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日本と韓国の関係

2019-11-30 04:03:36 | Peace Cafe



 日韓関係はどこまでも解決できない問題と考えておく必要がある。秀吉の朝鮮出兵すらいまだ問題になる。隣国とのわだかまりは多分永遠に消えることはない。まして植民地支配時代があった。

 逆の立場を想像するればすぐにわかる。日本が韓国の植民地になる歴史があれば、日本人はその痛みに耐えかねることだろう。支配被支配の関係を押し付けられた恨みは深いに違いない。

 韓国の人たちは、極めて困難な状況から、努力を重ねて国力を向上させた。日本を追い越すような経済発展をしている。二つに引き裂かれた状況を考えれば、すごいことである。それだけの能力のある国民なのだ。

 急速な経済成長による様々な問題点はある。分断国家という事情もある。その中を素晴らしい努力で切り抜けてきた。日本は韓国から学ばなければならないことが多いと思っている。美術に関しても、韓国はレベルが極めて高い。

 ところが日本には朝鮮を植民地にした覚えはない。頼まれて保護したまでだと主張する人たちまで登場してきている。そして韓国を見下そうとする。こうした反朝鮮の日本人の感情は、衰退してきた日本国の焦りである。見苦しいばかりである。韓国に追い抜かれる、追い抜かれたという反映である。

 日本は江戸時代鎖国をして自立した国づくりをしていた。独立した経済体制を持ったという事、地方分権という独特の方法で成功したのだろう。江戸時代の日本には西欧列強に簡単には支配されない国力があった。国家として高い統治の状態があった。東洋の果てにある日本を占領して支配するようなことは、帝国主義の列強にも無理であった。これを明治政府の力量とするのは、半分の見方に過ぎない。

 日本までの距離と、当時の海軍力を考えれば、国家として確立している日本を植民地にすることは不可能で、通商条約を結ぶことが選択されたのだろう。明治政府が偉いのではなく、江戸時代の蓄積の結果の方が大きな意味がある。

 国の安全保障の基本は、国力を高め国内が充実していることが一番である。そして他国を攻撃しない。攻撃できない。こうした国づくりが重要なのだろう。

 朝鮮は歴史的に中国、ロシアという巨大国家に地続きで隣接して存在した。文化的にも先進中国の強い影響下に置かれた。この置かれた状況は朝鮮の国柄に当然大きな影響を与えたのだろう。

 朝鮮は記号の様な新たな文字を作った。中国の漢字文化の影響を抜け出たいという思いを感じる。日本はかな文字という漢字を変容させた文字を作り出した。中国文化を活用しようとしている。中国文化に取り込まれにくい距離感が、日本を独自性の強い国にした。

 日本は朝鮮半島を通して、多くの文化を受容した。ある意味、朝鮮がかみ砕いてくれた文化を分かりやすく受け入れた。朝鮮は緩衝地帯となって、日本はずいぶんと楽をして、日本独自の文化を構築することができた。海を隔てていたという事で事情が違ったのだろう。

 朝鮮は長いこと日本にたいして、先進国としての優越意識を持っていた。日本に指導をしたという意識である。一方で中国に対してすべてを学んだという引け目も抱えていたのだろう。中国の圧迫が、日本を軽んずる心に繋がっていたとも思える。

 それが明治新興日本は、兄貴分であるはずの朝鮮を併合してしまったのだ。これによって朝鮮人の誇りはズタズタにされた。まさか指導してあげた国の植民地になるとは、という気持ちには耐えがたいものがあったはずだ。この屈辱感が今に続いている。

 よく台湾との違いが言われるが、台湾は日本に対して、優越意識がなかった。植民地化されても、文化的経済的恩恵の方が大きなものとして歓迎された側面がある。台湾にも日本排斥の民族運動はあったわけだが、朝鮮で起きた反日独立運動とは規模も違う。

 そして蒋介石中国の台湾で行った政治はひどいものであった。その為に、より日本時代の方が良かったという気持ちになったのだと思う。朝鮮には日本に対する深い恨みがあって当然なのだ。

 
 日本は徴用工賠償に対して、確かに国際裁判所に提訴すると主張していながら行わない。提訴すれば負ける可能性がある。世界は日本の軍国主義には極めて厳しい判断を下すはずだ。両者とも結論を出そうとせず、喧嘩腰だけである。領土問題も同じである。つまり、結論を出すより問題のままであることを両国が選択しているのだ。

 この対立を対立のままの残しておくことが、都合が良いという政治的判断がある。サクラチル・・・アベ政権の支持率の維持である。国民感情というものは、どうにもならない。

 ホワイト国除外を持ち出したタイミングが、徴用工問題の報復に見えた。関連はまったくないと日本政府は主張するが、別問題であるなら、もう少しやりようはあったはずだ。子猫の喧嘩腰のちょっかいが、つい本番になってしまったような感じだ。

 全体の流れは、文政権の様々な場面における対応が、最近の韓国の政権とは違ったためにこじれていったのだろう。文政権は鳩山政権と似ている。正しいのではあるが、政治の実力がない。南北統一は正しい道であるが、それに至るには正しいだけでは難しいという事が文政権には見えてきたことだろう。

 日本から輸出された材料が、韓国で軍事転用されている疑いがある。その点が明白ならないのであれば、輸出する軍事転用可能な材料には審査してからしか輸出できないというのが日本の主張であり、実施したことだ。ホワイト国除外というらしい。

 軍事転用をしていないという事を韓国は証明しようとはしない。この理由がわからない。まず、この通り転用していないと示せば終わる話しだ。北朝鮮との関係でアメリカは何か掴んでいるのだろうか。日本の方もこういう証拠があるとまではまだ示さない。示した時は韓国が反アメリカになる可能性がある。

 WTOへの提訴も取り下げたという。この展開だけを見ると韓国に弱みがあるようだ。軍事転用していない証拠があるのならば、提訴して明確にすればいいだろうにと思う。取り下げるという事は軍事転用していたという事があるのかもしれない。その点が調査されることになるのをさけたのだろうか。

 いずれにしても、韓国と日本は良く似ている国だ。植民地支配という反省しなければならない歴史がある。そして、在日朝鮮人という問題もある。日本は何度でも謝らなければという事を思い出す必要がある。


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石垣市で自治基本条例の廃止が委員会の結論。

2019-11-29 04:53:27 | Peace Cafe

白花ナリヤラン

 石垣市には自治基本条例がある。その内容には矛盾や問題点がたしかにある。自衛隊配備の署名において、住民の4割の人が配備の是非の住民投票を行えと要求した。にもかかわらず、市長は条例に基づく住民投票を拒否した。それはおかしいというので、現在住民投票を求める会が、裁判によって条例の解釈の是非を問うている。

 こうした状況の中で、石垣市議会の特別委員会は自治基本条例を廃止すべきという結論を出した。要するに住民投票をすれば、自衛隊基地に反対する人が多いからである。これでは完全に民主主義の崩壊である。

 なぜそれほどまでに自衛隊基地を誘致したいのであろうか。ここが私には理解できないところだ。理解できないがもしそれほどに中国を脅威に感じているのであれば、何故そのこと自体を問題にしないのか。問題であればどういう努力をしたというのであろうか。努力もしないで、自衛隊誘致と叫ぶのは理解しがたい闇を感じる。

 日本国憲法では、国際問題が起きた時には平和的に解決すると書かれている。石垣市は中国の武力攻撃があると市長が考えるのならば、それに対して平和的努力はしたのだろうか。努力しないまま、武力で対抗することを考えるとすれば、憲法違反である。

 石垣市はアジアからの観光で経済好調である。農業も、漁業も、もちろん観光業も盛況である。人口も増加している。すべてがうまく回り始めている。日本全体で見ても、好循環の事例ではないだろうか。これを壊してしまっては元も子もない。

 アジアの交流拠点の構想は石垣市民の過半数の願いと言っても良いのではないだろうか。何故、平和の努力もせずに、波風を立てようとするのか、それは石垣島よ防人になれ。という日本会議の指示があるからなのだろう。先日は盾の会の人を呼んで、講演会をしていた。

 私は防人にはなりたくない。何故、アベ政権の思惑に乗らなければならないのか。沖縄を犠牲にして平気なこんな政策に何故率先して乗ろうというのか。本土の人間がそういうことを言うのであれば、分からないではないが、石垣市長が何故住民を犠牲にしかねない考えに同調するのか。

 あり得ないことではあるが、中国が尖閣諸島を奪いに来るとすれば、石垣島のミサイル基地は真っ先に攻撃対象になる。このくらいは、自衛隊誘致派の人も覚悟のことだろう。当然石垣島からも600人と言われる自衛隊員が抗戦する。その為の基地である。

 宮古島からも360名の自衛隊員が反撃をするのだろう。その程度で中国に勝てるわけもない。中国は当然、2つの島のミサイル基地をせん滅してから、尖閣に上陸占領するだろう。それを防ぐだけの能力はこの2つの基地にはない。そのくらいは自衛隊も、アベ政権も、石垣市長も、議会の誘致派も承知に違いない。

 だから、あくまで当面の自衛隊配備であり、将来的には石垣島を基地の島に変えて行かなければ防衛が出来ないということになる。軍事的対抗はそうならなければ安心がない。必ず大規模な自衛隊基地を作り、そこに米軍も共用することになると考えねばならない。

 果たしてそれが正しい方向であるかどうかを、今の段階で議論すべきである。市長や誘致を希望する市会議員はそういう議論を市議会でしているのだろうか。もし議会でそうした議論までして、その結論として、自衛隊基地の誘致が決められたのであれば、まだいい。

 私の知る所では自衛隊の誘致自体が議論の対象になっていない。国の専権事項に石垣市は口をはさめないと、議論を避けているのが、市長と誘致議員である。議論をしたところで接点がないと考えている。住民投票をすれば、反対が多いに決まっていると言っていた。

 それなら、一切民主主義的手続きを無視して、強行してしまえというのが、今の誘致派のやり方である。それでも、石垣市民が防人の島になることを選択するのであれば、致し方ない。住民の意思など無視して、無理強情に防人の島にしてしまおうというのでは、さすがにこれは許されないことだろう。

 自治基本条例の不備があれば、まず問題点を検討し、改訂すればいいだけのことだ。自衛隊基地誘致の邪魔になるから、基本条例そのものを廃止しようと考えることは民主主義社会とは思えない暴挙である。

 住民自治の精神は民主主義の基本である。住民の義務と権利を明記し、一人一人が政治の主人公であるという当たり前の考え方である。市民が作り上げる、市民憲法である。これからの社会には不可欠なことだ。

 石垣市でも市役所の移転については住民投票が行われた。そして移転が決まった。不満がある人も当然いるだろうが、多数の意見に従うという民主主義的な決定が行われたのだろう。自衛隊基地であれば、なおさらのことだ。住民の未来に市役所の場所以上に重要なことになる。

 韓国との関係悪化で韓国からの観光客は激減した。石垣島の経済を回している観光産業は平和産業である。基地の島になれば、観光に影響するだろう。そうなれば、石垣島の暮らし向きまで影響してくる。この選択を住民がどう考えるかを、投票で判断するのは当然ではないか。
 
 自治基本条例では、情報共有、市民参加、協働、多様性尊重の原則を掲げ、市政運営の公正の確保と透明性の向上のため市民への説明に努めるよう市に求めている。これが議会も市長も嫌なのだろう。民主主義では自分と考えの違う人の権利を尊重するものである。

 自治基本条例を廃止するということは、民主主義を止めるという事になる。確かに軍国主義国家では民主主義は邪魔なものだろう。市長が何度も発言する、「国の安全保障は国の専権事項」という考えになる。そこに暮らす住民は無視した方がやりやすい。

 条例には住民投票に関する規定がある。有権者の4分の1以上の連署で市長に住民投票の実施を請求できるとする。請求があったとき、市長は「所定の手続を経て、住民投票を実施しなければならない」と明記している。
 
 この規定が邪魔なのだ。だから、自治基本条例を廃止したいだけなのだ。現在の市長と議会のやり方は許されるものではない。余りに一方的でずさんなやり方だ。それこそ、廃止するのであれば、住民投票が必要である。これは国の専権事項ではないだろう。最後の手段としては、市長のリコールであろう。


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土壌と腐植の関係を知りたい。

2019-11-28 04:02:08 | 自給


 農業を始めて「土壌とはどんなものなか。」考え始めた。土が良いから作物が出来る。土が悪くて作物に病気が出る。農家であれば、誰もが言う事である。しかし、土壌のことは分かるようでわからないことばかりだった。

 土壌分析で良いとされた土壌が、良く作物が出来る土壌ともいえない気がしてきた。良い土壌が分析でわかるのかどうかさえ怪しいと思っている。土壌分析は一般の農業向きのもので、化学肥料で何を補うえば良いか分析している。

 土壌が持っている限界は化学肥料と農薬でかなり乗り越えたのだろう。しかし、長くこのやり方で続けると、土壌が疲弊してしまうような感じである。そうした畑をお借りしたことがあるが、様々な困難が起きた。
 腐植の問題ではないかと土の様子を見て考えた。腐植量を知りたいと考えて土壌検査をしていた。ところが、土壌検査の腐植量とは炭素の量を調べて、係数をかけたものなのだそうだ。一気に土壌検査に興味を失った。今まで何を見ていたのかと思う。

 ご先祖様から代々大切に土地を受け継いでゆく日本の農業では、土壌が未来永劫使えるものとして、自分の代で少しでも良いものにして、子孫に残したいという思いが続いてきた。こうした土地と離れがたい関係が日本の百姓の運命のようなものであった。

 近代農業は化学肥料と農薬で、様々な困難を乗り越えたつもりでいたら、農業を続けている間にできた畑の土壌が植えこみ素材に過ぎなくなった。土を止めて、工場農業の様な水耕栽培でも変わらないという農業である。農の身土不二の考え方から言えば、かけ離れた世界である。

 土壌は上手く農業を続けて、作り上げれば、肥料などなくても作物が育つようなものになる。腐植を増やし、微生物が沢山住めるような土壌になれば、そこで太陽の光と大気からの吸収で生まれる肥料分で作物が出来るような土壌になる。と自然農業では言われている。

 このことを確かめたくて農業をしてきたような気がする。収穫する作物よりも、気がかりなことをはっきりさせたくて、もう一度、もう一度で続けてきてしまった。

 土壌を完成させることを目標にしているのが自然農業なのだと思う。そんな土壌はあるとしても極めて特殊な事例だろう。あくまで目標であり方向に過ぎないと思っている。百姓は未来に理想を置き、それに向い努力することを大切にしてきた。と考えた方がいい。
 
 そんな土壌がどうすればできるのかで、自然農業にも様々な農法が存在する。例えば叢生栽培であるとか、不耕起栽培であるとか、炭素循環農法。緑肥栽培。輪作もある。いずれの方法であっても良い土壌を作ることが目標になる。農業に良い土壌とはどんな土のことか。

 先日、MOAの大仁農場の方が、農の会の諏訪の原の圃場の土壌調査に来てくれた。その時に穴を掘って土壌をよく観察することが大切ですよと言う指摘だった。案外農家の人は自分の畑に穴を空けて見ていないものですよ。そんな馬鹿なと思って穴を掘ってみて驚いた。基本に対して、自分の不明を恥じることになった。

 10メートル離れるとまるで土壌の中の様子が違うのだ。10㎝掘るとと固くなるところもあれば、30㎝でも柔らかいところもある。同じ畑でもわずかな場所の違いにによって大きく違うのだ。これには驚いた。確かに畑を細かく掘ったことはなかった。

 以前見学に行った大仁農場の土壌は簡単に1メートルも棒が刺さってしまう。石綿さんの畑もそうだと言われていた。これはそう簡単なことではない。深く耕したからそうなったのではなく、何らかの作用で深くまで柔らかくなったのだ。

 私の土壌の感覚では、深くまで柔らかいから、いい土壌とまでは言えないと感じている。1メートルも作土層のある土壌だから、作物が収量面で多いという訳ではない。大抵の作物が必要とする作土層は30センチ程度のものだ。

 作土層の下にある土壌の浸透性が問題になるのだろう。普通には田んぼであれば、浸透性はない方が良い。畑であれば水は抜けてくれなければだめだと考えられている。

 自然農法ではあまり収量を問題にしない。収量がそれなりにあり、しかも土壌を良くしてゆきたい。そうなるとまたいろいろ違う問題が出てくる。欲張るのは良くないと言われるが、収量は最も説得力がある。収量の低い農法では、普通の農家が取り組まないのは当たり前のことだろう。

 どれほど生命力のある作物だと言われても、収量が少ない農法ではやろうという人は出てこない。本当の意味で良い土壌であれば収量も多くなければならない。収量が多い土壌が良い土壌である。農業であれば、当たり前のことと思っている。

 良い土壌とは腐食が多い土壌だと考えている。どうやって腐植を増やすかである。大量に堆肥を入れればよい土壌になるという訳でもない。土壌にとっては良いものであれ、突然の大量の堆肥は異物だ。なじむためには時間が必要になる。耕作をしながら、腐植が増えるような農法を目指したい。

 この本当の腐植の量がわかる土壌検査が欲しい。耕作の方法で、腐植が増えたり、減少したりする実態を把握したい。腐植量の変化が分かれば、今の農法が正しい方向かどうかがわかる気がする。

 腐植は植物が落ち葉や倒木により、腐って土に戻ってゆく過程だと考える。腐るとは微生物が分解をしている姿だ。微生物の生活しやすい状態を土壌の中に作り出す。腐植は微生物が分解し減少してゆく。畑では常に腐植を加えてゆくことが必要になる。

 間違っていたというのは土壌検査に出して戻ってくる腐植量というのは、炭素量に係数をかけたものだというのだ。これは本当の腐植ではない。土壌にはそもそも含有されている炭素量がある。

 私の耕作している場所の大半が、富士山の火山灰が中心の土壌だ。その土固有の炭素量がある。この炭素はもともとは腐植由来であるかもしれないが、いわゆる堆肥のような腐植とは全く性格が違う。

 私のように燻炭が好きで、燻炭を何かと畑に使った。その燻炭のかけらが土壌検査の採種する土に偶然混ざれば、炭素量はかなり高いものになるだろう。測定に使う土壌は2グラム程度だそうだ。実際どの程度正確なものだろうか。

 腐植を増やす努力をするのは大切だが、これが土壌検査の結果に反映することはないと考えるた方が良いようだ。そんな感じだとはこれまでの経験的には感じていた。

 だとすると、今の所、自分の目で土壌を見分けるという事になる。穴を掘り土の断面をよく観察する。これが重要な土壌の見方である。

 穴を掘り、日の当たる側をきれいに断面化する。そして横から観察すると、土が深さによって変化することがわかる。20センチで変わるか30センチで変わるか。これは物理的な変化である。耕運したことない地層、あるいは植物に根が入り込んだことにない土壌は作土層ではない。

 断面の堅さをはかる。これは重要なことだと思う。硬度計というもので測定をしてみた。15ミリくらいまでなら作土層として使えるらしい。柔らかいなと感じるような土壌だと10ミリ以下になる。20ミリになると硬い土だなという状態だった。

 断面の違いは、腐植の量の違いがなんとなく見える。いかにも腐食がある土壌と、これは全くないというような土壌は見た目で分かる。上の方の層は様々なものが混ざっていて、空隙がある。断面をたくさん見ている内にそんな違いがだんだん見えてきた。

 大抵の場合、50㎝掘れば堅い層が穴の底の土壌になる。観察するとここが濡れているような土壌であると、浸透性のない土壌という事になる。この硬い層の水の浸透性が重要になる。硬くても水が沁み込む土はある。

 少しくぼみを作り、水を入れてみた。沁み込めばいいが、長く水が溜まるような土壌であれば、水が通らない土壌の場合、何らかの方法で、水が抜けるような層にしなければならない。硬い土壌を突き破る緑肥作物を作る。

 作土層は20センチあれば十分である。ここの腐植の量が重要である。それでよく分かったのは、渡部さんがやる「高畝農法」は植物の利用の中心になる土壌はかなりコントロールできるという利点がある。研究する価値がある。

 
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自給自足生活と晴耕雨読

2019-11-27 04:36:21 | 自給


 自給自足生活はやり尽くした気持ちがある。これだけは一応やったことだなという気がしている。一日1時間100坪の土地の自給。これは達成できた。そういう時間が持てたという事が思い出しても嬉しいことである。

 この暮らしは晴耕雨読というようなのんびりしたものではなかった。晴れれば草刈り、嵐の最中での片付け。いつもすべてに神経を張りつめていなければ自給はできないものだった。やはり相当に厳しい暮らしである。一時間の労働であるとしても、24時間集中していて、一時間働くというような具合である。

 晴耕雨読という時の、晴れて耕すのは庭の草花くらいなのだろう。これは自給自足とは関係のない趣味的な言葉なのだと思われる。そんなことはあり得ない暮らしを晴耕雨読というように言うらしい。

 これは誤解を生むと言葉だと思う。言葉は怖いもので、やってみたことにない人は、自給自足の暮らしをこの言葉で想像しがちである。何度そう言われたことか。雨の中の田植えや、台風に備えての稲刈り、これが普通の自給自足生活である。

 と言ってもつらいのではなく、大変だからこそ面白くて仕方がない暮らしだった。この面白さは、生きているという充実感がある。辛くて良かったという事ではないかと思う。

 晴れた日だけ農業をやるようなことは、実践的にはあり得ないのだ。だからこれは農家的な言葉ではない。仙人のような人が、気分転換に畑を耕すというようなことなのだろう。生産とは程遠い話である。

 時代は階級社会に進んでいる。機会均等というような社会には進んでいない。それは資本主義が国家資本主義と呼ぶような、競争の激化によって階級が生まれている。70年を分水嶺として、この50年間は階級が生まれてくる過程だった。

 今出来上がりつつある階級とは、経済的な既得権による階級である。加えて能力による階級である。この能力による階級は経済的に優位なものが、その有利さによって能力をさらに高められるという形になり始めている。

 そのことは時代の方向であり、あがなっても無駄だと最近は考えるようになった。革命とか、戦争の敗北とかで、既得権がひっくり返らない限り、世の中の方向は変えられないと思うようになった。

 だからこそ、自給自足に意味があると思うようになった。人間が生まれてきて死ぬという事は、自分の生命をどこまでやり尽くすかという事だ。自分というものの奥底まで行けるかという事である。名を遺すとか、勲章をもらうというようなこととは全く関係がない。

 自分という命に突き当たるためには、ずいぶんよい時代になったともいえる。農業資材もずいぶんよくなった。農地は借りやすくなった。地方によってはいくらでも空き家がある。生きてゆく場は広がっている。

 階級社会とは言え、都会で暮らそうと思えば、誰にでも下層民としての暮らしはある。若い人が働いていて、生きて行けないという事はない。たぶんそれはこの先も同じだと思う。都会で人間らしく生きることが出来るかと言えば、それは上級国民にだけ許されたものである。

 そういう事にはかかわらない方が良いというのが、実感である。身の丈に応じないでかかわろうとすれば、心を病む事になる。無理がたたるのである。無理をして成りあがった人のみすぼらしい心が目立つ。人間を追求していきたいと思うなら、そんな競争に初めから乗らない方がいい。

 いじめの学校に通わなくてもよいのと同じである。いじめのない学校にするような努力は、いじめられている人が出来るものではない。違う道があるという事でいい。自給生活の道はそういう道である。人間は身体を動かせば、何とか自給自足で生きて行ける。

 山北で挑戦したときは、機械力を使わないことを条件にした。その頃はまだ、世田谷学園に週3日勤めていた。自給自足生活が出来るようになれば、辞めようと思いながら、東京まで通う生活だった。できるかどうかも未知数だったので、学校が止められなかったのだ。

 まだ30代であったが、3年間学校勤めと自給自足の模索が重なっていた。条件は相当に悪い場所であった。山の下から、水を担いで、45分は歩く場所だった。家と言っても、物置を配達してもらい、組み立てたものである。

 その狭い物置に寝て、開墾をやったのだから、ひどいもののようだが素晴らしい経験だった。苦労などと少しも思わない。標高300メートルの北斜面のスギ林である。土壌は富士山の宝永の噴火で飛んできた、火山礫が60㎝は積もった場所だった。それでも3年で自給自足が達成できた。

 楽しんでやれた。暮らしを楽しめる人ならできる自給生活である。少しも恐れることはない。若い人には良い時代が来たともいえるだろう。今の私ならば、石垣島に入ったと思う。あの石垣の大変な土壌をなんとか耕作できる土壌にしてやろうと思う。その方法を見つけて残したいと思うだろう。

 
 
 
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GSOMIA失効は出来なかった。

2019-11-26 04:05:04 | Peace Cafe


 韓国はGSOMIAは継続するという事になった。廃止されて日本が困るという事でもないので、どうでもいいのだが。この過程でアメリカの世界戦略というものが見えてきた。アメリカの圧力に負けた韓国という国の置かれた位置。文政権の動き方も見えてきた。

 この間日本が何かしたわけではなかったという事も印象に残った。何もしないというのも外交戦略の一つのようだ。アメリカに依頼をしていたのは確かだろう。日本からの情報は韓国は下手をすると、中国に接近するという話だろう。

  アメリカの圧力で韓国は出来ない我慢をする結果になった。GSOMIA問題は日本よりもアメリカの世界戦略にとって、大きなことだった。アメリカは韓国や日本を守ってあげていると都合よく主張しているが、本質的にはアメリカは韓国日本を防人として、中国、ロシアと対峙している。

 アメリカは韓国がこれ以上中国ロシアと接近することを望まない。文政権はアメリカと距離を置きたいと考えている。日本に対しても同じことである。安倍氏がいくらトランプとお友達でも、中国やロシアと親しくしようというアベ氏には相当警戒をしているはずだ。

   この問題は日本が勝ったとか、韓国が勝ったというようなことではまったくない。そういう分析が多いいのであきれてしまう。両国が仲良くなるには、まだまだ長い道のりがある。韓国と日本は似ている国である。似ていいるがゆえに感情的なもつれになりやすい。わずかでも譲ることが出来なくなる。両国が協力できるようになれば、大変な力を発揮できるに違いないので残念なことだ。

 文政権は南北統一を使命としている。安倍氏の憲法改定のようなものだ。南北統一を進める上では日米韓の軍事協定は邪魔なものである。ところがアメリカの圧力がなければ、北朝鮮は韓国と交渉すらしない。これが文政権の袋小路である。

 韓国はアメリカからGSOMIAを破棄するような態度であれば、米軍を引き上げると脅されたのだろう。アメリカは中国に接近する韓国を危険視し始めたようだ。アメリカの強い態度の背景にはあるのは、当然中国との経済戦争である。

 次に問題になるのは習近平氏を国賓として招待する日本をアメリカがどう考えるかである。どこかのタイミングで、日米安保の片務的条約という問題が出てくるのではないか。アメリカの手下でいたのならば、もっと金を出せと言うに違いない。金は出さないで、中国と接近するというのならば、米軍を引き上げると脅すことだろう。

 日本にとっても良い機会である。韓国はアメリカの圧力に屈した。アベ政権は中国との友好関係の回復をはかろうとしている。これは正しい考え方だ。中国と友好関係を築くにはアメリカの圧力を跳ね返す必要がある。

 中国は香港の問題をよほど深刻に受け止めているはずだ。都合のよい一国2制度のつもりが、中国本土に香港の自由の希求が及ぶ危険が生じてきた。それでも香港の中国経済での重要性は大きいから、香港を軽んずることはできない。

 人間には自由でありたいという本能的欲求がある。中国国内にある、民主化の圧力が目覚めないかの中国政府は不安である。天安門事件がまた再燃する可能性は高い。中国国内であれば弾圧することで済ますだろうが、香港の場合は政治状況が違う。

 香港に学べという思いが中国全土に広がっていっているはずだ。香港で行われたような民主的な選挙を中国でもやるべきだという事になるだろう。民主化の動きは止めることはできない。

 韓国はアメリカの軍事力と縁を切ることが先だろう。アメリカに軍事基地を提供したまま、北朝鮮と統一を模索するというのでは矛盾している。しかし、アメリカと関係を断つ決断はできない。韓国を見ていると、日本の少し先を見ているような気がしてならない。

 北朝鮮はアメリカに届く核ミサイルを作る以外に、自分たちの国家の生き残る道はないと考えている。韓国はアメリカとの同盟関係を持ち、共同軍事演習を行い、北朝鮮に圧力をかけている。にもかかわらず、南北統一では正義とは言えない。たぶん韓国内部にも核武装すべきという考え方が生まれているはずだ。南北統一は朝鮮半島の核武装化にもなりかねない。

 解決されたかに見えた、日本との従軍慰安婦問題も不可逆的解決策もいとも簡単になかったことになった。政権が変われば、国際的な約束も取り消せるというのが、韓国文政権の考え方のようだ。確かにどんな条約も一方的に取り消せるのだろう。国際的な約束を韓国と結ぶことは難しいことになる。

 次に韓国とかかわる際にはどんな取り決めも出来ないことになった。GSOMIA自体本当に情報が提供されているのかも怪しい。内部的に成立しているのだろうか。軍事情報の共有化など、喧嘩しながら可能とも思えない。あのジェット機の照射事件を見れば、GSOMIAは機能などしていないのだろう。

 日本から輸出された材料が、韓国で軍事転用されている疑いがある。その点が明白ならないのであれば、輸出する軍事転用可能な材料には審査してからしか輸出できないというのが日本の主張であり、実施したことだ。ホワイト国除外というらしい。

 軍事転用をしていないという事を韓国は証明しようとはしない。この理由がわからない。まず、この通り転用していないと示せば終わる話しだ。実は北朝鮮との関係でアメリカは何か掴んでいるのだろうか。日本の方もこういう証拠があるとまではまだ示さない。示した時は韓国が反アメリカになる時だろう。

 WTOへの提訴も取り下げたという。この展開だけを見ると韓国に弱みがあるようだ。軍事転用していない証拠があるのならば、提訴して明確にすればいいだろうにと思う。取り下げるという事は軍事転用していたという事があるのかもしれない。その点が調査されることになるのをさけたと思われても仕方がない。

 GSOMIAが本質的なものではなく、日米韓の連携を中国北朝鮮ロシアに示している象徴に過ぎない。最近のトランプは軍隊で商売をしようとしている。防衛をやってやる代わりに、幾らよこせという発想である。これではアメリカはまるで傭兵国家である。

 
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表現の自由と天皇制

2019-11-25 04:15:31 | 水彩画


 表現の不自由展のごたごたの中で、日本人にとって天皇とは何であるのか。あるいはどうあれば良いのかという事が浮かび上がった気がする。このことは、混乱があったからとはいえ、表現の不自由展が役割を果たしたという事ともいえる。

 結論をまず書いて置けば、憲法に定められた象徴天皇制は、直系男子がいなくなった時に終わりにすればいいと思う。天皇家が無くなるというのではなく、特別な一族として江戸時代のようなの天皇家は継続してゆけばいい。

 天皇の肖像写真が燃やされることで、傷つく人がいる。戦前には肖像写真を御真影と名付け、奉る建物が学校に存在した。通る時には拝礼をするようなことになっていたのだ。天皇の写真にはそうした歴史的意味もある。これを燃やすという意味と考える必要がある。

 傷つくのはその人の中にある価値観なのだろう。家族の歴史という事が関係することもある。明治帝国日本は天皇を政治に利用した国家である。それは、天皇の意味が日本帝国の象徴に変えられたことでもあった。写真を信仰の対象にするほど、天皇を崇める存在に祭り上げた明治政府。

 江戸時代の日本人にとっては、天皇が宗教的な存在であった。特に稲作と結びついた信仰的存在である。それは天皇家が稲作技術をもたらしたことで、日本国という国づくりに大きく影響したことがある。その存在を権力的なものであるとした歴史は、明治政府の捏造の歴史にある。

 明治政府が革命を起こし、その権威を天皇とう存在に集め自己正当化を行った。その為に天皇はそれまでの天皇さんと庶民が呼べるような存在から、写真までは拝礼しなければならないものの変わった。これは革命政権の人為的な操作である。

 天皇を中国の皇帝や西欧の歴史にある王室のような武力的権力と考えない方が良い。日本の神社の基であり、五穀豊穣を祈願するものである。伊勢神宮と修学院離宮に行くと天皇の意味を感じることが出来る。

 明治政府というものは、富国強兵。脱亜入欧。日本語を捨てて英語を国語にした方が合理的だとするような国だ。徳川幕府の江戸時代をいかに問題のある悪い時代であったかを徹底的に教育した。70年前は盛んに家康はタヌキおやじだと何故か言われていた。それが日本帝国主義の洗脳である。

 そして、天皇に関しても神格化するために過去の歴史まで捏造したと言っても良い。それが教育において、徹底されたために日本人は天皇が軍神であるかのような、とんでもない誤解を刷り込まれてしまった。天皇陛下万歳と言って死んでゆくという姿である。

 こうした天皇の歴史的意味を写真を燃やすことで表現した作家は十分認識していただろうか。たぶん、明治政府の虚像の天皇を燃やしたのだろう。傷つく人が、実はゆがんだ教育の被害者なのだ。今も存在する天皇主義の人たちなどその結果のような人たちと考えた方がいい。

 日本が傷つけられるという事が、自分の心が傷つくことである。だから傷つく人がいることが前提の表現において、その表現者が傷つく側に対して思いが至らない場合、何か表現の意味に一方的な見方があるという事になる。

 その結果、人に伝わるものが単純化してしまい、芸術表現とは言えない浅いものになる。もし、本来の天皇を、江戸時代の天皇の姿まで踏まえていれば、もう少し違う表現になるのではないか。

 誰の肖像であれ、燃やすことで作品の表現とするというのは、まともな方法ではない。もしこれが天皇以外であれば、明らかに人権侵害である。こういう表現は国旗を燃やすとか、大統領の写真を燃やすとか、政治的主張として行われることが普通であり、芸術的表現としては浅薄なものになる。

 写真を燃やすような作品で芸術として扱われたものは過去にはない。たぶんこれからもないだろう。芸術として残るものは総合的なものであって、一方的な角度の見方では、人間の心には伝わらないからだろう。

 写真を燃やすという批判は明確な意味を持つが、何故燃やさなければならない存在であるのか。ここが明確にはならなければ、半分の表現である。一方的な全否定に過ぎない。芸術の表現は自分とのかかわりを含め、深い人間存在にかかわる意味を持たなければならない。批判の意味は伝わるが、芸術として見る人を変えるような力は持ちえない。

 これは私の芸術観であり。そうでないと考える人がいることは理解できる。それにしても傷つく人がいるだろう表現の場合、その表現の場は配慮が必要である。知らないで、津波の映像に触れて心を病んでしまう人がいる可能性はある。

 子供が津波で流されて、行方知れずのままの人であれば、当然心に傷がついているだろう。その傷をさらにえぐるようなことになりかねない。それは、日本の為と信じて天皇万歳と叫びながら、特攻をした兄弟を持つ人であれば、天皇を冒涜するような表現が、その傷をえぐるくことになる可能性は高い。

 表現者がただ告発するための表現をすることも自由である。またそれが必要なことである場合もある。天皇が象徴である以上天皇を批判する表現はありうる。天皇が普通の人間であれば、それは許されないことだが、天皇が象徴という、負の意味も含めた立場であれば、批判の対象になることは、止む得ない事になる。

 天皇が象徴であるという意味は、日本人たる自分が何ものであるかを意味している。それは日本という国家と、自分という個人との関係の問題でもある。天皇を問題にするという事は、内なる日本を問う事でもある。この部分を十分国民的議論にしなければならない。

 首里城が燃える映像を見て、茫然とした。私というものの心は傷ついた。あの映像を見たくないと思った。東日本の津波の映像を見たくない。日本が崩壊してゆくようで、魂が消え入るような思いがする。原発の崩壊した姿も見たくない。すぐチャンネルを変える。

 芸術が前向きなものだけでないのは当然である。人間の闇の、暗黒部分を掘り下げる芸術というものは存在する。歴史の中にもそういう芸術作品は存在し、見たくもないようなものが作品として残っている。しかし、そうした作品であっても、人間の奥底に触れているから、時代の選抜を潜り抜けるのだろう。

 日本の象徴たる天皇の批判を公の展示として行っていいのかである。明確に展示しなければならない。それがたった一人の意見であれ、展示しなければならない。日本を傷つける表現であっても公の美術館であるからこそ、展示を妨げてはならない。それが、公の美術館の役割なのだ。芸術的ではないと美術館が判断するとしても、展示しなければならないのだ。

 名古屋市長は公の美術館で展示されると、その考えは公の意見とみなされると公言している。明らかに芸術に対する理解力不足なのだろう。理解力不足どころか知性の欠落を感じる。芸術はそんなに単純なものではない。公の美術館が公の思想を表現する場になれば、それはまさにナチス美術プロパガンダと同じ事になる。

 人間が多様な価値観を示す場が美術館である。そこでは価値が確定していない、疑問や反発を招く作品も展示すべきなのだ。そうして、未来に対して、今は価値として見ることができない何ものかを、芸術作品として予知し、切り開くことは芸術の一つの役割である。

 近代絵画が切り開いた人間の精神の自由の表現は、時代を導いたともいえる。写真のようにしかものを見ることができない人間に、物の新しい見方を提示したのだ。人間は自由に、ものは見たいように、自分の目で見ていいという事である。

 写真のように万人の共通の見方を良しとする人もいれば、自分の心に迫ってくる何ものかを見ようとする人間もいる。そいう自由な、しかもその人の個性による見方の違い。こういう自分というものが大切なんだという事を示したものが近代絵画である。時代が逆行して、またぞろ写真のようにしか見ることのできない作品が、商品絵画となってきている。

 近代絵画も拒絶された時代がある。写真のように見えないで、ゴッホのようにしか見えないとすれば、狂人であると思われ、無視された。しかし、美術という世界では、その価値を見出し世の中に示した人もいてくれた。おかげで私たちは眼を開かれ、その新しい価値を見ることが出来る。

 人間存在の自由というものが美術によってずいぶんと教えられたと言えるのだろう。表現というものは今の自分の物の考え方と違っているから、と言ってそこで拒絶すれば、大事なものを学ぶ機会を失う可能性もある。

 美術監督、学芸員、美術評論家。そうした人は社会にとって何が有用かを研究し、方向を指し示す人でなければならない。現代社会はそこが一番失われている。名古屋市長の様な芸術の意味に全く理解のない人も政治家には実に多い。大衆に迎合し、選挙に有利であればそれで良しという考えの程度の政治家が、芸術に口を出すようになれば、芸術は衛生無害なものになり衰退する。

 そうした、世間の見方の浅薄さに対して、芸術の価値や意味を分かりやすく、主張するの人が美術館の権威として存在しなければならない。ところが、現代のほとんどの公的美術館の関係者は時の政権を忖度する程度の、姿勢しかない人たちで出来ている。ここは本当に情けないことである。

 そのために、芸術が衰退したともいえる。本来芸術はそうした美術を取り巻く人たちが、防波堤になり、耕し育てるものである。現代の美術評論家という人のそうした未来志向の芸術論は、ほとんど目にすることがない。あるのは商品絵画のちょうちん持ち程度である。ネットにおいても見当たらないのが現状である。

 今回の、表現の不自由展の作品は問題点が存在した。一つは展示の前提として、心を傷つける人に対しての配慮がなかった。もう一つは表現者自身に傷つく人への思いが浅かった。その為に芸術作品としての力が弱かった。

 表現よって誰かを傷つけることは展示の配慮さえあれば構わないが、傷つける意味に対して、表現者としての認識が深くなければ作品とは言えない。批判すべき相手を攻撃する手段としてだけでは作品とは言えない。

 従軍慰安婦を意味する少女像が、人間というもののやりきれない思いまで、表現している芸術作品になっていないから、力がない。それは却って従軍慰安婦運動の意味まで示してしまっているのではないか。

 この像が作品として、抑圧強制される人間というものの意味まで、表現されているかが問題ではないだろうか。そんなことはどうでもよいという事になれば、傷つけられると思う人が、展示すべきではないいう意見が支持されることになる。

 この像の展示によって、制作者の意図とは逆効果が起こるに過ぎない。現状はそんな状況だと思う。少女像に説得力がない。これが、デモ行進の看板であれば、そんなものであろうが、芸術作品として美術館に飾られた場合、そうした本質の評価の目にさらされることになる。

 
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小田原で年間100頭のイノシシと鹿を仕留める人がいる。

2019-11-24 04:46:38 | 地域


 小田原に戻り、穂田さんという荻窪の方に家の工事をお願いした。穂田さんはあしがら農の会の顧問の方で、農の会にとっては恩人である。全国どこの地域でも地元の方で、私たちの様なよそから来た人間を受け入れ、助けてくれる方がいるのだと思う。

 工事の打ち合わせで話していたら、この一年間で100頭の鹿とイノシシを捕まえて処理したというのだ。あしがら農の会のもう一人の恩人であり、顧問である石綿さんもイノシシ猟ではだいぶ前から活動されていた。

 お二人がいなければ今の農の会はない。あしがら農の会に集まる、新規就農者を助けてくれたと、あらためて感謝の気持ちである。害獣駆除をして、農業を守りたいという思いと、他所から来た新規就農者を支援する気持ちは、地域を守る気持ちで繋がっている。

 地域にははっきりと新規就農者を毛嫌いし、排斥する人がいる。舟原で暮らして15年自治会長までさせてもらっても、はっきりと別扱いをする人がいる。もしお二人のような地域の方で、応援してくれる人がいなければ、農の会は成長できなかったと思う。これは小田原の特殊かもしれないが、他のことは正直分からない。

 危機は迫っている。30年前に山北に入植したときに考えた通りに農業者の置かれた状況は進んでいる。平均年齢が、私の年と同じにずーと移行しているのだ。私が60の時は農業者の平均年齢が60歳。70になれば70歳である。こんな産業が継続できるわけがない。

 一次産業の衰退した国は、そこで終わりである。日本の社会は余裕のない社会だから、明日の暮らしに追われて、100年先を見れなくなっている。一次産業の失われた、その後にある国は日本ではない。日本は瑞穂の国なのだ。その点では安倍氏と同じ考えである。

 穂田さんはおだわらイノシカネットの代表である。仕事をしていても罠にかかったイノシシがいれば、電話を受けて飛んでゆく。全くのボランティアであるが、仕事のつもりでやられている。もちろん穂田さん一人でやっているわけではないが、かなりの部分は穂田さんが支えている。

 1頭のイノシシが罠にかかれば、一日その処理にかかる。もし肉にできる状況がなければ、埋めなければならない。埋める場所も必要である。運ぶこともしなければならない。運んで焼却出来るわけでもないらしい。

 もし穂田さんが100頭のイノ鹿を捕まえなければ、間違いなく数倍に増えているだろう。100頭捕まえてくれているが、それでも私の家周辺の出没の状況は以前よりもひどい事になっている。田んぼにも畑にも出没している。

 罠免許を取り、協力したいと思い活動したことはあった。しかし、私が仕掛けた罠のことで、警察が私の家に来た。地域の人が警察に電話をしたのだ。それ以来もうわなを仕掛けるのはこりごりでやめた。地域の為と思い努力しても、よそ者がよけいなことをしてと、腹を立てる人がいたのだ。

 穂田さんも、石綿さんも何百年も小田原に暮らしてきた方である。それもあってイノ鹿猟をしてもトラブルにならないのだと思う。猟友会との関係というものがあるらしい。猟友会は銃を使いイノ鹿猟を趣味としている方々の集まりである。

 もちろん猟友会は害獣駆除の協力もしてくれている。とくに、罠にかかったイノシシを仕留めるのは猟友会の方だ。例えばくくり罠があると放した犬が罠にかかることがあるので困るという。その実態は分からないが、くくり罠禁止という地域がある。小田原も以前はそうだった。

 小田原の猟友会も老齢化していると言われている。なかなか害獣駆除が徹底的に出来るほど活動は盛んではないのだろう。イノシシ算や、しか算で増えている。穂田さんや石綿さんの頑張りでもイノシシの増加に追いつかない。

 やはり、若い人が経済的に可能な形で、参加できる道が作られなければ、獣に人間が負けるという事になりかねない。方向はジビエ料理だろう。持って行けば、買い取ってくれるところを作る必要がある。

 先日の小田原農業まつりではイノシシソーセージが売られていた。農の会の一人が作ったものである。こういう事業が営業ペースで可能にならなければ、若い人が猟に取り組むことなど不可能である。どうすれば営業ペースにのるかは、行政も企業も考える必要があることではないだろうか。

 一つは解体施設の経営が可能になること。解体業が各地で営業できるようになれば、そこまで運べば買い取ってもらえるようになる。そうなれば、かなり楽になる。ここには企業や行政の協力が不可欠だろう。

 丹沢の寄(やどろぎ)にはそういう場所があるらしい。持って行くと肉をいくらか持ち帰れるらしい。今回のソーセージはそこで解体した肉だそうだ。しかし、その程度では到底猟を行う事が正業になるほどの経費は出ない。ソーセージも赤字に違いない。

 持って行けば、数万円で買い取ってもらえるという状態が出来なければ無理だろう。その為には販売ルートの確立である。大手の流通業者はここは協力をしてもいいのではないだろうか。かならず、新規商品に繋がるはずだ。

 穂田さんや石綿さんのような人が、頑張ってくれている間に何とか若い猟師が生活できる基盤を作り出してもらいたいものだ。そうしなければ、小田原の農業は終わりになる。もうギリギリの所だ。
 

 
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教育の抜本改革がなければ日本は終わる。

2019-11-23 04:56:25 | Peace Cafe


憲法第二十六条すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。 

 教育の抜本改革がなければ日本は沈没するだろう。このままの貧弱な教育制度を続ければ、日本人は劣化するだろう。すでに、その兆候は顕著化し、アジアにおいても後進国になりつつある。ジャパンアズナンバーワンは、過去の過去の話である。

 現在の日本の教育は身の丈に応じて行う事になっている。それで何が悪いのだというのが、安倍政権であり、萩生田文科大臣である。だからアベの側近中の側近とされる萩生田文部大臣は罷免されない。本音では間違った発言をしたとは考えていないから、辞めない。それが上級国民共通考え方なのだろう。

 これは格差社会を前提とした発言なのだ。裕福で有能な人が評価される社会がアベ政権の目指す社会だ。そうでなければ国際競争力で後れを取ると考えている。これは、日本の戦後社会の求めた、機会均等とか、誰でも努力すれば自分のやりたいことが出来るという理想社会の追及を止めたという事だろう。

 安倍氏も萩生田氏も身の丈に従う社会を目指している。そのように社会を変えようとしている二人である。実際にアベ政権になってから、日本の教育費はOECD加盟国最低になってしった。そして日本は競争力ナンバーワンから、30番に転げ落ちたのだ。こんな事態でアベノミクスは成功と言っているのはどうかしている。

 貧しい家庭に生まれても、総理大臣にも成れるという社会。これは戦後の日本にはあったことだ。今では裕福なところのお坊ちゃんでなければ総理大臣にはなれない社会になったのだ。そしてその社会をさらに先鋭化しようというのが、アベ政権だ。

 萩生田氏が止めさせられないで、英語のテスト方式の方が止めになった。萩生田氏が安倍操り人形一座の演出グループの一人だからである。二人羽織政権とも言われているが、後ろにいる方が多いいので、操り人形一座という方が比喩としては的を得ている。

 桜を見る会の安倍氏後援会関係者1000人参加に自民党内部からひと言の批判もない。同じ穴のムジナたち。よほどアベ氏の背景には恐ろしい見えない力が存在している。桜を見る会が安倍後援会祭りになっていたのだ。水彩人ではそのころ新宿御苑で写生会を企画してかち合って、入れてもらえなかった。関係ないか。

 教育は国家100年の大計である。日本は資源もない。国土も山ばかり。災害は頻繁に来る厳しい条件の国である。ここで国作りをするためには教育以外にない。どれほど貧しくとも意欲があれば、教育を受けられる条件が、どこの国より必要な日本国だ。

 江戸時代の日本の教育水準は世界でもトップクラスだった。庶民も寺子屋で読み書きそろばんを勉強した。識字率もトップと推測されている。教育を尊いものとする国柄だったのだ。

 戦前は軍国主義の悪い国ではあったが、この点だけは道が開かれていた。優秀な人材をどの階層からでも探そうとしていたのだ。貧困家庭から、優秀というので無償で高等教育まで受けられる制度があり、人材が発掘された。

 教育の無償化が良いとは全く思わない。努力すれば、教育が受けられる範囲が良いのだと思う。例えば格安な学生寮の完備。私の頃にはこれがあった。地方の人間には不可欠なものだ。自宅から通えない人間には必要なものだ。

 教育の実費も現状では高くて困るが、これは奨学金などでかなり克服できる。しかし、生活費の方はさらに費用がかさむ。同じ日本人でも都会に自宅のある人間が優遇されていることになる。教育の地方格差は深刻なものがある。

 地方の若者が、都会で教育を受け、都会で暮らすようになる。それが地方の疲弊に繋がっている。結局は都会で就職して故郷に戻らないのだ。教育機関の地方分散も積極的にやらなければならない。東京ではなく金沢大学に行けたことを感謝している。金沢で良い友人と出会えたことで、上級国民を目指さない自分になれたとおもっている。

 国立大学の学費値上げ、学生寮の値上げは私たちの頃に始まった。その為のストライキなどした。しかし、結局のところ国立大学も私学と同じに、自力で行ける場所ではなくなってしまった。

 教育も受益者負担と言われた。大学教育も受ける人が恩恵を受けるのだから、その分を自分で負担するのが当たり前だというのだ。これは間違た考え方だ。学問は自分の為に行うものではない。社会の為に学ぶものだ。

 個人の利益のために教育があると考える社会に方向が変わった。それが身の丈発言に繋がっている。自分の為だけでは力が出ないのが人間だと私は考えてきた。人のためにという事があるから、人間は頑張ることが出来る。ノーベル賞を取られるような学者の方は皆さんそう言われる。

 自分さえ良ければ、社会全体のことなど関係ない。金儲けの何が悪いのだ。これを推し進めているのが今の教育の方向である。この方向では当然受益者負担という事になってしまう。こんな方向のままでは日本の様な条件の国は成り立たない。

 能力のある人はアメリカの方が給与が高いのであれば、日本から出てゆくことになる。利益を出すためには、日本という枠が邪魔になるという企業の登場である。このままでは日本という国は、空洞化し疲弊してゆくに違いない。

 教育は自分の為だけではない。自分が学び成長したことを社会に還元してゆく。そのことが教育の目的だ。それが自分の喜びでもある。そう考えれば、教育は受益者負担ではなく、社会が負担するという事が当然ではないか。教育は自分の金儲けの為ではない。

 日本は50年前に教育の方向を間違えたのだ。大学闘争は失敗に終わった。そのドドのつまりがアベ政権の登場だ。身の丈に応じて教育は行われるのが当たり前であるという考えだ。本音としては教育の機会均等の憲法を変えたいのだろう。もういい加減、憲法のでたらめ解釈は止めて欲しい。


 
 
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桜を見る会で「サクラチル」アベ政権

2019-11-22 04:32:59 | Peace Cafe


 桜を見る会は自民党主催ではなかったらしい。税金を使って、与党議員の後援会祭りがおこなわれていたという事だ。公明議員も行くのかな。安倍後援会に至っては、ニュー大谷で接待まで受けていたのだ。自腹だとは言うけれど。世耕参院幹事長によると議員は4ペアー枠だそうだ。安倍氏の1000はさすがに親分だ。昭恵夫人枠まである。日本のアベ王朝はじつに気分が悪い。

 事実がどうだこうだいう必要もない。日本の社会の悪弊がここに極まっただけのことだ。みんなこんなことは当たり前に知っている。芸能人は人寄せパンダ役を喜んでやっていた。それが忖度政治である。そしてNHKは公共放送を名乗りながら、桜を見る会をありがたげに放映していた。

 桜は散った。ずいぶん咲き続けていたが、さすがに散った。アベ政権はこれで終わりだろう。せめて散り際位潔いのが、日本主義者の習わしだろう。支持する人は安倍利権関係者なのだろうか。あるいは呼ばれた芸能人に興味があるのか。報道は問題にしたことはあったのか。

 アベ政権は過去最長の政権だそうだ。何故そんな馬鹿なことになったのかと言えば、国民から支持されているからだ。3分の1の国民はアベ政権が良いと言っている。その思いが、ずいぶんと長く続いているのだ。この不思議の理由を解き明かさなければならない。

 安倍政権は憲法を変えて、端的に言えば明治日本に戻るべきだとう方向の政権である。3分の1の投票をする有権者が支持している。投票率を考えると日本人の内の10人に2人くらいの人が、明治日本の方が良いという人なのだろう。それはまさか昔はよかったという事ではないだろう。

 確かに何でも保守という感じの人にそれくらいは出会う。その比率は5人に1人という位の感じで大きくは間違いない。その5人に一人の強い支持者によって、5人の内4人の考えが、尊重されない国会と選挙の仕組みになっている。

 その5人に一人の考え方は明治日本の再現である。細かく言えば様々なのであろうが、軍事力を持って国を守らなければ、国防はあり得ない。という考え方なのだろう。中国や北朝鮮と同じなのだから、世界では一般的な考え方という事もたしかに出来る。

 そういう人と議論する機会はあるが、互いに議論にはならない。残念なことに、互いの信念のようなもので、相手の話を聞くという事は私にもないし相手にもない。相手を軽んじ、馬鹿にし合うだけの不幸である。

 こうした凝り固まった明治日本主義者が5人に1人くらいはいて、その思いは強烈で生き方にまでなっている。教育が身の丈で何が悪いんだ。それが当たり前だというのが本音の人たちだと思う。優秀であれば、身の丈の壁など乗り越えられるのだ。こう確信しているのだろう。

 私のように、憲法の平和主義は守らなければならない。こういう考えの人のほうがいくらか多い実感がある。多数派ではあるが、漠然とであり、ボアーとした感じでしかない多数派である。凝り固まるようなタイプではない訳だ。

 平和主義者の多くが、群れになることが嫌いである自由主義者ともいえる。しかも平和主義と言うものは、過去に例のない未来の目標である。日本国憲法は理想を示しているに過ぎない。だから現実離れしている。その為に、ますます多様であり、曖昧になる。

 数は多いいが実に多様という事になる。そうなると平和の党と自称する公明党が、何故か明治日本を目指すアベ政権の与党に加わるというような、妙なことでも言い訳が出来るようなことになる。まあ、おかしないいわけではあるとは思うが。

 この頼りない、平和主義は方向性としてはあるのだが、明確な旗印にはなっていない。専守防衛の意味の研究が足りないのだと考えている。武力が様変わりしている中での戦争の意味が考えられていない。

 一方でこの明治日本主義は既得権益と結びついている。アベ政権になり、企業はずいぶんと内部留保を増やしたと言われている。企業優先なのだ。企業を強くして世界との経済競争に勝とうという事がある。

 それは中国の様な国家一団となり世界競争をしている国と競争するためには必要なことと考えられているのだろう。急速に成長している国はどこも国と企業が連携をしている。

 安倍支持者は世の中そんなものだ。文句を言う奴は恩恵を受けられないからだと思っていることだろう。野党が政権とれば、野党が桜を見る会をやり同じようなことをやると考えている。その通りだと思う。鳩山枠があったと騒いでいる。だから、野党もだめなのだ。

 世の中清濁併せ呑むということで、桜を見る会を今更何んで騒ぐのだ。たぶん日本人の半分くらいはそういう考えではないか。この曖昧であるが、大きな見えない力のようなものが、日本の方向を決めているのではないだろうか。

 世の中小学校の学級会のような正義を主張していれば、成り立つ訳ないという気分だ。大人になれば、そのくらい黙って飲み込むものだ。こういう理屈にもならないものが、忖度社会なのだろう。忖度の背景にある利益誘導。

 アベ政権はこの日本人の良さでもある曖昧さを巧みに誘導している。桜を見る会を麗々しく放映していたNHK。そうした世間のあいまいな寛容さに付け込んだのが、アベ政権だ。桜の会ぐらいなんだ。つべこべ言うなという先に、実は明治帝国日本がある。

 桜の会に間違っても呼ばれない下層国民と、桜の会で芸能人と写真を取れる上級国民と、産まれながら存在する階級社会を作ろうというである。その先駆けがアベ政権である。他のことはともかく、この点でアベ政権を許してはならない。

 日本人の最も弱いところを、巧みに操作しているのがアベ政権の演出家集団だ。桜の会では順番に並んで、安倍ご夫妻と写真が撮れるらしい。これもありがたい演出なのだろう。マスコットのぬいぐるみも、芸能人も、総理大臣もパンダであることは同じである。

 テレビでは女優の麻薬騒ぎばかり報道している。テレビは桜を見る会を取り上げることが怖いのだ。わざわざ女優麻薬事件をぶつけたという想像は出来る。いずれにしてもテレビは桜を見る会をスルー出来ることになった。

 アベ演出集団の最後のあがきだろう。何とか矛先を変えほとぼりを冷まそうという事だ。NHKは今こそ公共放送の意味を示してもらいたい。
 

 


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副業の奨励

2019-11-21 04:46:51 | 暮らし


 厚生労働省は、2017年10月より「柔軟な働き方に関する検討会」を開催し、12月には「副業・兼業の促進に関するガイドライン(案)」を提示した。これは、「モデル就業規則」(就業規則を作るときの参考となるもの)において、原則禁止とされている「副業・兼業」のメリットや留意点を示したものと言うことだそうだ。

 こんな記事があった。意味が分からないところもあるのだが、政府が副業を推進しているらしい。すでに、副業を奨励している企業も登場している事例なども記載されていた。。企業というものも私の考えているような一辺倒なものでもなくなってきているらしい。多分一部の会社ではという範囲なのだろうが。

 副業などしていたら、本業の方に迷惑がかかりそうなものだと考えてしまうが、古い考えなのだろう。家でやるアルバイトの方に力が入り、本来のおつとめの方がおろそかになる。本業の手抜きが起こりそうだが、大丈夫ということなのか。確か公務員は副業禁止ではなかったか。

 そもそも、全身全霊で仕事をやるというような当たり前なことが、ブラック企業などといわれ少し違っているのだろうか。あるいは仕事で力を出すためには、他のことも経験した方がいいということを、企業が理解してきたということなのだろうか。

 想像するに、企業は働き方改革で長時間労働や、残業が禁止される。一方で給与の値上がりもあまり期待できない状況が生まれている。空いた時間家で副業をしてもらえないか。家でのアルバイトを認めるから、給与は少し我慢してよ。という感じもするが、どうなのだろうか。

 収入不足を副業で補えでは、結局働き方改悪になるのではないか。これは不思議な考え方である。アルバイトと本業で、24時間働けますか。リゲイン、リゲインということにまたなるのでは無いか。そんなことは無いか。

 考えてみれば、週休2日の残業禁止となれば、かなりの時間が余裕でアルバイトに当てられる。この時間に、自給農業をやれるということになるかもしれない。もしこれが本当のことなら、これぞ働き方改革である。自給農業を達成すれば、自立心のある人間に変わる。これは企業にも有益なことになるだろう。

 週一日を完全な農業日にすれば、食料の自給は達成できるはずである。副業の農業なら、経営も上手くゆく。まさか、私の構想に厚労省が配慮くれたわけでは無いだろう。当たり前の勤め人が、家に帰れば農業者ということになり得る時代がまた来るかもしれない。

 そもそも企業が、副業を奨励する背景には自立した人間の、自由な発想が企業にも役立つという考えに基づくはずである。企業べったりの人間では次の時代を切り開く、新鮮な発想を持てないというのはとうぜんのことだ。言われたことをこなしていればいいという時代では無くなる。

   副業が許可されると、離職率が下がるらしい。離職しないで務めてくれるなら、副業を許した方が望ましいというのが、企業としての現実の選択として生まれている。止めたくなる気分が、副業ができるということで大分抑えられるらしい。これはわたしにも分かる。

  副業をする人が増えるような社会になれば、かなりいいと思う。会社一辺倒の生き方より魅力があると思う。副業をすることで会社の仕事にも役立つとするならばなおさらよいことだ。人間の生き方の自由度が上がるということが何よりである。

 絵を描くと言うことなど、まさに副業でいい。水彩人にもある企業の社長という人が居る。すごい忙しいらしい。部下の方の話ではいつ絵を描いているのか信じられないと言われていた。この社長の方は、絵を描くと言うことで、きっと会社の社長業にも良い影響があるのでは無いだろうか。

 食べ物を自給するというのは目的では無い。食べ物を作ることが、生きるための基本条件である。そこを確立することで、人間として自立できるのだと思う。私の場合、絵を描いてもいいよ、という安心立命はそこにあった。

 競争に勝たなくともいい。自分というものを極めればそれでいい。そのような生き方を見つけることができたのは、まさに自給生活であった。自分というものが、食べ物でできているということが、自給生活で分かった。そこが自覚できたら、いつの間にか他人は関係なくなっていた。商品絵画から離れることができた。

 私の場合、絵を描くという正業と生き様があり。副業としての自給生活があった。40歳からの30年間そういう生活を送ることができたのは良かった。今は自給生活も完全では無くなったが、続けられる範囲でこれからも続けたいと思っている。

 社会全体に正業と副業という形が許されるようになるのなら、是非とも食糧自給を試みて貰いたい。最初はベランダでトマトひとつ作るところからでいいと思う。食糧自給はそれほど難しいことでは無い。

 植物を育て、実りを頂く。このことはペットを飼うという事に似ているが、違うところもある。犬と暮らすことは学ぶことだった。イネを育てることは、自分の生命というものを見つけることになった気がする。

 是非とも副業で、小さな田んぼのイネ作りを試みてもらいたいものだ。

  
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首里城再建は集積材がいい。

2019-11-20 04:31:44 | 石垣島


 首里城の火災消失はやはり、沖縄と小田原では温度差がある。沖縄では象徴を失った喪失感が漂っていた。それはテレビや新聞の影響なのだろう。報道の社会に与えている影響を感じる所だ。

 首里城の再建のための材木、瓦、漆などの資材が問題になっている。檜の無垢にこだわる必要など全くない。瓦も焼け跡からできるだけ集めるべきだ。そして、使えるものはできる限り使うべきだろう。燃えた記憶として、使えるものは一部に使う事も意味あることだ。

 檜でなく、たくさんある材料で十分である。前回台湾の好意で特別に台湾檜を提供してくれたという。現状台湾では伐採が禁止されている。台湾でも大きな檜はもうないらしい。そういう貴重な自然を破壊してまで、作る意味はない。

 本来はイヌ槙で作っていたらしい。しかしそんな大きなものがあるはずもない。最初に建造されたときは沖縄にある樹木で作ったという事だろう。大径木であれば何でも使ったはずだ。檜へのこだわりなどあるはずもない。

 どうも日本人の中に、木造建築と言うと檜信仰があるように思われる。伝統工法が過去の復元に偏っていないか。本来の伝統とはその時代にあるものを上手く使えばいいはずである。復元だけになれば、未来がない。極端に言えば、集積材でかまわないと考える。

 材木でも、瓦粘土でも資源は有限である。自然破壊をして平和の城を作るなど論外である。さすがに、鉄筋コンクリート造りでは味気ないが、集成材ぐらいまでならかまわないと思う。ここはぜひ議論をしてもらいたいところだ。

 あえて首里城再建では集積材を使う事で、今後の自然環境保護と伝統建築との調和を模索したらどうだろうか。こだわりは原理主義に陥る。その時代その時代の合理性を求めればいいのではないだろうか。

 今時、ヒノキの柱でなければならないは成金趣味である。そういう見栄のような要素は極力排除した方がいい。杉ならあるのであれば、杉でいいではないか。しかし、それも太い杉が植林としてあればのことである。今や、大木は切らないで残してゆくべきものになっている。

 成金趣味が、大切な神社の大木に穴を空けて、除草剤を注入し枯らしてしまうような犯罪を誘発している。枯れれば材として出すしかないからである。

 南足柄にも大雄山の大杉の林がある。これを切れば、使えるだろう。しかし、切ってはならない。今や残すべき文化財としての価値がある。それは屋久杉でもそうだろう。経済林として、存在する物であれば、それは切るべきである。そうでないのであれば、守るべきものになっているのではないか。

 林業が成立する形があり、そこから大径木が出荷される。自然破壊をしてまで、作る文化財の修復は良くない。それでは平和の城の意味が危うくなる。

 首里城にふさわしい再建は集積材だと思う。どのみち、無垢材をむき出しで使う訳でもない。完全漆塗りである。首里城の平和の城としての意味合いには、集積材の方がふさわしいはずである。どうだろうか。ぜひ議論してもらいたい。

 首里城の再建には赤瓦の問題もあるらしい。赤瓦の生産者がこの間減ってしまったらしい。赤瓦の家が無くなってきているのだから当然のことだろう。粘土はまだある。赤瓦の製造はそれほど難しい技術ではないはずだ。本土の瓦職人も減少しているとはいえ、まだかなり存在する。こういう人に来てもらえば、すぐに生産できるはずだ。この機会に沖縄の赤瓦の製造技術を一般化しておくことも意味があるだろう。

 漆も日本にはないらしい。これも前回も中国からの輸入らしいが、今回も輸入すればあるのだから、これを充てるほかないだろう。漆の植林の方を考えなければ、これも後がつづかない。日本の経済が、目先のことに追われて長期的なものは消えてしまった。中国には何故残っているのか。中国を軽んずるばかりで、実像を見ていない。

 私としては、あの色がどうも違う印象を受けていた。研究して再現したというが、少し橙色に偏っているように見受けた。記憶だけのことだからこの点は何とも言えないが、もう少し朱色を強くすべきではないか。

 どのみち漆は変色してゆく。ペンキにしろとはさすがに言わないが、色に関してはもう少し朱色を強くすべきではないかと思った。その方が美しいという感覚である。沖縄の漆の色があの色という事なのかもしれないが、沖縄の青空に生える色と言うともう少し違うかと思えた。

 再建に際して、平和の城としての機能をさらに高めるべきだ。礼樂の側面である。外交使節を迎える場であった。明治政府の赤坂の迎賓館や鹿鳴館のような側面である。首里王朝が優れた文化国家であることを示す場であったのだろう。

 燃えてしまった首里城でも同様の機能はあったのだが、この側面をもう少し演出してもいいのではないだろうか。観光という側面からも、外交使節歓迎レセプションの定期上演が出来るようにする。毎日1時には行われるという位にしていい気がする。ロンドンの衛兵交代が観光名物になっているような意味がある。

 首里城のもう一つの機能は平安と豊作と豊漁の祈りの場である。御嶽としての祈りの場である。神の島、久高島が見える方角に祈りの場があった。久高島の司と首里王朝の司は大切なものだったのだろう。

 沖縄全体で御嶽が危機的状況にある。踏み入ってはならない神聖な場であるが、同時に維持するためにはその信仰も存在しなければならない。しかし、そうした信仰は徐々に薄れてきている。どういう形で、御嶽を残すか、この一つの事例を首里城で示してもらう事は出来ないものであろうか。

 沖縄の神の在り方、神との関係は日本人の原点を残している。古い時代の日本人の信仰の原型があるのだと思う。御嶽は何もない場らしい。火を燃やす場所があるくらいらしい。神と交信するためには、何か宿る社のようなものはいらない。形を必要とするという事がすでに、形骸化しているという事なのだろう。

 沖縄は日本のスイスになる。その為には観光が重要な柱になるだろう。スイスが様々な国際会議の舞台になってきたように、沖縄がアジアの交流拠点になればいい。平和の島沖縄の為の首里城である。
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小田原の農業生活にもどる

2019-11-19 04:21:30 | 暮らし
 

  18日に土壌の勉強会があった。MOAの大仁農場の方が、来てくれて実施方法など指導してくれた。今まで考えていたやり方と少し違っていた。土壌採種は上の層は15センチまで、下の層は15~30㎝の層という話だった。50㎝までを下の層とどこかで教わったような。

 畑の5か所を掘るという意味は自分が畑の中の状態を直接見るという事に意味があるという事を教えられた。これは参考になった。穴を掘ったらば側面を観察する。根がある所が作土層になるそうだ。10メートルぐらいの距離で、土壌の堅さがまるで違うので、これには驚いた。

 たぶん、昔の地形では起伏があって、それを平らにしたのではないかと想像した。以前の養鶏場前の畑の経験で、起伏を直した影響がいつまでも残った畑があった。高かった場所が硬い層がすぐ下にあり、いつまでも残っていた。トラックターで耕せない深さの下の層が草の根などで柔らかくなるためには、10年というような年月がかかるのかと思う。
 
 15日から小田原の暮らしになる。今回の小田原でも予定が詰まっている。連日の作業になると思われるが、精一杯やらせて貰おうと思う。農の会の自給祭までの一ヶ月の小田原滞在である。

  1,ため池の水路の工事がある。久野川から、ため池の方に水を入れる工事である。まず、15日朝に、穂田さんと設計図を作り、役所と資材などで打ち合わせる。役所との連携がどうもうまく進まない。役所も忙しすぎる。

 18日の昼から、現場で役所の方と進め方を相談する。ため池の上半分に水が溜まらなくなっているのをどのように直すかを検討した。小田原市が管理の方向を決めるわけではないので、管理委託された里地里山協議会が方針を考えるほかないのが現状である。良いとは思わないが、そうしなければ進まない。

 工事の概要をきめて、地域の関係者に挨拶に行かなければならない。了解が得られた段階で工事に着工する。これは関係者の所の周知には役所で動いてもらわなければならない。

 2,大豆の収穫から、分別の作業がある。23日が収穫の予定日。三国上の畑が早すぎれば、翌週の30日になる。いずれにしても収穫して、乾燥して、分別して、12月14日の自給祭までに豆腐を作ることになる。

 新しい大豆畑の準備をする。舟原田んぼの上の1反。22日にまず草刈りをする。その後畑の脇まで車が入れるようにする。これは溜池工事に合わせるから、少し先になるが、11月中には終わらせたい。

 耕運して、タマネギ畑にするのかどうか。この辺の判断であとの作業が変わってくる。そのまま大豆まで空けておくのかどうか。その場合、緑肥ぐらいは撒いた方が良いのかもしれない。

 3、久野川の崩壊箇所の直し工事。久野川は欠ノ上で2か所。子ノ上で一か所河岸の石積みが崩れている。また水路の入水口に砂利が1mもの高さで溜まって埋まっている。到底手作業でどけられる状態ではない。

 災害復旧工事として、管理者である市か、県か、やってもらわなければならない。来年の3月までにやらなければ、田んぼが危険この上ない。田んぼの耕作もできない。行政はあの大雨の後、河岸の点検をしていないのだろうか。

 18日に交渉をした結果、確認はしてくれているらしいが、一か所は見落としている可能性があった。県土木の人が21日午前中に現場を見に来てくれることになった。

 以前は、片側工事の所は市が担当。両側工事がある所は県の管轄となっていたが、今回は工作物があれば県が担当する。自然護岸の所は市が担当という事になったそうだ。この決めたことは覚書にでもする必要があるだろう。

 3,小田原の家 裏の崖石積み補強工事。このところの豪雨を思うと、補強工事をしなければ不安だ。15日の朝にこちらの工事を開始した。渡部さんと穂田さんがやってくれている。有難いことだ。

 20日にコンクリート打ち。次に立上げ部分の工事になる。崖の上の部分も渡部さんが土をすべて取り去ってくれた。これは相当に大変だったと思う。私も少しはやったことがあったが、出来ないで挫折した。竹の根が覆っていて、簡単なことではなかったと思う。

 4,16日には欠ノ上田んぼのご苦労さん会。朝からクン炭作り。緑肥蒔き。芋煮会。会費の払い。夜には定例会があった。燻炭づくりは翌朝8時に広げる。水をかける用意をしていたが、何故か広げたら火が消えそうである。

 いつもは広げてから水をかけていたのだが、地面がかなり濡れているので、その水分が影響するせいか。自然に消えそうである。来年は燻炭煙突を新しく購入する必要アリ。

 しかしやはり消えなかった。もう一度さらに広げた。さらに燃え出し、また広げた。そして、19日の雨でさすがに消えただろう。今日の午後にでも袋詰めをする。


 5,12月1日坊所林道掃除。 8時半森林組合集合。

 6、タマネギの植え付けを行う。天候のえいきょうがあり、生育が遅れている。苗づくの場所の土壌があまりよくなかったのかもしれない。畑の住みはどこからの土が持ち込まれていた。植え付けは12月に入ってからになりそうだ。

 場所は諏訪の原圃場でやるのか。舟原田んぼ上の大豆圃場でやるのか。検討しなければならない。もし舟原の下田さんからお借りする場所でやるのであれば、11月中に畑の準備は終わらせる。

 7、小麦は23日に総生寺裏の大豆畑の作業が終わり次第。耕運する。24日になる。すぐソバカスを30袋以上撒いて、その後トラックターで耕す。そしてゴンベイで播種。また、カラスムギが出るから、そのことを注意する。

 小麦はメンバーは現在6人は居るようだ。この後自給祭で募集する。さらに増えれば上手く進むかもしれない。金子製麺は30キロ2700円で製粉してくれるそうである。精粉の手際もだいぶ良くなったらしい。

 

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日米軍事同盟を対等なものにしたいという意見。

2019-11-18 04:13:22 | Peace Cafe


 長島昭久自民党衆議院議員が、日韓関係の解決策を書いている。記憶では以前は、野党議員で最近自民党に入党した人。自分の考えを表明することが自民党議員は少ないから、興味深く読ませてもらった。

第一に、GSOMIAについては、日韓関係を超えた東アジアの安全保障の根幹に関わる問題であるとの認識に立って、韓国が米国の勧告を受け入れる形で破棄を撤回する。
 第二に、日本政府は、(韓国側の輸出管理に係る是正措置を見届けた上で)輸出管理強化措置を停止する。
 第三に、韓国政府は、「徴用工」をめぐる大法院判決を重く受け止めつつも、日韓協定をめぐる共通理解に基づきすべての原告に対する補償措置を韓国政府の責任で行うことを表明する(その際に、自発的に日本企業が見舞金を支払うことを日本政府は黙認してもよい)。

 ひとつの考え方ではあるが、韓国の側の視点にかけている。この順番に解決できるのであれば、問題はそもそも無いと言える。この文章に続いて、日米安保の構造改革という文章もあった。

「太平洋地域」においては日米が相互に防衛し合う対等な関係を構築できないものか。そこで、戦後レジームの下に幾重にも施された安全保障をめぐる過剰な縛りを克服し、厳しい安保環境に直面する我が国の平和と安全を確固たるものにするために、第二次安倍政権発足以来、秘密保護法制の制定、国家安全保障局(日本版NSC)の創設、平和安全法制の成立など着実に安保改革が積み重ねられた。そして、その改革の核心こそ集団的自衛権の行使容認なのである。今度は、その土台の上に、日米同盟を「相互防衛体制」に進化させ、名実ともにイコール・パートナーとして、インド太平洋の平和と安定と繁栄の公共財として機能させたいものだ。
 
 確かに考えを明確にする自民党では珍しい国会議員である。国会議員は目標を示すのは基本的なことで当たり前だ。加えて国会議員である以上、そこに至る具体的な方法を示して貰いたい。

 少なくとも憲法を変えるまでは、国会議員は憲法に従わ無ければならない。ということは長島氏が行う、第一段階は憲法を変えることになるのだろう。長島氏はそのことも主張はしている。

 日米同盟を「相互防衛体制」にするということは、安部政権が今主張しているような、9条に自衛隊を明記するということではできない。できないから拡大解釈をかのうにすればいいというのが、安部政権の考え方と思われる。

秘密保護法制の制定、国家安全保障局(日本版NSC)の創設、平和安全法制の成立など着実に安保改革が積み重ねられた。そして、その改革の核心こそ集団的自衛権の行使容認なのである。

 この見方もその通りだと思う。間違いないと言うことは現憲法は踏みにじられているということである。あくまで拡大解釈をつづけて、日米総合防衛体制が目指されているのだ。

 アメリカとランプ政権を同盟に値すると考えてのことだろう。アメリカは変わろうとしている。日本がこのままで良いのかという事になる。アメリカと言う軍事大国と相互防衛ということは、日本の軍事力もアメリカ並にということになるのだろうか。日本も核武装するという考えなのだろうか。

 軍事力の意味が変わり始めている。アメリカの進もうという道は、世界崩壊の道である。もし、日本がアメリカと対等な軍事同盟に進むということは、世界を相手に力の対決をするということになる。これはともにテロに巻き込まれてゆくという道と考えてもいいのではないだろうか。

 全世界がアメリかにひれ伏すはずもない。中国ロシアとの対立はますます目立つことになるだろう。そもそも、アメリカトランプ政権は日本と対等な軍事同盟を結ぶはずもない。アメリカの負担分だけさらに金を出せという事だろう。

 アメリカは一国主義である。経済的の絶対的優位を続けたいと考えている。日本がアメリカにとって経済的に役立つ国である範囲では許すであろうが、中国のようにアメリカを超える可能性が出てきたときには徹底的に対立するであろう。

 そもそもトランプは軍事力から手を引こうとしているのだ。経済優先で行きたいに過ぎないと見ている。
 

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年金はこの先どうなって行くのか。

2019-11-17 05:19:50 | 暮らし


 年金は大改革するか、税金の中で処理するものに変更するのか。何かしなければ、最悪のものになるのだろう。このままで維持できるはずがない。

  年金の未来100年の検証が発表された。一言で言えば、心配無用という分析である。これは大本営が敗北を転進と言い換えたやり方と同じだ。正直に年金の問題点を公開して、国民全体の問題にすべきだろう。なんとか、形だけすり合せて維持できるかのように見せるのは問題の先送りに過ぎない。

 年金未来の背景の条件はアベノミクス経済成長が続けばである。外国人雇用が上手く機能する前提である。地方の社会が消滅しなければである。食料不足に陥っていなければである。老人や女性が働くようになり、労働人口が減らなければである。すべてがうまくゆくとも思えない前提である。

 年金未来100年構想の実現は厳しいと見なければならない。外国人労働者に対して、日本人と同じ社会保障、教育、最低限の生活保障ができるのだろうか。どの分野を考えても、できない可能性の方が高い。できなかった場合どうなるのかの方を、受け手の国民は考えておかなければならない。

 足下がグズグズである。現実社会を見ようとしない検証をしている。結局政府を忖度して、数字あわせをしているに過ぎない。忖度しない報告は受け取らない政府なのだ。根拠の無い検証を基に、100年計画を立てる。誰もがおかしいと気づいたときに、年金は間違いなく崩壊している。

 現状の年金は改革しなければならないものだ。改革のためにはこの先の困難を政府と国民が共有しなければできないだろう。政府が国民を全く信用していないと言うことである。国民は甘い言葉しか聞かないと思っているのだ。選挙が政府を悪くしている。

 誰もが年金に未来はないと考えているから、年金を払わない方が賢いと考える人が増えることだろう。払い込んだだけ返ってこないなら、貯金しておいた方がましである。私が年金を払いだした50年前は払うよりはるかに多くのお金が戻ると思われていた。

 高度成長期というものは物価がどんどん上がるから、1万円収めて、将来10万円以上になると普通に思えた。今は物価も所得も上がらないから、1万円収めて、一万円もらえればまだよいというところだが、若い人にはこれすら危うと、私のような素人は想像している。

 今回高額所得者の老齢年金の一律カットが、3党合意で先送りされた。老齢年金は、働けなくなったため所得が下がったお年寄りのために支給するものという考え方が本来の趣旨とすれば、先送りすべきではないということになる。

 もしこういう考え方が年金に定着すると、高額所得者になる気でいるもの、あるいは高額所得者は、年金をおさめなくなるであろう。高額所得者はそもそも年金を多く収めている。一方低所得者は年金をおさめないでも生活保護レベルのお金はもらえる。だから、低所得である者も年金をおさめない。結局のところ、年金をおさめる人がいなくなる。

 年金を払う人、払わない人の不公平感は強くなる。それくらいであれば、今の年金制度はやめるべきだ。少なくとも年金制度というものは50年前に約束したことを守ることで、50年後を心配させてはならない。

 100年年金安心と政府が主張して、100年後破綻していたら、どのように責任が取れるのであろうか。つまり、50年前の年金制度で約束したことは、守らなければならないのが政府である。それが不公平であろうが、間違えであろうが仕方がない。それが国が作る制度というものではないだろうか。

 ここを崩してしまうと、100年先もでたらめな年金だと国民は考える。結局年金をおさめる人がいなくなり、この制度は破綻する。金持ち老人に年金を払うのは惜しいと思うのであれば、高額所得者の税負担を増せばいいのだ。それが制度の一貫性である。

 国の作る制度に対して一定の信頼度があるから国は成り立つ。後からじゃんけんのようなやり方の年金制度改革は、信頼されないだろう。これでは、貯金にしがみ付く以外ないという老人の選択だ。


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中東外交に利用されるだけの自衛隊で我慢できるのか。

2019-11-16 04:34:06 | Peace Cafe


 自衛隊がホルムズ海峡に独自に行くということである。誰に呼ばれたわけでも無いのに出かけて行くことになる。こういう自衛隊の海外派兵は過去無かった。何を意味するかといえば、日米関係と日イラン関係の危ない調整ということが主目的であろう。自衛隊が外交利用されるという、最悪の手法になる。

 米国が提案する海洋安全保障イニシアティブには参加しない。クルド人を利用し尽くして、見放したアメリカにかかわらない方がいいことは確かだ。しかしそれでは属国としての立場が無いという事になる。

 艦艇派遣や既存の海賊対処部隊の活用の可能性を今後検討する。と言う建前を無理やり作り出し、自衛隊を派遣しようというのだ。活動範囲はオマーン湾、アラビア海北部の公海、バブ・エル・マンデブ海峡東側の公海などで、防衛省設置法に基づく派遣となるとしている。目的は情報収集と調査と言うことしておくらしい。

 実際の情報収集に役立つような派遣では無いのは誰が見ても分かる。自衛隊の艦隊が中東に出かけて、情報収集ができるはずも無い。情報収集ならば、自衛官をスパイとしてこっそり派遣した方がいい。それでは、アメリカに姿勢を示せない無いということに過ぎない。

 アメリカ連合にも参加できない事情がある。と言って何もしないというのでは格好がつかない。そこでこんな意味不明の自衛隊派兵を考え出したのだろう。どうもやることの頭が悪すぎる。誰も喜べない自衛隊の派兵だ。河野太郎氏そんなに頭の悪人とも思えないが、アベ忖度で自分を失ったままである。

 アメリカがこんなことで納得するはずが無い。イランに対しては全く意味不明な行為になるだろう。前回アベ氏のイラン訪問で、日本タンカーにテロ行為があったように、何か攻撃を受けるきっかけになる可能性がある。様々な政治勢力のテロ行為がが渦巻いている地域なのだ。自衛隊が出かけることで、むしろタンカーへの見せしめテロ行為が起こる可能性の方が高い。

 反撃をするわけには行かない調査船がいい攻撃目標になりかねない。アベ氏の仲介外交が何の役にも立たなかったどころか、日本タンカーの機雷攻撃になったのである。よほどしっかりした方針を持たない限り、中東に自衛隊が出向くなど、やってはならないことなのだ。日本は中東の危険地域を甘く見ている気がする。

 アメリカは中東の覇権から手を引き始めている。クルド人のみ捨て方を見ると、充分トルコとは打ち合わせ済みだ。シリアのアサド政権のサリン攻撃などどう考えているのだろうか。

 中東だけで無い。アメリカはアメリカ一国主義に戻ろうとしている。中国との対立を見ても分かるのは、アメリカは経済の損得だけで動いている。アメリカの本音は中東からどう手を引くかだけだろう。日本はもう少し様子を見るというのが、賢いやり方だ。

 イランの核開発の阻止が緊急の課題だ。核を所有しない国同士が、どうやって安全保障を確保するかを模索すべきだ。日本は持たない国連合を作る努力をしなければならない。核所有国が持てるけれども持っていない国に対して、持たせないという論理はすでに破綻している。北朝鮮で分かるとおりだ。

 日本がアメリカの核の笠の下に居るというのはその通りのことだ。しかし、いつまでもこれで良いはずが無い。アメリカは利益がなければ、日米同盟よりも中国を重んずるかもしれない。日本の選択は核を持たない国が連帯することで、核を持つ国に対して、抑止力を作り上げることだ。

 核保有国に対して、非核国連合が要求をする。非核国連合の国は核保有をしては居ないが、核がこれ以上拡散しないためには、非核国の安全を核保有国が保証する体制を構築するほか無いという宣言を行う。

 核保有国による核攻撃が非核国に対して行われた場合、他の核保有国はその攻撃した国に対して、一斉に核攻撃をするという、確約である。この確約ができれば、北朝鮮もイランも核保有する根拠が無くなる。

 日本はアメリカの核の傘のしたに居ることを公言して恥じない、アメリカの属国が自慢なのだ。これではイランにも、北朝鮮にも相手にされるはずも無い。日本国憲法の平和主義に従い、日本は世界平和のために行動を起こす義務がある。中東派兵どころではない。

 国際紛争に対しては平和的手段を用いて解決すると決めたのだ。それならイランに自衛隊を派兵することは、憲法違反であろう。平和的努力をやり尽くしたのであれば、それもやむ得ないともいえるが、アメリカの属国適立場では、平和的外交努力がほとんどできない状況である。

 まず、アメリカの核の傘のしたから抜け出ることである。抜け出ることは怖いことであろう。厳しい世界に一人で立つことになる。それでこそ初めて、非核国連合への道が開ける。

 このまま行けば、世界で核戦争が現実化しかねない状況である。テロはテロを呼ぶだけである。テロ集団がドローン兵器でテロを始めかねない。ドローン兵器に細菌やサリンのようなものが積み込まれていれば、もう防ぎようも無いことになる。

 兵器はIT化している。人類は核爆弾だけでは無い危険にさらされている。抑止力の意味も大きく変化している。力による抑止力だけでは、現代の兵器の革新に追いついていけない。日本の安全保障も考え方を根本から見直さなければならなくなっている。

 中期防衛大綱を読むと、まるで考え方が古びている。ガラパゴス化している。軍事基地で日本の安全保障ができるはずがない。そういう所まで兵器が代わり始めている。囲碁や将棋でAIに全く刃が立たない状況になったのと同じである。

 新しい発想で安全保障を考えない限り、日本の安全は無い。こういうことはEゲームで戦争ごっこをやっている人ならすぐに分かるのでは無いだろうか。たたき上げ精神の日本の自衛隊には不向きな状況になっているのでは無かろうか。

 自衛隊に置いても肉体的軍事訓練よりも、Eゲームの方が有効なのかもしれないのだ。こんなことを言えば、自衛隊の人達を馬鹿にしたようにとられることだろう。しかし、軍事兵器の革新で軍事力というものの意味が、肉体から離れていって居る。これからは無人兵器になる。ゲーマーの方が優秀な自衛官かもしれないのだ。

 ラグビーではニュージーランドがイングランドに戦略研究で負けたと言われている。肉体的に劣るものでも、戦略で勝つことができるのだ。もちろん自衛隊も戦略の研究はおろそかにしているはずも無い。そうであるとすれば、なおさらのこと自衛隊の中東派兵は止めるべきということが、自衛隊内部では話されているのでは無いのだろうか。



 

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