかろうか。すでに第3の矢は放たれたなどと、うわ言を叫んだことすらある。待機児童を減らすことは、女性活躍社会を作るには必須のことだ。当たり前すぎて、書くのもはばかれるほどである。官民挙げて保育園を作ればいいのだ。お金が莫大にかかるし、難しいことであるのは当たり前だ。しかし、それが日本を正す道だ。それこそ行政が能力を発揮すべき仕事だ。政府がやるべきは規制緩和だろう。民間がやるにしても民間がやる気になるような条件を政府が作り出さなければならない。保育園の事業に経済性さえあれば、そう難しいことではない。新産業の創出よりは簡単である。しかし、一向に進まない。場所がないとか住民が反対するとか、この程度のことで政府に乗り越える力がないはずがない。市町村の当事者がサボタージュしているのか、政府の政策が見当違いなのか。

ところでこの待機児童減少が出来ないアベ政権、経済もだめなアベ政権を国民は大いに支持している。その原因は電通方式のイメージ戦略の成功である。アベゆるキャラを筆頭にして、ただただ国民の支持を集めようという戦略である。フィリピンでも、アメリカでも、ロシアでも、末期的な政治の状況なのかもしれない。アベマリオを見た人が、そんなに東京オリンピックまで総理大臣でいたいのかと感想を述べていたが、なるほどそう見せるのはさすがにうまい。アベマリオの目的は、憲法を改正して戦争の可能な国ならねばならぬと思い詰めてた結果なのだ。情報操作がアベ政権の力量だ。経済が先進国中最も悪くなった国なのに、その自覚を国民が出来ないでいる。

1、保育士の資格があっても、保育士の仕事をしない人が増えている。給与待遇が悪いことが最大の原因であろう。

2、予算が足りない。これは公約したのだから優先して行う以外にない。「試算によれば、日々の運営だけでゼロ歳児1人につき1カ月35万円程度の経費がかかるといわれています。保育にかかる費用はゼロ歳児が格段に高く、それ以降は低くなり、4歳では1人あたり1カ月でだいたい8万円くらいになります。これに加えて、保育所を新設するには建物などの固定的な費用もかかります」と書かれていた。

3、保育所が不足するために、少子化が起きている。これはフランスでは克服されたとよく言われる側面だ。日本にできない原因は、こうした基礎的なことに力を入れる余裕がないからだろう。

4、女性活躍社会と言いながら、企業で活躍している女性が子育ての為に仕事を止めるとすればどれほどの社会的損失になるのだろうか。

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軽トラックアトリエ

2016-09-25 04:30:26 | 自給

軽トラックの上に乗るような最小限の家を作り生活するという事を、安曇野の白井さんが提唱している。最小限の家の移動バージョンである。以前から白井さんは発想豊かに、暮らしにかかわる面白いものを提案し、作り出してきた。興味がある人はシャルムに一度泊まりにゆくといい。暮らしの工夫とは何かを知ることができる。白井さんの元気をもらえるというところも、いいものだ。軽トラックは好きだ。その荷台に、絵を描くアトリエがあれば素晴らしい。車の上でほとんどの絵を描いて居る。車の中という空間が自分の制作に丁度いいのだ。好きになった畑の隅に車を止めて、畑を見ながら描く。外に出て描くと落ち着かない。車の中という閉鎖空間で描く。今はタントという軽自動車の中で描いて居るのだが、今乗っている軽トラがもう限界を迎えている。13万キロも乗ったのだ。そろそろ買い替えを考えている。そんなことを考えていたら、この際軽トラの荷台の上から絵を描いて見たくなった。少し高い位置から描くだけでずいぶん描きやすくなる。そして利用できる空間が広がるのだ。

軽自動車は高さ2メートルまでという決まりがある。しかし、荷物であれば、2、5メートルの高さまで許される。そして、車の長さの10%まではみ出てもいい。重さは350キロまでである。許されている荷物の一番大きな箱を、部屋にするという発想である。軽自動車であるにもかかわらず、その限界を超えた大きな部屋を作ることができるのだ。この荷物はボルトで止めるのであるが、取り外しも可能なものになる。シャルムの白井さんの作った車は木造である。木造だから自作しやすいが、それ故に重たい。強度的にも少し不安がある。プロの作る、軽トラ車載、ミステックのJ-cabinminiという箱がある。これはアルミで出来ている。9月24日25日に川崎のキャンピングフェアーで展示される。これは見に行ってみた。ただの箱だけでいいと思っているが、3方向に絵を描く透明な窓がないと困る。窓は2重のアクリルのようで透明性は低そうだ。この点で問題があった。

案外こういうところが難しい。先日車のスモークガラスを透明に変える費用を聞いたら、30万かかると言われてしまった。信じがたい価格である。箱の大きさは、幅が1、390㎝で高さが1、790㎝である。長さが1、900㎝。これだけの大きさがあれば十分絵は描ける。身長は170㎝だ。立って頭が当たらないところが良い。なかを絵を描きやすい雰囲気にしたい。内装に塗るガイナ塗料で断熱性能を高め、絵の描きやすい色にしたい。この箱は取り外しが可能で、日常は軽トラとして使う事も可能だ。絵を描きに行くのが多くなったら箱を取り付けるという感じになる。あるいは荷物を軽トラで運ばなければならない時になったら、箱を降ろすという感じだろうか。今の古い軽トラにまず載せてもらううという事は可能だろうか。いずれにしても絵を描くためにプラスになるなら、決断をしなくてはならない。

充電だけは出来るようにしたい。ソーラーパネルは家にあるのだから、ソーラーパネルから充電すれば、災害時の避難小屋になる。この車を安全な場所に駐車すれば、しばらくはしのげそうだ。災害避難用の荷物をある程度積んでおく。普段家で一番安全なところにこの車を止めておく。そしてソーラーパネルからの充電をいつでもできるようにしておく。この車には絵の描ける明るさのライトは付けたい。そうすれば暗い内から、暗くなっても絵を描くことができる。明け方とか、夕方描きたくなることがある。斜光がその実相を表すという事がある。しかし、手元が暗くてかけない。明かりがあればあと30分描けるかもしれない。それにしても軽トラキャンパーはど派手だ。顰蹙を買いそうな車だ。農道に止めて絵を描くのはちょっと無理かな。

 

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18回水彩人展始まる。

2016-09-24 04:13:43 | 水彩画

9月24日になった。水彩人展が明日始まる。朝から展示を行い、午後の2時から開場になる。14時からなので来場される方は注意してもらいたい。展覧会の準備で連日東京通いだった。年々疲れがたまる。全体を見ると、一般出品者の絵の水準が相当に高い。入選者の4人に1人は初出品の人であった。水彩人展をやってきて良かったと心から感じている。公募展にしてよかった。初出品者が誰かかかわりがある人なのかは分からない。水彩人を見て出してみようと考える人が多数存在するのかもしれない。真剣に絵を追求してみたいという人が、集まってきている感じがする。そうであれば嬉しい。現状の公募展の世界では逆の流れである。どの公募展もおおむね応募する人が減少している。特に初出品の人が減少していると聞いている。公募展が画家への道ではなくなった。絵はそれぞれの人で向かい合い方が違うので、ひとくくりに考えることは難しい。いわゆる公募展的な会場芸術とかいうものが少ない。自分の為の絵画の時代に入りつつある、という事なのだろうか。

  「欠ノ上田んぼ」中判全紙

出品作の批評は作品全部を会場に並べてから、時間をかけて書きたいと思う。まず私自身の絵のことを書いて見たい。今回3点の絵を出したが、少し自分に絵が近づいた気がする。自画自賛で恥ずかしいがそう思った。そういうことは他の人の絵と較べると分かる。額装している段階で、自分の絵になってきたのかもしれないと感じた。50年もひたすら絵を描いてきて、ここへきて少し自分の絵というものが見えてきた感じがする。もしそうであれば嬉しいことだ。2つの要因が考えられる。一つは水彩人を始めて、18年間が経った。そして水彩人の事務所を引き受けて、ひたすらやってきたことだ。もう一つは地場・旬・自給の暮らしがやっと板についてきて、里地里山風景を描くことにしたことだ。自分の暮らしが確立され、自分というものが見る景色が絵にできるようになったという事かもしれない。このことはよくよく考えてみなければならないことだ。今回の水彩人展の会場で、このことを何度でも考えようと思う。

  「庭の畑」中判全紙

自分と絵が近づいたように見え、そんな気持ちに成れるいう事は、今までなかったことだ。絵を作るという意識がかなり捨てることが出来た。良い絵を描くというような意識から、遠ざかった気がする。マチスや、ボナールや、中川一政や、須田剋太から、そして水彩人の仲間の絵から、離れることが出来たかもしれない。捨てよう捨てようという内は、なかなか捨てられなかった。日々のやっていることだけを考えるように田んぼや畑の絵を描いている。いつの間にか、自分が学習してきた絵というものから、少し離れられたようだ。もし本当にそうであれば嬉しい。もちろんそれは良い絵になったというようなことではない。そんなことはどうでもいいと思っている。自分が耕作をしている。そしてその畑や田んぼを見て、とても大切だと思う。日本の田んぼや畑に向かい合う実感を絵に描き止めたいという事に尽きる。そんなことはこのブログを書き始めた頃も同じだったと思うのだが、やっと、その思いと絵が近づいてくれたとしたら、嬉しい。

   「葛窪の畑」中判全紙

このままもう少しやってみようと思う。あと何年もやれないという事は理解している。しかし、67歳になって、わずかとはいえ自分に肉薄できたという感触を貰えた。このまま、自分のやっている里山の暮らしに少しでも迫りたいと思う。田んぼをやるときには絵を描くように。絵を描くときには畑を耕すように。良い絵を描こうなどと決して思わないように。馬鹿な奴だと思われたままでいい。この点では賢治風に。世間に無視されることを覚悟する。運が良く、何とかあと10年やれればと思う。50歳で生まれた時与えられたなにかは限界に達すると考えてきた。37歳の時に通いの開墾生活に入り、39歳の時に山北の山の中に移り開墾生活を始めた。30年である。50歳の時に絵描きを諦め、生前葬としての個展を行った。以来、作品は水彩人にだけ出すことにした。自分に見えている世界を何とか画面にしたいと描いてきた。この見えるには、段階があるようだ。絵にできるように見えるというのは大変なことのようだ。水彩人の事務所も今年で終わる。自分なりの世間的な役割を終わりにする。あとは自分の命が、やりたいことだけをやらしてもらうようにしたい。

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お金のいらない島

2016-09-23 04:35:41 | 暮らし

お金のいらない島を作る話が出ていた。若い人が思い立ってやっているようだ。人口70人の出羽島という美しい夢が湧いて来る島の話だ。過疎になってゆく島で、都会から来て暮らす人を募集している。若い頃なら行ってみようと考えたかもしれない。私は東京近郊の20万都市小田原で、どのようにお金の要らない暮らしができるかを模索してきた。一番暮らしやすいのがこういうところだと考えた。似ているように思うし、全く違うようにも思う。出羽島は半農半Xに近い発想らしい。お金のいらない島は新井さんという方が昨年の5月に書かれている。整理されて書かれているのでわかりやすい。その後一年3か月たってどうなっただろうかと思う。この島にも昔は田んぼがあったようだ。その田んぼを再生してみたい。田んぼを作るという事はその島の自然を丸ごと理解しなければ不可能なことだ。たぶん江戸時代にはあったであろう田んぼは、当時の住民の知恵の結晶であったはずだ。再現してみればそのことに繋がるはずだ。そういう事が面白いと私は思ってしまうが、ちょっと違うようだ。

自然界そのものが「贈与」で成り立っていることに気づく。太陽は何の見返りも求めずに光を注ぎ続ける。自然の摂理は(等価交換ではない)贈与交換の原理で成り立っていて、すべてが循環するように上手いこと出来ている。ーーー新井由己

この発想は私にはないものでとても新鮮な感じがする。自然の中で自給自足で暮らしてきたが、自然は厳しいばかりでなかなか余裕を与えてはくれなかった。自然は難解だ。自然は与えてくれるどころかすべてを奪う。と思うかもしれない。それは皮肉や批判ではなく、自然というものは暮らしのすべてを支配している、畏れに満ちている。自然の中にやっとこさっと自分を織り込ませて、つつがなくやるのが精いっぱいの所だ。またそれがそぎ落とされていい。台風が来れば小田原だけには来ないでくれと、虫の良い祈りが暮らしだ。暑ければ暑すぎると嘆き、寒ければ凍り付いてタマネギがだめになると嘆く。要するにデクノボウでオロオロするばかりだ。自然の中でゆったりと暮らすというより、自然に痛めつけられ取り残され、置き去りにされ呆然と暮らしている。自給自足には余裕はない。常に草に負けている暮らしだ。その余裕のないぎりぎりの暮らしであるから、自分というものにたどり着けるような気がしている。

それだからこそ、自然に向かい合うという事は素晴らしいことだ。人間同士の協力が不可欠だという事に気づくことができる。自分が生きるという事は、どれだけ多くの人の助けによって生きているかという事に気づく。過去の蓄積された知恵の大きさにどれほど感謝することになるか。自分の小ささを痛切に感じるはずだ。そして、どのように自然の中に自分を織り込んで生きるのかと考えることになる。昔ヒッピーと呼ばれる人たちがいて、自然の中に入り自由な暮らしをしようとした人たちがいた。私と同世代であるから、今その人たちが老人になっている。知り合いにも何人かいる。今もそういう暮らしを続けているという事は、50年もやり抜いた人達だ。ぜひ、お金のいらない島に行く前に訪ねてみることではなかろうか。

私は高校生の頃僧侶を目指した。名古屋の有名な禅僧が大工の手伝いをしていた話に興味を持った。みんなに尊敬を集めていた人が、ある時お寺からいなくなった。何年かしたときに誰かが、名古屋で大工の手伝いをしていた人がそっくりだというので見つけ出す。何故、お寺を離れたのかとお聞きしたら、何処にいても何をしていても同じになった。と言ったという話である。仙人にならずに、もう一度街に出るという発想に魅かれた。私も山北の山中で13年開墾生活をした。そして小田原に出て15年だ。そういう選択をしたのは、名古屋の坊さんの話が頭にあったのかもしれない。ヒッピーの時代は地方は排他的だった。今は入植者歓迎の素晴らしい時代だ。ぜひ、自然の中にぶつかっていってもらいたいものだ。その体験は街に戻った時にも無駄にはならないだろう。

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小農の使命

2016-09-22 03:59:19 | 自給

農文協の出している季刊誌に「地域」というものがある。なかなか骨のある雑誌なのだが、26号は「小農の使命」という特集である。小農に使命をつけた為に言葉に力が出ている。自給農とか自給的農業ではなく、小農と使うところが、なかなか思想を感じさせる。自分にはどんな使命があるのかと考えて読んだ。私が使う、地場・旬・自給の自給農という言葉は、農水省の使う自給的農業という位置づけとは違うものだ。言葉は似ているが、その趣旨は相当に違う。自給的農家というのは官僚によって仕方なく付けられた枠組みである。農水省の対象とする正式農家は販売農家である。あるというよりそうであった。ところが、販売農家が減少が著しい。そこで自給用野菜ぐらいしか作らない農家も、農水省の枠の中に位置づけようと、自給農業という矛盾した言葉で枠を作ったのだ。官僚の知恵である。自給的農業は内容的には環境省あるいは厚生省、国土交通省、あるいは地方創生の枠のものだ。

自給的農業というのは産業的には存在しないおかしな言い方である。作ることは作るが、販売しないのだから、業としては存在しないものである。しかし、数的には一番多いいのが自給的農家になってしまった。これを外してしまえば、農水省が成り立たない。どれほど小さくとも江戸時代であれば、農業を行う事が産業であった。上納の稲作に於いてはその仕組みは徹底され、自分がお米を食べれないでも年貢を納めるしかなかった。純粋な自給農は産業ではない。産業ではないが日本の国土、文化、地方社会を守る重要な役割を担っている。それを使命というのだろう。集落というものを考えた時、大半の人が勤め人になったでも、一部の農業を継続する人はにとって貴重な人材になっている。農業が全く無くなれば、地域そのものが消滅する。税金の取れる住宅地であれば、行政の手も及んでいるが、中山間地ので農業が無くなれば、忽ち地域が成立しなくなる。

「小農の使命」といえば、地域の維持である。農業の人は大小を問わず、村祭りの準備となれば草刈機持参で参加する。水路掃除、川掃除でも、老人が大半を占める中で、軽トラックを準備して、作業の中心を担っているのが農業をやっている人だろう。の作業は農業者でなければこなせないような仕事が多いいものだ。地域の維持にはなくてはならない存在が小農である。ところが農水省としてはこの自給的農家というものを、今後の農業の展望に入れられない。生産物がないのだから、産業としての展望もない。産業でないものは、お金を生み出さないものは軽視されるのが今の日本社会である。消滅の危機にある中山間地の村に、そして離島に新しく来る若者と言えば、自給的新規就農者である。この新規就農者の存在が地方社会を維持、再生できるかに影響してくるに違いない。村も新しくならざる得ないだろうし、新規就農者にもそれだけの地域貢献が期待され使命にある。たぶんそういう自覚はないだろうが。その自覚を持った時に新規就農者は社会的な力を持つことになる。

ただ、私としては小農という言葉は少し嫌いだ。小さいながらも農業者であり、営農者であるという誇りを含んでいるのだろう。大規模農業もさらに私は嫌いだが、日本の食糧生産の役割が大規模農業に高まるのは現実である。大規模機械化農業と対立する枠組みとして、「小農」より「自給農」の方が意味も明確でふさわしいと考えている。使命などと大上段に言われたら、新規就農者は尻込みしてしまう。自給農とは基本は自分の食べるものを生産する人のことだ。いわば趣味の農業者のことだ。あえて趣味だと言いたい。趣味だから、使命は負っていない。生産費が要らない。それでいて自力で国土を守っている結果になる。自給の食べ物であれば一日1時間の負担で作ることができる。あとは普通に働くことが可能な暮らしの体制である。将来の日本の農業では、大規模の農業企業と、自給農だけが残ることになる。

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津軽金山焼の皿

2016-09-21 04:05:41 | 暮らし

 金山寺焼きの中皿と小皿。中皿がカレー皿ぐらいか。

たまたまヤフーオークションで金山焼きの器を見つけて購入した。備前焼というジャンルに入るように、出品されていた。なかなかの味がある焼き物ではないか。土が面白い。青森の五所川原の焼き物だ。素朴であり、素人作りのような様子をしながら、頑固な焼き物だ。1985年に松宮亮二サンという方が始められた新しい焼き物という事である。伝統的なものではない。素焼き(須恵器)で高温で焼く焼き物が好きだ。釉薬を使わない古い手法の焼き物だが、硬く焼しめられているので簡単には割れない。高温で長時間の焼成に耐える土であるかどうか。薪窯で高温で焼くと、変形もする。色合いも多様に表れる。灰をかぶる姿もさまざまである。人為を超えた良さがでる。あざとい人間の仕業など知れていると思わせる。にせもの備前のいやらしいこと。素焼きは購入した段階では、まだ出来上がりは分からない。使い込んでゆく過程で味わいが出てくるのかどうか、このあたりが素焼きの食器の楽しみである。この6点もどう変わるのかとても興味がある。変化してゆくか手で自分の暮らしが器の味を作り出している感じがする。使い込むほどに自分の器という気になれるところが良い。

これは朝食の並べてみたところである。備前焼の茶碗にご飯。このご飯じゃわんは素晴らしい出来のものだ。コーヒーの器は備前焼。あとは金山焼きである。

五所川原金山の大溜池の底に堆積していた良質の粘土を使うという事だ。どういう溜池なのか不思議な場所があるものだ、実に素晴らしい土だ。登り窯で1350度の高温で焼成する。松を使うというから、よほど贅沢な焼き物だ。備前焼とほぼ同じ構造の窯での制作方法のようだ。備前とはだいぶ土の様子は違う。備前は古い地層で、田んぼの下などにある土のようだ。同じ備前でもずいぶん土の違いがあり、この土の違いを理解できないと焼成は出来ない。そのためか備前には素人は居ない。一子相伝が普通らしい。食事は朝と昼の2食だ。基本はお腹が空かなければ食べないのだが、朝昼はたいてい空腹を感じて食べる。夜はお腹が空いて居れば食べるのだが、おなかが空いた感じには今はならない。こういう習慣が10年以上続いているから、慣れてしまったのだろう。お腹が空かなければ食べる必要がないと考えて、いたらあんがい夜はお腹が空かないという事に気づき、だんだん食べなくなった。と言っても健全な食事の習慣というようなものではなく、夜は飲むので食べないという感心しないものである。この写真は朝ごはんである。器は備前焼と、金山焼の物である。

こっちは食べていたら、野菜サラダが加わったので食べかけで写真を撮った。ずいぶん食べるようだが、朝食が一番食べる。右下がお赤飯のように見えるのは、石垣島の黒米を混ぜているからだ。スプーンのある白いものは、黒バナナにヨーグルトをかけたデザートである。上にパラパラ載っているのは木の実である。漬物2種とコーヒーとカシスジュース。今、オクラが採れているので、オクラを食べているが、このオクラは自家採取した品種だ。肉厚のとてもおいしいものだ。何というのか知らないが、何年か作っている。魚はホッケである。各ご飯に大抵は魚を食べる。肉を食べることは数少ない。野菜だけの時もよくある。器の色の変化を楽しみながら、食事をしている。食べ終わった器をしばらく見ている。良い土、良い焼き上がりの物は、毎日色が良くなってゆく。何か器の制作に参加しているような気分になれる。

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水彩人の搬入日

2016-09-20 04:48:40 | 水彩画

ついに水彩人の搬入日である。東京都美術館に9時30分には行かなければならない。9時20分くらいには入れてくれるので、上野駅には9時10分には絶対に行かなければならない。家は7時にでた。まあ、東京に通っている人は、毎日こういう状態なのだろう。私は事務担当なので、絶対に遅れることは出来ない日だ。電車に何かないかドキドキしていた。都美術館の事務所に一番に書類を出さなければならない。朝の仕事の準備もあれこれあるので実にあわただしい。これも今年限りのことだ。今年これをやりければ、後は次の人にお願いする。5時までで仕事は終わらないだろう。発送などいろいろやり残した仕事は、京橋の区民館に移って行う予定だ。いずれにしても雨である。雨の日に搬入となるととても困難だ。それで出品を取りやめる人もかなり出ると予想される。毎年台風シーズンになるので仕方のないことでもある。

小雨の中の搬入になった。一般の人は83名の入選になった。入選者は水彩人のホームページに掲載した。方向が定まってきている。水彩人の水彩画という意味が伝わってきている気がする。残念ながら、一部に何故水彩人にこの絵を出したのだろうというものもない訳ではない。水彩人展を見たことがないまま出品したのではないかと思われる。絵の考え方、絵を描く意図が違うのだ。良いとか悪いとかの水準で展示作品を決めている訳ではない。水彩人でこれからともに水彩画を研究して行く仲間を見つけている。もちろん同人19名の考えも少しづつ違う。水彩という素材を使い、水彩画の持つ可能性を探ろうと、世界を切り開いて行こうとする志を持っている。この点では互いに厳しい批評を重ねてきたつもりだ。互いの作家としての根底にある探求心が本気で批評をし合える仲間を作り出したのだと思う。それぞれが制作を続けるうえで描け画内のない場になっているし、又さらに進めようとしている。

搬入は例年業者搬入が半分で、後は個人搬入である。短い時間のなかで、間違いなく受付業務を処理しなければならない。皆さんもう慣れてきたので、全体の流れはとてもスムースにすすんだ。午後からの審査は、かなり大変であった。審査員は20名である。今回は会員も2名入ってもらった。最初に松波審査責任者から今年のやり方が提案された。これがまた複雑で、言葉だけではよく分からなかった。そこで、ともかく実際にやってみてどうなるかを確認しようとなり、試験的にやってみて、いくつか修正を加え、進んだ。108名の出品者が居て、その中から83名を選ばせてもらった。私も自分が絵を描いて居るような気持で、制作した人の気持ちになって、その心を探るような気持で見させてもらった。その人間がいる絵を良しとした。是非とも飾りたい絵には2点。水彩人としての可能性が高い人が1点。そして、水彩人とは違うと思われる人が、0点。の3段階評価の初めての試みだった。

水彩人展は公募展である。そして水彩画を探求するための研究会でもある。水彩人には審査がある。審査は水彩人の水彩画の方角に見合う作品を選び出すためのものだ。展示されない人は残念であろうし、また腹立たしいことだろう。水彩人は自分たちの絵の方向を求めて日々研鑽している。方向の違う絵の方向の人と研究することができない。当然展示できない作品も多数存在する。それは、同人であろうと、会員であろうと、一般であろうと何も変わらない。水彩人の模索する方角を探ろうとしている。それがグループ展を公募展に変えた、一つの目的であった。その意味を理解し合える仲間が徐々に増えて、会員が30名となった。そして18回展を迎え事務所としての笹村の役割もほぼ果たせたと思っている。今回コンピュター化を平澤さんが成し遂げてくれた。このことは将来の水彩人にとってとても大切なことになる。私はこれからは水彩画の研究に力を集中してゆくつもりだ。

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タマネギの播種

2016-09-19 04:01:39 | 自給

苗床を作っているところ

水彩人展の準備で農作業はしばらくしていない。田んぼの水回りだけは続けているが、今週中には水を切る。台風が来るらしいがどうにもならない。タマネギの播種は9月半ばすぎという事で、18日に決めた。タマネギの会でみんなでやるので、何とかなるのではないかということで期待している。苗土は、8月初めに仕込んだ。山土とソバカスを混ぜて、発酵させてい置いた。透明のビニールで被せて、草の種を死滅させるという事もやってみた。9月4日には土を振るい直して、苗床その後は雨ざらしにしておいたが、草はさすがにそれほどは生えていない。種は半分はトレーに蒔くことになったので、トレーが24枚土を入れて準備してあったが、12枚で足りた。18日に燻炭を混ぜてから、種まきをした。2ヵ月ぐらいの育苗かと考えている。苗床とトレーの育苗がどのように違うのか、また、トレーは12人が持ち帰るので、どいう環境で、どのように育て方の苗が良くなったのか。参考にしたいと考えている。

線を引いてそこに播種してゆく

水彩人展のために9月19日の搬入から10月2日の閉展まで東京に通勤するような状態になる。その後稲刈りで忙しくなる。通勤しながら、他の農作業に追われる中でも、タマネギの苗作りが可能なのかどうか、興味あるところだ。自分一人では例年失敗している。あわただしすぎる時期なのだ。こんな状況で一人でやっていると、ついタマネギ苗を作っていることを忘れている。買えばいいやという気持ちにもなる。その結果よい苗が出来たことがない。結局、少しの貧弱な自分の苗と、購入した大量の苗とを並べて植えるのだが、自分の作った苗は良くなったことがない。タマネギ苗は小さくてもいいと言う人がいたが、私の場合、買ってきた大きい苗の方が明らかに良くなる。小さな自分の作った苗は霜などで、痛めつけられ方がひどいようだ。消えてしまう事もよくある。今年は黒マルチを使おうという事になっているが、果たしてどういう結果になるだろうか。

苗箱に線を引いてひと箱に300づつ蒔いてゆく。

苗箱は最初ひと箱150粒で2箱必要という話もあったが、やり始めてみたら、4センチ間隔に10本の線を引いて、1センチ間隔に種を蒔いて30粒蒔けた。それで300粒である。それで土を入れた苗箱が余ったので持ち帰ってもらい、野菜苗作りに使ってもらう事になった。苗箱に種を蒔き終わった。ひと箱だけ早生の種まきをする。水やりを試しにしてみたが、しばらくは雨続きのようなので、苗床は土を敲いて少し固めて置いた。雨で簡単に流されても困る。2箱を家の玄関の脇に置いた。1週間で発芽するというから毎日が楽しみだ。水やりの程度が心配なのだが、これから雨が続くので、水やりはいらなそうだ。むしろ台風の時取り込む用かもしれない。

 

上がネオアース300播種。下が極早生の播種。

みんなで作業するというのは楽しい。それぞれの足りないところを補い合える。全部の種を蒔き終わってまだ2メートルほど場所が余った。そこにもう一度、種を蒔いておくことにした。20日か、24日には少し時間があるので、タイミングを見てもう少しネオアースの種を蒔きたい。ついでだからケールとブロッコリーの種も買ってきて、余った苗箱に蒔いておこう。作業中もそれぞれの体験がいろいろ出た。聞いていて参考になるところがある。やはり大勢でやってみるというのは悪くない。今後予定は2か月後に苗を植え付け。れまでに草取りがあるかもしれない。(予測ではないと考えている。)舟原田んぼ下のタマネギ畑の準備が11月13日となる。大豆が植えられているので、片づけてすぐ畑の準備となるとこの日か。良く発酵した鶏糞を笹村の鶏小屋で準備して、畑に入れて、トラックターで耕運す。その後、黒マルチを敷く。11月23日雨でなければ苗の植え付けを行う予定。予備日が27日。

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はしかの流行

2016-09-18 04:01:46 | 暮らし

はしかの流行が世間を騒がせている。理由は、はしかのワクチン接種が1978年に始まって40年たったからだ。それまではワクチンなぞないから、自然に感染し、回復した人は2度と感染しない強力な自然免疫を獲得した。しかし、はしかに感染して重症化した人も存在したのかもしれないが。はしかは、一種の通過儀礼で、子供たちの間ではまだお前はかかっていないのかと言われるようなものだった。私もかかったようだが、さしたる症状すら出なかった。大人になってかかると重症化するとも言われていた。ところがはしかワクチンというものが登場した。自然免疫ではなく、人口免疫をつけようという事だ。この人口免疫はアメリカで出来たもののようだ。日本のはしかウイルスには自然免疫ほど強力でないという弱点があるのかもしれない。日本ではワクチンを接種しない人も多数存在するという事になった。こうなると、大人になってはしかにかかり、重症化するという人が現れる可能性が出てきた。さらに、妊婦が感染すると、胎児に影響が出るという昔はなかった問題が出てきた。

ワクチンで病気を解決する方法は、病気を克服したわけでないのだ。ワクチンはウイルスを弱毒化して、感染はするが発病はしないものに変えたものだ。ワクチンには完ぺきという事はない。100世代も繰り返し増殖させながら、弱毒化したウイルス株を探しあてるらしい。ある意味ワクチンは一時しのぎなのだ。ワクチンをしてはいたが、その免疫力を超えたはしかの感染が起こる可能性は常に残る。アメリカのようにはしかを克服した国に、また日本からのタイプの違うウイルスが持ち込まれるという事もある。日本のようにワクチンをしないでいる人たちが大量に存在すれば、大流行に繋がる。ワクチンを使うとすれば世界中が一斉に、徹底した接種が必要なのだ。一方にワクチン市場という経済が存在する。いまや医療は何兆円の産業である。国の経済にもつながってくる。消費を活発化するために、ワクチンの接種をあらゆる病気で行おうという、思惑もないとは言えない。

私は鳥インフルエンザでワクチン問題に直面した。鳥インフルエンザではワクチンを使ってはならないという事になっている。ところがメキシコや中国ではワクチンを使ってもよいことになっている。そもそも、鶏を工場の中のような閉鎖空間で飼うのに、ワクチンがいるはずもないのだが、この閉鎖空間は劣悪な環境で、常に病気とぎりぎりに戦っている。つまり消毒、薬剤、ワクチン、で何とか病気を抑えている。もし鳥インフルエンザが入ったら、何万羽が淘汰になる。違法であろうとワクチンで抑えようという人が現れたこともあった。その違法ワクチンでの中途半端な免疫を持った鶏が、感染を広げて行く結果になった。つまり、一切の野鳥を含めた鳥にワクチンを打てるなら別だが、それができない以上、ワクチンによる予防には限界がある。しかし、この鳥インフルエンザを、イメージ戦略で人間のインフルエンザのワクチンに製薬会社は連動させた。そして今や、人間のインフルエンザもワクチン予防が当たり前になった。

はしかワクチン接種をすることは、人道上の問題とまで言われている。妊婦への配慮である。しかし、人間への100%の接種などない。海外からの渡航者も多数存在する。ワクチンというものの限界を知ることだ。ワクチンは中途半端はダメだ。世界中でワクチン接種が行われるよう努力する必要がある。当面の対策としては、病気に対してそれぞれがどう対したらよいかを考えるべきだ。日本のように中途半端になってしまった現状を考えれば、若い人ははしかワクチンを打たざる得ないだろう。そして、自分の身体を健康にすることだ。運動をし、良い食事をとり、過食をしない。発酵食品を十分に取り入れ、腸内フローラを健全に保つことだ。免疫力を高めるという事はワクチンだけではない。鳥インフルエンザの茨城の流行地域でも、工場養鶏では感染が広がり、その真っただ中の自然養鶏の養鶏場には発病がなかったのだ。

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蓮舫議員の二重国籍

2016-09-17 04:48:46 | Peace Cafe

蓮舫議員が民進党の新しい代表に選ばれた。総理大臣を目指すとしている。高く評価していた議員である。以前から何度か、蓮舫氏の国会質問の優れていることを書いた。他の議員にも蓮舫氏の論理的な追及の仕方を学んでもらたいと思っている。今回民進党代表選挙に出るにあたり、2重国籍ではないかという疑念が出てきた。まさかと思っていたが、何と本当のことであった。これは国会議員として問題があることだ。法律違反である。人に厳しいものはまず自分に厳しくなければならない。特に国会議員は国民の代表であり、権力を有するものである。2重国籍であることをうっかり忘れていたでは済まないことである。日本人であるという事は日本国籍を有するものである。同時に台湾人であるという事は、台湾の国籍を有する人のことである。二重国籍であるという事は、いつでもどちらかの国の人間となりうる都合のよい立場である。それは日本国にとっては、不安定なところに位置する人間である。そのような立場の人が国会議員になるのはおかしなことだ。

蓮舫氏が日本の国会議員になろうと考えた時に、確認し、台湾の国籍を破棄しなければならなかった。国家と移民の問題には関心がある。特に、日本から中南米への移民。そして満州への移民。日本の明治政府の帝国主義と疲弊した農村の状態。その結果起きた棄民政策とも取れる移民の奨励。移民した日本人のその後の暮らしのことを一言では語り切れないものがある。日本の国家主義の本質を考えるうえで、重要な問題だと考えている。帝国主義国家が国というものを重視しながら、国民というものをないがしろにする現実が移民政策には現れている。中国人は世界中に出て働いている。国を出て、商売をして、故郷の一族に貢献する。特に台湾、韓国、には最近植民地であったという歴史もあり、日本への帰化問題はそう簡単に考えない方が良い。また、当人が簡単に考えていたはずもない。もし、本当に国籍問題を忘れていたとするならば、そのような自分の出自に意識が働かないようであればそれはそれで問題だと思う。

私は左翼的国家主義者なのではないかと自己認識している。国というものが一つの暮らしの単位として、市町村が重視されなければならないと考えている。その統括としての国家とは、国民主権の国家のことである。立憲主義の国家のことである。国会議員とはその民主主義国家を、国民の代表として運営を担うものだ。日本という国の方角を誰より考えなければならない。そうあってほしいと思う。日本国という単位を真剣に考えてもらいたいのだ。その意味では安倍一族は考えは違うが評価できる。企業が国を超えて活動している。日本国の国益と、企業の利益が必ずしも一致しない。企業と国家の関係は今後の世界にとって重要な要素になるだろう。私は、日本の企業は日本国の為に活動する企業のことだと考えている。企業の利益の為であれば、タックスヘブンを利用するような企業は、日本の企業とは思わない。国の枠が企業によって壊されようとしている。

蓮舫氏が二重国籍者であった以上一度国会議員を止めるべきだ。そして、日本国籍になってからもう一度国会議員になるほかない。このままでは民進党は終わる。日本がどこへ行くかを考えるときに国家とは何か、国の枠とは何かを真剣に考える必要がある。アベ政権は外国人労働者を受け入れようと考えている。企業の要望である。また経済優先の発想である。日本の社会をどんな社会にすべきなのかを議論しないうちに、労働力を海外から安易に導入することはあってはならない。日本が日本であることを探り続けることこそ、日本が世界に貢献できることである。江戸時代日本が構築した循環型社会は、世界の唯一存続可能な形である。鎖国という形で閉じた中で探り当てたものである。いま日本が閉じろという事ではないが、日本というものの本質に向おうとしなければ、日本の存在価値も失われると感じている。それは国というだけでなく、自分個人が生きる中で感じていることだ。

 

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マレットを作る

2016-09-16 04:20:46 | 楽器

ギャラリーの下に、楽器やマレットを置いてある。

木鼓を作っていると、それを敲くばちが必要になる。手で敲くことが演奏としては面白いと思っている。ただ良い音を鳴らすだけのためには、良いばちがある方が良い。タングドラムのばちをマレットというらしい。材質は、木の玉の物。ゴム製の玉の物。毛糸の玉の物とある。どれも比較的簡単に作ることが出来る。木の場合は丸い球を作り、持ち手の棒と繋げばいい。木の場合は音が硬く出る。甲高くともいえる。特に黒檀の玉で作ると金属で敲いているような音になる。私はあまり好きではない。ゴム製の音が一番柔らかい。音のニュアンスも出やすく、手で敲く音に近い。マレットで敲く場合一番使いやすいと思う。ゴム製のボールはスーパーボールを使っている。あの良く弾むゴム玉である。32ミリか38ミリくらいのものが使いやすいようだ。出来た楽器の音の響きの確認はゴム製のマレットでしている。小さい10ミリくらいの物で作ると雨音のような面白い音になる。

小さい方が32ミリ、大きい方が50ミリ。持ちては竹で菜箸。

38ミリのスーパーボール。持ち手はドラムのステック。

一番音の良いのは毛糸である。毛糸を硬く巻き付けて玉を作れば硬めのマレットになる。毛糸の巻き方で音の違いが出る。売られているものは立て巻きになっていて独特である。芯にゴムがありその上を毛糸で蒔いてあるらしい。私はただ棒の先にぐるぐる巻くだけである。丁度良い感じに巻くことは案外に難しい。木に近い硬質な音になる。野球の硬球の芯が毛糸を巻いてあるという事がよく分かる。全力で巻けば金属に近い感触である。緩くソフトに巻くのも面白い深みのある音が出る。自分の好みの巻き型にする方が良いので自作すべきものだろう。これが案外に巻き方が難しい。売られている物は複雑な巻き型をしてあるが、自分でやる場合は最初に接着剤をつけておいて、ぐるぐる単純に巻く。ほどけやすいものだが、ダメになったらやり直すことにしている。毛糸の太さも案外に影響するようだが、中太ぐらいなら軽く巻くのが良いようだ。極太や太を思いっきり強く巻くというのもいい。自分の好みの音を探すという事になる。

ステックに毛糸を巻いたもの。

握りは木の棒と書いたが、実は竹で作る。竹藪から竹を切り出すのでなく、100円ショップで、竹製の菜箸を買ってきて利用する。一番太い長いものがちょうどよい。今度ドラムのステックを使ってみようかと思って、ネットで1本100円くらいのものをまとめて購入した。ヒッコリーが良いもののようである。なぜこんなに安いのか不思議だ。ステックの先にある木の玉が毛糸を巻く際に役立つ気がするのだ。もちろん敲く際の手触りや握りの太さも良いかもしれない。木の玉は轆轤で作るのだろうが、高校生の時にステックを自作したことを思い出した。やはり子供の頃から太鼓を敲くのは好きだったようだ。出来れば紡錘形というか、ラクビ―ボール型が良い。わざわざ木で作る場合は堅木の方が木の特徴が出る。柔らかな木ではシャキットした音にならないような気がする。以前、インドネシアの木琴を購入したら、先は栗のようなとがったマレットだった。ハンマー型のたたき棒も作ってみたが、これなどは音の試験には、便利なものだ。

堅木を栗のような形に削り出した、インドネシアのマレット。金属的な面白い音が出る。

ゴムの場合はスーパーボールを使うと音が良い。ゴムの反発力が強いことがが音の良さに表れている。竹の太さに合わせて穴をあけるのだが、結構割れてしまう。制作するときの穴の大きさとばち棒の太さのバランスが重要。穴はドリルで簡単に開くのだが、接着が難しい。38ミリ以上の玉であれば割合とれない。100円ショップの菜箸を使う場合は8,5ミリ穴くらいが良いようだ。それでも接着部分が取れやすい。ボールの大きさと音の感じは連動していて、何ミリの玉にするかで音がかなり違ってくる。最近やっとマレットで敲くニュアンスがあるという事が分かった。今度、みんなで敲いた時にいろいろ持って行って意見を聞いてみようと思う。鳥のさえずりのような演奏をするには小さな球で軽く敲くとおもしろい。大きな45ミリ玉消を使うとかなり重厚な音になり、深い音を出すことができる。いずれにしても消耗品と思って作るしかない。

 

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