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地場・旬・自給

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国防軍と集団的自衛権

2012-11-30 04:51:21 | Peace Cafe
政治は混乱の極に到った。三党合意の怪。そして、ついに近いうち解散。3党合意した自民党の野田総理の問責決議。特別のことのない谷垣さんの総裁選不出馬。しかも幹事長の石原氏の出馬。改憲論者安倍氏の再登場。加えて維新の会という未確認物体の人気。そして、石原新党の合同合併で、維新八策の安易な放棄。消費税法案を手柄とする民主党政権。TPPは議論自体が無いにもかかわらず推進を決めたようだ。何としても大震災の復興では6兆円もの未消化。西の方の離島で起きている領土問題は、すべて日本政治の混乱に付け込まれたと言ってもいい。各政党が、わが党の選挙戦有利だけを目指して動いている。時節をわきまえない、石原氏の選挙パフォーマンスが中国での反日デモに火をつける結果に成った。上陸した地方議員。石原氏の出る幕はこれからもあるのだろうか。それにしても、日本のエネルギー政策はどうなったのか。

自民党は国防軍、憲法改定である。大胆な選挙公約である。できることを公約にしたと言うから、国防軍が出来ると本気で考えているらしい。憲法を変えて国防軍にする。ここまで軍国化を明確に打ち出したことは、戦後初めてのことに成る。憲法改定論の維新の会との連携を考えているのだろう。民主党の一部もこれに合同することは間違いが無い。公明党は強いものにくっつく政党だから、反対はしないだろう。当然、集団自衛権の拡大解釈も行う事に成る。アメリカが参戦する戦争には、国防軍が行く事に成ると考えなくてはならない。そんな国に日本が成ることを、普通の日本人が望んでいるのだろうか。普通の国とはそんな国のことか。日本の次世代の子供が戦争に行って、人を撃ち殺す事を望まない。ずるいと言われようと恐れない。人殺しを正義と考える人間は少数派だ。やむえず、内戦に突入している国は多数存在している。隣国との摩擦が戦争にエスカレートする事例も多い。しかし、日本のように、かろうじて平和を保っている国が、わざわざ戦争に進むなど馬鹿げているだろう。

今回の選挙では、日本の政治のだらしなさへの怒りが煮えたぎっている。多分、民主党は無くなるだろう。50名くらいになった民主党は自民党に吸収されるだろう。それくらい現政府に対して怒りが沸騰している。ダメな政府への怒りであるから、強いものに引かれるという心理が働く。勇ましい力瘤が人を引き付けかねない。軍国主義が芽生えるのは、世界史的にこういう状況である。しかし、そうして煮え切らない問題の解決できるどころか、他国との戦争にまで国民を引きづり込んで来た。今の日本の隣国との経済的、社会的関係を甘く見てはならない。競争心を掻き立てることは極めて危険である。互いをどう認め合うかに向かわなくてはならない。そう言う考えはとかく、弱腰とか言われて魅力がでにくい。その為に選挙ではついつい勇ましい発言が飛びかうことに成る。

そして、今回の選挙の争点は、原発の継続か、再生可能エネルギーかである。各党この点をカモフラージュしている。自民党ですら、一見反原発にも見えるような、玉虫色公約を掲げている。維新の会は既に、この点で譲った。こうした政党は政権を取れば、間違いなく原発推進に変わる。原発を推進しようという勢力は、ベトナムに原発輸出をするために、復興予算を使うような人たちだ。死の商人のようなものだ。火事場泥棒のような最悪の人たちだ。日本がどの方向を目指せばいいのか。それを決める戦後最も重要な総選挙である。貧乏でも人に迷惑をかけない国でありたいと思う。これほど地震や災害の多発する国で、原子力発電はできないと普通に考える国でありたい。金権主義を恥ずかしいと考える国でありたい。それは、「地場・旬・自給」の国である。戦争に行かないでも、経済競争に不利にはならない。日本が災害救助隊を作り、世界の災害の手助けに向かう事だ。
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奥和留沢見晴らし道

2012-11-29 04:23:15 | 里地里山
「美しい久野の里地里山協議会」では、和留沢から箱根に上る登山道の整備している。昔は久野から明星岳への登山道があり、学校林もあったという。しっかりした登山道があったらしい。ところが、学校林も無くなり、山へ入る人もいついの間にか減って、山の道は消えてしまった。植林のスギ林がほとんどに成り、その管理道が登山とは関係なくつけられている。一般の人が登山する事は出来なくなった。この昔の登山道を復活させようと言う意見が、里地里山協議会の中から出た。私は後々の管理が、一部の忙しい農業者の負担に成るようなことは避けるべきだという意見だったが。取り組むことになった以上出来るだけのことはすることにした。道は付けられた直後は案外登山者が通るようになったのだが、最近は登山者もだいぶ減ってしまった気がする。入り口の舟原というに住んでいるので、何となく登山に行く人と出会う事が減った気がするのだ。通る人が減ると、せっかく作った登山道も又自然に戻ってしまう。

草刈りも行うのだが、作業日が他の活動と重なってしまった。今年は参加できなかった。年に2回ツツジを山に戻す活動も行う。登山道の周辺にツツジを植えている。畑でツツジを養成して戻している。今回が5回目でほぼ和留沢の登山道入り口から、明星、明神の尾根道までつながった。来年のツツジの咲くころはちょっとした見ものである。咲いているつつじをたどれば、明星岳への登山が出来る。そこから、箱根の方に降りるのも良いし、明神岳から、金時山へと箱根外輪山を巡ることもできる。つまりそれは、昔の修行の場でもある。大雄山最乗寺は天狗のお寺である。和留沢にあったと言われる、総生寺も同様に、修験道と関連の深いお寺と思われる。箱根神社の来歴によると、「当社は、人皇第五代孝昭天皇の御代(2400有余年前)聖占上人が箱根山の駒ケ岳より、同主峰の神山を神体山としてお祀りされて以来、関東における山岳信仰の一大霊場となりました。
 奈良朝の初期、天平宝字元年(757)万巻上人は、箱根大神様の御神託により現在の地に里宮を建て、箱根三所権現と称え奉り、仏教とりわけ修験道と習合しました。」
とある。

登山の楽しさは、自然の懐に分け入る事にある。自然の中に立ち、自分というものに向かい合うことが感じられる。山を登るという肉体的な苦しさが、いつの間にか自分の存在に向かい合っている自分に気付くことがある。これが修業というものの入り口なのかと思う。どこかに観光に行くことを、俗世間の煩わしさを抜けて、と表現する事がある。まさに登山には、世間と隔絶した場所を提供してくれる所がある。山に登るという肉体的苦しさを2,3時間継続することで、心が洗われてゆく感じである。何故か、苦しさを継続することで違う領域に達することがある。ランナーズハイというものと似ている。高校生のころには長距離走をやっていた。登山にも良く出掛けた。似たような感じだった。座禅もやったわけだが、これが一番分かりにくかった。

箱根の明星岳への登山道を作る事に成るとは思いもよらなかった。先日のツツジの植林事業には、初めて参加される人が沢山おられた。そして、こんな活動に参加したかったんだと言われていた。今回家族で参加できて本当に楽しかったと言われた人もていた。来年の春には、ツツジが咲いている頃に行ってみたい。まだ一部抜けている場所がある。余りに暗くて枯れてしまった所や、下刈りと一緒に無くなってしまった所もある。ツツジを補植しながら、みんなで登山すると言うのも良いと思う。また、登山を終わってから、峯自然園でバーべキュウ―をするこれもまた楽しい。アルコール抜きという事で、ノンアルコールビールを飲むのだが、今年はこっそり、ビールを持ちこんで飲んだ。帰り歩いて帰れば大丈夫である。
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反原発未来党と露木順一氏

2012-11-28 04:55:42 | Peace Cafe
反原発未来党が出来た。願っていたことである。反原発を目指す、共産党も、社民党も、今回だけは反原発1点で結集してもらいたい。小田原選挙区では露木順一氏が脱原発未来党から出るようだ。全力で支持したい。小選挙区選挙では、それをしなければ敗北する。反原発は日本の未来の方角を決めることになる。経済だけの国ではない。金権政治を止めよう。コンクリートから人間の為の政治に。平和憲法すら、反原発とは繋がっている。核兵器廃絶である。人間の暮らしすべてが繋がっている。日本はこの先経済的に苦しく成る。経済が苦しいという事であっても、素晴らしい日本はありうるという事に、方向を転換しなくてはならない。自然エネルギーへの転換は新しい産業を生み出す可能性も高い。それは世界の次のモデルに成るはずだ。経済は競争であるが、競争だけでは、格差社会が広がって行くことに成る。グローバル企業の勝利は、人間の幸せとは程遠い結果に成るに違いない。反原発未来党に、平和の願いを託してみたい。

遺伝子組み換え作物の実験圃場を滋賀県に作るという、モンサントの計画が起こったことがある。これは日本の未来の農業にとってとんでもないことなので、止めてほしいというお願いをした。嘉田知事に意見書を出したことがある。きっぱりと嘉田知事は圃場を作らせなかった。そして、意見書に対し、嘉田知事の考えを書いたものを、お礼と共に返送してきた。あの時からとても期待できる知事だと思っていた。維新の橋下氏と一緒に成って、大飯原発の再稼働を止めてくれるかと期待したのだが、駄目だった。橋下氏の腰砕けが原因である。今の橋下氏を見ると、思想哲学が欠落していることが良く分かる。ラクビーやタレント業と政治は違う。現実に押し流され、アップアップ状態である。日本の未来が見えなくなっている。人気で議席はある程度とるだろう。しかし、そのことが日本の未来を最悪なものにしかねないという危険。今回維新八策を作った人たちは、こんなテイタラクで良いと考えているのだろうか。

反原発は政治の基本である。あの時原発を止めて良かったという時が必ず来る。今回も、選挙前に成って原発稼働の応援のつもりだろう。電力会社は電気料金の値上げをぶつけてきた。根性の腐った連中である。値上げの原因を、原発停止に結び付けようとしている。そうではない。原発を安全に稼働してこなかったためだ。核廃棄物を発電所の中に貯め込んでいたからだ。原発を納得できる安全なものとして稼働させるなら、安い電力ではない。原発を再稼働したとしても、電力は高いものに変わったのだ。大飯原発のように、安全対策も万全でないまま、核廃棄物も貯め込んだまま、稼働させれば当面安いかもしれない。しかし、東電で起きたように莫大な賠償金まで、払わなければならないことに成る。何と高い電力であろうか。そうだ、東電は出荷停止になったお茶の賠償金すら、まだ払おうともしない。賠償というのは、加害者の責任だぞ。

小沢氏が加わると言う事で、またぞろ小沢たたきをする人がいるが。根拠のないことで、思い込み差別をしてはならない。それとともに小沢氏はその手腕を、間違えないようにしてもらいたい。小沢氏は極めて優秀な人なのだと思う。発言を聞いていると理路整然としていて良く分かる。しかし、あまりに優秀で嫌われ者に成るような所もある。小沢氏こそ反原発の一事の為に、すべてを堪えこの難事を乗り越えてもらいたい。社民党を離党した阿部知子氏も合流するようだ。この人には、農民連合といったとおもうのだが、国会集会の時に農業の話をした。理解の早い、大切な所を理解され、押さえている人だと思った。日本の岐路である。最後の戦いと思って頑張らねばならない。私たちの選挙区では、ついに露木順一氏が脱原発未来党から出る。全力で支持したい。
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自衛隊の違憲

2012-11-27 04:15:22 | Peace Cafe
自民党が政権党であった頃、防衛大臣をしたことのある石破氏が、自衛隊の違憲を認めた発言をしている。憲法のどこにも書いてないということである。石破氏の場合、憲法違反であるから憲法を守って、自衛隊を廃止すると言うのではもちろん無い。憲法を変えて、正式に軍隊を持つという主張である。安倍氏も憲法改定勢力で3分の2の議員数を確保し、自衛隊を国防軍と名称変更すると主張している。何故、愚かにアジア諸国を刺激しようと言うのか。そして、世論調査では自民と維新を併せて3分の2を確保しそうな勢いである。平和憲法を何よりも大切に考える日本人の一人としては、予想外のところで危機的状況が来た気がする。今回の総選挙では、多数の政党が乱立している。争点も見えにくく成っているかに言われるが。実は明確である。原発の廃止か否かが投票選択基準である。反原発未来党がまとまりそうである。原発を継続したいとする政党は、憲法も改定したいという政党である。当然のことで、自民や維新は核保有まで考えている節がある。原発もその意味でも廃止したくないのである。

原発廃止に関しては、実は自民、維新は曖昧に書いている。こういう状況で曖昧であるということは、原発推進である。必ず、選挙が終われば原発再稼働になる。放射能が消えてゆく速度で、国民の怒りや悲しみも薄らいでゆく。人間はそう言うものだから、今回の選挙が反原発の勝負なのだ。今回明確に、反原発を示す事が出来ないようでは、日本の政治というものを諦めなくてはならない。まだ敗北した訳ではないが、この国が原発事故という、取り返しのつかない惨事を引き起こし、にもかかわらず原発を廃止できないとすれば、この国は駄目だと言う事に成る。民主主義が一応成立しているとして、多数がそう判断するなら、それも判断である。原発輸出国に成り、原発を再稼働し、できもしない再処理にお金を注ぎ込み。憲法を改正し、国防軍を作る。原子力爆弾を保持する。私はそんな日本国を望まない。

日本という国がささやかな武力を保持したからと言って、何かが変わるだろうか。尖閣や竹島が日本の領土と確定できるとも思えない。核保有する中国に対抗するような軍事力を持たなければ意味をなさない。それだけの経済的負担にも日本は耐えられないだろう。軍事予算が今の数倍なければならない。消費税など30%とかに成るだろう。年金も、健康保険も、教育も、すべてに後退させなければ、軍隊は持てない。平和主義を主張して行くことの方が、安全かつ実効がある可能性も無い訳ではない。戦後の経済発展が軍隊を持たずに、来たからこそできたことを考えなければならない。明治政府の帝国主義が、いかに国民を疲弊に追い込んだか、そして太平洋戦争に到り、原爆を落とされ敗北したことを思い起こさなければならない。今度の選挙はその岐路の選挙である。次に起こることを理解した上で選択しなければならない。原発を廃止するということは、平和主義で行くと言う事だ。平和主義など役に立たないと考えるものが多数になれば、自民と維新が勝利するだろう。

この事の重大な意味を、日本人が本当に理解したうえで判断しようとしているのだろうか。日本という国が世界平和の希望であった。軍隊を持つという事は日本が普通のだめな国に成ると言う事だ。世界中が自国の利益の為に暴力で、しのぎ合っている。こういう事を抜けだそうという希望が日本国憲法である。日本の戦後の努力は、理想主義に希望を託したものだった。その日本の希望を世界中があたたく見守ってくれたから、戦後の日本の復興、そして経済発展はあった。日本の能力だけでないことを知らなくてはならない。今も世界中に軍隊を持たないで、平和の世界作りたいという理想の思いは存在する。もちろん現実に押し切られ、ほぼ風前のともしびである。危うい状況であるが、日本が苦しいなかでも耐え忍んで、平和主義で行くことを理解してくれる人たちは世界中に居ると信じられる。
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食糧自給と耕作放棄地

2012-11-26 04:42:46 | 自給
耕作放棄地は、相変わらず増加している。全国で40万ヘクタールと言われている。これを私の自給農業で換算してみれば、1000万人が暮らせる面積である。これは耕作すればまだ、農地に戻るものを表している。既に原野に戻ってしまったものは、農地ではないので耕作放棄地とも言われなくなっている。多分、その面積もさらに同じくらいはあるだろう。あしがら地域で考えて見ると、戦後のすぐの時代は、見渡す限りの里山が畑だった。麦や大根や陸稲なども作っていたと言う。本当に食べるものが無くなれば、あらゆる場所で食糧を作ることに成る。なにしろ東京に暮らしていた、父の家族は相模原の現在米軍基地に接収された場所で、開墾をし、食糧を作ったそうだ。家で作った糞尿の肥料をリュックに入れて担いで、小田急線で通ったという。

小田原の状況で言えば、後5年で小田原の農業と言えるような形態は失われるかもしれないと、役所の農業関係の方が言われていた。特別な人が、特別な農業をしてはいるだろうが、昔のような地域の暮らしが、農業と関係して存在するということは考えにくい。つまり、今の農業者は団塊の世代を中心とし、定年退職者を加えてかろうじて現状維持という状態であろう。ご先祖からの農地を大切にしたいという思いがまだ、存在する。しかし、この世代が70歳を越えれば、農業を行う人は様変わりするだろう。農地の財産価値がはっきりと下がれば、継続の意思も弱く成るだろう。もちろん誰も居なくなるのでなく、全く新しい形で、過去の財産管理的な農業とは隔絶した形で、農業を起業するのだと思う。現在農業を継続されている人は、特別な人である。新規就農する人が居なくなるなか、継続しているのだから、独特の強い生き方を持った人たちである。農協の運営委員会に2年間出ていて、そう言う事を感じた。

次の時代の農業について、業としては意見は無いが、営業という事とは違う農地の利用の形態は増えると確信している。工業団地にしたくとも、住宅開発を待っても、もうそういう時代は来ない。人口減少時代に入っている。今あるもので十二分である。農地を使用目的を変えて利用するということは、あり得ない時代である。多くの農地は自然に戻って行くだろう。そう言う事が、さらに害獣を増やすことにもなり、そこには、外来の獣もいたりして、今までのやり方では農業はさらに困難になるに違いない。その上に、農業外の暮らしをする人たちが、農地の周辺で暮らしている。農振地域であっても、農薬はもちろん堆肥を作る臭いが、問題になる時代に入る。そうしたことを上手く折り合えるような農業以外、わざわざやろうと言う人はいなくなる時代。煩わしい思いまでして、やるほどのことは無いという時代は始まっていると思う。

耕作放棄地が、自然に帰って行くことも一つの選択である。それより、今農業に関心を持つ人には、実にすばらしい時代が来ているという事が言える。農地は幾らでも広げられる。買っても安い。借り放題である。企業的に参入する人にも扉は開いている。しかし、そううまく行ったという話は聞かない。それは従来の発想を拡大展開したような農業では、日本では無理だと言う事に成る。日本の農業は補助金が莫大に入っている。補助金をもらう人と対抗して農産物を作るのは無理である。自分も補助金をもらうか。営業をしないかである。補助金をもらうということは、従前の発想の中の仕事となる。既得権益との戦いが待っている。こうして新規参入者は成功しないように出来ている。素晴らしい条件を前にしながら、見えない大きな壁が建ちはだかっている。発想の転換が必要なのだろう。私のように過去を引きずった考え方では、次の農業は見えてこないのだろう。

昨日の自給作業:畑の周辺の草刈り1時間 累計時間:20時間
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「ごんべい」小麦の播種

2012-11-25 04:10:40 | 自給
11月18日(27日に発芽)ごんべい」という手動式の播種機を使った。小麦の会としては、3年目の活動で三回目の作業に成る。ごんべいにはいろいろタイプがあり、「HS-120EH(LH) 1条播種機」を使っている。一年目は仲間の持っていたものをお借りしてやってみた。一応使えそうなので2年目から購入した。しかし、どうも種が多く蒔かれてしまう欠点がある。ベルトで調整できるようではあるが、反当たり11~12キロというベルトを使っているのに、16キロ位必要になる。色々調整してみたが、機種としては仕方が無い様である。もう一つの反当たり、7~8キロのベルトを購入する方が良いのかもしれない。臨時の対応策としてもみ殻クン炭を種に混ぜて見た。播種量は確かに減る。ただし、もみ殻が軽いので振動で上の方に残って行き均等に蒔けているのかは少し不安である。最初ベルトの連結の間に小麦が挟まリ持ちあがってくると思っていたら、ベルトが逆さまにセットされていた。ブラシが付いていて、播種量を調整できるとなってはいるが、小麦では播種量の調整はブラシでは無理だ。

1回目の播種は11月18日で、前日豪雨だった。雨は止んではいたが、午前中は無理な状態。午後からの作業になった。2回目は22日でやはり前日雨で午後からの作業にした。土は少し湿っている状態であったが、機械にくっつくような土ではないので、何とかなった。畑の状態は夏の間何もしていなかった場所である。小麦が6月の収穫期にイノシシに壊滅的にやられて、収穫はほとんどなかった。その後麦藁もそのまま放置されていた。畑は草の出るままにしていた。もう一度やるかどうかも決められないまま過ぎていた。電気柵の設置をすることにして、10月に成ってハンマーモアーで草刈りした。草刈りをした後鶏糞堆肥を10月21日50袋蒔く、その週のうちにトラックタ―で耕す。草はかなり表面にある状態。そして、11月16日に成って、再度トラックタ―で耕す。草が相当土に残り、硬いままの状態。3年前はみかん畑だった場所だが、随分良い土に成ってきた。それでも土が一応覆っているくらい。それでも播種はできた。

畑が傾斜地で傾斜に沿って上り下りで蒔いている。その方が長い距離が直線で稼げるからである。バインダーでの麦刈もこの方がスムースである。ごんべいは微妙に降り方向に行く方が播種量が増える。1穴3粒~5粒入るのだが、これが1粒くらいのずれが起こる。20%の播種量が変わってくる。本来水平の畑で使う方が良いのだろう。家の畑は水平方向で使ってみたが、ずっと蒔きやすいし、播種量も安定しているようだ。これ位草や藁の残渣がのこっていると、溝掘りのディスクに詰まると言う事が時々起こる。持ち上げて越えては進む。どの程度まで許容範囲かという事だが、今回の状態は蒔けるギリギリのところという気がした。家の方の畑は残渣が無い状態なので、紐も張らずに目算で行ったが、それは楽に曲がらずあっという間に仕上がった。土も乾いて細かく成っていたという事もある。こちらもクン炭で播種量を減らすように調整した。

播種量が多くなる原因は小麦の種子の大きさも影響する。以前、アヤヒカリを作った時はとても粒が大きかった。これだと、1反当たり、10キロ位で可能だった。購入した、ユメシホウの種子は小さかった。今年のニシノカオリはその中間ぐらいの気がする。わずかな大きさの違いが、案外に播種量に影響する。それがどう栽培に影響するかまでは分からない。今年は小麦の会が7畝で、家の方が2畝ぐらいだろうか。神奈川県は反収268キロとなっているので、せめてそこまでは行きたい。7畝で200キロである。そうすると、毎月1キロの小麦粉が食べれることに成る。
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避難してきたフクの様子

2012-11-24 04:09:44 | 身辺雑記

散歩をしている「ふく」

セントバーナードの「ふく」は幸せの福である。福島の南相馬市から、避難犬としてやってきた。一時避難のつもりが、もう1年半に成る。ふくには悲しい辛いこともあったのだが、今は元気にやっている。とても賢い犬である。順応性が高い性格のようだ。いまでは子供の頃から私の家で育ったような顔をしている。これがまた本当にでかい顔で体重も私よりはるかに重い。大きいなりをして、これほど甘ったれの犬というのも初めてである。甘ったれの所が可愛いのであるが、甘ったれは嫌いなので、かなり厳しくしている。力が私より強いので、わがままにしてしまったら大変なことになる。多分、来た時には1歳くらいと思われる。痩せこけていた。体重も45キロだった。あっという間に75キロまで太った。育ち盛りと言う事もあったと思う。来た当座は可哀想なくらい、気を使っていた。あちこちたらい回しに成り、気を使い過ぎて痩せてしまったのだろう。

南相馬のある犬舎から来た犬だと聞いたので、尋ねてみたことがある。南相馬市の役所にも聴いてみた。保健所にも聞いた。当時は犬のことどころでない状況のようで、取り合ってもらえなかった。育ててくれた人に、無事暮らしていることを伝えたいと思った。もう一年半も家にいるので、このままでもいいのだが、気持ちとしては今も一時預かりである。どなたか飼ってくれる人がいれば、その人に任せたいとも思っている。寒川のUKCでは、避難犬をこのままいつまでも置いておくわけにもいかなくなっている。もっと環境の整った所で、ティアハイム(動物の家)建設を目指している。これはとても困難な事業に成ると思われるが、代表の細さんは本気で取り組んでいる。初めて京都にお尋ねした時すでに、こうしたことに関心を持たれていた。ブリーダーの人がこういう考えを持つと大変なことに成ると、むしろ心配だった。嬉しいことだし、尊いことなのだけれど、日本では一つも実現していない大変なことだ。

福島の原発事故は、人間の暮らしかたの「方角の間違い」を示唆している。豊かさとか、利便性とか、経済性に、競争心で向かってきた事の限界である。日本人の明治維新以来の西欧に負けてなるものかの、方向の転換である。それは世界全体が、見直さなければならないことでもあるのだが、世界がこのまま進めば、悲惨な崩壊が待っているという予兆が、原発事故ではないか。日本が世界に示してゆける価値とは、循環型の社会である。自然の中に自分の暮らしを織り込んでゆく。そして、文化芸術を深め、人間存在の価値を高めて行く。日本が一度目指した、江戸時代の良い側面である。新しい価値観を提案することが、世界にとってもいかに重要であろうか。又そうすることが、未来の世代に対する犯してしまったことへの謝罪にもなる。

ふくのことであった。毎朝散歩をする。他所の犬と顔を合わせても、人と会っても愛想が良い。この点はまことに助かる。それでも図体が大きいから、大抵の犬は尻ごみする。そうすると伏せをしてにじり寄る。小さなシーズーが近所にいるのだが、この犬が強気の臆病なのだが、それでも何とか仲良くしようと、大変な努力である。何にでも興味しんしんである。顔がパンダのようで、可愛らしい。笑った獅子舞の頭のようでもある。食事の食べる量は案外に少なく、雷田と同じくらいである。毎日卵4個とドックフードを茶わん2杯くらいである。それでも食べ残す日もある。癖なのか、毎食5,6粒のドックフードを残す。おっとりしていて、がっついていない。おからの乳酸発酵は大好きで、上の鶏小屋に散歩に行ったときには、楽しみにしていて食べる。毛が良く抜ける。だからブラシはよくする。なでられるのは好きなのだが、ブラシはそれほど好きでもないようだ。もし、飼い主さんがどこかにおられたら、元気にしているので心配されないように。
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中国の多様性

2012-11-23 04:02:57 | Peace Cafe
中国は経済成長が鈍化してきたという事が言われる。GDPの数字が7%代になったというが、中国の統計的数字は、どの程度実態を表しているのか分からない。それほど正確なものは出されているとは思えない。むしろ意図的なものかもしれないと思う。中国は広く、多様である。中央政府が全体を統括しているかに見えるが、その実態は地方ごとに様々であるにちがいない。特に地方幹部の腹の内は、複雑に違いない。常に権力闘争の中にいると考えられる。経済発展と言う手柄を立てて、中央政府における権力を登ろうと考えている。そして、一般人民はある意味白けながら、ある意味利用しながら、日本人とは比較にならない位に、多様にしたたかに生きている。深く打算的であり、深く哲学的であり、そしてまた、その日暮し的な不可思議な場当たり的な生き方。この先日本人がいかに単純で無垢であるかを思い知るのではないだろうか。

地方都市の園芸市場に行ったことがある。日本の比ではない規模。複雑で多様で、幅広く、一人ひとりが、流行に流されない感じがある。伝統的なものを維持しながら、自分の感性を維持している。禁止され居なくなっていたはずの金魚や小鳥も忽ちの復活である。園芸趣味にも、奥深い伝統文化が横たわっていることを感じた。生き餌の多様さに驚く。父は7年間兵隊として戦中の中国で暮らした。民俗学を学んでいたので、その学徒の目で中国人と言うものを見て見ようと思ったそうだ。そう言う兵隊は少なかったらしいが、中国語はすぐ覚えた。長沙市の学者の話を良くした。3人の子供を3つの政府に帰属させた人の話がある。国民党政府、毛沢東革命軍、そして日本軍。現在日本の報道では、愛国と反日が中国全土を覆っているように言われるが、日本人的感覚では誤解をする。チベットを擁護する中国人もいれば、ソビエトを評価する人もいる。単純ではなく先の先を読むのが、中国の人である。

尖閣問題も意図的に強調されている。今これに乗ることが中国の利益であると考えているに過ぎない。もっと有利な発想が出来れば、領土などすぐに放棄する。中ソ国境はあっけなく解決した。むしろ何故、現在の状況で日本との対立を強調しているかである。日本をアメリカに対して秤にかけているのではないか。アメリカが本気で日本との同盟を考えているのか。距離を計っているかに見える。中国は中華思想である。アメリカを超えたいのである。それこそ一番でなければならない思想。そして、この中国共産党政権の政策はまるで、皇帝のような考え方である。日本も朝貢するなら認めてやろうという政権の思想。中国の人たちはそれほど一辺倒ではない。中国がこの高度成長の中で、失いつつある伝統的な文化をどうして維持すれば良いか真剣に考えている人も多い。その意味で日本を失敗事例として良く良く研究している。しかもその失敗の中で、生き延びようとしている技術や、生き方を十分に評価している。そうした人たちは、経済優先の現政権の考え方の限界を見て、いつか自分達が養っているものが生かされる時が来ると、しぶとく考えている。

今中国政府が、反日的な行動に出ているのは、もう日本の経済進出が要らなくなったからである。日本企業の利用期間が終わったのだ。全体としては日本に対して企業進出をお願いしていた経済状況に、終りの時が来た。中国は日本に学んだ、そしてその問題点を十分認識したから、日本と距離を取ろうとしている。日本の成功方式を、規模を数倍にして実行しようとしている。しかし、日本のずるずるした危うさを、日本以上に感じているのだろう。日本企業は中国を市場であり、安い労働力のある地域と考えてきた。中国は外国の食い物にはされたくないと考えている。市場であると言う事を武器に、世界一の経済大国に本気で成ろうとしている。その可能性もある。また崩壊する可能性も高い。危うい綱渡りの中にいる。日本は中国を崩壊させてはならない。2国間のきちっとした経済協定を結ぶことである。東アジア経済共同体をもう一度考えるべきだ。

昨日の自給作業:小麦の播種2時間 累計時間:19時間
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養鶏の道具

2012-11-22 04:48:39 | 自然養鶏
養鶏は家の上の方で細々続けている。100羽はすでに切っているので、役所の決まりでは養鶏業ではすでにない。ここまで減らすことは、地域の方とも約束したことである。鶏も年寄りばかりになった。卵の産卵もかなり悪く、30個を切っている。まあ、仕方がないところだ。さらに減らしてゆくつもりだ。この秋、たぶん狸と思われるものに、3回侵入され、5羽ほどやられた。一時はがっくりきて、もうここまでかとも思ったが、何とか金網を補修したり、トタンを回したりして、なんとか防いだ。この規模で電気柵は管理上無理。また、小屋がある場所が電気柵が設置が難しい。周りには、イノシシが掘り起こした穴が、やたらあいている。イノシシは鶏は食べないので良いのだが。鶏小屋周辺のみみずを掘り返しているのだろう。床描く最近の獣害は半端ではない。蒔いた緑餌までぐちゃぐちゃにされた。

良いことと言えば鶏糞の状態が良い。1羽あたりの草の量も100グラム以上と充分に与えられる。一羽の暮らす面積も広がったし、遊び場も十分にある。歳をとったとはいえ、鶏はかなり元気である。病気らしいものは全くないし、下痢もしない。何故病気をしないのか。それは病気と折り合いがすでについているからである。つまり、ゴキブリがどんなに不衛生所に、つまり病原菌の巣のような所で暮らしていても、ウイルス病に感染したとかは聞かない。不衛生な場所が好きな生き物は案外に多い。その原因はそれに相応しい、免疫能力を持っているからである。昆虫と言うものには実に不思議な仕組みが存在する。昆虫だけでない。鶏も物が腐って行く過程のようなものを餌にしている生き物である。それに適応した免疫力を確立しなければ、100万年の生存競争には生き残れなかった。不衛生というような人間の感覚が違う。腐っていればおいしそうと感ずるのだ。人間から思えばはるかに優れた機能を備えている。

鶏を飼い方は、鶏の自然の状態を思い起こす事だ。大規模養鶏が何百万羽一か所に飼おうというような、あり得ないことを想定するために、自然とは隔絶した飼育法が必要になっている。そしてそれを安全で衛生的なものと考え違いをしている。その御蔭で一個15円の特売に卵が出て来る有難さと、おめでたさ。いつか自然からしっぺ返しを受ける。大規模畜産はすでに、人間にも感染する、新しい手に負えないウイルスを生み出し、人間を襲い始めている。こういう事を止めておいた方が良いのは、多くの人が気付き始めている。しかし、金儲けの方を重要と考える人が競争に勝つので、今のところは、ますます悪い方に進んでいる。この競争は終わりが無いもので、法律を変えてまで自然養鶏を締め出し、もっと自然の摂理から離れた方法へと進んでゆく。経営という要素が悪い選択をさせてゆく。

道具のことだった。シャベルはあちこちに置いてある。気付いた時に地面に手を加えられるためだ。餌の好気発酵は以前のようにモルタルミキサーで行っている。上には麻袋を何重にも掛けている。100羽程度の規模ならこの方式で十分である。嫌気発酵はバンド付きのドラム缶で相変わらずやっている。鉄板のものだが、20年使ってもまだ使える。温度計、湿度計、時計、曜日、等が出る一体型のものを、発酵機の前に備えた。1、780円のシチズン製である。ぬらすと壊れるので、4代目くらいに成るだろうか。それでも今日の湿度、気温は毎日見る。発酵の調子はどこか連動している「。麻袋」大きくしっかりした、「土のう袋」。発酵床を入れる「米袋」。3種類の袋は常備品である。もみ殻、米ぬか、蕎麦がら、もみ殻クン炭。稲藁。これも常備している。アルミのハウスカ―と車の付いた緑のかご。も使っている。
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人生の楽園

2012-11-21 04:31:22 | 自給
時々『人生の楽園』というテレビ番組を見ることがある。先日お借りした、DVDを見ようとして2ヶ月も見ることが出来ないでいる暮らしなので、この番組も年に1,2回偶然見ると言うに過ぎないが。案内人というか、ナレーターが以前は、西田敏行さんとランチャンで、今は菊地桃子さんである。つまり、今はテレビではあまり見かけない二人のアイドル時代を覚えている年代がターゲットなのだと思う。定年退職世代、団塊の世代の人生の楽園のイメージがいろいろに出て来る。田舎暮らしを楽園と呼ぶのは、普通のことだが実際はどうなだろう。女性好みに成りがちな所を、上手く中高年男性を番組に取り込んでいる。それは生計を立てる楽園という視点を忘れないという事らしい。新しく田舎に入り、小商いをしている人が多い。農家になった人でも専業農家というより、工夫をして直売方式をしている人。いずれにしても、田舎で周囲の方々と良い交流をして、のんびり楽しく生計を立てながら、第2の人生をやっている姿が取り上げられる。

人間には青い鳥、移住願望がたぶんある。私には常にある。何しろ13年山北に続けて暮らしたことが、一番長い定住な位である。どこかに行けば解決するということは、何一つないのだが。それでも場所を変えることが出来ればと言う思いが湧いて来るのは不思議だ。随分場所を変えて見たが、結局問題が変わるだけである。幸せが今の場所にある事に気づくと言うより、不幸はどこに行っても付いて来ると言う方が、近い気がする。逃げる生き方を止めろという意味では、幸せの在り処より、不幸の普遍性に気づく方が早い。完全な不幸も、完全な幸福も無い。楽園というのは、不幸も含めて生きることを深く味わえる場所という事に成る。万物が成長するのを眺めて暮らせる場所が、私の楽園である。種を蒔き、成長するのを見る。病気になったり、枯れてしまうものもある。様々な予測をしながら、その結果の違いを推測しながら、観察する。

結果には必ず原因がある。それがものが生まれて、成長する姿である。そんなことは、まるで当たり前のことだし、何万年も繰り返されてきたことにすぎないのだが。私という生命も生まれて、成長し、死ぬ。これはまた唯一のものである。せめて、自然の在り方に沿う生き方をしていたい。結局そう言うことである。人間も生まれ、そして成長し、老人と成り死ぬ。そのことを十二分に見て、生きて、死にたい。そう言う事が出来る場所が、人生の楽園という場所なのではないか。生まれると言う事が不幸でないように、死ぬと言う事も不幸という訳ではない。生きると言う事をじかに、深く味あう事の出来る場所というものがある。それは人により異なるのだろうが、多くの人にとって、自然というものとともにあると言う事が大切なのではないか。自己確認できる場所で暮らせるという事が、幸せなのではないだろうか。

その点農業というものほど、人間らしい命を育む暮らしは無いだろうと思う。日本人としては田んぼの日々は暮らしの基本である。田んぼをやるということは、楽園を耕すという事に成る。地場・旬・自給に生きると言う事が、楽園に生きると言う事と言っても良い。それは花が咲き乱れるような、明るいばかりの楽園ではないが、辛いことや、がっかりすることも含めて楽園である。今日一日を充実させるものがあると言う事の有難さは尽きない。しかし、のんびりとはかけ離れている。やるべきことを残しながらの毎日である。今日は何をやるかなという感じはない。スケジュールでまだ残っていることをどうこなすかに成っている。つい忙しいと思ってしまうが、好きなことだけやっているし、すべてが今止めても良いことなのだから、忙しいという訳ではない。随分大変な楽園である。
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民主党農業政策の総括

2012-11-20 04:09:11 | Peace Cafe
民主党の農業政策を総括してみたい。政権が誕生して3年以上の年月がたった。多くが実現できなかったマニュフェストだが、農業分野ではどうだったのか。基本は戸別所得補償制度の導入で、実現した。 本格実施2年目の今年度の加入件数は、115万7500件。前年度と比べ7300件増えた。10年の農業所得は前年比9.4%増の2兆8395億円で、03年以来7年ぶりに増えた。うち6000億円が所得補償とかんがえていいのだろう。 農家所得が補助金で増えたことは、確かだ。農家総数は250万戸あるのだから、自給的農家数と一般に呼ばれる、補助金をもらわない農家の方が多いいという事に成る。戸別補償をする結果、20年度までの目標値として「食料自給率50%」になるとした。しかし10年度の自給率は1ポイント低下し39%。09年度から2年連続の低下となった。11年度も39%。民主党の政策は、失敗である。お金を出したにもかかわらず、自給率は上がらなかったのだ。

一方、考え方として主張されたのが農山漁村の6次産業化だ。手法や考え方の隔たりが浮き彫りになり、実質的な効果が上がらないまま、道半ばで民主党政権が終わろうとしている。農業就業人口は260万6千人で、5年前に比べて74万7千人(22.3%)減少した。また、平均年齢は、66歳となった。年齢をみると既に産業として成立しているとは思えない、危機的状況がこの3年間でさらに進んだと言える。農業の再生は手が打たれないまま、戸別補償という補助金だけがばらまかれ延命策が計られている。農業を戸別補償という補助金で支えるやり方が、前向きな展望という効果を上げないということを認めなければならない。半分以上の戸別補償をまらわない農家、私もそうであるが、むしろそうした農家はより追い詰められるという事に成る。競争相手が、補助金で生産して、同じ土俵で販売をしなくてはならない。こうして農家数は減少して行く。

この事が農家の規模拡大につながるのであれば、一定の成果ともいえるのだが、「大規模農家、集落営農、企業的農家、農業法人」を中心にした農業への転換はこの3年3カ月で進んでいるのだろうか。耕作面積は減少している。自給率拡大には、大豆や麦の生産の増加が必要である。大規模農業が麦や大豆を取り組んでいるのかと言えば、これも殆ど進んでいない状況である。補助金は様々な形で、注ぎ込まれているが、国際競争力という観点から言えば、ますます失われているのが、現状である。本来北海道などで、大規模農業が推進されるという農水省の予測が、実際には進むことはなかった。5年前に比べ、麦も大豆も作付面積までもが減少している。民主党の農業政策は、人気取り政策であり、農家票欲しさのばらまき補助金政策にすぎなかったと、言い切るべきではないだろうか。では野党自民党から希望のある農業政策がこの間提案されたかと言えば、それも見当たらない。

その原因は農地法や、農地の個人所有という限界を容認しているからである。個人の財産権にかかわることは、人気取り政治の中では出来ないことである。しかし農業を国の安全保障の基本に据えるとすれば、農地を国有化することである。最近の傾向としては、農地を所有せず、借りて耕作する方式が増加している。その方が有利だからである。貸借であれば、再生選可能価格の借地料に落ち着く。農地を財産として見てきた、歴史的な考え方が変わろうとしている。今後この傾向は強まるに違いない。農地を所有することが、安定的要因に成るより、所有者の負担を増加させるだけだと言う考え方である。農地というものが、農業生産の為の道具であると考えなければならない。東北の津波でやられた農地が、価格が低く売買が起きないという事を聞いた。政府が復興予算で買い取るべきである。そして耕作する人に貸し出せばいい。民主党の今度のマニュフェストでは、「日本の農業、食の安全は必ず守る」と書かれるらしいが、一体どうやってと疑いたくなる。

昨日の自給作業:ビニールハウスの張替2時間 累計時間:17時間
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roadsaid #2012 諸沢利彦

2012-11-19 04:22:08 | Peace Cafe
田んぼの仲間の小嶋さんが作られた映画「ネコマチッタ」の上映会の時に、今度自分が出演した映画を秦野で上映されると言われていた。丹沢未来プロジェクトが諸沢利彦監督の「roadsaid #2012 」というドキュメント作品を上映した。東北の大震災後を丁寧に歩きながら、東京から出掛けて行くミュージシャンと、地元の人たちとの接触を多く写されている。撮影をする監督が7歳のお子さんと共に出掛けて行くという姿が、印象に残った。何か強い主張があると言う訳ではなく、諸沢氏の視点で、ともかく写してこようという事のようだ。穏やかな語り口であるが、その切迫感がある。何が監督を駆り立てているのか。宮城の農業を続けるおじいさんの姿。福島の南相馬で活動する、高校生たちの姿。どう関連しているのか。意図はどういうものなのか、高校生たちがとても自由に何でも語る。強い印象である。こんな風に語る高校生をあまり見たことが無い。

福島から発信されるものが、次の時代とても重要になると言う気がしてきた。これだけの大きな試練を与えられた、若者たちが成長して行く姿。そうしたことにどれだけ寄り添えるのだろうかと思う。もし日本が立ち直れるとするなら、福島からなのかもしれないとまで感じた。人間の生きるバネの強さ。不安というものが変えて行くものと、それでも変わらないもの、そして成長につながるもの。不安というものとの向き合い方。映画を見て家に戻ると、小田原のお米の放射能測定結果が届いていた。ほぼ半減という結果である。ほっとした。山と水の事を考えると、田んぼでは減少するとばかりは言えないという不安があった。ともかく対策をしたという事もあるが、半減した。この事は100のものも5年すれば、3に成るということだ。微量な放射能が10年以上の人体への蓄積で影響するとすれば、小田原で暮らす人間への影響は、10年間の蓄積で初年度の倍にはならないという事に成る。これは多分福島においても同様の減少の変化ではないだろうか。

黒田征太郎氏が映画に少し出ていた。福島のお祭りの会場で、絵を描いて配っていた。その絵は、以前の絵と特に変わることは無いようだった。絵はそう言うものなのだろうか。ミュージシャンの歌う叫びのような歌は、被災者に寄り添う気がした。絵というものの役割というものを感じた。私は絵が描けなくなってしまっていた。無理やり描いた絵も以前とは違うものになった。誤解を恐れず書けば、私個人としては、福島の試練を受けて良かったと思っている。福島の事故が無ければ、自分の極楽トンボに気付くことは無かった。もちろん極楽トンボで良いのだし、どこまで変わって行ったとしても、極楽トンボである。それでも、自分があまりに能天気で、半分しか見えていなかったという事を思い知らされた。良かったなどと言えば、申し訳ないし、許されない言い方だと思うが、日本人がこの大惨事をそう受け止め、未来に繋いでゆくことはできないか。

自分の個人的な人生としては、今回のことで気付いたことが多いとやっと思えてきたということ。人間の無力感である。どうにもならないことをどう受け止めるかである。放射能を忘れたい。しかし忘れるわけにはいかない。今までやってきた、自給農業が根底から覆された。土壌を汚すという事がどれほど不愉快なことか、罪の深いことか。良い土壌を作り、未来に繋いでゆく。こうした自然の中に織り込まれるような生き様全体が覆された。原発は自然というもの決定的に対立をしている方法である。西欧的な機械文明の結末なのではないか。人類が越えてはならない、領域に立ち至っている。廃棄物の処理法が無い様なものは、そう言うことなのではないか。福島の若者たちにそう言う事を教えられるところがある。

昨日の自給作業:小麦の播種4時間 累計時間:15時間
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2012年大豆栽培について

2012-11-18 04:47:56 | 自給
今年も昨年に引き続き大豆の土中緑化法の栽培研究を続けた。昨年は思うような成果が出なかった。失敗の原因は肥料不足と思われたので、今年は鶏糞堆肥を思い切って入れた。これだけではないかもしれないが、今までにない良い結果になった。収量、7畝を栽培し206,1キロである。乾燥とごみを取り除くと10%減として、186キロとなる。(選別後の収穫量は何と186キロであった。)苗が不足したために、今までで、一番少ない栽培面積となった。反収265キロで過去最高を記録する。最後に到り、雨で水浸しになったところで、だいたいの株が一気に枯れて倒れてしまった。このままでは大豆がはじけてしまいそうになり、慌てての収穫に成った。抜き取り、ビニールシートに広げた。3日間の晴天で乾燥が一気に進み、脱粒段階ではかなり乾燥していた。収量的には、反収250キロを越えれば、有機農業としては、良い結果ではないかと思われる。神奈川県の一般的に反収は150キロ程度である。

6月29日  大豆を蒔く、稲葉式「土中緑化法」に取り組む2回目。トレーに蒔く。
7月2日 ここから白い種に日光を当てて、緑化に入る。
7月4日 朝種がすっかり見えなくなる程度に土を入れる。水をしっかり与えて、土が隙間に入り込むようにする。
7月9日 断根・摘心・挿し木を行う。
7月8日 田んぼの中干しに合わせて耕す。1度ではだめなので、1日空けてもう一度行う。水の流入がひどい。
7月16日 大豆苗植え付け。苗は寝かせて植え付ける。
7月18日 苗植え付け。直前にトラックタ―で耕した方がいい。土が硬く植え付けに苦労した。
7月後半に入り、白絹病が出る、その後何もしなかったが収まる。
8月4・5日6時~  朝のみ 大豆の間の草を刈る。追肥の予定であるが行わないことにする。
8月12日6時~  朝のみ 草を取る。
11月13日 午前中収穫 刈り取りのみ行う。
11月16日 2時~4時脱粒を行う。
11月17日 計ると、206,1キロあるが、泥砂、ごみが多いい。未乾燥。収量は186キロぐらいか

栽培全体で感じた事は、大豆は案外に肥料が必要だと言う事。しかし、大豆の普通の栽培では肥料を与えると、葉ぼけしてしまう。特に、稲葉式土中緑化方式では、一度断根し、根を再生させて、肥料を吸える根に変える。という考え方のようである。さし芽のようにした苗は、根は良く出るのが、深い大きい根に成ると言うより、大きくは無いが広がった根になる。たぶん、肥料をよく吸うという感じになる。その為土壌に肥料が無ければ効果が少ない。茎は確かに太く成る。太めのものは根元の2股に成る前では直径2センチある。がっしりはするが、背丈が伸びる訳ではない。葉ばかりの株にはならないという状態。連作による、白絹病の発生も昨年ほどの被害は無く、これはベットの作り方が良かったのではないかと思う。白絹病が出る所は、水がたまる所だった。あるいは、堆肥が完熟に成っていない所でも発生がみられた。低いベットを無くし、幅を広げた事が良かった。夏場の雨の無い天候も良かった。

来年は、下大井の田んぼの転作畑から、久野の元みかん畑の山の畑に移動しようかと相談している。小麦の会の圃場である。小麦の裏作が困っているという事もある。夏場作るものが無く。畑を空けておくことも見た目が悪いという事がある。山の方の畑では、今まで大豆が上手く行ったことが無い。たぶん土壌の乾き過ぎである。花が咲く頃、水を確保できるのかどうか。これも研究をしなくてはならない。山の乾き気味の傾斜のある畑で、土中緑化法がどう変化するのかも興味深い。
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水産資源の激減

2012-11-17 04:18:34 | 環境関連
うなぎの稚魚が採れなくなった。採り過ぎである。稚魚を取る漁業には問題がありそうだ。いままで環境の変化だとか、水温の変化だとか環境要因に問題を逸らそうとしてきたが、要するに採り過ぎればいなくなる。それは、マグロについてもクジラについても同様で、日本人が食べすぎていることが、水産資源の変化に大きな影響を与えている。環境変化もあるだろうが、結果的にごまかしようがない。調査捕鯨をしていることなど、いかにもごまかしである。漁業は狩猟的な段階を乗り越えるべきだ。海がいくら大きいからと言って、地球上の人類が爆発的に増加した以上、海の生き物も絶滅まで食べつくしてしまう。うなぎでもマグロでもクジラでも日本人の責任が大きい。日本は率先して、海の資源の管理に乗り出すべきだ。これは、動物愛護とか、シーシェパードがどうか、欧米の利権とか、日本の既得権とか、食文化とか、環境バランスとか、問題を逸らさない方がいい。

うなぎの稚魚が取れないと言うので、新たに世界中の他の種類のうなぎを買いあさっているのが日本人である。情けないことだ。マダガスカルのうなぎのかば焼きは、日本種と変わらないとか、輸入業者が語っていた。そこまでやるべきでない。そうやって、日本人は世界中のうなぎを食べつくしてしまう。その地域に産業を起こしているというようなことではない。食糧は地域自給して行くべきものだ。同じことを中国人がやれば、10倍の速度で海洋資源の枯渇が進む。そこまで進むと問題に気付く。今のうちに、海洋資源の管理を日本も取り組むべきだ。地中海のマグロが、日本に空輸されてくるなど、不自然すぎるだろう。畜養マグロ問題。うなぎ同様に小さいマグロを捕まえて、養殖する。これは養殖なので別扱いになる。あるいは、各国の漁獲割り当てを締結しない国に、船籍を変えて日本に輸出する。結局こうした問題は、日本人がマグロを食べすぎることにある。

クジラ問題がある。クジラが日本の食文化であると、強弁する向きもある。しかし、歴史的にも一地方のほんのわずかなことだ。日本沿岸に来たクジラを幾らか食べた地方があるという範囲だ。むしろ戦後、捕鯨オリンピックだと言って、敗戦日本の元気づけの様なものだった。日本は金メダルを取っている。というような自己宣伝映画を小学校で上映していた。マルハのマークが映った記憶がある。洗脳教育になったのではないか。日本人はクジラのすべてを利用すること。タンパク質不足の日本食の改善にどれほど役立つかという授業も行われた。そして、クジラも減少した。減少していないと言い張るが、本当にこのままでクジラの生態が維持できるとそう思っているのだろうか。調査捕鯨である。調査とは名ばかりの商業捕鯨である。当然赤字の事業だ。税金を持ち出してやるようなことだろうか。そこまでして、クジラの食文化を守らなければならないのだろうか。どうしてもやりたいなら、沿岸の江戸時代の漁獲量レベルで良い。

自然のバランスを人間が壊して来たことは明らかなことだ。自然と言うものは常に変化をしているから、人間が居なくとも、変化し、崩壊し、絶滅する生物も常にあるのだろう。しかし、人間の行いは、限度を過ぎてゆく。南極まで出向いてやらない方がいい。クジラが大型哺乳類で知性が高いから、可哀想だと言う事ではない。うなぎでも同じだ。人間の数がここまで増加してしまうと、野生動物を狩猟して食べると言う文化は、終わりにしなければならない。そしてもう少しつつましく暮らすべきだ。原発を止めて電気代が倍に成るなら、電気を半分しか使わない暮らしを考えるべきだ。マグロも、うなぎも、年一回ハレの日に食べる位のことで良い。そうしたほうが、電気のありがたみも、うなぎの美味しさも、しみじみ感じられるだろう。

昨日の自給作業:大豆の脱豆2時間 累計時間:11時間
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国会の解散総選挙

2012-11-16 05:01:55 | Peace Cafe
今回の選挙ほど、日本の未来を占う選挙は無いだろう。国会が解散したのか、政権党の民主党が解散したのか、分からないほどおかしなことに日本の政治が成っている。大きくは日本に適合しない小選挙区制のせいである。この事に向かい合わないで、定数削減などうんぬんすること自体がおかしい。2大政党制を育てているアメリカは、日本ほど政党の基本理念は変わらない。日本では、軍隊を必要だとする政党もあれば、非武装を主張する政党もある。つまり憲法に対する理念すら、定まっている訳ではない。こうした、日本の政治状況の中で、2大政党に向かおうとした小選挙区制に無理があったのだ。だから、民主党のように、政権党の議員がバラバラ零れ落ちて行くような結果になった。自民党時代のように、同じ選挙区に複数議員が存在するような状態であれば、自民党の中の多様性が、緩衝材的に状況に対応できた。

TPPを選挙テーマにしようという事を野田民主党代表は、突然言い出した。それもまあ選挙前に発言するのは悪いことではない。しかし、同じ政党に賛成派と反対派が存在する中、反対の人はどうマニュフェストを掲げて選挙をすればいいのだろう。つまり、出て行けと言っているようなものだ。こうした党内で意見の分かれることは、普通にあるだろう。これをどのように議論をまとめて行くかの努力が、見える形で十分行われているかである。選挙に有利そうなことを思いつきで、代表が述べてしまうのでは、民主的な政党とは見えない。マニュフェストと党内議論の在り方が、充分に練られていないのだろう。原発の問題を何故、民主党は選挙テーマからはずそうとしているのか。本来であれば、原発廃止と表面で言いながらも、タイミングを見て原発再開が本音だからとしか思えない。再処理工場再開など、全く筋の通らない無駄遣いである。要するに、核廃棄物の処理法がないという事を隠ぺいする方策にすぎない。

それにしても、民主党がこれで無くなるのかと思うと、誠に残念である。国民が民主党に期待したものを、完全に裏切り、政治というものへ若干期待をした、国民の芽を枯らしてしまった。脱ダム宣言はどうなったか。コンクリートから人間への転換は幾らかでも出来たのか。政治家が国の方角を定めると言うことはできないという事を示したのか。脱官僚はいまでも新党の揃った掛け声であるが、民主党のだらしなさを見ると、具体策を示されない以上信じがたいものがある。政治家に官僚を上回る見識があるとは言えないということなのだろう。石原氏は新東京銀行で失敗し、オリンピック誘致で失敗し、尖閣問題をタイミング悪く悪化させた。こういう人が果たして脱官僚の政治など実現できるのだろうか。息子が自民党で総裁に成れなかった腹いせえで、今度は橋下ぐらいの程度の事に見えてくる。

第3極の結集など全く意味がない。保守化は既に自民党で起きている。民主党の中にも政権党に成ってから、保守化してしまった議員がいる。それに加えて、第3極も太陽の党の最右翼が加われば、足を引っ張るばかりであろう。国民の期待は、橋下氏が反原発を明確に打ち出すかである。TPP推進政策と地方の政治との矛盾をどう解消できるかである。私は、地方から政策を積み上げることになれば、つまり、具体的な生活に密着した所から政策を積み上げれば、TPP推進はあり得ないと考えている。もし、維新の会が具体的な政策を練り上げるなら、そのことにぶち当たると想像している。維新の会まで明確に保守化すれば、いよいよ、生活が第一しかないことに成る。社民党は安倍氏まで離党した。脱原発は、単なるエネルギー問題ではない。日本という国の在り方を変えようと言うことである。

昨日の自給作業:小麦の播種準備1時間 累計時間:9時間
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