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楽天の送料無料

2020-01-31 04:47:44 | 暮らし
 楽天の三木谷浩史社長は29日、「楽天市場」で3980円以上の買い物をした利用者の送料を無料にする取り組みについて、「何がなんでも成功させていきたい」と述べ、予定通り今年3月より開始する方針を改めて示した。
 ネット通販の国内の利用者は、調査会社「ニールセン」の去年4月時点の調査では、アマゾンが5004万人、楽天が4804万人で、激しい競争を繰り広げています。
 アマゾンは自社が販売する商品と、小売店などが出品する商品を扱っていて、自社が販売する商品は2000円以上購入すると送料が無料になります。月額500円、年間プランで4900円を支払って有料会員になれば送料は無料です。
 これに対して楽天は「楽天市場」を利用した際の送料は、これまで出店者の判断に任せていて、利用者に対する会社の調査では、「最終的な支払額が分かりづらい」とか、「送料が理由で購入を断念した」といった声が上がったということです。ーーNHKー
小田原の家はロウバイが咲いていた。

 石垣島に住んでいると、通販の商品の送料は価格に影響する問題になる。とくに、ヤフーオークションなどで買うときは、送料で騙されるてしまうことがある。2つ同じものを購入すると、送料がそれぞれにかかる事がある。

 そして、2つ分の送料の商品がひとつの梱包で送られてくる。これは安手の詐欺商法だろう。送料を高く設定して、いかにも商品自体の価格を安く見せている。中には商品は1円などというものもある。安いと思い買えば、送料が2000円と言うことになる。

 うかつな性格だから、結構こういうことでイヤな思いをする。楽天が送料無料をやるならありがたい。楽天で買いたいと思う。3980円以上の商品は送料無料らしい。ものにもよるのだろうが、石垣島に暮らすものとしては,ありがたいことになりそうだ。

 楽天を通して商品を販売している業者が反対を表明している。売れば売るほど赤字になると語っていた。まともにやればそうだと思う。アマゾンのプライム会員は送料無料が売りである。しかし、アマゾンは会費は丸儲けなのだから、参加業者が泣かされるのだろう。

 しかし、参加業者も泣いているばかりではない。その分を商品に旨く上乗せするようになる。しかも見えない形だから、中々ネット販売は複雑である。

 アマゾンで車のルーフキャリーを購入した。何故か3点セットだった。プライム会員ではない商品を選んだ。プライム会員になりたくないからだ。会費がイヤだからだ。プライム会員への入会落とし穴は何段階にもある。

 恥ずかしながら、我が家では3回プライム会員になってしまった。そして退会させて貰った。一度は会費が口座から落ちていて何だろうと思い気づいた。それでも、何とか退会させて貰い、会費は返して貰った。

 それ以来、アマゾンの購入は避けているのだが、どうしてもアマゾンで買わなければならなかったのが、ルーフキャリーだった。タントに適合するものを随分調べてやっとアマゾンで売られていたのだ。

 取り付け部が車種によって違い中々難しい。自動車屋さんにお願いすればいいのだが、自分で買ってくれば付けてあげると言われたのだ。特殊な形の遮光のためのルーフキャリーで加工が必要だった。

 これが、3点セットになっていた。小さなネジがおまけのようにセットに加えられていた。この商品を買う方はこれも買いますという形の紹介である。ネジも必要らしいなと思い購入した。

 その結果プライム会員に導入された。メインのルーフキャリー2点は一般の人でもかえるもので、そのネジだけはプライム商品だったのだ。それに気づかず購入したのが確かに悪い。悪いがこれは落とし穴だ。

 こうして、あれこれプライム会員にされる。不注意な人間にはいつの間にかである。保険証書の虫眼鏡が必要な注意書きである。何もなければ気づかないが、事故やら火事があってから、気づく注意書きと同じである。チュックをいれなければ、プライム会員になるというのもあった。もちろんプライム会員でなければ買えないものもある。

 アマゾンの一般商品には送料無料も多い。その中からコーヒーフィルターを購入した。金メッキのフィルターである。紙フィルターはごみになるのでイヤなのだ。石垣の家にも欲しいと思い買った。

 ところが大きさが表示と違う商品が来た。それではコーヒーマシンでは使えない。そこで、お店に交換をお願いした。返事がない。3週間ほど待ったが返事がない。そこでアマゾンに抗議をした。

 するとお店から即座に電話があった。間違えがあって申し訳なかった。そちらの商品はそちらで廃棄してください。そして改めて購入を出してくださいというのだ。そこで、改めて購入はしたが、廃棄はしないで、それも別の使い方で使っている。

 お店にしてみれば、返送分の送料、再送分の送料を合わせれば、石垣まででは高い。廃棄して貰うより高くつくのだ。そもそも送料無料自体が石垣島まででは、お店の負担が大きすぎる。しかし、日本全国送料無料となっているので、やむ得ないと言うことだろう。

 このアマゾン商法に楽天は押されているのだろう。それで楽天も送料無料に踏み切ろうとしている。ネットショッピングは価格だけの比較になる。それで安く見えるように送料を隠しておき、いよいよ購入の段階で,馬鹿高の送料が出てくる場合がある。

 楽天が明確に3980円以上の商品送料無料ならば、間違いなく石垣島の人はありがたい。先日、鉛筆素描をフィクサチーフで止めようと思い、石垣のお店でいくらか分からないまま注文で頼んだ。エライ高いものになってしまった。小田原で買ってくれば良かったのだが、エアゾール製品だから、飛行機はまずいかと思ったのだ。本当のところはどうだろうかは分からない。

 石垣島では不便は何もないのだが、やはり画材は不自由する。ヤフーオークションで大きなファブリアーノの紙がでていた。B判全紙である。25枚である。これを買ったのだが、こんなめずらしい紙は東京の画材屋さんといえどもない。

 よほどファブリアーノの紙を好きな人以外は買わないだろう。25枚で9000円だった。この紙の送料は4300円だったと思う。これは仕方がない。丸めて小さくは出来ない厚さになる。1枚530円ぐらいの紙になった。恐ろしく安い。画材屋で買えば、5300円ぐらいだろう。

 大体、イタリアのファブリアーノから運ばれてきて、どこをどう巡って私の所まで来たのか分からないが、輸送のエネルギーを使っている。日本の紙で描けばと言われそうだが、申し訳のないことだがやはりこの紙がいいと言うことになる。

 つまり、石垣島でも世界中のものが、小田原にいるときと同じに手に入るということだ。これで楽天も送料無料になれば、これこそ地方再生の道でもある。

 手紙は全国同価格である。商品も同価格は悪いことではない。地方で暮らすためには,何でも手に入ると言うことも必要である。
 
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日本で起きたコロナウイルスのヒトヒト感染。

2020-01-30 04:38:30 | 暮らし


 日本でコロナウイルスのヒトヒト感染が起きた。これは緊急事態である。WHOの完全な判断ミスである。WHOと言う組織は想像以上に能力が低い。国連の力というものを表している。何か見えない力で動いている。
 
  中国の習近平主席は28日、訪中した世界保健機関(WHO)のテドロス・アダノム事務局長と会談した。習氏は「透明で責任ある態度で国内外に情報を発信し、国際社会との協力を強める」と述べた。アダノム氏は中国側の対応の速度や規模を評価した上で、「WHOは科学と事実に基づき判断を下し、過度な反応には反対する」と述べた。

 新型ウイルスの登場に対してさらに深刻に受け止めるべきである。今回のものはインフルエンザと同程度の病気で、薬がないと言うぐらいに考えていいのではないか。新型ウイルスに対しては対応する薬がない。その患者の自己治癒力で回復するしかない。体力の弱い人が感染した場合、死に至る可能性がある。69歳の私もインフルエンザと思われるときもあったが、薬を使ったことはない。

 新型ウイルスの感染能力は一端ヒトヒト感染するウイルスに変わたのだから、感染能力は高いとみなければならない。新型ウイルスにたいしての免疫力がほとんどの人間に無いはずである。

 特徴は潜伏期間が長く、病状は出ない場合もかなりある。病状がない人からも感染する。そのために、現在の防疫体制の熱感知システムや事前申告では確認のしようがない。かなり長期的なものになり、たぶん1年間は収まらない。世界中といえる広範囲に広がる可能性が高い。

 私は東京、成田と通過して石垣に戻ったのだが、当然マスクをしていた。27日の成田は70%ぐらいの人がマスクをしていた。30%の人がマスクをしていないと言うことはそこからも、ヒトヒト感染が広がる可能性がある。野外よりも密室空間が感染しやすい。待合室には入らず、寒い外にいたくらいだ。それで風邪を引いたら馬鹿げているが。

 マスクをすると言うことは自己防御であるとともに、人への感染を広げないという意味でもある。少なくとも、武漢からの旅行者はマスクを着用をお願いしたい。感染しても自分でも気づかず治癒する人も多いはずだ。新型ウイルスに関しては、よほど大げさに考えなければ感染拡大は止められない。

 観光バスの運転手と添乗員が感染したのだが、この二人から感染が広がっている可能性がある。武漢からのツアーの中にいた感染者が他にも広げている可能性もある。

 日本でも情報は抑えられている。日本も二の舞にならないためには、武漢からのツアー客がどこに立ち寄ったのかは公表する必要がある。情報が出ることで不安が広がると考えて出さないのだろう。しかし、情報は抑えれば抑えるほど、おかしな形で拡散することになる。それが初期対応を失敗した中国の姿である。

 今回のコロナウイルスはSARSよりも致死率は低いが、間違いなく、感染力は高い。日本でのバス運転手とバスの添乗員の方が感染した状況を見ると、武漢からの旅行者はお互いに感染を広げているはずだ。そこから、日本に感染が広がらなければいいのだが。

 現在6000人規模の感染まで確認されているが、感染拡大が防げない可能性も出てきている。少なくとも数万人規模にはなるだろう。いかにも中国政府も日本政府も甘い。

 同時にいまだにWHOは緊急事態の発表をしない。今日30日になり、緊急に集まりを持つそうだ。WHOの対応の甘さも深刻である。次の新型ウイルスの時にはもうWHOを信頼は出来ない。

 WHOは薬やワクチン使用には積極的ではあるが、感染拡大の防御の徹底には力不足のようだ。何故、WHOが甘く考えたかの原因を究明する必要がある。なんとなく中国政府に配慮をしたのか、あるいは騙されたかのように見えるが、どうだったのか。

 中国での他の地域への拡大がどう起きているのか。この辺が重要なことだろう。武漢から、400万人が脱出したという。日本へのツアー客の中に感染者がいたように、その中には感染者がいるはずである。1万人に一人としても、400人の感染者が中国各地に,あるいは国外にいると考える必要がある。

 今回はかなりの規模で広がらざる得ないだろう。感染症としては誰もが重症化するというほど深刻と言うことではなく、充分に対応すれば、自然治癒する可能性が高い。発症しない人の方が多いはずだ。一般のインフルエンザに近いレベルと考えられる。薬がなくとも普通の健康な体力のある人なら、重症化することはないとみていい。

 濃厚接触をしても、何故か感染をしない人もいる。普通に言えば自然免疫力を持っていたからだろう。この仕組みは分かってはいないが、高病原性鳥インフルエンザに感染した鶏でも、同じ小屋にいた鶏でも感染しない鶏が存在する。

 水鳥が高病原性鳥インフルエンザを多く保菌する動物である。この中で、免疫能力の高いものが生き残ってきた。簡単なことでは野生動物は病気で絶滅すると言うことがない。だから人間よりも遙かに長い年月を生き抜いて来ることが出来た。

 人間もそこに学ぶ必要がある。ここからは私の特別な考え方であるので要注意。人間は衛生環境が清潔である。子供の頃に死んでしまうような淘汰現象が減少した。弱い人間が生き残る動物なのだ。私も子供の頃虚弱体質と言われた。昔なら生き残れない子供の可能性が高い。

 それでも、70歳まで生きている。まだ元気で100歳を目指している。日本の医療の高さをありがたいことだと感謝している。免疫力を付けると言うことを念頭に置いて暮らしてきた。免疫力は自然の姿から学ぶものだ。薬とか、消毒とかは、自然免疫にはむしろマイナスである。

 自然養鶏をやってきて、どんな鶏が丈夫な鶏かを研究した。自分でふ化した鶏の養鶏だから、飼育方法を繰り返し研究した。そして笹鶏と言う丈夫な鶏種の作出をした。その経験で免疫力が強くなる道筋をある程度見つけた。

 自分の暮らしにもその免疫力を高める方法を取り入れてきた。鶏は草を食べていると丈夫になる。良い卵を産む。良い卵とは美味しいではなく、元気が雛になる卵である。人間も緑黄色野菜を食べると免疫力が高まるだろう。運動も睡眠も元気な鶏を作る。人間も全く同じだと思う。

 鶏は汚いものが好きだ。泥水の方が、清水より好きだ。この辺が人間と違うが、ミネラル分が必要なのかと思う。下痢をしない鶏が大切である。朝が一番健康には大事だ。人間もそうだと考えた。最近腸の重要性が見直されてきたが、私が養鶏で考えていたとおりだった。糞の様子で状態は分かる。

 発酵飼料を与えていた。人間も発酵食品が大切である。ワクチンとか薬は私はできる限り避けてきた。おかげでなんとか、虚弱児だったが今は健康で長生きできそうである。

 少なくとも暖かくなるまで収まらないだろう。それほど深刻な新型ウイルスだ。しかし、これはまだ序の口である。次の新型ウイルスの登場も考えて置く必要がある。SARSのような致死率で、新型コロナウイルスぐらいの感染力のあるものの登場が予想される。

 あらゆる感染症予防のために,水際の防疫体制を抜本的に見直さなければならない。そうでなければ、東京オリンピックも危うくなるだろう。

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石垣のお店看板ベストテン

2020-01-29 04:42:06 | 石垣島
 石垣島に戻った。自分の場所に戻った気になる。一日目は絵は描けなかったが、早く描きたいところだ。石垣は例年になく寒いそうだ。最高気温が20度にならなかった。小田原から来ると、少しも寒いとは感じない。からだが緩む。10日ぶりに太極拳をやったが、もう忘れている。

  街へ出るとつい看板が気になる。散歩の楽しみの一つが面白い看板を見つけることにもなる。入り口のドアが力が入っている家も多い。お店は観光客が多いということがあるのだと思う。初めて見た人が、引きつけられる看板にしているのだろう。

 こうした看板の形が、石垣島の街の空気感を作っている。手作り風の看板も多く、緩い感じがあって好きだ。面白い看板を探して歩くだけで、散歩が楽しくなる街だ。

 初めての人が好奇心を持つ看板。お店の人が想像できる看板。店の外観で判断されると考えてのことだろう。石垣のお店は大体に7時ぐらいからである。宵っ張りである。だから入ることはまずないのだが、お店の看板は見て歩いて楽しんでいる。作品としてみて鑑賞に堪える看板が至る所にある。そのうち石垣島看板10選を作ろうと思っている。

 今回は今まで面白いと思ってとった看板の写真を並べてみる。まだまだある。新しいものもドンドン出来ている。

 たぶん台湾から来た、仲良しがお店に入ろうとしてはしゃいでいた。独特の辛子油のようなものを売っている。看板猫がいるお店だ。

どこか西部劇に出てくるような感じ。

 イカリの木彫看板が印象的。たぶんこの制作者は街のあちこちに作品を残していると思う。

このお店はお店の中も同じ味わいである。

これは人魚なのだろうか。マナティーなのか。ライトも風情がある。

令和の年号が決まった直後の新川小学校の入口。こんな小学校なら子供も行きたくなるかも。


 このお店のたたずまいには引きつけられる。物語がある。地母屋さんというのだが、一体何を売っているのだろう。宮沢賢治の世界観である。たぶん、具体的なものは売っていないと想像している。

 このお店では時間を売っているのかもしれない。たぶん癒やしを売っているのだと思う。お店の方を見たことはないが、大体は想像が出来てしまいそうだ。

 ここはペンションなのだと思うが、いい雰囲気だ。心と何かをつなぐ宿。

 普通のお宅である。この花をかき分けてはいる感じがすばらしい。一年中賑やかな花で埋まっている。まさにおもてなし文化である。

 アックン卓球場である。一度やらせて貰った。中は意外に広い。卓球台が四台もある。アックンは国体にも出た方らしい。まだお会いしたことはない。若い人らしい。でも想像できるではないか。



 ここは家のすぐそばのマンション。上る階段に絵がある。よく見るとこれも看板のようなのだ。しかし、上の方を見ても、特にお店らしきものはない。一体何のお店があったのだろうか。間違いなく石垣の風景が描かれている。

 看板と言ってもこれは市民会館である。いい文字なのでつい。石に点があるところがいい。なくてもいいのに、これを描いた人の意識が面白い。点一つで自己主張した。

それまで食堂。すごい命名だ。レストランなのか。学習塾なのか。文字は体を表す。

 山北にいた頃巨大なモンステラを持っていた。三軒茶屋に家が出来たときのお祝いにモンステラを貰った。それを50年ぐらい持ち歩いた。通るたびにあのモンステラを思い出す。看板と生きたモンステラがつながっている感じがすばらしい。

 和菓子屋さんだとズーと思っていた。満月のにじみがとてもいい。居酒屋さんなのだ。

 この家がどんな家かが不思議だ。初めて見たときには度肝を抜かれた。どう見ても普通の住宅のようなのだが、石垣文化の象徴の家のような気がする。

 この家の方は他にもイラストを描いているような気がする。だとすると看板やさんの看板なのか。

ここはペンションのようだ。あくまでようだと言うことなのだが。

ここは中村屋さんというカレー屋さん。家がすごい。庭もすごい。石垣小学校の裏である。何度か行ってみたがすばらしい。

 石垣で一番しゃれ感のある入口。置くにはヨットも置かれている。設計事務所なのか。デザイン事務所なのか。

 味噌汁とでているところが気になっていた。石垣には味噌汁定食というのがある。つまり味噌汁がどんぶり出来てご飯もどんぶり。味噌汁が一品料理なのだ。このお店のそうきそばはうまい。

 家のすぐそばにある天ぷらのお店。よく買いに行く。とても良い方がお店をやられている。安くて、旨い。夏は氷もやっている。

 レトロ看板である。お土産屋さんというより、貝の標本館のようなお店だ。めずらしい貝が並んでいる。


市役所の前当たりにある居酒屋さん。入口がいい雰囲気で飲みたくなる。

 石垣焼きのシーサー。ここで焼いていた時代があるらしい。残念ながら今はない。このすくっとした立ち姿は魅力的だ。ろくろで壺を作りのようなシーサー。Vサインが売りらしい。

地母屋さんの入口。なんともすごい。私には明けられない。異空間に引き込まれそうだ。


地母屋さんの木戸。ここでスイジ貝を知る。こんな木戸を作れる人がいるとは。

この漆喰シーサーの作家は有名な人らしい。どうもこの瓦の破片は困る。

石垣牛のお店なのだろう。控えめ感が悪くない。



確かに力が入っている看板だ。居酒屋なのだろうと思う。


これは不思議な作品だ。看板なのだろうが、何の看板なのか分からない。


ビルの3階に誘導しているのだろうが、何のお店なのかは今ひとつ分からない。


 どんなてぬぐいが並んでいるか想像できる看板である。スタンプワークというのはどういう意味なのだろうか。型染めと言うことなのだろうか。


 いかにもの衣料品店なのだが、ちょぅっと入口がいい。


 路地裏のジャズ喫茶。雰囲気がすごくいい。ライブハウスもある。石垣音楽文化の象徴。


こっている木造り看板。どうだろう、ペンキ看板の方がこの店らしく感じるのだが。


そらやさん。度もうアロママッサージのお店らしいが、草に埋もれた看板が良い空気。

 まだまだあるのだが、手元にあるのだけ。そのうち整理したい。
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河井杏里議員の1億5千万円には私の税金も入っている。

2020-01-28 04:54:32 | Peace Cafe



 河井杏里参議院議員は2カ月半の間に選挙に1億5千万円を使った。一体どんな使い方をしたのだろうか。新人の選挙にこれほどのお金がかかるのであれば、政党からの補助がなければ、選挙は出来ないという事だろう。政党でない人は当選できない仕組みが生まれている。お金のない新人が、1億5千万円に勝つのは難しいだろう。

 印刷費に多くは使ったと言われているが、どんな印刷物に化けたのだろうか。選挙ビラは配ったということにすれば、実数は消えてしまう。身内の印刷所と結託すれば、価格や枚数は後付けでなんとかなってしまうはずだ。今からでは調査しにくいものだろう。

 小選挙区制と言い、政党助成金と言い、政治改革のはずだったものが、アベ政権のような忖度政権を生む結果になった。総裁にこびなければ、選挙でひどい目にある。日本人には向かない選挙制度だ。封建時代の復活になってきた。

 河井議員は1億5千万円を貰ったことは確かだが、合法的なものだと答えた。その後誤魔化しているが、やはり河井議員の選挙ではお金がばらまかれている可能性が高い。2カ月半の間に1億5千万円をまともなことに使うのは難しい。何しろ一日200万円使うことになる。この収支報告はまだ出ていない。これが出てきたらアベ政権の選挙の方法が、分かるはずだ。

 この1億5千万円は菅官房長官か、安倍総裁の指示によって行われたという事だ。このお金の一部は買収に使われたとしか思えない。そう語る県会議員もいる。ウグイス嬢の給与の倍増ぐらいでは、使い切れたものではない。普通の選挙準備でそんなお金の使いようがない。たぶん安倍政権から、1日200万円を有効に使える人間も派遣されたはずだ。

  複数の県会議員が河井氏が現金を持ってきたと語っている。河井氏はそもそも県会議員であるから、元同僚である。今度参議院選挙に出るのでよろしくという挨拶金以外考えられる。返したという人の発言ではあるが、中には返さなかった人もいて黙っているのだろう。

 今回のこの事件はアベ政権の自民党支配の方法が見えて来たのではないだろうか。アベ政権に言いなり議員が次々に生まれてくる構造である。官邸の意向で1億5千万円も貰って選挙に出るのでは、アベ忖度をせざる得ないだろう。

 こんなやり方をした人は常にお金が必要な議員になるだろう。お金以外で人を動かすことができない人間だから、思想信条で応援する人などいないだろう。

 その後河井氏夫は法務大臣に就任する。意味不明であるが、菅官房長官との関係で就任したと言われている。アベ政権はなんでこんなに河井氏に入れ込んだろう。選挙区の派閥構成やら、アベ対抗馬やら、いろいろの事情による。アベ政権の闇の一端が垣間見えてきた。

 河井氏の対抗馬の現職自民党議員は10分の一の1500万円で落選したという。1500万円でもすごいお金だ。こうしたお金の配分で議員を支配していることが見えてくる。これでは政党助成金というものが、政治をダメにしている原因になっている姿だ。税金を納める国民としては、実に情けない事態である。

 アベ総裁批判をして目障りだった自民党の重鎮・溝手顕正氏を蹴落とすための“刺客”、が河井杏里氏だったと言われている。アベ忖度政権を作るためには、安倍氏批判を公然と行っていた溝手氏を見せしめとして落選させなければならなかったのだろう。

 アベ総裁の地元事務所の筆頭秘書をはじめとし少なくとも4人の秘書が広島入りしていたと自民党県議が証言しているという。溝手氏陣営なのだろうが。総裁丸抱え選挙である。このアベ秘書が1億5千万円ものお金を短期間に使う方法を差配したのだろう。ウグイス嬢に倍の報酬を払う理由もここにある。優秀な人を一気に集めようとしたのだ。こんなことは選挙の専門家が付いていてやったことだ。

 この事件で着目すべき点は自民党内にアベ批判が生まれない体制をどうして、安倍氏が作り上げているかの構造である。選挙で議員を縛り付けているのだ。資金配分を総裁意向で行うというのもあるだろう。新人候補の選択というところでも、踏み絵支配があるのだろう。

 小田原は河野洋平氏の選挙区であった。河野氏が引退し、後継とされる女性候補が立候補した。ところがまるで意見を述べない人である。あいさつ回りだけが熱心な人である。新人の時にテレビで発言したことがあったのだが、当選したらよく勉強させてもらうなどと語っていてがっかりさせた。

 自民党は自分の意見を言えない議員ばかりに変わってしまった。議員になればそれで上がりという人ばかりになったようだ。IR汚職でさえも、自民党内にはおかしいという声が上がらない。

 自民党議員はこぞって賭博好きとも思えない。賭博以外に経済政策が持てない議員ばかりなのか。国民の80%近くがおかしいと言っている。それでも自民党内では沈黙である。そして、まだ40%の国民がアベ政権支持である。もうダメかもしれないと思える。
 

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小麦、タマネギ、味噌づくり。

2020-01-27 04:46:50 | 自給

タマネギ畑の様子。

 今回小田原に来たのは、小麦とタマネギの様子を見るのが第一目的。そして味噌づくりである。麹を作りみそを仕込むので、どうしても最短でも9日間必要だった。水彩人のこと等もこの間にあったので、せわしない小田原滞在だった。

 小田原に来るととくに思う事だが、私がこうして農業を出来ることは農の会の仲間がいるからである。麹づくりも、味噌づくりも、為ネギも、小麦も、みんなのお陰でやることが出来る。有難いことだ。足手まといにならないようにやれる間は加えてもらいたいと思っている。

 昨年は小田原の寒さで体調を崩したので、今年は相当に気を付けて暮らしていた。今年は例年よりは暖かいこともあり、体調も問題なく過ごすことができた。成田空港を行き帰りで通過するのでマスク着用である。東京に行くとき、電車の中、バスの中でもマスクをしていた。

 今の私には人込みはマスクが必要な状態かと思う。そもそも肺が弱い。寒い空気を吸うと咳き込むようになる。肺炎は要注意である。結核を昔やったことが影響しているのかもしれない。この点石垣島に行って、身体が楽になった。



 玉ねぎは順調な生育だった。初めての場所で標高もすこし高く相当寒くなることが予想されたので。今年は穴あきトンネルの使用を全体にかけた。いくらか風に飛ばされたようだが、幸い私の所はしっかり埋めたので大丈夫のようだった。

 今年は雨が多いいので、乾いて水やりをしなければならないという事もないようだ。トンネルの中もしっとりした状態だった。雨の少ない年だと、閉じ切っていたのでは少し心配になる。

 ビニールトンネルは昨年私だけ実験的にやってみた。結果が良かったので全体にかけることにした。久野が少し寒いという事があるのかと思う。特にタネバイでタマネギに食害が全体であったのに、穴あきトンネルにした私のものだけまったく食べられなかった。

 今年の場所は風の吹くそうな寒い場所である。土もまだ良くない。玉ねぎは十分には出来ないかもしれないが、今のところそれなりにできてきている。立ち枯れた様なものはない。先ずは一安心した。草が少ないのはしっかりと燻炭で表層を覆ったからではないかと思っている。

 種をまいて苗から作ったものが半分。購入した苗が半分ぐらいだろうか。何とか根付いて入るので、春になれば、生育を始めてくれるだろう。玉ねぎも追肥が出来ればした方がいいかと思う。ただ私は4月まで小田原に来れないので、どうなるかちょっと心配である。世話になるしかないので、申し訳ない限りだ。

 トンネルは新しく購入したわけではなく、イネの苗に使っているものを再利用した。かなり汚れてはいるが、まだ使えるので使った。もう5年以上使っているものだと思う。ビニールは洗って使うほどに大事につかっている。

 本来は有機農業ではビニール資材は避けたいところだ。しかし、どうしても使わざる得ない場面もある。こだわって使わないで上手く行かないよりは、大切に使えば許される範囲もあるのではないかと思っている。



小麦畑の様子

 小麦は発芽してくれるかどうかさえ心配だった。カラスの大群が押し寄せていたのだ。カラスは大豆の落ちた粒を食べていたらしい。その後小麦の種に行くのではないかと心配した。何故か小麦の種は食べないでくれた。

 小麦の発芽はうまく行った。今の所それなりの生育になっている。草もそれなりに生えていた。この段階で草取りをしておくと、この後の草がだいぶ違う。麦が生育を始めてくれて、雑草よりも先行してくれるといい。

 半分が炭素循環農法の畑で、チップが大量に入っている。半分は大豆麦の繰り返しである。大豆に関していえば、炭素循環農法の畑の方が、出来が良かった。麦は逆になると予測している。麦は2年目の炭素循環農法の畑では窒素が少なくできない可能性があると思うからだ。



 麦踏をして、ソバカスの追肥をした。麦は毎年肥料不足になる。追肥はかなりやらないと十分に分げつが取れない。麦が取れるような土壌になるには5年はかかるだろう。

 まだ2年目では収量も期待できない。毎年成育不足になっている。今年は1反弱あるので、250キロは少なくとも取りたい。もう一度土寄せ追肥がいるかもしれない。これも来れないので、小麦の会のみんなに期待するほかない。

 麦踏は小田原ぐらいの寒さの場所では意味がない。今年は霜柱自体が2回目だと言っていた。比較調査を繰り返したが、麦踏をしたら分げつが増えるという事はなかった。ただ、土寄せ追肥ははっきりと効果がある。

麹の仕込み

 麹の仕込みは1月19日だった。50口ぐらいの麹の仕込みである。一口3キロだから、150キロのお米を麹にしたことになる。あさ8時から夕方4時過ぎまでかかった。途中家に戻り、麹を保温カーペットに設置して、3時ごろにまた戻った。

 麹の出来はまずまずだった。根守さんの麹がとても進んでいて、いいものだった。なんと、月曜まで発酵を継続したという。味噌麹はこの方がいいと思う。お米の芯まで麹菌が入っていた。根守さんはなかなか研究家だ。千葉に行ったときは何しろ背中に麹のリュックサックを背負っていたぐらだ。ぜひ、農の会の野菜作りをまとめてみてもらいたい。

 皆さんがずいぶん頑張ってやられていた。大豆の会は心地よい空気が流れている。これが一番大事なことだ。私の麹はもう一つの出来であった。何とかなるだろうというレベルである。落ち着いて面倒が見れなかったためだと思う。麹は気持ちの問題がかなりある。

 味噌づくりも70名位の参加で、過去最高の参加者数ではなかったかと思う。しかも小雨に降られた。どうなることかと思ったのだが、素晴らしいことに、少しの問題もなく、見事に流れた。

 特に子供たちが、10名以上いたと思う。楽しく遊んでくれたと思う。MAGOの森の味噌づくりに子供たちが沢山いてくれたのは、嬉しい限りである。参加できてよかったと思う。

 なぜ、こんなことが実現できているのか。考えてみれば奇跡的なことだろう。米を作り、大豆を作り、麹を作り、味噌を仕込む。この一連の流れを、農の会の仲間の力で実現している。しかも、70名もの味噌づくりである。

 こうした心で繋がった活動が次の時代の方角を示している。私が離れて1年以上たつ訳だが、私がいたころよりも見事に盛り上がっている。この仲間なの力というものこそ、次の時代の希望だと思う。

 若い人たちもたくさんいた。子供たちもたくさんいた。みんなの心の中にこうした活動が灯火を灯すことを願っている。大豆の会の皆さん、ありがとうございました。

 

 

 

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アベ政権の本当の恐ろしさ

2020-01-26 04:27:22 | Peace Cafe


 アベ政権は過去の政治状況ならば、退陣というような事件を何度も起こしている。それでもそれでも支持率を回復する。まさにゾンビ政権である。その原因は野党のだらしなさだと言われている。

 確かにその通りなのだが、問題はその先の話だ。何故野党がだらしないままでいるのか。と言うあたりにある。野党が分散しているからと言うが、一本化したところで、野党の信頼が高かまるとは思えない。状況はそんな表面的なことではない。支持が集まるならば、一本化できるはずともいえる。

 この野党に支持が集まらないのは、万年野党と言われた社会党時代から続いていることで、別段目新しいことではない。民主党政権が特殊な事例である。日本人には大きな変革を嫌う性格のようなものが根っこにあるのではないか。どちらかと言えば、現状維持意識が強く、冒険を嫌う国民性ではないだろうか。

 一度確立された形から逃れられない民族性のようなものがある。もし、日本がソビエトに占領されていたとすれば、東ドイツ以上の統制的国家を作ったのかもしれない。そしてソビエトがロシアが変わったとしても、共産主義まがいを続けているのかもしれない。

 お上に従う性格。長いものにはまかれろが身上の国民性。日本人は思想の存在しない社会が好きなだろう。主義主張はこの国ではあまり意味をもたない。だから、自民党は保守政党ではあるが明確な保守思想主張をする訳ではない。妥協的現実主義政党に見える。

 これは官僚などの性格に顕著に表れている。官僚という人たちは優秀ないわば競争の勝者である。自分の立場が壊されるようなものが育つことは極力排除しようとする。それが忖度政治になるのだろう。きわめて先回りをして、国民を操るようなところがある。当然、官僚制度の下では、平等や公平の感覚は生まれてこない。

 官僚は野党が政権を取ることで、身の危険を感じている。今まで構築してきた自分が上級にいるピラミットを崩される恐れを感じるのだろう。官僚の天下りはいけないというようなことは正しい理屈であるが、官僚にしてみればどのように誤魔化せばいいかを、巧みな能力で画策する。それを国民は仕方がないと受け入れる。

 野党の壁は自民党ではなく官僚である。国民の大半がそのように考えているから、野党が政権をとれば、官僚が作り出している社会構造そのものが崩れる不安を感じている。どれほど安倍政権がひどいことをしたとしても、野党の支持にはつながらない行政制度なのだろう。

 アベ政権は国民の性格を十分察知しているから、今も説明責任を果たさないで何もなきがごとき態度である。アベ氏の責任の取り方は誠心誠意政策を進めてゆくという事になるだけだ。責任を取って憲法の改定を行うというおかしな話になってしまう。

 このあたりまでは別段安倍政権だけでなく、今までの自民党政権共通の態度であった。アベ政権の本当の怖さは自民党内をオールイエスマンにしたところだ。安倍氏に反発するような人間は、自民党から立候補できない事になっている。

 ウグイス嬢多額報酬で問題になっている河井杏里氏は、1億5千万円も党から資金援助があった。このお金を県会議員等にばらまいた疑いが出ている。ウグイス嬢問題は氷山の一角である。何故河井氏にこれほど多額の援助が出たかは、アベイエスマン製造法がこの背景にある。

 選挙を通してアベイエスマンを大量に作り出した。今や自民党は反主流派というものがない政党に変わった。この点で自民党は大きく変貌した。この変化を巧みに作り出したのがアベ政権である。

 自民党の大半の議員は自民党に就職して、立派な国会議員に出世した人たちだ。何かやりたいことがあって政治家を目指すというよりは、議員になりたいだけに見える。官僚に似ている。上級国民になりたいだけの人という気がする。良い国を作りたいというより、国会議員に出世したいという人である。これを上手く操作するのがアベ政権である。アベ政権の鵺である。この見えない闇が本当の怖さだ。

 アベ政権に造反などするはずもない。異論があるなら自民党から出て行けという事だ。まさか、自民党の国会議員全員がカジノ賭博賛成とは思えない。少なくとも、10人に1人ぐらいは賭博を悪事と考える人もいるだろう。そうでなければまともな人間集団ではない。ところが表立ってそういう声は聞こえてくることはない。

 では公明党は何故カジノ賛成なのか。創価学会という宗教は賭博賛成の宗教なのだろうか。まさかそうではないだろう。どういう形で、公明党の小さな声を聴く力を、自民党の本音を読む忖度力に変えているのかである。公明党の抱き込み方に相当の工夫があるはずだ。もう真綿首を絞められていて、本音は言えない政党になっている。

 維新党のかかわり方も実におかしなものである。橋下氏のような人と自分のつながりを安倍氏は強調していた。憲法改定で繋がっているという事のようだが、もっとどす黒いもので首輪をつけている気がする。この辺にアベ政権の恐ろしい本領があるのではないか。

 前代未聞のアベ政権の恐ろしさだ。ここには見えない暗闘があるのではないか。多分自民党総裁室前には踏み絵が置いてあると思われる。何を踏んでいるのだろうか。正義・理想・志の三枚のマットが置かれている。それを踏みにじってからしか、総裁室には入室が出来ないという事になっている。



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カーボンプレート入りシューズの是非

2020-01-25 04:15:29 | 暮らし


 箱根マラソンはピンクシューズが席巻した。なんだかなーと。あの色は選手に似合わないという位にしか思わなかった。どこかのシューズ会社が提供したのか程度に考えていた。要するに無知だったのだ。

 あのピンクシューズは世界陸連から禁止されるかもしれないというので、初めてあの靴が、ナイキのカーボンプレート入りランニングシューズだったのだと知った。現在発売されているヴェイパーフライというレース用の靴。これが人気で、品薄状態らしい。価格は3万円程度。

  高校の時は陸上部の選手だった。弱い選手で東京都予選落ちばかりで、全国大会にも行けなかったのだが、練習では予選落ちじゃないと言えるほど練習はした。中長距離をやっていたので、ランニングシューズ問題には興味がある。

 そもそもナイキのランニングシューズが注目されたのは陸上では初めてではないかとおもう。靴では日本のメーカーのアシックスは評価されてきた。アジタスの靴の方が有名であった。ナイキは靴は後発だから、大胆なカーボンプレート入りを考案したのだろう。

 結論から先に書けば、カーボンプレートは禁止すべきではない。カーボンプレートは体に害がないどころか、疲労を軽減すると言われている。どの競技でも一定の範囲を決めて技術革新をして行くことは必要なことだ。それでも靴底の厚さは取り決めるべきだ。5センチ以内とか。どんどん厚くなれば、市民ランナーにとっては危険な靴という事になりかねない。

 棒高跳びが良い例である。竹の棹で飛んでいた時代でも日本の竹は高く飛べるというので日本人が優勝したこともある。ところが、弾力性のあるグラスファイバー製の棒が出来て、記録も一新した。競技が変わったほど飛び方が変化した。棒の反発を利用した新しいフォームに変化した。

 それはどの競技であっても同じことで、フィギアスケートのシューズの改良なども4回転ジャンプを飛ぶことが出来るようになった一因とされている。ウインタースポーツはすべてに用具の改良競争のようなところがある。

 スキー板というものは木を張り合わせて作られていた。2メートルを超えるような長い重いものだった。それが短いカーヴィングスキーが出てきた。軽くて、弾力があり、初心者でも滑りやすいものに変わった。スキー競技にもアクロバットなフィギュア種目も出来て広がった。スキーが面白い競技に変わった。

 私が高校で陸上をしていた時もスパイクシューズが変化する時代だった。危険な釘の様なスパイクから、取り換え可能な先の平らなピンのスパイクに変わった。一番はスパイクで踏まれて大けがをすることが減った。それは土アンツーカーの競技場から、全天候型のウレタン系弾性舗装が出来たことによる。

 もちろんタイムも早くなったのだが、競技場の管理も良くなった。アンツーカーのトラックは凸凹になると修復が大変だ。競技場の舗装を変えるときも世界陸連では結構もめたはずだ。

 話をカーボンプレートに戻すと疲労が残りにくいという事もあるらしい。これは市民ランナーには福音ではないだろうか。価格も3万円ぐらいのものだから、許容範囲ではないだろうか。カーボンプレートシューズが主流になれば、2万円ぐらいまで下がるかもしれない。

 オリンピック種目で使用する器具や道具は、誰にでも買う事が出来るという事が必要である。ボブスレーのように何千万円もかかるというようなものこそオリンピック競技から外すべきだ。あの水泳のレーザーレーサー水着は禁止されたのは当然で、あれを買えないものは勝てないという事になる。

 厚底のカーボンプレートシューズは背も高く見えて、さっそうと走れるらしい。これも悪くない。どんな良い靴でも格好よくなければ続かない。ただシークレットシューズも5センチ以上は不自然なことになるだろう。高さ制限は世界陸連が決めるべきだ。ゴム底靴の材質も多様である。プレートをいけないという理由は説得力がない。

 10センチもある厚底シューズではさすがに格好悪い。もちろん危険だ。背の高い外国人選手は案外この靴は重心が高くなり過ぎて走りにくいかもしれない。足の短い選手の方が効果が大きいという事になるかもしれない。日本人向きのシューズかもしれない。

 今後カーボン素材の工夫という事が出てくるだろう。へたらないで長く使える素材。価格の安い素材。スポンジ部分との相性もあるだろう。すでにミズノもアシックスもカーボンプレート・ランニングシューズの販売を始めるようだ。良い靴を作ってもらいたいものだ。

 以下は個人的なことだが、陸上競技のことで思い出したの書いておく。駅伝の東京予選も世田谷学園で出場した経験がある。東京都予選で真ん中ぐらいだった。優勝して全国に出場したのは保善高校だったかと記憶している。それでも全国では下位だった。

 陸上競技部の中長距離班は世田谷公園で練習していた。そこに国士舘大学の駅伝部が来る。一周1キロだった。それだけでも付いていこうと頑張るのだが、到底追いつけない。すごい早さだった。10周するとそのまままた国士館まで帰っていく。さっそうとしてかっこよかった。

 世田谷学園はそんな弱いチームではあった。今流行りのワンチームではないが、弱いチームでもそれなりの充実感はあった。走ることを目標にしている仲間がいる。いろいろの意味で精神的には辛い高校生時代ではあったが、陸上部に救われていた。

 陸上競技を通じて自己記録更新という事を知った。人と較べるのではなく、自分の限界を超えるという事の意味だ。自分と向かい合える、陸上競技が好きだった。苦しさの限界の中でこそ、自分というものと向かい合う事が出来る。弱い自分というものを知ることもできた。

 カーボンプレートシューズを禁止するのはつまらないと思う。そうした工夫こそ面白い。そもそもスポンジを使うことだって工夫である。合成ゴムが出来て、シューズは工夫された訳だ。市民ランナーは靴に足を守られて走ることが出来るようになったともいえる。

 私が使っていたころのランニングシューズと現在の普通のランニングシューズとではかなり違う。たぶんタイム的にも違うと思う。

 アベベ選手は東京オリンピックで優勝したが、裸足のアベベである。他の人にはまねのできない歴史だ。マラソンが2時間を切る時代が来るのはカーボンプレートシューズによるはずだ。

 
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中国での新型コロナウイルス肺炎

2020-01-24 04:03:25 | Peace Cafe


 中国での新型コロナウイルスによる肺炎で感染者が中国国内だけで830人。死者が25人となった。致死率は低い。しかし、前回のSARSの時より感染速度は速い。まだまだ増えるはずだ。そして、医療関係者が15名が感染をした。すでに、海外でも15名の感染が見つかっている。

 一番良くないのはパニック的対応である。すでに日本にも入っている可能性はある。中国から戻った二人が感染している。少なくともそう考えて、注意深く生活する必要がある。冷静な対応こそ感染予防になる。武漢からの帰国した人を差別されるようなことがあると、感染者が隠れてしまい、より深刻な事態になる。

 残念なことに前回のSARSの経験が生かされていない。発生した武漢は鉄道と飛行機は封鎖されたが、自動車での脱出は続いている。すでに300万人以上が武漢を出たとされている。誰だって出たいと思うだろう。そのことが他の地域にも感染を広げる可能性が高い。

 新型感染症を上げれば、エボラ出血熱、エイズ(AIDS、後天性免疫不全症候群)、鳥インフルエンザ(H5N1)、サーズ(SARS、重症急性呼吸器症候群)、マーズ(MERS、中東呼吸器症候群)、O157(腸管出血性大腸菌感染症)などがある。そしてコロナウイルスの変異。

 SARSの起きたときのデータによれば、報告症例数は、中国を中心に8,096人で、うち774人が死亡している。1,707人(21%)の医療従事者の感染した。SARSは感染経路など分からないままで終息した。

 コロナウイルスはそもそもネズミやアナグマが持っているウイルスらしい。それが変異して人ひと感染がおこるらしい。前回のSARSの時も感染状態が様々なで、特定の患者からは広がるが、感染を広げない患者もいたらしい。新型ウイルスの実態は分からないままで終息したが、同じようなことがまた再燃したという事だろう。

 中国政府はSARSの経験を全く生かせず、初期対応をすることが出来なかった。SARSの時は1か月も情報隠しをした。今回も発生した武漢では初期段階では情報を統制して、全く対応できなかった。武漢の患者の情報を流した人を処罰したらしい。そして、ことが深刻になってから武漢への出入りを制限することになった。

 中国政府の前近代的な頑迷な姿がまた浮き彫りになる。こういうところが直らない限り、中国が国際社会の仲間入りすることはできないだろう。中国から世界へと患者は忽ちに広がる。地球で生きる人類すべてが、情報を共有しなければ生きて行けない。ひた隠しにしたとしても何もよいことなどない。

 今回のコロナウイルスの変異はまだ人ひと感染力が強くはないようだが。患者の隔離以外に有効な手段はない。予防策として手洗い、うがい、マスク着用、体力や免疫力の増強をはかる、人混みへの外出を控えるという事になる。

 国際保健規則(IHR)によって、感染症が発生した場合には、当該国は責任を持ってその情報を多国間で共有しなければならないと定められている。にもかかわらず、中国のように大したことはないと考え、情報を抑えることが、世界中の迷惑になる。

 新型感染症が何故発症するかには2つある。ウイルスが変異して人間が死に至るような病気になる場合。もう一つは人間が初めて接触するウイルスとの遭遇。いずれにしても、世界の人口が増加して都市化が進んでいる。あるいはかつて人跡未踏のような場所に人間の暮らしが入り込んでゆく。発展途上国で起こりやすいのは急激な都市化に、社会の公衆衛生が追い付いていない場合が多い。

 家畜の問題ある大量飼育によって、ウイルスの変異を起こし、人ひと感染をするものに変異することもある。今回のコロナウイルスは野生動物アナグマを良く加熱しないで食べたことが直接の原因と思われる。

 かつて石垣島ではマラリアが大流行した。あちこちに水たまりができて、ボウフラが増える。ボウフラが増えると蚊が増える。人口の多い地域で蚊が増えると、感染患者を刺した蚊が媒介する。今まで人の住まなかった地域に人が入ることで、マラリア患者が急増する。

 自然界のなかにいたけれど、人間が触れていなかったであろう微生物との出合いが生まれ、新しい感染症が人間の世界にもたらされることも起きている。エイズやエボラ出血熱などはそうしたことが疑われている。地球温暖化も関係していると言われている。温暖化によって、微生物の環境が変化して、人間の生活圏にウイルスが入り込んでくる。

 日本の場合であれば、島国であるまず防疫体制である。最近の豚コレラの事例でもわかるように、海外との人間の交流の増加。物流の増加に、日本の防疫体制が完全に後れを取っている。岐阜で起きた豚コレラのウイルスが、食品に混入しているのだ。

  沖縄県で発生した豚コレラのウイルスの侵入経路を究明する疫学調査チームの検討結果を発表した。侵入経路として、国内の他の感染発生地域から沖縄に流入したウイルスを含む肉製品を使用した飲食店などから引き取った残飯を、農家が加熱しないで餌にしていたために感染したとした。

 内地から沖縄本島まで移動している。そして生きた状態で沖縄の養豚場で餌になった。これはワクチン由来という事はないと言い切れるのだろうか。遺伝子的にその点は確認できているのだろうか。このチェックが出来なくなるから、汚染国からの肉の輸入は禁止になる。

 今回の武漢からの帰国した人がコロナウイルスに感染していたことが、数日経過してから確認された。成田空港経由である。この人は解熱剤を接種していたために、熱感知が出来なかった。

 しかし、熱があり解熱剤を使っているのだから、申告してもらわなければならない。しかも感染が起きている武漢からの入国である。その義務もあるはずだ。今回は人ひと感染力がそれほどは強くないウイルス変異の様なので、大ごとにはならずに済んでいるに過ぎない。

 次回、さらに恐ろしい伝染病がやっていることは確実である。アフリカ豚コレラが来る可能性も大いにある。何とか防げているのは幸運にすぎない。一日も早く防疫体制の根本的な見直しが必要になっている。

 現状の検疫体制では時間をとれない事情があるのだろう。人員も相当に不足しているという。今の倍の人員と窓口があれば、一人に対して倍の時間がかけられる。今すぐにでもその対策をしなければ、経験のない感染症が日本に上陸してくる。

 マラリアも狂犬病も海外で感染して日本の入国する人がいる。その人が感染を広げる可能性もある。狂犬病などは水際で食い止めることが一番有効である。犬にワクチン注射をする以前の問題である。

 ワクチンがある病気ならば対応が出来るが、コロナウイルスにはワクチンはない。ワクチンのない病気が次々に出現してくる。ワクチンに頼らないためにも、日本への水際で防除する体制を作らなければだめだ。

 個人が現状で出来る対策は免疫力の向上である。どの感染症も感染する人もいれば、感染しない人もいる。その理由も解明された訳ではないが、免疫力が高ければ感染しない可能性が高い。免疫力の向上は常に感染をしていることでもあると思っている。余りに無菌状態のような環境にいれば、わずかなウイルスとの遭遇でも感染してしまう。

 

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石垣島路上寝年間600件越え

2020-01-23 04:02:32 | 石垣島

 石垣島では12月でも路上で寝てしまう人が居る。毎晩2人ぐらいはいるらしい。路上生活者というわけでは無い。家に帰らないで、その辺で寝てしまう人が跡を絶たないらしい。それほど温かいと言うこともあるが、酒に飲まれてしまう人が居ると言うことでもある。

 これは別段石垣島だけのことでは無い。関東でも結構路上寝からの交通事故が問題になっている。それでも路上寝する人は沖縄に多いとよく言われます。人口5万人の石垣市で、毎晩2人というのは多いいのか少ないのか。やっぱ、多いでしょう。

   市役所ロビーで警察が写した写真を展示しているそうだ。暮れになって飲み会が多いからだろう。まあ、わざわざ見に行こうとは思わないが、テレビでは連日報道していた。話題になるだけの現象である。こういう報道の方が他の地域ではこれほどではない気がする。
 
 そう思って調べたら、宮古島でも同じくらいあるし、本島でも多いい。沖縄では路上寝は結構話題なのだ。あれこれ調べると、南国沖縄のイメージがなんとなく外で寝るという感じがあるのだろう。全国平均の三倍らしい。

 海岸で寝てしまう人は多いらしい。これは砂浜で寝たら気分がいいに違いない。満天の星。波の音。海風の心地よさ。海でバーベキューして、その辺の砂に潜って寝てしまうなんて、なんとなく気分よさそうだ。

 石垣サンサンラジオでは、暮れになると、昨日の路上寝は2件でした,等と言っている。まあ、こんな感じで毎日報告がある。一人は三崎町230記念碑前でねていました。もう一人は川の中。うー川の中ですね。川の中で寝てたんですかね。この川の中が意味分からない。河原ではなく、川の中で寝ていたというのだ。これすごくない。危ないサー。

 何故、ここまで飲んでしまうか。「おとーり」をやるからだとされている。おとーりは大きなピッチャーの中にドバドバと泡盛を空けて、ここに水をザーと入れる。これで準備万端、おとーりを始める。いわゆる回しのみの一種である。

 まず演説である。石垣では人品は演説で決まる。まず立ち上がり、コップに準備の泡盛水割りと氷を入れる。とうぜん、氷を入れない人も居る。そして、演説を始める。これが長い。結構長い。気の利いたことを言わなければ、軽く見られるばかりだ。
 
 宴会が盛り上がってくると、誰かが立ち上がって、「おとーりを回します」と挨拶を始める輩がいる。今飲んでいる宴会の主旨や日常の話題など、一通り演説をします。挨拶では無く演説である。

 ここが問題なのだが、演説が終わると、自分のコップに注いであるお酒を一気飲みし、ピッチャーの酒をグラスに注いで、隣の人に差し出します。受け取った人は、お酒を飲み干したら、飲み返えさなければ、立場がありません。そして演説した人(親)にグラスを返す。

 親はまたそのグラスにお酒を注ぎ、先ほど飲んだ隣の人に、グラスを渡します。お酒を飲み干したらグラスは親に返しその隣の人への繰り返しで一周します。演説が終わると、ぐぐーっと飲み干す。ハイ次の人、演説。斯うして一周する。その間回りでは演説の批評をわいわいとやる。

 お宅では奥さんの方が大分上だ。旦那は偉そうでダメだ。というのは私の評価だった。ともかく、笑いをとれないような演説ではだめ。しかも、内容のある上に、立派な起承転結が無ければならない。

 こんなことを延々とやる。らしい。大体、8時ぐらいから始めて、12時過ぎが当たり前。らしい。らしいだけで私はすぐ帰るから、実態は知らない。演説をしているのは飲み屋に行けば、すぐ分かる。カチャシーで踊るような人はまず居ないが、演説している人は普通である。

 石垣の警察では全国の3倍はいるという路上寝対策に、写真サービスをしている。路上寝をしている姿を写真でとってくれるのだ。別段寝相の良さを比べるわけでは無い。撮った写真をポケットに入れておくのだそうだ。効果あるのかねー。跡で恥ずかしくなるだろうというのだが。

 男だけかと思えば、そうでもない。サンサンラジオでも昨日大川では女性が路上寝をしていましたなどと言っていた。ともかく泡盛がうますぎるのが行けない。泡盛は悪酔いしないから、ついつい飲めるだけ飲んでしまう。


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絵描きとはどんな人のことなのだろうか。後半

2020-01-22 04:18:05 | 水彩画


 私の30代は職業絵描きになれるのかもしれないと、一番思えた時期である。1980年前後である。絵が投資の対象となっていて、絵画投資のための雑誌などが、書店に並んでいた。絵画投資で成功した人の話として、絵は選んではいけない。何でも買っておく。その100点のうちの1点が暴騰すればいいのだ。などと書いてあった。

 そのご、美術ジャーナル画廊の羽生さんに手紙を書いて絵を見て頂いた。羽生さんはわざわざ、山北の山の中の家まで絵を見に来てくれた。絵が分かる人だと聞いたからだった。そんな大それたことまでしたのは、何とか絵描きになりたかったので必死だった。

 それから個展をやらせていただくようになった。お願いをしてやらせていただくようになったのだが、画廊でやらしてもらうことで売れなければ、迷惑をかけるという気持ちが負担になっていた。何とか絵を売ろうと様々な努力をした。親戚友人にはずいぶんお願いもした。

 それでも、その頃はいまより絵が売れる時代だった。バブルの時代だからだと思う。私のような無名のものでも、年間20枚ぐらいは売れたと思う。年間6回個展をした年もある。そんな暮らしが10年以上続いたのだろうか。中途半端に絵描きの入り口辺りをうろうろして30代を過ごしていた。

 毎週銀座の画廊を歩いていた。面白い絵が飾られる画廊がだいたいわかるので、ぐるりと回る。ギャラリーガイドという月一の簡単な印刷物を取っていた。それを見て印をつけては歩いていた。それで絵を描く知り合いが増えていった。画廊の数も100件以上あったと思う。

 誰かが個展をやるというとそこに集まった。そして飲んで、絵の話をした。面白かったと言えばそうなのだが。公募展やコンクールで評価されているわけではないので、なんとなく引け目のようなものは感じていた。それでも、評価されるような絵を描くことはできなかった。受け入れられていない立場の曖昧さがだんだん重くなった。

 自分の絵というものは全く分からなかったが、売れればそういう絵を描くという程度の事だったと思う。今思えば恥ずかしくなることばかりだ。当時フランス派というようなしゃれた絵がはやりだったかもしれない。いくらか売れたのもそのせいだったのだと思う。わたしは何もわからないまま、ザバロ風に描いていたのかと思う。書いていても恥ずかしくなる。

 話は戻るが、フランスから戻ると関東中央病院というところに父は入院していた。当時三軒茶屋の商工センターというところで両親はスポーツ品店をやっていた。私は父のいないスポーツ品店をやりながら、絵を描く生活を続けていた。その中で個展をするという状態である。絵描きには程遠いところにいることもわかっていた。

 史染抄の個展会場で世田谷学園の恩師である加藤先生から、自分が入院するので、代わりに美術講師をやってくれないかと言われた。その間だけならという事で、世田谷学園に行くことになる。そのまま加藤先生が亡くなられたために、それから世田谷学園に勤めるようになった。

 話は前後してごちゃごちゃになってきたが、30半ばになり絵の行き詰まりを感じるようになる。描いている絵が自分のやりたい「絵を描く」こととは違うという気持ちである。自分の絵を描くというより、観念の中にある絵画というものを目指していた。理屈で作り上げた良い絵の亡霊である。

 絵が描けなくなる。描こうとすると吐き気がしてしまいかけない。描く絵が分からなくなった。しかし、まだいくらか売れていて4つほどの画廊に絵を委託していた。それで相当に困った。

 絵を描いていて一番苦しかった時期ではないだろうか。こんなことでは絵を描いて生きてはいけないと考えた。自分の中にある売るための媚のようなものに耐えきれなかったのだと思う。個展の苦しさは絵を売っている見苦しさであった。自分の絵を価値があるとは思えないまま売る、詐欺師の様な気分である。

 私には商才があった。そのことはあまり書きたくないことだが、書いておく方が正直である。絵を売るということより、学校に勤めるより、収入を得ることはできた。スポーツ店や様々なことにけりを付けなければ、まともな絵描きの生き方ではないと自覚した。インチキの生き方を続けられなくなった。

 東京を離れようと考える。これが転機だった。離れて、最初からやり直そうと考えた。世田谷学園には通っていた。これがあったので、冒険に進めた。しかしそういうところがインチキともいえるのだが。通える範囲の山の中を探し、暮らしを立て直そうと考える。母は一緒に来た。病気の父は東京を離れたくないと言っていたが、家が出来れば、一緒に来るだろうと考えて、山北の山の中に自給自足の家を作った。

 山北の山中での開墾生活は移住の前から進めていた。この時三原山の噴火が見えたから、1986年11月である。37歳の時にはすでに開墾を始めていたことになる。その開墾をしていた場所にアトリエを作った。その家が出来上がる直前に父が死んだ。

 こうして絵描きのなろうとしてもがいていたころを、思い出して描いてみたが、どうも全部書いたとも思えない。忘れたいことは忘れたのだろう。自分のどうしようもない中途半端だけがはっきりする。
 
 移住して自給自足を目指した。絵が分からなくなったのだから、絵を描くことから離れて、自分を原点から作り直すしかできなかった。原点がどこかもわからないのだから、自分の身体を作っている食べものを自分の手で作ってみようと考えた。どうなるかはわからないが、自給自足に挑戦してみようと考えた。

 それで、最後の個展をした。今は無くなった文芸春秋画廊だった。生前葬を展覧会の形でやった。この後は個展はやっていない。そう案内状に書いたとおりである。こんなことが書いてあれば、来ない訳に行かないと言われたのを覚えている。

 油彩画の道具はすべて捨てた。そして、文芸春秋画廊で最後の個展を行った。絵を売る暮らしを終わりにした。絵をもう描けないでもいいという気持ちだった。

 描きたくなった時だけ描くことにした。それは今でもそうしている。描きたくなれば絵は描くが、絵描きになるという事は止めた。売れない絵をなんとか売るというような、辛いことはしないことにしたのだ。というか出来なくなった。

 絵を売って生活するのが絵描きた。だから画家というのだ。絵を売って家を建てる人のことを画家というのだ。と聞いたことがある。お金のことは執事に任せておけというのが絵描きだ。とも聞いた。お金は若い頃は親のすねをかじり、年を取ったら子供のすねをかじるのが絵描きだ。というのも聞いたことがある。

 今は70歳になって、絵を描いていても許されるかなという気分で絵を描けるようになった。絵を描くことそのまま暮らしている。絵を描くことが生きるという事になる。そんな絵を目印にして、前を向いて進むのが今の生き方だと思っている。大したことのない絵をひたすらに描いている自分でいいのだと思っている。ひたすらであることが出来れば十分である。

 自分にひたすらな生き方があれば、いつか絵の上に現れる。それが絵描きではないかなと思う。媚びた絵を描いたり、自慢げな絵を描いたり。人真似であったり。絵は自分をごまかせないものだ。生活の為に仕方なく描いているというような言い訳もない。絵描きというものを目指す。自分をやり尽くす以外に残されたことはない。
 
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絵描きとはどんな人のことなのだろうか。

2020-01-21 04:21:26 | 水彩画


 久しぶりに鉛筆デッサンをやっている。デッサンは練習とか、基礎とか言うことでは無い。色の無い形式で絵を描いている。要素を減らして、自分の絵は何なのかを探している。デッサンをしていると、何が描きたいのかが絞れてくるようだ。

 絵描きになりたいと子供のころ考えて、そのまま今になった。職業的には絵描きという者にはなれなかったが、やはり自分の目標は絵を描くという事にある。農業をしながら絵をかけたという事はとても良かったと思う。

 そして、ブログを書いてきてよかったと思っている。その恩恵は様々ある訳だが、一番は自分の励ましになっているということだろう。日々何かと不安な気分に陥る。迷惑をかけている。間違っている。書くことでその怖さを軽減できているようだ。

 もう一つは自学自習である。書くことで調べたり、新しいことを知ったり、確認したりする。やったことを書いておくことで、次にやるときに参考になる。その積み重ねで、だんだん自分のやっていることを進めることが出来る。

 毎日文章を書くことが私には必要である。継続することで頭が訓練される。文章を書きながら考えが深まる。身体を動かすのも同じだ。一日休むと戻るのに何日もかかる。年を取るとその時間が長くなる。やりたいことを意識して継続することを努力する。

 絵も同じ事になっている。私の場合の絵を描くという事で、世界を見ていることになる。自然の成り立ちのようなものを感じようとしている。絵を毎日描くことと、その絵のことを書きながら考えることが大切になっている。その考えることに役立つのが、ブログに書いてみることになる。書いて見て、考えが深まるという事がよくある。

 絵描きにはなれなかったのだが、絵はいつも描いてきた。あと何年描けるのかわからないが、自分の生きるという事を絵を描くという事でやり尽くしつもりだ。すこし、絵描きになろうとしてきた過程をおもいだして書いてみたい。なんとなくすっきりしない自分を直視してみる。

 子供のころから絵を描くことは好きだった。特別にと言うほどではなく、普通に絵の好きな小学生だった。絵を習うようなことはなかった。祖父は日本画を弟子入りして修業した人で、小学校の図版を作る職業の人だった。叔父は彫刻をする人だった。そんなこともあり、自分も絵を描いてゆきたいと考えうようになったのではないかと思う。きっかけというようなものはなく、いつの間にか好きになった。

 中学に入るとすぐ美術部に入り油彩画を始めた。渋谷にあった地球堂に油彩画の道具を買いに行った。それまで水彩画を描いていたが、油彩画に憧れがあった。中学2年生の時に芸大に行きたいと目標を定めて、木炭で石膏デッサンを始めた。少年ピカソの足のデッサンが美術の教科書に載っていた。自分のデッサンと較べて、少年ピカソも大したことはないと思っていたぐらい傲慢だった。

 なぜ受験を続けなかったのかと思うが、父親が本気で芸大を目指すことを反対したことが大きかったのではないかとおもう。父は祖父や兄である叔父見てきて、息子にはやらせられないと思ったようだ。反発して頑張りそうなものだが、高校に入ると芸大を目指すことは止めていた。油絵は描いていたのだが、芸大には行かないことにしていた。

 父は絵描きになるなら、普通の大学に行き、そこから進めばいいというように話していた。何故そいう風に話したのかはわからないが、父は絵を描くという事をもう少し広く考えた方がいいと思っていたようだ。父を尊敬していたので、父のいう事に従ったのかと思う。

 そんなこともあり金沢大学に行って絵を描いていた。両親は大学に行くなら自分の力で行けとも言った。自分で大学に行っていたので、親との関係は薄れた。大学に行ってからは絵描きになりたいという事はかなり明確になっていた。両親には卒業する間際に就職はしないで、絵描きになるためにフランスに行くと伝えただけだった。今度は、そうかというだけだった。

 東京の家に戻りフランスに行く資金を溜めた。三菱エレベーターの設備会社でのアルバイト生活である。家にいるなら、食費は出せと言っただけだった。僧侶の母方の祖父がいくらたまったかと聞くので、今100万たまていると伝えると、同じだけ出してあげるので行くなら早く行けと言って100万円くれた。その時にパリにいる弟子丸泰仙という曹洞宗の僧侶 への紹介状をくれた。然しその紹介状は使わなかった。一度パリで会ったが話はしなかった。

 そして、3年弱フランスにいた。最初の一年はナンシーの美術学校へ行きその後パリのボザールに行った。そして両親が病気で家が大変だという手紙が兄から来て日本に戻ることにした。

 帰国して自分も調子が悪いので、病院に行くと結核になっていて、だいぶ体が弱っていたことがわかった。無理をして絵を描きすぎた。良い時に帰ったのかもしれなかった。

 戻ったがどうすれば絵描きになれるのかは皆目わからなかった。公募展というものにあれこれ出した。出しても入選したり、落選したりであった。到底公募展で何とかなる人間とは思えなかった。コンクールというものにも何度か出したが全く駄目だった。評価される絵を描くという能力はなかった。

 どうもそういう評価される絵が理解できなかった。私の描く絵が、日本の公募展やコンクールとは異質だった。今思うと、美術学校の先生であったザバロ風だったのだから、違ったのは当然かもしれない。

 フランスでザバロから学んだものは日本の当時の公募展やコンクールとは全く違っていた。そんな行き詰まっていたところに、史染抄という銀座の画廊の山田文さんが何故か私の絵を評価してくれた。それで史染抄で個展をやるようになる。

 山田さんを紹介してくれたのは、金沢の先輩だった庄田常章さんであった。ずいぶんいろいろの方を紹介してもらった。山田さんは津軽の人で、着物のデザインをやる人だった。感覚的な人で、何か私とは波長が合うという感じだった。毎週史染抄に遊びに行っていた。

 その後いくつかの画廊で個展をさせてもらえるようになった。いろいろの方の紹介に助けられた。あの頃は絵は売れる時代で、たくさんの新しい画廊が出来ていた。そうした小さな新しい画廊であった。まだザバロ風の絵を描いていたと思う。ザバロは日本の画廊で個展をやることもあった。

 当時、カトランやギヤマンが結構人気作家でザバロもその次に来ると見られていた。私の絵も公募展では受け入れられなかったが、何かフランス風の感じが受けたのかもしれない。

 まだながくなりそうなので、後半は明日書くことにする。
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限界資本主義の未来をイメージしてみる。

2020-01-20 04:21:09 | Peace Cafe

上空からの夕暮れの石垣島

 米中経済戦争は限界資本主義の戦いに見える。強者の論理のアメリカと国家資本主義の中国の戦いになっている。両者の利害対立は妥協はあるとしても、根本的には相手を倒す以外に終わりはない。

 アメリカの自由競争は巨大な資本を持つものが有利な自由競争である。アメリカの望ましい世界の方向に,世界を誘導することでアメリカ経済は成長してきた。ところが、中国というアメリかを凌駕する可能性がある国が、国家資本主義と言う形で世界の方向を変えようと意図し始めた。資本主義が競争だけならば、覇権主義の出現は当然である。

 日本の大半の経済予測は中国経済は崩壊すると予測していた。今もあるのかもしれない。何故政治家や経済評論家が中国崩壊を予測したのかの理由は、自由競争の方が統制された経済よりも勝るという思い込みがあったからだと思われる。

 しかし、国家資本主義の方が競争有利の状況下では有利ではないかと思えた。中国へ自然養鶏のことで出かけたときに痛感した。ある農村をまとめて有機農業の共同経営の企業村にする。あるいはキノコ栽培の大工場にする。

 ひとつの方針へ誘導が公共主導で強引に遂行できる。日本では中国の環境対策がひどすぎるから、中国は住めないことになるだろうと言う意見も良くあった。しかし、国が環境対策に取り組むとなれば、一気にその方向に進む。循環エネルギーもプラステック対策もやる気になればやりやすい状況がある。

 ここをダムにすると決めれば、反対も何も出来ない強引さで遂行される。道路計画でも都市計画でも同じで、個人の利害は軽視され社会投資が進む。こうしたやり方が、成功しないというのが日本やアメリカの考える自由主義経済であった。

 ところが、個人の権利を制限する国家資本主義の方が、競争には有利になってきたというのが、現在の中国の姿である。その個人の権利を制限する表れが、香港問題であり、ウイグル問題なのだろう。

 軍事的覇権主義と言える側面も同じ事で、軍事力を強化し、常に近隣諸国に対して、圧力を加えることが出来る状態に立つことが、国家の圧力を自国民に対しても示すことになる。公共に逆らえない国作りになる。

 それは世界外交にも当然波及し、中国を無視することはどこの国も難しくなっている。その軍事的圧力は経済競争にも当然影響を与える。中国の途上国への影響は強いものがある。生活のインフラを、電気水道のようなものを中国が利権持つ国というものが登場している。

 国家資本主義と、自由競争原理の資本主義とどちらが勝利するかというのが、アメリカと中国の争いである。しかし、この競争の激化は今後も続くのであろうが、その影響は当然日本にも負の影響として現われてくるだろう。

 国家資本主義の登場は国と言うものの崩壊の前段階ではないだろうか。企業というものが、国というものを越える時代が来る。企業は企業の利益を優先し、国というワクを邪魔なものにする。それは中国と言うワクも結局の所、同じ運命を歩むのではなかろうか。

 今は世界の覇権をアメリカと中国が争っているが、世界の覇権を願うような国はなくなる。世界中の利益を独占しようという巨大企業は登場するだろうが、国家というワクを凌駕している。

 企業が企業の利益のために、武力を保持すると言うことも出てくるのだろう。企業は自分の都合の良い国に、都合の良い部分を置くだけで、国と言う限界を持つものではなくなる未来が予想される。

 アメリカはトランプが支持される背景にあるあがきは、衰退の前兆とみなければならない。利己的な国が世界を覇権を維持することはない。世界の駐留米軍は有料貸出軍事力である。儲からないとすれば引き上げる。投資額を返さないならば、帰らないという。

 この姿がアメリカの国家軍事産業なのだろう。軍事産業のテコ入れにわざわざ紛争を起こすとも見える。日本に武器を売りつけるのも、日中の対立に火を注ぐのも、アメリカ一国主義である。

 それでは中国が覇権を取って代わるかと言えばそういうこともない。中国の企業が中国の枠を超えない限り、世界企業になることは出来ない。そうした自己矛盾状態が中国企業には待っているはずだ。

 中国企業も世界を制覇するために、中国というワクを食い破るときが来るはずだ。企業は利潤のために国家利益というものすら、排除を始めるに違いない。これが国家資本主義の矛盾になるだろう。

 日本にも日本発の世界企業が登場して、世界制覇を目指しのし上がろうとするだろうが、そのときには当然日本というワクは捨てているだろう。そうでなければ、世界での競争には勝利できない。

 こうした限界資本主義では、優秀な能力以外を必要としなくなる。大半の企業が必要としないほとんどの人間はどうなるのかと言うことになる。一言で言えば奴隷的消費者になるのだろう。企業は利益を生み出す消費者というものも必要としている。消費者としての存在をなくすようなこともない。

 企業が国を超える時代が20年後か、30年後には来るとすれば、そのときには特別の能力のある人間以外は、企業では不要になる。そうした一部の超エリートとその他の人間に峻別される。

 普通の人間は消費者として存在は許されているはずだ。そうした普通の人間の生き方というものが産まれているはずだ。と言うか、普通の人間の生き方が探求されて行くのではないだろうか。

 国と言うものが、企業の力の下に弱い枠組みとして存在する状態になる。弱体化した国というものの中に存在する、国民という普通の人間がどのように生きるのか、あるいは生かされているのかになる。


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クソ野郎として、ドコモショップに言わせて貰えば

2020-01-19 04:58:41 | 暮らし


 ドコモショップの「クソ野郎事件」は人ごとでなく納得がいった。ドコモショップ内の伝達事項のメモ書きを間違えてお客さんに渡してしまった。そのメモにはお客に対してクソ野郎と書いてあったのだ。正直なところ、昔からクソ野郎の当事者のような気がしている。

 ここでのクソ野郎とは、つまりカモということなのだろう。ドコモショップにしてみれば、面倒な訳の分からない客のことなのだが、騙せる客ということでもある。ドコモショップでは私のことを有難いクソ野郎と考えているに違いない。だから教わったときには何かを購入することにしている。ドコモショップが電気屋さんより、高いのは承知してはいるのだが、カモはカモらしくなければ申し訳がない。

 全体が把握できないままでいるのが、気持ちが悪い性格である。それでついつい、説明を求めてしまう。ドコモの仕組みは時々変わるので理解が出来ない。なんでも分かりたい困った性分である。

 ドコモの料金は実に分かりにくく変えて行く。この料金体系は意識して分かりにくくしているのだと思う。各社わかりやすければ、比較して一番安いところだけが繁盛する。サービスはお金だけではないのだが、どうしてもお金だけの競争になる。それをドコモは嫌っていると想像しているが違うだろうか。

 スマホの操作もわかりにくい。スマホで文字は入力できない。タブレットを壊してしまったので、スマホに変えた。又分からなくなった。これを聞きたくても、ドコモショップに行けば嫌がられるに決まっている。それならスマホ教室に行きたいと思っても、スマホ教室の予約が取れないほど満杯である。大体は電話の遠隔操作で教わっている。確かに、ドコモの顧客は遠隔操作されているということだ。スマホの機能の10%位いしか利用していない気がしている。

 それにしてもいつもドコモショップは満員である。家のそばにある、他のauやソフトバンクはそれほど人がいたことがない。何故、ドコモショップはいつも混んでいるのかお店で聞いてみた。ドコモでは親切に細かく教えているから、一人のお客様に時間がどうしてもかかるのです。よその会社では説明はほとんどしないそうですと、教えてくれたが本当なのだろうか。騙すのの時間がかかると言うことでなければいいが。

 比較しにくいように様々サービスを複雑化して持ち込んで、他社と比較しにくいようにしている。政府がいくら通信費と機種代をはっきりせいと怒っても、そうしただましの料金体系は譲れないもののようだ。電気屋さんか、ネットで電話付きタブレットを購入して、通信だけドコモに頼みたいのが本音だ。ドコモでは機種の種類も少ないし、電話付きタブレットがないというのが致命傷だ。

 後でそうだったのかと理解してがっかりすることになるが、契約をした後なら構わない。そのために簡単には変更できない仕組みにしてあるわけだ。一見お得なように読めるが、実はそうでもないというパターンが良くあるのだ。

 クソ野郎をふやして、騙して儲けようと考えて複雑化しているにちがいない。だから、ドコモショップに行くたびに不愉快になって帰ってくる。たぶんドコモショップの店員の方はもっと腹を立てて、クソ野郎、クソ野郎とストレス解消して居るのだと思う。そうじゃなければ私など相手にしてられないだろう。

 そもそもドコモショップとNTT石垣島の違いすら、最初は私には理解できなかったのだ。それで間違って違うところに契約してしまった。電柱には沖縄電力のものと、NTTのものがあると言うも始めて知った。その上に光回線が来ていても、つながる家にとつながらない家があると言っていた。これも意味不明のままだ。

 私が石垣のドコモショップに直接行けないので、設計事務所の方が聞いてくれた結果、できないという返事だったのだ。いったい何だろうと思ったが、電話では結局分からずじまいだった。まさにお互いがクソ野郎である。

 家の電機回りをやってくれた電気工事屋さんもドコモショップに行ってくれたそうだ。何故テレビもインターネットも今出来るのだろう。おかしい、おかしいという。出来ないと確かにドコモショップは言ったのだと、首をかしげていた。その辺は分からないところだが、どうも回線利用の電柱の問題があるらしい。このドコモショップは閉店してしまった。

 クソ野郎のお客さんがあふれている。店員もクソ野郎になるだろうし、長くは続かないだろう。当然、十分な社員教育などできるわけもない。間違ったことを店員が伝えてしまうことなど普通にある。だから、店員のレベルで説明してよい範囲がたぶん三段階に分かれていると思われる。質問するたびに、クソ野郎対応店員は上司に聞きに行く。

 先日はDポイント8000ポイントを騙された。ゴールドカードにして、2万円の買い物をすると、8000ポイントがもらえますというキャンペーンがあったのだ。それでゴールドカードに変えた。ところが本当に貰うためには、3つのハードルがあった。2つは越えたのだが、三つめのハードルを越えられないで、期限を過ぎてしまい貰えなかった。

 3つのハードルはここで細かく説明するのも腹が立つのでやめておくが、どこかでこけるようにという、罠のようなものだと私のような、クソ野郎には思える。理解できる人にはそうではないということは知っているのだが、このクソ野郎の無知に付け込んでカードを変えさせようというのが、手口である。ドコモショップで聞いた上で2万円の買い物をしたのに、失敗をしたのだ。カードを使うにもいろいろあるようで、買い方を説明しないところがみそだ。

 まあそれは騙されたクソ野郎が悪いのであっていいとするしかない。無知な不慣れな客を騙す商売をしていて、儲かるかと言えば、いつまでも儲かるわけがない。商売というのは、汚いことをしていれば、必ずみじめなじり貧で終わりになる。違うかな。私はそう考えてきた。

 そもそも、この代理店システムというのは悪いことが起こる仕組みだ。セブンイレブンでもブラックバイトが問題になる。本部は儲かるシステムを作り、代理店を募集する。代理店はブラックバイトを雇わざる得ない状況に陥る。

 しかし、それはあくまで代理店の問題で、ドコモ本社の問題ではない。今回もドコモの名前は出てくるが、実際には下請け代理店の問題なのだ。このあたり、責任逃れができるよくできた仕組みなのだろう。

 これが、ドコモショップがドコモの直営であれば、クソ野郎は苦情を本社に持ち込むだろう。しかし、あくまでそれは下請けのドコモショップのアルバイトが、間違えてやったことなので、善処しますぐらいで済ますことができる。まったく上手く出来ている。

 そしてドコモ本社は、代理店を締め付けることだろう。ちゃんとやらないなら、代理店を外すということになるのかもしれない。問題はドコモという企業の営業方針にある。

 クソ野郎の私はドコモショップに迷惑をかけているのは確かだ。理解力がなくて申し訳ないと思っている。ドコモショップの店員さんが悪いとは全く思っていない。申し訳ないと考えている。ドコモは誰にでもわかりやすくする義務はあるのではないだだろうか。

 タブレットの電池が終わってしまったのだ。ところがこれにはドコモは対応しないという。ドコモショップで購入したタブレットなのに、何故かと言えば、メーカーであるソニーが生産を終了した機種だからだという。まだ購入して4年である。売った店舗は何らかの対応をすべきだ。こうした機械に対する対応も電化製品に比べて良くない。

 結局、電話機能のあるタブレットはもうドコモでは扱わないと言うことで、仕方がなく、スマホに変えた。残念であるがクソ野郎としてはやむ得ない。インターネットで調べると、電話機能のあるタブレットはかなりある。しかし、それがドコモで使えるのかどうかが分からない。購入してからきっと邪険にされることだろう事だけは確かだ。

 
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自分の絵を制作するのは難しい。

2020-01-18 04:43:44 | 水彩画



 いい絵を描こうとする事は誰にでもできる。良い絵が誰にでも描けるという意味ではない。良い絵という具体的な目標があれば、その方向に努力することは出来ると言う意味だ。

 しかし、自分の絵を描くと言うことは中々出来るものではない。自分と言うものが分からないものだからだ。むしろ、自分というものが分かりたいということが、絵を描くと言うことではないか。自分が見ていると言うことから、自分が美しいとか、感動するとか、そんなところに入って行く。

 私が自分の絵を描きたいと思うのは、いいと思う絵はなるほどその人が描いたと思えるだけだからだ。ゴッホの絵に感動するのはゴッホと言う人間内部の表現に感動している。ボナールの絵に魅入られてしまうのは、ボナールという人間の深い感性に感動している。マチスの絵に納得させられるのは、マチスの絵にあるマチスという人間の知性である。

 私という人間が人に感動を与えられるとも思えないが、ダメな私でいいから、私という存在が絵に表現されていて欲しいと考えている。それが出来ないとしても、自分の描く絵が、いわゆる良いとされるような絵の真似だけはイヤだと言うことである。

 ここに並べた、四枚の絵はここ1週間に同じ場所で描いたものだ。額装した作品は同じ場所で描いたものだが、1年ほど前のものだ。縦構図の絵が一番新しい絵で、横構図の三枚を描いた後に続けて描いたものだ。

 ここ1ヶ月は自分が表現したい世界を、何とか描こうとしている。つまり自分が画面に現われるように意識して描いている。こんな描き方は、久しぶりのことだ。ここ2,3年は意図的なものを捨てて、見えるままに描くようにしていた。自分の内なるものに向けた意識は久しぶりのことになる。いま、以前とはかなり違うことをしていると感じている。

 絵を描くというのは当たり前にそういうことなのはずなのだが、それが出来ないっで来た。良さそうな絵を真似してきただけだったのだ。やっと自分の中に、染みついていた客観評価のようなものから抜け出られそうな所まで来た。この歳になってやっと人目を気にしないようになった。

 見ている世界と自分の中の世界との関係のような曖昧なものを、具体的に画面の上で確かめるような制作をしている。絵を作るというようなものを写生に加えて行く描き方は、久しぶりのことだ。それにいくらか手応えがある。

 しばらく、こびりついた絵の描き方を精算することだけに専念してきた。ともかく見えるように描く。もちろんそれだけでも難しいのだが、絵らしい絵にしようという気持ちを捨て切れるまで、見えるように描くことに専念してきていた。こびりついたものを洗い流すのは本当に難しいことだった。



 この縦構図の絵が今回の石垣での最後の絵なのだが、海から空への色の帯は見えているものを、どう自分の絵として表現することが出来るかの試行錯誤の結果である。できているとは言わないが、やろうとしていることは出ている。

 石垣の海は手前にエメラルドグリーンのリーフ内の海がある。その先にリーフの外れの浅瀬があり、白波が立っている。そのさらに向こう側の海はセルレアンブルーで始まり、黒々とした外海まで続く。その黒い帯の上に空である。海に近い空はたいていの場合霞んでいる。霞んだ空の上にまさに青空が来る。その上にはやはりかなり濃いコバルトブルーが続いている。

 この感じがなんとも石垣島の風景の世界を感じさせる。晴れ晴れとした明るい世界が自分を惹きつけている。何かここに世界観につながるものを感じる。代えがたい世界をどうしたら表現できるものか、いろいろ試みている。見ている美しさの背景となる、自分の感じている世界を画面に再現したい。



 この絵の上部半分は描きたい世界が出て来たと感じたものだ。それでその考えを広げていった。地平線と海、そして空は描きたいように描けている。しかし、下半分がそれについて行っていない。絵全体になると曖昧になっている。それで、その次をやってみようと、最初にあげた縦構図を描いてみたわけだ。

 このときに空を狭くした。空を狭くすると同時に、手前の部分をとても弱く描いてみた。画面としてはおかしいくらい弱いのだが、それを意図に出来ないかと試みてみた。素描も何度か描いた。全体を充分に把握した上で、描いてみたい。

 少しすすんだのかと思えた。気分いいかというと、そうでもなくやはり不安ばかりである。まだまだと言うことなのだろう。制作はしたが、達成感はほとんどない。やればやるほど見えなくなる。行き着けども行き着けども、海の青。えせ山頭火

  問題は田んぼを区切る線にある。線が違う。そのために肝心の絵の中央部が自分の考えに近づかない。線ではなくどう表現したらいいのか。曖昧にしておけばそれとなく良いのだが、どこか違う。



 この絵が今回の始まりの絵だ。見えるように描いてみている。いいところもあるのでこの後をつづけてみたことになる。良いところは筆触に還元したところだ。筆触に表現できるものを整理しようとした。あれこれ試行錯誤している内に、少し重くなった。

 水彩は重くなってから軽くすると言うことは困難な場合がほとんどである。それで、この絵はここで置いておいて、次の絵で上部の空を広げて、さっぱりと描いてみたわけだ。

 同じ絵で出来ない場合、そのまま置いておいて、次の絵でやってみるようにしている。この絵で少し発見が出来たのが、描写の整理の仕方だった。筆触に置き換える意味のようなものだろう。かなり明確に見えているものを大きな筆触に置き換えてみた。そのやり方は私らしいと思えた。筆触は私にとって、色の次に重要かもしれない。

 田んぼの畦の表現がおかしかった。それは筆触が違うと言うことだと分かったのだがどうしようもないまま、終わった。この課題は続いている。この後にもう一枚描いてみた。今度は紙をパミスに変えてみた。今度は色が出ない。やはりファブリアーノの発色の良さはすごいものだ。
 
 今日は神田のアポロギャラリーで絵を語る会だ。一枚を選んでみて貰おうと思う。どんな風に見えるのか楽しみである。
 
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玄関の大理石と貝のモザイク画の完成

2020-01-17 04:36:57 | 石垣島


 玄関のモザイク画が完成した。ちょぅと自慢の気分である。写真は玄関の正面である。下の方は水中である。上に行って波があり、鳥が飛び、太陽がある。そしてその上に星がある。右の壁には生命の木がある。

 出入りするたびに、気になるところを直していった。一番高いところに離れて、海星(ヒトデ)を置いた。ヒトデの乾いたものである。石垣の三崎町にある貝屋さんにいったら、玄関に飾るならあげると言われて、いただいたものである。きれいな星になった。

 これで、太陽と月と星と三つがそろったことになる。太陽は大理石で描いた。月は海岸で拾ったすれたガラス片でつくった。そして星がヒトデである。



 こちらは生命の木である。大理石のリンゴに、貝は花や果実のつもりだ。貝の色が中々美しい。高いところにある大きな貝がスイジ貝で火防の貝である。

 上の方に鳥がいて花を咥えている。イーカルスのつもりで有る。その上に月が出ている。太陽だと翼が落ちてしまう。


 スイジ貝は玄関の両側にもあって、全部で3つである。昔から集めていた貝だ。いつか石垣の家の入口に、飾るつもりで集めていた。ようやく場を得たことになる。大理石の方も、いつかいつかと持ち歩いていて、30年以上前のものである。

 貝や石も、見つけると拾っていた。一度小田原に運んで、また引っ越しで石垣に戻ったものも沢山ある。石垣の石は琉球石灰岩だけでなく、チャートや石英のような堅い石も良くある。そうした岩石の採石場もある。この地層の変化も複雑で面白い島なのだ。

 スイジ貝は石垣の家ではたまに見かけることがある。色はドンドン白くなるようで、真っ白になった貝が多い。水という字に見えると言うが、どうだろうか。暮らしの彩りとして、貝が飾られる民俗が魅力的ではないか。



 狭いところなので、写真が旨く写せないのが残念だ。右側に穴あきのブロックが積み上げてあり、そこにも石垣の面白い石や、珊瑚が並べてある。これが意外に面白い。このだんだんの飾り窓も石を置くつもりで作った。

 壁の色は石垣の土の色である。玄関周りは少し明るい色で、乾いた土の色を表している。そのほかの壁はもう少し赤い色で、濡れた石垣の土の色である。石垣に始めてきたときに、土の色が印象的だった。

 やはり農業をやってきたから、土の色には反応をしてしまう。設計をしてくれた照喜名さんは壁の色には賛成ではなかったのだが、わざわざ塗料やさんに土を持っていって色合わせをした。

 石垣島には至る所にトラノオ(サンスベリア)が置いてある。アスファルトを割って出てきたりしている。玄関当たりにはたぶん半分以上の家にはあるのではないだろうか。それで真似をして置いてみた。石垣島の玄関らしくなっただろうか。

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