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地場・旬・自給

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小麦の価格

2008-06-30 04:29:46 | 自給
今年あしがら農の会では杉崎さんが小麦を作った。コッコ牧場でも作った。杉崎さんは出来れば、お茶と小麦で農家経営が出来ないかと、考えて、今年はともかくやってみて、と言う事だった。収穫が終わり、一先ずほっとしたところだが、これを幾らで販売すればいいかと言う事になった。所がこれが難しい。以前暫定的に決めた小麦粉の価格が、1キロ600円と言う事だった。これでは利益どころか、小麦粉はサービス品と言う事になっていたのだろう。結局世間の1キロ200円の価格から、全ての矛盾が始まる。大まかな事を言えば、海外の産地の小麦と、日本の農地で作る小麦では、価格競争などそもそも出来ない作物なのだ。気候的にも小麦の収穫期が梅雨にあたると言う事で、品質的にも、農家の作業としても、厄介な作物になる。結局、私の個人的な推測では、1キロ2000円でないと、作る気にはなれない作物。

小麦の価格の形成は、農政の工夫の集大成のような、不思議な世界である。簡単には見えてこない実に複雑な世界だ。しかも、お米とは違い、生産農家と直接の消費者の取引はほとんどない。粉にしなければ使えないし、地粉と言っても、うどん屋さんや、パン屋さんを経由して食べる場合がほとんどだからだ。お米のように直売方式で、政府の統制を崩してゆく、というような動きも出てこない。価格の裏側が一般消費者に見えないままでも、済まされてきたのが今までの事だ。所が最近パンを焼こうという、新しい事を考える人が増えてきた。その中には、地域の粉はないだろうか。こんな事を考える人も出てきた。うどんの方でも讃岐うどんが注目され、粉を直接購入して、打ってみようなどという人も出てきた。そこで、少し価格の不思議な現状に消費者も気付いてきた。何しろ、200円から2000円の開きだ。少し整理してみる。

製粉会社に売り渡される小麦価格は、平成18年産小麦の基準額がキロ134円(8040円/60kg)シカゴ先物市場の価格がキロ33円ぐらい、となっている。何と私たちがお願いする。製粉代より安い。安い輸入した小麦に調整の上乗せ価格を載せる。その利ざや分が、国内農家の補助金となる。その結果、国内の小麦と輸入小麦のバランスが、とられて、国内産小麦も、せいぜいキロ400円程度までに納まる。その程度の価格では、国内で小麦を作る農家は採算が取れないから、様々な名目の補助金ももらって、かろうじて生産を続けている。主生産地である北海道などでは、間接的に産地形成のための方策がほかにも取られている。その結果が、産地でない足柄地域で小麦を生産することは、産業としては全く不可能になっている。どうしても地元のパンやうどんのための小麦生産して欲しいと成れば、自給用に自分で作る以外、生産者の負担になるだけだろう。

蕎麦屋さんが美味しいソバの為に、長野の豊科に越した。こう言う事がある。同じことで、これからは足柄地域に、美味しいうどん屋がある。そのうどんやさんはうどん用の小麦を自分で作っている。こう言う事になる。パン屋さんは可能かというと、パン用小麦はこの辺では無理だから、たぶんわざわざ作るパン屋さんは成りたたない。この辺が田んぼとは違う所だ。田んぼなら、環境的な保存理由がある。水路を含め、田んぼを維持してゆくことは、日本中どの地域でも、どうしてもやらなくてはならない事業になっている。しかし、お米と違い小麦の生産は北海道を除けば、展望が今のところはない。小麦の生産者に対し、2000円でも支えようという消費者が居るか。うどん屋さんでは1杯のうどんは90グラムの小麦粉を使う。1杯分180円だ。これならソバと一緒で、案外そんなうどん屋さんが登場するかもしれない。
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田んぼの生き物観察会

2008-06-29 06:36:07 | あしがら農の会
昨日は、待望の田んぼの生き物観察会が行われた。水生昆虫を解説いただいた。素晴しい方が来てくださった。本当にありがたいことだったが、お名前は控えさせていただく。環境の事って、案外関係性の難しい所があって、おかしなことになってはならない。金井島の田んぼだ。足柄地域で一番あちこちで田んぼをやってみた人間を自負している。丹沢の奥の塩沢から、山北2。内山。金井島。中井。大井町。坊所2。永塚3。舟原。大磯。桑原3。随分離れた所を、あちこち十数か所田んぼに入った。その結果生き物は、何処にでもいるものではないと言う事に気付いた。桑原の田んぼが、この地域では桁外れに生き物が多い。奇跡の田んぼと心の中で思っている。冬季湛水の田んぼも桑原でやらせてもらった。酒匂川からの湧水の多さが桑原の自然を豊かに保ってきたのだとおもう。神奈川県唯一の、メダカの生息地となった理由も、きちっとある。

金井島の観察会は、ともかく生き物が少ない。企画をされた鈴木さんには、そのことはよく話していたのだが、すくないという事がわかるというのも、大切なことではあった。何故生き物が少ないか。3つ考えられる。先ず、米所である。西郡米の本場で、あしがら地域で一番美味しい米が、収穫されるところだった。その結果米作の単一の農地が形成された。当然、優秀な米作農家も沢山おられる。と言う事は、近代農業が早くから進み、農薬化学肥料の投入も早くから徹底されてきた。耕地整理も完全に行われ、コンクリート畦も多いし、水路は3面コンクリート張りがほとんどだ。水は、丹沢湖から直接導管で運ばれたものが使われている。山間部的にきれいなものだ。深山のきれいは、生き物はちがうだろう。もうひとつこの地域は、酒匂川の氾濫と富士山の火山灰。富士山の火山灰を大量に集めた地域らしい。このことがどう生き物に影響しているか。

桑原で生き物観察会を行うと、一すくいの網で、うじゃうじゃと言う事になる。専門家の人が、神奈川では珍しいというようなヤゴなどが見つかることもある。昨日のお話しでは、秦野の、丹沢ドン会の谷戸田では、やはり相当珍しくなったものがいるらしい。一度ドン会の田んぼも見に行きたいものだ。珍しいものが残る条件がある。ため池がある。水の流れがある。もちろん自然状態なら直いい。上流に人家がない。湧き水があり、長年の放棄田んぼが湿気ていた、田んぼはいいそうだ。大磯はそういうところだったが、生き物が多いという感じがなかったが。何故だろう。坊所や、舟原はどんなものか。坊所は案外に生き物がいない。それでも川から入る生き物は、結構珍しいものがいた。モクズガニもいた。川の取水から水路の状態がいいのだろう。舟原は土壌的にはいい。水路のつくりが、生き物にはまずい構造なので、川から入る生き物が、やはりグンと少ない。

自然は、良く見ると、漠然と見ていたときとは全く違う。自然が豊かだなぁー。などとのんきなことを言っていても、案外死んだ自然だったりする。これが恐い、昨日の話しでは、生き物は復活などして来ていないという事だった。自然の衰退の速度が、若干緩んだというレベルだそうだ。自然が少しはましになっているというのは、どうも間違った報道のようだ。この地域では、一番の宝庫の、桑原はいよいよ道路建設が進んでいる。行政も最大限の努力をしてくれて、何とか公園的に残る部分も出来た。しかし、大きな道路が出来て、その脇で何時まで田んぼが行われるか。たぶん、30年後くらいには、桑原田んぼはほとんどない可能性が高い。と成ると、久野地域の里地里山構想は、ますます神奈川県全域にとっても重要な計画となるに違いない。一度、本格的な生き物調査を行う必要がある。

昨日の自給作業:果樹園の草刈2時間 累計時間:37時間
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ソバカス抑草の経過

2008-06-28 07:22:18 | 稲作
ソバカスが草抑えに効果が、どのくらいあるのか。今年も引き続き、真剣に観察を続けている。一喜一憂である。草の状態も様々で、稲に問題がないなら、草は出た方がいいと考えている。コナギの事だ。今日で、水入れ、16日目。田植え2週間。苗代あとの田んぼにおいては、4月から水を張っていた事になる。そばかすが、草を抑える幾つかの要素がある。水面を覆い日照をさえぎる効果がひとつ。ソバカスと呼んでいるのは、その名の方が愛らしいからで、そばの製粉過程で出る、パウダー状のかなり細かな粉の事だ。これは実に軽いもので、水面で簡単に広がり覆ってしまう。20キロ蒔けば、1反は覆う。これをタイミングを計りながら、田植え直後から蒔いて来た。そうだ、2月ごろにも、レンゲで一杯の田んぼ一面に蒔いておいた。そうしたらいくらか、ソバが生えてきたから、そばの種も混ざっている。早く一度撒くのは、田んぼの土が、ソバカス分解に対応しやすくなって欲しいからだ。今までのところ撒いた量は、小麦袋に7分目が30袋。コナギの芽はいくらかあるが、このまま納まれば、このままでもいい程度だ。

もちろん油断は出来ない。晴れそうな時に、水面に何もないのは恐いので、いつでも撒く覚悟だ。では撒いたソバカスはどうなっているか。これが忽ち分解する。この点が米糠との大きな違いだ。米ぬかは分解に時間がかかる。だから水温が上がり始めて急に臭くなったりする。時にはおたまじゃくしの全滅となる。こういう状態では抑草効果は弱い、かも知れないと考えている。抑草効果は実に複合的。例えば、酸素はあるほうがいい。水温は冷たい方がいい。これは溶存酸素量という意味で、両立させないとダメのようだ。よく出るトロトロ層形成の問題。トロトロ層は必ず作らないといけない。これは微生物の働き、ミジンコ。土の性質。代かきの仕方。緑肥の量。それこそ要素は多様で、出来てくる。これが出来てくると、物理的にか、草の種が沈むのかもしれない、草が減る。出た草も何となく元気が出ないで、成長が止まる。そのうち沈み込むのもある。しかし、草が元気がないと言うのは、基本的には稲が元気がないに繋がる。この辺だ。いい土になれば、草にだっていい。何故いい土には草が生えないなどいうのだろうか。

流水効果もある。水が流れている所は草は出にくい。棚田なので、どうしても水漏れが起きる。水漏れの原因は、浅い粗起こしと代かき。これも草抑えにいいと考えてやっている。種が巻き上がらない。代かきが足りなければ水漏れが起きて、干上がる。干上がる回数が増えれば、どうなるか。コナギには関係がないようだが、この先稗が怖い。本当に恐い。だから、しょっちゅう田んぼに行って水漏れをとめる。尻から水は流れ出るほど水は入れる。結局稲は育ちが悪い。それでいい。先ず一ヶ月は育ちが悪くてかまわない。と成ると、晩生でないとまずい。生育期間が取れない。育ちが悪ければ、草もない。今が我慢のしどころ。1ヶ月の辛抱が、いい田んぼに繋がる。

それにしても今年はすごい量のミジンコだ。もう水がミジンコで、濁っている。これは一応いいこととしよう。素晴しいとまで言ってもいいかもしれない。ホウネンえび、巻貝。赤虫のような、イトミミズのような、色々いる。おたまじゃくしは10日目からすごい量になってきた。日に日に目立ってきた。増えてきた。何故抑草が技術にならないか。うっすら見える。複合的というところが、分かればわかるほど、手がかかるのだ。逆の事を、同時に上手く行かそうというのだから、手がかかる。好きでやっているのだから、手がかかるのは結構なのだが、手抜きでも草が出ない。こういう訳にはどうもいかない。ここが困るが、ともかく草が出ない方法はないわけではない。それなら今度はどのくらい手を抜けるか。コッチのほうも考えなくてはならない。出も田んぼにはすぐ行きたくなる。頭に田んぼの事が浮かぶと、書いている今でも、行きたくなる。それほど田んぼは面白い。

昨日の自給作業:草取り2時間 累計時間35時間
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うどん打ち

2008-06-27 05:41:19 | 自給
うどんを切る道具を買った。玄さんの讃岐うどんの会で使っていたものだ。誰でもきれいに切れるので、これは買わなきゃと思っていた。小宮さんのブルーベリー園の夏祭りで、「手打ちうどんの会」をやる。それにあわせて購入すれば、都合がいいと考えていた。買いに行く時間もないので、ネットショッピングだ。同じようなものが3万円を越える価格から、17000円まで色々あった。当然安いところで買った。いつもそんないい加減な買いかただけど、おかしなものが届いたというようなこともない。たぶん小田原の商店では置いている店はないだろう。取り寄せてもらおうにも、たぶん相当厄介な、時間のかかることになるだろう。当然、3万円は越えるに違いない。包丁で切ればいいようなものだが、うどんはまだしも、ソバでは熟達しなければ、無理な事だ。それが実に簡単にこなせてしまうのだから、たまにうどんを打ちたくなる、素人にはうってつけの道具だろう。

小宮さんの夏祭りの予行演習で、今晩はうどん打ち大会だ。みんなでうどん打ちの練習をして見る。うどん打ちは簡単だ。初めての人でも食べれるものが打てる。ホウトウより、讃岐うどんなら、もっと簡単だ。ホウトウは打ち込みうどんで、生のうどんを汁のなかなに入れ込んで煮てゆく。うどんをのばす時に、粉をつけるとこれが、汁をねばねばさせてしまう。出来るだけ、水を減らして、硬く打ち、打ち粉を少なくするのがホウトウのコツだ。打ち粉は小麦粉より、コンスターチか上新粉の方が延びがいいと教わった。今夜これも試してみる。茹で上げて食べるのだから、打ち粉は幾ら使っても大丈夫だ。塩水を用意して、それで練っていくのだが、この塩水が10%もある、かなりしょっぱいものだ。どの程度が適量かも、これも今日のチェックポイント。

夏祭りでは、あしがら産の小麦が使える。これはこれは貴重なものだ。今低温倉庫に寝かしてある。小麦は熟成が必要だそうだ。杉崎さんが生産した物だ。大変な苦労だったようだ。本当は販売したくないそうだが、農の会のためなら、提供してくれると言う事になった。私も以前は山の畑で小麦を作っていたので、その大変さは良くわかる。スズメにやたら食べられる。その大変な時に田植えと重なる。それで諦めていた。来年は畑で3畝作るつもりだ。そうすれば40キロは採れて、30キロあれば粉にしてもらえる。10キロは醤油の醸造用だ。小麦粉は買った物と、作ったものとでは、まるで別物だ。小麦の香りのプーンと匂い立つ感じは、えもいわれぬ物がある。子供の頃毎晩食べていた記憶が蘇る。釜揚げの温かいうどんに、うちの卵を絡ませる。そこに醤油をたらす。これは間違いなく素晴しい。

うどん屋さんのうどんを美味しいと思ったことが、めったにない。もちろん具や、たれはさすがだと思う。でもどうしても、小麦の美味しさから離れている。小麦だなぁー。という材料に到る、シンプルなおいしさにかける。だから、うどんの方がソバより好きなのに、店では大抵そばを注文する事になる。これが、小麦というとパンと言う事になった原因だとおもう。小麦粉がうどん用の昔のようなものでないからだろう。これが、そらやさんの粉を分けてもらって、この感じを思い出したのだ。残念ながら、そらやさんもあまり粉で売るのを好まない。私はキロ2000円は当然だと思う。それだけの手間がかかる。うどん用の小麦にはそういう価格のものは、幾らでもある。所が世間の粉はバカ安い。国産でも安い。補助金がらみだ。こういうあたりは、自分で作ったことのない人には、理解しにくい所だろう。
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二宮金次郎

2008-06-26 06:33:28 | 
小田原出身者で唯一、お札の顔になった人。二宮金次郎。確か1円札だったと思うが。子供の頃誰だかわからず、恐い顔の人だと思った記憶がうっすらとある。最近なるほど、一円か。そう言う事がわかってきた。金次郎というとどうしても農村の復興、こういうイメージがある。これがどうもそう単純でないというのが、だんだんに見えてきた。おむすび日記に猪瀬直樹氏の「二宮尊徳はなぜ薪を背負っているのか?」こういう本が紹介されていた。そこで早速読んでみた。何故、二宮尊徳が難解であったか。これだけは理解できた。一言で彼を低利融資の町金。個人金融業者と考えれば、分かりやすいという話なのだ。私は農村復興というと、どうしても新田開発とか、作物の改良、耕作法の革新。こういう視点で、考えてしまう。どうも銀行とか、お金を借りるとか言うのは嫌いなので、そこを見たくなかったのだろう。利子という仕組みが嫌いだ。背負っている薪は、現金収入を得て、それを貸し付けるためのものだ。こういう観点だ。お金になる仕組みをハッキリさせれば、人間頑張って働く。これが、小学校に銅像が建てられた理由だった。というのだ。

一円札の顔になるのは戦後すぐの事、GHQがこの人物なら何故いいといったか。ここがなるほどと思えてきた。貧しい中で、努力して、立身出世した。なるほどアメリカンドリームに加えて、お金になる事をやりなさい。そう言う事だったらしい。しかしそんな観点だけなら、今更金次郎でもあるまい。お金になるから、サー働けは、今の世の中の基本原理とすでになっている。給与をくれるから、仕事に行く。農業では、国際競争力のある作物を作りなさい。どうも、採算など考えない、楽しい農業などやっていてはいけません。そう言う事らしい。私は鶏を飼いたいの方が強くて、生きてさえいければ鶏を飼い続けたい。鶏は猫好きの猫と同じことだ。採算も無ければ、効率もない。絵を描くのもそうだ。生きてさえいれば、絵が描ける喜びがある。それ以上のこともない。田んぼをやるのもほとんど同じことのようだ。稲を育てる技術が、実に面白い。これをあれこれ試行錯誤してみたい。そっちの方が業としての成り立ちより、大きくなってしまう。そういうあり方は良くないという事を、本当に金次郎は考えたのだろうか。

だから私のやっているのは、「道楽仕事だ。」こう発言して、えらく顰蹙を買ったことがある。不謹慎だという訳だ。しかし、誰もが好きなことをやって暮せる。そういう社会を作り出そうとしているのではないのだろうか。好きな事が仕事になる。好きな事が、他の人達のためにもなる。人間をもっと信用していい。少なくともそう自分を信用してやってきた。確かに役に立つばかりでない。あれこれやるだろう。好き勝手しながら、役に立つ事もやるだろう。人間本当にやりたいことをやれるなら、力を出す。人間結構くだらなくない、と思っている。その本性がくだらないなら、人間などいなくなってもかまわない動物じゃないだろうか。これは父親の教えだ。「好きな事を探すのが、仕事だ。好きな事が見つかればもう大丈夫だ。」繰り返しこういわれた。

農民から、能力があると言う事で、立身出世し経済を任される。これは江戸時代に於いて稀有な例だ。栃木の桜町という疲弊した村の再興をする。荒れ放題の田畑。屋敷も手入れがない。新旧、家柄の差別に着目。4千石が1千石しかお米が取れない。人口の3分の2が土地を離れる。小田原藩からの派遣役人の熱意の無さ。ほとんど不可能に見える、村の再生を行う。この実際の方法が私には見えないのだ。猪瀬氏はファンドだと書いている。ファンドは報徳仕法の基本的な仕組み。猪瀬氏は報徳仕法から解きほぐした、日本農業の再生を、小泉首相に進言し、方向付けができた。と書いている。しかし、この小泉改革の結果が、今の農村の姿だ。猪瀬氏が事例としてあげているワタミファームがどんな展開になって行くかが、興味深い。
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新エネルギー対策

2008-06-25 04:38:42 | 環境関連
太陽光発電の推進。福田首相は9日公表した温暖化対策の包括提案で、ドイツから「太陽光発電世界一の座を奪還する」、導入量を20年までに現状の10倍に増やす目標を掲げた。素晴しい事だ。ドイツと較べて、世界一を競争しようという所が、すごい発想だ。現在一家庭が導入するのに、230万円かかっているそうだ。それでも、石油がここまで上がってきたら、充分採算の合うエネルギーになっている。これが、100万円ぐらいで、設置出来るようになれば、かなりの家庭がつけることになるだろう。日本の屋根や壁にはソーラーパネルがあるとなれば、国内発電量と同じになる。日本国内の一戸建ての内500万戸に3kWのシステム(合計容量1500万kW)を設置した場合、1000万kW前後と見積もられる。出力100万kWの発電所10基分以上の出力に相当する。ともかく太陽光発電は馬鹿に成らない発電装置なのだ。問題点は幾つかあるようだが、解決の糸口は見えてきている。

アリゾナ州の電力会社は、Concentrating Solar Power(集光型太陽熱発電設備)を採用し、280メガワット規模の発電施設を州都フェニックスから70マイル南西にあるGila Bend市に建設する。集光型太陽熱発電は、従来の太陽光発電とはことなり、太陽の熱を利用して電力を生成する。パラボリック形状の鏡面より集光された太陽エネルギーが熱伝導流体を利用し蒸気タービンを回転させ発電を行う。現在、地球温暖化で大きな問題となっている二酸化炭素などの温室効果ガスの排出ず、 稼働時には40万トンの削減につながるとしている。太陽光の利用はパネルだけではない。
関西電力とシャープは23日、堺市の臨海地域に世界最大級の太陽光発電所を建設すると発表した。09年に着工し、11年の稼働を目指す。シャープが建設を進めている液晶パネルと太陽電池の新工場の屋根などに18メガワット、隣接する大阪府が所有する埋め立て地に10メガワットの太陽電池パネルを設置し、一体運用する。最大出力は28メガワット(2.8万キロワット)で、年間約1万トンの二酸化炭素削減効果があるという。電力会社はこうした方向に目を向けるべきだ。

ソニーは製造コストの安い新タイプの太陽電池を開発した。原材料にシリコンを使わない。半導体技術の代わりに印刷技術の応用で作れ、製造費が現在普及しているシリコン型の5分の1から10分の1になる見通し。安定性を高め、光を電気に替える変換効率で実用化への目安とされる10%を達成した。技術革新の目覚しい分野だ。より効率的なものへの転換。限界のある材料からの転換など、次々に技術革新がされている。何故か、ソーラー発電には、誤解なのか意図的なのか、1、太陽光発電は、製造~設置・運転~廃棄までのライフサイクル中に投入する以上のエネルギーを発電できない。2、太陽光発電は、温室効果ガス排出量削減に貢献できない。3、太陽光発電は、GHG排出量やエネルギー収支で、既存のどの発電方式にも劣る。4、太陽光発電は、生産に必要なエネルギーやCO2の元を取るのに10年ぐらいかかる。こんな疑問が出る。これは明らかおかしな指摘だ。

新エネルギーという言い方は微妙で、再生可能エネルギー、エコエネルギーと言ったりもするが、言い方次第で原子力発電が、背景に置かれている事を、注意しなくてはならない。太陽光発電の弱点は、産業用電力には難しい所だ。家庭電力が太陽光で満たされてしまった場合。産業用電力の供給をどうするかの問題が残る。工場などでは、一箇所で大量に電力を必要とする。あるいは、大きなビル、事業所、病院などの電力の供給の問題がある。電力も事業であるから、新エネルギーへの転換を、企業の経営として望めない。消費者が居なくなれば、電気事業はなくなる。そのため、次世代エネルギーのイメージの中から、自給エネルギーは取り除きたいと言う事になる。それが、太陽光発電の言われ無き中傷につながっている気がする。私の家で設置して、もう7年以上経つが、あることすら忘れるぐらいだが、電気は自給できている。石油が値上がりして、電力も上がるだろう。230万円の回収年月は早まる。

昨日の自給作業:畦直し、ソバカス撒き1時間 累計時間:34時間
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自給の思想

2008-06-24 05:52:31 | 自給
三人の方から、自給の考え方にもご意見がありました。刺激され、書いて見ようと思います。江戸の循環社会の事を考え始めたのは、自給の生活を始めてみて、それが意外に、簡単に実現された事がきっかけでした。1人の自給は2畝の耕作地と2時間の労働で可能。全く石油燃料は使わず、シャベルと腕力だけで山を切り開く所から、始めてみました。たぶん江戸時代の農民より、知恵のない自己流のやり方でした。その後も自給のより合理的な形を模索して、生活を続けているわけです。2時間はいらない。1時間で可能なようです。これが最近の経過です。もちろんこれは、食についてであって、衣料や、住居については、又別です。家については実際に最小限の家を建てることで、どの程度の作業になるか進行中です。衣料について追々始めたいと思っていますが。最近アルパカを飼ってみないかという話があるので、1頭から、5着の服が出来るというから、やって見たいところです。

ともかく、食自給は難しくない。それでは、何故江戸時代の農民が、飢餓の毎日苦しんでいたのだろうか。こう考えるようになりました。租税だろうか。加えて小作の形で搾り取られていたのだろう。始めはこう考えたのですが。これが調べ始めてみると、現代の租税より場合によっては安い。5公5民といわれてきたが、実質的には10%位のものだという説もあり、江戸の農民が租税や、小作料で絞り上げられたというのは、幻想らしい。収穫量の増加。新田開発。換金作物。薪炭などの農外商品。様々な工夫で、実態の税は今よりも低い。猪瀬直樹氏は、「日本の貧農史観は、マルクス主義学徒に原因がある。」こう言い切る。同時に皇国史観も指摘している。「旧政権の徳川幕府の否定のためと、徴兵制度、富国強兵には士農工商を陋習として、際立たせる必要があった。」2つのイデオロギーが補いあって、貧農史観という固定観念が形成された。

長年鶏を飼ってきて、日本鶏の多様さと、文化的な深さに驚かされる。日本鶏を作出固定した、江戸時代の改良の技術は、今では再現できないほどの、高いレベルのものだ。世界の鶏改良の歴史を見ても、このような文化的な深さを求めた民族は、数少ない。卵を沢山産むというようなことに価値を見なかった。姿が美しいとか、尾羽が長いとか、蓑を曳くとか、鳴き声が美しいとか、こうしたものにこだわった改良。これは食べるものも事欠く農民の感覚だろうか。そう考えると、江戸期は庶民文化の時代。平安や鎌倉の貴族.武家文化とはおおきく異なる。歌舞伎や、浮世絵、そして洒落本、滑稽本、談義本、人情本、読本、草双紙、寺子屋。庶民の識字率はかなり高かい。搾取され飢餓にさいなまれる農民像が崩れる。

自虐的に日本史を考える、一番の形が江戸時代の貧農史観だろう。日本人はそんなに愚かな民族ではなかった。江戸の農民も豊かで、自主性があり、高い文化的な見識があった。その豊かさを見直すことが、この先の日本の方向ではないかと考えるようになった。江戸の循環型社会の構築は、随分と見直されてきた。長い平和の時代。徴兵制のない時代。公務員を武士と考えれば、今より公務員は少ない。その背景にあった。農業技術の革新や、生産性の向上は、決して現代の農業技術に劣るものではない。現代農業は、農薬と化学肥料の農業の全盛である。しかし、このやり方には、永続性という点で疑問が出てきている。と成ると、参考になる技術は、江戸時代の循環型の農業と言う事になる。自給とは、先ず1人の自給、そして地域の自給、さらに国の自給ではないだろうか。

自給自足社会に戻る事は望んでいません。そのように読める書き方は、反省します。誰もが毎日、1時間程度。食の自給の為に働く。これが、日本という国の自給にまで楽に繋がる。食が確保されれば、あとの23時間は、好きな仕事に打ち込める。私であれば、絵を描く事が出来る。自分のやりたい仕事で、生活できるようになる。日々の農作業が、国民全体に良い精神的バランスを生み出す。強制というのでなく、やりたい人にはそう言う事が許される環境を作る必要がある。農地法を変えて、農的な生活が可能な状況を作り出す必要がある。これは住宅政策。地方への分散。企業の就業システム、全てに及んでこないとならない。私の役割は、ひとつの家庭が、自給しようと考えた時、どういう技術で行えば、合理的に出来るかを整理する事。
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障害者施設の放火

2008-06-23 05:30:44 | Peace Cafe
神奈川県綾瀬市の知的障害者施設「ハイムひまわり」が全焼し3人が死亡した火災があった。当初から放火が疑われていたが、その建物所有者の女性が放火した事が分かり、逮捕された。この事件の背景には、知的障害者施設の置かれている状況の困難さが、見えてくることになった。私自身設立を努力してきた事もあった。今もそうしたNPO法人にかかわりを持っている。他人事には思えない重い問題がこの事件にはある。当初報道は、管理人の不在の事や、施設の消火設備の不備などを取り上げていた。運営する社会福祉法人「聖音会」(同県鎌倉市)の管理の問題点が大きく取り上げられた。人件費だけで5億6000万円規模という組織だ。その中に綾瀬ホームという、入所者90名の施設がある。その周辺にグループホームが3つある。そのひとつが今回火災があった施設である。大きな組織があり、その関連と言う事で、グループホームまでが、全体的に運営されるというのが、施設の民営化政策の結果生れている形だ。小田原にも幾つかこうした組織がある。

その建物の所有者の、志村容疑者は入所者の世話人を長く務めたほか、カンボジアの子どものために文具を寄付したり、学校を建てたりするボランティア活動を十五年以上も続け、地元で「篤志家」として知られていた。カンボジアに数カ月単位で滞在することも多く、「五月には活動報告の展示を自分で作るなど熱心に活動していた。純真でまっすぐな人」。別の団体のカンボジア人女性(53)も「優しくて現地の人に慕われていたのに」と驚きを隠さない。放火容疑を認め「施設の賃料や給料を減らされたことに不満があった。施設に火をつけてなくしてしまいたかった」想像するに、福祉に熱心なあまり、思い込みが強く、他人との協調性に欠けていたのかもしれない。実はボランティアに熱心な人によくいるタイプの気がするのだ。ハイムひまわりの始まりは、自分の家を提供して、自分も管理人になり、頑張りすぎたのではないだろうか。トラブルがあり、その施設を離れアパート暮らしになる。「賃料や給料が下げられ、入所者からも陰口を言われた。周りと折り合いが悪くなって居づらくなった。」という結果だ。

減額の理由は〇三年に施行された支援費制度。同制度施行により、それまで国や県などから施設の定員に応じて出されていた措置費が、利用障害者の区分などに応じた支援費収入に変わった。障害者ら利用者が事業者を選んで契約できるようになった。同会は「新制度で、収入減となる可能性もあり、支出を抑えることになった。経営予測をしなければならなくなった。家賃減額が、そうした流れの一つであったことは確かだ」と説明した。同制度は三年後の〇六年十月に障害者自立支援法に移行。同法施行後、事業所は県からの運営費補助金を毎年25%ずつ削減されることになり、同会では昨年度決算で前年度比で約千五百万円の減額になっているという。

熱心な善意の人が、放火までして全てを消し去ろう。という思いに捉われるなり、変貌する。人間誰しも紙一重だ。折角の善意が空回りするのは、ボランティアにかかわれば常に覚悟しなければならない。これが事業であれば、利益のためがあるから、気持ちのやりどころはハッキリしている。ボランティアの場合はこれが、はけ切れない鬱屈になる。本来ボランティアの精神は、見返りを求めない。奉仕の精神、こうしたものがまだまだ成熟していない。名誉慾が強かったり。実は金儲けの宣伝行為であったり。宗教の勧誘であったり。善意と言いながらも、中々一筋縄で行かない場合のほうが多い。それなら、事業と割り切ればいいのかというと、事業で出来る範囲というのは案外に狭い。しかし、現実の各施設では、影になったまま、静かに支えている多くの人に出会うことだ。
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自殺と児童虐待

2008-06-22 04:42:23 | Peace Cafe
年間の自殺者が十年連続で三万人を超えた。警察庁のまとめでは、昨年一年間の自殺者は三万三千九十三人にのぼった。自殺率でみると、主要国ではロシアに次ぐ高い割合で、アメリカの二倍、イギリスの三倍だ。
2007年度、児童虐待は、過去最多だった。4万618件だったことが17日、厚生労働省の集計(速報値)で分かった。対応件数は、集計を始めた1990年度(1101件)から毎年増加している。(報道より)

日本の社会は危機にある。とても異常な状態である。緊急事態である自覚が、持てない所に、この社会のおかしさが象徴的に現われている。自殺と児童虐待は数値的に、その危機を浮かび上がる数値だ。目標の喪失。希望のない社会。バブル時代の上昇機運の反動。何となくはそんな風には捉えられている、もう少し具体的に考えてみる必要がある。オウム事件がその前兆であった。秋葉原事件が今の実態を表わしている。オウム真理教の繁殖するかのような拡大は、その理由が社会の中にもあった。しかし、社会の側はその確認を出来なかった。この間、混迷を深めるだけで、その対応を怠ってきている。迷走飛行している、日本社会の構造は、拝金主義だけが唯一、ゾンビのような生命力を維持して、蔓延を続けた。倫理とか、正義とか、信念とか、人間の善的要素は、経済の前にひれ伏してきた姿。

貧困の原因を、各自の努力不足に起因するもの、とするのが、競争社会の原理だ。明治政府の作り上げようとした日本帝国の基本原理。世界に伍して、世界での競争に勝つ。この価値観だけは、敗戦にもかかわらず、失われることは無かった。軍事力で負けたのなら、今度は経済競争に勝利する。それは企業規模でも、個人の範囲でも同じことで、あらゆる場面で競争を、最優先してきた。例えば幼稚園の徒競走に順位をつけないことを、陰で怒る父兄が結構多い。競争こそが成長する要因だと考えている。競争がないから、努力が無くなり、活力が失われる。そう思っている人が多数派。本当に人間の成長に競争が必要なのだろうか。受験競争が無ければ、勉強をしない。その通りだろう。しかし、受験競争という中での競争の学習は、本当の勉強なのだろうか。一部の人間にとっては、有効な成長になるだろうが、大半の人間にとっては、全くの無駄だ。言えることは、企業の都合のいい人間を作り出すには、有効な受験競争である。もしこの競争が評価されるものなら、その勝利者たる官僚のタクシー金銭授受に見られる浅ましさは、何を意味するか。

人は経済競争など無くても、その能力は充分に発揮されるし、磨かれる。江戸時代の日本鶏を見れば、よく分かる事だ。鶏を飼う事を文化としてまで、深めてゆく能力。経済競争に勝つために、産卵性や、飼料効率を上げる事を、絶対善として鶏を飼う現状。その為には、動物虐待そのままである、工場養鶏を平然と行う。世界でも、頭抜けた改良の技術を持ちながら、鶏の鳴き声を洗練させ、その姿を楽しむ。庶民の暮らし。産卵性の向上など、誰も考えなかった。ペリー艦隊が、雌鶏を欲しがった理由が分からなかった日本人。鎖国という枠を自ら課した状況。枠の中でどう安定を取るかに、苦心する社会。日本という枠をもう一度見直すことだろう。藩と言う枠をもう一度見直すことだろう。という枠をもう一度見直すことだろう。

貧困を脱する事が、日本社会の目的であったとするなら、明治期より明らかに江戸期の方が暮らしは豊かであった。文化的にも豊かであるし、暮らしぶりもましであった。一部の成功者を祭り上げる、階級社会を目指す事を、覆い隠そうとして来た。近代化の問題。近代化の中で広がる格差。階級社会の到来。建前だけの自由平等。それを合理化する、「努力の論理、競争の論理」。近代化が獲得してきたものと、失ったものを、冷静に見極める事が、この混迷から抜け出る一歩ではないか。国会が終わっての記者会見で、福田総理大臣がよくやったと自画自賛していた。追及した野党も100点満点の自己評価をしていた。この危機を少しも感じていない、驚くべきにぶさ。大きく舵が変えられなければ、墜落する国。

昨日の自給作業:草取り、畦直し、1時間 累計時間:33時間
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御殿場御胎内温泉

2008-06-21 04:27:51 | 日帰り温泉
初めての日帰り温泉御胎内温泉に行くことが出来た。なかなかのお湯であった。御殿場高原と名付けてあるが、富士山の南山麓に位置する。小田原から見れば富士宮方面である。富士サファリパークにも遠くない。当然のごとく、湯船から富士が見えるところが売りである。温泉はアルカリ性単純泉、湯温は35.8度。名前の通り「御胎内」という、溶岩洞窟がある。子宮に見立てた、噴火の際流れ出た溶岩の中に出来た空洞で、ぐるりと入り口から出口に一周できるというものです。江戸時代の富士講などとも関連があるのだろう。お祭りがしてある。何でも信仰にしてしまうところが、江戸的だ。そのそばにあるのが、「御胎内日帰り温泉」

1、 清潔度「7」味気ないほどさっぱりしていて、清潔感もあるし、掃除も良く行き届いている。風呂場の床にぬるっとするような所はなかった。洗い場も良く整えられていて、合格点の清潔さだ。湯量が豊富なのか、透明で汚れがまるで無かった。特に露天風呂の清潔さは他にはない。休憩室も広いが、絨毯敷だが、机が沢山並んでいて、これで混んでくるとどうだろうか。
2、 泉質「8」アルカリ性とあるが、皮膚に少し刺激がある。湯上りで肌に変化がおきた。他の湯ならすぐに美人の湯と名乗るだろう。温まるという感じではない。立派な温泉感がある。
3、 環境「9」富士山を借景にするという贅沢な庭が広がる。周辺は凝った庭園風で、いわゆる日本庭園風。あくまで風。20メートルはあるかという樹木が、20本。その中で風呂に入るのだから、悪い訳がない。ただし、富士山麓は風光明媚という訳ではなく、土が悪いためかどうも豊かな感じがない。小低木の生育が悪い。
4、 食事「6」それほどのものではない。周辺には食べ物屋はないので、ここで食べるしかない。健康ランド的に特徴がない。しかし、価格が高いわけでもない。テーブル席で食べるも、床席で食べるも、運んでくれる。
5、 湯船施設充実度「9」露天風呂が広い。30坪はある。ここから富士山が見える。打たせ湯があるが、湯量が少ない。ジェットバスもあるが、泡が弱い。サウナはいい。富士溶岩を並べて、遠赤が出るようにすればさらに売りに成るので残念。しかし、温度も90度ある。映りの悪いテレビもある。水風呂は、理想的なもの。深さが腿上まであり、水温は17.3度。洞窟風の風呂や、檜風呂まである。内風呂も広いものが2つ。洗い場は不思議なつくりで、一人ひとりつい立の中で洗う。
6、 従業員の対応力「8」控え目ながら、悪くない。若い人が多く、明るい雰囲気を作り出している。訪ねた事にはきちっと対応してくれる親切心も感じられた。邪魔にならない、気遣いが嬉しい。
7、 コンセプト「6」―富士山が見える―がテーマかもしれないが、それ以外は公共の施設的、味気なさがある。遊びとか、余裕がない。和風庭園の池と、露天風呂は別物であるべき。3メートルある、凝った石組みから流れ落ちる湯の滝は見事だが、地震で崩れる不安がありそばに近づけなかった。
8、 価格満足度「8」入館時間で価格が分かれる。10時から1300円、15時から1000円(平日800円)18時から700円と良く出来ていて、割安感がある。さらに10回で1回無料になる。これで経営できるかの不安を感じた。平日はすいている。
9、 全体施設「6」なんでも一通りはある。どの施設も広々している平屋建てがいい。駐車場も広い。マッサージチェアーも新しいもので、200円15分。もう少しひとつのものに特徴があれば、さらにいい。
10、 アクセス「3」観光地と言う事だから、比較しても仕方がないが、御殿場駅からバスで20分というほど不便。道も分かりにくく、間違えて自衛隊の演習場などに行ってしまうと最悪である。

総合点70点、なかなかの高得点だ。以前のこの温泉はカルキ臭で悪評があった。現在はカルキ臭いはしない。これは時間によるかもしれない。10年は経つらしいが、施設は少しも古びていない。特に露天に立つ東屋は、大きな石が湯船にあり、しの上に20センチある丸柱が立つ。これが2間渡しで、合計8本。立派なものだ。石も庭石としては凝ったものが並んでいる。姿の在る石も多く、石好きにはこたえられない所がある。又富士の見える好天に行って見たいものだ。
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鳥インフルエンザのその後

2008-06-20 05:33:05 | 自然養鶏
韓国での鳥インフルエンザの感染はまだ終結していない。韓国では、昨年、今年と連続しての発生となっている。最近になって、さらに北朝鮮に飛び火したとも見られている。幸い日本では、青森、秋田、北海道で野鳥の白鳥での感染が見られたのみで、養鶏場への感染の拡大は起こらなかった。最近発表があり分かった事は、韓国で爆発的に広がった。ウイルスと、青森、北海道のウイルスが同一であった事だ。しかもそのウイルスは、昨年の韓国での流行のウイルスとも異なる事、又インドネシアなどで流行を続け、人への感染が100例ほどある、ウイルスとも違う事、なども新たに確認された。加えて、昨年1月宮崎などで発症した事例の感染経路に関する、詳細な報告が出された。結論として、1、感染は野鳥から起きている。2、モンゴル、韓国、中国のウイルスと相関が強い。3、東南アジアのものとは異なる。

これらの事実から幾つかの事が推測できる。白鳥が、韓国で越冬したか、あるいは中国で越冬し、韓国を中継点としている。日本の十和田湖や北海道をさらに中継して、シベリアに帰るところだった、と言う事実。たぶん日本のほかの地点でも、韓国からの渡りの中継点にしている場所は、あるだろうと言う事だ。感染の起きた、可能性として大きいのは、韓国の感染したアヒルなどの群れに、白鳥が接触して、感染したこと。感染したアヒルの糞などがある水場などに、白鳥が飛来する場所はあるだろう。そうした野鳥の飛来は、東アジア中心であって、南アジアとは、水鳥に関しては異なると考えていいようだ。野鳥の感染については、先ず水鳥を中心に考えなくてはならない。推測に推測を重ねる事になるが、白鳥が感染を広げたと考えるより、韓国で越冬したか、中継地点とした白鳥が、アヒルから感染したとする可能性が高い。つまり、白鳥とは言え、感染すれば発病し、死に到る可能性が高い。発病して長く、暮していたとは考えにくい。健康な白鳥がアヒル養殖場で感染し、青森、北海道にたどり着き死んだ。可能性が高い。

分かってきた事を繋ぎ合わせると、韓国、北朝鮮の養鶏場で発症があると、野鳥がそこで感染し、日本への飛来によって、感染が起こる可能性が高まる。これは、以前のカササギや、クマタカの感染でも、同じことが言えた。ただし、農水省や家畜保険所が緊急対策として、養鶏所の消毒の強化を通知したが、リスクの軽減において、少しの意味もない。まさか、渡り途中の白鳥が空爆のように、糞を空から落とすような事はない。白鳥から、他の水鳥にさらに感染する可能性はある。クマタカの事例は、残念ながら、事実が何ヶ月も隠蔽されていたため、状況の把握が難しく、よく分からないのだが、餌としている野ネズミからの感染ではないか、とも思われる。この場合養鶏場で死んだ鶏を食べたネズミ、あるいは感染した鳥の糞を食べたネズミを、クマタカが食べた可能性。時間的な正確なところが分からず、もう一つ見えない。

野鳥の感染で、養鶏場が問題にされるというのは、全く濡れ衣のようなものだ。野鳥は自然界に幾らでもいるのだ。養鶏をする側にしてみたら、野鳥の方をどうにかしてくれ、と言う事だ。養鶏場を消毒しても、野鳥の方はどうにもならない。世間では、鳥インフルエンザというと養鶏場が不安。こう言う事になるが、野鳥からの感染と言う事が、よりハッキリしてきている以上、囲われている鶏より、無限にいる野鳥の方がリスクが高い。今やるべきことは、渡り鳥の正確な調査だ。こうした基礎研究がほとんどないのが、日本の実情。リスクが高いといっても、今東アジアで広がっているウイルスは、人間への感染は起きた事のないタイプだ。死んだ野鳥を生で食べるような無謀な事をしない限り、感染は起きない。よって、自然界で納まるには、何世代かの経過が必要。たぶん7世代。そして、ウイルスをさらに、変異させて放出する、巨大養鶏場の閉鎖以外、この病気の淘汰はできないこと。
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第66期将棋名人戦

2008-06-19 04:40:44 | 身辺雑記
羽生挑戦者が4勝2敗で名人に返り咲き、19世永世名人の資格を得た。これで将棋界にある7タイトルの内、6タイトルの永世称号を得たことになった。残すところ、竜王を後一期とれば、資格者となり、初めての7タイトル全ての称号を得ることになる。その竜王戦の挑戦者への道も今期、決勝トーナメントの11名に残っている。羽生名人が中学1年生でプロの将棋界に登場して以来、注目をしてきた。ファーンだ。もちろん桁外れの将棋頭脳への興味もあったが、羽生名人の生き方がなかなかのものだからだ。例えば、チェスの名人が日本に亡命のような形で、滞在した時に日本政府は彼を不法滞在者として、国外退去を命じた。その時、在留のための嘆願書を名人は政府に出した。こうした姿勢は、あらゆる場面に現われている。脳の研究にも、協力している。将棋ソフトのコンピュータープログラム研究にも、開く姿勢を持っている。素人でも面白くないほどソフトが弱い間から、プロを凌駕する年月まで予告した。

普通の将棋指しとはまるで違う人間なのだ。将棋指しというと、坂田三吉位しか聞いたこともない人にしてみれば、どうでもいいことかもしれない。羽生名人はこの時代のひとつの典型のような、興味深い存在と考えている。子供の天才から始まり、ただの人になる場合もあるが、そのまま桁外れの成長を続ける。20歳で頂点に達して、その後も維持して、37歳の今に至る。勝率72.3%。当初は羽生マジックといわれる勝負術で、圧倒する。対戦相手がこの筋道は勝ちだと、考えているだろう道筋に、導く。当然勝ちだと考えるから、その道にはまる。所が最後の土壇場に、実は羽生勝ちの罠のような結論が用意されている。従来不利と思われていた場面を、勝利に結びつける構想を用意する。それがまるでマジックのようで、次々に発想の逆転を続けた。

周囲も研究に重ねて対抗する事になる。佐藤康光、森内俊之、を代表する同世代は学級肌といわれる研究熱心な棋風だ。佐藤康光氏とは今も棋聖戦を戦っているのだが、勝負というより、共同研究をしているようだ。とまで言われる。森内俊之は今回羽生名人に敗れるまで、名人位を4期連続して維持してきた。18世の永世名人資格者でもある。受けにおいて実に、手堅いが勝負強い指し手を連発し、確実に勝利する棋風だ。所が、今期の名人戦では、むしろ攻めにおいて、新手を出した。今期の羽生との名人戦にかけるものがあった。自分の真価を問おうとした。第5戦の自陣に飛車を引いて、角を取り合い、角をもう一度打ち込むてなど、森内永世名人に、いまだかつてない強さを感じた。所が今期の名人戦では、羽生は勝敗にかけていた。勝つための執念の将棋であって、新手を出すというより、勝つ為に引くような、控えるような、差し回しを選んでいた。

そこが、森内名人に肝心な所で何度も負けていた、羽生の頭脳の打倒森内名人の結論だった。13歳でプロの将棋指しになり、20歳で頂点に達し、その後さらに成長を続ける姿。今年になって、37歳になって、さらに強くなったといわれている。ファーンとしては、勝つことは嬉しいが、佐藤2冠との戦いでは、むしろその作り上げられた棋譜が、興味深い。勝負でありながら、勝負を超えたような、求道的な姿勢が、天才をさらに磨き上げてゆく。その努力のあり方や、日々の暮らし振りは実に興味深い。それほどの人材なら、数学とか、せめてゲームじゃないもので、その力を発揮して欲しいという考えもあるだろう。そうは思わない。ゲームも数学も、何も変わらない。名人伝ではないが、勝負を抜けた先に何があるのか。この四角い木切れは何をするものですか。と尋ねるような日が来るのか。

昨日の自給作業:畦の修復竹取り、1時間 累計時間:32時間
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秋葉原事件

2008-06-18 05:06:04 | Peace Cafe
大変な惨劇が起きた。8日に起きた事件だから10日経つ。この痛ましい事件は時どき頭に浮かぶ。地下鉄サリン事件の時は、上野の水彩連盟展の搬入係りで、事件の直前に霞ヶ関駅を通過した。今回も、たまたまカメラを見に秋葉原に行くつもりでいた日だった。日本水彩画会展を長く見ていて、時間が無くなり、秋葉原に寄れなかった。このレベルのすれ違いは、東京の事だから、たぶん何100万人が感じた事だろう。こういう無差別テロのような事件は、繰り返し起こる。だんだんに起こる頻度は高まる。福田首相は事件を起こした人間の背景を調査するように、即座に命じた。関東自動車の派遣社員。もうこれで大体の筋道を理解した。それが、大半の人だったと思う。犯人が県内の優秀高校の出身であると言う事が、大きく取り上げられている。北海道大学を目指したらしいが、適わなかった。そんなことはどうでもいいことだと、必ず思える日が来るのに、時間を待てなかった犯人。

自殺者3万人の国だ。自殺の変わりに、こんな事を考える人間が、後を絶たないだろうことを、当然の事と受け止めざるえない社会。この国の社会の有り様が問題なのだ。このまま行けばアメリカのような、犯罪大国になるのは確実だ。銃を持っていなければ不安でいられない国。関東自動車工業の求人をみてみると。給与: 285000~270000円(昼夜2交替勤務、残業30~20時間/月、皆勤手当等の諸手当含む、6ヵ月在籍手当は除く) ・基本日給 8560円~等とある。犯人は給与としては、別に割りの悪い所で働いていたわけでもない。労働条件を改善して解決できるような内容とも違う。簡単な分析などすべきではないが、会社の中に存在する、階級社会の姿が、絶望に繋がった、のではないだろうか。官僚汚職で起こる、ノンキャリアの星とか言われる人の犯罪の背景と、心理的共通性。

オーマイニュースに彼と自分は良く似ているが、自分はこんな事は考えない。こういう記事があった。普通の事だ。そうじゃなければ困る。3万分の1の事だ。実に特殊な事なのだ。人間という奴は、とんでもない存在だ。何をしでかすかわからないところがある。しかし、自殺者を減らすことは、できる。秋田が全国一自殺割合が多い地域だったのを、様々な努力で減少させた事例がある。社会が行うべきはこの努力だろう。自殺者は決して0にはならない。人間はそういうものだろう。しかし、3万はきわめて異常な事態である事も事実。このことをもっと国全体で自覚すべきだ。問題はトヨタ自動車の労働状態にある。その下請け大手である、関東自動車の置かれた状況。世界での競争に勝つために何が起こっているか。派遣社員制度という、不安定な職場は会社の都合だけの仕組み。人間がないがしろにされているのではないか。

犯人が携帯電話の掲示板にあれこれ書き綴っている。その掲示板ですら孤立し、絶望を深める。その後、掲示板ではうさ晴らしのような、犯罪予告の書き込みが、連鎖的に起きているようだ。たぶんそれは継続的に、過去にもあったことだろう。一人一人が思い込んでしまう、閉鎖的状況の突破策が見えない。離れてみれば、何でもないことも、今という時間の中では、絶対的なものになる。そう感じながら、一年待ち、2年待ち、しかし、出口の見えない状況。そして、場を変えてみる。知らない土地に移り、故郷に帰り、又新天地に。しかし、変わらない状況。一層深まる閉塞感。入り込む隙のない社会。競争に敗れるなどと言う事のない、脱落していられる場所が必要。ダメでもいいじゃん。といえるような、余地が必要。人間社会は努力すれば何とかなる人だけで出来てないという、事実の認識。

昨日の自給作業:田んぼの漏水修繕1時間 累計時間:31時間
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忘れ去られた餃子事件

2008-06-17 05:05:45 | Peace Cafe
いつもの事だが、熱しやすく冷めやすいお国柄。中国の方でその後事件の調査は進んでいるのだろうか。先日の胡錦祷氏来日の際には、速やかに調査すると言う事だったが。一番の不思議は、中国の責任者の発表ではあのビニール包装紙は、冷凍状態ではメタミドホスが染み込むと言う事だった。日本の警察の発表では、どうやっても通さないと言う事だ。こんな簡単なことも、その後、どのように調査されたのか、私が見落としているのか。そのままである。どちらかの国の政府が虚偽を発表していたわけだから、せめてこのぐらいは科学的にやってもらいたいものだ。事件が最初に起きたのは、昨年の10月の事だ。それが、生協の対応が悪く。発見が遅れ、一月末になって急に餃子事件が勃発する。その後、あれこれ他の中国食品にまで騒ぎは広がりながら、全てが不明のまま、半年が過ぎようとしている。先ごろ、生協の依頼した、第三者調査委員会で、「社会全体で再発防止に取り組む必要がある」とする最終報告書を公表した。正直中途半端で納得できない。

吉川泰弘委員長(東大大学院教授)は事件を「虚偽表示や残留農薬と同じ性格の問題ではない」と指摘し、「有害物質の意図的な混入や事故による混入を防ぐための社会システムを構築する必要がある」と提言した。しかし、この問題の本質はもう少し違うだろう。そんな社会システムが構築できるわけがない。浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は就きまじ。石川五右衛門作。犯罪者が出ない社会の構築を考える事になる。アメリカのように、犯罪者は必ずいる。それを各自が武装して、警備員を雇って、防犯社会を構築して、こういう方向は間違っている。北風と太陽ではないが、犯罪者を生み出す社会を変えてゆくことが、本質。そのことはともかく、この餃子事件を、食べ物を輸入に頼る社会のあり方を、根本から見直す契機にしてゆくことが大切だ。中国がこの問題の解決に熱心でない背景は、そこにある。安物の食品を日本向けに何時までも作っている気はない。日本では当たり前の、生乳を宅配するようなシステムは、実は大変な社会的システムなのだ。いま中国では挑戦を始めている。

現代農業の5月の増刊号は「キョーザ事件から何が見えたか」だ。これがなかなか力の入った特集で、視点が良いし、深い。「食・労働・家族のいま」と副題がある。40個298円の生協手作り餃子を分析している。日本で自分で作ったら、一体餃子は幾らかかる食品か。実際に作ってみる。大体1個10円前後のようだ。外食の餃子はピンきりではあるが、一般的には35円に始まり、100円くらいまでだ。この生協の餃子は、7.45円と極端に安いことが分かる。材料を買ってきて家でこさえるより安い食品が、生協で販売されていると言う事を、どう考えればいいのだろう。餃子を作る手間のない社会や、暮らしぶりに問題がある事が見えてくる。確かに生協というあり方からすれば、消費者が共同購入で、価格を抑えるという原点から、こう言う事になるのか。人件費の違いとか、国のあり方の違いとか、色々あるのだろうが、長く続く事ではない。

この事件から学んだ事は、日本の食の未来であったはずだ。この本には未来を開く、様々な事例があるが、あしがら農の会が目指した、「地場・旬・自給」こそ未来を表わしていると再確認した。今月の定例会にも新しい新しい、この地域で暮す2名の方が見えた。お互い自己紹介の中で今やっていることや、夢を語り合った。やはり、これしかないという思いを強めた。月収が7万円しかないが、少しも困らず、豊かに暮している。という若い女性の確信を持った発言には、ちょっと感銘を受けた。自分はサポーターの積もりだといわれた方もいた。確かに、私を含め、みんながそうした思いに支えられてきたとおもう。農の会では、近く、子供が3人生れる。安心して子供が育てられる環境を、作り出すことだって、農の会の役割だと感じている。そういうまわりからの支えが、気持ちよく行われるような仕組み作りだろう。
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2008年の田植え

2008-06-16 04:50:19 | 稲作
いい田植えが出来た。田植え前一週間は頭の中田植え一色。天候にも恵まれた。曇り空で、涼しい風が吹き抜ける。その上、雨の心配は少しもなかった。遠く、岐阜から、参加してくれた仲間もいた。そうぜい、18人だったか。子供も2人で、20名か。今まで一番の大人数であったことは確かだ。のんびりとのどかな、田植えだった。舟原田んぼは環境がいい。残された里地里山の一角を形成している。周辺の皆さんからも、暖かい声をかけてもらえて、幸せな田んぼだ。移動初年度の去年とは、だいぶ気分が違う。地域で田んぼをやらせてもらえるありがたさをしみじみと味わった。気持ちよく出来た、もうひとつはすばらしい苗が充分あったことだ。これも始めての事だ。去年までは、一部にはいい苗があるのだが、足りなかったり、ちいさかったりで、終わりまで足りぬのかハラハラするような田植えだった。

セルトレーのいいことは、43、400本苗が欲しいなら、どれだけ蒔けばいいか、目安がハッキリしている事だ。写真の苗は、10日に取ったものだから、もう少し大きくなっていた。根がセルトレーの下にびっしりだったが、そのまま引き抜くと、セルの四角に詰まった状態で根も蒔いていた。だから、台形の塊を田んぼに差し込むような田植えで、誰がやっても同じ出来の良い仕上がりだ。ここがいい。小学2年生でも植えることが出来た。子供は基本的に泥に触りたくない、苗の茎を摘まんで、押し込む田植えとなる。これでも出来る田植えというのがセルトレーだ。試しに投げる田植えをやってみたが、ダーツの練習デモすれば充分腰を曲げなくても田植えが出来る。あら起こし、代かきをなるたけ軽く、浅く、でやっていたのだが、やっぱり深くなってしまった。草の量がたぶん3トンとかいう量あったので、これを漉き込むとすれば、仕方がないことでもある。

田植えが終わる傍から、水を入れていった。地面は水を入れてから、36時間程度地上に出ていた勘定だ。これを短くしたかった。水が入り次第、ソバカス撒き。風上からの流し込みだが、12体蒔いたが、全体は覆えなかった。今日この後、水を見に行って、早速追加播きを行う。水がどうなっているかを思うと、ちょっとうずうずしてくるのだが、水漏りがやはり相当にある。畦塗りを丁寧に仕上げてくれたのだが、どの程度になるか。ともかくまめに漏水をチェックしたい。畦は随分高く、仕上がっているから、8センチの水深は保てるはずだが、水を抜いて、田植えをしたのだ、だいぶでこぼこが出来ているところもある。だが、田んぼにでこぼこがあるのは、悪いとは限らないと思っている。深いところと、浅いところでは水温が違う。水がまだらに滞る。

土の感触が去年と違う。良くなったというか、腐食が増えた感じがした。土の粘りは、全体で言うとやはり足りない。一部しっかりした良い粘土質の所もあるが、全体では、山土交じり。これを改善していくのが、課題だろう。ただし、土の臭いはいい。実に爽やかで、嫌なにおいがない。海水の効果で、いい状態になってきたのではないか。ミミズとナメクジが増えた。ちょっとビックリするほど多かった。毎日カラスが来ていた理由が分かった。スズメも大群でやってきて、たぶん草の実を食べていた。レンゲが、最後に虫にやられたので来年は変えるのも、考えておきたい。山ヒルを見つけたといっていたが、裸足の人は大丈夫だっただろうか。田んぼ足袋も、使いきりゴム手袋も、いい調子だった。では田んぼに行くとしよう。

昨日の自給作業:田植え、線引き、8時間。 累計時間:30時間
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