地場・旬・自給

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酒匂三線クラブ

2015-01-31 04:26:58 | 身辺雑記

三線が届いた。素晴らしいものである。照屋勝武氏の魂のこもった作品だ。見事な形をしている。高かったのだが、それ以上の物だと思う。嬉しくて、一時間ごとに取りだしている。三線を弾くどころか、調弦がまずできない。そこでゆーチューブで何度も聞きながら、合わせてみた。一応近い音になったので、今度は水牛の角でで来た爪の持ち方を勉強した。中指に入れていて、人差し指にさすものだと初めて知った。ユーチューブには実に親切な先生が沢山いて、三線の構え方を教えてくれる人もいる。熱中していると、悪い姿勢で弾いている。姿勢は大切なことだ。先ず爪で3本の弦を繰り返し均してみた。あがり、さがり、繰り返すだけで、実によい音が響く。沖縄の音だ。音階を出すどころか、解放弦で音を出しているだけで一日目は満足した。まあ音階を出してみたいと思って気が付いたのだが、手前の弦は低いド。中央の弦がファの音だ。そして一番下の高い音の弦が一オクターブ高いド。これが本調子。なるほど。

この超初心者が厚かましくも、酒匂三線クラブに出掛けた。若い男の人がいた。早速先ず調弦を教えてもらった。音合わせを周波数で行う簡単な道具がある。これは買った方がいいとのこと。それからドレミファソラシドを教えてもらった。段々やっている内に、ドレミファに近い音になってきた。そのころに段々一人増え、二人増え、皆さん調子が狂ったようだ。得体の知れないおじさんが勝手にいる。迷惑にならないように静かにドレミファを弾いていたのだが、徐々に馴染んだ。皆さん若い人だ。30歳前後なのだろうか。友人の今屋さんだって私から見れば随分若いのだが、それより1回りは若い。迷惑にならないようにする。と言ってもくるった音階を常に鳴らしているのだから、迷惑でないはずはない。女性が2人、男性が3人居たのだろうか。あまり見ないようにしていたので人数も、今となっては定かでない。そのうち今屋さんが来たので、少しおさまりが良くなった。

改めて、三線クラブのフェースブックを見ると、何と私が弾いている所が出ている。その場で取って出していたのだ。総勢女性3人の男性4人であった。みんなに自慢すると言う事でリンクした。最初に調弦を教えてくれた人はブルーのヤッケの人だ。久野に興味があって、東京から最近越してきたと言われていた。久野はどこを目指しているのか。と尋ねられたのだが、自給農業の場所だと勝手に答えていたのだが、意味不明の様だった。自転車で林道を行くのが趣味らしい、和留沢は世界にも通用する所だと言われたので、嬉しくなった。どこにでも自転車で行く人で、久野から酒匂まで、15分だと言うのには、みんな嘘だろうとびっくりした。色々おしゃべりをしていたのだが、私は三線をみんなに自慢した。幾らしたのかと言うので○○円したと言ったら、皆さんびっくりされて、何しろこんな箱に入っていると、興味しんしんで箱の中を調査していた。

とても上手な女性の方が私の三線で弾いてくれた。すぐに今屋さんが併せてくれたので、良く沖縄で流れるテンポの速い曲で盛り上がった。何とかドーイと言うのではなかったか。とても音が良いとほめてくれた。家の文化財がほめられたのでうれしくなった。まあ、超初心者がなんでこんな楽器を買うのかという白い目で見られていた感じではある。からかわれて仕方がない状況である。三線の木が好きなのだとか何とか、言い訳がましくしどろもどろで言っていたのだが、皆さんには全く意味が通じないようだった。年寄りの骨董趣味など縁のない方々のようだ。勿論そこがクラブの空気がいい所である。闖入者の得体の知れない人間を、心を開いて受け入れてくれる人達がいる。私は9時30分で帰らせてもらった。眠くなったのだ。こんなに遅くまで三線の練習が出来たのはうれしかったのだが、帰り道、老人のボケ防止には、三線をはじめるのはいいよ。と言われた宮古島木工のおじィーの言葉がよみがえった。

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農家の消滅

2015-01-30 04:26:15 | 地域

先日、ある地域で地域の再生の活動をしている人と話す機会があった。小田原の久野地域の農業事情などをお伝えしていたら、実は一番困っているのは、結婚しない農家が増えていると言う話だった。農家を一人でやると言うのは、不可能なことだと思う。後継者もいないだろうから、農家が消滅して行く。そういう事は、別に最近の事ではない。農家に跡取りが居なくなるという事は、50年前の山梨でもよくある話だった。農家の仕事は3K職場と言う事もあるし、因習的で自由がないという事が当時も言われていた。それから50年がたって、いよいよ農家消滅の時代である。田舎で育ったし、又今もそれに近い所に住んでいるので、地方消滅の話は当然過ぎて、今更の思いで聞いている。しかし、それを悪い事と考えている政府や行政とは、認識は違う。日本と言う国土に相応しい時代に向かっていると考えている。むしろ日本を立て直す材料になる。戦前の日本が、満蒙開拓や、移民政策をせざる得なかったのは、人口増加が根にある。

農家を維持してゆくには、一軒の農家の農地を分割する事が出来なかった。長男が相続して、他の兄弟姉妹は村を出てゆく以外に暮らしようがなかった。農業立国では耕作地の面積と人口は連動し、国土面積の限界がある。所が、戦後の社会は農業国から、工業国に移行して、農村人口は都会に移行して行く。さらに、出稼ぎや三ちゃん農業で、兼業農家が増加する。農業は年々日本の主力産業ではなくなった。2次3次産業で稼いだ金で、食糧は輸入すればいいだろう。こういう流れで戦後社会は変化してきた。その流れの結果、一次産業を中心にした地方社会は、衰退に向かっている。農村人口を都市人口に移行して行く事が、狭い国土に日本人が暮らしてゆく唯一つの道だと、考えられてきた。その方角の結果が地域と農家の消滅の時代である。本来であれば地方は人口が減少したのだから、充分に農業を行えばいい訳である。しかし、生活の在り方の方が変わっている。農業を選択する事が出来ないのが現実であろう。

農業には2つの方向がある。自給的農業と、プランテーション農業である。私がやりたいと考えている。又残さなければならないのは、自給農業と考えている。世界の商品としての農業で伍して行ける農地であれば、プランテーション農業をやればいい。しかし、環境的条件を考えれば、日本の維持すべき農耕地はプランテーション農業が成立する場所は、限られている。大半の農地が中山間地の狭く分散化した農地だ。そうした農地を守ることは、日本の自然環境の維持のためには、むしろ重要な場所になる。誰かに農地を継続してもらわなければ、日本の国土自体が崩壊して行く。とすれば、どうしても自給農業をやる以外に日本と言う国は維持できないのではないか。小さな1畝2畝の田んぼを守る意味は、お米の生産だけでなく、国土保全の意味合いが大きい。水と言うものを管理する事は国を制することだと、言われる。大きなダムを造る事より、自然に順応したやり方が水田である。

地方の人口が減少したのだから、中山間地は自給農業を推進すればいいのだ。その為には、自給農業をやりたい者が、やりたいようにできる環境整備である。別段やりたくない人間にやってもらう必要はない。自給的農業をやりたいという人間が、自給農業を始められる環境を整えることだ。放棄されている農地を国の管理下に置く。所有権の問題など、様々あるのだろうが、やりたい者にやってもらう基本的条件を作る。人間の暮らしとしては、中山間地の暮らしの方が面白い。暮らす事が出来るなら、やりたいと言う人がいないわけがない。三つの要件がある。農地の充分な利用条件。自給農業技術の伝承。教育や医療に対する自給思想の確立。食糧自給を一定比率の国民が行う事は、国家としての安定につながる。国土保全が、食糧の言って医療の確保にもつながる。コンクリートから人間へ投資の先を変える事だろう。

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イスラム国と安倍氏

2015-01-29 04:39:07 | Peace Cafe

イスラム国に2人の日本人が拉致された事は、政府は2ヶ月以上前の11月に把握していたという事だ。と言う事はその後の日本政府の言動、行動は拉致された日本人を意識した上でのことだった。安倍氏が中東に行くと言う事が、どういう結果になるかは、充分計算された上での事と考えなければならない。イスラム国は拉致した外国人を殺害し、映像を公開するというやり方からして、日本人の2人に何が起こるかは、充分認識していたはずだ。政府内部には、安倍氏に中東には行かない方がいいと進言した人もいたと言う。しかし、安倍氏は強引に出掛けて行った。その理由は、悲しい事だが以下の様に考えざる得ない。日本人の殺害予告が世界に公開されるだろう。それに対して日本の世論が、軍事力がないからこういうことになるのだ。憲法を改正して、武力のある強い国になるべきだ。このような世論の誘導を狙ったのではないかと言う事だ。

後藤さんの母親が安倍氏に面談を求めて、断られた。今の後藤さんの立場と、母親の思いを考えれば、対策本部まで作っている政府が母親に会わないなど、いかにも不自然である。日本政府が今回の事件をどう利用しているかがうかがわれる。安倍氏の頭の中にある筋書きでは、日本も武力をもたなくてはならないのだ。と言うような世論の動きの誘導なのだ。邦人の救出を自衛隊が出来るようにしたい。という目的がある。11月に二人がイスラム国に捕まったという事が分かった時に、何故平和的な行動を起こさなかったのか。得意の積極的平和主義ではなく、本当の平和的手段だ。ただ傍観して、中東訪問して、事を起こした安倍氏。やれるだけの平和的手段を尽くす。国際紛争を平和的手段で解決する。平和憲法に記された、総理大臣の義務だ。にもかかわらず、一切の平和的努力をせず、土壇場まで来た事を、安倍氏はどう考えているのか。

アメリカがテロとの戦いを宣言して以来、テロはエスカレートしてきている。一向に解決の兆しはない。イラクのフセイン政権が大量破壊兵器を持っているという事で、日本の自衛隊まで巻き込まれて、派兵された。その結果フセイン政権は確かに崩壊したが、その元イラク政府軍がイスラム国の中心になっていると言う。暴力で解決できる事はない、という現実を見るべきだ。必ず、暴力の報復が起こる。暴力はエスカレートして、治まる所を知らない。アメリカはテロリストの航空機での自爆攻撃でひどい被害が起きた。その暴力に暴力を持って、テロとの戦いはエスカレートしてきた。確かにテロは許されないし、軍事力を持って抑えざる得ないときもあるだろう。しかし、世界の今の状態を見れば、収まるどころか、テロは広がるばかりである。イスラム過激派と今は言われているが、中国にもイスラム教徒はいる。暴力の連鎖はさらに広がる可能性の方が強い。

イスラム国の様な狂気の集団を作り出すのが、軍事力である。世界各国のテロリストがイスラム国に加わっていると言う。最近2人の若い女性がただ、人を殺してみたかったという理由だけで、無意味に人を殺した。2人とも学校の成績は究めて良かった人だ。人間の暗闇は深い。イスラム国に加わりたいと言う人が日本にも存在する。北海道大学の学生が、何故、イスラム国に加わりたいのかは分からないが、日本人が40名もイスラム国に居ると言う話もある。人間は暴力に憧れる所があるのだろう。世界から、多くの人間がイスラム国に加わっているらしい。暴力で解決できる事は永遠にない。どれほど無力に見えても、効果がないように見えても、平和的努力以外に世界平和の道はない。後藤氏は心温かいジャーナリストであったようだ。しかし、なぜこれほど知性のある人が、今のシリアに入国したかである。イスラム国の内実を誰よりも知っていたはずの人が、こういう事になる。何とか帰って来て欲しい。

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日本サッカーが負ける理由2

2015-01-28 04:12:26 | 身辺雑記

アギーレジャパンはアジアカップ準々決勝でUAEに敗れた。ザックジャパンがワールドカップで、1勝もできずに敗退した。日本のサッカーは選手は強いにも関わらず負ける。勝てそうな報道が繰り返し行われる。強いのだがたまたま負けたと強弁している。その姿は、日本の現状の社会を反映していて、興味深い所がある。現実を見ようとしない事だ。その事は、ワールドカップで勝てなかった時にも書いたが、相変わらず日本のサッカーチームは御雇外国人が監督をしている。こんな状態でチームとして強くなれるわけがない。日本人のチームを強く出来るのは、日本人のはずだ。岡田監督だったころが懐かしい。勿論監督だけではない。チームがバラバラで、選手の力が上手く発揮されていない。本田の惜しいシュートの山が象徴的。つまり、安倍さんの代わりに、アボットさんやオバマさんに総理大臣をお願いしても、上手く行く訳がない。問題があるとしても、安倍さんであると言う事が、日本の現状であり、そこから立て直す以外ない。

サッカーの事であった。何故、外国人の監督にするのかは、多分サッカー協会内部の根深い問題があるのではないか。バスケットでは、協会と言うのかリーグが2つあって世界から、正式な日本代表として認められないという事態である。サッカーはプロチームとしての大きな利権がからんでいるから、どうにもならない内部事情があると想像している。野球でもそうだが、優秀な選手は海外チームに行く。給与も良いし、自分の能力の挑戦でもある。野心的な選手であれば、当然の選択であろう。その結果、日本代表チームが短期間しか組めなくなっている。本来代表チームで練習を繰り返さなければ強いチームはできない。イチロー選手やダルビッシュ選手が全日本に今は居ないのである。東京オリンピックでは大谷選手が日本チームに居ないということになるのだろうか。ラクビーは最近強くなっているが、どうも日本チームとも思えないメンバーがいる。ナショナルチームの所属の基準が違うようだ。確かに、国単位にあまりこだわると言うのも、既におかしいのかもしれない。

サッカーには世界クラブ選手権があり、国単位のチームより強い。日本選手が海外のクラブチームの選手として参加していた。日常ではクラブ単位で、チームを組んでいて、年に何度か日本チームに招へいされ日本代表として戦う。何とも不自然なことで、ナショナルチームが強くなれるわけがない。ラクビーのように在留年数で所属するナショナルチームが変わるような制度がふさわしい状況が産まれてきているという事だろう。国家と言う物が少しづつ変わり始めている事を感じる。そうした中で、外国人監督にお願いして、ナショナルチームを作ると言う事はおかしい事ではないだろうか。監督は選手ではないとはいえ、チーム力と言う意味では、選手以上の存在だろう。本来国という単位を重視するのであれば、御雇外国人は違和感がある。そうでないのであれば、国という単位を考え直す時に来ているのかもしれない。

サッカーの事を書いていて、実は相撲好きで、相撲が気になる。白鵬が33回目の優勝を全勝でした。ほぼ全取り組みをテレビで見た。幕内力士の半分は外国人である。日本人横綱が登場する可能性は、当分ない。どうも永遠にないと言っても良いような状況だ。相撲という芸能が変わろうとしている。白鵬が後の先の相撲を完成させたいとしている。白鳳は立ち合いで鋭く攻める相撲である。立ち合いで受ける、双葉山の相撲とは違う。白鳳の立ち会いは、90%左足から前に出る。時に、右足から出る。右から出る時は受けの相撲を考えているようだ。立ち合いの強くない力士に対しては右から出る事が多い。話がまたそれた。相撲は人気が復活してきている。外国人が戦う伝統の日本の国技大相撲を、日本人が楽しんで見ている。これからの時代を、案外に暗示しているのではないだろうか。人種とか、国家とかにこだわる事が減るのは悪くはない。だからこそ、日本人という特性磨き上げ、世界で生かす方法を考えるべきだ。

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沖縄の三線と紅型

2015-01-27 04:14:44 | 身辺雑記

沖縄好きになって、沖縄の布と言うものを勉強している。勿論知識が浅いので充分には分からないのだが、沖縄では古くから織物や染色が発達していたようだ。1317年宮古島から中国に流れ着いた14人の内5人が青黄の服、9人が白の服を着ていたとされる。これをわざわざ中国で記録したということは、普通の人達が、織った布、染色された布を着ていたという事が、文明人が沖合の島に入るらしいという事で驚き、重要な情報として中央政府に報告として挙げられたのではなかろうか。当時の沖縄周辺は、日本と中国の影響下にあるが、それぞれの島が独立した文化を持つ国として存在していた。独立国であると言っても、現在の国家とはまた違うイメージであろう。琉球は東南アジアとも交流が深く、タイの織物が献上されたという事も記録されている。海洋民族的要素が強く、広く交易をしていた暮らしなのだろう。当然日本との関係が深く、紅型が平安の日本の織物の影響が深いとされている。

沖縄には伝統的音楽がある。現代でも新たな民謡が生まれる土地柄。あのブームの島歌の前にも、歌謡曲の世界では、沖縄物として色々あったわけだ。妙な空気の沖縄歌謡曲である。確か、田端義夫さんが歌っていたのを覚えているが、「19の春」という歌が沖縄で生まれるまでの話は、いかにもにも日本と沖縄の関係を表していて面白い。明治のラッパ節と言う物が元になり、九州で炭鉱労働者が歌っていたものを、沖縄からの出稼ぎ労働者が持ち帰る。そして、戦前の沖縄で、現在の唄が出来る。それが、もう一度日本全土で大流行する。驚愕を受けたのは、ネーネーズの登場だった。こんな生きた歌があったのかと思った。ともかくハーモニーがすごい。どうも沖縄には生きた歌があるらしいと想像した。リンケンバンドもすごい。あのエイサーという踊りがまた良い。しかも、エイサーは派手なアレンジが行われ、日本全国に流行を広げたともいえる。

沖縄の音楽から、興味は三線に進んだ。もともと樹木と言うか、木材が好きなのだ。三線は黒檀の棹で作られているものが多いようだ。勿論どんな材質の棹であっても構わないようだが、硬い木が基本だ。黒檀はバイオリンのネック部分でも使われる。弦を強く張り、音を響かせると言う事で、硬い材質が必要なのだろう。紫檀、花梨、鉄刀木(タガヤサン)、ユシ木(イスノキ、ユスノキ)、パンキライ、さくら、樫、カリンなど他の素材も使われる。胴の部分はチーガとよばれている、材質はあまり問題にされていないようだ。ケヤキ・カリン・槇などが使われるらしい。こうした木材種類が、音の反響に影響すると言う事が実に面白い。ここからはまり込んだ。ユーチューブでは様々な三線が奏でられている。これを聞いていると、実に良い音だと思うものがある。どちらかと言うと低音で、柔らかい音色がいい。全くの素人の感想の範囲である。

素人ではあるが、やはりいい音だなと思う音色は、八重山クロ木の物なのだ。古い三線と思われる音色には打たれるものがある。理由や原理は分からないが、この事に驚く。曲を引くと言うより、あの音を鳴らしてみたい。博物館で出した、CDには名器の音色が出ていると言うので、現在取り寄せている。と言いながら実は思いきって三線を買ってしまったのだ。自分としてはまさかと言う事だが、沖縄を思い出す事が出来るなら、それも良いと思って買った。ヤフーオオクションと言うもので購入した。体験としては初めての様な事だったので、怖々入札して、その価格で買う事が出来た。まだ送られてきていないが、なかなか素晴らしい三線のようだ。価格も正しいのかどうか分からないが、それなら買えるというぎりぎりの価格である。28日に送られてくる予定だ。

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味噌の仕込み

2015-01-26 04:10:28 | 自給

今年の味噌の仕込みが終わった。大豆の会の準備の皆さんがすべてを上手くやってくれて、例年以上に良い流れの仕込みになった。きっと良い味噌が出来る事だろう。麹作りから書き止めておくと、麹は1月18日と19日の2日間仕込んだ。私は、18日の昼ごろから麹を仕込んだ。地元の駅伝の激励会やら、秋葉神社の祭礼などがあって、自分の分を仕込んだだけであまりお手伝いもできなかった。麹は3分づき位で11キロ作った。11キロは昨年も同じ量で、米袋方式だとちょうど良い量になる。味噌にはこのうち、6キロだけを使った。誰か失敗したらと言う気持ちがあって、多めに作っている。今年も誰も失敗しなかった。進め方が良くなったのだろう。失敗する人が全くいない。しかも、なかなか良い麹が出来ていた。30人近い人がやるのだと思う。失敗がないという事は、麹作りは誰にもできるぐらいに流れが整理された。今年も多くの人とが試みた米袋方式はなかなか良いやり方のようだ。初心者にはお勧めだと思う。

今年の麹作りは、立ち上がりいくらか保温をしたが、その後は無加温に近い状態で推移した。今年暖かかったのだろうか。麹の菌に力があったのだろうか。いずれ、コード付きの温度計を使うようになって、麹の中の温度が分かるので、実に安心して進められる。28度から、35℃の範囲で管理する。その温度を外れるとブザーが知らせてくれる。袋の中にはできる限り触らないで、手入れもできる限り減らす。手入れまでの時間は基本、10時間としているが出来る打延ばして管理する。お米の中まで菌が入り込むような麹が目標。昨年より少し落ちるが、まあまあの出来ではないか。皆さんの物が年々良くなって行くので、うれしくなる。

大豆は、24日の朝から洗い、10時過ぎには、大釜に入れてしまい、浸しを始めたそうだ。24日は大釜移動もあり、朝から大変だったのだが、この日は水彩人の総会で、また参加できず。翌25日の朝4時40分に火を入れた。これも太田さんがやってくれたという事で、私が小宮さんのブルーベリーガーデンに着いたのは、6時30分頃だった。既に、大釜の中は煮えたぎり、泡が盛り上がり始めていた。少しかき回してみたが水が少ないような感じがした。結果的にはこれでもいくらか水が多いいくらいだった。この辺の火加減、水加減は、年季がいる。随分上達た。その後薪は抑え気味にして、釜が吹きあがらないように慎重に管理。強くなってきたら、入口の蓋を閉めてしまった。結局どんどん煮えが進んで、ほぼ日を落として進めたのだが、9時には味噌豆になる状態まで進んだ。9時が集合時間だから、結局集まり、塩を計り、1口1000円の会費を集め、豆を計り、配り始める。最後に私が豆をつぶし始めた時間が11時前だったので、12時には樽詰めを始めていた。樽は最後の3年味噌を出して洗ったものをすぐ使った。

1時前には全員の仕込みがおわり、味噌料理の一品持ち寄りの恒例の昼食会だ。私は今年は、豚レバ―の味噌漬けとヨーグルトの味噌漬け。レバ―は昨年と同じもので、ヨーグルトの味噌漬けはとても評判が良かった。確かに美味しかった。また近いうちにやるつもりだ。地中海ヨーグルトを作っている。先ず水きりである。ガーゼで包み、ボールに入れて一晩置いたが、完全には絞れないので、さらに包んで良く水を絞った。この水は飲んでしまった。その塊になったヨーグルトをガーゼに包んだまま、味噌に付け込んだ。そのまま流しの脇に置いて、4日間。味噌は時々かき回してよく浸み込むように管理した。出来上がった物は、燻製チーズの様な何とも言えない美味しいものだった。高橋さんが小麦の会の小麦でパンを焼いて来てくれたので、これにつけて食べた。良い味だった。レバ―につけて食べたものもなかなか良いものだった。一品料理のレパートリーが増えた。

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積極的平和主義の姿なのか

2015-01-25 04:19:45 | Peace Cafe

安倍総理は中東訪問を切り上げて帰国した。イスラム国で捕まった邦人の殺害予告への対応である。そして、湯川さんの殺害の写真を持った後藤さんがの映像が公開された。今回の事態を見るに、積極的平和主義のいみである。どう関連しているのか考えておく必要がある。安倍氏は歴代総理大臣の中でも、海外に出掛けてゆく回数は際立って多いいと思う。確かに積極的である。しばらく前にも書いた事だが、それではなぜ、フランスの新聞社のイスラムテロに対する、欧州の首脳の平和デモに加わらなかったのだろう。それでいて直後の中東訪問を行った事はどう影響しているのか。イスラム国に対抗する、60カ国と言う有志連合に日本は入っていない。その理由は今回の事件には影響があったのかどうか。中東に240億のお金を出す事にした。その意味は何だったのだろう。出掛ける事自体は日本にとって悪い事ではないが、その結果起きた事件なのかどうか。パリのデモに参加しないで、欧州の首脳にどういう協力を求めたのだろう。

多分、デモ行進と言うものに参加した事など無いのだろう。自分が集団の一人になって、デモをして、自分の主張をするというような体験が無い。そういう事をやる連中は無意味な連中だと思っているのかもしれない。だから自分がデモに参加すべきと言う事は思いつかなかった。安倍氏の有能な影武者たちはデモに行った方がいいという進言をしたのではないか。そういう感性の人達のようである。安倍氏がデモなんて僕はいやだよ。と言ったかもしれない。首脳外交で、エジプトの大統領や、イスラエルの大統領に、お会いすることが私の役割だよ。と言うすこし偉そうな感覚の様な気がしてならない。積極的平和主義の実態は、平和をもたらすのは結局の所軍事力のバランスなのだから、力の外交を積極的に展開すべきだとと言う事なのではないか。だから、デモなど屁のツッパリにもならないという所だろう。

イスラム国は狂人の集団の様だ。北朝鮮が丸で理屈に合わないと思っていたが、それ以上だ。こうした人達が国の規模で現れた時に、世界がどう対応するかである。安倍氏であれば積極的平和主義ではどうするのかを、具体的な対応策を示さなければならない。世界中に支援を求めているようだったが、成果はどうだったのか。国内でも、イスラム国と連絡があるという、同志社大学のイスラム学者までかかわっているようだ。ついこの前はイスラム国へ兵士を送る悪人とされていた人だ。今までの日本政府はこうしたときに、何もしないし、できなかった。そういう日ごろの蓄積している力量がなかった。有志連合に入っていない安倍氏が、欧州首脳に何かイスラム国との交渉の糸口はないか、聞きまわっているような印象だが、結果はどうか。安倍積極的平和主義では今回の事件を、充分に分析する必要がある。

後藤さんの文章がある。日本基督教団田園調布教会の信徒ということで、キリスト教関係のクリスチャン・ツデェ―というホームページのなかである。何故このような見識のある人が、湯川さんに会いに行くと言う事を試みたのだろうか。この点の判断が疑問だ。私は、シリアへの渡航を完全に禁止すべきだと思う。様々な人が出掛けて行き捕まる。そして、最悪の事態が展開される。戦場報道をしなければ、イスラム国の事は理解できないのだろうか。イスラム国の現地を実態を探ろうとするのであれば、イスラム国の狂気を想像する必要がある。安倍氏の集団的自衛権の解釈だと、邦人の救出が出来るように、解釈変更を行い、自衛隊が危険地域に邦人救出のために遠征すると言うことになる。今回の場合の解釈はどうなるのだろう。ホルムズ海峡の機雷除去も主張している。地雷を設置するのは、戦闘の為である。除去する事は、戦闘に参加すると考えなければならない。果たして日本の役割はそういう平和主義であろうか。

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ブログは生きている

2015-01-24 04:13:04 | 身辺雑記

ブログと言う物は生ものである。それで、その日そのとき気付いた事を書いている。出来る限り、その時々の自分そのままを書こうとしている。自分の実際の状態を矛盾しても書き止めておきたいと思っている。自分自身が確認の為に読み返す材料である。最近麹を仕込んだが、やはり、前回とは違う。何故か今年は加温が不要だった。何故、加温の必要な年もあれば、入らない年もあるのか。毎年、1月の今頃にやるのだが不思議な物だ。気候だけではない様々な要素が関係する。それが発酵なのだと納得するしかないが、こうやって記録しておけば、次の時思い出す事になる。ブログを始める前も、記録には熱心だった。何でも書き止めていた。例えば、三重の何とか旅館の椿の間は絵が描ける、と言うようなことだ。それがブログと言う実に整理のいいものが出来て、麹で自分のブログ内を検索すれば、色々の過去体験が出てくる。便利この上ない。そうした事を繰り返しているうちに、実体験と言う物は大切な物だと考えるようになった。

稲作の深水管理と言うことがある。現在、8センチが良いと考えている。普通は3センチ前後だろう。20センチにまで深水するという人もいるし、浅水こそ最善だから、流し水だけで貯め水はしないと言う人すらいる。私が8センチにたどり着いたのは、ヒエが発芽しないぎりぎりの水深を確かめた結果である。田んぼに水深を計れる棒を立てて、観察を20年ほど続けた結果である。これは小田原の結果であり、他所はまた別かもしれない。田んぼはそういうものだ。他所ではどうかという事になるのかは、ブログにそれぞれの体験を書く人が無数にいたならば分かる事だ。私はその何万分の1を記録している。それは、政治でも同じだと思っている。当たり前のことだが何でも正解など無い。だから、普通の人が暮らしの実感を無数に書き止める事が、一つの方向を作るのではないかと思っている。それがブログの生モノの価値である。

ブログで一番がっかりするのは、実に面白いブログにたどり着いてなるほどなるほどと読む。そしてお気に入りに入れておく、そしてしばらくしてまた読みたくなって行ってみると、新しい記事が無い。別段知り合いでもないが、どうしたのだろうなどと気になる。そして、残骸は残っているが、もうブログの更新が無い。継続しないのは何故なのか、形を変えたのか、根気が無いという事だけか。そういう事もあるので、私は毎日朝の日課にして、何が何でも続けることにした。継続は力なりとも言うから、つまらんおやじの日々の感想でも、生モノが集まれば無意味とは言えないのではないか。このつまらないというのは謙遜ではない。誰もが他人にとってはつまらない物だと思っている。しかし、麹を仕込んだらこうだったというような事は、集まれば、自給生活の本当の意味での参考になる。

麹の作り方は20年前に始めたのだが、その人は麹菌を採取する所からやっていた。試みては見たが、それは止めた。麹菌を購入した方が、良い味噌になる。そういうレベルだと言う事なのだが、原理主義的抵抗は無駄なことだと思った。その辺の加減が実際の暮らしでは重要になる。塩も作るべきだと思わないではない。思わないではないが、やった事が無い。やろうとした年に、原発事故が起きた。今は塩作りは考えていない。麹は3分づきぐらいで作る。あれこれやってそのあたりに落ち着いた。玄米では蒸しが時間が掛かり過ぎる。良い麹が出来にくい。良い麹都は麹を割ってみて、中央まで菌糸が入り込んでいる物だ。色は白が少し灰色になる。黄色みが出る年もあったが、色はは麹菌で少し違うようだ。

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絵を描ける時はなにもない時

2015-01-23 04:01:09 | 水彩画

どうも絵をかける状態は、何もない静かな日常である。父は生涯和歌を作っていたのだが、戦争に行っていた時が一番出来たと言っていた。何もないからだというのだ。戦争状態の中に居る気持ちが少し伺えた。父は7年間中国の最前線の長沙と言う所まで行った自動車部隊に居た、下級の兵隊である。銃を撃ち合うような戦闘と言う物は殆ど体験しなかったという。物資の調達運搬をやっていたと思われる。中国語が話せた。中国人とも格別親しくなり、民俗学的な関心で中国を見ていたようだ。そういう毎日の中で、和歌が一番出来たという。戦争の生活は単調だからだと言っていた。戦後の追われる生活の中で、作れなくなった。70過ぎてから少しづつ作っていた。見せてもらったこともあるが、実に穏やかな自然描写だけの物で驚いた。本人から来る激しい印象とは、隔絶したものだった。創作と言う物の正体が、本人を表すものなのかどうかも難しい物だと思った。

何もないというのは、創作する心を煩わす物が何もないという事だろう。今、大相撲の終盤戦だが、幾ら相撲が好きだからと言って、誰が勝とうが絵とはいささかも関係が無い。将棋の羽生名人のファーンだが、タイトル戦で負けたからと言ってそれはそれである。しかし、原子力規制委員会が、海に1ベクレルの水を流すことを認めた。と言うような情報は気になり、絵を描く事に引っかかって来るようだ。気持ちが絵だけになるという状態が大切という事なのだろう。自治会長をやると言うようなことも、絵を描くには上手くない。あれをこうしてああして、等と言う事を時々思い出してしまうようでは、絵を描くにはダメなようだ。それが、戦争をやっているというようなどうにもならない中では、案外に創作に没頭できるという気持ちは想像できるようだ。田んぼをやる、畑を耕作するなどと言うのは、むしろ絵を描く事と相乗効果があるようで、絵の中に入り込みが深くなるような気がする。

絵の中に入り込むと言うのは、絵を描いている自覚的意識が遠のいた状態、と言うような感じだ。絵を描いているというより、風景を眺めているという感じだけで、意図が働かず、そのまま見ているという感じに近い。絵は意識の中で流れてゆくもので、その流れが静かに過ぎてゆくことをむしろ大切にする。ああしようとか、こうすればいいのではと言うような、意図的な意識は案外に持っていない。ただその絵にある流れを把握し、その流れが滞らないようにしている。だから、そんな事をした所で何になるのかと言う事になる。絵画することを生産の一種と考えれば、どこからどこまでも無意味な行為である。その無意味である事を、大事にしている行為である。多分そういう価値観に至ったのは、座禅の修業を少ししたためだと思う。座禅をするように絵を描こうといつの間にかしている。そうしたいと言うより、自分の絵に近づこうとしてきたら、こんな具合になったいた。

座禅では、結果を求めると言う事は悪い事になるとされる。悟りたいと言うような気持ちを、どう克服するかだと思っていた。ただ座禅をしている、そう有ればいい。しかし、その心境にいたれない俗物であるので、絵を描くと言う事にならざる得なかったのだと思っている。ある高僧が居なくなって、やっと見つかったら、名古屋で大工さんをしていたと言う話を聞いた事がある。そういう人間のあり方に憧れたようだ。結果を恐れず、日々是好日ということが、山本素雄さんという栃木の妙見寺住職の言葉にあった。多分絵を描くと言う事はそういう事だなと思った。一日良い日を送ると言う為に、絵を描く。良い暮らしをする日常に、絵を描くと言う事が必要と言う事だろう。毎日座禅をするというのも良いのだろう。しかし、絵という行為が確認できる物がないと、耐えがたい。というのが私の気持ちで、あさましい者ではある。

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キヤノングローバル戦略研究所山下 一仁氏

2015-01-22 04:59:39 | Peace Cafe

山下 一仁 氏(キヤノングローバル戦略研究所)は農業政策についての数少ない評論を続けている人だ。よく読ませていただく。その主張は、米価が下がっても、農家所得に占める農業所得の割合が低い兼業農家の人たちは、影響を受けません。影響を受ける主業農家には、財政から直接支払いを交付するという方法があります。農協は協同組合であるという理由で独占禁止法の適用除外を受けてきました。農産物の生産コストである肥料・農薬、機械などの資材価格が高くなるので、農産物・食料品の価格も高くなります。農協の全国組織である全農を株式会社化して、独占禁止法を適用すれば、農産物価格は下がることが期待できます。農家に4,000億円の減反補助金という納税者負担を行って、米の供給を制限し、米価を上げて6,000億円の消費者負担を強いるなどという、政策が、長年続けられてきています。また、国際価格よりも高い米などの農産物価格は、高い関税で守られてきています。高い関税で食料品の価格を吊り上げることが国益だというのは、変ではないでしょうか?

と言うような調子で今の農業のあり方を強く否定している。農政に関して意見を述べる人が少ない。経済畑の人には踏み込みにくい分野であるし、既得権が複雑に入り組んでいて、単純には背景が見えない。山下氏は農水省に居た人ではあるが、農業の現場については、やはり知識が揺れる時がある。先日稲作の作業分散の事を読んだが、中山間地では標高差による気候の違いを利用して、田植えや稲刈りを2,3ヶ月の間に、伸ばして作業分散が可能だと書いていた。稲の場合、品種による早生から晩稲までを使えば、5月から6月とどこでも作業は分散できる。問題は、水の確保である。地域によって、田植えや、水きりの時期は決める。自分が3ヶ月もの間、作業分散をしたいからと言って、地域全体で合意しなければ出来ない事になる。また同じ稲の品種であれば、山の上でも、平野部でも、田植え、稲刈りの時期は2週間程度の違いの作物である。

読んではいないのだが、「農協解体」という本を書いている位だから、安倍政権の考え方には近いのだろう。農産物を普通の商品と同じにする。そして、主業農家自体には財政から直接支払いを交付すると主張している。TPPが妥結すべきだ。米価は下がり消費者はありがたい結果になる。当然減反補償は無くす。経済競争の中に、農業も入れる必要がある。そして、それでは利益が出ないでつぶれる農家には「直接支払いをすればいい。」という主張のようだ。直接支払いで、すべてが解決する様な問題ではないはずだが、良い仕組みが出来れば、一つの解決法ではある。問題点は十分承知なうえで、単純化してそういう主張をしているのではないかと思われる。と言う事は、様々な既得権的な補助金政策をひとまず撤廃して、新たな直接支払いと言う補助に変える。この直接支払いと言う物は、具体的に言えば、中山間地の農業補助金の様な、生産の実態とは別に、農地の置かれた状況に応じて支払うというものが、ヨーロッパ型の直接支払いのようだ。

現在、小田原では初めてとなるだろう、中山間地の支払制度を申請しようとしている。やってみなければ分からないので、一度試みてみたいと考えている。本来であれば、都市近郊の小田原が、なぜ中山間地かととなるが、別枠で知事が行う、特任地域指定と言うようなものがあり、特に急傾斜地であれば、指定できるというようなことだ。その他いくつかの縛りがあり、単純ではない。注意して見ておかないとならない事は、こうした直接支払いが企業参入促進のために行われる可能性が高いことだ。企業が参入するのは悪くないが、企業が補助金が欲しいがためにだけ、農業に目が向いているのが現実がある。工場で作物を作る事と、農地で作る事を同じ視線で見ている。その結果合理性はあるが、地域全体を取り込むような総合性が無い。どうやって地域と言うものを維持して行くかという事と、企業の農業参入とをどうかみ合わせる事が出来るかである。

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イスラム国日本人殺害予告

2015-01-21 07:14:29 | Peace Cafe

イスラム国で日本人2名の殺害予告映像が流された。安倍氏の積極的平和外交に基づく、中東訪問を狙っての事だろう。積極的平和主義の裏には、こうした悲惨な事が起こる可能性を考えておかなければならない。湯川氏がイスラム国に捕まった時から、場合によっては殺害をして、映像を流す事が、戦略として織り込まれていたはずだ。そこに、後藤氏と言う人が、湯川さんに会いに行くと言うのでシリア入りしたというのだから、全くこの2人には状況の把握が出来ていないとしか言いようがない。今このような事を書くのは、殺害されかかっている人に申し訳ないし、何とか救出されて欲しいが、これほど危険な所に自ら出掛けてゆくという、状況の把握の甘さが信じがたい。後藤氏はジャーナリストであり、現地の米軍の空爆の結果を、自分の目で見たいと言う事も言われていたと言うが、この今イスラム国の状況を、頭の中で想像し、理解できないようでは、本物のジャーナリストと言えるのだろうか。

戦場ジャーナリストと言うものに意味が無いとは言わないが、今イスラム国で起きていることなぞ、行ってみなくても想像できる。状況証拠の写真を取らなければ成らないなど、考える必要は全くない。戦争などと言う物はすべからく、暴虐の限りだ。良い戦争も悪い戦争もない。戦争という暴力では何も解決はできないのだ。積極的平和主義と言う、美名の武力主義も全く同じ事だ。暴力によって人を従わせようという発想が、全くの無駄である事は歴史が証明している。勝利した民族が必ずしも幸せになるとは限らない。負けても負けても、良い国を作ろうとする歴史もある。国が行う戦争だから複雑になるが、隣近所のことで考えてみれば、誰にでもわかる。力でねじ伏せるような事では、隣近所との良い関係が構築できない。やはり隣近所とは互いに、抑える所は抑え、お付き合いすると言う事だろう。

安倍氏の反イスラム国連合への参加の意思表明は、間違ってはいない。そう有るべきだと思う。しかし、安倍氏は難民への資金援助とともに、今回ホルムズ海峡に自衛隊の常駐する基地を表明している。日本の生命線と言う事のようだ。当然マラッカ海峡にも同じことをやりたいし、やるだろう。これでは平和主義ではない。海賊退治の名を借りた、自衛隊の基地進出になる。イラク戦争時も自衛隊が引き上げなければ捕虜を殺すという事件があり、日本政府は引き上げないと宣言し、青年が殺された。今回もイスラム国に身代金を払うような事が出来るわけがない。もう最悪の状況を想定するほかない。この機会に安倍氏の積極的平和主義が世界からどう見えるかは自覚しなければならない。安倍氏は、侵略を認めた村山談話を継承するとしながらも、本音ではそうではないという、2枚舌をあえてちらつかせている。この2枚舌が敵対する国にはどう見えるかである。多分、ひきょう者ではなかろうか。

イスラム国からの映像を見ると、どうも合成された映像のようだ。影が逆に付いている。二人の表情も変化や反応が不自然に無い。いつでも出せるように相当前に作られていたものを、最新のニュースに交えて出したものと考えられる。いずれにしても、この際日本の積極的平和主義による外交というものが、どういうものであるのかを、明確に自覚する必要がある。多分安倍氏の頭の中は、積極的軍国主義という名前の方が、相応しい内容なのではないか。そうであるのなら、正直に語り、国民の合意を形成すべきだ。そうでなければ、事あるごとに日本の外交方針が国民には見えなくなる。イスラエルにある、ホロコースト記念館に訪問した真意は何か。日本が行ったホロコーストに匹敵する、侵略行為を認めると言う事ではないか。そう韓国では言われているが、どうなのだろう。

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原油価格の下落と日本経済

2015-01-20 04:36:59 | Peace Cafe
ガソリンスタンドに行くと、確かにガソリン価格が下がってきた。行くたびに下がっていて、1リットル130円で入れられた。これは久しぶりの感じだ。何しろ原油価格は半値になったのだから、もっと下がっても良い。円安の影響で、そこまでは下がらないという事なのだろうか。上がる時は素早い反応で上がる気がする。原油価格が下がるのは、消費者にとって有難いお年玉だ。最近悪い話ばかりだったから、日本経済にとっても良い事に違いないと思っていたら、日銀では、これでは消費者物価の上昇の2%が達成できないと、心配しているらしい。いったい日銀は消費者いじめの組織なのだろうか。デフレから、インフレに変える金融政策を行うと言うのは、つまり日銀が円をどんどん発行して円の価値を下げると言う政策らしい。実際には発行した円で国債を買う。それで国債の金利は過去最低になった。円安になって良いのは輸出産業と観光業者か。

インフレになれば、早くお金を使いたくなるという気分になると言われる。例えば土地が値上がりするから、早く購入しておこう。上手く行けば値上がり益が得られるかもしれない。デフレが続けば、土地はこの先下がるのだから、本当に必要になるまで買うのはぎりぎり延ばそうと言う事になる。こうした気分がインフレに載せられるという事で期待されている。実際には、インフレになっても給与が上がると言う事が無ければ、この経済を上向きにする好循環と言うやつは始まらない。例えば給与が2%上がって、物価が2%と上がっても、消費は増加すると言うのだ。物価が2%下がって、給与も2%下がれば、同じ事であるのに気分的にお金を使う気にはならないという事らしい。今の状況は、給与は停滞を続けている。実質賃金の低下である。経団連でさえ、給与を上げなければダメだと言う事を言いだしているのはここに原因がある。給与を上げなければ、物価上昇に追い付かないのが今の状況だ。

しかし、気分の問題は別にして、土地は人口が減少して、値上がりはもうしない。土地と言う物はいくらか増えてゆく。山だったり、海だったりした所が、住宅地に変わったりする。しかし、必要な人口はこれからどんどん減ってゆくだろう。だから都市部の繁華街ではいくらか上がるが、それ以外の所は、インフレになっても上がらない。つまり値下がりを続けている。又それは石油価格もそうだ。世界での経済の衰退で原油需要は下がり始めている。同時にシェルガスやエントロガスなど新エネルギーの発見は、原油価格があがれば当然増える。自然エネルギーの技術革新も既に先進国では進んでいる。当然、原油価格は上がらなくなる。とすると、やはり、ほんとに景気が良くなるためには、金融政策、財政出動の2つだけではダメだ。こうした刺激策が効果を上げている間に、第3の矢の成長戦略、新しい産業の創出である。これが一番難しい事だし、最近は不可能ではないかと言われはじめた所である。

何故、第3の矢が日本にできないのかを考える必要である。世界経済の流れもあるが、日本人が野心を失い始めたからではないか。日本は一定の経済的成功をおさめ、新事業に挑戦する意欲を失っているのではないか。自動車を作る、オートバイを作る。こうした事に野心と情熱を傾けたように、自然エネルギー産業にまい進している感じが日本にはない。原発事故を起こし、資源小国の日本こそ自然エネルギー産業に全力を傾倒するのが本筋ではないか。国民のコンセンサスも得られ、政府も開発資金が準備できる。所が、政府は水を差すようなことばかりを主張し、後ろ向きに原発にしがみつこうとしている。こんなシグナルを政府が出しているようでは、到底新産業の創出どころではない。何故ここまで既得権政治をするのかである。小渕優子氏の問題で表面化したように、自民党政治の裏側で利権とがんじがらめになっている疑いが濃厚。その結果第3の矢が掛け声だけという事なのだろうか。
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全農解体と農業改革

2015-01-19 04:01:43 | 地域
JA全中、全農改革を政府は主張している。全国にある農協に対する、監督権、監査権を無くすという事らしい。その意図は良く分からないが、官房長官の言う所によると、各農協が自由に商売をやれるようにすると言う事らしい。どうつながりがあるのかが分からない。今JA全中をつぶすぞ、解体するぞと脅していると言う事は分かる。理由は、TPPにいつまでも反対しているなら、嫌がらせをしてやるぞと言う事だろう。各地域の農協は自民党の票田だから、ここには直接は手を付けずに、頭部分をまず解体してしまえば、後はどうとでもなると言う事のようだ。安倍氏は言葉に実の無い人だ。積極的平和主義、と言うような不思議な言葉出本質を見えなくしてしまう。その事が、近隣諸国から見れば、本音では、侵略主義者なのではないかと言う、疑心暗鬼の闇を作り出す事になっている。建前は農業改革であり、本音では農業者排除。小さな農家を排除して、企業農業の進出を促すと言う事なのではないか。

安倍政権はいつものやり方で、自分の考えを代弁する規制改革会議をつくった。都合のいい「農協の改革案」をだした。①全国に700ある地域農協を束ねる全国農業協同組合中央会(JA全中)を廃止する、②農作物の販売を扱う全国農業協同組合連合会(JA全農)は株式会社にする、③地域農協のJAバンクなど金融事業は、農林中央金庫や信用農業協同組合連合に移す、④農業生産法人に企業が出資しやすくする、⑤農地の売買を許可する権限をもつ農業委員会は縮小する、などが答申である。すべては、竹中平蔵氏の考える、新自由主義経済と言う競争主義にして行こうと言う事だろう。その結果出てきた改革案が、結果として日本から農業から小さな農家を無くし、日本を韓国の様な、国際競争力一辺倒の国家にしてしまうという考えだ。安倍政権の自己矛盾である、美しい瑞穂の国日本という掛け声はどこに行くのかという事である。

一体進出した企業的稲作が、日本国内で生産して、国際競争力を持てるだろうか。現実には最初は日本でやるかもしれない、しかしそのうちには日本出身の企業がベトナムで、コシヒカリを生産して、中国市場に販売する。と言うようになるだけである。農業のように、土地と言う自然環境に、大きく支配された産業は、当然適地適作が競争力を増す事になる。バナナを日本で生産しても、競争力が低いのは当たり前のことだ。例外的には存在できても、広がる事はない。農業には、日本の国土を守る役割、食糧の確保という安全保障でも、他の産業とは違う点もある。総合的な国土作りから見れば、コンクリートダムを造るよりも、水田を確保する方が経済的合理性もある。山には豊かな森を作り、河川流域には水田を確保して行く。自然と折り合いをつけながら、暮らしてゆく小さな農家の織り込まれた里山資本主義。

JA全中の解体は、目的によっては悪い事ではない。安倍政権の意図している所は、農業の企業化である。日本的農家は確かに、競争経済の中で考えれば矛盾に満ちた存在である。しかし、人間の暮らしは経済だけではない。経済的には無駄なような水田を、ご先祖様からお預かりした物として、子孫に伝える事を自分の役割として耕作を続けてきた人が、無数の日本人として暮らしてきた。そこにある価値観は、お金だけではなかったのだ。農協や全中の悪い所は、農家の声を聞くシステムを失ったことだ。有能な農家は出荷すら農協を頼りにしなくなっている。お米を高く売りたいなら、農協出荷をやめると言う事は、当たり前の事になっている。農協が農業での経済の合理性を失い、不動産や、銀行業務で利益を上げる組織になった所に大きな問題がある。勿論アパート経営や駐車場経営で、しのいできた農家の実態でもある。農業改革はまず、大きな日本農業の総合的な方向を議論する所から始める事だ。
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2015年の政治予測

2015-01-18 04:33:32 | Peace Cafe
安倍政権のこれからを考えてみたい。安倍政権は何処かの知恵者によって、選挙は経済だけでやれという指示のもと、予想通り大勝した。3分の1の自民党支持者によって、与党で3分の2を越える議席を確保したのだ。自民党の票数は減少している。最初には消費税延期選挙だったはずだが、朝令暮改でアベノミックス選挙と看板を掛け替えた。どうせ看板は看板で、政策選挙にしないという一心の方針である。政策が問われれば、原発再稼働、地方創成の人口対策、第3の矢:成長戦略問題、TPPの妥協、食料自給放棄、集団的自衛権の解釈変更、秘密保護法。上げれば数限りなくある争点の選挙になる。そういう事はさて置いて選挙を行う。国民の関心事である経済に意識を集中させようという選挙戦略であった。当然の方針であって国民の意識は、ほぼ経済に集中している。国民が望む事に、的確に向かう市場動向の把握。これこそが安倍式の政治手法とみている。真綿で包む、見えない形で人間を心理操作する、巧みな政治手法ではないか。

安倍政権が本当にやりたいと考えている事は、選挙が終わり、これから順次出てくる。自民党保守派の長年懸案とする所である。1、教育改革 2、侵略戦争見直し 3、軍隊のある自立国家 4、憲法改正。経済はこうした方向に政治を転換するための、大きな要素には違いない。アベノミックスはこれからも、分かりやすく書けば韓国方式で進められるだろう。強い産業に力を集め、国際競争力を高めるという方向である。確かにこれが勝ちやすい経済戦略であろう。そして、能力主義を先鋭化させる。既に先行している先端の開発能力を高めようとするだろう。高い能力の者を優遇する。当然大企業優遇を行う。給与格差は今の倍には近いうちに広がるはずだ。全人的な能力主義ではなく、企業競争に適合する能力主義と言う事になる。こういう流れであれば、国は農業を経済の合理性から放棄すべきと進むと考えて置いた方がいい。

教育を変える動きは既に始まっている。教育の方向も、国際競争に役立つ人間づくりである。英語を初等教育にまで広げる。教育に競争心理の導入し、企業にとって役立つ人材を作る。日本のここ70年間の教育は、平等主義的で、弱者をどう救いあげるかに主眼があった。能力競争を克服しなければならない物と見ていた、理想主義的な所がある。その成果なのだろう、日本人はずいぶん優しい人間が増えた。人を蹴落としても頑張るというような、激しい競争意識を失ったと政府は見ている。穏やかな日本人を成果とは考えない自民党は、明治の出世主義の再現を願って、国に都合のよい道徳教育を始めた。次に徐々に始まっているのが、軍隊のある自立国家構想ではないか。集団的自衛権の解釈見直しは、近隣諸国との関係悪化を引き金としている。常に軍国主義化する前提として、邪悪な国家が登場する。正義が持ち出され、富国強兵と言う事になる。アメリカに従属して、任せて置いて大丈夫なのか。こういう論調が始まる日も遠くない。

多分、その次あたりに始まるのが、侵略戦争の見直論の登場である。既に、ネットでは侵略戦争など無かったという人が、いくらでもいる。論理がパターン化されている所からも、そういう流れを作り出そうとしている、論理集団が意図的に動き出している。いわば洗脳的な真綿戦略が行われていると思われる。一人ひとりは自分の考えだと思い込んでいるが、刷り込まれた侵略戦争見直し論。これを本気にしてしまう人が増える可能性がある。そして最後に出てくるのが、憲法改定論である。これが最終目標で、今後着々と進められる気がする。しかし、現実には、ここまでの事を安倍政権はできないだろう。経済が悪化するからである。どう考えても、経済の好循環は無理だ。経済は日本の問題ではなく、世界全体の事だ。いま石油価格が暴落して、日本は助かっている。石油が下げられているのは、アメリカ等のシェールガスを押しつぶすために、産油国が勝負に出ているからだ。これは引き金で、次々と世界経済は厳しくなると考えて置いた方がいい。
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日本的農業形態

2015-01-17 04:13:38 | 自給
稲作の専業農家であれば、忙しいのは田植えと稲刈りの頃の2ヶ月だけである。後の10ヶ月はやることがほとんどない。専業農家であれば、野菜だろうが、果樹であろうが、作業の集中は極端なものである。うまい組み合わせで作業を分散することが当たり前になっている。例えば、小田原ではお米とタマネギとキューイと菜花とお茶とミカン色々の組み合わせでやる。これを上手く組み合わせると、毎月適度の作業に分散できる。どれか一つがもうけ頭で、収入としては、3分の2を越えてキューイになる農家もあるだろう。タマネギという農家もある。この為に稲作がもうからないとしても、上手く作業の分散が出来るのであれば、やめるほどの意味もないと、考える農家もある。これが日本の農家が独自の多様な作物の経営パターンになった要因であろう。一方に特定の作物だけを作り、作業の無い時期は他の仕事をすると言う形も生まれた。それだけではない、稲作ではサラリーマンの土日作業でも、1ヘクタールぐらいの田んぼが普通に出来る状態である。これらの形が、日本の普通の農家である。規模の割には機械を所有し、化学肥料と農薬の大量使用につながる農業の形である。

一方に農業全体で考えれば、個別農家の経営という観点とは別の、日本国土独特の地域の事情がある。食糧安全保障。水田の多面的環境保全。色々言われるが、要するに日本は瑞穂の国である。だから総合的に水田は残さなければならないと言う気持ち。農家一軒の問題ではなく地域全体で取り組む必要がある。その為には土地制度の抜本的改革が必要になっている状況。農地の所有を、長期的視野で国家のものにすることだ。その前段として解決しなければならない問題は、国と言うものの管理を信用し難い所だ。国がやれば非効率だから、民間化しろという事が言われる。しかし、農用地の公共性を考えた場合、国の関与する制度を上手く作るほかないだろう。農業ほど土地と切り離す事の出来ない産業はない。そして太陽と水だ。農地は急速に減少を続けている。ほぼ半分になってしまった。特に優良農地は、住宅地や工業用地、道路等に転用されてしまった。昔の山間地であれば、日当たりのよい所は畑にしていた。今は一番日当たりのよい所に家がある。農地はないがしろにされている社会状況がある。

農地を納税の手段として認めることだ。税収が一時的に減少するかもしれないが、農業の持つ価値を国が本当に考えるのであれば、決して無駄にはならない。農地の相続をしながらも、都会に生活する人間には負担感だけという事がある。安い納税の査定価格であっても、手が離れるのであれば整理したい人は多いはずだ。しかも、その農地が国家の為になることであれば、進んで納税の対象にする人もいるのではないか。国家が所有した農地を、いかに活用するかである。農業は永続して行わなければ、出来ないものだ。土壌を育てるなどと言う事を何世代もかけて行ってきたのが、日本の農地である。親子3代かけて作った棚田。等と言われる所が放棄されているのだ。いつ返さなければならないか分からないという土地では、どうしても収奪的な農業になり、多面的な環境保全にはつながらない。国民全体が納得が行く農地管理が行われる事で初めて、農地の国家所有の意味が出てくる。

民主党の3候補が、愚にも付かない農政改革を主張している。何と言う事かと思う。こんなことでは民主党は戸別補償で農家の側に立てば支持されると考えるのは、大間違いである。戸別補償政策が何故成果が出なかったのかの、反省の上に新しい展望を主張しなければダメだ。全農改革も何が自民党と違うのかがよくわからない。土地制度に触れずに、日本の農業の将来像を考える事はできない。中国は土地の個人所有ではないという所を、上手く運用することで、急激に経済成長を達成している。勿論その為の個人の権利と言う物が軽く見られている。戸籍の問題や、マンション不動産投資の問題などにも及び始めている。この土地制度の問題点と、有効性を研究してみる事が、将来の農地のあり方に参考になるのではないかと思う。
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