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稲作の40%経費削減

2013-05-31 04:10:46 | 稲作
政府自民党の主張する稲作では、経費を40%削減することになっている。これはよほどのことである。電気作るのに、40%の経費の削減を要求することはしていない。何故、稲作だけここまで厳しい要求が起こるかである。農家は経営を合理化せず、適当にやっているに違いないという思い込みがある。農家も経営に必死である。農家の責任にすることはよしてほしい。ワタミの社長も自民党から立候補するらしいから、ワタミ農場で補助金抜きで40%の経費削減を実現してもらいたい。その形が実現できてから、主張するのでも遅くはない。電力の生産費を40%削減しようとしても、円安というようなことが起こり、むしろ電気は高くなる。農業では、規模拡大と、大型化が主張されている。雇用労働力で稲作もおこなわれるのだろう。問題は、規模拡大と、農地の集約化。これは何年も主張しながら、出来ないで来たことである。新しい要素を加えない限り先に進まないだろう。その新しい方法とは、耕作放棄地の強制的な借り上げのようだ。

政策として行われるのは、補助金を出して企業参入を推進するということになる。補助金が終わってもその企業は日本で農業を続けているだろうか。はるかに安く生産できる、海外に農場を移転して行かないだろうか。日本でのお米が利益が出ない場合、生産業の工場の海外移転と同じことが起こるだろう。シャープが新亀山工場を作ったとしても、採算が合わなければ工場を休止せざる得ないくなる。同じことが農業で起こる可能性は高い。どういう理由で、日本国内での生産を続けさせるのだろうか。税金の優遇とか、補助金とか、導入せざる得ないことになる。企業が日本の農地を管理してくれる仕組みを作るには、もう一工夫が必要になる。この場合、それをもらえない農家はさらに追い込まれるだろう。農産物は気候や自然条件で、どこでも同じ生産性で出来る訳ではない。まして、農地保全、自然環境の保全、こうした要素を無視した収奪的な農法と価格競争しなければならないとしたら、食糧の安全性ということも問題になる。アメリカでは遺伝子組み換えを行うだろう。自分が食べるためではないならば、安全の基準が整備されていない、安全基準ギリギリの方向に、生産経費の削減を広げてゆく。

もちろん、規模拡大も必要だし、大型機械の導入も必要である。日本にもそういう経営が可能な、地域は存在する。北海道のようなところ、大型化が可能な地域では進めたほうがいい。八郎潟の干拓地のような大型化可能な農地では、自由な稲作が許されないというのではだめだ。小田原の稲作は大型化は出来ない。たぶん日本中に広がる、中山間地の棚田のような、一枚が1000㎡以下の変形の田んぼをどうするかである。このまま競争原理の正義を持ち込めば、さらに耕作放棄が広がる。そういう本当のいいの放棄地は、企業は使わない。そして、集落が消滅して行く。限界集落対策も同時に考えなければならない。結果日本の地方の中山間地全体がどうなるかも見極めて置く必要がある。林業が放棄されて、水害や土砂災害が増えると同様なこと起きないか。瑞穂の国の稲作文化が消えてゆくということになる。これは日本人が日本人でなくなるということだ。安倍氏が本物の日本主義者なら、このことの意味はわかるはずだ。

新しい形の田んぼの維持法を考える必要がある。経営ではない稲作の実現である。学校田のようなものだ。日本人が日本人であることを、守るための田んぼである。大型化も出来ない。大型機械の導入も難しい。こうした中山間地や、住宅混在地域の水田地域の中で、自然環境の要因、住宅地域との位置関係、環境保全的意味合い、どうしても田んぼとして残した方がいいと考えられる水田を、地域を決める。ここで耕作放棄が起きた場合は、公的機関が借り上げる。そして、市民が耕作する。市民による耕作は農の会が行ってきたやり方も提案できる。自給のための水田である。経営とは別の目的での農地利用を国が認めることである。この地域での水路整備や、石垣の管理などには、公的な補助も行う。保全水田地域として認定した場所には、地主、行政、耕作者で管理組合を作る。この項はさらに細かく書きたい。
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大麦の刈り取り

2013-05-30 04:23:46 | 自給

刈り取り前の大麦


ケイトラに積んだ様子。

昨日早朝、大麦の刈り取りを行った。前の日に刈ればよかったのに、色々やっているうちに夕方になってしまい、刈ることが出来なかった。天気予報では、夜雨になると言われている。何故、無理しても今日やらなかったかと、がっかりしてしまった。これでしばらくは大麦の刈り取りが出来ない。田植えが優先である。雨もこれから多くなるだろう。大麦は諦めなければならないかとまで考えた。農作物には、この一時間しかないということがある。その時を逃すと、収穫できないということが起こる。そういう年は前にもあった。もう少し、充実させてと思っていたら、その夜に獣に食べられてしまうということは良くある。昨年の小麦は猪の被害で、全滅であった。ことしは、雨でだめかと思いながらがっかりして寝た。それが、朝起きたらば雨が降っていない。暗い外に出てみるが、地面が乾いている。躍りあがらん気分で、明るくなるのを待った。

六条大麦の種が1800粒(70グラム)目の前にある。この種を蒔くと、5坪に成るそうだ。実れば5キロの収穫に成る。71倍に成るということである。ヨーロッパの小麦作りは5倍に成るというようなレベルから始まったらしい。ということが11月4日のブログに書いてある。そして昨日の6月30日に刈り取りができた。大麦を作るのは、要するに麦茶を作ろうということが主目的である。余分にあれば、麦芽を作りビールまでやってみたいと思っている程度だ。ビールまでは出来たことが無いが、麦茶はとても良い飲み物だ。売られているものとはまるで違う味わいがある。麦茶はそもそもあの香ばしい麦の香りを楽しむものだ。その香りが抜けているとしたら、何を味わうということだろう。香りのような微妙なものは、肥料の影響が強い。化学肥料では美味しい麦は出来ないと思う。あの新鮮な麦を炒った香りというものは、他に代え難いさっぱり感がある。炭酸飲料の清涼感とは異なる清涼感がある。

大麦を播いたのは、11月8日である。大麦は播種の時期にそれほどの厳密さはいらないようだ。年末に播いたこともあったが、十分に出来た。鶏の餌からこぼれて成長している大麦は穂が大きく立派であるが、まだ緑のままである。今度これを炒ってお茶にしてみる。どちらが美味しいかである。昔はこのこぼれ種から芽生えた大麦を増やして作っていたのだが、六条大麦という名前に惹かれて今年は種を買って作っている。確かに六条あるが、穂がずいぶん小さい。良く出来たと思うのだがどうなのだろう。麦踏は良くした。二畝に播いたのだが、写真のように溢れんばかりに分げつした。スズメの来襲も全くなかった。まだこぼれるような状態でもない。倒れたところもない。五キロ以上あるのだろうか。現在機械小屋に、干してある。脱穀が楽しみである。

大麦の畝を作る前に、鶏フンたい肥は入れた。全体で15キロほどだったと思う。野菜を作った後だった。堆肥は時々入れている。土はとても良くなっている。20mほどの畝に全くムラのない成長である。畑が出来てきていることがよくわかる。追肥を兼ねて土寄せを一度した。小麦に比べるとずいぶん太い麦わらである。ストローならすぐにでも出来る。麦わらストローで飲んだカルピスをもう一度飲んでみたい。そういえばあのころは、氷などなかった。麦わら帽子も出来るのだろうか。こうして見ると、確かに日程的には、田んぼの裏作で大麦は出来る。田んぼの裏作で何もやらないでいても、とやかく言われることはない。しかし、麦の裏で畑を空けておくと、なんで放棄しているのかと言われる。それで、麦の表なのか裏なのかでは、大豆を作ることにした。これは上手くゆく。大豆は苗を作るのだが、6月末の播種だから、余裕がある。

昨日の自給作業:大麦刈り1時間 水路の泥さらい2時間 累計時間:39時間
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良識派はいないのか

2013-05-29 04:46:19 | Peace Cafe
自民党は、「96条」の改定に本気のようだ。「9条」の改定に向かい合うことは憲法論議であるが、96条だけを問題にすることは憲法論議ではない。96条は改正の規定を示している部分に過ぎない。もし、自民党草案が理想だと主張するなら、改正ではなく新憲法制定である。革命をやるのだから、3分の2どころか、多数決すら存在しないはずだ。96条から問題にするなど、いかにも卑劣な政治的手法である。こういう裏をかくような手法は、日本の将来ののためにならない。憲法学者の中にも、このやり方を支持する人がいるということが、信じられないことである。何故、自民党の中にこの程度の良識のある人はいないのか、全く不思議な気がする。まさか、自民党の沢山の議員が、96条の改定から憲法を問題にすることが、まともな政治手法だと、考えているとは思いたくない。何故自民党の内部でそうした、本当の議論が巻き起こらないかである。政治家とは言え、社員のようなもので、党の決め事にただ従うというだけの人間たちなのか。

自民党では、河野太郎氏は自分の主張を持っている。96条の改定については、発言しないようだが、見落としているのだろうか。ただ、執行部に従うだけで、自分の意見を持たない、あるいは、ものを言えない人間たちの集まりになってしまったとするなら、日本の政治はこれで終わるだろう。まさかそれほどひどいことはないだろうという気持ちと、ここまで、レベル低下してしまったのかという恐怖がある。原因は、政治家が2世議員、3世議員で構成されていて、無難ではあるが、覇気がないということがある。それは、多くの日本の企業が抱えるている課題でもあるのだろう。公教育の立て直しが言われる。要するに、韓国や中国のような、競争を激しくしなければ、役立つ育たないという考えだろう。そこが間違っている。学校の学習競争をいくら激しくしても、役立つ人材は現れないだろう。同じことが政治家にも言える。

小選挙区制では、地盤というものがより重要になっている。日本はこの政治風土を変えなければならない。小選挙区制の地盤というものは、政治思想とは関係が無い。無難な人が有利になる。例えば、河野洋平氏の地盤を、誰に譲るのかということが言われた。そして、牧島氏に決まった。外部から来た人間ということで、うまく引き継ぎは出来なかった。そして、民主党の流れで神山氏が当選した。しかし、神山氏も地盤というようなものを作り上げることなく落選した。1期の議員の期間に、どういう体制を作ろうとしたのか。見えないまま現状に至っている。牧島氏と河野氏とでは政策が違う。違うというより牧島氏は政策を示さないことで、地盤を作ろうとしているのだろう。河野氏は護憲派の人だった。ホームページを読む範囲だが、牧島氏は対立する課題に対しては、政策を出来る限り示さないことが方針に見える。自民党チームの一員であることを重視しているらしい。自民党執行部の決定事項に従うことがすべてのようだ。

人材が居ないという訳ではない。豊かな社会になって、質の良い人間は増えた。良い人は多い。悪質な人は減った。衣食足りて、礼節を知るは、間違ってはいなかったと思う。しかし、政治家はそれだけではだめではないか。この地域の民主党の衆議員議員だった、神山氏は礼節を知る好青年である。良い大学を、よい成績で卒業し、さらに松下政経塾で勉強した人である。しかし、雑草魂というか、田中角栄氏や河野一郎氏の持っていたような、常識人を超えたバイタリティーのようなものを感じなかった。穏やかで状況を踏まえて、角をたてないタイプだと思う。減衆議院議員の牧島氏に至っては、人間の個性とか、覇気を感じさせないよう隠している。執行部に対して、たとえ違うと思ったとしても、異論を唱えるような行為は取れないであろう。やはり、小選挙区制が良くない。議員を小粒にしている。
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久野川の河川管理

2013-05-28 04:03:47 | 里地里山
川は地域の動脈である。山と海をつなぐ要である。山の状態や海の状態は、川の姿を見ればおおよそ見えてくる。丹沢の広大な山と相模湾の関係は、酒匂川に表れている。同じように、明星岳、明神岳の箱根外輪山と小田原の海との関係は、久野川に現われている。久野川も下流域の状態を見ると、残念ながら生活雑排水路のように見える。3面コンクリート張りの下水道のようにも見える。上流部もほぼ河岸の工事が行われていて、自然河岸の状態の場所は極めて限られている。特に舟原と和留沢地区の中間から下流のほとんどは、河岸はコンクリート化されている。同時に河床には段差のきつい個所や、曲がりの大きな場所には、コンクリートの巨大なブロックが埋め込まれている。何度も水害があったから、水害を防ぐために、繰り返し工事が行われてきた結果であろう。中流域の辺りから下流では、平野部に入り蛇行していた久野川が、コンクリート張りの直線に変えられ、周辺にあった水田はすべて住宅に変えられた。

こうした土木工事のおかげで水害は相当に防げるようになった。しかし、近年ゲリラ豪雨が毎年発生している。以前は時間雨量でせいぜい50ミリだったものが、72ミリの新記録で驚いたのだが、すでに100ミリになっている。そのために、川の様子は大きく変わってきている。コンクリートブロックがえぐり取られたり、自然護岸のところでは、土が洗われてしまい、大木の根が露出している個所もある。山の状態は以前よりは良くなってきているようにもみえるが、昨年6月の豪雨では山の斜面が大きく崩れてしまった個所が4か所ある。木が表面を覆っていれば大丈夫とも言えない、深層崩壊に近い土砂崩れが起きているようにも見える。当然その土砂は今も削られて流されている。そういうことが川の生き物に大きな影響を与えているとも聞いた。下流の東洋橋での避難判断水位は1,40センチである。ここにはカメラがありいつでも見ることが出来る。これを超えることが毎年起きている。舟原にも雨量測定地点がある。

矢住芝という観測地点は、箱根町と表示はされているが、和留沢の観測地点と考えていいと、小田原土木では言われていた。矢住芝(足柄下郡箱根町木賀)の住所表示が間違っているのか。現在この点は確認しているが、返事が無い。舟原の土砂災害危険地区の予測に役立つはずだと考えている。位置確認が必要である。まだ土石流避難勧告は出されたことはない。この判断をするには、データーが不足してい手出せないのが現状であろう。舟原でいくら観測して居ても、舟原に起こる土石流の判断はできない。その上流部の状態が気がかりなのだ。山の管理が良くなれば、土石流災害の危険は減少する。しかし、山が今より良くなる可能性は、少ない。林業が健全に行われることは考えにくい。では巨大な砂防ダムを作るということになるのかと言えば、全国にはレッドゾーンにもっと人口が密集している個所が膨大にあるそうだ。舟原のレベルのリスクでは、防災砂防ダムが造られることはない。

そうなると、やはり、的確な避難である。現在の舟原の一時避難場所や防災倉庫は、レッドゾーンの中の公民館である。これを安全な場所に移動することが必要であろう。イエローゾーンの場合、堅固な建設物なら、避難場所になるということらしいが。そういう場所も建物も現在の舟原にはない。公民館を場所を変えて立て直す必要がある。行政も安全対策として、補助をするぐらいの考えはないのだろうか。いずれ将来安全な場所に移築するということは必要だろう。当面は緊急避難的に、不便であっても小田原市の斎場に避難するのが、次善の策にも思える。斎場が一番近い、公的な建築物だ。食料も水もある。防災倉庫ぐらい置かせてもらえる余地はありそうだ。駐車スペースもあるから、車での避難もできる。距離的には舟原の一番遠い住宅から、1キロくらいだろうか。問題は舟原地区内ではないことである。現状では、レッドゾーンの中の避難場所表示を止めることだろう。
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話し合いの意味

2013-05-27 04:41:23 | Peace Cafe
小田原評定久野談義という言葉が、久野には残っている。これは後世に伝えなければならない言葉だと思う。小田原評定という言葉は、議論ばかりしていて、いつまでも決められないことを意味している。敗北の受け入れか、徹底抗戦かが、決められないで長引くというのは、第2次世界大戦の日本軍の態度と同じで、小田原北条氏をあげつらうことはない。軍事力に頼るものの敗北はそんなものだ。正しい判断を大名に期待する方が無理という意味にもとれる。それに加えて久野談義とあるのは、小田原評定よりもさらに時間がかかる相談という意味である。地域社会には多数決という考え方がないのだ。とことん話し合って、2晩3晩かけて相談するのが、地域の伝統的な相談方法だ。これは、壱岐でのの決め事での、泊りがけの話し合いの記録が残っているそうだ。古来、地域にかかわる暮らしの物事を決めるということは、よほどの時間がかかるということである。

農の会でも、会の運営費をどうするかで話し合いがある。もう半年もかけて決まらない。決めてゆく過程で、色々のことが明らかになってきた。農の会の運営にかかる経費が、年間10万円と共有の認識になってきた。そしてこれをどう割り振るべきなのか。市民的な参加者と、農業者的な参加者とは意味が違うから、農業者から会の経費は取るべきではないというのが、農業者自身の意見である。最初は少々驚いたが。経費を負担しない会員がかなりの占めている組織である。払うものと、払わないものの、地位が変化して行くのではないか。払わない農業者は代表にはなれないのか。平らでないというのは良くないなと予感する。税金を免除されている存在の方を選択する感覚は、農業者的感覚なかもしれない。どう決めるのもいいと思っている。みんなが納得できる形であれば、それでいい。決めてゆく過程が大切である。時間をかけると、声の小さい人の声が聞こえてくる。どうでもいいと思っていた人も、考えるきっかけになる。

安倍総理は、96条の改定を主張している。3分の2の縛りを、多数決で決められるようにしようとしている。安易な方向への改定である。こんなことから、憲法改定の論議を始めようとしたのは、ずるい人間なのだろう。堂々と、9条の改定を話し合うことが必要である。正面から、大いに検討してもらいたいと思う。それは、国会での3分の2の縛りの中での議論が望ましい。国会の3分の2の縛りが、話し合いをせざる得ない状況を作り出している。このハードルを越えても、9条を変えなければならないなら、さすがに認めざる得ない。国民投票はその確認のようなものになるだろう。国民自身が国会での深い議論を見守り、何年もかけて考えるべき日本の未来だ。国のかたちを決める憲法論議である。徹底して話し合い考えることこそ大切なのだ。公明党と自民党のいう、熟議を見ればわかる。結論はすでに出ている熟議だろう。どう擦り合わせるかという、頭数の問題だけなのだ。もし熟議と言うなら、その議論の過程を公開すべきだろう。

民主主義では、多数決は正しい手法ではない。日本での決め事は、とことん時間をかけて話し合い、落とし所を見つける。全員の合意や納得が、あるいは反対者が諦めるまで、議論をした。そしてどうしても落とし所がない場合は、信頼できる頭に一任する。ここが重要である。常日頃、地域の頭領を育てていたのだ。今の平等社会は、これが失われた。あの人の言うことならと、信頼される人がいる地域が、よい地域として成長した。頭領を持つ意識は、頭領を育てる意識でもある。天皇と日本人の関係のようなものかもしれない。文を持って治める。信頼し、尊敬できる存在。そういう存在がなくなった社会において、どうやって対立的な話し合いを持てるか。口達者な存在が小泉劇場を演出するような社会や、組織は大失敗をするだろう。ともかく、回りくどいようでも時間をかけて話し合うことが、声の小さい人間の気持ちを大切にすることになる。

昨日の自給作業:代かき、均し、畦塗、6時間 累計時間:36時間
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65までにやりたいこと

2013-05-26 04:06:06 | 身辺雑記
周辺との関わりのあることの整理が終わるのを65歳と考えている。つまり、後28ヶ月である。自分がいないことが迷惑にならないようにしたい。逆にいえば、65歳以降は自分がいなければ成り立たないような活動は一切しない。社会的でない自分という人間と向かい合って、という状態になって、自分の結論を探りたいと考えている。具体的には自給自足の暮らしに集中して、絵を描きたいと思う。現在はそこまでの面壁9年である。このブログを始めたのも、その一環である。千日回峰行というのも、9年間かかるらしい。その程度はやらなければ、一つのことも見えてこないということなのだろう。中川一政氏は真鶴の福浦港で15年同じ場所の絵を描いたそうだ。同じような絵を生涯描いている絵描きは普通であるが、自分の絵が分かるまではという覚悟で描き続ける姿勢を学びたい。絵を描くということは、自分という存在が、生きることをどこまで深められるか、探れるか、味わうことができるかだと思っている。

畑や田んぼを耕作することと絵を描くことが、自分の中で一つになることに向かっている。座禅修行をするというような形がどうも自分には合わない。社会とつながるような意味あることは一切が修行の邪魔だという考えが、自分には取れなかった。しかし、関係性の中で存在する自分だけでは、自分の底までたどり着けないということもありそうだ。絵を描いて、畑を耕して、自分の見ているものを通して、自分の生命の姿を突き詰めたい。自給の畑を耕すということも同じである。私のような俗な人間には、具体的な形がないと、修業が落ち着かない。そこがダメなのだと言われればそうかとも思うが、いまさらのことだから、この点では自分流で行くつもりである。そのために65歳までは、一応の社会的な役割の整理の時間でもある。自治会の役員を引き受けたのもそのためである。65歳以降に頼まれたら困るからである。

当面やることは自給農業のまとめである。たぶん結論までは出せないだろうが、65歳までなら身体を動かしながら、技術確認が出来るだろう。最も楽な自給自足法である。お米、麦、大豆、はだいぶ結論が出てきたが、野菜栽培はまだまだである。これを具体的にこの2年間で確認して行きたい。野菜作りは、土作りが主体になる。土が良くなれば、野菜はできる。その道筋を、それぞれの野菜に適合した、楽な土づくりの手順を考えたい。食糧自給をやりたいと考える人の多くは、化学肥料や農薬を使いたくないと考えている。今後ますますそれは当然のことになるだろう。草を抜かないで良いなら簡単そうだと、自然農法を始めてみる。ところが上手くゆかない。初心者がリンゴの木村さんや、自然農法の福岡さんにゆく。本格的な農業家が自然栽培を志したのだ。素人がやる場合には、誰でもそこに行きついてしまうような、わかりやすい手順が必要である。ここに私の役割があると思っている。

どこまで草取りをしたらいいか。どこまで草を取らない方がいいのか。外から物を持ち込むことは良くないことなのか。こういうことは土の状態でまるで違う。土の状態は生えてくる雑草の見方も整理する必要がある。1年目と2年目の変化に気づかなければならない。こういうことは専門家でもとても難しい。だから、誰がやってもそうなってしまうような、わかりやすく、楽な農法を整理する必要がある。作物を作りながら、土を良くして行く方法。もうひとつ大切な考え方だが、食料自給は田んぼから入るべきだ。一年間の自給が60キロとするなら、100平米の田んぼでも可能ということになる。つまり、10家族なら、2反から3反の田んぼで何とかなる。その方がはるかに楽である。主食になるお米を確保するということが、まずやるべきことだ。麦、大豆も必須である。その上での野菜である。人のための農業技術も65歳までに何とかしたい。
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粗起こしから代かきまで

2013-05-25 04:21:22 | 稲作
粗起こしから代かきまでは、小さな乗用耕運機で行う。面白い作業である。田んぼでは草を生やしすき込み腐植質を増やしたいと思っている。出来れば、蓮華や、菜の花など蒔けばいいのだが、種が高いし、海外の種を買うということがどうもすっきりしない。自分たちで種どりして蒔いたこともあるが、その手間が大変すぎる。せめて生えてくる草を大切に漉きこんで使う。田んぼには、前年の稲藁が堆肥として積んであるので、まずそれを全体に散らばす。生えている草はそのまますきこんでゆく、ロータリーの歯に絡むので時々取りながらである。生草ということもあり、出来るだけ浅く耕す。この作業が終わったのが、5月19日である。少しあった蓮華が種になるのを待っていた。種を蒔かずに蓮華が再生している田んぼも酒匂川周辺の平野部の方だとある。欠ノ上でもそうなればいいのだが、寒い為かそうはならない。秋起しをした方がいいのか、これも課題であるが効果と経費などを考えていまはやらない。

粗起こしが終われば、水を入れて代かきである。今までは、水入れを田植え直前にしていた。ざっくりした代かきほどいいと考えていたからだ。しかし、田植えがやりにくいと少々不評であった。直前に水を入れるのは、田んぼ雑草対策である。水入れから、雑草は1から2週間ぐらいで発芽を始める。発芽時に叩きたいので、水入れを田植え前日というような離れ業をやってきた。しかし、これでは良い田植え作業が出来ないし、欠ノ上のように、11枚に分かれている棚田では、上から順次水を溜めて回さないといけない。代かきの手順と時間が大変すぎた。そこで、今年は雑草対策はソバカス抑草でやってみる。トロトロ層を出来る限り作る方法である。もう一つは植え代かきをやることにした。場所によっては二度代かきである。手間になるし、やりたくはないのだが生えてきた草を、田植え前にもう一度叩くという作業はやるだけの価値がある。

その意味では、一度代かきで済ませて、後はトンボで均しをやる方が良いかもしれない。昨日一枚だけ均しをやってみたが、狭ければ大して手間のかかるものではないようだ。この均しをただ平らにするというだけでなく、表面を引っ掻いてやるという作業にして、発芽を始めた種を浮き上がらせるなり、潜らせるなりしてしまう。これは田植えにある程度近い方がいいということだろうか。田んぼにより違うはずなので、観察である。水の湧くグズグズのところは、水をきって固めるのも良いかもしれない。田植え2週前から代かきを始めるということは、初めてのことなので、丁寧に様子を見て進めている。それにしても、がけ崩れが起きて修復した田んぼは、石がおおいい。1キロくらいの石を中心に、軽トラック1杯は拾った。これで、工事を行った業者は石は一切入れなかったと主張している。どういうことだろうか。根気よく拾う以外にない。

代かきでは平らに耕すことを目標にしているが、これがうまくできない。どうしても高低差が出来てしまう。畦塗をするので、田んぼ周辺の土が減ってしまう傾向もある。これをトンボで均してゆく。発芽した草をかき回して、草取りが出来る。昨日までで、4番までの一回目の代かきが終わった。4晩だけは1日の苗採りが終わったら、午後代かきをもう一度やる。今日明日で、8番までは終わりたいと考えている。余裕があれば、9番にも同時に水路から水を入れてそこまでは終わらせることが出来るかもしれない。いずれにしろ水が最後まではいらない10番だけは、そのあとになる。そして、それぞれの田んぼの均しと畦塗である。来週は2日の田植えを目指した、最終的な準備である。1日には苗採りをして、各田んぼへ苗を配置する。

昨日の自給作業:粗起こし、代かき、畦塗、4時間 累計時間:30時間
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96条改定派の学者

2013-05-24 04:41:33 | Peace Cafe
96条の改定は、政治の都合だけの主張だと考えていた。まさか憲法学者にそういう考えの人がいるとは思っていなかった。ところが驚いたことに居たのだ。京都大学の憲法学の大石教授は96条の3分の2要件を過半数に変えることに、賛成だそうだ。理由は、「国民に憲法を問うことはいいことだ」が理由らしい。これが学問の結論かと思うと、まともな憲法学者とは思えないのだが。もっとちゃんとした法理論が必要である。弁護士であった橋下氏も、96条改定賛成を主張している。法の精神というものは、そんなご都合のものであろうか。悪法も法なりというソクラテスは法を重く見すぎか。少し反省もした。探してみたら、高崎経済大学・八木秀次教授も同様の意見だそうだ。しかし、この人の場合さらに驚いたことは、改憲の必要性がたくさんあるので、96条をまずは変えたいという実務的な考えである。変えるべき問題があるなら、正面からその問題を議論するのが学者ではないだろうか。

憲法が改定が3分の2の発議が良い理由は、日本という社会の状況にある。国民の意見が国の基本に対し、大きく分かれているからである。軍隊を持った方がいいという人と、軍隊を持つべきではないという正反対の考えの人に分かれているからである。現状では、自衛隊ぐらいがいいという人が多数派か。しかし、憲法で持つことはできなくなっている。そこで、憲法解釈論で、自衛のための軍隊である自衛隊は合憲であるという、無理のある解釈でここまでやってきた。それが、日本の戦後の経済成長の大きな要因であったと考えて間違えがない。軍事費があまり要らなかった。もう一つは、日本の再軍備を不安視していた、世界中から、受け入れてもらうことが出来た。このあたりがあって、日本は、軍事力ではなく、経済力で世界での地位を確保しようと頑張ることになる。この間も、当然再軍備すべきという勢力は存在したが、少数派であった。これほど国論の割れている先進国はない。だから、憲法改定は出来なかったし、簡単にすべきではない。

憲法9条のもつ、理想主義と現実社会の矛盾に国民全体が向き合う必要はある。その意味でまず憲法を十分に読み、議論することは必要なことだ。ところが、驚いたことに、9条を議論することを避けて、96条を変えてしまおうという、驚くべき変則手法が登場した。本音は自民党憲法草案がすべてであろう。隠している訳ではない。ところが、それを正面から議論すれば、憲法改定は出来るわけがない。選挙をして、3分の2を取ることは不可能と考えたのだろう。96条だけを正面に出して、憲法を変えやすいようにだけまずする。こういう悪質な政治手法だと思っていた。ところが、こんな国民を欺くような憲法改定を、持ち出すにあたって、憲法学者の中に96条を過半数に改定することに賛成する人間がいたのだ。学者ならその根拠をわかりやすく説明する義務がある。

大石教授は「最初の発議要件のハードルを高くしたまま憲法改正の入り口を閉ざす必要はない」と主張している。国民投票を重視している考えであろう。国民投票に行く人の過半数が軍隊を持ちたいという人であれば、憲法を軍隊を持つと変えた方がいいという考えとなる。憲法というものが、一時期の感情に流されていいものとは思えない。日本の100年先まで、見通す方向性を定めるものである。その時の感情論の、しかも投票者の過半数で決めるということになれば、時代の空気で国民の投票は流される。大石教授がなぜ、憲法というものを大切にしないのかが、不思議でならない。大石教授の本当の理由を調べても良くわからない。国民に判断を任せようという考えなのだから、憲法学者として、96条改正論の論拠を、わかりやすく国民に示すことが、京都大学教授としての義務ではないか。もし、どなたか、大石氏の主張が書かれているものがあれば教えていただきたい。
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食事の習慣

2013-05-23 04:35:10 | 暮らし
食事のあり方は、時代で異なる。古い時代には朝餉、夕餉というように、2食が一般的である。僧侶の世界では、食事は午前中のみである。河口慧海は午後食べると、神通力を失うように書いている。夕食は薬席ということになっている。年代的にも、労働条件によっても、食事の量というのは変わるものだろう。良い食事というものは、空腹になったら食べるものと思っている。時間が来たから食べるというより、お腹が減って食べるということである。鶏を飼っていて、空腹を味あわせてから、餌をやるというのは極意の一つだと思う。しかし、とても難しい技術だ。だから、不断給餌で常に食べさせておく方が、まだましということになる。多くの犬はむら食いである。たいていの犬は、あるだけ食べようとする。ムラ食いが普通である。飢餓の中で作られた習性だろう。肉食獣など、週1食が珍しくない。

猫を見ていると、犬以上にムラ食いである。吐き出すほど毎食食べる猫もいる。獲物があるときには食べておかなければという、習性が強く残っているのだろう。食べないとなれば、何日も食べない猫もいる。1ヶ月くらい食べないとしても、持ちこたえるように出来ている。鶏には、強制換羽という技術があり、10日から15日ぐらい食事をさせずに、体重を30%ぐらい下げる技術である。そうすると、羽が抜け変わるような状態になり、もう一度身体を活性化し、産卵率を回復し良い卵を産むとことになっている。残酷ともいえるこの技術ほど、鶏を卵を産む機械と考えた結果である。自然養鶏の人が、知識だけでこういうことを行い、共食いを始めたのを見たことがある。鶏の自然の状態から考えると、抱卵後半に餌を食べなくなる。この状態を再現しようということなのだろう。就巣性を取り除いておいて、断餌するなどひどい技術である。

人間は食料を保存できるようになって、食事のあり方が変わったのだろう。定時に食べることになる。その定時がどのあたりがいいかと考えてみる。朝お腹が減っている状態がまず大切な気がしている。腹減ったで起きるようなら素晴らしい。朝食は必然である。朝食抜きでは、良い仕事はできない。後はお腹が減った時間が食べる時だとすると、昼と言っても、私のように4時に起きる朝と、8時に起きる朝では、ずいぶん違うだろう。夜食べると良くないのは、寝ている間の消化がどうかと言われる。鶏では夜餌をやる方が、少なくて済むと言われている。餌を何度にも、4回ぐらいに分けて与える方がいいという人もいる。これも少なくて済むという考えである。私の感覚では朝夕2回やるのが鶏には良いようだ。しかし、今は私の都合で、朝1回にさせてもらっている。

人の場合お腹が減る時間というのはかなり習慣性がある。昼の11時ごろお腹が減りだすことが多い。減ってから作り始めて12時ごろ食べる。空腹を強く感じてから食べる方がいいような気がしている。それで夕食時にお腹が減ることがないことに気付いた。お腹が減ったら食べようと考えているうちに、夕食を食べない日の方が増えてきている。夕食を食べな良日の方が多くなった。食事の内容としては、朝目いっぱい食べることにしている。魚や肉や卵のたんぱく質はあれば朝から食べる。菜食より自分には合っている。食べる量は体重次第である。体重を55キロ中心で維持するようにしている。運動量が減っているし、代謝も下がっているので、食べる量も減らしている。何故か夕食を食べなくなったが、夕方お腹が減らないというのが、不思議ではある。
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原子力規制委員会の意味

2013-05-22 04:18:00 | Peace Cafe
日本原子力発電(原電)が、敦賀原発2号機(福井県敦賀市)の真下に活断層があると認定した原子力規制委員会の調査チームの専門家たちに、「厳重抗議」と題した異例の文書を送りつけた。――東京新聞

規制委員会と、規制される企業との間に、規制委員会に対する認識の自体の問題がある。本来であれば、国の設置した規制委員会の規制に従うしかないのが、一般の企業である。それがそうならないのが、原子力という国策企業の在り方である。国を国が取り締まることが出来るのかが問われている。食品であれば、内閣府に食品安全委員会というものがある。この組織で食品の安全について、研究審査を行い、基準作りを行っている。この組織に中立性についても、さまざま意見はあるが、食品安全委員会からリスクのある食品と評価されたことに対して、企業から各委員に対して、圧力的意見が出てくるようなことはない。不満はあるにしても、その範囲で食品を生産するしかないという態度が、一般の企業の姿勢である。消費者からは食品安全委員会の基準が諸外国に比べて、リスク評価が甘いのではないかという意見は良く出されている。

なぜ、日本原電という企業が活断層の判断に対し、異議を申し立てているかである。簡単に言えば、抗議をしていれば、政府が政策を変えて、覆るという判断があるからだろう。一方、規制委員会に任命された、地層の研究者たちはこういう圧力に対して、どう受けとめるかである。圧力を受けた以降判断を変えるとすれば、これはこれで原子力規制委員会というものの独立性が疑われることになるだろう。研究者としての立場はどうなるかである。こういうやり方を原電が取ったということは、裏工作が効果なかったということになるのだろう。今までなら、何やかや圧力をかけて意見を変えさせてきた。もんじゅの1万か所にも及ぶ、点検ミス事件を見ればその杜撰さと、インチキは明らかなことだ。適当にやって来たのだ。あの福島事故後ですら、この程度のレベルの安全意識なのだ。活断層ぐらい、適当にごまかして置けばいいのに面倒なやつらだ。というのが本音と思われる。

同時に出てきたのが、敦賀市長や、福井県知事の泡を食った対応である。地域の経済をどうしてくれるのかということが、顔に如実に表れていた。安全なぞ経済の前ではどうでもいいという本音が見える。今日のご飯が食べられないものが、明日の危険などどうでもいいという話だ。こうしてお金のためには命もいらないとやってきたのが、日本の恥ずかしい現実である。高度成長期の公害事件など、今の中国を笑うことなぞ出来ない。こうして政治が安全に絡んでくるというのが、そもそもおかしい。安全というものは、疑わしき場合はすべて危険としなければ成り立たない。土砂災害が起こる可能性がある。私の家がそういう地域に組み入れられたのは、起きる可能性であるが、誰にもわからないことだ。わからないけれども、そのリスクを考えた上で対応しようということだろう。

原発はすでに、新設できなくなっている。経済性からあまりにお金がかかるからだ。安全対策を考えたら、もう経済性がない施設になったのだ。アメリカでも新設がないそうだ。放射性廃棄物の処理にまともに取り組めば、経済性がなくなっている。だから、国が国策として「原爆を匂わせる作戦」をやめれば、もう経済的に要らない施設になった。だから、日本が原発輸出でもうけようという対象は、核保有希望国である。いわゆる死の武器商人を日本という国が率先して行っている。何が平和憲法国家かと、世界から見られている。こんな状態の安倍政権であるから、原電も文句を言っていれば、規制委員会ぐらい覆してみせるという腹だろう。黄色い朝が近づいている。100年の展望ある経済を考えたら、原発は損だ。
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「正しい」歴史認識

2013-05-21 04:14:45 | Peace Cafe
2005年8月15日に、内閣総理大臣の小泉純一郎が閣議決定に基づいて発表した声明がある。「戦争の惨禍で命を落とした者への哀悼と、不戦の決意の表明から始まり「植民地支配と侵略」によって諸国民に損害と苦痛を与えたことを認め、謝罪と哀悼の意を表するとともに再び戦争を起こさない決意を表明している。これは、敗戦50年に行われた、村山談話を踏襲するものである。わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。日本という国は、植民地支配と侵略の過去を認め、痛切に反省し、東アジアの近現代史を協力して研究して行くと、国際的に誓いを立てた。

安倍首相は国会答弁で、村山談話を踏襲しないような発言をした。しかし、今回菅官房長官が内閣として、村山談話を受け継ぐと改めて発言した。本来であれば正式に安倍氏が談話を出すべきだろう。自虐史観という言葉がある。自虐的に、自分をわざわざ悪者にして、蔑みの歴史観ということだろう。侵略という認識が、自虐史観だと石原氏は述べている。過去の過ちを認め反省することと、日本人の誇りとは別物である。安倍氏は歴史認識は学者に任すべきだと国会で述べたが、これはおかしい。歴史認識は日本人一人ひとりが持つべきものである。私の歴史認識を書きたいと思う。明治以来の、富国強兵、脱亜入欧の姿をどう考えるかである。江戸時代の完全否定に日本の存在価値を見ようとしたところに、明治政府の失敗があったと考えている。革命政権が過去の社会すべてを否定的にとらえるということは、ありがちなことだが、大切な江戸時代の自給的な人間の暮らし方まで変えようとしたことに間違えがあった。

これが、明治以降戦争を繰り返してしまった主原因だと考える。ヨーロッパの植民地主義が諸悪の根源で、アジアの独立のために日本は立ち上がったんだ。こういう主張が広く言われている。日本人の中には、白人の暴虐に対し、正義の戦いを挑んだ歴史認識の人は結構いるだろう。そう見えないこともないが、むしろ、白人の圧力を跳ね返し、間隙をぬって、アジアを植民地化しようとしたという歴史認識がある。両方の気持ちがあったのだろう。ひと儲けするために満洲に渡る人、大東亜共栄圏の正義の夢に掛けてアジアを雄飛する日本人もいる。側面によってさまざまに見えるというのが、歴史認識ではないだろうか。一辺倒に考えるべきでないのだろう。鎖国を力で解かされて、欧米の帝国主義に隷属されないように頑張ったところまでは、明治政府も大したものだと思う。その頑張れた主因は江戸時代に作られた日本人の優れた能力である。何も、富国強兵の結果だけではない。

重要なことは、日本人の視点から見た歴史認識と、朝鮮、中国からの視点による、正しい歴史認識は、裏返しになりがちだということである。沖縄が中国に帰属するという意見が中国にある。沖縄に暮らす人間は、一貫して日本民族である。過去、中国に朝貢したことはあるにしても、日本民族の一員であり、当然そこは歴史的に日本である。互いの未来志向を考えるなら、何が正しいかを、叫び合うことは止めた方がいい。それぞれの時代において、視点において、食い違いは起こるものだ。歴史認識となれば、対立することが当然だ。朝鮮と日本を併合した。教育も日本化し、日本名を名乗らせ、日本語教育も進めた。日本式神社を作った。これらは政府も認める通り、植民地化した歴史的事実である。その背景をどうみるかを含めた歴史認識は、事実を捻じ曲げるようではならない。この点は自虐的云々の問題ではなく、事実の問題である。
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自給農の稲:手植え苗づくり

2013-05-20 04:33:52 | 自給


前回セルトレーを苗代に置くところまで書いた。自給農業では手植え苗に合理性がある。1人100キロ食べるとしても、4人家族で400キロせいぜい1反の田んぼである。これなら4人で手植えすれば、1日仕事である。私の家のように、2人家族で120キロあれば足りるとすれば、せいぜい、3畝でいい、100坪である。このぐらいなら手植なら一人で一日でやりきれる。わざわざ田植え機の準備をして、後の掃除や、一年間の保管管理まで考えれば、手で植えた方がいい。苗作りも、機械苗を作るより、手植え苗の方が自由度がある。田んぼに置いた苗をその後、どのように管理して行くかである。一般的には保温ということを重視する。私の方法では発芽から育苗の間特別の保温はいらない。苗代に氷が張ったことが過去1度だけある。これではさすがにまずいが、霜が降りないぐらいの気温なら、良い苗が出来る。

と言っても寒いよりは暖かい方がいいので、保温シートは使っている。さまざまなシートを使ったが、結論として穴あきビニールが良いようだ。水温は出来る限り上げるために、一枚上の田んぼを代かきして貯め水にしてから入れている。そして排水口から水をわずかに流れ出ることもある位の、貯め水である。小田原の場合、5月初めで早朝は10度以下にはなる。昼12時で27度前後。午後は30度を超えるくらいになる。今までで一番高い水温が37度であった。水の深さはとても重要で、発芽がそろうまでは、水没をさせたない。水没がないだけでなく、ときどき水を切ることもした方がいい。酸素の供給を行う。水没すると発芽率が極端に悪くなる。その後適度に芽がそろったところで深くして行く。深さは稲が水没しない深さ。成長に従い水深を深くして行く。シートをはがすのは、天候次第であるが、遅くと御田植え1周前には取り外す。欠ノ上は19日4週目でラブシートを取った。

今年の場合、4月の21日播種で田植えを6月2日の目標で進めている。6週の育苗である。これだと、4葉期ぐらいではないだろうか。以前はもう少し長い育苗をしていた。5葉期を目指していた。まだ迷っていることではあるが、出来ることなら早めの田植えにした方がいいと考えるようになった。結局苗床で育てているより、田んぼに植えてしまった方が、稲にとって環境がいいと思うからだ。苗床ではどうしても密植である。田んぼは広々して居るのだから、田植えが出来る、やりやすい大きさになれば、植えてしまった方が良いと思っている。何故、5葉期の苗作りを昔の人が、目指していたのかが、よくわからない点だ。ただし、稲の水没は良くない。また浅水管理は草を生やす。出来れば8センチの水深を田植え後維持したい。そのためには、苗は20センチぐらいの大きさは必要である。

稲は厳しく育てた方がいいのか、甘やかして育てた方がいいかである。迷いながらも、甘やかして、大事に育てた方がいいような気がして来ている。一度でも寒さなどにあてて、いじけると、どうもその後分げつや、穂の大きさにも影響するような気がしている。肥料をたっぷり与えて、というのも考えものだが、良い環境で滞りのない成長をさせる事の方がいいように思えてきた。その意味で、4月21日の播種をさらに遅らせ、28日にして、田植えを6月9日にする方がいいのかもしれない。この場合、小麦の刈り取り作業は16日で一応は大丈夫なのか。梅雨入りが15日と今言われているから、小麦の刈り取りが前倒しになっても大丈夫な日程の組み方が必要である。同じ6週育苗でも、全体を1週遅らせると遅霜の危険は減少する。田植えは2日の方が、雨に遇う可能性は低くなる。

昨日の自給作業:粗起こし、代かきなど、6時間 累計時間:26時間
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湯花楽秦野

2013-05-19 03:57:29 | 日帰り温泉
最近少し時間がある日は、秦野の「湯花楽」に行く。インターネットで安いチケットを購入したのだ。これが複雑で初めてのものには不安なものだった。グループ購入の仕組みだ。入泉料に生ジュースが付いて、600円というものだ。インターネットから、紙に打ち出して持って行けばいいというのだが、意味がわからないかった。10枚まで買えるというので、思い切って6000円も出した。この時は期限があるとは考えなかった。後で気がついたのだが、期限は7月末までだった。一回行けば2枚使うのだから、まあその位は行けるだろうということだが、これがカードから落ちるということになるらしい。これがよくわからないので不安がまだある。カード番号を知らせるのだから、この口座が悪用されないのだろうか。暗証番号が8けたになったものがあったが、覚えて居られてわかりにくくして、時々変える。便利は面倒だ。最低限しか口座にはお金は入れてない。他の人もそうなのだろうか。

口座からカードローンを勝手に組む、犯罪がないのか。カードローンが出来ないようにしてもらいたいが、そうなっているのかどうかがわからない。こういうことは詳しい人は、実に詳しくて、きっと安全に利用して居るのだろう。どうもよくわからないまま使うということに抵抗感がある。それでもカードを使わないと決めると、インターネットショッピングは使えないものも結構ある。代引き手数料が必要になり、割高なものになる。。買い物に行くという、時間もあまりないので、インターネット購入である。湯花楽のチケットの複雑さはすごくて、お店の人も熟知して居ない人もいる。それはそうだろう、私がプリンターで打ち出した紙で、入場券というのは安心できないだろう。いくらでも似たようなものは作れる。今でもどうなっているのかわからない。お店の人は打ち出した番号を書きだしている。私に書きこめという時もある。不安であるが安くお風呂に入っていることだけは確かだ。

使ってみてびっくりしたのは、次回とさらにその次の割引券をくれることだ。これが、400円と、300円なのだ。つまり、600円の割引券を購入すると、1回の入泉料が、433円になるということだ。その上に、10回分は食事の半額券や生ジュースが付いている。別に宣伝する訳ではないが、リスクを感じても購入したくなるのは当然だ。と言いながら、10回券を買ったつもりが、結局30回券を買ったことになった。それで少し大変だなと思いながら、喜んで通っている。結局行きたくなるのは、どこか疲れがあるからだろう。田植えまでは、緊張もするし、作業が重なる。6月は一年で一番の農繁期である。身体の維持も大切なことだ。そう言い訳をしながら風呂屋に行く。これは一体誰に言い訳をしているのだろうか。貧乏性なのだろう。

湯花楽が良いのは、黄土サウナである。ここで寝ていることが出来る。一か所涼しい風が出てくる個所がある。そこに顔を位置すれば、楽な呼吸で寝ていられる。あっという間に時間が経過する。極楽である。一回お風呂屋に行くと、1,5キロ汗をかく。この汗をかく量も、体調で違う。2キロ汗をかいたことが過去最高記録で、1キロまで行かない日もある。汗をかく機能もしばらくサウナに入らないと落ちる。汗腺の能力を鍛えている感じだ。こういうことが健康的なのか、不健康なことなのか、意見は分かれるだろう。しかし、一回始めてしまうと、汗をかくことにはまってしまい、行かないと気分が何となく優れない。足が冷えたりする。行けば肩こりがなくなり、よく眠れる。期待しているのは汗とともに老廃物が良く出て、代謝が良くなるのではないかということだ。いずれにしても、今のところ体調に問題はない。むしろ良い方だろう。病院に行かないで、銭湯に行っているなら許されるだろう。
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チップ暖房装置を作る

2013-05-18 04:15:34 | 自給

用意した材料


設置したところ

自給生活にビニールハウスはあった方がいいい。冬の間の野菜や苗作りにはとても便利なものだ。化石燃料を使わない方法を考えてきた。踏み込み温床と石の蓄熱を利用した方法である。冬の間も夜間外気よりは5度くらいは高く保ってきた。と言っても外気がマイナス5度ならば、ほぼ0度になる訳だから、相当に冷えてしまう。苗を育てるには踏み込み温床の上にもう一重ビニールを貼ってしのいできた。これを改善しようと以前から考えていた。農の会の仲間の中村さんが、軽井沢でマンゴーをチップ堆肥暖房で作っている人を見学に行き報告してくれた。100坪近い木製の2重ビニールハウスだそうだ。この脇に大きな穴を掘り、どうも4メートルの深さで、50m3入れるそうだ。我が家のハウスは、4坪ほどだから、深さは1,5mあればいい。穴の大きさは1、3m×1mでいいのではないか。これで2m3あれば計算上は可能なはずだ。

以前ラン栽培をやっていたときに、カナダの北極圏に近い場所で、岩石の蓄熱効果だけの温室のことを読んだ。この温室は半地下のものだった。これを参考に山北には、木製の温室を作った。床暖房式の石による蓄熱温室だった。小田原に移り、今度は既存の石積みを利用した温室を作った。誰でも出来る簡単なものの方がいいと考えたのだ。4坪の大きさのビニールハウスである。踏み込み温床の代わりに、温室の外にチップ堆肥の発酵熱利用の堆肥場を作ろうという計画である。穴はちょうど崖工事でユンボが来ていたので、掘ってもらうことが出来た。さっそく穴あき塩ビ管を買ってきた。10㎝の太さで4mもので、継ぎ手をT一つ。エルボー2つ。3000円だった。これを組んで、穴の底に入れる。斜めに塩ビ管を伸ばして、ハウスに口を出す予定。

チップはこのところ庭木を剪定した枝が、積み上げてあるので、ちょうど良い。チップの機械は農の会に小さいものだがある。これでチップを作ってみよう。サンドイッチ状にソバ糠を入れてゆけばいいだろう。生ごみを焼却するとCO2が発生する。燃やさないで堆肥化した方がいいと主張する人が多いいが、間違いである。堆肥にしてもCO2は同じに出る。ゆっくりと土の中で分解しながらというところで、分解の速度が少し違うだけである。ただし、この土の中でゆっくりと分解するいうことは、自然には重要なことで、土壌の砂漠化を防御している。土があるということの重要さには、植物が微生物に分解される過程と時間との関係がある。農業はこの経過との折り合いの中で行われるものである。単純に土壌からもCO2が出ているというところだけに着目して考えてはならない。環境は実の総合的な作用で形成されている。「木を見て森を見ず。」とはよく言ったものだ。

CO2の発生は温室の活性化にもなる。わざわざCO2発生装置を温室に備える人もいる。作物には光合成のためにCO2が必要なのだ。温暖化は起こらないという主張には、CO2が増加すれば、植物の繁茂が盛んになり、吸収してしまうという理論を主張する。地球の大植物繁茂時代はそうだったのだから大丈夫だ、と主張する人がいるくらいだ。少なくとも、温室の中に堆肥から、CO2を加えるということは悪いことではない。同時に熱も採れる。さっそくチップを入れている。しかし庭の枝などチップにしたら大した量にならない。山北の原造園さんにもらいに行かなければならないか。まずは、ソバカスがたくさんあるから、それをたい肥にするのでも構わないだろう。今年の冬が来る前に、どういう結果になるか、研究を続けたい。
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橋下慰安婦発言

2013-05-17 04:16:43 | Peace Cafe
現職の大阪市長であり、維新の会の代表でもある橋下氏が、戦時下においては、従軍慰安婦が必要だった。日本が特殊だった訳ではないと発言した。最近、人気低下傾向の維新の会に注目を集める作戦のつもりなのだろう。石原氏の持論のようなもので、意気投合した作戦のようだ。二人の発言では、軍隊と売春は不可分のものだ。明日の命もわからないような、荒ぶれた日々の中では、性的な慰安が必要だったということを主張している。その勢いで、この時代の沖縄の海兵隊の、風紀の乱れに話が飛んだ。米軍の司令官に、もっと風俗業を兵隊に使わせろという意見を、主張したというのだ。司令官が凍りついたそうだ。当たり前のことだ。こういうことは公の場では、意見を交わさないのが暗黙の了解である。無神経なやつだと思ったに違いない。今回の暴言事件は2つの側面で批判されなければならない。

まず、女性の人権に対し、配慮が足りない発言ということ。もう一つは、政治家として、中国、韓国がこれだけ日本に対して神経質になっている時期に、何故世界情勢が分からないかということである。橋下氏も、石原氏も、憲法を改定して、軍隊を持つべきだという主張をしている。憲法96条の改定にも賛成している。こういう主張だとすると、国防軍にも従軍風俗業は必要ということにになるのか。逆説的ではあるが、両氏の発言の正しさはあると思う。軍隊というような尋常でない生活の中では、考えられない精神状況の世界が生まれる。まともな社会的なモラルが崩壊する。人を殺すことを受け入れなければならない。普通の人間であれば、人格を崩壊させる可能性がある。アメリカ軍のベトナム帰還兵の問題が深刻な社会問題になった。それはイラク戦戦争でも同じことが起きた。あまり書きたいことではないが、性的な悲惨な事件が起きたことも報告されている。昨日には、アメリカの米軍内で上官が、売春を強制した事件が報道された。

社会には悪所というものは必要である。きれい事だけで社会が出来ているとは、確かに思わない。ダメだっていいじゃん。といういい加減な処が社会には必要だと思う。軍隊という異状下で、しかも自由のない集団生活の中で、そういう悪所的要素が一切ないとしたら、耐えきれず暴発する人間が現れることは、想像できる。だから、従軍慰安婦が現代でも必要だ。ということになりかねない話だ。正しい選択は、軍隊のような人格を崩壊させるようなものを作らないことだ。軍隊が必要悪だから、従軍慰安婦も必要悪だ。こういう論理はおかしい。今後も韓国、中国の、かつての日本軍に強制連行されたとする、従軍慰安婦問題は、日本に対し、事あるごとに蒸し返されるだろう。国内の不満をそらすためにも使われるだろう。日本だけが攻められるのはおかしいという逆襲の主張は、海外では通用しない。そんなことはわかった上で、日本を叩く理由付けにされているのだ。アメリカのいつも使う、人権の正義論と同じである。

今回の発言は、軍隊の持つ悪の本質を白日にさらした、だけのことなのだ。日本は過去を反省し、二度と軍隊を持たない。こういう誓いを世界に発信して、進んで来たのだと思う。それは言葉だけでなく、多くの日本人が本当に反省をしたのだ。反省に基づき行動してきたからこそ、日本が世界に許され、受け入れられ、貿易立国し、経済発展をした。ところが、日本国総理大臣が、憲法を変えて国防軍を持つということを明確に主張し始めている。石原氏に至っては、原爆保有も憲法違反ではないとして、検討して行くべきだとしている。六ヶ所村のプルトニューム生産も、原爆以外に使い道がない状況である。これでは近隣諸国が、過去の日本を思い出し、恐怖を抱くことも当然のことである。村山発言と同様の内容の、小泉発言が存在する。今回明確に、二度と軍隊は持たないと安倍氏に誓ってもらいたい。すでにアメリカからも、安倍政権に対する黄色信号が出てきている。
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