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比叡山延暦寺

2018-10-13 04:08:51 | 身辺雑記

 

京都で興味がある寺院は、比叡山延暦寺である。行くことができた。おおよそ1200年前に伝教大師最澄の建立した寺院である。日本の国教となった仏教の教育の場である。鎌倉時代までの日本の著名な宗教家はみなここで学んだ経験があるといえるほどだ。天台教学は当時の日本では最先端の学問でもある。浄土念仏の法然上人、親鸞聖人、良忍上人、一遍上人、真盛上人。曹洞宗の開祖道元禅師。浄土宗の開祖法然、臨済宗の開祖栄西、浄土真宗の開祖親鸞、日蓮宗の開祖日蓮と、鎌倉仏教の礎を築いた僧たちは、みな延暦寺で学んでいる。学んでそれを乗り越えようと新しい宗派を作る。否定されるために場を提供しているような姿が興味深い延暦寺。最盛期には3000もの寺院が連ねられたというから驚く。そして武力的な集団ともなり、信長には焼き討ちされる。千日回峰行の寺院として私には興味がある。

延暦寺は深山幽谷の地だと、叔父の草家人が言っていた。仏像の修復に行ったのだと思う。道元禅師は14歳で得度をして、延暦寺で仏教を学んだ。延暦寺の修行の中で様々な疑問を持ったのだと思う。千日回峰行のような修業の道と只管打坐の修業とは、どうとせいであまりに異なる。最澄も日本仏教に大きな疑問を持ち、中国に渡り、日本の仏教を根本から変えるようなことを行った。同様に道元も、大事な生きて死んでゆくという疑問をもち中国で学ぶことになる。道元は延暦寺で学んだ時代こそ重要な意味があるはずだと思っている。どのような環境で、何を学んだのか。近代宗教への変貌。只管打坐をどうして生み出されたのか。それは中国からの完全な輸入なのか。あるいは道元的な考案も含まれているのか。回峰行から只管打坐へ。延暦寺を見たから何か分かるというものでもないが。

深い山の中だけある厳しい空気を感じた。修験道的霊山である。京都に近くでありながら隔絶した場所に、修業の地を置く発想がいかにも天台宗の最澄的である。国立佛教大学校が山の中にある。京都の町はずれぐらいにあっても不思議ではないのだが、あえて山の上に作る。中国の寺院は町中にある。伝教大師最澄が中国から戻り、なぜ、比叡山を選んだのだろうか。腐っていた当時の京都の寺院から離れる必要を感じたのだろうか。最澄の行った修業は相当厳しいものであったらしい。なぜ、苦行から仏教が生まれるのか。宗教と苦行の意味。厳しい現実世界。最澄というと、どうしても空海という事になる。一緒に中国に仏教を学びに行った。二人の関係には諸説あるが、空海は京都からさらに遠い和歌山県の高野山に寺院を開くことになる。いずれにしても、修験道的修業は山の中で行われる。修業に専心するためには、山の中に入る必要がある。

比叡山は全く農業的なにおいがない。暮らしのにおいがない。生活のない修行というものありうるのだろうか。天狗は霞を食って暮らす。険しい山の中を駆け回って、人は何になろうというのだろうか。お布施を頂くという修業。衆生とともに仏道を極めようとする。一人の悟りを求めない。衆生の救済のための修業が回峰行。比叡山にはいたるところに「一隅を照らす、これすなわち国宝なり。」という言葉が掲げられていた。それぞれがそれぞれの持ち場で、光となる。光になるという事は、僧侶だけのことではなく、あらゆる人のその生き方こそが光だという意味のようだ。こういう平和主義と、僧兵を多数抱えて大名のようになったという比叡山。宗教というものは実に不思議なのものだ。

 

 


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金メダルの為に暴力指導

2018-09-10 04:11:04 | 身辺雑記

暴力指導は良くない。当たり前のことだが、暴力指導で強くなるという現実も無視できない。競争から降りれば暴力禁止は簡単なことだ。暴力が直接手を上げるという事だけでなない。何週走れというような暴力的練習法。言葉の暴力の場合もある。現実の場面では境目は極めて難しい。相撲の稽古での可愛がりというようなものは、暴力なのか、稽古なのか判別が不可能だ。昔はみんなそうだった論理は論外であるが、スポーツで強くなるためには一定の強制力が必要。一人で強くなることはできない人もいる。多くの金メダリストがサポートしてくれた人に感謝の言葉をまず述べる。社交辞令だけではない気がする。回りの手助けがなければ金メダルが取れないところまで、スポーツは先鋭化している。見ている私も日本選手が勝てばうれしい。でも私の嬉しいぐらいでは。選手は自分の道を究めたいに違いない。自分というものをやり尽くしたいのだ。その時回りからの暴力が、そう単純なことではないのだろうが手助けになることもある。

自発性の問題だとも良く言われる。暴力指導で引っ張ってもらわなければ弱い人間だからすぐ怠けてしまうので、という暴力を自ら望む人も少なくないだろう。選手の希望であったとしても、指導コーチが暴力を振るう事も行ってはいけないという事になる。もし、暴力を了解事項として金メダルを総なめにするスパルタ国が出てきたらどうするのだろう。スパルタ教育と言われるくらいの暴力教育を行いアテネに勝利する。ギリシャ時代から繰り返されてきた問題なのだ。アマチアスポーツ界でも兵役免除とか、賞金とか、出世とか、そいう直接的恩恵は許されるようになった。古代オリンピックの堕落は優勝者の特別待遇にあった。その為に近代オリンピックでは50年前にはご褒美的なものは一切禁じられていたのだ。その結果共産圏の選手に勝てなくなってしまった。プロスポーツの何がいけないんだ。プロが出ればアマチアには負けないという事が潮流になってしまった。人間性への金の暴力という事なのかもしれない。

強くなるという事は尋常なことではない。きれいごとで勝てるのかという問題は残る。分かりやすい暴力を排除したからと言って、片付いてはいない。繰り返しこういう問題が起こる。スポーツ団体がパワハラ体質になる根源でもある。金メダルをとれれば、どんなパワハラ団体であれ、評価される団体になる。そして、時代に取り残された形で、スポーツ界のパワハラ構造が浮かび上がっているのだろう。女子レスリングは、あの金メダリストを多数輩出した名物コーチがパワハラで止めて、アジア大会で金メダル0である。オリンピックであんなに金メダルをとる女子レスリングがまったく力を出せないのだ。とんでもないようなコーチだからこそ金メダルが取れたという事実はあるとしなければならない。きれいごとではない。そういうものも含めて金メダル至上主義のスポーツの在り方を見直すべきではないか。指導方法の問題以上に、スポーツ界全体の倫理の問題が問われているのだろう。勝ち負けを超えたところに、スポーツはある。道としての倫理が確立していないで、修行をするのは道を誤る。オウム問題と似ている。

果たして企業や政治の世界はどうだろう。出世とか給与とか、いろいろの恩恵で頑張らせ競争させるのだろう。ブラックとか言われていも、競争に負けるわけにはいかないという現実がある。経済の競争においてはスポーツよりも激しく、醜く、汚い競争があるはずだ。社会貢献とか、企業の倫理とか、そういう建前を超えて、ひどい状況になっていると思う。スルガ銀行の組織ぐるみの腐敗はまともとは思えないものだ。安倍一強の自民党の内部の暗闇。当選という金メダルが思想信条を支配している。自動車会社のデーター偽装なども、安全よりも利益優先の競争の結果だろう。暴力指導の背景にあるものは、競争があれば必ず存在するものだ。選手がドーピングするのも自分に対する暴力だろう。直接の暴力だけ目を向けていては、表層だけの話で終わる。東京オリンピックでの金メダルが、すでに選手への暴力の側面があるのだ。この暴力を正邪で判断するのではなく、金メダルとは何かを選手自身がとらえなくてはならないのだろう。何のためのスポーツかである。

 

 

 

 

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多様性の認め合い

2018-09-04 04:11:06 | 身辺雑記

少数派の人間として生きてきたのだろう。これからも寛容な社会であり、少数者の場所が確保された社会であってほしい。人間を自分の正しさで峻別するようなことだけはやめて欲しい。正しすぎることには何か因縁を付けたくなる性分である。そうかな、違うかもしれないとつい考える癖がある。おかしいと考えたことは自分でやってみることにしている。大抵のことは自分の思い付きがおかしいかったという結果になる。実践は失敗の山である。それでも懲りずにまず疑う事にしている。稲作をやっていれば、正反対のことが両方とも正しいという事を経験する。田んぼの雑草など取ればとるほどいいと思うだろうが、草をとらない方がいいという人もいる。結局は農業というのは生き方なのだと思うしかない。生き方だから迷う訳なのだが、この迷いに迷い、生きているという事が日々の暮らし。こうして迷いながら生きて死んでゆく。このゆらぎのなか、もしかしたらという試みの中に生きる。これが現実の日々の面白さのような気がする。

田んぼではすべての判断が、決めかねるようなものだ。正しさのない面白さがある。作物を作るという事は、上手な人に教われば上手になる。しかし、結果を覚えるというのでは、無限に起こる新しい事態に対応する能力が育たない。未知の不確定のことが日々起こるのが稲作である。だから、自ら観察して、予測して実践してみる。という探求する姿勢の方を大切にしてきた。上手く行かない、収穫が少ないとしてもそのことで気づくことが出来れば、この上なく楽しい。生産物を目的に耕作しているはずが、むしろここから自然の摂理を探る面白さに広がる。有機農業で自給する主たる目的は自然というものを知るという事ではないか。生きるという事を充実させるという事であれば、何もその時々によくできるとかできないなどという事は小さなことなのではなかろうか。自給農業を通して宇宙の摂理のようなものを感じることこそ大切なのではないっだろうか。宇宙の摂理は正しいなどという価値基準で出来ていないようだ。

出来る限り人には教えない。教えられて学ぶという事もあるとは思うが、その人が発見することが一番大切なことだ。教えられなければわからない人には、有機農業は出来ない。農業でわずかな成功をした人は自分の経験的な発見を誰にでも共通の正しさとして伝えたがるものだ。大いに反省をしなければならない。確かに、そうだったでしょう。でも、その正しさは私の正しさで、あなたの正しさではない。害虫と呼ばれる虫が表れたのは近代農法が出来てからだそうだ。江戸時代はどんな虫も害虫とは呼ばなかったそうだ。その場では問題ある虫が、長い目で見たら、役立っているという事もある。害虫と呼び名にある、了見の狭さが気になる。総合性から生まれる自然の摂理に至る道を探す。虫に対して殺虫剤を使わないという前提で考えるだけで、新しい耕作法が生まれる。虫の多様性である。どうにも迷惑なだけだというようなことは、自然界にはあり得ない訳だ。

絵は正しさなど関係がないから、面白いのだ。ところが絵画でさえ正しい絵が存在するかの風潮がある。間違えの少ないような冒険のない絵が増えている気がする。本来の絵は、道の世界を切り開くものだったはずなのに。自分の世界を探し求めるものだったはずなのに。これも芸術を商品化している結果だ。弱まりを抱えている日本では、反論すら許さないような正しさが登場している。多様さを嫌う原因は不安である。人と違うという事の不安。だから少数派を切り捨てたくなるのだ。仮想敵国が日本を攻め滅ぼすだろうという、不安を政府は振りまいている。不安を広げておくことが目的で、不安を解決するどころか、不安を増幅させようとしている。アベ流の明治日本への回帰は、未来社会への展望が持てないからだ。日本人の滅びの姿だ。何か殺虫剤的な特効薬を探すことになる。その焦りが、カジノ法案である。外国人労働者のでたらめな受け入れである。教育の国際競争力化である。農産物の国際競争力である。いま日本が目指さなければならないのは、ここに暮らす人それぞれの、自由で安心できる生き方の確立だと思う。

 

 

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東京オリンピックは何故夏開催に決まったのか。

2018-08-31 04:34:07 | 身辺雑記

これほどの暑い夏は経験がない。暑かった、2018年の7月そして8月がなんとか終わろうとしている。昼の暑い時間は冷房機を頼りに過ごした。よる冷房を付けて寝るという経験を初めてした。この暑さは年々さらにひどくなると予測されていて、2050年には44度にまで上がると気象庁は予測している。地球環境の調和を壊している姿なのだろう。東京オリンピックは残念ながら、過去にない過酷なオリンピックになることが予想される。東京の夏は到底スポーツをするような環境ではない。気象庁も命の危険のある夏と繰り返し言っている。しかし、これを変えようというようなことは誰も言わない。たぶんできないことになっている。日本オリンピック委員会が誘致の条件として提案した期日だからだ。前回の東京オリンピックが10月10日の開会式だったのにもかかわらず、何故今回は最も熱くなる7月24日開会式なのか。余りにひどい期日なので理由を調べてみた。

支持が一番もらえる期日にしただけなのだ。ーー「国際オリンピック委員会(IOC)では、立候補都市は夏季五輪開催日を7月15日~8月31日までの間に設定することを大前提としているからだ」その理由はIOCが利益を上げるために、欧米各国のテレビ放映権を当てにしている。他のスポーツイベントが少ない、この真夏の期間にオリンピックを設定するという事だ。それが嫌なら立候補をしなければいいという事になっている。みんなでオリンピックで一儲けしようというのが、この選手を無視した馬鹿暑い最中の開催という事になる。商業主義丸出しオリンピック。アスリートファーストどころか、エコノミックファーストのオリンピック。オリンピックを冷房の効いた涼しい場所でテレビで見させていただくだろうと思うので本当に申し訳がない。焼け石に水と言われている、サマータイムはどうだろうか。これはなかなかのJOCのテクニックなのだと思う。各競技の開催時間は先日すでに決められ発表されている。何故午前中から水泳決勝なの、選手が本領を発揮できないのではないかなど少しもめたようだが、アメリカのテレビ観戦時間を配慮したのだそうだ。欧米の人がテレビを見やすい時間に決勝が行われるという配慮だそうだ。

アメリカとの時差は16時間。日本の朝の10時がロサンゼルスの夕方6時。ニューヨークの9時。もし2時間日本で夏時間が出てきた。2時間ずらしたら、アメリカの方はロサンゼルスは4時という事で怒り出さないのだろうか。多分日本の方で12時開催に変エルとなるのだろう。東京五輪招致委員会は開催計画書に「この時期の日本は温暖でアスリートに理想的な気候」と記載して提案したそうだ。こんな嘘を書いてまで招致したかったという事なのだろう。異常気象という事ではない、日本はこの時期一年で一番熱い、熱中症危険注意報発令中である。申請したころはこれほどの暑くはなかったとでも言い訳するほかない。事故が起こる前に何らかの手を打つべきことではないのだろうか。これから選手は東京の暑さ対策であろう。この耐えがたい暑さになれるためには、練習用サウナ施設でも必要になるのだろうか。気圧の低い部屋で肺の能力を高める練習もあるくらいだから、高温体育館があっても不思議はない。

外国選手がなれない暑さで力を出せなければ、日本選手のメダルが増えるという事になるかもしれない。熱さで敗れた選手は日本に悪い印象を残すことだろう。日本選手が活躍すれば、多分最悪の季節の開催を意図的に行ったと、そういう言われ方をするかもしれない。本当に喜ぶことのできない、金儲け主義のオリンピック。選手にとっては2重3重に辛いことになる。今からでも10月開催に変えるべきだ。誰だってそれくらいのことは分かっている。金儲けの為に我慢しているのだ。いったん決めたことではあるが、これほどの異常気象は予測できなかったとか理由付けは出来る。それが選手を大切にするオリンピックではないのか。それが出来ないというなら、2度とアスリートファーストなど笑いながら言うな。心にもないことを平気で口にする政治家というものの、無神経が不愉快だ。

思い出したことがあるので付け加える。朝日新聞が夏の甲子園を主催しておいて、オリンピックの夏開催を批判しているのはおかしいという意見があった。それは野球もマラソンもやったことのない、想像力の欠落した人間の言い草だ。野球は休み休みやるスポーツだ。半分はベンチの日陰で休んでいる。マラソンは2時間以上炎天下を全力で走るのだ。これを同じと考えるとすれば、無知な人間の証明である。

 

 

 

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フィットビットの使い勝手

2018-08-03 04:07:48 | 身辺雑記

片手で撮影しているので難しい。文字盤はタッチすると現れるがすぐ消える。その間に慌てて取っているので、ピンボケである。

フィットビットを付けて一週間が経過した。なかなか面白い。いくつか意外なことをフィットビットから教えられた。まず睡眠時間が6時間程度だったこと。8時間は寝ていると思い込んでいた。思い込みが多いい人間だとは自覚しているが、まさか自分の睡眠時間がこんなに違っているとはびっくりである。簡単に言えば、朝2時過ぎには目が覚めてしまい起きている。その自覚がなかったのだ。こんな当たり前のことをフィットビットに言われなければわからないのだから情けない。次に心拍数である。平常時心拍数が60ぐらいと思っていたら、54と出た。大体、一秒1回だなと内観していたのだが、もう少しゆっくりのようだ。この点では機械の方を疑っている。あるいは暑くて心臓が疲れてゆっくりになっているという事でもあるのか。そして歩数計としてはふつう特に作業をしなければ9000歩。草刈りでもすると1万歩はかなり超える。これは予想の範囲である。最高数が14634歩。最低歩数が6347歩であった。1週間の平均では1万歩を超えていた。

田んぼや畑へ行くのが運動になっているのかどうかを見てみることもできる。ただ歩いているのは運動とはカウントされないようだ。一日何分激しい運動の時間があったのかという事が集計される。私の場合1時間前後である。これは心拍数で測定するのだろうから、それほど正確なものではないと踏んでいる。GPS機能はどうなっているのかという点は今のところ全く分からない。どこを走っているのかを設定できる機能があることは分かった。私が徘徊を始めた時に、役立つのかどうか心配なところだ。フィットビットをしているので探してくださいと言えば何とかなるものか。加えて同期というものがかなり不安定である。同期するドングルというようなものがあるらしいが、持っていない。なくてもタブレットにはいつでも同期という機能があり、開くたびに自動登録されているはずだ。はずではあるがそうでもない。同期しなくなると半日くらいしない。壊れたかと思うとまた同期される。この辺苦情も多いとみられ、良く投稿されている。それから写真ではかすかに見えるが、バンドは穴あきタイプの方がいい。何しろ充電しているとき以外は、寝ているときもつけているのだから、皮膚に負担があるようだ。シリコンのバンドなのだが、穴が開いてない方よりはいくらかいい。大きさは私の使っているチャージ2という奴が中間型のものだ。大型のものもう数種ある。機能がさらに良いのかもしれないが、たぶんこれより大きければ手首に負荷がありそうだ。もっと画面の小さいものもあるが、それではよく見えない。見ることはできないが、記録だけ送るというものもあるようだ。

ここまでくるといよいよ血圧が腕時計型で計測できればという事になる。そういう機種も実はいろいろ売られてはいるが、まあ正確性がない。私はそう見ている。正確でないもので、測定していたのではむしろ害になる。医療機器としての認可を受けているレベルのものは今のところない。しかし、オムロンは現在認可の申請をしているらしい。今年発売の可能性があるらしい。例えば、一時間おきに測定というような機能が可能らしい。要するに腕時計のバンドが空気圧で膨らむ。そんなに細いもので大丈夫なのかと思うが、オムロンがやるとなれば、そうインチキおもちゃという事ではないだろう。私の血圧がおかしくなる前に製品化されたら、有難い。予定外に便利なのが、時計だ。時間が分かる。当たり前のことが初めての人間には面白い。時計に頼るようになると、時間感覚が鈍ることだろう。いつでもおおよその時間を当てる自信があったのだが。一旦時計に頼るようになればもう駄目だろう。つまり、心拍計に頼るようになれば、内観の心拍数は測定できなくなる。

 

 

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万引き家族のその後

2018-07-15 04:05:35 | 身辺雑記

是枝監督の万引き家族が好評だそうだ。良い映画が多くの人に見てもらえるというのはうれしいことだ。楢山節考も姥捨ての話だった。外国の審査員に浮けたのもなるほどと思わせる映画だった。今回は現代社会の捨てられた人々の話だ。人間が生きる社会というもののなかに、棄民されたように存在する家族というものの話だ。共通の日本人の生きるの在り方が、主題になっているのだと思う。人間は一人一人生きている。生まれてきて死ぬ。すべての人間が同じ運命の下に生きている。生まれたという事は必ず両親というものがいる。その血縁というものは重いものであり、自分の生きるに大きな影響を与えている。それぞれにある家族の問題。家族のお陰で今生きていると思う。それでいいと家族が指し示してくれたから、社会という大きな不安の中にあっても、少し安心して自分を探して生きている事が出来る。絵を描いて生きている事が出来る。何処に行くのかという不安の舟に乗り込んで漕ぎ出すことができる。

万引き家族が評判になって、こんな日本の恥部を世界に晒してという、批判が出てきているそうだ。そういう批判はきちっと見てから発言しているのだろうか。あらすじを読んで批判することだけは止してもらいたい。さらに是枝監督が文部省からの招待を断ったというので、批判が出て来ているそうだ。私が一番気になった批判は、どこかの市会議員の批判だった。政府から補助金をもらって映画を作ったくせに、政府の招待を断るとは何事かという批判である。こんな言い草を放つ、議員がいる日本国である。政府の補助金が政府の都合だけで左右されるべきだという、体制翼賛的な反応である。忖度しろと言う圧力である。年々人々の視野が狭くなる。国の弱まりの露出なのである。心の余裕がなくなってきたという事だろう。政府を忖度する者だけが評価されればよいというのであれば、まさに独裁国家である。アベ政権の望むところのソフト独裁政権である。いつの間にか独裁になっているという麻生理論が現実化している。こうした提灯持ちの市会議員が登場する時代。

教育の無償化と公明党の看板には書かれている。多分、無償にしてやるのだから、政府の批判などしない人間に成れという事を意味しているのだろう。ただより怖いものはないという奴だ。教育の無償化の前提として、教育の独立、自由の確立が必要となる。国の為になる人間を育てるための無償化では、最悪の方角だ。公明党の無償化は、忖度できる人間を作る無償化を目指すことにならないか。国際競争力のある人間を育てるためなら、無償化にしてあげる。これでは教育はだめなのだ。政府を批判することのできる人間も無償化する。現代の日本社会をえぐり出す、こういうドキュメント的映画こそ日本という社会の品格を保っている。未来への希望である。批判する者も批判されるものも互いに自由に議論し合えるような自由が必要なのだ。社会批判をするような映画に補助金を出すのは税金の無駄遣いだというような考え方が社会を衰退させる。社会が良くなるためには自由な社会批判が必要なのだ。

万引き家族は家族ではない。血縁という足元がない。足元に闇が広がる家族。漂流し吹き寄せられた疑似家族。家族という安全弁が疑似家族という暗闇の深さ。だからこそ見え隠れする人間の生きる。日本の社会の疎外。楢山節考にある社会の掟の問題。掟の理不尽さと家族の人間らしい絆。血縁的家族の崩壊。社会に疎外が起きるという事は、自分の立ち位置が無くなる。家族というよりどころを見失う疎外。安心な帰る場所がない社会になった。一人の人間が生きるという問題が漂う。何処から来て、何処に行くのか。たどり着く場所はどこなのか。もう一度見てみたい映画だ。現代の寓話のような映画だった。余りに、複雑なものが絡み付き合い、映画の映像という実に頼りのない中でこその実在を感じるような、抜き差しならぬ重たいぬめりのあ存在感が生まれる。すごい映画だ。

 

 

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キーボードの極私的選択

2018-07-08 04:19:56 | 身辺雑記

キーボードは水彩画で筆と同じくらい重要だ。打ちやすくなければ発想が展開されない。昔の文学者が万年筆に拘ったように、キーボードの打ちやすさは気になる所だ。使い勝っての良いキーボードはエレコムのTK-FCP026というものである。価格も1000円以下で買えたものだ。高いから良いとは言えないのがキーボードである。もう3年ほど前に生産完了品になってしまった。余りに気に入っていたので、心配になり3台も購入しておいた。ところがその3台目も調子が悪くなってきた。使い方が荒いから壊れるのかもしれないが、発想が優先で仕方がないところだ。何が良いのかと言ってもわからないのだが、しっかり打てて、ぐらつかず、頼りがいがある所だ。過去パソコンに付録でついてきたものは3つとも自分には合わないものだった。タッチがブガブガしていて頼りない感じだった。それであれこれ探して、見つけたものがエレコムのスロープのあるキーボードだったのだ。購入したのは小田原にできたばかりのパソコンデュポというお店だった気がする。使って良かったので、悪い予感がして慌てて2つ買い足したのだ。

エレコムのTK-FCP026

予想通り完了品になってしまった。もし、似たものを知っている方がいたら、教えて欲しい。まるでファブリアーノの水彩紙と同じだ。今は使っている水彩紙は売られていない。それで似たようなものがエレコムにはないか、探し続けていた。秋葉原で足を棒にして探したこともあった。今のが壊れたらどうするのだ。どこが打ちやすいかと言うと、打面がわずかなスロープになっている所だ。この曲線が打ちやすさなのだと思う。キーボードカーブというらしい。そういうのが他にはないか時々探していた。そうしたら、まるで模造品かと思われるほど似ているものを見つけた。最近発売されたもののようだ。サンワサプライという会社のものだ。SKB-SL18BKNというものだ。アマゾンで1700円だった。タッチを反映する構造はパンタグラフ方式である。パンタグラフ方式のばねの感触が私には合うようだ。まだ打ったことはない。そして有線でなければならない。電池切れが突然来るのがたまらなく嫌だ。書いている途中に停止したら、万事休す。

キーボードカーブのこのわずかなそりが私には具合が良い。普通のキーボードより小型なものというところも大事だ。手が小さいからだ。男の人で、私より手の小さい人にまだ会ったことがないほど手が小さい。小さいから当然小さなキーボードの方がいいのだと思う。もう一つはテンキーがない方がいい。使わないからだ。私は自己流で、ブラインドタッチを覚えた。特にパソコンに関して教わったことはない。教わりべただからパソコン教室など行く能力がない。F6キーを打つとひらがな。F7キーがカタカナというのも、ちょっと前にタケさんに教わって知った。きっとその他にも便利なキー機能があるのだろうが、良く分からない。使ったことのないキーもたくさんあるし、使い方がおかしいキーもあるのだろう。まあ―何とかなっているから過不足ない。要するに早く打てるという事が最良のキーボードだ。頭の考える速度と同じに指が動くというのが一番望ましいことだ。という事でノートパソコンのキーボードでは残念ながら打てない。キーに臼のようなへこみがないからだ。届いて見たら、残念ながらサンワサプライのものは臼のへこみがなかった。どうだろうか使えるだろうか。

気になる点は年々指がこわばりを感じるところ。タイプする速度は10年間ぐらいは年々早くなったのだが、このところ停滞している。一時は人が話しているのを聞きながら打てるぐらい早く打てる努力をした。テレビのニュースを聞いて打てるようにと練習した。それが停滞しているならいいのだが、徐々に速度が衰えるいる様な不安がある。日によっては、やたらお隣のキーを打つ日があったりする。このことを逆に考えてみると、案外に指先の運動にはなっているのではないか。指先であるから、脳の訓練になるのかもわからない。例のボケ防止体操だ。毎日1時間指の運動を20年間も続けていると考えれば、すごいボケ防止だ。多分ゲーマーという人はそういう指の反射訓練を積んだ人なのではないか。ボケ防止キーボード体操の確立。

 

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ブログ継続法

2018-07-03 04:38:10 | 身辺雑記

12年という長いこと毎朝ブログを書いている。最初のブログは2006-03-05となっている。すぐそういう事が確認できる所が、ブログの良いところだ。今まで毎日続いていて、この記事で4640回目くらいのようだ。一日に2回投稿したこともいくらかあるからだ。ブログという形で書く以上は10年はやると決めていた。ブログの前には、山北に越した時から始めた記録帖があり、それが13年ある。それは小田原に来ても数年は続けていた。その後ブログに変わったという具合だ。つまり開墾から始めた自給生活には記録が不可欠だった。山北で自給生活を初めて記録をとる必要から始めた。実用的な日記帳から始めた。大豆の種をいつ蒔いたか。桃の花を描きに塩山に行ったのはいつかなど。記録しておかなければ、困ることが結構ある。必要なことだったから続けた。小田原に移り、ピースカフェーという通信を始めた。紙媒体を補うという意味で、タケさんからブログの指導をしていただいた。その後紙媒体をやめたので、ブログの方に力を入れるようになった。ピースカフェの意図を引き継ぐ以上、やれる限りやろうと今は考えている。

記録しておくことで、大いに助かったことが何度もある。特に、このGOOブログは写真を大量に保存して於けるから、自分の記録帖として不可欠なものになっている。田んぼや畑の写真など、かなりの量撮影している。撮影するだけでどう整理してよいか分からなかった。ブログの画像フォルダに保存することにして、上手く整理ができるようになった。田んぼに行くときに持って行くカメラのSDカードを、戻るとパソコンに入力する。入力したものを、このブログの画像フォルダにアップロードしておく。撮影の日時と小さな写真が一覧で出ているから、何年前の写真でもアップロードさえしてあれば探せる。別段ブログで公開する予定のないものも、こうしてどんどん上げてある。何故無料でこういうことが出来るのか訳が分からないが、ずいぶんの枚数が保存できる。まだ数%としか使っていない。このような写真保存と同じことで、いろいろ気付いたことは、ブログにひとまずあげてある。ブログの予約機能を利用する。これがブログを書く材料になる。何かで気になったことは、ともかく思いついたまま、書いて1か月先ぐらいの日付で予約アップロードをしておく。もちろんこのブログの継続法の文章もそういう形で書き留めている。よく間違えて、中途半端な記事をアップしてしまう。

こうして溜まった材料記事が50本ぐらいは予約として貯めてある。現在は予約の半分以上が家庭イネ作りの本を作る材料記事である。朝、4時に起きるとパソコンを立ち上げ、コーヒーを入れてその材料記事を一渡り見る。その中で今日書きたいと感じるものの続きを書き始める。ちょっと書いて居てそのまま予約にしておくこともある。その内に今日書いて置こうという事が決まる。そうしたらその文章を公開しても良いように、整理して、順序を入れ替えたりして、今日のその時間に直して、アップロードする。おおよそ5時くらいまでのことになる。書いている内に、何か思いつくこともある。予約記事にメモとして入れておく。こうして常に50本ぐらいの材料があるようにしてある。全く何も書くことのないことが続くこともある。そうした時期でも、どれか文章を選んでアップだけはする。逆にやたら書きたくなる日もくる。そういう日には10本ぐらいの材料が溜まることになる。

毎日一つは公開することは決めている。これはピースカフェーの時に自分で決めたことだ。書くスタイルも決めている。書きやすいようにである。これは継続するコツだったようだ。自分の丁度良い長さが2000字以内くらいのようだ。以前は1600字と思っていたが、少しずつ長くなる。おおよそ一段落500字以内に収めて4段落である。起承転結ということになることが多い。その時々のパターンに収める。そういうところの工夫もした方がいいのだろうが、その辺はやりやすければいいくらいである。書き出しは必要なこと、面白いこと、書いて置かなければならないと感じることで始まる。気持ちが強いからどんどん書く。しかし、後で読むと違うと思う事もある。これは絵を描くときと同じようなことになっている。描きたいときに描く。描き止めたいという気持ちだけが強いこともある。仕上げだけがしたくなる時もある。初めから終わりまでをきっちりやることもある。その時々に波がある。一つも絵を描かないこともある。毎日4,5枚も描くときもある。そうして一応公開する。やり方が自分に合えば続くのだろう。

 

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AI知育玩具、遊んで考える

2018-06-29 04:46:02 | 身辺雑記

AI知育玩具というものが、東京おもちゃショーに出ているとある。これからどんどん出てくることだろう。はたしてAIは人間を成長させるのだろうか。おもちゃ会社が知育玩具を売りにする根拠は、AIが子供をダメにするだろうと考える人が多いい事を逆手に取っているようなものだ。ファミコンゲームばかりやっていて、勉強をしない。これが多くの人の気がかりなことだろう。ゲームというものは麻薬的な性格がある。私も何度かはまり込んだ経験があるので、この点はある程度は理解できる。子供がゲームばかりしてという状態は想像できる。藤井壮太7段が登場して、将棋ばかりしてと親の心配は減ったのだろうか。将棋は知育ゲームなのだろうか。AIゲームもアジア大会には競技種目になるらしい。オリンピック種目になる可能性も高いとのことだ。なぜAI玩具が知育を掲げるかと言えば、子供がのめり込んでいる内に知育の向上になるとすれば、良さそうというか、売れそうだからだろう。実際のところはそういう知育玩具はまだできていない。

発想は悪くない。数学ゲームにのめり込んでいたら、数学ⅡBで満点をとれたというなゲームがあれば、大いに助かるだろう。そういうゲームが工夫できるかどうかはちょっと想像もできないが、あれば悪くない。好きなことだけをして生きて行きたいというのが、私の信条なのでそういう事があればいいと思う。私は生物関連は子供のころからそれなりに興味があった。鶏の研究者になって、鶏を飼育し、改良する人間になりたいと、6歳ごろから考えていた。ところが、鶏を研究する道には進めなかった。研究者になるには、受験勉強とか、第2外国語とか、その道で生きてゆくためには、好きでないこともやらなければならないようだった。それが耐えられない性格である。それでも鶏を飼いたいので何とか好きな日本鶏を飼育出来る道を選んだのが養鶏業だ。しかし、確かに学問的な部分で不足が大きく、趣味の範囲を超えることはできなかった。結局のところ学問的ではなく、趣味的なアプローチで極めるつもりで鶏を飼った。

実際にやるという事と、頭の中でやるという事とは似てはいるが、やはり違う。面倒くさいし、億劫ではあるが、実際に身体を動かして行動しながら頭を働かせるという事は、観念とはずいぶん違うものになる。鶏の餌のやり方の良い方法は、自分なりにえさを与えながら、試行錯誤して見つけるものだ。この餌やりというとても面倒くさいことを毎日繰り返し地道にやれるのは好きだからの人とお金の為の人がいる。お金の為の人は手抜きの養鶏業に進む場合が多いい。平飼いとか、自家配合飼料とか、無意味なことを得意げに書いて、まるでサプリメントの効能書きのような養鶏になる。金儲けはろくなことはない。趣味の横好きの方が、本質に近づく道である。だからAI知育玩具には期待できる。数ⅡBが満点取れるようになってなんだという事なのだ。どうせ受験勉強などというものはその程度のものだ。通過儀礼のようなもので、その内容に意味がある訳ではない。古臭い企業が学歴を重視するのは通過儀礼を重んずるからだ。

そして期待できるAI玩具で何を失うかである。嫌な受験勉強をやって何を失っているかである。大切なものをずいぶんと失う。何かを得るという事は何かを失うという事だから、それはそれでいいのだろう。生きる方角が見えれば必要なものは分かる。生きるものが分かるためにはどうすればいいかであろう。AI玩具で遊んでいれば生きる方角は大体想像できる。身体を動かさない人間である。身体で学ばないことでは生きる方角は見えないと私には思える。疑似的知識がAI玩具で増えれば増えるほど、身体で感じ育つ感性は衰退することだろう。羽生竜王がどれほど素晴らしい人間であるとしても、AI玩具をしていて、あのような人間が出来るわけではないこと知らなければならないだろう。

 

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連ドラ「半分、青い」

2018-06-25 04:24:29 | 身辺雑記

NHKの連続テレビ小説は大抵は見ている。「半分、青い」を今やっている。漫画家になる話である。岐阜の田舎町から、出てきて漫画家になるまでの定番の状況物語だ。漫画家の話という訳で漫画のような話なのだが、あまちゃんほどの飛躍はない。今回は気に入ったというほどのものでもないのだが見ている。漫画を考える前に生きろと教えるところは、そういう事だと思った。モノを作るという大変さのようなものは、わずか表現されているか。この舞台になっている売れっ子漫画家の先生のアトリエが、セツモードセミナーを思い出させる場所なのだ。マンガ家はどこか長沢先生を思い出させるような人物である。一見冷たいような優しい暖かい人だ。3人の弟子がいて、まるでセツの生徒たちのように見えてしまう。ふわふわな感じだ。クロッキーをやる場面があったが、何処で見ていたのかと思うほど感じが出ていた。中庭があり、アトリエがあり、違う階に先生の暮らしている部屋がある。長沢先生の階段を下りてくる登場。あの感じだとわかる。

これを作っている人は長沢先生を知っている人ではないだろうか。セツの生徒なのかもしれないとまで思える時がある。似たようなアトリエがまだほかにもあるのかもしれないが、台詞がセツさんが言いそうなことを語るので何かおかしな気持ちになる。余計なそんなことを思いながら見ている。私は外部の人間だったのだけど、案外によくセツには出入りした。何故だったのだろう。セツさんには私は厚かましくても大丈夫だった。長沢先生には作ったネクタイをプレゼントしたことがある。草木染めをやっていた時に、最高の出来だったから献上したのだが、2年ほどしてあるとき、私はネクタイはしないからと言って返された。私は節さんにネクタイをしてくれという事ではなかったのだが。あの何とも言えない感じは独特だった。私は勝手にセツさんに不思議に近しい感じを抱いていた。長沢先生さんは生徒にはやはり、教師として接していたのだと思う。そういう昔風の姿勢は結構厳格なものがあるようだった。

長沢先生さんは新しがりであった。都会風であったりするところが、むしろ、会津から出てきた上京物語の中の人だ。最先端を気取る地方の青年だったのだと思っている。会津にいた時のモダンボーイの長沢先生はどんなだったのだろう。義の世界の中のセツさんはやはりいたのだと思う。セツモードは今はもうない。あの不思議な場はセツさんがいなくなれば終わりになるのは当然のことだろう。長沢先生が特別な人であったことには変わりがない。絵を描くという事の大切な意味は教えられたように思う。具体的に私の絵をあれこれ言ったことはなかったが、半分青いを見ていると、あんなこと言いそうだな、ああいう事を言葉にせず教えてくれたんだと思うときがある。あの頃は個展ばかりやっていた。必ず見に来てくれた。それがすごく励ましになっていた。長沢先生がいろいろの人も紹介してくれた。春日部洋先生との最初の出会いも、一緒にやられていた、グループ展の時だったようにと思う。

私は半分セツ派とされてきた。絵描きとしての長沢先生とは一番近いような気すらしている。長沢先生は水彩画しかやらなかった。若いときには油絵も描いたとは言われていたが。現場主義であるところも一緒だ。中版全紙にしか絵を描かなかったことも同じである。絵も似ているのだろうか。アマルフィーを描いた傑作は今どうなっているのだろう。セツさんの絵は早い。早く描くのを自慢しているようなところがあった。その速さがはまったのがアマルフィーの絵だ。テレビの漫画のことだ。今の時代絵描きになる話しではドラマにはならない。漫画家になるというのでなければ、今の時代の話には繋がらない。絵を描くという行為が良いご趣味の世界としか認識されていないからだ。それはどうでもいいけれど、半分、青い。には物を作るというという事が、いかなることなのかは示されている。何もないところからひねり出す。結局のところ自分という人間を絞り出すほかない。自分はどうすれば絞り出せる果実に成れるのか。連ドラがこういうところにも話をもって言ってくれれば。

 

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ワクチン接種は思いやりという考え方

2018-06-14 04:14:05 | 身辺雑記

インフルエンザワクチンを打たないと書いたら、その態度は私に弱者に対する思いやりがないからだ。というコメントがあった。少し一方方向な発想だが、それも一つの考え方であることは認める。一つの考え方かもしれないが、恐ろしい考え方でもある。弱者へ思いやりを論拠にする考え方に、嫌な全体主義的なきな臭さを感じる。反論のできないような角度から足をさらう匂いである。そのこともあるので、あえて再度多分10回目くらいのワクチンを打たない理由を書く。このコメントを書いた人の意図にそうした全体主義的な気持ちがあるという訳ではない。この考え方の先にあるものへの不安。薬に関しては自分の為だけを考えて必要だと思えば、インフルエンザワクチンを打てばいい。他人のことを持ち出す必要はない問題だと思う。麻疹と混同しない方がいい。ワクチンの効果のレベルにも様々ある。インフルエンザワクチンの効果はまだかなり低いものだ。10%の効果しかないと、ワクチンを推奨する医師が書いているぐらいだ。医師によってはこのレベルなら使わない方がいいという主張も多数ある。

10%の効果しかないものであれば、私が打とうが打つまいが、統計的に意味がない。弱者の中に老人も入れていたが、8月には69歳の私は老人枠か。これが50%ぐらいの効果があるワクチンであれば、人類全体が打てば、かなり効果が高まるという事はある。風邪だと思った人はその時点で家で寝ていればよい。そちらが先だ。出歩かない事が、感染の広がりに対する思いやりではないだろうか。風邪は無意味にかかる訳ではない。原因があり、感染している。感染したとしても発病をしない人もいる。風邪を侮ることはあってはならない。風邪をひくという事は自分の身体の問題が表面化したという事だ。薬で対応せず自分の体力で直ることで、その問題点の解決になることもある。もちろん風邪をひかない努力をすることが前提である。免疫力を高める努力をする。それでも風邪をひきそうになったら、充分に体をいたわる。内観法である。日々自分の身体を自分で確認する。目はどうであるか。脳はどうであるか。心臓はどうであるかと、体の隅々まで感じ取る。

自然養鶏を長年やってきた。鶏の病気にどう対応するかで様々病気のことを、実践を通して学ばせてもらった。鶏の場合ワクチンで対応する。薬剤で対応する。淘汰をしてしまう。様々な方法があるが、一番の病気対策は健全な鶏を育てることだ。私は一切の薬剤を使用したことがない30年の養鶏業であった。よい環境を作り出してやる。良い環境とは病原菌のいない環境ではない。多様性のある自然の姿である。健全な鶏が健全な環境で飼育されていれば、まずは病気にかかることがない。そうした努力をせずに、何万羽という鶏を一か所に飼う人工的環境。その結果、薬剤を徹底的に使わなければ病気が抑えられない。しかし現実では、そうした大規模養鶏場では鳥インフルエンザが感染する確率が極めて高い。実際に茨城県での流行の際に、地域の自然養鶏の養鶏場では感染せず、大規模養鶏場では次々と感染が広がった。今まで日本での感染事例を見れば、何処も大規模養鶏場である。一例大分で、小さな趣味の鶏が感染した事例がある。これは、本来実に弱い鶏種の鶏であったから感染したと考えられる。もしこれがトキの保護施設でインフルエンザが流行したとしたら、すべてを淘汰したのだろうか。

薬でかろうじて病気を抑えていても、その限界を超えれば、感染には極端に弱いものである。本来の健全な鶏とは違うのである。鶏と人間と一緒にしては申し訳ないが、ブラック企業で働く人など、健全な状態とは到底言えない。その働く環境の改善よりも、インフルエンザワクチンを打てと言っているような気がしてならない。以前大企業で精神衛生のケーアーを担当していた人から、病気を治すことが良いことなのかわからないという話を聞いたことがある。病気を直すことが、環境の改善をしないことに繋がっている。またあの悪い環境に戻り再発するというのだ。病気を治す以上に、職場環境を直すことが大事だという事だった。インフルエンザの流行する根源を絶たなければ、どうにもならない。対処療法的にワクチンを打てばいいでは問題の解決にはならない。大規模養豚場と、養鶏場の問題である。鳥インフルエンザのウイルスの変異の源であり、発生源である。これをそのままにしておけば、さらなる手に負えない、ウイルスや、耐性菌の発生の可能性があるのではないか。

 

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バヒド・ハリルホジッチ監督の解任

2018-04-15 04:17:09 | 身辺雑記

サッカーの外国人監督が解任された。就任前予測した通りの展開である。日本は日本人監督でなければだめだ。バヒド・ハリルホジッチ監督は縦に早く攻撃する個人技を重んじた。これはチームでのパスプレーを重視してきた今までの方針と、正反対であった。サッカーは民俗性まで反映するといわれている。もし日本のチームが強くなるとすれば、チームプレーしかないと考える。この監督が成功するわけがないと思った。いつまでもお雇い外国人にお願いしていたのでは強くはなれない。アフリカのチームを強くしたという実績で、日本では監督をお願いしたようだ。この発想ではだめだ。日本のサッカーが強くなるお手本はドイツ式のサッカーがあった。ドイツ人のチームプレーを重視する合理性のようなものが、日本人に適合するかもしれないと考えたからだろう。今の日本チームは、ナショナルチームを組むことができる時間が少ない。この条件ではチームプレーを重視しなければ、強くならない日本人的なものを育てることはできないのではなかろうか。

もしどうしても外国人監督が良いというのであれば、ラモス選手位日本に長く選手をした人ならうまく行く可能性はある。ラモス氏が監督向きかどうかは分からないが。日本人の選手を上手く使うためには、選手と気持ちを合わせることが出来なければ無理だ。初めからハリルホジッチ監督は選手との気持ちの調整など考えない。それが外国人監督の当たり前だ。サッカーは特にそうだと思うのだが、民族性が表現される。米を食べているから、あの時のパスを繋げなかったのだというような、ことまで言われるのだ。どのスポーツも民族性が現れるのは当然なのだが、チームゲームでの監督はよほど日本人というものをわかっていなければできるわけがない。日本選手に能力がない訳ではない。海外の一流チームでも活躍する選手が相当する居る。個人としての能力は置かれた場所では発揮しているのだ。

サッカーというゲームは選手同士が、気持ちを通じていて、アイコンタクトで一瞬に動くことが出来なければならない。声を出すという事もあるが、言わなくてもお互い何をどうするかが、以心伝心で出来なければならない。ここサッカーの面白いところだ。女子チームの沢選手のワールドカップ優勝のゴールキックはまさにそうだった。相手には見破られないが、自分たちだけには一瞬の特殊な動きが肝心になる。この点選手同士の深いつながりがなければならない。その昔オリンピックでメダルを取った杉山、釜本コンビの動きはそういうものだった。しかし、今は海外のチームに所属する選手も多数存在する。こうなると日常的にチームを組んで動けるには限界がある。サッカーでチームが組めないというところがもう致命傷的に、強くなれない原因になっている。しかも、ナショナルチームの互いの選手の日ごろのプレーを見ることすらできない。これでチームを組むという事は不可能に近い。

それに輪をかけているのが、日本選手という民俗的な特性に興味もなかった外国人監督である。選手のことを知らない。日本人の特徴も知らない。どれほど監督としての能力があろうとも、チームを強くするなど出来るわけがない。大げさに言えば、サッカーはシンフォニーである。個々の選手が個性を発揮することが、全体の総合力を高める。サッカーは民主主義である。一人一人の主張が尊重されることで全体が向上する。現状個々の選手の力は上がってきていると感ずる。にもかかわらず、ナショナルチームとしては弱くなっているのは、チームが出来ないからである。選手同士の動きが疑心暗鬼になっている。自分がという選手はいるが、それをうまく生かしてやろうという動きがない。もうワールドカップまで時間がない。今回は、西野監督に建て直しをお願いするしかないが、もう少しナショナルチームが組めるような、仕組みを作らない限り強いチームは作れないだろう。

 

 

 

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ゲームオタクとは言わせない

2018-03-20 04:53:26 | 身辺雑記

対戦型のコンピューターゲームで競う「e(エレクトロニック)スポーツ」の普及を目指す動きが本格化している。日本では子どもやオタクの「遊び」と見られがちなコンピューターゲームだが、世界的には「競技」として注目され、国際オリンピック委員会(IOC)もスポーツの一つとの認識を示している。日本でも今月1日、プロライセンスを発行する団体「日本eスポーツ連合(JeSU)」が発足。世界を追撃する態勢が整いつつある。

プロゲーマーというものが存在して多額の収入があると言われている。将棋や囲碁にもプロが存在する。最近国民栄誉賞を授与した。次は、ゲームオタクが国民栄誉賞を授与する時代なのだろう。明らかに社会の方角に間違いが起きている。これが、拝金主義の行く末なのだろう。お金になるならそれも良いではないかと、子供にゲームを進んでやらせる親も現れるに違いがない。ゲーム塾も生まれることだろう。もうあるのかもしれない。将棋や囲碁が学校教育で行われている。コンピューターゲームの授業が誕生する日も近いのだろう。お金になるという事が正しいこととされる時代の悲しい現実である。人間が腐り始めていると思うしかない。政府がお金の為にラスベガスを日本にも作ろうという時代である。世界との競争に勝つためには、景気を良くして、失業率を改善し、国際競争に勝つには何でもありという事だろう。

人間はどこに向っているのだろう。人間が生きるという事の意味を間違えている気がしてならない。一日一日を充実して生きるという事は、どういう事だろうか。お金を稼ぐこと自体を目的にしたような生き方では、最低の生き方としか思えない。ゲーム依存症というものがある。れっきとした病気とされている。アルコール依存症や賭博依存症と同質なものだそうだ。少し違うのはゲーム依存症は若年層に多いいという事らしい。私にはゲームにはまり込む気持がわからないではない。将棋や囲碁にはかなりはまり込んだし、ビンゴゲームにも陥ってしまった。今は絵画依存症かもしれない。田んぼ依存症かもしれない。農業依存症かもしれない。フィギアスケートに熱中して、オリンピックで金メダルであれば、素晴らしいと絶賛される。その内ゲームに熱中して金メダルをとり、年間所得が1億を超えれば、正しい生き方とされるのだろうか。

ゲームはやったことがないのでわからないが、その後の生き方にある。ゲームで世界一になって、腱鞘炎で引退する。その時に何が残るかである。人間として生きてゆく上での大切な価値観をゲームから得られるのかである。絵に熱中するという事は自分という人間を突き詰めるという事である。絵を描くことを通して、自分という人間を育ててゆくことだ。そういう絵の描きかたがあるという事だ。絵を描くにしても、収入の為に描くという人もいるだろう。装飾品として役立つとすれば、社会的意味もあるのだろう。しかし、芸術としての絵を描くという事は、それとは全く異なる。人間の哲学である。自分の生きるという事を探るという事だ。絵の場合、装飾としての絵画と、芸術としての絵画とがあるので誤解があるが、装飾絵画は商品絵画という事である。ゲームには哲学はあるのだろうか。ゲームには人間の深淵に踏み込む世界があるのだろうか。

人間はくだらないことに陥りがちなものだ。それを防ぐのが親の役割だろう。親がしっかり生きていれば、ゲームなどくだらないものだという事ぐらいは理解できる人間に自然になる。私が将棋にはまっていた時に将棋を止めろとは親は一言も言わなかったが、将棋などくだらないという自覚はあった。生きるという事にはもっと大切なことがあると思っていた。アジア大会では正式種目として取り入れられるそうだ。世界はおかしな方角にひた走りである。こんな時代であるからこそ、何が大事なものであるかを、しっかりと見定める必要がある。

 

 

 

 

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10年生存率

2018-03-07 04:25:39 | 身辺雑記

ガンになった人の10年生存率が55%にまで改善されたと新聞に出ていた。早期発見や新薬の開発などがあって、ガンに対する考え方も変わっている。ふと思うと、私自身の10年生存率はどうなのだろうかとおもった。しらべてみると今67歳だから、77歳まで生きるという意味では70%ぐらいと見ればいいようだ。ガンであろうとなかろうと人間は必ず死ぬことになっている。毎晩一度死ぬ。そして翌朝に再生する。こういう考え方さえあるらしい。明日は死んだままで目覚めないかもしれない。今日はそのつもりで生きることができたか。そう自問するという話に結びついて、聞いたことがある。毎晩一度死ぬという考え方には魅力がある。しかし、本気でこれで死ぬと思ったら、寝つけるものだろうか。まだやることがあれこれあるので寝ている訳に行かないだろう。一日をやり尽くすこと、つまり十二分に今日一日の生命を使い切ることができるという事は、難しいことに違いない。

昭和40年の平均寿命は67歳だったというから、私の歳ではだいたいは死ぬとしたものだったようだ。それが私の中学生の頃の話だから、隔世の感がある。67歳の私がガンになったとしても、平均余命という意味では、人生はそれほど短くはならないという事らしい。今日眠るときには寿命が来るという事ではなく、後17年は平均的にはつまり半分の人は生きているようだ。5今の時代は平均余命としてはまだ17年くらいはあるらしい。50年間に17年も伸びたのだろうか。これは凄いことだ。半数の人が生き残る年齢が寿命中位数ということになると、84歳といという年齢になる。17年生存率が50%と考えればいいのだろう。現実主義者だから、今晩で死んで目覚めないだろうとは思わない。17年間は生きるという事で、計画を立てている。17年のうちあと2年は今までの農業を取りまとめる。農業をやり尽くせる年齢はそのくらいが限界である。そして、70歳になったら絵に専念をする。15年間絵だけをやってみるつもりだ。

石垣島に移住することは決めたのは、その17年をくっきりと生きたいからである。石垣島で暮らすという事になれば、絵を描くことに専念する生活ということになる。70歳になれば、農業のような身体を使う仕事では、納得できるだけ働くことはできなくなる。それであれば、84歳でも普通にやれる絵を描くという事をやり尽くしてみたい。その生きる日々の時間を突き詰めることが充実だと思う。やりたいけどやれないというような気分で過ごすことが嫌だ。そう思うと、田んぼのことや自給農業のことをあと2年でまとめなければならないと考える。あと2年は動けるからだ。死ぬということを明確に意識すると、今やることが見えてくる。今日やることがはっきりしないようでは、明日生きることが、死ぬまでにやり遂げたいことが見えないだろう。

生きていれば、全く雑務が押し寄せてくる。できる限りやりたいことだけをやっていきたいと思うのだが、その前提となる、どうでもいいような、ところがどうでも良くないような雑務としか言いようのない凄まじい我慢の時間が、押し寄せてくる。私にはこれがうまくこなせないできた。受験勉強などというものも、雑務の最たるものだった。学ぶという事は好きではあったが、受験勉強のくだらなさには耐えがたいものがあった。この雑務をこなせんければ、本筋に入れないという仕組みがあるから、仕方がなくやった。今でも時々思い出してしまうのは、この仕方ないというような部分が自分の人生の中にあることが情けない。受験をして大学に行かなければ、やりたいことがやれないと思い込んでいた。全くの間違いだった。確かに大学での日々はやり尽くし感がある。一刻も無駄にしないで使い切った。それ以降はどうだろうか。大体はやりたいことをやるだけだった。それでもいまだ雑務が押し寄せてくる。困ることにはこれが雑務と言い切れないからだ。

 

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将棋名人戦の結末

2018-03-05 04:18:18 | 身辺雑記

将棋名人戦の最終日の一斉対局は、将棋界の一番長い日といわれ、アベマテレビの生中継まである。決着は翌日までかかるのが普通だから、言葉通りの長い1日である。本来A級棋士は10人である。10人で戦い、名人挑戦者を決める。ところが今年は11名がA級に在籍する。三浦9段に対するスマフォ濡れ衣事件の結果である。私の把握した情報では渡辺元竜王が三浦9段と対局した際の報告に基づいて、出場停止が決まったようだ。三浦9段は竜王挑戦者になる可能性があるところ、出場停止処分にされたのだ。渡辺氏は三浦9段と戦いたくないから、怪しいと申告した可能性は否定できない。ともかく、三浦9段はひどい仕打ちにあった。調査委員会が明確に将棋連盟の間違いを指摘し、三浦9段の冤罪は晴れたのだが、怪しいと主張した渡辺元竜王には何ら処分はなかった。

人の名誉にかかわる問題で、怪しいと名指しするようなことは、許されることではない。1000%黒だと主張した棋士まで存在したのだ。こうした愚かな棋士の主張は常にあることだろう。何しろ現役棋士で理事会が構成されているのだ。三浦9段を貶めることが、自分の有利に働く可能性がある体制なのだ。渡辺元竜王はまさにそういう立場の人間で、三浦9段を出場停止にした人物と言わざる得ない側面がある。結果的にはそのような結果になってしまったのだ。自分が戦った時の様子を理事会の聴取に答えている。その聴取が判断に作用したという意味で一番重かった。三浦9段は一人で研究するタイプの人だ。今では当たり前のことだが、コンピュターソフトで将棋を研究してきた。コンピュターが見つけるような手を指す傾向があったのだろう。そこを疑われたわけだ。今ではソフトの方が強いということは当たり前の話で、ソフトで研究しない将棋棋士はいないだろう。

三浦9段は前期名人戦リーグは途中で打ち切りになってしまった。そこで、理事会の裁定で、今期は特別にA級に加わり戦うことになった。そしてついに最終戦で宿敵ともいえる渡辺永世竜王との対戦が組まれた。この対局で渡辺氏は負ければA級陥落である。三浦9段は残留である。誰も、どこでも、何も騒がなかったようだが、私はかたづをのんで見守っていた。この一戦を正義は勝つという戦いであってもらいたいと願った。二人は顔を合わせないで戦っていた。そして見事に、三浦9段が勝利し、渡辺元竜王はB級に陥落した。これでもスマフォ不正をしていたという人間の姿だった。冤罪を生んだ人間がA級にいることが出来るはずがない。渡辺氏は三浦氏に心より謝罪をしない限り、A級に戻ることはできないだろう。人間の心ははそういうものだと考えている。

ソフトが登場した以上将棋は変わらなければならない。名人戦の様に2日制の場合一日目夕方指し手が封じられると、翌日再開まで、15時間空白の時間がある。この間徹底してソフトで研究することが可能である。コンピュターを持ち込んではいけないとなっていたとしても、仲間が研究することは自由だ。その結果を伝えることは現状では可能だ。江戸時代の名人戦では、時間制限がなかったから、そういうことが行われていたのだ。これがオリンピックの競技であれば、どのように管理するのだろうか。2日制をやめる以外にない。不正をやるような人間は数は少ない。しかし、渡辺氏のような安易な行動に出る人間は結構存在する。しかも、渡辺氏自身何が悪かったのという程度の態度である。人を傷つける人間という物はそういうものだ。問題行動までも自覚できない。また問題が起こる前に、規則の変更が必要になっている。

 

       

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