地場・旬・自給

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侍ジャパンの違和感

2013-02-28 04:01:58 | 身辺雑記
侍ジャパンという命名は、どうもいただけない。私の侍というものに対するイメージと、日本の野球チームとの関連が理解できない。特に、刀を抜け、などというフレーズが出てくると嫌な気持になる。侍の上に、ジャパンが付いているというのもさらに違和感が増す。しかし、子の違和感が現代日本を象徴した命名なのかもしれない。なでしこジャパンと言えば、女子サッカーチームである。何故、ジャパンなどと言わないと、日本という国が表現できないのだろうか。なでしこ日本ですがすがしいと思うが、古い感覚なのだろうか。いずれにしてもジャパンという外国が勝手に決めた名前に対して、どう対応するかは大切なことだと思う。中国のことをシナと呼ぶ人が今もいる。公共放送では、使わないことになっているらしい。シャイナと呼ぶべきなのか、中国でいいのか。中華人民共和国だから、中共といった時代もある。たかが名前、されど名前。

1 人を斬るのが 侍ならば
  恋の未練が なぜ斬れぬ
  伸びた月代(さかやき) 寂しく撫でて
  新納鶴千代 にが笑い

2 きのう勤皇 あしたは佐幕
  その日その日の 出来心
  どうせおいらは 裏切り者よ
  野暮な大小 落とし差し

この歌は昭和6年(1931)に公開された日活映画『侍ニッポン』の主題歌。このころの侍のイメージと今の侍のイメージが随分変わっていることが分かる。どうも侍の立場と女性問題を天秤にかけているようだ。侍と言ったときに、どのあたりがスポーツ選手と結びつくのが、私には不思議なのだ。侍の精神は武士道である。しかし、ここでの侍と武士とは違うのかもしれない。武士道はスポーツには役立たない。どちらかと言えば、潔く負けて、悪びれず。の方だと思うのだが。これは侍に対する、個人的な偏見なのだろうか。たぶん、戦前の日本社会における侍は、もっと深刻なものだった。明治憲法においては、華族、士族の下位に平民が置かれた。つまり、元武士階級は士族である。士族が侍の末裔である。1947年まで戸籍にそのように記載されていた。人権差別明治憲法である。このことと、江戸時代の侍とは本質が違うという考えがあるが、そのことは別項で。

いずれにしてもスポーツで侍は使うのはもうやめにした方がいい。「ラストサムライ」という映画ではハリウッド的な侍のイメージが使われていた、アメリカが作る、日本への売り込み用の侍なのかと感じた。アメリカプロレスのイージーなストーリーを思い出した。戊辰戦争における、函館戦争を脚色したもののようであった。土方と思われる人物なのか、榎本武揚なのか、アメリカ的侍像が示される。いかに見事に敗れるかが表現される。滅亡の美学の一種だろう。若い人にとっての侍はアニメーション世界の剣豪というか、剣士というか、ニンジャというようなものだろう。ゲームの世界の中に登場する驚異的に強い侍像が存在している。この侍のイメージも武士の本質とはほど遠い。江戸時代の侍は、官僚であり、公務員である。武士のたしなみとしての剣術である。
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TTP参加決定

2013-02-27 04:02:57 | Peace Cafe
日米共同声明にTPP「一方的に全ての関税撤廃をあらかじめ約束することを求められるものではない」との表現が盛り込まれた。これを契機に自民党政権がTPP参加を決めるのは、計画通りだろう。衆議院選挙前から、この筋書きに疑いを持たなかった。本音は参加するつもりでありながら、選挙前には不参加を表明していたことが、自民党らしい公約は破るものである、という昔を思い出した。物は云いようだというような、不思議な表現を多用するのが自民党だ。コメを例外品目にできるなら、それでいいではないかというような、これまたインチキを表明している。そもそもコメだけの問題ではない。TPPには日本という国のあり方の問題がある。美しい瑞穂の国の危機なのだ。独立国らしい日本を選べるのかである。自民党政権はアメリカの属国路線を戦後一貫して進めてきた。そのことが日本の経済成長を導いたことは認めるし、それがこれからの日本の経済の展望になると、アメリカにしがみついていることも、ある意味では理解はできる。

しかし、世界は変化してきている。アメリカとの連携に深入りしすぎることは、アジアでの日本のこれからの展望はさらに難しくなる。EUの距離感を学ぶべきだ。中国や韓国やロシアとは隣国である。仲良くしなければならない。民主党を離れた鳩山氏は、アジア外交の研究をこれからやるらしい。どうもこの人は考えはいいのだが、行動がおかしい。世論はどうも阿倍政権一辺倒化してきた。実に困った状況だ。円安、株価上昇は、なにも根拠がない。実態のまったくないことだ。必ず反動が来る。じゃぶじゃぶの公共投資と震災復興経済でしばらくは経済上昇局面はある。しかし、その後大きな落ち込みが来るに違いない。日本の財政の悪化はさらに深刻度を増している。このしばらくの経済上昇局面を誤解なく、的確にとらえる必要がある。株価や為替の変動など阿倍政権とは関係がなない。そんなもの安心していれば、世界の投資ファンドの禿鷹に翻弄されるだけである。

政府は日本が環太平洋経済連携協定(TPP)に参加した場合、輸出の増加を通じて国内総生産(GDP)を3兆円超、押し上げるとの新たな試算をまとめる。安価な農産品の流入で農林水産業の生産額は最大3.4兆円落ち込むが、他の産業の伸びがそれを補う。政府の統一試算として、近く公表する。農林水産省はTPP参加に伴う関税の撤廃で、約10兆円ある農林水産業の生産額は3,4兆円も減るとみられている。近く政府が公表する新たな試算で減少幅はやや縮小するとみられるが、それでも3兆円規模に上る。この試算の結果だけでも、TTPが農業に与える影響の大きさが分かる。30%生産額が落ちるのは、価格が下がるということだとすれば、誰も農業を継続できないということになる。農業者の中には、案外にそういう実態を理解せず、世界の農産物と本気で競争しようという人もいる。テレビなどはそういう人を探ては、努力の足りない農業者像を作ろうと躍起になっている。こうして、日本の農業が消えてゆく結果になる。

貿易の自由化を先行した韓国の実情を研究すべきだ。確かに世界企業の2社は世界の競争に勝利している。その主因は自由化だけではない。あらゆる物を犠牲にしながら、国力を集中をさせて競争に勝つことを目指している。その結果農業、とくに畜産は苦境に立っている。アメリカとの貿易では稲作は例外品目になっている。問題は畜産である。かなりの補助金を入れている。日本の農業でも、極端な2分化が進む。大規模、企業的農業と条件不利地域の自給農業。中間型は消えてゆくだろう。企業的農業に補助金が膨大に注ぎ込まれる。輸入農産物ではなく、国内の企業農業によって、普通の農家は競争力を失う。条件不利地域では、さらに耕作放棄地が拡大し、地域というものの成立がさらに危うくなる。期待したいのは、条件不利地域の農地の農地法をまったく変えてもらいたい。できれば国が所有することである。そして、利用するものに無料で貸し出すような制度である。この点は改めて考えてみる。
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2013年の日帰り温泉

2013-02-26 04:12:23 | 日帰り温泉
しばらく日帰り温泉について書いていなかったが、よく行っている。行かなければ身体が持たない気すらしている。最近の自分の中の小田原周辺での順位を上げて見る。色々のところに行くのが好きなのである。1、愉快爽快茅ヶ崎 2、おんりーゆー南足柄 3、コロナの湯小田原 4、湯花楽秦野 である。一番行っている回数が多いのはコロナの湯である。最近行っていないのが、竜泉寺の湯平塚。桜の湯山北。サザンカの湯東海大学。箱根の方にも、湯河原にも行っていない。時間があれば御殿場の方の温泉に行きたい。富士山を見て風呂に入り、農業資材の豊富だという、ジャンボ園長とかいう所に行ってみたい。

1番の愉快爽快はやはり施設的に気に入っている。打たせ湯が最高である。ここの打たせ湯は水量が多く力が強い。余りに強いので、利用する人が少ないほどである。痛くて使えないらしい。肩こりがひどく辛い時にはどうしても行きたくなる。一回1分30秒ほどの長さなのだが、これを7回やるとカチカチの肩こりは消え去る。加えてジェットバスの強力型が1台だがある。これなど立っていられないほどの水圧である。腰を当てるには、少し水位が深いところが難点なのだが、足のこりや足裏マッサージには、最高である。その他の施設も万全で、近くにあれば毎日でも行きたいだろう。価格も平日回数券600円。たまに、さらに下がることもある。高いほどではない。それほど混んでいないのが不思議だ。

2番のおんりー湯は自然環境が素晴らしい。大雄山の参道に続く森の中にある。のんびりしたいときには行く。露天ぶろで欅の梢の空を眺めていると、心が洗われる。最近人が沢山いることがある。昔は、一人で入る事も多かった。これは案外いいものではない。先日の日曜の夜は、露天風呂全体で30人いた。これは始まって以来のことであった。何とか経営も安定してきたようでほっとしている。夜5時以降の入浴なら、900円の回数券が売られることがある。少し高いのでためらうが、のんびりしたいときには、最高のお風呂である。ここのお風呂のお湯は、皮膚への刺激が少ない。

3番のコロナの湯は銭湯感覚である。安いし、確か500円の回数券がある。実用的には過不足がない。ここが無くなったら生活に困るという気分である。一番混んでいる。しかし、混んでいるのも案外にいいものである。最近露天風呂にもテレビが付いた。先日、相撲中継があり、見ている間にあまり長く入っていて、体調を崩してしまった。相撲が終わるまで呆然と見てしていたのでよくなかった。上半身が凍っていた。問題は、水風呂の塩素が強い日があること。私の場合は、一遍で皮膚がやられたことがある。今では水風呂に入ってその後、水で流している。混んでいるため、水の汚れとの関係ではないだろうか。ここの食堂はいまいちである。何度も代替わりしている。施設は素晴らしいのだから、味でもう一努力してもらいたいものだ。

4番の湯花楽は、秦野方面に用があれば必ず立ち寄る。ここも銭湯的ではあるが、必要十分である。気になるのは常連客が牢名主的な態度を取る所である。他にはこういう所はない。ああなるとなかなか治らない。2階の方に低温のサウナが2種類あるが、これは銭湯料金だけで入れる。少し洗い場が足りない気がするが、使えなかったことはない。食堂は味も悪くはないのだが、時間がかかる。

冬の間は一日外作業をすると体が冷えてしまうことがある。絵を外で描くなどということは、後でつらい場合がある。ともかくゆっくり風呂に入る。風呂に入った分命伸びている実感がある。少なくとも、風呂に入っている間は、命の持ち時間は減っていないだろう。
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農の会の農機具置き場を作る

2013-02-25 04:07:35 | 自給
2月の22、23、24日農の会の仲間で、農器具用の物置を作った。各会の農機具が増えて、置き場が足りなくなった。面積は6m×10mくらいである。前からある機械小屋の裏に作った。機械小屋には濡れてはいけない機械。物置には、少々濡れても大丈夫なものと分けた。加えて農の会の活動ができる場所になればと考えている。農の会の活動もいろいろあるが、拠点というものは特にない。共同作業をやるといっても集まる場所がない。活動の中心になるのは畑や田んぼだけだった。あちを借りてやってきている。それが、農の会の自由な集まり方をする特徴にに合っていたともいえる。しかし、生産者の場所を借りるというより、市民的な参加者で全体をまかなえる体制を作る必要が出てきている。農の会の農業機械などの所有物を、農の会自身の小屋で管理する必要が出てきたということである。物品もグループごとにそれぞれに管理するということになる。

物置き場を作ることに併せて、元の機械小屋の中に空間を取りたいと考えていた。機械小屋の中が動き回れるようになれば、雨の日などの種まきが中でできることになる。稲作グループの播種は5月である。それまでにと思っていた。農の会のようにグループで農作業をするとなると、決めた日を動かすことは難しい。屋根のある10人くらいが作業可能な場所がどうしても必要になる。雨宿りだけでもできるところが必要である。そうすれば、雨に左右されず、活動がだいぶ楽になる。麹を作るとか、餅つきをするとかいう場合でも、雨の日の対応場所があれば、安心して企画が立てられる。大勢が集まるので、駐車スペースも必要になる。ある程度車がとまれるようにはしておく必要もある。

22日1日かけて整地が終わった。穂田さんを中心に3人で行った。傾斜地なのでで傾斜に沿った形で、小屋を建てる予定。10mの間で、70センチくらいの段差がある。駐車スペースの奥に小屋があり、作業をする場合には、駐車場が作業の広場になる。水道と流しも必要になる。水道管の埋設は駐車場の整備の前に行った。石が沢山あったので、駐車場の周囲を石で囲った。これが美しくて、良い雰囲気の場所になった。ちょうど座れるくらいの高さなのでそれもいい感じである。昼ごはんは周りに座って食事をした。この3日間天候に恵まれた。晴れていれば陽だまりなので結構あたたかい。

23日はのべ20人くらいの人が参加して、一気に小屋造りをした。単管パイプを垂直にユンボを使って埋め込んでゆく。これが一時間で終わる。今度は横にパイプを組んでゆく。そして、屋根張りの為に木材を着ける金具を60センチおきに着けてゆく。これは壁にもトタンを張るので、垂直に立てたパイプにも取り付ける。午前中の作業がここで終わる。午後は壁と屋根とに二手に分かれて垂木を打ち付けてゆく。2時ころには終わる。そこから屋根のトタンと、壁のトタンを張り始めた。屋根のトタンは終わり、壁のトタンが半分残る位のところで、5時になり作業終了。周囲のトタンは下に10センチほど開けて、1間分だけ張った。上下が抜けている構造である。

24日は午前、午後と8名づつくらい。3日間ちょうどよい人数で作業が進んだ。午前中は残りの壁のトタン張り、モミ置き場の屋根の仕上げ。午前中の男手の多いい間に、大釜の移動も行った。これは人手のあるとき以外には移動できない。今回は大釜の置き台の補強もついでにした。相当重いものなので、この機会に直しておきたかった。午後は、廃棄の機械の持ち出しと、道具の移動と整理をした。これも一気に進んで、ほぼ完了したといえる。やり残したのは、埋め込んだパイプの根周りのコンクリート巻、流しの設置である。

気持のよい場所ができた。もともと環境の良いところだったので、今回の整備で一段と使い良くなった。麹の仕込みや、餅つきなど、ここでできる活動も生まれてくるだろう。大釜の移動が要らなくなれば、味噌の仕込みまでできるはずである。畑が目の前にあるというのも、大豆の会、小麦の会には活動がやりやすくなるだろう。冬には餅つき、夏にはキャンプファイアーができる。今度釜戸石でかまどを作りたいものだ。
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地方公務員給与の削減

2013-02-24 04:02:32 | Peace Cafe
地方公務員の給与の削減が言われている。当然である。給与を2割削減して、人員を1割増加してもらいたい。国家公務員と比較して、地方公務員は給与が高いと言われているが、本来民間と比較すべきだ。民間の給与は長らく抑えられてきた。高いか安いかは成り手がいるかいないかで分かる。農家の成り手は居ない。公務員は何倍もの応募者がいる。希望者が同じくらいになるまで供与を下げればいい。以前からの主張である。こう書いたら、それでは優秀な人が公務員から居なくなると、言うコメントがあった。つまり現在の公務員の給与は、高給でそれに相応しく優秀だ。本当にそう言えればいい。教員も、警察官も公務員である。民間企業に比べて、優秀な人材が集まっていると言えるだろうか。私には同じに見える。優秀な人もいれば、犯罪を犯すような人もいる。公務員の仕事の見直しをすべきだ。公務員は公務員でなければならない仕事をしてもらいたい。

例えば、私の関心の強いごみ処理で考えて見る。ごみの収集運搬を外部委託している所が多い。昔は、公務員がやるのでは、効率が悪いとよく言われたものだ。今も公務員がやっている自治体もある。以前はごみ処理の半分の経費が収集運搬経費であった。最近は30%位に下がっている。色々の要素はあるが、民間に委託し、競争原理を幾らかでも導入したことで、経費は削減できる傾向にある。しかし、切り替えられない自治体の多くには、労働組合の主張がある。ごみ処理は自治体の専権事項だから、あくまで行政が直接取り組み、その理想を実現すべきと言うような考えがある。果たして民間収集に変えた自治体で民間委託した弊害が出ているかと言えば、そう言う事もない。いずれにしても、ごみ収集の実態と経費との整合性である。安いほどよいというわけでもない、常に行政は適正価格を研究すべきだ。そして民間委託を管理する。

小田原市では市民との協働が繰り返し言われている。現状では市民に肩代わりしてもらえる部分を、市民ボランティアにお願いしようというような、行政の都合のよい協働である。行政サービスを肩代わりしてもらうための、市民参加である。その理由は行政の担うべき役割部分が見えないからである。その結果市民のやるべきことばかりが、強調されてしまう。直接行政職員が行うこと。行政が民間委託して行うこと、そして、市民が自らやるべきこと。この整理がなされていない。まず、仕事を整理し、市民とともに議論をすべきだ。小田原市自治基本条例が24年4月1日に制定される過程において、こうした意見は出させていただいたが、なんら反映せず制定された。市民は、市民はと、自治に於ける市民の役割は強調されているが、では自治において行政の責任とは何か、このことは書かれていない。市の職員は、市民と協働する位に、曖昧に書かれているだけである。

地域において、歴史的に作られてきた支え合いが、失われる過程である。何故こんなに忙しい時代になったのか分からないが、誰しも自分のことで手いっぱいの暮らしである。地域で必要な膨大な福祉的事業の穴埋めをボランティア的に補ってもらおうとしても無理だ。確かに、地域にはそういう心豊かな人がおられ、かろうじて地域が維持されている。行政職員が担えと決めつけてはいけないが、まず大きな枠組みを作るところから始まるべきだ。どのような方式が合理性があり、展望が見えるかを考えることが行政の役割だ。豊富な専門知識を持って、情報の収集をし、提供する。またごみのことになるが、ごみの経費を見えるようにするなどというのは、行政の役割である。こうした役割をこなしているとは言えないのが、今の行政である。すべてを外部委託したところで可能なのが、今の行政の仕事の分担になっている。
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愛知県農林公社の倒産

2013-02-23 04:12:17 | 地域
愛知県農林公社が約227億円の借金を抱え倒産した。1965年に設立され、農地の再配分などを行う農地保有合理化事業や分収造林事業をしてきた。小規模農家から農地を買い上げて大規模農家に転売する事業や、林道から離れているために手入れが難しい森林を管理し、木材を売って土地の所有者と収益を分け合う事業を実施してきた。しかし、木材や農地の価格下落で大幅な債務超過に陥った。これは全国にある、同様の事業を行う公社が同じ問題を抱えている。特に林業関係の公社や財団は、困難を極めている。農地保有の合理化事業は農地の減少を食い止めるために行ってきた国の事業である。農協なども同様の事業に取り組むところもある。放棄農地を減少させることが目的である。しかしこの間、農地は減少を続けているのだから、この事業が機能してきたとは思えない。大規模農家に農地を集約しようという政策にこだわりすぎるために、成果が現れないと考えるべきだろう。

農地が高い価格で売れるなら、売りたいという人はいる。しかし、農地を高い価格でも買いたいという人は、普通の営農を考える人にはいない。本来の農地の適正価格とは、営農を続ける経営合理性のある価格ということなのだから、取引が成立するのは特殊な事情の場合だけになる。製造業において工場用地を購入する場合、企業はその分野の展望を考え、投資効果と採算性を考える。企業資産という観点もあるだろうが。純粋に農地の営農可能な価格を考えた場合、30年間価格がつかない地域が広がったと見なければならない。土地価格が下がり続ける現状のような場合、所有農家としては財産としての意識から、流通価格より相当に高い思い込み価格がある。一般企業の農業参入を求めているわけだから、経営計画を立てれば、当然農地価格は安いものにならざる得ない。この両社の意識の開きが、農地保有合理化事業の有効に進まない原因であろう。

私がこれから養鶏を行おうとすれば、農地を買うということより、やはり借りるということを選択するだろう。13年前もそう考えた。畜産には、地域の反対がつきものだから、買う方が経営の安定にはいいだろう。それでも10年間借りられるなら、貸借料は高くてもいいから借りようと考えた。施設投資をして、10年間は借りていられないとまずいとは考えたが、10年後いつでも返せるほうがいいとも考えた。10年先に農地を管理できるかという不安があった。農地を所有するということは、耕作地として永遠に維持する責任を負うということでもある。購入してしまえば、責任がより重くなるので、その負担感も避けたかった。農地の地代というものには決まりはないが、タダでも使ってもらえればという人がたくさんいる時代である。1000㎡年1万円前後というのが大きな相場だろう。50年借りて、50万円のものを500万円を出して買う人がいるだろうか。

農業の状況は私が始めた25年前より、小田原に移った13年前より深刻である。その原因は、政府には30年前とまるで同じ発想しかないということである。「大規模化と企業参入で国際競争力」これは、農家をあきらめさせる建前論である。本来国際競争力があるも農業に対して、農家の努力が足りないのだ。こう主張しているのだ。もし、本気でそう考えるなら、日本の農業を考えた場合、稲作のことである。阿倍さんでも、経済再生会議の方でもいいので、小田原の久野に来て、国際競争力のある、稲作を実践して見せてもらいたい。せめて、机上の計画だけでも建てて見せてもらいたい。不可能だと断言できる。稲作は野菜や果樹とはその本質が異なる。日本の国土の保全、食料の安定供給。生活環境の整備。すべて稲作と結びついている。その稲作面積の減少が一番大きい状況だ。ここ40年毎年1%づつ減少してきて60%になった。今後も減り続けるのだろう。日本という国を考える上で、深刻な変化である。すでに瑞穂の国と言えない状態なのかも知れない。
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丹沢葛葉の泉

2013-02-22 04:29:33 | 地域
秦野の湧水に葛葉の泉と言う所がある。以前からいい水だとは聞いていたのだが、今回醤油を仕込むので水汲みにいった。秦野から、丹沢の塔ノ岳の方に入った山間にある。竜神の泉という泉が一つ西側の沢にあるが、今回は葛葉の泉の方に行ってみた。秦野盆地は丹沢からの伏流水で、湧水の多いい地域である。22か所の湧水があり、名水100選に選ばれている盆地だ。盆地自体が、水がめの上にあるというような地形といわれている。しかし、この豊富な水を利用する工場が盆地のいたるところに作られるに至り、有害物質の検出があった。その後地下水汚染防止条例などが制定され、現在では汚染は無いとされている。しかし、工場より下流域の水を利用する気にはなれない。また、農地からの硝酸態窒素の流入も気になる所である。そうなると、秦野の湧水でも水の利用したい場所は限られてくる。

竜神も葛葉の泉もどちらかといえば沢からの絞り水だ。伏流水のほうが、水質的には良い場合が多いのだろうが、汚染を考えると、より上流部のほうが人為的なものの混入は少ないかもしれない。しかし大気汚染の影響など考えれば、深いところからの伏流水の方がいいともいえる。判断の難しいところだ。山の方の沢水の場合、大腸菌が存在することがある。これは獣の糞などから来るのだろう。しかし、大腸菌など、重金属に比べたら大したことはない。煮沸すれば問題がない。丹沢もブナが枯れるような大気汚染の影響があるのだから、全く安心ということはないだろう。私の住んでいる、箱根の東斜面にもよい水はあるのだが、こちらの斜面はまだ放射能が少し気になる。山の落ち葉から、沢水に溶け出していないとも限らない。ホットスポットというものがあるらしい。まあ、土壌との結合など考えれば、今年はだいぶ改善されるだろう。

水土の国日本は水の良い国である。日本の果物の評価が中国で高いのは、水が良いということらしい。果物は水菓子というくらいだから、水のイメージと結びついている。良い水とは一体どういう水のことだろう。現代社会では良い水はスーパーで売られている水のことだ。スイスの水というようなものが評判がいいようだ。おかしな風潮である。寅さんが「帝釈天で産湯をつかい。」と啖呵売を語るのは、人間どこの水で育つかで違ってくるということだ。水が変わる。ということを昔の人はよくいったものだ。水が変われば、子供はおなかを壊すものということになっていた。水道ではないのだから、その土地その土地の水というものがあった。新しい職業や新しい土地の水に馴染み、水に合った、ということになる。どれほどよい水であれ、世界各地の名水を脈略なく取り込むことが、身体に良いわけがない。水はその土地で暮らしてゆく以上、その土地のものを飲まなくてはならない。

水は食べ物を作り出しているともいえる。特に日本人のように、稲という水生植物を主食にしている民族においては、水は最も重要な要素となる。水がどのように作物に影響してゆくのか、放射能の移行を調べるうちに、気がつくことが多かった。山に落ちたものは、どのように土壌に影響を与え、水への流出はどう変化して、そして水から作物への移行の形態。土壌を通しての移行とは、まるで違っていた。放射能は不愉快だが、放射能の観察で、物の循環の実相というものにいくつか気づいた。水が良いというこの国の長所を長く残さなくてはならない。水が良ければ、すべてが良くなるともいえる。水を大切にするということは、信仰である。水を汚すなどということは、罰当たりな行為である。工場を作り、汚染水を垂れ流してしまう。原発を作り、放射能を放出してしまう。後世の人々に対して、許されざることだ。豊葦原の瑞穂の国において、水を汚すなど、神意に反する行為である。
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東電と国会事故調

2013-02-21 04:16:28 | Peace Cafe
東電が国会事故調に対して、捜査妨害をしていたことが判明した。今回の事故で、判断が分かれている所でもっとも重要な観点は、地震ですでに原発施設が壊れていたのか、あるいは、津波で電源が壊れたために大事故に連鎖したのか、という原因調査である。もし前者であれば、原発の安全性に対して、全面的な見直しが必要になる。東電は当初から津波による電源喪失を繰り返説明してきた。しかし、色々の学者が、地震そのものですでに原子炉に損壊が起きていたのではないかと疑ってきた。そして、いくつかの事故調査委員会が、この点の調査をした。東電は事故責任者であり、調査に全面協力しなければならない立場である。今回明るみに出た、中部は暗くて入れないという虚偽による捜査妨害は、原因調査を邪魔したいという気持ちの表れである。いまだに、妨害はしていないといい訳をしているが、調査に協力的ではなかったことは明らかだ。

今後も原発を稼働したいとする、東電こそ事故原因を本当に知らなければならないはずだ。何故、事故原因を隠蔽しようという気持ちが芽生えるのか。『検証 東電テレビ会議』(朝日新聞出版、共同執筆)『ルポ 東京電力 原発危機1カ月』(朝日新書)を上梓した記者の奥山俊宏氏の見解は興味深い。調査報道と言う事を言われている。記者に原子力に対する知識が不足していた事実。4つに分けている。事故の過小評価、過大評価、意図的に情報を隠した。出すべき情報を出さなかった。又、意図せぬ偶然によって、4号プールに脇に抜くべき水が残されていたと言う。原子炉爆発が起きなかったのは、原子炉から意図せず圧力が漏れていたこと、格納容器の蓋の隙間の抜けが原因だとみられると言う推察。東電事態に、原子炉に対する過信があったこと。壊れるとは本当に思っていなかったと思われる初期対応。そのことによる対応の遅れや、やるべきことがやれなかった点。

規制委員会から、事前に情報漏れが起きていたことも明らかになった。原案を日本原電に渡した原子力規制庁の名雪哲夫前審議官を「自分だけの判断で渡したのは、不用意で言い訳できない」と厳しく批判。ただ名雪氏の個人的な問題との認識を示し、組織的な関与は否定した。何と言うことだろう。名雪氏は8回も日本原電の人と相談している。そして、地層調査報告書の原文を渡した。事前に報告書を渡せばその問題点を見つけ出し、調査の信用をなくすような指摘が出来ると考えたのだろう。こうした、日本原電の姿勢は安全を第一とすべき、原子力事業者としての資格を取り消すべき問題だ。さらに規制する側と、規制される側がこの状態では規制委員会の信頼性も大いに疑われる。

自民党政権に変わった途端、原子力推進派の復活である。反省も学習もない。国会答弁を聞いていても、40年の耐用年数の変更の可能性を答弁をしている。経済の為には少々のリスクも仕方が無いという本音が出てきている。さらに恐ろしいことにはかなりの国民がそう考え始めている兆候がある。このようの状況である以上、、経済の為に、やる遺伝力のために原発が成るのかどうかを考えるべきだ。確かに当面はそうであろう。低濃度放射能など何の被害もないという説を主張する学者もいる。しかし、少し長い経済のスパンで考えた時、放射線廃棄物の処理は、せざる得ないことになる。確かに地中処理は一定の技術的可能性はあるだろう。しかし、どこに作るかを決めるのは不可能に近い難事業である。多分出来ないだろう。とするとリスクの高いまま、原子炉建屋内のプールに置かれたままと言う事になる。最近プールから出して容器に入れて置く方式が主張されている。リスクに気付いた周辺住民は原発を離れて行くだろう。過疎地がさらに過疎地になる。土地価格も下がり続けるだろう。原発周辺地域は企業の犠牲のままなのだろうか。
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江戸の剽窃

2013-02-20 04:09:43 | 水彩画
江戸時代の文化を見てゆくと、剽窃は当たり前のことのようだ。関西で流行した戯作があれば、直ぐ江戸風にアレンジをして発行する。浮世絵でも同じことで、はやりの様式が出来ると忽ちに真似られる。そもそも、真似ると言う事が、学ぶと言うことであり、悪い事をしているとは違うようだ。一度世に出た物をより良いものに、焼き直すのは当たり前のことである。そうして育ってゆく文化だったのだ。一度世に出た物を人に使わせないなど、粋ではない。宵越しの銭は持たない感覚である。利権を独占しないのである。それは和歌でも本歌取りに見られるやり方である。過去にあるものを生かす。こういう精神なのだと思う。それゆえに、共通の文化的素養が大切にされる。誰かがやったことをさらに意匠を加えて面白く演ずれば、拍手喝采の世界である。そして誰の何をどうしたという、蘊蓄を含めて楽しんでいたはずだ。三保の松原を富士山を含めた文化遺産に登録するなど、まさに江戸の感覚である。

書もそういう世界ではないか、文字と云うものは、自分が創作した物ではない。借りてくる形と意味に、託そうとする表現。文字の奥に人間を見ようとする。文字は中国で呪術的に作られる。そして、統治する手段として、政治そのものであった時代もある。国外不出の秘儀であったらしい。そして日本が学んでからだけでも2000年近い歴史がある。その文字を利用させていただいて、自分の表現を行おうというものが書道なのだろう。何が土台で、何がまねで、何がオリジナルのものか。書の何を見て何を味わっているのだろう。書の勉強と言えば、まさに書写と言う事になる。とにかく真似ることである。真似た果てに、たどり着く自分と言う物の世界。水墨画はどうだろう。これもまた真似る世界である。岩の描き方、水の描き方、植物の描き方。すべてが決まっている。似た物を作りたいと言う思い。真似ることが分かることの原点になる。

表現にオリジナリティーを求めるというより、様式を尊重する。美しいという共通理解の三保の松原の富士が意味があるのである。富士山は一つの記号なのだろう。富士山という図柄に対して、文化的な伝統が存在しなければ、富士山の絵が面白いということはない。2000年共通の文化基盤を育てた、日本ならではの絵画の在り方である。私が、梅原の富士の続きを描くということは、どうなるのだろう。マチスの見方で、富士山を描いたらどうなるのだろう。このことを考えると、絵の在り方がずいぶん狭くなっていて、新たなものを作り出すことが、芸術の基本であるという枠組みが絵を衰退させたのかもしれないと思う。芸術表現における個性とか、自己表現とかいうものが、案外に早く行き詰ったということかもしれない。

現代の文化が拝金主義であるということなのだろう。そっくりであるということは犯罪である。梅原の富士は一つと言われても、富士山を描くということにさしたる違いはない。人物だって、薔薇だって、さしたる違いはない。描く手法だって、そうパターンがあるわけではない。そういう中で何を描くのかが、絵画の衰退を招いたような気がする。一枚の絵の3月号に私の絵を載せていただいている。「水彩画をあそぶ」という特集である。実はそういうことをこの雑誌を見ながら思った。今月号はとてもいい感じにできている。私の絵は「伊豆海岸」という絵だ。自分の絵が出ているからというわけではないが、水彩画というものは、実に面白いものだと思う。油絵や、日本画とは違う、確かにあそぶといっても良いような世界である。伊豆の海岸にある、人間の暮らしが作り出した風景というものへの興味で描いた。まねているわけではないが、どこかで見たことのある絵のような気もする。
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産業競争力会議の農業政策

2013-02-19 04:15:30 | 地域
政府は18日、日本経済再生本部の下に設置した産業競争力会議(議長:安倍晋三首相)の第2回会合を開き、農業については、林芳正・農林水産相から、現在4500億円の輸出額を1兆円に拡大する目標や、競争力強化に向けて構造改革を加速する方針などが示された。安倍晋三首相も会議の中で「産業として農業を伸ばす。従来の発想を超えた大胆な対策を行う」意向を示した。
同会議は、今後、1)産業の新陳代謝の促進、2)人材力強化・雇用制度改革、3)立地競争力の強化、4)クリーン・経済的なエネルギー需給実現、5)健康長寿社会の実現、6)農業輸出拡大・競争力強化、7)科学技術イノベーション・ITの強化──についてテーマ別会合を開き、集中的な議論を行う。構成メンバーは各委員の希望をもとに決める予定


安倍首相は産業競争力会議において「大胆な農業対策を」主張した。どんな対策なのかとみてみると、大胆どころか旧態依然とした、又かというような主張である。「規模拡大と企業参入」そして、参入する企業への補助金による助成。農業の実体験のない人達は、何度でもここに戻る。これは、普通の農家の競争力を弱めると言う事になる。同じ分野で補助金をもらっている所と、貰っていない所が、市場において競争しなければならないと言う事は、全く不平等である。それを良しとしているのは差別である。仕事のない企業が補助金を貰いたいから、あるいは利益の出ている企業が税金の対策として、農業分野に参入する。それは確かに耕作放棄地を減らす一つの方策ではある。しかし、補助金などもらわないで同じ品目を作っている農家にとっては、不平等な競争を強いられることになる。これが工業製品ならどういう事になるだろうか。大きな企業には補助金が出て、町工場には出ない。こんな競争は許されるわけがない。

何故、瑞穂の国日本を掲げる安倍氏の大胆な農業政策が、こんな国壊しの農業政策に向かうのだろうか。竹中平蔵氏に洗脳されているのか。昨日も参議院の予算委員会の議論で、建設業の疲弊問題でみんなで盛り上がっていた。その最たるものが、現場の大工さんや左官屋さんの老齢化だと、財務大臣が嘆いていた。こんな状況で、大企業の建設業に補助金を入れたらば、益々、現場の中小の建設業者は廃業せざる得ない。ただでさえ、誇りを捨てて大企業に雇用され生き延びようと言う、建設関係者が多い。大企業さえ優遇しておけば、海外の産業との競争力は高まる。これは韓国で先例がある。しかし、韓国国内がどうなっているか、やっと報道もそこに目を向けるようになったが、格差社会になっている。日本が世界との競争を考える時に、その辺の農家ではだめだから、企業に農業をやらせようという発想は、確かに一部の農産物の協総量は高まるだろう。しかし、農業全体は衰退することは明らかだ。日本の産業を支えている力は中小企業であり、小さな農家である。

日本の農業の労働集約的な性格は、熟練の労働力が必要な産業分野である事を示している。大工や左官と同じであろう。だから、狭い耕作地でこそ、高品質な農産物を生産してきた。日本の気候や土壌に適合した農産物であれば、それこそ世界で1番の作物を生産してきた。この一子相伝ともいえるような、農業技術を普遍化することは、極めて難しい。十万羽飼育する養鶏業であれば、雇用労働者で可能であるが、1000羽までの自然養鶏では、到底無理だと思う。産卵鶏養鶏の一番は良い卵を生産することである。良い卵とは生命力の強い卵である。常温で70日生きている卵である。大規模養鶏でそういう一番の卵が生産できるはずがない。何を一番とするかは、確かに人それぞれだろう。安いほどいいというのが、最近の傾向である。しかし、最高の品質を目指すという事を捨ててしまえば、それこそ中国との競争に負ける。中国の規模拡大は日本以上である。

農業の大胆な改革と言えば、農地制度を変えることである。農地を財産と見る考えを変えることである。企業が参入するのは悪いこととは思わないが、工場用地の取得が、土地の値上がりの先行投資であるような形が不安である。、農地を企業が大量に購入し、一応農業を始めるかもしれない。その農地が将来、工場に転用されたり、住宅地に変わったりしないとも限らない。これが外国の企業である場合どうなるのだろう。中国の企業はアフリカの農地を購入しているという事がある。そういう事が出来ないように、どのように担保するのだろうか。企業が倒産し、担保として違う分野の資本が所有した場合、農地はどうなるのだろう。TPPが結ばれれば、そうしたことにも歯止めが無くなる。企業が購入するのでなく、政府から借りると言う形を取るべきだ。政府がまずいのであれば、農地を管理する組織を作る。公的なものが企業に貸し付ければいい。
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北朝鮮の核実験

2013-02-18 04:05:32 | Peace Cafe
北朝鮮は核実験を行った。さらに続けて行おうとしている。こうした無謀な挑戦が何をもたらすのか。日本の国会は全会一致で非難決議をしている。経済制裁を強化すると言っている。残念ながら、有効な手段ではない。それはアメリカも同様で、今や世界中が中国頼みと言う事になった。北の経済はソビエト崩壊後の最悪の事態は、中国の支援で立ち直っている。日本では期待を込めて、北朝鮮の疲弊をいい募る向きもあるが、見てきたわけではないが、私の調べた範囲では経済は改善方向のようだ。韓国の太陽政策の影響もあったが、現状ては中国の経済支援と、協働事業による。中国政府は北朝鮮政府の崩壊による難民の流出を恐れているというようなことを、支援の要因に挙げて考える論評もあるが、私は純粋に国際情勢の中で、中国の立場を強化するために、北朝鮮を利用していると考える。その意味で、世界が中国に北朝鮮の核実験阻止を要望した際、一応北朝鮮に対し、中止の圧力を掛けるポーズは取った。しかし、北朝鮮は実行した。

中国は本気で中止させようとしなかったということである。北朝鮮と言う国との付き合いは中国は長い。4000年である。北朝鮮がどのような国であるかを知り尽くしている。誇り高い民族である。能力も高い民族である。中国にも、そう一筋縄では行かないのは、そうした歴史の中で生まれた周辺国すべてが同じである。北朝鮮が核武装した時のリスクは中国も同様である。これを止めることが出来ない以上、その矛先を中国に向けさせない政策なのではないか。世界に対しては、北朝鮮に圧力をかけている姿勢は見せる。しかし、経済の支援は続ける。国際的な理由は、混乱による難民の流出は迷惑だとする。この状況は、中国の存在を高めることでもある。アメリカも中国にお願いをする以外道が無いということである。この間、アメリカは北朝鮮との直接交渉を続けていた。そして成果を上げることが出来なかったのだ。中国としては中止が出来ないなら、内に抱え込むことを選ぶ。

イランの場合も、北朝鮮の場合も、核保有大国が存在しながら、自分たち以外には持たせないという国連の政策が正当性があるかと言えば、大いに疑問だ。すべての核保有国家が核廃絶に向けて進むという大前提があれば、新たな国による核開発を止める根拠にはなる。核大国だけが所有を許される根拠が不明である。強者の論理ではないか。その為に、インド、パキスタン、イスラエルは核保有をしてしまった。何のペンルティーもない。日本が核保有しようとしても、許されないはずである。経済関係が重視される状況。しかし、核保有国が自国の利益を優先し、行動を起こさないとは限らない。例えば尖閣や北方4島の主張の為に、核の圧力は無いと言えるのだろうか。自国の権利擁護の為に、一方的にならず者国家と決めつけ、軍事的圧力を加えることもある。イラク侵攻の根拠は結果的には間違えであった。しかもその結果世界は安定化したとも言えない。

だから、日本も核武装を進めると言うのは間違っている。空しいようでも、すべての国家が核廃絶に向かうために努力をするのが、日本の役割ではないのだろうか。日本は被爆国として、世界に対して核廃絶を訴える義務があると言える。福島原発事故で世界に放射能を蒔き散らし、悲惨な結果を起こした国として、核廃絶を訴える義務がある。まずは、核燃料のリサイクル事業は中止すること。次に原子力発電所をすべて廃棄することだ。中国は北朝鮮がやることは、阻止できないという態度を取り続け、自国の防人にしている。中国に対しては経済制裁どころか、取引を拡大したいと言うのが、世界である。結局はならず者国家も大きくなりすぎれば許されると言うのが、今の世界状況である。こんな世界情勢の中理想論は馬鹿げている。核廃絶政策が現実的でない事はわかる。しかし、核廃絶に向かわない限り、世界に待っているのは核戦争である。そのリスクは刻々高まっている。
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2013醤油作り

2013-02-17 04:19:41 | 自給
醤油の搾りかす漬けを作った。毎年味噌作りの時には一品持ち寄りで昼食を食べる。最近はさいこんたんの伊藤シェフが汁ものを作ってくれる。これが美味しい。すっきりしているのだが、味に深みがある。プロの味である。みんながそれぞれに持ち寄るのだが、私は大根の醤油搾りかす漬けを持って行った。残念ながら、自分の大根ではなく、そらやさんの干し大根である。干してあるのを思い出して、無理に分けてもらったのだ。搾りかすを持ってゆこうとは思っていてその話をしたら、何か漬けこんできてくれと言う話になった。確かに、美味しいと言う話だけで現物がないのでは、食べ物は分からない。特に、漬けものと言うのは、様々で美味しいというものも、人によって全く違う。多分子供の頃に食べたものが影響している。発酵食品と言うものは、くさややチーズのように食べ慣れてその味深さを感じられるという事がある。味噌や醤油の好みだって一様ではない。

売られている発酵食品は疑似発酵食品の場合がある。時間とか保存場所とかが省略されている。私の作る味噌も醤油も2年かかる。発酵と言う状態を腐っていると感じる人も多いいのではないだろうか。微妙な所である。生活が無くなっているからだと思っている。自給することで、何かが変わる。時間と言うものが作り出す味を、手っ取り早く再現しようと言うのが経済性である。家では、順繰りだから別にどうということはないのだが、商売だとすれば、3カ月で出来るものなら、8分の1の貯蔵庫で済む。何万人の消費者を対象にする大企業では、不可能なことになる。この経済合理性が本物を凌駕してきた。私の作る醤油は計算したら、1リットル1000円以上だと思う。それでも作りたいと言うのは、ここを誰かが突破してやっている。という事を示したいという気持ちがある。今年は4人で醤油造りをした。一口、みんなで作った大豆1,5キロ、小麦1,5キロで4リットルである。麹と塩も入れて、材料費が2,500円。今年の進化は、炒った小麦を砕く作業を、製粉機で行ったことである。3時間の作業が10分になった。

醤油は前から企画していたのだが、絞ると言う所で、行き詰まっていた。50年前までは醤油屋さんが農家を回り、絞ってくれていた。今は醤油絞り屋さんが無くなった。農家でも醤油を作る家はまずない。そこで考えたのが、絞らない醤油である。ステンレスのざるに開けるだけである。自然に下の器に落ちたものを醤油として使う。ざるにはちょうど味噌ぐらいの乾き具合の搾りかすが残る。これを漬けものの床として利用する。今回は干した大根を1週間付け込んだ。夏場なら、キュウリやナスでいい。糠漬けも美味しいのだが、この醤油搾りかす漬けもなかなか行けるのだ。私の作るものは、私だけが美味しいと言うにすぎない場合が多いが、これは、なにしろ伊藤シェフがなかなかいけると言ってくれた。味噌作りに参加された人も味見をしてくれて、そこそこだと言われた。まず合格点だと思う。

一番の良さは捨てるべき絞りカスが、、他にない最高の味を作り出しているところである。大豆の会の大豆と、小麦の会の小麦を使う。まずい訳がない。2年前の醤油をしぼって400CC程お分けした。これが家庭で作る普通の醤油だと考えている。売られている醤油とは違う。他所で醤油を使う事があると、家の醤油が あればと思う事がある。既に自分の味になっている。しぼりかす漬けは新鮮な夏野菜などもおいしくなる。キュウリは1日。ナスで3日。ぬか漬けよりおいしい。塩麹漬がはやっているが、さらに一段奥のある味である。今回の醤油造りが、持ち帰った3人の所で、上手く発酵出来ていれば、誰もが出来る醤油造りになる。私の家では、昨日午後3時に仕込んだものが、15時間後で30℃で順調に発酵中である。もうしばらく様子を見て、一番手入れである。

昨日の自給作業:醤油造り4時間 累計時間:17時間

追記、18日20時に発酵を終わり、塩水に混ぜまる。水は秦野のくずはの泉16リットル使用。今回は日中でも6℃までしか上がらず、夜はマイナスの気温で、温度の管理は比較的やりやすかった。しかし、18日は加温は一切しなかったが、それでも後半温度が上がり始め、最後の段階では、39度まで行ってしまった。慌てて終了して、塩水と合わせる。
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ネット選挙運動始まる

2013-02-16 04:26:11 | Peace Cafe
ネット選挙運動の解禁、有難いことである。これで候補者の考えを深く知ることが出来る。ネット選挙運動が本格化すれば、ネット利用と当選の関係が明らかになる。日常的にホームページを持たない人は当選しにくくなると予想される。ホームページの様子を見ていれば、その人の議員活動はだいたいに分かる。ホームページは苦手だと言う議員もいるだろう。そういう人は、人に伝えると言う能力に欠けている。あるいは、何も伝える材料が無いということかもしれない。いずれにしても、議員の本当の姿が見えやすくなる。小田原では加藤市長はブログでの発信を続けている。加藤市長と言う人がどういう人なのか、やっとこれでわかったようなものだ。市長になる前の加藤さんとは、同じ農の会を運営していたのだから、それなりに直接の付き合いはあった。しかし、良く理解していたとはいえなかった。そういう事が、ブログを読んで理解できた。ブログで表現されて居る人間像の方が、政治家としての意味合いは明確に表われている。常日頃の態度での判断は、政治家と言うよりお隣さんとしてである。

政治家の意味合いは、考え方や行動である。ご近所の方には、私が日々やっている活動は分からないだろう。このブログを読んで頂いた人の方が、分かってもらえる。ブログは苦手だが、ツイッタ―ならと言う人もいるだろう。フェイスブックと言うのもある。いずれにしても不特定多数の人に政治家は自分の姿を見せるべきだ。自分の考え方を表明すべきだ。むしろ書かない内容、触れない内容でその人が見える事もある。加藤市長が小田原の中学の問題に沈黙している。橋下氏とは大違いである。何故教育団体の職員だった人が、この問題に触れないのか。彼の所属した団体の代表が教育長だからと私には見える。下種の勘繰りかもしれないが、この重大事に対して、触れないという事がその人のあり方を示している。つまり、ネットと云うものは、その人間をあからさまにする。どれだけ装っていても、10年も書いて居ればインチキも含めて見えてしまう。

さて誰が有利になるか。そういう請負のプロが登場するだろう。電通方式のように、良い印象の商品に見える幻想作りが始まるだろう。しかし、そうは問屋が降ろさない。ごまかしなど、ネットでは続くはずがない。これがネットの良い所だと私は思っている。誰かの請負なら、それ相応のものしかできない。国会議員のホームページをあれこれネットサ―フィンしてみると、なかなか面白い。何といっても河野太郎氏のものは優れている。意見や判断の正しと言う意味ではない。その分析能力や、調査能力が注目に値する。例えば、市会議員の方でも、小田原の学校問題を書かれた人はいる。しかし、現場に足を運び、調査をして、事態の本質まで調べた人はいない。教員出身の市会議員の人が何故、この問題を書かないのか不思議である。危う木には近寄らず方式では、これからの議員は通用しなくなる。と言う発端に、ネット選挙運動解禁が成って欲しい。

そして次はネット選挙、ネット投票である。ネットと言う物の宿命として、2重投票や、なり済まし投票が横行する可能性がある。しかし、ここまで投票率が下がり、選挙離れが起きている以上。何処かでネット選挙を取り入れる以外ない。これは民主主義の新局面でもある。必ずそういう時代が来る以上、大いに研究すべきだ。早くこれを成功させた国が、良い国になる。不正を防止するシステムの研究に入るべきだ。直接民主主義と言う原点に立ち戻る可能性も出てくる。重要案件においては、国民全体の判断を仰ぐ。例えば、国防軍の問題も、国民投票まで進んでも30%程度の投票率になる可能性が現状では高い。それで決まってしまいかねない。政治離れがどんどん起きる。そうなると、政府の独善が深まる。こんな形の国民からの遊離はこの国を滅ぼす。形式的民主主義を悪用した利権政治である。ネット選挙までゆかなければならない。
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レスリングとオリンピック

2013-02-15 04:35:20 | 身辺雑記
古代オリンピックからの伝統競技が外れることになりそうだ。商業主義オリンピックの姿が浮かび上がる。日本が強いものはどうも、ヨーロッパが弱い。ヨーロッパが弱いものはオリンピックからなくなる。オリンピックはヨーロッパのものなのだろう。ヨーロッパが弱いという事はやる人が少ないという事なのだろう。ヨーロッパ諸国は人間力が弱まり、肌を触れ合うレスリングが、肌に合わないらしい。今回のレスリングはずしは経済のことからきている。テレビの放映権、入場券の販売状況。ロンドンオリンピックの結果判断ということだろう。あの空席の意味が良く分からないオリンピックだった。オリンピックから外されると恐れていたテコンドウでは、観客動員をやっていたと思う。イギリスの妙な状況が反映している。野球やソフトボールもなくなったが、まさか古代オリンピックからの伝統的競技が無くなるとは予測できなかった。

グレコローマンスタイルという名称が泣いているだろう。オリンピックを見ていると、世界の事に気づかされる。一番でなければいけないと主張しても、一番になるのは一人であるという事を突き付けられる。一番とは何か。本来のスポーツと、オリンピックは違うと言う事を理解する必要があるようだ。レスリングが無くなるとすれば、日本の世界に対する交渉力は相当に弱い事が分かる。テコンドーや近代5種競技がオリンピック種目として、立派に存在していることを考えてみるべきだ。オリンピックから外れたので止めるなどと言う事なら、最初からやらない方がいい。レスリングが好きならやればいい。それだけのことのはずだ。オリンピックでは男女差のあるスポーツは外してゆこうとしているようだ。格闘技をやる女性が少数派で当たり前ではないか。男女差を無くすことが出来ないスポーツはいずれ外れてゆく運命のようだ。

近代5種競技の内容を知っている人はいるだろうか。こんなものはオリンピックが取り上げるべき競技ではない。軍人のスポーツだ。5種目あげられる人はめったにいないはずだ。今は4種目しかやっていない事を知った。競技人口はレスリングの何十分の1だ。スポーツがオリンピックだけに傾斜していることがおかしい。IOCの委員で協議をして決めているそうだが、何故、参加国全体で公平に種目を決めないのか。15名の選ばれた人の判断では偏って当たり前である。IOCの理事の国が金メダルを取る可能性が高い競技が残る。それに加えてロビー活動。アメリカと日本で盛んなスポーツは好まれない傾向がある。両国とも選定委員ではない。これでオリンピックは東京には来ないことが決まったようなものだ。井の中の蛙日本国を痛感する。オリンピック誘致も経済効果ばかりである。経済効果が高いなら、一度やった都市は遠慮する位の気持ちを持た方がいい。

日本人は世界の情勢を知らなすぎる。今回の結果を日本いじめのように受け止める人がいる。ロビー活動の不足を嘆く向きもある。問題の根源はレスリングの除外が、寝耳に水だった点だ。世界の事を知っていれば、こんなことにはならない。補助金の確保だけに頭を使っているうちに、各競技団体が硬直化してしまったのではないか。メダル数を争うのは、ゆがんだ国が目立つ。かつてのロシア、東ドイツ、今は中国。競争で国力を誇示しようという姿は、余り見良いものではない。何故オリンピックだけに視野が狭まったか。テレビ放映の影響が強い。視聴率に動かされている。オリンピック競技でなくなれば、視聴率が取れなくなれば、レスリングの世界選手権を放映しないだろう。柔道は世界のスポーツになったが、武道としての柔道は又別物と云う気がする。他と比べて自己評価をする事を止めると言う事ではないか。競争と言う原理から抜け出なければ、本当の人間の生き方は見つからない。
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日本の外交姿勢

2013-02-14 04:25:18 | Peace Cafe
中国との競争に焦りを感じている日本人。「脱亜入欧」「富国強兵」の明治精神から今だ脱皮できていない日本人の姿が浮かび上がる。東アジアに位置する一国として当たり前に、存在することを大切にすべきだ。中国や韓国を蔑視するような思想は、日本人の一番弱い情けない部分の裏返しである。中国の進出を恐れ、日米同盟を強化するという考えは、早急に止めなければ世界の孤児になる。パレスチナ問題では、イスラエルを支持するのはアメリカである。イスラエルは徐々に世界からの支持を失いつつある。日本がアメリカの虎の威を借る狐になれば、そのずる賢さだけが浮かび上がる。世界はアメリカの正義をパワーバランスだけで考えている。日米同盟が、中国に不都合なものであれば、その批判は日本に集中する。アジア各国に対し、中国と綱引きはしない方がいい。安倍外交はアジアとの経済連携を考えているようだが、そう簡単なことではない。

経済の為にアジア諸国を有利に利用しようという戦略が基本にある以上、結局は実を結ばない。中国との過去の関係を見れば明らかである。経済とは別の価値観で外交をしなければならない。尖閣問題を日本固有の領土だ、疑いもなく日本人が住んでいたのだ。こういう説明のない論理は世界には通用しない。世界の目から見れば、日本は明治以降帝国主義的侵略国と見られている。この自覚がないのが日本人である。事実はどこにあるかではなく、世界の見方はナチスに対する見方と同様に、自らを省みずではあるが、日本帝国主義を迷惑なものと考えている。世界世論は侵略された弱い中国に同情が集まる。従軍慰安婦問題、南京大虐殺キャンペーン。事実云々ではなく、そちらのアピールが通りやすいのである。中国と日本が対立すればするほど、中国の正義が世界の常識になって行く可能性が高い。力のあるアメリカが日本を支持すれば、するほど日本の孤立化が深まる。

アメリカは中国との関係の強化を考えている。中国と対立する道を選ぶはずがない。経済戦略上中国はアメリカにとって大きすぎる存在である。これから先日本の存在よりも、経済優先の社会においては重要である。安倍氏の最初の訪問先をアメリカにしたかった所を、拒否していることがその表れである。中国の外交戦略は優れている。日本のように島国で、外国と言うものとの接し方がわからい国とは違う。諸葛孔明ではないが、巧みな外交戦略のもとに、世界進出を計っている。対立を深めて行くことは、日本の選択すべき道ではない。日中友好こそ、日本と中国の利益である。何故日中の対立が深まったかと言えば、中国の経済発展に従い、日本との関係を変えたくなっているのだ。安い労働力を目当てに進出した日本企業の存在は、国内の成長企業にとってマイナスになり始めている。まして、世界での競争を目指している中国としては、市場としてだけ見ている日本企業は、中国にとってマイナス要因である。

日本独自の外交戦略を持つ必要がある。もしアメリカが居なくなったとしたらを考えておかなくてはならない。外交には、多様性が必要である。アメリカと付き合うとしても、中国と対立することは日本にとって危険なだけである。中国国内の不安定要因に期待するような見方は愚かなだけである。あるいは北朝鮮の崩壊への期待。こうした近隣諸国の崩壊への期待は、日本人の自信のなさの裏返しにすぎない。今にも崩壊すかのように評論する人もいるが、それは大衆迎合的なマスコミの態度である。期待にこたえて勢いで発言しているにすぎない。アジア諸国の成長の可能性は、日本よりどの国も高い。中国の中にある不安定要因に対して、日本が協力して行く位の姿勢が必要である。中国との対立は日本の孤立である。中国を中心にした東アジア共栄圏を国辱的なことと考える日本人は、変わらなければならない。
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