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死刑立会をした千葉法相

2010-07-31 04:24:20 | Peace Cafe
千葉法務大臣が死刑執行に署名し、立会いを行った。この行動には、びっくりしたし感銘を受けた。人間として立派なことだと思う。死刑廃止論を信条とされている方が、死刑執行をしなければならない法的立場に立ち、苦悩したことだろう、一人の執行も行わなかった大臣もいる。しかし、死刑確定から、6か月以内に刑を執行する決まりになっている。本来事務的に行うべきことだ。何年も刑が執行されないこと自体が、法治国家として不自然なことである。誰でも刑の執行などしたくはない。法務大臣としては懸案事項で、退任前にまとめて行うということを聴いたことがある。誰しもやりたくはないが、責任は果たさなくてはならない。9月で千葉法相は退任の可能性が高い。この中での苦渋の決断であったろう。報道への刑場の公開も行う。誰だって目をそ向けたいことだ。君子は厨房にいらずの伝統からすれば、大きな転換になる。死刑の是非を論議に乗せたいという、思いも背景にあるだろう。

死刑は廃止すべきでないと考えている。人権先進国では、死刑は廃止している。という論議があるが、人権と死刑は少し意味が違う。これを同じ土俵で論議する国連の考え方に問題がある。ヨーロッパを中心とした、キリスト教国の考え方が、死刑廃止という方向にあるというのは、理解できる。キリスト教のことには詳しくないが、許す宗教のようだからだ。許す精神が深ければ、自分の子供を殺されたとしても、許す方が神の意志に沿っている、ということだろう。確かにそうした宗教的確信があるなら、許す方が望ましい。しかし、許さない宗教もある。こうしたことを人権の名のものとに、よその国に干渉することには問題がある。許すことと、責任をとることを別のことと考える事が、一般の社会では普通の判断である。盗みを行えば、謝罪し、罪を償い、返済する義務がある。死刑についてだけ別に考える必要はない。

死刑については、殺された側の問題から考えるべきだ。これほど非道なことはない。あってはならないという意味では、死刑のレベルではない。死刑になる人には原因がある。しかし、殺人をされた側には、まったく原因の無い場合もある。オオム真理教のような場合は確信犯である。宗教上正しい行為として、無差別殺人を実行している。一方自殺が出来ないから、無差別殺人を行うという、社会が崩壊しかねない犯罪もある。自殺が増大する中で、考えておかなければならない事態だ。死刑による抑止効果の消滅。この点でも、問題は複雑化している。死刑廃止論には、刑罰そのものの廃止に近い考えがある。終身刑の廃止も同時に主張される。罪と責任ということから、許されない考え方だ。殺人を行ったら、死刑になる。基本は単純に考えた方がいい。何でも欧米に従うことが、先進国であり、人権が守られると考える事は間違い。

冤罪の問題と、裁判員裁判の問題がある。冤罪の可能性のある死刑判決を下す。国民の義務としてこうした行為を取らされることは、耐え難い。疑わしきは無罪であるなら、疑わしくない判決などあるのだろうか。日常においては、真実と疑わしいの境目の毎日である。真実とか、確信とかいうものには程遠い暮らしをしている。記憶だって常に曖昧だ。その中で、他人の権利にかかわる部分に踏み込むなど、できるはずもない。人を裁くなどということを、素人に押し付けてくること自体が、国民の人権を侵害している。その道のプロだって間違いをしていることだ。やりたくないという人が居て自然。こういうことを率先してやる、いわばまじめな責任感の強い人がいる。そういうタイプの人が裁判員に成りがち。自分なら受けたい裁判どうかということだろう。殺人をしたら、死刑になるしかない。と思っている。
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自給自足は簡単だ

2010-07-30 03:56:09 | 自給
自給自足はとても簡単なことだ。農業をやるのは大変なことだが、自給自足だけなら、「100坪の土地で、1日、1時間働けばできる。」私は楽しく23年そのように暮らしてきた。嘘だろうという人がいるといけないから、このブログでもその実態を書き留めている。農業だけで生計が立てられるかと言えば、こちらは相当に難しい。農の会関係のの営農的新規就農者16軒を見ていると、できない訳ではないが大変というのは確かなようだ。笹村農鶏園はそういうものである。しかし、自給自足は普通の人ならできる。一人でやるなら、100坪、1日1時間だが、4人家族ならもっと楽である。二人目が80坪3人目が60坪4人目が40坪ぐらいだろう。つまり、4人家族なら280坪の土地で、一日2時間半一人が働けば大丈夫なはずだ。

4人で年間のお米の消費は240キロぐらいではないか。5畝500平米あれば4俵でなんとかとれる。畑が、130坪あれば、4人が食べる野菜は十分である。自給の食料のために働く時間も、人が増えるたびに一人当たりの時間は減少する。当たり前で、100坪の田んぼも1000坪の田んぼも水回りは一緒である。鶏は飼う方がいいが、人数分必要で、4人家族なら、4羽飼えばいい。3羽も4羽も世話の時間は変わらないことはわかってもらえるだろう。何故、今更こんなことをくどくど書くかといえば、自給自足は不可能だという記事を読んだからだ。確かに、確かに畑や田んぼを借りる事が出来ない。鶏を飼うことが出来ない。こういう辺りが自給自足が出来ないという根拠だろう。その通りで、こういうことを自分の工夫で乗り越えられない人には、棚ぼたで条件がそろっても、結局挫折するに違いない。できないのは、周辺の条件ではなく本人の心がけである。

自給自足をネットで探すと、自給農法研究会というものにあたる。京都の人でとても興味深い自給農業をやっている。いちいち書かれていることがうなづける。そうなんだよ。その通りだよ。やってるよ。こんな感じで読みとおしてしまう。この人の稲作方法が出ているが。5畝までの田んぼなら、この通りやるのも面白そうだ。2反位の田んぼになると、少し違ってくる。1ヘクタールの田んぼになると、さらに違ってくる。しかし、自給の田んぼの5畝位なら、この人のやり方はなかなかいい。参考になる点がたくさんある。自給農業ではこの通りやろうなど思う人は、止めた方がいい。必ず失敗する。この人の発想の仕方の方を学ぶべきだ。この人がなぜ、代かきをこういう手順にしたかを学ぶべきだ。なにしろ、耕転機で都合6回代かきをする。こうやらなければいけないなどと思い詰める人は、自給農業に不向きな人だ。

草を出さないやり方というのを、自分なりに消化してゆける、柔軟な発想力こそ、大切なものなのだ。自分に何が向いていて、何が不向きか。草取りが好きだという人もいる。機械を毛嫌いする人もいる。耕すほど良くなるという人もいれば、耕してはいけないと考える人もいる。自分流を見つけられる人が、自給自足の可能な人だ。だから、自給自足の集団生活というのは、矛盾している。気持ちが悪い。それぞれが独立してやるからいいのであって、集団生活などまっぴらである。個々の人間が社会から自立するという所に、自給自足の思想の原点がある。せいぜい家族までである。みんなでやるなら、普通のことで自給自足とは言わない。集団への依存である。クワ一本で、開墾を始めるばかばかしさがいいのだ。自給自足は目的ではない。自分の生き方の一つの側面にすぎない。
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第2回生ごみサロン

2010-07-29 04:19:30 | 環境関連
2回生ごみサロンが、マロニエで開かれた。総勢70人くらいはいたと思う。前回以上の盛会である。皆さんの熱意がすごい。これほどの集まりになるとは想像以上である。小田原のためにできる事があれがやりたい。皆さんの熱意の背景に、こうした熱い思いが感じられる。生ごみのことはほんのきっかけなのだと思う。自分にできる事からやろうじゃないか。それぞれが日ごろから感じている、どうにかせにゃならん。が表現されている。だから、皆さん自主的で、それぞれの工夫が素晴らしい。言われたようにただやっている人が少ない。自分の暮らしにあわせて、工夫している。先月は様子も分からなかったので、全体での説明会の延長のようにやったが、今月は、5班に分かれて班ごとに全員が話せるように進めた。1とつの班に13、4人くらいだろう。順番に自分のところの状況を説明いただいたが、それなりにうまくいっているようだ。

この素晴らしい状況を、段ボールコンポストは夏に虫で挫折する。こう消極的に考えていた人にこの素晴らしい展開を、お見せしたい。やれないと思う人にはやれない。やりたいと思う人には、困難は突破できる。コンポストトイレをやっている人など、あの不気味な水アブの幼虫が、現われて喜ぶということになる。何も虫を敵にすることはないことに気づく。段ボールコンポストから、暮らしが変わる。今回も行政に対して、「生ごみの減量をして何らかの経費節減があるはずだ。基材の無料化など、考えられないか。」こういう要求がでていた。当然のことだ。生ごみを減らそうという努力を、行政がどうこたえるか。ここがいよいよこの問題の核心である。努力は確かに、市民の思いである。しかし、行政はその思いに対して、ご苦労さんで済ませていいのか。市民税を2重に払っているようなものだと先月は言われた人がいた。たぶん、ここを切り開き次の段階に進むための、重要なカギがある。

次の段階とは、モデル事業から本当のゴミ削減である。目に見えてごみが減らない限り、実は経費の削減も起きない。10%生ごみが減ったとなれば、ごみの運送会社に価格交渉が出来る。焼却炉で働く人の、人員削減も可能になる。そこまで進めないと、経費削減ということにならない。努力する者が報われる仕組み。これが社会正義だ。せっかくに芽生えた、いい流れが小田原を日本のモデル都市にするためにも、もう一歩踏み込む必要がある。しかし、段ボールコンポストがどう進んだとしても10%どまりと見ておく必要ある。さらに地域でのモデル事業の取り組みを、意味あるものに変える必要がある。農家との連携を考える事だろう。農家自身がたい肥を作る。たい肥を作る流れをどう行政が支援するかだ。処理機を行政が補助するというのもある。貸し出すというのはどうだろうか。直接農家が取り組むことが、経済の合理性がある。流れの作り方である。

農家の取り組みで10%は行くだろう。マンションや集合住宅での取り組み、商店街での取り組み、スーパーマーケットでの取り組み。こうして、様々な形で細やかない生ごみの減量に取り組む。50%がこうした減量法の限界とみている。これ以上減量するには、経費の増加が起こる。50%の減量までは、経費は増えることはない。しかし、これ以上の減量には新たなコストが生じる。これは次の社会ではできないことだ。となると、ごみの有料化の問題に直面せざる得ない。この問題も避けずに正面から考えてみる必要はある。努力したものが報われるという意味では、有料化は正しい選択である。生活困窮者の問題など、配慮が必要なことが山ほどある。このあたりを丁寧に分析して進める必要がある。

昨日の自給作業:田の草取り1時間 累計時間:31時間
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水彩人12回展

2010-07-28 04:30:20 | 水彩画
水彩人12回展が開かれる。まだ先だが、今年11月に銀座シンワアートミュージアムで開催される。先日そのための準備会があった。ちょうど、北海道展の絵が戻ってきていたので、自分の今の状態を考える上でとても良かった。実は少しづつ、絵が変わってきている。意識的にどうこうしようというわけではないのだが、少し強くなってきている。強くとは、色彩的にも筆触の上でもそういうことなのだが、絵そのものが強い方向に動いている。それは少しづつのことではあったのだが、11回展あたりから、そういう傾向が出てきていた。もちろんそのことは偶然というより意図的なことである。ただあまりに一枚一枚では、わずかな変化だったので、見にくかっただけだ。それが、北海道展あたりで、かなりの変化になっていた。考えてみれば、これは戻ったということである。20ぐらいの時に書いていた絵に近付いている。不思議なものだ。

フランスで描いていた時も、その後も長いこと原色の絵を描いていた。そしてその絵は色が悪い絵だと繰り返し言われていた。人に受け入れられるような絵ではなかったし。人のことなどどうでもよかったし、自分のことで精一杯であった。受け入れてほしいというようなおもねりが大嫌いな、傲慢な絵であった。そのころは油か、アクリルで描いていた。絵が変わったのは、山北に移った30後半になってである。水彩画しか描きたくなくなった。色も柔らかくなった。日本の自然を描くようになったて、少しづつ変わっていった。色がいいなどと言われるようになった。それまでも人に受け入れられる色というのが、どういうものかは知っていた。しかし、それが自分の本質の方角と少しつがうので、あえて避けていた。私が絵を描くものは、自己主張だからどぎつかったのである。

しかし、山北の山の中に暮らすようになって、だいぶ変わった。多分、と言うしかないのだが、人に受け入れられる絵を描くようになった。遠慮なく感じの良いあいまいな色を使うようになった。グレーならグレーの傾向の絵という調子になった。それは春日部洋さんの指導を受けるようになったということもあるのかもしれない。一緒に絵を描きに行くことが多かった。それ以上に、受け入れられたくなったということがある。農の会もそうなのだが、山の中に暮らして、仙人のようにと言うのでなく、かえって、社会と自分の関係を考えるようになった。孤立感の中で暮らしているので、連帯を求めたという、情けないけどそう云う事実だと思う。一人で、自給自足を求めて開墾をやっている時が、一番自分から人に近付こうという気持ちが芽生えた時期のようだ。とすると色が強くなったというのはどういうことなのだろう。

隠居したからではないか。後は好きにやろうと決めたからではないだろうか。60で還暦。また子供のころに戻るというのは、あるようだ。そういう意味では1歳の誕生日が近付いているのだが、この一年の変化は大きかったかもしれない。水彩連盟も除名されて、寂しさもあるが、良かった。すべてを孤独の中に戻して、自分の絵を探求しろということだ。実にありがたいことだった。お前などいらない。こういわれるのは、情けない辛いことだけど、本当の絵を描くにはとても大切なことでもある。本来どこにどう立っていても、人間はそうでなければならないのだが、弱いもので、大樹の陰で遠吠えしているようなことになりがちである。水彩人12回展は新生のための展覧会である。偶然にも第一回展を開催した場所に戻ったというのも、偶然ながら不思議なめぐり合わせである。あの頃は日動ギャラリーから、変わったばかりであったが、画廊の方も2転3転している。

昨日の自給作業:田の草取り1時間 累計時間:30時間
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植物性乳酸菌

2010-07-27 03:59:24 | 自然養鶏
植物性乳酸菌というものが言われだして、数年が立つ。2006,2にカゴメのだした「植物性乳酸菌ラブレ」が先駆的商品のようだ。京都のすぐき漬けの菌から取り出したらしい。動物より、植物の方が健康的であるという、信仰的な思いに便乗しているものだと思う。何でも過大な期待は良くない。笹村農鶏園でも、オカラの乳酸発酵を20年以上やっているので、ほんの一部分だが、実際の所で分かる所もある。乳酸菌といえば、牛乳を発酵させるヨーグルトというのが普通だ。ラクトバシラス属の菌の印象が強い。乳酸を作り出す菌が、乳酸菌。すっぱいものを作り出す微生物。漬物やヨーグルト。食品加工に古くから、利用されてきた微生物で、一般に健康に良いと言う事になっている。私はオカラを乳酸発酵させて、鶏の餌に使ってきた。私のように化学合成の薬を使わないものには、必需品のようなものである。確かに効果がある。鶏がこの暑さのなか、下痢をしていないのだから、効能は高いと言える。

自分も食べて見ている。犬にも与えている。乳酸菌のおかげかどうかはわからないが、長生きしてくれている。雄犬の雷田は神経質なのか下痢をしやすい。少しでも下痢をしたらおからを与える。すぐに効果が出る。あまりに効果が明確なので、かえって不安になるないくらいだ。ではこれはどんな菌か。これは全く不明である。乳酸菌の一種ではあるが、植物系だか、動物系だか、こう言う事もわからない。ヤクルトミルミルを昔は使っていた。それを止めても生き残っているかもしれないし。ラブレというのも使ってみたから、どれがどうという結果になっているかもわからない。想像では、その辺に一番いる乳酸菌が、元気に繁殖しているのだと思う。家の糠漬けと同じ菌ではないだろうか。特別に選抜した乳酸菌だから、そのあたりに居る乳酸菌とは決定的に違うというようなことはない。

「人には人の乳酸菌。」これは衝撃的な広告であった。美しい女優さんであっても、排泄物、から取り出した乳酸菌であるのは、間違いがない。もちろん蒼井優さんの乳酸菌というわけでもなかろう。それでも宣伝はそういうイメージを作っている。そう思って飲んでいる人もいるのだろうか、何か怖い。乳酸菌はヒト由来であろうが、動物でも、植物でも、さしたる変わりはない。昔のビオフェルミンと、今のものは違うのだろうか。薬品なのだから、それだけの臨床実験はされているのだろう。そういえば、ビオフェルミンをおからに混ぜたこともあった。ヒト由来であっても、鶏に効果がないわけではない。これも特別な効果を期待すべきでない。そこそこの範囲で考えた方がいい。乳酸菌でがんが治る。間違いなくこういう能書もあるだろう。かかわってはいけない。治るものは治るし、治らないものは治らない。乳酸菌も悪くない。というぐらいのことだ。

植物性乳酸菌はカゴメの造語である。そんなものが学問的にはあるわけがない。健康志向の人は、牛乳を目の敵にしている。牛乳と乳酸菌を切り離せば、大成功だろう。大塚食品の「スゴイダイズヨーグルト」これもいい線をせめている。すぐ買って食べた。大豆のタンパクと、植物性乳酸菌のダブルアタック。何かの味を消そうとしてか、変った味付けである。よほどの期待が無ければ、美味しいとは思わないのではないか。美味しいなど、主観の問題ではあるから通用はする。乳酸菌は偉いが、発酵食品はむしろ保存だ。冷蔵庫の無い時代。どう保存するかを考えただけだ。健康のためなどとすぐ結びつけるのは、今の病んだ時代の発想である。効果はあるが、それなりの範囲と考えておきたい。
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田んぼ巡り

2010-07-26 04:32:23 | 稲作
毎年恒例となっている、田んぼ回りを今年は、7月31日に行う。暑い盛りということもあって、朝6時から行う。参加は農の会以外のメンバーでも可能なので、希望があれば申し込んでください。田んぼを管理する力量は、簡単には身につかない。農の会が地域の農家の方に受け入れられるには、地域の平均収量に負けない、立派な耕作をするというのが、目標である。無農薬とか、無化学肥料とかいうことは、自分たちのやり方であって、だから草を生やしてもいいとか、収量が少なくともいいとは言い訳にならない。農業である以上、収量はとても大切である。多分一番大事だ。生命力とか、おいしいとか、そう云うのは地域の平均収量をクリアーしてからの話だ。稲作ではそういうことが可能である。毎年回り方は違うのだけど、今年はそらやさんの感想を聞きながら、回れることになった。あくまでそらやさんの指導ではなく、感想を聴かせてもらえる。

そらやさんの加藤さんは農の会では一番稲作の知識がある。わからないことがあると、大抵聴いている。控えめな方だから、強くは意見は主張しないけれど、何時もなるほどと学ばせてもらっている。もちろん農の会のどの田んぼの管理者の方でも、かなりの見識がある。だから順番に意見が聞ければ、相当に参考になると期待している。今回の田んぼめぐりで思うことは、自農センターの稲作である。あの田んぼの様子が、頭にこびりついている。田んぼは多様だ。こうでなければならないで無く、小田原の田んぼのやり方があるはずだと思う。小田原でも平地と、山の方ではだいぶ違うだろう。極端にいえば、田んぼ一枚一枚に、違う管理がある。久野の、近間の舟原、欠ノ上、坊所の3か所ですらだいぶ様子が違う。理想とする生育の姿は、かなり異なっているはずだ。

昔なら先祖代々の田んぼだろう。何世代もかけて、自分の家族がやりやすい田んぼにしたのだろう。慣行農法であれば、全国一律でも大きな間違えはない。除草剤をうまく使えば、雑草は抑えられる。しかし、除草剤を使わない稲作ということになれば、とたんに自分の田んぼの方法を見つけるしかなくなる。坊所で成功したやり方が、舟原でうまく行くとは限らない。これは実感である。10年成功した。米ぬか除草がダメになったと石綿さんは言われていた。大変なことである。いつでも、どこでも、だれでも、と取り組める技術をなんとか作りださなければ、除草剤を使わないほうが望ましいとは言えない。いうなら、是非ともあの炎天下の田の草取りに来てもらいたい。あれが、農家に跡取りに嫁が来ないという原点である。昔の人は嫁が来ないで済んだけれど、今の時代すぐ何町歩である、身体を壊す。昔は何反も田んぼがある家など少なかった。そんな家は農夫のいる大百姓である。

田んぼめぐりであった。田んぼの見方、稲の見方を広くすること。自分のところのやり方しか見ないでいると、田んぼを見る目の成長が少ないのではないだろうか。私の場合は、やむえずというか、足柄地域のの至る所10数か所で田んぼをやった。その結果、少しづつ比較できるようになってきた。もちろん入口あたりのことで、とても全容はわかない。この田んぼでもう1俵取るにはどうすればいいかということが言えるようになりたい。そのために、田んぼめぐりをする。現場で話し合う。これが一番研究になるのは、当たり前のことだ。しかも、みんなが似たような有機農業を10年も試行錯誤しているのだ。それでいて田んぼの姿は、だいぶ異なる。何故梅の里があれほど立派な稲作になったのか。今やさんの話が聞ければ、すばらしく参考になるだろう。
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熱中症多発

2010-07-25 04:13:46 | 稲作
熱中症は他人ごとではない。加えて光化学スモッグ注意報まで出ている。日中の農作業は避けた方がいい。それくらい暑く湿度の高い日が続いている。被害を受けた方には申し訳ないが、舟原田んぼには珍しく高条件が続いている。田んぼへの早朝の入水温度はそれでも19度。夏になったらからと言って、谷戸の久野川の水温はそうは高くならない。田んぼの中は低いところでも、25度にはなっている。稲は日に日に葉色を増して、黒々してきている。田んぼの土壌の温度も30度を超えている。今月一杯が、分げつの限界。条件はそろっているが、じれったいような状態が続く。何かが欠けている感じで、ぐんぐんと30本になる。というようなことは起きない。それでもいいところはあり、20本になっている株もある。一方、2,3本のまま寂しいところもある。これは何が違うのか。何が原因なのか。こういうことが良く分からない。もちろん冷たい水が流れ込むあたりが悪いというのは当然だが。それだけとも思えない。

上段・中段・下段と比べると、下段が10とすれば、中断が8となり、上段が6という感じだ。下段で10俵が上段で6俵ということになる。全部が下段レベルになればいい。下段は無肥料である。中段は苗床をやって今年は、結構肥料を入れた。20体の発酵床を入れた。それでも肥料成分でいえば、窒素で4キロというあたりか。観察していると、この苗床の跡が筋状に見えることである。苗が肥料を吸収してその苗ごと持ち出されていることが田んぼの葉色でわかる。通路だったところが色が明らかに濃い。分ゲツも多く、収量もいいだろう。上の田んぼでは、低温の部分でイモチ病のような感じがある。去年も同じあたりで出たような気がする。下葉が赤っぽい。広がりはしないが、不安な感じである。下の田んぼはそこそこの満作という感じがする。無肥料であるが、上の田んぼを通過した水だけを使っているので、条件が違う。こうしたすべてが、毎年の蓄積が早く表れてきている状態に見える。

土壌の状態が今年ははっきりと、下の段から変わってきたように見える。下の段でコナギが出たのも、何か関連を感じる。沢山とるには、草も出た方がいい。草が出ないのに、稲だけ育つというのは特殊技術だ。まだその仕組みは見えない。将来の課題。来年は上の段で苗床をやって、中下段は無肥料でいいのかもしれない。無肥料と言っても藁の持ち出し分は、たい肥にして戻した方がいいというのは、考えに入れておく。土壌が腐敗方向に行かないのは、今年の特徴である。水温は前年より平均1度は高く推移しているので、土の状態は変わっているはずだ。早く発酵が進んだ感じはある。下段は無肥料であるが、上・中で蒔いたソバカスが液肥になって流れ込んでいるということがある。穂肥は入れたことがないが、今年の天候で入らない、というか入れた方が問題が起きそう。穂肥というのはよほど根がしっかりしてからの話の気がする。

草はそこそこあるが、最近は何もしていない。8月7日が酒匂の花火大会なので、今年もこの日に拾い草をして、夜は納涼大会がいいか。31日には田んぼめぐりを行う。他の田んぼと比較して初めて分かることがある。今年は、自農センターの田んぼとの比較がある。加えて小田原の稲作の姿も、考えてみる必要がある。梅の里のような作柄の方向が、一番と考えていたが、本当にそうなのかどうか。牛島たんぼも随分と良くなったが、この後どう展開するかも考えたい。棚田の、舟原、坊所、欠ノ上の作柄はどうか。これも比較してみたい。水温の低さだけでなく、日照が少ない谷戸田で作柄を上げるか。検討の余地がある。水管理は間断冠水気味にしている。と言ってもすぐ水は浸透してしまうので、毎朝入れて後はちょろちょろという状態。何がいいかは難しい。
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ごまめの歯ぎしり

2010-07-24 04:21:54 | Peace Cafe
河野太郎氏のメールマガジンの表題である。どうも名前は自虐的で気に入らないが、内容も形式もとても優れている。登録するといつでも送られてくる。いつ辞めてもわからにし、誰が読んでいるかも、書いている河野氏本人にもわからない仕組みになっている。政治家はこういう形で、自分の考えを伝えるべきだ。どうでもいいような選挙用メールマガジンを勝手に作って送りつける人もいる。ご自身のしていることの意味がわからにようでは、到底政治を任せる気にはなれない。もちろんそういうことを無神経にしている人には、今書いている意味も理解できないから、黙って、迷惑メールに振り分けておく方が賢明である。先日、河野氏が昆明で開催されたICAPPでの、スピーチが掲載されている。これが素晴らしい本音である。ちょっと河野氏を見直した。こういう人が政治家にもいてくれることは、とてもありがたい。

河野氏はまさに政治家一族の御曹司。全くその点が気に入らないが、政治のプロらしい見識がある。日本を主張できる人だと思う。是非、ブログを読んでいただけばいいのだが、日本は援助をしたくない。今後減らす。それは援助の額ににふさわしい、扱いを受けていない。ということらしい。確かに、イラクにも出かけた。日本だって石油が欲しいからアメリカについて行ったのだろう。インド洋での給油まで一生懸命やった。しかし、イラクの石油の確保はできない。世界の大手石油会社はそれぞれに確保したそうだ。サマワでの復興支援は何だったのか。やはり行くべきではなかった。感謝をしているなどと言いながら、その感謝にふさわしい扱いを受けていないのが日本。あのイラク戦争が石油利権だとは、当初から言われた。石油がなければ、日本は自衛隊の派兵まではなかっただろう。

「国連分担金も、加盟国の中でアメリカに次いで二番目の金額を払っているのに安保理の議席すらもらえません。任意の拠出金を出している国際機関が日本人の職員を少ししか採用しないということもしばしばです。」(ブログより引用)だから、もう援助は減らす方がいいという考えのようだ。その通りだと思う。お金をいくら出しても、日本の存在感は高くならない。外交というものが、欠落していた。何も日本も見返りを求めろというのではない。見返りを求めて出張って置きながら、何もなしという外交力は、普天間と移設と同じである。日本は侮り易しと、世界から見切られている。この現状をどう変えるかではないか。普天間では堂々と、そこに暮らす沖縄の人の思いを、伝え、反映させるのが、外交だ。アメリカの主張をいかに住民にのませるかが政治になっている。

グゥアムの海兵隊移転経費をケチったあたりからおかしくなった。アメリカにしてみれば都合のいい、安上がり海外基地として手放せない。それならそれなりの対応がある。当然アメリカは譲るべきで、辺野古でなければならないなど、とんでもない話だ。当面もっとアメリカにとって都合の悪い基地にすべきだ。韓国の米軍は引き揚げる方針。最近の韓国政府は引き留め策を講じているらしい。結局経費問題ではないか。思いやり予算の仕分けは大いにやるべき。アメリカとの交渉材料がなければ、譲りはしない。結局日本の外交はただ取りされるばかりである。まあこういうところがごまめの歯ぎしりということか。日本の平和憲法と、それに基づく平和外交の実態を作り出すこと。アメリカの尻馬だけでは、世界に存在を主張できない。

機能の自給作業:草刈り他1時間 累計時間:29時間
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「まちなか市場」24・25日開催

2010-07-23 04:01:33 | 地域
まちなか市場、朝市バージョンを開催が開催されます。8時から12時まで、平井書店の並びに10数軒出店します。あしがら農の会は、公民館前、笹村農鶏園では玄米卵を販売します。是非ともご購入ください。普段は宅配のみで、営業していますが。本来、いつでもどかかで売っているようにしたいものだと思っています。なかなか、お店をやるところまでは無理なので、今のところは「まちなか市場」で売らせていただき、新しい形を模索しているところです。まちなか市場が「定期市」化するという考えもあるのですが、それだけがやり方だとも思っていません。街の機能とは何か。このことを良く良く考えてみる必要があると思う。地域のこれからの暮らしの中で、街というものがどうあるべきか。これが見えなければ、それにふさはしい農産物の販売形態は見えないでしょう。

商店という形が、今後も継続するとは限りません。無店舗販売が伸びてきています。何故、無店舗かという意味も、考える必要があります。商店が集積している便利さで、街は形成され広がってきた。多分その集積は特別便利ということではない。昭和30年までは、歩いて買い物が普通のことだ。山梨の山村では街に行くということが、とても珍しい買い物の機会だった。大半のものを自給していたのだから、街まで買い物に行くなど、特別の機会で、靴を買うとか、洋服を買う、農具。塩。酒。念密に計画がたてられたうえでのことだった。甲府の岡島さんまで歩いてゆく。何時間も歩いた記憶がある。途中、笛吹川で泳いだり。砂あらの親せきによって西瓜を食べたり、病院でお見舞い。暑いから思い出すのだろうか。街がなければ暮らせない山村の暮らし。

車社会と宅配便の普及。商品の氾濫。インターネット社会。街中の意味も、山村の意味も変わってきた。暮らしに不便だから、消えてゆく山村の集落。しかし、この不便も昔の比ではない。便利というものの水準が変わってしまった。楽な方へ楽な方へと販売側がサービスを変貌させる。どこに暮らしているにしろ、買ってくれて商売になるなら、サービスのほうが手を回してくれる。まちなか市場を企画している、平井書店さんには申し訳ないのだが、我が家では書籍はほとんど、インターネットで買っている。本屋さんに行っても注文になるような本だとわかっている。送料はサービスだし。出かければ、2度手間になるし、ガソリン代、駐車料金まで必要になる。本屋さんで本を見ながら選ぶ楽しみも、ネットで本を調べる楽しみと、そうは変わらない。では街でなければならない、どんな魅力を作り出せるか。いぜん、小田原では、お茶を飲み、話が出来る商店。というのは企画された。その後続いているようでもない。

街の電気屋さんが、家電量販店になり、ネット通販になる。これはさらに進むと考えるべきだ。何が街に必要で、生まれて来るか。商品の販売機能は終わり、街ではサービスそのものが売られるようになる。酒飲みが、家で飲んで済むのに、飲み屋に行くのはサービスを買っている。ものならそこに行かなければ買えないものに限定される。そうしたものはむしろ場所を選ばない時代が来る。サービス関連でも郊外型と対抗したのでは、街中が不利。「まちなか市場」は地場の産品を看板としている。玄米卵は「まちなか市場」でなければ買えない。松本さんのトマトは、農の会のキューリは「まちなか市場」だから買える。こうしたことを販売するのも生産者、という形で、食べる人と出会える場になればと思う。
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消毒社会

2010-07-22 06:05:37 | Peace Cafe
宮崎の口蹄疫の流行が沈静化した。関係者は大きな苦難を乗り越え、ほっとされていることだろう。テレビでは畜産農家の方が、移動制限解除に伴いインタビュー受けている。しっかりと消毒をして、二度と口蹄疫の流行が起きないように頑張ります。こんな風に言われている場面を何度か見た。消毒は大変だったんだ。ああ違うのに、そう云わされているな。そう感じてしまう。すべては原因究明である。前回のように、中国からの藁が原因だったと特定されれば、周辺を消毒しても始まらない。餌の輸入をどうするかである。もし、人間が感染を広げているとすれば、これも消毒をしても始まらない。消毒は対応として無駄ではないが、受身の方法で次の発生を食い止める策とまでは言えない。今回の口蹄疫対策では、前回の成功した対応の教訓が生かされていない。宮崎県が畜産県である以上、担当官の教育がまず最初ではないか。流行を広げた原因を明確に洗い直してもらいたい。

いよいよ最後の関係家畜の目視検査だそうだ。県内全域の94万頭の検査を行うというから、まず目視検査の精度をいかに上げるか、研修だと考えて見るのもいい。病気を目で見て判断するというのは、とても難しいことである。毎日鶏を見ている。今日の状態はどうかな。お腹は空いているか、水の飲む量はどうか。目の状態はどうか。糞はどうだろう。この見るは重要だし、難しい。ランチュウの頭こぶではないが、幼魚の頭の煙は名人以外には見えない。毎日見ている畜産農家の人が、ちょっと変だと言っているのに見逃す。口蹄疫検査を行っていて、口蹄疫を見逃す。訓練を十分してもらいたい。実は最近犬の病気をわからなかった。頭が何でもない方に引っ張られていて、大丈夫だ、気のせいだ。こう考えようとしていた。可哀そうなことをした。偉そうなことは言えないのはわかっている。

こうして消毒社会が一歩進む。わからないから、消毒をする。誰だって次の発生源になりたくはない、消毒をしておけば少し安心が出来る。しかし、最初の原因は消毒していれば起きなかったというようなことではない。所がこの原因究明も困難なものだろう。しかし、きちっと時系列で情報を整理し、ウイルスの遺伝子レベルの調査を重ねれば、事実に近付ける。しかし疑わしき家畜を、血液の保存もせず埋めてしまった。どこか原因究明をしたくないかのようである。鳥インフルエンザの流行でもサンプルを焼却してしまった例が続発する。経済的損失が頭にあるから、わからないように処理してしまいたくなるのは人情だ。風評被害も必ず起こる。世間に後ろ指も差されたくない心理も働く。その上、極度の疲労状態だろう。未経験の人たちも大量に動員されている。科学的検証を徹底してほしい。

今は次の流行のための準備期間と考えた方がいい。種牛の保存計画を離島などに分散して行う必要がある。離島の産業にしたらいい。天然記念物の鶏がいる県では、保存計画を早急に行う必要がある。人間の経済の都合で、病気でも何でもない種牛を殺さざる得ないような現状を、続けることは良くない。人間がウイルスを保有して、感染を広げた可能性は本当にないのか。この点も検証する必要がある。責任うんぬんではなく、原因不明で終わらせないで、可能性を探るべきだ。そうすれば次の対策が見えてくる。鳥インフルエンザでは、人間が保菌して移動している可能性が高い。疫学的調査の必要性。人間の体の中は消毒はできない。そのうち、心配だからお腹の中を消毒するために、定期的に飲む薬なるものが出てくるのではないか。病気と戦ってはだめだ。うまく折り合いを付けることだ。

昨日の自給作業:畑の整理1時間 累計時間:29時間
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最後のキャベツ

2010-07-21 04:11:18 | 自給
畑を片づけていたら、キャベツが出てきた。不思議に虫に食われていないで、小さいながら結球していた。自農センターで見せていただいた、外葉は虫に食べられるが、結球部分は食べられないキャベツのことを思い出した。虫にしてみれば青々した、外葉のほうが好みである。白っぽい結球部分はさしてうまくない。不思議と思いながらも、そう云えばという記憶はある。外葉の時代は、あれほど虫がいてもう駄目だと思っていたら、案外結球部分は大丈夫なことがある。キャベツは10年以上自然農法でやった畑だからと言って虫は出るし、草も生える。小麦との2毛作で、虫の食べないキャベツが出来るらしい。これがやってみたい。不耕起で種まき部分を微妙に土を削り、種は最初無肥料部分に進み、その後上層5センチのたい肥化した部分に根が張り出して大きくなるらしい。最近耕して耕して、土を固くしているきらいがあるので、研究するつもりだ。


自農センターでは今の時期のトオモロコシが、なんと90%を超えて秀品と言う。小麦との組み合わせである。自農センターでは畑に何も持ち込まないというのが、基本的な考え方で、ちょっと自給農では取り組みにくい、仕組みになっている。これを持ち出したい肥化して持ち込むようにすれば、畑の合理性は高まると思う。つまりトウモロコシの残さを鶏小屋に入れて、たい肥化して、畑に戻す。鶏小屋をたい肥小屋と考える。鶏糞を不浄のものと考えるらしいが、これは人間の見方。いずれ作るものを限定する必要がある。大きくは冬作には「小麦とタマネギとキャベツとジャガイモ」にする。その後作に「トオモロコシ、かぼちゃ、大豆、ショウガ、サトイモ、サツマイモ、果菜類。」整理を良くつけること。そしてこの流れを繰り返しみる。頭の中に、しっかりとこの順序をイメージ化する。土の状態の変化を観察する。作物が土をどのように変化させるか。整理しないと虫や草のコントロールが見えてこない。

少し前までは、キャベツは今一つの出来だった。ブロッコリーは最初からできたので、ブロコリーばかりやっていた。最近はキャベツが作りやすい。なにしろ、キャベツは実りが長い、半年以上食べていたことになる。近所の方で、キャベツなら通年できるという方がいた。今頃の種まきで結構作るようだから、こんなに具合のいい作物だから、そろそろ蒔かないとならない。畑が変わったのだろう。白菜は相変わらずの状態。トオモロコシ後の白菜がいいというのだから、まだ土の状態が今一つ。今年の課題はタマネギの苗作り。草取りが出来ないのだから情けないのだが、草に負けて、毎年駄目である。9月になったら、上の草のない土に丁寧にまいてみたい。もみ殻をかけて丁寧にやってみよう。一度丁寧な草取りは克服しないとならないことだ。

昨日はピース畑の枝豆を大量に食べた。草の中に隠しておいたのが良かった。トオモロコシがハクビシンにやられて、がっかりしたので枝豆は草に隠しておいた。それだけでわからないようだ。夕方、取りに行って隣でビールを買って帰った。早速、塩ゆでして山ほど食べた。まあ―平和の畑そのものである。しっかりとした豆になり、固めであるがなかなか大豆の味がしていい。今年は、トマトの出来が悪い。以前はハウスで作っていたので、それなりにできたが、やはり露地では良いトマトがとれない。残念なことである。きゅうりは良くできている。地這いきゅうりが好きだ。少し固めでキュウリらしい気がする。麦藁を十分敷いてあるので、気持ち良さそうに延びている。麦でも稲でも藁は貴重である。利用するところがいくらでもある。無駄にはできない。カボチャも藁の上を這いずっている。

昨日の自給作業:畑の整理:2時間 累計時間:28時間
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生ごみたい肥

2010-07-20 04:09:54 | 地域
たい肥を定義すれば、「有機物を2カ月から3カ月かけて、微生物が十分に有機物を分解したもの。」ということになるだろう。微生物に有機物が食べられ、発する熱で、完全に有機物が分解され、畑にそのまま使っても、すぐに種がまけるような状態のものを指す。生ごみを1日か2日電気の熱で乾燥させたものが、最近、たい肥と言われている。たい肥とはそういうものではない。ただ乾燥させた生ごみを畑に入れる事は、とてもリスクがある。肥料効果が上がることもあるが、土壌を撹乱させて、害虫を呼ぶ原因になることもある。現在、地域の取り組みとして、報徳小学校から出る、生ごみの乾燥物を、再度たい肥化する試験を行っている。と言っても正直その時間も費用もないので、適当なことしかできない。いわば預かり状態と言ってもいい。来るものは、チョコレート色をした、とても細かい粉状のものである。現在、100キロほど取りに行った。

本来、チップ4にたいし、乾燥生ごみを1で、摘み直すといい。ということであるが、チップを取りに行く時間もないので、この際仕方がないので、たまたま家にあるそばの糠と混合し、水を加え積んである。撹拌も十分ではないし、良い状態とも言えないが、それなりに進めている。本来、こういうことに行政が費用をとっていない状態ということは、理解しがたいのだが泣き言も言ってられないので、私が引き受ける以外に道がなかった。乾燥生ごみの状態をみると、焦げた皮状のものが結構ある。これは機械にこびりついたものか。あるいは西瓜の皮のようなものか不明である。いくらかビニールが混入している。私のところにある撹拌機に、生ごみそのものを運び込み、糠と混ぜながら時間をかけて、撹拌して行けばいいたい肥になるだろうと思われるから、今回のやり方がいかに不自然なものか良く分かる。

実は、この事業の流れをこの道の専門家の方に伺った。ジャパンバイオファーム代表 小祝政明さんである。一緒に中国に行ったので面識があったので、農文協の集会でお会いし、これ幸いといろいろ質問をさせてもらった。電気で乾燥させるなどとんでもない。そのまま利用したほうが、はるかに処理しやすい。こういうことだった。電気で乾燥させたものを再度発酵させるということが、いかにばかげているか。場合によっては重要な微生物が、死滅させられている可能性。あるいはミネラルが結晶化している可能性などを挙げられていた。その先のことは興味もないという感じで、立ち話の範囲でもあり、それ以上は聞けなかった。中国の発酵処理を一緒に見学しながら、小祝さんは大規模のたい肥化を深く理解されている。と直感した。鎮江香酢で見た除雪車のような機械の原型は、ドイツ製だそうだ。2~3000万円くらいはするとのこと。

畑を良くするたい肥作りは、本来とても難しい。簡単にできる事ではない。化学肥料のように、3要素を作物の栄養分として、入れるような発想は根本から変えないとならない。それこそ土壌汚染になったり、病害虫を呼ぶ原因を作ることになる。この点では、自然農法のいう無施肥の考え方の方が優秀である。しかし、地球の循環を考えれば、良い形で土壌に糞尿を返すことも必要である。自然農法をやっているからと言って、糞尿をしない訳ではない。良いたい肥をどうやって作るか。畑を害しないたい肥をどう作り出すかは、作物をどう育てるかとは別の意味で大切なことである。たい肥など入れなくても良くできる、ではなく。たい肥を入れられる畑をどう作り出すかである。このほうが人類にとって重要であろう。早くチップを取ってこなくてはならいだろう。

昨日の自給作業:田の草取り1時間 累計時間:26時間
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大豆の植え付け

2010-07-19 04:06:25 | あしがら農の会
大豆の会の植え付けが、昨日行われた。子供が大勢で川遊びをしていて、それを加えれば60人を超えていただろう。毎年大豆の会は新しい参加者がいる。新しく大豆グループも毎年生まれているので、独立してゆく人もかなりいる。こうして新陳代謝しながら、農の会の大豆の会が運営されているのは、ひとえに中原さんの緻密なというか、中原さんには当たり前なのか、とても計画なプログラムが完成されているからだ。これだけ入れ替わるメンバーを、順調に活動に加わってもらえるというのは、今までにないことだろう。農の会の特徴は、市民農である。市民が行う農業である。その特徴がこの大豆の会には一番よく出ている。大豆の種まきから始めて、ついには、味噌、納豆、醤油と進んでゆく。そのすべての流れに、加わることが可能である。初めて種を蒔いてみた人が、自家製の醤油まで自給できる仕組み。この仕組みは、どこでも取り組めるシンプルな手法になっている。

大豆は、100粒ブラス10粒ほど配る。それをトレーに撒く。7月9日か10日に各自が種をいた。18日が大豆の定植となる。この間、大豆畑では、200センチ幅の長さ、20メートルほどのベットが14本作られている。間には深い溝が切られている。というのは、麦と玉ねぎの裏作をしている松本さんが、そこまでの準備を田んぼに水が来る前に、してくれている。このあたりは元田んぼだったところなのだ。以前は、自分たちでベットを作っていたのだが、裏作をさせてくれれば、ベットの準備をしてくれると、好意の申し出があった御蔭である。ベットには、すでに草が繁茂していたので、15日に草刈りをした。18日の植え付け当日は、一つのベットに3人組になって、植え付けを進めた。午前中にほぼ終わり、水やりなどして1時過ぎにすべてが終了した。

この進め方の特徴は、はじめて農作業をやる人でも、参加して問題が起きないことでもある。また、どの段階での参加も可能である。抜けるのももちろん自由である。味噌作りだけ。醤油作りだけ。納豆作りだけ、これでも構わない。中には、栽培だけで味噌や醤油は作らないという人もいる。それぞれの気持ちに沿った参加が許されるということ。大豆の種まきが、農家の方なら絶対に失敗はないだろうと思う、セルトレー蒔きでも、初めてやる人では難しところがあるようだ。それで、今度は箱トレー蒔きにして、つちもくばるのはどうだろうと、中原さんと相談した。水やりの自由度が広がる。せっかく蒔いて芽が出ないのではがっかりであろう。種もいままでは食用と収穫を一緒にやっていたが、今度はもう少し長く畑において、種用として保存したい。毎年、少し進歩部分はある。一日で植えてしまったから、昨日参加できなかった人は、順次大豆畑に来て、自分の苗を空いているところ、あるいは苗が枯れてしまった所に植えてゆく。

この後、草取りである。2回ぐらいかと思っていたら、5回取るのだそうだ。草取りのために40センチ角の碁盤の目状に植えられている。間を刈払機が通れるようにである。刈払機で、間を通過するようにきれいに刈る。どうしても何本かは切ってしまうが、許容範囲ということになっている。11月半ばになって大豆の収穫である。昨年は乾燥が足りず、少し早かったということで、怒られた。その通りなのだが機械を借りてくる時期が読めないところがあり、申し訳なかった。今年はそういうことがないように、うまく天候を見ながら、進めたい。畑で干せる状態なら良いのだが。運ぶのはとても難しい。収量は反200キロは超える。平均的農家より多いぐらいである。これは農の会の活動として、とても大切なところである。一見遊びのように見えても、収量では農家に負けないこと。もう一つ、一人が辞めたとしても会としては永続性があること。

昨日の自給作業:大豆の植え付け3時間 累計時間:25時間
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田んぼの草

2010-07-18 04:49:38 | 稲作
田んぼの草で10年ほど前、とても苦労したことがある。コナギが密生してしまった。抜いても抜いても生えてきて、2反の田んぼの草が取りきれなかった。なんとかとれたかと思うと、初めのほうに抜いたところにすでに生えている。それは大変なことになったが、なんとか抜き切った。それから草を出さないということに、専念してきた。除草剤を使ってはならないということも一切思わなくなった。草さえ生えないなら、お米の収量が少なくても良い、とまで思うようになった。米ぬか除草を熱心にやって、ほぼコツをつかんできたころに、また草が戻り始めた。これではいけないと、ソバカス抑草に移行した。移行して4回目の今年、草が一部に出てしまった。田植え後、2泊3日家を空けたことがいけなかった。その結果、初期1週間は、表面をソバカスで覆い続ける事が、大切だということが分かった。物理的遮光で発芽を抑制する。

その後トロトロ層が形成されて、草が抑えられる。少しづつ、草取りをしながら、3枚の田んぼの草の状態を観察しながら、整理した考えだ。単純なことである。もう一つ大切なことに気付いた。草のでない田んぼは、良い土壌状態の田んぼではないということ。普通に良い土壌には、草が生えて当たり前である。草を恐れるあまり、良い田んぼの土壌を考えることから離れていた。それくらい草が怖かったからだ。それが、1反草がそこそこあったのだが、抜くことにそれほど、つらくなかった。年をとったのだろう。草取りは年寄り仕事である。早朝、少しづつ草取りをするのは、悪くはない。この田んぼに、稲にいくらか役に立っている気分が、なんとなくいい。来年は、良い田んぼの土壌を目指してみたい。稲のために良い土壌である。こう思うようになったのは、自農センターの田んぼを見てのことだ。減水深20ミリの田んぼ。

本当に減水深20センチの透水性のない田んぼがいい田んぼ土壌であるのだろうか。この点の疑問がある。水の縦浸透がない田んぼは、水の腐敗が進む。土壌の沼化、還元化。しかし、これがいいと言うらしい。ここは研究の余地がある。今のところ、200ミリを超える減水深があるのだから、そんなことを言ってはいられない。いかに縦浸透を抑えるか。代かきを丁寧にした方がいいのか。これも研究の余地がある。この点では、新長塚田んぼが代かきを耕運機から、トラックタ―に代えて、どうだったのだろう。秋起こしからの問題である。当然緑肥の問題もある。菜種のほうが、良いという話が自農の石綿さんは少し云われていた。特殊な性格があるらしい。マメ科の窒素固定は、もういいのかもしれない。いつすきこむのか。どのような状態がいいのか。研究課題である。

上の田んぼでは、藻がすごい。この藻のおかげで草はだいぶ抑えられた。しかし稲の生育は入水口の低温もあって、良くない。今日から干しを一番上だけする。干して、藻を一度枯らして、土に張り付ける必要がある。来年は上の田んぼを苗床にする予定なので、この点も考えなければいけない。いずれ田んぼの高低差が大きいから、秋起こしをして、修正をすること。稲の状態は、悪くはない。特別いいというわけでもない、例年通りと言うあたりか。苗が例年より小さかったということもあるから、良く追いついてくれたという気持ちがある。来年は苗をすんなり作るために、トンネルをやる。少し手間はかかるが後の状態をみると、その方がぐんと生育がいい。まだ大きい苗と小さい苗で、植えた場所が田植えの4列づつでわかるほどだ。良い苗で田植えするのは重要なことだ。

昨日の自給作業:田の草取り4時間 累計時間:22時間
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薦田さんの種牛

2010-07-17 04:09:10 | 自然養鶏
宮崎県高鍋町の種牛農家薦田さんが東国原知事の直接の願いを受けて、6頭の種牛の殺処分を受け入れた。何の罪もない、健康な種牛が法律の壁で殺処分される。哀れな話である。こういう命を粗末にする理不尽を、子供たちには聞かせられない。学校教育では国の正当性と命の大切さをどう天秤にかけるのか。国の主張の根拠は唯一口蹄疫対策特別措置法という法律である。どう考えても法律がおかしいだろう。法律を整備し直す必要がある。これが人間の命だったら、どう考えるか。大多数の人が許されないと考えるだろう。それが、家畜ということでこの理不尽な殺戮が行われる。健康で、問題のない、種牛がなぜ殺されなければならないか。根拠があるとすれば、清浄国の枠である。経済の問題だ。お金に命を変えることを、当然とする国。こんなものは勝手に日本が決めたものだ。汚染国を理由に輸入障壁を作ってきた。食料は貿易の対象にすべきでない。

東国原知事は態度を豹変させた。理由は、県の口蹄疫隠しが獣医の告発で、見えてきたことにある。宮崎県新富町の農家で6月25日に、口内に異常がある牛1頭が見つかった際、県が検査を実施しないまま殺処分していたことが、15日わかった。農水省が、現場にいた獣医師らに事情を聴いたところ、「口内にびらんのような症状があり、口蹄疫の可能性はあると感じた」と証言。一方、県は「赤い斑点など軽微な症状の牛が1頭だけで、口蹄疫ではないと判断した」と説明したという。写真撮影や検体の採取は行われず、農水省にも報告されなかった。 これこそ県の重大な過失。法律違反である。移動制限の解除に向けて、検査もせずに殺処分を急いだ。それ以外考えられない。この犯罪行為をなかったことに収める事をちらつかせ、種牛の殺処分受け入れを急いだと、こう考えるとつじつまが合う。

宮崎県も、国も何のために戦っているのだろう。お金のためだけなのか。家畜の命の尊さは、少しも省みていない。本当にこの病気と闘うなら、疑いのある牛の血液検査をしないなど、考えられない。どうせ殺すのだから、わかりはしないと、他にも調査せず、殺処分に回された牛がいたかもしれない。大切なことは、ウイルスの変異の遺伝子レベルの調査である。そのことから、ウイルスの拡散の地図が描ける可能性がある。材料は多いほどいい。その地図から、この病気の伝播の実態が見えてくるはずだ。そうすれば、次の流行を防ぐ道筋が見えてくる。ただただ殺処分を急いでも、次の流行には役立たない。必ずまた流行を繰り返す。口蹄疫ウイルスはさらに強力になって、牛と牛飼いを苦しめるにちがいない。経済動物として、殺処分を一番の安上がりと対処したところで、畜産の未来はより不安が募ることになるだけである。今の飼い方そのものに無理がある可能性が高い。

薦田さんは6頭の種牛を県に無償で提供し、今後の宮崎牛の育種に生かしてほしいと、申し出ている。経済でいわれているのではない。牛にかけてきたすべてが、理不尽に断ち切られることが耐え難いのだろう。72歳というから、生涯を宮崎牛の育成にかけてきたに違いない。大切な種牛である思い。かわいいという思い。たぶん、何人もの種牛の育成をしてきた方が、こうした悲しい思いをして殺処分を受け入れたのだろう。健康でも、殺さなければならないような方法以外ないとすれば、畜産は禁止したほうがいい。6頭を残すことでは、お上の面子が立たない。示しがつかない。命を粗末にすることは、お金のためなら許されると、国が法律で決めているのだ。こんな倫理の崩れたことがあるだろうか。そして、世の中の大勢は、仕方がないという空気である。
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