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街道をゆく 台湾編 司馬遼太郎

2024-06-11 04:41:38 | 

 今のぼたん農園に来ている。キヨマル君。雄の水牛で、桜の種付けのためにいる。馴染んでいないし、種付けで興奮しているし、気をつけなければならない。サクラとのぼたんは寄ってきて、ベロベロ大歓迎なのだが、その姿をじっと見ている。自分の群れに何をするのかという感じだ。

 小田原に行く行き帰りの飛行機で「街道をゆく40」を読んだ。丁度石垣空港に降りるところで読み終えた。国家というものは何だろうと言うことが、主題の話になっている。考えさせられた。日本が日中国交回復をするために、切り捨ててしまった台湾である。

 この不思議な国ではあるが、国ではないという奇妙な状態の国を考えている。台湾は中華民国であり、むしろ国家という意味では、中国全土を支配していた国なのだ。今になって、その中国が仮想敵国だと日本政府は騒いでいるのだから、ひどい話である。

 1972年に台湾に対して国交を一方的に断絶した。沖縄返還の前後だ。学生だったころで、この理不尽は許しがたいと言う怒りを覚えている。あれから52年である。随分長い年月が経った。台湾を植民地化した期間は50年間だ。それ以上の辛い年限が経過したことになる。

 司馬遼太郎も繰返し書いているが、植民地化したことの愚劣さである。日本は明治政府の帝国主義によって、取り返せない汚点をアジア各所に残したのだ。全く品位にかけた国家である。そして、さらにひどい国交断絶をしたのである。そのことさえも受け入れてくれている台湾という「国」はすごい立派な品格の高い国家だ。

 日本は台湾に申し訳ないことを2度もした。幸いなことと言って良いことなのか、台湾は日本からひどい仕打ちを2回も受けながらも、親日的な国家である。台湾人の有能さがこの背景にはある。台湾人である。台湾では本島人とも言うようだ。台湾人で始めて総統になった人が李登輝さんである。京都大学の農学部で学んだ人だ。

 この中国で言う李登輝大人がいたから、台湾は救われたのだと思う。それ程立派な人だ。中国人には立派な人が沢山いる。中国は文化の深い国だ。その李登輝さんは、植民地日本で、日本人として出来上がった大人だ。権力が自然に自分に移る道を作った。1988年1月その日が、台湾の民主主義が始まった日である。

 李登輝さんは中国人の哲学と、日本人的教養を併せ持つ、日本人こそ手本にしなければならない、理想的な人間像と言えるようなすごい人だ。当時の京都大学の教育も良かったと言えるのだろう。農学部であったと言うことが、特に良かったのだと思う。

 それから、台湾は成長を続けて、36年が経過している。今やアジア一の国と言えるところまで来た。それも、中国の圧力を巧みにかわしながら、ここまで成長を続けた。台湾の存在が、中国にも恩恵がある形を模索したのだ。中国の高度成長は台湾の前例に学び、従ったとも言える。

 一体国というものは何だろう。台湾は国家ではないと中国は決めつけている。まるで、明治日本のようではないか。琉球国のことを思う。琉球国は国家であった。その意味では与那国島は、国境の島で本島からも、さらに鹿児島からもあまりに遠くにあったために、与那国国家であったとも言える。

 しかし、明治政府の帝国主義は忽ちに日本に組み入れてしまう。それは今中国が台湾を併合しようとしていることと同じことになる。いわゆる覇権主義である。琉球国は日本の軍事力によって、無理矢理組み入れられたのだ。日本になりたくて成ったわけではない。国の枠は何だろうかと思う。

 琉球の独特の司祭と政治を兼ね備える国家という枠組みも簡単に廃棄された。日本の天皇制のような、君主をいただく、帝国主義をヨーロッパに真似た恥ずかしい国作り。天皇制よりも、ごく自然に国の統治に、宗教的な要素が組み入れられていた、平和国家が南の孤島に存在したのだ。

 台湾も琉球王朝とよく似ている。中国に対して、支配されながらも独立性を維持し、列強の植民地政策に翻弄されることになる。しかし、国というものは人間がいて、暮らしていればそれが国である。それが島という地域で区切られていると、台湾島が一つの国である歴史も大切になる。

 台湾が台湾であるのは、緑豊かな美しい国土があったからだろう。この美しい豊かな深い自然があれば、そこに暮らそうという人は必ずいる。その島というひとかたまりの中で、様々な部族が存在する。そして、中国大陸から特に福建省から多くの人が渡ってくる。

 こうして、徐々に自然発生的に台湾人というひとかたまりが出来たのだ。中国の一地方と言いながらも、ある意味独立した形に近い形を維持されてきた。それは琉球王国と近い形とも言える。日本の江戸時代、交易国家として成長した琉球王国は、対外的に認知されていた国家だった。

 明への冊封・朝貢 をおこない、臣下の国という体裁を取りながら、独自に江戸幕府に対しても朝貢を行う。軸に中継貿易を行い、東アジアの各国・各地域の独自の外交秩序を巧みに操りながら、文化力を高める事で、尊敬される国になった。そして、交易国家として成長をする。 

 その背景にあったのは、明が沿岸地帯の海賊の横行を抑えて、海外貿易をするために、琉球国を利用していたと考えられる。琉球の対明通交においては、当初は実質的に那覇の華人が担っていた。彼らは琉球の代表者として、しばしば明へゆき、琉球の対明外交と交易を活発化させた。

 一方で琉球は16世紀には薩摩藩に対しても、独自の外交秩序にしたがい、琉球が他の大国に振る舞ったのと同じく、琉球交易の利益を得るための「従属」のポーズであった。琉球はこうした何重にも存在していた多元的な世界秩序をそれぞれ使い分けていた。 

 この琉球国の在り方は、特殊なものではなく、東アジア一般の外交姿勢であった。とすれば、台湾も隣りにある大国明に対して同様の対応をしていたと考えても良いのだろう。従属するような形を取りながら、一定の独立性を維持する。しかし、台湾には列強の支配が及び、さらに複雑な国際関係が生まれる。

 この複雑な国際関係の中で、大きな島である。台湾という一地域が形成される。当時の明からして見れば、支配をして運営するような気持ちは無かったのだ。そうした覇権主義の範囲に入らなかったとも言える。この独特の位置に、台湾は台湾人の存在意義を作り上げたのであろう。

 そうした歴史から見れば、今の中国の教養のない、一方的な態度は見苦しいばかりである。中国が民主主義を尊ぶ国になれば、自ずと台湾は中国の一地方になるはずだ。問題は中国という国の独裁政治にあるのだ。中国が歪んだ国作りが問題と言うことを自覚すべきだ。

 
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日本精神史 阿満 利麿 著 筑摩書房

2024-03-01 04:28:51 | 


 日本人の不甲斐ない精神性の理由を探ろうとしている本のようだ。問題は天皇制を作ろうとした、日本の政治のひどさにその理由の大半があると書いてある。確かに日本の政治は最悪のものが続いている。しかし、政治をこうも悪くしているのも日本人である。

 読んで思ったことは、精神性に関して、民族間に優劣などあるはずがないと言うことだった。どこかに素晴らしい精神を持つ民族がいて、それに較べて日本人の精神はひどいなど、言えないだろう。精神性というくくり方で、民俗全体でひっくるめて考えると、話が本質からそれて行くと思う。

 精神はどこまでも個人のものだ。お前のはどうなのかと常に考える必要がある。確かに日本人的な精神というものはあるだろうが、そこでとらえられる精神性は、傾向という程度のことに過ぎない。やはり精神性となると個人的なもので、親子でも兄弟でも似ているとは決まっていない。精神性は個人が培うものだろう。

 問題にしているのは、国家による洗脳だと思う。北朝鮮を見ればわかる。宗教や政治に洗脳されてしまう問題である。天皇を神とする明治政府の洗脳教育によって、日本人は天皇というものを江戸時代までの天皇とは、違うものと考えさせられるようになってしまった。しかし、江戸時代までの日本人の精神も、洗脳された明治以降の日本人と大きくは違わない。

 江戸時代は江戸時代で様々な洗脳を受けている。一番は儒教教育である。孝行な子供を表彰するような教育である。今だって、テレビは盛んに日本人を洗脳しているようなものだ。余りにつまらないので、テレビを見ないことにした。一億白痴化だと嘆いたことは当たっていた。

 だからブログを書いているのだ。受け手だけでいると、いつの間にか洗脳される。発信することが重要だと思っている。日本精神史は、知識が無いと難解な本で、誤解もしやすい本だと思える。特に浄土真宗についてその歴史的背景と、現状を分かっていないと読めない。

 つまり日本人の精神性というものの、全体性で言えば、日本の風土が作り出した、日本の自然宗教を考えるほか無い。例えば諦めやすいとか、信念が足りないとか、人の顔色が読めるとか、柔軟に受け入れるとか、そ言うことは日本の風土、水土、自然環境に順応した暮らし方から来ている。

 阿満氏には親鸞、法然にその視点があるように読める。浄土真宗の信者であれば、念仏を唱えることで、救われると信ずるのだろう。そんな馬鹿げたことを信仰の無い人には信じられない。洗脳されるから、そう信じて念仏を唱えるのだろう。

 信仰があるから日々をこれでいいと思って生きる事ができる人になりうるのだ。洗脳されなければ、そんな理屈にも無いようなことを信ずることが出来るわけが無い。道元禅師の只管打坐だって同じことだ。私には、そんな馬鹿なという気持ちがどこかにあり、それで続けることは出来なかった。その善悪を考えずに、信じて坐禅を続けることは出来なかった。

 宗教には洗脳がある。すごい宗教者に出会うと、洗脳されてしまうのだろう。この人が言うなら信じてみようと言うことになる。道元禅師の書いたものから学ぶという範囲では、学問としての哲学と変らない。学問は問題意識から始まる。疑うものは宗教者には慣れない。信ずるものが救われるわけだ。

 精神史と言うこととに成ると、話は違う。日本人は宗派宗教の影響は受けてきたが、一番影響が強いものは、自然宗教であろう。日本は歴史的にも自然災害の厳しい国土にあり、何度も何度も壊滅的な破壊にあい、立ち直り、なおかつその自然と共に生きるほかない。たどり着いた最後の地で、逃げ場のない国なのだ。

 この時には荒れ狂う自然の山や海や木や湧き水を信仰してきた。農業をしていると、自然というものと対話が始まる。自然をよくよく見つめて、予測をして判断をしなければならない。そして自然に裏切られては、自然に対して願うようになる。

 祈りを捧げ、豊作を祈願する。その気持ちは縄文人も私も、日本の自然に生きる以上かなり似ているに違いない。自然から自分の身体で食糧を得る暮らしは、自然への祈りが生まれてくる。4季のある、変化にとんだ自然が日本人の感性を豊かにし、祈りの精神を作り出した。

 それが柳田民俗学の探求の目的であった。そこでは日本人の精神が良いとか悪いとか、そんなことは全くない。日本人というものがどんな精神構造をしているのか、その原因を探ろうとしたのだ。たまたま、日本人は他民族の影響を受けにくい環境で暮らしをしてきたために、古い日本人が残されていた。

 他民族から離れた島に暮らしていたために、日本人の成り立ちが民俗学的な分析で見えてきた。仏教や儒教が日本に入っては来るが、それが日本人を変えてしまうほどの強い影響には成らずに、日本人を残しながら、日本教の中に取り入れることが出来た。

 イザヤペンダサンの日本教は日本の自然宗教を意味する。縄文人にまでたどることが出来る、ある意味一筋に続いてきた日本人の精神性である。しかし、その日本の民俗学も、ぎりぎり成立したのであり、20世紀が終わりほぼその痕跡は失われたと考えた方が良い。

 そもそも民俗学の手法は誕生したヨーロッパでは成立しなかったのだ。だから、民族学となり、民俗を残している、原始的な生活をしている人々の研究になった。そのなかでは、精神性に進んだものや、遅れたものも無い。違いがあるだけだと言うことが確認される。

 天皇の問題がある。天皇制を考えるときに、具体的に考えるためには北朝鮮の金一族支配を観察すると良い。金一族の疑似天皇制は、植民地時代の天皇制をそのまま引き継いだものだ。あの奇妙奇天烈な姿が日本の明治帝国天皇制を表している。

 現状の天皇制の問題点である。早く止め無ければならない。徐々に天皇の存在を薄めて行くことが良いと思う。現状は明治政府の天皇利用によって、実に不自然な形の天皇制度が継続されている。まず、天皇家は京都か奈良に戻る。そして、日本の象徴から外れる。

 そして、人間宣言では無く、一般人宣言をしなくては成らない。天皇家が古い日本文化を継承する一家として尊重されればいい。江戸時代の天皇家に戻ることが、日本にとって一番健全なことではないだろうか。後水尾の天皇のように、修学院離宮で暮らすことが良いかもしれない。
 
 天皇制の問題を別にして考えるとすれば、日本の宗派宗教はあまり関心した状態ではない。明治維新に協力して教団の生き残りをした浄土真宗。戦争協力に力を注いだ、仏教各派。そして、現代の創価学会を始めとする、奇妙な新興宗教の登場。オウムのように暴力革命を起こしたテロ集団。統一教会のように、政治の裏側にへばりついて、反日活動をする宗教。

 今の時代は資本主義が行き詰まった方角の見えない時代だ。日本人の確立されない精神に忍び込むように、蠢いている様々な新興宗教があるはずだ。オウムも統一教会も、これで終わりではない。むしろこれからこうした怪しい新興宗教に洗脳され、巻き込まれる人が続々と現れるはずだ。

 農業分野でも、似非科学がもてはやされている。おかしな教祖的な農業者があちこちにいて、信者のような人を集めている。気持ちが悪くて仕方がない。科学的思考を出来る人間になる必要がある。学校教育が正しい科学的論理性を身に着けることを、目標にしなければならない。
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ちばあきおを憶えていますか。

2024-02-23 04:04:21 | 


 昔自殺してしまった、一番すきだった漫画家、ちばあきおさんのことを思い出した。女性の漫画家の方が自殺されたからだ。それで、「ちばあきおを憶えていますか」千葉一郎著集英社(あきおさんの長男の方)という本を読んでみた。

 いろいろ思い違いがあった。「ふしぎトーボくん」が最後の作品と思っていたら、その後に「ちゃんぷ」と言う作品があったのだ。しかもその仕事が自殺をされる要因になったらしい。そんな事さえ知らなかったのだから、尊敬していたなどと言える資格がない。

 ちばあきおさんはうつ病での自殺だと思っていたのだが、実際は創作の苦しみから、アルコール中毒になり、飲み続けていて、漫画を書けなくなっていた。しかし、何とか再起しようとして、もう一度「ふしぎトーボくん」を書いた。その漫画の不思議に静かな透明感はさすがのものであった。

 もちろん私は当時、何故か、プレーボールが途切れるように終わり、その続きがはじまら無いのかと期待していた。全く理由が分からないままいたので、何時プレイボールが再開されるのか。などと安易な想像していた。谷口君が墨田二中の後輩達と高校で甲子園に出る努力を、何時始めるのかなどのんきに考えていたのだ。

 それから三年間、何とか再起しようとしていた。そして、危険な最後の賭けのような創作に戻ったのが、トーボ君だったのだ。やはりそれが無理だったのだろう。完全主義者だったようだ。何しろ出版後の本が、赤ペンでびっしりだったそうだ。

 しかし、プレーボールは再開が無いまま力尽きて、つまりまた酒浸りになり、自殺してしまったのだ。そういうことは全く想像していなかった。辛かったことだろうと改めて思う。私には創作の苦しみはないので、分からない。が、あの谷口くんの世界観は身を削って生まれていたことは分かる。

 トーボくんの透明感は、死を予感させるものだったのだ。全く迂闊な読者である。ちばあきおさんは元気で、次のプレーボールの合図を待って、準備体操をしているのだと思い込んでいた。その先入観は、どうしても、あの谷口くんが戦いを諦めるとは思えなかったのだ。谷口くんとちばあきおさんがごっちゃに成っていた。
 
 ちばあきおさんは、ちばてつやさんを長男とする、漫画家一家、千葉家の4兄弟の一人なのだ。4兄弟は皆さん漫画の世界で立派に生きている方だ。もちろん長男のちばてつやさんは「あしたのジョー」で一世を風靡した。今や漫画界を代表する芸術院会員である。

 ちばてつやさんの助手から、ちばあきおさんの漫画への人生が始まる。ちばあきおさんは満州の奉天で生まれた人だ。千葉さん一家の満州での暮らしのことは、読んだことがあった。家族6人がなんとか栄養失調になるが、命を失うこと無く引き上げることが出来た。

 その中国からの引き上げの過酷さが原点になる。国から見捨てられたのだから、自力で生き抜くほか無かった。千葉家の6人は、お父さんの工場での同僚だった友人の中国人の徐集川さんに救われる。徐さん家の屋根裏にかくまわれて、命拾いをする。そして、引き上げてからの苦難を長男のちばてつやさんを中心に生き抜く。

 ちばてつやさんが、徐集川さんを探しに中国に行くドキュメントを見たことがある。やっと探し当てるのだが、徐さんは3年前に亡くなられていた。娘さんがちばてつやさんのお父さんから貰ったという、古いタオルを大切にしなければ成らないものだと言われて、今も取ってあった。

 私の父も中国に兵隊として七年間も行かされたわけだが、中国語を学んで、民俗学の学問の姿勢で中国人と関わろうとしたと話してくれた。長沙という町でお世話になった先生の話を良くした。中国人の友人が出来て、敗戦後やはりその友人に助けられて、日本に戻れた話をしていた。中国人の実像がそういう話からできた。

 ちばてつやさんは弟のあきおさんを漫画家にしてしまったことを悔やんでいる。自分の仕事が忙しすぎて、優秀な弟をアシスタントに頼んでしまったのだ。その結果他の誰にも書けない素晴らしい漫画を書いたのだから、良かったとも言える。

  しかし、兄弟として、漫画家として、創作の苦しみが一番分かるのもちばてつやさんだったはずだ。何としても酒を止めようとしたらしいが、どうしても、アルコール中毒から抜け出られなかったらしい。谷口くんになりたかった、あきおさんの苦しさなのだろう。

 創作と実際の人間は当然違う。自分の中にある、こんな人間でありたいという、理想の自分になれないという苦しみが、繊細な精神を痛めつけたのだろう。愛読者だったものとしては残念だと思う。多分一番残念だったのはあきおさん自身だろう。

 漫画というものが、自分を追い詰めてしまう、危うい創作なのだと思う。これが映画であれば、まだ共同責任的な創作になる。小説であれば、文字の世界のことだから具体性が薄い。絵画となれば、具体性がさらに薄くなる。漫画の持つ総合性が人間を追い詰めやすいのかも知れない。

 一人で全部やれる創作。子供のころ漫画を作って見せてくれた友達がいた。彼はある新興宗教の教祖になった。漫画を描く発想が宗教に繋がったような気がした。漫画にはそういう危うい部分がある。子供のころ小説を書いてみたいと努力したことがあった。ある場面を書くという事は出来るのだが、そこまでだった。

 小説が始まる場面なのだ。それをストーリーと組合すことが上手く出来なかった。実は今もこのブログの先の方のページには書きかけで、止まっている小説がある。もしかしたら、紙芝居ならば、出来るのかなど思ったりするがつまらない。

 散文詩というようなものかもしれない。梶井基次郎さんが好きで時々出してはまた読んだ。ストーリ性よりもその文章の感触に憧れがある。ちばあきおさんの漫画も同じようなものがある。谷口くんが手帳に書き留めている姿とか、夜に素振りをしている姿とか、一場面に詩がある。

 その切ないような詩情がにじんでくる漫画なのだ。芸術院会員のツゲ義春氏の漫画もそういうものだろう。私が知らないだけで、埋もれている散文漫画はいろいろあるのだろう。絵本とも違う。絵本のどこか高尚ポイところがはそれほど好きではない。

 白土三平氏の忍者武芸長の貸本漫画で育った。子供のころは白土氏の絵が好きだった。あの激しいデッサンが格好いいと思っていた。それがいつのまにか、ちばあきおさんの絵になった。私も成長したのだろう。あの絵の素朴なすごさにやられた。

 それは自分のデッサンの基になった気がしている。単純な線描デッサンにいまでも憧れている。時々樹を線描で描く。面白と思う。一本の木が村山槐多 のデッサンになる。ちばてつやさんがあきおさんの漫画の続きを書こうとして、あの絵は描けなかったらしい。とこの本にはあった。
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「心の教え」「命の教え」東井義雄著

2022-12-24 04:33:34 | 


 「心の教え」「命の教え」東井義雄著。この本を学生時代に読んでいれば、生き方も変わったのかも知れない。続けて3冊の本を読んだ。どの本も読んでいる間涙が流れてきて仕方がなかった。年寄は涙腺が弱いというのを実感したわけだ。本にある体験談にある澄んだ心が圧倒的なものとして心に迫ってきた。

 1970年代日本が悪い方角へ転がり出した。子供達の状況が日に日に悪くなって行く。この悪い流れをなんとしても食い止めたいという教育者の切実な想いが溢れている本だ。素晴らしい小学校の先生がいたのだ。そういう先生は全国各地にいて悪戦苦闘してきたのだと思う。

 教育学部の学生だったので、友達から東井先生の話は聞いていた。にもかかわらず読まないでいた。何故読まなかったのかと自分の心の狭さを残念に思う。校長先生であり、後に大学の先生に成られた、浄土真宗の僧侶。と言うことで、なんとなく読まないでも、たぶんありがちな教育者の本だろうと勝手に思ってしまった。

 教育に関係する本で素晴らしい本は色々あった。遠山啓氏という数学者が「人」という雑誌を発行していた。その雑誌は創刊からずっと読んでいた。熱量がすごくて、魅了されるようなことが沢山書かれていた。大学の生協の本屋にはそういう本が並んでいたのだ。

 東井先生の本も著作集があるのは知っていたのだ。教育学部の友人達が余りに感激して話すもので、読まなかったのかも知れない。浄土真宗の僧侶であり、暁烏敏と関連もあるに違いないと思っていた。大学には暁烏文庫があり、その関係の本はかなり読んでいた。

 教育学部には出雲路暢良先生がおられた。暁烏氏の弟子である浄土真宗の僧侶であった。出雲路先生は暁烏文庫の整理をされていた方だ。週一回茶話会のようなものがあり、それに出ていた。素晴らしい方だと先生の話を聞くのが楽しみだった。それでも浄土真宗の方というので、これもまた距離は置いていた。

 こうしてみると、素晴らしい僧侶の方は浄土真宗の方に多い。今注目されている阿満 利麿 氏も素晴らしい宗教者だ。この方の統一教会に対する発言は納得が行くものだった。現代社会の問題点を一番深く洞察されているのではないかと思われる。

 2040年までに、仏教寺院を含め、35%の宗教法人が消えてなくなるといわれている。江戸時代檀家制度によって仏教が日本人の生活の中に、根ざすものになった。多くの家庭には仏壇がある状態、日本人が無宗教とは言えない現象に見える。

 既成宗教が衰退して行く中、新宗教が広がり始めている。この科学の時代にまさかと思うような、幻想的な非科学的な教義を主張する。方角を失った社会では新宗教が信者を増やす。オウムや統一教会は氷山の一角である。信者以外の人から見れば、まさかと思うような教義や主張を、熱狂して受け入れているのだ。

 それを洗脳とか、マインドコントロールとか分析して、一種の催眠状態で騙されているという解釈で社会は理解しようとしている。果たしてそれは本当のことであろうか。天国があると言うキリスト教の教義は、非科学的の極みである。そもそも宗教は非科学的なものだ。

 どうもそれだけではない、マインドコントロールされたい精神状態が、社会に蔓延してきているとも思える。東井先生の心配されていたことが、現実化した社会なのだ。1970年代に時代の分かれ目があった。あそこで実現できなかった結果が今の時代である。

 オウムがテロ事件を起して、解散命令を受けたときに、これは始まりだと感じた。オウムが主張した社会の問題点の指摘は間違っていたわけではない。どうしようもない社会が始まってしまったという認識は、社会共通のものではないか。もちろん暴力で解決など出来るわけもない。

 宗教に心の解決を委ねたいという思いが、一部の人に広がっている。それは安定した家族とか、家庭というようなものが、薄なわれてきたが為だろう。ご先祖様を大切にして、次の世代につなげて行くというような家庭はほぼ無くなったのだろう。

 何をよりどころに生きて行くのかという意味で、日本人の安定が消滅したのだろう。その根底にあるものは能力主義の広がりだと思っている。東井先生も繰返し能力主義を否定している。能力の高いものは、能力の低いものよりも、人間としての価値が高いのだから、社会で優遇されるのは当然だという考えは間違っている。

 能力主義は拝金主義を生んだ。金儲けが旨い人間を評価する時代。お金を上手く投資をして、儲けることは人間として立派なことだという、かつては守銭奴と呼ばれたような生き方が、正面を切って社会的に認知されたのだ。しかも学校教育にまで金融が入った。

 既成宗教は拝金主義を否定している。健全な労働を評価して、お金がお金を生むような価値観を排除している。もちろん拝金主義はどの時代にも存在したのだろう。しかし、それはいつも少し陰に隠れていて、悪い事だという認識が普通だろう。お金は不要とは言わないが、卑しいものなのだ。

 ところが資本主義が限界まで来た現代社会では、国家までもが投資を良い行為だと奨励する状況が生まれた。学校教育の中でさえ、金融というような授業が行われる事態である。かつてのお金にとらわれてはならない、お金は不浄のものというような感覚は、払拭されようとしている。

 価値観というものが失われて不安定化している社会に於いて、お金という価値観だけが広まっている。統一教会の家庭崩壊に至る献金の原因は、お金という最も重要な価値を献金することで、始めて自分の救済が始まるという考え方なのだろう。

 そこに前世の因縁やら、ご先祖の悪行などが持ち出されて、洗脳されてしまう。様々な新宗教が広がっているが、そのほとんどが集金を第一としている。しかし、前世やらご先祖が持ち出されて思い当たるのは今が苦しいからだ。現在の社会が救済を求める苦しい人を、生み出しているからだ。

 その苦しい人を救済する社会ではないのだ。弱者は能力がないのだから、苦しい生活でも仕方がない。社会は弱者を切り捨てているのだ。能力がないと言うことを自己責任としているのだ。努力が足りないのだから、差別されても仕方がないと思い込まされている。

 最後の差別が能力主義なのだ。誰もが能力によって差別を受けない社会ができない限り、新宗教の欺瞞は広がり続けるのだろうと思う。これからさらにIT社会になればなるほど、宗教の意味は重くなって行くはずだ。人間の労働が変わって行くときに、心の問題が残されて行くからだ。

 どう生きれば良いのかと言うことを、自分自身に求めるのが曹洞宗の考え方である。只管打坐という修行である。その日々の姿が僧侶に求められるのだろう。ボランティアをする僧侶の価値など間違っている。社会における意味を、ボランティアにしか見いだせない僧侶では力が無い。

 自分の生き方で示す意外に無い。これが禅宗の僧侶ではないかと思っている。結局の所私は私のやり方で進む以外にない。学生の頃東井先生の本を読んだとしても、変わることは無かったのかも知れない。

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「大河の一滴」五木寛之の悲観

2022-11-28 03:54:53 | 


 大河の一滴を読んだ。ベストセラーになるほど読まれた本と知っていた。何故か今になって読んでみたくなった。意外な感じで読んだ。その意外性が本音でおもしろかった。五木寛之らしくない本音のかっこ悪さむき出しの本であった。

 その辺が多く読まれた原因なのだろうか。自殺しようと考えたことが二度あると、かなり思い切った調子でそんな本音を書いている。人間はそういうものだと考えていたので、そのこと自体は驚くほどのことではない。そう言う辛さを抱えることはむしろ普通ではないだろうか。

 人間なら程度の重さは違うかも知れないが、必ずそういうことはあるはずだ。人それぞれにその原因は違うのだろうが、そうしたことは当たり前だと思って生きてきた。人間が生きると言うことはそれくらい辛いことだというのは同感できる。

 しかし、と思いながら読んだ。そのことを重く置くかどうかである。気の迷いと軽く考えて、そのことを通り抜ける人もいれば、そう思い詰めたあの時こそが自分の本質だったのではないかと考える人もいる。実際に実行してしまう事には、まだ距離があると思っている。

 人間は大河の中の一滴だという意識で生きて行くしか無いと言うこと。大河は海に注ぎ、空に蒸散し雲となり、雨となってまた山に落ちる。雨は小さな水源となり、大河となる。この大自然の水の循環の姿の中に、人間がどのようにでも変容しながら生きるという時間と空間の感覚。

 社会がどうしようもないところに来ている。個人がどうにもできない大河の流れのように、崩壊に向って流れ進んでいると考えざる得なくなったという指摘。その流れは誰にも止められないという諦念。大震災、大津波、原発事故。それが始まりだった。

 コロナの蔓延は社会を大きく変えた。右翼と言われた安倍氏と反日思想の統一教会の信じがたい結びつき。反日団体と国葬を行うような総理大臣がどうかかわっていたのか、深い闇がある。テロで殺された結果、深く結びついていたことが明るみに出てきて、組織解体が出来るのかどうか。

 統一教会が反日組織であることは私は50年前に、当たり前に認識していた。当時の学生であれば、知らない人などいなかった。それが、霊感商法でつかまり、もう活動は弱体化したのかと思えば、自民党の中に深く食い込んでいた。

 このことに私は絶望している。自民党は何でもない事のように軽く考えているが、自民党自体が議員に自主申告させて、これで幕引きにしようとしているが、自主申告しない人間がいくらでもいる。そんな人間が、衆議院議議長になり、大臣になっている。まともな状況とは言い難い。

 問題はこれほどのことが、軽く流れ去ることとして終わらせようとしていることだ。国民もこんなひどい事件を深く受け止めることをしようとはしない。そんなものだと思っているのか、政治家に何かを期待しても無駄だという事なのか。

 こういう政治と社会の状況に、コロナが繰り返し、繰り返し蔓延する。もう第8波と言われている。心が疲れ切ってしまう。大河の一滴はこの状況を、予測し警告している本ともいえる。どうしようもない時代の象徴が公明党である。

 創価学会が統一教会のような反日組織でないことぐらいは分かる。しかし、宗教組織という組織力と動員力を持って、自民党には無くてはならない組織となり、政治に大きな影響を与え続けている。労働運動が衰退した。あるいは保守化した。

 市民運動は政治運動組織として力を持つほどの動きにはならない。環境運動も明確な解決策を提示できずに、反対運動の範囲にいる。しかし、金権主義だけはより明確になり、金儲けをすることが、立派なことだとされて社会に受け入れられている。

 日本教ではお金のことばかり言う奴は卑しい奴だとされていた。ところが金儲けが悪いことではないというのが、社会全般に広がり、学校教育にさえ、金儲けのための方法が入り始めた。政府は国民皆投資家を目指すという事のようだ。貯金より投資が何故望ましいことなのか。

 国債を国民に売り続ける政府。国民を投資に駆り立てる政府。普通に働いて、その労働で生きてゆくという当たり前の生き方が、ばかばかしい生き方とされていく。どうも国民がポイント制になった。ナンバーカードを登録すると10000万ポイントが付きます。

 そうしたお得なポイント確保を抜け目なくやってゆくのが、どうも要領の良い生き方として政府から奨励されている。額に汗して、手を油まみれにして生きるのが人間だ、と帝釈天住職から言われた寅さんは、てんぷら屋さんで働いた。まともな人間の生き方が、見失われた社会。

 こんな状態で起きたのが、ロシアのウクライナ侵攻である。日本は忽ちに専守防衛から、敵基地先制攻撃に変わろうとしている。国民もロシアの暴挙を見れば、止む得ないことだと感じ始めている。とんでもない間違いだ。中国を仮想敵国にすることが、どれほど日本の安全を脅かすことだ。

 日本はアメリカが武力を増強しても、怖いとは思わない。むしろ心強いと考えている。中国が軍事力を増強すると、不安を増してゆく。アメリカと中国は何が違うのだろうか。どちらも軍事大国である。価値観の似ているアメリカの言いなりになっていれば、安泰なのか。トランプの狂気を選択するアメリカを見ていればそうとも言えない。

 むしろ日本人は中国の国家資本主義の方が、価値観が似ているのかもしれない。何が良くて何が悪いのか。自分自身はどう生きればいいのか。もう一度そのことを、自分というものに立ち返り、生きるという意味を問い直そうという事なのだろう。

 多くの人がこの本に共感したという事は多くの人がこの社会の行き詰まりを、肌身に感じているという事だろう。然しその突破口がどこにもないという閉塞感が社会を覆っている。どうすればいいのだろうか。その解決策が提示されている訳ではない。

 むしろ解決のない問題の渦の中でどう藻掻いてゆくかが描かれいるような気がする。もがき方をそれぞれが自覚しろという気がした。のぼたん農園の自給の暮らしを活路として提案したい。人間は天ぷら屋で働かないでも、自分の力で自分を生かすことは可能なのだ。
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国語教育は読書から

2022-11-25 04:03:16 | 


 江戸時代の寺子屋教育では、「よみ、かき、そろばん。」と言うことが言われていたようだ。実に端的に、日本語の学習の場だったと考えて良い。そして計算が出来ないとには生活に困るという意味でのそろばん。寺子屋は生活の実学の教室と言うことだろう。寺と言う名前があるように、生活を律する規範を学ぶという意味合いもあったようだ。

 日本語を学ぶと言うことは、日本人になると言うことでもある。人間が学習する物の内で、自国語の学習ほど重要な物はない。話し言葉という物は自然に身につく物だが、書かれた言葉という物はそれとは又別のものである。人間を人間にする物と言っても良い。

 言葉の奥にある書物の宝は人間と言う存在を、思想的なもの、哲学的な物にしたのだと思う。文字という物がなければ、人間は一定の領域から成長することは出来なかったはずだ。文字を学ぶと言うことほど重要な教育はない。日本人は日本語を学び日本の文化を身につける。

 江戸時代の教育の実情ははっきりはしないようだが、私の生まれた山梨の藤垈の向昌院のような山村でも、寺子屋が行われていたと聞いている。当時の机が残されていた。どんな教育だったのかはまったく不明だが、たぶん読み書きそろばんであったのだろう。

 江戸時代の生活教育の仕組みは、それなりに全国に行き渡っていたようだ。百姓の子供であった二宮金次郎は、儒教の経書『大学』を学んだ。尊徳は独学用の「経典余師(けいてんよし)」で読んだとされている。独学できるような解説付きの書物であり、かなりの数出版されていたという。

 江戸時代の識字率が世界的に見て高い方だったことは確かなようだ。それが日本の社会の成熟度に大いに役に立っていた。読み本が庶民に向けて出版されていたのだ。そういう国は少なかったはずだ。本を読み想像の世界を広げる。そして庶民も俳諧連歌、狂歌と川柳と創作を楽しんだ。

 江戸の文学者が全国を訪ね歩いた。その時地方の有力者がその文学者を受け入れて、地元の文学者と交流する。宿を提供する。文学、藝術を大切にする文化が日本津々浦々まで広がっていたのだ。各地方に高いレベルの文化がある事で、日本独特の文化が形成された。

 支配階級の武士だけの文学の世界ではなかった。百姓だからといって、学問など無用などとは、江戸時代の庶民は考えていなかった人も居る。頭を使わなければ、百姓仕事ははかどらないと、考えていた農本主義があった。当時の稲作の水田技術全体が、世界でも優秀な物であったことは、証明されている。

 現代の有機農業の技術の大半は江戸時代にすでに存在して、実践されていたものばかりだ。機械や化学肥料を使わないという所だけが違うが、糞尿の堆肥化など、ありとあらゆる廃棄物が、循環農業の材料として利用されていたのだ。世界の循環型社会のお手本である。

 国語の教科の方向が変わると言われている。文学的な国語教育から、実用的なののへと変わると言うことらしい。どうも政府には国力の衰退に焦りを感じて、何でも実用教育への転換なのだろう。どこがどう変わるのか分からないところが在る。

 高校の必修科目は現行の「国語総合」から「現代の国語」「言語文化」に、選択科目も現行の「国語表現」「現代文A」「同B」「古典A」「同B」から「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」に変わる。実用性を強めたことや、「論理」と「文学」を分けた と言うことらしい。
 
 文学が分離され、余り時間が割かれなくなると言うことらしい。教育の基本は国語教育に始まる。読書百遍である。自ずと理解が出来る訳だ。本を読むという習慣が学力の基礎を作る。読書はおもしろいから読むのである。別に教育のつもりではないだろう。

 しかし、文学という世界が若い人達から離れ始めている。読書の時間がスマホの操作に変わったのだ。もちろんスマホで文学作品を読む人も居るのだろうが、アニメやゲームに熱中する若者の方が、はるかに多いと想像する。

 中学卒業の時に、図書館で一番本を多く借りた人で表象された。本を多く借りて読むことが奨励されていたのだ。何しろ宮本武蔵を学校の授業中に毎日一冊読んで、1週間で読み切ったくらい本を読んだ。一体授業中に何をやっていたのかと言うことになる。

 本であれば何でも読んだのだろう。日本人の書いた文学が好きだった。世田谷学園の学校図書館にある本なら、何でも読んだ。曹洞宗の学校だったから、仏教の本が多かったのかも知れない。ともかく何でも乱読していた。活字を見ていれば満足という感じだった。活字中毒だったのだろう。

 井伏鱒二の山椒魚が中学3年の国語の教科書にあって、すっかり好きになってしまい。端から読んだ。今でも好きなところが変わらない。井伏鱒二が山梨に疎開していたので、山梨の話も出てきたので、余計に好きになったのかも知れない。

 国語教育は文学の教育で良いと思っている。文学を好きにするのが、国語の教科ではないかと思うくらいだ。文学の表現は多様である。好きな文章もあれば、嫌いな文章もある。整ったものも在れば、訳の分からないものも在る。理解しがたい作品を理解しようとして読むことが大切である。

 教育が余裕を失い、直接役立つ実学中心に行われるようになってきている。小学校から外国語まで学習するなど明らかに間違っている。日本語が十分でない人間が国際的に通用しないのは当たり前の事だ。外国語で話すとしても、その背景に日本文化がなければ無意味である。

 インターネット時代になり、意識して読書を教育に取り込まないと、読書の習慣が身につかないことになる。時間を潰す方法が溢れている。子供の頃は朝まで本を読み続けたことが良くあった。それくらい読書はおもしろい物であった。読書の面白さを是非教育してもらいたい。
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溜め池の作り方

2022-11-19 04:03:13 | 


 新しい溜め池をいくつも作っている。写真の上の溜め池には5日間雨がなくて、これくらいの水が流れてきている。作り始めたときの写真である。この場所には大きな木もあるので、水牛池にしても日陰になるなかなか良い場所になるだろう。

 ここから四番溜め池に上手く水が運べるかが、重要なことになる。標高差は4番田んぼよりいくらか高いように見ている。そうでなければ困る。塩ビ管をつないで4番溜め池に水を入れたいと考えている。

 何故のぼたん農園では、池を沢山作るのかと言えば、理由は4つある。
1,池があれば生き物が豊かになる。農薬を使うために田んぼから生き物が居なくなった。それを代替するために池作りをする。
2,川も用水もない場所で、湧き水だけで天水田を作っている。少しでも水が多ければ栽培が楽になるので、溜め池が多く必要である。
3,水牛の居場所である。水牛には池は必修である。日に当たっていても池があれば大丈夫だ。身体に泥を塗りたくって虫を防ぐ。
4,のぼたん農園が美しい場所であるためには、池が必要である。

 今回作った上の溜め池は、四番溜め池より少し高い位置になる。四番ため池に上手く水が入れば、四番溜め池から四番田んぼに水が引ける。四番田んぼからは五,六,九,十,十一番と水は繋がって行くから、下の方の田んぼの水はかなり安定するだろう。

 一つ田んぼが増えて、のぼたん農園は十二個の田んぼになった。0番から、11番田んぼまでである。新しい水系が加われば増えた田んぼの分も補うことが出来るはずだ。のぼたん農園には溜め池が5個になった。溜め池に水を増やすために上部には木が茂るようにする。

 5つめの水牛池は沢の一番下になる。急斜面の下だったのでかなり、ユンボ作業が怖かったが、何とか水が溜まるようになった。すぐにサクラを連れていってつないだ。サクラが垈場にしてくれればきっと水が溜まるだろう。水があれば、水牛をつないでおける。

 水牛の飲み水を運ぶのは何かと大変なので、水牛池はあちこちに必要なのだ。最後の水牛池がもう一つ。周回道路の脇のアダンのそばに作った。この場所には昔は池があったと言うことだ。次第に埋まってしまったと思われる。確かに土がいつも濡れているところがあったので、掘ったらば少し水がにじみ出てきた。

 日陰の場所なので、池があれば、水牛をつないでおける。水牛はアダンの林の中へ平気ではいると言うが本当だろうか。もし水牛が入れるのであれば、牧柵の位置を変えた方が良いかもしれない。アダンを取り込む形にすれば良い。



 建設中の5番溜め池である。完成した形は三角池である。ここは日陰の池田。水牛は暑い日に日向につないでおくと危険である。溜め池のあるところであれば、日陰が無くても水の中で身体を冷やしている。熱い陽射しの日に水に潜って水牛は気持ちが良いらしい。

 のぼたん農園には水牛池が6個になる。あちこちに池があれば水牛には助かることになるだろう。つないでおく水牛はあちこちに移動させなければならない。紐の届く範囲の草は2日ほどで食べてしまう。水牛池は多いほどよいわけだ。

 池を作りながら思うことは、石垣島の土壌は池を作るためには適していると言うことである。小田原でも池を作ったが、水が溜まらないので、下にビニールシートを貼ることになった。石垣島では穴を掘れば雨の時にある程度は水が溜まる土壌である。

 土の粒子がかなり細かい。粘りはあまりないので、粘土という感じではないのだが、水を濁らすと3日も水が澄んでこない。関東ローム層などよりも堅くて、簡単に崩れると言うことも無い。水を含めばぐちゃぐちゃになり、乾けば日干しレンガのように堅くなる。

 土を掘っていると岩盤のような層が出てくることがある。これが出てくると水漏れもして行くようだ。余り深く掘ると言うより、1m位の深さで広く作る方が良いようだ。深いと岩盤の底を壊して水漏れになる可能性が出てくる。



 ユンボ作業をしていると、すぐにカンムリワシが来る。特別天然記念物の二百羽ぐらいしか居ない鳥である。人を余り怖がることはない。トラックターの神輿の上に止まるくらい慣れている。機械作業をしていれば、大抵はやってくる。来ない日があると、何かあったのかと心配になる。
 
 溜め池は掘る順序が重要である。掘っている場所に入るときにはユンボの出る道を確保して掘り進め、最後に出た後を掘る。堤防になる場所に土もりをする場合はそこには草が混ざらないようにしなければならない。土羽で固めるのだから、あまり高い土盛りはできない。

 さすがに石垣島の土壌でも水はわずかずつ減水していく。そこで水牛を中に入れて、ゴロゴロさせておけば、水は漏らなくなる。水牛は水の中に尿や糞をしたがる。それが溜まって水が漏らなくなる。泥を身体になすりつけたがる。またそうした汚れた水をわざわざ飲む。きれいな水よりも汚い水の方を選んで飲む。

 それは糞や尿に混ざっている微生物をもう一度身体に戻そうとしているように見える。それで反芻をするのだから、十分に草を消化できるのではないだろうか。草だけを食べて、あれだけしっかりした身体が出来るのだ。下痢をするような事はまず無い。

 糞もほとんど匂わない。たぶん牛などよりも消化能力が高いのだろう。草の好みもかなり幅広い。その原因があの自分の糞尿を混ぜた水を飲むためとみられる。人間も学ぶ必要があるのかも知れない。汚いがきれい、きれいが汚い。微生物の有効利用だ。

 溜め池に糞尿をして、それが水田に入ってくる。これが肥料になれば言うことが無い。溜め池を利用した、肥料の上手い循環を考えなければならない。そういう意味では草を食べ尽くさないくらいの頭数を飼うのであれば、土壌が窒素過多になるようなことはない。

 
 
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「良寛」立松和平著を読む

2022-11-08 04:49:26 | 


 立松和平氏は道元禅師を書いた。引き続きが良寛という本を書いた。道元の示した生き方を体現した人が良寛である。と立松和平さんは考えたので、良寛を書きたかったと言っている。ちょっとその感覚には驚きがあった。まさかのことである。

 そうだとすると、立松和平はやはり道元の正法眼蔵を読み切っていないと言うことだなと想像して、良寛についても読んでみることにした。良寛も道元に至ったつもりは無かっただろうし、道元が直接の師匠ならば、良寛は破門されている。破戒僧が悪いと言うことでは無いが。

 良寛と道元は本質的に僧侶としてまるで違う体質の人だ。対極の位置に立つ人だ。道元禅師は文化人的ななところなどまったく無い人だ。修行一本槍の狭い鋭い人だと考えている。ひどい想像かも知れないが、発達障害をもった天才ではないだろうか。到底人間が同じように生きることは不可能と思えるような徹底した人だ。

 良寛はどちらかと言えば、いかにも人間性の豊かな文化人だ。その書を見ればそのことが分かる。書のすばらしい人だと思う。書はこのように普通に自然に書く物だろう。私は絵をそういう物だと思っている。漢詩を書いたり、和歌を書いたり、沢山の書も残している。

 そういうことを行ってはならないと、道元禅師は繰返し書いている。ただ不思議なのは、何故正法眼蔵を残したのかという点である。正法眼蔵がなければ、道元は存在もしないだろう。菩提達磨のように伝説の人になったかも知れない。
 
 二人の繋がりはどこにも感じられなかった。良寛は良寛である。道元は道元である。道元の思想を体現した人がいるとすれば、その人は必ず無名の修行僧のはずだ。人の前に現われることなど無い人だと思う。たぶんそういう人はかなりの数存在する。見たような気がしている。

 しかし、外界に表現しない人なのだから、他人には分からない。一切世間とは関係しない人と言うことになる。では道元禅師は何故、正法眼蔵を書き残したのかと何度でも思う所だ。しかも、顔の洗い方から、手ぬぐいの使い方。歯のみがき方まで細かく指示をしている。なんで他人にそんなにこだわるのだろうかと思う。異様な感じさえしている。

 良寛は江戸末期の曹洞宗の僧侶である。新潟の人だ。1758年生まれ -1831年遷化された。200年ちょっと前の人である。父親と弟が自死している。母親も早くなくなる。弟の継いだ庄屋も取り潰される。

 生きることの厳しかった幕末期を托鉢行で生き抜いた人だ。当時、良寛が評価された理由は文化人としてなのだろう。江戸時代という時代は治部煮文化人が評価された珍しい時代なのだ。

 良寛の墓には自作の漢詩が彫られている。その訳文はおもしろい。
今、僧たちは仏弟子と称しているが、僧としての行い(衆生済度の行動)もなく、悟りを求めることもない。
ただ檀家から受ける布施を無駄遣いし、身、口、意のすべての行為を顧みることもない
寄り集まると大口をたたき、旧態然のまま日を過ごしている。
寺の外に出ると、悟りきった顔つきで農家の婆さん達をだましている。
そして「私こそ修行を積んだ力量のある僧である」と高言する、ああ、いつになったら眼がさめるのだろう。
例え、子持ちの虎の群に入るような危険に身をさらされようと、決して、名誉や利益への道を歩いてはいけない
名誉や利益の念が少しでも心にきざしたら、海水のような無尽蔵の量を注いだとしても、なおその欲望は満たされない。

 こんな詩を書く人と、何故道元禅師が重なるのだろうか。その当たりを立松和平は何故掘り下げなかったのだろう。結局の所道元禅師のことを理解できなかったのではないかと思う。正法眼蔵を何度も熟読したと言うが、それならば何故良寛になったのだろうか。

 道元禅師であれば、他人のことなどどうでも良かったはずで、にもかかわらず他人の修行を指図した人だ。仏教界のくだらない人のことどころではないほど、自分の修行に邁進した人である。他人には無関心で、自分の詩的世界、哲学的世界に思考を巡らせ続けたのではないか。

 道元禅師には良寛のように子供と遊び暮らせる余裕など全くなかったと思う。良寛と対極にいるのが道元禅師だと私は思う。良寛のすごさは修行に明け暮れた上で自然体に戻れて、文化人になったところだろう。托鉢行で生きると決めたわけだが、道元ほど厳密に自分を律するような所は無い人だ。

 托鉢行にさえこだわりの無いところが、むしろ良寛のすごさだと思う。托鉢に出掛けたはずが、つい子供と手まりを突いて遊んでしまう。最も大切な行に生きるということすら、子供との遊びにかまけてしまい、こだわるところが無い。そんな風には生きることが出来ないものだと思う。私なら絵を描きに行って、子供と遊んではいられない。

 現代で言えば、故郷の知り合いの中で、路上生活をしているのがすごい。生まれた場所でネットカフェー生活をしていると言えば良いのか。そうでありながら、純真で天真爛漫で、ごくごく真面目で素朴な人。

 それは良寛の書を見れば分かる。付き合いやすい人だったと思う。近所のお百姓さんと割り勘で酒を飲んだという、ずいぶん良い酒飲みだったそうだ。偉い坊さんのような側面は見せることが無い。

 立松和平がほとんど触れなかった。良寛晩年の貞心尼との関係はどのように考えれば良いのだろうか。貞信尼は「きみにかくあひ見ることのうれしさも まださめやらぬ夢かとぞおもふ」 と初対面の歌を残している。

 以下臨終に際して良寛が貞心尼に送った歌。
 形見とて/何か残さむ/春は花
 夏ほととぎす/秋はもみじ葉
 うらを見せ/おもてを見せて/散るもみじ(良寛)
 貞心尼は良寛の遺した歌を集め「はちすの露」という良寛の歌集を自ら編み、残すことになる。

   生涯身を立つるに懶(ものう)く 騰々 天真に任かす
   嚢中 三升の米 爐辺 一束の薪
   誰か問はん 迷悟の跡 何ぞ知らん 名利の塵
   夜雨 草庵の裡 雙脚 等閑に伸ばす

    かぜまぜに 雪はふりきぬ
   雪まぜに 風はふききぬ
   うづみびに あしさしのべて
   つれづれと草のいほりに
   とぢこもり うちかぞふれば
   きさらぎも
   ゆめのごとくに すぎにけらしも

 良寛という人は江戸期の日本人中の最高の文化人である。その評価と僧侶としての良寛は又違う良寛から学ぶことと言えば、絵を描くと言うことは、絵描きの絵になってはならないと言うことだ。良寛はいわゆる坊さんのような僧侶では無い。良寛という仏教を貫いたひとだ。反道元禅師である。

 
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「土の記」高村薫

2022-07-04 05:51:48 | 
 
 多良間島、石垣島にもうすぐ着陸。


 宮古島

 「土の記」を小田原への往復の飛行機で読んだ。以前新聞の書評を読んで田んぼのことが書いてあるというので、買っておいたものだ。後半のイネの播種から苗作り、そして田んぼでの分ゲツの様子。余りに細かく書いてあるので、ついつい気になった。

 稲の生育に関して言えば、作り物の話だ。稲の生育はじっさいからみれば不自然なことだ。何故8月24日が出穂になるのか。そうであれば、もっと遅い田植えにする必要がある。葉齢にしたがって進んで行く物語。油性ペンで葉に数を書いて行くところなど、他人事とは思えなかったので、いかにもやっていたかのような書き方に、間違いがあるとすべてが嘘に見えてしまう。

 しかし、ちょっとその9葉期では分ゲツ数がいくつでと言うような話がどうも細かくなればなるほどおかしい。そもそも苗箱に播く籾数の計算も違っている。何故三回も播種機での播種はまずありえない。しかも2本植えの田植え機での田植え。稲作をしている者には、ここまで細かく書くなら、科学性を尊重しない作者の無神経が気になる。

 こんな風に書かれていると、いかにも作者には正しい稲作の知識があるのかと思ってしまう読者もいるだろう。ここにある知識はネットででも調べて、つなぎ合わせたような、ギクシャクしたものだ。葉齢と分ゲツの関係だって、そうじゃないだろうと言いたくなった。

 そういうことはどうでも良いとも言えるが、土の記を評価している書評を書く人は、いかにも作者が正しい稲作の知識を持っているかのごとく読んでいる。まるで農民作家であるかのような位置づけには驚く。日本農民文学会の初代会長 和田傳氏を読んだこともないのだろう。

 土のことは土を耕して生きるものにしかわからない。作者には土のことが分かっていないにもかかわらず、土の記など大上段の姿勢である。農業者のことも、農村のことも理解が浅くなる。それはそれで仕方がないが、こういう作家が直木賞の選考員なのだそうだ。日本の文学はかなり低いものだと考えざる得ない。

 昨日友人と話していたら、芸術作品から影響を受けたことなどないと断言されていた。絵画はもちろん。文学も音楽からも感動など受けたことがないというのだ。そうかも知れない。別段普通のことで特殊な人ではない。きっとそういう時代なのだろう。

 自分のことで考えてみたら、ドフトエフスキーを読まなかったら、生き方は変わっていたと思う。ボナールを見なかったら、絵描きには成らなかった。モーツァルトを聴かなければ耐えられない時間があった。芸術によって生かされたと私は思っている。

 ところが現代日本では芸術は失われたのかも知れない。価値は商品価値で量られる時代の中で、芸術が社会に対する表現ではなくなり、商品経済の中での存在価値になった。だから、商品としての価値をおとしめるような評論というものは公にはない。

 高村薫氏の空海を読んだことがある。空海真言宗のことを理解できていないと思った。私も理解できていないので読んでみた。理解できていない空海を良く理解できたごとく書いているのが、ちょっとすごいと思った。この程度表面的理解では空海に対して失礼なことだと思う。

 まあ、真言密教というものを理解できていない私が言うのも変だが、絵という意味で曼荼羅がどういう物か一つでも、言葉で表現するのは極めて困難なことだ。表面的理解で良くも言い切れる物だと思う。気になるのはこれは間違った空海だと真言宗から批判は出なかったのだろうか。

 空海が体得したという真言密教が何故日本では途絶えたのだろうか。にもかかわらず、何故弘法大師の奇跡が日本の津々浦々にまで広まっているのか。天皇家という権力と、空海の関係があると私は考えている。天皇家は水土技術をつかさどる権力者。

 空海も大きな溜め池を作っている。私の生まれた、山梨県の山寺にも弘法平というところがあり、湧き水が湧いている。その水を引いてきて生活に使っていた。他分水土技術者としての空海がいたのだろう。天皇の水土技術と稲作。空海との関係。

 この辺りが弘法大師信仰を読み解く要なのではないかと思っている。そもそも中国に行く前の弘法大師は四国お遍路のようなことをした。日本人の信仰の中にある遍路。たぶん遍路は仏教以前の日本に存在した物だろう。その信仰と弘法大師が繋がって行く。

 弘法大師はインドの僧から密教を学んでいる。たぶん中国語をではなく、サンスクリット語なのだろう。忽ちに言語を体得できるような能力が空海にはあったと思われる。そうしたこともあり、多くの中国人の学僧の中から、空海が選ばれて、密教をすべて受け継ぐことになる。

 空海は密教の僧侶でありながら、現世での救済と言うことを目指している。それが溜め池を作り、湧水を発見し、水田農業を広げて行く事に繋がったのではないか。その意味では天皇家の技術者として活動したのかも知れない。もう少し空海のことを調べてみたい。
 

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「台湾海峡1949年」龍應台著

2021-09-15 04:36:01 | 


 「台湾海峡1949年」龍應台著を読ませて貰った。すごい本だと思った。事実というものが持つ圧倒的な力に満ちている。戦争というものの実態に迫るノンフィクション小説である。台湾の作家であるのだが、香港大学で一年間この本を書くための、優秀人文学者という立場を任命されて、書く部屋を与えられ書いたものである。

 中国台湾各地アジア各地で体験者を探しだし、情報を集めて、戦争の現場に出向き書いた本だという。今では書くことの出来なくなった本である。証言できる人が、その当時でも80代を超えている。2012年出版である。この本をこの本を残してくれて良かったと思う。この本を残してくれて良かったと思う。

 この本は台湾が置かれた悲惨な住民の弾圧の歴史を、あらゆる角度からノンフィクションとしてとらえてみようという試みである。と言ってももちろん、台湾の外省人の子供という作者自身の立場に立脚していることは、当然のことである。外省人とは1949年に台湾に脱出した国民党軍やその周辺の人々のことである。

 台湾の苦しい歴史が生み出した本は、当然台湾人の立場から書かれたものが多い。しかし、この本の作者は、台湾原住民の立場、台湾本省人の立場、台湾にやってきた外相人の立場、共産党中国人の立場、それぞれをできうる限りの公平な眼で俯瞰しようとしているものである。

 もちろん植民地支配者としての日本人としては、どう受け止めるにしても、加害者としての立場を逃れることは出来ないと言う意味で、日本人には苦しい本である。台湾本省人は、蒋介石と共に来た新しい支配者である、外省人の台湾人殺戮の事実は類を見ないほど、無残なむごいものであったらしい。台湾には外省人が書いたものだから、2,27事件に触れる量が少ないという不満もあると後書きにある。

 この本は出版後も事実確認が繰り返され、訂正が繰り返されたらしい。この本がきっかけとなり、様々な戦乱時の記憶が社会全体によみがえったらしい。加害者、被害者それぞれの立場で、台湾の苦しい時代が記録に止まることになった。

 ノンフィクション小説と行っても書くものは書くものの立ち位置で書く。読むものは読むがわの立ち位置で読むのだから、それぞれに読み方が違うのは当然のことである。それでもここに書かれていることは事実である。事実であると言う強さが満ちている本だ。文章に事実に迫ろうとい力がある。濾した力のある文章は日本では少ない。

 日本が台湾で行った植民地時代のことに正面から目を向ける必要がある。台湾の方々が日本に対して、温かいまなざしを持ってくれているのは台湾人の度量の大きさによるものである。蒋介石国民党に対する評価は、日本では誤解に基づいている。
 
(1)北海道がソ連の占領を免れえたのは、蒋介石総統が九州占領の権利を放棄して、これを阻止したからである。
(2)天皇制を護持できたのは、蒋介石総統がこれを強く主張してくれたからである。
(3)中国派遣軍と、在中日本人を蒋介石総統は無事に送還してくれた。
(4)500億ドルにのぼる対日賠償請求権を蒋介石総統が放棄してくれたから、日本はスムーズに復興できた。
この4つの内容的にはすべて間違えである。ソビエトのように日本兵をシベリアで強制労働させるようなことが無かったのは、中国がすでに内戦状態であったからである。

 日本軍に対して、どちらの軍も加わることは要請した。しかし、従わないものは早く返してしまう方が良いと考えたのだろう。賠償請求に関しては、一応の当事者政府としての蒋介石が敗北したために、賠償を放棄することを決めてしまった。中国を支配した共産党軍が要求したときにはすでに請求放棄が決まっていた。

 中国政府はこの本を出版禁止にしている。今の中国には事実に向かい合う公正さは無い。そのことは中国人自身が充分に気付いていることだ。天安門事件すら無かったことになる政治状況。悪かったのは日本軍であり、国民党軍である。そして毛沢東共産軍が正義なのだ。

 そんなことを単純に信ずるような中国の人達では無い。政府が必死に日本軍の暴虐を主張すればするほど、その後起こった内戦での共産軍の暴虐をだれも忘れることは無い。それは今起きている、香港の弾圧を見れば政府のやることは誰にも類推できることだ。

 独裁国家というものは必ずそういうことになる。自己正当化ばかりするのだ。だからこそ、効率の悪い議会制民主主義とそれを支える選挙制度が重要になる。今ミャンマーでは選挙に不正があったというこじつけの元に、軍事政権が民主主義政権を弾圧して、軍政を敷いた。

 どれほどその正当性を主張しても、民主主義を否定する理由は異論を封ずると言うことだ。様々な意見が錯綜して、混乱ばかりしているものが、民主主義ではあるが、この面倒くさい手間のかかる制度には意味がある。少数意見の尊重が出来なくなれば、結局の所独裁になる。

 内戦がミャンマーでも、アフガニスタンでも起きている。同じ民族が殺し合うのだ。異民族なら許されるというわけでは無いが、親兄弟が権力の命令で、殺し合うようなことは実に悲惨なことである。中国では子供の一人は共産軍に入れ、もう一人は国民党軍に入隊させるというような事が行われた。

 中国も台湾も経済成長を遂げた。それぞれに国作りをしている。中国は国家資本主義と言うような独特な方法で、経済大国を作り上げている。国際競争力が目標であるなら、ある意味合理的な手法である。ゲームにはまり込んでいる寝そべり族と呼ばれる若者に対して、ゲームを国が禁止しようとしている。

 国が箸の上げ下ろしまでとやかく言う。実に嫌な国だが、国際競争力だけを見れば、こういうことが出来る国は無類に強いだろう。勝てば正義だとすれば、これから中国が正義になることだって無いとは言えない。世界は人間の暮らしの本当の価値を、経済を越えたところに見いださなければならない。

 台湾もめざましい経済成長である。台湾は常に中国の支配圧力の中にいる。台湾は自由と民主主義を尊重している。どこを歩いていても中国にある、見張られているような不快感は無い。社会の空気がとても良い。台湾の社会を大切にしなければならない。
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どの位置から歴史を見るのか。

2021-09-10 04:17:01 | 


 台湾の小説を読んでいて、その奥の深い屈折した世界に魅了された。80年代の台湾の小説を中心に読んだ。実に時空が複層的なのだ。常に視点というものが動いている。その複雑な構造にむだがなく、そうでなければ表現できない世界観である。日本で言えば内田百閒 が思い出された。違いは血が出ているような現実の話である。

 それは歴史の悲惨な状況から来ている。16世紀までは中国の辺境の島という扱い。16世紀大航海時代に入りまずオランダ、そしてスペインが進出。両国が先頭を交えた結果、オランダが台湾を植民地からする。中国は当時明の時代で内戦が続き疲弊していて、台湾については考える余裕も無かった。

 1658年、 永暦帝を擁して清と戦ったた鄭成功は敗退し、勢力を立て直すため、1661年に澎湖諸島を占領し、1662年にはオランダの拠点だったゼーランディア城を占領して、鄭氏政権を台湾を建国。 漢民族による初の政権 として台湾では尊敬されている。

 その後清が勝利しその支配下となる。しかし、清は台湾を軽んじて重きを置くことがない。福建省や広東省から渡ってきた漢民族の移住者たちによって台湾開発が進められることになるが、男もそうなのだが、特に女性の移住が禁止されていたために、現地の原住民族と、中国人との混血が急速に進み台湾人が形成される。その人達が本省人と呼ばれることになる。

 1894年に清が「日清戦争」で日本に敗れた結果、締結された「下関条約」に従い、台湾は澎湖諸島とともに日本に割譲されることになる。日本への割譲に反対する勢力が、台湾民主国の建国を宣言するものの、敗れて崩壊。1896年、台湾総督府を中心とする日本の統治体制が確立される。

 1945年、日本の敗戦により、50年間続いた日本統治時代が終了する 。終戦後、台湾には蒋介石率いる国民党軍が進駐し、台湾は中華民国の領土に編入される。行政を担うために新設された台湾行政公所の要職は「外省人」と呼ばれる新たに台湾にやってきた人々によって占拠され、もともと台湾に住んでいた「本省人」は排除される。

 これに反発した本省人は、1947年2月28日に蜂起する。「二・二八事件」と呼ばれる。蒋介石は徹底的な弾圧にはしり、数万人を無差別に処刑。台湾に恐怖政治を行うことになる。こうして最後に来た国民党軍と共産党支配を恐れて中国本土を脱出した人達が台湾を支配する。

 そして、経済の高度成長に伴い台湾国としての自身と成熟が生まれる。徐々に民主国家へと変わって行く。その役割は先日亡くなられた、李登輝氏の類い希な政治力と歴史観に寄るところが大きい。アメリカとソ連が冷戦状態のなか、西側陣営は、台湾を東側陣営に対する防衛線とみなします。台湾にはアメリカから潤沢な援助がおこなわれる。

 「ベトナム戦争」の際も、アメリカは台湾から軍需物資を調達し、台湾経済が潤っていきます。しかし、アメリカと中華人民共和国の間に国交が樹立されると、台湾は国連からも追放されることになり、アメリカや日本と国交を断絶することになる。

 しかし、世界から追放されたにもかかわらず、台湾は巧みな経済政策と教育の成果によって、めざましい経済発展を遂げる。民主化を進めた李登輝が、台湾で初めての総統民選を実施。2000年の総統選では民進党の陳水扁が選出され、政権交代が実現する。

 簡単に調べてみたわけだが、何とも大変な歴史を背負った国だと言うことが分かる。台湾の人にも、日本の植民地時代のひどい弾圧や皇民化施策から来る反日感情はあるが、しかし朝鮮ほどでは無い。それはこの複雑な歴史に由来するのだと思う。日本を批判したところで、何も変わらない。それくらいならば、良い所を評価した方が台湾の未来のためという意識がある。

 台湾での植民地政策が、朝鮮より良かったというわけでは無い。日本もひどかったのだが、それ以上に過酷な恐怖政治が行われたため、日本のひどさが特出しないと言うことに過ぎない。日本はこのことを自覚できないような脳天気な国なので、その点がとても心配である。

 その意味では中国では南京大虐殺30万人というような、教育が今でも徹底して行われている。虐殺展示館もある。しかし、中国共産党と国民党との間の内戦で行われた住民の虐殺は、それ以上の大虐殺が繰り返されたもので、過去に例の無いほど悲惨な戦争を同じ民族間で行うという、すさまじいものであった。

 同じ中国人どおしが内戦に於いて、何十万人もの住民を封鎖して飢え死にさせている。逃げようとすれば、銃撃で殺してしまう。共産軍に殺されてしまう同じ中国人の住民。内戦で死んだ数は日中戦争以上と言われている。しかし、そのことは一切教育の中では取り上げられていない。しかし、政府が隠したところで、そのことは誰よりも中国人は自覚している。

 戦争というものは見る視点によって違って見える。台湾の原住民の視点。台湾の本省人の視点。台湾の外省人の視点。戦争の真実は一つであるが、人間の感性は様々なかたちでそれを受け取る。だから、台湾の文学は複層的で深い。

 中国の人達もどんな教育を受けようとも、さらに複層的な視点があるのではないかと思う。日本人の単線型思考とは違う。息子が2人いたら、一人は共産軍に、一人は国民党軍に入れる。それだけ複雑な歴史のある中国である。それが今習近平による、新しい実験の中にいる。資本主義の限界を超えようという実験なのかもしれない。

 最近アイドルの拝金主義がやり玉に挙がっているという。同感である。AKBの握手券のために、若者達に何百枚というCDを購入競争をさせることは、まともな会社であれば道義的には行うべき事では無い。しかし、それが出来ない国が日本である。その批判すら現われない。

 中国習近平政権は「共同富裕 」という大企業に寄付を要請している。自己本位の経営を止めさせる為だという。企業は人民のためにあると言うことなのだろう。社会主義国なのだから当然とも言える。これも是非日本でもやって欲しいことだが、できない。こうした資本主義の限界を超える。拝金主義や、能力主義を越える努力は、是非ともその結果を見てみたいと思っている。

 中国でも本来であれば、文学が生まれておかしくはない。しかし、表現の自由が制限されている。そのために魯迅のような文学は現われていない。もし、中国が本当の社会主義国家になれるとすれば、自由の問題だろう。自由が制限された社会主義などない。中国人も自由というものの価値は、強く意識している。今は自由な社会への道程という意識。

 このところ、台湾の現代小説を読み始めている。日本の現代小説に比べて見たいと思っている。日本の今の小説は、ビニールの皮膜がある。社会というものが無いかのようだ。個人の中の堂々巡りだけが歯ごたえになる。骨格というような構えが無い。

 だからダメというような意味では無いのだが。社会という視点が生まれない。あくまで個人の立ち位置からの単線の視点。社会という物がでてくるととつぜん観念的なものになってしまい、文学としては成立してないように思える。

 今の台湾の小説を読めば、今の台湾がどういう国に向かっているのかが少し分かるのではないかと考えている。80年代の台湾がエネルギーのある国であったことが文学から感じられた。結局の所国というものは人間なのだと思う。やはり中国人というものは中々すごい人達だ。

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台湾現代小説

2021-08-09 04:41:52 | 

 3羽のタカが台風余波の風に煽られて、ちぎれそうに飛んでいる。風を切る音が、ビュービュウーとまるで泣いているようだ。風が無ければタカは地に落ちてしまう。風が強すぎれば糸が切れて飛ばされてしまう。風に従うだけなのだが、その運命を受け入れきれないようなタカの凧。

 石垣島の古書店で本を物色していたら、「3本足の馬」という台湾の本があった。翻訳されたものである。台湾現代小説選Ⅲというものだ。1985年出版、山本書店出版部から出た本である。この本を読んで、少しだけ台湾の理解が深まった。

 古本探しが出来る島というのもいいものだ。石垣島が台湾に近いので、こういう本が古本屋さんにあるのだろうか。ちょっと無いくらい大きな古本屋さんなのだ。アトリエカーの中で読んだ。アトリエカーは昼寝をしたり、本を読んだり、カンムリワシの観察をしたり、色々具合が良いのだ。

 これがなかなか重たい本だった。本が醸し出す匂いが、台北の現代美術館で見た絵と共通のものだった。血が匂うような激烈さが潜んでいる。台湾の置かれた、政治的苦境のようなものが、表現の背後に横たわっている。この暗い重さのようなものは、今の台湾社会のどこか緊張した空気にも通じているのかもしれない。

 台湾は優しい国である。しかし、その優しさの奥に、常に人を意識しているという国民性があるような気がしている。複雑で、深刻な物を抱えているからこそ、人に対して優しい社会が生まれるのだろう。人間の奥行を感じる国だ。そういうことを、台湾の現代美術館で感じた。

 その台湾の人々の根底にある重圧のような物が、小説の中にもある。但しそれは80年代のことだ。今から40年も前の小説である。今の台湾は繁栄して、重さは無いかのような賑わいである。それでも、どこか日本には無い緊張を感じた。

 台湾の方が日本より、現実の社会という気がした。疎外されていない人間が生きている社会である。絵も生きることから生まれたような絵画だった。日本の美術展が趣味的な商品絵画に溢れている理由を改めて感じた。日本の社会が精神という物を失いっていると言う現実。

 日本社会は疎外が進んで、現実というものから距離を持たされていると言うことなのかもしれない。日本の現代美術館で感じる、絵空事感との違いが気になるところである。その台湾が日本の現代美術に強い関心があると言うことも、また気になるところでもある。

 この辺の空気感違いは、感じるところではあるが本当のところは分からない。分からないのだが、何かこのあたりに重要なことが潜んでいる気がして成らない。何なんだろうと思いなが、台湾の40年前の80年代の本を読んだ。

 「3本足の馬」チョン チンウエン と言う人の作品である。1932年桃園で生まれる。日本の軍事支配。日本の敗戦。日本人への報復。蒋介石軍が本土から台湾へ逃亡し、台湾を支配。そして日本支配とは比べられないほど中国の本省人から弾圧される台湾人。

 その後高度成長期が始まり、価値観が劇的に変貌して行く。その80年代の台湾の置かれた情勢の反映。蒋介石軍によって徹底的に弾圧された、台湾の民主主義、共産主義。日本時代に培われた物すべての否定。この複雑な社会構造から生まれた小説。

 一本足の無い馬の彫刻。その説明はどこにもないのだが、足の無い馬とはどこにも行けないと言うことではないか。逃げることもできない。飛躍することも無い。ただ過酷な運命の受け入れた、多分使役用の馬だろう。日々を重荷として生きる馬に象徴される物。

 絵のことを考えた。絵は生きると言うことを反映しているはずだが、現実が存在しないかのような日本社会の中にあって生きることと絵とは距離がある。生きることに向かい合う所に行こうとしている私絵画、そうあればそうあるほど社会の空気と離れて行く。これが日本の現実。現実である以上その空白のような物に向かい合う以外無い。

 コロナの対応でも政府が、感染した人の対策で考えついたのは、自宅療養。ワクチンを打たないで、感染するのは自己責任。冷たい政府。人間性を放棄したような対応が、この疎外社会の現実。経済優先の邪魔になるなら、すべて切り捨てるのが経済合理性。医療の充実などお金がかかりすぎる。政府が堂々と国民の選別を行う国に日本は成ってしまった。

 このことがどのように絵に反映してくるのだろうか。石垣島で、天国のような暮らしをしながら、このひどい社会の現実を避けるだけなのだろうか。道元禅師の時代は過酷な戦乱の続く時代である。その中で日本が禅という哲学を模索した意味を考える。

 この美しい石垣島に、ミサイル基地を誘致する人達がいる。金儲けの為が主たる理由であろう。理由付けは様々するが、要するに経済が頭の中にある社会。土建の仕事になる。土地を高く売ることが出来る。人口が増えれば、消費も増える。国の安全保障も金儲けの理由になる。

 このどうしようも無い日本の現実を、台湾の80年代の小説が明確にしてくれている。どこまでも日本に対する精神を破壊する悲惨な、反植民地の抵抗運動の存在。日本の現代社会には無い世界である。天国のような石垣島で、改めて考えれば、どこにでも地獄への道が開かれている現実。

 しかし、抵抗すら場所すら見いだせないむなしさはどこにあるのだろうか。高度成長によって金権主義に押し流されて行く人間性。他人ごとではない恐怖に襲われた。ため息をつきながら読んだ小説。台湾へもう一度行ってみたいと改めて思った。

 台湾の高度成長は中国以上に箱庭的である。誰もが当事者のような台湾。台湾の今を知ることは日本の自分の現実を改めて考えることになる気がしてきた。もう少し台湾の小説が読みたくなった。
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立花隆という知の時代が終わった。

2021-06-26 04:21:03 | 


 ダンドクという花だと教わりました。南米原産でカンナの原種と言うことでした。江戸時代初期に渡来した植物。

 立花隆は知の巨人と言われた。広い好奇心にしたがってあらゆる分野に知の探検に出向いた。田中角栄研究は政治に科学的調査報道でメスを入れた実に本質的な研究だったと思う。日本の調査報道を確立した人と言えるのではないだろうか。田中金脈をつぶさに調査し暴き、そして日本の政治の本質に迫った。

 日本列島改造論というコンピュター付きブルドザーと言われた角栄の裏の世界を浮かび上がらせた。庶民であった田中角栄氏がどうやって明治維新以来の日本の権力構造を打ち破ったのか、その類い希な集金力と人脈の形成。そして人心を把握の力。

 そして、田中角栄がさり、安倍晋三の登場なのだと思う。「安倍晋三の鵺の正体」というような研究が本来であれば必要なときなのだ。明治以降日本に横たわる既得権益を守る権力の最後のあがき。田中角栄が打ち破りかけて、最後にはその権力に潰された姿。

 しかし、日本が何故後進国になったかと言えば、安倍晋三の長期政権を日本人が選択した自業自得である。アベ時代とは明治日本帝国回顧政権だったのだろう。明治軍国主義の復活など出来るわけもないし、日本の歴史で過去最悪の時代である。

 立花隆氏は田中角栄研究以降政治研究を離れたように見えていた。田中角栄の悪行を暴き、その権力を崩壊したところで、日本の政治はさらに悪くなると言う現実に嫌気がさしたのでは無いだろうか。科学的探究の意味が政治には無いと言うことなのかもしれない。

 立花氏はその後農協の問題に取り組む。このことについて、10年以上前にブログに書いた。今再読してみたが、今もその読み方は間違っていなかったと思う。つまり、田中角栄研究が政治の分析ではあるが、日本の政治の未来を提案していないというところである。

 何のための調査報道なのかと言うことになる。農協を研究するのであれば、日本の農業をよくするためで無ければならない。農業がこの国にとってどういう意味があり、それに対して農協の役割はどこにあるのか。農業の未来展望を踏まえていない研究では、現実を変えることには役に立たない。

 農業者の利益を守るために結成された農協のはずが、権力と癒着し農業者をむしばむことになる構造的な問題。それは70前に始まったことであり、立花隆氏が農協問題に立ち向かったのは40年前のこと。すでにその問題点は指摘されている。

 そして、何も変わることが出来ずに本来の農業者の協同組合であるはずの農協が、その意味をほとんど失っている。農協の購買部は農業者にとっては定価販売の高い店に過ぎない。日本各地のホームセンターが行うような経営努力はどこでもなされていない。

 小田原では農業の技術指導はほぼ行われては居ない。石垣島ではJAが石垣牛のブランド化に熱心だし、サトウキビヤやライスセンターなど、活動は豊富なようだ。これについてはまだ実態はよく分からない。小田原では農家のアパート経営や保険業務には熱心な営業がなされている。

 農協が生まれるときに描いた、農業者が製品化の手段を持つことの意味が、今やほとんど失われているのではないか。北海道で生まれた、農協経営の先端設備の砂糖工場の意味は今どう考えれば良いのだろう。国際競争力の無い農業の代表例になるのだろう。

 現在の補助金に支えられながらも、経営の限界に達している、沖縄県の砂糖生産。沖縄の農業のためには重要な作物ではあるが、展望という意味ではかなり厳しいものが想像される。現在過去に無いほどの黒砂糖の在庫がたまっている。

 石垣島でも農業の業態が大きく変わり、畜産と果樹に移行し始めている。この流れは今後さらに進んで行くに違いない。実際に畜産や果樹の農家の方は若い方々である。そしてサトウキビや稲作は高齢者を多くお見かけする。

 立花氏が農協をテーマにするのであれば、40年前に今のこうした日本の農業を予測し、そのためのあるべき農協の姿を提案すべきだったのだ。少なくとも私には40年前には日本の農業から、日本の若者が消えて行く今の姿が見えていた。

 農業として成立は出来なくなるだろうと感じていた。私が特別に先見の明があったのではなく、農家であれば大半の人が自分の家族を後継者としては考えていなかった。展望が見えない職業だと考えていたからだろう。そして農業者の老齢化、廃業が進むと分かっていた。

 立花氏は日本に農業が必要だと考えるから、農協をテーマにしたので無ければならない。そして、どのようにすれば日本の農業が成立するかを提案しなければならなかったはずだ。ところがそうした未来志向が実はほとんど無い分析である。

 田中角栄研究でも日本の政治の分析は徹底しているが、権力をどのように変えて行くべきなのかの視点に欠けている。そのために田中角栄は居なくなったのだが、安倍晋三が登場してしまう。つまりさらに悪くなるばかりなのだ。

 立花氏が農業に対してわずかに展望を書いているのは農業者が後三割減少しなければ成り立たないと書いている。ところが、三割減どころか、三割になってしまった。そして、農業企業が登場して、日本はプランテーション農業に変わろうとしている。

 何のための調査報道かを考える必要がある。確かに立花氏の着眼点はその時代時代を象徴する問題に取り掛かっている。今で言えば週刊文春である。文春の記者時代もある。もう少し長生きすれば、感染症問題に取り組んでくれたのかもしれない。

 ブログも批判ばかりでは無く、何のために書くのかという原点はいつも考える必要がある。どのような幼稚な展望であれ、どう解決できるのかという視点が示せないのであれば、書くべきでは無いと自戒しなければならない。

 
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解剖学は絵画芸術と似ているという話。

2021-03-15 04:39:29 | 

 養老孟司氏の「運のつき」と言う本の中に、解剖学の説明があり、絵を描くことと似ていると書かれていた。養老先生は東京大学の解剖学の教授であったし、東京芸大の解剖学の先生でもある。芸術と学問の類似点には興味が湧く。

 以前から、養老孟司氏の考え方はどこか似ていると感じることはあった。随分教えられるところがある。例えば、私は「おまえはこんな時に何故絵を描いているのか」と全共闘問われて、今もその回答を探し続けている。養老氏も何故解剖学などしているのかと問われ、その答えを探し続けてきたのだそうだ。

 東大の研究費を貰わなかったという。その理由はその申請書に何のために役立つのかという項目があったからだそうだ。解剖学は役立つためにあるような物ではないのだそうだ。私の絵も役立つために描いているつもりは無い。あくまで私絵画で私自身の見ているものの探究のようなものだ。役立つのであれば嬉しいが、役立たない可能性だって充分にある。

 絵を描く時の考え方というのは解剖学のようなものかもしれない言う話なのだから、解剖学とは何かをまず知る必要がある。つまりレオナルドダビンチである。

 


 ダビンチの絵を見て悪い絵とまでは思わないが、それほど良い絵だとも考えていない。どこか思わせぶりな病的な絵だとしか思えないところがある。私の感性がおかしいのだろう。世界中があれほど評価しているのにもかかわらずである。

 しかし、感心しない物を感心したつもりには成れないので、何故世界で評価されているのかについては時々考える。ルネッサンス的人間像と言うことなら理解できる。20代に作っていた同人誌の「北都」に10名のヨーロッパのルネッサンスの画家のことを書いた。その時にもダビンチは取り上げていない。

 ダビンチの絵には、何か気持ちの悪い感触がある。これが評価されるところなのだろうか。私には画格が低いとしか感じられないのだ。これは歪んだものの見方なのだろうか。世間の評価が本当にあの絵を見て、決められているのだろうかとさえ思う。

 ダビンチはフィレンチェ郊外の農村で1452年に生まれた。ルネッサンスのイタリアの画家である。画家に専念したわけでもなく、あらゆる分野の学問、芸術に興味を持ち、むしろ他の分野でも傑出した成果を残している。同時代には様々なさらに傑出した美術家が存在する時代である。

 ミケランジェロやボッティチェッリのような優れた画家が数多く同時代に活動している。フィレンチェ周辺で活動した興味深い画家が数多く思い出せる。さすがにルネッサンスと呼ばれる時代である。特にルネッサンス初期の人の絵は、古拙というような品格があって惹かれる。

 ダビンチは人体を描くためにその骨格を知りたいと思い、解剖まで行ったと言われている。絵描きとして考えれば、人間を外から見て描くものが分からないとしたらむしろ問題ではないだろうか。たぶん、ダビンチが解剖をしたのは科学的な興味であって、絵とは関係がないだろう。

 人体の成り立ちを解剖してまで知りたいと考えたことには驚く。ダビンチは自分を画家だとは思っていたのかさえも分からない。



 ダビンチが優れていたのは素描だと思う。線で捉える能力には類い希なものがある。色彩や絵画的な表現という意味では物足りないものがある。ものには線などない。線は発見されたものだという考えがあるが、違うと思う。この不気味な感じは滅多にないものだ。

 素描にはその人が現われやすいと思う。線の微妙な引き方にとても神経のこまやかな人だと言うことが分かる。その巧みさにもどこか腺病質という印象がある。表情の表現が強い。興味の持ち方が絵画的ではないように見える。イラスト的であると言えるのではなかろうか。つまり説明的である。

 誰でも線でものを解釈している。脳がそういう整理の仕方をしている。それは子供であろうが、3万年前の人類でも同じことである。素描は事物の解釈の原点のような図である。人間をどう解釈していたかは、素描の方向が直裁であるとかんじる。描きたいものだけを研究しているような感じがする。

 ものには線などなく、線は発見されたものだと主張する人がいる。そういう人はものを見て線で捉えるという普通の人間に備わっている能力をあえて否定しているのだろう。理屈が優先され感性を否定しているのだろう。

 象形文字というものがある。ものの形を線に分解してものの意味を単純化してその本質を表す。高度な知的作業である。物には輪郭線などないという人には想像も付かない作業であろう。輪郭線どころか、二本線で人が表され、3本線で川が表現される。

 人間が物を見ると言うことは写真のように見ているわけではない。見るという奥には世界観が存在している。世界観に基づいて物は解釈される。ダビンチの絵は人間という物の理解がそれまでの絵画とはやはり一色違う。

 現実の人間に近づいたと言うことなのだろうが、リアルな人間を描くことよりも重要な役割が絵画にはあると思える。人間存在自体に迫るためには個別性に注目して描くことは、違うのではないだろうか。ダビンチの絵はいつもモデルがいるのだ。

 話がダビンチになってしまったのだが、学問は真理探究のためにある。絵を描くことはやはり真理の探求のためにあるのだろう。芸術と学問では真理への迫り型が違うと言うことに過ぎない。どちらも世界観がなければ成り立たない。

 養老氏は真理探究のための学問がやりたかったが、それが出来る環境が大学にはなかったと言うことだろう。それは今の美術の世界が、商品絵画の世界になり、純粋美術の追求をする世界ではなくなってしまったことと同じことのような気がする。

 別段商品絵画を追求する必要のない者まで間違えてしまいがちである。この点は心して進もうと思う。養老氏の本の中で一番参考になった本である。全共闘とは同世代として、様々な思いが今でもある。あの時代がなければ、絵を書いていることも無かったのかもしれない。

 あのとき考えていたとおり、世の中は悪い方角に進んだようだ。一体誰の責任なのだろう。分かっていて何もしなかった者としての責任は感じる。しかし残念ながら、何をやれば良かったのかは分からない。結局はあのときも絵を描いていた。そしてそのまま今も同じように絵を描いている。

 いまはただ、お前は何故絵を描いているのだと問うような人はいない。良い趣味があって良かったですねと言ってくれる人はいる。その通りである。商品としては描いていない。真理の探究として絵を描いているようだ。いつの日か、全共闘に聞かれることがあれば、今度はそう答えることにしよう。


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中川一政全文集

2021-02-08 04:39:21 | 


 中川一政全文集を購入した。中川一政氏の文章は絵を描く人の書いた文章の中で最も興味の湧くものである。私にとっては実用書と言うくらい、具体的な絵を書く方法が示されている。昔の実用書には趣味と実益と副題があったものだが、中川一政の文章は趣味にも、実益にも成らないことだけは確かだ。

 以前から何冊か単行書を読んでいたのだが、たまたまネットで全文集の揃いが出ていたので、あわてて購入した。他のことを調べているときに、突然、ネットのページにこの全文集が表示されたのだ。何で私の希望が分かるのだろうか。今の時代のネットは私の願いまで見透かされている。良く出来ていて、気味が悪いほどだ。

 購入したのはアトリエカーが出来たからである。アトリエカーにはいくらか本棚がある。ここに置けるので購入できたのだ。もう本棚が一杯であれほど捨ててきたのに、今更新しい本を買うという事はできない状況になっていた。よく分かっているので、捨てられない本の購入は我慢している。

 今回、読み終わっても捨てられない本を久しぶりに買ったことになる。読んでは破り捨てる読書法というものがある。文庫本などであれば、全部これでゆく。読んだところまでを剥がして破り捨ててしまう。本も薄く軽くなるし、この方が後々具合が良い。本には申し訳ないのだが、破り捨て読書で本が貯まらなくなった。

 中川一政全文集さすがに破り捨てられない。教えていただくのにそういうことは出来ない。早速アトリエカーに半分積み込んだ。ついつい絵を描かずに本を読んでいた。別段それでいいのだが。一巻から読み始めたのだが、一巻は以外に面白くない。二巻、もそれほどでもなく、3巻当たりからすこしづつ面白くなる。年代順に出来ているようで、文筆を目指している時代の作品はそれほどひかれなかった。

 絵も晩年になるに従ってすごいことになる。最終巻になると、どの文章も読み応えがある。味わいも深い。どうも文章も絵も同じことのようだ。若い頃は白樺派などの人と関係していたらしいが、白樺派らしい文章は書いていない。

 人に教えよう教えようとしている点がおかしいくらいだ。美術学校に行かなかったことに結構こだわっている気もする。美術学校に行かなかったのはゴッホだって、セザンヌだって同じことだ。時代を突き破る人は学校などでは教わらないでも突き破る。

 中川一政がアトリエを作ったときに、字の良い友人が一政画室と書いてくれたのだそうだ。その人は字を書くことに自信のある人で、一緒に同人誌をやるときに雑誌の題字を仲間が中川氏に頼んだのだそうだ。ところが面前で中川は字が下手だからダメだ。オレが書いてやると言って止めさせたと言うほどの人だ。

 中川氏の所に小学生からのはがきが来た。小学生の知り合いはいなのにおかしなことだと思ってよく読んでみると、なんと字のすばらしい友人のハガキだったそうだ。その人は若く死んでしまった。その人の遺文集の中の中川氏の文章である。

 その死んでしまった友人は中川氏を弟と呼んでいたそうだ。だから兄が字を指導してくれるのでは仕方がない。と書いている。その人は亡くなる前今度生まれ変わったら、絵描きになりたいと言った。それなら早く生まれて来てくれ、オレが弟にしてやり絵を教えてやると書いている。深い友情を感じる文章である。

 

 それをアトリエカーの中で読んだもので、その場にある水彩筆で、早速出画室と書いてみた。せっかくアトリエで読んでいるのだから、そう思って書いてみた。随分、真面目な字である。とても小学三年生の字には見えない。これがダメなところだ。そう思って絵の方を描き始めたら、なんと小学三年生の空になった。

 

 どうも今ひとつなので、もう一枚書いてみたら堅くなった。真面目な中学生の字になった。なるほど中川一政全文集は実用書だ。絵の方は文章の勢いがそのまま絵に来てくる。良いのやら悪いのやら分からない。でも本を読めるようなことは、実はほとんどない。描き始めて一息つくと12時なので帰る。もう何も出てこなくなり帰る。

 後半の文章になると、ずいぶんと影響を受けていると思えてきた。絵のことで私が考えていることが、そのまま書いてある。自分で考えたのでは無く、中川一政の絵を見ていて影響を受けている内に、考え方まで影響を受けたと言うことらしい。たぶん、そういうことだろう。

 絵はその人の考えで出来ているのだから、当然のことだとはおもう。それなら中川一政氏ほどの線が引けるかと言えば、そうはいかない。やはり及ばないわけだ。これも当然である。あと25年良くなって行けば麓ぐらいには到達できるかもしれない高い山だ。

 10冊の全集なのだが、あっという間に読み終わってしまった。絵を描かないで読み続けた日もあった。読み終わって思ったことは、井伏鱒二氏の方が文章はすごい。何度でも同じ文章が読みたくなる位魅力がある。中には写したくなるほどの文章さえある。それで今はまた、井伏鱒二全文集を載せてある。

 中川一政は画家である。文章も書くが、画家である。井伏鱒二は文筆家である。絵も描くが、文筆家である。二人とも両方が一流という人ではないようだ。当たり前のことなのか、むしろ不思議なことなのか。ちょっと分からないことになった。

 でもどうでも良いことかもしれない。中川一政の文集は絵画の実用書と言うことだけは確かだ。人の絵を見て、絵の具の色を言い当てたりしている。パレットに並べる色のことまで書いてある。それが又、私とはまるで違う色であるのにも驚かされた。
 
 実践家に見えるが、むしろ研究家と言うことだ。東洋の絵画や書の研究は相当にやっているようだ。あの線はそういう所から出てきていると言うことがよく分かった。研究の仕方がすばらしいとものまねにならないと言う勉強の仕方をしている。自分が在って学ぶと言うことの大事さを教えられた。
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