地場・旬・自給

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ビジョン21 

2006-10-31 07:04:52 | Peace Cafe
ビジョン21の皆さんが、8人で来てくださった。10月7日にスペースオルタの「地域が変われば、世界が変わる」をテーマにしたシンポジュームで、遺伝子組み換え作物の問題点を、安田節子さんが詳細に話してくれた。実に話し込まれた、という感じの力の入った講演だった。アメリカによる、食料世界支配の構造の話だった。

その時私は、遺伝子組み換えによる、食料支配の構造以前に、養鶏ではすでに、種の企業による世界支配が、終わっているという話しをした。短時間だったので、もう少しその話を、という事で、皆さんでわざわざいらしてくださった。これは自由競争が、実は行き着くところは、能力支配に至る。という事が、経済原理のとおりだ、という話。

産卵鶏は卵をよく産むと言う能力を競って、改良が進んだ。他の能力が、いびつであれ、飼い方のほうで補う事にして、ともかく、よく産む鶏、エサを食べない鶏、を改良してきた。効率がいい。採算性が高い。という事が、企業が養鶏を行う際の、当然の大前提になる。その結果、日本の種鶏会社は、独自の作出鶏を持たなくなった。何処の鶏も大差の無い、系統的には同じものだろうな、と言う、産卵鶏一種になった。

そうなってしまったときに、大切なはずの、3000種と言われる。世界各地にいたその土地の鶏は、消えていっている。経済効率の前には、飼いやすいとか、病気に強いとか、性格がいいとか。美しいとか。声が良いとか。様々な特徴を持った鶏種は負けていった。

鶏は全て「赤色野鶏」1種の原種に始まる。人間が暮らしの中で、徐々に自分たちに適合するものを、作出してきたのだ。これには、何万年という年月がのみ作り出せる、貴重な要素があったはずだ。日本でも、縄文の遺跡から、鶏の骨が出たらしいと言うので、日本人とも古い付き合いだ。土佐の小地鶏と言われる鶏は、見た目は赤色野鶏と変わらない。青森や秋田にも地鶏が居るわけで、熱帯の鶏が気候に順応しながら、改良されていったのだろう。

それが、明治以来徐々に、そして、戦後一気に消えていった。この流れは世界中に起こった。アメリカ式養鶏が、農村に持ち込まれる。今までより、倍も卵を産んで、これはすごい。こっちにしようと始まった。そのちょっとした転換が、金のかかる養鶏になる。ほったらかしという訳に行かない。手の掛かる養鶏になる。そして、農家が庭先に飼うようなものではなくなる。農家規模の、専業養鶏に変わった。そして、企業的な養鶏だけが生き残れるように進んでいる。気付いた時には、家で孵化するような、養鶏はなくなっていた。それに向いた鶏も居なくなっていた。

自分らしい暮らしを求めるならば、その暮らしに適合する。鶏は必要だ。それは日本の伝統の中で、選抜作出された、貴重な鶏の中にあるはずだ。そう考えて、作出してきたのが、笹鶏2種だ。個人的な、努力ではどうにもならないことだが、少しづつでもやろうと言う事で、やっている。
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江戸文化歴史検定

2006-10-30 06:14:14 | Peace Cafe
世界的に見ても、豊かな出版文化が花開いたのが江戸時代でした。なかには1冊あたりの出版部数の累計が1万を超えるベストセラーも誕生しましたが、それは次の本のうち、どれでしょう?
ア 井原西鶴の『好色一代男』
イ 本居宣長の『古事記伝』
ウ 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』
エ 滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』


「江戸文化歴史検定」が十一月三日に実施される。受検者を募集したところ、一万人を超える応募があった。100問中正解が70問で合格だそうだ。「大江戸見聞録」に試験問題のお試し版がある。
江戸時代にはちょっと興味があるので、挑戦した。5問中4問正解。火消しの名前が外れた。テレビのクイズ番組は、嫌いだ。つい本気で挑戦してしまうからだ。

しかし、江戸に関心があるというのはうれしい。しかし、これが江戸という都市にまつわる事が、多い。出来れば、殆どの人達が暮していた、農村の百姓のことに興味を持ってもらいたいものだ。「特に江戸時代の百姓は本当に貧しかったのか。」これを読んでみるとよくわかる。江戸時代の貧しさを、演出したのは明治政府だ。富国強兵で、本当の意味で国民を苦しめたのは、明治天皇制だ。

明治時代を文明開化などと、江戸時代と比較していい時代が来たような、錯覚をさせようとしたのだ。これは、自給自足で暮してみて分かった事だ。「1人の人間は100坪の土地と、2時間の労働で食べる物は確保できる。」百姓は基本的に飢えることは無い。江戸時代を飢餓の時代などと錯覚させ、士農工商の封建制を強調し。本当に国民を苦しめたのは、明治時代以降の富国強兵にある。以下参照。佐藤常雄+大石慎三郎『貧農史観を見直す』(講談社現代新書、1995年)、田中圭一『百姓の江戸時代』(ちくま新書、2000年)、同『村からみた日本史』(同、2002年)

江戸より、徳川時代といったほうが良い。その農業の中心は稲作である。収量をふやすため堰をつくり、水路を掘削し、深耕と肥料。稲作の安定によって、農地に余裕が出てくる。幕府や藩は各種の外来作物を導入した。さつまいもの普及。綿花栽培がはじまり、木綿が普及。染めるための藍が大量につくられた。さらにイグサの栽培が奨励されて、畳を家に用いる。ナタネが栽培され、油が家庭でも活用できるようになった。日本流の自給体制が整う。この経過が極めて重要だ。背景に銀輸出があるらしい。

この自給体制には地縁型の農業共同体が連動した。水路を共有し、取水と配水を互いに協力しあう必要から、綿密な連携と協議と決済がいる。治水と潅漑と祭祀が何年何十年と試され、役割が申し送りされ、組み立てられているうちに、日本の農業共同体のしくみはアジアで有数の農村社会をつくりあげることになる。

歴史を今日やる作業、竹林の片づけをやるのだが、歴史の中で考えてみる事の大切さを思う。    (こたえは、ウ)
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大豆の会・料理の会・味噌の会

2006-10-29 06:27:42 | あしがら農の会
大豆の会が今年、始まった。中原さんが中心になって、丁寧に進めてくれている。時々大豆の様子の写真が送られてくる。上の写真も、その一枚だ。無事育ってくれていて、良かった。大豆の会の初年度で、これからの活動の継続という事でも、見事な出来でよかった。と言っても、農家の方の大豆を見ると、様子が違って驚きますが。

Aさんが田んぼをやっていて、今年は作付けないという事で、会に田んぼを返されたことから急遽、大豆の夢がかなうことになった。味噌の会が、大豆を自給するのは当然のことで、いつまでも購入しているのは問題だと、考えていた。田んぼの会にも参加している人は、たんぼの畦で、大豆を作りその大豆を、持ち込むという形は生まれていた。どういう訳なのか。農の会の人も大豆を栽培はしているのだが、味噌の会に大豆を売ってはもらえないのだ。味噌作りをやるのだから、自分で作りなさい。という事だろう。

味噌作りは、かなり長い歴史がある。自然食品の販売をしていた、島田さんが呼びかけてやったのが一番最初だと思う。これは、農の会としてやったということではなかったが、農の会にかかわりのある人達が、沢山集まり、楽しい物になっていた。島田さんの家の前の、冬の田んぼを借りて、そこにかまどを作り、豆を煮て、味噌を仕込んだ。全部田んぼでやったのだが、楽しい気分は今も記憶に残っている。

冬の日差しの中、バンドがセッションしたりして、うきうき気分が満ちていた。あの気分が、味噌作りをやろうという動機になった。あの頃も大豆は作っていたが、山北の山の上では上手くできなくて、やはり、小さな田んぼの畦に作った。

大豆の会・料理の会・味噌の会と繋がっている。味噌作りをやるということは、大豆を作ることであり。お米なり、麦を作り、麹を作ることだ。農の部分は省けない。今年、苗を各自が作りなさい。と、中原さんが種を配った。これが成功の第一歩だった。誰だって、一鉢の大豆の苗は作れる。ここから始める事が、大切なことだ。どきどきしながら、種を蒔き。芽が出て、苗になる。持ち寄るとこれが、又千差万別。上手もヘタもある。植えた土が、それは全員違っていた。

上手く行った背景には、簡単なようだが農の会の蓄積した、大豆栽培の手順があった。畑お準備、この時の溝堀が重要だったと思う。畑の草の整理から、苗の植え付け、一回の除草。そして、いよいよ11月19日の収穫。収穫後の面倒くさい。選別作業は、今回は、収穫祭で取り組むことになった。ありがたいことだ。

是非ここからでも参加してもらい。味噌作りを生活に取り入れてもらいたい。味噌という製品を買ってしまえば、それで終わってしまうことだ。実は、その中にどんなに楽しいことが、詰まっているか。それが大切な物として、必ず暮らしを深める事になる。そして、手作りということの意味が体感できる。農の会の言うところの自給は、ユートピア的な遠い話ではない。日々の暮らしを自分の手に取り戻すという。誰にでも簡単に出来る仕組みの提供だ。

田んぼ体験、味噌作り教室。こうした物が、広がる事はいい。その根底に農の現実があり、奥深い魅力に満ちた世界があることを、実感してもらいたい。平和とか、豊かさとかの、本当の意味が、どこにあるのか。農の会で確かめてゆきたい。
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水彩画美術館の夢

2006-10-28 07:41:30 | 水彩画
水彩画美術館を作りたい。いい水彩画を集めて、常設展示したい。水彩画の良さを広く、深く伝えたい。他の、日本画や、油彩画とは違った、独特の魅力がある材料だ。しかし、世界の美術史的にも副次的な材料としてしか扱われていない。水彩材料は独特の物で、他の方法では表現できない世界がある。

描画材料の変遷は美術の目的を密接に反映している。ヨーロッパ古代ポンペイの壁画、エジプトの壁画はフレスコ画。壁を作りながら、描画してゆく物で、目的の部屋の装飾として描く物だ。教会壁画ではモザイク、ステンドグラス。崇高さ、耀き。ルネッサンスにいたり、油絵の登場。説得力の必要性が高まり、人間が理屈っぽくなってかな。細密描写の必要が高まる。写真的リアリズムの登場。これには油彩画が適合する。このまま現代まで、材料としては変化なし。現代は商品絵画の時代。投資価値としては油彩画は向いている。

水彩画が登場するのは、すでにエジプトで使われているが、絵画の主流になることは無い。水彩画の材料は顔料を、より細かくするところが特徴だ。そしてアラビアゴムを用材として溶かし込み、絵の具とする。これは東洋の方法では、膠となる。しかし、顔料ははるかに荒い。

紙、あるいは布にえがく。これも特徴で、良い紙が出来ることが、水彩表現の幅を広げることになる。良い絹の布も同様である。その点アジアでは、紙が早くからいい物ができたので、水彩画といえる絵画が広がる。例えば、水墨画は水彩画をモノトーンで行う物だ。顔料は摺ることによって、大変細かく、細かくすることで、単色での表現の幅を広げたのだ。その意味で、中国画は手法としては水彩画といえる。日本画は、顔料をそこまで自由に扱うところまで行かなかった。

中国唐初期の絵画には、すでに水彩的細密表現がある。宗、元にも幅広い表現があり、水彩技法が完成していたことが分かる。これは絵の具の顔料を細かくする方法が、完成していないと出来ない事だ。色炭が中国では各色あるように、大変細かい顔料の絵の具が、古くから完成していた。

絵画が権力の権威を示す時代、公共の物である時代、そして個人の時代へ移り、今後は描く時代になるのだろう。描くことその行為自体が、意味を持つ時代が来る。そう考えている。描く行為そのものに、存在意義が移るのだと思う。

人が生きる思索として、充実度として、描く行為を大切にする時代への移行。その時代に相応しい手法が、水彩画だと考えている。水彩画は、下描きとして多く描かれてきた。簡便である事が特徴。もう一つ重要な点は、考えていることの、肝心な骨組みを説明抜きに表現することに向いている。だから、日記のように、独白のように描くための材料といえる。

美術館の事だ。水彩の美術館が無い。水彩の技法の幅を知ろうにも資料が無い。もし、セザンヌや、ターナーや、クレーの水彩画がいつでも見られたら、どれくらい参考になるだろうか。印刷では中々、どのような紙に、どう描いたのかは分からない。日本の物だっていいものはある。それを少しづつ集めて、展示できるスペースを作るのは、夢だ。
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小田原市の絵画ギャラリー

2006-10-27 05:22:55 | Peace Cafe
小田原市の絵画展示会場は、残念ながら大変みすぼらしい現状だ。私には絵がかわいそうで展示する気になれない。照明の状態が悪く、色を正確に見ることが出来ない。現在は、中央公民館と、市民会館に一応はある。会議室に絵を展示するという状態だ。日本全国様々な20万都市があるが、小田原より、絵画展示のスペースの貧困な町が、無いことだけは確かだ。もし、あるならば、教えてもらいたい。

20万都市といえば、近辺では平塚市、厚木市、茅ヶ崎市、沼津市、などがある。平塚には立派な美術館があり、比較するのもおこがましい。厚木は文化会館に、420平米のギャラリーがある。その他3箇所に普通のギャラリーがある。
沼津市はどうだろう。225㎡のギャラリーが市民ホールにある。その他千本プラザの多目的ホール。小田原よりだいぶいい状態だ。

問題は、今後の展示スペースの改善の予定もないという事だ。今かろうじてある。市民会館の暗い展示スペースも廃止される。新しい、城下町ホールが出来れば、遠からず閉鎖される。それならと、考え出されたのが、城下町ホールの小ホールを展示スペースとして、共用使用しようという考えだ。今時、単独のギャラリーでも、展示の条件が厳しく要求される、芸術分野の状況だ。どうして、音楽の小ホールと共用できると考えるのだろう。これが小田原の文化行政の現状認識レベルだ。

絵画スペースがなくなることの言い訳のような形で、小ホールの中に、ギャラリーを併設すると言う。この発想の貧困は何処から来るのだろうか。市役所の担当部署を訪ねて聞いてみた。担当の、職員の文化レベルが、申し訳ないが、世間の文化の現状まで届いていない。平塚やら、厚木のギャラリーは、見たことが無いのだろう。話していて、外国の人と話しているようだった。同じ20万都市が、どんな文化施設を持っているか。全く知らない。そんなことは私の仕事ではないと嘯いている。何故、小田原に文化施設が何も無いにもかかわらず、借金は山ほどあるのか。少し解ってきた。

今度作ろうとしている城下町ホールは、一般の音楽ホールに較べて、安く出来るわけでは無い。ムシロ高いという事だ。奇抜なデザインが、建設費をべらぼうに高くしている。お城の前に、ガラス張りの前衛的な建物を建て、城下町ホールだ。その上、土地が充分じゃないから、更に経費がかさむ。
ギャラリーは、小ホールと併設。これは節約じゃなくて、音響や、照明や、特別なエレベーター、無理な搬入路で、費用は増えるばかりだ。建設業者の罠にはまり込んでいる。

城下町ホールは規模からしたら、土地に余裕が無い。周辺の土地の手当てがつくのか見極める必要がある。場所の変更、目的の変更も考えないと、大きな無駄遣いになる。

ギャラリーは海の見える丘に設置したい。外光を上手く取り入れて、景観を贅沢に使う。他の地域には無い、すばらしい展示スペースができるはずだ。空間の広さ、豊かさが、展示スペースでは大切なことだ。小田原には他にはまねのできない、明るい空間がある。
丘の上には美術館を作る、適地はいくらでもある。費用などかけないでも、神奈川県1の絵画展示スペースが出来る。そうすれば、あそこで個展をやってみたいという作家が集まってくる。小田原の作家も誇りを持って地元で作品展を行い。他地域から人に来てもらう事ができる。
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直播農法

2006-10-26 06:06:48 | 稲作
稲作が面白いのは、実に奥が深いことだ。いまだ確定したと言える農法がなく、有機農法でやるとなると、ほとんど手探りと言っていい状態だ。その稲作の中でも、一番興味深い研究は、直播農法だろう。本来の自然の状態に一番近いわけで、その植物の力を、最大限に引き出す方法だ。

アメリカや、オーストラリアでは、飛行機から直播するような、大雑把な方法が行われているぐらいだから、実用農法としての可能性はある。しかし、いずれも、乾燥化した砂漠のような土地に、井戸を掘り、大きなポンプで水を汲み上げて行う。収量は高いが、収奪的な農法には永続性がなく、採れなくなって来たら、他に移動して放棄してしまうそうだ。化学肥料や、農薬が大量に使われて、土を育てるというような発想は無いから、使える間使い、場所を移動するという事になる。企業的農業らしい結果ともいえる。。

自然農法としての直播栽培に興味がある。何故か、川口さんの自然農は田植え方式だ。苗が自然に移動などしないから、自然と名乗る以上、田植えはおかしい。等とご本人に、伺ったところ、直播は挫折したと言われていた。直播で苦労するのは、雑草だ。春に撒かれた稲の籾が芽生える時には、雑草の方も芽を出す。草に負けてしまう。この点をどうするかだ。

いくつかのヒントはある。不耕起栽培にすると雑草が生えない。これは理由の方は解明は出来ないが、何度か経験からわかってきている。だったら、不耕起栽培で、直播にすれば、単純な意味では稲だけ生えてくるはずだ。所がそうでも無いのだ。
草との関係が、色々おこり、単純には解決できていない。

①秋に、浅く秋起こしをして、稲の種を岡戸式播種機で蒔いてしまう。その上から、レンゲを撒く、春になって、レンゲが繁茂しているところに水を入れる。するとある程度の稲は、レンゲの間から生き残り、芽を出しているのではないだろうか。これを頼りに、補植する様な感覚で、田植えをする。

こんな考えは以前からあり、似た方法はやったこともある。種を蒔くのを春にしたのだ。岡戸式の播種機が草の為に上手く作動しない。水を入れても、残った草が、枯れない。この辺りが問題だった。
秋起こしをして、レンゲをびっしりと上手く繁茂できるかが、先ずポイントになる。案外これがほって置いてもそうなるところもあるが、難しい。ヘヤリーベッチの方が良いのか。第一の検討課題だ。クローバーと言うのもあるのか。

②やはり不耕起だが、春まで藁を撒いてそのまま置く。その後、穴あけ機で穴を開けて、種を蒔く。これは機械の開発を現在額田さんがしている。しかし、手でやるなら、今年の株の脇に、穴を開け、種を蒔き、土をかける。これを田植えと考えればかなりの手間になるが、不可能ではない。ここから、水を入れるとどうなるか。この後は水との駆け引きで、作った苗で沢山補植するつもりでやる。

どちらが良いだろう。2つの田んぼで試してみたいものだ。
実は自給の規模なら、直播で何の問題も起きない。何度もやった体験がある。30坪で、50キロは取れるので、田んぼは30坪でいいと思う。それ以上はいらない。30坪なら、草取りを完全に行うと言っても、1時間あればできる。どんな直播法だろうと可能だ。問題は、人の分まで作るとなったときだ。
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糠抑草の整理

2006-10-25 07:20:45 | 稲作
山下さんから、除草剤を使わない稲作りのメールが送られてくる。色々のヒントが隠れていて、参考になる。専業の農家の方が、研究的にやられ、色々書いてくださるので、内容が深い。でも、素人は恐れる必要が無いので、挑戦的にやったことを、少しづつ書いて送っている。間違えたことを書いては恥をかいているのだが、大分頭は整理させてきた。

赤木さんの温度調査の結果。私なりにヒントになりました。やっぱりと思うところがありました。田植え後の水温が普通で20度ぐらい。晴れて温かいと30度を越える。これは水口の水温と考えていいのだろうか。いずれにしても、醗酵は温度と関係が深いので、重要なポイントになると思っています。

平地の暖かい田んぼと、山の田んぼでは同じ方法では、抑草出来ません。これは何度も試して、分かってきました。その原因で一番は水温と見ています。 足柄での山では田植えごろ。水口水温16度ぐらいです。里では20度ぐらいです。
水温の低いところでは、糠抑草が上手く行きます。その例が多いいです。水温が低いので、雑草も田植え頃勢いがありません。

糠の抑草の弱い力でも、充分効果があるのだと推測しています。成功例3箇所共に、水温16度の田んぼです。そもそも草の少ない田んぼです。もちろん油断すれば、草だらけの田んぼになることは経験済みです。

①秋から冬に、養鶏場の床材を反、200キロは撒きます。出来れば2度行います。何人かの方が書かれているように、土をよくするにはいいので無いかと考えてです。トロトロ層と関連があるかは私には分かっていません。

②緑肥は、やはりレンゲがいい。軟弱緑肥ですか。ヘヤリーベッチの方が草量は多いので、レンゲが出なくなったら使う。毎年レンゲを繁茂させるのは難しい。確かに水温が20度越えるようなら、菜の花もいいのかもしれない。

③春に海水を反250リットル撒きます。効果は分かりませんが、腐敗臭が減ったという気がします。海水だけの効果とは言え無いので何とも分かりませんが。糠を撒いて臭いようでは抑草はダメだ。と言われています。

④田んぼを出来るだけ平らにする。水深を8センチを越えるようにする。これも皆さんが言われる事が納得いきます。平らにすることは、水の流れが一定になる効果も大きく、淀みが出来ると、コナギが生え、浅いところはひえがくる。水が少しづつ、常に動いている状態は大切。

⑤秋起こしはした方がいいのかどうか、善悪拮抗する。藁を撒くのは良い。緑肥の出方が大きく作用する。

⑥代掻きは浅いほど草が出ない。雑草だけ考えれば、不耕起がいい。草の種が、代掻きで出やすいところに浮き上がるのか。深くやって何度かひどい草になった。水を入れたら雑草の発芽が始まるので、糠播きまでの時間は短いほど良い。

⑦糠の撒き方は、田植え直後、土が出ないように水を入れてから、均一に撒く。撒いたならば、排水はしないで、土が現われないように、少なくとも3日は保つ。このとき雨が無いほうが良いようだ。立て浸透の大きい土壌の方が、(減水深10センチ以上)草が生えない。

⑧ころがしを入れなければならないかの見極めが大事。やるならば早めに転がしてしまう。土を絶対に出さない、深水管理を1ヶ月は行う。

以上素人のたわごとです。来年を思って、熱い内に頭を整理しました。
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沈黙の社会にしないために

2006-10-24 13:38:57 | Peace Cafe
「沈黙の社会にしないために」立川・反戦ビラ裁判の上申書集が出来た。これだけは許せないと思い、離れていは居るが、支援をしてきた裁判だ。最高裁に上申書を出して欲しい。という要望があり、早速出した。230通の上申書が、現在出されている。どの上申書も熱のこもった、本音が出ている。

2004年2月自衛隊官舎へのイラク反戦ビラを配布したという罪で、3名の者が、「住宅侵入」に当るとして逮捕された。その後75日に渡り、拘留されました。そのことだけでも、驚くことでしたが、東京高等裁判所中川武隆裁判長は有罪の判決を下しました。近じか12月頃に、最高裁でこの歴史的裁判の判決が下されようとしているところです。

この事件は国際アグネスティーによって、人権抑圧の事例として、日本の恥として、国際的に取り上げられております。どのような形で、戦争の出来る社会に変わってゆくかを示す。象徴的な事件だと思います。その後、こうした逮捕は続いております。何故、自衛隊の官舎に、ビラを入れることが、住居侵入になるのか。他の沢山の入れられているビラは、何の問題にもされていません。たまたま、中に住む自衛官の家族が、不愉快なビラが入れられるということで、警察に届け出たようです。

ビラを入れないで下さい。ですんだ話です。それが、75日の拘留から。裁判での有罪。警察国家への第一歩を踏みだそうとする事件です。戦前の思想弾圧を髣髴される事件です。私の父は、戦前友人の逮捕に始まる公安事件で、福島県の土湯に逃亡していた体験があり、その話を子供の頃聞いております。幸い逃げ切れたそうですが。東京駅頭で軍人の制服を見たとたん、もどしてしまったそうです。この生理的に権力を許せない気持ちは、私にも乗り移っています。

自衛官の家族として暮らすものが、こうしたビラだけを警察に訴えるという感覚が、いかにも軍人精神です。堂々と自らが、対応すればいいことなのに、警察に届けるところに、いやらしい精神構造が見えます。イラク派兵違憲裁判にも参加していますが。「イラク派兵」そのものが、違法行為です。国連の承認もなく、大量破壊兵器を隠しているという、「虚偽の情報をでっち上げ」アメリカと日本が無理やりイラクに攻め寄せた国際犯罪行為です。

これがもし逆の立場で、北朝鮮が日本に大量破壊兵器が隠しているという理由で、攻めて来たらどうでしょうか。国際的に許されてしまうのでしょうか。許されるわけがありません。イラクの現状はフセイン独裁といわれた時代よりも、更に悪い状況です。アメリカ兵が、9月270人死亡し、開戦以来最悪の事態ということです。すでに内戦状態とアメリカ軍が認めている状況です。

武力による平和が無いことを、イラク派兵から学ばなければなりません。戦争は何も解決をしません。状況を悪くする一方です。どれほど、歯がゆくとも、不安であろうとも、戦争をするよりは、まだ増しである事を知るべきでしょう。

そのイラク反戦ビラを撒いたことに対し、国家が挑戦してきたのです。弾圧をしてきたのです。自由な意志の表明を、止めようとしているのです。高々ビラ一枚入れて、3名が75日拘留されるという異常が、平然と行われる国に、日本は成ってきています。ここで黙っていることは、自由に生きることが出来なくなる。そう考えねばなりません。

まさか最高裁の判断が、有罪となるとは思えませんが。日本は危機的な国家になりかかっています。今ならまだこの流れを止める事ができます。この位は良いでしょう。と思得る、今が。歯止めを描ける最後のチャンスかもしれません。
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ホタルブクロ

2006-10-23 07:15:30 | 身辺雑記
ホタルブクロ Campanula punctata Lam. var. punctataには白花と赤花の2種がある。もちろん中間色もある。この色がなかなか面白い。寒くなってきて、ホタルブクロの話でもないのだが、「植物と親友になるために」という面白い本を読んでいて、色のことで思いついたことがあった。この本は目医者さんが書いた物だが、一言で言って、「エセ科学本」だ。評価しているわけで、いい本で面白い。それでも、どうやって植物が人間の感情を感ずるか、いかにも、科学的に分析しているように書いている、怪しげな本だ。

エセ科学本というのは、いかにも科学性があるかのように、再現性がある実験を通して証明された。等と必要以上に力説するものだ。却って、著者のその点の不安が見え隠れする、ということだろう。UFOとか、前世とか、血液型性格判断とか。水関係、微生物関係など、そんな類が多いい。病気が治る。痩せる。商売につながっているのは、大体おかしいと思うことにしている。でも面白いのだ。

エセ科学本は、その怪しげな周辺を、なんとか固める為に、中々含蓄のあることを書く場合がある。ここに、ホタルブクロの色のことがあった。著者金子和正氏によると、気温への反応で色が変わるというのだ。私は土壌の酸性度に影響されている。と思っていた。紫陽花のようにだ。所が、こういうことは意外にも、何処を見てもそうはっきりとしたことが確定していないのだ。

名前の由来が又面白い、「花の中に蛍を閉じ込めると、その明かりが外へ透けて見える」ところからきているらしい。また、提灯の古名を「火垂(ほたる)」といい、その提灯に似ているので付けたという説がある。蛍を花の中に入れるというイメージは美しい。この学名カンパヌラは鐘のことだ。この面白い形を虫篭に見立てる。提灯に見立てる。風情がある。

山北に居た頃はホタルブクロはにごった紅色の花と思っていた。だから、小田原の方に来て、白い花を見たときは、これは珍しいと驚いてしまった。ところが辺りを良く見ると白しか無い。白しかないとすると、山北の赤の方が珍しいような気になってくる。それで赤い花を、山北から持ってきて、小田原の家の庭に植えた。近所でも珍しいので、隣の叔母さんが分けて欲しいと言われた。それが、いつの間にか白くにごった花になっている。それで、土壌が山北ほど酸性で無いから、白くなったのかなどと勝手に思っていた。

それが、温度だというのだ。花芽がつく時期に、高温になると白くなる。というのだ。どうだろうか。正しいのだろうか。このように書く以上実験したのだろうか。又山北から、赤花を持ってきて、温室に入れておいて見るつもりだ。

その話ではなかった。山北と小田原は、目と鼻の先だ。それが、こんなに近いのにホタルブクロの花の色が、赤いと考えている人と、白いと思っている人が居るというのが、面白い。これが、花の色だから良いけれど、結構頭の中も、赤いと思い込んだり、真っ白だったり、思い込みというのはあるに違いない。
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小田原市市民会館:城下町ホールの建設

2006-10-22 06:58:06 | Peace Cafe
昨夜、城下町ホールについての、ワークショップがあった。このホールが問題建築らしいという事は、聞いていたが、これほどのものかと驚愕した。呆然、唖然、思考が停止してしまった。帰ってからも腸が煮え返えってきて、怒りが収まらなかった。

何が悪くてここまで来てしまったのか。今までの、城山マンション問題。駅前ボートピア。どちらも、商売の話で、町場の問題。気にはなるが、離れた話だった。今度は市民の税金を80億円も使う「市民会館」の建替えの問題だ。この建築直接に50億円が、かかるそうだ。どうも同規模の他の町のものは、30億円台だそうだ。この20億円が、極小地所に、無理やり立てる。奇抜な世界に類を見ない建物になるからだそうだ。ここに怒りの原点がある。

この問題は小澤市長が鍵を握っている。市長個人の資質に由来すると考えた方がいい。結論から言えば、彼を再選した小田原市民自身の問題だ。「城下町サミット」を提案している。この愚かさが、わが市長だ。小田原のお城がどんな状態で、今の物を世界の方々に見ていただく恥ずかしさを、考えないのだろうか。お城の中に、遊園地や動物園がある。周辺の整備や建物の、統一も取れていない。この程度の行政努力の状態で、何故世界に呼び掛け、サミットをやろうと、考えてしまうのだろうか。

世界に問題を投げかけ、自らを指弾してもらおうとでも、考えたのだろうか。ヘタをすると、小田原行政つるし上げのサミットになるだろう。史跡を遊園地や、動物虐待の動物園にしていることは、世界の目から見れば、大問題だという事に気付かないのだ。周辺の城を見下ろすマンションが、許される街作りの行政レベルで、世界の城下町から来てもらおうとは、恐れ入る。こんな愚かな市長を諌める人が居ないというのも、「裸の王様」の情けなさ。

この愚かさが、「市民ホール」の建替えに現われた。さすがに今の市民ホールで良いという市民は居ない。立て直すべきだ。これは市民の共通の願いだ。使い勝手のいい、小田原に相応しい規模の、いいホールが欲しい。これは市民共通の願いだ。しかし、県内二番目に財政は悪化している。この中で作るのだから、無駄を省いた、合理的なものにするというのが、普通の考えだ。

城下町ホールは世界に類を見ない、奇抜な物だ。だから使い勝手が悪く。お金もやたらかかる。小田原フィルの代表。こゆるぎ座の座長。使い勝手の悪さを強調していた。4トン車が横付けられないという。大ホールの驚くべき無駄な構造は、世界に類を見ないそうだ。えらい贅沢な音響付帯設備をしなければ使えない。

更に問題は小ホールだ。これが絵画展示室と共用になっている。節約にしたつもりだろうが、絵にも音楽にも、間違いなく使いにくいものになる。展示室だから、固定の椅子は置けない。床は平らで無いとまずい。普通に座れば演奏状態が見えないだろう。こんな教室のような部屋を作ってホールは無いだろう。

実は絵の展示スペースが出来るとは今回始めて知った。絵の展示はあちこちと関わってきたが、それはそれで場の設定が大切だ。贅沢な必要は無いが、空間の状態、照明の状態、外光がどう入るか。床の作り。壁面の高さ、つり金具。搬入路の問題。絵を良い状態で見てもらうには、考えなければならないことは多い。共用等考えれない事だ。小田原の絵画団体の人に聞いたが、内容は理解されていないようだ。この点も検討が居る。

現状では設計会社任せで、市にはこの建設にプロジェクトチームも無いそうだ。市民の意見は今後聞き入れないという事を、市長は公言しているそうだ。市長のリコールしかないと思う。
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韓国人の兄弟

2006-10-21 06:21:54 | 身辺雑記
私には、在日韓国人の兄弟が居る。血はつながっていないが、私の父を、その人も父として対してくれていたので、いつの間にか、私とも兄弟のようになった。年は私より10歳上だ。息子さんの年を聞いたら、42になったと言われたので、驚いた。息子さんも複雑な、生き方をしてきたが、今は日本に居る。

その人の、生きてきた道筋は、それは命がけなもので、余り詳しくは書くことは出来ないのだが、何度か日本への密入国を失敗した。機関銃で同船した全員が殺された中、全く偶然に生き残ったこともあったそうだ。それでも日本への密入国を繰り返し、成功し、ある大学から、大学院へ行き政治学をやった。全てが明るみに出て、強制送還ということになった。父は韓国人との付き合いが多く、困り果てて父に相談に来た。

父は様々な運動工作を行い、奇跡的に日本への残留を成功させた。そのときからの長い付き合いだ。兄弟として、大事な事ではいつも相談にのってもらっている。的確な判断力と洞察力そして知識で、正確な助言をしてもらえる。頼りになるという意味では、これほどの人は居ない。

私の父を日本の父と考えていた。親孝行の姿は、実の息子としては恥ずかしいのだが、それは徹底していた。やはり儒教の国韓国の心のようなものを持っている。病院から死んだ父を連れて帰った。父の葬式も取り仕切ってくれた。もちろん母の時もそうだった。私が高校生の頃から、家に来たので、40年の関係になる。最初に話したのが、韓国のアジア大会開催中止のことだった。こうしたことを、その国の人と話す難しさを、感じた記憶がある。

先日、ゆっくりと箱根の温泉で語り明かした。最近相談にのってもらったことが解決して、お礼もあった。やはり、北朝鮮の話が中心だった。北朝鮮の中枢部に居る中国派の話が、興味深かった。もしもう一度核実験を行えば、中国が北朝鮮内部の、中国派を動かすことになるだろう、というのだ。その辺りの内部情報のようなものも聞いたが、これも書きにくい話だった。

金大中につづく、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の太陽政策が、どのように北朝鮮政権を悪化させたか。この具体的経過の考え方が、興味深かった。中国の影響力の読み違い。援助に伴う、危険性。南北統一政策からの離脱。南北の経済格差拡大の問題。金正日政権の国際的な孤立への日米の共同戦略。韓国の極東情勢に対する判断ミス。日本の再軍備可能性とアメリカ軍再編の対応。極東アジアの国際情勢全体に起こっている、力の均衡の崩壊。この先起こり得るいくつかのケースへの対応策。学ぶところが沢山あった。

もう一つは中国での儒教再評価運動についてだった。その背景にある、汚職体質克服の問題。日本での儒教・朱子学的伝統の崩壊。日本人の精神構造の喪失問題。国家観の欠落。利己主義の蔓延。国家の不安定化に伴う、強い力による統一への願望。小泉政権、安倍政権への意味の一貫しない国民の支持の分析。今中国で行われていることを、反面教師として注目することで、日本の進む道は見えるはずだと。ともかく、熱く熱く語り続けた。
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地場・旬・自給の続き

2006-10-20 07:06:17 | あしがら農の会
頂いたご意見を含め、又農の会の掲示板でも展開されている、考え方を含め、農の会のこれからの展望を考えてみたい。

「農業者・市民農・消費者・顧問と呼んでいる協力農業者」正確に言うと、この4者によって農の会は形成されている。全体で300軒ぐらいだろうか。この連なりの境をなくし、共通の方向に進むことが出来ないか。こう考えてきたと思う。ONODAさんのご意見のように、消費者はどうか。先日のアンケート結果でも、考え方はよく理解してくれているが、活動への参加者は限られている。こういうことだった。

農の会の提案するところが、実はちょっと重たいことなのだろう。田んぼの会の趣旨はいいけれど、これに参加し続ける人は、そうは居ない。相当の信念がなければ、無理なことだと思う。農業者は忙しい。とだけは言えない。誰しも極めて忙しく、田んぼをやるには、他のやらなければならないことを止めて、参加しているのだと思う。でも、農の会はこれを提案し続ける会だろう。そして、一人、一人と確実に増えてきた。今後も、間違いなく増えるだろうし。農の会と似た活動が、全国で生まれて来ている。少数ではあるが、傍観者的で無い人が出てきている。

農の会が切り開いてきた、市民参加の活動方法は、他の同様の会の参考になっていると思う。一般に行われてきた農業体験が、体験とは言えないものであった。全てが用意されていたり、上手いとこ取りだったり、全体性が見えない体験では、誤解が生まれる。農の会では周辺農家への気配りから、水路の草刈まで、共に行うことで見えてくる物を大切にしてきた、つもりだ。

農業者が自立出来るなら、それもいい。その自由が、気持ちいい関係として作り出されることは大切だと思う。現に、Iさん、Eさん、Kさんはそうした関係で農の会とかかわりを持っている。共同出荷には参加しない。あり方はそれぞれだが、そうした人は増えていいと思う。そのような選択が気持ちよく出来る会であり続けなければならない。人が減ることが、少しも会の運営に負担が無いような、仕組みでないとならない。増えることも同様に、負担が起きない様な仕組みでなければならない。

研修の仕組みが必要だ。農の会に農業者として参加するには、研修を経て互いの理解が深まる必要がある。農の会の参加者も研修を通して、学ぶことが出来る。市民農の自給には一般の農業とは違った、合理性が必要だ。これも実体験できる形で提案して行く必要がある。消費者にも学んでもらわなくてはならない。筧さんの書かれている。手で掘ったごぼうの価値を理解してもらえる。消費者に育ってもらわなくてはならない。いいものを、安全な物を食べたい、という消費者に対応するのが、農の会ではない。

結局は暮しそのものを提案してゆくことだろう。やりたいことはいくらでもある。自分の日々の暮らしが、そうした社会的な活動と、どう関わっているかを自覚できるかに、かかっている。農的な暮らしを送りたいという思いが、農業者の暮らしと、どのように関わるのか、自覚しだいでは無いだろうか。その点、農業者も、消費者も、市民農も、協力してくださる農業者も。等しく同じ方向を目指すものだと。ONODAさんが書かれた、等しく生活者である。という事だと思う。
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地場・旬・自給について

2006-10-19 09:02:56 | あしがら農の会
あしがら農の会設立時に、考え方があった。むしろ実体はなく、考え方だけがあった。これから始めるのだから、当然のことだろう。その時考えたことが、「地場・旬・自給」だ。一人の自給を7,8年間、山北で行った末、組織を作ろうと考えた。
このとき「地場・旬・自給」に煮詰まった。

最近、農の会は転換期に入っていると思う。農業者と、市民農、消費者(消費者というのは良い言葉ではない、しかしわかりやすいので一応、食べる人という意味で。)の関係が何処に行くのか、不安定になっている。当然のことで、農の会が試みようとしている関係性は、今までにないものだと思う。模索してゆくしかない仕組みだと思う。農業者的参加者14軒が、会の活動の中心に動いてきた。しかし、この1年運営は市民農的参加者に移行すべきというのが、千田代表の方針だった。担当別に、様々な仕事が割り振られ、その方向が始まったところだった。

農の会の主体は市民農の人達。このように方向付けられた時、農の会の農業者は会にとってどんな役割になるのか。これが見えなくなったように思う。農の会から離れて、夫々に独立してゆく、それまでの間、農の会に世話になる。ということになるのだろうか。どうも姿が見えなかった。これでは3者がよい形で協力し合うことで、地域の農業の成立を図ろうとしてきた、農の会の根幹の主旨が崩れてしまうことになる。

背景には、農業者が農家として自立することが、大変なことだという事がある。それに協力、援助してゆきたい、ということが農の会の基本理念であるにもかかわらず、農業者の農業に専念したいという思いの、足を引っ張っているのが、会の運営ではないか。こんな考えがあるのだろう。ただただ、農業だけをして居たい。この気持ちは農の会に来た誰にもあるだろう。

「自分の農業だけをしていたい。」この思いの内実を問わなければならないだろう。「地場・旬・自給」は社会的な運動の精神だ。地域全体の循環を起こしたい。自然に即した農業をしたい。自らの自給に始まり、地域の、日本の自給を実現したい。こうした社会の中での自らの位置の確認を除いて、各々の農業は成立しえないと考えている。一人だけの自給でいいのであれば、山北の山の中に籠っていた。農の会を立ち上げる事など考えなかった。立ち上がり困難だから、農の会に世話になる。一定安定したら、会の運営がわずらわしいから、関わりたくない。これは世の常だが、この利己心を乗り越えなければ、地域社会の再生は無いと思う。

農業を行うということは、社会的な経済活動だ。農地一つ借りるにしても、日本農業政策に大きく揺さぶられる。生産物を販売しようとすれば、社会的責任が生ずる。こうした、全体の仕組みに挑戦しているのが、農の会の行っている事だ。一人の農業をしたいという思いを保障する為には、そうなっていない社会を切り開いてゆかなければならない。そのために、先駆者として今までにない仕組みを模索しているのだと思う。

農の会が模索している道は、新しい方向となるだろう。それだけの社会的責任と誇りを持って、挑んでゆきたい。
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国連事務総長:韓国の潘基文氏

2006-10-18 07:20:32 | Peace Cafe
事務総長に韓国の潘基文氏がなった。国連の仕組みがどうも、不鮮明であるが、4回目の予備投票に参加した15カ国のうち14カ国が賛成票を投じ、唯一「意見なし」で棄権した国が日本だ、そうだ。日本外交の能力の低さを感じざる得ない。これに対し、政府のコメントが、韓国の潘基文氏が選ばれた事は隣国として良かったなど、体裁のいい事を発言している。

15カ国唯一の棄権国であれば、それなりの考えがあるのだろう。きちっと発言するべきだ。潘氏の発言骨子は以下のものである。
 
 ▼要請あれば北朝鮮指導者と会談の用意
 ▼現在空席の北朝鮮問題担当事務総長特使任命の方針
 ▼北朝鮮制裁決議を歓迎、履行を支援
 ▼北朝鮮は事態を悪化させる行動自制を
 ▼日本の指導者は靖国神社参拝など歴史問題に正面から取り組むべきだ
 ▼幅広い総意に基づく安保理改革の追求
潘長官は今後1カ月にわたり大韓民国の外交部長官と次期国連事務総長という二つの身分を持つことになる。
時として方針や利害が相反する可能性がある。長官としての任務を遂行しようとして国連事務総長の中立性を害する可能性もあれば、国連事務総長としての滑り出しに最善を尽くすため、大韓民国外交部長官としての機能を果たせなくなる可能性もある。

このように韓国の報道は書いている。

隣国日本が、韓国の動向に対し、これほど情報の分析が遅れ、対応を失敗するのは何故なのだろう。日本が国連の安保理常任理事国入りを目指していることと、関係しているのでは無いだろうか。もちろん推測だが、4回目の投票で14カ国が賛成すると読んでいなかった事は確かだ。韓国のように分裂国家から、事務総長が選ばれる可能性を低く見ていた。そこで日本として、恩を売る形、常任理事国入りへの支持を交換に出そうとしたのではないか。

日本の国際貢献をどのようにしていくか、世界での日本の在り方を考えるべき時では無いだろうか。国連外交と一概に肯定的に捉えるが、常任理事国入りにこだわりが見られるように、強国日本路線は、戦後戦前問わずだ。軍事力による、大国から、経済力による、大国へ変わっただけだ。国家の価値は大小ではない、その国に暮す人々の、穏かで、平安な暮らしの質だろう。自殺者3万人の格差社会では、経済の豊かさなど意味をなさないことだ。

経済力で国家の価値を較べる愚かさが、国民全体に拝金主義を作り出している。幸せの尺度を、経済から、暮らしの質に変えること。柳田國男氏が椎葉村で、貧しいけれど、豊かな暮らしをしている人々を知り、その背景にある、文化の重要性を民俗学という学問で、探ろうとした。再度この大切さを認識し、文化の質で、例えば平和憲法で、世界に貢献してゆくことが、日本の役割だと思う。

潘基文氏に投票しなかった隣国日本を、韓国の国民がどのように感じ、悲しく思っているか。こうした日本外交の根に、靖国問題の棘が存在する。安倍氏の曖昧さは知恵ではなく、不愉快さを隣国に生み出していることを、心に留めておかなくてはならない。
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「想像」 発行所の羽生槙子氏

2006-10-17 06:21:27 | 
定期購読している雑誌が、送られてきた時のうれしさ。封を開けるときのもどかしさ。「想像」が先日来た。その前には、江ノ島電鉄「鎌倉高校前の海」を送っていただいた。羽生槙子さんという詩人からだ。想像発行所は今は鎌倉の方に移った。その経緯なども、想像の中で触れられていて、それなりには理解したが、今度の詩集がその成果だ。そんな風に言っていいのかどうか分からないが、今度の詩集は鎌倉に暮している人の詩だ。

羽生さんのことは、NO2の測定活動の中で知った。以前、東海大学の佐々木先生の指導で、山北の測定を担当していた。神奈川県全域を同日に測定をしてゆくことで、全体の大気の状態をつかもうという事だった。

山北と言っても広いので、各地域の方にお願いして、取り付けていただき、配布や回収を担っていた。興味としては、箒杉の辺りはどのくらいか。犬越路にある県の測定を確認するという事もあった。所が、このことをきっかけに、地域の人で環境に感心のある人が、たくさん居るということを知った。その方達との交流のなかで、第2東名高速の問題。産業廃棄物の処理施設の問題。エコループの問題と、かかわりを持つことになった。

地域の人達の在り様と、他所から来た者のありようは違うし、そこは上手く分担する気持ちで、問題に取り組んできた。NO2の測定活動はそのきっかけになった。
川崎の方の喘息に発する、裁判の支援という事が、この活動のスタートにあった。同日に測定すると、何と山北の246号沿いは、特に向原の信号辺りは県内1,2を争うほど、大気の汚染がひどかった。

そこで、24時間通して正確に測ろうとか、高度を変えて測ってみようとか、正確な測定器を持ち込み色々試みた。佐々木先生も我が家に泊まりこみ、指導してくれた。そのとき、何年間も毎日測定を続けている人が居ることを教えれた。その方が羽生槙子氏だった。それを冊子にしているというので、お願いした。そこから、想像出版所のことを知った。

取り寄せた「想像」には瀬戸内の島に住む老夫婦の話が連載されていた。この連載に魅了された。90を越えた老夫婦が二人で暮している。その病院通いや、都会に暮す息子さん達とのかかわりが、瀬戸内の島の空気そのままに、淡々と綴られている。生きることがこれほど、しっかりと伝わる文章に出会ったことがなかった。

それは、いつも掲載されている、羽生家の自家菜園の日常もそうだった。日々の野菜や虫のことなどが、正確に、詩人の目で綴られている。しかし、その平和な暮らしの背景に、平和運動に取り組まれてきた歴史がある。その芸術と生活の姿に学ぶところが多かった。イラク自衛隊派兵のとき、強い憤りがあるが、詩の中でそれを直接語ることは出来ない。語ることの出来ない、悔しさの強さがひしひしと伝わってきた。芸術の無力。私の詩は野菜のことであり、虫の事だ。そのことが、歯軋りのように書かれていた。

人から人に伝わるという事は、そういうことだと知った。声高に叫ぶことより、思いの深さが、小さな一言に込められるという事がある。芸術はそういうものだと思う。それがいかにも歯がゆいが、それだけに伝わったことの真実がある。今度の詩集の中に、眠った赤ん坊に、「海だ」と教える若い女性がえがかれている。

その思いのあふれ方に、生きている生の声が聞こえる。そうした一瞬の切り取りに込められる物が、平和な暮らしであり、平和運動だと私は思っている。こういうときっと、それは甘いという人が居るのは知っているが。
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