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イスラム国に囚われた湯川氏

2014-08-31 04:15:02 | Peace Cafe


妙高岳 いもり池 中盤全紙






イスラム国に日本人が捕まった。その後情報がないが、どうなっているのだろうか。安倍氏が国会で見せていたイラストでは、集団的自衛権では母子の話だった。一体どういう場面を安倍氏が説明しているのか、今だ良く分らない。分らない内に、日本人がシリアのイスラム国という過激ゲリラに捕まった。これは対象外でいいのだろう。このイスラム国と言うのは、もとアルカイダ系と言うことである。シリアのアサド政権が独裁で、反民主主義的な政権である。そして、少数民族や宗派の違う人達を、弾圧し殺害している。その為に難民となってシリアから脱出する。これを救済しなければならないということで、国連の安全保障理事会が2月に全会一致で、シリアアサド政権に対して、人道支援決議を行っている。決議に従わなければ、さらなる経済封鎖を行うということだった。アサド政権は過去ロシアが支援していた。イラク戦争と同じで、どうなっているのかさっぱり分からない。

アサド政権の暴虐が目に余るということはある。しかし、イスラム国の残虐行為はさらに悲惨だ。加えてシリア・イスラム戦線とかシリア国民連合と言うような、政府と戦っている組織がある。それを欧米各国が支援している。さらに、日本がシリアに対する国連決議を受け、同盟国アメリカの指示に従っている。それは、イスラエルとパレスティのガザ問題にも似ている。アメリカはイスラエル支持だから、日本も支持しろと言われても、普通の人が殺されているのは、パレスティナの方が多い。日本政府の態度は鮮明ではない。だからどうというのではなく。正義などと言うことでは計れないということだ。そして、ウクライナでも相変わらず、戦闘状態である。アメリカがウクライナ側を支援するので、日本もウクライナ側の支持である。ロシアは反政府側の親ロシア勢力を支えている。イラクでのアメリカの連日の空爆は、少数民族の救済と主張されている。日本はアメリカの意向を汲んでおおむね行動している。

複雑な中東情勢の背景には、過去の植民地支配と石油利権が存在する。中東の混乱の背景には、欧米とロシアの権益的介入が存在する。日本も石油ほしさに、アメリカの言い成りに動いている。正義とか、民主主義とか、そうした判断材料は中東には通用しない。たぶん戦争というものはいつでも、対立国両者に言い分はある。戦争開始の言い分など、その時の都合ででっちあげるものだ。今まで日本の軍事的行動は、憲法の制約で出来なかった。ところが、これからはそうもいかない可能性が出てきた。安倍政権は確かにイラク戦争の様な事例では、アメリカからの要請があっても、戦闘には参加しないと答弁した。しかし、解釈で憲法まで変えてしまう政権である。それを信じろと言われても、とても無理だ。ホルムズ海峡の機雷の除去作業の様な場合は行くと明言した。

ホルムズ海峡の機雷の敷設があるとすれば、イランの脅しである。イランとオマーンの領海の主張、国際航路との複雑な関係がある。イランがもし封鎖した場合、イランとの交戦状態を覚悟しない限り、機雷の除去はできない。つまり、こうして中東の混乱を極めた紛争に踏み込む覚悟を持たなければ、機雷の除去が行えないのが、現在の国際情勢である。もし機雷除去を行えば、安倍政権はイスラム諸国に対して、戦う勢力になるということを表明したことになる。日本もイスラム諸国からのテロ攻撃の対象になるということでもある。集団的自衛権の解釈変更をしたことによって、日本人の安全を低下させている事態とも言えそうだ。日本の強い姿勢が、マイナスにも成るのが国際情勢である。非武装主義が非現実的と言い難い状況が、世界に生まれている。理想主義に見えた、憲法9条が日本の安全保障のかなめになっているとも言えるのだ。イスラム国に捕まった湯川さんは、相当危険になっている。政府が何も発言しないことには理由がありそうだ。
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盲導犬、傷害事件

2014-08-30 04:14:30 | Peace Cafe


下田 中盤全紙




盲導犬が刺されると言う、痛ましい事件が起きた。ラブラドルの8歳の雄だそうだ。こんな信じがたい事件が起こる世の中に成った。悲しい衝撃に包まれる。小学生の時から、ラブラドルを飼った。当時としては珍しい犬だった。その犬がラブラドルとは知らないで、空き地に出ていた瀬戸物屋さんからもらった。東京の三軒茶屋に仲店商店街と呼ばれている闇市の様な通りがある。その裏に空き地があった。三軒茶屋劇場という映画館の隣で、それは汚い猥雑な空間があった。空き地の半分位をごみ置き場が占めており、生ごみが山の様に積み上げられていた。その生ごみを豚やさんが漁りに来ているという、中国でも今の時代見れなくなった様な、すさましい場所だった。その空き地には、ガマの油売りとか、偽の毛織物の反物屋とか、猿回しも来た。一筆書きの龍の絵を描く人もきた。合気道の達人もみた。計算の驚異的な方法の、インチキ種本屋もいた。その空き地には瀬戸物屋さんも回ってきた。瀬戸物屋さんの周りに遊んでいる黒い子犬がいた。瀬戸物屋さんには柴犬の雑種が居て、それにくっついて歩いている。

その黒い小犬にパンの耳を与えて、家まで連れてきてしまった。野良犬の子犬だとばかり思ったのだ。そして、すぐに紐を付けて散歩をして歩いていたら、それはうちの犬だと、瀬戸物屋さんに言われた。びっくりして返そうとしたのだが、又もらってくるから、その犬はお前さんに上げると言われた。のら犬の様な黒い犬なので「ノラクロ」と名ずけて、それ以来、その犬は友人だった。これほど頭のいい犬はみたことがない。自慢ではなく、犬のレベルではなかった。言葉の理解度が際だっていた。人が出かけるとなると、脱走してしまい、5mほど離れていて捕まらなかった。人間のことがすべてがお見通しと言う感じの犬だった。クロが大人になって、犬の図鑑を見ていたら、何とこの犬はラブラドルリトリバーと言うアメリカの犬種だった。大きくなって始めて分った。私はこの犬から生きる倫理の様なものを学んだ。信頼、正直、愛情、誠実。そういう点では犬に勝る生きものはないと言うことをクロに教えられた。私のいくらかでもあるまともな所は、クロの教えだと言える。

どうも浦和駅周辺で、盲導犬は刺されたらしい。刺されたときに、全く鳴かなかったというから、さすがに偉いものだ。そしてまた、なんとも哀れである。目の悪い飼い主の方のことを考えていて、自分の怪我どころではなかったのだろう。立派すぎて辛くなる。人間はこの愛情にどうして答えられよう。犬と言うのは素晴らしい友人に成り得るものだ。ラブラドル以外にも、秋田犬、柴犬、スピッツの雑種、ブルドック、セッタ―、ピットブル、そしてラブラドルは3頭を飼った。今はブルドックトブルテリアのミックスとセントバーナードを飼っている。どの犬も友人のように付き合ったが、ラブラドルほど飼いやすい犬は他には居ない。頭が良いということもあるが、飼い主のことを常に意識している犬だ。どうすれば飼い主に喜ばれるか、何を望んでいるかということを、推察できる犬種である。もちろん頭が良いだけに、飼い方で全く変わってしまう。これほど飼い主しだいで変わる犬も居ないのではなかろうか。

盲導犬をいじめるなど、人間として最低の行為だ。悲しすぎるだろう。抵抗をしない、何の罪もない生き物を傷つけることは、人間として許されないことだ。盲導犬ほど素晴らしい存在はめったにない。一切自分を捨てて飼い主に尽くす。その任務に誇りを持ち、ひたすら尽くす。盲導犬の立派さは人間には到底真似のできない、崇高な行為だ。刺した人間には、少しでもそのことを想像できるだろうか。何があっても抵抗すらしない、任務中の盲導犬の健気さが、少しでも想像ができるか。その犬をいじめる行為は最低の卑劣な行為だ、と言うことを自覚してもらいたい。もし少しでも人間の心があるならば、この盲導犬に心より謝ってもらいたい。二度とこういうことはしないと謝れば、きっと盲導犬は許してくれるはずだ。
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賭博依存の疑い536万人 厚労省

2014-08-29 04:07:55 | Peace Cafe


三津浜富士 3号 三津浜ノ上の方から良く描いたのだが、最近みかん畑が荒れて、入れなくなってしまった。








ギャンブル依存の人が、成人の5%もいる日本国。日本は世界でも断トツの賭博国と言うことに成りそうだ。厚労省が発表した数字である。このタイミングでの発表は、以前より言われていた厚労省がカジノ反対の立場だということが、本当だったということである。勇気ある発信をした。全国で推計536万人賭博依存者がいる。厚生労働省研究班の調査でわかった。成人の約5%に上り、世界のほとんどの国が1%前後にとどまるのに比べて日本は非常に高い割合と厚生労働省研究班代表、樋口進氏は警告している。親戚の人に、パチンコ依存症で親子兄弟すべての親戚に、お金を借りた人がいる。パチンコをやりたくて、サラ金で借りてしまうのだ。何とかサラ金で借りられないように手を打とうとしたのだが、より怖い金融で借りてしまう。ほとほと親戚中が困り果てたのだが、自慢の息子が大きくなって、地元の役所に勤めるようになった。その息子が、お父さん、自分も給料をもらうようになったのだから、お父さんの借金は自分の責任に成る。このままパチンコを続けたら、自分も役所に居られなくなる。こう言って説得して、やっと止めてくれた。

ギャンブルに溺れる人が、5%いると言うことは、その周辺の人も巻き込まれてたぶん、国民の20%くらいの人がギャンブルで困っているはずだ。マイナス効果を考えたら、経済効果は確かにあるとしても、国全体では大きな損害が起きている。町のあちこちにパチンコ屋と言う現金への交換と言う違法性を、社会が認めているギャンブル場がある。普通の人が暇つぶしに出入りするような国は、日本だけだろう。競馬、競輪、競艇と公営賭博も盛んである。この深刻な状況に慣れてしまっているということが異常事態だ。ごく普通の人が、賭博を健全な娯楽だと考えていることが、日本の特殊性だ。経済の為なら、賭博場でもかなわないという政治の神経は、異常だという自覚が必要である。確かにパチンコぐらいと考え人、又そういうことに溺れない自制心のある人もいる。しかし、この先格差社会の深刻化に伴い、賭博で身を滅ぼす人の増加は深刻な社会問題になるはずだ。

ギャンブル好きの衝動は、人間だれにもある。しかし、それを抑えることが人間の倫理であり向上だ。法律で人間をダメにする賭博が合法化され、公営賭博が存在することが人間の劣化だ。欲望に任せてギャンブルに溺れれば、健全な日常を送ることができなくなる。それだけ面白いことであるのは認める。ギャンブル依存を克服することが、すべての人に課せられた努力目標ではないか。ところが、日本では国や市町村が、税金が足りないから、ギャンブルが奨励している。これでは子供たちに示しが付かない。加えて、カジノをやれば国の経済が潤う。2兆円以上の経済効果があると浮かれている。私の感触ではそれ以上のマイナス効果があるとしか思えない。いよいよカジノ法案が通りそうだ。全く道徳も何もあったものではない。公明党が健全な宗教政党であるなら、この点だけは反対するはずである。カジノ推進議員連盟の議員たちを、道徳教科ではどう扱うことになるのか。

賭博の背景にあるのは、資本主義というものだ。利益を上げると言うことを正義としている。資本が利潤を追い求めることは、権利になっている。安倍政権では、アベノミクスの推進から、一般の人に小額の株取引が奨励されている。無税にして、庶民を株取引に引き込もうという政府の作戦である。貯金が株に誘導されれば、株価が上がるだろうという、アベノミックスである。こんな悪辣なことを考えるのが、安倍政権の取り巻きである。こうして人間が不労所得で、利益を得ることが奨励されれば、額に汗して働くという美徳は、どこへ行くのだろう。自分が食べるものを、自分の身体で作る。この農耕民族的な日常こそ日本人が大切に守るべきものだ。一獲千金の夢を追うような暮らしは、アメリカンドリームで他所の国のことにしてもらいたい。愚民政策はいい加減にしてもらいたい。
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里山資本主義3

2014-08-28 04:21:54 | 


塩山 3号 






「里山資本主義」藻谷 浩介著が世間的にも話題に成り、ベストセラーになった。評判になるに伴って、批判も様々出てきている。この本の評価は以前このブログ1,2に書いた。評価は書いたのだが、全面肯定したわけではない。簡単にいえば、そんなにうまく行くなら簡単だ、というのが、里山にかかわってきた者の実感がある。楽観に過ぎる、いいとこだけ言ってるんじゃん、と言うのは評価しながらもある。バイオエネルギーはいくつか見学もしたが、仕事としては、ほとんどの事例が経済としては失敗している。里山の樹木などすべてエネルギーにした所で、日本のエネルギー消費の5%にも満たない。と言うような意見が正論だと思う。しかし、批判もいろいろ読んでみたが、見当違いの揚げ足取りの様な、重箱の隅をつつくような取るに足らないものが大半であるのも事実だ。正しい批判に対する回答が、実はこの本の背景には広がっていない。つまり里山の見方が残念ながら浅い印象は避けがたい。実践の観点の不足ともいえる。

この本の里山資本主義の考え方は、一般には広げることのできない特殊解の連なりだ。一般解を求めるのが、マネー資本主義なのだから、経済モデルとしては役に立つとは言えない。ほとんどの人に有効なものが商売になる事業だろう。9割の人が車を使うとすれば、車を生産するようにマネーは動く。ところが、里山資本主義では、残りの多種多様な少数派の人が対象である。車を使わない人を対象にして、移動手段を考える様なものだ。それは変わり者であったり、特殊な生活をしている人であったり、そもそも反社会的な人であったり、こうした3%の人の多様な暮らしぶりの人達が対象と言うのが、里山資本主義の守備範囲ではないか。資本主義的な意味での商売にならない話であるから、現代社会の中で普通に利益を上げて生活しようと言う人。あるいは資本主義にどっぷりつかっている経済評論家には、馬鹿げたことにしか見えないのも当たり前である。当然、お金の流れの合理性がない。その上でのことなのだ。

里山資本主義は一種のユートピア思想の一つで、近代的な経済学理論の分析からは、埒外のことに見えて当然である。その前提で、もう一度、さらに深く里山資本主義を考えてみる必要がある。私は同じ範囲のことを、つまりライフスタイルとでもいう意味でいえば、ソフトランディング地点と考えている。マネー資本主義の社会が、きしみ始め、行き詰まる。その兆候は見えてきている。エネルギーの観点でいえば、石油が膨大に産出されたことで、産業革命が推進され、資本主義は目覚ましい展開をした。先に生産力を確立したものは、生産方法を持たない人達を購買層にすることで、資本を拡大して、拡大再生産を計ってきた。それは国内の消費の拡大の余地が大きい地域ほど、生産手段を独占し急膨張が出来る。それが限界に達すれば、国外に消費者を求めて、あるいは、生産コストを下げるために、安い労働力の国に進出する。所が石油には限界がある。コストに反映して、石油を持てる者と持てないものの、非正義が拡大する。それは新たな競争の始まりで、勝者と敗者が出来る。

農業でも機械化することで、生産費が下がるが、同時に石油への依存度は増加する。そして、為替の変動が輸入石油のコストを動かし、農業の利益を動かすことになる。為替と、石油の存在が、競争の主たる要因になる。この影響というものは、直接の、生産性とは別のことであるが、資本主義の競争原理に置いては、単純な価値基準で順位を付けてしまう。その為に、敗者には逃げ場がない。勝者と敗者の格差は人間としての生産能力の価値とは別に、決定的に開いてしまう。こうした価値観の矛盾するの世界は必ず破綻が待っている。大きな崩壊が近づいているというのが、私の感覚である。その軟着陸地点が、里山的な循環する暮らしだと考える。この点が、競走と発展と言う感覚の中に居る人には、脱落としか見えないところだ。良い社会の実際の暮らしという観点でいえば、すべての人が普通に暮らしていることで、大差がつかないことが大切である。その普通の暮らしという観点でも、必要は生産と言うものは、里地里山の中にあるということだ。読みなおしてみると、少しおかしい。又考えてみる。
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星乃珈琲店、に行った。

2014-08-27 04:00:47 | 身辺雑記


塩山桃の花 2号 




先日鴨ノ宮の跨線橋のそばに出来た星乃珈琲店に入った。同じ鴨ノ宮市場の中に、遠藤種苗店がある。そばにはコロナノ湯もある。それで時々そのあたりには行くのだが、市場全体は時代離れした感じがあった。そういうのを嫌いではない。しかし、「土曜の市場は面白い」というのが売り文句で看板が出してあるのだが、土曜日に行ってみても、何が面白いのかは分らなかった。市場全体は、公設市場の様な感じがあって、戦後の物不足時代に出来たものが残っているのかもしれない。箱根湯本の洋食屋さん「スコット」のビーフシチューの美味しいお店が市場にもあったのだが、それも止めてしまった。豆シバを売りにしている犬屋さんもある。この店には中々いい豆芝犬がいる。しかし、それでも大きいシバ犬をやっているマニアに言わせると、あれは邪道だと憤慨していた。何が邪道だか私には分らないが、たぶん、豆をスタンダードに比べて、邪道と言うのだろう。イギリスでは、大きさ別にジャンル分けは普通のことだが。ともかく、柴犬のレベルの上がったことは、私の子供の頃の比ではない。

その犬屋さんの上には、ダンスホールがある。ダンスホールと言っても今風営法で話題になっているような、クラブと言うような今どきのお店ではない。社交ダンス教室とも書いてある。どちらかと言えば年寄り向きなのだろう。このお店には時々、いつパーティーがあります。2400円とか書いてある。もうあたりは小説にしたくなるようなお店ばかりだ。鶏肉屋さんもあるのだが、そこのおやじさんは、何故か私のことを知っていて、お宅の奥に居た鶏屋さん、あの和留沢に居た鶏屋さんは山北に越す前には私が肉を買っていたんだ。などと、相当昔のことを、今のことの様に私に話しかけてくる。25年前に山北に来た時にすでに、その人は山北から居なかった。そうそう、その市場の木造家屋には、3階もあるのだ。そこに焼き肉屋さんがあると通りに看板が出ている。一般の人も歓迎と書かれている。そうでも書かなければ、知らない人が入ることなど到底できない。2階をぐるぐる廻って歩いたのだが、焼肉屋さんらしきものはない。怪しげと言ったら怒られるが、そうとしか言えない様な階段があって、そこをさらに恐る恐る登ると、カウンターだけの定食屋さんがあった。どうもそこの焼肉定食が表に出してある看板の理由らしい。間違っても焼肉屋ではない。と私は思う。悪いというのではない。私はそういう所が好きで、今でも気が向けば行く。

だから、星乃珈琲店が出来た時には、何を考え違いしているのか驚いてしまった。こう言う場所で、女子の為のケーキ喫茶店など、不可能だ。と断言してしまった。店が徐々に出来上がってゆくと、その感違いはひどすぎると思った。90年代風というか、何というか、倉敷の美術館通りにあるお店の、模造品の様な作りが出来上がってゆくではないか。どういう人がこんなセンスをしているのか、よほどの感違いもひどい人に違いないと思った。そういえば、渋沢にコメダ珈琲店とかいうのがしばらく前に出来た。これにもびっくりした。だって渋沢にそういう所に入る人がいるとは思えない。そっちもまだやっては居るのだが、はやっている訳がないと思い込んでいた。分らないが、名古屋の方から来たのではないかと、勝手に解釈していた。何故って、名古屋には不思議な喫茶店文化があると、前から思っていたからだ。状況に合わない喫茶店をみると、名古屋だと思ってしまうのだ。まあ、失礼な話だが、名古屋に行けば必ず入るので、否定している訳ではない。

喫茶店文化と言うものは終わったと思っていた。コンビニで美味しい入れたてコーヒーが飲めるようになれば、まさか喫茶店に入る人がいる訳もない。こう考えていた。所がである。始めて入った星乃珈琲店は大繁盛だ。満席と言ってもいい。ベンチで待つ人もいる。ほとんど女性客である。想像ではスフレケーキという奴ではないか。なにしろ頼むと「20分かかるがお待ちいただけますか」と来る。私には到底お待ちできないので、食べなかった。確かに周りのみんな食べていた。実にうまそうに出来ている。安くもない。800円とか確かした。値段も私が食べなかった理由の一つである。それならと思って、ハッシュドビーフオムライスと言うのを食べた。昔風で美味しかった。そこに時代について行けない自分がいた。昔はこれからはやりそうなものはすぐ分った。まさか、こういう喫茶店が商売繁盛とは思いもよらなかった。たぶん色々のことに、そういうことになってきたと思わなければならない。
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農地を守るということ

2014-08-26 04:07:00 | 地域


西伊豆 10号 同じような岬が繰り返して現われる。西伊豆の集落はどこか取り残されたようにある。





農地を守るということの方法に、花でも植えておき、いざということに農地に戻せるようにと言うことを、日本経済新聞の編集委員吉田忠則氏が提言として書いている。日経の中で農業分野を担当しているらしい。経済新聞の記者だから仕方がないことかもしれないが。いざという時に田んぼに戻して、お米を作るためには、水路の維持だけは最低でもしておかないとならない。小田原では、水路の管理が危機的な状況にある。小田原市の所有する水路であっても、行政には管理できる人員も費用もない。地域に水田が減る中で、地域に水路の維持管理まで、作り直すことのできる人は少なくなっている。一度失われてしまった水路を戻すことは、ほぼ不可能である。私の家の前にあった水路跡も、今や住宅が出来道路になってしまった。こうなれば、下の方で水を使いたいので直したいとしてもすでに不可能になっている。こういうことは、至る所にある。維持されている水路も相当に危うくなっている。

いつも思うことだが、農地と言っても作物によって、様々な維持管理がある。いざというときには、小麦を播いて、パンを食べればいいだろうということになる。確かにそれしか食べるものがなければ、戦後の食糧難時代のように、サツマイモを作るということもあり得るわけだ。しかし、水田のほぼなく成った沖縄のことを考えると、沖縄にもし水田があれば、沖縄の柔軟な自立が考えられる。そこまで農業を犠牲にして、日本の原風景を壊して、日本人はどこへ行くことになるのか。第一花を植えておけば、農地が維持できるとしても、一体どこの誰にやれというのだろう。草刈りを一年やってみたらいい。日本の農地と言うものは、適期に5回草刈りをしなければ、手に負えない藪になってゆく。条件が良いから、農地になった。しかも、良い土に育て上げられている。これを放棄するれば、花の種でも播いておけば、維持されるだろうなどと言う考えは、百姓からは絶対に出てこない。

永続農業を守るためには、頭を使わなくてはならない。先々5年くらいの循環を構想しなければならない。何年に一回、緑肥作物として、菜の花を入れるのも、レンゲを作るのもいい。ひまわりだっていい。しかし、レンゲの後どうするのか、ヒマワリが枯れた後どうするのか。常に耕作しているから、農地は農地として育まれ、作りやすくなる。まして、田んぼは特殊なものだ。いざという時に田んぼに戻す為の方法を考えることはできる。休耕地としての田んぼの維持法は、それなりの手入れが必要である。水路の維持も、川からの取り入れ口の管理も、それなりの方法と設備が必要になるだろう。すべてはその上でのことだ。そんな経費のかかることを、休耕にする田んぼの為に使う費用は誰が出せるのだろう。なんとなく、里山のお年寄りがやってくれるだろうぐらいの甘えではないか。一人が70ヘクタールの田んぼをやらなければ、農地の維持できないというくらいの深刻な状況の中、この先どうしたらいいかを考えているのだ。花を植えろなど適当なことを聞くと腹が立つ。

まず、主食のお米に関しては、輸出入の工業生産品とは別扱いする。これは国の安全保障からも、日本と言う国の、国柄から言っても当然のことだ。自動車を売りたい。その方が日本経済の目先に良い。こういう日本の輸出企業と、外国からの要求で、譲っては成らないこともある。田んぼを守るためには、継続がどうしても必要である。しかも水系としてまとまっていなければならない。守るべき田んぼを決めることだ。守らないでもいい田んぼは花でもなんでも植えればいい。すぐ荒れ地になるだろう。日本経済新聞が、日本の国柄を譲ってもいい、瑞穂の国を捨ててもいいというのであれば、日本人がどんな民族に成るのが良いと考えているのか、日本の将来像の提言した上で、農地に花を植えるように提言してほしい。ただ儲かればいいというのでは、国は滅びる。儲からなくても、ご先祖に見守られ、子孫の繁栄の為に、ふるさとを維持するのが、瑞穂の国の魂であったのが日本ではないのか。
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地方に移住を考えた頃

2014-08-25 04:27:11 | 地域


黒姫山 10号




私は移住者である。39歳の時に丹沢の山中に東京から移住した。その5年くらい前から移住を考え始めていた。場所探しを始めたが難航した。生まれたのは、山梨の境川村の山の中の、自給をしていた山寺である。山の中の暮らしに憧れながら、東京で暮らしていた。絵描きになろうとして、学校に勤めていた。年に5回も個展をやる様な暮らしをしていたが、絵描きに成れそうにもなかった。商品絵画としては限界があった。新規まき直しをしたいという思いで、遠くのどこかへ行きたい。と言うくらいの気持ちで、あちこちを探し回っていたのだと思う。そして、縁があって丹沢の山中で暮らすようになった。そこで13年暮らした。こうした経験は参考になる所もあるが、あくまで私と言う人間の個人的な体験である。一般論などない。誤解を生む所もある。生きると言うことはそれぞれが、個人的な結果を体験することになる。自分がこんな暮らしをしてきたので、移住希望の沢山の人に出会った。また、山の中で暮らしている人ともずいぶんと接した。特に新規就農者の人には具体的に接した方だろう。その経験でも、多種多様といえる。

移住希望の若い人が沢山いる、と新聞が単純に書いている。どうも変だと思って、その基に成るアンケートを読んでみた。そんな単純な結論は出さない方が良いと思えるデーターである。私なりの実行した体験を整理してみる。場所探しは長期にわたって熱心にした。自分の気分が良い場所を探した。肌感覚だけだ。仕事があるとか、家があるとか、地域の人はどんな人か、気候がどうか。そういうことを考える前に、その場所が暮らしたいと感じる場所であるかを、自分の身体が感じるかどうかを確かめた。絵の道具を持って出かけた。たぶん日本全国歩き回った。ここはと思う場所では、夜寝てみた。車が無い。運転ができない。こういう状態だから、リックを背負って歩いた。その結果、自分にあった場所が、山北の山の中だった。暮らしが立つということもとても大事なことだが、自分がそこに居たい場所を発見するということの方が、さらに大切である。見つけた場所は、やはり生まれ育った藤垈とよく似ていた。

暮らす場所の条件としては、水があること。道路があること。後のことは何とでもなる。道路は細い舗装道路があった。1時間近く山道を登る不便な場所だった。移住するにあたっては、そこで自給的な暮らしができるとは思わなかった。ただ、自給生活と言うものが、自力で可能なのかを試してみたかった程度だった。すべては始めてみなければわからないものだ。住み始めた土地が、人間を動かしてゆく。住む前にどれだけ考えた所で、その通りになどなるものではない。自給を最初から考えていたら、また違った場所を見つけたかもしれない。自分の肌に合う場所に住んで、心機一転絵を描こうと思い詰めていた。その土地の条件が、自給の暮らしにのめり込ませる魅力があった。自分を変える大きな契機になった。自分が変わることで、自分が絵で何をしたかったのかということが、見え始めたのだ。

好きなことを見つけると言うことこそ一生の仕事だ。このことは何度か書いたことだ。5年で開墾して田畑を作り、食糧自給が出来るようになっていた。しかし、この頃はまだ学校勤めを続けていた。どんな暮らしであれ、月に10万円ぐらいの収入の確保は条件である。学校勤めは東京まで行くのだから、何とか家で最低の収入を得たいということで、養鶏業を始めた。養鶏を業でやるのは、大変ではあったが、出来ないことではなかった。何でも工夫である。生きることは大変だが、やってやれないことはない。元気で、何でもやる気なら、必ず仕事はあるものだ。問題は好きなことで収入を得ることができるかである。好きなことだと、腕が上がり、物に成る。
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稲の倒伏と間断灌水

2014-08-24 04:32:01 | 稲作


牛窓 10号






4番の苗床後の田んぼ。昨年かなり倒れた。今年もいくらか怪しい兆候が出てきている。
田んぼの写真は欠ノ上田んぼブログに載せています。
アドレス:http://blog.goo.ne.jp/kakinouetannbo

倒伏についてここ数年考えてきた。一昨年のブログの9月に倒伏のことを書いている。そして昨年は思い切って倒れた。倒れながらほぼ畝どりできた。それもあって同じことをぐるぐる考えていたことになる。収量を増やそうとすれば、稲は倒れる。倒伏しないような栽培をすれば、物足りない稲作になる。その為にその境の様なぎりぎりの線を探す栽培に成ってきた。しかし、話では16俵の収量とか、1トンどりとかいうことも聞く。こういうことを普通の品種で可能なものなのだろうか。これを有機栽培でもできるものなのだろうか。等など、色々の考えが頭の中を渦巻いている訳だ。頭だけでなく、試行も続けている。先日、田んぼ巡りの時に、倒伏についてほぐせるような糸口が見えたような気がした。稲の穂は本来もっと小さいものだった、という当たり前のことに行き当たった。収量を増やすために、大きな穂の選抜を繰り返して、現代の品種が出来た。と同時に倒れない為に、背丈の短い品種や、軸のしっかりした品種も改良されてきた。

当たり前のことだが、自然栽培と言いながら、改良に改良を重ねた品種を使っているのだから、倒れるのが普通のことだということに気付いた。倒伏を避ける栽培と言うことになると、自然摂理を少し外さざる得ない。自然ではない人工的農法について考えざる得ないという当たり前のことに気付いた。何でいまさらということだが。

1、根元からばったりと倒れる場合。
ばったりと地面から倒れるのは、田んぼの土壌が緩すぎる場合である。干しを入れない農法のばあい、土の性質でどんどん柔らかく深く成って行く所がある。これは、地下水との関係もある。いずれにしても、耕盤まで緩んでしまうような事がある。田んぼ全体で起こると言うより、一部に起こる場合が多い。緩んでも、稲の根がしっかりと生きていれば倒れることは抑えられる。
2、根元に近い辺りが折れてしまう場合。
根元が折れるのは、茎が弱い場合と早く枯れ上がる場合がある。枯れ上がる場合は、大体に病気で穂も軽いのに倒れることに成る。茎が弱い場合もいくつか原因はあるが、田植えの時に苗を多く植えた場合、茎ががっしりとしない。また、肥料が効きすぎると、根元近くが一気に伸びて、節間が広く成る。節間が伸びると、当然背丈も伸びて、根元に早くから陽が指さなくなる。その為に、ひょろひょろした苗に成る。日蔭の稲の方が背丈が高くなる場合などだ。
3、根元に近い辺りが大きく曲がり、穂が地面についてしまう場合。
これも節間が間延びした生育の場合が多いが、12俵以上の収量に成り、穂が重すぎる場合もある。稲が立派な生育であっても、株間が狭いと、過繁茂に成り倒伏の可能性が高まる。


これが2年前の稲の観察である。ではどういう対策を取るべきかでは、少し考えが変わった。干し以上に、水のかけ引きの重要性である。水の駆け引きが十分にできる土壌と田んぼを作らなければならない。基本的なことだが、田んぼは平らでなければならない。乾かして、しっかりとする土壌でなければならない。そうでなければ干しの効果はない。干しによって田んぼの土を固める事は重要ではあるが、干しは稲の生育には障害ともいえる。これが気付いた点だ。確かにいつまでも水を入れ続けると、倒れやすい柔らかな土壌のままになる。根元の分節が伸びてしまう。伸びれば弱くなるというのも事実だが、順調な生育を遮る様な、分節の狭まりはむしろ穂を小さくする。粒張りも悪くする。後半まで十分な穂への栄養が行くためには、無理な生育の停滞は避けたい。ここに矛盾がある。強い干しでなく、土壌がしっかりとするために、間断灌水と同時に、浅水管理に変えてゆく。苦肉の策である。幼穂形成期ぐらいから、深水から、浅水に変えてゆくこと。

稲の背丈が伸びること自体は悪いことではない。その分がっしりと太い茎を作ればいい。徒長で伸びるのが悪い場合だ。苗を多く植えない。密に植えない。稲藁堆肥をしっかりと作り、田んぼに入れてゆく。冬の緑肥作物を育てることだ。そうした土作りをすれば、がっしりした茎と根が出来る。これが、倒伏をかなり防ぐ効果がある。田植え直後からの深水によって、トロトロ層の厚い形成が促進される。ヒエの発芽が抑制される。雑草対策が深水の主目的であるが、だんだん深くして行くことは、軸のしっかりした稲を作り、過繁茂を避けることになる。中盤以降は雑草は心配がなくなるので、浅くしても、時に田面を出しても、問題がなくなる。こうして水を落とし加減の栽培にする。今年はまだ、完全にこの考えに至っていなかったので、少し中途半端であるが、今のところ間断灌水の成果は出ているようだ。
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広島豪雨災害

2014-08-23 04:32:44 | 暮らし


下田港 10号 




広島で大きな豪雨災害が起きた。多くの人命が失われている。災害で突然亡くなられるという無念を思うと、悲しい思いに包まれる。ご冥福をお祈り申し上げます。何故これほど日本は災害が多いいのかと、日本の自然の豊かさと裏腹な、自然の危うさに呆然とする。私の住んでいる舟原地区は土砂災害危険地区に指定されている。土砂災害は他人事とは思えない。大半の家が、レッドゾーンとイエローゾーンに含まれている。これは久野川の土砂災害の危険を調べただけで、急傾斜地に関しては現在調査中ということである。広島の今回起きた地域は、土砂災害が過去にも起きていて、地盤が軟弱と言うことである。しかし、土砂災害の指定はされていなかったようだ。近く調査をする予定だったというが、指定の遅れの原因は、地方行政の怠慢である。国が指示をだしてから、充分に時間はあった。行政は危険個所を科学的に判断して、事前に把握しておくことが、防災の前提である。

舟原から、久野小学校まで徒歩で避難することが、現在久野の災害訓練では言われている。それがいかに危険なことかは、舟原の住民のほとんどの方が言われる。だから逃げろと言われても逃げる気に成れない。当然の反応だと考える。さらに30分ものぼった和留沢集落からも、危険と言われている川沿いを一時間も歩いて久野小まで逃げる指示である。誰が考えても危険極まりない。こんな避難方法で人命が失われる可能性を考えると、実に嫌な気持ちになる。一律に小学校を避難所にして、事足れりとしているのでは、県の指示に対する形式解答と言うことになる。広島土砂災害のことであった。ここでは広島市の避難勧告が出たのが、土砂災害が起きてから1時間後と言うことだ。住民が異変に気付いて、逃げようとした時にはすでに土砂崩れが始まっていた。多くの住民が語っているのは、その時にはもう外には逃げようがなかった。真っ暗で土砂降りで、あたりは滝の様に土砂が流れている。せめて家の中の上の方向に逃げるしかなかったようだ。

災害対策としては、各々が早く状況を把握する。これしかない。真夜中のことだがともかく情報を集めることだろう。この場合、インターネットはアクセスが集中して繋がらない可能性もある。ラジオでもテレビでも、日ごろからいざという時の情報収集の方法を確認しておくのは重要である。分らなかったら、真夜中でも遠慮なく、市役所でも、警察でも、消防署でも、電話して聞いたらいい。小田原テレホンサービスは0120-244-400.それにしても、被害状況の把握も遅れた。2日目になってから行方不明者が一気に増えた。原因は住民情報が完備していないということではないか。舟原でも住民の名簿がない。緊急連絡先が分らない。自治会長として、とても不安に成る。先日新任自治会長研修の席で、この点質問した。ところが、小田原市の回答としては、住民一覧を作りたいなら、自治会員全員の了解を得てやって下さいと言う、他人事の様な回答だった。個人情報収集の責任問題が行政に来てほしくないということだ。それでも、希望者だけでもいいので、緊急連絡先等、最小限の情報がなければ、地域防災など不可能ではないかと思う。

広島市長は避難勧告が遅れた点について、一連の対応について「防災計画のマニュアルに基づいてしっかり対応した」と述べている。つまり、遅れた認識がないということだ。それでこれほどの死者が出た結果だ。申し訳ないがお役人的逃げ口上に聞こえる。行政はこの程度の物だと認識して置いた方が良い。結局は地域の連携である。自分が早めにどう逃げるかを考えることだ。逃げられない弱者の把握もしておく必要がある。土砂災害で家が埋まっていても、中に何人の人がいて、老人や子供は居るのか。障害者は居ないのか。こういうことが分らないで、地域防災など出来ない。日本の豪雨は過去例のない深刻なことになっている。温暖化が原因に違いない。これからもっと激しい豪雨が来る可能性があるということになる。西の方で今起きていることが、関東でも起こる可能性が高い。早急に実質のある対策を立てる必要がある。お役所便りでは事が進まないとすれば、住民自らが避難方法を考える必要がある。
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経営としての農業

2014-08-22 04:32:08 | Peace Cafe

塩山桃の里 10号 ピンボケで撮れている。その方がいい感じなのでそのままにした。





経営としての農業と言うことを考えてみる。政府の統計に経営農家4、500軒を調べたものがある。少し見た位では、実態はなかなか見えてくないのだが、繰り返し見ていると、私なりに実態が見えてくる。誤解や間違いもありそうだが。一つの農家の所得が135万円だそうだ。これで家族労働で働いているのだから、農家だけは暮らしてゆけないということははっきりしている。親が子供にはやらせられない、出来えば役場にでも勤めてもらいたいと思う訳だ。農家が減ってゆく。農外所得が155万円ほどの様だ。これがある人は農家を続けられるひと。経営農家と言っても、農業収入の方が少ない。その他年金等の収入が185万円とあって一番大きい額になっている。要するに農業者の老齢化の反映と考えてよいのだろう。この合計が、一経営農家の収入と言うことになる。年金等には、補助金なども入っているのだろうか。世帯の人数は3,6人となっている。みんなで年間2000時間働いている。一人がふる稼働で、他の人は補助的な働き方の様だ。一人で働くとしても、それほど働いている訳でもない。

これは平均値で、たぶん2000万以上の所得の農家と、所得のほぼないような農家が混ざっているので、実態は平均値からは推測できないと思える。法人経営もあれば、経営とは言えない農家も沢山あるだろう。そう考えると統計から農業を考えることはできなくなるのだが。それでも日本の農業の実態を推測する一つの材料であることは間違いがない。新規就農者には、300万円の営農計画を立てろと指導がある。今ある農家が、135万円の収入しかないのに、それは無理というものだ。無理だから適当に文章を作文するか。ゆがんだ経営農家を目指すことになる。又その一方で、135万円で暮らしてゆけるのが農家である。月に11万円の収入があれば、何とかやってゆけるのが農家の暮らしである。都会で11万円生活は厳しいが、地方ではそれくらいで何とかなる。あしがら農の会はそういう方向できた。その後半農半Xと言う言い方が出来たが、要するに何でもやって、農業を続けようと言うことだ。それには農業が好きだということが基本だろう。好きなことで生きるのが、本来の人間だ。しかし、隙が何かを見つけるのが難しいのだが。

政府の考えでは、農家も勤め人の様な企業農業に成れということなのだろう。しかし、その国際競争力の中での農業は、極めて限定的なものであり、日本の中心を占める稲作農業では、無理な話である。20ヘクタール以上の稲作農家が、政府の想定する国際競争力のある農家と言うことなのだろう。統計を見てゆくと、年所得が1、343万円である。経営者の農業所得としては500万円くらいの様だ。確かに暮らして行ける世間的にも立派な数字である。こういう農家がまだあるということが、素晴らしいことだ。しかし、こういう農家が一番打撃を受けるのが、TPPである。20ヘクタール稲作農家は日本では大型農家であるが、アメリカでは小さな農家である。つまり、こういう農家が10軒くらいは集まらなければ、TPP後は生き残れない。そういう企業的農業は是非やってもらいたいが、北海道とか、東北の一部とか、限られた地域の話になる。それ以外の農家で生き残る可能性があるのは、むしろ経営とは言えない最小の農家だろう。

自給的農家であれば、小さな循環型の暮らしが可能と言うことがある。自分の食料を作っている農家にはそういう弾力があるはずだ。出荷できない作物でも、自分が食べることはできる。農業のこうした弾力が、日本と言う国を支えてきたはずだ。これから世界は不安定化するだろう。その時にこそ、多様な小さな農家の存在が日本を支えるはずだ。だから両極に集約されてゆく流れを、農水省はしっかりと見定めて、地域の特性ごとに農地の位置づけを変えてほしい。この役割を農業委員会から放すというのも良いが、今度は市長や政治家の恣意的なものに成り、企業が賄賂を使って農地転用を行うなどと言うことは、増えるに違いない。すでにそういう利権目当てに、農業委員会や農協の廃止が画策されていることも危惧する。
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日々好日の65歳

2014-08-21 04:11:10 | 身辺雑記


西伊豆 10号 半島と湾が連なり、繰り返す。西伊豆の空気は少し、遠くの空気である。





いよいよ今日65歳になる。感謝の思いばかりである。日々絵を描き、農業をして暮らしている。動ける間は農業を続けて、座って絵が描けるなら絵を描いて、死んでゆければ幸いである。幸運を貰えたと思う。このように好きなことをして、一日一日を過ごしていられるという言うことは、幸運である。この新たに与えらる日々を、昨日より今日、今日より明日と、少しでも自分の目を開く所に進んでゆこうと考えている。65歳までの月日を考えると、様々な人のおかげで生きてこれた、としみじみと理解できる。もちろん両親のお蔭が一番である。たぶんこれは言葉以上のことで、過保護と言えるように育てられ、しかも全く勝手にやらせてもらった。両親は本音としては学問をやってもらいたいという願いがあったのだが、私の能力では、それに答えられなかった。能力と言うより、努力不足なのだ。それが時々申し訳のない気持ちになって、何かしらものになってやろう的な、つまらない意識になった。

所が父はすべてお見通しで、「好きにやればいい。自分と母さんは満足している。」それとなく口にした。あまりにそれとなくなので、今になってそういうことだったかと気付く。父は民俗学を志し、それを戦争で断念せざる得なかったということが、あまりに重かったのだと思う。父は、自分を犠牲にして、祖母と一緒に戦後商売を色々始めて、兄の彫刻家。弟の農学者の生活を支えた。そのような役割のつもりだったのだと思う。その後は、母の弟妹を家に呼んで学校に通わせた。親せきの子供の誰かしらがいて学校に行っていた。そういうことを自分の使命に感じていたようだ。それは大学に行くお世話をするということだった。それくらい学問に近づくということを、尊いものと考えていた。父の思いを考えると、もう少し若い内に勉強をすればよかったと、考えることがあるが、65歳になって、これしかできなかった自分を、仕方がないと許せる感じにもなってきた。

自分を深めるということは、見るという力が深まるということだと考えている。昨日より今日の方が、何かが分った。分ったというのは見えたということだ。絵を描いていて、どの絵も終わりまで描けることはない。描きかけの絵が500枚くらいはある。出来たように見えても、その絵を出せばもう一度描きだすことになる。前には見えなかった問題点が、改めてみると分る訳だ。この気付くことが正しいのか、見当違いなのかも分らないが、少こしは良く成りそうで、進めてみることになる。それが成るほどということもあれば、見当違いのこともある。しかし、やってみれば大抵の場合、何故前の自分にはこんなことが分らなかったのかとびっくりする。それでも、結果が世間的に自分の絵が良くなっているとは思わない。世間的な絵の価値とはそもそも関係のない所で自分の絵を描いている。「私絵画」である。私の絵は、私の納得を求めているだけだと、ますます感じている。今度の水彩人の講習会では、このことを作品に基づいて話してみたい。

田んぼの会では先日、勉強会を行った。田んぼの稲をどう見るかである。稲が見えるようになるということは、去年より今年の方が稲が見えるということだ。見えるようになれば収量が上がるという結果がある。作業が楽になるという結果がある。美味しいお米になるという結果がある。田んぼは絵より分りやすい。私田んぼではなく、誰にでも共通の価値がある。見えなければ、今年のトマトの様に枯れてしまう。ナスのように虫にやられてしまう。田んぼのことでは、見えているのにやらないということが、最近なくなった。自分の範囲が分ってきたので、日々が楽になった。これがありがたい幸福である。65歳以降はおまけの様なものだ。どこまで行けるかは分らないが、10年動いてなんとか田んぼの全体を理解したい。20年描ければ、自分の私が見えてきて、何かしら描けるかもしれない。ここまで幸運が続いたのだから、何とかなりそうな気がして来ている。65歳。思えば遠くまで来たものだ。

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路上生活者の襲撃事件

2014-08-20 04:17:53 | Peace Cafe


東伊豆海岸 10号 小川和紙






路上生活者の襲撃事件を、「もやい」の人達が調査した、報告があった。こういう調査は日常的に接する人達にしか、正確な調査はできないはずである。行政にはできない、実態をうかがわせる調査結果である。
・40%の人が襲撃を受けた経験あり。
・襲撃は夏季に多く、襲撃者(加害者)の38%は子ども・若者。
・襲撃者は75%が複数人で襲撃に及んでいる。
・襲撃の内容としては、なぐる、蹴るなどの「身体を使った暴力」やペットボトルやたばこ、花火などの「物を使った暴力が62%を占めている。
・子ども・若者の襲撃は「物を使った暴力が53.6%にのぼる。

これは東京都での調査であるが、私の想像では小田原でもほぼ同様の結果が出るのだと思う。路上生活者への暴力事件は様々起きている訳だが、なかでも問題は子供や、若者の特に中学生の襲撃である。実態としては、40%の人の襲撃経験と言うのは、少ない結果かもしれない。路上生活の人の中には、とても誇り高い人がいるので、襲撃など受けたことはないと答えそうな人もいるのだろう。俺は中学生を脅かしているなどと、本当とは思えないことを言う人もいる。

路上で起こる、襲撃事件は本当に怖いことである。私も路上で寝たことがある。路上生活をしていたということではない。路上で寝て旅行をして歩いて回ったことがある。昔はカニ族と言う流行があって、大きな横に広がった、帆布のキスリングと言うリュックサックを背負って、北海道などを歩いて回るのだ。私も、そんな感じで、一人で島根鳥取を歩いた。神話の世界を歩いてみたかったのだ。毎日寝る所を探して、寝袋を広げてどこにでも寝た。寝る場所探しで路上生活の人と一緒に成ったことも何度かあった。役所の自転車置き場などに寝ることが多かった。今なら警備員に追い出されるかもしれない。当時は何だ、寝ているのか、ぐらいで済んだ。朝起きたら、頭の上がうるさいと思ったら、そこは役所の通勤の裏道だったということもあった。襲撃を受けることは一度もなかったが、そういう何かしらの、不安が無いわけではなかった。宍道湖の橋の下で寝ていたら、路上の人が現われて、路上の人の脇で寝させてもらって、却って安心だった。当時は駅の待合室で寝ていても怒られなかった。今のJRでは、震災の時ですら駅から追い出される。

小田原で起きた事がある。事実は確認できなかった。花火をテントに放り込まれて、燃えてしまったブルーシートの小屋もある。中に人がいてやけどをした人もいる。この時はテントに石を放り込まれたと言う。びっくりして追いかけたら、調度警察官が来た。そこで、今あの子供たちに石を投げ込まれたと、訴えたら、「お前がこんな所に寝ているのが悪い。」こう言われてしまったという。寝ていたということと、石をテントに投げ入れるということは別の問題だ。小田原警察には抗議に行った。しかし、事実は分らないままで、こういうことが無いように徹底するということで終わった。こういうときに、警官に脅かされれば、路上の人はそう言われても仕方がないと思ってしまう。もちろん違法にその場所に寝ていることは自覚がある。世間の人は迷惑だと考え、出ていけと考えていると思っている。どうにも仕方がなくそこまで追い込まれている。

人間には生きる権利がある。お金がなく、寝る所もなければ、そのあたりで寝ても良いに決まっている。確かに、だれでも頑張った方が良いけれど、どうにもならないこともある。迷惑が成るたけかからない、海岸とか、河原とか、そういう中間地帯の様な場所に寝ても良いと思う。ちょっと昔の日本はそういう社会だった。生まれたお寺には、よくそういう人が来た。そういう時には必ず何らかのものをお分けした。そうして縁の下に寝ることまでは受け入れていた。但し火を使うことは禁じていた。時々修行の行脚をしていると自称する人もきた。そういう人は本堂に泊まった。貧しい社会だから、貧しい人に寛容だった気がする。どうしようもないことは、曖昧に受け入れていた。社会には、そういう状態が必ずあるということを、子供ながらに理解した。現代社会は格差社会であり、格差を恐れるあまり、排除の論理を庶民まで持ってしまっている。妥協的であることも、必要なことではないだろうか。
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経済格差の拡大

2014-08-19 04:31:08 | Peace Cafe


東伊豆海岸 10号 小川和紙 



アベノミックスによって、と言うか安倍政権の経済政策によって、経済格差は拡大している。最低賃金が上がり、業績の良い企業は賃上げを行う。一方で物価は上昇する。消費税が上がって、苦しくなっている人がいる。自営業である百姓の暮らしはさらに苦しくなる。復興需要のある現状はまだ仕事はある。このままでは数年先にはさらに苦しくなる。消費税の値上げ後、消費の落ち込みは想定内であると政府や日銀は発表した。確かに、デパートや一部の高級店は消費税の影響を受けにくい。つまり経済格差が広がり、金持ちにとっては、給与も上がり、株価も上がり、購買意欲は下がっていないのだろう。しかし、農家は苦しくなっている。これからさらに苦しくなるだろうという実感があるから、消費はさらに抑えられて行くことになる。深刻な格差社会の入り口まで来ている。

日本が韓国の後追いをしていれば、必ずこういう経過を経るだろうと考えてきた。国家が基本とすべき一次産業を軽視すれば、国の危うさが高まってゆく。国が成り立つために重視しなければならないことは、食料の生産である。それは食べ物があるという安定基盤だけでなく、日本と言う国土に安定して暮らしてゆく姿を、それぞれの立ち位置で確認できるということではないだろうか。どこで作られたか分らないようなものを食べている人間に、安定した心が育たないのではないだろうか。TTP経済協定では、自然環境や国土条件の違う、農業を他の産業と同列に扱っている。その意味で過去のGATTのような経済協定とは、その主旨が大きく異なっている。日本国から見れば、農業を他の国に譲り、工業製品の輸出国になるという考えである。工業製品の販売こそ、企業中心に考える安倍政権としては、重視するのは当然のことだろう。韓国同様に、大企業だけが頑張ってくれれば、国の経済全体も上手く行くという考え方だ。

企業の先行きと、国家の国益が一致している間はまだよいにしても、いつかはそれが相反してくる可能性がある。資本は資本の意志を持ち始める。日本人が日本の企業と考えていたトヨタが、日本の利益を捨てても、企業利益を優先するのは、資本の性格からいって当然のことなのだ。そのことを考えると、企業にだけに軸足を置く安倍政権のリスクは、極めて高いと言わざる得ない。安倍政権は地方創生と言う不思議な言葉を作り出した。地方に土木工事を導こうとしているのではないかと疑っている。大規模公共投資を地元に誘導するのが、保守系議員の使命の様なものだ。あの橋は何先生が持ってきたものだ。あの飛行場は何先生が総理大臣をやったおかげだ。こういうことは普通に言われていることだ。自民党はこうして地元の利権と結び付いて、安定政権を作ってきたのだろう。

日本が高度成長期の頃はまだよかった。拡大再生産して行ける余地が日本の経済環境にあった。世界との競争に苦しんでいる現状で、日本の財政危機は深刻どころか、ほぼ絶望的な状況に見える。にもかかわらず、大型の公共事業を地方創生でばらまく可能性がある。この点で、官僚と政治家は利害を一致させている。確かにやらなければならないことはない訳ではない。しかし、お金に限界がある以上、何を優先に行うかだ。一番は自然エネルギーの研究開発だ。これが第3の矢だったのではないか。すでに放たれたとすれば、まだまだ、効果が無いということだろう。世界の趨勢から見れば、この分野では遅れを取っている。一番じゃなければ意味が無いとは言わないが、自然エネルギー分野に、集中的に財政的投資を行うべきだ。そして、土木工事は緊急的なものに、限定すべきだ。
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新聞は取らなかった。

2014-08-18 04:39:39 | 身辺雑記


桜 10号 桜の持つ異様なエネルギーはとても面白い。あの不気味な黒い木が、年に一回あのあでやかな花を咲かせる。





新聞と言うものを定期購読したことは、一度もなかった。情報と言うものは無料の方が良いと思う。情報格差と経済力。文章を読むのは好きな方だ。偶然置いてあれば、必ず新聞を読みたくは成る。しかし、お金を出してまでは読まない。新聞を作るには莫大なお金がかかるのだろう。だから一方では、読みたいならお金は出さなければならないと思う。しかし、タダで読めるなら読むという範囲で新聞を読んできた。今はインターネットで、新聞を読むことはある。日経新聞のインターネット版では、月に10本まで無料で記事が読めるとなっているが、せいぜい月に2,3本しか読まない。紙面番とインターネット版では内容は違うようだ。他の新聞でも追随して、見出しと冒頭の部分だけが無料となっている記事がある。読みたければ有料会員に成りなさいと言うことのようだ。その記事だけをいくらか払えば読めると言う種類のネットニュースもある。しかし、お金を払って読んだことは一度もない。有料メールと言うのもあるようだが、これには興味がない。

新聞の有料記事システムの振り分けが面白い。新聞社がこれは有料でも読むと考えている記事は、ニュースではないのだ。最新情報ではすでは、インターネットにも、テレビにも負けていることをみとめている。すでに新聞にでるときには、新しいとは言えない。結論から言えば、調査報道がどれだけできるのかが、新聞の価値だ。実は朝日新聞の、従軍慰安婦の報道の訂正について、言いたいことがある。間違ったことを訂正するのに、ずいぶん時間がかかった。その記事を購入した人には、返金をするのだろうか。著名人のエッセイの様なものが、有料になっていることがある。そういう記事はお金を払っても読みたい記事と言うものなのかと思う。では本はお金を出して買わないかと言えば、結構本は買う。本も図書館に行けば無料で借りられるから、図書館で借りることもよくある。しかし、本には所有したいという気持ちを誘うものがある。井伏鱒二全集はいつか時間が出来た時にゆっくり読みたいと思って大切に本棚にある。何度も読んだことがあるので、読んだことのない文章はもうないのだが、何度でも読みたい気持ちがある。なにしろ、文章を筆で写したことまである。

ネットでお金を払うということには、だいぶ慣れて、何とか理解しているので、有料の文章に対してのお金の払う方法は分っている。それでもネットの記事にお金を払う気にも成れない。無料で素晴らしい情報があふれているのに、わざわざ有料としている仕組みが気に入らないのだ。色々の人の絵を何十枚も買って持っている。眺めている価値があるからだ。価値があると思う絵だから購入する。最近はあまり購入できない。自分が死んだ時の処分に困るからだ。私が見ていたいと思う絵はおおよそ世間では評価ができない。私絵画であるからだ。私絵画は自分だけの問題として、呼びかけてくるものがある。その呼びかけを時々聞きたいと思う。しかし、私が死んだときに、私の絵と一緒に処分に困るだろと思う。せめて、今ある絵の死んだ後の処置は、私自身がしなければならない。新聞のことだった。ネットが出来た以上、報道の役割は変わった。変わったのに、まだ新聞社は変わっていない。このギャップというか、変わってゆく姿を見ているのは興味深い。しかしインターネットの溢れている記事に、訂正と言うのはあまり聞かない。訂正が必要なほど信頼がされていない。

朝日の吉田取材記事の誤報道を鬼の首を取ったように、産経新聞は書いている。自民党でも国会で喚問するようなことを、石破氏が口走った。従軍慰安婦の本質は何も変わっていない。すでに、こんなことは既成の事実だった。間違ったことを訂正するのは当たり前のことだ。私は朝日にお金を出したこともないので、私への謝罪はいらない。日ごろ朝日はねつ造だと公言している人間が、ねつ造記事で騙されたのだろうか。従軍慰安婦は存在した。軍の強制を云々した所で無意味である。軍の手先が、軍の意図を慮って、必要悪のようなつもりで、汚い仕事を率先して代行した事例が多いいのだろうと、私は想像している。こういうことは今の時代にもない訳ではない。この問題では、第3者の国から、日本がどう見られるかを、充分に意識すべきだ。ヘタに弁解すればするほど、ど壺にはまってゆく。橋下氏の様に居直るのが一番良くない。今、突っ張ってみても日本と言う国に何の益もない。近隣諸国と未来志向の外交と言うなら、過去の事実云々ではなく、第3国の善意の人の目にどう映るかを、考えてみる以外にない。
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養父市の農業特区

2014-08-17 04:12:27 | 地域


能登半島 10号 金沢に居た事があるので、良く描きに行った。最近いったらば、すっかり変わっていて驚いた。この前のことだと思っていたのに、もう45年も前のことだ。しかし、あの頃の絵と今の絵は、進歩した訳ではない。あの頃の絵に戻ろうとしているような気さえする。






養父市の農業特区が動き出している。安倍政権の言う、地方創生であり、これが第4の矢と言うこはあり得ない。実際には農業特区構想にどこの市町村も名乗りを上げる所が無く、養父市が名乗りを上げたということなのではなかろうか。政府は養父市の農業特区構想に全面的に協力して行くと、菅官房長官が述べている。この農業特区については、万年野党というNPO法人が、竹中平蔵・広瀬 栄(養父市長)岡本重明(新鮮組代表取締役)新浪剛史ローソン社長をパネリストにして、シンポジュームを開催している。まさに、安倍政権の国際競争力思想のシンポジュームと言うことだろう。その内容については、5000円の会員だけに公開されているものなので、想像するしかないのだが、見なくても想像はつく。3月には特区指定がされて、4月19日にシンポジュームが開催されている。すでに5カ月が経過したのだから、養父市に何らかの変化が始まっているのだろう。7月に行われた会議での具体策が公表されている。

ごく常識的なものだ。何故このような提案が農業特区でなければできないのか。分からないが、養父市の農業の街づくりの挑戦がどのような結果になるかは注目する必要がある。養父市は兵庫県の内陸部にあり、人口の過疎化が進む2万6000人の地域だ。ヤブ医者の語源と書かれている。コウノトリの豊岡市のお隣の町で、無農薬米の伝統があることも書かれている。コウノトリはここまで飛んでくるのだろう。山深い地域で、普通に考えれば農業には厳しい地域である。京阪神まで2時間位の場所で、都会へは一定の距離がある。確かにこの地域が農業で町おこしができるのであれば、日本中の参考になるはずだ。今回の特区の意味は、シルバー人材センターの雇用期間の解除が目的のようだ。農業に国際競争力を持ち込む様な意味合いとは違う。ふれこみの割に、地方創生とも、新産業の創出とも距離があるように見えるが、大丈夫なのだろうか。

新鮮組という農業生産法人がこの農業特区に参加している。新撰組(新鮮組)という名称からして、何か滅びゆく日本農業の見回り組の様なイメージがしたのだが。どうもそうではなくて、農協に日本農業を任せておけない、日本のお米を海外輸出して行く意気込みの組織らしい。岡本重明氏が社長でかなり個性の強い人の様だ。テレビでの発言の書き起こしがあった。中山間地の条件不利地域のお米で、国際競争力があると主張されている。しかも、それを30年実践してきたというのが、主張の様だ。実際にはタイで日本向けのお米を作っている。利に敏い人なら、そうなるだろう。養父市で実践しようしているのは当然、米作りではない。今後の展開を知りたい。岡本氏がやろうとする六次産業化は、「ふるさと弁当」と名付ける地元産品を使ったお弁当を地元で作り、冷凍して全国で販売する構想。アイデアとしてはごくありふれたものである。地域にある、特徴ある素材を使って、お弁当を作って流通に乗せようということらしい。

ローソンで養父のふるさと弁当で売れば、それなりには売れるだろう。流通側の協力があれば、日本のどの地域でも可能なはずだ。別段特区でなければできないというような特殊なことではない。農業特区で地方創生、が空論であることが分る。岡本氏は実は、タイでコシヒカリを作っている。これが一番もうかると主張もしている。当然である。養父市で田んぼをやり、そのお米を海外で販売して利益が出ると言うのであれば、それは画期的であるが。農家レストランもやるらしい。これは正しい選択である。こういうことは、情熱があれば成り立つ。小田原でも、可能なことだ。しかし、それで過疎化が止まり、耕作放棄地が減少するということには間違ってもならない。私なら都市との関係を生かして、違う解答を出す。例えば、養父市出身者の自給用農地の整備などどうだろうか。ふるさと離れて、故郷の思い出の田んぼや畑と繋がりを再生。最近このことを構想するが、すでに実践している地域が無いのだろうか。
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