地場・旬・自給

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田んぼの緑肥作物の様子

2015-04-30 04:13:14 | 稲作

久野のあしがら農の会の田んぼでは3種類の緑肥作物が作られている。3種3様で面白い。

「ヘヤリーベッチと緑肥麦」 欠ノ上田んぼ

「おなじみのレンゲ」 子ノ神田んぼ

「赤クローバー・クリムソンクローバー」 舟原田んぼ

 

冬に緑肥作物を作るのは、土を良くするためである。藁を堆肥にして入れると言うのが一番良いと考えているのだが、それでもなかなか土壌の改善が進まない所があるので、緑肥を撒いてみた。欠ノ上では、腐植質の不足を感じたので、実験的に、ヘヤリーベッチと麦を撒いてみた。ばらまきしただけである。4枚の昨年良くなかった田んぼにばらまいたのだが、4枚同じにはならない。こういう所が面白い。冬の日差しの影響がやはり大きいようだ。谷間の田んぼは、冬は極端に日照不足になる。冷たくて凍りついてしまう。その影響もあってなかなか、良い成長にならなかったのだが、ここにきて一気に良くなってきた。麦の成長がいい、今年これで最終まで行ければ種取りをしてみたい。実りが浅くても乾燥まではしてみたい。立派な姿なので、そのまま飾っておくこともできるだろう。

緑肥で問題になるのは、毎年種を買わないとならない点だ。いずれも種は高いし、緑肥の種取りをしなくてはならないと何度も挑戦したが、手間が掛かってそこまで、やれればなあ―と毎年思う所である。麦に関して言えば、5キロくらいなら簡単に採取できそうである。今度畦の草刈りの時にやってみたい。ヘヤリーベッチは草量が多いい点が良い。ともかく繁茂する。これも粘りに粘って種が充実するのを待って、すき込みたい。上手く行くかどうかは年によっての違いになる。いままで上手くいった事はない。それでも、田植え直前にハンマーモアーで刈って、から漉き込む。田植え直前にすき込むことで、抑草が出来る。これも、セルトレーで作る5葉苗の良さだ。強いし活着がいいから、滞りなく定着する。田んぼの土は、青草を含んで発酵を始める。そこに、ソバカスを撒いて、良い発酵に進める。

まあ、良いというのが良く分からない所だが、ともかく草抑えになる場合がある。上からはソバカス。下からは、青草の漉き込み。そして、早めに行う転がし。この3点が揃えば草対策は万全である。ああそうだ、あとは8センチの深水。多様に草を抑える。こうした事が出来るのは、大苗田植えの利点である。だから、総合的に見れば田植え機を使わない農法は、案外に省力的なのだ。予定では23日が荒起こしである。後、24日間。何とか種になってくれるだろうか。毎年ギリギリの事になる。レンゲやクローバーは何とか間に合うのだが、ヘヤリーベッチはダメだろうと思う。家の方の斜面に蒔いた、ヘヤリーベッチは今年は生えてきていない。あれほど茂り、種も付けたのに、再生してくれなくなった。土壌はずいぶん良くなって、今年は畑が出来そうなまでに、草の様子は良くなっている。そろそろハンマーモアーで刈り倒そうかと思う。植え付けた柿の木も、草にか揉まれ、良い芽を出してくれている。

レンゲは平野部の桑原あたりなら、そのまま翌年も出てくると言う事もあったのだが、久野では中々継続できない。種取りをしたこともあるが、手で採取するのではそれこそ大変でもうやりたくない。れんげの種が中国産というのも、なんかすっきりしないのだ。クリムソンクローバーは緑肥でもあるが、まさに景観作物である。これが一面に咲く姿はまさにお花畑で、美しい農業風景としては推奨されてい良い。やはり問題点は種取りである。舟原田んぼでは、上の田んぼのクリムソンクローバーが素晴らしい出来なので、3枚の違いがどこまで出るかである。同じ緑肥を繰り返すより、違う緑肥を作るのがいいと、石綿さんは言われていた。それは、レンゲが連作するとできなくなるという事の延長線の話しではあったが。冬の間田んぼの土を寒風にさらして乾かすという事が土に良くない。それが今まで、指導されてきた農法であるが、それをやったら化学肥料を使わざる得なくなる。やはり、じっくりと土を良くすると言う事が田んぼの基本方針であるべきだ。

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北海道水彩人展

2015-04-29 04:14:23 | 水彩画

描いてきた7枚の絵

北海道鹿追町にある神田日照美術館で水彩人展が開催されている。その準備を兼ねて北海道に行ってきた。水彩人ではグループが出来た頃から展覧会を行う事と、講習会を行う事を同時に行ってきた。それは今の社会における、絵画の意味が、出来た作品の意味より、それを描くという作者自身の行為が重要になっていると考えてきた所にある。絵画作品が社会的には、後期印象派以降の自己表現的な芸術の意味を失い、商品としての存在がよりどころになっている状態。その事は以前にも何度も書いた事なので、ここでは深入りしない。ともかく、絵を描くと言う事が、それぞれの生き方にどのようなものであるかという事に、比重が移ってきているのではないかと考えてきた。だから、何故そのような絵描くのかという事の自問が、一人ひとりの絵の世界を作り上げているのではないか。いわば趣味の世界と言われるような絵の描き方が、実はそれそれの生き方の重要なものになっているのではないか。

少なくとも、私個人は水彩人を作るよりはるか以前から、そのように考え、水彩連盟展の中でも、講習会の担当を長く続けた。そうした、制作を通して切磋琢磨して行く環境を作り出したいと言う思いが、水彩人展という絵画グループになった。それから17年がもうたってしまった。水彩人も年々仲間が増え、公募展的な組織になった。北海道には、山平さん、金田さん夫妻、小谷さんと4人の仲間がいて、今回この講習会を準備してくれた。昨日のブログでは、タブレットから撮った写真を、その場でアップした。上手く文章が書けなかったので、今日改めて、様子を書いておこうと思う。水彩人の講習会は、芽室町の新嵐山荘という国民宿舎で行った。とても整った施設で、北海道の公共施設はいつも素晴らしいと思う。周辺に小川と湿地があり、背後にはスキー場になっている。その山頂は展望台になっていて、その眺望は他にはない雄大なものである。

一日目は、湿地を描いた。15人位である。関東の水彩人としては5人が参加した。地元から10数人がいた。共に制作すると言う事は、一人で描く時とは違う事になる。お互いのエネルギーが高まってゆく。絵は一人で描くのだから、何も違わないようだが、普通に考えれば、互いが気になり描きにくい事になる。所が、私の場合はいつも描けないような、興味深い絵になる。だから、講習会をやる事になる。違う自分に対面できるのだ。一人の時とは心理が違うから、当然のことかもしれない。そのときの見ている心境を描いているような制作だから、そうなるのだろう。寒い地方の春はある瞬間に来ると言うが、まさにそういう一日で描いている内に花がどんどん開いてゆくという、貴重な瞬間に遭遇した。目を上げると突然彼気が新緑に変わっているというような事が起きた。奇跡の様な時間を過ごした。その事を雪解け水を描きながら描いた。

2日目は、展望台に登って、剣山を描いた。広がる、芽室の広大な農地を描いた。何しろ31度という日本一暑い日である。4月にこのような事が起こる事はかつてなかったようだ。一日描く内に緑が濃くなってゆくという不思議な日を描いた。畑がトラックタ―で耕され色が変わってゆく。皆さん一心に描いていた。良い絵を描くと言う事より、今自分が見ている目の前の風景と、見ているという自分という存在の関係をたどっていた。3日目は然別湖。ここで、神田日照記念美術館の菅館長と交流した。然別湖はまだ凍りついた湖である。この氷の湖を描いたが、これは自分には合わなかった。つまり畑がない。命が産まれてくる感じがしない。自分が反応できるものがなかった。むしろ、自分が描来たくなる物が畑だと言う事は、そのものが産まれてくるという感じが好きだからだ。春に命が芽生えてくる。この息吹を感じて描こうとしたようだ。そういう絵になっているかどうか。

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北海道の春

2015-04-28 04:19:05 | 水彩画

 芽室新嵐山からの展望

北海道の神田日勝美術館において、水彩人同人展が開催された。それにあわせて、北海道に来て絵を描いている。北海道の春というものがどういうものか楽しみで来た。絵を描いたのは、芽室という所と、然別湖である。芽室は帯広空港から遠くない場所で、写生が出来ると言う事で選んだ。

 

 

展望台の下の日陰で座って、剣山を描いている。何しろ31度。

 

雪解け水を描いた場所。国民宿舎の脇に湿地があり、それは様々な植物が咲いていた。                                       

 

                                                               

 

展望台から剣山の眺め。

  

皆さんの絵を描いている様子。

 

畑が林の向こう側にある。

  

然別湖は前にも来たのだが、冬の湖というものを描こうという目論見である。    

神田日勝記念美術館

 

 

 

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水彩画の描き方

2015-04-27 04:53:20 | 水彩画

篠窪に毎日通って描いている内に、幾らかわかったような気分になっている事がある。それは自分は確かに見ている物を描こうとしている。目に映っている物を、どいうすれば画面に移行できるかをしている。所が描写ではどうにも近付いてくれない。そこでどんな感じで、実際に見ているのかという事を考える。何か一つの事に偏ってみている。例えば流れる風に揺れている絵だと言う事に目が行くとする。ああ今日は風がいい。そういえばあの峰に来ている風は徐々に、谷に下りてきている。その風の道は、あの枝が揺れた、そして次はその下の木だ。今は、下の草原も揺れている。風の道は、こちらにも向かっている。そのように風というものを辿るように見ている。それは草の緑の黄色っぽさに目がむけば、今度はこずえの新緑である。随分赤みを帯びている。新芽は白いものから、赤いものまである。キューイの新芽は本当に唐突だ。などなど。

連想ゲームの様に想念は、次々のうつろい歩く。それを無理に押しとどめることなく、流れるにまかせながら、画面の上でも、筆はその流れを追う事になる。ある流れに乗ると言う事は、他の見えているはずのものが存在を軽くして行く。あの家の屋根はトタンだな、等と解釈が入ると、益々、画面全体の総合性は失われて、一部の意味に意識が集中してしまい、他の事は見ていない。多分、長年絵を描いてきた経験から出た技術で、この屋根を画面内で処理するにはどういう事になるのかなど、くだらない事を考えている。実際に絵の具で画面を作ってゆくという事になった時には、究めて技術的な自分に変わる。絵としてやるのは、とか、絵になるには、とか、こういう気持ちが自分という人間を無意識に支配している。しかし、次の段階で絵作りに入ると、自分が学んできたものに絵が支配されるから、避けようと言う気になる。今見ている感じだと、押しとどめる。いつものやり口でやらない事だと考える。

そして、見えているという事に戻る。この見えているという総合的な印象を、細部にこだわることなく、絵に持ってくるには、どうすればいいかという事になる。そこで実際にやるのは、移すという事と、自分の癖の様な物での絵の処理とのせめぎ合いという事になる。自分の癖の様なものは、いわば筆跡鑑定の様な物で分かるように既に変えがたい癖が筆跡に表われている。それは色遣いに置いても同じことである。自分の使う絵の具や、その組み合わせには法則が出来上がっている。ああそれではダメなんだと、そんなものに頼っていては、またいつもの所までしか行けないんだと言う、抑止する気持ち。それを思いとどまらせるような自己否定の気持ちが、立ち現れる。今までの自分やり方を否定しなければ、自分等というものに至る事はできない。お前は自分に酔っている訳ではないだろうと言う、自己否定の気持ち。

何もない所から、眼に映っている状態を、画面に移そうとまたそこに戻る。そして、この繰り返しに、何か意味があるのか、無意味なのか。そいう事も考えない。考えた所で仕方がない様な気分で絵を描いている。セザンヌは描いた絵をその場に置いて来てしまったと言うが、描くと言う事が最も重要で、出来た絵葉描いた事の意味を問い返す材料の様なこと。大体1回に描けるのは2時間ぐらいのものだ。午前中1回。午後1回の時もあるし。どちらか一回の時もある。それ以上はやり様が無くなる。やりつくしたという訳ではないが、やる意味を見失い、取りつく島が無くなる。絵が出来た訳ではない事は分かっているのだが、もうそれ以上描く事はできない。日々その繰り返しである。こんな事は無意味なのだろうか。何かになるのだろうか。そういう不安はある。不安はあるが、それ以外にやりようもないので繰り返している。

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忘却のフクシマ

2015-04-26 04:01:03 | Peace Cafe

人間という物はそういうものだとは思ってはいたが、フクシマで起きた原発事故が忘却に霞んできている。さすがに原発事故だけは、社会に決定的な痕跡を残すと思っていた。所が、4年という歳月は残酷なものだ。原発事故がなかったかのように原発再稼働が進められる。私の中に巣くったどうしようもない、重荷はむしろ年々深刻に絡みついてきているのに。それは放射能とかいうようなものではなく、日本という社会の無残さである。時々、まだ福島からの避難者は20万人もいるなどという記事を読む。あきらめている自分に嫌気がさす。文明への絶望と言えば、大げさであるが、原子力というものを上手く利用した物が勝者になる文明が、許されるのか。安全対策を軽く見て、幸運に寄りかかった安上がりの発電で勝者になると言う仕組みはひど過ぎないか。出てくる廃棄物の処理法すら分からないのに、稼働を続ける恐ろしい文明。

考え出せばきりなく、怒りは湧いてくるが。それは自分に返ってくることになる。自分には何もできなかったし、今も何もできていないでいる。フクシマで直接的に事故に遭遇した人達の現実は、やはり遠くの事だったとしか言えない。悲しい事であるが、当事者の意識からは遠くにいる。富岡から避難した家族のみなさんが、預かった犬に会いに来た日の事を時々思い出す。受け止めきれない現実に遭遇した人の、困惑。混乱。空白。ダイ君の事だ。ダイ君は犬だから、全く恨む気持ちが無い。そして受け入れる。犬はすごい生き物だ。ダイ君はすべてを受け入れて死んでいった。今飼っているセントバーナードのフクちゃんは南相馬の避難地域から来た犬だ。私が飼い主を捜しに行ったときには、フクちゃんの家は立ち入り禁止地区のなかで、近寄れなかった。先日やっと解除になった映像が出ていたら、フクちゃんがいたあたりがテレビに映った。飼い主はどうしても見つからなくなってしまったけれど、フクちゃんの猛烈な甘ったれは、どうも置いてきぼりをされたときの不安。

フクシマの満開の桜が、今年の春もテレビで何度も流された。人が去った町の桜。原発周辺に今暮らす当事者は、フクシマで起きた事を充分に認識してもらいたい。その上で再稼働を認めるのであれば、それは仕方がない。一義的には当事者の選択である。その当事者はせめて30キロ圏内は地元住民として認めるべきだ。緊急避難をしなければならない人達である。故郷を捨てなければならない人達である。周辺当事者で原発が嫌な人には移転費用を出してもらいたい。また、事故が起きたときには、都会の人達の為の電気の為に、こんなひどい事になったとだけは言わないでほしい。自ら原発を選択した当事者という事になる。その事だけは自覚して、再稼働の判断をお願いした。地元当事者が嫌だと言えば、原発は稼働されないのだから。原発がなければ維持できないと考えるふるさとの哀れさ。

忘れ去られること。忘れなければ、人間は辛くて生きて行けない。しかし、飯館から来た2匹の猫は確かに、我が家にいる。あのとき預かった鶏も何羽かはまだいる。そういう事はフクシマの私の現実である。あの事故のフクシマは、社会という忘却の仕組みに消えようとしている。忘れ去られる恐怖。置き去りにされる恐怖。人間が生きて行くと言う事はどこか悲しい。私はせめてそいう事を絵に描きたい。今大井町の篠窪という所を書いている。ここは福島の飯館や、浪江のように美しい里山風景である。以前農薬に汚された、桃の花のどこが美しいのかと言われた。いわば放射能に汚された美しい日本の里山風景である。この風景が今ここに残っている。美しい国を作ってゆくという事は、重たい事である。哀しいような事だ。それでも何とかやってゆこうと言うことだろうか。

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敗戦70年談話と靖国参拝

2015-04-25 04:30:18 | Peace Cafe

首相は歴史認識をめぐる歴代政権の考え方について「基本的な考え方を引き継いでいる」とする一方、村山談話のキーワード継承には「同じ言葉を入れるなら、談話を出す必要はない」と否定的な考えを示している。

高市早苗総務相、山谷えり子国家公安委員長、有村治子女性活躍担当相は二十三日、春季例大祭に合わせて東京・九段北の靖国神社を参拝した。三人は、昨年十月の秋季例大祭の際にも参拝している。(東京新聞)

安倍氏は日本をとんでもない所に送り込もうとしている。間違った歴史認識の持ち主である。過去の歴史の事だけではなく、現在の世界情勢の中で、自分の今行う行動や発言がどのような意味をもつのかが分かっていない。同じ言葉を今繰り返さなければならない理由を知るべきだ。被害者と加害者の違いである。事件の被害者は生涯忘れられないと言う。殺人犯人に罪を忘れてもらっては困るので、刑罰というものがある。バンドン会議では、反省はしたが謝罪はしない。過去の日本の侵略に対する謝罪する気持ちを捨てた、と世界は考える事になる。安倍氏の本心は侵略など無かったという事なのだろう。未来志向とか、積極的平和主義とか、言葉でごまかそうとしているが、安倍氏は武力以外信じない人間と思われる。日本人をとてつもない窮地に追い込もうとしている。総理大臣という立場を考え、ここは何としても自重してもらいたい。

安倍氏が本心では、日本は侵略などしていないと考えているだろうと言う事は充分に分かっている。しかし、近隣諸国との関係を考えれば、70年談話において、侵略を認め、謝罪する事は総理大臣の務めである。確かに日本人として、謝罪を繰り返さなければならない事はつらい。近隣諸国にうるさく言われると、何処か嫌な感じがするのも確かである。80年前の世界情勢は今とは違う。日本だけが悪かったはずもない。特に、従軍慰安婦問題など、今の時代の感覚だけで批判されると少し違うという気はする。しかし、それでも、ここは我慢である。近隣諸国と仲良くするために、日本人としてともに謝ろう。謝る事こそ未来志向だと言う事に気付こう。もう70年もたったんだし、過去に2回声明も出しているんだから、今度は謝罪は要らないでしょうと言うのでは、筋が通らない。謝る事で少しでも相手の気が収まるなら、謝る方がえらい。

日本は大東亜共栄圏を目指して、戦争を行い、そして敗戦をしたのである。ここまでは安倍氏も認める事だろう。アメリカは日本に進駐し、占領していたのだ。そして、民主国家に変えようとして、理想主義的な日本の歴史からみれば、実状に合わない事もした。農協、教育制度、民主主義、そして国際紛争を軍事力で解決しないとした、平和憲法である。アメリカ的理想主義が日本の土壌に合うものと合わないものがあり、今に至っている。アメリカの正義がすべてまともかと言えば、まともでないものも多々ある。しかし、アメリカに占領され、やっと独立が許され、世界から民主主義国家になるか、不安の目で見られながら、何とか日本は再起した。敗戦国であるという事は忘れてはならない事である。70年が経過したとはいえ、日本が歴史上大失敗をやらかしたという事は、それを侵略と位置付けようが、諸民族の独立戦争と位置付けようが、敗戦して終わったのだ。

いまさら侵略をしたという事を変えようとすれば、日本がどういう国とみられるかである。侵略を認め、謝罪をしてやっと仲間入りさせてもらっておいて、何と言うずるがしこい国かと見られることになる。油断ならない国とみられる。それは戦争責任者で戦犯とされた軍人の合祀されている靖国参拝を女性大臣が行うことも、問題とされる事になる。日本の安全保障にとって、特に武力を使わない平和を目指す国として、大きな危険を背負う事になる。緊張を高め武力国家になろうと言う意図を勘ぐられる。侵略をしたというの事は、既に日本政府が認めた事である。安倍氏ですら発言している。侵略というものがどういうもので、学問的には確定されていないなどと、主張するのは見苦しいいい訳にしか聞こえない。前向きに、明確に謝罪をすることからしか未来の平和は生まれない。

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JRの電柱が倒れる。

2015-04-24 04:57:40 | Peace Cafe

JRの電柱の倒壊事故についてはかなり詳しく報道されている。また、JRの担当者も正確に状況を伝えている。聞けば聞くほど、何故傾いた電柱が倒れないと思ったのかという事に不思議な感じを受ける。後から思えば誰だって早く撤去した方がいいと思うはずの事だ。人間はどうしてもまさか、そんなこと有るわけがないと思いこみたがるものだ。そんな悪い偶然が重なる事はない。色々悪い方向は考えないしてしまう。しかし、このように事故というものは、人間の心理のすき間を突くように起こる。その事は、原発事故で本当に痛い目を見た。まさかという事も起こる場合がある。そのめったにない様な事を、常に想定して防ぐ努力を続ける必要があると言う事だ。なんとなくイメージでは国鉄の保線担当者と言うと、とても高度な熟練者の集団に考えてきた。任せて安心できる人たちと感じていた。こういううっかり事故が起きて見ると、優秀な人たちが大量に引退し、抜けたのだと言う事を知る。

今回は不幸中の幸いとして、電柱の倒れるタイミングが2分ほど遅れてくれた。もし通過した電車に当たっていたら、大事故になった事だろう。早速総点検をするという事だから、何とか良かったのだが、むしろ、危ないなと感が働くような、抑えの利く職員がいなくなった状態で、安全管理を確実にして行くかである。原発関連は安全管理によくない背景がある。世間からうとまれ、敬遠されて、廃止した方がいいと言われているという事だ。そこで働く者はあまり良い精神状態ではないだろう。原燃のように、何度規制委員会から注意を受けても、杜撰さから抜け出ることが出来ない。自衛隊が世間からうとまれていた時代、今より問題事件を多く出していた。職場環境が良くなければ、どうしてもそういう事が起こる。郵政が官であった時代も、ひどい事件が良く起きていた。

農業では、自然現象による問題に、常に遭遇する。問題が起こることが前提の仕事である。今苗床に、みんなの苗が置いてある。もし何かあった時にどうするかの想定を考えている。その分の種籾がまだ保存してある。たとえ、苗床に撒いてもスズメやネズミ、いのしし、鹿。何があるか分からない。もう一度できるように冷蔵庫に浸種した種もみを保存しておく。何かあった場合を考えて、先へ先へ用心をする。自分の食べる食料を作ると言う事はそういう事だと思う。5年ほど前には水害で田んぼの一部が崩壊した。残った田んぼでどのように収穫するか。最善を尽くす方法を考えた。そしてそこそこの減収で済ませた。常に、何か問題があるという前提でその先を考えてきた。幸い、25年間食べるお米に困った事はない。勿論それでも収穫できないという事もあるだろう。そのときは何を食べるのか。昔の農家は古米ばかり食べていたのだ。

昨夜は防災リーダーの集まりがあった。今年の秋にある、防災訓練の話しが出た。防災訓練が形式化しているのではないかと、ついつい意見を言わしてもらった。いったい何を目的にした訓練なのか、そこから考えないといけない。今の訓練では、いざというときに役に立つとは思えない。小田原では各小学校が避難所になっている。舟原からも久野小学校まで避難する事になっている。これはどういう災害の時に、意味があるのかが不明である。久野の人口は1万人居て、全員が小学校に向えない。わざわざ、3キロも離れた小学校まで、災害のさなかに舟原から徒歩で避難することが理解できない。舟原の人で誰に聞いても、小学校に避難するとは考えていない。しかし、避難訓練だけは形式的に出掛けて行かなければならない。一時避難所はフラワーガーデンである。フラワーガーデンから、小学校に移動しなければいけない理由が不明だ。実際に役立つ事防災とはどういう事なのか考えている。JRの事故から話が飛んでしまった。

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大井町篠窪を描く

2015-04-23 04:35:56 | 水彩画

写真をとった所は絵には描かなかった所だ。

春になってから、毎日の如く篠窪に通って描いている。日本の春では、一番美しい村ではないかと思う。時間が少しでもあれば出掛けて行って描いている。絵の事を最優先にしているので、時間が無くとも描きたくなれば出掛けてしまう。先日も公民館関係の市の集まりがあったが、サボって出掛けてしまった。何か高校生の頃の学校をサボっている様な気分を思い出した。今頃の季節の一日の変わり様がすさまじい。昨日と今日でははっきりと色が違う。花が咲いたり、散って行ったりという事もあるが、むしろ芽ぶきである。芽ぶきの微妙な色調が大きく変わる。淡い色調が刻々と色を明確にしてくる。何処かの段階が面白いという事ではなく、この微妙さを描こうとすると、今日しかないという気になる。昨日も豪雨の中、篠窪に描きに行った。昨日は小松製作所の脇で描いていた。ごみがやたら捨ててある所だ。何故こんなに美しい場所にごみを捨てるのかびっくりするが、でもあまりごみなど気にならない。

篠窪あたりが面白いのはどうも、起伏である。小さな窪地が繰り返しがあるのだ。その窪地の状態が、春の今頃だけ明確になる。もう少しすると、すべてが緑になってしまい、渾然と一体化して描けなくなる。落葉樹に葉が出てしまうと、見通しが無くなるという事もある。それなら冬場ならいいかというと、地面に草の緑が無い時期だと、これまた地面の位置がはっきりとしない。空間の状態が、一番見やすいのが春先から今頃までという事になる。この時期畑仕事が忙しくなるので、狭い道に車を止めて描く事は迷惑になる。だから、雨の日に限る。雨の日は気兼ねなく絵を描いていられる。半日一台の車も来ないという事が普通だ。畑を描いているのだから分かるのだが、晴れ間を縫って畑が耕されている。この土の色が素晴らしい。小学校の先生が、茶色は使ってはいけないと指導した。それはだいぶ後まで意識に残っていたが、今は何故先生が茶色を使うなと言ったのかが不思議な気がする。土の茶色は素晴らしい。

雨は色を溶け込ませる。色の調和が良くなる。濡れ色の深さというものが作用する。そして雨に煙る事で景色が一体化する。色彩が抑えられ、わずかな色というものが重要な役割を担う。谷間の空間の動きを色が浮き上がらせてくれる。描きだしはグレーを中心に色を置いてゆくので、墨絵のようにも見える。しかし、そのままでは全く私の感じているダイナミックな空間感とは違う。空間の広がりや、動勢は色の存在で生々しい現実になる。緑の中の草むらの中に、赤い小屋の屋根を描いたとたんに、空間の意識が現実に近づく。ともかく自分の意思は抑える。見えているという事に従う事にする。2時間ほど描くと、これ以上描けなくなる。描けなくなるからといって絵が出来たという事ではない。その場でもうやれる事がないという感じに入る。家に持って帰り並べてある。今もその絵を眺めながらブログを書いている。

その10枚ほどの絵の中から、絵を持って出かける場所を決めて、又篠窪に行ってみる。その絵を描き継げる事もあれば、ダメな事もある。ダメで場所を変えることもある。同じ場所でもう一枚描きたくなる事もある。本当に無駄な事をやっている様な、あと何枚描けるか分からないのに、また無駄にしているのかと情けなくなる事も多い。絵の向こうに私というものが、存在しているのかという事に結局は至る。その絵を描いている自分というものに突き当る絵であるのかどうか。見えているという事に、かけているのだが、見えている自分というものがどういう物なのかという事になる。このあたりの不明瞭が、結局は不明瞭な絵になるのかもしれない。ただ、良く分からない事をなんとなくわかったような顔をして描くと言う事だけはしたくない。

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弱者と地場・旬・自給

2015-04-22 04:19:23 | Peace Cafe

地場・旬・自給の社会では、弱者の救済など出来ないのではないか。こ言う意見がありました。江戸時代には弱者はどうしたのかという事も合わせて意見がありました。その事を考える前に、地場・旬・自給の思想はあくまで緊急避難の方法として提案しているものです。社会のすべての問題が、地場・旬・自給になれば解決する等とは全く考えていません。世界の方角はこのまま経済競争が激化して、能力主義社会が先鋭化して行くに違いないだろうと想像しています。そして、格差社会は次第に顕著になるでしょう。その事は残念ながら、止める事はもうできないだろうと考えています。その中で自給に興味をもった少数の人間が、人間らしく生きるための手段として、地場・旬・自給を提案しています。ですから、地場・旬・自給は社会全体の解決法の提案ではないのです。確か、これでは農業全体の問題はどうにもならないだろうという意見も先日ありました。その通りです。地場・旬・自給で社会の問題全体が、解決出来る訳がないです。

社会全体の方向が、狂い始めています。その事に抵抗することすら多分できません。フクシマ原発事故後その思いが強まっています。繰り返しになりますが、地場・旬・自給は社会問題の解決策ではなく、自分個人が人間らしく生きるための方法です。振り返れば、70年代がその分かれ道だった気がします。あの時代に、出来なかった事はその後困難さを増しているばかりです。それでも、地場・旬・自給が社会的な意味で無意味とは考えていません。例えば、コッコ牧場の活動は地場・旬・自給の路上生活者の自立活動です。今も続いております。成功しているとは言えませんが、それなりの役割はあります。但し、大きな社会矛盾が存在する中、理想とした展開はできませんでした。路上生活の方にも様々な方がいます。コッコ牧場の様な場を活かして、再起された方もかなりおります。自立される人がいた事は成果なのですが、同時に取り残されてゆく人は何らかの障碍をもたれれている場合増えています。年齢も老齢化してきました。

弱者に関してどうでもいいとは思いませんが、地場・旬・自給は社会救済策の提案ではないということです。あくまで、普通の人の緊急避難の生き方の問題です。農業問題の解決の提案でもありません。それでも、いくらかの期待はしています。この点で、気づく人は気づくでしょう。農業では、より能力主義が強まり、企業的農業が個別的農家を淘汰して行く事でしょう。しかし、自給的農家を完全に消し去ることはできません。経営と関係がないから、勝手に存在します。伝統工芸の職人さんは生計が立たなくなっています。しかし、様々な保護策を受けて、何とか生き延びています。伝統農業も同じ道をたどる事でしょう。自給的農家が伝統的農家として、日本の文化を受け継ぐ事になるはずです。日本人が日本人であるための、根本が稲作農業の中にあるからです。それは日本の象徴である、天皇家の暮らしに表われています。

自給的グループで農業を行うと、能力差や各人の特徴の違いというものは、より強く出てきます。熱心に頑張る人もいれば、一見嫌々やっているのかというように見える人も現れます。みんなで共同する稲作農業の良い所は、大抵の人に役割があるものです。田んぼの周りで遊んでいる子供にも、遊んでいるという役割があると岩越さんは言われました。確かにそいうもので、さあがんばるぞという気持ちで元気が出て、支え合いで生まれます。一人でやれない人はみんなでやる。一人でやれる人はみんなの為にやる。そうして助け合う事で、人間は力を発揮するものです。このあたりに弱者に対する対応のヒントはあるのかもしれませんが、弱者の問題は、地場・旬・自給では直接的には考えてはいません。江戸時代の協働社会とはそういうものでした。地域に張り付いて暮らすという事は、その場の一代の能力主義など、大した意味がないのです。江戸の農村の弱者救済につてはまたあらためて書きたいと思います。

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TPP交渉

2015-04-21 04:22:48 | 稲作

米国が日本に対しコメの輸入を21万5千トン増やすよう要求していることが18日、はっきりとした。いつの間にか日本政府は5万トンなら受け入れると、国民との約束とは違う話しをしている。以前米は聖域で一切譲歩しないと政府は言っていたはずだ。まあそんなはずはないと、多くの人が心配して、TPPは止めろと言っていたはずだ。想像していた通り、アメリカはコメを輸入しろと主張して、既に日本政府は受け入れている。これでは約束が違う。約束が違うと書いた新聞が無いのに驚く。これが翼賛報道の姿なのか。ただちにTPP交渉を終わりにすべきだ。日本の国柄を瑞穂の国としたのは総理大臣たる安倍氏だったのではないか。安倍氏は保守主義者と言われているが、どうもそうではなく、単なる財界の使いぱしりという姿がここでもわかる。やっているすべての政策が、財界の利益を誘導している。国民がここまで露骨に財界に利益誘導する総理大臣を支持していると言われる所が、全く情けない限りである。大企業が稼いでくれれば、そのおこぼれが廻って来るかもしれない。と甘い汁を期待しているという事なのか。

韓国の経済戦略が、日本の先を進んでいる。確かに韓国の数社の企業は、近年世界企業に躍進して、韓国経済は一時好調に見えた。所が、予測した通り、韓国社会では様々な問題点が浮かび上がってきている。日本もその二の舞になる可能性が高い。その事を他山の石として、日本がどんな社会を目指すのか、日本人全体が真剣に考えるべき場面を迎えている。大半の日本人は社会全体の事より、自分の暮らしに精一杯の日々に追われているのだろう。おこぼれがあるなら、それを待つのが一番だと言う事になる心理もやむえないのかもしれない。おこぼれなど無いと気付くときには遅い。要領の良い人達と、馬鹿を見る人達とに社会は二分化して行くとしなければならない。最近はもうその点ではあきらめ気味である。いまさら65歳を越えて自分が、要領よく立ち回ろうとは思わないが、格差の深刻化する社会の中で出来る事を考えている。

心ある人の不二着地点の方角だけは探りたいと思う。日本が食糧の自立を目指さないのであれば、自分だけでも自給を確保した方がいい。あれもこれもはもうできないので、「地場・旬・自給」の実践的道筋だけは、つけたい。アメリカは国土の条件が特別な国だ。この国の主張する平等とか、正義は、実は強者の平等になる。アメリカと連携しようと日本がすがりついた所で、頭越しに米中が連携した事を記憶しておくべきだ。世界が徐々に暴虐の嵐の予兆が見えている。この嵐に武力で対抗しようと言うのは馬鹿げたことだ。テロ国家が原爆を持って、自己主張を始める時代である。ミサイル防衛システムを整備するなどと言っても、有効に機能しないだろうと考えている。結局は、怪しいという段階での先制攻撃論が出てくる。同時に、日本も核武装しなければ対抗できないという主張まで行くだろう。軍事力の均衡による平和は、一時の危険なバランスの様なものだ。

TPPは即座に止めなければならない。米の輸入はしないというのが交渉の基本方針であったはずだ。国家の安全保障の為に、食料の自給をせめて半分くらいは確保すると言うのは、ごく当たり前の国家の有り方である。それを止めろとアメリカに言われる筋はない。もしアメリカからコメを輸入しなければ、国民の食糧が確保できないとなれば、もう国家としての尊厳の維持が出来ない。それは国の安全保障の観点からも、大原則である。日本の国土の豊かさは、世界でも群を抜いている。実に奇跡の様に多様で豊かである。確かに、自然災害の頻発する土地ではあるが、この日本列島こそ、日本人が生まれ育った国土である。その基幹となる、稲作を止めると言う事は、全くもったいなく、ばかげている。この事を正面から議論して決めるならともかく、騙し打ちのような形で、なし崩しにアメリカの主張に従うのであれば、日本が日本である事を止めろという事になる。

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セルトレーの種蒔き

2015-04-20 04:49:17 | 稲作

 

 

4月18日にセルトレーによる種まきを行った。全体で25名前後の参加だった。5月30日が田植えの予定日なので、6週間の育苗である。これは去年とほぼ同じ日程である。春分の日から一ヶ月川の上流に浸種してあった種もみを、前日に川から引き上げて洗って乾かした。水温は14度だった。所がなんと、広げて見ると今年は一部に芽が出ている種籾があった。最後の1週間水温が上がったことが影響したとみられる。先週の種まきの分は問題がなかった。何とかなる範囲なのでよかったと思うが、来年は3週間の浸種に短縮した方がいいのかもしれない。こういう所に温暖化の結果が出ているのではないか。以前は、全く芽が出る様子もなかった。泥が被る比率は、昨年よりいくらか減少した。山の土砂の崩れ、あるいは林道の泥の流れ込みが減少したようだ。林道周辺に草が生えてきたという事か。今年はさとじまんのうるち米の種籾はちょうど良い状態という所か。もちごめ、酒米、が芽が出ている状態が目立った。

欠ノ上、メダカ田んぼ、子の神田んぼ、と5反ほどの面積分をセルトレーで蒔いた。出来上がった状態で、3番田んぼの2列でちょうどという所だから、合わせて、30メートルくらいとなる。セルトレーで蒔いたもの、苗箱に蒔いたもの、そして直播したもの。色々のやり方を試してみた。おおよそ288穴のセルトレー60枚から65枚で1反の田んぼの苗になる。今年は、セルトレーが158枚。苗箱22枚と直播5メートルが、欠ノ上のサトジマンの苗になる。喜寿糯が200穴のセルトレーで32枚。メダカ田んぼの酒米は200穴のセルトレーに20枚と苗箱に20枚。その他、吉宮さんと井関さんの分を蒔いた。奥の方で、苗土づくりをしている。くん炭3とふるった土7くらいを混ぜている。それをセルトレーに軽く入れて、押し込んで種まきの空間をあける。セルトレーは288穴と200穴をつかった。一つの穴に3粒平均を目標に蒔いてゆく。全体で350枚くらいやったのかと思う。

午後は、後半のもち米や酒米の播種を行うグループと、田んぼに行ってセルトレーを丁寧に並べるグループに分かれた。苗代の田んぼは、昨夜水を抜いておいた。ぬかるんで歩くのが大変な状態である。それでも平らに苗代を作るためには、必要なことだ。代かきをして2週間水を溜めて置いたので、草や藁がだいぶ柔らかくなっていたのも良かった。水の抜けた田んぼに、セルトレーを水平に並べて上にコンパネを当てて、人が乗って土に水平になる様に埋め込んでゆく。苗箱も同様に行った。全体を並べてから、穴あきビニールを張ってゆく。風が強い日で少し苦労した。210センチ幅の物を回りを埋め込みながら、しっかりと設置した。穴あきビニールは今まで色々使った中で一番、調子がいい。値段も安いし、2年は使える。中がある程度見えると言う所がいい。19日の午後に、直播の部分を追加した。苗箱に蒔く程度に田んぼの表面に蒔いて、その上にくん炭をまきちらした。同様に穴あきビニールをかぶせた。

この後、水管理である。6週間の5,5葉の苗作りを行う。苗を健全に育てるには水管理が重要になる。日々成長に合わせて、調整する以外にないのだが、まず、最初の2週は水やり程度。水分があり濡れていればいい。セルが浮いていると水が廻らないので要注意。この場合は、苗床全体を水没させてから水を抜く。1週で発芽をする。その後1週ごとに1葉の成長がある。3週目から4週目はヒタヒタ水。まちがっても水没はさせない。乾かすのはまずいが、少なめの水で充分。5週、6週はたっぷり水で、がっしり太苗を作る。この段階で葉が込んでくるので、加湿で病気が出る事もあるので、ビニールは取り払う。いずれにしても滞りない生育が重要。すんなり大きくしなければ良い苗とは言えない。と言って、緑の濃い多肥料の苗もダメ。清涼感のあるコバルトグリーン苗を目指す。

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高浜原発再稼働差し止め

2015-04-19 04:15:10 | Peace Cafe

福井地裁は住民による高浜原発の再稼働差し止めを申し立てた仮処分で、再稼働を禁止を決定した。当然のことだ。そこで暮らしている人達の不安は大きい事だろう。最も尊重されなければならない。最近、いつまでも原発の事で、うるさすぎるという声を聞くことがある。都会に暮らす非当事者意識は既にそういう現実意識に変化を始めている。当事者でなければ、再稼働して景気が良くなればいい。という方に意識が向き始めている。まさか原発事故だけは別だと思っていただけに、人間というものの忘れっぽさに、あきれ果てるしかない。あくまで事故当事者でなければ人ごとなのだ。景気は人ごとでなく、自分の金儲けに繋がる。しかも、その原発の地元の高浜町ですら、再稼働賛成派が多いいという事だ。原発安全神話を信じているのだろう。まさか起こるわけがない。という方に賭けようじゃないか。確かに地震などめったに来るもんじゃない。

報道の傾向が反原発から、少し変わり始めた。反原発を一部の面倒くさい連中の恒例行事の様に扱うようになった。これが世間の空気を変え始めている。政府の意向を前取りして、反映している。原発の反対を、科学的に捉えられない、住民エゴのように見えるように進められている。いつの間にか、規制委員会の規制基準は世界で最も厳しいものだと言う、政府の公式見解が定着させられている。日本の国土が、地震の多発地帯にあり、火山列島であり、津波の押し寄せる海岸線にある。世界一厳しい条件に立地する原発なのだ。自然災害に対する安全が問題にされているのだから、日本は世界一、立地すべきでない自然条件である事は間違いない。日本列島にもとずく安全基準を、世界比較する政府の愚かさは深刻な所である。フクシマ原発、新潟柏崎刈羽原発が遭遇した、自然災害は他のどの国の原発も体験していないものだ。

原発が他の物とは違うと言う事を考えなければならない。すべての機械はこわれる。しかし壊れたとしても、火力発電所で事故が起きても、原発事故の様な事は起きないのだ。原発で事故が起きたときの結果はまるで違う。ここに原発のリスク管理を特別のものと官会えなければならない根拠がある。住宅の耐震性云々とは全く問題が違う。原発事故は日本だけでなく、世界に迷惑をかける事になる。フクシマ原発事故は全く幸運が重なり、あそこで収まってくれた。もっとひどい事になった可能性は高かったのだ。もう一つ重要な再稼働すべきでない理由は、核廃棄物処理の道がないという事だ。われわれの世代が便利にエネルギーを使った、後始末を次の世代に押し付けているという事になる。さらなる原発事故に遭遇した、次の世代は核廃棄物の処理だけに追われる事になるかもしれない。

経済も重要でないとは言わない。だから、総合的なエネルギー政策を国民全体で考えるべきだ。民主党政権の時は、原発をやめるというスケジュールだったはずだ。最近の自民党は20%前後で行くべきだと主張しているようだ。民主党政権が決めた事を、政権が変わったからと言って、完全に無視して、20%ならと国民的議論なしに決めてしまうのは、ひど過ぎないか。最低でも国民投票をしてもらいた。それくらい重要な事だと思う。憲法改定と同等の重要な国の方角である。今回、福井地裁では仮処分として、稼働を禁止した。当然裁判は続く事である。また、再稼働をしてしまう原発も出るだろう。新設はさせない。40年の耐用年数を守らせる。そして、再生可能エネルギーを新しい産業として展開する。自然エネルギー分野の模範的な国に日本が成る事だ。

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JA全中の万歳章会長が辞任

2015-04-18 04:31:29 | 稲作

万歳会長は敵前逃亡である。リーダー失格だ。辞任前日には安倍氏とニコニコ歓談したというのだからアキレテしまう。国会では安倍氏が自慢げに政府の方針を万歳氏が喜んでくれたと答弁していた。全農という団体の、保守的圧力団体という体質の限界が出た。集票力の衰退という足元を見らている。全中解体は始まりである。次に県信連、経済連、共済連とその力がそがれて行くのだろう。そして、各地域の農協間の力の差が浮き彫りになりだす。最終的には農業共同組合の実質が消滅する。そして、農業株式会社が登場し、単なる利益追求型の弱肉強食型の農家経営が主流として登場する。その第1歩のレールを万歳氏は敷いたのだ。私は全中を評価してきた訳ではないが一応は、末端の組合員ではある。組織として活動方針を決めその総括もないまま、代表が任期途中で勝手に降りてしまうなど信じられない放り出しだ。

敗北の責任での辞任という事だとすれば、先ず全中解体の意味を総括をしなければならない。それでなければ次の代表も前に進む事が出来ない。すべてを後任に一任と言うが、ここまで無意味に解体された全中が首脳部を失い、引き継いだ責任者に何が出来ると言うのだろうか。万歳氏は政府は農家の所得倍増と言っていたが、どういう道筋で実現するのか安倍政権に迫っていたはずだった。その道筋は政府の考えでは、新自由主義に農家もなると言う事なのではないか。農業には国を支える食糧生産という重要な役割がある。政府は自給率の目標を下げている。安倍氏自身が日本を瑞穂の国と主張しているはずだ。それとも安倍氏も、本音では米も安い国から輸入すればいいと考えているのだろうか。日本でコメを作る事を非効率な事だと考えているのだろうか。単子眼の経済だけで食糧や環境の事を同率に見てはダメだ。日本がどんな国になるべきかという事から、総合的に農業をとらえる必要がある。

農協という物に、蓄年の問題が溜まっている事は確かだ。しかし、その問題は日本のこれからの国づくりにも大きく影響するものだ。農村に有る歴史と因習によるヒエラルキーの様な物が、農協に反映している。一言で言えば民主主義的な組織には、ついになれなかった。圧力団体であるときはその方が良かったのだろう。地域の政治権力となれ合いになり、米価闘争などを戦ったのだ。田中角栄氏が米価値上げと戦う構図など、芝居の様な戦いではないか。米所の新潟出身の角栄氏が列島改造論という競争の徹底化の中で、作付前の米価の決定を主張していた事を思い出す。値段を決めてから作るかどうかを選択してもらうという主張だった。結論は今年の米価には間に合わないから、という言い訳の様なものだった。政権党との慣れ合いの中で、全農が巨大化していった。そして一人ひとりの組合員は、埋もれてしまった。

まず、農業と日本人の暮らしの関係を整理すべきだ。日本人がよりよく暮らす根本に、稲作が必要だと、私は考えている。先ずその問題を国民全体で明確にしなければ始まらない。食糧が確保されていると言う安心。世界の人口の増大と、食糧生産量を考えれば、何処かで食糧は不足を始める。食糧輸入に依存する国づくりでは、日本の国土を活かしたものではない。豊葦原瑞穂の国と呼ばれる豊かな国土の日本。山地水明の地日本。この類まれな自然環境を生かして、日本列島に暮らしてゆけるありがたさを、再確認すべきだ。これからの世界の不安定化を考えれば、食糧の確保はより重要になる。自然と調和し、里地里山の暮らしを、手入れを続ける暮らしの素晴らしさを、国の根本に据えるべきだ。稲作から日本人が離れると言う事は、日本人が変貌すると言う事だ。日本人が世界で評価される大切なものが、日本という地域に根差すローカルなものだ。この原点に何度でも日本人は戻ってみることだ。戻れる豊かな山河を残せるのかどうかの、瀬戸際に今ある。

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浪速のエリカ様とウチのマコサマ

2015-04-17 04:40:32 | 身辺雑記

「浪速のエリカ様と家のマコサマ」この命名はなかなかなものだ。川柳的に良く出来ている。意味を正確に確認できるか分からないが、一応想像して説明を試みると、エリカ様はしらっとしていて、ふてぶてしいタカビーな美女。ということらしい。浪速がつくのは上西議員を指しているからである。こんな人が何故政治を目指したのかが、全く不思議である。目立てば政治家でもいいという事なのだろう。美女で有れば後はどうでもいいという基準なのであろう。政治家の美女基準は少し低いという事だが、好かれないキャラが、いわゆる立っている、という事になる。このまま押し切ればそれはそれで、居場所がある政界と芸能の世界。家のマコサマの方は皇室の尊き方が語源ではあろうが、失礼な意味ではなく、愛されるカマトトの我が家の奥さん。という事らしい。庶民であるのにやんごとなき人であるかの様に世間を知らずのものすごさを意味する。どちらも言葉というものの力を感じる。つい安倍氏や、菅氏が使う『粛々』も怖い言葉だろう。両人の口癖言葉に、粛々が存在すると言う政治の世界が怖い。

大体に維新の党の橋下元代表はイケ面弁護士タレントだった。こういう人物がもてはやされるのが、最近の政治の世界である。そのセンスで浪速のエリカ様を維新の党の候補者に選んだのではなかったか。それを忘れたかのように、人間性を問題視している姿に、滑稽な因果を感ずる。政治をこんな田舎芝居の世界にしてしまったのは、誰だったのかとお返ししたい。大阪都構想も、行政改革も、脚本がお粗末だ。本当にやりたい事なのかが分からない。テレビのタレント発言ならそれでいいのだが、維新の党の本当の目的は有るのかないのか、今は良く分からない。政治を興味のないものにした一つの原因の様な気がする。今回の地方選挙は過去最低の投票率であった。50%を割っている。後半戦も多分相当悪いだろう。50%を割ったら大阪都の住民投票は不成立なのだろう。そういうルールを作ってもらいたい。議員は当選でいいけれどB級だというレッテルを張って欲しい。何しろ、小田原の県会議員選挙は無投票だった。反対の表明すらできないという事はさみしいものだ。

2人の保守系候補が当選したのだが、野党系が立候補する人がいない。どうせ県会議員は何をやっているのかわからない。あの、大泣きでごまかそうとした、何処かの温泉に視察に通った議員が関の山である。どうも小田原の候補は「未病を治す」というのが主張の様だった。内容を考えて見れば悪くはないが、浪速のエリカ様に比べたら、月とすっぽんの言葉の使い方である。言葉が難解すぎる。未病などという言葉は一般化していないし、病気でないなら、直し様がないだろうと言うのが普通ではないか。こんなややこしい言葉を使うのが、黒岩知事というのもおかしい。黒岩さんはテレビアナウンサーだったはずだ。良く分からないが、テレビの世界の人が、何故、未病を治すなどというややこしい言葉を使うのか、知事になって難しい言葉を使ってみたくなったのか。県会議員選挙は止めてしまったらどうだろう。何も困らない。行政のチェック機能は各市町村議員が交代でやればいい。

政策選挙にしなければならない。インターネット選挙にしなければならない。小選挙区制をやめなければならない。すべて現与党には不利になるから、間違いなくやらないだろう。こうして、選挙への関心がさらに薄れてゆく。このままでは団塊の世代が消える、後20年でこの国の選挙が形骸化し、政治はさらにひどい状態になるに違いない。地方議員は無投票ならともかく、立候補する議員が足りなくなる時が来る。もう既に、地域によっては候補者探しで苦労しているらしい。小田原の市会議員選挙では定年後の再就職先として考えてくれている人がいると聞いた。良い事とも思われないが、居ないよりましだろう。無投票選挙というものは初めて経験したが、空しいものである。共産党は何故、県会議員に立候補しなかったのだろう。そういう所が共産党の価値だと思うのだが。

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自民党が報道2社を呼びつける。

2015-04-16 04:12:25 | Peace Cafe

自民党の情報通信戦略調査会が、テレビ朝日とNHKを呼ぶのだそうだ。全くとんでもない話だ。政権党と方向機関の関係を考えた時に、越えてはならない一線である。勿論今までにも表に見えない形で圧力はかけてきた事だろう。それがいよいよ、表だって、いわゆるパフォーマンス的に行う、報道に対する圧力行為である。報道が何でもして良い等とは思わない。他所の国の女性大統領に対して、スキャンダルな報道をするなど、まともな報道機関が行う事ではないと思っている。しかし、その3流報道機関の記者を、逮捕し裁判にかけて、国外から出さないなどという状態は、民主主義国家とは言えない。民主主義は辛いものである。お互い我慢が肝心である。言いたい放題で有れば、確かに不愉快に違いない。それでも、政権という権力に対して、批判的視点から監視を続けて行く事が、民主主義国家の報道というものである。

今回自民党が呼びつけたと言うだけで、何も法律に触れる事はない。しかし、最近報道の体制翼賛化と呼ばれる傾向が指摘されている。それは日本が近隣諸国に比べ、遅れをとり始めている焦りなのだと思う。近隣諸国は、民主主義を軽んじて、経済一辺倒で日本との競争に、一定の勝利を得た。そんな事は一時の事で、日本の価値というものは何も変わってはいない。所が、この事は歴史的に見れば、初めてといった事態かもしれない。ある意味孤立し独立してその尊厳を保ち、又その尊厳に相応しい世界での地位を確保してきた、日本人の誇りを傷つけ、焦りを誘っている。劣っていると考えてきた、近隣諸国の人達が、日本を追い抜いてゆくという状態に、強い焦りが生じている。この事が報道の委縮にも繋がり始めている。日本の相対的な地位の低下は、当たり前のことで、焦るようなことではない。世界全体が豊かになるための過程である。

安倍政権という保守層の一致団結した、最後の挑戦が始まっているように見える。だらしなくなった日本人を何とかしなければならないという気持ちなのだろう。その第一が能力主義の徹底である。頑張れば豊かになれる。同時に頑張らないものは、貧しい事が当然である。こういう競争原理で日本人に発破をかけなければ、日本が衰退するという考えなのだろう。日本の国の方角の問題である。戦後日本人は世界から、エコノミックアニマルと呼ばれた。どう言われようとも、敗戦の困窮から抜け出し、日本という国の誇りを取り戻すためには頑張るしかないと考えてきた。そして、一定の成果を上げた。その経済という日本人のしがみついた価値を、中国が凌駕しようとしている。幾ら中国の問題点や弱点をあげつらった所で、中国は軍事費を増大し、近隣諸国を圧迫し、経済優先の強硬な政策が行われ、みるまに日本を追い越して行った。どうも民主的にやっていたのではダメらしいと、考えたのではないだろうか。

NHKの籾井会長の異常さは際立っている。塚田祐之、吉国浩二の両専務理事。二人は任期が一年残っているが籾井会長から九日に後進に道を譲るよう求められた。全く中庸な人ではない。バランス感覚がない人である。こういう人をあえて、中立公平を標榜してきた、公共放送の会長に据えた安倍政権の狙いである。どれほど批判されようとも、この公共放送的ではない一方にゆがんだ人物を外さない。民主主義を育てる上では、公共放送というものはきわめて重要である。その民主主義を圧力によって、真綿首で絞めつけようと言うのが自民党のやり口である。テレ朝に関しては、さんざん圧力をかけてきたにもかかわらず、その表面化させないという暗黙の約束を、元官僚が破ったという怒りである。それなら、とことんやるぞと放送免許の許認可まで口に出している。テレビを見るなら、テレビというものは、公明正大ではない、有る色つきであるという前提で疑って見る他ない。辛いことだが、この国は相当に危うくなり始めている気がする。

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