不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

高速道路の無料化

2010-06-30 04:40:44 | Peace Cafe
高速道路の無料化実験がはじまった。早速、29日の夕方、湘南バイパスと、新湘南バイパスを使ってみた。いつもより、20分は短縮できた。車はいつもより、少し多い意程度だった。渋滞は特になかった。意外だったのは通行券を一応は取ると、新聞には書いてあったが、どちらも特に通行券はなかったこと。出口や、周辺道路に交通量測定員がいた。見かけただけで5,6人は確かにいた。全国ではこういう人件費もかなりになっているだろう。小田原の周辺では、湘南バイパスと箱根新道が無料だ。湘南バイパスについて言えば、有料区間が前から変則的にある。そこで、かなりの車が大磯までの無料区間だけ利用して、迂回して一号線に降りている。あるいは大磯から乗っている。馬鹿馬鹿しい有料化の弊害である。今回でまともなシステムになったくらいだ。意外だったのは、小田原で乗って、すぐ国府津で降りてしまう人が、結構いたこと。多分通勤の人だろう。夕方だったこともあり、トラックは少なかった。


高速道路の無料化実験が始まり、63%の車両の増加があったと報道されている。良く調べたものである。今後この実験をどう考えるかである。無料にしたのだから、増えるのは当たり前である。無料化実験の目的はどう示されているのだろう。国土交通省の報道発表によると、地域経済の活性化とある。地域と限定しているのは、全高速道の無料化がマニュフェストだったから、まず地域で実験をすると言う事で、その地域限定版と言う事なのだろう。このやり方選挙対策だとか、全線無料化からの後退とか言う意見が多いいが、まっとうなやり方だと思う。試してみて、良いことなら広げて続ければいい。ダメなら止める事も出来る。今年の2月に提案されて、6月実施で今年度に限ってと言う事になるようだ。このことに限れば分かりやすいし、良い手法だと思う。前原氏の評価をしたい。

高速道路を無駄に作ったため、予測の交通量に達する利用者がいない。これが現状である。つまり、永遠に利用料金で建築費を返す当てがない。当てが無いのに、利用者負担の原則で、民営化しろと成れば、儲かる所だけ高速道路を作ることになる。いよいよ、地域間のバランスが悪くなる。必要な道路なら、国が作ればいい。必要か必要で無いかが、分かりやすく示される事が前提である。第2東名自動車道の建設が進んでいる。馬鹿げた話である。この道路の反対運動に長く関わった。何故、こんな道路を作ると言う事が、決められたのか。どこの誰が、どういう審議会で、どういう経過で決めたのか。建設省の担当官に聞いても、明確には答えられなかった。偉い方々が決めた。お上が決めたのだから間違いはない。こういう感覚である。将来の社会変化から、作る順番が違うと、いかに無駄になるかを主張したが、聞く耳は持たなかった。

高速道路を民営化しろという自民党の政策もあった。儲からない道路は作らない、な民間会社になるに違いない。道路は総合的なものだ。道路だけでは儲からなくても、必要なら作るしかない。道路など必要最小限で沢山である。道路を持ってくるのが、仕事を持ってくるのが、政治と、行政の役目。こう言う感覚が日本をだめにしてきた。その意味では、無料化をする以上、道路建設の決定をガラス張りにして欲しい。国土交通省はこの点では、後退している。いつの間にか、高速道路建設資金として、道路料金収入を財源にしている。無料化の精神は、必要な道路以外は間違っても作らない。既に間違って作ってしまった道路を無駄にしないように、無料にする。こう言う事だろう。地方では300%も増えた。とか報道しているのは、普段がらがらに空いた無駄な道路に違いない。

昨日の自給作業:コロガシ2時間 累計時間:38時間
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

政治ブログランキング

2010-06-29 04:02:09 | Peace Cafe
時々天木直人氏のブログを読む。学ぶ所があるからだ。その冒頭に人気ブログランキング(政治)というものが出ていて、これをクリックしてくださいとあるので、してみると。その25位に天木氏のブログがあった。そういうものかと思いながら、上位を眺めてみた。と驚くことに大半が、朝鮮と中国を非難するブログである。これには何か組織的な活動でもあるというのか。日本人がどうかしてしまったのかと目を疑った。私から見れば、実に偏向した内容である。学ぶ所もなければ、まともに読んで吟味するほどの内容もない。近隣諸国批判をしてうさ晴らしをしているということに尽きる。結局落ちぶれかかって、隣の芝生はねたましいのだろうか。ここに書かれていることが、すべて事実であるとしても、よその国の問題点をこうもあげつらってどうするというのだろう。情けない。

同じ人間である。日本人と同じくらい、ダメだし。またいい所もある。どうやって仲良くなる事ができないかを考えるのが、人間の本来であろう。どう憎しみを捜すか、憎しみをどう煽るか。こんな事にこれほど熱心だったとは、恥ずかしい事だと思う。これを書く人が要るのはまだ分かる。これらを読む人がこれほど要るのは、何故だろう。日本人はどうかしちゃったのではないだろうか。他人のあら捜しで、うさ晴らしに成るというのか。右翼的というなら、日本人の誇りは、魂はどこに行った。経済大国意識で何か近隣を蔑む心があるのだろうか。その経済が危ういものだから、心を病んでいるのだろうか。それとも何か、こういう傾向の人達で操作が行われていうのだろうか。ともかく居たたまれないような、状況である。十位以内で内容がある人は、植草一秀氏のブログである。この人の場合冤罪だかどうかは分からないが、こうして、1万人以上の人が関心を持っていることだけは確かと言う事になる。

消費税については、相変わらず評判が悪い。しかし、消費税を持ち出すことで、普天間問題を沖縄の基地問題を、消した事にはあまり触れる人は少ないようで見つからない。消費税問題に興奮してしまい、消費税を持ち出したので、菅内閣支持率が下がっているという判断が多い。普天間を消したから、この程度の支持率にとどまっていると見るべきだ。消費税は、自民党が言うとおり、自民党が従来主張していた案に乗ったに過ぎない。自民党もこのことを争点には出来ない。選挙対策の巧者のなかなかの作戦である。うまいものである。間違いなく今回の選挙は、日米同盟の見直しにある。あるべきなのだ。そうした流れだったはずだ。オバマ・菅会談では、より深化した日米同盟を合意したらしい。日本人一人一人が自分の問題として、日米同盟を考えるべきとしている。

一体、このアジアを適に回そうという人達は、アメリカをどう考えているのだろう。アメリカの手下のままでいいという訳でもあるまい。アメリカに限らず、白人とアジア人との関係を納得できるのだろうか。日本人がアジア人である誇りを忘れているきがする。そう言う事がブログに表れていると面白いのだが。自分の立場という物にはあまり触れられていない。ブログというものは、勝手な嘘が書かれていてもいい。読む側の問題である。しかし、テレビや、新聞とは違う、ある種パワーの方向を作っていることは確かだ。このことを分析するだけの、情報も持たないので判断は出来ないが。選挙にはいよいよ影響が出ているだろう。選挙に影響を出すための、操作的ブログというのもあるようだ。その意味では、ブログランキングは利用されるだろう。真に受けていはいけない。

昨日の自給作業:コロガシ2時間 累計時間:36時間
コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

須田剋太氏の絵

2010-06-28 04:31:29 | 水彩画
北海道の美瑛町で須田剋太氏の絵を沢山見る事が出来た。あらためて絵は人間に必要なものだと言う事を感じた。こんな感覚は久し振りの事であった。とてつもないすごい絵である。精神の絵画だと思った。世界の最後の巨匠と言っても言い過ぎで無い。それがいかにも日本人の絵である。須田剋太の絵が、私の存在を圧倒するかは、考えてみる必要がある。たぶん自分の絵と繋がっていながら、圧倒的である。骨格の絵。骨組みの絵。構造の絵。日本人のバランス感覚。この人は、材料を選ばない。どちらかと言えばキッシュである。安物好みである。もったいぶらない。この点、梅原と対極である。凝らない。出来るだけシロトっぽく。マチスとは違う下手さ。すざましい上手さの上に乗った下手さ。上手そうに見えないように、できる限りの安普請。それは、本質に迫るために、どこまで尾ひれを取るかの工夫なのだろう。マチエールの汚さ。素材の汚さ。汚さの果ての美しさ。

須田氏は一度お見かけしたことがある。もう晩年三越だったか、個展会場で見かけた。とてもかっこいい年寄りだった。あんなふうに年取りたいものだが、既にああしたかっこよさからは程遠い。絵は汚いが、姿は美しい。絵描きは大体に汚いものだが、おかしな印象だった。絵描きというよりデザイナー。字が素晴しい。井上有一氏とつい較べてしまう。絵描きの字だ。中川一政氏の最晩年の字にも通ずる。となると梅原の字とも通ずる。いずれもバランスがものすごい。井上有一氏の字を見ていると、書家に無い独自性を感じるのだが、須田剋太氏の影響と考えてもいいのかもしれない。字をトリミングする感覚は、須田剋太氏の影響がある。また、材料の安っぽさは共通。もったいぶらない二人。結局上手さと言うところをどう超えるかに、とても大切なことが隠されている。どの道上手いは絵ではない。工芸的であるところからの逸脱。その人の本質らしき所に、どう迫れるのか。ここに尽きる。

こういう逸脱した絵を、社会的な価値基準で、一般的に論じた所で意味がない。ある人にとってとても深いところで、通ずるものがある。と言う限られた事として考えた方がいい。それは、本当の事が描かれているからである。本当の事は、わかりにくい所がある。一般的でないところがある。本当を描こうとしたあまり、こうなってしまっただけなのだろう。本当とは須田剋太氏の精神の深いところと通じているということだろう。それを説明し伝えようと切実にしている。誰でも精神はあるのだが、こうまでも深いと言う事が希なだけだ。絵画が自己表現であるという意味を、明確に持っている。須田氏の絵はイラストである。説明的である。深い心の奥底を説明している。伝えようとしている。伝えるための手段としての絵画。例えば、悟りの境地のような、なんともいわく言いがたいものを、イラストしようとしている。

存在すると言う事を絵にしようとする。分かるように伝えようとする。芸術的に風のごまかしがない。見えているものを、見えているようにイラストする。だから、あの書と言うか文字と殆ど同じことである。意味を飾る。文字が並び、野菜が並ぶ絵がある。文字も、絵も、同じ扱えないかと試みている。この違和感と、調和。美瑛の美術館は正に、須田剋太精神である。大雪山と美瑛の大地を背景に、須田剋太絵画を対峙しようとした。正に違和感と、調和。この美術館は大阪の収集家の方が作った個人美術館である。岩の丘に建てられている。太い柱の新潟から運んだ古民家である。このくろぐろとした太い柱で無いと、ダメだと。そして前にはには、高山植物のロックガーデン。3階の広がったガラス窓から、眺める大雪の景観は、一つの絵画として作られている。ランドスケープを作る。すごい人がいるものだ。

昨日の自給作業;草刈、種蒔き1時間 累計時間:34時間
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小麦の栽培

2010-06-27 04:06:04 | 自給
小麦を始めて作ったのは、山北で田んぼを始めた時だから、20年は経つ。100坪の自給には小麦を裏作でやるべきだ。そう思ってやっていた。ところが、頭の方がついて行かない。田んぼの田植えの準備に入って、小麦の刈り入れである。梅雨時である。頭が混乱してどうしても継続出来なかった。これを普通にやっていた、昔の人は偉いものだ。それが日本の百姓の普通のレベル。今年の麦刈りが、6月24日だから、それから代かきで田植えなら、27日の田植えとなる。出来ない事は無いが大変なことになる。大変なのは頭の切り替えが出来ないと言う事だ。田んぼのシュミュレーションと小麦の刈り取りが混乱してどちらも中途半端に成りそう。それから、畑で小麦は作るようになった。1畝30坪だけである。これで今年の収量は27キロ。ごみを取ってきれいに乾燥したら、26キロぐらいか。来年の種も残して、使えるのが25キロ。これで来年の醤油分が確保できた。

田んぼなら、お米は1畝で40キロは取れる。裏作の小麦で25キロを合わせて、一人の主食の自給は1畝30坪で充分と言う事になる。大食の人でも2畝60坪あれば、130キロでいいだろう。あと40坪の畑があれば、野菜や副食は充分に作れる。だから、100坪の自給は案外に余裕がある。時間の方は田植えで忙しい6月でも昨日で32時間だから、一日1時間ちょっとである。小麦は手間をかけない。タイミングよく種蒔きをして、後はほって置くだけである。これほどの手抜き栽培は無いが、冬の作物は草が無いから楽でいい。これが田んぼの裏作なら、草はさらにでないだろう。田んぼの一部にでもやってみるのも悪くはない。畦では大豆。これが日本の農家。1反の田んぼがあれば、家族10人のお米、小麦、味噌、醤油。これだけの自給が出来る。日本の農地の素晴しい生産性。

今年もスズメにはだいぶやられた。スズメは40羽ほどである。1ヶ月毎日食べたとして、2キロぐらいのものか。以前は、スズメにやられるので、スズメと戦ってしまった。戦って負けた。戦いは神経が疲れる。それ以来、白旗を揚げて、平和的にそこそこでやることにした。今年はオトリ作戦で、近くに餌を撒いた。そっちを食べていろという訳である。被害はあるが、何とか収まっている。まだ大麦が残っている。今集中しているが、大麦はさしてやられない。こちらは麦茶用である。これがまたおいしい。夏の飲み物として、少しだけど作る。こっちも収穫をそろそろいそがないとならない。小麦は1畝だけなので手刈りである。2人で4時間ほどか。倒れているから、バインダーが仕えない。草にも埋もれている。種を撒いただけだからこんなものであろう。

今年は畑の野菜がいけない。春先雨続きで畑には入れなかったこともあって、本当の手抜きになった。手抜きの為に遅れに遅れている。畑は最近はカヨ子さんの方が熱心である。ナスやらトマトキュウリと、一応はつくって糠付けにしている。ある程度やったのは、平和の畑の方がある。欠ノ上の畑である。ここに、里芋、サツマイモ、しょうが、枝豆、トウモロコシ、アマランサス、とある。先日草刈をしてくれた人がいて、助かった。草刈をして、サツマを植えようと出かけたら、刈り取ってあった。今までの作業は、草刈3回。追肥を1回。いいタイミングで草かりをするくらいで、何とかなるものである。こちらはみんなに見てもらうことが、主眼である。自給畑展示圃場のようなものだ。次は食べて、どのくらい美味しいかをみんなで味わいたい。

昨日の自給作業:コロガシ1時間。累計時間:33時間
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自給1000円

2010-06-26 04:42:56 | Peace Cafe
社民党は時給1000円を公約している。連合と政策協定をしている。実に腹立たしい。農業をする立場で言えば、何と言うひどい政策を主張するのかと思う。古臭い労働者の権利主張のしがみついている尻尾が、見えている。以前、この考え方で福祉作業所で働くものまで、最低賃金制度を当てはめ、搾取だと言うとんでもない捜査が行われた。どう考えても不愉快極まりない。それでも、社民党支持者として、この自己矛盾には悩む。雇用労働者と企業資本家という2分法の定義が、時代の経済にあわなくなっている。農業分野では季節雇用が必要な場合がある。小田原のような地域の小さな農家でも、手伝ってもらいたいことはある。仕事がなかなかない人も要る。その人を安く頼めるなら、仕事はある。しかし、1000円で継続して雇用できる農家は少ないだろう。無いとは言わない。農家の中でも格差は広がっているのだ。

本気で農業をやろうという者が、頑張れば道がある状態を作るのが政治であろう。農家が経営を可能にするためには、安い賃金の雇用の実現が必要である。確かに時限的な処置として農業法人などが、雇用する事に補助金が出ている。と言う事はいよいよ、小さな農家は追い込まれる。農家が雇用する場合はどんな場合であれ、一定の基準で補助をすべきだ。こう言う補助をもっと厚くしなければ農業の継続は出来ない。小さな農業こそ、日本農業の特徴であり、力量である。ここで生れるものは、経済だけでなく、教育であり人材育成である。国は本当にやろうと言う農家を支えなければならない。大きいとか、小さいとか言う事で差別が起きるのはよくない。農家の個別補償のように一律な補償も良くない。いい加減な農家を生き残らせるばかりである。

社民党のお題目である。「平和憲法を守る。」このことと日本の農業を再生する事は、同じである。同じと言う意味がなかなか伝わらないようだが、農業ほど平和の基礎である。平和産業である。社民党が工場労働者にだけ目を向けて、階級政党から脱皮できないなら、そろそろ見限らなければならない。共産党はその点脱皮などする気も無いようだ。その場合、平和党の設立である。国粋主義者から、大資本家から、小さな百姓から、無政府主義者から、保守党の政治家まで、平和憲法に賛同する人間は沢山居る。平和憲法の一点で平和勢力の結集が必要である。今までそのことを社民党に任せてきたことの、限界が見えてきた。社民党が与党に入ってまで、1000円の最低賃金を主張するのでは、支持を続けることはさすが出来ない。沖縄の基地を海外移転をだけ言うなら許せる。あらゆる分野に平和憲法の価値を認める人間は存在する。その連帯をはかるためには平和党での結集である。

農業を自給という観点で見ること自体が間違っているのだろう。本来、誰もが自分が食べる物は作ったほうがいいのである。その個々人がやった方がいいことを農業者にお願いするのである。この構図は忘れて欲しくない。誰もがお医者さんお世話になるときを考えて、一定の待遇が維持されている。農業者はそれに較べてひどい冷遇である。その原因は農業者が資産家として、土地成金のようになった一部の者から来る、誤解である。資産家としての農家は3代相続すれば無くなる。もう一息である。本当に営農する人間を守らなければならない緊急事態である。営農するものがいないのである。雇用しながら後継を作ろうにも、1000円では無理だ。1ha水田耕作して、戸別補償をもらって、年収は60万円と計算されている。1haでも大変だと思うが、個人の限界は5ヘクタールとして、季節的雇用は必要である。300万円の収入でどうして、1000円の労働者を雇えるか。

昨日の自給作業:麦の脱穀1時間転がし2時間 累計30時間
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田んぼの雑草抑制

2010-06-25 02:36:49 | 稲作
田んぼでは、雑草を抑えると言う事は、とても重要な技術である。除草剤で行なわないとすれば、体力でやりきる以外にない。どうすれば草が減るか、このことは日本人がすべからく挑戦してきた技術である。そこに様々な農法が生れ、そして消え。今の除草剤を使う農法に集約された。これを間違っていたとはとても言えない。一度草取りをしてみれば、除草剤を使うななど、とても言えなくなる。体力だけで、草取りを乗り切るとしたら、1へクタールぐらいが限界であろう。そこで、どうすれば雑草が抑制できるか、今の今も挑戦が続いている。この挑戦は、100年前も1000年前も、行なってきた事である。最近の研究では、縄文期の稲作は焼畑の稲作で、東南アジア系の技術である。作られていたのも今のお米ではなく、熱帯系のジャポニカ種。紀元前4世紀になって、今の華北型の水田灌漑稲作が入ってくる。温帯系のジャポニカ種。

最新技術として、2500年前に日本に伝わり、鎌倉時代には人が耕作では入れなかった。広がる平野部の湿地の新田開発が広がってゆく。そして、江戸時代が日本の水田稲作技術の熟成期となる。水利地縁共同体の形成。雑草抑制技術で、何故そんな歴史を考えるかと言えば、一繋がりを感じるからである。水土技術の世界である。例えば、深水管理をすれば、ヒエが抑えられるぐらいの事は、江戸時代知らない人は居なかったはずだ。深水管理など夢のような事だったのだ。そうした時代の条件の中抑草技術が展開される。最近言われるようになった。冬水田んぼによる雑草抑制。これが可能な条件も少ないと思う。棚田での抑草法と平野部ではは丸で違う。流し水管理の抑草を山間部で行なえば、田んぼが冷えてしまい、初期分結がとれない。裏作が必然だった時代では、菜の花抑草はありえない。前書きが長くなったが、まず、抑草法は時代時代によるが、ずーと縄文人まで繋がっている感覚があると言う事。

ことし、偶然にもいくつかの事に気付いた。ソバカス抑草は光をさえぎることが、大きな条件をしめている。田植え後、3日間家を空けた失敗で、そのことが確認できた。初期1週はなんとしても光の遮断が必要。2週目からはトロトロ層による抑草に変る。また、下の田んぼの特に中の田んぼとの境にコナギが大量に発芽している。これは、中の田んぼで苗代を行い、代かきをしていないため、水漏れが続き、この水漏れが、下の田んぼでのコナギの発芽を刺激したと推測できる。水入れが、雑草発芽のスタートとなる。苗代を行なった中の田んぼは雑草が少ない。これは、4月からの寒い時期2ヶ月間水が張られ、あまり草が出無い所へ、僅かに出ていたヒエなどが、深い代かきで埋め込まれてしまった。

上の田んぼでは直播の実験を行なった。これもまた、違った結果になった。下の田んぼほどではないが、コナギの発生がある。これは5月末に成って水を入れてと言う手順が、コナギの発芽を刺激したようである。とすると、水を入れるのは、春水田んぼに思い切ってしてしまうか。直前まで、コナギを刺激しない乾土方向で行くかである。これは天候にもかなり影響されるし、秋起こしをすれば春になってどうして、乾きにくい。今年この辺の感覚が少し分かった気がする。分かったのは、コロガシをしながら、ただただ考えて、感じていたからである。こう言うのは、足裏が感じる訳で、人間は考える足裏である。草を抑えると言う事と、収量を上げると言う気持ちのせめぎ合いでもある。今年は何故か、入水温度が確実に1度は高い。朝で16度あるので驚く。その為かと思うが、下の田んぼでは沸きがある。これも舟原では始めての事だ。初期成育は例年に無く良いようだ。

昨日の自給作業:コロガシ3時間、麦刈り3時間 累計時間:27時間
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第1回生(いき)ごみサロン

2010-06-24 06:00:45 | 環境関連
第1回生(いき)ごみサロンがマロニエで開かれた。何と50人のかたが見えた。小田原市民のすごさをつくづく感じる。他の町でこう言う事をやって、自然と50人の方が集まるなど、考えられるだろうか。何しろこのサロンは、ダンボールコンポストの配布説明会の時にお伝えしただけである。10人ぐらいでも仕方が無い、そこからこつこつとやろう。こう言う思い出始めた。今年のモデル事業を一般化してゆくには、支えるサポーターの方達が必要と考えている。各地域に一定数いる必要がある。100人ぐらいは必要だろう。現在でも30人くらい入るのだから。この勢いなら、可能ではないか。10軒に1軒はダンボールコンポストをやるとして、「7500世帯が目標」、75世帯ごとに1名くらいの比率。神奈川県では葉山町の前例があるが、近くでは町田市の前例がある。まるで違う展開をしている。小田原市民の市民力は、何か違う。

集まった方々が、いつも環境系の集まりで見かける方ではない。この点がすごい。新しい層が生れている。小田原の新しい市民力が何かを生み出しそうだ。次回は7月は28日なので、やってない人もぜひ見にきてもらいたいものだ。何の欲得も無く、ただ生ごみを堆肥にしようと言う人が、純粋に研究に集まっているのだ。昨年、もぐもぐがフラワーセンターで配布したことを、きっかけに始めた方から、細かい報告があった。特に堆肥として使った時の作物の事が、詳しく報告された。使い方はあるが、とても良く出来るというのだ。比較実験栽培をされている。嬉しくて涙が出そうになった。この方は、市民税を払っていうのに、これ以上生ごみに費用をかけたくないと言われていた。当然の事だろう。これこそ目標であった。生ごみが自給の循環に入る。しかも、実践的にデーターを蓄積して、報告してくれている。熱心度が際立っている。ビニール袋に各自の基材を持参である。今の状態が、どうかと言う確認である。

ヨーグルトを作ったという方から、報告があった。何と熱利用である。目からうろこである。以前堆肥風呂をやろうとか言ってはいたが、既にダンボールコンポストの熱利用を行っている方がいる。毎日温度を測っていたら、これなら、作っているヨーグルト製作器の変わりになる。こう閃いたそうだ。ビニール袋に入れて、中に入れると半日ぐらいで出来るそうだ。えひめA1を作っていながら、これには思いつかなかった。熱利用の範囲をさらに研究すべきだ。もう一人すごい方がいた。発泡スチロールの箱で、素晴しい堆肥を作っている方である。ダンボールが消耗品である点が、気になって、発泡スチロールの箱でやられている。温度が61度であった。臭いもいいし、湿度の点もいい。何故こんなに良く出来るのかと、伺った。

かき回すのは、ゴム手袋をして、日に3回やるそうだ。台所に生ごみを置いておくのが嫌なのだそうだ。なるほどそのとおりだ。20センチの高さ。40センチ×60センチの発泡スチロールの箱。かき回すのに、洗濯袋の中に入れて使えばさらにいいのでは、こういう意見もあった。行政からでた、困ったことでは、ダニの発生である。この時期環境によっては起こりうることである。温度を上げる事である。60度まで上げれば死滅する。廃食用油を100CCから200CCいれて、一晩置けば熱が出て死滅する。箱にもいる可能性があるので、出来れば大きなビニール袋に入れて、日に当てて全体が高温に成るようにするといい。行政の電話確認では今の所、継続されているようだ。もう一息である。小田原の市民力を大いに発揮しそうである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大相撲好きとして

2010-06-23 04:16:26 | 身辺雑記
大相撲は一番好きなスポーツである。好きではあるが、実際に見たこともないし、1円でも大相撲に使った事はない。大相撲にしてみたらファーンではないのだろう。相撲は稲作と結びついている。豊年満作を祈る神事である。大相撲を擁護できる論理はないのか。そう思うのだが。何しろ今回の事は、みんなが野球賭博をやっていたと言う事だけは事実のようだ。そんな付き合いが暴力団とあるようなら、当然、相撲賭博の方も考えざる得ない。どうにもこうにも八百長が云々と言うようなレベルではすみそうにもない。少々の賭博は、昔からあっただろうし、それは世間と同じレベルと考えていい。何しろ、賭博が嫌いなものは少数派である。だから、本当に大相撲を責められる人間がどれほどいるのかな。そうは思っている。その昔、熱心に将棋を指した。将棋道場というか、将棋クラブというか、そういうところでもずいぶんと指した。朝から晩まで指していた日があったくらいだ。ある日、ぷっつりと人と指すことを止めた。賭け将棋を誘われて不愉快だからだ。将棋の面白さが賭博と繋がる事で、腹が立った。勝負事を何でも賭博にしてしまう、人間のサガがたまらなく否だった。

相撲協会で知らなかったと言うのはうそである。同じ場所に暮らしていて、知らないとすれば、親方と言うのは親同然ではないだろう。みんなで似たようなことをやっていたのだ。野球賭博が度を過ぎたと言うだけだ。相撲取りの暮らしが良いものではない。公営賭博と、暴力団が関与する野球賭博とは違う。こう言う事だろう。やる側には同じことにしか見えない。片方は善意に使われる。片方は悪意に使われる。悪意も善意も、人のはかりごとである。倫理から言えば同じことである。まずは公営賭博を止めることである。公営賭博に天皇賞があって、大いに奨励されている。暴力団が関与している闇賭博の方が、配当がいいらしい。胴元がいない友人同士の賭けマージャンならもっと配当がいい。パチンコやスロットマシンなども民営賭博。

何故人間は賭けごとをするのか。天皇賞があるほど、本当に立派な事なのか。国家が賭博を文化として承認してしまえば、暴力団まで一直線ではないか。お金と言うのは、自分の肉体による労働の対価であることが一番いい。それが不労所得の方が大きいような社会になってしまった。絵を描いていても、描いた絵の役立ち度で、価格が決まるならいいが。将来の値上がりを期待してなどと見られていたら、絵を描く意味がおかしくなる。株式もそうだ。相場という物もすべて同根である。こういう物は出来る限り避けた方がいい。不労所得を望む心が、正しい心には見えない。身体を使って働く。その対価を戴く。これで充分と考えるべきだ。大抵の宗教もそう言う事を言うのではないだろうか。小田原では小田原競輪を廃止すると言っていた、市長がその後沈黙をしている。この沈黙をさせる何ものかが、賭博の怖い所である。

相撲取りの野球賭博である。たぶん、賭博が手軽に出来るなら、何でも良かったのだろう。外に出れば目立つ。競輪場で熱くなるのも、ちょっとまずそうである。お金はあるし、集団生活である。せめるのは簡単だが、この時代の若者である。社会全体の傾向のままに育った人間である。歯止めはどこにもない。法に触れるか触れないかで問題にしないほうがいい。外国人力士が主力になった。相撲は横綱でできている。日本人の横綱候補が野球賭博なのだから情けない。田んぼと繋がった相撲。田んぼの文化が失われた今、国技だとか、公益法人だとかは止めたほうがいい。横綱になろうという夢を捨てていた。だから賭博に熱中した。横綱の器だったはずが、突然大関をぎりぎり維持するだけの力士になった。プロレスの団体にしては、規模が大きいくらいの所からやり直したらいい。相撲界は心技体の建前は、どこに行くのだろう。

昨日の自給作業:麦刈り1時間 累計時間21時間
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

消費税の是否

2010-06-22 05:20:32 | Peace Cafe
消費税が今度の参議院選挙のテーマとして上がってきた。普天間隠しなのかも知れない。消費税などというものが、全くない時代から、消費税賛成論者であった。10%と言うのは、今から35年も前のフランスにいたころの話だ。10%取られながら賛成になった。泥棒だろうが、外国人であろうが、税金は払ってもらう。しかし、全く買い物をしない人間なら払わないですむ。自給自足主義には持って来いの考え方だ。考えの基本にあるのは、税金は多様な方がいい点。事業税。所得税。資産税。相続税。消費税。物品税。市民税。色々の角度から責めて来る。消費を制限する方向性を持つ消費税は必要な考えだ。もちろん税金を国家が取ると言うのは、仕方が無いわけだが。生活者には負担。結局「集め方と、使い方。」これが政治のすべてである。これだけを監視しておけば、それでいい。

消費税と言うタイプの税がないという事のほうがバランスを欠いていた。物を購入する。購入するすべてに税金が要る。明治時代には、酒税が税の半分を占めていたと聞いた事がある。ひどい話だが、ノンベイの飲み代でお雇い外国人を高額で雇用するなどと言うのは、いい話しではないか。タバコ税も同じだ。どうしても酒を飲まないでも、人間死ぬ訳ではない。タバコを吸わなくても、問題はない。それでも飲むのだから、税金は戴いて構わない。否なら飲まなければいい。こう言う選択は、禁酒法などよりはるかに優れている。消費が減退すると言う説があるが、いいことではないか。無駄遣いが減るのだ。いらないものなど買う事はない。それでも買うのだから、酒やタバコと同じだ。本来、自分が作るべき所を買おうと言うのだから、税金ぐらい戴いても構わない。いやなら自分でつくれ。食べ物だろうが、医療費だろうが、何にでも同じに税をかければいい。

その上で必要度に応じて、還付すればいい。高校の無償化。子供手当て。こんな事はやるべきではないが、必要に応じての範囲を話し合うのが政治だ。子ども達が受ける、教育の現場を充実させる事が先だ。学校の耐震化だけで莫大な費用が必要だ。保育所不足。産婦人科不足。こんな状況は最悪の事だ。と言うような意見を調整するのが政治だ。菅直人総理大臣は大丈夫だろうか。この人は流れを読むのが上手い。鳩山さんのようなトンチンカンではない。その点が怖い所がある。谷垣さんは民主党の消費税の案が、自民党案の盗作だと怒っていた。政治を理解していない。それは良かったとおもうのが、国民を思う政治家だ。選挙のため以外、何も考えていないのが政治家の殆どすべて。消費税を持ち出したのは、別に国民の暮らしを思ってではない。あくまで争点ずらしである。困ったときの憲法論議はよく自民党が行なう手段だった。

本当の暮らしには消費などいらない。消費するのでなく、活用する。映画を見る。日帰り温泉に入る。電車に乗る。すべて消費している訳ではない。ありがたく利用させて頂き次に生かしている。自給自足と言っても、消費税は暮らしに応じていくらかは払う。とてもいい感じだ。所得税だけなら、所得の大きい人が払うもので、どこか差別的である。この際本当に論議すべきは、使い方の問題である。無駄を省くのは当たり前。国と地方の公務員給与の50%の賃下げ。否ならストライキでもしたらいい。その根性は無いようだから転職してもらおう。半分にしても成り手はいくらでもいる。公務員給与は、成り手がいるかどうかのぎりぎりでいい。公務員と言うのは日本国憲法を遵守し、日々遂行するためにいるのだから、国民一般より給与が高いなどもってのほかである。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

欠ノ上田んぼの田植え

2010-06-21 04:38:51 | 稲作
欠ノ上は私の家から、1キロほど久野川を下った所にある。欠ノ上はカキノウエと読む。かきと読むにしても、崖の上という意味であろう。東海大学の下の辺りも欠ノ上という。どうも上とはいいながら、がけの下に位置する場所と推測する。珍しいようだが、案外沢山ある地名である。諏訪の原から、久野川に下る南斜面の広がる恵まれた場所である。古い時代から、この崖からの湧水の水位に従って、暮らしが広がっていた事だろう。今が広がっているあたりも、田んぼが広がっていたに違いない。そうした水路のあとが、集落より上の方にまである。立派な観音堂がある。その観音堂から、真っ直ぐ川を見下ろしたところが、欠ノ上田んぼである。小田原で一番美しい棚田の田んぼである。舟原も坊所もなかなかないいのだが、正直欠ノ上には負けそうである。久野川との関係がいい。田植え籠を洗おうと置いておいた中に、忽ち油ハヤが飛び込んだ。

田植えは延べ人数で、60人くらいいただろうか。8時から、4時までかかった。田植え準備だけにミッシリ1週間かかった。岩越さんと山室さんが力と気持ちを尽くしてここまで持って来た。この二人でなければ出来なかった、と言うのは本当に大げさでない。殆ど土木工事であった。水土事業である。きわめて総合的で、あちらを立てればこちらが立たずで、大変なことだったと思う。新しく田んぼを開くと言うすべてを考えたら、半年かかったと言うことに成だろう。水路の関係がまだ落ち着かないほど、地形と田んぼが難しく入り組んでいる。昔の姿に戻せれば最善と思い。出来る限り改変しないで、水路と田んぼを再現している。この再現には、菊原建設の力が大きかった。早速上手く田植えが出来た事を報告したら喜んでいた。地域の人が、水土についてとても心配してくれた。水害まで含めて、長年苦労してきた様々を含んでいる事だろう。

40年近く畑に変えてあった場所。土は客土されているようだ。田んぼの土になるには、長い年月がかかるだろう。根気よく育ててゆく事になるだろうが、田んぼの前歴の無い土壌がどのようになるかも、田んぼの良い土とは何かを考える上で、却って興味深い所がある。今年は臭い。土壌が臭う。畑を田んぼにした時の以前の臭いが蘇った。微生物の構成に変化が起こる。ありがたいことは田んぼ雑草が無いこと。あり難い様だが、田んぼの草が現れるまでの頑張りともいえる。土が良くなれば、田んぼに相応しい雑草も呼ぶ。むしろみかん畑であったという、上の1番から4番までの田んぼが、粘土分が多くやりやすい。これは客土がないという事だろう。上下の田んぼの水温の違いも大きいことになる。

それにしても苗がいい。がっしり苗とはこのことである。バリバリしていた。色も爽やかで黄色い苗であった。田植えが終わり、みんなでセルトレーや田植え籠を洗っているうちに、ソバカスを撒いた。今年に関しては、抑草についてはおまじないのようなものだが、一応は撒いた。一回でいいのだろう。どうせ草は出ない。深水もいらない。浅水管理で稲を育てる方が先決かもしれない。早くトロトロ層を作ることが大切である。土の臭いの変化の観察。土の手触りの変化。生き物の登場。充分に観察して行く必要がある。新しい田んぼを見ることで、発見があることだろう。楽しみは尽きない。岡本さんの田んぼも、その下の畑もなかなか良くなってきた。今日は、出来ればサツマイモを植えようと思う。あんのう芋の苗がいくらか育った。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水彩人北海道展

2010-06-20 06:00:11 | 水彩画
水彩人北海道展から、帰って来た。なかなか旅行らしい旅行に、出かけると言う事はめったに無い。今回は水彩人展だから、行かない訳には行かなかった。神田日勝記念美術館で、6月15日から27日の間開かれている。17日の蕪墾祭という機会に合わせて、行くことになった。羽田を7時25分のJALの飛行機で出発。直ぐに中札内美術村というところに行って、絵の講習会を行なった。ここは柏の林である。相原求一郎と小泉淳作美術館があるが、それは見なかった。柏の林という物を見るというのも始めてである。10センチから、20センチくらいの太さの木が、林のように、10へ句ターうくらい人工的に四角くある。不思議な状況である。一応描いては見たが、自分が絵にするというきっかけはなかった。絵を描くのでなく、散歩をするならいい場所だ。昼ごはんのカレーは美味しかった。3時30分まで描いて、鹿追町立の神田日勝記念美術館に向かった。

素晴しい施設にまったく驚く。スガさんと言う副館長の方は、よく水彩人展を見てくださっていて、そこから、水彩人展を開いていただけることになった。不思議な縁である。スガさんは北海道人らしい大きな方である。受け入れてくださる温かい心が感じられて、とても気持ちが良かった。水彩人の絵が、そのおもてなしの大きさに答えられたかどうか。この点は少し心配はある。どうかと言われると心もとない所があるが、自分の絵はおかしなガラスケースの中に飾られていて、変な心持である。自分の絵であるなあーと、これが精一杯だなあーとも思った。蕪墾祭では帯広のコーラスグループがマザーテレサの歌を合唱した。これはなかなか良かった。レセプションで美味しい物を沢山食べて、歓談して、何時だったのだろう。泊まる然別湖にある、ホテル福原に向かった。ここでもう一度夕飯を食べた。美味しいが食べすぎ飲みすぎである。

ここは温泉が良かった。寝る前と朝とゆっくり二度入った。サウナも高温のものがあるし、温泉の水風呂もある。これが身体に染みて良かった。酒も抜けてさっぱりとした。翌日は糠平湖で講習会。ここも美しい。ただただ美しいのだが、絵を描くような通い合うものがなく、むしろ自分が普段何を描こうとしているかが、考えさせられた。それでも湖水の水辺を描いてみた。人間の関わりが薄い。そのためにかけないようだ。昼にウエムラさんが迎えに来てくれた。何とも久し振りであった。ナンシーで暮らした頃、影響を受けた人である。もう一度会って何と言う事は無いのだが、確かめて置きたかった。2日間語り合った。とても大切な時間を過ごす事ができた。ウエムラさんの家がウエムラさんらしいもので、余分なものは無い風景を作り出していた。

翌日の19日も昼まで庭の事などを話していて、須田剋太美術館に行かないかと言う事で、出かけた。新星館という。美瑛町にある。大雪山と美瑛のあの美しすぎる畑とかが俯瞰される美術館である。その絶好の位置に、新潟から持って来たという古民家の逞しい構造で出来ている。ゴツゴツした逞しい感じが、須田剋太氏の絵に丁度いい。さすがすごい絵描きである。絵はまだ生きているのだと、再認識した。少なくともこの人の絵は必要なものだ。骨組みのバランスがすごい。絵の構造がすごい。又字がとてもいい。井上有一の書をもう少し絵にしたような字だ。90歳ぐらいまで生きた人かとおもったら、84歳との事である。確か三越の個展で姿を見たことがあった。かっこいい人だった。

忘れていた。新得で共同学舎の宮嶋さんにさくらの花の漬物を届けた。一応のお話をして、もし使えたら、と言う事でお渡しした。もう大勢の方が待たれている状態で、ゆっくりと話ができる状態ではなかった。忘れたと言えば、美瑛町で食べたラーメン「ひまわり」これは美味しい。すべてに気持ちがこもった美味しさ。もう一つ美味しい物が、新得のお蕎麦やさん。何といったかは忘れてしまったが、お蕎麦らしいお蕎麦。当たり前だがこれに出会うのが難しい。そして、最後に美味しい物は、帯広のクランベリーのソフトクリーム。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

WHOのオオカミ少年

2010-06-19 03:58:48 | Peace Cafe
ワクチンはまだ充分解明された、医療方法とは言えない。今回のWHO発の新型インフルエンザ騒動は、まさにオオカミ少年であった。いまだ反省もせず、まだパンデミックの再発もあるから要注意である。などとデマを流し続けている。6月の時点でもレベル6を確認した。病気と言う誰もが避けられない、不安をついたデマだから悪質である。長妻厚生労働大臣は、次の流行に備えて、今からでもワクチン接種するのが有効だと、デパ地下の試食担当のようだ。どれだけのお金が無駄にされたのだろう。余って捨てたものが、30億円とか。9000万回分が廃棄される。無駄に、人間に注射しなかったからよかったとも言える。間違えは間違えと認めないと、次に起こる本当のパンデミックの対策にならない。医者と製薬会社のしがらみのようなものが、見え隠れするだけに怖ろしい事だ。

今回のメキシコ発の豚インフルエンザは始めから世界流行した所で、それほどの死者が出るものではなかった。それでは、次の新型インフルエンザもそうかと言えば、そういう訳にはいかない。この違いを反省しなければならない。新型であったのか。あるいは高病原性であったのか。科学的に疫学的に検証する必要がある。これだけ大きな社会実験が行われたのだ。無駄にしてはならない。そういう検証がされないから、口蹄疫騒動になる。とんでもない結果がでる事を恐れず、正確に検証しなければ、次の流行に対処できない。なにしろ、畜産はより危険な所に向かっている。中国が極端な大規模畜産を進めている。うなぎの養殖の実態から考えても、健全な大規模畜産とは到底思えない。悪口ではなく、とてもいいことだとおもっているのだが、中国人は汚さに強い。人間の糞尿が、あふれ出しているトイレの脇で、生ごみ10メートルもの山の脇で、それを眺めながらでも食事が出来る。たいしたものだと思っている。しかし、そういう感覚で、もし、大規模養鶏がやられるなら、どう言う事になるかが、空恐ろしい。

「薬があるから大丈夫。」こういう養鶏になるだろう。予防薬、消毒の発想。自然と調和するのでなく、特別な家畜用の空間を作る発想。ある飼育空間だけ、人工的な清浄空間を作る。そんなことは実は、出来ない事なのだ。1万人の都市をそのまま一つの豚舎にする。糞尿は床への垂れ流しである。どれだけ清掃を行おうが、消毒をしようが、無菌状態を保つようなことは不可能である。トキセンターのテンを考えてみれば分かる。誰だって出来る限りの事は考えて始める。それがゴキブリ1匹で崩壊する。生き物を飼うとはそういう物なのだ。100万とか言う巨大な畜産を行えば、かならず、人類を滅ぼすような新しい、感染症が登場する。大規模畜産を早急に中止しない限り、必ずそういう新しい病気が登場する。

医学分野は発展途上である。特に免疫学はまだ手探りをしている所だ。今回のパンデミック宣言まであった、インフルエンザ騒動は、疫学的に意っても、免疫学の新しい研究結果としてもとても重要である。自然養鶏の考え方が、間違っていないらしいと言う一つの検証であったとおもっている。一度感染すると言う事で、免疫とは言えないが、ある受動体のようなものができるらしい。これは今のワクチンで出来る免疫とは違う仕組みらしい。自然養鶏をやっていれば、そういう仕組みがあるらしいという、事は想像できる。自然感染して発病をさせないこと。これが生涯続く、免疫のもとを作り出す。なぜ、口蹄疫でも感染をしないものと、簡単に感染するものがいるのか。このことを充分に検証するべきだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農業の実践

2010-06-18 04:01:24 | Peace Cafe
農業文化論などと大げさに書いたが、一言では「農業は実践する文化」と言いたい。文化というのは、暮らしの実践から生れるものだ。自分が実行出来ないことは言えないのが、農業だと思っている。例えば、除草剤を使うべきでない。こう言う事を言えるのは、除草剤を使わない農業をしている人だけである。田んぼの草取りで泣いたことの無い人には、この思いはわからない。田んぼを草茫々にしておいて、除草剤は使うべきでない等と述べる人は、農業について語るべきでない。発言した所で、誰も相手にもしない。自分が農業をやってもいないのに、農薬は止めるべきだという人の農業論も、人に伝わる事はない。消費者の農業論はだいたいが原理主義的である。農業は実践できないことを云々した所で意味の無いものだ。子供の頃、草取りでは本当に辛い思いをした。これは身に染みている。これが無い人と農業の事を話したくもないくらいだ。

洗濯物に農薬がかかるからと言って怒る人がいる。畑の煙が困るという人がいる。鶏の鳴き声がうるさいと言う人がいる。農業振興地域で暮らしていると言う事は、そう言う事である。農作業小屋で住まわせてもらっていると考えるべきなのだ。そのことを理解しないで、農業地域に暮すほうがおかしい。話は少しそれたが、農業は日本の伝統文化だ。日本人が日本人であるのは、日本の農業によって日本人になった。それは、遊牧するモンゴル人がモンゴル人であるのは、遊牧をしていたからだ。工場労働者になれば、もうそれは正直モンゴル人でなくなる。日本人が失われてきているのは、農業から離れたからだ。もちろん工場労働者の文化というのも無いわけではないだろうが、豊かさには欠けそうなものだ。理屈ではなく、毎日田んぼの水周りによって育つものは、無限の豊かさがある。

文化の形成には長い時間を必要とする。日本の田んぼ文化は2000年の繰り返しによって、培われたものだ。それが、日本の水土になり、日本人のかたぎ、気質までになった。天皇による祭りごと、国家の仕組み、そうした政治というか、話し合いの仕方まで、田んぼによって出来てきた。それは、田んぼをやった事の無い人には、見えないような実践的な方法なのだと思う。寄り合いの相談事には、時間をかける。草取りに時間をかける、毎日炎天下草取りをする。こう言う所から出来上がる考え方がある。きわめて実践的な文化だ。所作から、考え方まで、身体に染み込んだものになっている。そういう土台の上に、があり、村があり、国がある。そのすべてが、失われてきた。戦後の日本の姿は、日本人でなくなる年月であった。国際人などと言えば、聞こえはいいが、無国籍人というか、文化的な素養の無い人間の増加。

農業の実践からやり直すべきだ。少なくとも、自分がやれないとしても農業の文化的意味を国家として認めるべきだ。戸別補償などという言葉は、即止めてもらいたい。補償とは何事かと言いたい。何を補い、何を償うと言うのか。農業を行ないながら育たなければ、日本人になれないと言う事を、よくよく知らなければならない。農業が日本人の教育そのものである。学校で行なう、知育など知れたものである。根本的であり、大切である。日本人の成り立ちのような、勤勉とか、我慢強さとか、辛抱とか、観察力とか、工夫する能力とか、こういう物は学校教育で出来たものではない。田んぼで学んだものだ。一つ間違えてはならないのは、田んぼの体験学習をするなど、よほど考え物である。大抵は田んぼを安易に理解したような気にさせる。悪い原因を作っている。生活をかけて、田んぼをしなければ、たいしたことは学べない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多文明共存時代の農業

2010-06-17 03:06:21 | 
「多文明共存時代の農業」高谷好一著(農文協)地質学を学んだ人による、世界の農業史である。京都大学の東南アジアセンターの名誉教授。新しい農業の歴史が、特にアジアの視点から、わかりやすく書かれている。アジア各地の現地調査を深く行なっている。そこに滋賀県で育った日本人の視点がある。高校時代学んだ、ヨーロッパは狩猟民族、アジアは農耕民族というような大雑把な意味のない民族の位置づけから、具体的な農業史の実像に転換がはかられている。誠にスッキリする本である。高校の頃、何故、ヨーロパを狩猟民族などというのか。歴史の先生に質問して以来の喉のつかえが取れたような思いである。1、麦羊農業2、ミレット農業3、根菜農業4、新大陸農業の4つに農業の起源を分析する。そして、販売のための農業と、自給のための農業を対立する概念としてとらえる。結論として、農業は地域の生態系に適応した、伝統農業を見直してゆかなければならないとする。

高谷氏はこの本の原稿を農文協に出版して欲しいと持ち込んだらしい。素晴しい企画が生れたと思う。著者の思いは「農業というのは本来、そこの生態環境に適応して行われるべきものです。しかも、なるだけ小さい範囲で自給自足的に進められるべきものです。しかし、現在では輸出用作物の大規模な単作の拡散などで、それが大きく歪められています。これは地球の生態と人間社会を破壊させる危険があるものです。本来のあるべき農業がいかに安全なものであるのか、それに対して、儲け一本槍の単作がいかに危険なものであるかを、世界的な視野をも含めて論じます。」このメッセージに込められている。また、稲作というものにも三つの種類があり、日本型の灌漑、田植え方の特徴と意味が分析されている。学問という物は問題意識があってこそ深まると言う事が分かる。

世界の農業が、そして人類がどうすれば次の世界で生き残れるのかを、実際の暮らし方から問題にしている人のようだ。もやいとという活動があり、高谷氏の発想が良く理解できる。プランテーション農業がいかに世界を破壊しつくしたか。人間の暮らしを崩壊して行ったか。環境に適応する農業というものが、多様で個別的で、そして共同してゆく形のそれぞれのあり方。個別性の重視。多様な変化にこそ、環境に対応した文明が存在できる。欧米型の経済優先の単一的価値観が、世界を行き詰まらせている。どのようにすれば、地域が循環して行く、環境適応型の農業文明に戻る事が出来るか。僅かに残っている、世界の農業文明をどのように再生させてゆけるか。大きなヒントが詰まっている本である。

今全国で生れている、新しい農業を模索する人の必読書である。地域に僅かに残る慣習の中に、貴重なヒントがある。地域に対する思いの中に、日本人がはぐくんで来た暮らしのあり方がある。その地域にある何かを、どのように考えればいいのかを、整理してくれる本である。すでにすべてが失われたような、農業の状況である。しかし、日本が再生するためには、小さな個人の農業を整えてゆく意味の確認が、不可欠である。方角が正しければ、もやいによって必ず船団として結ばれ、次第に整うはずである。今、起こっている姿は、あまりに小さく個別的であるため、一見すると何が起きてきているのかは、見えないかもしれない。小さく完結することの重要性が、文明としての意味が見えてくるはずである。そうしたとき初めて、個別のまま、舫う意味が理解されるだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

口蹄疫について

2010-06-16 04:13:33 | 自然養鶏
畜産をおこなう一人として、衝撃的事件である。直視できないような思いがあり、しばらくこのことを見ないようにした。現地の方々の気持ちを思うと、何も書けない様な気持ちになる。えびの市での移動制限が解除され、収束に向うかに見えた。突如、10日になって都城市、宮崎市、日向市と飛び火する形で、燎原の火は広がった。一日一日、祈るような気持ちで、3例で済むように祈っている。発生農場周辺では、抗体検査をするらしいので、その結果しだいで今後の様子が見えてくる。15日現在都城市では1キロ以内の11農場豚97頭が抗体調査で感染していないことが判明した。何しろこの怖ろしい病気は、豚が感染しウイルス濃度が高まると風に乗って広がる。ドーバー海峡を超えたと言うから、昔流行したと言う口蹄疫とはそもそも感染力が極端に違っている。この何故かウイルスが変異する事が、畜産のあり方に由来しているようで、問題を複雑化している。14日現在289例199,012頭の殺処分対象になっている。

イギリスでは殺処分方式で抑えることになり、60万頭以上が殺処分されたこともある。この背景には家畜は経済動物であると言う事がある。もし、人間にも感染する狂犬病のようなものであれば、優れたワクチンが開発が行なわれていた可能性はある。今のような状況はなかったのかもしれない。だから、口蹄疫のことを考える場合、経済からの視点と、科学的視点が常に混在してくる。ワクチンが開発できないことの要因が、殺処分の方が安いと言う経済から来ている。ワクチンを巨額の開発費をかけて作ったとしても、その利用が清浄国という貿易にまつわる経済問題から、利用できないと言う獣医学とは違う問題が存在する。自然感染とワクチン接種の区別ができないこと。そのため、血清調査による、口蹄疫清浄国の判定ができなくなる。牛や豚にしたら、どうでもいいことではある。

前回12年の宮崎での発生においては、感染原因は中国から麦わらとされた。北海道の同じ飼料を使っている、農家での検出。このときは幸い初期に感染を阻止することができた。発生農家を中心に半径20km以内を移動制限地域、50km以内を搬出制限地域と設定し、域内の全農家について立ち入り調査と抗体検査を実施した。3月21日の一報から6月9日の北海道の終息宣言にいたる経過は、とても参考になる。今回より最初から、厳しい対応をした。。その後原因と特定された中国麦わらに対する、ウイルスの死滅する期間の利用制限などあるのだろうか。何故、前回の経験が生かされなかったのかは、問題がある。今回は国連FAOからの協力要請も断っている。どうも10年間の間に、ウイルスは感染力を増し、日本国は対応力を低下させているようだ。

科学的にいえば、口蹄疫は人に感染するが、発病はしない。これも経済の問題だが、風評被害を考えると、人には感染しないと言い切るのも理解できる。しかし、人間が保菌者になって、感染を広げる可能性はある。特に、全国から現場の防疫体制に疎い人間が対応に集められると、感染を広げるリスクは高まる。宮崎での飛び火的感染の拡大に人間は関与していないか。十二分に調査する必要がある。私なら、発生地に行った人間は農場に入れない。家畜保健所の人間などが、各農家を調査で歩き回るようなことで広げる可能性もある。また、畜産関係者を集めて注意のための、研修会をするようなことも、リスクを高めるばかりである。宮崎ではこの点大丈夫だったのだろうか。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする