地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

水彩人展作品評

2015-09-30 04:28:30 | 水彩画

 

金田勝則さんの絵

 

毎年仲間の絵に対する、私の見方を書いておくことにしている。しっかりと見て、記録しておくことは自分のためである。文章化することで、自分の見方の反省にもなる。同人推挙の3人については先日書いたので、そのほかの会員の中にも同等絵を描いていた人がいた。北海道の金田勝則さんのことから、この人の絵には自然に対する畏敬の感情が漂っている。普通に風景を描いているようにも見えるのだが、見ていると自然の中にある野生の牙のようなもの顔をのぞかせている。奈良の西さんが里山風景で、まさに人間が作り出した風景という親しみを描いていることに比べ、対極にある。野生の自然は開拓されるものであるという北海道の原野の奥にある恐怖の感情ではないだろうか。自然は油断できないという、本能的な恐怖。飢えと対峙するような緊迫。そこから、何かあの桜の下には死体が埋まっているというような、イメージが同調してくる。彼岸の扉のような絵だと松波さんは言っていた。俳句では木の葉下?違ったか。「木下闇(こしたやみ)」というコメントを松波さんからもらいました。)なんかそんなような異界への扉の予感のようなことを言っていた。

昆野朋代さんの絵。

そういう意味では自然観が極めて人間的である良い絵を描いていた、昆野 朋代。この絵は感触がよかった。絵にある世界がまるで天国のようだ。個人的に最も親しみを感じる絵だった。今までの水彩画でこれほど深い自然の色はなかったのではないかと思うほどだ。例年素晴らしく深い色を出すのだが、今回の絵はさらに一段進んだ。色が良いということは、そう簡単なことではない。色がよく見えるということは、すべての状態が良いからそう見えることになる。絵の作りを良く知らない半可通はこの色はどういう絵の具の配合ですか、など言うが、そうではなくて、色はバランスであり、構成なのだ。色の分量なのだ。その総合的なバランスが整っていることで、色彩が美しい色に見える。そもそも汚い色などどこにもない。ただバランスが悪いから汚く見えるだけだ。色が良いだけの絵だといった評論をしている人がいたが、色の意味を知らない人の発言だと思う。

そのほかまだまだ会員の良い絵があった。それぞれによい絵を描かれているのだが、問題は一枚の絵ではなく、出品した絵全体で何を表現しているかが大切になる。審査の時は一枚の絵をよりも全体の印象が強くなる。こうしてみると今年の会員の絵の革新はすごい。水彩人の勢いを表している。水彩人を始めて絵を学び、研究するにはどうすればいいのか常に考えてきた。絵は一人で描くものだから、共同研究など無駄だという声もよく言われた。しかし、人間成長するためには、切磋琢磨し修行してゆかなければならない。一人の修業は禅に置いてもよくないとされている。良い結果が出始めて、水彩人を始めたことが間違いではなかったと確認できてうれしくなる。一般出品の人も36名も初入選の人がいるのだが、中には初入選で会員になった人もいる。多くの初入選の人のレベルが高く、水彩人展が新しい地平に顔を出したようだ。これは、水彩人の仲間だけの話ではなく、見に来てくれた他の絵の仲間の人たちの感想でもある。まあ、おせいじ半分と受け取らなくてはならないのだろうとはおもうが。

 会員推挙された千葉さんのように新しい水彩人の傾向を表している人も登場した。千葉さんの絵は一見普通の静物画である。しかし、この絵は奥が深い。見つめる目の真剣さが伝わってくる。肌触りが模型作りのようなのだ。手作りの丁寧さというか、何かが違う。これからの絵が楽しみだ。大きな展開を期待したいし、予感させるものがある。

金田美智子さんの絵

やはり北海道の人の絵だ。とても美しい絵だ。筆触で伝わる水彩画の表現法。柔らかな世界観が良く出ている。この良き世界にある寂しさのようなものが、しみじみと伝わる。この伝わり方こそ、水彩画の伝え方なのではなかろうか。一般出品の人の中にもすごい絵があった。収穫の大きい17回展だ。

昨日は1000人を超えて入場者があった。いつもたくさんの人が見に来てくれるのは、絵を見ることが楽しめる展覧会になっているからなのだと思う。先日絵の展示の高さが低すぎないかという意見があって、みんなで再点検したが、妥当な高さではないかということになった。以前から、公募展は高く、画廊は低い。という傾向はあったが、最近はどこの会も展示の高さを低くしてきているようだ。

一方、問題点から言えば、達者な絵が出てきたようだ。これは審査というものの弊害なのだと思う。上手だから審査において、平均的に手が上がりやすくなる。水彩画には達者で、きれいごとに終わる絵の危険がたぶんにある。上手で、写真のように描けているので、褒められることばかりである。褒められていると己惚れる。本当の自分の絵に近づきにくくなる。装った世界で済んでしまう。世界はきれいごとではない。まあこの意味は難しいことでそれぞれのことであるが。ともかく、ただただ上手ではあるが、誰が描いたかわからないような絵では問題だ。良いお稽古ごとの絵に終わる。上手いは絵の外。こうした絵が、平均点的に審査で選ばれるのはいいことではない。今後の課題だ。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水彩人の手作り目録

2015-09-29 04:07:53 | 水彩画

目録を描いているところ。鶏が長鳴きをしているところを描いた。

水彩人展では目録を作っている。展覧会出ている作品の一覧である。たぶん、たいていの会が作っているだろう。しかし、水彩人の違うところは、すべて手描きの目録というところだ。以前は案内状も一枚一枚絵を描いて出していた。これはとても評判が良くて、止めた時にはなぜやめたのかと、残念だという声を聞いた。しかし、何千枚も出すようになって、さすがに手描きを続けることが出来なくなった。そこで、今度は展覧会の目録を手描きにすることにした。一人が20枚ほど持ち帰って描いている。全部で500部ほど作る。一部100円である。実費にも満たない価格である。記念になると思うし、会の手作りの感じが出ていていいと思う。また仲間全員の参加している気持ちが高まる気もする。しかし、目録はないかというので、どうぞこれです。100円頂きますというと、金を取るならいらないという人もいる。ただならもらいたいということだろう。そういう人は帰り道で捨てる可能性が高い。手描きにしたことも、100円もらうことも、大切にしてもらいたいからだ。

物があふれているから、物に対する愛情が薄れた。一つ一つのことへのかかわりの大切さを取り戻したい。絵との出会いの大切さも薄れてきているのではないか。水彩人では一枚一枚の絵との出会いを大切にしている。だから2段掛けなどは行わない。絵に申し訳ないと思うからだ。一枚の絵との出会いのその場になってもらいたい展覧会なのだ。もしかして、心に残る絵と出会ってもらえるかもしれない。一枚の絵との出会いが人の生き方を変えることだってある。ゴッホの絵を見て生きる決意をした人を知っている。134名202点の絵が並んでいる。水彩人展には様々な絵があると思うが、それぞれに出し尽くして描いていると思う。

私は自分の絵が、家にある時とは違う様子に見えた。沈潜して描いているかということだった。このことには家のギャラリーにあった時には気づけなかった。並んで初めてそういう絵だったのかと気づいた。いわゆる絵画を志向する絵から少し離れた。いや離れることができたようで嬉しかった。その意味では4枚も出す必要はなかったのかもしれない。絵作りのようなことは、私絵画に不要だということが確認できた。絵作りは見せるための視線がある。自分の内に向かうということは、自分の確認が出来ればいいわけだ。昨年そういう意味を関さんの絵から教えられて、少し、進むことができた。昨年の水彩人の展覧会が私にとっての貴重な出会いの場になった。そのことを昨年このブログにも書いた。私は風景を見ながら、関さんの目で見たらどう見えるのか、それをひたすら試みてみた。それは余計な思い、姑息な手段はいらないということが、いよいよ見えた。

ぜひ水彩人展に来ていただき、100円で私の鶏の目録を探して買ってください。先着20名だけですが。もちろんさまざまな魅力的な目録がずらりと並んでいます。それを買っていただいてもいいのです。もちろん買わないでも構いません。入場は無料です。気持ちの良い会場になっていますから、絵を描いていない人にも楽しんでもらえると思います。私は連日事務所につめています。受付で呼び出していただけば、すぐ顔を出します。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水彩人展はじまる。

2015-09-28 04:05:44 | 水彩画

会場の様子。

展示が終わり、無事展覧会が始まった。事務所の仕事に追われ会場に行けたのは、5時を過ぎていた。良い会場になった。新しい人が36名も増えて、新鮮な会場になっている。私の絵は少しエネルギー不足。おおいに刺激になる。これは東京で、タブレットで書いているので、頭が動かないので少しずつ書き留めたいと思う。東京都美術館には私のパソコンを持ち込んでいるのだが、インターネットがつながらない。

会場入り口

水彩人らしい、型破りなものが出た。特に大原さんの仕事は刺激を受ける。絵に元気がある。それに比べ私の絵は力が萎えている。弱い、こんなに静かな絵を描いたのは初めてかもしれない。これが衰退なのではないか。その可能性も高い。しかし、自分に接近してきたのかもしれない。私絵画とはそのようなものかもしれない。それよりも衰えが出てきたと言うことは向かい合うこと。当然のこと。無理をして 力むきはしない。昨年の西さんの絵との出会いがあって、ここまでこれたと言うことでもある。      

 会員3人がとても良い絵を描いた。そして同人に推挙された。一般の応募者では4名の方が会員に推挙された。例年以上の成果があった。(ここからパソコン入力)同人推挙 松原 瞭子 山吉 トシ子 上田恭子以下の写真は、許可を得ないで載せています。どうしても見てもらいたくて、載せてしまいました。他には使わないでください。

 


 写真の掲載したいと思うのですが、まだ了解を得ていないので、許可が得られたら載せます。稚拙ともいえる。素朴な描き方である。初めて描いたような素朴な筆触をとおして、色鮮やかな、明るい世界が現れる。陽気な音楽のような絵だ。この率直な表現こそ水彩の持ち味である。誰でもできそうな絵なのだ。しかしそれはこの絵の入り口の優しい表情なのだ。迷い込んだ迷宮は複雑でなかなか手ごわい。何でもないような動画的な、気ままな表情こそ、奥深い混とんを感じさせるものがある。なかなかの表現者なのだ。

 

山吉さんは大きい絵は描かない。10号くらいの絵だけを描いている。大体は現場で描いた写生画なのだと思う。見えているものに、どのように向かってゆくのかという絵ではないか。初めて絵を見せてもらったのは、水彩人が始まってすぐのころだ。今回その言われていたところに、ついにたどり着いたようだ。長い道のりであった。沈み込んだようなときもあった。しかしそうしたときも同じ姿勢で、自分の見えている霧のようなくっきりとは見えていない世界を描き続けている。だから、山吉さんにしてみると、見えているとは、良く見えない世界ともいえるのだろう。確かに世界は見えているようでよく見えない。その明確にならない世界というものを、明確にならないまま正直にとらえようとしている。これは苦難の道である。いわゆる絵描きを目指せばこんな絵は描けない。まさに私絵画ではないだろうか。

 

 

上田さんの絵。少し写真写りがおかしいく、もう少し暗さのある色の絵。ともかく美しい絵である。水彩というものの美しさを率直に表現している。上田さんは自分の心をそのまま画面に表現してしまった。なぜこんなことができたのだろう。全く奇跡のような絵だ。絵に向き合う姿勢が良かったので、神様がここに導いてくれた福音のような絵だ。正直上田さんは長い間混乱の中で描いていた。自分も苦しかっただろうし、見る側には何がやりたいのかよく分からないかった。意思の疎通が難しい絵だった。歯がゆい絵だった。しかし、その歯がゆい絵を揺るがず続けていた。その姿勢はかたくなにも見えたが、その奥にある純粋なものにとても期待していた。それが花開いた。今回水彩人に並んだ絵の中の最高の宝物のような絵だ。

 

これが私の出した絵の一点。私の絵の写真は、どこでどう使おうが構いません。4点出している。どの絵も中判全紙である。やはり私絵画である。絵にするという意識を捨てるということ。ただ見えたように描くことに専念している。見える目の方を深めようと考えている。その見えているということを書き留めておこうという気持ちが、絵を描きたいということになる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自治会不要論

2015-09-27 04:35:20 | 地域

朝日新聞で自治会フォーラムが行われている。自治会は厄介なことになっている。役員の負担は大変なことになっている。その割に役割は形式に終始していて、仕事に達成感がない。自治会は要らないと言う考えが強まっている。よく言われるが、一番は防災問題である。最近は洪水、竜巻、土砂災害と自然災害は他人事とは言えない気象である。明日にも1000ミリの雨があるかもしれない。災害が起きてしまってから、行政の避難指示がどうだったのかというようなことがいつも言われる。小田原の自治会では、災害時の責任をとれないから、自治会長を引き受けられないというので、次の自治会長が見つけられないという自治会の話を聞いた。その自治会長を断った方は、本気で自治会長の役割を考えたということだろう。私も自治会長の間中もし災害が起きたらどうしたらいいのだろうか、不安な日々だった。今も防災リーダーだから責任がない訳ではないが、自治会長の時よりはだいぶ気が楽だ。

私の住んでいる久野でも、避難勧告は最近も出た。避難する人はいない。避難指示が出ても非難する家族は数家族であった。そういうことが繰り返されている。避難指示はどういうものかということを、小田原市の人と話したことがあるが、なんと非難しなければいけないという認識すらなかった。あくまで自主判断だという主張をされていた。こうした状況の中で防災訓練だけは行われる。私も当然出なければならない。しかし、この防災訓練が、舟原地区に暮らす者にとっては全く形式的なもので、本当の災害時には全く違うことになる。つまり、久野小学校に避難するのだが、舟原が危ないという状況で、何故小学校に避難できるのだろう。避難の途中で災害にあう可能性が極めて高い。にもかかわらず、昔からそういうことになっているというので、さらに奥の和留沢集落からでも建前としては、歩いて1時間以上も避難訓練をすることになっている。もちろん現実には車で役員が小学校に集まるということになる。

そのほか自治会役員には、様々な動員がかけられる。何かの講演とか、表彰のさくらの役割のようなものだ。この集まりにはこのくらいの人を集めたいという希望が出て、各自治会に参加の要請が来る。大勢集まれば役員や行政職員の顔が立つちうような持ちつ持たれつ。私のようなものでも、地域の役割でもあるので、すべて我慢して出た。我慢して出ても得るものはなかった。近く運動会というものもある。私にも競技が割り振られた。早朝から、テントの設営等で出なくてはならない。秋の稲刈りシーズンに困る。運動会はやめた方が良いという声も、毎年聞く。自治会にはお近所付き合いとしての、弱者保護ということもある。何かあった時に、一人暮らしのお年寄りに気づいてあげなくてはならない。ともかく、本気で考えればやるべきことが山のように、諸々のことがある。自治会役員に会社に勤務したぐらいの感じだ。そうした活動を不要だという人が出始めている中で、この大変な仕事量をこなさなければならない。

ごみ置き場の管理が自治会の役割になっている。だから、自治会加盟していないと、ごみ置き場にごみを出していいのかどうかが、もめ事になる。市民税を払っているのだから、ごみを出す権利はあるという考えもあれば、ごみ置き場は自治会管理なのだから、そこには出すことは出来ないという考えもある。いずれごみ処理が、自治会加入促進の最後の切り札になっている。舟原でもこの問題で深刻なトラブルが起きた。結局、今も訳の分からない状態が続いている。地域というものは、様々な人がいる。考えも多様だ。一筋縄にはいかない。すっきりしないものを、何とか受け入れなければ成り立たない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東北豪雨で放射能汚染袋が流出

2015-09-26 04:26:46 | Peace Cafe

東京電力福島第一原発で17日18日の豪雨で、排水溝の水が、堰(せき)を越えて外洋に流出した。暫定的な対策を講じた四月以降、確認された流出が八回目となった。これが安倍氏の世界に示した完全にコントロールされた現実である。積んであった、放射能汚染した草を刈り取り詰め込んであった袋も流出した。全くずさんなことである。と同時にどうせ無駄なことだというあきらめの辛い気持ちになる。小田原では汚染された植物残渣は畑の隅に積んでおけという指示であった。埋めるでもなくそこから移動せず積んでおくようにという指示であった。現在、姿かたちが消えうせた。それは、東北関東一円の自然界で起きていることだ。たまたま汚染下草を刈り取って集めて置いておくなど、そもそも無駄な努力なのだ。いったん環境にばらまかれた放射能を集めて処理するなどということは、不可能なことだ。不可能なことをもっともらしくやっているのは、ポーズをとっているのだ。完全にコントロールできているという真っ赤なウソを塗り固めるためだ。

小田原ではもう測定しても放射能はよほどのことでなければ、作物には現れなくなっている。4年半前予測したような展開ではなかった。チェルノブイリのような低湿地の水の停滞するところとは、全く違ったことになった。放射能によるがんの発生率はは疫学的には増加を始めているのだろうか。今のところ子供の甲状腺がんについては一部で増加の傾向も見られるとされるが、全体では統計的にみれば変化はないということのようだが、正直いろいろの情報があって、よく分からなくなる。チェルノブイリでも起きたことだし、福島でも起きないはずがない。特に子供たちの問題である。しかし、小田原でも影響があるというような話になれば、原爆実験の影響との違いもあり、小田原の子供に影響はなかったレベルと考えている。原発は割高なうえにリスクの高い発電方法なのだから、早く撤退するほかない。と同時に放射能汚染は科学的に判断することが重要だ。

海に流れ出ているのだ。海に流し捨てて完全にコントロールできたのだろう。どうせ、集めても処理ができない。世界中で放射性廃棄物を海に流し捨てているのだ。たぶん膨大な自然放射能も海に流れ出るのであろう。核廃棄物の処理は方法がないのだ。あの黒いビニール袋はフレコンバックというもので、そう長持ちするものではない。日光にさらされていると案外に早く劣化する。5年もたてばボロボロで簡単に破ける強度になっているに違いない。屋内にきちっと積み上げて置けば、20年ぐらいは大丈夫だろうが。あんなものを持ってきてほしくないというのはどこでも同じことだろう。つらいことだ。しかし、どこかに持ってゆかなければ、川の流れに乗って海に行くしかない。それでは、総理大臣の真っ赤なウソが空を染める。原発の発電所付近にすべてを集めるほかないと考える。それが原発を認めた、自治体の責任だ。

それでも原発再稼働である。原発の地元自治体では、何かあれば責任を取るという気持ちで再稼働の承認を考えてもらいたい。故郷を住めなくする可能性を認めてしまう自治体の愚かしさ。その動機や本音はどこにあるのだろう。東芝がつぶれたら困るからなのか。政府のとった電源ロードマップの誤りを認めたくないからなのか。官僚が乗り掛かった舟から降りれないというのはわかる。国際競争力を考えれば、早く原発から降りた国が有利になる。政治家が日本壊しをやっていてはだめだろう。国破れて山河在り、といかないのが原子力事故である。原子力汚染で国が敗れれば、日本という山河は人の住めない場所になる。そのリスクがわずかでもあるなら、やめるしかないのが原子力だ。どこの角度から考えても、原発にしがみつく理由がわからない。分からないから怖くなる。やはり、原爆による抑止力を願っているからなのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

篆刻という石の彫刻

2015-09-25 04:50:37 | 水彩画

篆刻をしている場所。硯や、印泥なども置いてある。石は玉石合わせて400はある。

若い頃から篆刻をやっている。なかなかの楽しみである。中学校で教えていたころ授業で篆刻を課題にしていた。その頃は自分でもよく彫った。今は気が向くと楽しみで彫るくらいだ。篆刻はなかなか面白いものだ。中国では獅子や龍を石の頭にした篆刻の作品がよく彫られている。大体はやりすぎで過剰な感じがしてまずい。石のものはいつまでも残るから、古い石印も幾らでもある。側面に彫った人の名前が、流旺刻とか刻まれていたりする。どういう人だったのだろうかと思うが、彫られた意味まで考えてしまう。縁起物で、印が押されるというようなこともあるようだ。日本では篆刻の公募展のようなものもある。日展にも篆刻部門というものがあって、審査での割り振り問題で話題になったことがある。書を書くとその脇にどうしても判を押すことになる。脇ならまだよいが、上部もあれば、場所がなくなれば字の上に押されることすらある。中国物であたり一面印影で埋まるっているものがある。

水彩人の判も篆刻のものだ。誰が彫ったのかは知らないが、芋版のような感じのものだ。私ならもうちょっと風流なものにしてしまうと思うが、この芋版というか、ゴム印のような感じが水彩人を表しているのかもしれないと思い、一応使っている。判というものにについては誤解があって、どうもこの判でなければならないと思い込んでいる人がいる。登記して無い印鑑はどれでも同じことだ。私が毎日変えたところで何の問題もない。但し実印は印鑑登録されている。登記をしようにも、水彩人は法人ではないから登記もできない。登記しない印鑑なのだから、割り箸の後ろでも判だと強弁すれば、判である。変化をしない材質ということもある。また、印影からその実態を想像するということになるから、芋版のような水彩人だなということで、それはそれで悪くはない。変に凝っているよりはだいぶましかもしれない。

篆刻が面白いのは、石の材質の味わい、頭の彫刻を含めた全体の形態、そして肝心の印影。石は田黄石が王者である。黄色い半透明の石である。プラステックとどこが違うか程度のことしか思わない。次に話題になるのが、鶏血石が良いなどと言って、真っ赤な血が飛び散ったような石が尊ばれたりするが、少しもよい味わいを感じない。なぜあんな妙な石が何十万円もするのか、不思議なばかりである。造形を重んずるのであれば、田黄石は確かに良いのだが、妙な透明感が形を壊すような気もする。安い石でも青田石のようなもので十分である。大切なことは彫りやすく、柔らかすぎず、思うように作れるものだ。石といっても篆刻石は木よりも彫りやすい。細かい仕事から、大きな割り出しのような粗い仕事も自由に行える。寿山石と言われるものがよく売られているが、1本150円ぐらいで十分なものがある。

それでも自分の作品を作るとなると、石は選びたくなる。最近菜の花透石というものを6使ったので。これで作る予定である。鶏を頭にしたものを作りたいと思うと、形や色、大きさを探す。それで沢山石がある。これだという石に出会う必要がある。田んぼの実りを頭に作ろうなどとも思っている。この場合黒い石が良いだろうかと思っているが、まだ決まらない。犬のものも一つ作りたい。猫も当然必要である。全部で6つ作って、いつかは笹村出農鶏園と繋がるものにしたいなど考えているが、そろいの石がよいのか、6つそれぞれが良いのかもまだ決めていない。笹は雄鶏、村は雌鶏と雛、出は犬 農は田んぼ、鶏は猫、園は樹木、ぐらいかと考えてデッサンはしている。中国では金鉱堀のように、良い印材を探しあてるために、生涯を費やしてしまう人がいるらしい。ばかばかしいやら、うらやましいやら、道楽というものはそこまでやりつくすから面白いのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水彩人展の準備完了

2015-09-24 04:12:21 | 水彩画

水彩人展の準備が予定を遅れながらも、何とかたどり着いた。明日、いよいよ展示作業になる。絵を見てもらうには、絵の並べ方はとても大事なことになる。都美術館の水彩人展は7つの部屋に分かれている。202点の作品を7つの部屋への一応振り分けまで終わっている。水彩人では基本的に一段掛けを行ってきた。今の公募展は大体に2段掛けである。さらに3段掛けの団体もある。こういう状態は絵を見てもらうという状態ではない。絵を飾る場所が、限定されているから、どうしてもこういうことが起こる。しかしこれは絵のグループとして、観客に絵を見ていただくという態度ではないと思う。見せてやるというような姿勢に私には思える。1枚、1枚の絵を大切にしているとは思えない。ゆっくりとした環境で、絵を楽しんでもらいたいというのが、一枚の絵を大切にする姿勢だと思う。まして、大勢の絵が混在するのだから、3段掛けの上の方に置かれた人のことを考えると、悲しくなる。

水彩人ではその代わり、展示できない人の絵がたくさんでてしまった。今回は応募された人の4人に一人の人の絵が展示できなかった。その人たちには本当に申し訳ないことである。絵の方向が少し違ったわけだ。一人一人にその理由を書いたものを手紙で書いて送っている。では私たちの目指す絵の方向はどこにあるか。それはやはり絵を観て頂くしかない。水彩人の絵は、水彩人に展示されている全体でその方向は見えると思う。今回が17回目の展覧会であるが、年々その目指す方角ははっきりしてきたと思う。水彩画の研究会の発表ということなのだろう。このような絵ですというのではなく、こんな形で研究をしています。その研究の過程の今の段階の結論を、これが水彩人の水彩画だ。とそれぞれの今の段階の結論を示しているのだと思う。同人が17名、会員が29名。そして応募された124名のうち88名の入選展示。それらの絵全体が水彩人の現時点での方角。

水彩人の水彩画は、同人17名もそれぞれである。ただ、水彩画というもが自分の表現にとてもふさわしい方法であると考えて、下書きでも、スケッチでもなく、制作として水彩画に取り組んでいるものたちである。なぜ水彩画が自分の表現に向いていると考えたのかもそれぞれではあるのだろうが、共通していうのは、水彩画の持つ素朴な表現法でありながら、それぞれの肉声に反応してくれやすい材料と感じているのではないかと思う。私の場合であれば、自分の今の暮らしを通して見えている世界を表現しやすい材料ということになる。画材の中では最も素朴な材料である。紙と水彩絵の具という、小学生でも描ける材料でありながら、どのような表現も可能な実に奥行きのある変幻自在な材料なのだと思う。そのために、私絵画には実に都合のよい材料なのだと思う。今回の出品作もいつもと変わらないのだろうが、自分の見ている世界にどこまで近づけているかである。

展示の準備作業は、20日から4日間で行った。目一杯であった。このあと25日(金)の午前中に展示作業を行い、午後2時からの開展を迎える。展示作業は各部屋に展示の担当が5名程度振り分けられていて、その担当が22日にすべての絵を見ながら、自分の部屋に飾る絵を選択した。今、それらの絵をもとにどのように飾るかを構想していることだろう。どの部屋が良い展示になるのか楽しみである。私の絵は確か、5室に展示される。どのように見えるのか、展示されるのが楽しみである。家にある時とはまた違って見える。人の絵と並ぶということが、絵を改めて見直す機会になる。自分のこの一年の仕事がどんなものであるか。この後の制作に何か得るものがあればと思う。後は多くの方に来ていただき、見てもらえればありがたい。幸いというか、東京都美術館ではモネ展が同時開催されている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道具と材料のこと

2015-09-23 04:11:55 | 水彩画

道具と材料に関しては、惜しんだということがない。水彩紙も相当持っている。絵具も筆も、かなりある。篆刻の石も山ほどある。どうするのかと思われるかもしれないが、これでも十分ということでもない。描きたいと思うときに、描きたい紙や筆がなければ困る。作りたくなる石がそこになければ面白くない。水彩画を描くのに筆をやはり何百本も持っている。もっといい筆はないかと思ってつい買ってしまうこともある。今使っている筆が消耗したときのことがいつも心配で次を用意しておきたくなる。心配しながら絵を描くことは出来ないから、無尽蔵に補充ができるようにしておきたい。何とももったいない話だが、別段無駄にしているわけではない。平櫛田中という木彫家が100歳を超えてから材料の木を、30年分購入した。気持ちがわかる。今作るのでなくとも、そうでなければ作れないというところがある。絵具でも同じで、三岸節子さんは高価な絵の具ほど、無尽蔵になければ使えないといって、山ほど買い込んだそうだ。

中川一政氏は良い墨をもっていて、水墨画を描くときには、そういう墨でなければ十分な調子が出ないということを書いていた。墨の良さは私にはわからない。分かるようになって良い墨が手に入れたくなったら困ることだろう。筆の違いはそれなりにわかる。どんな良い筆でも使い込まないと筆はだめだ。気に入るようになじむまでには時間がかかる。はきなれた靴が歩き具合が良いように、どこかがすり減りなじんだころが一番私には使い勝手が良い。気おつけなければいけないのは、その良い当たりを通り越すと、おかしなことになる点である。だから次のものをいつも用意して、あれこれ使い分けながら、ここはあの筆、ここはこっちと筆を変える。大体3本くらいの大、中、小を使うわけだが、×2の6本いや、5本くらいは使う。小はめったに使わないので、1本でいい。ところがこの小の筆というやつは使い勝手のいい期間が短い。

判を作る篆刻刀というものがある。刀鍛冶が、玉鋼で打つ。などという大げさな印刀まである。もちろんそこまで高級なことがわかるわけではないが、大胆な仕事をするためには、いい篆刻等が必要だということはわかる。例えば石に線描で絵を描いたとする。良い刀でなければ、いい線は引けない。これは書と筆の関係と少しも変わらない。そういう線が石に刻めれば、なかなかいいものだ。だから刃の研ぎということが大事になるが、これがまた難しくて私にはできない。研いでくれるという、研ぎの専門家もいるくらいだ。もちろん自分で研げないということは、どうにもならないことで、ここが努力である。そうなると砥石の問題まで出てきて厄介である。だから私は超合金のものを使う。これは本来、硯石に彫刻をするようなときに使うものらしい。篆刻材料の石よりも硬い石を彫るということだろう。

水彩画を描くにはお金がかからなくていい。ありったけの気に入った材料を使ったとしても、月に1万円はかからない。趣味と考えれば、お金のかからない方のものだろう。田賀亮三さんという自由美術の作家がいた。水彩画のなかなか良い人だった。金沢の方だったので、親しくさせていただいた。田賀さんは水彩を描くときには、学童用のような、ペンテルの水彩絵の具を使った。これの方が良いと言われた。学童用で描いているということを自慢していた。私のように材料にこだわる人間に先輩として教えたい所があったのだろう。暮らしにはほとんどお金はかからないが、絵を描いたり、彫刻をしたりするには、それなりにお金がかかる。売れるということもたまにはあるから、材料費の持ち出しというほどではない。これも自給生活の一部のようなものか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水彩人審査2日目

2015-09-22 04:55:18 | 水彩画

東京都美術館の搬入の受付。9月21日朝

絵の話ができるのは楽しい。日ごろ、絵のことに限れば閉じこもって考えている。一人で煮詰めて考えている。その考えていることは、自分の穴の中で、極端化している。怪物化していたりする。それを持ち出してみることができる場が、水彩人があるという有難さだ。光が差すということがある。会話の中で自分に気づくということがある。そうだったのかと、そういうことだったのかと、日ごろの行き詰まりの栓が抜けるような感じである。絵のことが話せるというのはなかなかないことなのだ。水彩連盟にいたころは、展覧会の中で絵のことを話すということは出来なかった。私は無理やり本音で絵の話を持ち出して、顰蹙を買っていた。そんな場ではないという認識である。絵の会には階級制度がある。それからいろいろの公募団体に出している人に、あなたの会では絵の話は自由にできますかということを聞いてみた。

並べて絵を審査している様子。9月21日午後

たぶん、10以上の日本の代表的な会の会員の方に聞いてみたと思う。会の代表の絵をおかしいと感じた時に、この絵はおかしいと本音で言えるでしょうか。と聞いてみたのだ。そういうことができると言われた会はなかった。すべての会員の絵をすばらしいと考えるからその会に所属しているのではないだろう。代表は変わるのだから、尊敬できる代表が交代したら、その会を止めるという人もまずいない。絵の公募展というものが絵のことを自由に話せない場であるなら、意味がないのではないかと思う。それが水彩人につながる、研究会を始めた。そしてその自由な水彩画の研究会が、いろいろあって公募展になった。だから絵のことを自由に話せる集まりにしたいと思っている。当たり前のことだ。しかし、常に検証が必要である。私の絵をぼろくそに言うような人がいないとすれば、それは怪しいくなり始めているのだと思う。

審査の様子。真剣に時間をかけて行っている。

水彩画において技術はどういう位置づけにになるのかを話す機会があった。いつものように上野で飲みながら話した。絵を描くときに、手順を考えない。素朴に取り組む。上手く描こうとしない。技術は災いする。こういうような10か条が目の前に張り出してある。忘れては大変なことになるからだ。10か条は何十年も前からそのような考えで続けてきたということになる。こんな考えだから、改めて技術を勉強するということは、できる限りやらないようにしてきた。絵をこれだけ続けてくると、ついつい技術が身についてしまったところもある。必要に応じて、悪戦苦闘して穿り出した、技術と呼べるようなアクが身についている。絵を描くということは常に行き詰まるということだ。行き詰っているということが画面に出ているようなものでありたい。見えていることが見えているように絵が描けないものだ。見ているものは、視覚的なものだけではないからだ。新緑を渡る風。こういう確かに見えているのだけれど、視覚だけではないもので世界は出来ている。まして、自分というものの目で見ているのだから、見えないものの世界まで見ている。

私が知る限り、大原さんは水彩の技術のすべてを持っていると思う。小野さんはある一つの技術を極めてきていると思う。二人の技術に関していえば、デパートと専門店のような人の絵を、若い頃から、ここまでついに来たのかという今回の作品まで身近に見てきた。その変化もよくよく知っている。そして水彩画の難しさは、技術がなければどうにも描けないものだと改めて思う。というような、自分の描いてきた考え方と逆の感想に同感する。技術がないがためにやりたいことができないでいる絵がたくさんあった。悪戦苦闘するには技術がなければできない。おかしな話かもしれないが、失敗するには技術がなければできない。つまり、その人に描きたい世界があって、それを描こうとして、失敗しているという本当の作業がわかるような絵が、魅力があるのだ。そういう失敗をするには、見えていなければならないし、同時に技術も無ければならないということなのだろう。問題に直面するための技術というものがあるのだろう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水彩人搬入日

2015-09-21 04:28:37 | 水彩画

第17回水彩人展の搬入が行われた。搬入者数は昨年とほぼ同じ、124名であった。会全体としては10数名仲間が増えたということになる。遠方からもかなりの数の方が初出品された。徐々に全国的に情報が広がりつつある感じがした。大勢の方が直接搬入をしてくれた。私はパソコンの担当で、てんてこ舞いでゆっくり話すこともできなかった。パソコンと借りたコピー機の連結が悪く、動き始めが手間取ってしまった。先に準備しておくべきこともあったということが、初めて見たらわかったが、すぐ作動すれば打ち出しはその場出来ると考えたことが間違いだった。来年は必要書類は、事前に打ち出してゆくことにする。家を7時のバスで出ると、東京都美術館に9時15分に着くことができる。遅れた時は8時30分の新幹線で行くとぎりぎり滑り込みである。しばらく、通勤のように東京に通わなくてはならない。どんな絵が集まるのかそれが楽しみだ。今年は里山の絵を出品した。篠窪で描いた4点である。どんなものに見えるのか不安と楽しみがある。

今年から事務所を担当しているので、準備まで気が休まらなかった。水彩人は小さな絵の研究会から始まり、最初は展覧会をすることすらなかった。それが研究会展を開くようになり、今は公募展を開催することになった。たぶん大半のメンバーが本意とは言えないのだと思う。水彩画の研究を続けるには、ほかに選択の道がなく、現在の形まで来た。そのために、公募展を開く事務体制がない、、やむえず私が引き受けることにした。そうしなければ公募展の事務所体制が作れないと考えたからだ。一月から急遽引き受けて、何とか9月の展覧会まで来た。まだ、グループ展に参加している意識の人もいるし、またそうありたいと考えて水彩人に加わったのだから、今の状況に戸惑っている人もいるだろう。私としては、絵が描けるうちは水彩人は必要なので、全力で取り組んでゆくつもりだ。

事務所仕事のコンピューター化。連絡事務のメール化。これが第一に進めていることだが、何ともこれが難しい。何しろ、あて名書きですら、手書きが一番早い。あるいは手書きでなければ失礼だろうという人が頑張っているのが、絵描きの世界だ。しかし、いくつかの市民団体の運営にかかわった経験からわかっていることは、うまくメールやパソコンを利用できなければ活動は広がらない。たぶん成立しない。ところが絵を描く人というのは、機械に抵抗の強い人がいる。できないというより、それを自分の信条にしているタイプの人がいる。だから、そういう人でもかかわれるようなバランスで進めなくてはならない。そこで3年前から、派遣の方をお願いして、事務仕事をやって頂いている。ところが派遣の方は人が変わる。毎年、公募展の受付業務の説明から入らなければならない。今年は昨年お願いした、優秀な方に無理を言って頼むことができた。シルバーウイークのおかげだ。それで何とか難しいところを乗り切ってくれた。何とも綱渡りである。

絵がどんなであったかというと、上手い絵が多かったという印象である。上手いから駄目だとは言えないが、上手いは絵の外という言葉もある。上手いだけでは絵とは言えないのだが。上手いがために褒められることが普通であろう。そこを突き抜けることがかえって難しくなる。誰が描いてもうまい絵は良く似ている。うまい絵というだけで行き詰まる。だめだという自覚が持ちにくい。やたら下手だけど、何かいいものが潜んでいる。そういう絵が見たい。結局同人の絵が一番破たんがあるという感じだ。下手は絵の内ということになる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真剣な議論が国会で行れたか。

2015-09-20 04:01:26 | Peace Cafe

経団連会長の意見では「国会で長時間にわたり真剣な議論が行われ、法案が成立したことを歓迎したい。」ということらしい。私には結論ありきで、形式を踏んだ国会に過ぎなかったと思える。つまり、経団連というところは、こういう実質的でない、おちゃらけを述べるておけば済む機関なのか。国会での議論は到底議論などと呼べないシロモノだった。よくもまああのようにくだらない答弁を繰り返しているのかと思うものだった。政府の答弁術には一定の形式があった。質問をはぐらかす。例えばホルムズ海峡の機雷封鎖に対して、撤去の実力行使できる法律を作るというのが最初のアベ紙芝居の説明だった。そのことに対する疑問の質問は最後に賛成に回った政党からも繰り返しされた。その都度、まるでそっぽのことを延々と説明するだけだった。まるで質問の意味を理解できないのかと思うような答え方をする。延々と日本の自衛隊の機雷除去の技術の高さと、実績の説明をいかにももっともらしく続けていた。

確かに、理路整然と機雷除去について説明をする。しかし、戦闘状態における、集団安全保障のあり方については、何も触れない。これを何度でも繰り返すのが、政府の答弁技術である。いかにも丁寧に、応えて時間稼ぎはするが、肝心の、国民が一番知りたい、集団自衛権とホルムズ海峡との関係は一向に明確にならなかった。石油や天然ガスが来なくなって、日本人の生命の危険状態に陥るという、集団安全保障による、海外派兵の根拠を鮮明にするはずではなかったのか。遠巻きに電気がないと困るというようなことは言うが、電気が止まることと安全保障の3要件の関係は説明しない。具体的に説明してしまえば、天然ガスの入手法などいくらでも出てくるからだろう。結局はイランが機雷封鎖をする根拠も怪しげなものだったということになった。一体あのホルムズ海峡紙芝居の説明の架空性が浮き上がるばかりではなかったか。

同じことがアメリカ軍の邦人救出の母子の哀れな紙芝居の、曖昧な説明は最後には日本人が想定されているわけでもないらしかった。言った何百時間に及ぶ、国会議論の答弁とは何だったのか。要するに時間稼ぎだけのものだったのだろう。国会議論など期待してはいけないのだ、と思っていたが、経団連会長によるとあれが真剣な議論だというのだ。こんな認識だとすれば、頭が相当に緩んでいる。たぶん適当なおべんちゃらを言えばいい役回りのつもりなのだ。こんなことでは日本の会社が衰退を始める不安になる。もちろん、口先の建前を本気にするやつがあるかということなのだろう。国会と国民の関係を適当にしておけばいいと考えているということは表している。法律さえできれば議論などどうでもよかったのだ。今回は、何でも反対の野党ではなかった。野党の質問は真剣なものだった。それだけに政府のはぐらかし答弁にはいらだつばかりであった。

中国を仮想敵国にできないから、議論が見えないという意見があったが。誰がどう考えても、中国を仮想敵国として議論をしていたとしかおもえない。日本の安全保障に関して様々な考え方があるのは当然のことだ。政府の主張するアメリカ依存の集団安全保障もその一つの考えなのだろう。韓国が中国にすり寄るのだって、批判する人がいたが、日本がアメリカにすり寄るのと同じことだ。韓国の方が、北朝鮮という爆弾を抱えて現実的なのだろう。日本がどうあるべきかということを、国に任せておくのでなく、国民全体で議論するというのが、必要なはずだった。国にしてみれば、説明したころで理解が深まるような、内容ではないという認識だったのではなかろうか。実績で信頼を得てゆきますと今度は発言している。ここまで国会の説明をないがしろにしたのでは、民主主義というものが成長し、国民が成熟してゆくことは当分無理だと思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安保法案の可決

2015-09-19 04:17:26 | Peace Cafe

安保法案が成立した。多数決で議会は出来ているから、こうなることは決まっていた。この背景の問題点は、自民党の支持者は3分1程度で、3分の2の議席を確保するという、小選挙区制というおかしな選挙の仕組みだ。日本人全体で見れば、この法案を良しとする人の方が少ないということが、まだ救いである。この法案は大きく2つの問題を残したまま成立した。国際情勢が変わったから、憲法解釈を変えるというご都合主義にある。集団安全保障が日本国憲法で認められているかどうかが、曖昧なまま作られた法律であるということ。もう一つは、アメリカの圧倒的軍事力というものに、陰りが見え始めたということと、同時に中国の軍事力が徐々に大きくなり始めているという、国際情勢の中で、日本がただアメリカの支配下にあるという、立ち位置を強調することが、日本の安全につながるのかどうかだろう。この2つについては、国会では詳しく、丁寧な説明を政府はしてくれるはずだったが、ついに明確な説明はなかった。

憲法違反の法律が通ってしまったのではないかということは、よく言われたが、立憲主義を逸脱してしまったという恐れである。憲法に従って、国の運営を委任された政府が、自ら憲法を軽んじてしまった。現実論はともかく、本来であれば、憲法を改定してから法律を作るのが、まっとうな手順であろう。しかし、3分の1しか本当の指示はない自民党としては、国民投票によって、憲法の改定をすることは不可能と考えているだろう。そのために、矛盾を承知で解釈の変更という、訳の分からないやり方でことを進めてしまった。多くの安保法案賛成者が主張するところの、世界情勢が大きく変わっているは、アメリカの衰退ということなのだろう。緊急に法律を作り、アメリカの軍事力に日本が加わり強化しなければ、日本の安全は守れないということだろう。それは中国の軍事力の増大が背景にある。しかし、外交的努力という意味では、アメリカ一辺倒が日本の安全になるかどうか。お隣の韓国はむしろ中国接近をしている。

兵器が巨大化して、大国同士の戦争というものは、ほとんど考えられない情勢である。それは日本の武力の大小にかかわらずである。日本から戦争を仕掛けない限り、日本への全面的な軍事攻撃の可能性は、年々小さくなってきている。それがここ50年の世界の軍事力の巨大化とみてよい。しかし、テロの起こる可能性は逆に年々高まっている。テロも複雑化し、より大きくなり、政府がテロ集団を抑えきれずに内戦化している国もある。日本の安全保障を考えれば、国家間の全面戦争ではなく、当然、テロ的な攻撃への備えを中心にしなければならない。だから、自衛力を高めるというより、警察力を高めるということが重要になる。国境の島のことを問題にするなら、海上自衛隊ではなく、海上保安庁の強化である。軍事バランスということではそういうことになるが、その前に行うべきことが完全に抜け落ちている。

平和外交である。憲法に示されているように、平和的手段で国際紛争を解決するということである。政府が変えたいのは憲法のこの部分で、国際紛争は武力によって解決するしかないと考えているのだろう。平和的解決とは、領有権問題など日本から積極的に国際司法裁判所に提訴してゆくことだ。紛争化する芽を早く摘み取ることが、戦争を回避する一番の道だ。その努力をしないということは政府が憲法に従っていないということになる。中国との尖閣問題では、日本が国際裁判を拒否している。戦争の芽を摘み取るためであれば、領土問題での我慢も必要である。それは日本が屈服したことではない。安保法案が成立した結果、テロが日本に対して向けられる可能性は増大した。日本政府がテロの可能性が減少したとする理由の説明もなかった。テロの対象にならないための、平和外交を早急に始めなければならない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

移民と難民

2015-09-18 04:08:36 | Peace Cafe

ヨーロッパに中東からの難民が押し寄せている。中東政情不安、特にシリアの内戦状態が難民を生んでいるだろうことは想像がつくが、ハンガリーやギリシャまで来た難民たちの話していることは、どことなく移民のような印象を受ける。祖国での生活が不可能になったから、豊かなヨーロッパで、教育を受け仕事をしたい。というような言ことを口々に話している。国家があって民族なのだと思う。難民認定ということがある。ドイツでも難民の認定に半年もかかる場合もあるらしい。難民とは何か。難民を規定する国連の規定書を読むと108ページにも及ぶ長文であり、もう一つ明確な印象がない。日本の難民制度を読むと「難民とは,人種,宗教,国籍,特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由として迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために国籍国の外にいる者であって,その国籍国の保護を受けることができないか又はそれを望まない者とされています。」とある。

良く日本は難民に対して、冷たい国であるということが言われるが、難民に対して日本人が冷たいというより、難民の認定が厳密な国ということだと思う。難民認定の役割に当たった、元難民支援のNPO団体の代表が、難民認定の仕事にをした後、書いた文章をよんだ。ほとんどの人が移民希望であり、難民とは言えなかったと書かれていた。難民を広く認めるべきと言われていた支援団体の人でも、難民というより移民ではないか問う疑問を持ったという。国家権力から迫害を受ける恐れがある場合難民と認定される。貧しいから、外国に逃れようということでは、難民とはいいがたいのであろう。貧困の問題が移民の背景にあり、日本も移民が国家政策として奨励され、多くの人が海外に渡った。台湾、朝鮮、満州、樺太、からの戦後の引揚者数が、300万人と言われる。現在のアメリカ、および中南米の日系人総数がやはり300万人と言われる。

移民について学んでゆくと、日本人の移民は政府による棄民というような性格があり、国家と国民の関係を深刻に考えざる得ないことに出会う。いま、日本では人口増加策が盛んに言われるが、そんなことは国があれこれ関与すべき問題ではない。政府は良い国を作ることを目標するだけで良いはずである。良い国になれば、自然その国土に見合う人口に落ち着くはずだ。明治の日本から移民は、どちらかと言えば出稼ぎの感覚を残していた。東京に出て一旗揚げるというような感覚と似ていて、ハワイや南北のアメリカにわたり、成功をおさめ、故郷に錦を飾るというような気持ちが見られる。昭和の移民になると、満蒙開拓団のように、国策による国家の拡張意識が根底にある。移民が気になるのは、たぶん親族にアメリカのサクラメントに移民した人がいたからだと思う。

イスラム圏の政情が安定しない限り、脱出はさらに広がる。大きな歴史の流れから考えれば、武力による世界均衡の結果である。武力には武力をもって対抗する勢力が現れる。世界の現実が武力均衡であるのは確かであるが、中国が競争に加わり、このまま進めば取り返しのつかないことになるだろう。国家間の戦争というより、内戦化したテロの蔓延である。弾圧すれば必ず新たなテロが広がる。50年前より状況は悪化している。武器の進歩もある。生物化学兵器の問題もある。もし、北朝鮮が内部崩壊したとして、その難民は日本に来るのだろうか。中国の破たんによる難民が日本に来るということはあるのだろうか。対応を誤ればタイで起きたようなことが、アジアでのテロが日本で起こされる危険は、増している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野動物園・雷鳥育雛できず。

2015-09-17 04:27:54 | 自然養鶏

上野動物園での育雛の失敗は、心配していたことだった。野鳥の育雛は極めて難しいことだ。どの鳥でも餌には相当の工夫がいる。まして、高山の特殊な環境に生息する雷鳥を人工飼育するということは、並大抵のことに思えない。餌である。どんな餌をやればいいのか十分な研究のものとに、行われなければ、命を無駄にすることになる。だいぶ前になるが、富士山に雷鳥を移そうと放鳥を試みたが失敗に終わった。小学生のころで、山梨では結構話題になっていた。確か2回試みがあった記憶で、雛も確認されたはずだ。富士山の環境で雷鳥が生息できるとは思えなかった。ただ高山であればいいのでなく。水場があり、餌が豊富であることが重要である。富士山は5合目まで水場がない。だから五合目の水場には大量に鳥が集まる。鳥好きの観察の拠点がある。一度泊まって終日眺めたことがある。おりざ農園の窪川さんと一緒だった。彼とは高校生の時出会って、犬やら鶏やら魚やら、ありとあらゆる生き物への興味が共通で、何かと行動を共にした。もし彼が生きていてくれれば、一緒に雷鳥でも見に行けたのにと思う。そういうことになると彼は断ったことがなかった。

上野動物園で雷鳥を育てるだけの準備があるのだろうか不安に思っていた。雷鳥の生育環境がまるで動物園の人工飼育とは違うからである。6月に生まれて、8月末に死んだ。やはりかと思う。育雛の難しさの山が2ヶ月目から3ヶ月ごろに来る。育雛は雛から中雛に代わる羽が抜け替わる時期が一番難しい。栄養がたくさん必要になる。それだけの体力が備わっていなければ乗り切れない時期だ。餌である。普通の育雛用のえさを与えていたのでは、死んでしまう確率が高い。まず、雷鳥のひなが育つ自然環境を調べることである。3000メートルに近い高山地帯だから、微生物、病原菌の状況が相当に異なる。過酷な環境に見えて、こうした微妙な環境だから生き残ってきた、特殊な生き物だ。富士山に移しても結局定着できなかった。まず、生息する山岳地帯で、十二分に観察を続けることだ。そうすればどうすれば育雛できるかの材料があるはずだ。

観察ということが何より需要である。保護するなら、雷鳥になるくらいの気持ちで観察する必要がある。だからそれくらい雷鳥が好きでなければ、無理だと思う。青森、岩手、秋田の方に何度か、声良鶏を飼う人をお訪ねした。鶏の飼い方を学ぶためだ。本当の鶏好きの人から、それぞれの秘伝の鶏の飼い方を教えて頂いた。鶏を見る目が驚くほど深い。とさかの色や脚の違いを、10種類くらいに見分ける人がいた。そこから鶏の状態がわかるというのだ。私にはいくら見ても、濃い薄いぐらいしか見えなかった。目の表情で状態を見るという人など全く心眼で見るとしか言いようがなかった。しかし、そうしなければ飼えないということだけはしみじみ分かった。夜になれば、寝床に運んで枕もとで寝かせていた。朝一緒に起きて、3声鳴かせることを日課にしている。お訪ねしたときに、朝来いという意味が分からなかったのだが、朝の長鳴きの時間に合わせて来てほしいということだった。

中国でパンダの飼育を成功させている。それは相当に難しいことのはずだ。パンダになってしまった人が何人かいるのだと思う。中国の動物飼育技術の奥深さには伝統がある。野鳥の飼育もすごいものがある。中国で野鳥のえさの生餌を作っている人を訪ねたことがあるが、昆虫養殖の技術も安定した歴史を感じるものであった。需要があるから、技術が完成している。私が訪ねた頃から思うと、中国も急速な変化でどうなっているだろうか心配である。紅衛兵があれほど猛威を振るった時代でも、金魚や鳥の趣味は消えなかったのだが、現代社会の目まぐるしさが、悠久の中国の趣味の世界はどうなっているのだろうか。中国なら雷鳥の育雛の技術はある気がする。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柿渋を作る

2015-09-16 04:36:16 | 自給

柿渋を作っている。以前にも一度作ったのだがその時はあまりに臭くてこれはだめになったと思い込んで、捨ててしまった。先日、柿渋で絵を描いている石原さんにその話をしたら、その臭い状態は失敗したとは言えないかもしれないという話を伺った。購入して使っていたものが、全く臭くないので間違えたようだ。あれでいいなら、もう一度やってみようと思い、早速翌日に仕込んだ。9月10日である。8月中の青柿を使うようだが、まだ機械小屋の裏の渋柿は青かったので、使えると思い再挑戦した。遅いとしても、十分渋はある。柿渋染めの色が気に入っている。板に塗っても、染色に使っても、他にない渋みがある。その上に、耐水性、防虫性があるため、家の外壁の板や板塀などの腐植などにも効果もある。なのか、布を丈夫にしたり、木の保存を良くするようだ。渋い内に柿渋を取り、熟したら柿酢を作る。古来日本の暮らしでは柿の木の1本は必要なものだった。

その上に、柿の木というものは風情がある。よく和歌や、俳句にはうたわれてきた。あの一枚の葉の見事さは、他に類するものがないほど立派なものだ。色つやが良いうえに、紅葉での色の変化の微妙さは格別である。渋柿のすごさは、その渋さがゆえに、鳥害、獣害にも比較的強い。干し柿の甘さは甘味料として使われたほどだ。渋柿を余すところなく使うのが、里地里山の暮らしだ。石原さんの絵もそうだったのだが、草木染の色のなじみ方は格別なものである。まあ、なじみすぎて私の絵の色の考えとは遠いものではある。絹の結城紬の白い反物を持っている。素晴らしい布なのに、使い道がない。そこで、この布を柿渋で染めてみようという計画である。染めてみてうまくゆけば袋を作りたい。袋葉10枚ほど作り、種もみの保存袋にしたらどうだろう。袋には墨で大豆種。小麦。二条大麦種。さとじまん種籾。喜寿糯種籾。とか書いてみたい。別段それだけのことだが、なんとなく今から楽しみなことだ。

この黒い甕は3つある。5升壺ぐらいの大きさである。不思議な甕なのだが、奈良に越した中原さんの引っ越しの時に頂いた。中原さんがそこに住む前にいた陶芸家が置いていった甕なのだそうだ。そういえば、中原さんがそこに越す時も手伝いに行って、黒い甕があったことは覚えていた。どんな方かはわからない人の甕だ。これをその方が作ったものかもしれない。どうも釉薬が入れてあった甕と考えるのが良い。釉薬甕が柿渋甕になっている。青柿は小さなかごに1杯だけ採った。それをすぐに4つ割にして入れ込んだ。それを上から包丁でできるだけ細かくように何度も差し入れた。その後すりこ木で上からどんどんと突いた。まあ30分ぐらい適当にやった。そこそこ細かくなったところに、水をひたひた迄入れた。水を入れずにやる方法もあるらしいが、ミキサーを使うようなことは面倒くさい。

上から、絹の布で押し蓋のように抑えをした。その上からビニールをかぶせて、ひもで縛ってある。抑えはいらないのだろうが、布の染まり具合が楽しみだからわざわざ結城紬の絹布を入れてみた。贅沢なことだが、手織りのものが時にはメートル100円にもならないで手に入る。柿渋は完成に2年かかるという説もあるが、すぐにも使えるという考えもある。そこで、段階ごとに染色もして、その違いも見てみようという考えだ。一週間目であるが、毎日1,2回はかき回している。かき回すといっても包丁で、切り刻みながらかき回している。だからだんだん細かくなっている。この調子で2週間やって、絞ろうと考えている。もちろん絞るのも押し蓋の絹の布である。仕込んで翌日にはあぶくが出てきた。柿がだいぶ盛り上がるようだ。包丁を突っ込んでいる間に、あぶくは収まる。ビニールは膨らむことはない。それほどの発泡の力が出ることでもないようだ。今のところ臭いにおいというより、目に染みるような感じである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする