コロナが相変わらず猛威を振るっている。再度の蔓延が拡大しそうなときに政府の非常事態は終わった。この後は国民の非常事態であろう。必ず又患者が増え、死亡者が増えることだろう。政府はコロナ対策の核心をつかめないでいる。何故コロナ対策ができないかと言えば、経済との兼ね合いの迷いである。
中国が思い切った封じ込めで成功した。外出禁止を銃を突きつけて実行したのだ。日本ではそんなことは出来るわけもない。それだけの政府に行動力も実力もない。人権無視の悪いことだから出来ないわけではない。やりたくてもやる力がない。力がないと言うことにも良い点がある。もちろん中国以外にそんなことの出来る国はめったにないだろう。
そんな無謀が出来る国は暮らしにくい国で嫌な国に違いない。しかし、桁外れの行動力のある国だから、これからの競走には強いに違いない。嫌な国の方が競争に勝つというのは情けないことだが、当面の中国の勢いに勝る国はないだろう。日本は踏ん張ってこらえているところだ。
私の考える外出禁止はスーパーコンピュターの予測である。コロナ対策は老人の外出禁止で解決する。一年前から繰返しそう書いてきた。しかし、日本政府にはそれが出来ない。他にも出来る国がない。出来ない理由を想像するに、老人が政治家に多いためだろう。70才以上が外出禁止では政治が成り立たない。
まあそれは冗談のようなものではあるが。70以上が政治から引退してくれれば、日本の政治ももう少しは良くなるだろう。歳をとったならば後は若い人に任せろと言うことだ。コロナはそういう当たり前のことを人間に諭しているのではないだろうか。コロナで人間が気付くべき事は沢山ある。
老人の外出禁止が過激だとすれば、老人の外食禁止。観劇、スポーツ観戦、などの大勢の人の集まるところへの出入り禁止。カラオケ禁止。旅行禁止。公共交通機関への乗車禁止。後の若い人は老人に接触するとき以外は自由にやって貰えばいい。
老人が外出しなくなれば、経済への影響は確かにあるだろうが、老人は家で買い物をして貰えば良い。ネットショッピングでは老人に優遇の補助を出す。配達は無料。老人は出歩かないでも買い物天国である。
何度書いても空しいわけだが、コロナ対策が無いわけではないと言うことは明確に書いておきたい。当たり前だが、感染症の専門家や政治家が私より頭が悪いわけがない。老人の外出禁止ぐらい、あるいはもう少し控えめの老人外食禁止など考えないわけが無い。
ところが出来ない。頭が良すぎてやれないのだろう。中国政府はもっとひどい人権差別をやることで、コロナを抑えた。たぶん中国政府は頭が悪いのだろう。嫌そう言うことでもない。嫌われる決断力があるのだろう。まともな選挙がないと言うことである。
何故政府が出来ないか。又野党からもそういう声が出ないのか。選挙が怖いからだ。老人には選挙に行く人が若者の倍もいる。老人の票を失えば、当選できない。政治家はただの人になりそうで、普通に生きる自信がないのだ。政治家で甘い汁を覚えてしまい、嫌われる勇気がない。
そういう意味で、国民を信用していないのが政治家である。日本の老人もそれほど馬鹿ではない。老人の外出禁止を支持する老人も多いはずだ。その上に若い人は自由にすれば良いのだから、万々歳である。オリンピックなど問題なく開催できる。もちろん老人の観戦は禁止のオリンピックだ。老人はそもそも出場はしないのだから問題はない。
姥捨て山、爺流し海、ではないが、年を取れば若い人とは違う生き方があるはずだ。コロナはそうしたことを学ぶ場のような気がしている。老兵の消え去り方である。70歳からの人様に迷惑を掛けない生き方を考える必要がある。病気にならないように暮らすのもその一つであろう。
老人の方が優れていることもある。我慢力を高める必要がある。たぶん若いときよりもボケたせいか忍耐力は強くなった気がする。若いときであれば、動禅体操を一年半も毎朝続けることなど出来なかったに違いない。老人特有のこの忍耐力を生かす必要がある。
70歳から、30年間あると考える。その30年間で若い頃やり遂げられなかったことに挑戦すべきだ。昔と違い、30年を想定できる時代になったのだ。先ずは健康で元気に動ける老人でなければならない。外出禁止といっても、運動で野外に出るぐらいは問題ない。
尊敬した3人の僧侶は皆さん70歳を前にして亡くなられてしまった。70歳にならずとも完成した人間だと思う。もし長生きしたら生き仏に成られたに違いない。私のような愚鈍なものでも、70歳から30年あれば、完成した人間に成れるかもしれない。人生100年時代で、悟りを開ける僧侶が増えるかもしれない。
動禅体操ならば、独房でも出来る。狭い部屋の中でも可能な体操である。一日1時間程度は速歩を行う。できれば、一キロの坂道を一日に一回は上り下りをする。坂の中間点ぐらいから始める。まず500メートルの登りである。そして一キロの下り。そして又500メートルの登りと歩く。
これは午前と午後やれば、万全である。最高記録が、17分18秒である。ゆっくりの日は23分である。フィットビットのランニング記録でタイムを計っている。フィットビットのセンサーは少々インチキであることが分かった。毎日同じ所歩くのに距離がかなり違う。でも時間の記録は正しい。GPS機能というのはかなりばらつくようだ。心拍数は161が最高値であった。
登りの時に一種のランニングハイという状態を経験した。それ以来、この感覚を歩く禅の境地として感じるようにしている。ランニングハイ状態で、絵も描いている。様々な絵をひたすら集中して描いている。いろいろな絵が出てくるが、これから30年の修行の道である。
これこそコロナが教えてくれた老人の生き方ではないだろうか。どこまで出来るかは誰にも分からないことだが、ひたすら絵を描いて、大往生である。オだわにいって田んぼが出来ないのは困る。4月半ばには小田原に行く予定である。2重マスクで十分注意して行くので許して貰いたい。これだからダメだと言われそうだが。