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能力主義と身分制度

2019-01-31 04:48:36 | 暮らし

封建時代は身分の固定化された社会だ。個人の意思に基づく自由な生き方が制限されていた。職業の選択に制限があった。この固定化された封建社会の身分制度では国際競争力が不足したわけだ。明治になり帝国主義日本が登場する。競争には能力主義が必要となる。力の強い国が、弱い国を支配し従えることになる。こうした競争が始まれば、当然弱い国でも身分制度に固執している訳には行かなくなる。能力が高ければ登用して国力を高めようとする。明治政府は教育を重視し、能力主義によって人材を集める。能力主義が、職業選択の自由に繋がる。ところがここでの自由は、当然能力があればという事になる。それではその能力はどこで確認されたかと言えば、学歴が中心であった。学歴ではかれる能力が、国家や企業の競争力強化にとっては都合の良い尺度だったのだろう。末は博士か大臣かという形で、秀才の子供は無料で大学へ進んだ。企業の力量が国力を反映する。明治帝国日本では国営企業というものが作られてゆく。

文明開化で身分制度が無くなって自由になったように見えた社会が、実は能力による階層化というものに変わったという事だ。学歴に象徴される能力とはどういうものであろうか。論理的思考能力が高い。継続した努力が出来る。記憶能力が高い。こうした能力は学歴にかなり反映することになる。これは企業的競争に必要な能力である。能力というものは、それだけでは測れないはずである。昔のお百姓が普通に生きるために必要だった能力というものが、無意味化した。朝日を見て感動し、頭を下げるというような人間らしい能力というものは軽視されるようになった。当たり前に生きることを感謝して、日々平凡に生きることを深く味わえる能力。平等性を重視する民主主義社会を標榜しながら、学歴に象徴されるような能力による区分けが、新たに容認された訳だ。学歴に象徴される能力は努力をすれば、一定範囲で可能な能力であるとされた。ここで落ちこぼれる者は努力不足として、仕方がないものとされた。

日本が明治時代に行った能力主義は、国の為という、あるいはお家の為という封建制度を前提にしたものだった。能力が高いからと言って私腹を肥やすようなことは、倫理的に許されないという能力主義である。昭和の経団連会長のイワシの土光さんが評価された姿である。能力があるものは倫理的にも優れている。君子像である。こうした封建時代の倫理観が、能力主義にも結びついていた。ところが現代社会では、アメリカにはトランプ主義が登場した。倫理など、全く関係ない露悪的ともいえる、強欲な姿だ。能力が高ければ、倫理を軽視して、法の網をくぐり、何をやろうとかまわないという事である。ゴーンさんが好例である。企業がタックスヘイブンを利用して脱税する姿。戦後の日本はアメリカの良心的な側面を、つまり倫理的ともいえる正義主義を受け入れた。アメリカの戦う理由は正義を守るためだ。だから日本も、同盟国として協力するという論理構成である。これが全部嘘だったという事が、トランプによって露悪的に表明された。アメリカは正義のために行動するのではなく、アメリカの利益の為に行動しているという宣言である。

能力は平等ではない。それは学歴においても同様なことだ。努力の余地もあるが、すでに生来の能力差前提での競争になっている。教育の無償化が国際競争力強化の為では、教育の本来の目的が人間の完成とするなら、本末転倒である。国際競争力社会では新たな能力選別法を必要としている。果たして、人間はこうした選別に耐えられるのだろうか。また耐えることが人間らしい社会を失う事にならないか。農家に対しても、6次産業化が必要という事が言われる。最高の農産物を作る能力だけではだめだ。国際競争力のある農産物を作れ。それが出来ない農家は努力が足りないという事になる。こうした能力は果たして努力の問題であろうか。こんな能力競争が幸せな社会と言えるのだろうか。みんなが幸せになるためには、能力競争というものを乗り越えなければならないところまで来ている。能力のあるものは能力の足りない者の補いをする。それを互いの幸せとする社会。そうした社会が良い社会であるという事は、誰しも知っている。人間は自分の為よりも人の為の方が力が出る。人様のお役に立てることが、自分の幸せである。私はそういう人間の能力を信じている。悪貨を良貨で駆逐しようではないか。

 

 

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マイクロプラステック問題

2019-01-30 04:24:47 | 環境関連

地球環境問題ではマイクロプラステックが最も深刻である。温暖化も深刻であるが、さらに問題解決の困難な問題になるだろう。プラステック製品は燃やしてしまわない限り、微細なプラステテックが海洋に漂う事になる。自然循環に乗らない物質を作り出すという事が問題なのだ。この先マイクロプラステックの量は年々倍増してゆくのではないかと言われている。すでに多くの海洋生物がプラステックを誤飲した影響で死んでしまうものが、多数観察されている。マイクロプラステックの場合、植物プランクトンに取り込まれる。そして、それを餌をする海洋生物。それを食べる魚、海鳥とどんどん食の連鎖が繰り返され、生体内の濃縮が進んでゆく。将来土壌に存在する、マイクロプラステックも作物の根から取り込まれることになる。結局のところ、人間も食糧として徐々にマイクロプラステックを食べているようだ。もちろん食べたからと言って体内に取り込まれるよりも、排出されてしまうものがほとんどである。しかし、1年に5個から20個ぐらいな人間でも体内に取り込んでいいるのではないかと言われている。その数は、自然界の濃度が倍増してゆくとすれば、取り込み量も倍増してゆく可能性が高い。どこかで限界を超えて、人間の健康問題になるはずである。

実験的にはマイクロプラステックが細胞膜を突き破り細胞内にまで、取り込まれてゆくことが分かっている。こうしたマイクロプラステックはそのものの害というより、プラステックに加えられている、様々な添加剤が同時に取り込まれることの方が、直接の生物への影響が高いだろうと考える。マイクロプラステックを取り込んだ細胞が、変異を起こしたり、がん化したり、免疫力の低下を起こしたりする可能性がある。これはあくまで現段階の推測であるが、人体で証明されたときには取り返しがつかない事態ということである。解決不能な問題ではない。私の子供のころは自然循環に収まるものだけだったのだ。プラステックを止めればいいだけのことだ。当面、止められないというのであれば、燃やす以外にない。燃やすとダイオキシンが出るという事が言われて、燃やすことが制限されたため、マイクロプラステックが増加したのではないかと推測できる。

いずれにしても、年々海洋のマイクロプラステックの量は倍増していっている。例えば化学繊維の衣類は選択するたびにマイクロプラステックが水と一緒に流れ出てゆく。人間がプラステックを使用する以上、止めなく増え続ける。つまり、どれほど小さくなるとしても消えない以上、地球環境に蓄積されるばかりなのだ。解決策は唯一プラステック製品を使わないほかない。どうしても使わざる得ないとすれば、燃やしてしまうほかない。燃やしてダイオキシンが出るというような問題は、解決できないほど深刻なことではない。プラステックのリサイクルなどと言ってもほとんど焼け石に水である。結局リサイクルされたプラステックも、燃やさない以上、プラステックは巡り巡り、マイクロプラステックになる。こうしたときに、スーパーの袋を有料化するとか、プラステックのストローをやめるなどという事は、全く気分的なごまかしにすぎない。地中に埋まる塩ビ管は将来どうなるのだろうか。公園のプラステックの遊具はどうなるのだろうか。化学繊維の医療はどうなるのだろうか。プラステック塗料は、ありとあらゆる場面で使われているプラステックをどうしたらいいのか。

当面、プラステックは燃やす以外にない。燃やすことが有害であるとすれば、もう作らないほか道はない。スーパー袋などどうでもいい、本質を見誤ることになる。そんなことではまるで解決できない深刻なことなのだ。スーパーで買い物をしない、すべて自給で暮らすというのであれば、一応の解決の方向であろうが、そんなことは現実的ではない。リサイクルに回しているから大丈夫だという考えもあるが、これは相当に危うい考えだ。プラステックは小さくなるから大丈夫だなどという、とんでもないコメントがあった。小さくなるから手に負えなくなるのだ。大きいままならまだ処理方法がある。だから、今あるプラステック類は出来る限り燃やすべきだ。こういうことを言って、レジ袋を減らそうなどという気分的環境派の人から批判を浴びた。それならレジ袋環境派の人はどういう筋道でマイクロプラステックが減るとかんがえるのか、具体的に示してもらいたい。10年前から古い塩を買ってある。年間1キロ使うとしてもまだ10年は大丈夫だ。すでに自衛の段階に入っている。

 

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アメリカが日本から撤退する日

2019-01-29 04:17:09 | Peace Cafe

いよいよ日米の経済交渉が始まる。同盟国でありながらも、経済的には戦時体制のようなものだ。トランプの切り札は米軍を日本から引き上げるという主張になるはずだ。この点は最初からは表には出てこないだろう。安倍政権の一番弱いところだからだ。この最も重要なことを安倍氏は国会の所信演説で触れていない。ついでに言えば、移民政策についても一言優秀な労働力を外国から入れると言っただけだ。軍事力がなければ不安で仕方がない安倍政権としては、引き揚げられたら大変なことになると考えている。トランプはそこを突いてくるに違ない。弱みを突いて、交渉を有利に導く手法が目立つ人だ。米軍が沖縄にいるのはアメリカ自身のためという前提を見せないはずだ。日本に駐留する米軍兵の数はトランプになって増えている。一方世界中から米軍は撤退を始めている。中東はもちろん、ヨーロッパの米軍も削減の方向。にもかかわらず日本だけは増加。今に沖縄は米軍の専用訓練地になる。中国と経済戦争をしているアメリカとしては当然の対応であろう。しかも、日本で訓練をすることが経費削減になるからである。

日本の経費負担、アメリカ製武器の購入ということが、安倍政権のトランプを引き留める方策と見える。果たしてアメリカという国は同盟国として信頼できるほどの国であろうか。今では信頼関係というより、取引関係というものではないか。アメリカはいよいよ日本との貿易不均衡を問題にしてきている。貿易不均衡とはそもそも何を意味するのだろう。アメリカへ売る自動車の方が、アメリカの豚肉より多いということだろう。沖縄からのパインの出荷より、沖縄への自動車の販売の方が多い。という日本国内で起きていることと何ら変わりはない。これが国家間で起きていることを、トランプは不当だと言っているのだ。ばかばかしく無いか。これを無理やり止めるということは自由貿易をやめるということになる。ところが、トランプはアメリカの車が日本で売れないのは、不平等な条件があるからだと主張している。すべての分野でアメリカがナンバーワンであるに決まっているという大前提がある。おかしな主張ではないか。日本の商業環境に不正行為があるから、アメリカ車が売れないのだと思い込んでいるようだ。アメリカ車が魅力がないから売れないという、当たり前のことを、あり得ないと思い込んでいる。

アメリカの農業生産はプランテーション農業である。収奪的農業である。土地をはぐくみ、土壌の力によって収穫するというような伝統農業とは違う。永続性は無視して今現在の経済性を重視している。だからアメリカの農地は砂漠化してゆく。不法就労の移民労働者に支えられている農業が、競争力があるという事に過ぎない。そうした農産物と日本という、大規模農業には不向きな土地利用形態。気候的にも限定された地域農業とを同列に競争して、どこを公平というのであろうか。特に主食農業はその国の安全保障と密接につながっている。例えば日本のコメ生産を将来ベトナムに依存したとして、安倍政権は安心というであろうか。国家というものは食足りて成り立つものだ。食の安定供給が出来ないようでは、安定した国家とは言えない。アメリカとの経済交渉ではこの点が最も重要なことになる。

アメリカがTPPから離脱したことは良かった。弱いもの連合で強い一国主義アメリカと対峙するほかない。大企業が下請け企業をいじめるようなことは許されない。経済は強い者も、弱いものも正義というルールの上で行われるべきだ。アメリカに正義のルールがあることを教えるためには、弱いものの団結が必要だ。下請け企業が抜け駆けすれば、結局は大きいものが有利になるだけだ。日本は弱いもの連合を取りまとめて行く努力をしなければならない。アメリカがいない前提で、日本という国を考えてみることだ。アメリカがいなければ、日本経済が成り立たない。アメリカ軍がいなければ、中国が怖くて仕方がない。こういう事では、アメリカとの経済戦争に敗北することになるだろう。アベ政権がこれほど失敗を重ね追い込まれているにもかかわらず、国民の支持率はさらに高くなった。どうも韓国との緊張の高まりがアベ政権支持になったの気がする。という事は、アベ政権はいよいよ韓国との対立関係を深刻化させて参議院選挙か。

 

 

 

 

 

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小室さんと眞子様への御祝儀

2019-01-28 04:03:09 | 身辺雑記

小室さんは400万円が返せなくて苦労していると書かれている。二人家族で経済的に苦労しているようだ。何とか司法試験に合格してくれるといいのだが。みんなで眞子様の結婚祝いで返してあげようじゃないか。ご祝儀ぐらい出しても良い。お二人は結婚したいと考えている。それなら、他のことは良いじゃないか。皇室の方という事が結婚の壁になるというようなことは悲しいことだ。小室さんのお母さんの元婚約者の人も、別れたのだからわだかまりや言い分はあるだろう。しかし、その昔は好きで小室さん家族を支援したい気持ちだったのだろう。その時の気持ちを思い出してもらいたいものだ。好きだとついつい貢いでしまうというか、支援したくなる。しかし、熱が冷めてみれば貢いだお金が惜しくなる。愛しさ半分憎さ倍増で貢いだ金まで返せと言いたくなる。分からないじゃないが、400万は諦めるのが潔い道ではなかろうか。それが出来ないのが人間というものなのだが。人間好きで結婚したいという事以上のことはめったにあるものじゃない。様々障害はあるだろうし、先のことは誰にもわからない。こういうことは回りは静かに見守る以外ない。

今回の事でわかったことは、女性天皇はダメだという事だ。女性がだめという意味ではない。もし小室さんが天皇の御主人になるとなれば、問題が複雑化する。国民の象徴の御主人であるから、当然国民も期待をしてしまう。ああ、こう、いいたくもなるだろう。それではさすがに厄介なことになる。皇后の美智子さま、雅子さまも皇室に入りして苦労されたに違いない。まだ女性で良かったというほかない。女性差別ではない。お二人とも類まれな立派な方である。国民として心から感謝もしている。女性天皇になる方の、立派なご主人に迎えなければならないという事は大変すぎる。又是非になりたいという人には、おかしいことがあるかもしれない。男性であれば、今以上の困難が待っているように思う。今回の眞子様の問題で皇室というものの将来を、自分たちと同じ人間であるという前提で考えたのではないだろうか。小室さんを批判する傾向のテレビを偶然見たが、とんでもない話だ。黙って見守るのがこういう時の国民の皇室に対する配慮であろう。

皇室のことを考えるといつも思う事は、京都に暮らした方がいいという事になる。政治とは距離を置くことが、大切である。いつも皇室を利用しようというような力学を感じる。それだけ影響力があるのだろう。しかし、右翼的にも、左翼的にも、皇室は関係しない。皇室はあくまで日本の文化的、学芸的な象徴であってほしい。政治から離れるほど、世間が静かになる。修学院離宮で、日本文化的に暮らしていただく。学芸に励んでいただく。それこそ今の日本が一番必要としている象徴ではないだろうか。平成天皇は鎮魂の象徴だった。天皇の作り上げた安寧な暮らしの為の鎮魂の象徴に多くの人が癒されたのではないだろうか。それは戦争を行い敗戦をしたという、過ちを背負って生きたからだろう。戦争責任の問題。そして、謝罪と鎮魂。難しい道を歩まれたと思う。

天皇の仕事は、やはり、稲作にまつわる信仰である。それが日本人と日本文化の源泉である。役割としてお米を作るという事以上のことはないのではなかろうか。もし憲法に定めるように、天皇家を日本の象徴としてこれからも続けるのであれば、やはり省庁の意味は問いつづけなければならない。それは日本国という国柄を考えることでもある。日本国の目指すところの方角を定める指針が必要である。例えば、現在韓国との関係が悪化している。韓国の態度をおかしいと考える日本人が多いだろう。その時に、日本人は韓国のような国柄になるべきではないという事があるのだろう。自衛隊が日本国憲法に定める専守防衛にふさわしい姿勢を貫いてもらわなければならない。 そこには日本国という平和を求め正義を尊重する国柄が、大切にされていてほしい。天皇はそうした象徴なのではないだろうか。

 

 

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有機のコメ作りシンポジューム

2019-01-28 03:02:44 | 稲作

有機のコメ作りシンポジュームを開催します。参加費は無料です。

参加者には有機のコメ作り冊子をプレゼントします。

 

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丸ごとみかん味噌

2019-01-27 04:04:14 | 自給

麹造りの様子。まごのりさんの圃場で今年はやらせていただいている。素晴らしい雰囲気である。明るい林の中での味噌づくり。今日はこれから味噌の仕込みである。

味噌づくりの日には持ち寄り料理が行われる。出来れば味噌料理という言ことになっている。皆さんなかなかの工夫した料理を持ち寄ってくれるので、毎年感心する。私も新しい料理に挑戦する。今年は30年味噌づくりをして、過去一番の味噌になっているので、その味噌を生かしたいと思っている。3年味噌である。3年前に仕込んだ味噌が今丁度良い熟成になった。こんな時間のたった味噌は嫌いな人もいるのだが、静かに熟成を進めた味噌の味が好きだ。味噌もそれぞれの好みがあるから、どれがいいという事はないが、古味噌の味は子供のころから、酸っぱくなった味噌を食べていたせいだと思う。お寺では味噌は毎年仕込んであるのだが、やはり作り過ぎることがよくあったのだろう。いつも酸っぱくなっていた。酸っぱいからと言って捨てるようなことはないから、酸っぱい味噌がなんとなく向昌院の味噌の味という事だった気がする。おばあさんが味噌を仕込むようなことはとても好きで、新しい味噌を開けるときの嬉しそうだった様子を思い出す。

古めの発酵の進んだ味噌はどちらかと言えば煮込んで味が良くなる。火を入れ過ぎたら味噌の風味がなくなるなどと、調理人の人が言っているが、私には理解しがたい。即製の味噌を使っているのではないか。味噌もいろいろなのだ。売られている味噌の大半はそもそも私には味噌というようなものである。味噌とまでは言えない代物だと思っている。丸大豆味噌というような但し書きが味噌にあったりする。一体四角い大豆があるのかと言いたくなる。大豆の粉を味噌風味にしたようなものを味噌と呼んでいるのではないか。良い発酵をした味噌は煮込んでその風味を増すものだと思う。少なくとも私の家の味噌は煮込んで味が出る。味噌汁に出汁など不要である。味噌だけで十分のコクがある。などというのも手前味噌ならではの主張か。これはあくまで私の好みで、他の人には通用はしない。今年の味噌が美味しいのは、麹造りの成功にあると思っている。

20日に麹の仕込みを行い。27日が味噌の仕込みである。今年は麹を仕込んでから、千葉の方の有機の給食の見学に行った。少し手抜きになって、麹が今ひとつかもしれない。温度管理的にはうまく行ったのだが、手入れをしないで進んだ。温度が36度ぐらいまでで推移したので、ついつい手入れをしないで、手抜きをした。見た目それなりの出来だが、もう一つ発酵が深く進んでいないように見える。やはり温度が上がらなくとも手入れはした方が良いのだろうか。と言っても味噌づくりも今年を最後にしようと思っている。作った味噌を小田原に於いて置く訳だから、運ぶだけで大変なことだ。みんなでやる味噌づくりも楽しいから、まだやめるとまでの決意は出来ていないのだが。

酒粕味噌を作った。

酒粕を日本酒でクリーム状に延ばして、そこに味噌を加えたもの。日本酒とお湯でトロトロにする。そこに味噌を加えてゆく。酒粕の新鮮なものをたまたま頂いた。いすみ市の木戸泉酒造を見学に行った。この酒造会社は日本酒の古酒に力を入れている。日本酒は新酒のものだと思っていたのだが、目からうろこである。古い文献にも古酒の良さが書かれていると言われていた。古酒を作るにはその製造法で、お酒が参加されない手法が必要という事だった。55度の高温でお酒を仕込むのだそうだ。この高温での製造で保存料無しで、40年古酒が出来ていると言われていた。まったく驚きである。酒粕を頂いた。これを使った味噌料理と思い、酒粕味噌と作ってみた。焼きおにぎり、パンに塗ってトースト。

丸ごとみかん味噌

丸ごとみかんのマーマレードを作り、そこに味噌を加えたもの。丸ごとみかんは眼に良いので、何にでも使いたい。マーマレードづくりは普通でいいのだが、みかんの皮も含めて細かく刻む。それに火を入れてゆく。皮がとろけるまで煮詰める。砂糖は控えめで十分甘くなる。みかんだけだから、そのマーマレードで食べるには少し物足りない味かと思う。そこに味噌を加えて、あまじょっぱい舐め味噌を作る。これは案外にご飯に合う。

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沖縄で県民投票実施へ

2019-01-26 04:01:12 | Peace Cafe

沖縄で県民投票が全県で実施されることになった。民主主義がかろうじて戻ってきた。この揺れと、戻りは、悪いだけではなかったと思う。住民投票の問題が、県民の間の、分断から対話へのきっかけになったのではないか。沖縄の若い人たちの思いが通じたという事だろう。何故、石垣市民として、意志表明さえ許されないのか耐えがたい思いであった。一体、市町村の権限として、県民としての権利を損なう事が許されるとは思えない。自分の考えと違う市民に対して、その意志の表明すら許さないというのであれば、民主主義というものは腐ってゆくであろう。こうした沖縄の分断は政府が作り出したものだ。辺野古の海に米軍基地建設を無理やり押し付けているとしか思えない。日本の安全保障に必要だから、沖縄に犠牲になってくれという考えであろう。少なくとも、沖縄の人々がどのように受け止めているかという事ぐらい表明させてもらいたい。それを材料として政治を行うのが、民主主義であろう。現在、政府は権力を持って、沖縄県民の意思を無視した形で、辺野古の海を埋め立てている。工事を強行する姿が、トランプアメリカに従う意思表明だからだ。また同時に、本気で中国が攻めてくると思い込んでいるのだろう。

先日、東京で子供のころからの友人と飲んだ。「沖縄に行って大丈夫か。」というのだ。「中国が攻撃してきたらどうするんだ。」とまじめな顔で忠告してくれた。「そうなんだよ。沖縄に米軍基地や自衛隊基地を集中させるので、沖縄の安全は脅かされているんだよ。」と話したら、「何言ってんだ基地を早く作らなければ危険だ。」こう言いだした。基地があれば、中国は攻めてこないだろうというのだ。そうか、沖縄が危険だから沖縄に基地を作らなければならないと、普通に考える人もこうしている訳だ。親切心で辺野古の米軍基地を作らなければ沖縄の安全保障はないと考えている人がいる。そのことを正面から言われたことはなかったので、唖然としながら、軍事基地と安全という事はどういう事か考えている。その友人に、住んでいる近くに基地がある方が安心か聞いてみた。「安心に決まっているよ。」それなら「基地のそばに越したらいいだろう。」と忠告した。警察署のそばに住んでいれば、泥棒も少ないという感覚かなと思う。私は基地のそばの方が危険だと思うのだが。泥棒と核ミサイルとは違う。

中国が怖いという感覚は結構広がっているらしい。それは、中国が覇権主義で軍事大国化しているという現実から来ているのだろう。その中国も中国の軍隊は中国の安全保障のためのもので、外国を攻撃するためのものではないとしている。中国の13億人の国力に見合う軍隊という事だから、まだ不足しているというのだ。中国の軍隊は中国内部を統制するためのものと考えた方がいい。中国は不安定な経済成長を続けている。大きな変化を続けている。しかも、国家優先の国家資本主義というような強引な国づくりである。国内の反発を抑え込んで行くには軍隊が必要ということであろう。言論の自由も制限されている。もちろんその強引な国づくりは近隣諸国に対しても威圧的なものであろう。覇権主義と言われても仕方がないように、周辺諸国に対しても軍事力で当たっている。国内が不安になればなるほど、外国に対して強硬な姿勢を見せることになる。

そうした国際情勢の中で、日本の安全保障はどこにあるか。差し迫ったものとして考えておくのは戦争は、経済戦争である。武力を使う前に経済的な戦争になる。それに伴いサイバー戦争があるのだろう。ロシアも、中国もトランプアメリカと対立して、経済的に脅かされている。現状の先進国間では軍事力で強引に攻めてくる可能性は極めて低くなっている。それは軍事力の変化である。北朝鮮が核弾道ミサイル保持したことで、無視されなくなった。日本安全保障がどこにあるかを、実践的に考えてみるべきだ。まずは、食糧と情報の確立が安全保障だと思う。それは災害時と同じだ。軍事力が意味がないとは考えない。軍事力で言えば専守防衛の徹底である。ミサイル攻撃を防ぐ方法をどこまで高められるか。移動可能な迎撃ミサイルであろう。固定基地であればそれこそ先制攻撃の対象になる。もし日本を攻撃するならミサイル基地からとなるだろうから。しかし、どの方法も完全なものはない。結局のところ仲良くなることだ。互いが相手を必要とする関係になれば、戦争などに訴える可能性は下がる。沖縄の民意が示されたとしても、辺野古の埋め立ては続くだろう。しかし、沖縄の意思に反しての行為という事は、より鮮明になる。そのことが次の選挙で反映するはずだ。

 

 

 

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インフルエンザを乗り切って

2019-01-25 04:59:22 | 暮らし

インフルエンザが流行している。風邪を押して通勤しようとした女性が線路に落下して亡くなられた。風邪薬を飲んでふらついていたのかもしれない。新しいインフルエンザの治療薬「ゾフルーザ」を使った患者から、治療薬に耐性をもつ変異ウイルスが検出された。薬には限界がある。

1月9日に石垣から小田原にきた。忽ちに風邪を引いた。めったに風邪を引いたことがなかったので少しがっかりした。体力の衰えはないつもりだった。ついに風邪を引いたという気がする。石垣では毎日散歩をして、身体を整えていた。フィットビットではついに66まで運動能力が向上した。有酸素運動能力とかいうものなのだが、意味はよく理解していない。石垣に行って健康的に暮らしていて、64だったものが、66に上昇した。身体の状態は良くなったと考えていた。にもかかわらず羽田に降りた時から、なんとなく怪しかった。10日の午前中になって、風邪らしいなと思った。食糧をまずたくさん買い込んだ。一人暮らしだから、しばらく買い物に行けなくなるだろうと、思ったからだ。甘酒のショウガ入りというものを2リットル買った。そのほか食べられそうなものはなんでも買い込んだ。ご飯を炊けなくなった時の為に、サトウのご飯も6個買った。のど飴を二袋。パウンドケーキも。ともかく食欲がなくても食べられそうなものを買い揃えた。みかんは浜松の北村さんから送ってもらったものが、10キロあった。

10日の夜になって熱が上がり始めた。11日、12日と3日間熱が出た。何故か、いくらでも寝て居られた。熱があるが、苦しいとか頭が痛いというようなことはなかった。薬は飲まない。病院には行かない。病気になったことには理由がある。原因を考えるべきで、薬で結論だけ変えて済ますというのはどうも、私の流儀ではない。最近のインフルエンザ対策では病院に行かない怪しい患者は、迷惑のように思われる点が困る。3日間寝ていながら、状況を味わっていた。ただ寝ていた。布団の中は暖かいのだが、ともかく部屋が寒い。今の室温が6度である。部屋には暖房はない。エアコンはあるのだが、暖房で使ったことはなかったが、一応付けてみた。暖かくなったのだが掃除をしていないエアコンで肺の状態がさらに悪化したようだった。いまさらエアコン掃除をする体力もないので、ただ布団の中で眠って耐えることにした。

2地域居住の課題が早速に見えた。寒さにに身体が付いて行けないという事だ。冬に小田原に来るという事は、かなり難しい。11月から、4月までの半年は石垣暮らしの方が望ましい。普通に冬寒いので、避寒に暖かいところで暮らすというのが、当たり前の話だ。寒い最中に小田原に来る計画がそもそも馬鹿げていた。自分の身体の能力を過大評価していた。この気温差に対応できる能力が身体になかった。高度順応ではないが、慎重に寒さになれるようにすべきだった。肺が寒い空気に対応できなかったようだ。肺の能力が一気に下がったような感じがした。その上に風呂の給湯器が壊れていた。灯油のものなのだが、しばらく使わないでいると調子が悪くなる。直せばまたなんとかなるのだが、体調の悪い中そんなことをしていたらさらに悪くなりそうなので、風呂は諦めた。13日の夜に無理をして、風呂屋に行くことにした。熱があるのに風呂に行って、サウナに入り、水風呂に入った。私としてはこれですっきりと治った。と思っている。食べ物もひったすら食べたのだが、体重は52キロまで減っていた。

このあと、16日には税務申告の準備。17日にはネット業者の変更。19日、20日と麹の仕込み。21日はいすみ市の見学。22日は東京での新年会にも出かけた。24日が水彩人の総会。忙しいがしく動いているが、もう大丈夫だ。身体がやっと寒さに順応してきたようだ。寒さが悪い訳ではない。今も寒い中、厚着をして布団をかぶって、ブログを書いている。手はかじかんで冷たい。身体もこわばる。それでもこれはこれでいいと思っている。久しぶりに風邪をひいたことには意味があったし、いろいろ学ぶところもあった。ただ寝ていれば治るという事がわかった。病院に行かないで済んでよかった。風邪をひいてから人とは合わなかったので、人に感染するようなこともなかっただろう。

 

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自分という人間の研究

2019-01-24 04:57:56 | 身辺雑記

人間の研究は尽きるところがない。私のやっていることは自分のことばかりで、どうしようもない奴ともいえる。しかし、すべての宗教や学問は自分という人間の研究ともいえる。人間は社会的なものであるが、結局のところ生き方は個人に戻るところが面白い。「私の勝手でしょ。」「ダメでもいいじゃん。」というところが救いであると思ってやっている。ほかの人の生き方は、確かに参考にはなる。しかし、参考というようなものは命ギリギリのところではどうなのかと思う。こうすればよい絵が描けるというような話は、私絵画の場合役に立たない。ヘンな話だが、役に立たない範囲のことだから人の話はためになる。中川一政氏の本は大体読んだ。上手いことが書いてあっておもしろい。しかし、私の実用にはならない。当たり前のことだろう、違う人間の話だからだ。そういうことは田んぼをやってきたのでわかる。隣の田んぼの話は、あくまで隣の話だ。よく似た条件のことを参考にすると案外に失敗もする。一般論ならまだ良いのだが、個別の方法まで立ち入ると、参考になるはずのものが障害になる。

ピカソにとって良いことと、マチスにとって良いことはまるで違うわけだ。ボナールがいくら好きだからと言って、そのやり方は自分に至るためには障害になりかねない。様々刷り込んでしまったやり方を脱ぎ捨てて、自分のやり方に至るという事が、まずは至難の業だ。私の場合、長距離走をやっていたということもあり、君原選手がお手本である。なぜ走るのか。なぜ早く走れるのか。なぜ続けられるのか。君原選手は前の東京オリンピックの代表である。8位になった。銅メダルだった円谷選手の陰にいた存在だったが、中学生の私はむしろ伏兵としての君原選手にあこがれていた。それで陸上を始めた。メキシコオリンピックでは銀メダル。先日ボストンマラソンでは50年前の優勝者の招待レースで、73歳で74回目のマラソンを完走した。見事な生き方だ。私は生き方の参考にさせていただいている。世界のトップランナーで50年後にマラソンレースを完走できる選手は数少ないと思う。女子選手はなんとなく50年後でも走りそうに見えるがどうだろうか。勝ち負けを超えたところに走る最後の意味があるようだ。千日回峰行か。

スポーツ選手が参考になるのは姿が良く見えるからだと思う。今度の東京オリンピックのコースをもう一度走ってくれないものだろうか。健康な国づくりの象徴である。マラソンを完走するということが、誰にもわかるようにすごいことだからだ。これが絵であればほぼ姿形が見えない。私の絵を見てもう少し大きい絵を描いた方がいいのではと言ってくれた人がいた。意味が分からなかったので、時々思い出しては考えてみている。絵の大きさというのは、確かにある。しかし、私絵画においては大きさは問題ではないように思っていたのだが。手の内の楽な仕事ばかりしていたのでは、前進がないというようなことなのだろうか。絵を描いて君原選手であることはなかなか難しい。走ることと生きることとが良い結びつきにあるすがた。君原選手にとって生きることがあって、マラソンはその生き方のあらわれた姿なのだろう。私も生き方として絵を描く。それが画面に現れるように絵を描きたい。そういうことを君原選手の走る姿から学んだ。

あと長くとも30年である。生きるという事を走り切りたいと思う。自分という人間のマラソンを完走したい。このマラソンの完走は必ずできる。走り終わるところがゴールだからだ。誰にもかならず行き着けるゴール。それまで全力で描いて居いていたい。幸い、沿道には観衆もいくらかは居るようなのだ。今年の年賀状にどこのどなたかわからない方から、私は笹村さんの絵のファーンであるというものがあった。そういうものは生まれて初めてであったので、驚いてしまった。慣れないことではあるが、ほめてくれている人がいるという事は励まされる。嬉しくなってしまった。少しづつ、いわゆる絵とは違ってきたようである。私絵画というものである。実にわかりづらいものだろう。それでも、こんなやり方を良しとしてくれる人がいない訳でもない。世の中というのは案外に良いものである。確信を持って走り切ろうと思う。

 

 

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いまさら、日露平和条約で加速とは、何。

2019-01-23 04:18:21 | Peace Cafe

日露平和条約で加速とは、どういうことなの。大げさな宣伝のわりに、何の成果もなかった首脳会談という事になる。この間の日韓関係の急速な悪化の方が気になる所だ。北方領土が日本に所属する必要などないと考えている。日本とロシアが仲良くなることが一番大切だ。仲良くなるとは切っても切れない関係になるという事である。戦後ロシアが日本に対してやったことは、全く許されないことだと考えている。戦争に勝ったという事で、民間人まで抑留して強制労働をさせたのである。確かに日本にも落ち度はある。しかし、ロシアのやったことは世界が記憶しておくべき、非人道的行為である。その恨みを引き継げというのではない。シベリア強制労働の像を作れというのでもない。和解しなければならないことが触れられずにあるという意味である。樺太等旧日本領で日本人が戦後どれほどひどい目に遭ったのかという事も、無かったことにする訳には行かない。領土が返してもらいたいから目をつぶってよいようなことではない。

過去にあった日本の誤り。また、ロシアの戦後の問題行為。こういうことを明確にして歴史的な解決を図るという事が、日ロの間にある大問題である。戦争に勝てば何でもありという事ではない。これは平和条約締結に際しては、無視されたら困ることだ。シベリアに抑留された人が3人身近にいた。そして、何度も話を聞かせてもらった。どれほどひどい状況であったのか。また、樺太で生まれて、ソビエトの侵攻で日本に逃げ帰った家族からもそのソビエトのやった卑劣な行為も聞かせていただいた。記録しなければならないことである。そのことがなかったことにになるなら、領土の返還など無意味である。日本のソビエトに対して行ったこと、そしてロシアが行ったこと、すべては記録する、確認して、許し合う。しかし、無かったかのような交渉ではおかしくないだろうか。私にはどうにも納得がいかない。平和条約の締結時に、領土とか、漁場の利権などを持ち出す姿勢は、全く情けないことだ。最も大切なことは、日本という国の尊厳である。

ロシアは世界から経済封鎖をされていて、かなり厳しい状況にある。ロシアはウクライナでクリミヤ半島の併合という事を行った。ソビエト連邦から独立した国々にとっては、恐怖心の連鎖を起こしている。ロシアは油断ならない国なのだ。ヨッロッパにしてみると、ソビエトの力による圧力を高めてはならないという思いがある。アメリカも同様である。その結果かなり厳しい経済封鎖は続いていて、ロシア経済は過去にないほど厳しい状況にある。石油の情勢もあり、ロシアは中国以上に経済の危機的状況である。国内の不満も高まっている。その為にそもそも対立していた、中国と友好関係を結ぼうとしている。ロシアの経済というものは、国の大きさの割に小さいものである。にもかかわらず軍事大国の立場をとり続ける。これからの展開は、トランプアメリカにかかっている。韓国の照射問題においてアメリカは仲介をしなかった。多分、日本は泣きついたはずだ。しかし、無視された。アメリカの態度は本当に自国主義に進んでいる。ロシアに対しても、日本に対しても今後も厳しいものがあるだろう。

日ロ経済交流は進んだとされているが、全く進んだようには見えない。北方4島で共同経済活動を進めると言っているだけで、何年も経過しながら、具体的な成果と言えるほどのものはない。ある訳がないのだ。経済は利益が出るなら、無理をせずとも交流は広がってゆく。北海道の経済が振るわない現状がある。人口減少が早い地域の一つである。特に北海道の島しょ部は厳しい環境の中にある。経済交流と言っても4島へのツアー位のものだろう。ソビエトは何故かこの地域に力を入れているようだ。放棄しておけば、日本に取り戻される不安があるからなのだろう。領土など負担であるばかりだ。特に人口減少に入る日本にとって、領土が増えることのプラスなど小さなものだ。

 

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再生エネルギーは不可能を前提の経団連会長

2019-01-22 04:45:41 | 暮らし

経団連会長の日立の中西氏は原子力発電について、国民的議論を展開すべきと発言した。いよいよ原子力発電を終わりにしたいという事かと思えば、全く逆であった。原子力発電再稼働や国内の原発新設に向けて「公開討論」を提案していたのだ。討論を行えば再稼働を国民が受け入れると思い込んで、発言を続けている。その理由はなんと再生エネルギーは日本では不可能だから、原子力発電をどんどん進めなければならないという話だった。再生エネルギーを不可能と決めつけるような人間が経団連の会長ではもう日本はダメだ。原子力発電はダメだから、日立も世界から引き上げているのではないのか。海外展開がだめなら、国内の原子力発電すすめる為に国民全体を説得しようという姿が、日本の企業人の哀れな姿である。もう日本の企業人の頭のなかは欲得で腐りかかっているようだ。再生エネルギー以外に日本の道はないというのが私の見方である。ところが、そういう発想の転換が既得権益者としては無理になっているのだ。原子力発電にしがみ付いて居れば、当面はやり過ごせる。

再生エネルギーがなぜ日本ではだめなのか。その理由を語るのが先であろう。それが企業人の役割である。原子力がやりたいから、再生エネルギーをダメだと理由なく決めつけているに過ぎない。日本の企業にはすでに新しい再生エネルギーを開発する能力がないというのが理由なのではないかと思っている。日本が再生エネルギーをだめだと思い、手を打てないでいることは事実である。一年一年世界の再生エネルギーの開発の水準から遅れ始めている。確かに中国は原発推進である。と同時に再生エネルギー部門でも新しい方向性を積極的に模索している。新しいものを開拓して行こうという、思いの強さが違う。相変らず中国の負の面だけを見ている報道が多いが。もう考えても無理だから原子力でいいじゃないかと、過去の利権構造から出られない人間が、経団連の会長なのだ。国策事業であった、日本の原子炉輸出は失敗に終わろうとしているのだ。失敗を失敗として認めることができない人間につぎの時代を考えることなど出来るわけがない。再生エネルギーは日立には無理だ。原子炉に失敗した日立に、再生エネルギーどころでないのは当然だ。何故こんな失敗をした人間が経団連の会長なのだろう。こういうところに日本のダメさ加減が現れている。

再生エネルギーだけが日本の可能性だ。日本列島という地殻変動の激しい地質の上にある国では原子力発電は常に不安なものだ。それこそこの危険を国民的議論にしなくてはならない。この状況の中経団連会長がどのように話せば、原子力が安全神話を信じ込ませられるかというだけの議論を考えている。そこまで日本人は愚かではない。さすがに経団連の中西会長ほど愚かではない。議論をすればするほど、再生エネルギーに日本の未来を託すほかないという事が、見えてくるはずだ。もちろん中西氏は出身会社に対する利益誘導の発言をしている底なしの愚か者だ。日立は原子力政策で大失敗をした。アメリカで大損をした。そして利益を上げていた半導体部門を売り払った。もうよたよたなのではないか。何故経団連会長などやっていられるのだろうか。そして、唯一しがみ付けるのが原子炉の再稼働という事だ。これを叫んでいれば国から補助金が貰える。こんな日立の視点からの議論に何故国民が巻き込まれなければならないのか。すべては原子力国策アベノミクスの失敗という事だ。

日本という船は現在、暴風雨の中に向っている。暴風は近づいているのに、進路が定まらない。アメリカの一国主義に翻弄されているだけだ。世界の対立の深まる中、日本の方角というものを持てずに、ただアメリカの舟にしがみ付こうとしている。日本という船にはどうも動力がないらしい。自らのエネルギーで方向を定めて漕ぎ出そうという事が出来ない状況に陥った。その結果曳航してもらうことだけを探している。前にも勧めないし、方向も変えられない。これではどんな大きな舟でも乗っているものに安心感はない。小さな船でも良いから、その船が自分で動く動力が必要だ。補選でも、手漕ぎでもいい。原子力はダメだ。みんなで同じ方角に向って漕げるようにしてもらわなくてはならない。そのためには原子力ではだめなのだ。そのことに気づく必要がある。

 

 

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大豆の会ができるまでーーー5

2019-01-21 04:49:32 | 自給

昨日は、近藤まごのりさんの諏訪の原圃場で麹作りが行われた。新しい場所で新しい味噌づくりが始まった。

農の会としての味噌づくりは、第一回は小田原の私の家でやったのだと思う。小田原に越してすぐだったので、2003年のことではないだろうか。中野さんという開成の方で、MOAの自然農法されていた方と一緒に宅配事業をしていた。その中野さんのやり方というのが、麹を塩漬けにして眠らせて、一年於いて置くというやり方だった。そのやり方が開成では普通だといわれていた。 まだ10人ほどで、20キロの釜でやったのだったと思う。大豆も購入したものだ。私の家で3回ほどやって、2006年ごろに、梅の里センターでやるようになった計算になる。その頃に農の会としての大豆栽培も開始をしたことになる。2008年には醤油を仕込んだ記録がある。2008年には小宮さんの所に味噌の貯蔵庫を作る計画を立てたが、これは紆余曲折があり実現が出来なかった。予定者名簿には以下の名前がある。大野、諏訪間、阿部武、安藤、石井智子、渋谷、兼藤、藤崎、瀬戸、小泉、中原、鈴木淳子、下川A、下川B、笹村、吉野馨子、河合、酒井まや、中村、佐々木、小野田、塩谷卓也、松本、三木、杉崎、この頃にはこういう人々が参加していたという事になる。 2009年の大豆栽培の参加者名簿には56名が記載されている。

梅の里センターのみのり館には大きなコンロがいくつもあり、味噌づくりには良い場所だった。そのころは麹造りには藁の編んだものが必要だという岩手から来た千田さんの方式が残っていた。ムシロ編みからやっていた。今思うと納豆ではないのだから、むしろで麹を仕込むという事の意味は理解しにくいが、東北のやり方にあるのだろうか。ところがその稲わらの掃除が不十分という事で梅の里ではやれなくなった。何しろ庭の芝生に藁が落ちていたというので怒られたのだ。責任者だった中原さんの所では子供が生まれる直前の奥さんが電話で呼び出され、怒られるという事件になてしまった。当時の梅の里センターの管理者の考えた方には驚くべきものがある。この事件では農政課に正式に抗議をして、謝罪と撤回をさせた。しかし、この事件でみのり館は使いづらくなってしまった。

みのり館から、小宮さんのおじさんの所に移り、3回目から旭ブルーベリー園にさらに移った。20キロぐらいの大釜をあちこちから8つほど集めて並べてやっていた。盛大なものだった。3,4年この方式でやったのだが、これでは効率が悪いというので、120キロ入る大釜を購入した。この時期が一番試行錯誤しながら盛り上がった時期ではなかったかと思う。参加者が多くなり過ぎたということもあり、味噌作りはいくつかに分かれてやるようになっていった。生産者の人たちは自分でやる方が楽という事に成り、農の会の味噌づくりから徐々に距離をとるようになった。 そして、大豆の会には2つの大きなことが起きた。一つは長年中心にやっていた、中原さんが奈良に移住することになった。全てを要領よく一人で担ってくれていたので、居なくなってから、戸惑う事が多かった。特に個人的な関係で参加者に連絡していたので、連絡先のすべては教えられないという事になった。参加メンバーで一度途絶えた人も多かった。中原さんが去った後を引き継いでくれたのは藤崎さんである。 もう一つは原子力事故の影響である。小田原でも大豆の放射能汚染の不安から活動から離れる人が増えた。藤崎さんは茅ケ崎に住んでいたのだが、大豆の会が原子力事故で一番苦しくなった時期、何とか持ちこたえてくれた恩人である。今でも大豆の会を支えてくれている。

 その頃やっていた西大友の大豆畑を止めて、大豆畑を機械小屋の前に移動することになった。トラックターの移動に困ったことが理由である。トラックターを運搬できるトラックがない。作業が煩雑になった。そこで、機械小屋の前ならば、面倒がないという事で機械小屋の前の畑に大豆畑が移動した。大豆畑の作業はだいぶ楽になった。味噌づくりも、小宮さんの所から、機械小屋でやるようになった。やはり大釜の移動がだんだん負担になったことが理由である。 舟原の旧機械小屋の前に大豆畑を移動してからは、今度は大豆栽培で苦労することになった。永塚でやっていたころは、田んぼの中で、高いベットを毎年作り直して作っていた。ベットの間には水があるような大豆畑だった。ここでの栽培はとても優秀で、反収で言えば200キロ越えで今の倍は取れていたと思う。ただし、ハトが良く来る畑で、種から作るという事は全くできなかった。 苗を作り植え付ける方式だった。この頃稲葉さんの断根挿し木方式を試みていた。これは、久野の機械小屋の前に移動してからも続けていたが、成果なく終わった。そして機械小屋前の畑は地主さんが亡くなられて、返すことになった。そして、欠ノ上の畑に移動することになる。そのあたりからのことは、最近のことなので、皆さんご存知かと思うので、これで終わりにする。

 

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見るという事の自覚

2019-01-20 04:19:09 | 水彩画

目に映るものを、意識して「みる」という事に自覚する。絵を描くときには、意識をどう持って行くかを考えている。見ているという事が自覚することが出来れば、自分という見ている何ものかが確認できる。ここに絵を描くという事の意味が存在している。月を見る。冬夜空を見上げれば月がさえわたり浮かんでいる。月は美しい。理由なく美しい。犬だってうっとりして遠吠えをするかもしれない。月が美しいというのは文化的蓄積なのだろう。月を美しいとめでる人間の方が文化的に良い人間という刷り込みがあるのだろう。月の欠け具合で様々な名称を付けた平安貴族の文化。月に名前を付ける。宵待ち月、立待月。月に叢雲花に風。月という天体現象を言葉化することで、月というもののに命を与えることができた。命名された月は、多くの詩人に読まれ、その厚みを増してきた。「名月や池を巡りて夜もすがら」江戸時代芭蕉が月を俳句に読む前提には、月という言葉化された文化的な厚みがある。月を見るという事にも、日本に生まれ日本人になったという重い事実がある。

見るという事が、ただ目に映るという事ではないという事は確かだ。見るという事は意志的なことである。そして名月と読んだ時にすでに、詩的世界が共有されている。月を描くという事がある。月に人が立った時に、文化としての月が変わるのかと言われたことがある。坂本繁二郎の描いた月が変わると言われた。月に人が立つという事実で、月が変わるのではなく、月という文化の厚みが失われる年月が過ぎた。それは、風や霧の共通文化も薄れゆくようだ。私の目に映る月を美しいとする、「みる」は私自身の中ではぐくむほかない。それが、私が絵を描くという事なのではないか。私が「みる」を確認するためには、描いてみるほかに手立てはない。見るを自覚するために描く。このように見ているという、自覚を画面に表してみる。それが私が描くという事の意味なのだと思う。私というものに至る為に、私というものが見ているという自覚を深めるという事。

私の絵は意識を自覚化するものであろうとして描いたたものだ。見ているが画面化出来ているとは言えないが、見ているという事を確認しようとして描いた痕跡である。これが笹村出が見たという事でいいのか。この問いかけの下に描いている。昨年の水彩人展の展示前の、地下の部屋で同人の互評の作品批評会が行われた。私の絵を前にして、失笑が広がった。出来上がった商品絵画というものを前提にしたら、絵とは言えないものである。自分に近づくという事は、自分のありのままであるという事は、こういう事だろうなと感想を持った。代表からは、笹村さんの真似をしたような絵だという言葉があった。多くの人が誰かをまねて絵を描いているという事であろう。私が私をまねるという見方はあると思うが、上手く真似られない絵ということになるのだろう。良い絵を描こうとするとことが目標にされている。良い絵という客観評価の世界にいる。世間的な評価が絵画世界にまだあると信じられている。良い絵という基準から、評価を下そうという、価値世界を残している。

絵画において共通評価基準のある世界は、すでに消滅した。文化勲章受賞作家の作品でさえ、共通価値としては成立していない。そんなことはないと考える人がいることは知っているが。商品文化の世界が広がっているから、絵画が商品絵画としての基準のなかにあるのは当たり前である。それとは私が絵を描くという事とはかかわりはない。かかわりがないと自覚するには遠回りしたが、やっとのことでたどり着いた。問われるのは笹村出という人間だけである。笹村出であるという事が価値があるのかどうかである。たぶん世間的には何もない。何もないのではあるが、それでも笹村出に至ろうとする。つまり、個であることの自立。その自覚と覚悟。そうではなく、何でもないササムライズルがそこにあるという確認が意味がある。それは笹村個の問題ではないとさえ考えている。誰もが、自分であるというところに立つという、私絵画の在り方。もし、つぎの時代にも絵画が存在しているとすれば、そこ以外に場はないと考えている。立派でなければならないという重荷を解き放つ。

 

 

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TPPによる農業への影響

2019-01-19 04:11:29 | Peace Cafe

いよいよTPPが発効になった。日本の農業がどう変わるのか。大きな影響があるはずだ。政府の試算でも、数千億円の農業生産が減少するとしている。今年の稲作の作付面積は5%ぐらい減少するのではないかとされている。自由貿易は良いことである。関税の撤廃も悪いことではない。しかし、国家の維持のために、食糧生産をどうしてゆくのかは、成り行き任せというわけにはいかない。農産物は自然環境に大きく影響を受けるわけだから、ただ国際競争力で峻別すればいいというものではない。過去植民地に広がるプランテーション農業が地域の食糧生産農業を崩壊させてきた歴史的事実がある。プランテーション農業は換金作物ということで、主食作物が競争力を失う。企業経営としては利益が上がる。だから、食糧生産の為の農地が失われ、国際競争力のある作物に転換されてゆく。このような地域農業崩壊がプランテーション農業の広がった地域で起きた飢餓の原因になっている。経済主義で動く先進国の思惑が、食糧不足の後進国を生み出している。

世界全体の農業を考える上では、主食生産とそのほかの作物は別枠で考えておく必要がある。確かにお米の輸出も増加している。国際競争力のあるお米も存在はする。同時に、失われる稲作の方がはるかに大きいということが現実である。日本においては稲作をどうするのかがTPPに伴う問題になる。これは日本文化の消滅という事でもある。農業者は2030年には半減するという予測がある。団塊の世代が農業ができなくなったときに起こることである。稲作農家でも小さな自給的農家は急激に減少し、外国人労働者を雇用する大型企業的農業がひろがる。問題は大型企業的農家は国際競争力を前提に、生産性のある農業だけを考える。生産性の悪い中山間地の小規模農地であれば、手が付けられないということだ。これが、さらに日本の地方を疲弊してゆく要因になってゆくことだろう。予測されるこうした危機的事態に対して、TPPは拍車をかけることになるだろう。農地法は無力化している。農地が放棄され消滅してゆくような地域と、企業的な農業が可能な地域を色分けして対応しなければならない。このまま、農業政策が国際競争力に翻弄され、中山間地域が見捨てられたような状態であれば、日本の稲作は突然、崩壊をするようなことになるに違いない。

本来主食作物は自由貿易の枠から外すべきものだ。主食に関しては貿易量は10%までという上限を決めたる方がいい。それぞれの国が、まず主食を確保できる状態を優先しなければならない。それは世界の安定化には必要なことだ。食糧自給は国家という枠組みを安定化するものだ。食糧の不足から、国家が不安定化して様々な問題が起こることが多い。TPPで自由貿易が行われることは、産業によっては必要なことだ。しかし、国際競争力という物差しで食糧まで標準化されてしまうのでは、国家というものが壊されてしまう。国家というものは守らなければならないものだと思う。経済が国を超えて国の枠組みを壊し始めている。

それぞれの国柄というものは大切なものだ。その意味では私は国粋主義者なのだろう。私という個がよりよく生きるためには、わたしを取り巻く日本人という枠組みは意味がある。日本人という民俗である。稲作を大切にする気持ちである。ご先祖を敬い、子孫に日本文化を残してゆく思いである。この日本文化という枠が深く大きければ大きいほど、私という枠を深めてゆくこともできる。私はたまたま寺院に生まれ、曹洞宗という道元の禅に触れた。そのおかげで、実に精妙な人間の在り方を教えて頂くことができた。中国の禅とも、インドの禅とも異なる、日本の自給自足に基づく生き方である。人間というものが分からなければ、国がどうあるのが良いのかはわからない。日本という国がまず第一である。それは、決して独善のものではなく、国という枠組みのの中にも、無くすべきものと、残すべきものがあるという事だと思う。中国鎮江市の田んぼに入った時に、そういう事に気づいた。全く水の流れようとしない田んぼの中で、違う世界が成り立っているという事を知った。

 

 

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日韓対立には仕掛けがある

2019-01-18 04:13:43 | Peace Cafe

日韓のたがいの不信感が日に日に危ういところまで盛り上がってきている。常にこうした状況になる下地が日韓の間にはある。日本の明治以降の歴史がそうしたわだかまりを産んでいる。「そうだよ、確かに日本は悪かったよ。だから何度も謝ったじゃないの。それなのにいつまでも、謝ったものに行きすぎじゃない。」これは日本国民感情。当然ひどい目にあわされた方が、謝ったぐらいで済ますわけにはいかないという理屈の方がまともだろう。両国の国民の間には、いつまででも不満を増幅させる、解決不能な歴史問題がある。韓国国民にしてみれば、全く歴史を反省しない謙虚さのない日本人だと、繰り返し怒りを爆発させるのだろう。日韓の歴史的関係をよく表している。日韓とも簡単にこの問題を終わらせるつもりはない。問題がこじれた方が、当面両政権に都合がよいからである。アベ政権としては、憲法改定に繋がれば大いに結構という事だ。国民感情を煽る良い材料なのだろう。近隣諸国の理不尽さが強調できる。

韓国政府としては、北朝鮮問題の停滞をごまかすことができる。政治問題化の意図があって行われたのかもしれない。レーダー照射を日本政府が公表した時から予測された成り行きである。もし日本政府がこの問題を穏便に済ます気であれば、公表しないまま、韓国と連絡を取り合うことも可能であったはずである。照射したという事自体が、対立を深めようという意図に基づいた行為であった可能性もある。韓国の軍隊の中には日本に戦争を仕掛けたいというような人たちもいない訳ではない。自衛隊側にも韓国を攻撃してしまえという人たちがいない訳ではない。照射されたので即座に反撃をしたというように戦争を始めてしまう人が出ないとも限らない。武力というものは常にそういう跳ね上がりものを産むものだ。過去の戦争もそういう形で勃発した。そして、国民は興奮させられて、提灯行列という事になる。負の連鎖である。木口上等兵はラッパを放しませんでした。爆弾3勇士。など戦後生まれの私の中にでもかすかに戦争の英雄の話が残っている。

戦争までの道は遠いいように見えるが、すぐそこにある。集団としての国民はキューピー人形である。いつでも集団ヒステリーは暴発する。政府はどこを押せば悲鳴を上げるか把握している。この泣き所A地点が朝鮮問題なのだ。領土問題もまた泣き所B地点なのだ。ロシアとの間で外交交渉が続いている。河野外務大臣が訳の分かりにくい記者会見でだんまりを決め込む中、当事者たるアベ氏の口の軽いこと。ペラペラすでにことが決まっているかのような年頭所感であった。早速、ロシアから怒られてみっともない限りである。あべ氏には交渉事など無理だ。平和主義の国としては、領土の拡張など要らないという事が大前提である。離島など必ず負担である。問題を解決できないのは、国民の欲の張り方次第である。尖閣諸島が中国になったところで、痛くもかゆくもない。戦争の種をどうやって摘み取るかである。問題はロシアや中国の覇権主義とどうやって、日本の平和主義がかかわるかだ。

全ては灰色解決しかない。白黒決着をつけようなど、外交交渉では目指さない方がいい。照射は何かの互いの間違いだった位で終わりだ。今後起きないような両者の約束の方を重視すべきだ。面子も真実もいらない。韓国には日本との対立を煽ることを目的とした集団がある。日本にもヘイトスピーチ集団がいるのと同じことである。韓国政府でもそういう集団をうまく活用する。もちろんアベ政権も似たように、沖縄よ防人になれなどという日本会議などを利用する。大事なことは国民がキューピー人形にならないことだ。くだらない扇動記事に対して、いきり立たされることを恥とすべきだ。ロシアとの交渉が暗礁に乗り上げているので、照射問題が出ているのかもしれない。日米経済交渉への対応なのかもしれない。戦争をしないで生き抜く日本の国づくりの為に、国民はタフにならなければだめだ。

 

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