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2013年のこと

2013-12-31 04:25:49 | 身辺雑記
今年は危険な兆候の年であった。最後に来て、安倍氏がその本性を現し、選挙公約にもなかった秘密保護法を強行した。この法案は、民主主義との関連で国民を縛る法律である。十分な国民の理解が大前提になる。そのためには、国会での議論が何より肝心である。石破幹事長さえ法律の内容を理解しておらず、発言を何回も取り消した位である。そして靖国参拝である。国民の間に異論があることを承知の上での強硬参拝である。いよいよ、集団自衛権の見直しという、危険な兆候の牙をむき出して来年を迎える。国民の反応を読み切ったということだろう。憲法改定のハードルを下げようとすらしている。民主主義の意味が十分に理解せず、数に頼む独裁手法である。自民党政権を選べば、こうなることは分っていたはずなので、これも国民の一つの選択である。問題は選挙制度のゆがみにある。自民党支持は高々、3人に1人である。その他維新をはじめとする右傾野党の存在。自民党を陰で支える公明党の存在。その結果安倍政権は50%の支持率をいまだに続けている。

支持の背景にはアベノミックスという綱渡り的な為替操作がある。こうして円の価値を下げて行くことのひずみがいよいよ来年には現われてくることだろう。輸入エネルギー価格は上がる。輸入品の値上がり分が、デフレ脱却と言われている。軽自動車税の値上げ、消費税増税、法人税の値下げ、コンクリート公共事業の垂れ流しその場しのぎを続けた結果に過ぎない。安倍政権は第3の民間活力を活性化させる経済政策の矢と主張したはずの成長戦略は、大した具体性もないまま1年を過ぎた。農業分野でも、規制緩和は言われたが、具体的な方向はまだ示されず、何の動きもこの一年なかった。TTP交渉の内容は国民には何も知らされないまま、強引に結果を飲まされそうな感じで怖い。民主主義が危うくなってきている。民主主義の決断までの議論の過程を、現実政治にそぐわない、衆偶政治とみなしたということだろう。決められる政治の背景に十分な議論が無ければ、独裁政治になる。

自民党の主張する決められる政治は、民主的議論を不要とする政治であった。衆偶政治の次に来る、実行力のある政治は、具体性のある政策を示して議論することだ。農業政策に於いては、競争力のある農産物という事が方針として出されている。要するに儲かる農業をやれということだ。しかし、この方針は農民が決めたものではない。政府もその競争力の具体的方法は示していない。政府が抽象的に唱えているだけのものだ。生産者がかかわらないまま、他人事の方針が決められ、農民は部外者のように、傍観者として立ち尽くしている。そして、いつ辞めようかと考えている。国土の条件を無視して、競争力の低さを農民の努力不足のせいにしたところで、一体食料はどこのだれが作ると考えているのだろうか。企業が農業に参入して、広大な面積で機械化農業をしたところで、2倍の価格が限界である。日本の国力が下がり、円がさらに半分に下がれば、成り立つという意味だろうか。

個人的には今年の後半は絵を描く毎日であった。明るい内は絵を描いているような状態であった。水彩人も公募展として、スタートが切れた。本当の議論が出来る絵画団体として、どこまで本質を究められるのかがこれからの課題だろう。その分笹村農鶏園の方は、作業が遅れがちであった。それでも自給分を作ることは出来ている。野菜は土が良くなった分、作りやすくなった。グループで稲、麦、大豆、お茶をやっているおかげである。グループの活動日は全部で、30日ぐらいではないか。時間がかからなくなったのは、技術が向上したことが大きい。やるべき時にやるべきことをやれれば、時間は半分で済む。今年失敗したのは、大豆の収穫の時期。私の判断ミスで3週間早かった。グループの結束や連絡体制もずいぶん良くなって、上手く回っている。農の会が新しい段階に入ってきたということだろう。
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辺野古埋め立て承認へ

2013-12-30 04:46:32 | Peace Cafe
沖縄県知事は辺野古埋め立てを承認した。その主たる動機は、沖縄振興策に関しては、2021年度まで毎年度3000億円台の振興費を確保するほか、来年度予算案で概算要求を上回る3460億円の予算を計上したことにあるとしか見えない。これは弱いところにお金で嫌なものを押し付ける、原発と同じ構図ではないか。基地は嫌ではあるが、お金が入るなら我慢しようということに、知事が判断したということに見える。今回知事が辺野古移転を受け入れを認めた以上、沖縄県は基地負担を認めたということに繋がってゆく。市街地の中にある普天間基地のの移転を優先したと発言したが、県外移設を主張していたことを忘れたのだろうか。現実には沖縄の基地軽減がされないとしても仕方がない、ということになる。これだけ沖縄に偏った基地負担は異常事態である。安倍政権が近隣諸国との緊張を高める方針である以上、アメリカの基地が減るとしても、さらに自衛隊の沖縄の基地は強化されると考えて置いた方がいい。

原子力発電所ですら、誘致する自治体がある。青森のように再稼働を希望する自治体がある。福島の人たちの中には、東京の人たちの為の電力で、なんでこんなひどい目に合うのかという事を言われる人がいる。しかし、誘致し受け入れ、補助金をもらっていた市町村にはその責任が存在する。沖縄県も今回多額の沖縄振興の為の補助金をもらったということは、基地が沖縄に集中していることを、受け入れたのだという理解になる。又、米兵による様々な被害が起きたとしても、お金をもらっているのだからある程度は受け入れるべきだ、という話になりかねない。六ヶ所村の実態を考えれば分る。六ヶ所村行政も、青森県も、再稼働を希望している。それは補助金が無ければ暮らせないという実態が作られているからだ。沖縄も本土並みの生活を、補助金によって実現できたとすれば、ゆがんだ依存体質の地域になる。決して沖縄の未来の為にはならないとおもうが、沖縄自身が判断することなのだろう。名護市長選が近い。

辺野古移転には、沖縄の北部振興の問題がある。沖縄には、那覇を中心とした、南部地域の都市化した地域と、北部のやんばる地域の未開発地域が存在する。沖縄本島と一言でいっても地域差、人口密度の違いは、かなり大きい。極端にいえば、都市部の人たちにしてみれば、基地が都市部から減少し北部に移転してくれるのであれば、県外移設の次善の策に近いものという意識があるのではないか。原発誘致をする、過疎地域と同じで、北部地域でも地域開発の為に、辺野古の基地を受け入れるほか道が無いという意識がある。それが名護市の市長選に現われる対立軸だ。又、同じ名護市といっても、市街地域である、西部地域と、辺野古のある東部地区では、山を隔てた別地域となっている。辺野古の基地が直接には大半の名護市民に影響はしない。名護市は北部やんばる地区の開発業者が多数存在する。人家の少ない辺野古地区は静かな入り江を中心とした、漁村である。漁業組合にしても、中心になっているのは南シナ海側であり、辺野古は異なった太平洋側の少数派なのだ。

弱いところに厭なものを押し付ける。それで利益が自分に来る。辺野古さえ我慢させれば、沖縄全体の利益になる。こういう構図が見え隠れする。これは日本全体で起きている、利権構造の姿である。能力主義、拝金主義、新資本主義、格差社会、過疎の廃村。すべては似ている。日本が世界の競争で勝つためには、弱者は弱者としての立場をわきまえて、我慢をしろという論理である。それでなければ日本全体が、世界の競争に負けるという恐怖である。これは辺野古という漁村の問題だけではない。日本がどこに向かうのかをよくあらわした問題である。この問題を仕方がないと受け入れるということは、いつかは自分が同じ弱者としての圧迫に会い、誰にも助けてもらえない事態になる。仲井間知事は沖縄の為だと、沖縄に安倍氏が心を寄せてくれたと、発言したが大いなる誤解だ。このままでは、沖縄の心はお金で買われたという以外に見えない。どれほど沖縄の誇りを傷つけたたことになるか自覚すべきだ。
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カジノ法案の提出

2013-12-29 04:12:53 | Peace Cafe
小田原にも儲からない、風前のともし火の競輪事業がある。何の為にこういう事業を続けているのかが分らない。小田原の風光明美な、文教地区にあるのだから、時代に合わせたもっと良い利用法はあるはずである。何故その知恵が出ないのだろう。加藤市長は最初の立候補の時、競輪事業には反対を表明していた。その時は落選した。2回目で当選した時も競輪事業は止めるべきと主張していた。当選したのだから、やるのかと思ったのだが、何もやらなかった。そうして、再選時には、競輪については発言が無くなった。こういう姿は見たくなかった。こういう場当たり的な姿を見て、市のやることに協力する気持ちは失った。バカバカしくて、どうでもいいという気分である。国も、カジノに熱心なようだ。超党派で健全賭博をやろうというらしい。こういう馬鹿げた儲け話になると、盛り上がる人たちがいる。国が賭博を奨励するようでは、教育改革どころではない。

自民、民主、公明、日本維新の会、みんなの党、生活の党などの国会議員約170人の超党派の「カジノ議連が存在する。安倍晋三首相、麻生太郎副総理兼財務相、生活の党の小沢一郎代表らが最高顧問に名前を連ねている。 カジノを国が関与してやろうなどという国が美しい国であろうか。何としても止めてもらいたい。賭博は人間の成長にとって悪影響がある。まじめに地道に暮らして行く人間をあざ笑うものだ。生活というものを破壊する。路上生活をしている人の中にも、結構ばくちで身を滅ぼした人がいる。そもそも、株式投資は博打である。資本主義経済というものは、健全な人間を阻害する要素がある。資本主義の頑張れば豊かになれる、という意識を良い形で育てる為には、工夫が必要なのだ。タガを外して、自由な競争だけを前面に出せば、階級社会になる。拝金主義になる。何の為に人間は生きるのか。この根本がお金というものに翻弄され、いやしい社会になる。

なにもきれい事だけで良いとは思わないが、せっかく日本にはカジノが無かったのだ。この美風を残すべきだろう。カジノをやりたい人は、是非ラスベガスでも、マカオでも行ってもらえばいい。やれるところが海外にある位の距離関係がいいところだ。日本国内にも、スロットマシーンやパチンコ、競輪、競馬、競艇、宝くじと色々の賭博がある。身内の恥をさらすようだが、パチンコで親戚一同に、繰り返し苦労させた人がいる。頼れる親戚はすべて、この人の救済に協力せざる得なかった。サラ金で借りては、借金を膨らませてしまうのだ。一種の麻薬のようなもので、借金を返せなくなって、その都度もうやらないと心より反省し、お金を出してもらうのだが、又やってしまう。最後は息子の暮らしにまで迷惑をかけた。親戚一同、悩みのタネであった。サラ金に貸さないようにお願いにまで行ったのだが、結局だめだった。貸す側にしてみれば良いお客さんだっただろう。

美しい日本にカジノはいらない。美しい小田原に競輪は似合わない。来年にはこの法案が国会に提案されるそうだ。こういう情けないお金になるなら、何でもいいという日本の方向をどうにかならないものだろうか。悪所が要らないというような、潔癖主義で拒絶する訳ではない。小田原競輪が小田原の印象を悪くしているマイナスを痛切に感じる。あの競輪場の場所に、もっと利益をあげて、小田原の良さを引き上げるような施設は、考えることは可能だ。小田原が魅力ある街になる為には、わずかなお金に翻弄されてはダメだ。小田原を愛し、小田原の為と思う人が増える為には、賭博的要素はもうやめにした方がいい。それは、日本という国に広げても同じだ。誇りある日本というものを考える上で、カジノはいらない。日本が立派な美しい国になる為には、新たな賭博を公認するなどもってのほかである。今ある賭博をいかに縮小するかが、むしろ課題である。
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安倍靖国参拝の本意

2013-12-28 04:50:52 | Peace Cafe
安倍氏が何故、靖国神社に参拝をしたのかをもう少し考えてみる。結論を先に書けば、憲法9条の改定を意図している。戦争の出来る普通の国になりたい、ということだろう。変えるべき憲法の内容と言えば、自民党草案に示されている。自民党草案にあるような国に、日本をしたいということに尽きる。そのための世論形成が必要だと考えての行動である。そしてそのシナリオを進めている過程の一つに、近隣諸国との緊張を高めるという戦略がある。石原氏の尖閣購入事件に始まり、緊張の筋書きが着々と進められている。今のところ、国民の反応は残念ながら、そのシナリオ通りに進んでいる。尖閣や竹島の領土問題を表面化させる。中国漁船の体当たり事件などをきっかけにして、中国や韓国の不当を宣伝する。中国の軍事大国化、暴動、良いチャンスをつかんで事をさらに荒立てる。初期段階のシナリオにすべてが、織り込み積みであったのだろう。そして、報道は近隣諸国の不正義を言いたて、また中国、韓国、北朝鮮の軍事強化や人権問題、ゆがみを必要以上に騒ぎ立てている。まるで戦前の社会の空気ではないか。

幕を開けた、近隣諸国との軋轢状況はいよいよ来年は第2幕であろう。安倍氏の靖国参拝など、幕間のようなもののはずだ。これから、通奏低音のように存在した集団自衛権の見直しが来年には始まる。当然軍事費もさらに増加する。国連軍への軍事的参加も、近づいてきている。その助走のように、韓国軍への銃弾提供だろう。すべてのストーリーが、軍事大国になる道をひた走っている。すくなくとも世界の反応はそこにある。何故、軍事国家にしたがるのだろうか。それは、安倍氏自身の持つ保守思想のゆがみの問題である。この人は自他共に認める、日本主義者である。いつかは明治日本帝国を復活させようという思想だ。敗戦によって一度は死に絶えたはずの、亡霊のような、古臭い武力主義が、今の時代に通用する訳が無い。時代を逆行させるつもりなのだ。アメリカが内政干渉的に、安倍氏の右翼体質を危険視しているのは、安倍氏の今までの行動すべてを、十分にスパイして出した結論である。

戦没者霊園でなく、靖国神社でなければ、何故いけないのか。ここに問題の本質がある。戦没者に対する慰霊の気持ちは、日本人すべてが持たなければいけない。しかし、それが何故、靖国神社でなければならないかが、問題である。靖国神社の本質は、明治維新以来の軍人を、軍国主義の英霊として祭る神社なのだ。そういう軍国主義を統括する意味の、明治帝国主義を支えた日本独特の宗教組織なのだ。そうした背景を抜きに、議論をすり替えて、戦没者を総理大臣が慰霊するのは当然だと、主張しても筋違いなのだ。戦没者霊園では、安倍氏が参拝する意味が無い。空襲で死んだ人と、軍人の死とを分けて考えている。日本の保守思想のよりどころとしての、靖国神社の存在を見なければ、このこだわりの意味が理解できない。今沸騰しているだろう、靖国に首相が参拝するのは当然だとする、操作された議論は、靖国という宗教法人の意味を、あえて触れないようにした議論なのだ。こういう抜け道的な手法が、自民党の常とう手段である。

すべての前提として、自民党保守派は軍事大国を目指しているというところにある。このことをぬきにして、安倍氏の一連の行動の意味は、見えてこない。ただ戦争で亡くなられたすべての人に、尊崇の念を表現しているというのであれば、宗教法人の靖国神社にこだわる必要はない。私は近隣諸国やアメリカの抗議など、ある意味どうでもいいと思っている。日本という国がどこを目指し、どういう国になるべきなのかを、正面から議論すべきだと考える。第2次大戦で亡くなられた方々をそのことに利用してはならない。靖国へ今参拝するということは、日本を軍事国家にするために、近隣国との緊張を高め、戦没者を利用しているということになる。そんなバカなと、まだ考えている人はいるかもしれないが、安倍氏を代表とする、保守派は本気でそういうことを考えているのだ。やり方が卑劣ではないか。
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安倍総理大臣の靖国参拝決行

2013-12-27 04:57:17 | Peace Cafe
いつか安倍氏は靖国神社に行くだろうとは思っていたが、暮れも押し詰まってやってくれた。安倍氏個人の痛恨の思いとは別に、外交は動いている。安倍氏の本音としては、こういう態度が日本にと必要だと考えて、あえて実行したと考えられる。それが安倍氏の思い描く美しい日本の姿なのだろう。その日本はどこの国の思惑も関係なく、自らの主義主張で行動できる国ということなのだろう。確かに、日本という国が一国だけで存在しているのであれば、分らないでもない。しかし、日本という国が、世界の中で存在し、日本の行動で耐え難い感情を持つ朝鮮中国があるということは、その何が正義かは別にして、配慮が要らないわけがない。それが近隣諸国との付き合いというものだろう。さらに安倍氏の本音としては、A級戦犯と言われる人こそ、尊敬すべき人であり、不当な戦争裁判を受け、日本の戦争責任を一身に背負わされた人という認識がある。神として祭られるべき人だという思いがあるに違いない。

安倍氏がそういう人間であるということは、隠されてもいないし、公言もしてきたところである。そうした考え方が日本の保守勢力がこの人を支持する、一番の根拠なのだ。戦争責任などということは、建前では認めているが、本音では全く日本が悪いところがあったなど思ってもいないに違いない。そういう考え人が自民党の政治家の中のかなりの数存在すると思われる。戦争に負けたから、戦犯などと呼ばれるのであって、正義は日本にあったのであり、勝てば評価されたと本音で思っているはずである。この本音と外交上の公式見解の乖離が、ナチスに対する評価と根本から違うところだろう。日本は、やむえず戦争に引きづり込まれたのであって、アジアの諸民族からの救援要請に従い、大東亜の解放の為に立ちあがったのだ。欧米の帝国主義に対抗し、アジア人の尊厳のために戦ったのだ。今でも安倍氏はこう考えていると思われる。では戦争敗戦の責任というものは、誰にあるのだろう。

第2次大戦に敗戦したのだ。その遠因は、明治政府の富国強兵策に由来する。敗戦国の外交として仕方がないので、日本の侵略戦争を認めているという不誠実な態度をとっている。この安倍政権の2重構造が、徐々に表面化してきている。しかも、大半の日本人は、経済至上主義に巻き込まれているから、そんなややこしいことはどうでもいい、今更こんな古い話を蒸し返すのはどうかしている、ぐらいにしか感じていないと思われる。しかし、侵略された当事者には過去の問題ではなく、日本の外交の未来を左右する重大な歴史認識の問題なのだ。第2次大戦の敗北を深い反省に基づき、自らの過去の過ちとして理解しない限り、日本は又この失敗を繰り返すはずである。日本が侵略して、多大な迷惑をかけたことは、公式に認めていることだ。A級戦犯と呼ばれる人が、潔い武士の魂の人であれば、責任を回避するはずがない。

中国や朝鮮の国内事情を、問題点をあげつらい、揶揄するような分析ばかりが幅を利かせている。これは日本人の自信の無さと、劣化の現われである。日本人は中国朝鮮から多くのことを学び、日本人になったのである。稲作の技術は天皇家が日本に広げたのではないかと想像しているが、その背景にあるのは中国朝鮮の、優れた農業技術、水土技術によるものである。安倍氏も、靖国に行けないくらいで、がっかりするのは弱い証拠だ。自らが総理大臣としてしっかりとしているなら、戦争で死んだ人達も、お参りに行けなとしても、必ず評価してくれるはずだ。そして、すべての国民が気持ちよく戦没者を慰霊する状況を作ることこそ、美しい日本の総理大臣の責任である。宗教色のない場所に、戦没者霊園を作ることだ。そこには軍人だけでなく、戦災で亡くなった人も含めて、慰霊すべき場所を作る。そして、今だアジアに広がる、何万に及ぶと言われる遺骨収集を行うべきだ。
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スーダンPKO弾薬提供

2013-12-26 04:15:41 | Peace Cafe
井川1佐は、陸自が23日に国連を通じて小銃弾1万発を韓国隊に提供した際、韓国隊の隊長から「周りは敵(の反政府勢力)だらけで弾薬が不足している」などと切迫した要請があったことを明らかにした。

 韓国国防省の報道官は24日の記者会見で、派遣部隊の予備弾薬が不足したわけではなく、あくまで緊急事態に備えた措置だと主張。日韓の主張の違いが浮き彫りになっている。

 井川1佐などによると、日本時間の22日未明、ジョングレイ州のボルで活動する韓国隊の隊長から、「ボルの活動拠点内には1万5000人の避難民がいる。敵については北から増援も確認。1万発の小銃弾を貸してほしい」と電話で要請があった。日本側が小銃弾を引き渡したところ、23日夜、韓国隊から「ボルの宿営地と避難民を守るために使う。本当にありがとうございました」と連絡があったという。


スーダンの自衛隊部隊が、韓国軍に銃弾を1万発提供したということである。事実が確認できない状況だ。政府の発表では韓国軍の要請が緊急事態だったので、武器輸出三原則の例外措置として、弾薬を提供したということである。つまり、政府の吹聴する、積極的平和主義の実例ということになる。信じがたいのは、緊急性である。国家安全保障会議は議事録がなく、こういう時に検証することが困難である。韓国軍の緊急の弾薬不足が本当とは思えないからだ。韓国軍が激しい銃撃戦をしている状態ではない。仮に、韓国軍が銃弾を使いつくすほどの戦闘を繰り返している地域に自衛隊が存在しているなら、自衛隊は即刻引き揚げるべきだ。自衛隊は戦闘行為は行わないという前提で、スーダンに派遣されている。自衛隊のスーダンでの任務は、道路建設などのインフラ整備とされている。自衛隊が、国会での承認なしに、戦闘に参加して、緊急事態であったためでは済まされない。戦争というものは常に、こういう出先部隊の都合で始まる。

韓国軍が1万発の予備の銃弾程度を持たないで、PKOに参加しているとすれば、驚くべき装備の準備不足である。韓国軍がそれほど間抜けなものだろうか。何か不思議な事情があるはずだ。自衛隊も韓国軍も300名ほどが居るらしいから、一人、33発程度である。武器のことは分らないが、連射する銃だろうから、この量では忽ちに無くなるだろう。どうも説明が異なる不自然な事態である。既成事実を出先機関同士で作り上げようとしているのではないか。急激に戦闘状況が迫ったという、認識をもつことはある。それでも、自衛隊には武器を提供できない国内法がある。その位のことは韓国軍に認識がないはずがない。他の国の軍等に希望を出さないのはなぜか。韓国の本国政府にしてみれば、スーダンの韓国軍が、日本の支援を受けるなどということは、国内世論が我慢できないだろう。あまりにおかしなことだ。何か、不思議な関係を出先機関同士で作り上げていないか。

緊急性、人道的見地から、武器輸出3原則の例外として、韓国軍に銃弾を提供したというのが公式見解である。これが作られた話であって、なし崩しに法解釈を崩す手段ではないか。いずれにしても自衛隊が巻き込まれて行くことが一番恐ろしいことだ。事実を出来る限り公表し、韓国との食い違いを正してもらいたい。南スーダンの現状も、国民に正確に伝えてもらいたい。現在自衛隊は、PKO本体業務以外の道路建設等を担当する施設部隊が首都ジェバに駐留している。どうも首都付近に居る自衛隊も安全とは言えないようだ。早急に引き上げるべきだ。南スーダンの内戦について、自衛隊が出来ることは何もない。道路工事が出来ない状況なら、一日も早く、引き上げるべきだ。何もできないのに、スーダンに居ることが、積極的平和主義とは言えないはずである。安倍政権は既成事実を作り、法解釈を広げようとしている。そのために今回の事件を、拡大解釈して利用しようとしたのだろう。
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味噌作り募集

2013-12-25 05:46:32 | あしがら農の会
大豆の会の味噌作りに、まだ少し余裕があります。
参加を希望される方は、笹村まで、(sasamura.ailand@nifty.com)メールをください。

1.希望口数(1口は約10キロの味噌)
2.麹の仕込み希望日
1回目 1月19日(日)
2回目 1月20日(月)
場所:舟原の機械小屋

味噌の仕込み
1月25日(土)前日準備(大釜の移動・設置、大豆を洗い浸水、薪の搬入など)
1月26日(日)仕込み当日
場所:大井町山田1947「ブルーベリーガーデン旭」

参加費:1口5000円

大豆の会では、久野舟原の大豆畑で、136キロの大豆を作りました。会員の味噌作りで少し余裕が出来ました。農薬化学肥料を使わない、伝統農法で作っています。
大豆は先日、お豆腐にしてもらいましたが、とても美味しいものです。
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植民地とは何か。

2013-12-25 04:08:31 | Peace Cafe
朝鮮が日本の植民地があったという歴史的事実を否定する人が、存在する。このことになると、必ず、日本は列強の植民地主義に対抗するため、やむえず朝鮮を併合したのであり、日本に植民地はなかったというような意見が繰り返し出てくる。しかも、それは右翼的な人の意見のようだ。どうもそういう組織が存在するようだ。そういう人がいる以上わたしも繰り返し書くつもりだ。昔は右翼的な人こそ、自慢げに植民地であったことを誇ったものだ。日本の明治時代に存在した帝国主義も認めないのだろうか。確かに明治政府に植民地主義的野心が強くあった訳ではない。しかし、世界には明確な植民地主義というものがある。大英帝国のように、他所の国土を植民地化して、綿のプランテーション農業や、鉱山開発をする。領土を世界に広げ日の沈まない強大な国家になるという発想である。帝国主義の産物が植民地である。自国の権益の為に、奴隷貿易まで行う。人権意識も希薄な時代、国家の独立の尊厳に対する意識も薄かった。そうした考え方の尻尾が、日本に置いてもいまだに見え隠れする。日本を愛するということを、他国を卑しむことにつなげる人がいる。

明治時代には移民ということが始まる。日本人は多数、アメリカや中南米に移民した。移民といっても、出稼ぎ的な意識が強かった。日本帝国主義の政策としては、移民には棄民的要素があった。食料と人口のバランスである。江戸時代も新田開発は、各藩が熱心である。閉じた鎖国社会であっても、人口の増加は起こる。江戸時代の社会インフラの整備は、鎖国以前の銀輸出の資金で始まる。江戸時代後半には、経済運営に行き詰まる藩が多い。人口が江戸時代初期の倍になる。農業技術の革新や、新田開発が出来る範囲で、人口の増加が起こる。そして、欧米の列強の帝国主義が、日本にまで及ぶのが幕末である。植民地化を免れる意識が、日本を近代国家へと鎖国を解くことになる。幕府から明治政府に代わり、富国強兵で列強に対抗する。産業革命を日本も取り入れることに躍起になる。人口も爆発するように増加する。軍備費の増加もあり、農村の疲弊は江戸時代以上の状態に陥る。出稼ぎ的移民政策が始まる。

山梨県境川でのことだが。移民した弟家族がブラジルで成功して、家族にすごいお土産をもたらしたという家があった。同時に満洲から引き揚げてきて苦労している家族もあった。貧しい山村であるので、農地を相続できるのは長男だけである。それ以外の人は、出てゆく以外生きるすべがなかった。八ヶ岳開拓事業に参加した家族が、墓参りに向昌院に来て、向こうでどれほど大変かということを言われていたのを覚えている。ともかく人口が常にあり余っていた。東京に出る人も、ブラジルに行く人もいた。松下幸之助氏が国土開発隊というものをつくり、20歳になったら義務化すると言う夢を新年の新聞に書いていた。国土を広げるということは絶対善であったのだ。当然干拓事業も熱心に続けられる。その失敗事例が、有明海の干拓事業である。明治時代の国土拡張主義の一つが、植民地主義を芽生えさせた。耕作放棄地どころか、農地が不足していたのだ。国内の矛盾の解決を海外に求めざるえない国内事情が存在した。

盛んに移民政策が行われると同時に、日本の権益を東アジアに広げてゆく発想が生まれる。「俺も行くから君も行け、狭い日本にゃ住み飽きた。 波の彼方にゃ支那がある。」満蒙開拓である。こういう言葉が少年雑誌にまで掲載される。アジアの解放という美名の植民地政策である。それは、大東亜共栄圏という欧米諸国の植民地支配からアジアを解放し、大日本帝国を盟主とする共存共栄の、新たな国際秩序を建設しようという、発想に至ることになる。列強からの解放ということが、強調されれたとしても、日本が盟主としてというところに、本音がある。アジア諸国に対して遅れた植民地化された地域という意識があった。いち早く欧米化し、独立を守った日本が救済しなければ、アジアは欧米に支配されるという意識である。アジア諸国の中にある反植民地勢力と、結びつきながら、日本の進出が計られた。確かにこの側面から見ると、欧米の植民地主義とは異なる。しかし、根底には日本の人口増加に対応した拡張主義が存在する。少し長くなってしまったので、又。
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元気百歳

2013-12-24 04:04:57 | 暮らし
国際長寿センターという組織が「元気百歳」という冊子を出している。先日銀行に振り込みに行った際、もらってきた。長寿国ニッポンのデーターが出ていた。それを読んでいると、私にも100歳が可能なのかもしれないと思えてきた。絵を描いて、自分という人間にたどり着くには時間がまだまだ足りない。これが現状なので、嬉しくなった。2050年の百歳以上人口は68万人というから、それに入ればいいということだ。すごい数ではないか。平均寿命がさらに伸びるというのは素晴らしいことだ。現在60歳から64歳の人口が850万人くらいの同世代として今生きている。64歳の50人に一人くらいは、100歳になる計算のようだ。クラスに一人なら何とか成るかもしれない。絵が描ける100歳を目指して頑張りたい。

冊子によると、健康状態は普通以上の人が8割。収入は若年層と大差なく、年金から7割を得ているという。高齢者の8割は介護の必要がない。60歳以上の就労者の労働の質は標準以上ということだ。特に良い絵を残している絵描きの場合、60歳からが本番になったという人が多い。絵を描くということが、自分という人間に至ることだとすれば、当然自分という人間が総合的に出来上がらなくてはならない。人間が人間になるということには時間がかかる。長生きできるかどうかも、自分の絵に到達できるかどうかの重要な要素になる。また、芸事を持っているということが長寿には大切ということもデーターに現われている。絵を描くというのは、体力を使う訳ではないが、頭は結構使う。20分絵を描くと、あとは何もできないほど疲れてしまうこともある。あまり長く描き続けていると、独特の人格になる。だから絵ばかり描いている絵描きと会うと、見た感じで大体に絵描きだと分る。人間的にはおかしなものになる場合もある。私もそう言われることがある。

職人さんが職人さんと見た目で分るということは、悪いことではない。お百姓さんとも似ている。大体に偏屈である。人との会話が成立しないで一方的である。これも私自分自身のことなのだが。人の話を上手くきけなくなる。自分の言いたいことは膨らんでくるのに、人の意見が理解できなくなる。これはボケの一種だ。年をとることでは認知症が一番心配なことらしい。急速に増加して、2035年には376万人になるそうだ。良い絵を描いていたSさんが、認知症で絵を止めたという話を聞いた。絵を描いていたから、認知症の進行が遅れていたが、ついに限界に来たということらしい。絵を見ても認知症ということは、全くわからなかった。今考えてみると、認知症だからこんなに一途な絵がかけたのかと思えた。ブログはどうだろうか。認知症は現われるのだろうか。専門医が見れば、分るものだろうか。モネの晩年の絵が、白内障だったということが絵に現われているという医師の判断がある。長寿にはストレスは必要なものだと思う。

私が百歳長寿の為にやっている事は、まだ、36年経たないと結論が出ないので何とも言えないが。一応上げて置き、36年後に読んでみたいものだ。
1、体重を安定させる。標準体重ではなく、自分なりに体調の良い体重を知る。体重は毎日必ず計る。
2、内観法で身体のチェックも行う。心理療法ではなく、自分の体の状態を確認する。
3、自給の農作業をする。ゆる体操を風呂で行う。身体を温めて、身体をゆるめる。
4、体を温める。足を冷やすことが良くない。夏でも靴下は何枚もはいている。
5、小食である。夕食は食べない。高校生の時は、45キロであったから、今は10キロそれよりは多いが、これよりは減らさないようにしている。
6、頭を使う。絵を描く。絵を描くのは、訳が分らないのでいい。結論はないし、修行のようでもあり、出来ないでも気分が爽快である。

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伝統農法のこと

2013-12-23 04:18:32 | 自給
伝統農法について考えていることを整理してみたい。日本の伝統農法は、東アジア温帯から亜熱帯までに広がる農法に基づいたもので、循環型といえる永続農法である。特に江戸時代に技術的な革新が進み完成した。稲作を基本として、野菜、果樹、畜産まで、複合的に行われていた。歴史的には4000年という長い期間、継続して同じ土地が農地として使われた場所がある。遠大な実験結果であろう。プランテーション農業の収奪的農業技術と対極に位置する農法である。一族や集落や、一つの地域が豊かに安定して暮らしてゆく為に、土壌を育ててゆく農業技術が育まれた。それには山や水の自然環境全体が安定的に存在することが、大きな要素になった。その背景には、自然そのものを信仰する、精神風土が育まれたことが、大きかったと思われる。幸いなことに東アジアの自然環境は100年前までの4000年安定的な豊かさをもたらしてくれた。適度な四季の変化と雨量の多さが、伝統農法の基本になって、水田稲作のを発展させた。

水田稲作で特徴的なことは、集落共同体が合理的に労力の出し合いを行い、戸別の農業と、共同体の作業が、渾然一体となって行われてきた農業ということになる。水を管理することは、個人では不可能なことである。集落の力の統一が成立しなければならない。水管理が協働的に運営され、他集落との調整が必要になる。そこには、契約的な意識が必要となる。場合によっては、大きな水土的開発行為の技術の革新も必要であっただろう。しかし、自然を改変する範囲はあくまで、自然を破壊するのではなく、人間が自然に織り込まれる範囲であった。その技術は国家的なものと成り、日本に於いては天皇家がその技術的支配者であったのではないか。実際的な、日常の水の調整は、繋がる水系の意志の調整が必要になる。苗代を行う。田植えを行う。水を限界まで有効利用するためには、自分の一族だけが良いということでは成り立たない。どのように他者とかかわり、共同の関係を作り出すかが必然となる。ある意味、個人が共同体にのみ込まれることにもなる。村落共同体の利益が、個人の存在を許す関係である。

この水田を含んだ農業は有畜複合の小規模農業が特徴である。換金作物を作ることは当然であるが、自給を行うことが前提となっている場合が大半である。農地を育てるという必要性から、人が移動をすることはなくなり、同じその場所で、一族が未来永劫暮らすということが予測される農法である。そこでは、農産物を移動させ流通させるよりも、先ず自分の食料の確保ということが前提とされる。移動できないが故に、一族の繁栄を望み、豊かない地域にを目指すことになる。農地に対し、永続性を前提としながらも、出来得る限りの生産性を求める。それが、2毛作3毛作という、耕作すればするほど土壌が育まれる農法が求められる。当然、一定の人数の家族労働が必要とされる、鶏、豚、馬、牛、山羊、というような家畜が飼育され、耕作にも利用され、食糧ともなり、その糞尿が肥料とされる。人ぷんも貴重な資源となる。周辺の山を燃料供給源とすると同時に、落ち葉は堆肥の供給源となる。堆肥の為に草刈り場が設けられ、家畜の飼料にも利用される。里山の成立である。

農業のみならず、漁業や、狩猟とも一体化するような多様な形態が、地域の特性に合わせて行われることになる。それも永続性が必然となるため、捕り尽くすというより、ともに暮らすバランスが意識されることになる。手入れの思想とも言うべき、自然と共存する農法となる。それは文化の形成や宗教的信条に影響している。土を作る。土を育てるためには、水を育むことになる。水を大切にするということには、自然環境を全体的にコントロールする。手入れの思想である。人間そのもを自然と一体化させて、邪魔をしない存在として自然に織り込んでゆく。現在失われつつある、日本人の暮らし方である。競争的近代農業の、大規模工業的農業の拡大再生産は必ずどこかに終点があり、墜落の危機をはらんでいる。伝統農法は、世界が調和して暮らす為の、不時着地点である。
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絵に常識はない。

2013-12-22 04:54:51 | 水彩画
絵画の世界には、いかにもそう思えるようなことで、実はそれが良くない、ということがある。絵の常識に従うと、絵の進歩の障害になる事もある。まず、いつも気になっているのが、絵を描くにはデッサンの勉強、訓練が必要という一般論である。日本の美術学校の入学試験にデッサンがある。絵を描いてみようかと思い立った多くの人がそんな考えを持つものらしい。デッサンというものが、絵の基礎になると思い込んでいる専門家も結構いる。デッサンから入ると、良くない結果になると私は考えている。20歳までならいざ知らず、普通はデッサンの勉強が却って災いする。デッサンをやるというのは、眼を訓練するということである。目がその人なりに出来上がってから、訓練するということは障害を起こす。デッサンというものを、眼に見えるものを写す技術と言い換えてもいい。移す技術だけを抜き出せば、自分の絵に至る障害になる。物を見て、写し取るなどという技術は、なければない方がいい。これは詭弁ではなく、今までやってきた結論である。ものを見るという能力を高めるためには、写し取る目はマイナス要因になる。

ただ写真的に見えているという状態は、絵とは関係のない見え方である。百姓が作物を見ている見方は、他の人には見えない。AKBの判別は、高校生なら出来ても我々にはできない。絵描きが見るということは、その人の人間を通して、絵画世界を見ているのだ。絵画に於いて「みる」ということは、自分の思想や哲学を見ているということだ。もしそっくりにやりたいなら、今の時代写真にすればいいだけである。写真より人間がやったという絵画に魅力があるとすれば、むしろ人間というフィルターにある。絵は精神の問題である。心の表現である。見えているものといっても心が育てた見え方で描くものだ。心の中にあるものだから、それを見る為には、心を育てることが何より肝心である。手の訓練としてデッサンをやるというなら、障害にならないように、ただの線を引く訓練をした方がましである。墨絵などではそういう修行がある。

絵の構図は上下2分してはならない。これも時々聞く。構図がこうあらねばならないなどという、理由は全くない。決まりによって考えることは、発想の自由を妨げるばかりである。構図というものは、自分が見えているものの、画面への取り込む骨組みである。画面という小さな世界に、宇宙を作り出そうというのだから、一般的なやり方などある訳がない。「絵を逆さにすると、バルールの狂い」が分かるという常識もある。これも愚かな絵の判別だ。バルールは、逆さにしたら崩れるのが当たり前のことだ。バルールというのは、画面の秩序であって、自然の成り立ちと整合していればいいというものではない。奥行きを要素として、扱う絵もある。平面的に色彩を構成する絵もある。別段つじつまが合っているということを、バルールというのではない。大きな画面の構成、成り立ち、ここに作者の精神が反映しているかが問題なのだ。おかしければ、自分の体が反応するまで、たくさん描くほかない。

絵を描くということは、自由だということだ。でたらめであろうが無かろうが、自分らしくを見つける手段である。こういう絵がいい絵だという前提は、商品絵画の評価の世界のことだ。商品世界の中では、販売評価が存在する。日展でおかしなことが表面化したのは、すべて営業と権力欲のなせる業である。そういう世界から離れて、自分の為だけに行うのが、「私絵画」の世界である。自分にとって、よく出来た絵画と同じということが、価値観であるなら、絵画の常識に従えばいいだろう。私という、いまだかつてないものを求めているのが、私絵画である。芸術行為は未知なる世界に踏み込むことだ。だから面白い。人に褒められたところで、それまでのことだ。自分自身へたどり着く為には、一切の絵の常識を取り払うことだ。そして、眼を育てる。それは自分の人間を深める以外にない。そのやり方の本当のところは分らないが、私は日々真剣に生きるというほかないと思っている。
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減反廃止と生産調整

2013-12-21 04:42:45 | 稲作
政府は減反政策の廃止を決めた。廃止には5年もかかるそうだが、ともかく止めることが大切である。そして、生産調整廃止どころかむしろ生産調整強化の方向に動いている。すべてがTPP妥協に向けての国内対策である。今まで減反奨励補助金で、お米の過剰生産を食い止めようとしてきた。しかし、これが限界に来ている。減反政策を進めても、お米の生産量が減らない。機能しない政策の為に、農家保護と言われてきた。奨励金が稲作の経済合理性を阻害し、ゆがんだ農業を助長することになってしまったのだ。お米を作るということが、経済とは別の原理で動いてゆくゆがみである。しかし、TPPに加盟するということは、お米が世界の主要な農産物である以上、加盟国間関税がいずれなくなることは、眼に見えている。TPP加盟がアメリカ一国の有利と、世界企業の利益の為に進められていると私は考えているが、一まずその議論は置いておき、来年のそして、再来年のお米や田んぼがどうなるかを考えてみる。

減反廃止の代わりに、飼料米のの奨励金が予定されている。これはもし本格的に運用され、届け出などを行政や農協が推進するのであれば、忽ちに広がるであろう。なぜなら、減反補助金より、さらに有利な補助金が付いているからである。これにより確かに、主食米の生産は減る。止めていた田んぼまで、飼料米が作られ、田んぼは維持される可能性がある。この飼料米の生産については、10年前に書いた養鶏の本で主張していたことである。やっとここまで来たという気持ちはある。私のような小さな養鶏農家が2ヘクタールの田んぼをやり、そこで餌を生産しながら養鶏をやれば、生活をしてゆける基盤が出来るということである。一見すべてが良いように見えるが、問題は、補助金の額は、減反の為の政府の支出をしていた金額の2倍から、4倍の支出になるだろうということだ。この支出の増加に、政府が耐えられるかどうか。世間がこのゆがみを批判しないかということだ。TPP妥協の産物として、当面了解が取れるのだろうか。

さらに、政府としては奨励すべき、大規模企業稲作の成立の問題がある。飼料米田んぼがその邪魔になる可能性も高い。それを乗り越えて、日本国内で考えうる限界まで、合理化した稲作が完成したとして、ベトナムで行う米生産の2倍くらいの生産コストになると予測している。その差額は主に労働費である。この差額があったとしても、国内産のお米が売れるかである。企業の善悪の判断は、儲かるかどうかである。北海道で大規模農業をやることと、ベトナムでやることを比較して、2倍くらいなら、国内の安定を選択するのか、ベトナムリスクを承知で、海外生産をするかである。当然、先行して牛丼チェーン店などが、海外生産を選択するだろう。成功した年には、日本国内のコメ価格を圧迫することになる。それでも、企業が国内のコメ生産を続けるメリットを感じるかどうかである。この大規模農業を奨励するために、農地の企業所有を認めることになる。税金の優遇や、雇用労働費の補助など様々な政策を同時に行うことになるだろう。これにも国民の了解が得られるのか。

課題がいくつか予測される。政府の補助金の額は、今の数倍になるに違いない。この支出を政府や、国民全体が認めるのかどうか。こうした新たなTPPに触れないはずの補助を、アメリカが認めるのかどうか。畜産飼料の流通の問題が起こる。飼料米を農協が集荷して、販売するような形が可能なのかどうか。この飼料価格が、輸入飼料と競合しないレベルの価格に成り得るのか。キロ40円ならば利用されるだろうが、こういう価格のものを集荷して、保存して販売するシステムは農協以外にはない。農業は政策が長期的に安定しなければ出来ない。5年程度で、政策が変わるとすれば、新しい農業の構想に期待して、新規就農したことがすべて崩壊してしまう。だから、今までは政府が新しい農業政策を主張しても、農家は乗ってこないのだ。むしろ政府の逆に行けばうまく行くとまで言われてきた。飼料米政策は成功するだろうか。
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猪瀬都知事辞任へ

2013-12-20 05:23:52 | Peace Cafe
5000万円が猪瀬知事に渡された事件で、やっと辞任になった。この事件が公表された時点で、一日も早く止めるのが、由一の猪瀬氏の取るべき道であるとここにも書いた。これだけ粘ったので、もうコメンテーターとしての生命もほぼ失った可能性が高い。記者会見の態度は相変わらずで、反省など全くしていない様子だ。人間性に何か欠落があるのだろう。こういう人に騙されて、400万以上の人が投票したということが怖い。そしてこういう人を支持し、推薦した政党は反省がないようだ。政治家になりたいという人間の、品性の低さがあからさまで情けない。これが日本の衰退の表れなのだろう。5000万円を理由なく、借りるような人はまともではない。借りてただ、そのお金を貸し金庫に入れておく訳がない。徳田氏側が選挙違反で問題化するまで、返さないというのも普通はない。もしかしたら、借りるということが、仁義を切るというか、一蓮托生になる、何かの担保と考えて置けばいいのか。

徳田氏が東電病院を購入したいということを面会時に話題にしたことをやっと認めた。徳田氏は病気で口もきけないのだ。特殊な機械で表現したのである。そんな内容が曖昧になるようでは、到底都知事にはなれない。忘れたと強弁するなら、5000万円をだまし取ろうとしていたということになる。ともかく、5000万円を借りたとして、借用書を見せた。借用書は間違いなく偽である。こんなときに無利子無担保の借用書をとる訳がない。録音など記録はあるかもしれない。色々おかしなことがあるから、奥さんの名義で貸金庫に入れたのだろう。そうでなければ、自分の銀行口座に入れる。都知事という病院の許認可権のある人間が、対象者から、お金を借りていい訳がない。それすら理解できていな人間というか、驚くべき厚かましい人間が都知事になったものだ。政策さえよければいいと主張した。確かにネズミさえ捕れば猫は良い。というが、そんな動機で猫を飼う人は少数派だ。都知事が借金をきちっと管理できない人では、政策が良くても困る。

この事件が公表された時点で、必ず引きづり降ろされるところまで行くことが、分らないのだから状況判断能力がない。間違いや失敗は誰にでもある。それをどう処理することが出来るかに、人間のレベルが現れる。すべては徳田側に、意図があって行われた5000万円の融資だ。そして適切な時期に、すべてが公に成り、辞任させる筋書きなのだ。いくら能天気な人でも、5000万円を無利子で貸してくれて、見返りについて考えないはずがない。まして、離島医療の為なら、人殺し以外は何でもやるという、徳田虎雄氏なのだ。ある人たちから見れば、猪瀬知事は少し調子に乗り過ぎたのだろう。猪瀬氏を傀儡政権として、送り込んだつもりの黒幕たちにしてみれば、オリンピック招致の成功で自己過信してしまった猪瀬知事に対して、調子に乗るなら、終わりだということなのだろう。地方税の問題という説もあるが、私の想像では後継指名した石原氏との関係だと思う。徳田氏、木村氏、石原氏、とあって猪瀬氏である。

そもそも猪瀬氏は、リベラルな地方分権主義者として、テレビの政治評論家のような顔をしていた。高速道路の無駄遣いなどを指摘して居た時は、なかなかの人のように見えた。政策が良いというなら、そういうことを副知事になって忘れてしまったのはどうしてか。行政改革委員会の委員のようなものもやっていたと思う。そして、石原氏に請われて都副知事になったのが間違いの始まりである。こうした左翼気取りでタレント活動していた人間が、政治に乗り出し、右翼的本質を表す。そして、とんでもないことをやらかす。よくあるパターンだ。転向して右翼になった人というのは大体にお金に汚い。お金につられて右翼化する場合が多いいからだろう。加えて女性問題を起こすこともある。そういう痛いところを抑えられた上で、使われているからだろう。市民派気取りが、権力に上ると、権力へのすり寄り方が、醜くなるのは世間一般のことのようだ。話は違うが、滝川クリステルさんは選挙に出ないのだろうか。
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派遣法改定の理由

2013-12-19 04:26:03 | 自給
派遣法が改定されそうである。どうも非正規雇用を固定化できる法律のようだ。厚労省は12日、労働者派遣制度の見直しに関し、企業にとって現在最長3年となっている派遣受け入れ期間の上限を廃止し、3年ごとに労働者を入れ替えれば、同じ職場で継続的に派遣を利用し続けることができるとする骨子案を労働政策審議会の部会に示した。 これは改正ではなく明らかに改悪である。恐ろしい企業社会がいよいよ立ち上がり始めた。派遣労働者を少しでも正規社員にするために努力するのが、政治の役割のはずだ。ところが企業の都合だけを優先して、安倍政権は動いている。自由に非正規社員を雇用出来れば、企業の業績が上がるだろう。景気が良くなれば、少々の不満は収まるはずだ。利益が出れば、すべてが許される社会。これがアベノミクスの実態なのだろう。競争社会は能力別社会になる。能力が違うのだから、社会における階級が違うのは当然である。これを明確にしたのが派遣法の改定の理由である。

いよいよ、階層社会が、階級社会として固定化されることになる。企業にとって都合のよい能力がある人が、一部の上層階級として形成される社会が来た。そして大半のそうではない普通の人たちは、下層階級として固定されつつある。生活保護世帯の増加など、その結果が現われてきている。厚生省によると、安定していれば非正規であっても良いだろう。という考えのようだ。仲間に入れなが、文句を言わないなら続けて利用してあげる、という全く企業の論理だけを優先した考え方だ。様々な働き方を求める人が、社会にはいるのだから、自由度の高い働き方が望ましいということも理由になっている。上層階級に所属する企業の労働組合は、むしろ自分達の雇用が脅かされるのではないかというので、反対を表明しているにすぎない。非正規で頑張って働いていれば、もしかしたら正規雇用に変われるかもしれない。ということが単なる幻想であることが、ますますはっきりしてきた。

当然の成り行きだったのかもしれない。分りあえる価値観の共通する、自分達のグループをを作り上げる方向に進む他ない。これは20年前に農の会を立ち上げる時しきりに考えたことだ。分りあえる仲間を作る以外、能力別社会では、楽しく生き抜くすべがない。このように予測していた。価値観の共有できる世界を自分の周辺に見つけておかなければ、居場所がなくなる予感であった。この20年明らかにその傾向が強まった。地域社会全体が価値観の共有が出来ず、極めて形式的なものになりつつある。自治会にかかわりそのことが良くわかった。にもかかわらず、行政は、安上がりなボランティア組織のようにしか、市民組織を見ようとしない。自分達の暮らしを深めてゆく為には、互いで共同して、心の通じ合うグループを形成する以外にない。そして、その自分達の小さな社会は、巧みに既存社会の中に紛れ込んでゆく必要がある。既存の社会と遊離するのでなく、上手く社会の空隙に入り込みながら、軋轢を作らず。緩やかではあるが、強い価値観の共有のある組織である。

それは、企業正社員とか、派遣とか、非正規とか、そうした社会的階層を越えた関係の構築である。しかも反社会的なものでなく、むしろ、社会的に必要な活動である必要がある。その点耕作放棄地を利用した、環境運動としての農の会の役割は、社会に於いて必要とされている活動である。それを声高には叫ばないことである。静かに、個々参加者のの内なる価値観として、保つということになる。そのツールが農業である。耕作放棄地という、社会の空隙。農業という採算性のない分野。農地を守るということは、社会一般の価値感に対立しない。農業を行うということで、緩やかに連携し、社会奉仕的な活動でありながら、それぞれの思いを育てることが出来る、仲間づくり。こうした自分の仲間を見つけられるかどうかが、階級社会の中で、生き抜く方法に違いない。
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安保戦略に「愛国心」

2013-12-18 04:06:40 | Peace Cafe
政府は十七日の国家安全保障会議(日本版NSC)と閣議で、外交・安全保障政策の指針「国家安全保障戦略」と、国防の基本的指針となる新たな防衛大綱、中期防衛力整備計画(中期防)を決定した。「国家安全保障戦略」に「愛国心」を盛り込むことになった。紛争当事国などへの武器や関連技術の輸出を禁じた武器輸出三原則の見直しも明記する。同戦略は平和国家、専守防衛、非軍事大国、非核三原則などの基本方針を「堅持」するといいながら、日米同盟を強化し、日本の軍事的貢献を拡大する方向性も鮮明にした。すでに国家安保会議と特定秘密保護法が実現し、来年には集団的自衛権行使の容認、日米防衛協力のための指針(ガイドライン)見直しも予定される。


日本国を日本人が大切に考え、国を愛し、よりよい国を目指すことに異論はない。しかし、軍事力と関連ずける、間違った愛国心の日本国に向いそうな危機感がある。憲法で定められた日本国の平和主義は世界に誇るべき考え方である。こういう平和主義を持つ国、日本であることを愛していると言えば言える。この一番大切な部分が安倍政権によって変えられようとしている。憲法9条の改定を目指している自民党である。その考え方は自民党新憲法に示されている。しかし、憲法を変える前に、憲法の平和主義を変えてしまうのでは、議論不足も甚だしい。秘密保護法国会もそうであったが、本当の議論が国民に示されていない。疑問点だらけで、石破氏など法の解釈を何度も間違えている。それくらい内容が複雑で、どうとでも取れる文面なのだ。悪意を持って解釈を広げれば、デモをテロとして取り締まれるほどの法律である。こういう国会運営を経験し成功させた自民党は、このやり方ですべてを無理押しに進め始めている。

軍事力と国を愛する心を結び付けるのは、戦前の教育の行った反省しなければならない間違いである。教育勅語には天皇を国家の父として、敬う。そういう愛国心が書かれている。国にいったん事があれば、義勇心を持ち皇室を支えることが、国を守ることになる。というように書かれているようだ。(何が書いてあるのか小学生に分からない文章である。)国を愛するということは、福島原発事故のような、国土を汚染しない国を作るということだ。日本を戦火にさらし、国民に人殺しをさせるような国にしないことだ。そのためにどうするのかというところでは意見が分かれる。民主主義国であるのなら、どんな国を目指すのかを、広く国民に問うべきだ。選挙で第一党になったという程度で、憲法の精神を変えてしまう権限はない。どのような日本国にするかは、現状では憲法に示されている平和個主義国家である。憲法という形で、平和主義で政治を進めるようにと、国民が政府に示している。それを無視することは、あってはならない。

今自民党が進めようとしている国家の方角の変更は、きちっと国民に問うべき内容だ。国家安全保障戦略は国民投票を行うべき内容である。日本国の目指す方角がおかしいとすれば、国を愛すべきという建前論はおかしいだろう。北朝鮮でも国を愛せよ、と強制されている。異論はすべて抹殺である。独裁国日本を誰も愛することはできないだろう。愛することを教育する前に、どういう国に日本が向かうべきかである。武力を最小限にとどめ、災害救助で世界に貢献する。世界平和を希求する国である。もちろん、軍事国家を目指したいとする人もいるだろう。だからこそ、国の方向に議論が必要なのではないか。自民党はたまたま、選挙制度のゆがみで、多数議席を占めたにすぎない。公明党の支持票を巧みに組み込んで小選挙区制で勝利したにすぎない。これで国家の方向まで強引に変えてしまう事は、許されないだろう。

自民党が目指しているのは、結果的には中国に勝る軍事大国であろう。こうした軍事力競争が結局は、戦争に至る。日本は韓国をよく観察すべきだ。朴大統領の中国への傾斜は経済戦略にある。確かに、韓国には経済至上主義という、国家戦略がある。ほぼ日本の前を進んでいる。そして、その方向の危険が徐々に迫っている。国家的破綻が起こるとすれば韓国の方が先である。経済至上主義が何をもたらすのかをよく観察すべきだ。日本は平和主義で進むべきだ。そんな平和主義を中国は認めないし、ほくそ笑むに違いない。私はそう単純には考えていない。中国も相当に苦しい国内事情がある。破綻、ほころびが来年は目立つはずだ。日本が引く態度を見せれば、中国も呼応してくる時期が必ず来る。もし、日本が軍事力で対抗するのであれば、危険な綱渡りがさらに経済にまで影響するだろう。私は平和国家、瑞穂の国日本を愛する。

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