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木村忠太と言う人が居た。「絵画は、色であり同時に事物である」

2019-06-30 04:00:22 | 水彩画

  水彩画を色を使って描いている。当たり前のことのようだが、重要なことだと思う。色は黄色であれば、黄色という音符のように使っている。黄色の花と考えるときもあれば、黄色の点だと思って描くときもある。この行き来が絵を描くという行為特徴なのだと思う。


 色の組み合わせで作品を作ってゆく。その色彩は楽譜のように組み立てられてゆく。描かれた色彩は抽象的なものである。ところがその色彩が事物の意味を持つこともできる。この微妙な加減がなんとも言えない魅力だ。

 色の楽譜は共通の仕組みがあるわけでは無く、描く私が探しながら、作り上げている記号でできている。西洋音楽であれば、楽譜でかなりの部分まで表現されていて、決定的な違いまでは無い。それでも解釈というものでかなり違う音楽として演奏されることもある。



 陰なのか、ネコなのか。そこに必要な黒なのか。その融通無碍な感じがいい。木に見えてもいいし、それが建物であっても差し支えない。その画面の中で必要な場所に必要な色が置かれればいい。そこにものとしての意味がどう加わるかである。

 だからこそ、その色の置かれる調子というものが重要になる。水彩画の良いところは、水の濃度で表情に幅があると言うところだ。書や水墨画であれば、濃淡と筆の表情だけで描くことになる。水の濃度で表現される世界までもが変わる。この微妙な透明性こそ、東洋的表現なのだと思う。

 水墨画に色彩が加わることで、世界が解放の方向に向かう。解放の方向とは、自由になると言うことである。あるいはでたらめが出来るでもいいかもしれない。どうとでも解釈できる、意味の多様な世界になる。作者にも把握しきれない、理解できていないような不可解な世界を、不可解のまま表現することが可能かに見える。



  若い頃には木村忠太氏のそういう作風に魅力を感じていた。「魂の印象画」と名乗っていた。南仏のあふれる光を東洋の精神で表現している。と私自身思った。しかし、だんだんその油彩画の曖昧さを拒絶する手法に、かえって精神の奥行きのなさを感じるようになる。

 何故木村忠太は水彩画を描かなかったのかと思う。きっと、出会わなかったのだろう。油彩画よりも、むしろクレパスや鉛筆の素描的表現の方が良いと思う。精神世界を光に反応することよって表現しようというのであれば、水彩画の方が可能性がある。水墨画的な精神的世界観と、西洋画としての論理的な哲学のようなものが出会うところが、水彩画だと思う。

 私はその方向を私絵画と呼んでいる。私の絵を見ればそれが分かる。と言いたいが、実はそれは目指しているというにすぎない。まだ実現できていない。と言っても精神と言うような高みのような言葉は使いたくない。自分に近づくと言うことに過ぎない。

 描かれたものが、事物の意味を伴うと言うことは、説明を伴うと言うことだ。川であるという意味を説明する。そのことは私の絵を描きたい思いとは関係の無いことなのだ。空である。海であろうとも絵においては、主たる事では無い。

 木村忠太は光の空間を走る輝きを追い求めた。純粋にそのことを追うためには、事物の意味が邪魔をした。その意味との加減が木村忠太の到達した、具象と抽象の境目のような絵になる。

 絵というものはその人間の限界までで終わる。見えていないものを描くことはできない。見えていないものを見えているかのごとく描くためには、他人の作り出した絵を借りてくることになる。それは、私絵画とは全く関係の無い世界になる。

 自分の見ているものだけを頼りに、絵というもののの概念を捨てる。どうなろうと、それが通俗であろうと、あるいは狂気であろうと。自分が見ている世界に向かう。私がつまらないものであれば、絵もつまらないものでなければならない。自分に行き着けばそれでいい。



 

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米軍基地からの有毒物質ピーホスの流出

2019-06-29 04:39:27 | Peace Cafe
 米軍普天間飛行場が発がん性も指摘されている残留性有害物質のPFOS(ピーホス)やPFOA(ピーホア)によって高濃度に汚染されていることが、沖縄タイムスが米情報公開法を通じて入手した米海兵隊の内部資料によって分かった。米海兵隊が同飛行場の汚染を確認していたことが明らかになったのは初めて。
 県による調査で同飛行場周辺の民間地域ではPFOSなどの汚染水が確認されている。基地の外へ流出の可能性が高いが、海兵隊は因果関係を一切認めていない。
 沖縄県は今回の調査から泡消火剤から分解生成される化学物質の測定を始めた。PFOSなどが高濃度で検出された地点の一部で化学物質も高濃度で検出された。
 今回、米国の生涯健康勧告値(1リットル当たり70ナノグラム)を超える残留性汚染物質の有機フッ素化合物PFOSやPFOAは6地点で検出された。
 県が調査を始めた2016年以降最高値の1リットル当たり2千ナノグラムを宜野湾市喜友名のチュンナガーで検出。他にメンダカリヒーガーで650ナノグラム、ヒヤカーガー170ナノグラム、伊佐ウフガー280ナノグラム、喜友名の他2地点でもそれぞれ300ナノグラム、140ナノグラムと高濃度の値が出た。 
 
 本紙が入手した海兵隊文書によると、2016年2月に同飛行場内消防訓練地区の汚水を調査したところ、1リットル当たりPFOSが2万7000ナノグラム、PFOAは1800ナノグラム検出された。
 米環境保護庁(EPA)の定めた飲料水の勧告は、両物質を合わせて70ナノグラム以下と定められ、これを25~385倍も上回った。 ーー(沖縄タイムス)

 米軍基地から、有毒物質が流出している。にもかかわらず、米軍はすべてを否定していて、対応はしていない。全く人権を無視した暴虐非道だ。県も立ち入り調査などはできないでいる。軍事基地は日米地位協定が立ち塞がる。

 軍隊というものはいつも秘密主義だ。飛行機が民間の畑に落ちてもその調査すら、日本ではできない。行政の立ち入り検査も、拒絶できる。警察も立ち入ることができない場所になる。まして米軍基地であるから、日米地位協定に守られた、治外法権の場所である。こんな場所で土壌汚染が起きていたのだ。

 何故米軍基地内の土壌が汚染されたかと言えば、私の想像では、軍事的消火訓練の際に、消化剤が撒かれていたと考える。当時は発がん性に気づかなかったのだ。消化剤の中に発がん性が疑われて、アメリカでは使用禁止になっている、PFOS(ピーホス)やPFOA(ピーホア)が含まれていたと言うことだろう。軍事訓練における消火訓練である。長年にわたって繰り返されてきたことだ。何故、アメリカ本土では訓練をしないかよく分かる。

 許しがたいことは、アメリカ軍がPFOS(ピーホス)やPFOA(ピーホア)汚染を認めず、対策もとらないでいることだ。そのために基地の外の水に汚染が進行している。

 軍事基地というものが持つ、秘密体質という危惧されていたことが、現実に起きていた。石垣島の自衛隊基地は石垣島の水源の上部に予定されている。島というものは水の確保が命である。石垣島の今の繁栄があるのは、於茂登岳と言う高い山があり、その山からの水をふんだんに使うことができたからである。

 もし、この石垣島の水源が汚染されたら取り返しの付かないことになる。人の住めない島になるかもしれない。何故、そんな大切な場所に、自衛隊基地を作るのかと言えば、軍事基地としては於茂登岳に中国側の背後が守られていて、防御の都合がいいのだろう。まして土地所有者が石垣市と自衛隊誘致の市会議員である。

 当然のごとく土地所有者の市会議員は自衛隊基地推進の急先鋒である。石垣市所有地は、旧石垣空港跡地との等価交換と言うことで進められている。話がすべてまとまっているようだ。これでは住民投票どころでは無いはずだ。

 於茂登岳は貴重な動植物の生息地でもある。ここにしか無い植物や、昆虫が居る。カンムリワシの生息地でもある。もし土壌の汚染、水の汚染があれば、人間だけで無くすべての生き物が、自然体系そのものが大きな被害を被ることになる。

 軍事基地は軍事攻撃を一番受けやすいのだ。被害が予測される。石垣島自衛隊基地の中で、化学物質の流出が起きたらどういうことになるか。想像しただけでも恐ろしい。そんなものは持ち込まないとは言うだろう。と言って誰も確認ができないのが軍事基地である。基地ができれば、住民はいつも不安と隣り合わせに暮らすことになる。

 そういうことを含めて、軍事基地が必要かどうか。住民に問うべきだろう。軍隊という国の専権事項に住民は従うしか無いという考え方は、嘘である。そんなことは全くない。市長のでたらめ発言である。市長はまず、市長としての平和共同事業を行うべきだ。何もしないで、無駄だと決めつけるのは、あまりに愚かなことでは無いか。
 


 
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ブログと笹村出のホームページ

2019-06-28 04:56:45 | 身辺雑記
 笹村出のホームページというものがある。内容はこのブログを整理したものだ。このブログにある記事以外に、何かがあるわけでは無い。ブログだけにしておいたのでは、不安なので倉庫のようなものを作り、保存しておこうと言うことだ。
 
 将来は描いた絵もこの中に整理したいと言う考えはある。考えはあるが、まだ、納得ゆくような、保存しておくことが必要という絵が無い。そんな事情なので、ギャラリーの方は全く進んでいない。

 そもそも笹村出ホームページは小林さんという農の会で知り合った方が作ってくれたものだ。グーブログで書いていても、この先どうなるか分からない。自分のパソコン内に取り込んでおいても、壊れた時の不安もある。どこか別のところで整理しておいた方がいい。整理して内容を分類しておけば、本にまとめるときなどに役に立つ。それが実際に役に立ったのが、「小さな田んぼのイネつくり」であった。

 どうせ整理するならば、イネ、苗、土壌というように分野別にクリックすれば、仕分けできるようになればと考えて、作ってもらった。3月と言うところを見れば、3月のことが出てくるようになっている。ブログよりホームページの方が、整理整頓ができているので調べるには良い。ところが、グーブログで書いたものを、もう一度ワードプレスに、コピーして貼り付けなければならない。文章はまだしも写真が上手くゆかなかったりする。

 今回、石垣でホームページの作成や管理ををされている、高梨さんという方に水彩人のホームページの管理をお願いした。そのときに自分のホームページへのgooブログからの転記もお願いした。
 
 併せて、ワードプレスでの文章の書き方を教わったのだが、これが案外に慣れないものだ。書いている字体はArialと言う字体のようだ。この字体で公開されて居るわけではないようだ。本当はArial字体で表記されて欲しいが、そういうことができるのかどうもよく分からない。見る人によってできるのかもしれないし、できないのかもしれない。見る人が決められるのだろうか。
 
 ただ書くのはArial字体がいい。目が悪いから、かなり大きくして書いている。大きな文字で1メートルぐらい画面は離れている。どこかで画面から一メートル離れた方が目にいいと言われたこともある。

 いろいろ教わりながら分かったのは、パソコンの使う能力において、私は相当に人よりも劣っていると言うことである。もう15年も毎日パソコンにさわっていながら、全く簡単なことが分かっていない事を再認識した。いくつかキーボードの便利な使い方を教わり驚いた。



 問題はホームページをどう管理してゆくかと言うことになる。ワードでは書いてみたらどうかと言うことも言われた。言われる前に試して見たことがあった。これもなかなか使いこなせなかった。ワードプレスでも書けない。当面長年書いて慣れたグーブログで書いて、ワードプレスに転記すると言うことしかななさそうである。

 困るのは、転記してから誤字脱字に気づいて直してしまうと言うことがある。直している内に文章そのものが大きく違ってしまう。その結果両方の内容が異なることになる。この点からするとすぐには転記しないで、1ヶ月に一回やるという方が良いだろう。転記を2年に一回ぐらい高梨さんに依頼するというのもありか。

 それよりも絵の方の整理も考える必要がある。記録して残すべき絵の写真をどこかで撮る必要がある。さすがにそれが、タブレットというわけにもゆかないから、写真機を買うところからか。以前良いカメラを持っていたのだが、どこかで無くしてしまった。大失敗だった。

 この所文章を以前より短く切っている。この書き方は高梨さんの指摘による。文章は短く切って書いた方が読みやすいというのだ。どんなものか試してみている。


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石垣で描く絵がやっと自分の絵になってきた。

2019-06-27 04:00:50 | 水彩画
 毎日絵を描きにゆく。石垣はこのところ雨が多いのだが、幸い車の中で描いているので、どんな雨でも出かけることができる。石垣島に根を下ろして絵が描けるという事はどれほどありがたいことかと思う。外に描きに行ける間は石垣の風景を描きたいと思う。


 一番右の絵が今日一日、雨の中で描いていたもの。

 すこしづつ、石垣の風景が自分の絵になる希望が出てきた。絵が描けてきたというわけでは無い。このまま、10年進む方向が見えてきたと言うこと。今まで描いてきた絵を振り切ることがやっとできたのかもしれない。

 難しかったのは、擦り込まれた絵から離れると言うことだった。学んで身についた、絵らしきものの感覚をすてるということは今でもできているわけでは無い。身に染まったものを捨てるは新しい場所に移ると言うことが必要だったようだ。いくらかかっても、自分の目で見たものを描くところまでゆきたい。

 その意味をもう少し考えれば、子供の頃絵を描くというと、描いた図の真似であった。人の顔であれば、人の顔の図というものをまねて描いた。自分の目で見たものを図にすると言うことはできなかった。風景を見ながら描いていても、人が作り出した絵画から、描き方を引っ張り出していることがほとんどなのだ。

 水彩画では緑の色の発色が一番難しい。絵の具の性質という事があるのかもしれない。水彩の緑は隠蔽力が無い。黄色や赤や青であれば、下にすでに色があるとしても、上から絵の具の色をそのまま表現することができる。もちろん工夫は必要である。ところが、緑はそれが相当に難しいのだ。

 水彩をやる人の多くが、夏の緑の風景は描かない。油彩画では緑が自由に使えるので、夏の景色はよく描かれると思う。油彩画よりも、水彩という材料は制約が多い。そのために、小学生も使う、入りやすい材料であるにもかかわらず、本当に自由に使いこなせるところにたどり着くのは、なかなか困難なものだと思う。

 そのためもあり、いわゆる水彩の技術は英国伝統水彩というような、システムで描くもので終わる。自由に自分の表現技術に進む人が以外に少ない。自由に進むなら、アクリルの方が扱いやすい。水彩は油彩画や日本がの下図に使う範囲から抜け出ない。いわゆるスケッチである。

 日本の水彩画の中興の師は中西利雄さんがいる。この人は芸大生の時から、先生がどれほど油彩画を描けと指導してもしたがなわないほど、水彩画にこだわったそうだ。確かに自分の水彩画を描こうとはしている。ところが、今見ると、水彩画らしいと言えるようなものでもない。やはり、先駆者浅井忠さんのフランスで学んだもの方が水彩表現である。

 では現代絵画としての水彩の表現と言うことになると、まだ日本には居ない。最近の水彩画の主流は巧みな描写を売りにする商品絵画である。芸術としての個性が無い。。こういう言い方はひんしゅくを買うし、良くないとは思うが、わかりやすく言えば、透明水彩を名乗る人たちだ。

 そういう意味では水彩人は透明水彩の団体では無い。水彩人は、水彩の材料で自分の芸術を模索している。たどり着いたと言う人はまだ居ないのかもしれないが、自分の手法で立ち向かおうとしている。その向かい方も、材料に依存すること無く、材料の限界を探るように制作している人が多数存在する。

 私もなんとかその一人のつもりである。自分の見ているものに、迫ろうと思っている。見ていると言うものが一筋縄ではゆかない。雲ひとつ見ていても、どのように描けばあの漂い光る雲を描けるのか。しかも雲を描くと言うことで、希望のようなものまでも描きたいときも出てくる。

 絵画する眼が見ているのものは、自然界の有り様のようなものだ。場面としての現実の先にある、自然の総合性である。大げさな物言いになるが、自然が垣間見せている、宇宙の真理というようなものになる。こんなものは見えたとしても、描けるものなのかどうか。それでも挑戦しようというのが、私のやりたいことなのだ。文章が大げさになったが。

 描こうとしているのは、生まれ育った、自給自足していた藤垈の向昌院での記憶である。そして山北ではじめた自給自足の開墾生活である。体の中にある、生活する場である。そういうもが、自然界の有り様のなかにある。

 今はふるさとの夏を描いている。石垣島の夏の風景を描いているのだが、自分の中に宿る、世界観を通した、ふるさとの夏である。それは緑の魔境である。緑という植物に飲み込まれたような景色だ。緑が難しいなどと言っているわけにはゆかない。

 水彩画の緑が使えるようになってきたのかもしれない。30年ほぼ毎日やってきて、今になって初めて知る水彩技術がある。それで石垣の風景が描けるような気がしてきた。今、目の前に並んだ絵を見て、これが笹村出でいいのだな、と言うとちょっと待ってくれと言うことになるのだが。
 

 
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アベ傲慢政権の倒し方

2019-06-26 04:43:33 | Peace Cafe
 アベ政権は経験したことのない危険な政権である。アベ政権を忖度する人間が増加し続けている。そういう利権構造ができてしまった。その連中が又、アベ政権の延命を願い、もう一期総裁をやってもらおうと言い出している。何という情けない政治状況であろうか。

 アベ氏の政治目標とする日本国の姿は、明治帝国日本の再現である。世界情勢において、戦後の日本の優位的な位置は失われた。日本は世界において、中規模の普通の国になろうとしている。それは、人口減少に現れているように国民の気持ちが生み出したものである。一番で無ければならないなどとは、普通の国民は考えない国になった。敗戦以降続いたがむしゃらな復興意識が消えて、ごく当たり前な状態に戻りつつあると言うことなのかもしれない。

 国というものにも、成長期もあれば成熟期もある。そして老齢期に日本は入りつつある。一時期、韓国に猛烈な勢いが感じられた。シンガポールにもそういう青年の空気があった。そして、今はなんと言っても中国の台頭が世界を大きく変え始めている。本来であれば、その中国の隣国としての日本は連携を模索するべきなのだろう。ところが、アベ政権のアメリカの属国的立場と、中国の覇権主義的な姿勢によって、日中関係はギクシャクし続けている。

 このリスクの高まる世界情勢の中で日本も軍事力を強化しなければならないというのが、アベ政権の政治姿勢なのだろう。実際に憲法を拡大解釈し、と言うか憲法違反をしてまで、アメリカの戦争に参加できる法律まで作ってしまった。本来であれば、国際社会で生じる問題を平和的手段で解決しろと、憲法は政治に求めている。一体アベ政権は尖閣諸島問題に平和的手段の解決を図ろうと努力したことがあったであろうか。むしろ緊張を高めるために行動しているとしか思えない。

 石垣島には自衛隊のミサイル基地を配備する。石垣市の議会や市長は尖閣諸島は、到底平和時と言える状況では無い。だから中国に武力で対抗するほか石垣の安全は守れないとしている。それほどの危機が迫っていると何故か思い込んでしまった。それほど思い詰めているなら、憲法で命じられている、平和的努力をわずかでも試みて欲しい。平和的努力ならば、さらに緊張を高めるようなことは無い。平和的努力どころか、緊張を高めるための後押しだけをしているように見える。それこそが自衛隊ミサイル基地の建設である。

 このままではアベ政権は今度の参議院選挙でも勝利する可能性が高い。では、国民全体がアベ政権のこうした明治帝国主義をよしとしているかと言えば、そんな選択をしているのはごく一部の人だ。大半の人は消極的に、政治をどうでもいいと考えるようになっている気がする。この無関心がアベ政権を生み出した。

 投票率が低い。そうした環境で公明党が、アベ政権の支えになっている。そのことが低い投票率の中で、おかしな議員配分を生み出している。自民党は3分の1の支持票で、3分の2の議員数を獲得している。公明党と創価学会はこうした中で、巧みな世渡りをしている。うまみがあるのだろうから、公明党の忖度姿勢を崩す事はできないだろう。

 とすれば、アベ政権を倒すためには、野党も公明党から学ばなければならない。ずる賢く、票になる連携をとる必要がある。どうせ、自民党は野党連携を野合だと批判するだろうが、自公連合のあくどさに比べれば、何でもありである。

 野党は参議院一人区で勝てる候補で連合する。これはすでに行った。主義主張はいったん置いておく。憲法に対する姿勢の違いも置いておく。すべては反アベ政権だけでゆけばいい。そして勝てる選挙をしなければだめだ。勝つためには政治に関心の無い人に投票に行ってもらうことだ。枝野さんは正しい。しかし正しいだけでは選挙には勝てない。

 どうせ反アベ票は野党統一候補にゆく。反原発などと改めて言わないでも大丈夫だ。9条を守れなど言わないでも大丈夫だ。政治にほとんど関心が無い人の重い腰を上げさせる。

 40年後の老後の年金はどうも心配だというような人に焦点を当てる。山本太郎の最低賃金倍増もいい。財源はタックスヘブン課税ぐらいでかまわない。奨学金免除徳政令もいいかもしれない。どこでもWi-Fi普及宣言もありか。投票50%以下なら選挙やり直し制度の制定。ネット投票の解禁。少々荒っぽい政策でもかまわない。

 電通的なキャッチフレーズで野党に期待して、選挙にゆきたくなればそれでいい。アベ打倒の戦略研究である。選挙に勝つためには、焦点を当てる必要があるのは、不満はあるが今まで投票には行ったことがない、政治には関心の無い人たちだ。選挙制度が悪すぎる。この悪いところを巧みに利用しているのが、アベ政権である。野党はこれにいつまでも負けていてはならない。




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石垣市には平和協働推進課と言う部署がある。

2019-06-25 04:13:10 | Peace Cafe
 石垣市には平和協働推進課と言う部署がある。石垣市の議会および、市長の認識では石垣市は尖閣諸島問題があり、平和な状況では無いとしているのでは無かろうか。もしそうした認識を行政が持っているとしたら、対立する中国との間で、どんな平和推進の活動をしたのかと調べてみた。

以下ホームページからコピーした。
2019年度の垣市が行った平和推進活動である。

 平和協働推進課からのお知らせ
2019/06/14令和元年度「6月23日(日)慰霊の日」に係る式典案内について 
2019/05/21石垣市主催 令和元年度 台湾留学希望者の為の中国語コース 受講者募集
2019/05/152019沖縄県女性海外セミナー「女性の翼」参加者募集について 
2019/05/15男女共同参画に関する「川柳・標語コンテスト」並びに「フォトコンテスト」の作品募集について
2019/04/24令和元年度「平和を考える」絵画・作文募集について
2019/04/22明和大津波遭難者慰霊祭について
2019/04/192019年モザンビークサイクロン救援金の募集について
2019/04/01石垣市財務規則第109条第2項第2号に基づく随意契約の事後公表について
2019/03/29石垣市財務規則第109条第2項第1号に基づく随意契約の事前公表について
2019/03/29石垣市 特定非営利活動法人 一覧
2019/03/19第5回 健康づくりウォーキング ~バンナ公園一周チャレンジ~ のご案内
2019/03/13沖縄県多文化共生モデル推進事業「ゆんたく交流会 ことコト石垣ラウンジ」について
2019/03/12「石垣市男女共同参画会議」及び「いしがきプラン地域推進委員会」委員の市民公募について
2019/03/06平成31年度 親子記者募集のお知らせ
2019/02/15国立台北教育大学への推薦状発行依頼受付のお知らせ
2019/02/05沖縄県多文化共生モデル推進事業「やさしい日本語講座」について
2019/01/29被害者支援公開講座&ワークスキル研修会を開催します!
2019/01/22多文化共生シンポジウム ~外国人と考える石垣のくらし~

 どの活動も意義のある活動ではあるが、何故か肝心の中国との平和協働推進活動が無い。

 行政の認識が尖閣諸島が平和的状況では無いとするにもかかわらず、中国との間で、平和推進の活動をした事がない。一体どうしたというのだろう。日本国は国際問題を平和的努力で解決すると、憲法によって決めた国では無かったのか。尖閣が平和的状況では無いから、自衛隊のミサイル基地を建設すると言うことでは、全く憲法違反では無いか。
 
 平和的状況で無いという認識はアベ政権も、石垣島議会および中山市長の認識も一致しているのだろう。それならば、すぐにでも平和推進の協働活動を試みる必要があるのでは無いか。それが憲法に基づく平和的努力では無いのか。何故、平和のための努力もせずに、軍事力を持って対抗しようということになるのか。それでは憲法違反である。公務員は憲法に従う義務がある。

 アベ政権は琉球諸島を対中国の最前線基地にしようとしている。それは宗主国アメリカの指示でもある。アベ政権が沖縄の基地負担軽減の努力をするなどと、主張するのは嘘以外の何物でも無い。石垣の議会および市長は認識できているのだろうか。

 なまじのミサイル基地など作れば、火に油を注ぐだけだと私は考えている。中国が核弾頭を増産している以上、アメリカの傘の下に居なければ日本の安全保障は成り立たないと言うことだろうか。北朝鮮の核ミサイルは日本の防衛にどう影響しているのか。

 何故、アメリカの軍事力は日本に向けられていない。そう決めつけていいのだろうか。中国の軍事力は日本や、近隣諸国を攻撃するためのものだと、決めつけていいのだろうか。アメリカの軍事力も、中国の軍事力も何も変わらない。日本は日本独自の安全保障を考えなければならない。

 専守防衛の構築と、平和外交である。小さい国が軍事力で圧殺されるというような、野蛮な状態を抜け出ることが、人類の平和目標だろう。

 確かに世界は競争主義が深刻化している。トランプ大統領はアメリカグレートとヒットラーのように叫んでいた。その意味では習近平の最近の覇権主義も同じようなものだ。こんな最悪の方向をどうやったら止めることができるか。日本国憲法に示された、平和的努力以外に世界の終局へ転げ落ちることは止めることはできない。どれだけ軍事力で対抗したところで、問題はより深刻化してゆくばかりである。



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石垣の「なつぞら」を描く

2019-06-24 04:51:53 | 水彩画
 NHKの朝の連ドラで「なつぞら」というアニメーターの話が放送されている。高畑氏や宮崎駿氏ともに、アニメーション映画の草創期に現れた女性アニメーターの話である。このタイトル画面のアニメーションの雲の描き方が面白い。前回もタイトル画面で、安藤サクラさんの歩き方に見とれていたが、今回はタイトルバックの空の表現をつい凝視してしまう。



 「なつぞら」と言うぐらいなのだから、さすがにこのなつぞらの描き方には力が入っている。白い中の色の微妙な変化。グレーの陰の中に、わずかにあるピンクとブルー。この微妙さにひかれる。日本のアニメーション映画のレベルの高さがここにある。

 ここでの空の描き方は写真に極めて近いものだ。このテレビに実際に現れる十勝の牧場のソラは、まさにこの空に近い。むしろ、テレビの映像表現はアニメーションに近いのかもしれない。説明の方に力点が置かれる。

 雲は白い。自由に形を変える。背景となる青空は微妙なグラデーションを感じさせながら、まずは変化のすくない青色である。雲が雲らしい形をしているなどということは案外に無い。しかし、人間のイメージの中には夏の雲と言えばこれという、形がある。テレビ映像ではそういう選択をする。

 入道雲のややおとなしめのものと言えば、伝わるだろうか。もこもこと盛り上がっては居るが、大げさな入道型では無く、平凡な雲の形である。イラストで描く雲と言えば大体こうなるというようなものだ。

 なつぞらの雲を毎朝見ながら、自分の書いている雲を考えた。私は石垣の夏の雲を描いている。しばらく前に石垣は夏になった。暑いと言うだけで無く、雲が変わった。この雲がいい。石垣の雲は素晴らしい雲だ。それを見ながら、全く違う雲を描いている。

 雲が素晴らしいのは、雲が天才であるだけで無く、希望の象徴だからだ。雲という字は夢に似ている。雲を見ていると何故か遠くの夢を見させてくれる。

 好きなことを見つける。これが10代の主たる目的だった。何が好きなのかが分からなかった。そこで一応は絵を描くことが好きだということにした。もちろん嫌いではないし、小さい頃からよく描いていた。しかし、好きと言うことなのかは分からなかった。

 金沢に行って、絵にしがみついたという感じだろう。金沢の空はまるで変色した銀箔のような重さだった。この暗い雲の壁の中で、熱い情熱の夢を見た。精神の夢を深めてゆくことのできる重厚な雲だった。

 金沢にいた自分というものには、よって立つ場がなかった。絵を描く自分というもので、自己確認をしようとしていた。ここから、考える核のようなものができて、良い絵を描くことの自分が、目指すべき自分なのだろうと考えた。例えば自給自足は絵を描くためだと考えることができるようになった。

 石垣に来て、全く解放されたような空を見ている。この何者をも連想しない、純な空を描いている。そうしたら、それが「なつぞら」のタイトルバックの空の何もなさに似ている。絵に現れた雲の実際はまるで違うが、何も無いと言うことはアニメーションの空は本当に何も感じさせない。空虚な空気感がある。

 絵画の空というものは、私が見ている空にならなければならない。見るという主体の居る空。ゴッホのカラスの飛んでゆく夕まぐれの空は、ゴッホの空以外の何物でも無い。私が描く石垣の空は、ここから始まった、いよいよ残りの笹村出の姿の空で無ければならない。

 近いものと言えば、児島善三郎氏の近代美術館にある「アルプスへの道」の空である。新しい絵の世界を切り開く覚悟の空である。そう思って絵を見れば、まだまだである。誰が考えてもまだまだであるが、方角だけは間違えないで、描いてゆきたい。
 
 ここからは、 余分な付け足しかもしれないが、空に何故自分の見方が現れるかと言えば、空は変幻自在でどうとでもなるからだ。それは水も同様である。水もどう描いても水。人の顔のようにここが目で、ここが鼻というような意味が薄い。逆に言えば、そうなっていたのでそう描いたと言う限界が少ない。

 つまり、絵を描くと言うことは、空を描くようにすべてを自分の絵として描くべきだということになる。私が田んぼの水面が好きなのは、それが現実であり、眼前にある。ところが、そこに見える世界は、地面でも無い、水面でも無い、映る雲でも無い。イネの株でも無い。水中のオタマジャクシでも無い。視点を変えるだけで、ありとあらゆるものが、見えたり見えなかったりする。

 この幻影のような世界を自分の目で見ているという視点。ここに私の描く絵があるように思っている。


 



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石垣島多福農園のサガリバナ

2019-06-23 04:32:18 | 石垣島
 多福農園という所に行ってきた。なんとも魅力のあるところだ。場所はバラビドーと言う不思議な名前の場所だ。バンナ公園の南側の広がった農地の中にある。その不思議な名前の意味はワラビの道ということ。絵を描きに行く道筋なので、8時過ぎにいった。サガリバナが咲いているというかんばんがきになっていたのだ。サガリバナは夜咲く花なので、朝行っても咲いてなと思ったが、まず場所を確かめようと考えて寄ってみた。

 サガリバナが地面一面に落ちている。その美しいこと。淡い桃色の繊細な花が引き詰められたようにある。息をのむ美しさ。花を踏みつけることなど全くできない。呆然と見ていた。しかし踏まなければ、下の池の方には進めない。仕方が無いので、戻って下に降りる別の道を探した。


 サガリバナはまだ少し木に残っていた。きっと夜はかんざしのように、垂れ下がるのだろう。まだつぼみが沢山あったので、6月中ならば楽しめるのでは無いだろうか。夜はライトで照らされるようにできている。
 そもそも多福農園という場所は入場料を取るわけでも無い。どうぞ見てくださいと準備されているのだ。しかしこれだけの庭園を維持しているのは大変なことだろう。みんなに福が広がるようにと言う気持ちの農園なのだろうか。


 下に降りてゆくとかなり広い、睡蓮の池がある。大きな赤い睡蓮が咲いている。描きたくなったが、車から見える場所は無い。外に出て絵を描くというのもあるが、なんとなくハブが出てくるような気がして落ち着かない。
 お隣が石垣農芸高校の敷地である。ここからならば、くるまを止めて池が見える。絵を描く間だけ入れてもらえないものだろうか。いつかお願いに行ってみよう。


 サガリバナはサワフジ友呼ばれる。コノウツクシサハ例えようも無い。この印象がきょうの絵に出てきた。できれば今晩もう一度見に行くつもりだ。もう一度7時前に行ったのだが、まだ咲いていなかった。落ちていた花も、消えたようにしおれていた。

 西表島では川を流れてくるサガリバナを鑑賞するツアーがあるらしい。川に落ちた花はしおれること無く、海まで流れ下るだろう。これは昼間でも見ることができる。


 睡蓮池にもサガリバナが浮んでいる。これはすごい。良いものを見せてもらった。天国というものがあるなら、こういう光景であろう。この場所には近づけないが、目に残そうと思う。この日に描いた絵はこの上ない美しさが、反映したような気がする。


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小さな田んぼのイネ作り ⑩

2019-06-22 04:35:05 | 「ちいさな田んぼのイネづくり」
 6月19日の様子を東さんが写真付きで送ってくれた。素晴らしい田んぼになっている。自給のための田んぼは美しくなければならない。美しい場所で気持ちの良い作業をしなければ、自給に関わる喜びというものが分からないだろう。



 田植えから、2週間半である。2,5枚の葉が増えていて欲しい。種まきから8週目で8葉期になっていてもらいたい。田植えからここまでは田んぼに根付く事ができているかが重要な所である。たいていの場合は、移植される負担で、一度停滞する。良い苗で、それなりの土壌あれば、停滞をかなり克服する。 



 田植え後の田んぼで、よく確認しなければならないのが、コナギの発芽を止められたかどうかである。東さんからの報告では、コナギはほぼ無いと言うことだ。水面には、田んぼ面から剥がれて浮いたような皮膜が漂っている。これもコナギの発芽を抑えてくれる。浮き草が漂っている。浮き草も増えれば、雑草の発芽を抑える。藻が発生すれば、雑草の発芽の抑制になる。こうした田んぼで増えるもや浮き草も土壌の腐食量の増加になるので貴重なものだ。


雲の映り込みが美しい。この時期の田んぼが一番描きたくなる。田んぼの願いのようなものが映り込む雲に現れている。幼稚園から聞こえる歓声のようなものだ。イネが田んぼという枠の中に取り込まれ、水というものに守られ。大きく育つための力をいま蓄えている。


 補植も6月一杯行う事ができる。6月中に補植した株はそれなりの大きさにまでは育つ。この写真の田んぼは14番田んぼ、小板屋さん管理の田んぼだ。こんな風に浮き草や浮いた皮膜も悪い状態では無い。一段上の田んぼの畦にあるのは、岡本さんの畦大豆である。整列したように並んでいる。
 
 自給のたんぼでは畦に何かを作った方が良い。大豆を巻くなら、7月に入ってからだ。枝豆で食べるならもう播いても良いだろう。




 ここのイネは2本植えである。冬も水の湧く場所があった。ッ早くから水のある場所にはコナギの発芽が目立つ。6番も同様のことが起きている。水とコナギの関係は検証が必要だ。

 7月に入いり、田植え5週目を迎えれば、イネは10葉期となり、開帳型になる。それまでは、週に一枚葉は増えて、7,8,9枚と葉は前の葉よりめざましく大きくなり、垂れ下がるような葉に変わってゆく。


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放射線の人体への影響

2019-06-21 04:38:13 | Peace Cafe

放射線がどのように人体に影響するかは明確には分からないことだ。福島の子供たちにがんが多発していると訴えている人たちがいる。一方に徹底的に調べれば日本中変わりはないという人もいる。科学的に何らかの証明がまだどちらも十分とまでは言えない。広島や長崎の原爆投下後の長期の疫学的調査がある。3つの病気について追跡がなされているようだ。一つがガンの疫学調査。公益財団法人放射線影響研究所『わかりやすい放射線と健康の科学』というものである。こういう大丈夫だという報告を読んでも、信用できない人も多いいことだろう。嘘で塗り固められていた安全神話があった。何もかも信じられないというところに追い込まれた訳だ。原発にまつわるすべてが安全神話であり、不信感は当然のことだ。科学を信じられないという心境になっている人がいる以上、白い布が放射線防御服になると言って、さ迷い歩く宗教集団を笑うことは出来ない。農の会でも大根がとんでもない奇形になった。放射能の影響と思われるがどうだろうかと、相談があった。もしそれが本当であれば、そこに相当強い放射能があると思われる。測定してみる必要があるというしかない。

もう人を信ずることができない心境の人にとっては自ら測定してみる以外に解決はない。心のよりどころもない。ところが、測定器には表れない放射能のなのものかを怖れることになる。小田原には住めなくなると、本気で講演して歩いた人がいる。この人は今小田原に住んでいる人に何を言うのだろうか。住めないか住めるかはそれぞれが判断することである。明確な科学的根拠がない以上人を扇動するのは良いことではない。風評被害を煽ることになる。もちろん、小田原の農産物は危険で食べれないという人も多数存在した。横浜の教育員会では、小田原のみかんを放射能で汚染された危険なものとして、拒否した。それに賛同した小田原の市会議員さえいる。どちらが正しいという意味でないが、そういう放射能に対する態度を私は忘れない。カリ肥料には放射能があるから入れてはいけないと言ってきた人もいた。不安にさいなまれた結果の魔女狩りだと私は思っている。こうして被害者が農業者を加害者として追い詰めたことを忘れることはできない。追い詰めた人たちはもう忘れていることだろう。

原発は止めなければならない。このように弱者同士が、いがみ合うようなことになったのは、原発事故である。原発事故を予測できない天災であるとして、東電の誰も責任が問われていない。あれほどの事故を死んだ人もいない些細な事故だと、主張した大臣さえいる。この背景にあるものは、経済至上主義である。既得権益を守る政治を許すことはできない。原発事故を契機に日本は再生可能エネルギーの生産国に変わらなければならなかった。ところが、経団連会長が相変らず原発にしがみ付くしか展望が作れない。こういう人を見るともう日本はダメなのだと思わざる得ない。弱い心の政治である。新たな分野に切り込む勇気がないのだ。そうして侮っている内に中国に再生エネルギー開発で後れを取っている。恥ずかしいことではないのか。中国を馬鹿にして仮想敵国いしている間に、日本は大きく出遅れたのだ。そしてこの今になっても、特権階級政治にしがみ付く以外、展望が持てなくなっている。

トランプアメリカは、確かに中国と貿易戦争をしている。しかし、トランプは欲得で動くだけだ。必ず中国と新たな関係を作る。その時に、安倍のアメリカしがみ付き政治は切り捨てられることになる。日本は日本自身の足で立たつ必要があるのだ。軍事力でもアメリカがいなくなれば、原爆を持たない以上対抗できるものはない。いつも脅されるだけになる。それぐらいならば、平和外交に舵を切る方がマシではないか。日本が武力を用いない、平和国家として世界の先例になる。それを支持してくれる人も世界には多いいはずだ。アメリカにも、中国にもいるはずだ。そうした平和主義者と連帯してゆく国になる。その方が、日本の安全は守られるはずではないか。放射能であった。放射能も同じなのだ。原発を止める。再稼働に反対する。このことに全力を傾注すべきだ。放射能被害の問題は原発再稼働阻止にむかわなければ、弱者同士の足の引っ張り合いで終わる。


 

 


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石垣島のゴミ問題

2019-06-20 03:52:19 | 石垣島
石垣島ではプラスティックゴミの焼却が問題になっている。焼却場建設の際に、地域住民と「プラステックゴミを燃やさない。」という協定が結ばれている。これを解消して、プラスティックも燃やせるようにしたいという市の考えで話し合いが進められている。ゴミ問題は島という閉じられた地域で考えると、日本全体の縮小版のような形で、問題が見えてきてよく分かる。プラスティックゴミの行き場がないのだ。本来であれば、処理できないゴミは製造してはならない。しかし、社会があまりにプラステックに依存してしまっている。人間はゴミで滅びるという、養老先生の予言は当たりそうである。梱包材としてのプラスティックの使用を禁止すべきだ。便利であるからドンドン製造されているが、これが地球環境を絶望的に崩し始めている。合理的な処理方法がないものを作ることは禁止しすべきだ。ところが当面そういうことは、不可能だろう。だったらリサイクルか。リサイクルが可能なように言われてきたし、様々な試みも行われた。ところが、リサイクル事業は合理性のない方法だったのだ。ほぼプラスティックゴミのリサイクルは経済合理性がないという結論が出た。リサイクルするために必要な石油が新しく作る5倍は必要という見積もりである。家庭でプラスティックゴミをお湯で洗うだけで、洗わないで捨てる数倍の石油が必要になる。お湯を沸かす石油燃料の方が、そのプラステックゴミより多く必要。こんな不合理があるだろうか。

プラスティックゴミ発電が、中ではコスト的にましな方らしい。リサイクルよりは経済合理性があるとしても、やはり、石油を燃料を使うより高い費用になるらしい。(正確なコストを探したが、見つからなかったが。)簡単に集められてゴミ発電可能な地域であれば有望らしい。例えば、富士製紙の工場では工場のエネルギーとして、工場ででる木材廃棄物と、持ち込まれるプラスティックを燃料としていた。その場で利用できる仕組みにすれば、経済合理性があると言われていた。リサイクルには問題は二つある。一つは収集・分別するコスト。ここでは家庭での洗浄などのコストも加えて考えなければならない。当然、集めてからの処理コストもかかる。半分はリサイクルできないプラスティックゴミになる。もう一つはできたリサイクル製品も最終的にはプラステックゴミになる。つまり燃やさないでリサイクルするとすれば、プラステック製品は増え続けてゆく。それは結局の所、マイクロプラステックになる。

プラスティックゴミは燃やす処理以外に方法がない。繰り返すが作らない以外道はない。作った以上燃やしてしまうほかない。問題はダイオキシン類の生成だ。石垣の焼却炉にはバブフィルターはある。しかしその性能は不明。交換がいつなのかは調べたが分からない。モニタリングポスト測定はしていないようだ。石垣島で言えば、5キロ地点の農地汚染である。高機能のバブフィルターの設置は必要不可欠だ。そして、排ガスの継続的な測定である。住民が排ガスの状態を常に確認できる状態にする。多くの焼却炉では、検査の時だけ問題の少ないゴミを燃やして、データーを公表する。良いデーターが出るまで検査を繰り返すという所もある。これは検査機関の職員から聞いた話だ。十分な対策の上に、プラステックゴミは焼却する。残念なことに石垣島はゴミの散乱は多い方である。様々なものが道路脇などに投げ捨てられている。原因の一つは観光客の分別とゴミ廃棄の困難さにある。

分別を面倒くさくすると、車の窓からゴミを投げ捨てる最低人間が現れる。コンビニで買ったお弁当とお茶を食べ終われば、ゴミ箱がなければ投げ捨てる。このコンビニ袋が、海まで行って亀がクラゲと間違えで飲み込んでしまうらしい。その場面を想像すると悲しくなる。簡単に捨てられるゴミ箱がどこにもないと言うことが原因している。コンビニには店の前に、ゴミ箱設置を義務付ける必要がある。以前あったゴミ箱も無くした店もある。一般ゴミが捨てられるからのようだ。コンビニにが生み出したゴミが投げ捨てられているのだから、負担になってもゴミ箱を設置して回収すべきだ。石垣島では家庭ゴミは戸別収集である。では観光客のゴミはどうなっているのか。家庭ゴミと同じに集められるのでは、税金の使用がおかしいことになる。産業廃棄物として、別料金で収集する必要が出てくるだろう。そのように処理している市町村もままある。ホテルやコンビニやレストランでの分別手間が軽減されれば、ゴミ処理費用が上がっても、受け入れてもらえるのではないか。そのためには環境省が進める、ゴミ会計を取り入れなければならない。小田原市ではゴミ会計を行っていた。ゴミ処理のすべての費用の見える化である。徹底するとすれば、ゴミ散乱が減少して、住民や観光客が好感を持ち石垣島の印象の向上し、というようなことまで、会計で表現できるのだ。






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引きこもりの人が一〇〇万人居る国

2019-06-19 04:15:55 | Peace Cafe
日本には100万人の引きこもりの人が居るそうだ。一〇〇人に1人というのは多いのか少ないのか。多分普通のことだろう。100人に一人で考えれば、どんな人だって居る。3%理論というのがあって、3%以下であれば普通のことと言われる。どこの国にもあることなのだろうか。日本国の特殊事情ではなかろうか、そんな気がしていた。調べれば先進国ではごく一般的なことらしい。むしろ、3,6%位居るという国もあった。産業革命の早かった、イギリスがニート発祥の地と言う指摘もあった。違いは日本では問題として捉えられているが、アメリカやヨーロッパでは人間の一つのタイプとして、ある程度受け入れられていて、あまり騒がれては居ないと言うことらしい。少し想像のできるフランスのことで考えてみると、個人主義的傾向が強いから、他人のことはあまり問題にしないと言うことがある。人は人、自分は自分で考えて居る。引きこもっている人は引きこもる自分を個性として捉えているのかもしれない。と言っても引きこもりという枠で一〇〇万人を考えるのは間違えだろう。様々であるにちがいないから、ひとつの断面から考えないほうがいい。

引きこもる原因が身体的病気が原因することもあれば、精神的病気もある。外に働きに出ないですむのであれば、家に居た方が楽だからという人も居るだろう。引きこもりの人が自殺をするときに、周りを巻き込んで死のうというので、小学生や外務省の方が殺された。とんでもない事件が起きて、引きこもりがクローズアップされた。以前秋葉原で企業で廃人化した人間が、同じような事件を起こした。そのときはブラック企業で異常性格者になったというようなことで、これも企業の非人間的労働環境が問題になった。何かあれば原因を知りたくなるのは人の常である。理由が分からないと世相が不安定化する。そうだったのかと腑に落ちて、忘れる。犯罪というようなものは、原因が分かったところで解決はしない。たいていの場合その原因が、解決できるものではないからだ。つまり、1%の人はどのような環境においても登場する。仕方がないとして受け入れるほかない。

これから社会は厳しい時代を迎える。私たち団塊の世代が悪かったのだ。第2次世界大戦後の理想主義の探求は終わろうとしている。強いものが勝つのが当たり前の時代になってきた。日本の社会は余裕を失うことだろう。3%の人が切り捨てられることが迫っている。昔は引きこもりなど居なかったというのは嘘だ。明治以降の富国強兵という国家の論理で切り捨てられたのだ。無理矢理軍隊に連れて行かれたかもしれない。強制される社会ならば、否応なしである。それの方がいいとは到底思えない。社会には必ず、3%の違う人が居る。違うと言うことを認めて、受け入れること。排除しない。役に立たないというのは、自分の役に立たないと言うことである。社会の役に立たないというのは、あくまで自分の考える社会のである。自分に理解できないからと言って、人間存在はすべて同じである。どこかで折り合いを見つけるしかない。折り合いは難しい。両者にとって不十分だからだ。

ここが知恵の出しどころではないか。引きこもる人でもできる仕事が必要だろう。家から出ないでもできる仕事。社会がそういう仕事を作り出し。提供してゆく。農業分野でも、人と関わらないでもできるものもある。企業も一%の人への仕事の提供を考えるべきだ。誰もがほんの少しの気持ちを寄せることで、解決できるところもある。引きこもりをしている人は問題があるから、直すと言うことより、引きこもっていても社会の一員である社会を作ることだろう。普通の人間というものが求められすぎる。普通など実はない。社会が変われば、今普通人間がおかしいのかもしれない。多様であることを受け入れることのできる社会の方が生きやすいに決まっている。多数派は少数派を異端として押しつぶそうとする。それはあくまで多数派の自己正当化である。




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石垣島の土壌の保全

2019-06-18 03:31:45 | 石垣島
石垣島の農地を見ていて気になっているのは、大型機械での深い耕し方だ。サトウキビや、パイナップルや、たばこの収穫が終わると、大型機械でサブソイラーというのであろうか、60センチくらいの天地ガエシをしているのを見る。耕してカリカリに乾燥するまでおいておき、もう一度トラックターで耕して次の作物の植え付けを行う。このやり方だと、雑草が減らせるのだろう。雑草の勢いもすごいから、除草剤だけでは抑えきれないということがあるのかもしれない。除草剤を使いたくないという考えもあるのかもしれない。しかしこの耕作法を続けてゆくと、土壌の砂漠化が進むことになる。大型機械によって繰り返される土壌の耕運によって、土壌の腐食質の減少が起きている可能性がある。ただでさえ石垣島の日照は強い、できる限り太陽光に土壌を直接さらされないようにした方がよい。石垣の農業は1軒当たりの耕地面積が4ヘクタール平均。どうしても大型機械での農業になる。重い機械の重量で畑の下層に固い層ができているのではなかろうか。この層を崩すために深い耕し方が定着しているのかもしれない。



裸地をさらしている期間の長い農業のために、赤土の海への流出が起きている。石垣では強い雨がよく降る。そのたびに川は黄土色に変色し、サンゴ礁の海も黄土色に染まる。宮良川の河口付近もすでに黄土・赤土がたまり、砂浜というよりも、黄土層に覆われた浜辺となっている。名蔵湾も同様な黄土層の流出が起きている。潮干狩りに行ってよく分かった。今名蔵ではゴルフ場が計画されている。山が切り開かれて芝生になるのだろう。このことで、名蔵湾がどういう状態になるか心配なところだ。名蔵湾の遠浅の海辺も砂浜というよりも黄土でおおわれて来ている。農業のやり方が大きく影響しているとみなければならない。田んぼがサトウキビに代わるということで、起きている現象ともいえる。加えて、森だった場所が、草地化されている場所も多くある。あるいはサトウキビ畑になったところもある。特に急な斜面の畑が深耕されると黄土の流出が起きる。耕さないという意味ではなく、浅く耕す農法の確立と、耕す時期と期間の選択は重要ではないだろうか。

牛の放牧は増えていると思う。絵を描いて歩いて居ての印象の感想である。島の人に聞いてみると、増えているようなことはないといわるので、どうもわからないところがあるが。5か所くらいは放牧牛の牧場をよく見ている。広い放牧地ではないが、少数の牛を放牧しているところもある。一定の期間だけ放牧しているところもあるのかもしれない。いつ通ってもにおいがすごいというところもある。放牧だけでは高値の肉にはならないだろうから、季節的なものかもしれない。営業としては牛が高値で売れるので、頭数を無理をしても増やすということもあるのかもしれない。それでも牧草地は少しでも広げたい農家が多い可能性は高い。そうなると、草地の拡大が土壌の劣化になる可能性もある。対策としてはたい肥化工場の堆肥を上手く利用することではないだろうか。あるいは、草を耕すのではなく、敷き藁にする手法である。土壌を保全する農法を考える必要がある気がする。それは畑作全般にも言えることで、たい肥を無料で配るくらいのことをしてもいいのでないかと思う。それが石垣の環境保全につながるはずだ。

永続性のある農業を考えないと、島という環境の維持は自然の循環が難しいのではないだろうか。なんと言っても石垣の魅力は自然環境である。上手く農業と共存してゆく必要があるのだろう。島の農業が盛んになることは素晴らしいと思うが、特に稲作を大切にすることだ。田んぼができる場所はできる限り田んぼに戻した方がいい。水田農業ほど環境保全になるものはない。黄土が山から流れ出ても、下流域に田んぼがあれば、田んぼが遊水池になり、海への黄土の流出を防ぐことができる。稲作を増やすためには、石垣のお米の販売が盛んにならなければならない。そのためには美味しいお米を生産し、石垣ブランド米を開発することも必要なのだろう。泡盛のインディカ種は有望だと思う。水田について言えば、もう少し水位を上げるべきだ。どこの田んぼもヒエが多すぎる。水位を8センチ以上にすれば、ヒエは発芽できない。そして、緑肥を必ず作る。もし緑肥を作らないのであれば、冬期湛水にする。これも、環境保全には大きな価値がある。




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石垣島自治会青年文化祭

2019-06-17 04:02:40 | 石垣島
石垣では青年会というものがある。昔風に言えば、青年団というものだろう。「いしゃなぎら青年会」とよぶらしい。この青年会の文化発表会があった。家から400メートルほどの所にある、「宮鳥御嶽」の前庭で行われた。石垣で文化と言えば、唄と踊りである。三線が鳴らされ八重山民謡が唄われて、伝統的な踊りが披露された。子供会や婦人会の参加もある。何故か婦人会というのは、年配の婦人のことで、なんとフラダンスだった。青年会は男だけの集まり。その婦人である若い婦人達は婦人会所属ではなく「ファムレー会」というものらしい。ファムレー会はむしろこの青年会の文化祭主たる踊り手である。ここで演じられた演目は先日テレビで見た、沖縄の伝統舞踊というテレビで見た舞台と極めて近かった。冒頭行われた高砂の舞は衣装や道具ものまでよく似ていた。賑やかで、艶やかで、なかなか見応えがあった。特に女性の演者は動きが本格的で、かなりの経験者揃いと思われる。


地謡の面々のレベルの高さは、特に三線の三名はただならぬレベルである。途中で臨機応変に弾き手が変わったりした。青年会には今年のトウラバーマ大会最優秀賞者もいると言うことだった。太鼓も、三線も踊り手の動きに合わせながらだから、すごい。最後はみるく節で終わったのだが、とても祭りの終わりを告げる哀愁があった。太鼓も高校生ぐらいの女性の演者だったが、軽く動きに合わせるところが見事だった。八重山の太鼓は軽く打つところに良さがある。三線も謡もそうなのだが、すべては舞台の踊りに従うものであるようだ。子供会の三線と、舞踊は岡山三線教室の生徒さん達と言うことだったが、相当厳しい練習をしているようだ。姿勢が素晴らしい。腰の収まりが良いし、背筋が通っている。八重山民謡になると、命がけというのがよく分かる。若い人たちが、本気で伝統に取り組んでいる。何故石垣にこういう文化が残っているのか。生な情熱のようなものに出会い、改めて考えさせられるところがあった。つまり、豊年祭がある以上田んぼは止められないという言葉のことだ。



新聞には石垣市がユネスコの「創造都市ネットワーク」への加盟が推薦されているとある。その理由が優れた文化や芸術を誇る都市ということ。石垣市の推薦は音楽部門である。古典民謡や舞踊などの伝統音楽の継承の上に、ビギンなどの生み出す新たなポピュラー音楽の融合。まさに、「いしゃなぎら青年会」の活動そのものではないだろうか。途中で会場の子供達を含めてみんなで、「パプリカ花が咲いたら」踊った。この歌は前からいいと思っていた。踊れる子はみんな前に来て、と呼びかけられた途端に二〇人くらいが前に集まり元気に踊った。実に気持ちの良い会場である。


最後はみんなでカチャーシーである。


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石垣島ミサイル基地配備予定地でカンムリワシを見た。

2019-06-16 04:51:55 | 石垣島
絵を描く場所を探して、於茂登小学校の方に行った。ここをゆっくりと走っていたら、カンムリワシが何かを食べていた。まだ幼鳥のように見えた。全く人を怖がらない。車を止めた位置から、3メートルほどである。餌を食べているから逃げないのか、カンムリワシというものはそういうものなのかは分からない。以前も、於茂登小学校にゆくちょっと手前でも、カンムリワシが餌を捉えたところに出会った。多分ネズミだったと思うが、悠然と掴んで飛んでいった。このあたりはカンムリワシの生息場所に違いない。よく出会う給餌をする場所だ。他では名蔵の方の田んぼで一度見たくらいで、カンムリワシをそう多く見るわけではない。このカンムリワシの一番多い場所に自衛隊基地を作っている。環境アセスさえしないで、カンムリワシの営巣地がないと嘘を言って工事を始めた。営巣地がないわけがなく、工事を始めてから付近で営巣中の巣が見つかった。石垣島の中でも最も作っては行けない場所を選んで、自衛隊基地を作っている。何もよりによって、於茂登岳山麓に自衛隊基地を作るという自然を恐れぬ行為は、人間の行為とは言えない。

カンムリワシの餌を食べるところをタブレットのビデオで撮影した。3分ほど撮影していたが、そのまま落ち着いて食べていた。あまり長く居たらかわいそうなので、その場を静かに離れた。もうあそこには行かないことにする。自衛隊基地の工事が見えた。そもそもその場所は石垣の水源地域である。市民の飲み水を取水しているのだ。そこに自衛隊基地を作ると言うことは、水の安全管理が見えなくなる。基地の中で化学兵器が保管されていて、万が一漏れ出たとしても、誰も確認はできない。石垣市行政の立ち入りさえできないだろう。そういう場所から、健康が害される物質が流されていたら、大変なことになる。本来水源の山のような場所には神が宿るとされ、信仰の場にしたのが人間の知恵である。水神様として大切に守るべき場所である。於茂登岳は山そのものがご神体である。於茂登岳によって石垣島の暮らしが守られてきたからに違いない。今度は備えあれば憂いなしと自衛隊が石垣島民を守ってくれると言うのか。もしそれが本当のことであれば、まさか於茂登岳の山麓は選ばないだろう。島民を人間の盾にして、自衛隊の安全を守るという位置に自衛隊基地は作られようとしている。石垣島を防人にして、本土防衛を図ろうという計画。

それは、アメリカの対中国最前線と言うことにもなる。お友達のトランプさんから、アベちゃんが頼まれちゃったのだ。琉球弧に米軍の使える基地が欲しい。自衛隊基地と説明しておけば分かりはしない、早くなんとかしろ。ゴルフをしながら、こう言われたのだ。お友達作戦だ。石垣島島民としては、危険が増すだけである。基地がなければ中国軍は通過である。現状では沖縄本島の米軍基地が攻撃対象になる。基地ができれば、石垣島の危険は増してゆく。現在宮古島にはすでにミサイル配備がされている。中国がもし沖縄を占領する作戦を実行するとすれば、攻撃する際、当然宮古島の基地をたたくだろう。基地のまだない石垣島は通過である。しかし、考えてみれば中国軍が何故、沖縄を占領に来るのだろうか。馬鹿げている。いくら習近平が軍国主義者で、覇権主義であるとしても、いきなりの攻撃など何の得もない。この時代に沖縄を占領して、中国にするようなことはあり得ないだろう。もしあるとすれば尖閣諸島の占領である。

中国軍が尖閣諸島に上陸してくる。これに対して石垣島の基地から、ミサイルで反撃しようと言うことか。石垣島民は極めて危ないことになる。もし本気で政府がそういうことを本気で想定しているとするならば、一日も早く、尖閣諸島問題を国連に提起すべきだ。そして、国際裁判所に判断を仰ぐべきだ。戦争になるよりも遙かにその方が正当な対応である。それが、国際問題を平和的に解決しろという、憲法に示された政府のとるべき道である。石垣島の島民の四分の一の住民が住民投票を行った上で、自衛隊基地の配備を決めて欲しいと請願した。にもかかわらず、石垣議会も、市長もその必要はないとしている。住民投票をすれば、反対が多いのが目に見えているからとしか思えない。住民にしてみれば、危険がますばかりで備えなどとは到底思えないからだ。しかし、住民が嫌うものを無理矢理国の専権事項だから黙って受け入れるほかない、などと押しつけて居る市長の判断力には絶望感が伴う。市長個人がどう考えるのかはかまわない。又議員一人一人がどう考えるかもかまわない。島民自身の意見を封鎖したままというのでは、民主主義国家とは言えないだろう。まずは、住民投票を実施してからのことだ。そうカンムリワシが言っている気がした。





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