地場・旬・自給

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イネ種まき後二週間の状態

2022-01-31 04:07:52 | 楽観農園


 イネは種を蒔いて二週間が経過して、二葉期に入っている。地表に5㎝ほどの高さまで葉が伸びてきている。やはり温かいから、伸びが早いのだろう。少しひ弱に見えているところが不安要素。がっちり苗に成って欲しいものだ。

 水は充分に湧き出ているので、安心して水管理が出来る。1月に入ってから、とつぜん多雨な状態になった。新しい田んぼの造成には水が充分にありありがたいことだ。苗の育苗も安心して出来る。最初の年がこの状態だから、将来は心配ない。

 土地をお借りする前の去年を通しての予定地の観察をしていた。水はあると判断はしていた。観察が正しかったと思うとほっとする。何ごとでも日和見は大事である。確かに水は少なかったが、無いわけではないし、この湧水の歴史とこの場所の地形から、水は湧くと判断した。

 水は一月になり雨が多くなり、湧水量が増えたと言うこともあるが、溜め池を作り、湧水の周辺を整備した事によって、湧水への水の道が開かれてきたという感じもある。水がのぼたん農園にに呼び込まれ始めた。井戸は使うことによって水が増えると言うことがある。似たような現象が起きているとみているがどうだろうか。

 土壌に関しても田んぼになる土壌だと判断していた。その昔田んぼであったと言うことがある。土壌は石垣島特有の水持ちの良い土壌だと判断できた。問題は石の多さである。これが地表だけで無く地中にまで石の層があれば、かなり田んぼにするのは困難になる。

 この点では一部以外には石混じりの地層は無い。そこの石さえ取り除けば、あとは根気よく石を取り出すだけである。一年で石を取り尽くすことは無理だろう。毎年すこしづつ石を外に出して行く。田んぼに入り足に石が触れば分かる。根気よく石の取り出しをやる以外にない。

 幸いなことにこれまで鳥とかネズミの被害は出ていない。ネズミは見かけたこともある。毎日野良猫が回ってきてくれている御陰かもしれない。2時頃田んぼの脇を通過してゆく。随分きれいな白黒のトラ猫なのだが、野良猫と言われているが本当だろうか。もし野良猫なら去勢したい。

 苗は今週一週間の間に新しい段階に入る。種の胚芽からの栄養分を吸い終わり、自根からの生育が始まる。根は伸び始めている。この段階で土壌の状態が見えてくる。調子が悪いようならば、早めに手を打つつもりだ。生育の停滞が起きたならば、用意してある、液肥をジョウロで流し込みたいと思っている。

 葉色に注意をしなければならない。葉色の緑が徐々に濃くなるのでなければ成らない。黄色い苗が良いという考えもあるようだが、何故そんな考えが生まれたのか、信じがたい考えである。苗ほど甘やかして万全に育てる必要がある。それは人間の赤ちゃんと同じだ。虐待で良くなることどもなどない。

 苗は滞りなく健全に育てる必要がある。その点3週目までの生育が分かれ目になるので、もし怪しければすぐに油かすを発酵させておいた液肥の追肥を行う。また土壌が嫌気的傾向が見られたならば、光合成細菌を使う。ここに合わせて増殖中である。

 伝統農業の育苗では速効性のある対応は無い。何年も掛けて苗代の土壌をよくするほか無い。今年は初めての土壌なので、不十分な結果でも仕方がない。将来を目指し、土壌をよくするためには腐植を増やし、充分に肥料分をつかめる土壌を作ることである。石垣島の土壌は腐植がまるで無い。この改善を考える。

 土壌は乾かすとたちまちに日干しレンガのようにコチコチに固まる。これでは根は伸びれない。腐植が無いことが影響している。田んぼだから水があるのでその点いくらかましだが、それでもまったく水が浸透できないような堅さなので、腐植を増やす努力を続けたい。

 方法としては水草を繁茂させたい。アカウキクサを見付けたいが、まだ見つからない。それは仕方がないとしても、水草を緑肥とする農法を研究したい。当面ミズオオバコを導入してみたい。石垣島の希少となってきた水田雑草である。アカウキクサもそうなのだが、雑草と呼ばれて無くなることが喜ばれる草。

 少し違う話になるが、溜め池には熱帯水連のティナの苗3つを入れた。一番寒い時期の水温で23度であるから。充分に熱帯睡蓮が育つ気候だ。どうなるか溜め池への興味がさらに湧いてくる。花は人を呼ぶ。睡蓮池にあとはサガリバナと言うことになるのか。

 溜め池にはオタマジャクシが大量に出ている。アメンボーが来ないのは少し不思議だ。近間の他の田んぼを観察してみた。国仲さんの果樹園にある溜め池を調査する必要があると考えて、ちょっと見た範囲では何もいない。ここには溜め池が3つあるが、過去調査の記録は無い。

 この溜め池の一つをワカバがきれいに掃除しているのだが、溜め池の中にワカバは入りたがらなかった。水牛にしてみるとやはり寒い時期なのだろう。寒いときに水浴びは余りしたがらないようだ。雨も多いし、別段水に入りたくないようだ。

 2週間目の機能からは苗代には水を浅く張り始めた。浅く水没しない程度であるが、今回は苗代全体では直播き田んぼ全体なので、なかなか水位調整が難しかったが、2週間して沈むところは無くなった。問題はこの後しっかり育つのかどうかである。今ひとつしっかりした感じがしてこない不安がある。

 風が強すぎるのも不安なのだが、さすがに四方向高くなっているので、風はやわらいでいて、水面が波立ち土が寄せられるというようなことは今の頃は無い。それにしても防風林を作り将来はさらに風よけをしたいものだ。

 田んぼは予定の4番田んぼまで出来上がった。これで一安心である。ほぼ1月一ヶ月で5つの田んぼが出来上がったことになる。細かい調整はすべて福仲先生が田んぼに仕上げてくれた。水平の田ずら、しっかりした高い畦、ユンボによる代掻き。見ているだけで随分勉強になった。

 まだ土を取り除くぐらいのことしか出来ない。この後、5番田んぼ以降の土木工事はゆっくりやればいいことになる。ユンボ操作の練習をかねて、田んぼを作る技術を習得したいと考えている。草の抜き方、土の動かし方、水平にする方法。

 私だけで無く、他の人もこんな練習の機会はなかなか無いだろうから、若い人こそ覚えて貰いたいものだ。案外女性が熱心だ。ユンボ操作に男女差はない。是非練習してくれると良い。落ち着いてやれば危険なことは無い機械で、その点トラックターよりも安全なのかもしれない。


 
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第93 回 水彩画 日曜展示

2022-01-30 04:40:55 | 水彩画
第93 回 水彩画 日曜展示

横型の絵を集めた。10号前後である。






596「セギの辺り」
2022.1







597「島原の教会」
2022.1







598「妙高山」
2022.1









599「桑原の桜土手」
2022.1







600「戸隠山」
2022.1







601「瀬戸内の島」因島から向島
2022.1








602「戸隠山」
2022.1








603「久住山」
2022.1







604「関門海峡」
2022.1






605「塩山桃の里」
2022.1


 今回の絵はどれも随分前の絵である。前の絵と言っても前に描き出した絵と言うことになる。途中まで描いて完成できないまま、置かれていたものだ。見ていて、今なら描き継げると思えたので、描き継いだ絵。

 分からないことは描かないという考えで途中で止めている。分からないまま描くと、ついいわゆる絵を描くことで仕上げてしまう。情報で仕上げてしまう。これは絵を描くうえで一番やってはならないことだと思っている。

 だから、中途で終わっている絵が山ほどある。いつまで経っても絵が終わらないと言うこともある。分かるまで分かることだけを描くほか無い。久しぶりに描いて、終わりまで描いたと思えることもあるし、また分からなくなってかたづけてしまうこともある。


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古い友人からの贈り物

2022-01-29 04:04:37 | 楽観農園

 上の写真の、この田んぼの景色に惹きつけられて、石垣島に引っ越したようなものだ。その田んぼは石垣島で昨年田んぼを貸してくれた、大浜英太郎さんという方の作られている天水田の田んぼだったことの不思議。そしてこの景色の場所にのぼたん農園を作ることになったさらなる不思議。

 とつぜん、我が家に大量のお菓子が送られてきた。何かの間違えではないかと思ったのだが、古い友人からの贈り物だった。年賀状はいつも出しているのだが、直接会うことも随分無かった。最後にあってからもう一〇年以上が過ぎている。

 あわてて電話を入れた。電話をすることすら一〇年以上経っている。話し出すと昨日の今日である。いっしょに飲んで話したあの時間がすぐ戻ってくる。いつまで経っても昨日の晩のことだ。もう50年も経っているのに、なんたることかと思うが、時間というものは実に主観的なものだ。

 お菓子はのぼたん農園を応援したいと言うことだった。のぼたん農園は一人のことでは無いから有り難く頂いた。そういう思いも頂いて冒険を続けている。だから遠慮しないでみんなに手伝って貰っているし、応援もして貰う。必ず未来に繋がる活動だと考えている。改めてその覚悟をした。

 50年前の友人はいまも肩を組んでいるかのように生きた友人なのだ。その気持ちは人間は時空を越えている。私が石垣島でのぼたん農園に取り組んでいると言うことを知って、応援したい気持ちになってくれたというのだ。私もそうありたいと思った。

 なんとも有り難いことだ。早速お菓子をみんなに配った。そういう友達の励ましの思いがあるから頑張れる。ここに日本一美しい伝統農業の農園を作るという思いは誰かに繋がる。その意味がいつの日か伝わることだと思っている。このことに取り組むことができたと言うことで、この先のやるべき事が明確になった。

 何を絵に描くべきかが、一歩前進したような気持ちがしている。冒険に乗り出して、楽観というものかが見えてきた。身体が教えてくれることがある。楽観は自分の命を越えると言うことだ。私心をはなれると言うことだ。楽観農園で始まったのぼたん農園も建設しながら様々に構想が広がる。構想が広がりながら本質に近づいてゆく。

 毎週絵の感想をくれる友人がいる。彼の金沢本多町の下宿は私の帰り道にあった。夜になって暗い兼六園を通り、家に向かう。つい彼の下宿の窓を叩く。そして窓越しにしばらく話をして下宿に帰る。別段何か用事があるわけだはないが、一言話をして帰りたくなるのだ。理由は無い。人寂しく、友達の顔が見たかっただけだ。

 50年経ってもすべては昨日のことであり、今日やるべき事だ。昨日は小田原の友人が、色々のミカンと、里芋を送ってくれた。彼がいてくれたので、石垣島に来ることが出来た。どれほど感謝しても足りないことだ。彼だけでは無い。農の会のみんながいたから、石垣島でのぼたん農園が始められた。

 送ってくれた里芋は過去最高の美味しさである。子供の頃の向昌院の里芋を思い出す。お弁当で早速食べた。大いに元気が出てくる。のぼたん農園を作ることがおもしろくて成らない。適度に働いて身体は好調である。疲れるほどの労働でも無い。

 すべてのものを有り難く、頂いた。友人の思いも「のぼたん農園」に加わっている。昨日は遅くまで福仲先生は田んぼ整地を続けてくれた。何日もやってくれている。ユンボがもう少しうまくなれば自分でも出来るのだが、最後の仕上げはやっていただく以外にない。

 この思いに絶対に応えなければならないと決意を新たにした。誰しも自分のためなど少しも考えていない。のぼたん農園は未来のための活動なのだ。あまり理解はされないことなのだろう。しかし、自給農業を伝えてゆくことが、日本の未来に繋がってゆくという思いが高まった活動である。

 美しい場所にしたいと思い、溜め池には熱帯睡蓮のテイナという品種を入れた。睡蓮の咲く溜め池が出来たらば、モネのように絵を描いてみようと思う。のぼたん農園を作り、のぼたん農園の絵を描く。何かに導かれているかのようだ。

 命という限りある肉体の最後の挑戦である。まあ、100歳までだからまだ大分あるが、身体が動く間となるとさすがにもう10年はないだろう。のぼたん農園だけはやり遂げたいと思う。毎日新しい田んぼが出来てゆくのがおもしろくて仕方がない。楽観が絵に出ているかもしれない。

 後水尾天皇が修学院離宮を造営した思い。修学院離宮に行ったときに、その本質が一瞬に伝わってきた。江戸時代の幕藩体制の中で、天皇の権力も権威も奪われる。しかし日本の稲作にまつわる水土の文化だけは残さなければならない。天皇家の世界観を庭園として示した。文化を持って国を治める姿なのだろう。

 楽観庭園であるのぼたん農園の意味も伝わる人には伝わる。それでいいのだとおもう。生きるという原点を体験する場。人間が生きると言うことを自給農業を通して体感する場所である。生きる為には食料を生産しなければ成らない。それを自分で確認してみる意味。

 ここで描く絵が何かになるかもしれない。そうあれば良いが、絵はそれほどあまくも無い。まだまだ先があることに違いない。農園の方は5年で完成の目標だが、絵の方は100歳までの日々の1枚である。まだ28年あるからたゆまずすすみたい。

 伝統農業で世界が成り立つと考える人も少ない。何千年もそうして生きてきたことを忘れて違うところに進んでいる人間。人間の生命としての衰退である。一人一人が自立できない世界に生きている。何かにぶら下がろうとあがく生き方。それが世界中を経済競争だけの、歪んだ政治体制を生み出している。

 国家権力というものから、距離をとって自立した世界を作り出す。一人の自給的生活。仲間との共同。次の時代がその先にある事を確認しなければならない。人間は食べるものが確保できて生きることが出来る。そして何をするのが人間であるのかをそれぞれが見付ける。

 のぼたん農園は溜め池と5枚の田んぼがほぼ完成をした。初めての田植えまでの目標がほぼ達成できた。苗代に種を蒔いた量が、田植えに間に合う5枚の田んぼの面積に適合している。2本植えで田植えして、余りも無さそうである。予定調和である。何故予定の播種量が分かったのか不思議だが、のぼたん農園は何かに守られている。

 お菓子を送ってくれた友人の思いを受け取り、次につなげる覚悟である。

 
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日本ではPCR検査さえ準備が出来ていなかった。

2022-01-28 04:06:47 | 身辺雑記


 世界中でコロナオミクロン株の第6波が来ると予測をして準備をしていた。日本は初期対応として外国人の渡航禁止を岸田総理が打ちだし、一定時間を稼げた。しかし米軍がかいくぐり、沖縄にコロナウイルスの蔓延をもたらした。沖縄、広島、山口と米軍基地からオミクロンはたちまちに広がっていった。

 時間を稼いでいる間に第6波の対応を準備をいくらかはしているかもしれないとどこかで思っていた。まあやれないのだろうとも思ったが、政府は準備など何もしていなかった。またせいぜいアベノマスクを配るぐらいの頓珍漢のことだろう。

 結局の所、検査もせずに自己判断でコロナと決めて自宅待機していろ、という話だ。患者が自分で出歩いて食事の準備をしろと大臣が言っていた。なんと言うことだ。感染を広げ歩けと言うことになる。重症化のリスクが無いから勝手にして良いと言うことになった。

 一方で外国からの渡航を禁止するほどの処置をしながら、国内では何の対応もなし。日本の政府の無能さは際立っている。つまり普通の準備すら出来ない官僚の劣化。それでも暴動も起きないし、批判すら目立たない。日本人の諦めというか、元から政府に期待などしていないというか。

 情けない政府は病院の準備どころか、PCR検査の準備が無いから、若い人は検査をしないで、自宅療養にするという、抗原キットも売り切れ状態になっているらしい。様々な場面で濃厚接触者の自宅待機が起きて、社会が止まり始めている。

 外国と競べても仕方がないが、勝手に自己判断しろ。自宅療養していろ。検査は無駄だからするな。病院には来るな。これほどひどい手抜きの国に日本はなった。これほどひどい状況をひどいと状況と認識できない報道にもあきれはてる。

 誰かが抗原検査キットを買い占めをしているというのが、医師会会長の見解である。なるほど、どこかの小賢しい奴が、一儲けしようというのか。日本はそんな要領の良い悪党が一番賢いという国になってしまった。コロナ補助金をその仕組みを作ったエリート官僚がくすねるという情けない国だ。世も末なのだろう。

 ブースター接種という3回目のワクチン接種は日本は、ワクチンの準備が出来ず、極端におくれている。早い国の50%レベルと大きく水をあけられている。購入努力を誰かしているのだろうか。日本以外の国が手に入れているのに、外交努力が足りないと言うことか。同盟国アメリカがこう言うときに何故防人の日本を軽視するのだろうか。

 私は二月一日に打てる予約が出来た。今度はファイザーでは無く、モデルナである。ファイザーを打つには病院の電話予約がいる。患者対応に追われている病院に電話では迷惑を掛けそうで出来ない。モデルナなら、インターネット予約が出来る。モデルなでもかまわないから一日も早くうつ。

 ワクチンを打つことは自分のためでもあるが、周りの人のためでもある。年寄が若い人に迷惑を掛けてはならないと言う思いがある。副反応が怖くて打てないと言うことは無い。年寄は人様のために、少々の我慢はしなければならない。確立の問題だ。先ずは無いという事は、私には起きないと信じることができる。

 中国では〇コロナ政策と言うらしい。これで中国だけで無く、世界経済が影響を受けるだろうと言われている。しかし、なぜPCR検査が何度でも充分に出来るのだろう。患者が出たら療養のプレハブがすぐ建つそうだ。1000万都市の全員に2回のPCR検査をするなど、感染者の検査さえ出来ない、日本では考えられないことだ。

 日本では保健所に問い合わせの電話もしないように言われている。職員の本来の業務への対応が出来ないからだそうだ。それならば職員を増やせば良いと思うが、その能力は残念ながら日本国には無い。外国では普通に出来ることが、このところの日本には出来なくなっている。まだこの状況になれない。

 衰退国の現実とはこういうことなのだろう。岸田政権への評価は今までに無く高いそうだ。衰退してゆくときの国民は少しでも強いものにすがりつこうと言うことなのだろうか。政府の愚かさを正そうなどと言う意欲自体が、報道にも弱まってきている。

 死亡者がじりじりと増えてきている。昨日は47人とある。かなり深刻な状況に進んでいる。病原性が弱いといえども、過去に無い数の感染者が今存在しているのだろう。住民の数%のコロナ感染者が存在していると考えても良い状況だろう。

 気がつかないで感染している人が身の回りにもいないとも限らない数だ。失礼なことになるとしても、距離をとって人とは接する以外にない。あと一週間すれば3回目のワクチンが打てる。ともかく、ワクチンまでの辛抱である。

 あと一ヶ月の我慢だ。三月になれば山は越えることになる。しかし、問題はオミクロンの次に変異する株が必ずしも、弱毒化するとは言えないことだ。感染力も強い上に致死性も高いコロナウイルスの出現だって無いとは言えない。それがウイルスの変異だ。オミクロンの病原性がいくらか弱かったのは不幸中の幸いに過ぎない。

 政府にはどのみち対策は出来ない。自分で自分のことを守る以外無い。限界はあるだろうが、最善を尽くすほか無い。強健な身体であれば、感染しても乗り切る確率が高まる。免疫力を今まで以上に高める生活をするほかない。汚いはきれい、きれいは汚いである。

 運動である。適度な運動をして身体を活性化する。毎朝朝の動禅は根気よくやり続ける。田んぼの農作業を続ける。それは気力を養うことになる。強い精神力を培う。コロナに負けることなど無いという確信を持って暮らすことだ。不安や迷いは病を呼んでしまう。

 できる限り新鮮な野菜を食べる。健康な身体は特別なことではない。当たり前の日々の暮らしが健全な暮らしになっている必要がある。身土不二である。サプリメントが効果を上げることなどない。肝臓に負担を掛けるぐらいの逆効果だ。

 今回の石垣島の感染拡大は今までに無い状況である。今までと同じ対応では感染しかねない。この点をつよく認識しなければならない。うっかり感染すれば、一人のことでは無くなる。あらゆる事を想定して気を付けるほか無い。長いことではない。必ず終わりはある。

 二月の一ヶ月を無事経過すれば、一段落する。それまでの辛抱だ。人混みには行かない。ファミマも行かない。スーパーも行かない。小田原には行けない。室内ではできる限り人と会わない。外では出来きるだけモノに触らない。一ヶ月の辛抱である。

 
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水彩画は連歌のようなものだ

2022-01-27 04:50:34 | 水彩画


 アトリエカーの窓からは苗代が見える。緑のネットの所だ。一息つく度に苗の様子を見に行く。幸い一度も鳥は来ていない。このまま無事一週間過ぎれば一安心である。アトリエカーの写真の右側にあるように、次に描く絵が挟んである。一度描いてみてまたここに戻すものが沢山ある。

  この描きかけの絵は、目の前にあるのだがかなり先に進んでいる。す澄んで良くなってきたというわけでは無いが、描く意図は徐々に見え始めている。絵としては出だしのときの何物かを今は失っている。それでいいのだが、問題はこの後である。

 大学の頃の美術部の話なのだが、文学部の角田さんが連歌をみんなで作ろうと提案された事があった。角田さんはさすがに連歌の式目を理解されていた。平安時代以来、連歌には極めて複雑な式目という作法が存在する。それが平安貴族の文化人の教養というものだったらしい。

 江戸時代にはその格式の高いものが、庶民的なものに変わり、俳諧連歌というものになる。角田さんが初心者向けの簡単ないくつかの約束事を提案してくれて、美術部の部室で時々やってみた。それが結構おもしろかった。あの頃は頭がまだ機敏に反応できたわけだ。

 約束事を表示しておいて、それに従って句を作るのだ。ところが問題は句自体が出てこない人が多くて止まってしまって困った。何でも良いから作れというのだが進まないでたびたび頓挫した。一人が停止すると連歌には成らない。

 美術部の大勢で鳥越ダム建設の飯場だった、大学の鳥越寮に行って連歌をやったことの記憶がある。あの頃の日々は懐かしい昨日のことだ。冬の雪に埋もれた時だったので、雪の出て来る句ばかりになった。それでは約束と違うのだと言っても無駄だった。連歌を作る教養は無かったわけだ。

 水彩画は連歌のようなものだ。油彩画が物語だとすれば、水彩画は連歌である。水画画を描いているときに、連歌で句をつなげてゆく感覚に似ているなと思ったからである。白い紙に最初に筆を漬けるのは、発句である。発句575に対して77をつける。77に対してさらに575を付ける。

 連歌というものは共同芸術のような行為である。茶の湯のお茶会のようなものだろう。連歌を作ると言うことに芸術的共感を高める高揚がある。出来上がるものも意味が無いわけではないが、むしろ創作を共にすると言うことで、精神を高めてゆく。連歌という形式にはいかにも日本的な芸術行為の姿がある。

 水彩画は連歌のように描きつらねてゆくものだと思ったのだ。始まりから終わりまで一気に描けることはまずない。大抵は途中で止まる。しばらく時間を空けてその続きを描くことになる。また止まる。また描き継ぐ。この繰返しで絵が生まれる。

 この止める、描き継ぐの呼吸が水彩画では重要な要素だ。最近と言うより昔からそんな描き方だった。絵を見ている内に何かが来て、描き継ぐことが出来る。来なければ止まったまま何年も経過する。描き継ぐ描き方には、作法がなんとなくある気がする。始まり方にも作法がありそうだ。

 連歌では最初の3句が重要だといわれている。1句目は季語が入る。この句が発句であり、芭蕉が後に大成した俳句である。向昌院の祖父は飯田蛇笏の俳句の会に入っていて、発句の会と言っていた。2句目はその会の主催者が詠むこととなっており、1句目にしたがった内容を詠む。3句目では、その歌会の流れを決める決定的な句を詠む。3句目は「て」で終わるのがルールとされる。

 分かりにくいので、一例を挙げさせて貰う。現代の連歌からの引用となる。味わうときには前の句を一度詠んで次に進むと良いようだ。2句でひとくくり。

かしこみてくぐる茅の輪の匂ひかな 紅夢
風すがすがし梅雨のあとさき    正謹
立つ虹は峰を片へに彩なして    淑子
入日ながむる内海の宿       隆志
大楠をねぐらの雀鎮まりし     佳
落葉踏みしめ歩くつれづれ     勲
月見んとまだきに出でし路遥か   裕雄
雁渡り来る空の深さよ       裕子
吹く風を秋と定めし人憶ふ     忠夫
なほなほ書の尽くることなく    清
   
 最後を占める句のことを挙句という。いわゆる挙げ句の果てのことに成る。連歌の最初の句である発句に対し、その最後を締めくくる句が挙げ句になる。この事例の挙げ句はどうも力が抜けている気がするがそうでもないのか。歌仙連歌というものであれば36句目に当たる付句が挙げ句となる。

 水彩画を描いていてこの連歌の流れのことを思う。前の未完成の状態に反応して次を描く。そしてさらに生み出された新しい状態に従い、次を描き継ぐ。これを繰り返して最後に挙げ句が来る。これが一日で出来ることもあれば、何年もかかることもある。

 いつも先のことを予測して描いているわけでは無い。その時の描こうという気持ちが筆を進める。そして何故か出来た、画面を発端にして次に来る状態を想像して、描き継いでみる。いつ挙げ句の果てが来るか分からないところがあるのが水彩画である。

 実は大学の美術部では連歌のように絵を描いてみようという共同制作をしたこともある。ベニヤ2枚サイズの絵を4人で描き継いだ。なかなかおもしろいことだったが、やはり完成に至らなかった。やはりどうしても手を出せない人が現われてしまうのだ。

 水彩画で最も重要なことは描き継ぎ方だとおもう。しかもいつも次の句があると言う描き方である。挙げ句がいつ来るか分からない描き方だ。終わりはとつぜん来る。自分では分からないのだが、描き継いでいる内に絵の緊張が高まるようなことが何かをきっかけにして起こる。

 絵が立ち上がってきた感じが生まれる。結論を出す方向が見えてくる。挙げ句の果てのことだと思う。水彩画の一人連歌である。本当はこれを共同で行える共同制作が可能であれば、おもしろいと思う。とうてい無理だと思うが。将来水彩画の在り方として、連画と言う形式が生まれる可能性も無いとは言えない。

 この場合も描き継ぐ約束事、作法がやはり必要になるだろう。描きだしの役。方向を探る役。方向を決める役。やはり三人目が重用であろう。展開して行く役。展開の役は何人か居る。そして立ち上げる。挙げ句の役。ここが最も重要になるのだろう。

 水彩画の重要性は最初に描いたことの意味が、否定されたり、そだてられたりしてゆくものである。最後まですべてが生かされた画面になると言うことだ。描くすべてが何らかの形で残されていることが水彩画である。前に描いたものをどのように生かすか。なおかつそれをどう否定するか。そしてどこに向けて描き、どのように終わるか。

 芭蕉は発句を独立させて、俳句とした。これは随分素晴らしい発想の転換に見えるが、社会的な意味での芸術の衰退と言うことでもあったのかもしれない。一人で大道芸のように、神社の境内で一日千句を作る発句興行さえ生まれたそうだ。芸術を個人のものに出来たという意味では、先駆者ではある。しかし、芸術の共同性というものを消したと言うことでは、失ったものは大きい。

 現代では連歌が衰退した。それは絵画というものの衰退も感じさせる。絵画が発句になる。個人のものになる。私絵画になる。連歌が作られる文化が失われる。絵画というものの役割が失われた社会に生きている。


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円安の時は絵の具が買いにくい

2022-01-26 04:01:21 | 暮らし


 水彩絵の具をそろそろ買おうかと思っている。まだ無くなるわけではないが、使い切れないほど無いと絵の具も紙も安心できない。昔、ファブリアーノの水彩紙を大量に買った。買ったあと紙の質が変わった。買っておいて良かったとつくづく思った。

 画材はどんどん変わる。これぞと思うものはできる限りかっておいたほうが良い。例えばカドミニュームレモンは無くなっている。しかし探すと古いものが売られている。それでももう少し円が高くならないかと、ためらっている。時々換算レートを見るが、せめて110円ぐらいにはならないものか。

 ためらっていたら、なんとオミクロン株がカナダからの通販を介して中国で感染があったということがニュースであった。あるかもしれない。まさにこれは生物テロの予兆のような恐ろしさである。これでは、しばらくは海外からの通販は止しておいた方が良いと言うことのようだ。

 大抵の画材はebayという通販で購入する。今日も見てみたが以前よりも日本円価格は高くなっている。もう少し円高になって欲しい。今の円安はさすがに極端だと思う。日本がこんなにも安くなってしまったのかと思うとどこかがっくりくる。

 あるいは、日銀の輸出企業支援の政策金利のためなのか。それで輸出が好調なのだろうか。そうでもないようだが。しばらく前は今より一割くらい安く買えたのだ。新聞によると、現在の円の価値は1972年並の水準と言うことだ。

 金沢の旧生協の二階のアトリエで絵を描いていた頃と同じと言うことになる。あの頃は自活していたので、画材を買うのはかなりの生活負担だった。それでもアルバイトをしては画材を買った。絵の具を買いたいから働きに行くという感じだった。

 学生課というところで、学生のアルバイトの紹介をしてくれていた。学生課の方は大学の教員よりも、一番親しい人だっただろう。何かと親切にして貰えた。課長が絵を描く人で、わたしが芸交祭という絵画展に出品した絵をわざわざ、知り合いの画家に見せてくれたくらいだ。私がフランスに行くときも大いに励ましてくれた。

 なにしろ、旧軍隊の馬小屋に暮らすことになったのは、学生課の方が美術部のアトリエとして使って良いと、言ってくれたからだ。もちろん寝泊まりしていたのは今だから書けることだが。50年すれば時効だろう。その場所は昔は金沢城の庭園だったというところだ。今は素晴らしい日本庭園が再現されている。そんなところ寝泊まりして大学に通う幸運な学生がいるだろうか。

 話がそれてしまった。日銀は円安は経済成長率を押し上げると主張するが、実質実効レートの低下は円安と物価低迷。日本経済の低下によって円の対外的な購買力が、かなり下がっている。円安は消費者の負担は増すことにならざるえない。ガソリンがこれ以上上がれば、乗り控えが起こるのだろう。円安で喜んでいるのは輸出企業だけだ。

 円の実質実効レートは円相場が初めて1ドル=70円台に突入した95年の150台が最高で、当時から50%強、低下した。このことは今の半額で絵の具が買えたと言うことになる。アメリカで購入するから良くないので、ヨーロッパの絵の具や紙なのだから、ヨーロッパで買えば良いのだが、情けないかなヨーロッパの通販というものがよく分からない。

 Winsor&Newton Professional Water Color Paint37mlチューブビリジアン
真新しい4,061円1月22日17:26即購入通関サービスと国際追跡が提供されます+1,519円の送料見積もりとある。5600円ぐらいの絵の具と言うことになる。以前は5000円以下だった気がする。

 絵の具は英国がほとんどなのだから、英国の通販から買う方法が分かれば良いのかもしれないが、英国のポンドで購入してもどうも一度ドルレートになって居るようにも見える。この辺のシステムが理解できない。それでも、日本国内の画材屋さんにはない37mlの水彩絵の具である。このサイズで無いと、毎日は絵は描けないだろう。

 円の相対的価値が下がっているのは物価上昇率の内外格差を為替レートの変動で調整できないためだ。本来、物価が上がると購買力は下がるため通貨の価値は低下する。逆に物価が安定していれば通貨の価値は保たれる。だから為替レートは時間が経てば、ものの価格で調整される。

 ところが、95年からの日本の消費者物価指数の伸びは4%なのだ。30年近い間ほぼ上昇が無かったということらしい。この間の米国の上昇率はなんと84%にも達した。物価が上がらない日本の円の価値は上がり、それが名目の円相場に反映されるはずだが、1ドル114円台と1年前より、10円安い水準になっている。これでは絵の具が高くなるわけだ。

 物価の格差はビッグマックは日本では390円だが米国では650円。アメリカで買う絵の具は日本の倍近いという意味だ。本来なら1ドル70円まで上昇しないと価格差を埋められない。円が上がるどころか、さらに下がっている。この辺りが実感と実体に開きがある。

 円相場は実体経済よりも円安に振れているため、ビッグマック指数で測る円の価値は主要通貨で最も安い。日本のラーメン店チェーン「一風堂」が提供するラーメンも、国内で食べると800円程度だが米国では2300円という驚くべき価格だそうだ。気楽には食べる気になれない。そういえばラーメンというものはもう何年も食べていない。

 世界がインフレになっている中、日本だけが2%目標に、何年経っても達しない低インフレ。経済力の低下に従う円安で購買力の低下は、海外からモノを輸入する際のコスト増に直結する。日銀の輸入物価指数によると、牛肉は10年前に比べ2.4倍に急騰。それでも国内の牛肉よりは大分やすい。小麦は66%上昇したというが、国内小麦の生産費から見れば、極めて安値である。

 問題はこの辺にあるが、農産物の場合以上に工業製品の生産コストも日本は極端に低いらしい。どういうことなのだろう。日本人の労働生産性が悪いらしい。見本人は勤勉な方だと思う。労働者の問題よりも、組織や工業製品の生産現場そのものの問題か。農業で言えば、気候や耕作地の条件が違うのだろう。

 原油先物価格が2022年に1バレル平均90ドルで推移すると為替相場が横ばいでも家計負担はトータルで21年に比べ3万円以上増えることになるそうだ。87ドル台前後まで上昇している。日本人の生活がだんだん苦しくなってきていることが分かる。

 2021年後半から欧米諸国はインフレに対処するために金融緩和縮小、貸出金利の引き上げにカジ取りを切り変え始めた。金融政策の差から円は売られやすく、今後も引き続き日本の物価上昇は欧米諸国と比べれば小さいだろう。円の価値の低下傾向がさらに続いてゆくのだろう。

 絵の具はあきらめてそろそろ買うしかないと言うことだろうが、オミクロン蔓延状態では買えない。待っていればさらに絵の具が高くなるばかりだ。いよいよEBEYで買うよりは英国で買う方法を研究すべきなのだろうか。英国の画材屋さんからの購入方法の調査が必要になる。

 フランスに居た頃、英国に行きあちこち画材屋さんも巡り歩いた。珍しい紙が色々あり、購入した。顔料で着色した紙があり購入した。今でもいくらか残っている。この紙は絵の具に紙を着色する染料の影響が出ないのだ。今は水彩画を描くのに着色紙の方を使わなくなった。

 おもしろい画材を売っているお店があった。もう少し研究をしてみる必要があるようだ。

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石垣島に小さな脱穀・精米所を作りたい

2022-01-25 04:16:09 | 楽観農園


   畦からワカバの水牛コロバシャをしているところ。6mの幅の田んぼというのはこうして畦をぐるぐる回りながら、水牛代掻きをすることが出来る。これは、人間が田んぼのぬかるみの中を歩かないので良いので、女性でも可能な作業になる。

  6mというのはトラックターでも旋回できる幅の田んぼである。手刈りで行うとすれば、左右に3m刈って行けば、両側の畦に刈った稲を置くことが出来る幅である。手作業で行う場合、一番合理的であると考えた田んぼの幅である。そして長さは33メートル。これで198㎡。二畝。

 田んぼの下側に出来る畦の畑は4m幅で長さ33m132㎡。ここで大豆を作れば、味噌醤油は自給できる大きさ。田んぼと畑をあわせて、330㎡つまり100坪。裏作まで行えば、これで一人の人間の自給が出来るという大きさになる。



  のぼたん農園の機械小屋は小さな脱穀・精米所にするつもりだ。機械小屋が作れるかどうかに関しては、まだいくつもの難関がありそうだが。現在石垣島ではJAに出荷しない小さな有機稲作の農家は、籾すり脱穀するためにお米を持って行く場がない。そのために、小さなイネ作りの自給農家が新たには成り立たないのが現状である。

 石垣島ではお米を作りたい。自給をしてみたいと言われる方は実に多い。そういう方達が、田んぼを始めて食糧自給を行うためには、コイン精米機もないのではかなり無理なことになる。そこで、自分たちの精米所を作いたいと考えるようになった。

 新規に有機農業農家が誕生するには、どうしても小さな脱穀・精米所は必要なものだ。のぼたん農園に機械小屋が出来たならば、それを有機農業の稲作農家の人の会員制のものにしたい。脱穀機は精米機以上に自給農家の必需品である。

 最初からすべての機械は準備できないが、ある程度使えるものを一通り準備して行きたい。有機栽培を条件にした会員制のものがいいと今は考えている。機械はすぐ故障するので、その修繕をみんなが学んで行けるような、小さなライスセンターである。

 石垣島では農家それぞれが機械を保有して、脱穀精米までするのか。あるいはJAのライスセンターに、籾で出荷してしまうのかの二つの方法以外に無い。小さな自給のイネ作りを行うとすれば、どこかの農家の知り合いに頼む以外には方法が無い。このことは新規就農者にとっては、かなりの障害になっている。

 脱穀、精米が出来る場所がどうしても必要である。あくまでJAS有機基準以上の栽培をする農家である事を条件にしたいと思っている。それはJAS有機基準では、慣行農法と機械の共有は出来ないことになっていることもあるが。

 新規就農する有機農業を志すものが、小さな機械小屋を共有することで、緩やかな連携をすることに繋がると考えている。最初から稲作の機械をすべてそろえることなどかなり無理なことだ。機械の操作や修繕もここで覚えて貰うことができる。

 今発芽してきた稲は7月には収穫である。その時までに間に合うとは思えない。今の状況ではまた、下地さんにまたお世話になるほか無いのだろう。先ずは暫定的に機械の準備は進めて、本格稼働は年内と言うことになるのだろう。将来はのぼたん農園の石垣島有機精米所ということになれば良いとかんがえている。

 お米は籾保存が良い。籾保存してあるものを、脱穀精米する。籾であれば密閉ドラム缶で保存できる。ドラム缶で150キロ程度保存することが出来る。ドラム缶にはホカロンを入れて脱酸素をする。場所さえあれば籾保存が一番の保存法になる。

 実際は一人一人がやることにすれば、玄米にしてぱっくんで真空包装するのが良い。石垣島の暑さでもこれで鮮度が保持できる。今我が家ではその真空包装のお米を食べているが、一年以上前のものだが、充分美味しいお米を食べている。

 問題は夏の暑さだから、脱酸素の籾保存が出来ないのであれば各自が持ち帰り、60キロの玄米をぱっくんで脱酸素保存をする。冷蔵保存が良いのは分かるが、設備や電気代をそこまで掛けるのは難しいのではないかと考えている。お米の保存は後半に食べる分だけ真空保存すれば良い。これで劣化しないでお米が保存できる。これは石垣島ですでに試していることである。

 のぼたん農園ではもう一つ新しい計画が生まれた。バイオガスの製造をすることにした。1月23日実際の工事を始めた。干川さんが長年泡盛の絞りかすを発酵させてバイオガス生活利用をしている。その技術をみんなで学ぶことである。

 まずは、臨時のトイレをバイオガストイレにしてみる。機械小屋に作るトイレでは浄化槽を利用して作ろうと話している。機械小屋に併設するトイレをバイオガス発生に利用する。泡盛かすがもらえればさらに良いかと思う。田んぼに行ったら出来るだけみんながトイレを利用する習慣にする。

 バイオガスを発生させた残りが肥料になるはずだ。これは溜め池から流し込めば、段々畑全体の肥料になるはずだ。食べたものがこうして循環する形を見えるものにする。溜まったバイオガスで休憩の時にはお茶を飲める。

 光合成細菌と合わせて、田んぼ全体の肥料をどう入れるかを研究してゆけば良いだろう。まだ光合成細菌は未知数であるが。光合成細菌が土壌の還元化にどう影響するのかを見てゆきたい。亜熱帯での有機農業実現には必要な技術のように想像している。何でもやってみなければ分からない。光合成細菌を地元の泡盛かすで増殖してゆく。

 生ゴミの堆肥を作る活動も始めたい。稲わらや籾殻を組み合わせて、堆肥場を作る。石垣島では生ゴミ堆肥に取り組む人達のグループが複数あるようだ。連携をとれれば良いと思う。バイオガスに入れられる生ゴミと堆肥に積むべき生ゴミがある。二つの仕組みが両輪に成れば良いと考えている。

 のぼたん農園は暮らしの循環の全体が、この場で見えるものにしたい。食料を作る。生産方法は自然の循環に従うものでなければ成らない。水は湧水であり、天水田である。水は溜められ、浸透し蒸発してき、農園の外には出ない。

 肥料はのぼたん農園の中で自然に循環してゆく。人間の排泄物もバイオガスになり、肥料になる。水牛の糞などは藁や草と合わせて堆肥になる。溜め池に入れることでうまく分解して、肥料化することが出来れば、それが田んぼに流れ込んでゆくことになる。この仕組みはまだ充分分かっていない。

 人間が食料を生産するという原点を一目で見える場にしたい。食料を作ると言うことが、何千年の循環してゆく具体的な形が、美しい自然に溶け込んだ農園で実現されている。それは誰にでも出来ることだと言うことを示したい。

 月の溜め池には青い熱帯水連を植えたい。現在取り寄せている。それが私の修学院離宮だ。


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稲の生育判断法

2022-01-24 04:23:57 | 楽観農園


 発芽を始めた直播き田んぼ。発芽は日曜日に蒔いて、日曜日に発芽。調度一週間であった。スジ蒔きにした種籾が発芽して線が見えるようになってきた。水が染み出てきているので、雨が無くても水たまりがある状態である。



 もう一つ苗代での苗作りを行っている。写真は一週間目のもの。蒔いてそのままで土をかぶせたりはしない。クン炭もないので使っていない。1mに80グラム蒔きである。400グラムずつが3種類である。

 1.2キロで2畝の田んぼ4枚に植えたい。風が強いので2本植えである。足りない分があれば、スジ蒔きのからとる。スジ蒔きから間引かなければならない苗が相当出るだろうとみている。種まきの時の指示が悪かった。点々の破線のような蒔き方と言えば良かった。余るのだから問題は無いが。

 今年は溜め池からの湧き出し水での育苗である。土も初めてのものであるし、肥料分もかなり少なめの育苗である。土壌は6.5のpH。どんな生育になるのか、十分な観察を続けなければならない。2葉期を過ぎてから黄ばんでくるのが怖い。その時には追肥である。

 播種してからの一週間外気温は17度以下の日はない。雨の日が多かったが、最高気温は24度であった。溜め池の水温は23度である。苗代にもしみ出し水がわずかずつ流れてきている。特に水遣りとかはしないが、水たまりはいつもある。これで発芽までは乗り切れたのは有り難い。

 水面下の種籾がどうなるかが不安であったのだが、何とか芽を出して中には水面に芽の先を付きだしているものもでてきた。直まき部分は半分だめでも、充分な苗の数はあるので問題は無いと考えていたが、ほとんど発芽している。もし、直まきが成功したら、田植えを止めて直まき中心に進めると言うことも今は考えている。

 そういえば山北での開墾生活で始めた田んぼは直播きだった。これがうまく行ったので、自給が成功した。その後の農の会の活動に繋がった。直播きこそ自然農法だ。移植するのは自然農法では無いと川口由一さんに抗議をした。その直播き農法に石垣島で戻ることになるかもしれない。

 田んぼに張った平たいビニール紐が案外に、鳥を近づけない効果が出ている。バタバタと風に煽られているので、それが30センチおきに張られているから、鳥追いには悪くないように見える。白鷺は来るが白鷺も中には入らない。猫が歩いているので、ネズミも来ないかもしれない。

 今年は直まきと、田植え部分との比較をして、生育の違いがあるのかどうかを研究する。もし直播きで行けるなら、田植え方式より随分楽なことになる。しかも、より自然に近づいた栽培と言うことにも成る。石垣島の自然環境をうまく取り入れたことになる。

 苗取りも、線引きも、田植えもいらないことになる。それではちょっと物足りないか。直播き田んぼでの余り苗で、一枚だけは田植えすると言うくらいが丁度良いか。日に日に、直播きが有望に思えてきた。昨年、小田原の柿の下田んぼでやった経験がここで生きている。今年柿の下田んぼのどこかを直播きに出来ないものだろうか。

 直播きはスジ蒔きである。ところが、指示が悪かったためか、帯蒔き
になっているところがある。ドバッと蒔いてしまったのだ。もっとポツポツ蒔かなければいけない。失敗は成功の基だ。来年の教訓にすれば良い。種籾は一列に破線のように蒔くこと。

 イネは小田原では、種を蒔くと一週間で1葉期まで成長した。確かに芽が出たという状態になるのだが、これは学術的には不完全一葉という葉で、1枚目の葉ではないと書かれている。よく分からないが、針のように鋭くつきだしてくる葉を最初の葉と言うことにしている。

 この最初の葉が発芽すれば、播種はつつがなくできたと言うことで一安心になる。何年やっていても、いつもこの種から芽が出るという現象は不安に満ちている。同時に命の神秘を目の前に展開してくれる。毎日眺めては、大丈夫だと言い聞かせながらも、針の芽が伸び上がるように出るまでは落ち着かない。

 ネットの張られている苗代の部分はいくらか他よりも高い。水が調整できるようにそのようにしてある。そのために、土がひび割れている。この状態ならば、水がいつでもやれる。他田んぼの直播きの部分より乾燥しているに違いない。

 苗代が水をかぶるほど水を入れれば、すでに水没している種籾が、伸びた芽も水没して枯れる可能性が高まる。そこで、乾いている種が枯れないギリギリを見て進めている。進めていると言ってもまだ一度も水は入れて居ないし、水遣りもしていない。雨続きで溜まった水が排水口から流れ出ている状態。
 
 幸い雨が良く降るので、土が乾くことは無くここまで来た。その分日照がないので、この後の稲の生育は悪いかもしれない。今後は晴れ日を期待する。わずかづつ水を入れようかと考えている。流し水にして、水を溜めないようにしておけば水が変わるので、水の腐敗が無く良いかもしれない。

 小田原でのサトジマンは今後の生育としては一週ごとに1枚の葉が出る。これは品種でも、環境の地域差もあることだろう。石垣島で栽培する「とよめき」がどんな生育をするかは記録をしてゆく必要がある。いっしょに蒔いてある。サトジマンとハルミとの比較をする。

 今のところ、トヨメキの方がサトジマンよりいくらか早い成長である。いくら早生なのか、あるいは種籾が購入したもので充実しているのか。その辺はまだ分からない。サトジマンは自然栽培の自家採種のものなので、化学肥料の種籾と違うかもしれない。

 種籾は休眠が必要だと考えている。だから冷蔵庫で保存する。自家採種の種籾も、冷蔵庫に入れてあった。それから海水につけた。そして溜め池で一週間ではと胸状態。これは8日間に来年はする。少し芽の出過ぎぐらいの方が発芽がそろう。

 今後は一枚の葉が出るのに何日かかるのかが観察の要点になる。五週間で5.5葉期両側への二分ゲツという苗が目標の苗である。石垣ではもっと早く植えるべきだという意見を聞くが、この点は変えられないところだ。自然農法では5.5葉期の大苗田植えが重要なことだ。

 また、今は始めて田んぼになる土なので、雑草の種は無い。だんだんに進入してくることだろう。その時にはジャンボタニシ除草を導入するのかどうか。これは、問題になることだが、石垣島で普及したい技術だと考えているので、今後の課題にしたい。

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第92 回 水彩画 日曜展示

2022-01-23 04:24:48 | 水彩画
第92 回 水彩画 日曜展示

 6号からサムホールぐらいの小さな作品を展示する。







586「花瓶の花」
2022.1







587「宮良川上流域」
2022.1







589「のぼたんの花」
2022.1







589「月の溜め池」
2022.1







590「崖の眺め」
2022.1







591「海」
2022.1








592「花」








593「佐渡」
2022.1







594「飯縄のりんご園」
2022.1








595「月の溜め池」
2022.1



 小さな絵は水彩画には向いている。どの絵も長いこと時々持ち出しては描いていた絵だ。どこが出来上がりかは分からないが、今回一応これでということにした作品。こういう作品の途中までの絵が沢山ある。何かのきっかけでその先が描きたくなる。

 水彩画は白い紙に最初の一塗りをすると、とても美しい。これは物理的な美しさで自分の美しさでは無い。これに引きずられて居るのは工芸品としての水彩。自分の意志を画面に表現するためには、偶然に生まれるような美しさを越えなければならない。自分が描いたというものまで示す必要がある。

 私の一日一枚の制作は、一日で描いているものではない。何年も掛けて描いているものが多い。その一日に一枚は完成すると言うことを目標にしている。いつも20枚くらいの絵を見ていることになる。色々の絵を見ていて、気がついたことを進めてみる。進むことも、だめにすることも、さまざまである。
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どうすれば人と競べないで居られるか。

2022-01-22 04:02:23 | 暮らし



 人生のやっかいな問題のほとんどは人と競べると言うところから始まる。あの人の方がカッコイイ。あの人の方がお金持ちだ。あの人の方が頭が良い。人それぞれに競べるからがっかりして、落ち込む。しかし人間は競べずには居られない。しかもこの時代は競べて能力競争することが良いこととして、奨励されている。

 自己評価が低い人という結果は、競べざるえない人間すべてに当てはまることになる。比較すれば金メダリストにだって、自分より強い人は居る。本来、生きるには競べる必要などまったく無い。しかし、人間という脳が肥大化した生き物は、あらゆる能力を競べて自滅する。

 日本の社会では資本主義は一番でなければ意味が無いと考えられている。日本自体が2番手になってしまい。国際競争ではほとんどの面で劣ることになった。まだそのことが認められない。当然理由はわからない。まだ一番になろうとあがいてはいるが、99.9%無駄な努力である。努力は人と競べるのではなく、自分をみがく事に向けられるべき事だ。

 どうすれば競べない生き方が出来るか。それを探すが楽観に生ききる姿勢である。世間と言うものは人を競べて評価するものだ。あの人の技術は人並み外れている。誰それはみんなについて行けない。なんやかんや、世間の都合で選別してくる。これが気になる。

 自分が人と競べないと言っても、社会や他人はむこうからどんどん競べてくる。学力試験をやって、お節介にも偏差値がいくつとか全体での位置づけまでしてくれる。自分の学力テストの結果は全体の中の下くらいである。などと一方的に競べさせられる。こうして鞭を当てれば、人間頑張れると誤解している。

 受験をすれば、合格不合格の比較の結論が出される。絵を描けば、売れる人の方が絵描きで、売れない人は趣味の人という形で競べられる。確かに世間的にはそうなのだが、それは本質を少しも表していない。受検で比較される能力はどれだけの記憶力があるか、どれだけ我慢が出来るのかが測られるだけだ。

 驚くべき事にお米を作るにしても、競争をさせられる。販売のために人より早い収穫。より多くとる。そして美味しい。農協に出荷すれば、一等だとか二等だとか、さらに選外だとか決めつけられる。競争の結果がお金に換算されてくる。

 人間が落ち込むのは人より劣っているという評価が下される場合がほとんどではないだろうか。絵を公募展に出品して落選して落ち込む。落ち込みたくないから公募展には出さないという人も多いだろう。公募展の審査員の評価など芸術としての評価の意味は無いと分かっていても、競べてだめだと言われると、がっかりしない人は居ないだろう。

 冷静に考えれば、競べてだめだと烙印を押されても、自分の価値は何かが変わると言うことは無い。自分の価値は自分自身が決めるべきだ。能力主義万能の社会だからだ。これは差別だと分かっていても現実の社会の評価は変わることはないが、自己評価は自分でしなければならない。これも大変なことなのだが。

 能力主義のことを大学の時の倫理学の授業で討論がされたことがある。教育に於いて、人と比較してはならないと言う話だった。比較できないその一人一人の能力を育てるのが教育の目的であると。その通りであるが、教育機関の学校の入口にある選抜試験はどういうことなのだろうか。

 公教育に於いて選抜試験はいらないとすれば、それは高校であれ、大学であれ、選抜試験は不用になる。高度な学問に於いては、一定の水準の能力がなければ、教育が出来ないと言う事なのだろう。今の社会ではそういう人達だけが頭脳として活躍し、あとは手足となる労働である。だから日本では肉体労働をやるのは外国人と言うことになる。

 恋愛において、スキになった人から選ばれないというのは、差別されたのではないかと私は学部長だった小松教授に質問した。常に差別される人間だと自覚していたからだ。選別されると言うことはどの社会でもどんな場面でもあるのではないかと。あると言う前提で、それをどう克服するかを考えるほか無いのではないかと。

 「弱ったなぁー、それは意味が違うよ」と言われたが、人間は他者によって評価が下されると言うことに、常にさらされているという意味では、受験も恋愛も同じではないか。その授業で最後のフロンティアが能力主義と言う差別だと教えられたことを覚えている。

 ではどうすれば競べるという呪縛から逃れるかである。どうしたって競べてくる外界からどう防御すれば良いかである。まず、あきらめることだ。歳をとると大分あきらめられるもので、歳をとれば今更競べて劣っていてもそんなものだと考えられるようになる。

 若い内はそんな気持ちには成れっこないが、何とかして年寄の諦めのような心境になれれば良い。人生は年寄が観ている方が現実だ。受験地獄の中にいたら、受験から抜け出せばいい。受験から抜け出せないのは学力の競争社会から、外れたら、社会で生きて行けないと思い込まされているからだ。確かにそういう現実をあちこちで誰もが体験しているだろうが、結局は生きるという意味では勝敗など無く、同じことなのだ。

 ダメでもいいじゃん思うことにした。ダメで何が悪いんだ開き直ることにした。ダメな絵でも描きたいのだから描く。これだけである。人の評価から抜け出る。その確信を得るためには自分で生きると言うほか無い。自分の手足で生きて行けるという確信が得られれば、別段他のことは何とでも成る。

 学力という関門が厳しい、医者になりたかったが入学試験で断られたとしても、医学を自分なりに学ぶことは誰にでも出来る。自分のための医者になれば良い。予防医学などと言うものがあるから、自分のための医学をそういう所で発揮すれば良いのだろう。きっと他人の医師よりも自分には優れた指導が出来るだろう。

 人と競べる必要はすべてに無い。競べることを必要としているのは世間の方で、自分がそれに巻き込まれる必要は無い。それでは生きて行けないだろうと思わされているに過ぎない。大丈夫人間は自給自足で生きていける。たしかに、そう思っても一人では出来ない。

 競べない仲間を探すことだ。その人がその人である事を受け入れてもらえる緩やかな人間関係に出会うことだ。確かに現実にはそれが難しい。大半の人が競争に巻き込まれているから、誰もが競争心をかき立てられている。それぞれの全力を出して喜び合える仲間を見付けなければならない。

 劣っていることは恥ずかしいことではない。競べなければあるがままの自分を認めることが出来る。自分を自分が生きるのためにみがくことができれけば、その努力が素晴らしい。それが人のためにも成ればどれほど喜びが大きくなることか。

 競べない生き方を身につける。自分一人でも生きて行けるという事を確認することではないだろうか。私の場合は自給自足を達成したとき、人と自分を競べないで済むようになった。それから人に役立てる事が喜びになり、ありのままに生きることで、自分の力を出せるようになった。

 
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ポテトフライが消えるのか。

2022-01-21 03:58:24 | 楽観農園


 ポテトフライというものはとても美味しいものだ。マクドナルドではポテトフライの販売一時停止が言われている。結構な高級レストランでまずポテトフライが出るところがあるそうだ。美味しいのでついついつまんでしまい、肝心のメインの料理を充分に食べられない。何故かポテトフライはそれほど美味しい。

 アイルランドではジャガイモが主食だそうだ。ケルト料理と言えばジャガイモが中心の食材として使われている。ジャガイモ好きにはたまらない国だ。何故、ジャガイモが主食になったのかといえば、英国から搾取された悲しい歴史がある。琉球王国と同じである。

 その昔はアイルランドも小麦を食べていたのだが、17世紀になってジャガイモがアメリカ大陸から入った。するととれた小麦は英国に送られ、ジャガイモを食べることになったのだ。アイルランドは英国に700年も支配されていたのだ。主食を変えさせた大英帝国の横暴。
 
 1845年から1849年の4年間にわたってヨーロッパ全域でジャガイモの疫病が大発生し、壊滅的な被害を受けた。じゃがいもを主食にしていたアイルランドでは大飢饉が起きた。その結果、アイルランド人口の800万人のうち、20%が餓死および病死、200万人が国外へ移住した。

 ケネディー大統領の先祖もこうして アメリカに渡ったのだ。しかし新天地アメリカでも差別を受けている。ケネディーはカソリックということで差別を受ける。カソリックでアイルランド系の初めての大統領となるが、暗殺されることになった。

 マクドナルドのポテトフライ危機で、食料が色々のことに繋がっている事が分かる。ポテトフライは美味しいものだ。マクドナルドのポテトフライが好きだという人は是非とも、一度自分で作ってみたらよい。あれは本モノのポテトフライトは言えないと言うことが分かる。

 小学生の頃からのジャガイモ好きである。ポテトフライほど油を使わずとも、炒めて食べれば最高である。半生のジャガイモ炒め。これが好きでよく自分で作った。ジャガイモは自分で栽培するといかに美味しいものかが分かるはずだ。

 何故マクドナルドのポテトフライがもう一つなのかと言えば、アメリカで作られて、刻まれて、フライにされて、カナダのバンクーバーから日本に送られてくる。ジャガイモのまともな味がするはずがない。果たして、これほどの食べ物以外のコストがかかるモノが、食べ物として正しいものであろうか。

 身土不二から言えば、まずい食べ物にあたる。食の安全から言えば危険な食べ物と言うことになる。フードマイレージという考えからしたら、ジャガイモより高い輸送価格。日本人が日本で作られた食べ物を食べられない原因は政府の無策にある。ジャガイモの輸入は制限されている。国内のジャガイモ生産農家を守るためだ。

 ところが、こうして調理済みにすれば輸入できる。日本よりも労賃の高いアメリカで生産したジャガイモを、アメリカ人が調理してポテトフライにしても日本で販売できる価格に収まるのだ。日本のジャガイモはどうすれば良いのだ。日本の農家が怠惰なわけでは無い。農産物の生産性だけで判断しては成らない。

 ケネディー家のご先祖が、主食のジャガイモの疫病の結果アメリカに渡ったように、日本人もいまのままでは食べるものがなくなるのではないだろうか。マクドナルドのポテトフライの販売停止は世界中では無い。ケニアが最初で、そして日本だとある。韓国のマクドナルドではポテトフライがあるらしい。

 日本の食料輸入能力が落ち始めている。車を売って、ポテトフライを買うことが出来なくなるかもしれないのだ。中国は世界から食糧をかき集め始めていると言うことだ。遠からず世界の食糧の流通は大きく変わるはずだ。経済力が無ければ食料の購入は出来なくなる。

 ポテトフライが無くなっても、お米があるから大丈夫だと言えるならまだいい。小麦が輸入できなくなる可能性はある。お米があるから大丈夫といつまで言えるだろうか。年々お米を作る人は老齢化している。そして、お米は外国人労働者に頼ると言うことも出来ないほど価格が安い。

 お米は単位面積当たりの生産性は高い農産物である。最も永続性のある食料である。6000年同じ場所で作ることの出来た作物は他に無い。環境を豊かにしながら、食料生産が出来る唯一の主食作物と言える。このお米を主食にしてきた。信仰の対象にまでしてきた日本人である。

 それでも一日2合の玄米というわけにはいかなくなった日本人の食生活。ポテトフライを緊急空輸して貰いながら、お米は食べなく成った日本人。主食が変わると言うことは、何か根本が変わり始めているのだろう。もう一度お米に戻る以外にない国が、日本である。

 お米を作り、お米を食べる。もしこの原点に戻れば、日本人の食糧危機は起きない。政府に期待するのは無駄だし、疲れるばかりだから、危機を感じる人から始めることだ。自分でお米を作れば、日本の稲作は復活する。お百姓が90%だった時代を思えば、食べる人が作るのは当然のことだ。

 スポーツジムに通う代わりにお米を作ろう。デズニーランドに行く代わりにお米を作ろう。週一回作業をすれば、自分のお米は生産できる。一万円の経費で120キロのお米が確保できる。実際にこれは行われている話である。やろうと思えば、どこの誰にでも出来ることだ。72歳の私にも出来ていることだ。

 このまま行けば、ビックマックは一回一個しか販売できません。こういうことになる。日本人が肉を食べれるということだって危うくなる。美味しい松阪牛は中国への輸出向けで、日本人の口には入らなくなる可能性が出てきている。石垣牛を食べるのは石垣の人より観光客である。

 何故政府の食糧自給が頓挫しているのか。日銀が物価上昇の目標を2%にしながらも、未だ達成できないのと同じである。政府が財政健全化を目標を先延ばしを繰返しながらも、いつまでも達成できないのと同じである。要するに政府には解決能力がないからである。

 それは日本という国が目標を達成する能力を失っていると言うことなのだろう。特に悪いのは舵取りをしている政府であるが、船乗りである国民も良くないわけだ。舵取りを選んだのは国民なのだ。この点もうあきらめた方が良いと感じている。

 自分でやるきゃない。自分で田んぼを作ればよい。石垣島では田んぼを借りることが出来なかった。理由は様々のようだが、空いている田んぼがあるのに借りることが出来なかった。そこで湧水で田んぼを作る決意をした。だめだというならやってやろうじゃ無いかと言う気になった。
 
 石垣島で一番美しい田んぼが出来上がりつつある。
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石垣島で有機農業の土壌を作る方法

2022-01-20 04:02:18 | 楽観農園

 満杯になった1番溜め池から、湧水の余り水が流れ出ている。一日10㎥の湧水量である。



 2番、3番、4番溜め池。もう少し広げる予定である。今の1.5倍くらいになるはずである。そして、この下に5番溜め池を作る予定。


 
 満水の月の1番溜め池。水の色がなかなか良くなってきた。たたずまいと言えるようなものがでてきた。

 初めの写真は月の溜め池が満杯になり、余り水が流れ出ている様子。この水の量を測定してみると、一日辺りおおよそ10㎥である。この他まだ2番、3番、4番と溜め池がありそこでも水が湧いているようだ。推定であるが一番に近いぐらい湧いているようだ。全体で一日15㎥以上の湧水と考えて良いのかもしれない。

 水量は見た目で水道ぐらいの量である。20リットルの容器に溜め池から溢れてくる水を溜めると、3分だった。10時間で4㎥一日おおよそ10㎥。それが1番溜め池の湧水の量だろう。その他に2,3,4でも湧いているから。もう少し多いと考えて良い。

 今年は雨量が少なくダムの水量も例年よりは少ないそうだ。それでも水は涸れることなく流れ続有り難いことだ。有り難いことだ。5番溜め池まで、すべての溜め池が完成すれば、10枚の田んぼの水は充分まかなえる。

 現在田んぼを作りながら、ともかく水が溜めやすい細かなああああ粘土質の土壌が実にありがたいと思っている。2年やれば、10段の棚田が可能と言うことが、具体的に見えてきた。この点は素晴らしいのだが、ここまで水の縦浸透がない土壌では還元の問題が出てくる。それはシーラ原の田んぼでも経験したことだ。

 コロガシを熱心に行うと言うことが一つの対策に成るだろう。土壌をかき回し、還元化を防ぐと言うことだ。下地さんがコロガシはやればやるほど良いと言われていたが、確かにそういうことがあるかもしれない。今回は転がして土壌をよくすると言うことに心掛けてみたい。

 もう一つ考えれる対策が、光合成細菌の培養である。硫化水素の発生を防ぐことが出来る。これが上手くゆけば、一番溜め池に流し込み、3番田んぼまで流れてゆくようにすれば、水の腐敗傾向を防ぐことが出来るかもしれない。

 焼酎かすを利用した、熊レッドという光合成細菌の種菌販売がある。これを泡盛を使い行えば、田んぼに利用できる可能性がある。これは研究の価値があると思う。いずれにしても、最終目標は田んぼに常に光合成細菌が自然に発生する状態だろう。

  土壌の還元化とは、土壌が酸素不足になり、還元発酵が起こること。土壌が酸素不足で嫌気性発酵になり、腐敗が起こると言うことになる。堆肥を作る際に切り返しをして、酸素を入れてやることで良い好気発酵になる。この逆の現象が起こると言うことだ。どうやってそれを防ぐかである。

 有機農業で行う場合、土壌の作り方が重要になる。基本として行うことは腐植を増やすことだと思っている。特に石垣島では太陽光が強く、腐植の消耗が大きいことになる。腐食を増やせば、土壌環境が良くなり、還元化を防げるのではないか。これが一つの考えである。

 土壌が還元化しないような状態にするための方法を他にも考えなければならない。一つには水の停滞が良くない。水がすこしづつでもいつも動いているようにしたい。本来であれば、流し水管理である。しかし水が少ないからそういうことは十分には出来ないだろう。

 減水深が数ミリ程度である。1年目の田んぼにもかかわらず、ほとんど縦浸透がない土壌だ。驚くほど細かい土壌である。稲作に良いとされる減水深は普通10~30㎜といわれている。濁った水は一週間も濁ったままである。

 経験的には100㎜ぐらいが良いと考えている。土壌への酸素供給が多くなるからだ。減水深が大きいと水温が下がるという問題があるが、小田原ではそうした影響はなかった。石垣島では当然水温問題は全くない。水温は下げたい場合がほとんどである。1月の一番寒い時期でも水温が23度はある。

 縦浸透がほとんど無い土壌なので、少ない水でも田んぼが出来るという点ではありがたい。栽培期間中土壌が還元化する。そのために根が傷み十分な成長が出来ないように見えた。先ずはコロガシを充分にやってみたい。これは下地さんがいわれていたことでもある。

 そして、腐植の増加が最大の課題になる。これは田んぼを耕作していない間に湛水して、水草を増やすようにしたい。アカウキクサが良いと思っているが、まだ石垣島で見つかっていない。ミズオオバコという希少な水草もあると言うことだからこれを使うと言うことも考えられる。そう熱帯睡蓮も植えたい。

 酸化とはある物質が酸素と結びつくか水素を奪われることをさし、還元とは酸化の逆の現象をさす。湛水などによって土壌酸素が少くなると、活動する微生物の種類が好気性菌から嫌気性菌へと変化し、還元物質がたまって還元状態となる。
 土壌中には、酸化および還元によってその形を変える物質がある。還元状態では、アンモニア態窒素は安定的に存在し、硝酸態窒素は窒素ガスに還元され、脱窒して空気中に失われる。鉄は三価から二価の鉄に変わり、土壌pHは中性に近づく。これに伴ってリン酸が溶解しやすくなる。マンガンは易溶性になる。
 わゆる老朽化水田では、還元条件下で鉄やマンガン、ケイ酸などが溶脱している。老朽化土壌が還元状態になると、硫化水素(H2S)が発生し、水稲根の活性が低下し、根腐れによって後半の生育が凋落する、いわゆる秋落ちになる。ーーールーラル図書館より。
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のぼたん農園のイネの発芽

2022-01-19 04:06:26 | 楽観農園


 のぼたん農園では1月9日稲の種籾を海水に浸種した。一週間の浸種である。16日種籾を播種した。17日の朝は21度である。石垣の今年のここまでの気温は14度台が1回。15度台が1回。この時期でも17度ぐらいまでが普通である。

 昼間は20度を超えて、25度を超える日も何日かある。小田原で言えば、5月頃で遅霜がなくなったという頃ではないだろうか。小田原では4月には種である。この気温を見る限り石垣島では、いつの季節でもイネの播種は可能である。太陽の日照時間を考えれば、だんだん日が長くなる今頃が一番適当な時期ではないだろうか。

 といっても、石垣島は日照時間が短くなると言っても、小田原に競べてそもそも短日期でも日照は1時間も長いのだ。1月は雨が多いから、苗作りには良い時期になるかもしれない。種まき前後に雨が降り続いている。日本列島が西高東低の気圧配置になり、日本海側は雨か雪太平洋側は乾燥した晴天となると、石垣島は梅雨時のような雨模様。

 早い人はすでに田植えをしてしまっている。年を越して苗を育てているのだ。英太郎さんの早い田植えが、東京でも放映されたと言うことだ。いつか日本に最後に残った水牛コロバシャの伝統農業で、テレビ報道がされる日が来るかもしれない。

 伝統農業が販売戦略にならないものだろうか。日本一の早場米を販売戦略にしていると言うこともある。台風を避けたい事もある。収穫が6月後半になると台風が来てしまう。台風襲来が結実の時期になると、イネがやられてしまう。これはお天気任せで仕方がないが、来年は元日の浸種にして、水神さんに初詣も悪くない。

 1月9日に種籾を溜め池の中に種籾を浸した。水温は継続して測定していたが、23度だったから一週間ぐらいが適当かと考えた。雨の日は少し下がったが、暑い日でも24度だった。この水温だから、イネの種籾は一週間ではと胸状態になると考えていたが、鳩胸一歩手前である。許容範囲ではあるが。

 来年の浸種は一日延ばして、土曜日に漬けて日曜日までの8日間にした方が良いかも。もう少し芽が出ていても良いかと思う。種籾の休眠期間が短すぎるのかもしれない。来年はオオバーフローの水の下にバケツを置いて、種籾を置こうかと思う。種籾が寒い冬を越えると言うことが無い。冷蔵庫で保存して冬を体験させていた種籾ではあるのだが。

 五週間の苗床での管理のつもりだ。5.5葉期二分ゲツの苗が目標である。15度より下がらない気温だから、穴あきビニールトンネルは止めて、ネットのトンネルだけにした。寒い日がとつぜん来ないかと気がかりだが、徒長していない健全な苗を目指して外気温で行く。夏の育苗では徒長して失敗した。

 肥料分の足りない苗床なので一㎡に80グラム播種にした。これも大苗を作りたいからである。400グラムの種籾を5分割しておき、5mに蒔いた。種籾は前日溜め池から引き上げて、一晩新聞に広げて陰干しした。今年は3人が担当をして一種ずつ蒔いた。3品種が混ざることを避けるためである。

 苗床の播種以外に、苗床田んぼには直まきにするので、薄いビニール製の平たい梱包紐を張ってある。その一本をまたいで、一人3本蒔いて貰った。田んぼがベトベトだから、注意して歩かないと、線が乱れてしまう。19本ぐらいだったから、一回で播種できた。人によってスジ蒔きが、帯蒔きになっていた。

 梱包紐は播種が終わったならば、そのまま張っておく。鳥よけに成るはずだ。崎枝ののぼたん農園には雀が居ないのでまず大丈夫だと思う。カモ等の水鳥も苗床には水がないのだから来ない。播種して3日間鳥は来ていない。鳥というものは慣れれば平気になる。慣れない間に二週間経過して貰いたい。もし鳥を見たらその時にタカの凧を飛ばすつもりだ。

 問題はネズミかもしれないが、今のところ足跡はない。野良猫が歩いているから、大丈夫かもしれない。ある程度の被害は覚悟している。スジ蒔きにして、余分になる苗を不足した部分の苗にしたいと考えている。余れば取り去ってしまうつもりだ。

 苗床の土壌がまだ未熟である。田んぼになって一ヶ月もしない土壌である。pHだけは測ったのだが、6.5と言うことだった。よみがえり堆肥を10袋入れた。たぶん不足するだろうから、追肥を考えている。先ずは油かすの液肥を作ったので、苗の色が浅いようであれば、与えるつもりだ。

 遅ればせながら、還元的になる土壌を考えて、光合成細菌の準備をしている。ネットで注文しているところだ。田んぼにうまく増殖できるのかは分からないが、やってみる価値はあるだろう。泡盛かすのエサで増やせないか挑戦する。

 新しい場所での初めての育苗である。何があるか分からない。上手くゆかなければ大変なことになる。もう一回やり直しの出来る種籾は準備してある。播種のやり直しで2,3週遅れても、田植えを延ばせば良いだけのことである。種籾は2期作をやるとしたら次回に使えないことはない。

 学校田をやるとなったなら、2期作目になるのではないか。二期作目はやらないつもりだったが、学校田をやれるならべつである。その時は餅米が良いと言われていた。1月に餅つきをして食べるらしい。そのお米が学校田で採れたものであればいい。種まきから収穫まで、見学だけでもして貰いたい。崎枝小中校からすぐの場所だ。

 今後の肥料の基本は通年通水して田んぼの水を保ち、田んぼで水草による緑肥を育てたいと考えている。候補はアカウキクサとミズオオバコが今挙がっているが、もう少し研究してみなければならない。稲刈りが終わり、すぐに水を戻して、7月から1月まで緑肥となる水草を育てる計画である。

 田んぼは一年中水を溜めておくことが基本だが、その場合土壌の状態がどうなるかが少し心配である。硬盤がないので緩んでこないかである。今のところ石垣の土壌はそれほど緩みそうな感じはしない。しかしやってみなければ分からないことなので、今後の研究課題になる。

 苗作りでのもう一つの問題は強風であった。田んぼの土が風で寄せられてしまい、稲が埋没したのだ。今年は回りを高くして防御はしたが、まだ防風林は出来ていない。早く防風林を育てたいものだ。先ずは月桃の移植である。防風林で日陰になるかというと、太陽は真上にあって南の木が案外に日陰を作らないのだ。

 強風問題と言えば、1本苗では倒されると言うことも分かった。倒されないように、2本植えにする。その分苗が倍量必要になるが、仕方がないところだ。ぜんぶの田んぼが出来上がったとしても、2反1畝だから、苗床田んぼで苗が作れない量ではない。

 そうだ、昨日の話では崎枝にはイノシシが多いそうだ。これは6月までに電柵を作る準備が必要と言うことになる。田んぼ部分だけ柵で囲うというのも、水牛が田んぼに入らないという意味では良いかもしれない。


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のぼたん農園のロゴマークが出来た。

2022-01-18 04:08:44 | 楽観農園


  のぼたん農園のロゴマークが出来た。石垣島のデザイナーであり、のぼたん農園の仲間である。丸岡さんが作ってくれた。プロの仕事であるから、本来は費用をお払いすべき事ではあるが、仲間の一人なので、ご厚意で作っていただいたことにさせてもらった。ありがとうございました。絵をお礼に差し上げたい。

 水牛にのぼたんの花飾りである。石垣島の自給農園らしい素晴らしい旗印が出来た。伝統農業を行うのぼたんの咲く農園である。明るい展望を感じさせるデザインだと思う。まさに楽観を感じさせる。やはり楽観の何かがみんなに伝わっている。水牛の優しさとアジア的エネルギーが伝わってくる。

 自給自足生活は大変である。そんなことは当たり前だ。大変だからこそやり抜きたいという人は居る。こんなことをマークを見て書くのは大げさだと思うかもしれないが、そうではない。若い人が、お金にもならない自給生活に進もうというのはよほどのことなのだ。

 そういう若い人達が登場してきている。いっしょに冒険に乗り出せるというのは人生の幸運ではないだろうか。私の自給生活の中で蓄積してきたものをすべて出し尽くして、なんとしてものぼたん農園を作り上げたい。すでに手こぎボートで太平洋横断に船出している。

 そしてその思いに共鳴してくれる人が、石垣島に増えている。たぶん日本中で誕生している。人間はなかなかのものである。その小さな舟の旗印が出来た。楽観の言葉よりも分りやすく、いかにもアジア的な水牛にのぼたん。石垣島で自給体験農園が始まっている。楽観して次の時代に乗り出している。

 のぼたん農園探検隊は順調に滑り出している。苗代には種が蒔かれ、わずかに芽が出たところである。良くここまで来れたものだ。蒔いた種にこれからどんなことが起こるか。当たり前に生育して普通なのだが、その普通をなんとしても確保するのが、水先案内人の役目だ。

 絶対に成功させると意気込んで始めた冒険だが、それだけに出来なかった時には、どう責任をとれば良いのかということが、なんどか頭をかすめた。しかし、楽観である。これだけ日和見して、石垣島に来て以来迷いに迷った。あらゆる事を想定して始めた冒険である。これだけは何とかしなければならない楽観の思いだ。

 天水田というものの経験は無かった。これが一番の不安だった。雨水をうまく回して耕作する田んぼである。頭の中ではどういう順番で代掻きを進めるかを、何度も様々な手順を想定して繰り返した。雨を待って代掻きを始めると言うことだけは、決まった始まりになる。

 そして待ちに待った雨が降った。朝から、仲間に呼びかけた。コロバシャをやるので来れる人は来て下さいと呼びかけた。みんなが集まってくれた。ここなのだ。仕事をしている人は来れない。そうしたことを分かった上で、頑張ってくれる人が居て始めて出来ることだ。

 前夜の強い雨の翌日、一気に水牛コロバシャを開始した。6m幅は水牛コロバシャが回転できる幅である。予測通りうまく水牛は回ってくれた。田んぼは少し深くなっている。原因は田んぼにした土地自体が、傾斜地で削るところと盛るところができてしまうのは仕方がないところだ。

 みんなで交代しながら、ほぼ参加者全員がコロバシャをした。女性の方もやってくれた。大変だったが良い体験が出来たとおもう。水牛との付き合い方がみえてきたと思う。伝統農業の良さである。ワカバもどこかほこらしげな一日であった。

 のぼたん園のマークを観ると、気持ちが高揚する。アトリエカーの窓にも張った。なんとしても頑張ってやり遂げようという気力が湧いてくる。農の会を始めるときに、地場・旬・自給と言うことを考えた。今回ののぼたん農園でそのことを考えると、楽観・地場・自給である。

 旬は石垣島にはない。旬の代わりに楽観がある。石垣島の景色は楽観そのものだ。人間が生きてゆく最低限の確保である。食べるものさえ確保できれば、本当にやり遂げたい人生を生きることが貫けるのではないだろうか。生きるというのはそれだけのことである。それ以外のことではない。

 やりたいことを見付けてそれをやり遂げる。そんな人生を生ききることが出来るためには、まず食糧の自給である。自給の達成の奥に本当の安心がある。自分の力で生きる絶対の安心である。ちょっと大げさになるが、楽観がこのマークに表現されている。

 のぼたん農園は最初は楽観農園という名前にした。楽観と言うことを考え方の基本に置いて始めたからだ。これからの時代の厳しさを思うと、楽観と言うことを踏まえないと生きると言うことをやり遂げられないのではないかと考えている。

 そもそも地球というものは楽観の結論のようなものだ。よくまあ出来たものだ。生命が生まれ、人間が誕生した。その地球を崩壊させようとしているのが愚かな人間どもである。地球のゆったりとした循環を急回転させて一気に崩壊に進めようとしている。

 地球に生命が存在するのは、宇宙時間から観れば一時かもしれない。その一時に出会えた生命の幸運を十二分に味わうべきだ。この幸運な時間を少しでも長く保つことが、未来の人間に対する責任だろう。その責任を知る場所が、楽観のぼたん農園である。

 100坪の自給の体験。まずその大きさを知らなければならない。伝統農業の意味を知らなければならない。その労働を身体が知らなければならない。のぼたん農園には何の前提もない。あるのはこの先のことだけだ。
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描くことで、書くことで、しか進めない

2022-01-17 04:47:18 | 水彩画


 絵は描いて見ない限り何も分からない。頭の中で絵を想像するというようなことは、したとしても意味が無い。画面に対面して始めて絵が始まる。何もないまっさらな画面を前にして、その時思い浮かぶ何かから始まる。富士山を描いてみようかとか、那智の滝を描いてみようかと始まる。

 この色を塗ってみようかとか、こんな線を引いてみようかなどという思いつきから始まる。描き始めてそれが石垣島の海原の絵になってしまったり、海に浮いている仙酔島になったりする。前に途中まで描いて止めていた絵を見て、始まることもままある。とにもかくにも絵は描いてみない限り何も分からない。

 描いた何かから誘発されるように次々と展開されていく。それは自分の意志というようでもない。何かににヒキヅラレたぐり寄せているような感じである。感覚にしたがうと言うことでもあるのだろうが、感覚的と言うこととは違うと思う。

 描くという行為に意味がある。描くことで自分という存在に触れようとしている。自分の中から起こる反応に委ねる。自分の中の何かが動き出す。画面と自分が反応を始める。自分らしいというものに向かってどこか自分とは別のものの衝動によって進もうとする。

 まあ、描いてみたからと言って何かが分かると言うほどのことも無いのだが、描いてみると少し自分の中のものは、こんなものなのかなと言うことが感じられる。それでもいつももう少し違う。だから、もっとえぐり出すように描いてみたくなる。目の前にある半端な絵が違うと言うことだけは分かる。

 違うのだから、違わないものに向かって闇雲に思いつく事を描いてみる。すると一歩肉薄することがある。何故そうなるのかは分からないが、前の状態よりは自分に近づいたような気になる瞬間がある。あとから見ると、それは錯覚という場合が多いのだが。

 ともかく思い込みでも何でも描いて見て、少しだけ分かることがある。分かったことを今日の一歩として、あしたはあしたの1歩を探す。描いてみるのは魔力がある。わずかな一歩でも、自分の一番大切な根幹にたどり着く一歩のように感じられるからだ。

 絵を描くために生きているのだから、しっかりと生きたというような喜びが絵を描くことから湧いてくるのだ。こんなことは描かない限りえられないことに違いない。絵を描きながら生きてきて良かったと思うときである。絵があるとき立ち上がる。この感覚に達すると自分に触れたような喜びがある。

 なんとなく何故ブログを書くのか、そして何故絵を描くのかと言うことが少し見えそうな気がして、今日のブログを書き始めている。ブログで文章化することで、自分のやっていることが確認できる。絵を描くことも文章化して方向を確認している。これはブログを書く、恩恵である。

 のぼたん農園のことも、ブログに書きながら計画を練り直している。ブログに書くことで計画が見えてくる。3番田んぼまで今年の作付け計画に入れられるなと言うのも、書いていて気づいたことである。内心では4番田んぼと道路まで土木工事だけでも行けないかと言うことすらあるが、これはまだ書いていない。内心無理かもしれないという迷いがあるからだ。こういう迷いが、書いている内に判断がつくことになる。

 動禅体操が毎朝出来るのもブログに書いたからだろう。こう今書けば、さらに継続の力になる。ところがこのところは前半だけになっている。一万歩以上の農作業が続いているので、前半のスワイショウ、八段錦、太極拳、立禅。これで終わりにしている。この言い訳をここで書けば、どこか安堵する。

 別段書いたからどうと言うことでは無いはずだが、書くとやはり違う。精神安定の作用がある。励ましの作用にも成る。計画の精査になる。書くことで助かることが色々ある。願掛けで継続しているつもりなのだが、どちらかと言えば、書かずに入られない状態にはまってしまったのだ。

 ブログというものは20年前ぐらいに始まったものらしい。そして、今徐々に廃れ始めていると書かれているものがあった。新しい様々なものが登場しているから、ウエッブの方法としてにはもう古くさいものと言うことらしい。私には十分である。社会的な発信になると思い始めたのだが、むしろ自己確認のためになっている。絵とまるで同じ経過だ。

 始めたときには文章が上手になるのではないかと思って書いていた。中学生の時に、志賀直哉のような文章家になりたいと思ったぐらいで、文章が上手になりたいという思いは無かったわけではない。大学の時の友人の檜枝岐出身の大山さんが文章を毎日書いて小説家になる訓練をしていた。そのことが頭に残っている。結果はどうだろうか。

 毎日書いて、昔より少しはましな文章になっているのだろうか。文章が上手になると言うこと自体が、今では馬鹿げていると言うことに気付いてしまった。当たり前の事だが、書くべき内容があるのかないのかである。願掛けだから、一日も休まずだから、書くべき内容の方は大目に見て貰うほか無い。

 日々の一枚である。絵の方は願掛けでも何でも無い。そのために自分という人間は生きているのだ。描きたい絵を描くことに生きている。他のことは絵を描く為に必要なことなのだ。ブログを書く、のぼたん農園を作る、動禅をする。生きるのすべてを絵につなげて考えている。

 結果主義なのだ。その結果絵が良くなったと言うことが無ければだめなのだ。よくなるというのが分からないところが難しいが。自分が決めることなのだ。自分の中の確信が絵の前進を認識するかどうかである。自分という奴はなかなか手強い。いつも猜疑心に満ちていて、傲慢である。

 絵は描いてみなければ分からない。描くことで始めて立ち現れてくるものだ。絵は描き終わったもののことではなく、いつもこれから描く絵のことなのだ。問題となる絵はいつも次の絵だ。自分の絵と言えるものに近づいているかにあるのだから、次の絵こそ問題だ。

 それは言葉にすれば、楽観ではないかと思うようになった。言葉にすると言うことは共通概念にすると言うことなのだろう。といっても私絵画と言うことも造語である。ここで書く楽観も少し一般的解釈とは違うと思っている。安易に考えるでは無く、楽しく観るという意味である。

 楽観は人間の根源の希望である。生きることを明めて、観ずる楽しさである。言葉は便利なもので、遠回しに色々書くことが出来る。絵は楽観が宿らなければならない。画面を通して伝わらなければ始まらない。 そこまで描けているかと言えば、描けていない。次の絵で描いてやるといつも思う。

 描くことでその世界に進んで行けると確信している。日々の一枚である。楽観に生きるとは希望を持ち前に進めると言うことだ。石垣島の海を観ていると、どこまでも明るい。この明るさは自分の中で希望のように見え始める。この海を描いている。

 
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