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民主主義とトランプ

2023-09-30 04:42:27 | Peace Cafe


 アメリカは果たして民主主義を維持できているのだろうか。民主主義的な選挙によって、トランプのような異常な人間が選ばれると言うことはあり得るのだろうか。もしそうであるならば、民主主義は危険な考え方と言うことになるのかもしれない。マキャベリの言うところの衆禺政治である。

 アメリカの民主主義では、トランプのような虚言癖がある、議会を暴力で奪還しよう、などとアジ演説する大統領はどう考えてもまともではない。自己中の犯罪者と言えるような人間を選挙で再度選択する理由がどうしても理解できない。それほどアメリカの社会は病んでいると言うことなのだろうか。たぶん病んでいるのだ。

 アメリカの報道ではトランプ元大統領は相変わらず貧困層を中心に人気があり、共和党の大統領候補になると言われている。まったく信じがたいことだ。世界のどの国よりも安定しているはずの経済大国のはずではないか。その経済大国が故に、資本主義の末期に突入していて、希望ある未来を失った社会なのかも知れない。

 大統領選挙では現職のバイデンよりも支持者が多い。信じがたいことだ。どう考えても理解できない。アメリカはすでに民主主義が成立しない国になったと言うことなのだろう。格差に対する不満だけをトランプに便乗させているのだろうか。

 資本主義の競争主義というものが、人間を壊して行き、トランプというお化けのような存在を作り出したのかも知れない。自分だけが得をしたいお化けである。他人のことなどどうでも言い。自分だけが正しいというお化けである。民主主義が愚民政治になる。

 乱射事件が頻発するアメリカ社会がまともだとは少しも思わない。差別が何時になってもなくならない社会をまともだと思えない。中国で人権が軽視されていると、アメリカは主張するが、客観的に見れば、アメリカも同様に人権が軽視されている。アメリカの方がひどいのかも知れない。

 日本でも社会が希望を失い、自分が良ければそれでいい、という社会になりつつある。総理大臣は道徳ある資本主義と主張しながら、社会に対しては、まったく道徳などない、金に金を生ませろと、株式投資を煽っている。資本主義が抗して堕落し、民主主義を腐らせると言うことらしい。

 日本人が情けないのはこうした日本社会に対して、反発心を失った。社会に対する興味を失っている。そんなものだと自己本位に進んでいるのだろう。選挙が行われると、野党がだらしがないので、政治は変わりようが無いという判断が広がっている。投票率は極めて低い。

 選挙の仕組みが悪いのだ。悪い仕組みが与党に有利に働くもので、選挙を変えようとしないだけだ。選挙制度を変えれば日本人の選挙に対する意識も変わるはずだ。ネットで投票できるようにすれば良い。ネットで、政策ごとに直接民主主義を取り入れれば政治への関心が深まる。

 政治に対する無力感を取り除かなければ、日本でもトランプが登場する。維新の会を見るとなんとなく怖い気がする。日本が品格のある国から、賭博を奨励するような下卑た国に変わり始めている。

 韓国が慰安婦問題で、一度日本と外交的に約束したことを、大統領が変わり覆したことがあった。これでは韓国とは付き合いきれないと日本の社会では考えるようになった。韓国の非はさすがに明らかで、韓国は危うい国と見られるように成った気がする。外交的な決定は変えてはならないと言うのが国の倫理だ。

 国家間で一度約束したことは覆してはならないというのは、よその国との付き合い片としては当たり前の事だろう。トランプがもう一度大統領になれば、バイデンがやっていることをすべて覆すだろうと言われている。前回もアメリカと約束をしていたことが、いちいちに覆された。

 果たしてこういうことが予想されるような大統領が、公正な選挙で選ばれるということは、民主主義とは到底思えない。病んだ社会では病んだ人間が選挙で選ばれることになる。病んだアメリカの言いなりの国が日本ではさすがにまずい。日本はアメリカとの距離を考え直す時期にきている。

 トランプに変わればまた、日本は振り回されることになるのだろう。ウクライナの軍事支援も止めるだろう。台湾を守ると言うことも止めるだろう。日米安全保障条約も守らないことになる。それはバイデンが進めたことだから、変えた方が、自己主張できるという理由に過ぎない。

 トランプは人気が出ることであれば、何でもやる。人気の方向だけは鋭い反応がある。台湾は中国のものだと言うだろう。アメリカの負担で守る必要など無いと主張しそうだ。それはそれで一つの考え方かも知れないが、今までのアメリカとの約束事はどうなるのだろうか。

 アメリカが自己中になったときに、自由主義陣営は中国に対抗できるのだろうか。仕方がないので、日本は中国の属国になるという選択になるのだろうか。今のままではその可能性は十分にある。日本は国の安全保障を、自ら確立する道を捨てたのだ。アメリカへの依存に慣れてしまったのだ。

 日本や韓国はその時どういう態度になるのだろうか。台湾好きとしては耐えがたいものがある。トランプならば、間違いなく自分が核攻撃される可能性があれば、日本を核攻撃から守るというようなことはない。アメリカが中国から核攻撃されないための行動を取るだろう。

 核の傘など日本まで広がってはいない。建前としては一応日本を守るとを言うかもしれないが、それはあくまでそう発言しておいた方が徳田と考えるからに過ぎない。実際にそういう緊急事態になれば、間違いなく自己犠牲など考えもしないはずだ。

 ウクライナはまさに中国やロシアの望むところになるだろう。そんなことにはトランプはお構いなしだろう。バイデンがやった悪い事を自分がすべて建て直すと言うことだけになる。果たしてそれが自由主義陣営の利益を守るのかと言うことだろうか。

 しかし、トランプならばそんな犠牲をなんでアメリカが払う必要があるのかと言い出すに違いない。アメリカ一国主義で行く。さて属国日本はその時にどうするのか。始めて国の安全保障に目覚めるのか。あるいは中国の属国になろうとするのか。日本は独立国家である事を思い出せるのだろうか。

 軍事大国だけに安全保障がある訳ではない。日本の安全保障はまず経済連携である。経済で戦争は始まる。すでに米中は開戦している。日本も巻き込まれている。水産物の輸入禁止もその一つである。中国に輸出できなくとも、成り立つ経済を作る必要がある。

 小さくても、軍事力が弱くとも、自立している国家が目標なのだ。中国よりも軍事力が大きくなければ安心できないというのは、幻想である。軍事力が小さくとも、専守防衛の安全保障戦略はあり得る。核反撃能力というものは、総合的に制度として作らなければ安全保障にはならない。

 核反撃システムは、国連が管理するコンピュターに打ち込まれていて、日本に核攻撃があれば、宇宙から自動的に撃った国に核が打ち込まれるようにしておく必要がある。そうでなければ、核兵器の無効化そして、廃絶が出来ない。

 
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一日を十分に生きる

2023-09-29 04:42:40 | 暮らし


 今この文章を書いているグーブログには編集ページがある。そこには記事一覧というページがある。過去に書いたものから、これから掲載する予定の書きかけの文章などがすべて並んでいる。その先頭にあるのが、「ブログは続いているだろうか。」2032/06/01 04:44の文章である。

 いまから、8年以上先の日付の予定記事である。私がそれまでに死んだとしてもその日には記事が出るはずである。ブログを始めたときにここまで続けるという目標で決めた日である。17年前に毎日書くと決めた。そうしなければ続かないことが分かっていたからだ。

 あしがら農の会「最小限の家・研究」2006/03/05 が最初の記事だ。その頃のことは忘れてしまったのだが、1万日続けようと考えたのでは無いかと思われる。27年間かかる。いくらか数字がおかしいが、その辺まで継続するつもりでブログを書き始めたのだ。

 今書いているこの記事数で偶然6500件目である。後3500日である。9年と10ヶ月で1万日である。数日抜けた日があるが、それは書いたブログに抗議があり、削除した場合があるからだ。2回削除をしているかと思う。ともかく願掛けで、1万日行である。どんな願いかは願掛けなので書くわけには行かない。

 しかし、6500日もすでに過ぎてしまったのかと、改めて何をしてきたのかと思わざる得ない。ブログも1万回書けば、読めるような文章になるだろうと期待して始めた。文章としての願いは井伏鱒二先生である。しかしあんなふうな自然でふかい情趣は、残念ながらわずかもない。人間の深さの違いと思わざる得ない。

 精一杯やってきたつもりだが、「自分の絵を描く」という意味では、こちらもいまだ何も出来ていない。努力不足か、能力不足か、きっとその両方なのだろう。まったく進歩がないどころか、退歩が見られるくらいだ。まあ文章の方はいくらか読みやすくは成ったかも知れない。

 絵の方は65年継続しているのだが、少しも分りやすくはなっていない。別段自分を生きるのだからそれでいいのだ。自分とは何かと言うことが、なかなか把握できない。分からないことは描かないでいたいと思い、ある意味より不明瞭になった。よく分からないのだから、分りやすく描くことが出来ない。

 以前は人まねをやっていたので、見栄えがいくらか良かったのだ。人まねを捨ててから、退歩が始まった。それでも、なんとかものまねが捨てられた気がして、嬉しい思いはある。自分が見付けたもので絵が描けているのかと言えば、それはささやかなものになる。

 そのささやかなものに、格好を付けようと未だにするから、恥ずかしい限りである。その格好付けのダメな奴が自分だと思えば仕方がない。自分を探して絵を描いている。自分を見付ければ自分の絵が描けると考えているが、どうもこの辺りの考え方がおかしいようだ。

 最近は少し、のぼたん農園から離れて絵を描いてみようかと思っている。何かを変えてみるほかないと言う気持ちが湧いてきている。午前中はのぼたん農園にいて、午後になったら、のぼたん農園以外のところで絵を描いてみようかと思っている。

 一昨日は川平の方に移動した。昨日は嵩田の方。と場所を変えてみている。少し新鮮な気分で絵を描くことが出来た。移動アトリエの良いところである。しかし、今日は山の方に行って海の絵を描いていたのだから、おかしい気はする。

 感動を描くと言うことでなければならない。どうしても描きたいものだけを描くべきだろう。日々の一枚によって、感動が薄くなっているのかも知れない。別段絵になる場所を探して描いているわけでは無い。最近は人間が作っている暮らしの周囲の姿に引かれて描くことが多い。

 耕作地のある風景に惹きつけられるのは、自分が農業をやっているからなのだろう。耕された土の色に惹きつけられるのは、土壌をいつも気にしているからなのだろう。赤い石垣の土壌を耕土に変えていけば良いのかとつい考えている。サトウキビ畑を見ると、ついその経営を考えている。

 農地というものが気になって仕方がない。自然の中に埋没したような農地を見ると、描きたくなる。石垣の農地はすぐに自然に飲み込まれる。そうして、農の会の田んぼや畑、そしてのぼたん農園の畑を耕作していることを思い出す。そのことが絵を描くことに繋がっている。

 こうして、一日一日絵を描くことが出来ることに喜びを感じる必要があるのだろう。確かに、今の一日に何の不満もない。これ以外にやりようもない。先に延ばすことなく、やるべき事をやり尽くそうと考えているのは良いのだが、なかなか到達は出来ない。

 たぶん一日を十分に生きるということは、何かを達成すると言うことでは無いような気がする。そこに向かって生きていると言うことなのだろう。いつまで経っても到達しない道を、とぼとぼと歩き続けると言うことなのだろう。

 道の方角に迷わないと言うことであれば、それでいいとすべきかも知れない。何時までもたどり着かない道だ。ただこの方角だと歩いていることが目的なのかも知れない。死ぬまで歩くくとを続けられると言うことで、満足すべきなのかも知れない。

 絵は確かに歩いているという道しるべである。10年前の私と今の私ではまるで絵は違う。10年前の自分は違う場所に生きていたと言うことなのだろう。1日1日では分からない変化も、1年、10年という長さで見れば、ずいぶんな変化が起きている。

 絵を描いているとそれが分かる。ブログの文章でも17年前と今では違う。違っている事が、衰えていると言うこともあり得る。衰えて行くのであるとしても、その一日を精一杯生きるほかない。自分という方角に向かって、歩いて行くほかない。

 

 
 

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透明水彩について考えてみる。

2023-09-28 04:39:44 | 水彩画


 水彩人は水彩画を探求する研究会として始まった。水彩という素材を生かした絵画を研究して行こうという組織だ。水彩人は装飾美術を目指すものではない。このことは何度でも言いたい。水彩画を人間を表現することの出来る藝術のための素材と考え、その奥深い表現方法を研究することが目的である。

 芸術としての水彩画作品を描く事を目的と考えている。つまり、現代で言えば「私絵画」を描くために、最良の材料だと考えている。自分というもののを探り当てて行く上で、水彩という素材は、制作に自由に反応をしてくれる。これは誰にでもと言うより私にとってと言うことかも知れない。

 水彩画には透明水彩というジャンルがある。水彩絵の具を薄く水で溶いて、透明性を生かして絵画を描くという方法である。水彩画の透明な美しさを生かして描く表現方法だ。英国から始まった方法のようだ。これは水彩画の一つの使い方で全体ではない。

 この透明水彩の描き方の弱点は作者の意志の反映が弱くなると言うことである。対象を写実的に引き移すことに主眼が置かれ、描きながら作者の思想哲学を探求するという、芸術性はない場合が多い。そのことは逆から見れば、作品に作者の意志が画面に入らないので、安手の装飾品としては無難という意味でもある。

 私の場合では、水彩画は絵の具を厚く塗り込めた部分もあったほうが良いと考えている。描いた線に筆触残る方が良いと考えている。その上で、水彩絵の具の透明性も利用した方が良いことは当たり前だ。つまりあらゆる方法で水彩絵の具を使えば良いと考えるのが「私絵画」だ。

 日本透明水彩画会と言う水彩画のグループがある。この会の人で水彩人の同人という人も2人いる。だから決定的に何かが違うと言うことでも無いのだが、透明水彩とわざわざ会の名称にするくらいで、たぶんこの会には、不透明で色を塗り重ねるような水彩画はたぶん余りないのだろうかと思う。

 水彩人は基本水彩絵の具を使うと言うことが条件で、どのような使い方をしようともかまわない。できる限り自由であることが大事だと考えている。何でもやれるのが水彩絵の具だと思う。やりたいようにやればいいのが水彩人である。だから水彩人には様々な絵があるのだとおもう。

 水彩絵の具は子供にも取り組める材料である。紙に描くのが普通という意味でも、絵を描く材料としての手軽さは一番だろう。アクリル絵の具も便利なものではあるが、色が汚いのが弱点である。いわばプラステックの素材感は到底私には耐えられなかった。

 水彩の透明性を生かして描くと、とても美しい表現になる。その表面的な素材の美しさのために、その美しさの奥にある世界に進みがたくなる。最初に塗った色の美しさに引っ張られてしまい、浅い通俗的な世界に留まる作品が多く成るのはその性である。

 誰が描いたと言う事は無くなり、透明水彩画描法で描いたと言うことになっている作品になりがちだ。モミジを描くためにはこの手順で、薔薇を描くためにはこの手順で、こうした指導書が沢山でている。この考え方は、私絵画から言えば、絵を描く最も大切な部分を捨てていると言える。

 商品絵画の分野では、透明水彩の作品が多いのだろう。そうした絵画はあるスタイルを踏襲したものになっている。誰が描いたかよりも、装飾品としての意味が重視されている。巧みな手順で、巧みに描かれて居ればそのスタイルが絵画の意味になる。

 水彩人ではそうした描法で描く絵を水彩画の中心には置かない。水彩人は下手は絵の内と考えている。上手いは絵の外と考えている。上手そうに見えると言うことはむしろ恥ずべき事だと考えている。「なんだこりゃー」と言うのが芸術だ岡本太郎が叫んでいたが、その通りである。

 岡本太郎の作品はその主張とは裏腹にあまりに慎重で、様式で作られていると見えるが、書いている本は正しい芸術論に満ちている。「芸術は爆発だ」これもなかなかいい。縄文土器を見て「なんだこりゃー」と叫んだのだ。今縄文はブームであるが、岡本太郎に始まっているのだ。

 未だかつてないものに挑戦して行くことが芸術的行為である。ありがちな絵をなぞらえるようなものは、芸術作品とは言わない。この点を間違えてしまうと、違うところにはまり込んでしまう。だから水彩人は下手くそだというのは、素晴らしい褒め言葉だと考えている。

 お上手ですねでは、芸術にはならない。この点水彩画に対する世間の評価がおかしいのであえて書いてみた。プレパトというテレビ番組が悪いらしい。番組は見たことがないので分からないのだが、その問題点がウエッブで見てみてよく分かる。

 絵は人と競べるようなものではない。誰が一番上手い、などと言うことは無い。どこまでもその人であればそれでいい。その人の世界がどこまで深いかが問題なのだ。絵で見たいのはその人の世界なのだ。見たいほどの人間は滅多にいないわけだが。よく出来た水彩画が見たいわけではないのだ。

 プレパトのウエッブを見た範囲では、そこにあるのは技術だけである。写真を見て上手に移すことを基準にしている。こうした制作方法はマチガテもやらない方が良いことである。肝に銘じておかなければならない。絵を描くと言うことで一番大切な物が失われる。

 見て感動するという原点である。描きたいという思いの原点は、自分という人間が見て感動したものを、画面に表現すると言うことにある。見た対象を説明するのではなく、その場で起きた感動を表さなければならない。感動も何もない写真を見せられてこれを絵にしろというようなことは、絵を描く上で害になる。

 しかし、水彩画の異端は私の方であろう。わたしがおかしいと言うのが世間の見方なのだろう。そんなことはどうでも良いが、水彩画が誤解されて行くのは寂しい。水彩人にそうした絵が現われてきているのは残念である。水彩人は上手な絵を良い絵とはしていない。

 水彩画の探求をいよいよ真剣にやらなければならない。絵を描きたいのであれば、自分の世界観を持たなければならない。絵が悪いのはその人間が浅はかだからだ。これは自戒である。以前他の人にこのことを言って、この歳になって人間が悪いなどと言われるとは思わなかったと言われた。

 やはり本音で言えばそういうことにならざる得ない。中川一政の書は見たいが、代書屋の書いたものを見たいとは思わない。見たい水彩画は、みたい人間が描いた絵だ。まだまだである。
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ウクライナ戦争はアメリカの代理戦争になった

2023-09-27 04:14:47 | Peace Cafe


 ウクライナ戦争はいまや、アメリカの代理戦争になった。長期化すればするほど、武器が消費され、アメリカの産業は活性化する。アメリカは自国の犠牲が少ない形で、軍事大国ロシアの力を疲弊させることが出来たことになった。

 いまやウクライナ戦争が長引けば、アメリカの望むところになる。こうしてみると、ロシアのプーチンがどこまで愚かなのかと思う。確かにこの泥沼に誘導されたのかも知れないが、ロシア衰退の道を自ら突き進んでしまう愚かな独裁者だ。

 アメリカはウクライナに対して長距離ミサイルは与えない。ロシア本土に直接攻撃をさせない約束を交している。あくまでウクライナがロシアに奪われた領土を奪い返すための武器供与であると約束している。軍事大国ロシアに対して直接本土攻撃なしに、ウクライナは勝てるものだろうか。

 アメリカはウクライナがロシアに勝利するとしても、あくまで長期戦が望ましいと考えているだろう。そしてロシアが疲弊して、国力を衰退させて、引き上げるという構図を狙っているのだろう。それまで何年でも戦争が継続されることをマイナスだけとは考えないはずだ。

 アメリカの仮想敵国はロシアから、中国に変わったことは明かである。すでに米中経済戦争に突入していると見なければ成らないのだろう。中国の福島原発汚染水海洋投棄への対応を見ると、なるほど戦争が始まっているのだと理解できる。

 中国国民はアルプスで、トリチウム以外の放射能が取り除けるとは考えていない。それは中国政府の誘導もあるのだろうが、中国の大衆が政府の発表を信じないと言うことの表れと考えた方が的確だ。政府は常に国民を欺くものだと分かっている。

 だから日本政府も東電もアルプスでトリチウム以外の放射能は取り除けるとウソを発表していると考える。日本人はさすがに民主主義国だから、そんなすぐにばれるウソを政府はつかないと考えている。またIAEAが調査をすればそんなことはすぐばれると考えている。

 しかし、中国人の大半の人がどこの政府だって、国連だって平気で人を騙すものだと考えているのだ。それは散々国家に騙されながら生きている経験値なのだろう。中国の歴史では人民は常に騙され続ける犠牲者である。国家を信用したらエライメに遭うのが常だ。

 中国では水産物自体の消費が減ってきていると報道されている。私は中国の養殖魚は食べれないと考えてきた。さすがに安いからと言って、中国産のウナギや貝は今でも食べない。しかし、これは20年以上前の体験に基づいたことだ。たぶん今もひどい環境の池で飼われていると想像している。

 一方日本では相変わらず中国漁船が日本近海で漁をしていると報道している。日本近海のサンマが中国産の安全なサンマになって売られているという話である。何が本島なのか。サンマを中国人は食べれるのだろうか。中国人の中にある、日本政府の発表などすべてウソだという認識が判断できる事例になるだろう。

 アメリカの属国化した日本は、米中戦争の代理戦争に巻き込まれているのだ。日本と中国が戦い、疲弊することがアメリカの利益なのだ。アメリカの代理戦争を喜々として進めたのがアベ木偶人形政権だ。だから、アメリカが長期政権を許したのだ。

 今や岸田政権は傀儡政権ではなくとも、自ら戦争に乗り出している。ウクライナの次は台湾だと日々宣伝に余念が無い。日本が代理戦争に、アホ面で躍起になっているのだ。本来であれば、日本は漁夫の利を狙うべき立場だ。中国とパイプをもち、アメリカ一辺倒にはならない姿勢を持たなければならない。

 ロシアに対して漁夫の利を狙った中国の立場だ。あるいはインドの立場だ。日本は中国と表立った対立などしない方が有利なのだ。何故アメリカ一辺倒を良しとするのかは、長いことの属国で誠司をしてきて、洗脳されていて判断力を失っているからなのだ。

 中国とパイプを繋いでおくことは、必ず日本の利益になる。当たり前すぎることだ。何もアメリカと縁を切れというのではなく、アメリカ一辺倒は危険すぎると言うことである。今の日本はアメリカの防人になろうと躍起である。まさに天国トンボではないか。

 報道は中国が今にも不動産バブル崩壊で経済破綻するかのような、一辺倒になっている。これは戦前状態である。経済戦争の戦争初期状態なのだろう。相手の失敗を喜んで提灯行列をしている、痴呆状態。中国経済の破綻がもし本島ならば、日本経済への悪影響回避を考えるべきなのだ。

 経済戦争は両者が痛むことが当たり前だ。アメリカにしてみれば、日本と中国が共倒れすれば良いくらいなのだ。ところが岸田政権は日本が軍事戦争を出来る国に転換を始めた。アメリカに従ったのだ。日本人はこの大転換を何事もないかのように、やり過ごしている。

 この大転換が日本の政治の問題にさえ成らないで通り過ぎた。長い間アメリカ任せの安全保障できた結果である。どうせ軍備に関して、日本人が主体的に考えるなどしたところで無駄だと言うことになる。アメリカにおんぶに抱っこ状態できたつけである。

 ではアメリカの核兵器に日本は守られるのか。中国が日本に対して核兵器で攻撃をしたときに、アメリカは核爆弾を中国に打てるだろうか。打てないと考えたほうが近い。ウクライナが圧倒的勝利になりそうになれば、ロシアは核兵器を使う可能性が高い。

 ロシアがウクライナへ核兵器を使用したとする。その時西側諸国はロシアに核兵器を使用できるだろうか。ロシアは核攻撃をした国へ反撃をする可能性が高い。そのつもりがなければ核兵器は使わないだろう。それでもウクライナのために、西側諸国はロシアに核攻撃をできるかと言えば、出来ないと考えた方が良いだろう。

 アメリカの核の傘は実はアメリカ以外にはかかっていない。日本はあくまでアメリカの代理戦争の防人の訳だけなのだ。防人をやらすとき、核の傘の中に居ると言わないはずが無いだろう。そうでなければ日本が代理戦争に乗り出すはずがない。

 日本人も大半の人が、アメリカの属国民になった。だからアメリカに従う平和以外に想像が出来ない。しかし日本の平和はアメリカと中国の狭間で、したたかに生き残る以外にないのだ。日本はどちらにも危険は無い国です。攻撃的武力など無いですから、安心して下さい。

 日本は平和憲法に従う、国際紛争は平和外交で解決するという、一見荒唐無稽な、まったく頼りなげな方法を利用して行く以外にない。今はアメリカに傾斜しすぎである。バランスを失いかけている。日本は長い間国防に関して自主的に考えることが無かった結果ここに来てしまった。

 ところが日本人は長い間、国の安全保障という一番大事なことを考えなかっあ結果、安全保障にかんして、完全な放棄状態に陥った。食料でも、情報でも、軍備でも、産業全体が、アメリカ任せでいればそこそこ良かったのだ。今そんな痴呆状態が終わろうとしている。

 日本は日本人が自ら作る国だ。そのことを腹の底から自覚して、自分の行動に表さなければ、日本はこのまま衰退し存在価値を失うだろう。
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9月23日秋分の日の田植え

2023-09-26 04:08:51 | 楽観農園

 1番田んぼの田植えを行った。大分から「新百姓」という雑誌を作っている2人が取材をかねて、手伝いに来てくれた。田植えをしたのは「台光」という西表の人が作っている品種である。種籾を頂いたので、それを植えてみて、「のぼたん農園」に向いている品種なのかを判断すると言うことが目的である。

 まだのぼたん農園に適した品種を発見できていないので、西表島で20年作られてきたという品種を作ってみるのもよいかも知れない、と思い作ることにした。台光と言う名前の通り、台湾の品種と言うことらしい。台湾の品種を調べてみたが、そういう品種の存在も確認できなかった。

 20年前に、西表の那良伊孫一さん と言う方が作り始めたお米と言うことが、琉球新報に出ていた。8月27日に1番田んぼの苗代に播種して、9月23日に田植えをした。タイミングとしては、2期作としては遅れ気味なのではないかと思うが、12月でも小田原の10月よりははるかに暖かいのだから、大丈夫だと思っている。

 4週の育苗で6葉期になっていた。8月の熱い中での育苗はやはり随分と早い成育である。5葉期の田植えであれば、3週ちょっとぐらいで良いのかも知れない。石垣の栽培歴が少しずつ分かってきたが、分かっていたのだがさすがに、3週では不安で4週にしてしまった。

 大苗という意味では良かったのだが、6葉期の苗は今までで一番大きいかも知れないのでどうなることかとは少し心配もある。大苗が活着するためには風が無いことが大事なので、風が気になる。田植えの準備を水牛でやったために時間が余計にかかったと言うこともある。

 今年の9月は夜温が26度以下に気温が下がった日は一日もない。日中は強烈な陽射しが降り注いでいる。小田原の一番陽射しの強い時期よりもまだ強い陽射しではないかと思える。植えた苗が陽射しで焼けている。風があるから苗がどうしても痛むので、かなり補植が必要な感じである。

 台光は随分と堅い苗のイネである。野性的な感じがするイネである。これは130㎝ぐらいまで、背が伸びるイネではないだろうか。始めて経験するイネである。情報はまったく持たないので、その場その場で対応して行くつもりだ。今はまったく無肥料で育ててみている。

 田んぼは新しい土壌の場所なので、肥料分は少ないはずだ。イネの葉色を見ながら、追肥をして行く予定である。追肥には牛糞堆肥の「よみがえり」を使う予定。剪定チップを2年積んであるものがあるので、それを加えるというのもやってみても良いかも知れない。

 今回は初めて、40㎝角での苗を植えてみた。1回にあまり収穫量を増やす必要は無いと考えるようになった。年3回収穫があるのならば、総量は必ず畝取りを超える。肥料もできるだけ使わない楽な農法にして、収量を抑える。そして3回の収穫を目指す。

 ひこばえ農法での連続する収穫を考えると、病気に強い品種でなければ無理だ。ウイルス病が一部で出ると、だんだんに田んぼ全体に広がって行く。耐病性の高い品種を探す必要がある。今のところ、ミルキーサマーの方が病気は少ない。

 分ゲツをよくする品種でなければならない。遅れて出てくる分ゲツがひこばえであるのだから、遅れても十分に分ゲツが出てくる品種。そして、葉の数が少ないまま穂を付けるのだから、その葉がしっかりと大きくなるものでなければ、良い穂にはならない。

 結局土壌をよくすることが一番重要と言うことになるのだろう。腐植を増やすために、アカウキクサの増殖法も研究の必要がある。アオミドロ、サヤミドロ、アミミドロ、などもある程度で始めているので、今後どの程度まで増えるかも課題である。

 

 
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新しい資本主義とは投資に依存することらしい。

2023-09-25 04:22:21 | 暮らし


 岸田総理大臣は国連で演説をして、その後アメリカで記者会見をした。こういう機会にこれからの方針をしゃべる総理大臣が多い。注目されてニュースになりやすい機会と言うことなのだろう。しかし、今回の演説での主張は「新しい資本主義とは、投資立国」と言うことらしい。

 岸田総理大臣の新方針は資産運用立国 と言うことだと語っていた。「道徳の無い資本主義」ということになるらしい。この総理大臣は分りやすい。自分の考えという物がない。なぜ、新しい資本主義を標榜した人間が、資産運用立国などと言わされるのか。

 不労所得を奨励する国家を目指そうというのか、少し異常ではないだろうか。勤勉を奨励するならば分かる。道徳のある企業を奨励するのであれば分かる。その道徳のある企業に投資しろというのであれば、まあ許せる範囲のことになる。

 アベ氏もそうだったのだが、総理大臣という存在は建前では理想主義を口先では唱える。現実は誰かにしゃべらされているらしい。2枚舌というか、利潤で暮らすことを奨励するような、道徳心を失った総理大臣は日本の恥だ。せめて自分が何を発言しているかぐらいは分からなければ。

 その恥じに気付かず、偉そうに資産運用立国など堂々としゃべれるのだから驚く。頭が悪いので自らの発言が理解ができないのだろうか。見たところそんな様子もないが、それ以外に日本の未来はないと思い込まされたのだろうか。

 どうも資産運用特区の実際は分からないが、石垣市がそういう特区を申し出れば、外国人が石垣市に投資をすることを、行政として支援する仕組みを作ると言うことになるということなのだろうか。まあ中国人が石垣島で大いに投資をして、資産運用すれば、石垣島にはミサイルが撃てなくなると出も考えているのだろうか。

 中国人が石垣市の島を購入することを、政府として応援しようと言うことになるのだろうか。それなら尖閣諸島が中国人所有になるのも在りなのか。無人島を購入した中国人の話で、大騒ぎしたことを忘れたのだろうか。外国人には中国人を入れないと言うことなのか。それはさすがに差別だ。資産運用に土地購入は入れないと言うことかもしれない。

 外国人の資産運用を日本政府が何故支援しなければならないのだろうか。もう日本では、日本人による新しい産業で、国を活性化させることを諦めたと言うことなのだろうか。資産運用で食いつなごうなどと言う発想を政府が持つようでは、もう日本は間違いなく終わりである。

 唐様で書く、外国人募集札。ここまで落ちぶれたのかと思う。何故新しい産業を日本人は開拓できないのか。日本人の能力が劣化したと言うことか。教育の失敗なのか。道徳教育やら外国語教育など、日本人が日本人としての文化力を育てることを見失ったと言うことかもしれない。

 日本人が農業から離れたことで、日本人の観察力や発想力が衰えたと言うことでは無いか。創造的文化のない国では、新しい産業など無理だ。百姓仕事は日々の観察によって成り立つ。日々の予測によって成り立つ。百姓仕事は創意工夫に満ちている。

 この江戸時代に培われた。あるいは、縄文時代、弥生時代から続いてきた日本人の蓄積された生活能力が、戦後の日本の産業立国をめざましいものにしたのだろう。それがこのところの失われた30年によって、完全に日本人の能力が低下してしまったようだ。

 少なくとも総理大臣を動かしている人達はそう判断をしたようだ。だから、資産運用立国などと新しい資本主義を意味づけたのだ。貯金をすべて、投資に回させようと言うことだろう。日本が利潤で暮らす国になると言うことらしい。これは民族として間違いなく劣化の方角だ。

 日本人はもう一度一次産業を見直さなければならない。国の成り立ちの基本は食料が自給できると言うことである。食糧が自給できないと言うことは、生活の基盤を外国に依存すると言うことである。例えば、石油が大量に出るから暮らしていける国があるとしても、それでは国の安定はない。

 どこの国であっても、食糧の確保は自ら行うようでなければ、その国の安定はないだろう。日本であれば瑞穂の国の米作りである。米づくりを捨ててまで、観光業に依存してしまうことは、その地域の安定を失うことになる。田んぼを止めることは日本人を止めることになる。

 日本人としての文化を失えば、新しい産業の創出は不可能になる。先ずは地道に食料生産に戻ること以外に、日本人が立ち直る道はない。みんなが投資をして、その上がりで生活しようなどと言うみみっちい人間になれば、日本人は守銭奴になり、最悪の民族になる。

 
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第178 水彩画 日曜展示

2023-09-24 06:31:55 | 水彩画
 第178 水彩画 日曜展示







261「海」
2023,9中判全紙





262「のぼたん農園」
2023,9 中判全紙


 今週は2点のみになった。ちょっと情けないが、田植えの準備から田植えまで、農作業ばかりで、絵を描く時間が取れなかった。絵にとっても大事な時期だったので、描きたかったのだが描けなかった。それでも何とか描いたものを展示する。

 海だけを描いてみたいと思い描いた。どういうものかは分からないが、この後もう少し描いてみるかも知れない。海の色と空の色だけで形はなくてもおもしろい。あれが描ければと思い海を見ている。まだ見ているものにまで至らないような気がする。

 もう一枚はいつもののぼたん農園である。気合いを込めて描いてみようとした。空回りかも知れない。少し可能性はあるかも知れないと思って描いていた。相変わらずのようだ。ともかく継続してみるほかにやりようはない。
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水牛で田んぼを作る

2023-09-23 04:33:48 | 楽観農園


  最初はこんな状態だった場所を、水牛を使い田んぼにした。3日間かかった。ほとんどは干川さんがやってくれた。水牛の能力に改めてびっくりした。干川さんの能力にもまたもびっくりした。私など2,3回もやるとへたってしまうのに、干川さんは長時間作業が出来た。さすが、石垣島で開墾生活をした人は違う。

 「のぼたん農園」では今回1番田んぼを、まったく新しい田んぼに作り替えた。前の田んぼの3倍くらいに広げたのだ。この時に、田んぼに深いところがあって、トラックターでは入れないような深い状態になってしまった。もし出られなくなれば困るのでトラックターを使わないことにした。

 トラックターでは入れないのであれば、水牛で田んぼを作るほかないと言うことで、干川さんにお願いして、水牛で田んぼを作ることになった。今までも水牛は使ってきたのだが、今回は水牛を本格的土木工事的な農作業に使うと言う、初めての経験になった。

 土の荒起こしから、水田の均しまで行った。まず堅いところを水牛で鋤を引かせて柔らかく耕す。これがまず大変な作業だったのだが、ステンレスで出来た鋤を作り直すところから干川さんがやってくれた。実際の作業は水牛に引かせる鋤の方向を、右や左に調整する。


 これがなかなか難しい。一度通ったところに鋤が入り込みやすい。狙いを定めて、鋤の方向を定める。鋤の棹を立てると深く起こせることになり、倒すと浅くなる。倒して行きたい方向に、押していって方向を変えるのだが、これがかなり難しかった。

 水牛もなかなか思い通りには動いてくれない。何度もやっている内に水牛が学習して、高いところを耕すと言うことを理解する。干川さんは一人水牛を制御しながら、鋤の調整も出来る。私は鋤だけを使うのだが、それでもなかなか思い通りには出来なかった。

 柔らかくなった土壌を高いところから低いところに土を移動する。今度は土を運ぶ板の道具で押し立てて土を運んで行く。これも、硬いところや石に阻まれて、なかなか上手く土を削ってすすめない。何度も何度も土を削る板に体重をかけて水牛に引かせる。

 水牛はあまりに重いと動けなくなる。適度な量の土壌を削って運ぶのだが、10回くらいやると、暑さで息が切れて、心臓がバクバク言い出す。そこで休ませてもらって、また挑戦を繰りかえして行く。これが3日間の作業が続いた。由美子さんの方が私よりも頑張れた。

 田んぼを作るという作業はなかなか厳しい物だった。水彩人の2週間で身体がなまってしまった。2週間も身体を使わないと、戻るのに相当時間がかかる。私は手伝いの範囲ではあったが、貴重な楽しい体験であった。全力で身体を使い働くほどの愉快はない。

 1番田んぼは私の担当の田んぼなので、余計に力が入ったかも知れない。これから動ける間は、この田んぼが私の食べるお米を作る場所になる。水牛のサクラが私のために田んぼを作ってくれたのだと、そう考えるだけでも嬉しくなる。

 サクラは鋤作業をやった後、土を運ぶ道具に変えたときに、鋤をやる方向に動いた。学習しているのだ。それは違う、土を運ぶのだと2回ほど教えると、今度は土を運ぶ動作になった。サクラは何をやるかを学習して、判断して動いている。水牛の頭の良さには刮目する。



 水牛は作業をやらされることを嫌がっては居ない。放牧地に居るときよりも、むしろ生き生きとして作業をしているように見える。もし嫌なのであれば、あの力なのだから、到底人間が制御できることはない。水牛は一日働いて、満足げに放牧地に戻る。

 休憩時間にはホースで水をかけてあげる。日陰で気持ちよさそうにしている。水牛は穏やかな動物である。東南アジアの農村では水牛が放し飼いにされている場所があるようだ。家畜として水牛が東南アジアで居なくならないのは、水牛が実用的な動物だと言うことだ。

 トラックターがあっても、やりにくい沼のような田んぼは入ることが難しい。水牛は腹が泥につかるほど潜っても何とか、田んぼの中を歩くことが出来る。脚の先が広がって潜ることを止める。人間が腰までつかりながら、作業をすることになる。人間の方が歩けない場所でも、重い土をその中でも引っ張って進む。

 何しろ炎天下、強烈な陽射しなので、水牛はしばらく作業をすると水につかって身体を冷やす。身体から湯気が上がる。ゼイゼイと息も絶え絶えになる。しかし、水の中でしばらくゴロゴロしていると、また動けるように戻る。すさましいほどの体力である。

 のぼたん農園は、伝統農業の農園である。水牛の作業を後世に伝えて行く農園でもありたい。家畜を飼うと言うことは、水牛に働いてもらわなければ、ならない。水牛は働くことを楽しみにしているくらいだ。朝作業をやるぞと放牧地に行くと、どこか喜んだように付いてくる。

 一日作業が終わると、誇らしげに放牧地に戻る。戻ると仲間達が、戻った水牛におかしいほどすり寄ってくる。働いた水牛がうらやましいと言うことなのか。よく働いた、よく働いたと、尊敬の念を示しているかのように、しばらくは離れないで歩いている。
 
 小さいノボタンも先日作業をさせたならば、初めてなのに何とか出来た。作業を見せておけば、何をするのかが分かるらしい。親がやったことを真似をするというか、すぐに作業が出来たので、驚いた。鞍を付けると言うことは最初大変だったが、2回鞍の練習しただけだが、何とか作業が出来た。

 だんだんトラックターから、水牛作業に変えて行きたい。水牛の扱いがまだ出来ないもので、現状では干川さん頼りだが、覚えれば二人で組んでやれば何とかなるはずだ。この一年の間に、もう少し干川さんから作業を教えてもらわなければならない。
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アトリエカーを少し変えた。

2023-09-22 04:25:16 | 水彩画

 アトリエカーの中を少し配置替えした。車に乗せてあった松本家具のライティングデスクは降ろした。代わりに、花梨でできた花台を絵を描く台として乗せた。なんでもいいようなものだが、やはり良い材料でできた感じの良いものがよい。この花梨の台は中国で作られたかなり古いものだと思われる。

  先日あった事故の体験で、車は少しでも軽い方が良いかと思ったのだ。アトリエの中には絵を描く為の最小限のものを乗せることにした。そして、時々使うぐらいの者は、機械小屋に下ろさせてもらった。絵の具とか筆である。何もなくなって絵が描きやすくなったかも知れない。

 絵を張り付けている画板も変えたいところだ。今はベニヤにペンキを塗っただけの簡単なものだ。春日部先生の真似である。大きさは中判全紙が描けるものである。その感じが良いと思い使ってきたのだが。もう一度上からペンキを塗ってもいいのだが、もう少し良い板にしても良いかもしれない。

 絵の前に置いてあるパレットは、中国製の硬質陶器のもだ。中国のアリババで取り寄せたもの。全部で15色である。大きい方がの皿が5つあって、これはニュートンのセットで木箱付きのものがあったので購入した。たぶん絵皿は中国製だろうかと思う。

 パレットはやはり白の硬質陶器製が使いやすい。今の15色で過不足はない。色が正確に見えるので、混色をする場合、間違いが無い。絵の具を溶かす広さも十分にあるので、使いやすい。堅牢なところも良い。手に持てないという意味では、アトリエカー向きだろう。

 チタニュームホワイト。セルレアンブルー。コバルトブルー。ウルトラマリンブルー。セピア。の5色が大きい方の皿に並んでいる。これらの大きな絵の具置きはパレットとして、その器の中で、絵の具を薄めながら使うことができる。青系統は大きな筆で使う事が多いので、その方が使い勝手が良い。

 下の方の絵皿は5色入れられる物が2つで10色。右から、ビリジャン。コバルトグリーン。コバルトターコーズブルー。コバルトバイオレット。オウレオリン。カドニュームイエローレモン。カドミュームイエロー。イエローオカー。カドミュームレッド。ローズマダー。

 この陶器製の絵の具置きに、15色をチューブから絵の具を出しておく。色に関しては他の色もたぶん全色一応は持ってはいるのだが、使う事はないので堅くなっているものもある。全部をまとめて木製の自作した蓋が被せられるようになっている。描き終われば必ず蓋をしている。

 大量の予備の絵の具は機械小屋のライフィングテーブルに入れてある。筆もその中にある。これが結構重いものであった。パステルや油彩絵の具などもこのテーブルの中に保存してある。ひとまとめにしてあるので探すことは用意である。

 水入れはやはり中国製の硬質陶器である。2つに分かれている。これは世田谷学園で指導していた時に使っていたものだ。アクリル画で使っていた。大小二つあるのだが、小田原に大きい方が存、石垣島の者はは小さい方だ。大きい方は小田原で使っている。この水入れが一番使いやすい。忘れて水を入れたまま家に帰ってもこぼれることがない。

 左側に筆置きがあり、25本置ける。コリンスキーのものと、太めの清晨堂の隈取筆。昔は上野の池之端にあった不朽堂の宮内さんの作られた隈取筆の太いものが好きだった。今の清晨堂は宮内さんの息子さんがやっているのかとおもう。清晨堂には水彩人という筆があるが、残念ながら私には合わない。繊細過ぎて、野性味が足りない。使い込めばいいのかもしれないが。

 コリンスキーの筆と、隈取筆と調子が違う訳だが、両方を使って描くことが多い。意識しているわけではないが、手がその時に描きよいと感じて選ぶことにしたがっている程度だ。あまり気にはしていないが、直に指で描いてイルカのように、どこにも滞りがないような自由に描けるものが良い。

 隈取り筆の方が筆触は心地よい。太い白雲を使うことが多い。コリンスキーの筆の方が水の含みが良い。これも太いほど使いよい。穂は短い短穂と呼ばれる物がよい。しかし、コリンスキーの場合は穂が長くても腰が強いので、使いやすいのかもしれない。

 花台の上には滑り止めのゴムの薄いマットが引いてある。その上のタオルがある。これで車の運転の揺れくらいでは、物が転げ落ちることはない。欲水を捨てないでそのままにしているが、水がこぼれていることもない。かなり安全運転の方なのだろう。

 床の絨毯も変えた。ペルシャ ギャッベ である。貰った物だ。絵を描くには少しもったいない物だが、気分良く描けるならそれも良いと思い使っている。やはり気分が良い。肌触りが良いのだろう。絨毯の下にはギンのシートの貼られたスポンジシートが敷き詰めてある。

 窓は開きにくくなっていた。窓枠が歪んだのではなく、鍵が壊れていたのだ。事故の衝撃でアルミサッシの窓の鍵が曲がってしまったのだ。そのために窓が自由に開け閉めできなくなっていたのを、自分で直す事ができた。取り替えないでも曲げを治したらば使えた。

 絵の方は少し苦労している。なかなか進まない。この調子では日々の一枚とはいかないだろう。描いてはいるのだが、なかなか絵がこれで良しとは成らない。少し絵の数は減りそうである。田植えと稲刈りが終わるまでは仕方がないのかも知れない。

 これからは午前中はのぼたん農園に居て、午後は外に描きに行く予定である。どうも一カ所に留まっているのまだ石垣島も描いていない場所が多い。まだ石垣島も描いていない場所が多い。新しい場所を描いてみたくなっている。

 
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石垣島「のぼたん農園」のひこばえ農法

2023-09-21 04:19:11 | 楽観農園


 6番田んぼの2度目のひこばえが出てきたところ。これを刈払機で刈り取る。堆肥の「よみがえり」を投入する。2度目のひこばえが成長するのかの日本で初めての実験が始まっている。この実験が出来るのは、日本では八重山諸島だけである。上手くゆけば、石垣の稲作の方法になるかもしれない。

 「のぼたん農園」では「ひこばえ農法」を模索している。ひこばえは稲刈りが終わると、必ず田んぼでも出てくる。小田原ではひこばえが大きな穂をつけることはなく枯れてゆく。ひこばえが出てから徐々に寒くなるので、暖かい地域以外では、十分な穂を付けることはない。

 稲刈り後に出てくる再生する稲を育てて、7回連続して収穫しているという、スマトラ島のサリブ農法に挑戦してきた。ところがサリブ農法は2年間、様々な方法で試みたが、石垣島ではできなかった。その過程ででひこばえを育てることならできると言うことがわかった。

 ひこばえは再生イネになることなく、せいぜい3,4枚の葉で穂を付けてしまう。品種の問題なのかも知れないが、ともかく現状ではサリブ農法を諦めた。今研究しているのは、ひこばえを遅れて育つ分ゲツと考えて、どのように大きな葉を育てることが出来るかを研究している。
 
 温暖な石垣島ではひこばえが大きな葉を付ける。それなりの穂をつけることがわかってきた。しかも、冬でも13度以下にはならないので、稲は枯れることがない。これなら連続7回でも収穫できる可能性はある。問題はひこばえの場合、3枚からせいぜい5枚程度の葉しかつけない。

 ひこばえは親株からの分ゲツである、幼保を形成する性質を受け継いでいるからだ。その少ない葉を大きくするためには、先ずは肥料が居ることだけは確かだ。現状では「よみがえり」と言う石垣の牛糞堆肥を利用している。それでもまだ不足している。

 土壌が豊かで、肥料分が十分になければ、3枚の葉が大きく厚くならなければ、ひこばえは大きな穂をつけることができない。肥料を補うために、「アカウキクサの利用」を試みている。アカウキクサ農法はベトナムで1400年前から行われてきた農法だ。

 アカウキクサは共生する藻が窒素を固定する。しかも水面を覆い抑草効果も高い。「あかうきくさ農法」はアカウキクサの安定した成長が難しいために、今のところ効果は限定的だ。季節変動もあるようだし、リン肥料の不足も関連しているようだ。

 「ひこばえ農法」は中国南方では1800年の歴史があるとある。「あかうきくさ農法」と2つの農法を統合することで、何も入れない田んぼで、連続してお米が収穫できるようになることが目標である。通年通水しているのだから、イトミミズが出てくればさらに良いのだが、まだ出てきたことはない。

 のぼたん農園では2年間通水を続けているが、まだイトミミズは見たことがない。岩澤農法では何故通年通水でイトミミズが出現するのだろうか。これがどうしても不思議だ。小田原でも4,5年通年通水をしてみたが、イトミミズは現われなかった。

 私は子供の頃から、金魚の餌にイトミミズを集めていた。イトミミズはよほど水の汚いところにしか居ない。家庭排水がそのまま流されているようなドブにイトミミズは多い。水のきれいな田んぼにイトミミズが出てくるとは思えない。しかし、出てくる田んぼでは水を入れさえすれば出てきいるらしい。

 今はもう少し田んぼの通年通水を続けて、イトミミズが出てくるところあるのか調べたい。また、どこかにイトミミズが居ればそこから取ってきて入れてみる必要もあるだろう。イトミミズが出現すれば、肥料の問題も解決する。

 のぼたん農園では1月田植え、5月稲刈り、8月稲刈り、11月稲刈りと連続して収穫を目指したい。一回を5俵ぐらいの収穫にして、一年反収15俵を目指している。かなり可能性があるところまで来ているが、まだまだ課題は色々ある。

 1,年3回の収穫のための土壌の肥料分の確保
 2,田んぼを耕さないために出てくる雑草の対策。
 3,災害が連続するために残っていくウイルス病に対する対策。
 4,ひこばえ農法向きの品種をさがすこと
 5,アカウキクサの栽培方法を見付ける。

 1,土壌肥料分に関してはまだ田んぼにして新しいために、土壌を育てていかなければならない。土壌がまだ田んぼ向きの粘土質の土壌ではない。2年前よりは大分良くなってきたので、腐植質をできる限り加えて行くことだと考えている。それまではよみがえりを適時追肥して行くことで肥料分を補う。

 2,雑草対策でコロガシを入れるのだが、コロガシによって、上根切れることになる。穂ばらみ期煮転がしを入れると言うことがイネにとって、問題になるような気がしている。まだ草が少ないので、手取りしている程度で済んでいる。

 3,4,ウイルス病に関しては、耐病性のある品種で、石垣島の気候に適している者を見付けなければ成らない。今回台光という品種を田植えをしてみる。この品種に耐病性があれば良いのだが。耐病性のある品種を調べることも必要であろう。中国で作られているひこばえ農法の品種はどういう品種なのか調べたい。

 5,アカウキクサは広がらないわけではないが、消えてしまう期間も長い。これを安定的に栽培する方法が見つからないと、土壌が良くならない。今のところアオウキクサの方が良く広がっている。いくらか中にアカウキクサが広がり、それから置き換わって行く。

 課題はまだまだ多いわけだが、課題が何かと言うことだけは分かってきた。今後、時間をかけて課題に挑戦して行くつもりだ。あと3年試行錯誤しながら、ひこばえ農法の可能性を探って行きたい。課題があるということは幸せなことだとも言える。

 のぼたん農園の冒険は山場にさしかかっている。この冒険は楽しい。日々が充実している。まだ成果と言うほどの物はないわけだが、この先にある、石垣島という自給農業の楽園建設を目指して、元気に努力を続けて行きたい。

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投資をするなら「さとやま」に

2023-09-20 04:55:18 | 暮らし
 ひこばえに出たひこばえ、つまり3期作目。

 株式投資はやらない。遠からず値下がり損が迫っている。いつもお金が気になるようになるのが怖い。拝金主義者には成りたくない。お金がお金をウム資本主義を悪と考えた時代もあったのだ。総理大臣も確か倫理ある資本主義と言っていた。

 もし投資するのであれば自分自身が一番である。日本の会社よりも自分の方がまだ成長の可能性が高いと考えている。自分への投資には失敗の後悔がない。その自分への投資は、里山資本主義である。地域をよくすることに投資すれば、必ず未来に繋がる。
 
 今政府は膨大な量の株式投資を行い株価を支えている。しかし、政府の原資は国民から集めたお金である。日本国の財政は世界一の赤字である。一体許されることなのだろうか。このまま行けるとは思えない。政府はむりやり株価を支えるために、税金を安くしてまで国民のお金を株式に吸い上げようとしている。
 
 外国からの投資は円安が主要原因である。海外からの観光客の増加と同じである。海外から見れば割安感があるのだ。これは日本経済に成長力があるからという投資ではないのだ。いつか一斉に引き上げが始まる。その不安だけでも株式投資は早く止めた者が勝ちだ。
 
 アメリカはウクライナに、代理戦争と言えるほどのお金を注ぎ込んでいる。にもかかわらず、世界経済でアメリカだけが成長余力が高いとされている。ウクライナ戦争はアメリカ経済にとって、プラスになると言われた予測は正しかったようだ。だから、ウクライナ戦争は膠着状況で継続されるのかも知れない。
 
 中国はウクライナ戦争で漁夫の利を得ると思われたが、かなりロシアからの利益を上げては居るが、マイナス面も大きいようだ。アメリカほど戦争で利益が上がるわけではないようだ。戦争があれば、軍事産業国であるアメリカの経済が回り出すことは確実なことだ。
 
 アメリカとの経済戦争が、中国にはロシア以上に影響してきているのだろう。中国はアメリカや日本との貿易が経済の基盤となっている。それが途絶えて困るという意味では、アメリカより中国の方が深刻なようだ。特に食料への不安は大きいはずだ。
 
 日本は独立国とは言いながら、自立した安全保障のある国ではない。外交政策が持てないために、アメリカの指示に従うだけである。中国と経済対立を深めている。その結果は日本にはかなり重いものになっている。中国の水産物輸入禁止などその目立つ事例だが、中国自身が食糧安保をどう考えているのかである。
 
 一方でアメリカ経済は中国への経済制裁の結果は影響を受けていない。やはり食料輸出国であるということは、経済戦争には強い。日本経済が停滞から抜け出せない原因は、食糧自給が出来ない国である事と、中国との経済戦争の結果だと考えて良いようだ。日本はこれからも中国との経済摩擦は続くのだろう。
 
 アメリカの経済が比較的良いために、日本の企業は円安を生かして、利益を出している。ヨーロッパ経済はウクライナ戦争の影響も強く、低迷が続いている。ドイツはロシアとの関係が強かったために、大きな不況になっている。英国はEU離脱の影響で経済低迷。
 
 やはり世界経済はアメリカを中心にして進み、徐々に中国が追い上げるという構図である。この2国の経済成長の恩恵をどのよう受け止めるかが、日本の経済の方向なのだろう。中国との関係が悪くなる一方なのだから、日本経済は大きな流れとしては苦しくなるはずである。
 
 日本はこの先第一次産業から崩れて行く。円安とエネルギー価格の高騰で、第一次産業は経営が厳しさを増している。自営業者の廃業が増えるはずだ。それが地方の崩壊に繋がって行く。企業だけは円安で生き延びるかも知れないが、日本全体は疲弊が深刻化して行かざる得ない。
 
 さらに格差社会が広がると言うことになるのだろう。それでも政府は円安と株式投資を推進するだろう。そしてさらに選択肢のない、厳しい状況に入り込んで行くことになる。そのまえに、株式投資を止めた方が良い。今から株式投資をやるなど最悪のことになる。
 
 どうしてもやりたいのであれば、せいぜい国債ではないか。国債は貯金よりは利子が良い。国債がダメになるときには、日本がダメになるのだから、銀行も倒産するところがすでに出ているはずだ。その時はすでに何をやったところで大きな違いは無い。

 先ずは自分に投資することだ。自分の才能を伸ばして、投資の効果を上げれば良い。投資先は身近の自然環境である。耕作放棄地を耕作することに投資する。必ず、食糧難時代が来るのだから、世界全体で見ればすでに始まっているのだから、投資には大きな見返りがある。
 
 自分が食べるものを自分で確保する。これほど有効な投資先はない。「里山資本主義」と言う考え方がある。「お金がお金を生む経済(マネー資本主義)」だけに依存するのではなく、山や海、森といった、お金に換算できない自然由来の地域資源に付加価値を与えることによって、持続可能で安心な地域社会をつくろうという新しい資本主義とされる。

 小田原では「あしがら農の会」、石垣島では「のぼたん農園」をやってきた。私の絵の方はまだ成果が出ていないが、この食糧自給活動の方は着実に未来に繋がっている。私の持てるものすべてをこの活動に投資する価値があると考えている。

 この里山投資の一番の優待配当は友達が出来ることである。助け合える友達が出来ることだ。これは年寄には何よりも心強いものではなかろうか。しかも農地が整備されれば、耕作放棄地と言われ無だったものが、社会に有益な農地に変わるのだ。
 
 特に田んぼは緊急的に維持しなければならない。田んぼが無くなれば、環境が急激に悪化する。悪化するとは環境が単純化して生物多様性が失われる。石垣島では今年から急速な耕作放棄地が広がり始めた。これを止められるのは、農業を生業としない市民だけだ。

 確かにそこまでの道のりには厳しい者がある。市民一人一人が生き方を変えなければならない。石垣市長などはSDGZの島と言いながら、田んぼが失われていくことを推進している。水資源を田んぼから観光に回したいと考えているのだろう。

 これは間違った考えである。市民が行う環境を循環させる田んぼは水を消費するのではなく、生産している場所なのだ。大雨が降れば、田んぼが遊水池になり、赤土の海への流出を防ぐのだ。何故、石垣島に於いて市民の田んぼ活動を活発化させないのか不思議で成らない。

 石垣島で食糧自給が出来るようになることこそ、石垣島の安全保障だろう。自衛隊が居たとしても、食べるものがなくなれば島の暮らしは終わりである。自給の島石垣島を目指すべきだ。そのためには市民が自給農業をしなければどうにもならないだろう。

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原発汚染水海洋放出の問題

2023-09-19 04:00:41 | Peace Cafe


 福島原発の放射能汚染水はアルプスという装置で放射性物質をすべて取り除ける予定だった。だから、東電も政府も放射能は一切海洋放出をしないと約束をして、タンクを作りため続けた。結局トリチウムに関しては取り除けなかったのだ。地下水が絶え間なく流入し、放射能汚染水はメルトダウンした核燃料に接触して流れ出てくる。

 当然放射線を受け汚染された水は、外部に流れ出る。汚染水が海に流れ出ないように、ひたすら吸い上げて、放射能除去設備であるアルプスで処理をしてきた。そしてどうしても処理しきれないトリチウムを含んだ汚染水は、貯水タンクに貯めてきた。しかし、敷地内のタンクは限界を迎えている。

 そこで、政府と東電は原子力発電所の排出基準以下に汚染水を薄めて、薄めれば広い海にわからない形で拡散するということなのだろう。処理水と名付けて、海洋放出をすることにした。これは明らかに予定外のことで、約束違反である。しかし、約束を違えたとは一切言わない。裁判対策かもしれないが、全くの不誠実である。

 韓国の原発も、中国の原発も、トリチウムを放出しているのに、なぜ日本だけいけないのかと、議論をすり替えている。つまり、世界中で原発はやめるべき施設なのだ。みんなが悪い事をやるからやってもいいでは、安全な地球ではない。人を責めても無意味だ。

 原発はみんなが止めた方がいい施設なのだ。百歩譲っても必要悪施設なのだ。さすがに日本国民は、中国の原発の汚染水海洋放出は危険だから、中国産の海産物は買わないとは言えない。中国は核実験はしているが、原発のメルトダウンはしていない。いつか原発は限界を超える。

 そもそも原発は全部嘘だったのだ。だから福島原発がメルトダウンして安全神話が崩壊したといわれたのだ。ありえないと宣言していた事故が起きたのだ。だから、今更トリチウムは安全な放射能物質だとは到底言えない。自然界にいくらでもある。雨に混ざって降っている。等と言っても何かおかしい。何度も嘘をついてきた結果である。
 
 福島原発事故によって放出した放射性物質は小田原にも大量に降り注いだ。もちろん原発のそばにはさらに大量に降り注いだに違いない。放射能測定活動を続けたので、状況はわかっている。たくさんのサンプルを取りつづけて、調べてきた結果。放射能は蓄積されやすい場所と、蓄積されにくい場所があることが分かった。地形や土質によるらしい。

 消滅しやすい場所では翌年にはきれいさっぱり水に流れたのだ。ということはみんな海に行ったのだ。海にもきっと、高濃度になる場所と、少しもない場所とがあるはずだ。河口付近の沈殿泥地帯には高濃度放射能地帯がありそうだ。河口付近の貝などには蓄積しているかもしれない。

 その小田原では蓄積されやすい標高350mくらいにあるくぼ地のような場所には、どうも中国の核実験場から流れてきたもの、南太平洋のマーシャル諸島のアメリカの核実験場から流れてきたものが存在する。子供のころ雨に当たると禿げになると騒ぎになった時代からのものが、残っていることが分かった。ああ情けないことだが、そういう場所から、堆肥を集めていた。そうみんなで地球を汚染してきたのだ。

 今回中国と韓国の一部と日本国内の漁業関係者そして、反原発運動の人たちから、強い反発が起きた。反原発の日本人の中には、なんと中国の主張を正論だという人たちまで現われている。何という愚かなことか、反原発こそ科学的に戦う必要がある。感情論ではだめだ。

 特に中国との関係では経済戦争と考えなければ成らない。日本もアメリカの支持で中国に経済制裁をしている。不動産投資経済が苦しくなってきた中国では、国民の反発を日本に向けて置きたいのだ。政府は科学的に説明してというが、約束を違えたことを謝罪しないところに第一原因がある。この約束違反が風評被害を膨らませていることは間違いがない。

 福島から300キロ以上離れた小田原でも農産物が基準値以上になり、廃棄処分になった。イノシシ肉なども廃棄処分になった。実は田んぼでも基準値以上の土壌が出た。こうして、人体実験を続けている結果。10年くらいの時間では、疫学的影響は顕著には見られないことが分かった。放射能はまだ未解明だ。

 もちろんだから、原発は安全だ。放射能は大丈夫だなどとは考えてはならない。放射能には限界値がある。今のところだけで考えれば、近い福島県内でも放射能の影響は疫学的には起こっていない。子供の甲状腺ガンの長期的調査の結果ではガンの発生が高まっているとは言えないという結論が正しい。

 しかし、放射能は消えることがないから、さまざまなかたちで、もちろん自然界からのもの含めて、受け続けている。そうして受けて貯まったものが、臨界値に達した時にがんになるのかもしれない。放射線でガンが治るという話もあるくらいだ。いつか、何千年後に何か影響がおこるのかもしれない。

 そうした手に負えない化学物質を人間は限りなく作り出している。海洋放出が許されないものは、放射性物質よりもマイクロプラステックだと思っている。放射性物質の影響が高まるより先に、ビニールによって人間は確実に滅びる。こちらは解明された危険物質だ。放射能が1000年で人を滅ぼすならば、ビニールは100年だ。

 放射能よりもビニールの方がはるかに危険だ。現状燃やすほかない。ダイオキシンどころではない緊急事態なのだ。もちろん、リサイクルできればいい。しかし、そんなことを言っている間に、大量のビニールの海洋放出が続いている。プラステックの生産量はどんどん増え続けているのだ。と言ってもビニールを使わない生活をすれば、生活費は倍増するだろう。現実不可能なこと。

 日本はプラステック生産量の銅メダル。世界3位である。容器プラとしては銀メダルの世界2位。日本のプラステックリサイクルは半分は燃やされている。これが批判の対象になっている。何故燃やしていけないのかが分からない。

 そういう人は暖房のストーブを使ったことがないのかもしれない。もう燃やしてはならないという状況ではないのだ。日本近海はマイクロプラステックの濃度は世界平均の27倍だと書かれている。海の生き物はみんなマイクロプラステックをため込んでいる。

 プラスチックごみの問題を解決するために必要なことの基本は、いわゆる3Rです。ーーーWWFジャパン
  • リデュース(Reduce)=出すごみの総量を減らすこと
  • リユース(Reuse)=再利用すること
  • リサイクル(Recycle)=再生産に回すこと
これを徹底することが、海に流入するプラスチックを減らすことにつながります。

 のんきすぎないか。3Rで何とかなるとは到底思えない。あまりに空想的だ。薄めて流せば大丈夫だ理論とよく似ている。ビニールをやめるほかない。原子力よりも緊急である。ビニールが止められないならば、ビニールで人間は確実に滅びる。まずは消耗品でビニールを使わないようにするほかない。

 放射能で滅びるのは1000年。ビニールで滅びるのは100年。孫の時代はない。世界がすっきりとなくなるだけならまだましである。ビニールが人間の細胞の中まで入り込んで、とんでもない病気が蔓延するだろう。ビニールを今やめなければ、そういう時代はそこまで来ている。

 
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水彩人のこれから

2023-09-18 04:09:31 | 水彩画



 水彩人展は無事終了した。心底良かった。今日これから石垣島に帰る。担当の展示に関しても割合評判は良かった。充実した2週間であった。毎日通ったのだが、特に疲れたという事はなかった。会の絵の内容はまだまだなのだろうが、今やれることは精一杯できたと思う。

 まだ正式決定ではないが、次は相模原での展覧会という事になる。良い展覧会になってほしい。水彩人展は年2回の開催が会則で決まっている。何とかどこかで展覧会をやらなければならないということで、相談しながら会場を探した。たまたま昨日までそこで展覧会をしていたという、松田さんがいたので、相模原の市民ギャラリーに問い合わせたなら、6月末に会場が空いているので使えるという事になった。

 水彩人では地方展係で、奈良で開催するためにいろいろ進めてきた。奈良の同人に石川のうるわし展の時に相談して、進めてみようとなっていた。いつも地方展を協力してくれる人たちと、代表や事務局に相談して、ほぼいけるだろうという事で進めた。

 ところがその場所が奈良でも飛鳥の方なので、やる価値がないという意見の人が現れた。なんで笹村が独断で進めるのだと批判が出た。総会で決められたことではないのだから、総会で了解を経てから進めて欲しいという事だつた。もっともなことなので、奈良展は止めることにした。総会は1月である。そこでの承認を待って進めるとすれば、来年の開催は不可能なので止めるほかない。

 水彩人は52名である。展覧会をやるとすれば、かなり広い会場が必要になる。そうした会場の多くは一年前には予約をしなければならない。そうだとすると、2年先の地方展あるいは小品展を上野の本展の機会に打ち合わせをして、おおよそを決めていかなければ開催が難しい。

 そして総会までに借りられるめどを立てて提案することになる。しかし、抽選に外れれば、その年は開催が出来ない事にもなる。巡回展を定期的に同じ場所で行っている会は、新しい場所を借りるという事がないので、割合安定して開催して行けるのだろう。

 これが正しい進め方だとしても、いったい誰が上手くやれるのだろうかと心配になった。正直、石垣島にいる私が、奈良に行き打ち合わせをして進めるのだから、なかなか調整が難しく、上手く進めることには限界がある。たぶん異論がある中で進めるのでは面倒くさくなってしまうだろう。

 できる人がいるとすれば、やはりその地方の人である。福岡県の人が2年先の福岡展を準備して提案するという事なら、可能なのかもしれない。ところが現状地方在住の方からそういう提案が上がらない。これから募集して、2年先の計画を立てたい。

 開催したいという提案が上がらないから、そのまま待っているという訳には地方展係としてはいかない。開催に向けて努力してゆく必要がある。地方展の目的は水彩人の水彩画研究の為である。新しい仲間の発掘である。講習会を行い。水彩人の水彩画の在り方を伝えてゆく必要がある。

 これは地方展や小品展だけの問題ではない。東京近郊に暮らしている人は、本展の準備に大変な努力をしてくれている。その努力のおかげで、本展は成立している。そのことを考えたならば、地方在住の仲間が、地方展を準備に努力をすべきだろう。今の所それが実現されているのは、金沢のうるわし展だけである。

 水彩人の場合、民主主義的運営が会則で決まっている。前出の地方展の話でも、一人でもおかしいという意見が上がれば、やる気がそがれてしまい終わりになる。別段誰にも義務がある訳ではない。会の為と思い努力しているだけのことだから、みんなが喜んでくれるから努力も出来る訳だ。

 組織の中にはみんなを黙らせてしまう人がいる。水彩人にもそれなりにそういう人がいる。私ももしかしたらそうかもしれないと思い、書き始めた。簡単に言えば、問題点が良く見える人だ。どのようなことも必ず良いことと悪いことはある。どこまでも比較の問題である。

 良い組織は全員がその組織を作り上げている一人であると考えて行動できる組織だ。そうなるためにはその組織が自由で民主的な運営がされていることである。こうした仕組みは大変面倒くさいものだ。独裁組織はその点早い。良いことも早いが、当然悪いことも早い。

 なぜ労力をかけて展覧会を開催するのか。それは絵は一人では研究できないと考えているからだ。仲間と一緒に研究して初めて自分の立ち位置が分かるものだ。それは座禅を一人でやってはならないという事と同じだ。独善に至るのだ。そういう人を沢山見てきた。絵は描くだけなら一人で出来るから、おかしなところに落ち込んでしまう絵描きは多い。

 公募展に出していれば、いいかと言えばそれもまた違う。今の日本の公募展の絵は、私には大半は絵にはみえない。何なのであろうか。奇妙奇天烈な不思議な絵らしきものだ。ああした絵は展覧会が終われば、廃棄処分する以外方法もないのではないだろうか。公募展向きの絵画と言われるものがあるらしい。

 そうした公募展向き絵画の指導塾もあるらしい。私には理解しがたいことだ。各公募展の絵の雑誌が事務所にあったので、じっくり見せてもらった。私が絵だと思えたものは発見できなかった。つまり、私がおかしくなっているか。公募展がおかしいのか。どちらかなのだろう。

 その公募展中では唯一水彩人展は絵を描こうという会に見えた。水彩人は下手の集まりだと言われているそうだが、なるほどこういう事なのかと今頃になってわかった。水彩人展は公募展向きの絵画を良しとしていないのだ。私の絵はまさに平凡な風景画である。上手くもないし、特別な特徴もない。自分の世界を探求している絵だ。

 多勢に無勢であるが、水彩人に独自性はあると言えるが、下手だと言われればその通りである。そのようになる理由は民主的運営にもある。下手だからダメだとはだれも言わない。水彩人以外に、その様なことを会則で決めた会はないだろう。大抵の公募展は独裁型運営であるのだろう。雑誌に載っている絵が威圧的に見えた。

 今回来年6月に「水彩人相模原展」を開催することがほぼ決まった。相模原の駅ビル4階の市民ギャラリーである。ほぼ決まったのは、都美術館での本展で会う人に話して、会えた人すべての人から了解を得たから暫定的に進めていることになる。確かに総会を経なけば決定ではないと言えばそうである。最終決定は1月の総会になる。まあその時に異論が出ても、会場を借りてお金も払っている。どうなるのだろうか。民主主義は難しい。

 中判全紙2点を出すことにしたい。場合によっては3点。今度こそよそよそしく無い絵を出したい。内的であり、親密な絵を出した。突き放した絵にしてはダメだと今は思っている。すでに、気持ちは次の展覧会に進んでいる。意欲が湧いているのは、水彩人展のお陰だ。
 

 
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第177 水彩画 日曜展示

2023-09-17 04:01:07 | 水彩画
第177 水彩画 日曜展示

10号前後の作品です。






254「妙高山紅葉」
2023,9








255「佐渡の漁港」
2023,9








256「佐渡の入り江」
2023.9








257「青梅の公園」
2023.9








258「屋良部岳」
2023.9








259「蓼科山」
2023.9








260「黒姫山高原」
2023.9


 展覧会の会期中ではあるが、絵を描くことは続けたいと思っている。こうして描いている。いろいろ学んだはずなのに、そういつもと変わるものではない。もう少しいたら、上野公園の絵が描けるかもしれない。毎朝、都美術館に通いながら写生をしている。

 絵にまとまるためには時間がかかる。公園には大木がある。1mもの太さのある木だ。その木のあいだから、公園の賑わいが見える。台日一緒っフェスティバルが行われている。この様子を描いてみたい。毎日少しづつ、記憶を絵に貯めている。

 上野公園では以前写生会をやったことがある。これがなかなか良かったのだ。絵になる場所なのだ。ただ、今は上野公園は管理がうるさいので、描くことができるのかどうかはわからない。最近では絵を描くことが禁止されている公園があるのだ。


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25回水彩人展で学んだこと

2023-09-16 04:34:50 | 水彩画

 石垣島を出たところ。

 水彩人展の会場にいる。審査日を含めれば、2週間もみんなの絵を何度も繰り返し見ている。会場で自分の絵は何なのか。どんな状態なのかと思い見ている。家で見ているとは違う。自分の絵が少しよそよそしいことに気付いた。何故なのだろうか。「私絵画」がよそよそしいのでは、まずい。

 自分の絵の中から作為的なものを除いてきた。絵作りするような気持ちを失くそうとしてきた。その結果何かが変わった。ある意味作為的なものが、私を表す何かのようであったのかもしれないと考えた。それを失くすということは、自分の人に見せているような側面が消えるということなのかもしれない。

 人間はなかなかややこしい。自分を消してゆくということと、自分を表現してゆくことは、裏腹なもののように見えて、同じく意図的なことなのだろう。どうすれば、小脳的な描き方にまで行けるのか。あるがままに描いて、自分に至るにはどうすれば、いいのか。

 もう一度反省して、絵を描く原点に戻る必要がある気がしてきた。描きたいという感動した原点に戻る必要があるようだ。感動をしていないのに描いていてはだめだ。日々の一枚にただ従って描いているだけでは、いけないのかもしれない。毎日描くのはいいのだろうが、その毎日に感動が薄れてきたのではだめだ。

 只管打画ひたすらに描く。描くことに心と体が一致する。描く手と描く心が一致するということ。ボーとして意識があいまいになっているとは違う。感動に包まれて、我も忘れて描くことに没入している状態であろう。この点がおろそかになっていたのかもしれない。

 絵を描くことが習慣化して、感動が薄れていたのかもしれない。その為に絵がよそよそしく他人事化してきている。もう一度風景を見て、感動するという原点に立ち返らなければならない。感動がないのに絵を描いたところで意味がない。日々の一枚にこだわりすぎたのかもしれない。貴重な水彩人展であった。

 水彩人では次の小品展の会場を模索していたのだが、今回相模原市民ギャラリーが候補に挙がった。6月末が借りられそうなのだ。一人20号2点づつ飾れる会場である。松田さんが先週までここで相模原芸術協会の展覧会でここを使っていたのだ。良い会場ということで借りられるならと候補に挙がった。

 水彩人展では毎年上野での本展ともう一つ小品展が行われることが決められている。小品展は昨年は松任のうるわしで行われた。今年もどこか地方で出来ないかと模索していたのだが、今回相模原市民ギャラリーで行う方向で、検討されることになった。

 この展覧会を地方展係としてやるのか、小品展の開催部会を作りやるのか、まだ決まっていないが、やれることはやりたいと思っている。相模原なら、小田原から通える範囲なので、あまり心配がない。一番早い電車であれば、1時間かからない。

 もし開催できるならば、この機会はよい目標になる。6月末までに、一新した絵を展示するつもりで頑張りたいと思う。水彩人という仲間がいて本気で絵の表現ができる場がある。このことは幸せなことだ。もし水彩人という場がなかったならば、すぐに自分の位置を見失う。

 絵は一人で描けるが、自分の絵は一人では探せない。今回の水彩人展はそのことを気づかせてもらえる良い機会であった。たぶん昨日、栗原さんと疋田さんが会場で絵の話がしたいといわれたのは、私の絵に問題があるということだったのだと思う。

 直接の言葉は聞けなかったが、十分にそのおかしいとされる意味は理解できた。本気で心配してくれる仲間がいるということはありがたい、素晴らしいことだ。年を取ると頑固になり、方向がおかしくなる。絵が衰える。できる限り謙虚に人の話が聞けるようでありたい。

 水彩人展の今年の傾向として、絵の「場」があいまいな作品が10点ほどあった。花の絵を描いて居るのに、花以外は一色で塗られているような絵だ。ボタニカルアートのように見える。静物画でも描かれた物以外は、ほぼ一色で描くような絵だ。

 確かに水彩画の最近の指導書やテレビのプレパトの水彩画ではそういう安易なイラストを水彩絵の具で描いて、水彩画であるとしているらしい。これは危険な傾向である。去年まではしっかりとした場のある絵を描いて居た人が、安易な水彩画の手順書スタイルを取り入れてしまった人がいる。

 そういうきれいごとの絵を絵と考えるのであれば、上手な絵を評価する他の絵の会に出してもらえばいい。そういう絵画団体もいくつかある。絵はどれほど上手に描かれていたとしても、その人の世界が表現されていなければ、絵とは考えない。下手は絵の内、上手いは絵の外。

 最近悪貨が良貨を駆逐するように、見栄えだけの手順に従い、きれいな絵を描く、表面的な絵が出てきたことは、日本人の劣化だと思っている。時代が弱まるとこういうことになる。即物的なわかりやすいものしか理解できなくなるのだ。世界の絵画の歴史を見れば、社会の衰退と、クソリアリズムの出現は連動している。

 日本の社会は芸術行為とは何かを見失い始めている。精神のない芸術などあり得ない。自己表現が芸術の基本だ。装飾絵画は芸術ではない。きれいにできていて何が悪いのかという人がいる。そう反論した人が会場でも何人かいた。
きれいな絵がいいのであれば、水彩人ではないだろう。水彩人の考え方は設立時の声明文に出ている通りである。

 塗り絵のように手順を覚えて、システムで進めて、一見の見栄えの良い絵が短時間でできれば、それでよかったという世界は困るのだ。確かにそうした安易な絵が売れる絵の時代にになっている。これは資本主義末期の商品絵画の時代ということだ。芸術の崇高な精神が弱まったことによる反映なのだと思う。

 せっかく絵を描くのであれば、精神の仕事にしたい。制作する人間が絵に現れるようなものにしたい。どこの誰が描いたかと言えば、指導書の先生が描いた絵の物まねというのでは、情けないと思う。一見きれいな絵ができたところで、そんな安手の絵を自分の生活空間に飾ることは恥だと思わなければならない。

 そんな絵画のある人の暮らしは精神的な喜びが衰退する。芸術はそう簡単なことではない。これは自己反省である。他人ごとではない。石垣島に戻り、新たな気持ちで絵を描いてみたいと思う。感動から始まる絵。自分というものと対峙する絵。自分の精神を深めてゆく制作。人の振り見て我が振り直せ。
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