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日本の自然宗教 5

2017-05-19 04:31:36 | 

日本精神史 阿満利麿 著を読んでの感想である。ずいぶん長いブログの文章になったのは、有権者がアベ政権を支持してしまう、今の政治状況をいろいろ考えながら読んでいたからなのかと思う。阿満氏は法然の絶対凡夫の思想というような考えから、日本人の自然宗教を否定しなければならないものと考えているようだ。日本人の中にある自然宗教の影響がアベ政権に従ってしまうお上意識にもなっている、と考えていいのかもしれない。そうかもしれないと思うが、むしろ日本の自然宗教というものは乗り越えると、言うような何とかなるものでなく、事実を確認すべき様なことと私は考えている。科学的に日本人を分析する上での要素という事である。日本人にはこうした自然宗教の民俗性がある。という形で分析する以外にないことだと思う。日本人が人と挨拶をするときに何故頭を下げるようになったのかというような歴史的分析、というようなことに近いことだと思う。

日本人はそうした民族性を深く自覚はしなくてはならないことは確かだ。しかし、それは否定するべきものというより、未来に生かす方法を考えなくてはならない性格のことだ。絵を描くときにより日本人に入り込むことこそ、世界にとって意味あるものになるのだと思う。日本人が宗教的ではない民族であるのは、良いことだと私は思っている。公明党が創価学会を背景に政治の分野で、ご都合主義の悪い動きをしている。アベ政権に対して、現世利益と引き換えにすべて従っているように見える。そうでないというなら、平和の党の安心とはどういうものなのか政策として示してもらいたいものだ。そして創価学会員は、教祖の言葉をどのように聞いているのだろうか。これが日本の自然宗教の影響だとは私には見えない。教祖の池田氏は平和主義者ではないと考えた方が良いのだろうか。こういう政治理念のない宗教の形が、民主主義に最も悪い影響を与える。日本の宗教が政治と関係してよかったことはない。日本人の民族性は政治と宗教と上手くかかわれない関係なのではなかろうか。

日本の宗教は戦争に加担した。その反省が不足している。それは自然宗教の影響というより、日本の宗教が既得権益団体化しているからだ。その教団の繫栄の為には、宗教としての教義すら、軽んじて恥じるところがない。自民党総裁が主張する憲法9条の改定に対して明確に教団として反対しているところはあるのだろうか。お上の意思を忖度するのが得意なのが宗教組織のように見えて仕方がない。法然や親鸞が提唱した浄土宗がどの宗教よりも、寺院も衣装も絢爛豪華である。日本人にはまれなほど派手な姿である。それが凡夫の姿というものなのだろうか。私は悟りを目指す曹洞宗の僧侶ではあるが、生涯凡夫だろうと思う。悟りなど開ける感じもない。しかし、自給に生きること、絵を描くという事を自分の道として、取り組み続けるつもりだ。それは悟りを開くためというのでなく、そうしたいという思いだけだ。

日本人は3000年の稲作農業を続けることで日本人を形成した。それが日本人の精神史の根本にある。このことを考えない限り日本人の精神史は明確にならないのではないだろうか。何故天皇が天皇として存在しているのか。この独特な近代国家を生んだ原因も見えてこないだろう。政府に従ってしまう日本人が形成された理由は、江戸幕府の統治手法と、明治帝国主義にあるのではないだろうか。1500年も学んだ仏教もそれほど精神史に影響があったとは思えない。日本人の自然宗教というべき体質が、こういう国を作り出した。神や仏は実は死んだ祖先のことでる。仏さまと言う言葉はむしろ死んだ人のことの印象が先である。お釈迦様でも阿弥陀仏でもない。ここに抜き差しならぬ日本人がいる。そして、稲作を止め、地域に根付いた暮らしが失われた現状。日本人の精神は危ういところに来ていることは間違いがない。

 

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日本の自然宗教 4

2017-05-17 05:17:35 | 

明治政府が日本人の精神世界を大きく変貌させた。廃仏毀釈と靖国神社である。まさに、イスラム国やタリバンの仕業と同じことを明治政府は行った。寺院を破壊し、仏像を燃やした地域まである。大量の僧侶が還俗させられた。神道を天皇を中心の国家宗教にしようとした為である。この問題は深刻なことで、安倍氏が突然語った美しい日本にまで影響している。安倍氏一派が靖国神社にこだわる姿は、明治政府の末裔のつもりだから。靖国神社というように神社の名前がついてはいるが、他の神社とは全く違うものと考えなくてはならない。日本人の自然宗教的なご先祖信仰を、国家が利用しようとしたものである。それぞれの家に於いて、ご先祖は神様になり、山に帰り自分たちを見守ってくれているという意識があった。それは稲作にを継続する暮らしでは、具体的な感謝であり、また自然の力への畏敬の念と自然災害から神の力で守られたいという気持ちである。

日本人の自然宗教を日本帝国主義成立の為に、利用しようとしたのが靖国神社である。近隣諸国が靖国神社を忌み嫌う理由はここにある。靖国神社では死んだ軍人が、神様になり日本を守ってくれるという意識を形成しようとした。村の鎮守の神様への信仰心は日本人の自然宗教と繋がる、原始に繋がるものだ。この意識を軍国主義に置き換えようとしたものが靖国神社である。ご先祖に見守られて生きる日々の安心感や生きる目的。この信条を国家というものに置き換えようというのが、靖国神社である。徳川家康が檀家制度を作り、仏教を葬式仏教に変え、すべての国民をお寺の下に置こうとしたことに繋がる。家康の奥深さは檀家制度を作りながら、村野神社に関しては否定をしない。ところが明治政府は靖国神社を作る一方で廃仏毀釈を敢行し、仏教と檀家制度を破壊しようとする。

しかし、死者という恐ろしいものを始末してくれて、預かってくれる有難いお寺さんから、日本人の心は離れることはなかった。これは現代の溢れてゆく墓地の存在を見ればわかる。墓地の管理人であるお寺の存在のいい加減さ。公営墓地の方が安くていいと言う程度の立場に今やお寺はある。土地に根差して生きていた、3000年の日本人の暮らしが、影響を与え作り出したものが日本の自然宗教である。中国から渡来した仏教は、奈良時代にも律令制度を支えるものとして、神社も国家宗教として、日本統治の制度に取り入れられる。しかし、その時代においては神社も仏教も死者との関係は薄い。死者を宗教的に弔うという事よりも、土俗的に死者を弔う事が日本人の心には納まりが良かった。沖縄の墳墓がチャンプル文化をよく表している。死者の弔い方には古い時代の薦骨の風俗を残す集まりのできる墳墓である。その沖縄式の墳墓の屋根の上に本土的なお墓の形を載せている。

読み進めているのだが、なかなかこの本の主題は、私には見えてこない。政府をお上と感じ、お上はそうひどいことはしないだろうという、論理を超えた従属意識の根源を探るという事だろうか。自然宗教というものは、絶対的な自然の力の前に生かされているという人類が共通に持つ、自然畏敬の念である。この人類共通の原初的な宗教間の影響というより、仏教的な思想を感じた。読みながら、金沢大学時代の出雲路暢良先生のことを思い出した。極めて論理的な思考であって、明解なようでありながら、結論に至らないのは生きるという事がそういう探求という事なのであろうか。出雲路先生の部屋で週一回集まりがあり、出席させてもらっていた。出席者が順番にその週にあったことを話すのだが、誰かの話から、先生は飛躍して自分の宗教観に入り込んでゆく。あの感じを思い出した。多分、著者阿満氏はどこかへ深い穴に入り込んでいる。その穴ぼこの深さが恐ろしい気がした。

 

 

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日本の自然宗教 3

2017-05-17 04:23:26 | 

天皇の存在が日本の自然宗教を考える上で重要である。また、日本人の個の独立のない、お上に従う意識には、天皇の在り方が影響されているのも確かなようだ。私にはそのその意味でも修学院離宮を考えてみる必要があると考えている。修学院離宮は天皇家がもっともその意味を確認させられた、消滅の危機にさえさらされた時代に作られたものだ。日本の水土の理想郷を作ることで、その在り方を形として確認しようとしているのではなかろうか。それは、日本の3000年の循環農業の行き着く姿でもある。アジア学院というものが栃木にある。鶴川農村伝導神学校東南アジア科を母体とする。ここにおられた方で、アジア学院の成立にかかわった方がいる。小田原のキリスト教会の牧師さんであった。この方が農業を小田原でもやりたいというので、協力させてもらったことがある。その過程でアジア学院が作られたころの話を詳しくお聞きすることができた。やはり宗教的想いを根底に持つ一つの理想郷作りである。那須にあるアジア学院を訊ねて、その感想をより強く持った。

農業では考え方が具体的な農場の形に表れる。斜面を利用している。上部に宿舎を作り、そこで出るすべての排せつ物が、下の方の田んぼに流れ出てゆき、その施設から出るものは水以外はない形であった。修学院離宮も規模はさらに大きいが同じである。修学院離宮の形に江戸時代の天皇家の考えていたことを知ることができる。「17世紀中頃、後水尾上皇によって造営されたもので、上・中・下の3つの離宮からなり、借景の手法を採り入れた庭園として、我が国を代表するものです。」と宮内庁の説明にはある。しかし重要なことは田畑と離宮の関係である。上部の池からの水は下の田畑を潤すことになる。美しい日本庭園ではあるが、溜池でもある。借景には水田も取り入れられている。稲作における文化の側面。何処を天皇家が、日本人が目指すのかの、一つのかたちとして示そうとしたと考えられる。

後水尾天皇は戦国時代から徳川幕府が形成される時代を生きた天皇である。徳川家康という永遠の統治思想をもった権力者の前に、天皇家をどのような存在として維持するかを模索し、示したものが、修学院離宮ではないかと考える。徳川幕府は皇室に対して、尊重し利用してゆくという姿勢になる。家康は仏教を檀家制度という形で利用する。檀家制度が村という組織を強力なものに、日本人を固定する役割となる。深い政治感覚を有した家康は、日本人とは何かをよく理解していた。天皇や仏教を否定するよりも政治に介入させない位置に、止める方針を持ったのであろう。後水尾天皇は上皇になり85歳で死ぬまで天皇家の意味を修学院離宮という形でしめそうしたのではないか。日本を農的な文化によって治める中心となる存在であることを示そうとしたのではないかと考えている。日本人の精神史を考える上では、天皇と東洋3000年の稲作農業の存在がある。稲作は運命共同体を作る。

村という単位の水で繋がる単位を形成する。田んぼの中で生きるという事は、協力しなけば生きて行けないという事である。個人で独立して生きるという事は村八分を意味する。葬式と火事以外にはかかわらないという閉鎖社会。化けて出られると困る葬儀。火事で延焼したら困るときの消火。後はかかわりを断つ。稲作で生きる社会において、村八分になるという事は生存できないという事を意味する。いじめのようだが、暮らしの上で必要であるから行われた処罰制度である。これはムラ全員の賛成があるとき行われる。こうした生活形態から、逃げ場のない村という社会において、日本人が形成されてゆく。この逃げ場のない形は西欧的な封建社会を当てはめて考えると、違うと思う。どう違うのかも書きたいのだが、まだ本を読み終わらないまま、感想を書き続けている。

 

 

 

 

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日本の自然宗教 2

2017-05-16 04:48:04 | 

日本精神史を読みながらの感想文の続きである。壁画であれ、仏像であれ、建築であれ、芸術、学問、宗教、法律までもが中国の最先端思想と技術によって、国の形が作られてきた国が日本である。その中心に存在し、中国文化に巻き込まれないような精神的安定を図った存在が天皇ではなかったのかという私の考え。天皇制は稲作文化に基づいた制度といえる。天皇家は水土の渡来技術を先進的に保持していた。稲作は水土技術がなければできない。しかも一定の権力の形成がなければ大きな土木工事は出来ない。水土を管理する技術は最先端技術であり、天皇家を中心とした集団が、管理運営をしていた。それ故に遣隋使遣唐使を含め、中国朝鮮からの渡来人が朝廷を技術者として支えていた。天皇という自然宗教神のような存在が、日本を維持するよすがであったのではなかろうか。最先端の技術を天皇を介して受け入れる様式の形成。

稲作を行う村々の鎮守に神社が作られはするが、あくまで、土俗的なアミニズム的な信仰が維持され、神道を宗教としてではなく、巨木信仰のように受け入れる。分かりやすく言えば、村の鎮守の大木への意識のようなものが、天皇という存在になる。身近な存在でもあり、永遠を思う遠い神が混同されていく。神社の巨木に戦争責任は問えない訳だ。ここにすり替えが起こり精神の安定が図られる。明治政府がこの天皇を、帝国主義の皇帝と位置付けたことで、天皇の意味が変質する。この天皇に対する見方は、堀田氏とも、阿満氏とも違う。正直私の考えている天皇像が正しい見方なのかどうかも自信がない。しかし、自分が田んぼをやってきた経験から、どうも技術というものはそういう事になるのではないかと考えるようになった。先端技術と宗教の関係を考えてみる必要がある。初期の宇宙飛行士が宗教家になるというようなことも、考える材料になるかもしれない。

日本人が豊かに心安寧に暮らすためには、最先端技術としての稲作を行う事が必要であった。その稲作技術が天皇家を介してもたらされることで、宗教にかかわり深い稲作が形成されていったのではないだろうか。現代でもMOAのように農業から宗教が生まれることがある。福岡氏や川口氏も極めて宗教的と言える。自然と一体化している農業が、日本人の生き方を支配していた時代があるのではないか。農業の中でも稲作は継続性という事が特に重要になる。3000年同じ場所で、自然耕作的に継続できる農業である。子孫に美田を残すために生きるという事になる。自分の田んぼを耕作してゆくという事は土を作っていることである。土は自分一代で結論が出ないようなものである。ご先祖様が土を作ってくれたから、今の自分が良い稲作ができるという実感の中で暮らすことができる。この舟原地区においても、1700年ごろに新田開発が行われ、人口が増加したとおもわれる。300年前の名前は知らないご先祖様が驚くべき程の努力の結果、作り出した田んぼを守り続けてきて今の自分の家族や暮らしがあるという意識が、日本人の村意識の根底にある。

それは近代日本国という国の成り立ちにも大きくかかわっている。問題になるのは明治期の日本が遅れた帝国主義国家として、必死近代国家を形成しようとしたときに、その日本人を天皇を中心とした、不思議な宗教国家ともいえるような不思議な形を作らされてしまったことになるのではなかろうか。日本の今の政治状況を考える上で、重要になる点はここにある。それまでの稲作神の様な天皇さんという村の鎮守の総まとめ的存在とは、隔絶する支配者としての帝王としての天皇の創出。これが現代の日本の保守思想を支配している。三島由紀夫氏、石原慎太郎氏ともに明治帝国主義の妄想家にしか見えない。安倍慎太郎氏は遅れてきた存在として、やはり同じに見える。こうした人たちに天皇家はゆがんだ明治期の天皇を期待されているのだ。日本人の精神史に大きな影響を与えてきた天皇の存在は、むしろ江戸時代の天皇家にあると考えるべきである。少なくとも、この2つの時代の天皇家を峻別して考えなければ、日本人の宗教は見えてこないように思う。(何かわけがわからないのだが、大切なことのようなので続ける。)

 

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日本の自然宗教 1

2017-05-16 04:23:15 | 

今、阿満利麿著の日本精神史を読んでいる。やっと半分くらいまで読んだ。途中で感想を書きたくなった。天皇と日本人問題が深く思考されている。私も何度も読んだ、堀田善衛の「方丈記私記」から話を展開している。なぜ日本人は天皇に戦争責任を求めなかったのかという事である。ドイツではヒットラーが戦争責任の中心にいる。日本では東条英機であり、天皇は埒外にいる普通ではない存在である。戦争責任とは、論理的ではなく距離を置いている存在。軍の独走にむしろ歯止めをかけようとしていたのが天皇であるという、珍解釈まで流布されている。現実はそんなことではなく、間違いなく日本は天皇を中心、天皇の命令に従い戦争を行った。それにもかかわらず、日本人は何故天皇に対して、ヒットラーに対する責任者批判ではなく、戦争に負けてしまい申し訳なかったという気持ちを持たされてしまったかである。天皇に責任をとれという世論は起きなかった。むしろ、天皇が戦犯から外されて、ホッとしたのではないか。責任を全面的に受けてくれた軍人の態度に安堵したのではなかろうか。

日本人は無宗教の人が多いいと言われている。一方で日本人は日本教の信者であるとも言われる。日本人にとって宗教とはいったい何を意味するのか。私は曹洞宗の僧侶であるのだから、間違いなく仏教徒である。同時、日本教の信者にも含まれている自覚がある。日本人は柳田国男氏が民俗学で示したように、近代化された明治時代においても、民族学や人類学の対象になるような、島国ゆえの原始から継続された原住民的な民族性を維持していた。それが柳田民俗学の誕生したゆえんだと思う。ヨーロッパではすでにそうした原住民的要素は薄まっていた。柳田国男は戦後、日本人がどのような精神構造で戦争に至ったのかを研究しなければならないという事を考えた。それをこれからの民俗学の主題にしなければならないという事を主張している。しかし、その学問の結果が示されたとまでは言えない。そこにある問題は天皇と日本人の関係に表れている。

天皇家にたいして何か自分のご先祖様に繋がるような存在、他人事ではない何かがあるのだろう。日本の神は普段は普通に暮らしている。神が降りて来て乗り移り神事を行うのが一般的である。神が降りてくるのは、一緒に暮らす人の場合と、外部からくる異人のこともある。常人がわざわざ、狐憑きやお犬様になろうという場合さえある。こうした感覚の中に日本の自然宗教がある。巨木信仰と近いものが、天皇信仰の一面にはある。山とか海とかに対する自然宗教的信仰が、根強く日本人の中に近年まで維持されてきた。そこに天皇という神ともいえない存在が3000年影響を与え続けたのではなかろうか。例えば、舟原には秋葉神社の小さな祠が、山の中にある。毎年自治会でひっそりとお祭りする。火伏の神様であるから、もし火事が出た時お参りしていなかったでは済まないという気持ちがある。災いを避けるために神社に村の鎮守にお参りする思いは、刻々薄れはしているが、完全に無くなったわけではない。その秋葉神社のお参りと、天皇の存在はまったく関係がないともいえない感覚がある。

漁師であれば、村の海を司る神社に豊漁と、漁の安全を祈ることは今も真剣に行われている。こうした日本人の習俗ともいえるものは、いわゆる宗派宗教とは別物である。村を守る神社と言っても教義がある訳ではない。自治会が行ったとしても、憲法で示す宗教とも言い切れない側面がある。村の鎮守は日本教の一面としか言いようのない、日本語を話すという事と同じような、民族特有の文化と考えられる。私は大半が農民である日本人は、こうした気持ちの根に東洋3000年の循環農業があるとかんがえている。未来永劫続く、続けなければ有利性のない農業の形態が、天皇家という耕作の技術を司る神官という立場で関係をしているのではないか。種まきをいつするかを、伊勢暦でおじいさんは決めていた。つい50年前の話である。伊勢神宮は農業者にとっては農業神なのだ。伊勢神宮の神主が天皇である。実際には少し複雑だがそう考えても間違いがない。MOAでは今でも種をお祭りするそうだ。こうした豊作を祈る気持ちと天皇家は繋がっている。(続ける) 

 

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イソップ寓話

2017-02-22 04:06:36 | 

寓話ーーーむかしの鶏は夜中でも始終鳴いていたものだ。今では明るくなってからだけ、元気いっぱいに鳴いている。昔の猫達は鶏の声がうるさくて、始終不機嫌なものだった。四六時中起こされているのでは、素早くネズミをとることができない。猫はお腹を減らしてふて寝をしていた。鶏は猫がいつも昼間から寝ているのが寝不足とは知らなかったのだ。夜猫がネズミを捕ってくれているのを知らなかったのだ。猫仲間では、鶏と話し合いをする必要があるという事になった。いつでも餌を探しているくらい食いしん坊の鶏のことだから、夜中に鳴くのを止めるはずだという事になった。鶏さん、鶏さん、私たち猫は、夜の間中ネズミ捕りをしているのだよ。ネズミが増えれば、餌となる落穂が無くなってしまう。これには鶏も驚いた。知らなかったとはいえ、馬鹿なことをしていたものだ。それ以来、鶏は明るくなってからだけ、鳴くことにした。教訓、話してみると、解決することもある。---今書いてみた寓話。

アンデルセン童話とか、グリム童話とかの続きで、イソップ童話というものがあると思っていた。いつ知ったのかも忘れてしまったが、イソップは童話ではなく、寓話というものだということを知った。紀元前6世紀にギリシャのアイソーポスという奴隷と言われる人が、寓話をまとめたとされる。現在のイソップ寓話集と呼ばれるものには、アイソーポスのものだけではなく、それ以前から伝承されてきた古代メソポタミアのもの、後世の寓話、アイソーポスの出身地とされる(小アジア)の民話を基にしたものも含まれているそうだ。イソップ寓話がキリスト教以前の中東にあった沢山の民話が由来のお話と考えればいいようだ。旧約聖書もそうらしいが、なんとも言えないような理解しがたいお話が、中東には残されている。中東世界の奥深い哲学のようなものが窺える。「アリとキリギリス」「北風と太陽」「ウサギとカメ」誰でも知っているお話である。

ほとんどのお話が動物や虫の出てくる話である。身の回りにいる動物たちが起こす、なるほどというお話やどうしてという話。何を意味するのかが分からないものも結構ある。おおくが人間の教訓という体裁になっている。人間も登場はするのだが、ほとんどが飼われている家畜とのかかわりという体裁で脇役が多いい。人間と神様という話もある。ウサギと亀の有名な話も、本来かかわるはずもないものが、その生き物としての全く異なる特徴を話しの筋書きとする。つまり飛び跳ねるウサギと、ゆっくりと歩く亀。これを人間の目線で競争をさせるわけだ。何故お話が教訓になるのか。教えを子供たちに伝え残そうという事なのか。イソップの話の中には、そうだと同感できるものは私には少ない。ちょっと何の事だか。というピンとこない話も多いい。民族性の違いなのだろうか。

実は寓話は、世界中の民族に残されていて、柳田國男氏のもも太郎の誕生にはそのことが書かれている。地域を深く掘り下げれば、必ずグローバルな翼が折り畳まれている。ローカルの深い根っこがグローバルにつながる。だから、よりローカルである必要がある。10年、100年、1000年と時間の熟成を経ながら、民話は伝承され、何1000キロも旅をする。民族の経験の時間が、民話を生む。昔話というものはすべてそうして練り上げられたものだ。常民が暮らしの中で、面白いと思われたものが残ってきたのだろう。イソップ寓話もその点で読むと、含蓄が深い。皮肉に読めば、どの話もそうではない結末が読める。昔話は教訓目的というわけではない。お話自体を意味を考えずに楽しむ。イソップ寓話には乾いた感触があり、行いに善悪がない。その行いにより馬鹿を見る話が多いい。日本の昔話には湿度のある情緒のようなものがあり、因果応報や恩返しになる。

 

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沖縄本

2016-08-08 04:22:55 | 



蔵王 10号



沖縄から戻り、沖縄の本を読んでいる。「グスク文化を考える」新人物往来社 今帰仁教育員会編。「紅型」サントリー美術館。「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」集英社新書 比嘉康雄 著。「古琉球」岩波文庫 伊波普謙猷 著。「沖縄文化論」 岡本太郎 著。「琉球の風」講談社文庫 陳舜臣 著。「沖縄学」新潮文庫 仲村清司 著。行ってみてから読むとなかなか面白い。特に、「グスク文化を考える」は面白い。今帰仁村というところに興味が出てきた。これはシンポジュームをまとめた本だ。こんなシンポジュームを開いた村ということがすごい。これは世界史的な視点に基づいている本だ。沖縄のことを考えると、日本という国がアジアの中でどのような位置づけの国であるかが見えてくる。閉じていない日本があるということを知る。交易ということもあるが、縄文的日本人というものが、何故、南北の沖縄やアイヌ文化の中にあるのかというようなことだ。

日本人の血液やDNAを調べてゆくと、何故か、沖縄の人とアイヌの人は似ていることがあるらしい。ゲノム解析によると、現代日本列島人は、縄文人の系統と、弥生系渡来人の系統の混血であるという解析になるらしい。アイヌ人から見ると琉球人が遺伝的に最も近縁となる。私の頭の中にあるイメージでは、3万年前後ぐらいに、東南アジアの海洋民族が、日本列島に移り住んできた最初の日本人である。その最初の地点が八重山諸島。そして、日本列島全体には朝鮮半島からの渡来。樺太経由の渡来。徐々に日本人が誕生する。それが縄文日本人として1万6000年ごろに成立する。そのご、中国から稲作文化をもった、弥生人が移り住んでくる。そして徐々に混血をしながら、新しい日本人が形成される。それは九州や関西を中心に広がってゆく。しかし、南北に分かれたアイヌの人と、沖縄の人たちは混血することが少なく、縄文人的体質を残して存在を維持できたのではないか。縄文人的な両者の資質こそ、これからの日本を考える上で、一つの大切な要素になる気がしている。

この上の文章を書き始めたのは、もう3年以上前のことだ。絵を掲載しているのでわかる。その後、沖縄関係の本が山積みになった。音楽関係の本が一番多いい。八重山の唄の文化に興味が尽きない。人間が豊かに生きるという本当の意味がみえる。八重山合衆国という本がある。八重山に様々な人が移り住んで、様々な文化が融合しながら、一つの国が出来たという事を分析した本である。そのことは八重山の唄に表れている。中国からの文化、日本からの文化。そいうものを受け入れながら、自分たちのものに育て上げてゆく。その力と自信にあふれている八重山の文化。一つにはその場所がマラリヤで厳しい環境ではあったが、人が暮らすには楽園のように豊かな場所だったのだ。そこに出来上がった稲作文化の魅力は尽きることがない。稲作こそ中国から八重山に伝わり、また、日本から洗練された技術と共に逆輸入される。いろいろ読んでみるが、八重山の稲作については、まだ不明なところが多いようだ。

2万年前の石器時代の人骨が八重山からは出土する。日本最古である。アフリカに発生した現生人類が、徐々に生息域を広げ、日本にまでくる。この人たちは北京原人などの旧人類とは違う。台湾ルートは八重山への冒険的航海の壁。朝鮮半島ルート、北海道ルートと3つの方向から、日本列島にたどり着く。日本列島がこの人の流れの終点。その数万年前の日本列島は人間が渦を巻き、異種の文化がぶつかり、流され、よどみを作り、徐々に日本人を作り出し始める。縄文人と稲作文化を持った弥生人との関係は、かなり融合的なものと最近はされている。日本列島には、引き続き様々な文化を携えた新たな人間が流入を続けていたのだろう。それを、受け入れたり、拒絶したりしながら、日本列島で、日本という塊を徐々に形成する。その典型が八重山であり、いまだにその香りが残っているようにみえる。

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琉球布紀行

2015-02-15 04:07:14 | 

「琉球布紀行」澤地久枝著(新潮社出版) 何故琉球弧に布の文化が育ったのか。この事には紅型の素晴らしさを知って以来、興味を持っている。澤地氏は沖縄の文化歴史に興味を持ち、沖縄大学に2年間通ったそうだ。その間、琉球弧に点在する残された布の担い手を訪ねている。この本はその記録である。澤地さんは和服を大切にされている方のようだ。日本人なのだから、確かに和服で暮らすという事も悪い事ではないと思う。しかし、和服は労働には不向きな高価なものである。お寺で僧衣で暮らしたことも少しはある。管理は確かに大変だった。実用から和服が離れて行くのも仕方がないと思う。しかし、琉球弧の布の美しさは際立っていると思う。世界の布の中でも最高の物だろう。琉球弧では島々によって、全く違う布の様相になる。その基本となる繊維すら、絹、からむし、芭蕉、綿と異質なものになる。知識の浅い私には、ただ美しいとしか言いようもない世界。

沖縄の布の素晴らしさを最初に取り上げた人は、日本民芸運動の柳宋悦氏である。その親族の国画会の方と親しくさせていただいたことがあるのだが、常に和服で暮らされていた。日本民芸館には琉球の戦前の貴重な布が沢山保存されているそうだ。確かに紅型を初めて見たのは駒場の民芸館であった。民芸館に保存されていたからこそ、復元された布もある。柳氏は世界で一番美しい布と書いている。沖縄の文化は音楽と布ではないかと思う。何故、ここまで根気を必要とする繊細な布が、暖かい島々ではぐくまれたのか。このあたりの事を考えると、日本人の資質が見えてくるような気がする。古い時代の稲作文化が琉球弧を通して、日本列島に至り、その技術や品種が洗練され、琉球弧に帰ってゆく姿。南方の島々から渡ってきた日本人が、徐々に北上を続け、又、返す波のように、北から南へと分化が影響して行く。離島から抱く都への憧れと、都の需要への応対。

布には薩摩藩の重い人頭税が影響している。澤地氏はあまりその事には踏み込んでいない。あえてその事に頭を巡らさないで、琉球の布の美を味わおうとしたのではないだろうか。あの南の島で、これほどの根気仕事を続ける事は、並の人間にはできない事であろう。雪国の暮らしの中で生まれたと言われたら理解できるのだが、あの明るい陽気な、空気の中で、却って暮らしの重さを思う。からむし織が宮古上布であるという事が、何とも不思議な気がした。あの鶏の好物であるカラムシと言うどこにでもある草の繊維が、繊細な織物を生み出すすごさを思う。宮古島のお土産に、本物の宮古上布の古布の端切れを繋いだ、ものを買ってきた。これを私の絵の間に飾ってある。戒めである。手仕事の意味。

現代の様なあわただしい、金銭が優先される時代でも、琉球の島々には織物に取り組まれる若い方々が存在する。人間と言うものは素晴らしい可能性のあるものだ。究極の布と言っても良い、琉球の織物が次の時代にどのように残されてゆくのだろう。和服と言うものがまた使われる時代は来るのだろうか。化学繊維とは別に、自然素材の布が、評価される時代は来るのだろうか。祖母が蚕を育て繭から絹糸を取り、布を織っていた。嫁入り道具に機織り機を持ってきたのだそう。私はまだそういう暮らしの中にある布の実際を見た経験がある。それを思い出して、カラムシから繊維を取り出してみた事がある。以外に強い繊維と言う事は分ったが、それを繋いで糸にして行く事は、気の遠くなるような事だと分かった。布と言う物の大切さと、それを文化に育てた、琉球の島々に暮らす人々の心の奥深さは、次の時代にとって重要な意味がある。

 

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三線のチカラ

2015-02-07 04:28:47 | 

「三線のチカラ ー―形と美と音の妙―― 」沖縄県立博物館で行われた企画展のカタログである。CDがついていて、開鐘三線の音が記録されている。三線は楽器なのだから、音色の良さが一番である。伴って形の美しさと言うものもある。そして歴史的に評価されてきた開鐘(けいじょう)と名ずけられた名器がある。その名器の音と、写真を記録した貴重なカタログである。沖縄の博物館に問い合わせたところ、まだあると言うことで早速手に入れた。このカタログを読んでいると、三線と言うものが、沖縄の心の一つの姿であると言ってもいいのではないかと思えてきた。沖縄は米軍と日本軍との地上戦が行われ、焦土と化した。古い三線はかなりの数が失われたということである。戦後いち早く物資が無い中で、カンカラ三線と言うものが登場して、音楽への渇望を満たした。沖縄からハワイに移民した人達は、三線を宝として携えて渡った。今も、ハワイに古い三線は沖縄を越えて残っているらしい。

琉球王朝では三線は武士の嗜みであり、そうした楽師としての役職もあったと言う。女子には禁じられていた。音楽を尊ぶ沖縄の文化の歴史が書かれている。この本では中国との関係が三線を通して様々書かれている。江戸幕府に三線を献上する。その三線が日本にのおる最古の物と言う事だ。三線の楽師を送るようすの絵図もあるのだが、やはり、中国から来た楽器として、三線の中に道教的な思想をはぐくんだようだ。富士山が信仰の対象になり富士山図と言うものが出来たように、三線という楽器の形の中に精神性を考えている。その為もあるのか、棹の重要性が強調される。棹の上部を天と呼ぶ。棹が道であり、胴の中に心がある。3本の糸は男糸、中糸、女糸と呼ばれる。楽器として一番音色に影響する胴は意外と重視されていない。三線の発する音色を、精神世界の表現として考えている。その意味では宮中音楽の雅楽的なものと共通するのかもしれない。王朝文化としての三線が庶民に広がってゆくのは、明治期以降のようだ。

そして、今や沖縄の生きた民謡を生み出す、基礎となっている三線の音色と音律。三線を毎日弾いている。曲が引けるという訳ではないが、よい音が出るだけで今のところ満足である。実によい音色である。不思議なものである。古曲の三線は長唄の様な曲の伴奏の為の物のようだ。津軽三味線のように、演奏そのもので聞かせると言うものではない。唄の無い三線の曲と言うものは無いのだろうか。本のCDにある曲はいわゆる沖縄民謡とも違う。どちらかと言えば、重い緊張したものだ。本調子自体がかなり低音でできている。そしてこの低い音色こそ三線らしくすばらしい。販売されている三線は、私がイメージするものよりもどうも一段高い音だ。心に深く沈みこんでゆく、月に照らされたような音色というより、アメリカ的な太陽を感じさせる軽快な音色である。

3月4日は三線の日と言う事である。「ゆかる日 まさる日 さんしんの日」この日には沖縄に行って、大工哲弘さんの三線と唄を聞く予定である。古謝ミサ子さんも出演される。大工さんは八重山民謡の名手でありながら、反戦の歌も歌う。どうも1部2部入れ替え制と言う事で、お二人を聞く事は出来ないようだ。

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ニワトリとともに

2014-12-24 04:23:02 | 


海 中判全紙 渦巻く海、・・・。海は美しいが怖いものだ。自然と言うものはそもそもそういうものだ。


「ニワトリとともに」表紙




農家になろうというシリーズで「ニワトリとともに」という写真でできた本を農文協から出していただいた。この本の企画については私は全く受け身で、農文協の芳賀さんが作ってくれた本である。全く、有難く、申し訳ない限りだ。写真を撮影してくれたのが、常見藤代さんと言う方である。写真が素晴らしい。被写体がみすぼらしいので、問題はない訳ではないが、暮らしの感じが出ていて自分で驚いてしまった。たしかにこんな気分でやっている。写真で写した所で、その実態が写し取れる訳ではない。所が、常見さんの写真はある意図を明確に写している。つまりある世界を創造物として作り出している。この事に驚き感動した。むしろ常見さんと芳賀さんの物語を笹村農鶏園を通して、映し出している。養鶏業をやめるにあたって、こんな素晴らしい写真集を出して頂けた事は、何と言うご褒美かと思う。何と感謝して良いのか分からない。まさかこんな嬉しい形があろうかと思いもよらなかった。

養鶏業をやったのは、好きな事で暮らしたかったからだ。本当は鶏を飼っていればいい事だった。絵を描いて居ればいいというのと同じだ。それくらい、子供のころから鶏が好きだったのだ。爬虫類が好きで、犯罪と言われてでも隠れて、大量に飼う人がいる。私は子供のころからの鶏好きで、ビルの屋上に兄と二人で鶏の楽園を作った。自分の鶏種を作りたいという願望があった。江戸時代にはそういう道楽に生涯費やしてしまう、道楽者というか、粋に生きる者が結構評価され、語り継がれている。私の場合、鶏を飼う事は止めようもない。しかし養鶏業は一区切りついた事である。こんな私の事を本にしてもらうという事には、申し訳ないという思いがあった。申し訳ないが、そういう生き方をそのまま本にしていただければ、好きな道を生きようという人には価値もあるかもしれないと、少し考えお受けした。

好きな事を好きにやっても、何とかなる。こういう事だと思う。そうした精神の一つが農文協の提唱する田園回帰ではないか。競争から抜け出ても怖い事はない。いや、むしろ楽しい。そうした無数の庶民の一例であるのが私だと思う。小さな農家である。仲間と共同する自給である。それでも生きていけるという、地場・旬・自給がある。技術がある訳でもない。みんなで助け合えば、何とかやれる。何処かで農業を学んだこともない。全く好きと言うだけの自己流である。好きこそものの上手という、あれである。本当に好きな事をやれば、何とか生き抜けるものだ。そういう実感が65歳まで来てもてた。今は完全な安心がある。生きるという事は自分の好きにやっても、どうとでもなるという確信がもてて、人に勧める事が出来る。私は父からそれを教えられたが、この本が、そういう気持ちを載せて伝える事が出来れば、どれほどうれしいだろう。

後は絵を描くという好きな事である。こういう自分らしい絵を描くという事である。私の絵を見れば、好きな事をやるのが一番だと、分かるような絵を描きたい。今はそういう気持ちである。今日はクリスマスでもある。本当は皆さんに、この本をプレゼントしたい。読んでみたいという人全員に差し上げたい気持ちだ。読みたいが買うお金がないという人には、私からプレゼントさせてもらってもいい。何とか買えるという人には、一人でも多くの方に購入してもらいたい。それでなくては、せっかく作って頂いた、農文協の芳賀さんに申し訳ないからである。私と言うどうにも絵にならない材料で、こんなに素晴らしい写真を取ってくれた芳賀さんにも、申し訳ないからである。人間65歳まで生きていると、こんな素晴らしい事が起こるのだとういう、感謝いっぱいの年であった。そうもう一度、後は好きに絵を描くことである。
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青空文庫

2014-12-11 04:44:30 | 


下田の海 中判全紙 下田湾を西側から見ている。中央の岬が水族館のある所だ。





最近一番読むのが、青空文庫の本である。青空文庫は青空のように誰でも無料で読む事が出来るインターネット図書館である。本には著作権というものがある。しかし、作者が死んで50年経てば、著作権は消滅し、万人共有である空の様なものになる。私が、高校生のころに死んだ作家のものは、著作権が終わっているという事になる。その事は、私がこの本は素晴らしいから公開したいという本を、ネットで公開してもいいという事である。しかし、そういう努力があちこちに散らばっていたのでは、読むほうもなかなか見つけにくい、そこで青空文庫という形で、文庫を立ち上げた人達が居たのだ。1997年7月7日 青空文庫設立呼びかけ人 富田倫生・野口英司・浜野 智・八巻美恵・らんむろ・さてぃ・LUNA CATとある。その素晴らしい発想と意見が、青空文庫の提案として掲げられている。と言ってもまだまだ何でもあるという事でもない。だからタイプを打って、大いに青空文庫に協力してもらいたいとある。協力してくれる人を工作員と呼んでいる所がまた良い。

富田倫生さんという方が青空文庫の推進には大きな役割を果たしたという事である。その方が、61歳という若さで亡くなられて、青空文庫の底本になった書物を、あの豊島に実際の青空文庫として、立ち上げたというのである。あのというのは廃棄物が山のようになった瀬戸内海の小豆島のそばの、豊島(てしま)である。環境運動の象徴の様な島で、環境運動にかかわったことのある者には、何かめぐりあわせの様な気になる。著作権などというものは、有害廃棄物の様なものだ。50年と言わず死んだら終わりでいいはずである。一個人の創造したものを、遺族まで恩恵を受けたいという事がおかしい。著作権はその作家が自由に創作を続けられる範囲のもので充分ではないか。アメリカはこれを70年にしろと、TPP交渉で主張している。日本政府も受け入れる寸前まで来ている。知的財産権というものを、資本の権利と取り違えている。青空文庫では70年延長説を暴論として、抗議の声を上げている。

青空文庫は現在、1万数千冊の本がある。まだまだ増えてゆく事だろう。青空文庫をよく読むようになったのは、タブレットを持って出かけるからである。電車の中で読んでいる。こうして読むようになって一番感じた事は、文章の力というものを痛感する。内容以上に文章に力のあるものとないものがある事に気付いた。良い文章を読んだ後、同じ視線で自分のブログの文章を読んでみると、どうにもならないという事に気付いた。しかし、文章がいいという事と同時に、文体の好き嫌いという言う事があるようだ。坂口安吾や、芥川龍之介の文章が好みである。やはりいちばん本をよく読んだのが、高校生の頃だったからかもしれない。その頃良く読んでいた人達が、もうすぐ著作権切れの人が多いい。しかも、現存作家より読み易いという事も、自分の読書歴が反映しているのかもしれない。最近の作家の文章になじめていないという事が分かった。

淡々と書く能力が不足しているのでないか。井伏鱒二さんが一番好きなのだが、その言い回しだけで引き込まれてしまう。絵でも同じで、内容の前にその描き方でだいたいの事は見えてくる。文章でもどうも同じなのだという事を再認識した。音楽にレコードが出来て、文学に青空文庫が出来て、絵画でも必ず高度な印刷技術が出来、本物と変わらぬ複製できる時代が来る。そのとき、ダビンチの繪と、マチスの絵と、自分の絵を並列に並べてどのように見えるようになるかは、昔から興味がある。そのつもりで絵を描いている。では本という活字になったものと、タブレットで読む物と何か感触が異なるかと言えば、そんな事は全くない。古い本の感触を再現したような、えあ草子という縦書きのもある。TEXTと言う横書きのワード文章と同じものもある。私にはどちらでも同じようだ。むしろ紙で読むときには後でその本がごみになりそうで嫌であった。
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田園回帰 現代農業1月号

2014-12-08 04:34:46 | 

上の畑 12号 少し前の絵である。畑をやりながら考えて描いた絵である。





子供の頃、正月が早く来ないかと首を長くしていると、新年号が12月に出る。もう正月と考えたいがいいかと、親に聞いた。正月になって無いのだから、正月になって開きなさいと言われ、ひどくがっかりした覚えがある。現代農業の一月号は農家のかしこい買い物術特集である。農業の雑誌ではあるけれど、読者の興味を引き付ける、なかなかの企画を出す。私はホームセンターに行ってうろついて歩くのを趣味としている。あまりによく顔を出すので、悪いので行ったら何かしら購入するようにしている。と言いながら、買わずにいられないいい訳。例えば草刈り機の交換プラグとか、余計なパッキングを買ってしまったり。最近買ったのは工具セットの箱である。なんとなくあるといいというものを見っけてしまうのだ。時間が無いので、ついネットで買うのだが、見て買う方が楽しいし、間違いは少ない。そうだ最近いつも着ている作業着は、ホームセンターで買った1500円のジャンパーである。ネプカと書いてあるが、どうも大阪にあるアイトスという会社で、ミャンマーとか中国で生産しているらしい。

いやそういう事ではなかった。現代農業の主張の記事がなかなか大切な事を書いてある。「地方創成とは何か。」ということである。その前にもう一つ気になった記事が、美味しい薬酒、キンカン・柚子酒とある。見開きの2ページに絵入りで作られている記事だ。渡辺修氏が書かれている。あれこれホワイトリカーに浸けこんで飲んでいるので、参考にした事のある人だ。薬酒は飲み過ぎてはいけない、30~50ccとある。そんなちょっぴりというという所が難点であるが、私はほぼ毎日、薬酒を飲む人体実験をしている。100歳まで生きた時に効果の判断が出来る。地域の総力で田園回帰時代をひらくとある。田園回帰はたしか、農文協の造語ではないか。農文協では田園回帰シンポジュームを開催していた。明大の小田切教授の田園回帰の意味、という文章がある。日本創成会議の市町村消滅論に対する反論である。私も小田切教授の考えに同調したいが。美しい村の一つで、南信州中川村という所がある。村長の曽我逸郎氏が内容のある文章をリレーエッセイとして載せている。

ふるさと回帰センターというものもある。田園回帰よりふるさとの方が、なじみやすいという事だろう。故郷に戻ろうという人を支援しようという組織だ。年間1万人以上の人が相談に行くという。都会に出る為の相談センターが地方にあるとは聞いた事が無い。勝手に都会に出て行ってしまうのだ。行政が支援しなければならないようでは、田園回帰の流れはできないと思っている。止めても行きたくなるようでなければ、田舎暮らしはできない。田舎暮しで一番必要なものは医療機関というのがアンケート結果だそうだ。全く考え違いをしている。自分の体の管理ぐらい自分でやると。この覚悟を持たなければ、田園生活は無理だ。甘えた都会生活をふるさとに期待するようでは、まだまだ覚悟が不足している。学校やスーパーマーケットも無ければ暮らせないとある。先ずこういう所が気になるようでは、田園暮らしは止めた方がいい。

田園暮らしは自給の思想である。自給というのは、教育から医療まで通しての事だ。その覚悟なくして、自給は語れない。大学の授業くらい、みんなが協力すればできるだろう。という事である。私は水彩画とその材料に関しては、どこの美術大学の教授より詳しいつもりだ。自分の身体の養生に関しては自己責任の覚悟をしている。きちんと自分で暮らすという事が、すべての前提である。自給とは共同だという事も認識しなければならない。一人は気分は良いだろうが、偏屈になる。個人主義なら、都会の方がいい。主張では、瑞穂の国を作ろうと提唱している。飼料米であれ燃料米であれ、ともかく田んぼを維持することの重要性が田園回帰の原則である。出来れば地域のみんなで共同の田んぼをやることだ。田園に回帰して、人間を変えるくらいの気持ちが無ければ何も得られない。最後に書かれている事がまた良い。2015年は国際土壌年という事だそうだ。土壌が農業の下部構造だ。良い土壌なくして、良い作物はない。すべては土壌に由来する。都会には土が無い。と智恵子は言わなかったか。
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里山資本主義3

2014-08-28 04:21:54 | 


塩山 3号 






「里山資本主義」藻谷 浩介著が世間的にも話題に成り、ベストセラーになった。評判になるに伴って、批判も様々出てきている。この本の評価は以前このブログ1,2に書いた。評価は書いたのだが、全面肯定したわけではない。簡単にいえば、そんなにうまく行くなら簡単だ、というのが、里山にかかわってきた者の実感がある。楽観に過ぎる、いいとこだけ言ってるんじゃん、と言うのは評価しながらもある。バイオエネルギーはいくつか見学もしたが、仕事としては、ほとんどの事例が経済としては失敗している。里山の樹木などすべてエネルギーにした所で、日本のエネルギー消費の5%にも満たない。と言うような意見が正論だと思う。しかし、批判もいろいろ読んでみたが、見当違いの揚げ足取りの様な、重箱の隅をつつくような取るに足らないものが大半であるのも事実だ。正しい批判に対する回答が、実はこの本の背景には広がっていない。つまり里山の見方が残念ながら浅い印象は避けがたい。実践の観点の不足ともいえる。

この本の里山資本主義の考え方は、一般には広げることのできない特殊解の連なりだ。一般解を求めるのが、マネー資本主義なのだから、経済モデルとしては役に立つとは言えない。ほとんどの人に有効なものが商売になる事業だろう。9割の人が車を使うとすれば、車を生産するようにマネーは動く。ところが、里山資本主義では、残りの多種多様な少数派の人が対象である。車を使わない人を対象にして、移動手段を考える様なものだ。それは変わり者であったり、特殊な生活をしている人であったり、そもそも反社会的な人であったり、こうした3%の人の多様な暮らしぶりの人達が対象と言うのが、里山資本主義の守備範囲ではないか。資本主義的な意味での商売にならない話であるから、現代社会の中で普通に利益を上げて生活しようと言う人。あるいは資本主義にどっぷりつかっている経済評論家には、馬鹿げたことにしか見えないのも当たり前である。当然、お金の流れの合理性がない。その上でのことなのだ。

里山資本主義は一種のユートピア思想の一つで、近代的な経済学理論の分析からは、埒外のことに見えて当然である。その前提で、もう一度、さらに深く里山資本主義を考えてみる必要がある。私は同じ範囲のことを、つまりライフスタイルとでもいう意味でいえば、ソフトランディング地点と考えている。マネー資本主義の社会が、きしみ始め、行き詰まる。その兆候は見えてきている。エネルギーの観点でいえば、石油が膨大に産出されたことで、産業革命が推進され、資本主義は目覚ましい展開をした。先に生産力を確立したものは、生産方法を持たない人達を購買層にすることで、資本を拡大して、拡大再生産を計ってきた。それは国内の消費の拡大の余地が大きい地域ほど、生産手段を独占し急膨張が出来る。それが限界に達すれば、国外に消費者を求めて、あるいは、生産コストを下げるために、安い労働力の国に進出する。所が石油には限界がある。コストに反映して、石油を持てる者と持てないものの、非正義が拡大する。それは新たな競争の始まりで、勝者と敗者が出来る。

農業でも機械化することで、生産費が下がるが、同時に石油への依存度は増加する。そして、為替の変動が輸入石油のコストを動かし、農業の利益を動かすことになる。為替と、石油の存在が、競争の主たる要因になる。この影響というものは、直接の、生産性とは別のことであるが、資本主義の競争原理に置いては、単純な価値基準で順位を付けてしまう。その為に、敗者には逃げ場がない。勝者と敗者の格差は人間としての生産能力の価値とは別に、決定的に開いてしまう。こうした価値観の矛盾するの世界は必ず破綻が待っている。大きな崩壊が近づいているというのが、私の感覚である。その軟着陸地点が、里山的な循環する暮らしだと考える。この点が、競走と発展と言う感覚の中に居る人には、脱落としか見えないところだ。良い社会の実際の暮らしという観点でいえば、すべての人が普通に暮らしていることで、大差がつかないことが大切である。その普通の暮らしという観点でも、必要は生産と言うものは、里地里山の中にあるということだ。読みなおしてみると、少しおかしい。又考えてみる。
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グローバリズムの終焉

2014-07-03 04:11:31 | 


山北の斜面 10号 東名高速で切り立ってしまった、崖のような畑だ。もとみかん畑だったのだろう。今は畑なのかどうか、元畑という位の加減だ。



「グローバリズムの終焉」農文協 関 曠野 藤沢雄一郎 著 署名に惹かれた。グローバリズムが終わることは確かである。その過程とその理由というものが知りたかった。このことを考えるといつも、悲観的な思いに駆られる。悲観しながら、その終焉の理由を確認しておこうというのだから、少々辛い作業になる。もし、書名が地域主義の復権というようなものであれば、また違う読み方はできるのかもしれない。藤沢さんという人は、まさにその地域主義の人らしい。地域で生まれ育ち、地域で農業を志している人だ。そして都会から地方に就農する人たちを手助けしているらしい。らしし、らしいと書くのは具体的には何をしているのかまではここでは分らないからだ。田中康夫知事時代に、新規就農里親制度というのが出来たらしい。何と驚いたことに、私はこういう制度がどうしても必要だと、20年前から主張して実現できなかったことだ。政治というものの善悪は恐ろしいものだ。その結果安曇野では新規就農者がかなりあるらしい。

田中康夫氏は農業に縁もない人間であるが、大事なことは理解していたようだ。もしかしたら藤沢さんの助言もあったのかもしれない。長野では田中時代が終わっても、この制度は継続され、都会からの移住の農業者が結構増えているらしい。こういう現象は全国で散見されることである。地方の集落が消滅しかかっていると言っても、案外に元気な地方もない訳ではない。他所者に来てほしくないという、心理があるのでは活力が失われる。元気のある地方の理由はよく研究する必要がある。つまりそういうことは、グローバリズムが終わった後のことなのだ。今は、関さんがどのような理由で、グローバリズムが終わるのかの理由を書かれているかである。情報の整理という形のようだ。私の関心のある江戸時代をエネルギーのエントロピーという観点で分析している。江戸幕府は平和な国づくりに、停滞こそ重要と考えていた。現状維持が何より大切にされた。祖先に見守られ、子孫に残す水土の技術。

惣村のことが取り上げられている。歴史というものが、権力者の歴史に終始して、政権の水ばかりに目を奪われるが、その背景にある、人間の暮らしていた社会の変化に着目することは、極めて重要なことだ。私は民俗学からのアプローチに関心があるが、ここでは経済の仕組みという観点が取られている。ヒットラーは村長に成れない。人間の暮らしの規模の問題の重要性。江戸時代の幕藩体制に置いての、藩の自立性と、幕府の統治。なかなか面白い指摘が続いている。それにしても難しい。難解という訳ではないが、分ったという気にはなれなかった。私の基礎知識が不足しているのだろう。情報が極めて豊富である。多岐多様な情報をグローバリズムの崩壊という一っ点に集約して行く。相当に頭の構造が、複雑化していなければ、こういう構想は立てられないだろう。

前書きは、「農とは特定の労働のことではない。農的活動を通して世界における人間の地位を理解しようとする心身一体の作業ーーー「野の文化」agri-culureなのである。」と結ばれている。この観点で、資本主義というグローバリズムを読み解くことは、誰にとっても重要なはずだ。心身一体ということは、少し頭脳で理解するとは違うということだろう。頭だけで理解する人には、グローバリズムの勝利だけが構想されるのだろう。ヒットラーのように。安倍氏のように。私達が目指すところは、人間が幸せに暮らすということにある、食べ物を作るという当たり前の行為の持つ意味なのだろう。この本を読みこなした訳ではないが、ここには様々な観点がちりばめられている。江戸時代の惣村とグローバリズムの比較論を、ニチニチ農作業を通して、考えてみるということは極めて重要な、軟着陸法ではないか。
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生活と自治 4

2014-04-12 04:44:23 | 


乗鞍岳 10号 乗鞍には子供の頃から、何度か行った。ずいぶん景色も変わった。






生活クラブの発行している「生活と自治 4」に農の会のことを取り上げていただいた。上垣喜寛さんというフリーライターの方が記事を書いている。写真は越智貴雄さんである。力のある文章と写真で驚くほど良い記事に成っている。農の会のことを大げさでなく、正確に記事にしていて、その上で良く実情が伝わるように書かれている。農の会は様々な角度から、自分流に分析することは可能だと思う。研究論文として何人かの人も取り上げたが、成功した文章は読んでいない。いくら分析したところで、何の為の分析かが社会的な意味で、あまり有効なことにならない。上垣さんの文章で一番興味を持てたのは、食の域内循環の意味が、しっかりと押さえられているというところにある。「失望からの再出発」とされている。原発事故前、原発事故後で、農の会の意味は変わったのだと思う。3年前をまざまざと思い出した。

生活クラブで思い出したのだが、10年ほど前生活クラブの新横浜の施設で講演をさせてもらったことがある。安心安全から、地域主義へということだった。生活クラブが安全な食ということから始まった消費者運動であろうが、自分が良ければいいという話では、社会運動として限界がある。どうやって、社会全体が良くなることが出来るか。この視点に立てば、自分の生きている地域を、少しでも変えることが重要ではないかという問いかけをした。その時その意味はほとんど伝わった感じがしなかった。消費者でいることは、問題だという話を、生活クラブでしていたのだから、筋違いだったかもしれない。当時も生活クラブは反原発には熱心であった。安全な食料をただ、簡単に購入出来ればいいという運動には見えなかった。いずれにしても、生活者というものが、分断され、運動体に成れない、10年間ということだったのだろう。

放射能で汚染された農地。これだけは、誰にも共通のことである。汚染の程度の違いもいくらかあるのだが、地球全体で考えれば、人類共通に汚染の進む地球の中での人類の生き残り方である。放射能の不可逆性は際だっているが、あらゆる化学物質が生活の中に紛れ込んできて、手に負えない状況が生まれている。それは、自分達だけが、安心安全などという、食のシャルターに逃げ込むことが無駄なことで、この事態に正面からぶつかる以外、道はないということだ。文明の方向の問題なのだ。20世紀後半からの、グローバル経済という、利益を求めて競争に勝たなければ、すべてを失うという、富の集中が始まる。この経済競争の激化が、人間の生き方を狂わせてきた。日本はこの競争の優等生として50年やってきて、豊かな社会というものを得た。その基盤に、何の為に生きるのかという大切な部分が、競争に勝つためが正義という考えに、浸食されてきた。生きるということを自分の手に取り戻す、手段としての自給。

農の会の表面的には、楽しい自給農業の背景にあるものは、実は深刻で、それぞれの生き方の大切な所に触れているものだと思う。良くある市民農園と、あしがら農の会との違いは、一見なにもない。この違いに気づかない人には、自給などくだらないことに見えて、グローバル経済の末端に組み込まれる。あえて、したたかに自給を貫く為には、個々人の実力に応じて、助け合いながら、志のある自給を育てる必要がある。新しい村づくりなのだ。農の会が何とか原発事故で、途切れなかったのは、やはり力のある地域の農業者に助けられてきたからだ。これから、始まる農業の崩壊現象の中で、どうやって助け合って生き残ってゆくのか、「せめて自分の食べ物くらいは自給したい。」この背景にある、広大に広がっている、人間を経済の一コマに組み込んでゆく仕組み。一角を切り崩し、自分達の足で立つ暮らし。大げさなようだが、そういう切羽詰まった所に居るという認識がある。
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