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「全国空き家対策コンソーシアム」

2024-06-19 04:17:00 | 水彩画

 山本丘人作「火山翳光」

 「全国空き家対策コンソーシアム」と言う組織があり、関係17団体で結成したものという。その業務は、相続、定期管理、りホーム、リノベーション、駐車場運用、空き家売却、解体、解体後の土地活用、土地の売却、と言うことらしい。是非成果を上げてほしいものだ。

 この組織がオンラインイベント「すまいの終活フェスティバル」開催をしたらしい。「住まいの終活」の選択肢について、「相続・リフォーム・活用・売却・解体・土地活用など、各分野の専門家が分かりやすく解説します。」「家じまい」に関するお悩みのある方は、ぜひお気軽にご参加ください!  とある。

 最近時々見るように成った「墓じまい」という言葉が気になっていたが、こんどは「家じまい」である。日本の家族制度が終わったと言うことだろう。先祖のお墓を終わりにする。これを出来る民族に日本人も成ったようだ。まあ悪い事ではないわけだが、今度は家を片付けることになったのだ。

 日本の家族制度は崩壊したと言うことになる。それで良かったわけだが、「家」に変るべきものを日本人は得たのだろうか。自分の人生は自分一人のものという、個人主義を確立して、家に縛られない日本人が登場したと言うことであれば、良い方角に進んでいると言える訳だが。

 日本人を縛り付けてきた、家の制度は人間の生き方を限定してきた。父の生き方を見ると、笹村という家を守るという気持ちがどこかにあった。生涯兄弟姉妹そして、親類のの暮らしの面倒まで見続けた。仕方がなくやったというより、それが生きがいだった。

 そんな自分を否定した名前を私に付けた。「出」である。笹村の家から出て欲しいと言う願いを込めて付けた名前だと言っていた。それだけ父は笹村の家に縛られていたと言うことなのだろう。父は自分の進みたかった柳田民俗学の道を家のために折ったという気持ちを生涯抱えていた。

 それくらい明治時代の人には家というものは個人を縛っていたと言える。日本人はカタツムリのように、家を引きずって生きてきた。私にはすでにそういう物はない。自分というものには縛られているわけだが、笹村家などと言うものはもう他人事である。と言っても、私がこうして安穏に暮らしていられるのは、父の御陰である事に変わりは無い。

 父は自分の兄の生涯どころか、兄の子供達の生涯まで、心配して手当てをして死んでいった。いつまでも、絵を描いて居る私に対して、それが続けられるようにと、考えてくれていた。またそういう将来を見通し、手立てをする能力の極めて高い人だった。

 その意味で、父は先祖のお墓も、家も子供が無事引き継げるようにして死んでいったことは間違いない。品川の海晏寺というお寺に笹村の家のお墓はある。父の祖父に当たる人が明治維新後、土佐から東京に出てきた。その人は歌人であり、一派をなしたらしい。

 死んだときに、海晏寺の当時の住職もお弟子の一人だったので、お弟子さん達がお墓を作ってくれたと聞いている。その墓は父が引き継いで、管理ししていた。そして、父が死んだときから私が引き継いだ。しかし、兄の方が適任だと思い、兄にお墓はお願いした。

 兄のところには子供が居るから、その墓はその子供の代までは一応管理されるのだろう。その後は墓じまいするのかも知れない。私の墓じまいは兄の子供に押しつけて終わったと言うことになる。では家じまいの方はどうだろうか。小田原の方の家は、Wさんにあげることにした。

 今贈与をしてしまえば、楽だとは言えるが、管理や税金も大変になる。それよりは死んで遺言で渡す形の方が良いのではないかと考えている。だから小田原の家の始末は一応はついている。では石垣の家はどうなるのだろうか。先ずは死ぬまで住んでいるつもりだ。

 老人向けに作った。緑内障が進んで、眼が見えなくなっても手探りで暮らせるような家にした。5年前に相談して作った老人向け住宅である。所が内の奥さんは京都の老人ホームに入りたいそうだ。ひとりで行けば良いだろうと言っている。そのつもりだそうだ。

 とすると私は一人でこの石垣の家で、死ぬまで暮らすと言うことになる。そのことは何の心配もしていない。動けなくなったら介護の人をお願いするつもりで居る。問題はボケたときだろうが、もうボケたのだからどうでも良いのだろう。家じまい所でない。

 家が放置されると周辺の資産価値が下がるそうだ。石垣の中心市街地である字石垣にも人の住んでいない家はそれなりにある。周辺に迷惑をかけないような形を考えている。笹村出水彩画展示室にすることである。それも考えて作った家なので、何とか展示室にはなるはずである。

 問題は管理を続けてくれる人である。そんな、水彩画に関心のある、石垣に移住してくる人を見付けられればありがたい。その人が私が死んだ後この家に住んで、展示室の管理もしてくれるというのが希望だ。その管理者が展示室の管理と、暮らして行ける手立ては残したいと考えている。

 私が出来るのはそこまでである。その先どうなるかは分らない。その頃には行政もまともになって、家じまいはお願いできるように成っていることを期待したい。脇田和さんは銀行にその業務をお願いしたそうだ。行政など信用できない、まだ銀行の方がましだろうと言うことだった。

 静岡県の小山に山本丘人美術館「夢呂土」というものがあるが、若いご夫婦が管理しながら、制作活動をされていた。文化勲章受章者で、魅力的な絵を描かれる人だった訳だが、山北町に住んでいた頃は卵の配達で、そばまで行っていたので、時々訪ねた。

 しかし、人が絵を見に来ている事は無かった。どうなるのだろうかと思っている。山本丘人の作品はむしろ芦ノ湖湖畔にある。箱根美術館に代表作が収蔵されている。あと100年ぐらいしたとき、この2つの美術館はどうなっているのだろうかと思う。

 話がそれたとも言えるが、むしろ本題に入ったつもりだ。住まいじまいをどうするかと言うことは、やはりどう生きるかと言うことに繋がっている。生きている今、どんな形で絵を描くかと言うことになる。空き家対策をするなら、今をどう生きるかの相談に乗らなければだめだろう。オンライン相談会でも今の生き方の相談はなかった。

 老人で終活だから、今どう生きるかなど関係ないと考えている節がある。だから、空き家が増えて行くのだ。老人が死んで行く、最も大切な時間をどう生きるかである。どう生きるのが老人の幸せなのか。この相談に乗らなければ、空き家が増えるのは当たり前の事だ。

 
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