地場・旬・自給

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日本人の消滅

2011-02-28 04:06:36 | 地域
日本人が居なくなる。日本の山里地域は、このまま行くと人が消えて行く。都市に人口はさらに集中し、日本の文化を持った日本人は消滅し、世界共通人が大半となる。それは50年か、100年ぐらい先のことだろうか。絶望的な思いにとらわれる。何とかこの流れを食い止めたいと思い、暮らしを深めたいと生きてきた。そして、62歳になった。でせいぜい、後20年で何が出来るのか。極めて難しいだろう。この先しばらくは、転がり落ちるだけ落ちるのだろう。伝統文化ではないが、やらせてはもらえるだろうから、継続していれば、また日本人というものが再評価され、補助金でも付けて、日本人村、人間国宝日本人ということに成るやもしれず。じつはTPPのことを考えると、それくらい考えの開きを感じる。国際競争の中で、競争に勝つことを唯一の道と考えて、しゃにむに競争の勝利を求める資本の論理。一方に、それとは対極に存在する、日本の農本の思想。

柳田國男が椎葉村で視た、日本人の暮らし。日本人の幸福感。日本人の生き方。それから100年細々と日本人の中に残っていた魂の感性が、失われ続けた。長い戦争でも失われなかった日本人が、いよいよ居なくなってゆく。子供の頃の藤岱の離れたお隣には、ヨシアキさんと呼ばれた人が居た。そのお父さんは天狗のお弟子さんだったそうだ。甲府まで買い物に一時もかからず、行って帰ったそうだ。ヨシアキさんはいちおう農家ということで、畑仕事をしているのだが、実にのんびり働いていた。休み休みというか、休んでいる時が多かった。空を見上げては、「良い御天気でごいすら―。」等ときせる煙草をふかしていた。お寺の仕事に来ている時だけ、サボってそうしている訳ではない。自分の畑も同じスローモーである。家に帰れば食べるものが無いだろうと、おばあさんが「今晩はよばれろよー」ということで、家族でお寺で食事に来ることもある。

日々の暮らしが幸せ感に満ちている。生きることは何かということを考えると、いつもヨシアキさんを思い出す。一間の、畳もない部屋に8人が暮らしていた。私と一番仲良く遊んでくれた隣人である。今でも絵を見に来てくれたりする。日々を充実して、不安感無く暮らす。こうした、ささやかであるが、原点のようなものが根こそぎ失われた。風呂を今日はわかすと言えば、薪取りに行く。薪が無ければ、風呂を呼ばれる。子供6人は全員中学を出て働きに出た。成績がとても良かったけれど、それぞれ手に職を付ける道を選んだ。先日、町田に暮らしているその一人に会ったら、諏訪の方で、子供たちの農業塾の指導をしているという。日々生きることすら大変な農家で育ちながら、農業を嫌って居なかった事に感動した。ヨシアキさんの幸せそうな毎日は、子供を農業嫌いにしなかった。ヨシアキさんは晩年はお茶の行商をしていた。動ける間は働いていた。お会いすると、「出さん帰やしたか、ゆっくりしなって。」と懐かしんでくれた。

何故、ヨシアキさんが満足して暮らしていたのか。あの感じは伝えることは難しいだろう。椎葉村でご先祖に見守られながら、生きる充実。ただ暮らしていることそのものが、深い価値を持っている。人間は上昇しなくとも、人を打ち負かさなくても、大丈夫な生き物だ。TPPに象徴される、国際化することで遅れまいとする日本社会。そして日本人そのものが消滅して行く。それはアメリカという、文化のない国家の世界同一化の価値観が、世界に広がるということなのだろう。経済以外の価値がないアメリカンドリーム。第一の開国以来、日本人は失われてゆく。遅れた野蛮なものとして、日本人を捨てて行く。田んぼが無くなった日本を想像できない。それはもう日本ではない。これは日本だけのことではない。朝鮮も、中国もそうした文化を大切に育てる。とことんローカルであることこそ、グローバルである。国家という権力でない、地域主義というローカルを作り出す。

昨日の自給作業:醤油の仕込み7時間 累計時間:10時間
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TPP反対集会経団連へ

2011-02-27 04:52:38 | Peace Cafe
26日午後から夜にかけて、東京に居た。久しぶりのことだ。明治大学でTPPの対話集会があった。400人の人が集まった。山形の菅野さんや九州の山下さん新潟の天明さんと遠くの方々が、声を上げ集まってくるのに、小田原の距離で行かないというのはない。大勢の方が集まった。同世代の人が多かったが、一部若い人の発言もあった。中野さんが冒頭TPPについての解説。駄目なのは、国ではなく何もしなかったあなた方だと。ではそう言う中野さん、あなたはこれから何をするのか、聞いてみたいところである。農家の人たちは、農業をするのでそれはもう手いっぱいである。お医者さんの現場は今とんでもない状況に成っている。それはお医者さんが声を上げる余裕すらない。押しかける患者さんを前にして、まずそのことで手一杯な訳だ。農家も同じで、日々の作業に追いまくられてしまう。声を上げたくても、その余裕がないのが日本全国の、中核農家であろう。

中野剛志氏の「やることやらなきゃこうなるのは当たり前だ。」というまっとうな声を前にして、何からできるのかである。灰色の朝はもう来ている。ともかく経団連までデモ行進である。どうなる訳でもないが、やらないよりはいいだろう。明治大学のキャンパスから、グル―と回って、神田の古本屋街の大通りの車道を1時間ほど、大手町の経団連前までTPP反対の大声をあげながら歩いた。せめてもの精一杯の大声だけは上げて置こう。経団連では何の反応もなく。警備員が4名黙って立っていた。声明文を渡そうとしたが、無言で受け取らない。当然だろう。警備員が悪い訳ではない。受け取ったところで話の接点すらないだろう。農協のTPP反対の署名を今集めている。これも必要ではある。でも農協だけではだめだ。やはり統一地方選挙で、TPP反対勢力が勝利しなければだめだ。小田原の市会議員選挙で、候補者に聞こうではないか。TPPをどう考えているかである。まっとうな議員を選ぼうではないか。

大資本や企業はすでに、国を越えている。有利と思われるところにかってに行けばいいのである。企業の利益が国民の利益であるという幻想を捨てた方が良い。企業の利益はどこまでもその企業のものである。このグローバル企業という、国家以上の経済力のある存在が、さらに富を求めてうごめいている。国という単位をうまく利用しているにすぎない。各国固有の文化などというものも、商売にどう利用できるか程度のものにすぎない。国という枠が壊れて行くのは悪くはない。しかし、地域地域にある固有の暮らしをより深め尊重する、そういう前提でのことである。地域という単位は人間が、安穏な幸せ感を共有して生きるためには、壊してはならないものである。父や母や、そして祖母や祖父とともに生きている。見守られて生きているということは、失いたくない。

関税の自由化は、入口である。どう国と国の関係を作り上げるかである。EUのように通貨も、経済も、軍事力も共有を目指すのか。環太平洋が一国になるというのであれば、それはまた希望である。そこでは差別も、経済格差もないということが、共通の認識でなければんらない。同じレベルの暮らしが補償されるということである。医療でも、生活保護でも、同レベルである。アメリカ人もベトナム人も同じ生活レベルに成るなら良い。国家の方角の共有化なしの関税の自由化は、企業の都合だけのことだ。国という枠を取り壊そうという、理想に進むための道ではない。強いものがより強くなる仕組みだ。大きいものがより大きくなる仕組みだ。今のまま行けば、地域地域の固有の文化が消滅する道になる。
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米、味噌、醤油

2011-02-26 04:15:33 | 自給
「米・味噌・醤油」自給の三点セットである。これは以前も書いたことだが、1家族に1反の田んぼがあると、すべてが賄える。田んぼを作り、その周囲の畔で大豆を作る。大豆は味噌醤油合わせて、10キロ取れれば大丈夫だろう。そして冬には麦を作り、麦はうどんやそのまご飯と併せて炊く。これで食糧の確保できたのだ。屋敷周りに庭があれば、30坪程度の庭の畑でも充分野菜は確保できるし、周囲の生け垣にお茶やかんきつ類。北西側には椿が植えられて、油をとる。一日1時間の労働時間で食糧の確保は出来た。しかし、醤油を作れば、回ってくるお醤油屋さんが居ないと困る。麦やそばを作れば、粉屋さんが居ないと困る。油屋さんが居なけば、椿も、菜種も油にはならない。お茶だって摘んでから、お茶に成るまでをどうするかが課題なのだ。お米を作るには、たびたび書いてきたことだが、水の確保のために、山の管理が居る。水路の管理が居る。地域全体の連携が必要になる。

自給というものが一人の暮らしの仙人のように姿になると考えると、それはだいぶ違う。一人では自給生活の困難さが増すばかりである。そうしたひとりの自給を目指したことがあった。面白いことではあったが、数倍の労力を必要とする。本来であれば、地域で循環できる環境が整うことがより望ましい。しかし、地域の状況はいよいよ暮らしは失われてゆく。味噌屋さんも、油屋さんも、醤油屋さんも、粉屋さんも、里地里山そのものが無くなった。今後出来る可能性もしばらくはないだろう。新しい仕組みを作り、この困難さを補う必要がある。それが、「テーマ・コミュニティー」の結成ということになる。農の会は、特にそうしたことを目的にした訳ではないが、より合理的にということで、進めてきた結果、今の姿になった。先日盛大に開かれた味噌作りの会も、そのひとつである。そして3点セットのもう一つ。醤油の会である。

醤油の会は、今度の日曜日に開催される。今年は会としては、3回目の開催に成り今後続けてゆく形の、合理的な仕組みを提案したいと考えている。昨年の醤油の会は小麦と大豆を併せた後の発酵は、笹村一人で行ってみた。これが大変だった。量が増えるということは、温度管理が数倍大変になるということが分かった。そこで、煮た大豆と炒って砕いた小麦を持って帰ってもらい、各自で発酵をしてもらう。発酵が終わったところで、塩水と混合して熟成をさせる。いか各自がやってもらうことを書いておく。

醤油づくりの手順
1、 大豆を煮る。(笹村が出来る限り早く火を入れます。)一人1,5キロ
2、 小麦を炒って砕く。――9時に集まり、作業を開始する。一人1,5キロ
3、 12時ごろに大豆が煮あがる。(味噌大豆より柔らかく。)
4、 煮た大豆と砕いた小麦を持って帰る。(ビニール袋が必要。)
5、 帰ったら、小麦の5分の1に麹菌を良く混ぜる。さらに全体の小麦に混ぜる。 2月27日14時ごろ
6、 大豆が中まで40度より下がったところで、麹菌の混ざった小麦と合わせる。(醤油麹)
7、 混ぜた醤油麹を米袋に入れて、毛布でくるむ。この後32度を維持する。
(最初は加温をする。場合によってはいらない。その後は自発熱で、直ぐ温度が上がりすぎるので要注意。)
8、 6時間したら、米袋から出して広げる。乾燥しないように段ボール箱で覆う。麹は30度 27日20時
9、 18時間経過:一番手入れ。良くほぐして、出来るだけ薄く広げる。麹は28度 28日8時
10、29時間経過:二番手入れ。さらに薄くする。ともかく温度を上げないように頑張る。 28日19時(厚さは2,3センチ、温度を40℃以上に絶対にしないことに専念。)
11、 45時間後:出麹、醤油麹の完成です。 29日11時
12、 仕込みをする容器に2重のポリ袋を入れる。そこ麹を入れる。
13、 冷たい塩水を加え良くかき回す。袋をゴム輪で空気が残らないようにと閉じる。
14、 3週間冷暗所保管。1回目の櫂入れ。良くかき回し。また閉じる。
15、 3ヶ月置きに櫂入れを繰り返す。9か月で一応の出来上がり。2年置くといい。
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北朝鮮に革命は起きるのか

2011-02-25 04:08:13 | Peace Cafe
独裁政権が次々に崩壊が始まっている。リビア、イラン、北朝鮮と独裁的強権政治が続いてきた国がどうなるのか。良い方向に向かっているのか、悪い方向なのかもわからない。が、ついに来るものが来たような感じもする。一度火がついた民衆の動きは、止まることはない。リビア、バーレーン、イエメン、モロッコ、アルジェリア、そしてイランで反政府運動が展開された。北朝鮮の動向が気がかりである。カダフィー独裁者が、民衆蜂起に対し暴力で対抗している。中東で連鎖的に起きていることが、思想的な革命というものではなく、いらだちや、怨嗟や、絶望感が噴出したように見える。建前のない革命。世界経済の落ち込みが、産油国にも及んでいるということなのか。エジプトの経済状態が、急激に変わったとも思えない。きっかけがあれば、いつでも噴出する不満が渦巻いていたのだろう。今後、世界経済はさらに格差が広がる。資本主義経済の宿命であろう。特に食糧については、価格も上がるだろうし、不足する。食べるものが無ければ、暴動が起きる。どれほどの強権政治であっても、飢え死にをそのまま待つ民衆はいない。

もう少し、中東を考えると人口増加に伴う、失業と食糧不足。チュニジア、エジプト、リビア、アフリカのイスラム国の深刻な経済格差が背景にある。リビアはアフリカの産油国。オイルマネーが国民全体に回らない状況がある。それは中東全体に共通に言えることで、格差の拡大が起きている。中東で起きていることは、民主化革命というようなものではない。格差社会の暴動である。アメリカでも起きたことがあった。その意味ではバーレーンやサウジアラビアで起きていることと、イランで起きていることは性格が異なる。イスラム原理主義の問題が、どう影響しているのか。宗派対立や民族問題がどう影響しているか。正直良く分からない。中東のことも心配であるが、我々にとってはより深刻なことは北朝鮮である。経済の困窮、3代にわたる世襲という近代史では、不可思議な政治状況。経済格差もあるだろう。ますます、鎧に身を固めたような、硬直した姿勢。危険度は増している。

格差で問題があるとすれば、中国が一番であろう。情報もかなり入っている中国でどのようなことが起きるのか。経済成長が続く間は不満の吸収はされる。その点北朝鮮の経済状態の方がかなり問題があるようだ。成長どころか、停滞しているのだろう。すべてに閉じているはずの、情報が口蹄疫の問題や、洪水による農作物被害、そしてこの冬の寒さ。マイナス情報を政府が流している。そして、食糧援助をあの北朝鮮が求めている。かつて2300万人いた人口が、2000万人を下回っていることは確かなようだ。と言っても本当に食糧不足があるのかどうかは、定かではない。私の自給経験では、食糧の為だけに働くのであれば、あの国土で2000万人が自給することは大した問題ではない。兵士も自給しているというから大丈夫であろう。問題はバランスが悪い。

北朝鮮で暴動が起こるのか。起こる可能性は高まっているのだろうが、今のところその兆候はないとみている。何故起こらないのか。韓国の時々起る過激な、政治行動からすると、北朝鮮の人たちが抑制的な性格とも思えない。暴動のニュースもちらほら出ているが、意図的に流されているようで、本当に起きていることでもないようだ。北朝鮮のこの後の出方は注目しておかなくてはならない。多分どんなことにも因縁を付けて来るだろうから、挑発に乗らないことだ。北朝鮮では住民同士が連絡を取り合うということが出来ないだろう。一揆のようなものはあるだろうが、それが連鎖として広がることはない。不満があれば、地域の政府関係者を殺害するというような事件は起こる。そこで、暴動が起きているというニュースが海外で流され、それが北朝鮮国内に情報として伝わる、ようにしているのではないか。
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環境保全活動

2011-02-24 04:43:30 | 環境関連
小田原でエコシティー、環境ネットワークが企画されている。何故環境に関連する団体のネットワークが必要なのか。気に成るところなので考えて見たい。

本来の暮らしは、たとえ狩猟民族であっても、自然環境を守りながら暮らす。日本の里地里山が形成された仕組みは、「手入れの思想」に支えられている。自然との折り合いをつけながらの人間の暮らし。自然を出来るだけ改変することなく、暮らしを織り込ませる。環境活動が特化されている社会がすでに矛盾に満ちている。里地里山の環境を基盤として暮らす人が居て、里地里山は守られる。林業や農業の姿が、国際競争の中で衰退し変質してしまった。日本の農業も、土壌を育みながらの永続性のある農業から、化学肥料、農薬を使う収奪的な、今の利益を目的とする方向へと進んだ。一人ひとりが暮らしを考え、暮らしそのものを、永続性のある循環的なものに変えて行くことに向かうものでなければならない。組織で怪我が多発するので、お医者さんを配置する。組織の形は今のままで、怪我という結果だけを、問題にするのでは根本解決にならない。怪我が起きない仕組みに改編することだ。

日本人の暮らしは都市に集中して、里地里山に暮らす人は消え去ろうとしている。生活が成り立たないからである。この構造を変えることが、根本解決の方向であろう。このことの確認が前提として必要である。環境団体のくくりの中には大きく分けて、行政の補完をしている「清掃活動や花を飾る運動」系と、むしろ行政と対立してきた「焼却場反対やダム反対」の闘争系とがある。そして、最近目立ってきたのが、「まちづくり関連」の環境団体である。この3つの方向の違う組織が、「環境活動では同じなのだから一つでやろう。」脱ダムの思想は、経済構造そのものをかえ、日本人の暮らしを変えようという方向である。果たして、今の経済の方向を認めたうえで、街づくりで街の活性化という方向の人たちと、どのようにネットワークが作れるかである。久野で時々くすぶり返す、墓地の問題。焼却炉の問題。火葬場の問題。最終処分場の問題。残土処理場の問題。牙を抜かれる訳にはいかない。

現実には、この根本思想を問うことなく、方便として環境運動を一応束ねよう、その方が存在を主張できる。というような発想で進んでいるのではないだろうか。具体的に考えればすぐわかることである。小田原メダカの生息する、桑原、鬼柳地区という神奈川県下では、農村環境がある程度残された地域がある。ここに、工業団地を造る構想が進んで来た。工業団地をどうするのか。メダカの保全はどうするのか。この二つはせめぎ合い、矛盾して、ある意味宙ぶらりんの形で存在する。工業団地を作る前提として、大きな道路が作られた。沢山の田んぼがつぶされ、道路に成り、宅地に成り、工場になった。残された田んぼをビオトープ的に環境運動として守ろう。ここで田んぼを行うことで、長いことかかわってきた。田んぼを守る暮らしを作り出すことが、農村環境を維持する唯一の路だと考えるからである。現在もこの矛盾の中で、活動は継続されている。この矛盾した状況自体には環境ネットワークはかかわることは出来ないだろう。

この環境ネットワークには、名前が挙げられている活動100近くある。実際の活動のないものもある。かかわるものも、随分と名前が出ている。知らない間に、名前の出ている団体もある。行政のかかわる環境関連活動だから悪いことではないという、あいまいな行動が広がる。形式だけを整えたところで、新しい負担が増えるだけである。互いの活動が交流できるのかと言えば、活動の場面では対立しかない場合もある。同じ農業だからと言っても、有機の里づくり協議会は参加して、JAは加わらない。鬼柳の農業者は、メダカの協議会には参加しない。自分の中でも、広域の火葬場建設問題では環境政策課と対立する。説明会を行えと、牙を剥きださなければならない。鬼柳の田んぼの整備の約束は。説明会すら開かないで、ごまかしてしまおうという相手に対し、どう交流するのかである。簡単に交流は出来ない。

昨日の自給作業:種まき1時間 累計時間:3時間
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農業委員会とは

2011-02-23 04:26:49 | 地域
農業委員会は、戦後できた組織である。アメリカによる農地解放政策とともに、農業分野と地域の民主化のために、作られた組織である。構成する農業委員は選挙で選ばれる。過去小田原で選挙があったかどうかは知らない。知る限りではない。北朝鮮でも選挙は行われて選ばれるのだから、選挙があるからと言って民主的になるとは言えない。農業委員も同じことではないか、私も立候補はできる訳だが、正直そんなことをすれば、つまはじきに合いそうな気がしてしまう。気がしてしまうだけで本当のところは分からないが、多分選挙をやること自体が大きな負担で、バカなことをするなという空気ではないか。先日農協の運営委員会では、選挙になった場合の体制について、説明があった。次は誰にしようかなどという相談は、上部で、この上部というのもそうなのかどうか分からないのだが、あちらの方面で調整が進んでいるようであった。

農業委員をしていただく方は、現実は地域代表ということで、久野地区は誰にお願いするというようなことである。その意味で自治会長に似ている。現在は、久野地域ではお二人いるようだ。石綿敏久さんは有機の里づくり協議会の副代表でもあり、信頼に足る立派な方だ。もう20年もお世話に成っていて、人格高潔、地道な実践、高い農業技術、どこをとっても農業委員に相応しい方だ。何の異論もない。選挙になれば投票するだろう。もうひと方存じ上げている農業委員の方が居るが、見識のあるさすがという人である。地域の知恵のようなもので、そうしたふさわしい方が選ばれる良さがある。形式的選挙制度が、もう農業委員会という仕組みに相応しくないということなのである。農業委員会によって、影響を受けたことが2度ある。一度は山北から、小田原に登録を移動するときの拒否。もう一回は農地を購入するときの再審査。

漏れ聞くところでは、様々な思惑がそこで交差しているようだ。ある意味新しいものにはまず拒否反応が、そこまでは行かないでもためらいがある。先祖伝来の思想である、当然だし必要なことでもある。しかし、農業委員会が法律に基づいた組織であるのだから、やはり公平な運営は必要でもある。ここが難しいことになる。現実には新しいものが、地域の迷惑になる不安は農業分野では大きい。と言って農業委員に調査能力がある訳でもない。農業委員は地域の農業者がなっているのだ。既得権の主張が中心に成るのも当然である。ここが地域の農家からすれば、新しい企業農業の進出を阻止する防波堤になる。今、農業委員会廃止論が出てきているのは、国際競争力を高める論議と、連携している。「企業の農地取得、大規模農家の優遇。」経団連の主張である。朝日新聞は社説でこのことに触れている。

農業委員会だけの問題というより、農協の問題でもある。日本農業全体の問題である。農業の行き先が定かでないのだから、どこを切っても問題がない訳ではない。食糧というものをどう考えるかだ。他の生産物と農業産品を別に考え無ければ解決はない。農業委員会はなるほどというほど日本的組織である。その良いところと、悪いところを合わせ持つ。特に農地の管理ということになると、微妙な阿吽の呼吸というようなもので対応がされていると想像する。ここを、ビジネスライクにしろ、という時代が来たということだろう。南足柄市では退職した行政職員で、地域の中心農家の方に、再雇用という形で、農地情報の収集管理を委託していると伺った。そして、良い橋渡しをしている。だから、南足柄市で農家に成りたいという希望があれば、実践対応がある。
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ねむの木学園の横領事件

2011-02-22 04:32:30 | Peace Cafe
ねむの木学園が5億円の横領事件にあったらしい。ねむの木学園は宮城まり子さんという、大昔の女優さんが設立した施設である。いろいろの噂は聞いていたが、目立つ存在だけに毀誉褒貶は仕方がないことだったかもしれない。福祉施設の先駆的活動であったことは確かである。宮城氏が向こうの世界に行ってしまったような声のトーンに聞こえ、すこし気になったことがあった。5億円横領されても経営的には心配ないということにも驚いた。ねむの木学園のことがどうこうというより、この横領をした広沢憲行容疑者の接近の仕方が、思い当たる所がある。農の会ても、その他のNPO法人にでも、何を目的にしているのかわらないのだが、不自然な接近をする人が居る。明らかに犯罪目的と思われる体験も2度ある。この機会にその体験を記録しておく。断片的には以前も書いたことがあるが、ありのままに書くと、名誉棄損で訴えると言ってくることが分かっているので、少々あいまいになるが。そう言う類である。

最初にあった事件は、生ごみ堆肥化全国大会で、話をさせてもらった後のことである。農の会が出来た当初の事であるから、もう15年は前のことに成る。突然、何でも協力させてもらいたい。農の会の活動に感銘を受けた。これからの環境運動はこうした方向だと自分もかねがね考えていた。こう言われる。肝胆相照らすというか、何度も山北の山の中まで訪ねてくれた。Ⅹさんは生ごみ堆肥化の会の事務局をされていると言われていた。のちに確認したところ虚偽だということはわかった。たしかH市に住んでいると言われた。なにしろ情報通で、様々な人を紹介してくれる。随分あちこちに一緒に行った。私は紹介してもらっていると考えていたら、実は自分をお尋ねする相手に農の会の人間として、認知させ売り込んでいた、ということだった。

2つあやしいことが起きた。一つは、知らないうちに我が家に見えて、くまなく調べて歩いたことだ。その時肥えだめに落ちてしまい分かってしまったのだが、何故そんなところにまで行ったのかが不思議だった。しばらく経過してから、活動の展開を相談した時、名簿を作ろうという提案があった。その感じが何か不自然に感じて、断っていた。繰り返し名簿のようなものを見せてほしいと言われた。しばらくしてから突然見えなくなった。その後この人のことをあちこちで良くない噂を聞いた。農の会の人間だがと、他に行って協力を申し出ている。どうも情報を総合すると政府関係筋の人と考える他ない。これこそ名誉棄損になりそうだが、あくまで、私の推理で確たる証拠はない。

もう一つの事件は、私がかかわる奉仕組織のことだ。ボランティアで協力したいと、それは毎日のごとく協力してくれた女性のことだ。お金も出してくれたし、あれこれ活動を協力してくれた。あまりに献身的な点がおかしいかったと言えば、そうなのだが。その時は全く有難い以外は考えもしなかった。1年ほど経過した時、今までの協力をマネージメント費用として突然請求してきた。様々勝手に企画して、むしろこちらは借り出されたにもかかわらず、膨大な企画費まで要求された。弁当代から、交通費まで細かく記載されていた。計画的犯行である。その後、その奉仕組織が弱者を食い物にしているというので、行政やら関係組織に、触れまわった。経理を見せろというのである。そこの部分に最初から疑いを持っていた。ところがそんな欺瞞はこの組織にはまるでないのだから、こちらでは警察に相談した。常習的な人間であったようで、ピタリと嫌がらせは終わった。

思い出したがもう一つあった。ある水を作る機械の販売である。素晴らしい効能があるから、農業分野で利用してもらいたいので、共同研究しよう。こういうふれこみであった。田んぼを一緒にやった。一年目の場所では、効果があるどころか反3俵程度のひどい状態であった。確かに影響はあると笑ったほどだ。場所が悪かったためだというので、今度は場所を変えてまたおこなった。相変わらず収量が悪くてどうにもならなかった。にも変わらず、その効能だけは力説して、機械の販売をさんざんやっていた。おかしな効能のある石というのも販売していた。買わされた人を被害者と言っていいのかどうか、微妙であるが。そのうち大きな借金を作って居なくなった。

ねむの木学園でも音楽家の協力者というと、受け入れてしまいそうである。あちこちで協力してくれたために、信用してしまったのだろう。このところが怖いところである。本当の善意の人まで疑うことになってしまうのが困るところだ。
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韓国口蹄疫の惨状

2011-02-21 04:18:15 | 自然養鶏
韓国での口蹄疫感染家畜の処分状況が、朝日新聞に掲載されている。水道水に血が混じっているという、身の毛もよだつような報道である。337万の家畜が埋められている。牛の5%、豚の33%である、驚くことに生き埋めも相当数あるらしい。韓国ではワクチンの接種が13日に決定され、現在2回目の接種が牛は96,7%、豚は42,5%となっている。ワクチン接種後の経過の情報を精査しなければならない。宮崎での口蹄疫の10倍以上の規模である。文化の違いからくるのか、淘汰の方法は到底理解を越えている。口蹄疫は北朝鮮でも深刻な状況らしい。しかし他人ごとではない。日本もいつかこうした大惨事が必ず来てしまうことを覚悟しなくてはならない。問題の細部は不明ではあるが、その土台に横たわる大規模畜産の問題とせざる得ない。目先の予防ばかりを強めた所で解決はない。日本でワクチンを禁止している意味を再確認すべきだ。韓国で起きていることは、次の段階では中国で起こることだ。中国の家畜飼育は急速に拡大している。その時にはもう取り返しも付かない、人間の生存にかかわるような重大事に成る可能性が高い。

温暖化の問題でも、世界の調整はつかない。危機が迫っていることは誰もが気付いている。すでにさんざん化石燃料を使い放題で来た国と、これから使って行こうという国である。調整がつかないまま問題は深刻化している。地球の人口的に言えば大多数の人が、アメリカ並みの消費に向かおうとしている。アメリカの姿勢と中国の姿勢。地球の未来を展望できずに、自国の利害に執着している。豊かな国に成ったとしても国家のエゴから脱することは難しい。領土問題を見れば良く分かる。アメリカが世界一豊かだと言っても、この国に生きる人間が幸せだとは限らない。アメリカ、中国は経済格差問題を抱えている。国の成長が止まった時、危機が深刻化する。世界の中にはGNPが低いと言っても、人間が豊かに幸せに暮らしている国はある。比較の問題である。そのひとつの事例が江戸時代260年の姿だと思っている。肉などめったに食べなくても問題はない。それで良しとすればいい。

日本はまだ淘汰する数が少なかったので電気ショックで牛や豚を殺処分したのだと思う。生き埋めより人道的なのかどうか。人間の都合でむごいことをしていることには変わりはない。今は中国の家畜数はまだ少ない。これから増大して行く。戻ることのできないような深刻な病気が登場する可能性もある。間に合う内に日本から、新しい畜産を提案すべきだ。消毒の強化などで、手に負えるはずがないことを認めなければならない。「ネズミが鶏舎に、畜舎に入らないようにして下さい。」取り締まる側は簡単にこういうことを主張する。これを主張する人の家にネズミが入らないようにできるかを想像してもらいたい。その次には、ゴキブリやハエが入らないようにしてください。こう言うに違いない。本気で防除を考えたら、無菌室の畜産以外、不可能ということになる。

まずすぐにでもとりかかるべきことは、畜産を団地化したり、産地化したりしない。分散型にする。隣の農場までは、最低でも5キロぐらいは取る。当面は1キロから始めて、徐々に分散化して行く。規模も制限する。1頭、1匹、1羽の飼育面積を広げて制限する。鶏ならば、1坪5羽がいいのだが。今より、倍の値段に成ることを食べる側が受け入れるかどうかである。畜産の国際競争力などとんでもないことだ。利潤を求めて効率化して、作り上げた大規模工場畜産が作られた。食糧を国際競争に巻き込めば、利潤を優先した所が勝ち残る。中国はさらに規模拡大して行っている。競争力のあるということは、そういう競争に成る。それが新しい病気を産み、人間の生存を脅かすに違いない。食べ物は水や空気と同じだ。競争だけではうまく行かない。

小さくともやり方によっては可能な、理想の養鶏を実証するために養鶏業を始めた。卵を1個55円で販売することで生きて行ける。受け入れる消費者が居ればのことだが。
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家畜伝染病予防法の改正案

2011-02-20 04:26:50 | 自然養鶏
管内閣は「口蹄疫(こうていえき)や高病原性鳥インフルエンザなどへの対応を定めた家畜伝染病予防法(家伝法)の改定案を今国会に提出する。発生の通報が遅れるなどした農家に、家畜の殺処分の補償をしないなどの罰則を新設するほか、感染拡大防止策として発生農場の周囲の健康な牛豚の殺処分や、鳥インフルの原因とされる野鳥の生息地周辺の消毒を法制化する。 」この改正案の是非の前に、今起きている現実がどんなことなのかを、理解する必要がある。科学的に分析する必要がある。出水市のナベヅル生息地で鳥インフルエンザで死んだ、ナベヅルが居た。この時何も手を打たないでいたら、近くの養鶏場に感染が広がってしまった。だから、ナベヅルの生息地も消毒すべきだった。というのが法改正の一つの論拠らしい。自然界を消毒すれば、消毒が可能だと考えている。その科学的根拠が示される必要がある。ただ雰囲気としてやらないよりはやればリスクが減るというのでは、法律の根拠としては弱い。

自然の成り立ちに置いては、鳥が病気に感染して死んでゆくことによって、その病気と折り合いを付けている自然界の厳しい仕組みでである。人為的に人間がその仕組みにかかわることは、明確な解決への証明が必要である。当面の措置として行おうという、自然界の消毒という発想は、問題を深刻化させることに成る。一度はそれで済むかもしれない。2度目も良いかもしれない。しかし、いつかさらに手の打ちようのない病気に成って、帰ってくる。消毒という手段は決定的なものではない。鳥の生息域に生きている、微生物から水生動物等の餌にもにも影響するだろう。鳥たちは生息域を離れるということに成る。そしてその鳥の群れは衰退するだろう。と同時に、病原菌を保菌している鳥が居たとすれば、ウイルスの拡散に手を貸すことに成る。さしてどことも分からないところで多数が死ぬだろう。それを食べる動物から、次の拡散につながる。自然界の鳥の感染がたまに見つかるという状態は、一部を消毒すれば済むような状態ではない。

次に出て来るのは、すべての鳥を淘汰するという思想である。ホロコースト。自然界に対する人間のおごりである。それぐらいなら、畜産を止めて菜食にした方がまだましである。法改正の前の具体的な対応は、リスクの高い湖等水鳥の飛来地から、一定距離内の養鶏の禁止と、畜産業の団地化の禁止と、分散化の奨励である。大規模畜産場は5キロ圏内に1つとか決める。不可能なことではない。自然との折り合いの付け方だ。これこそ、法改正すべきことだ。人間側が考えるべきことで、罪のない野生動物を、追いやることはもう止めるべきだ。それは動物が可愛いというようなことだけでなく、人間自身がその悪循環のすえに滅びることに成るからだ。もし、わずかでも自然界を消毒できるなどという、妄想を抱く学者が居るなら、その論拠を法律を作る前に示す義務がある。その前提無く、突然野生動物の保護区に立ち入って、消毒を行い、環境を崩壊させるようなことは許される訳がない。今までの、多くの人々の善意によって、支えられてきた自然保護の活動を、無にしてしまう法律である。

トキ、アホードリ、タンチョウヅル、コウノトリの保護活動を行っている組織は、緊急に反対声明を出してほしい。良くわからないと思っている間に、日本の自然をめちゃめちゃにしてしまうような法律案が、改定されてしまう。今の政治は経済以外の観点は持たない、目も向けないから、自民党も間違い無く理解も出来ないまま賛成である。多分政治家の大半の人が、畜産農家が悪いぐらいの状況認識だろう。取り締まりを強化しない、各県の担当者も何をしているのかと怒り心頭であろう。感染があるたびに、網が不十分だった。と原因を養鶏場の管理体制を問題にする。自然養鶏で一つも発生がない現実をどう見ているのだろう。野鳥が感染して死んでいる。しかし、それで野鳥が目立って減ったようなことは聞かない。野鳥は乗り越えつつあるのだ。
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小沢派離脱

2011-02-19 04:17:21 | Peace Cafe
いつまでも起訴しない弁護士はどうしているのかと思えば、やっと起訴をした。起訴することが決まっていたのだから、早くすればいいものを何を待っていたのだろう。ただでさえ長い裁判が問題になっているのに、弁護士が起訴を引き延ばしてどうする。これから市民の判断が試される。これで無罪になった場合。政治生命を絶った責任はどこの誰にあるのだろうか。梨下に管?を正さずか。小沢氏のやったことは嫌いである。だが、それが犯罪であるかは別である。他の政治家が何故小沢氏を責めることが出来るのか。似たようなものだ。自民党の石原氏は何と相変わらず、証人喚問の要求。間が抜けている。これから裁判をする人間に対し、検察も証拠不十分とする人間にをどのように喚問をするのだろう。今回は特殊例である。裁判を見守るべきである。

一方、管氏は矛先を小沢問題にしてしまおうと、やっきである。判決が出るまでの党員資格停止。報道の単純図式では、生贄さえあれば記事が書ける。世論も小沢氏に議員辞職を望んでいると主張する。どう考えても世論調査がおかしい。日本人はそこまで愚かとは考えられない。小沢氏の問題は政治資金の問題である。報道のやるべきことは政治資金に焦点を当てることである。こういう時なら、アピールできるのにやらない。政治にお金がかかるの根本を問い直す必要がある。現状では政治にではなく、選挙にお金がかかるということが中心ではないか。それなら選挙制度の方を見直したらどうか。人に考えを伝えるということは、インターネットの出来た現代様変わりである。お金など全く要らない。好きなだけ考えを発表出来る。チュニジアやエジプトの事例を見ればすぐわかる。政治にお金がかかるなら、その明細をインターネットで細部まで公表すべきである。

官房長官の枝野氏は、この問題を前例に鑑みて、党員資格の停止と言われていた。司法に携わった人間の発言とも思えない。前代未聞の事例である。いったいどこに前例を探したのだろう。ごまかしである。石川氏を前例としたとすれば、事情がまるで違う。検察の2度の不起訴の結果、素人が起訴すべきと判断した。まともな裁判が行われれば、証拠不十分無罪である。こういう場合、排除の論理を持ち出した方が負けである。今、いかに報道と民主党で、小沢氏排除をしたとしても、歴史は排除するような人間たちを、正当化することはない。小沢氏支持の議員が民主党の会派離脱をした。志良し。そういう議員を支持したい。選挙をやれば身にしみてわかるはずだ。近くある、地方選挙では、隠れ民主党を含め投票すべきでない。こんなことを通してしまえば、衆寓政治の時代が来る。気に入らない人間の抹殺方法が出来てしまう。気に入らなくても、折り合いをつける。ここが政治だ。

小沢氏の政治生命は検察審査会という、普通の人に断ち切られた。これは日本の司法制度の敗北である。普通の人の感覚では、小沢氏は金丸氏や田中角栄氏と同質の、金権政治家だから憎たらしいが根にありやしないか。報道による刷り込みが影響した。小沢氏はそういう人から学んだからこそ、塀の向こうに落ちない人と見ている。裁判の証拠主義とは別の要素が働いたのだと思う。もしこれが、共産党の委員長だったらどうなるだろう。あるいは創価学会の会長ならどうだろう。弾圧ということになるにちがいない。権力による誘導と見られるだろう。司法が健全であるためには、国民が司法を育てるという要素がある。権力の犯罪を一般の国民が制御するというのが、検察審査会の本来の役割である。例えば特捜が村木さんの事件のように犯罪を犯したが、身内の検察が不起訴にしたような時だ。政治家や宗教家の犯罪の場合、この手法は弾圧に利用される可能性がある。党員資格停止処分は民主党の知性の欠落を意味している。
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甘酒を作る

2011-02-18 04:40:16 | 自給
19日開かれるまちなか市場の為に、甘酒を作る。甘酒は麹とお米を混ぜて作る。甘いものが出来るかどうかが勝負である。甘いものが貴重であった江戸時代。夏バテ防止の栄養補給に飲まれたものである。この暑くなる飲み物を、わざわざ夏の飲み物にした季節感がすごい。冬なら作りやすいということもある。それを夏作り美味しく飲ませる技を売るのだろう。汗をかいて飲めば甘さはひとしおであったことだろう。この麹を煮詰めて作った甘さもあったそうだから、発酵食品のすごさである。麹はお米を麹菌で発酵させる所がもとである。麹は「糀」とも書く。こちらが日本の国字である。麹の方は麦麹であろう。中国は麦麹が中心であったのか。味噌は日本固有に発展している。中国はそもそも発酵食品の宝庫である。当然似たようなものは渡来したのだろう。この味噌という文字だって国字である。「糀」はお米の花である。日本人の感性。

この麹をもう一度炊いたお米と発酵させると、甘酒が出来る。その発酵を進めて行くとどぶろくに成り、日本酒に成る。アルコール発酵が始まった方が美味しいというのが、酒飲み。その発酵の初期の甘いところを飲んでしまおうというのが、甘酒だから贅沢なものである。どぶろく作りで「現代農業」に出ていた農の会の仲間の耕作舎さんは、畑に甕を埋めて置きそこにどぶろくを仕込んで置く。畑に行く度、飲んでいると言っていた。身体に良いからだそうだ。疲れて来ると柄杓ですくって飲めばもう一働き出来るらしい。百薬の長で、どれほど飲んでも下痢をしたり、二日酔いは無いらしい。どちらかと言えば甘酒の段階で飲む方だから、何ともその真偽はわからない。しかし、どちらもお米から作る健康飲料であることは違いない。お米が製法で味が決まるように、この甘酒も美味しいものを作るのは難しい。おばあさんは良く作ってくれたが、だいたいに酸っぱかった。

酸っぱいというと雑菌が入ったと思われるが、そうではなくて発酵温度が低かった。あるいは発酵が進み過ぎた。抱いて寝ては作るのだから、五〇度は超えていなかったのだろう。でもあの酸っぱくてわずかに甘い甘酒が、私にとってはおばあさんの味である。甘い甘酒は温度管理。53度から58度とある。これを家庭で維持するのはとても難しい。しかし、卵をかえすときの温度管理を考えれば可能である。そのあたりは慣れているともいえる。そして発酵の止め方にもこつがあるようだ。普通は熱入れをする。これでは折角の生きた菌が死んでしまう。そこで急速に冷まして眠らせる。この眠るときに甘みを増す。そしてまた温度を上げ、また眠らせる。こうして甘みを増す。この甘さはブドウ糖であるから上品。糀も、合わせるお米も精米してはいけない。充分のミネラルと、できる限りのたんぱく質を残したお米を使う。清酒でいう雑みがうまみと健康飲料を作り出す。

まちなか市場ではこの甘酒を仕込んで、一番おいしいタイミングで提供したいと考えている。実は材料費だけで、100CC作るのに100円近くかかる。販売ではなくおすそ分けということで、舟原田んぼのお米で出来た甘酒を、一緒に味わってもらいたい。今回は、永塚田んぼからいただいた、黒米を混ぜて黒米甘酒でさらにミネラルを加える。昨年、伊藤シェフが作ってくれた黒米入りがとてもおいしかったのだ。今回美味しいくなるかどうかは、これから始まることで発酵はその時の状態次第である。最善は尽くすが、もしまちなか市場で販売していなければ、それは納得いかなかったということでご勘弁願いたい。まちなか市場も定例的になってきた。こうした街の市の面白さが、小田原の町の豊かさに繋がるのだと思う。さしたる協力も出来ないけれど、地道にやらせてもらうつもりだ。
そうでした、場所は小田原郵便局の向かいです。市民会館ではお菓子祭りが開かれています。

追記、甘酒はなかなかのものが出来ました。糀の出来が今年は良く、そのおかげもあって、日を増すごとに甘みが深くなりました。20日の午後冷蔵保存して置いて飲んだものは、それは甘みが増して驚くべき変化です。これほどになるとは、驚きです。冷やすことを繰り返し、甘みを深める。発酵の力を再認識です。
昨日の自給作業:苗土作り1時間 累計時間:2時間
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水彩人写生会

2011-02-17 04:50:10 | 水彩画
水彩人写生会を計画している。下田でやろうとかと考えている。いくつか旅館の候補はある。近いうちに行ってみようと考えている。ということで、実は昨日見てきた。「いそかぜ」という須崎のほうのホテルである。伊豆半島が、太平洋に突き出た一番先にある。一段高いところにあるので、眺めは良い。海を描くということではこれほどの宿はなかなかないだろう。その昔、美術の教員試験に生徒の写生会を行う企画を書きなさいと言うのがあった。今もそういう試験はあるのか、無いのか、その辺はわからないが、もし日本で絵画の講習会の企画を立てなさい。こう言われたら、良い企画を立てる自信がある。いたるところ描いて歩いていいる。これが一番である。描きたくなる場所というのが、分からなければ企画は立てられない。先生である春日部洋先生も写生家で、どこへ行って来たので絵を見てもらいたいと言うと、大抵のところは行かれていた。先生のすごいのは、何旅館のどの部屋が良いということが、細かく記録されていた。

鳥海山は桜が良い。何月何日前後、夕景で描くなら、どこあたりからがいい。等ということが描いてある。旅館はどこに泊まり、バスはどこ行きでどこで降りるなど書いてある。そんな記録ノートがあった。私の場合は全く記録はない。伊豆なら、100回は回っている。だいたいのところは頭にある。伊豆が近いということもあるが、海なら紀伊半島や、佐賀から平戸も良く行った。行くところは大体定まってくる。頭を悩ますのが場所が良くても、講習会が出来る条件の宿がないというところがまた多い。講習会が出来る宿というのは、部屋から描けるというのが、最高である。雨が降っても楽というのもあるが、もっと大事なことがある。梅原龍三郎氏は部屋から富士を描くのに窓を閉じていたと言う。眼前に富士に対峙しながら、直接は見ないまま描くようなこともしたと言う。中川一政氏のように直接対決の人もいるが、それは剛腕の力投かである。大抵の人は見ているようで写している。

見るということは、視角で見るというようなことではない。良く良く見ているうちに、逐一説明に終始しがちなものだ。絵の画面を見ていない。絵は自分の中の者を描いている。見ると言うのは剣豪が戦いに挑んで心眼で視るようなもので、相手の心の中を見ている。次どう出るかは、動き出した時に気付いたのでは遅い。その前に現れているものの方を見ている。絵を描くと言うのは、眼前の風景の向こうに隠された、天地の次の動きを読んでいるようなものだ。山がきれいだから描く。山が持つ何かが自分とどう反応しているかを描く。そのきれいの奥底にあるもの。それが見えない限り、きれいを写している作業では絵でも何でもない。自分が描くべき何物かに対峙するためには、心の中を見る。対象はあくまで窓口。それには部屋から描き、ときには自分の絵だけを見ると言うのも一つのやり方である。

講習会は随分企画してきた。それは絵を描くということが一人でやることではないと考えているからだ。自分の殻の中に閉じこもって描く人も多い。それも絵ではある。私が考える絵は、生き方のようなものだから、磨いていかなければならないと考えている。切磋琢磨するということがないと、独りよがりになる。固まってしまう。良い絵を描くためにやっている訳ではないから、自分の人間の中により深く踏み込むための作業のようなものだ。それには一人は良くない。それでその日描いた絵を持ち寄り、深夜まで話し合う。何故その人がそう描かなければならなかったからを話す。上手い絵のお手本通りにやっていないか。何を見ているのか語ることも、自覚するうえでは大切である。銀座で行う水彩人同人展で、募集をする予定である。

昨日の自給作業:じゃがいもの植え付け1時間 累計時間:1時間
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小田原駅地下街の再生

2011-02-16 04:02:10 | 地域
小田原駅の南側には地下街があった。経営が2度行き詰まり、現在閉鎖中である。ここを小田原市が直接再生をするらしい。どう考えても商業スペースとしては経営は無理だろう。収入が見込めないとしたら、財政的に苦しい小田原市として、お金はどうするのだろう。「広さ約6500平方メートルの地下街は市とJRがほぼ半分ずつを所有。」とある。1度ならず2度倒産した場所である。さらに商業の状況は悪化している。駅には商業スペースが新たに出来ている。テナントだけでは経営できずに、市の施設が穴埋め的に作られる。それは郊外の運営費の安いところに作る場合の数十倍の経費となる。それでも駅前の立地でなければならない、行政の施設というものもない訳ではない。何をどうするのかは、市民にとっても見逃せない課題だ。どんなに節約をしても、こういうところで浪費してしまうのでは、他の分野でとことん切り詰めていることがバランスが悪く、耐えられなくなる。

駅前でなければならない、市の施設となると、地下街という条件だからかなり限定される。市のホームページに掲載されたものを見る範囲では抽象的な観念論で、玉虫色表現である。予算的な考え方は全く見えない。問題のすべてはここにある。市長も経営コンサルの経験があるのだから、重々承知のことだろう。何をやるにもお金はかかる。駅前で市が主催して行うことが合理的な施設が、一体なにで、どの程度の予算措置が必要かである。問題を単純に考えて見る必要がある。イメージ図の中では、市がやるべき事業は「情報発信・交流」「祭事イベント」ということらしい。後は業者をテナントにするということに成るのか。観光案内所などは駅のコンコースにあるが、こういうものを移動することになるのだろうか。いずれ相当の経費を必要とするものである。前提として、経営が可能であるのか説明がなければならない。

議会では傍観なのだろうか。まさかそんなことはないはずだ。大いに意見を聞きたい。武松議員は地下街のことで勉強会を行うと出ていた。市議会は21年9月全会一致で地下街の早期再開を決議している。と書かれている。再開した責任は全市会議員でとってくれるなら良いのだが。どうせうまくいかないとなると、反対をしていたような顔をするに違いない。市行政としては乗り掛かった船で、今撤退することが出来ないのだろう。どれくらいの支出で何をやるのか。このことを明確にしたうえで、市議会で市民の分かる議論を展開してほしい。当然、説明会も開催してほしい。事業仕分けよりも、こういう事業を立ち上げるときに、十二分の説明を行うことが大切である。説明会はインターネット中継くらい必要であろう。

「小田原駅及び小田原駅周辺は、富士・箱根・伊豆における広域交流の玄関口であるとともに、県西地域の住民の生活にとり重要な拠点区域である。地下街は、小田原駅東口に立地し、中心市街地の核となる施設であり、いわば“小田原の入り口”として機能し活用されるべきものであり、ここから市街地への回遊を促す重要な空間である。」この報告書の認識自体が現状と大きくづれている。駅というものの役割は、変わっている。富士・箱根・伊豆の玄関とは到底言えない。言う必要もない。舟原に暮らす者にとって、駅の地下街は生活にとり重要な拠点とは言えない。時代が変化していることに気づかない限り、3度目の失敗を繰り返すことに成る。小田原駅周辺の衰退の原因は、違うところに問題が存在する。そのことを正確に把握する必要がある。
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農水省へのお願い

2011-02-15 04:00:58 | Peace Cafe
先日の有機農業セミナーには農水省の有機農業担当の佐藤氏が見えていた。農水省には本気で日本の農業を何とかしたいと考えている人がたくさんいる。優秀な人が多いし、日本の農業の未来を考えるとき一番期待できる人たちである。直接話してみると、その有能なことが良く分かる。ところが実際の政策として出て来ると、何だろうとあきれるようなものになっているのは、驚くばかりである。多分であるが、政治が駄目にしている。官僚の排除どころではない。赤松氏ではどうにもならない。自民党時代もそうだったが、民主党に成ってもこの点は変わらない。農林水産大臣の起用を見れば良く分かる。41 中川昭一 42 松岡利勝 - 若林正俊 43 赤城徳彦 44 若林正俊 45 遠藤武彦- 甘利明 48 太田誠一 49 石破茂 50 赤松広隆 51 山田正彦 52、53 鹿野道彦 。最近の大臣である。有能な方もいれば馬鹿げた人もいた。ばんそうこう大臣と言われた人や、バカ松大臣と言われた人もいた。

中でも分からないのが、山田氏から、鹿野氏に変わったのかが分からない。門外漢の赤松氏は民主党の農政にとって無意味な存在であった。専門家である山田大臣にもう少しやってみてもらいたかった。短期間では山田氏の力量は一部も表現されていない。この人事を見ても、管内閣は本当に農業の抜本的改革をやろうという気持ちがあるとは思えない。農水官僚に農業抜本的改革案を、ひとまず作ってもらうことではないだろうか。それをぜひ見たいものだ。恣意的な審議会で、都合の良い結論を出してもらう、免罪符方式では農業の未来は描けない。現在農地法の改革ということが出ている。これは重要なテーマだ。しかし、企業とは言わないが、利益誘導的改革に終わる可能性もある。投機的投資的農地取得の可能性。つまり、企業が農地を保有できるように、という結論ありきで議論するのでは意味がない。企業が農業をした方が経営の合理性があると言うなら、ワタミの農業法人を経営実態を徹底分析をさせてもらいたい。特に審議委員の法人への補助金の精査。都知事に出る人が農業法人とは、不可思議。

農水省の中のことは何も知らないが、多分内部に派閥があるだろう。たとえば改革派と農協おかかえ派とか。農業者は農協以外の者の発言が少ないから、どうしても農協派の省内での声が大きくなる。というような構図が想像される。しかし、農協が営農部門中心の組織に成るべきだという、まことにもっともであるが、タイミングとしては脅しのような、TPP反対に対抗した政府見解が出てきた。騒ぐと保険や不動産部門を切り離すよ。ということなのだろう。この機会に農協というものを解体した方が日本の農業の抜本改革に成るという、意見も出てきている。農協は商社である。農民団体という側面はあるが、経営実態としては総合商社である。TPP反対と言っても建前と本音があるはずだ。怖いのは政府との変な了解がついてしまうことだ。

農水省の良心的人たちに、エールを送らなくてはならないだろう。数人にお目にかかっただけだが、心ある情熱のある方は居る。有機農業は仕分けで、モデル事業が廃止された。今のところ政治家のパフォーマンスに踊らされただけである。意味がわかった上で廃止されたのなら良いのだが。ゆがめられて生き残っている。今度はもとも絶つと再仕分けである。それも駄目とは言わないが、否定だけでなく、農業をどうすればいいのか。田んぼは日本の自然環境の中で、良い自然環境を維持する役割を持ちながら存在している。国際競争力のある農業というのは、まやかしである。それが可能なら、企業が海外生産をしやしない。実態のないたわごとに踊らされてはならない。国際競争力というたびに、日本の農業者を蔑んでいる。管さんや枝野さんが御子息に是非農業をやらせたい。と思うような状態を作ってほしい。農地バンクを本気で進めてもらいたい。
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小泉武夫氏の講演会

2011-02-14 04:44:35 | 地域
小泉武夫氏の講演会が土曜日に開催された。梅まつり開催中の下曽我の梅の里会館である。小田原有機の里づくり協議会も後援団体の一つであった。当日は雪が予想されるとても寒い日であったが。盛況な素晴らしい講演会になった。主催者であるお元気な長谷川さんの姿も見られ、嬉しかった。司会進行をされたのはパルシステムの斎藤さんであった。お見かけするたびに、活力が満ちてきている。小泉先生は食の冒険家と言われて、伝統的食品発酵の技術を、文化としてとらえ直した方だ。発酵技術が世界を救う。と長年主張され大活躍である。発酵が伝承された民族の文化の一つであるとの指摘は、もう定着してきた考え方ではないだろうか。発酵を考えるときに、先端技術としての発酵もある。同時に伝統的な民俗文化であるように、世界各地で様々な手法が地域に根差しながら、展開している。小泉氏には「くさいはうまい」という本がある。

納豆はくさい。くさやだってくさい。食べ物と分かっているから、くさいさが美味しいのである。発酵というものの奥深さがここにある。単純にくさいは悪い。と言い切ってしまわなかった人間の文化の奥行き。以前、納豆をみんなで作った時、腐ったと感じて食べられなかったという人が居た。そうだろうと思う。それを食べた人が居たから、食が文化として形成された。食べ物の複雑系。「美味しいはまずい。まずいは美味しい。」というようなことだってある。子供は純粋に率直に美味しいさに反応する。それは純粋であるが、単純素朴である。奥行きのある味覚はまだ理解できていない。体験を重ねながら奥深い美味しさを身につけて行く。それが食文化である。発酵はふぐ毒の浄化すら行うと同時に、アフラトキシンのような猛毒をも生成する。特に農業分野では発酵技術が土壌を育む、根底の伝統的な技である。民族固有の文化として、発酵技術が展開されたのは、その土地に根差した微生物が存在するからである。ニューギニア高地人とイヌイットでは当然異なる微生物を利用している。

日本人は和食という素晴らしい食文化を作り上げた。これは日本という風土がいかに豊かであったかである。各地の伝統食は発酵技術の宝庫である。今回の小泉氏のお話は梅の里曽我に相応しい「梅」のことであった。梅が中国から渡来して、日本人の食文化に与えた影響の大きさ。江戸時代には存在したが、今では消えてしまった様々な梅を利用の発酵料理。江戸時代の食文化のすごさを痛感する。現代という時代のみすぼらしい状況が再認識される。梅一つにこれほど思いを込めた江戸の粋の文化。白身魚に色つきの醤油ではと、作られた琥珀色の「煎り酒」。梅の実が持っている精神を安定させる効果。ミネラルの力、ミネラルを豊かに摂取することで培われた、思いやりある人間性の醸成。学問に裏付けられたお話の説得力は、圧倒的なものがあった。1時間半があっという間に過ぎてしまった。

講演の冒頭には、農業政策の無策な現状。TPPがいかに売国的、アメリカに国を売るようなものであるかを話された。そして最後に小学校での英語教育がばかげた教育方針であるかを述べられた。やはり農業にかかわるもの共通の思いである。日本文化が滅びてしまう危機が迫っている。日本文化とは、明治以降に強調された富国強兵的な、競争的なものではない。お互いを思いやる共存的な文化である。全体が良くならない限り、自分も良くなることはできない。発酵の技術を独占するのでなく、地域の伝承として伝えて行く。現代人はその発酵技術すら、商品化して利潤にまい進することを是とする。寂しいことである。発酵菌を商売に利用するなど、自然のおおらかさに比べて卑しむべきことである。小泉氏の講演から良いものをたくさんもらえた。
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