地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

水彩人展の作品

2012-07-31 04:25:43 | 水彩画

「朝の時間」

水彩人展に出す絵を描いている。昔の絵と較べて見ている。原発事故以前の絵と、事故以降の繪の違い。当たり前すぎる見方だが、重い絵になっている。明るい色を使った重い絵を描こうとしている。「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」という絵が描きたい。ともかく苦しい気持ちに支配されていて、美しいというような共感が湧いてこない。その中で、生きているというエネルギーを絵を描くことで確認しようとしているのだと思う。暮らしの周辺を描いている。暮らしの位置を描いている。自分の暮らしている周辺を繰り返し描いている。暮らしの位置を描くことで、自分という存在を探している。絵を描く目で「見る」と言う事は、その人の感性や、哲学を通して眼に映るものを、解釈している。雲でも木一本でも構わないのだが、その人の人間が出てこないようでは、絵を描く意味がない。畑を耕して田んぼを耕して暮らしている。このよく耕作された谷間については、自分の中で特別なものとして眼に見えている。

日本の風景は湿潤で、かすんでいる。すべての色にグレーが入っているように感ずる。私にとってはこの水を含んだ濡れ色は、油彩画では表現できないものであった。水彩の色は常に髪色が透けて見えるような紙の白を含んだい色合い。この多様なグレーの階調は、単純に白と黒の混色ではない。水彩の場合、パレットで補色の混色で作るグレーもあれば、紙の上で、重ねて作り出す無限のグレーもある。原発事故以降、とても暗い心境で生きている。自分の暮らしを見つめ直さざる得なかった。やっと今になり、絵を描いてみる気になった。暗い心境を描いてみる気もしない。大丈夫という気持ちを描きたい。絵を描くと言う事は、自分というものとどこまで向かい合えるかである。別段良い絵を描いてみたい等は思わない。自分が、原発事故後美しく見えなかった、桜の花の姿を忘れられない。美しいというものが主観的なもので、視覚的にいかに危ういものなのかを知った。あの白々とした、次元が変わってしまった桜が描ければと思う。

絵を描くときに手順とか、方法とかは考えない。方法から入れば、本質から遠ざかるばかりである。常に過去の自分を裏切るような、新鮮な挑戦でなければ、自分を探ることなどできない。自分の安心できる絵に近ずく事は出来ない。水彩画は素朴で、単純な手法だ。下描きや概略のメモ書きで使われる。つまり、そのものの持つ外せない要素を、素早く押さえることに向いている。本質の骨格だけを描きとめ、探る事に向いている。水彩画を描いてきた実感である。今のような追い詰められたような心境になると、絵をやっていて良かったと思う。自分が崩れることをかろうじて絵を描くことが食い止めてくれている。少なくとも絵を描いている時は余計なことを考えないでいられる。

冒頭の絵は春芽吹いてきた、木の葉に朝の光があたり始めた様子である。どこにでもある木なのだが、実はこれは毎朝必ず挨拶をする木である。木によって、とて親しい気分を感ずる木と、ただのものにすぎない木もある。何故なのだろう。春芽吹いてくる木は、再生を感ずる。朝と言う時も再生である。わずか明りが差して来た時、目覚め始める新緑の希望の印象。そうしたことは見えていることだ。それが絵に充分にはとらえきれない。見えているような気がしても、見えていないことなのか。見えているということは、不思議である。視覚で見ているだけでないのだろう。肌に当たる日差しや、風の流れ、におい。そうしたものすべてが見えているものを作り出すのだろう。写真の絵は、中盤全紙。ファブリアーノクラシコ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

議会基本条例市民フォーラム

2012-07-30 04:03:34 | 地域
案内の連絡が「小田原市議会を考える市民の会」からあった時に、誰が主催者なのか分らなかった。まさか、小田原市議会で北川氏をお呼びするとは思っていなかったので、少し驚いきながら、期待して出掛けた。北川正恭(まさやす)さんによる基調講演 演題「 分権時代の議会の役割 」とあった。ともかくこれだけは聞きたいと思って出掛けた。この人の考え方や行動は、地方自治の改革のひつつのあり方と考えていた。特に政策選挙の道では目立っている、大阪市長や名古屋市長の地方改革は、独裁改革でおかしいと思っている。むしろ、下からの改革、市民が議会を変えて行く、市民主体の改革が重要だと思っている。小田原では、時間をかけて議会基本条例が作られようとしている。しかし、この条例も今までの所上からの条例であり、市民から意見を積み上げるような、革命的なものにはなっていない。ただありますという、「小田原市自治基本条例」の前例にならなければいいが。

100名を越える市民が集まっていた。こんな地味な集会に、この暑い中良くもこれほどの人が集まったと言うことにまず驚いた。北川氏の吸引力もあるが、市民の小田原を何とかしたいという思いの強さと言うものが背景にあると思う。それだけ、市民の行政や議会に対する、怒りと要求意識が高いという事だ。それは、議会を考える市民の会も粘り強く続けられてきたことでもわかる。気になるのが、参加者の平均年齢の高い所である。私が平均くらいだろうか。北川講演の中心になったことは、議会の根本改革の必要性であった。改革の必要な議会ほど、自分の所は充分改革をしていると弁解するそうだ。まず固定観念を取り除くこと。その場を支配する空気を取り払うこと。議会とはこういうものである。議員とはこうである。こういう事を取り払い、市民の目線で自治を取り戻す、市民民主主義を作り出さなければならないということであった。

第2部として、議会の基本条例制定特別委員会の委員の方が市民に答えるという形で、フォーラムが行われた。内容が物足りずがっかりした。まず質問時間は2分。5名程度質問して終わり。私も是非開かれた議会の為に、意見を述べたかったが、全くその機会はなかった。フォーラムがこれで終わりということはおかしい。市民との本当の意見交換はまだ始まったとも言えない。一応フォーラムをやりましたというだけに終わるのだろうか。市民が議会に対して何を期待しているのか。もっと突き詰める必要がある。先日このブログで、ある議員の投票行動を批判した。その議員は「やられたのでやり返してやった」と、明言して、信じがたい笹村否定行動に出た。小田原の議員は議会での行動をこんな風に捉えている。つまり、議員であることを、まるで自分の獲得した大切な職業位に考えていて、自分の仕事にいちゃもんをつけられたぐらいにしか考えない議員もいる。

議員の投票行動を公開しないで来た理由がよく分かった。市民の意見は多様。議員の考えも多様。。当然である。だから開かれた議会は市民の意見をよく聞くシステムを持っている。「市民の声を広く集められるか。」「それを公開して議論し、」「どこまでも民主的に取りまとめ、」「市行政にやらせてゆくのか。」これが、議員と市議会の役割である。このもっとも基本的な所を議員になると忘れたくなるらしい。方法はある。議員全員に日誌を義務ずける。議員としてその日やったことを書いてもらう。業務日誌なのだから、当然である。そしてそれを公開する。メールアドレスも併記し、市民はいつでも意見を言えるようにする。すでにブログと言う形で行っている議員もいる。代表的な例が、加藤市長である。こうすれば、その人がどんな意見のどんな人かは4年間を通して分かる。
コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土用の田んぼ

2012-07-29 04:15:18 | 稲作




田んぼでは赤とんぼが目立つようになりました。
茎数は20前後で、まあまあそろってきたようです。
坊所や舟原では、16から、せいぜい18だったので、20を越えてきたという事は、
とても良い出来と言えると思います。
私の作り方では、分げつすればほぼすべてに穂が付きます。
穂数でも20平均行けば、1㎡あたり17,36本植えなので、347本の分げつ。
普通㎡400本が目標といわれているようだ。2500㎡では43400本
約85万本の穂になる。これは歩留まりがいいのと、1穂あたりの粒数が比較的多くなる。
一つの穂に100粒の実が付くとすると、8500万粒。
1000粒重が20グラムとしても、これでは畝採りを越えて収量が多すぎる。
こうはならないのだが、何か原因とんるのだろうか。

入水口の1番の稲は遅れています。また3番の南側も同様です。
しかし、遅れているだけで、充分開帳型に葉が展開しているので心配ないです。
このあと、徐々に追いついてきそうです。
最後に実験で7月1日に田植えした分は、やはり生育期間が足りず無理そうです。
ぜんたいでは、全員の努力が功を奏して、私の体験のなかでは、最高の生育です。

茎の太さは十分なので、穂の大きさも期待できます。
覆田後、3年目は田んぼの土壌の状態が、転換期を迎え悪化して普通です。
これは5年目まで、要注意だとかんがえています。
今年は何とか、土壌の変化に対応できそうです。ほっとしております。

水路の泥上げを、Yさんがやってくれて、水が良くはいるようになりました。
今年はすぐ泥が流れてくる状態です。
多分上流部で、土砂崩れが起こり、その泥が雨のたび流れるのだと思います。
川の濁りは、1日で直ぐ収まりますので、小さい崩壊だと思います。

田んぼでは、崖崩れの跡から、どうしても水が流れ出ていました。
その為に、9番の田んぼが水が不足してきました。
それでも何とか、水が行くように先日はついに丸一日かかり、対応しました。
9番の最後の排水口で、水が流れでないが、そこそこ水がある状態を目指しています。

ほぼ稲が田ずらを覆いました。もう草は新たに出る草はすくないと思います。
「ヒエ」等の草に実を付けさせないというのが、これからの対策です。
見つけたら田んぼに入り稲を痛めないように引き抜いて下さい。
一度、ヒエに実を付けさせると、来年草が増えます。

稲が出穂したら、田んぼにはしばらくは入れません。
例年だと、走り穂が8月1週目です。
そして月半ばに穂ぞろいとなります。
ですから、月半ばから、田んぼの中にはしばらくは入れません。

10月8日が稲刈りの予定です。
それまでは、水管理が中心の作業です。
お米は水で取る。といいます。肥料や土壌より、豊かな山からの水が大切です。
この水を上手く使う事が、美味しいお米を作るコツです。

出穂以降は、間断潅水気味に管理します。
水はあるが、繰り返し、水が引くこともある。
川岸になる稲が、徐々に川幅が、後退して行くイメージです。
田んぼを、9月の台風前に固めてゆきます。

長くなりましたが、稲の様子の報告です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

食糧は余るのか、足りないのか。

2012-07-28 04:24:04 | 自給
世界の食糧生産は足りているのか、将来も充分なのか。意見は割れている。東京大学大学院准教授川島博之氏によると、世界の食糧生産はだぶつき気味 。農薬や化学肥料や機械化の為という。世界の穀物需要量は、途上国の人口増、所得水準の向上等に伴い、1970年に比べ2.0倍の水準に増加している。一方、生産量は、主に単収の伸びにより需要量の増加に対応している。現状ではあり余るほどでもないし、足りないという訳でもない。あるだけ食べるのは当たり前のことだ。耕作面積の増加ではなく、1970年からの40年余りで、単収が2倍になっているという事だ。一人で100人分の食料が出来るとしている。この先40年でまた倍の生産が出来るかといえば、疑問点がいろいろ出て来る。人口増加が飢餓によって抑制される状態。

むしろマイナス要因が今後生産量を抑制するのではないか。温暖化に伴う砂漠化。農薬、化学肥料の収奪的農業による農地の荒廃。本当に今後も食糧はあり余るものと決めつけていいのだろうか。穀物だけで食糧を考えた場合では、人口に比例して増加している。食糧の贅沢化。家畜飼料の増加。バイオエネルギーの農地利用。温暖化。砂漠化。世界人口の増加。こうしたことを勘案すると、今が最高水準の生産量ではないかと思っている。この予測をどう考えるかは、農業政策に大きく影響する。川島氏は食糧は余っているのだから、差別商品として、高級化しなければ売れない。ただ、食べるものを作るのでなく、味覚の良さというような、差別化を農家は追わなければならないとしている。日本はお金があるから、輸出したいという国から、食糧は買えばいいという考え方でもある。飢餓の国が増えて行くにしても、日本が飢餓になることはない。まさに食糧を競争の原理に従って考えている。こんな思想が何時まで保てるかの保証はない。

川島氏は、農業問題は食糧の問題ではなく、農協のあり方、土地制度、いわゆる「偽装農民」の存在など、かなりの程度政治的・社会的問題だとする。私は、個別の「○○安全保障」というのは、あまり意味のない議論だと思います。「満州は日本の生命線」みたいな議論は危険です。食糧があっても石油がなければ、日本はあっという間に倒れます。それこそ外交を機能させ、そうならない状況を作り出すことこそが重要なのです。食糧自体を見ても、世界は圧倒的に作りすぎです。価格が落ちていて農家が大変だから農業問題が起こっているのです。日本は大部分の食糧をアメリカ、オーストラリア、ブラジルなどから輸入していますが、それらの国々との外交関係は良好で、彼らとしても農産物が余っているのだから、輸出規制をかける理由は何もありません。こう発言している。

偽装農民論は農家の政府に翻弄されてきた歴史を理解しない人間の言葉である。結果的に偽装になるとしても、農家自らの意思というより政府の方針でそうならざる得なかった現実の重さ。川島氏の発言は、論理の杜撰さは目立つ。学者とも思えない論理的矛盾が多々ある。背景のない思い込みで発言する。食糧安保を、空論と考える論拠が、石油が無ければ食べるものがあっても意味がないとする総合的安保論。世界が食糧の作り過ぎと考えるのは、商品取引という意味にすぎない。実際に足りないアフリカの国は、国際紛争の火種になっているのだ。質は違うが中近東の紛争も、食糧の安定個行給の問題がある。日本は食糧の自給まず優先的に行う事で、すぐれた交渉の基盤を作り出すことになる。今が世界食糧のアンバランスの上で、日本が足りたとしても、今後増産は鈍化する。そして食糧は遠からず欠乏する。中国人がアメリカ人並みに食べるようになれば、もうそれだけで、食糧生産は追いつかなくなる。その日に備えるのが、農業政策ではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

電気自動車

2012-07-27 04:34:18 | 暮らし
電気自動車にいつか乗りたいと思っている。そう思ってから、もう2年ほどたつ。理由は電気は自給しているから、自動車が電気で動けばエネルギーも自給ということになることがひとつ。もう一つは車の蓄電池が非常用に使えれば、災害時の準備になる。先日、タケさんのブログに電気自動車の電力消費の大きさが書かれていた。確かにその量は一回の充電が、家庭での消費の2日分とある。驚くべき量である。つまり問題の核心は自動車というものの莫大なエネルギー消費のことのようだ。電気かガソリンかより、必要な時以外、車に乗らない方がいいということになる。それはそうなのだが、車は自給生活には、必要なものである。山北の山の中の一軒家で車なしの暮らしをしていた時。自給の暮らしは車なしでは不可能だという事をしみじみ感じた。確かに無駄に乗るのは良くないが、タケさんと行った、車での温泉旅行は忘れられないいい思い出である。

多分電気自動車を買えるまで後2年はかかりそうである。蓄電池の性能がもっと良くなるに違いないと思っている。多くの自動車会社では、蓄電池の開発にしのぎを削っていると思う。スカイラークで無料で充電サービスをやっている所があるらしい。コンビニでも急速充電器を設置するところが増えているらしい。この傾向が進めば、ガソリン車よりむしろ便利になるだろう。その上家での緊急用電源として機能すれば、移動手段の自動車が災害対策に役立つ。まして自給生活においては、昼間は太陽光発電を行い。夜間に自動車からの電力が使えれば、東電から電力を買わなくても楽に暮らせるようになるかもしれない。いずれにしても蓄電池の性能の向上に期待している。ネットで調べてみると、急速に進化していることが分かる。分かるほどに、今はまだ買える状態でないことも分かる。テレビもそうだったが、進化している時にはためらう。

電気自動車など普及したら、原子力発電所がさらに必要になる。と考える人もいるかもしれないが、私は夜間電力を使えばいいと考える。電気は発電能力に従い、一日の中で平均的に使う限り無駄が少ない。電力の使用時間による価格差をもっと大きくすることである。昼間の電気代は今の倍くらいにする。高いことが低所得家庭で問題になるなら、他のことで補うべきだ。工場は夜間操業が可能な所はすぐそうなるだろう。電力不足はピークの問題が一番大きい。加えて太陽光利用である。暑い盛りのピーク時こそ発電量が大きい。そうした家づくりも進んでいる。となると、今度は資源の問題が、あるいは製造コストの費用対効果の問題など指摘される。つまり、一番良いのは縄文の暮らしに戻ることだというような考えである。自給農業をやるのに、ビニールハウスはおかしいだろうという事と似ている。先日指摘された、自給農業でトラックタ―などおかしいだろうという考え方と似ている。

蓄電池の問題さえ解決できれば、ガソリン車は将来すべて電気自動車になると考えている。電気が再生可能エネルギーだけになれば、石油より電気は環境的なエネルギーということになる。それがとても高価なエネルギーになるにしても、発電を再生可能なものにすれば、方向に間違いはない。タケさんのブログによると、一般家庭の2日分の電気エネルギーで豊橋まで行ける。価格は随分安い。500円くらいということか。ガソリンなら、10倍に近い価格ということになりそうだ。何故そうなるのだろう。コンビニやファミレスでただで充電できるなら、さらに安い。これは何か不自然でおかしいが、その理由は良く分からない。いずれ蓄電池である。投資する資金があるなら、蓄電池の開発企業に投資したいくらいだ。この分野で、日本は頑張ればいい。これが必ず次の大きな産業になる。レア-メタルは使わない。消耗的なものではだめ。これは必ず突破できる技術だ。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4つのの事故報告書

2012-07-26 04:33:22 | Peace Cafe
原発事故がどうして起きたのか、1年4カ月経って4つの報告書が不十分ながらでそろった。一つでも読んだ訳ではない。あの分厚い報告書の姿を見ただけで、その意欲も出ないし、多分読解するだけの時間も知識もないと思う。だから、分かるのはマスコミ発信の分析位である。1、政府原発事故調 最終報告書 2、福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告 3、東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調) 4、東電事故報告書の4つがある。最初から一番気になっているのは、地震で壊れたのか。あるいは電源が切れて冷却水が行かなくなって、壊れたのか。この違いである。これだけは比較してみたが、どうも、国会事故調と、民間事故調の報告書では、地震そのものによる、配管や継目の損傷の可能性が指摘されている。東電や政府の調査では、津波による電源の損傷が原因としている。現状つぶさに確認しながら、調べることが出来ないので、曖昧なことは仕方がない面がある。

しかし、原因も今だ究明できずに、何故大飯原発の再開だけは安全宣言がされているのか。野田さんが責任を持ってくれるらしいが。最初から再開の結論があって、すべてをそこにこじつけた政治判断と考えるしかない。こういう事の決め方が、ぐずぐずでなっていないのだ。それでも、一応の事故原因の報告書が出たのだから、今度は責任の追及である。これだけの被害を与えて責任を取るものがいないと言うことはあり得ない。迷惑をかけたら、賠償を払い、刑務所に入る。そうでなければ社会的企業の正義が揺らぐ。別段東電の幹部が憎い訳ではない。しかし、誰かが分かりやすく責任を取らされることで、企業が馬鹿なことを止めるのだ。電力業界では、原発の推進の意見を、平等に言わせてもらえないというので、抗議をしていた。確かに、電力会社にも言わせるべきだ。そしてその発言の責任を取る。先日の公聴会での電力会社の社員の意見では、死んだ人のいない程度の事故という、びっくりするような言い回しをした。

今回の事故は私には、敗戦と同じくらいの歴史的敗北を意味する事件だと思っている。ここで、文明の方向を確認しろという、天の声ともいえる大きな事故である。この事故を死者が居ないくらいの小さなものだという認識が、電力会社にあるのであれば、歴史認識の不足である。そうした電力会社は営業を停止しなければならない。2度とあってはならない深刻な事故を起こしたという共通認識に立たない限り、エネルギーの将来構想など立たない。そう言う意味でも、事故の調査と責任の取り方は、明確にしてほしい。電力会社というものが、おごっていて、反省がなく、利益追求に躍起になっている存在か。国民が知る意味でも、電力会社枠を設けて、大いに意見を言わせた方がいい。政府が突然中止を命じたのは、とんでもない発言で、いよいよ墓穴を掘りそうだからに違いない。東京電力とは、賠償交渉で接触したが、全く社会常識のない。特殊な人たちであった。きっと責任者が刑務所に入るなど、考えてもいないことだろう。

原発を稼働することが利益につながるという構造を止めることだ。当たり前の事故対策や、核廃棄物処理を義務ずけることだ。儲からなくても原発を選択する訳がない。事故原因を一番真剣に調査すべきは、国会であろう。政府や東電がいくらやっても信頼性がないのは、事故を起こした当事者だから当然のことだ。民間事故調では、確かに偏りがある場合もないとは言えない。国会は一応作ってどうもその後、各調査を比較検討し、検討を深めるというようなことをしていないようだ。日本の英知を集め、事故の原因調査をすることが第1歩である。原因が分からなければ、対策などあり得ない。私には地震国日本では、原発の安全性も核廃棄物の安定処理も極めて困難に見えるのだが。これも、正しい事故分析が出来なければわからないことではある。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

警察の情報漏えい

2012-07-25 04:46:42 | Peace Cafe
警察官の情報漏えいほど、手に負えないものはない。警察官の違法行為が許されないのは当たり前だが、警察は特別な情報収集が許されている。神奈川県警でも犯罪が案外に目立つ。月に一回位はある感じだ。しかし、飲酒運転とか、空き巣とかいう事より、情報漏えいは罪が重い。例えば、警察官に娘さんが居て、その娘さんが結婚相手を連れて来たとする。お父さんの警察官はその相手の情報を調べてみるようなことはしていないだろうか。しているように感じてしまうのは、下衆の勘ぐりだろうか。お父さんが税務署員で、収入を調べるというようなこと。あるいはお医者さんで病歴を調べるとか。やっちゃうんじゃないかという気がする。私が見ようとすれば見れる立場なら、見てしまいそうな気がする。しかし、見てはならないのは当たり前のことだ。つまり見たくても見れないように出来ない限り、情報というものは集めてはならない。

警官が戸別訪問して、集めている情報というものがある。あれも不思議なことだ。警察に付け狙われた経験がある。余りに家の中をのぞきこむので、そんなに見たいなら、入ってみればいいと言ったとたん。真剣な顔で踏み込んでくまなく見て行った。何故そんなことが分かったかと言えば、友人になった警察官が教えてくれたのである。注意とした書類があったそうだ。これも情報漏えいということになるのか。警官とは断定できないが、盗聴までされていたと思われる。ある時、知らない男が私の家に黙って入ってきた。大声を出したら出て行った。すぐ警察に通報した。なんとそれが警察官だった。この時は部屋のドアノブにその男の指紋が残った。ごまかすなら、とことんやるからということになり、警察署長の謝罪をもらって我慢した。30年は前のことだ。こんなことを書けば、いかにも私が怪しい人間に見えて厭なのだが、ごく普通の人間言がそう言うことになりかねない現実がある。

私などでも警察から情報が漏れたら、とんでもない人間という事で、おかしな情報が流れるのだろうか。まあ、今さら就職でも、結婚でもないので大した被害はないが、気分は悪い。そう言う、厭な圧力が警察の情報漏えいにはあるという事だ。誰もがそう言う厭な側面を感じていると見える。「日本の総理大臣はCIAに裏情報を握られていて、いいなりにならざる得ないのだ。」というようなことがまことしやかに言われたりする。韓国の大統領の兄の逮捕など、韓国は政権交代というとこういう事がある。私がこうして何でも書いてしまうののは、私を抑え込もうとしたら、何でも書きます。という宣言でもある。大げさなことであるが、情報の発信は自己防御でもある。情報の扱いにとても神経質になる社会。その為に、防災上の情報すら、集めにくい。緊急時の連絡体制すらつくることがむずかしい。

本来情報は、集めて合理的に管理されるべきだ。ただし、管理能力がある場合のことだ。例えば、病院の記録や健康診断が、子供の頃から一括で残されていれば、健康を管理して行く上で、とても良いはずである。どこの病院で診療を受けても、どこかに一括して残って行く。その方が、一生涯の健康管理ということであれば、経費的にも良いし、特定の病院がおかしな治療をしていることなども見えてくる。国民番号で税務管理というのも分かる。当然その方が徴収率が上がる。子供手当でも、消費税でも、何か違う合理的なやり方が考えられそうだ。しかし、そう言う事をやらない方がいいのは、情報漏えいである。警察官が10年以上も情報を漏らしていて、分からないというようなことでは、仕組みの方がおかしい。情報が漏れない仕組みを完成すべきだ。

昨日の自給作業:田んぼの拾い草1時間 累計時間:17時間
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渋谷ヒカリエ

2012-07-24 03:57:35 | 身辺雑記
機会があって、ヒカリエを見学してきた。本当の名前はShibuya Hikrieというらしい。1972席ある「東急シアターオオブ」というものができた。世界最大級のミュージカル劇場ということらしい。昔の東急文化会館である。屋上にプラネタリユームがあったビルである。出来たのは50年以上前で、当時としては名店街のように、老舗を集めた店舗だった。やはり当時なりに新しいコンセプトのビルであった。中には1階にパンティオンという洋画の映画館があった。駅と繋がった劇場という事で、何か似ているものはある。私が出掛けたのはこのビルにある、貸会議室である。何と、40㎡ほどのスペースが1時間3万円というような価格で、貸し出されているらしい。借りる人がいるのだろうかという驚きである。私の暮らしとはあまりにかけ離れて居て、すごいことなのか、とんでもないことなのか、良く理解が出来ない。

B3から5Fまでがシンクスという商業スペースである。レストランが6,7Fにある。その上には、クリエイティブスペースとかホールがある。11Fから16Fが劇場。そして17Fから34Fまでがオフィースである。まだ借り手の決まっていないスペースもあって、そこを見学させてもらった。照明はすべてLEDであり、窓際などは、明りが自動的に調光されるようになっている。ブラインドも、太陽光に従って、自動制御されるそうだ。もちろん証明はすべて、LEDである。窓が広いせいか、違和感はなかった。すべての入り口が、セキユリティーが良く出来ていて、エレベーターから自分の降りる階以外の、他所の会社の階に降りれないようになっている。もちろん全体の入り口には、駅の改札のようなシステムがあり、カードがないと通れないようになっている。ビルの全体の中央に吹きぬけがあり、それが煙突のようになり、夜間など空調を補助するらしい。

私は長く三軒茶屋に住んでいたので、どこに行くにも渋谷は通過した。一時若者の町として賑やかになったが、その前の1960年代の渋谷である。蛇屋さんと、昆虫採集専門店。随分個性的な町であった気がする。道玄坂の上の方にあった、地球堂という画材屋さんで油絵の具のセットを買ったのが1962年になる。町というものは随分変わるもので、私の父は、渋谷今東急本店がある場所の確か松濤小学校にかよったらしい。まだ、ハチ公が渋谷を歩いていた時代だ。どんどん変化して、若者の町になり、そしていくらでも続くように見えた、にぎわいがだんだんに衰退の方向らしい。そして、渋谷の街全体で、再生の計画が話されている。、その一つの表れがヒカリエらしい。要するに古いビルを壊して、高層オフィースビルを立てる。あるいはショッピングセンターであったり、マンションであったり、ホテルであったりする。そうして東京は見違えるように、高層ビルの町になっている。大震災の来る前に耐震化や防火をしなければならない。

町の再生ということは、全国どこでも言われている。しかし、人口が減少して行く中で、どういうことになるのだろう。世界最大級のミュージカルホールが出来て、その分どこかで劇場はいらなくなっているのだろう。渋谷が良くなる分、どこかが悪くなる。渋谷のように商売の競争に有利な所ほど、大きな資本の投下で、信じられないような開発を行う。同じ土俵で競争しようとすれば、どこが勝つかは、目に見えている。もうそういう同じ方角は良いのではないだろうか。もう少し違う角度から、町を考えた方がいい。小田原の環境的な魅力は、渋谷では及びもつかない。渋谷のような街づくりではなく。小田原なら畑や、海や、山や川と直結した街づくりを目指すべきだろう。東京や、ネット社会でも可能な、ものづくりを目指した所で、大した競争にはならないだろう。私にとっては小田原の久野で、自給自足で暮らす事が最大の喜びである。オオブ劇場にはたぶん行くことも無いだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大津市教育委員会

2012-07-23 04:38:15 | Peace Cafe
大津市教育委員会が特別な組織なのだろうか。余りに常識を欠く発言を繰り返している。社会一般から言えば、信じがたいほどのかたくなな態度だ。最新のコメントでも、いじめと自殺の関連は分からないとしている。以前はいじめはなかったとしていた。21日になっても、「学校現場ではいじめの認識がなかった」というのが、教育委員会の考えだそうだ。さすがにここまで証拠が出て来ると、イジメがなかったとは言い張れなくなったので、学校はイジメを認識していなかったという言い方である。さらに、イジメが自殺の原因とは証明できないと言い続けている。教育関係者でありながら、人間というものを分かっていない。人間はどのような行動を起こす場合でも、その原因は複合的であり、一つだけを上げることなど出来ない。例えば、私が絵を描くようになった原因は、それは多様な要因があり、今絵を描きたくなる、という結果になっている。

何が行動の原因になるかなど、特定しようにも出来ないのが人間である。ただし、イジメは必ず今回の自殺に影響はしている。確かに他の要因もあるかもしれない。しかし、イジメとは言えないと言い張るほどの根拠はない。自己防御的な体質の教育委員会。最初の対応に誤りがあったのではないか。イジメを調べもしないで、ないものと決めつけてしまった。その後はどう対応すればイジメはなかったことに出来るかだけを考えたのだろう。真実など初めからどうでもよかったのだ。それがアンケートをせざる得なくなった。アンケートにはイジメがあったとする形跡がいくつもあった。今度はアンケートを見落としたなどと、馬鹿げたいい訳をした。しかし、調べれば調べるほど、イジメがあったという事だけは見えてくる。今度は、イジメと自殺の関連があるとは言い切れないという弁解である。今ではこの苛立せる対応が、イジメを生み出す根源のように見えてきた。教育委員会という特殊社会の感性と考えた方がいい。

教育委員会という制度が、そもそもおかしいのだ。どれほど歪んでいても、市長ですらチェックも出来ない組織。委員がどれほどの変人であったとしても、防ぎようのない組織。私は今回の事件で、学校や、教員を責めても良い結果は出ないと思う。こういう社会状況の中で、イジメは広くあるに違いない。親が自分の子供に対して虐待する事例が、後を絶たない社会だ。小田原でも児童相談所に4月からの4カ月の間に66件の通報があったと聞いた。(伝聞であるが。)社会に問題があって、学校も又その生徒も影響を受けている。教師や学校の怠慢という方向にことが進むのは、学校現場を追い詰めることになる。学校でいじめがあってはならないのは当然のことだが、あまりにイジメだけに着目すれば、他のゆがみも出て来る。教育は緩やかで、総合的なものだ。イジメはどこにでも存在するという観点を持ち。どのように対応するかを考える必要がある。

教育の現場においては、子供の中に、社会の矛盾が集約される。だからこそ、教育委員会が一番この問題を真剣に考える必要がある。大津市の教育委員会の姿は、命を守る教育から最も遠いい姿である。小田原では、路上生活者の襲撃事件が半年間も続いている。教育の現場では対応に温度差があるようだ。こうしたことに対して、小田原市の教育委員会ではどのような議論がなされているのだろうか。私の知る所では、教育現場以上におざなりの対応をしているように見える。先日、ある中学校の校長に面談を申し込み、この問題の話し合いを持ちました。校長として、真剣に対応している気持ちを知ることが出来ました。襲撃はイジメ問題と同根です。学校だけで対応できる問題でもないという事もあります。想像力を育てる教育。弱者に対する共感を育てる教育。路上生活者が自分と同じ人間であるという教育。そして無意味な教育委員会の廃止。教育委員会のない市町村も実際にあるのだ。

昨日の自給作業 田んぼの水路の草刈り3時間 累計時間 16時間
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エネルギー国民的議論の進め方

2012-07-22 04:02:33 | Peace Cafe
政府がエネルギーのこれからのあり方について、国民的議論を進めるとしている。必要かつ正しい考え方だ。それが、11会場で9名の一方的な意見表明という事のようだ。例の電力会社の社員が原発必要論を述べて、話題化したものだ。これで十分な国民的議論とは、さすがに誰も思わないだろう。もしこれを国民的議論というなら、議論というものの意味を取り違えていることになる。このやり方は一方的な意見表明であり、議論ではない。意見交換のない議論ではおかしい。互いの意見が議論を交わす事で、昇華され、深まるというようなものとは違う。当たり前のことだがエネルギーの将来構想には、様々な観点からの、それは多様な考え方が存在する。それを主張し合い議論する。私は「地場・旬・自給」の思想に基づき、エネルギーも解決しなければならないと考えている。つまり、エネルギーも自給を原則にすべきと考えている。自給できるエネルギー量に見合った暮らしを立てることである。

日本の自然環境を永続的に維持し、循環できる暮らしを目指すべきだ。拡大再生産型の経済至上主義は、世界の競争を激化し、貧富の格差を広げ、貧困と食糧危機をさらに深刻化することになる。日本には江戸時代という、特殊な鎖国時代を経験することで、自給的安定する社会を模索した貴重な体験がある。もちろん様々な問題点があったことも事実だが、その暮らしのあり方に、世界が永続的に維持される幾つものヒントが存在する。例えば、人間の幸せというものが、人間の生きるどの方角にあるか。江戸時代は物質的豊かさよりも、精神的に充実した暮らしを尊んだ。ご先祖に見守られ、ご先祖と同じように暮らす充実を大切にした。農業においては、稲作という永続性のある農法を確立し食糧の安定供給を目指した。里地里山では、手入れを行う事で、大きく自然を改変するのでなく、どのように自然に従って暮らしを織り込んでゆくかを模索した。そして、一定の循環できる社会の安定を確立させることが出来た。

現代社会が競争の原理に従い、競争に勝つことでのみ、豊かな暮らしを手に入れることが出来る社会になっている。この能力主義の徹底により、技術の進歩や暮らしの利便性は著しく向上した。それは画期的な人類の成果ではあった。エネルギーにおいても電力というものを手に入れ、暮らしは見違えるように、便利に近代化した。しかし、その利便性を支えるエネルギーもより効率の高い、競争に勝てるものにとシフトしてきた。そして、原子力エネルギーを最善のものとして、選択し拡大してきた。ところが、原子力エネルギーは一度事故を起こせば、取り返しのつかない技術でもあった。機械である以上事故や間違いはつきものである。この恐怖の上に人間は暮らさなくてはならなくなった。しかもそこから出る、放射性廃棄物は、日本学術会議の結論では、今だ処理技術も確立せず、何万年もの間未来の人類に、処理法のない負の遺産を残す事になっている。これは現代人の未来を欺く、利己主義の結果だと思う。

今は循環型エネルギーに転換すべき、歴史的機会である。確かに、この時点で自然エネルギーへの転換は、大きな不利益も存在する。競争という意味では困難が伴う。しかし、ここで一歩下がり、原子力エネルギーを放棄し、出直す事が出来れば、日本は必ず未来においては、循環型エネルギーの先進国としてよみがえるはずである。現状にしがみつくことなく、この原発事故を天命と認識することだ。江戸時代に行ったような、もったいないの知恵をふんだんに発揮して、日本人らしい暮らしかたを提案することは、必ず人類全体の希望になるはずである。その為には、転換が達成されるまで辛いだろうが、原子力は放棄するという大前提に立ち、すべての方角を自然エネルギーの開発に向けるべきだ。原子力に未練を残し、経費をかけていたのでは、この歴史の大転換も出来ないことになる。大きな失敗を未来へ糧として、次の循環する暮らしの時代を国民全体で模索すべき時が来ている。

昨日の自給作業:田んぼの畦の草刈り2時間 累計時間13時間
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自動販売機の禁止

2012-07-21 03:50:10 | 環境関連
炎天下の野外に冷蔵庫が置かれている。自動販売機が野外にある間は、節電は嘘だと思う。もし本当に節電が必要なら、野外の自動販売機は、当然最初に禁止になるだろう。いよいよ暑くなってきた。暑い時に冷たいものが飲みたいのは、誰しも同じである。先日、段ボールコンポストの事務局会議で、Kさんがこの活動の時は、自動販売機を使うのを止めましょうと言われた。それは、スーパーでの展示配布の時に、暑いのでみんなに冷たい飲み物を買ってくれた人がいたからだ。頂いて飲んだ。たしかにKさんは断っていた。人の好意を断るというのは難しいことだが、改めて自動販売機がいかに電気を無駄にしているものかを説明されていた。あれは1軒の家庭の電気と同じくらいの電気を使っている。極力使うのを止めましょうということだった。言いにくいことを良く言うなと思ったが、正しいことではある。まあ、正しいことを発言する時こそ、配慮が必要ということはある。

Kさんは他の活動の際にも、同じことを発言して、少し揉めたという事を聞いた。実は生ごみクラブでは、代表の笠原さんも、会として、市役所関連の施設では、自動販売機を廃止すべきだという要請を、したことがあった。私も、当然同調して主張したが、何となく話題自体が避けられた。自動販売機を廃止することが何故難しいのだろう。利益が出ていることは分かる。便利なことも分かる。それでも節電を主張するなら、止めるべきものだろう。当然なことが出来ないのが日本の緊急事態である。あの自動販売機の為に、原発が稼働しているとすれば、とんでもない話だ。原発1基が自動販売機分だそうだ。計画停電の必要まで説明しながら、工場の操業停止まで命令しながら、自動販売機の禁止が話題に出てこない。テレビでは絶対に出てこない話題である。大スポンサーである。ではNHKでは節電の課題として出るかと言えば出てこない。気がつかない訳がないのにおかしいではないか。

少なくとも、原発反対の人だけでも、野外の自動販売機は利用しない。これを徹底したい。昨年この話題を書いたらば、すぐに、関係者と思われる人から、「充分省エネをしているらしいですよ。このアドレスに書いてあります。」というコメントがあった。多分こんな意見が広がらないように対策している人がいると思われる。確かに商売なのだから、即禁止が出来ないだろうが、緊急時の対策として、電力が危うくなった場合、すべての自動販売機の停止命令を出すくらいのことは優先して行うべきだ。何日間の事だから我慢できる範囲だと思うが。先日コカコーラ―では、自動販売機の昼間の電力を90%以上を節電する機械を開発したと言っていた。多分夜間に氷のようなものを作り、昼間はそれで冷やすということだろう。やればできるということである。コカコーラ―がそういう実用機を作り設置するまでは、禁止すればいい。

何故、自動販売機が禁止できないか。又、そうした話題が広がらないように配慮されているか。ここに日本社会の問題点が潜んでいるように思う。自動販売機工業会では環境対策を様々していると書いている。自販機は年間1000キロワットの消費電力まで節電してきたと自慢げに書いている。やはりすごい電力消費だ。自動販売機程度に目くじらを立てるほどのことはないとか、充分に省エネしているとか、様々な意見がある。大いに議論することが良い所でもある。自動販売機が動いている状態を見るにつけ、節電するのがばかばかしくなるのではないか。この気分的問題が一番である。自販機ぐらいいいというなら、自分の出来る節電など大したことはない。こう考える人もいるかもしれない。原発を稼働する。安全対策の不十分である、政府の主張する緊急事態に対する意識の問題である。そう言えば、石原都知事は自動販売機禁止だったがどうされたのだろうか。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

民主党の福島のぶゆき議員

2012-07-20 04:17:53 | Peace Cafe
福島のぶゆき議員は財務官僚出身の議員である。この人が素晴らしいく頭の良い人なのでびっくりした。テレビで話を聞いただけなのだが、こんなに全体を把握できている人がいるのだと、びっくりした。有能であり、かつ国を思う人が民主党にいるという事にびっくりした。良く考えれば、びっくりする方がおかしいのであって、国会議員には有能な人がたくさんいてあたりまえだろう。能力も志も高い人が沢山いて当たり前のことだろうが。にもかかわらず、国の政治が機能していない。政治がまずいという事より、国の置かれた状態がとても困難で、誰が運営しても難しいということは言える。参議院でこの間の消費税と一体改革法案の審議がされている。法案提出者として、自民党の人や、公明党の人が、答えていた。質問しているのも同じ党の人である。聞いていてバカバカしく成るぐらい、茶番の質疑である。なんて頭の悪い人たちなのかとあきれた。

国会の審議の意味を取り違えているし、それを聞いている人の把握を間違えているのではないか。しかし、その人は自民党公明党を代表して、法案の審議をしている党を代表している人だ。個人として深く話をすれば、有能な人にちがいない。この3党合意という仕組みがそもそもおかしいので、国会審議が、見苦しくなる。つまりこの機会に、自分達の政党の先見性を強調しようとしている。3党合意がいかに自分達の政党の考えで出来上がったのかを言いたいようだ。国会を党の宣伝の場にしている。ああこれはテレビで言えばCMトイレタイムだ。もし、この先3党が慣れ合いで国会運営をしてゆくということになれば、極めて危険なことになる。自己アピールと審議とが判別できなくなる。国会で議論を行い、法案の内容を深めて欲しい。すべての人に都合がよい法案などない。

消費税で言えば、食料品等の優遇が語られていた。検討してくれるそうだ。この事だって、まず普通は食べないような高級食材と、日常的な食品が同じでいいのか疑問がある。特例を設けるとなれば、切りなく複雑化する。酒税が特別扱いの意味も考え直すべきだろう。つまり、特例を設ける意味である。生活困窮者への配慮という事が言われていたが、議論が格差全体の問題に踏み込まなければ、実は特例処置の意味は見えてこない。そう言う背景となる考え方を十二分に見えるように議論するのが、国会のはずだ。ところが肝心な部分は、どこか見えない審議会か、官僚なのか、枠組みを作るように見える。そうしてその根拠が、体裁よく語られることになる。だから、国会議員は、まるでCMのタレントのような体裁のいい姿だけを見せる。CMのタレントが痩せているからと言って、そのダイエット商品を使ったためとは思わない。

こうした姿が、3党合意の審議という中で、見苦しく表れている。これは体制翼賛の議会の姿を彷彿とさせるものだ。批判勢力が無くなるということは、深まらないという事だ。見えなくなるという事だ。何故か、その時に福島議員の事を思い出した。全体に対する展望もある。原発についても、明確な考えを言われていた。将来、廃止するとしても今行うべきは、安全の仕組みの構築と言われていた。それがきちっと出来れば、使える間は使うべきだと言われていた。それをなく、政治が、安全を宣言して、再稼働ではおかしいという考えだった。このあたりは、議論する価値のあることだ。私は、核廃棄物問題の解決がない以上廃止すべきという考えだが。福島議員は議論できる土壌を感じた。本来、そういう議論が、繰り返し行われるべきだ。そういう能力も、資質も高い人たちがたくさんいる。

昨日の自給作業:キャベツ、地場いキュウリの播種 1時間 草刈り1時間 累計時間:11時間
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

捨てること

2012-07-19 04:17:44 | 身辺雑記
捨てるということはとても難しいことだが、捨てざる得ない時は来るものだ。様々な活動をしてきたが、出来る限り組織というものから距離を置こうと思う。そう言う時が来たのだろう。組織には組織なりに大なり小なり意味が存在する。その意味は、それぞれのもので、共通なものでない。私が個人として発言することが、私がかかわる組織の考えだとする人もいる。そう言うことはどんな場合にもない。この事だけは誤解しないでほしい。このブログに書いているのは、あくまで笹村という個人の考えたことである。と言っても駄目なことのようなので、出来る限り組織というものから離れようと思う。そうして、より自分の責任の範囲で生きていきたいと思う。

田んぼの会や、大豆の会、お茶の会は、市民として参加している人達の労力で支えられていた。そして、原発事故以来、農の会の実際の労力を支えていた、5名の人が農の会の活動から離れた。誰かが離れる都度、この事は当然の選択だし、尊重しなければならない。しかし、原発事故などに負けてはいられないと、無理をしてその分担を引き受けてきた。それは、同時に生産者として農の会にかかわっている人たちの中にも、負担感を広げているのだろう。私自身も限界を越えた。申し訳ない気持ちと、自分の思想の敗北を思うと、残念ではあるが、その時期が来たのだと思う。自ら捨てるということは、出来ないものだが、こういう形で組織から離れるということは、残念であるが、良いことでもあるのだろう。

当たり障りなくやって行きたいなど思わない。角があるのも止むえない。しかし、そのことで組織というものに迷惑になるらしい。そうである以上、出来る限り組織というものすべてから離れたいと思う。事なかれが嫌いという事もある。何でもはっきりしないと居られない。又そう生きるべきだと考えている。出来る限り組織というものから離れる。そうして、一人がやれることをやる。そういう時期が来たのだろう。それは原発事故がきっかけではあるが、いよいよ残りの生きることに集中しろということだろう。良い機会を得たと考えることにする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エネルギー政策に関する意見聴取会

2012-07-18 04:43:07 | Peace Cafe
政府が広く国民から意見を聞くという事で、各地で意見聴取会を行っている。これがあまりにひどい状態なので、批判が噴出している。このやり方を見ると、政府が国民に意見を本気で聞くなどという経験がないもので、結局は意見を聞いたという、通過儀礼のようなつもりで失敗したのだろう。こういう所にも、官僚の協力がないという事が見えてくる。ともかく最悪の形態で進行している。形式主義もここまで来ると、笑ってもいられない。政府にしてみれば、原発を再開するという大前提がある。どうやってそこにこぎつけるのか、天順だけを考えている。その為にいよいよ、まずく成っている。この意見聴取会は、国民の希望者は抽選で誰でも参加出来る。3回目が名古屋で行われた。と言っても、2030年の原発依存度を0%、15%、20~25%とする政府が示した三つの選択肢について、それぞれ3人、計9人が賛成理由を説明したにすぎない。

こんなことをして、意見を聞いたという事にしようという魂胆が、怖ろしい。、馬鹿げた政府もあるものだ。国民がいら立っているのは、ごまかしてすりぬけようという、姿勢なのだ。解決にみつけて事を進める手順を知らないのだ。どこまでも、ぐずぐずしていて、1年半後の暑い夏が来て、電力が足りなくなるまで、何の手だても打てないで、仕方がないから、原発を再開しますという結果。無策の政府にいら立っているのだ。原発を再開するのが行動とか、実行ではない。そこに到るまでの政治的判断の積み重ねがないという事では、政治的な暴走である。大きなエネルギー政策を示す事が最初におこなうべきことである。そしてそこへの道筋を立てることだ。原子力の依存度だけ問題にすること自体が、歪んでいる。こんな形で国民として何を意見すればいいのだろう。エネルギー全体に意見を述べさせてもらわないと意味がない。

この意見聴取会に、電力会社の課長だとか、原子力委員会とかにいた人とか、そう言う人が出てきて、20~25%の意見を述べていることが分かった。多分応募してくる人の中で、高い原子力依存を望む人というのは、関係者が多いということが分かる。利権構造で原子力が推進されてきた、一つの証である。多分、関係市町村の人というのもいるだろう。原発開発企業も意見が言いたいだろう。原子力村の住人ならすべてが意見を言いたいに違いない。こんな形で意見を聞くこと自体良い方法には思えない。急遽、電力会社の人は外すことになったらしいが、その理由もまた根拠が乏しい。、公開で横並びで意見を述べてみて、どれほどよい意見があったとしても、その意見の尊重仕方が分からない。それくらいなら国民アンケート調査をしたらどうだろう。確率的に意味が出るだけの本格的なアンケート調査をする。

もし本気で国民から意見を聞いて尊重しようというなら、国民投票をすべきだ。それくらい重要な問題である。何十万人がこの暑い中、原発を止めてもらいたいと抗議の集会をしている。ただ事ではない。このまま国政選挙になれば、良い選挙にはならない。山ずみの政治課題と、原発問題が、ごっちゃになってしまい、訳のわからないまま民主党は崩壊するだろう。そう言う事が日本の政治にとって良いことには思えない。原発をいち早く抜ける事が出来て良かったという、時代が必ず来る。再生可能エネルギーに転換したために、日本が再生で来たという時が来る。しばらくは苦しいかもしれないが、それこそ米100俵である。次の時代に転換するために、必要な試練である。諸問題を先送りして、原発依存の道を選べば、そう遠くない内に行き詰まる。今が転換のチャンスだ。大震災がチャンスをくれたと考えるべきだ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大豆の土中緑化法:定植

2012-07-17 04:14:23 | 自給

差し苗をした所。出た葉は5ミリ程度残して切るのが良さそう。

大豆の栽培法
手順1、7月1日去年 6月29日今年
15箱の苗箱(332mm×473mm×90mm )に6分目程度に山土を入れる。そこに一面に成るように、大豆を蒔く。おおよそ250粒程度ではないか。大豆を蒔いたあと水をかけてから、パオパオをかけ、その上から4センチほど土をかぶせる。そして再度水を十分に与える。苗箱は水平に置かないと、土の湿り気が偏る。今年21箱の苗箱に100グラムずつ播種する。4箱が余るが生育が遅れていたので、丁度足りた。

手順2、7月4日(3日の事もある)7月2日夕
箱の底からねが出てきているのを確認できたらなら、パオパオごと土を取り去る。大豆種の状態は豆もやしのように根がのび、大きな白い双葉が開きかかっている。この間外に置き雨がかかっても構わない。余り乾くようならば、水をやる。ここから白い大豆モヤシに日光を当てて、緑化に入る。

手順3、7月6日(5日の事もある。)7月4日朝
1日ないし2日間直射日光に当てる。曇りであれば長く。雨ならさらに長く3日。子葉が緑に成るまで充分に日に当てる。これが土中緑化の意味。茎が赤みが差すくらいが良いようだ。緑になったら、種がすっかり見えなくなる程度に土を入れる。水をしっかり与えて、土が隙間に入り込むようにする。

手順4、7月9日(これは本葉がしっかりと8の字に成るまで待つ。)7月8日と10日少し遅れた感もあった。断根・摘心・挿し木を行う。ばらつきがあるので、早いものから行い、2度に分けた方が賢明である。天候と水やりにより前後する。だいぶ余裕があるが、良いものだけを使うつもりで行う。水が多ければ早くなる。15箱の苗を50の苗箱に7×10で挿し木するが、子葉の良くないものは使わない。茎が太いほどいい。80%使うことで苗は足りる。できれば子葉の根元まで土に差し込む。茎全体から根がでる。みんなでの作業の1回目。挿し木した苗箱をそれぞれが持ちかえっても良い。60トレーに挿し苗が出来る。後から10箱に挿し苗。全体で70トレーある。70トレーで4000株ぐらいになるが、これで畑にちょうどのかずになった。昨年は苗の植え方が足りなかったようだ。差し苗をしたら、パオパオで全体を覆うと良い。水やりは朝晩。


手順④加える苗床の準備苗床は、7月8日の中ぼしに合わせて耕す。1度ではだめなので、翌日もう一度行う。水の流入がひどい。どうやって排水路を作るか問題。水は必要だが、いつも濡れているのでは良くない。


手順5、7月18日(1日の種まきから2日は前後する。)7月16日18日
大豆苗植え付け。苗は寝かせて植え付ける。作業はベットがうまくできていたとして、20人で3時間程度。今年は16人で2時間で4ベット。暑すぎるので午前中で終わる。植え付けた後は水が必要。植える前に土が湿っていた方が良い。夏の晴天時では、苗が一気にしおれるので注意が必要。長靴、手袋が必要。16日が2度目の干しであり、比較的土は乾いていた。17日、18日と終わるまでやる予定。
注意点
大豆畑は必要な時水が使える田んぼの跡地が良い。連作では特に問題は起きない。田んぼ跡地なので、粘土なので塊りに成りやすい。干し田の時を見計らい、耕す。細かく良く耕した方が良い。ベットは出来るだけ高めに作りたい。ベットの間が水路に成る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする