不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

日本のグランドデザイン

2014-03-31 04:38:31 | 地域


舟原の紅葉 10号 季節はずれな絵だが、季節に関係なく描き続けている。もちろん描きだしたのは、現場のその季節だ。なかなかできなくて、何年もかかって何かの折に一歩進む。この一歩進む理由も良く分らないのだが、欠点を無くすというようなことはしないようにしている。絵が出来るということの意味は、今のところよく分らない。又改めてこの絵を見て、描き継ぐことになるのだろう。


2050年には日本の人口は1億人を割り込み、約9700万人に
(人口が1億人を超えたのは1967年)
・人口の地域的偏在が加速
(約6割の地域で人口が半減以下、うち1/3(約2割)の地域は人が住
まなくなる)


2050年の国土のグランドデザインを国土交通省が発表した。深刻な老齢化の進行と人口減少の傾向から、放棄される地域が広がる。無人地帯が、12%の広がると予測している。たぶんその倍は無人地帯が広がると思わなくてはならないだろう。無人でないところも、極端な過疎地域が広がる。現在の都市部は減少せず、むしろ増加する可能性もある。21世紀の人間の嗜好は、都市的にいよいよなるだろうと思うからだ。無人地帯が広がるという予測は、やっと政府も認めたというところである。そういう状況を踏まえて、日本という国土をどのように構想するかである。現代の防人論も出ているが、正直国境地帯の帰属のあいまいな離島どころではない深刻さがここにはある。長い間人間が暮らしてきて、今後も十分暮らせる地域が、放棄されるのである。今後無人地帯に成るだろうという、多くの地域では、現状では、かろうじて農業を続けている人達がいる。棚田とか、里山とか、昔懐かしい日本の山村は、このままでは、後3,40年でなくなると思わなくてはならない。

私の描いている絵など、なんだか消えゆく日本の原風景を記録している、等ということに成りかねない。国土交通省の分析であるから、農業のグランドデザインが十分でないことは仕方がないが、残念ながら、見通しになるような発想はない。過疎の地方を志向する若者が想定されているが、地方から、都市を志向する若者の増加である。どうすれば地方を志向する若者が出てくると考えているのだろうか。国の考えなくてはならないグランドデザインは、経済性のない地域をどのような論理で、生活可能な地域として維持できるかである。いかなる時代でも、大勢とは違う生き方を求める人は存在するはずだ。3%程度の人は、都市以外の地域で暮らしたいと考えるはずである。これから、急速に増えてゆく過疎地域に、この300万人がどうすみついていけるかを考えるしかない。これは経済的にいえば、国民全体の負担にしかならない。国民の合意がなければ、過疎地域は無地かをして、国土の崩壊は進む。

過去の日本人が経済を越えて、祖先から引き継いだ土地、子孫に引き渡す土地として、守り育ててきた国土の意味を考える必要がある。つまらない国境の島の帰属のことでいきり立ちながら、何故人間が何千年も住んできた、又永遠に暮らしてゆける豊かな土地を崩壊させるような暮らしを続けているのかである。このままでは日本人は日本人でなくなる。日本人が日本人に成ったことの大きな力は、この国土の豊かさによる事だけは、間違いがない。日本人の生き方は、競争ではなく、自分の暮らしを自分で完結させる文化を作り上げた。人様に迷惑をかけないで生きかた。この生き方は、人類の永続性の可能性を感じさせるものだ。欧米人の作った機械文明の、資本主義の競争が、人類の滅亡を予感さている。世界の人が、必ずもう一度、本当の暮らしを振り返る時が来るはずである。その時にどんな生き方があるかと言えば、日本人がこの国土に作り上げた、自己完結できる豊かな暮らしである。現代の技術革新を取り入れれば、日本という国土の中で、充分豊かな暮らしが作れるはずである。

まず、地域指定をする。地方の過疎化して行く地域の中で残すべき地域を決める。開発的行為を一切禁止する地域。国立公園地域のように、自給的、循環型生活地域指定をする。ありのままの自然を受け入れ、手入れをしながら暮らしを織り込んでゆく。江戸時代に培った生活術と、現代の先端的な自然を大きく改変しなぎ技術とを、融合して人が暮らしてゆく。自然を含め残すべき形に沿った、最低限のインフラを維持して行く。例えば教育など、通信教育の充実をはかり、高度な教育が、過疎地でも可能な形を作る。医療でいえば、緊急医療の配置と、通信医療をネットワーク化する。自然と折り合いをつける暮らしを望む人たちが、地域の維持という役割をになう。都市に暮らす人たちは、そういう過疎地域を維持する価値を理解してもらい、税金の投入を認める。経済競争には、名にも役立たないような過疎地の暮らしが、必ず世界から評価され、日本の価値を高めるはずである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水彩画教室 6 挿絵について

2014-03-30 04:32:25 | 水彩画


戸隠 10号 ソバ畑の跡である。ソバの季節もなかなか見ごたえがある。






挿絵というジャンルがある。もちろん絵の一つである。しかし、挿絵は私の考える狭い絵画では、絵とは思わない。この違いは微妙なことであるが、絵画を芸術の一つと考えると、重要な問題を含んでいると思うので、なぜそのように思うのかを考えてみる。挿絵は一般に鉛筆やペンや、墨汁の黒い線でまず意味をあらわす。その後意味を補完する意味で、色彩を加えることが多い。水彩という材料が、下図用に使われることはままある。挿絵の水彩による着彩もよくある。スケッチで水彩を使うことも多い。それらの作業から、水彩画はその延長にあると考える誤解が良くある。挿絵というものを考えてみると、自分の考えている絵画というものがはっきりしてくるような気がする。まず挿絵というものの範囲を考えてみると、イラストというものがある。

イラストは絵図による説明という意味になる。例えば機械の図解というようなもの、人体の模式図というようなもの、ボタニカルアートなどもそうだろう。制作者の個性は殺し、より分かりやすく説明することが求められる。もちろん、イラストという言葉の使われ方が、従来の挿絵を意味するような使われ方に変化してきている。そして、もう少し絵画の境あたりにあるのが、淡彩画である。挿絵を徐々に絵画に近づけて行ったとして、彩色された素描というあたりが淡彩画なのだろう。その意味ではスケッチ画というものは、かなり淡彩画の意味に近いものになる。そういうことはそもそもどうでもいいことのようにも思えるが、水彩画とは何かを考える上では、意味を持つはずだ。

挿し絵にもう一度戻るが、挿絵には本文というものがある。評価の高い挿絵には、吉川英治作「宮本武蔵」の挿絵は、彫刻家の石井鶴三氏である。叔父の笹村草家人の師である。司馬遼太郎作「街道をゆく」の挿絵は、現代最高の画家、須田剋太氏である。私にとっては、挿絵を描いた人の方が、本文の作者より尊敬をし評価している。しかし、一般的な世間では挿絵を描いた芸術家には気付いていないのかもしれない。それでも両者とも、挿絵は挿絵として素晴らしいものであるが、芸術作品とは思わない。それは本文の付け足しであり、説明のようなものだからだ。本文がなくてもそれだけで自立しているものが、絵画作品だと思うからである。須田剋太氏の街道をゆくの挿絵展がWEV展が開かれている。を見たことがあるが、やはり、本画に比べるとどう見えるだろうか。私には物足りないものなのだ。

須田氏の書に於いては、背景を塗りつぶすことで、字を浮き上がらせるというような、斬新な書を描いている。背景のある書が普通である。須田氏の絵画の系譜は、光風会、日展に始まり、長谷川三郎氏との出会いによって抽象画に転向する。ともかく自由であらゆることに挑戦している。ところが、挿し絵になると、司馬氏の文章の範囲にとどまっている。本文をぶち壊してしまうような、持ち味の勢いがない。破壊的な勢いこそ須田氏の芸術の根幹であろう。そうした制作姿勢から、作品のレベルにはとてもムラがあるのではないかと思う。いいものと、どうでもいいものがある。私には、一連の挿絵はどうでもいいものの方である。説明だからである。その街道の風景の情景説明だからである。私が見たいのは、須田氏であって、街道の港の家並みではない。家並みを見たいならそこに行く方が良い。家並みを見た須田氏が、家並みの説明を越えて、須田氏の人間が立ち現われている所が見たいのである。もちろん須田氏の挿絵が傑出したものである事の上に、望むものがあるということなのだが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

みんなの党8億円事件

2014-03-29 04:34:14 | Peace Cafe


下田湾 10号 5月にはまた下田に描きに行くつもりだ。前回は海だけを描いていた。まだ海というものが、特別なものに見える。







猪瀬事件が、なんと略式起訴で済んでしまった。馬鹿げた終わり方をするなか、今度はみんなの党の創業代表者の渡辺喜美代氏が化粧品DHCの会長から、8億円ものお金を裏で借りていたという事件が起きた。全くすごい事件であるが、渡辺氏の弁解では、全く違法性がないそうだ。確かに、あの猪瀬氏の悪質な5000万円徳洲会事件が、略式起訴で済むくらいだから、選挙にまつわるお金というものは、犯罪に成らないように出来ているのだろう。それなら、政治家の基盤である選挙で、みんなの党を落とす以外に道はない。渡辺氏は犯罪でないとするなら、いつまでも嘘をつき通せばいい。政治家としての道義的な責任として、党代表をまず辞めるの最低のモラルだ。8億円ものお金を何に使ってしまったのかである。まさかラスベガスではないだろう。ラスベガスの遊興にDHCの会長がお金を出す訳がない。これは選挙の為に使ったとしか思えない。選挙に何故そんなにお金がかかるのかが分らないが。裏で流れるお金が必要な世界らしい。

政治はお金がかかるとよく言われるが、政治にかかるお金は、きちっと税金から公的に出されている。かかっているお金は、選挙の裏活動のことである。選挙と政治とは違うと思うが、大体の政治にかかわる人は、日々選挙運動をやっているような気持で暮らしているから、人格まで選挙的に変わってゆく。そのために、選挙と政治が違うということが分らないくなる。あらゆる手段を使って選挙に勝つ努力をすることが、最も政治に必要なことだと考えることになる。普通の人は、選挙で選ばれて政治家に成ってどういうことをしてもらえるのかを、政治家に期待している。政治活動は、選ばれて政治家に成ってからのやることだと思っている。ところが政治家は常に次の選挙を考えているから、政治活動と、選挙との境が分らなくなり、ついには選挙に邁進することこそ、政治だと思い込むようになる。猪瀬氏もあのお金など全く不要だったはずの、東京都知事選挙ですら、お金がいると思い込んだのだ。あのときお金が必要だとすれば、不都合な事実を隠す為としか思えない。

確かにあの選挙では裏でお金を使わなければ、成らないようなことは、全くなかったに違いない。だから、お金は掴まされたのであって、お金で猪瀬氏を縛ることが目的だったのだ。阿吽の呼吸で汚いことをやろうとしていたのだ。どちらかと言えば猪瀬氏は、もらいたくないお金を貰わざる得なかったのだろう。それでは渡辺氏の場合何に8億円使ってしまったのか。本人の弁明では「政治家として生きていくのに必要なもろもろの費用」「政治資金を使うべきではない会議費や交際費、旅費」などとした。政治家として生きてゆく費用とは何だろう。子分に渡す弁当代だろうか。政治資金を使っては成らない会議とは、どんな会議だろうか。政治家としてでなく出掛ける旅費は人から借りたらダメだろう。要するに選挙の際にたかってくるシロアリに食いちぎられたお金ということなに成るのではないか。しかし、国会でこの追及に時間を費やさないでほしい。どうせ国会議員では、追及もできない。

渡辺氏の脱官僚論に、DHCの会長は賛同したのでお金を出したそうだ。こういう支援が何故行われるのか。渡辺氏の20年前から支援者だった、ある廃棄物事業にかかわる人物と、5年間ほど一緒の仕事でかかわった。この人もお金を出していると言っていた。この人は、渡辺氏は必ず総理大臣に成る人物だから、お金を今から出していると言っていた。その人は自分の背景を大きく見せる為にか、時々に渡辺氏の可能性を語っていた。そして自分との関係を語っていた。一種のタニマチ的な動機と、先行投資的な打算とが入り混じっているようだった。その人のお父さんの創業者は大金持ちに成っても、身を粉にして働くような人だったが。その息子さんはそれなりに優秀に見えたが、若手実業家の集まりなどに極めて熱心だった。その人の考える事業は沢山の許認可が必要な事業だった。そういう中で、渡辺氏とのコネを作っているという印象がした。その後破たんしたように聞いた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

袴田事件再審決定

2014-03-28 04:20:34 | Peace Cafe


富士山 10号 何故こんな絵を描いたのだろうと思う。いわゆるリアルな感じになった。リアルさとは何かと思う。籠坂峠で描いた。



袴田事件の再審が決定された。死刑囚として48年間どれほど辛いことであっただろうか。村山裁判長は「捜査機関が重要な証拠を捏造(ねつぞう)した疑いがあり、犯人と認めるには合理的疑いが残る」と判断。「拘置の続行は耐え難いほど正義に反する」と刑の執行停止(釈放)も決めた。死刑囚の再審開始決定は免田、財田川、松山、島田の無罪確定4事件と、後に覆された2005年の名張毒ブドウ酒事件の名古屋高裁決定に次いで6件目ということだ。実に恐ろしいことだ。やってもいない殺人事件の罪を背負い、いつ死刑に成るかという不安を抱えながら、獄中で生きる。これほどの悲惨はない。今回の再審決定で一番大きな証拠と成ったのは、犯人が着ていたとされる血染めの衣類の証拠である。最新の精密なDNA鑑定の結果袴田さんのものではないということが分った。これは弁護側の検査でも検察側の検査でも、同様の結果であった。実におかしな捜査が行われていたらしい。

事件では起訴から1年後の一審公判中、突然、現場近くのみそ工場のタンクから血染めの白半袖シャツやズボンなどが見つかり、検察側は犯行時の着衣を、パジャマから変更。静岡地裁判決は自白偏重の捜査を批判し、45通のうち44通の自白調書を違法な取り調べによるものとして証拠排除した。5点の衣類を始めとする間接証拠類と自白調書1通で、死刑を選択した。証拠となった、自白調書がねつ造されたことは、当時も確認された確かなことだった。犯人を袴田さんと思いこんだ、捜査機関の不可思議な熱意で証拠をどうもねつ造したらしい。こう裁判所はついに認定した。当初からこの血染めの衣類が、味噌ダルの中にあるにしては、新しすぎると、袴田さんのものではないと弁護側は主張してきた。しかし、当時は血液型が一致したという程度で、証拠採用されてしまったのだ。DNAの正確な鑑定をすれば、分ったことだ。つまり、捜査機関もまだDNAまでは考えておらず、こんな証拠をねつ造したということになる。しかし、これで、本人の毛髪などを利用して、DNAまでねつ造されていれば、完全な一致という証拠がねつ造されることになる。

捜査機関の中に、犯人をどうしても作り出そう。あるいは手柄を立てようという動機が働いている場合がある。6件の冤罪事件に見られる、共通の傾向である。そして、いったん仕組んだ犯人像に向けて、自白を強制して行く。人間の心理や、弱さに付け込んで、自白調書のでっち上げである。これは、かつての捜査機関がそうだったということでなく、今の捜査機関も何ら変わっていない。もし変わってきているなら、この血染めの衣類の証拠を自ら鑑定した際に、捜査がおかしかったという反省が出来たはずだ。ところが、捜査機関も検察も、昔以上に人間力が低下してきていると思われる。村木さんの冤罪事件を見ればそのことが良く分る。冤罪を作り出す動機が、自分の手柄を上げたいという、そして出世がしたいという、自分が良ければ他はどうでもいいというようなタイプの人が、捜査機関に集まっているようなのだ。

今回の袴田冤罪事件でも分ることは、捜査段階からの、全面可視化以外に方法はないのは明らかだ。何故それを嫌がるのか。理由は自供が取りにくくなるということなのだろう。そのために、10%犯人を逃すことになるかもしれない。しかし、一人でも冤罪で死刑にするなどという間違えが起これば、社会正義は貫かれることがなくなる。実はすでに、死刑が執行されてしまった事件でも、冤罪ではないかとされている事件はある。DNA鑑定を正確にやりなおしてみたら、そういう恐怖の事件が掘りおこさえるはずだ。そのことは想像するだけで悪夢のような怖さがある。さらに怖いことは、こういうねつ造証拠が、裁判に置いて見破れないことだ。最高裁まで裁判が行われ、多くの人が関与して、6件もの事件が間違ってしまったのだ。こんな状況で、裁判員制度が行われている。もし自分が袴田事件の裁判員であれば、どれほどの重荷を背負うことになるだろうか。人を裁くということは難しいことだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モンゴル3横綱時代

2014-03-27 04:08:17 | Peace Cafe


妙高岳 10号 妙高にもよく描きに行った。知人の水彩画家が暮らしている。寒いけれどとても良い場所で、ペンションをされている。河原崎律さんと言われる。妙高ではずいぶん学んだ気がしている。







モンゴル出身の大関鶴竜(28)(本名マンガラジャラブ・アナンダ、井筒部屋)が14勝1敗で初優勝を飾り、場所後の横綱昇進を確実にした。大相撲ファーンとして、横綱が新しく誕生したことを、それほど喜べないことに驚く。横綱は鶴竜関で71代だそうだ。その内6名が外国出身の横綱で、ついに3人横綱がすべてモンゴル人となった。日本人が優勝したのはもう忘れたぐらいだ。日本人横綱の最後の誕生は3代目・若乃花が1998年推挙されたのが最後だから20世紀の話だ。日本人横綱の最後は貴乃花が2003年1月場所中に引退。日本人力士の最後の幕内優勝は2006年1月場所で、大関・栃東。平成に入ってからは、大相撲は外国人力士の時代と言えるのだろう。幕内優勝すら、日本人が出来ないのだから、到底、横綱になることは当分はできないだろう。はたして、これで日本の伝統文化と言えるのだろうか。

国際化ということは、こういうことなのだろう。棚田で耕作しているのは、外国人という時代が来るのかもしれない。美しい日本、瑞穂の国日本を、外国人労働者によって、維持する時代も遠くないのかもしれない。絶対にそんな国にしてはならない。相撲のことだった。遠藤が大人気である。今場所は2度目の負け越しで、6勝9敗であった。遠藤は石川県の能登半島の出身力士である。能登半島と言えば輪島関である。輪島関も学生横綱から、幕下飛びつけ力士で、強い力士だった。相撲が何故外国人中心に成ったのか。つまり国際化したのだ。柔道は日本の武道が、発祥であったが、今や世界の柔道競技に成った。そうなれば日本人が常勝という訳でもない。当然のことだろう。相撲が難しいところは伝統的文化という側面の強さである。ちょん髷を結い、太刀持ちがいる。横綱が侍大将ということだろう。相撲で強くなるのは辛抱だ。初代若乃花はこういうコマーシャルに出ていた。たぶんどのような道でも辛抱が必要という意味なのだろうが、こうした体質が日本人から失われた。

好きこそものの上手なれ。という方で、好きなら努力が出来るということだろう。嫌なことを我慢してやるなぞ、馬鹿げている。これが一番日本人の変わったところのようだ。外国人力士の方が辛抱が良い。これは時代の流れである。佐田の山の足腰は、漁船のろ漕ぎ鍛えたと言われた。農作業で足腰が強い日本人という話はもう昔のことなのか。おしん横綱と言われた、隆の里関は苦労に苦労を重ねて、横綱になった。その育てた力士が、稀勢の里である。この人は日本人で由一横綱に成れそうな人だ。ところが、成れそうで成れない為に、とても歯がゆき思いを多くの相撲ファーンはしている。その原因は、親方の隆の里関が大切な時期に亡くなられたことにあると思う。師匠からの気持ちの支えがないことが、こたえたのだと思う。辛抱の背景が今のところ弱い。遠藤は今場所、6勝だったが、人気では相撲界一番かもしれない。といってもまだまだ先は長い。相撲が芸能の一種の文化だとすれば、まさか外国人の歌舞伎や能舞台では少し違う。

横綱誕生の喜びの影で、琴欧州元大関が引退した。膝の怪我の為である。間違いなく横綱に成る力士だった。所が大関になった矢先、膝を大けがをした。朝青龍との申し合いで痛めたと言われている。他にも朝青龍に壊されてしまった有望力士はいるらしい。横綱とのけいこで壊れるようでは、壊された方がいけないのだが。将来のライバルを潰しておくというのもあったのかもしれない。琴欧州関はもともとレスリング出身でヨーロッパのジュニア選手権では優勝もしている。人間的にも穏やかで優れている。相撲協会に3年間は残ることになるらしいが、この間に親方に成れるのだろうか。相撲の土俵の高さをもう少し低くしたらどうだろうか。土俵は高さが34~60cmと成っているが、テレビで見る限り、良く見える為にか、60cm以上あるように見える。これは既定の最低の34センチにした方が、力士の怪我は減るはずだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憲法解釈変更の疑問

2014-03-26 04:01:52 | Peace Cafe


伊豆東海岸 10号 良く描きに行く。素晴らしい眺めである。その素晴らしさは、人間の営みの作った風景というところにあると思っている。風景を美しく変えるような、暮らしの姿。現代文明はどれほどの風景を壊しているのだろうか。送電線が風景をでたらめにしていることが良くある。






安倍総理大臣は憲法の解釈を変えようとしている。集団的自衛権を海外派兵可能な範囲まで広げようとしている。この人のやり方はずるい印象がする。国家の運営は正々堂々としていなければならない。最初は、新憲法を作る、まるで革命を主張していた。その内、それが難しいとなると、9条や前文にある平和主義の改定を目指した。それも難しいとなると、96条の3分の2条項を過半数で憲法改定が出来るように主張した。ところがこれもさすがに評判が悪く、不可能そうだとなると、今度は内閣の判断で出来る、憲法の解釈を変えて済まそうとしている。これほど、転がり続ける総理大臣はかつ存在しなかった。内閣の解釈変更で、自衛隊の海外派兵が可能になるようでは、憲法を定めている意味がなくなる。憲法は絶対のものとして、出来る限り動かさない方が良い。どうしても動かしたいとすれば、国会での3分の2の賛成を得る位の、手順が必要なことだ。国民は憲法に従って国の運営を、内閣にお願いしている。憲法をしっかりと守れば、クリミヤのような国民投票はあり得ない。

現在の選挙制度では国民の3分の1しか支持されていない自民党が、絶対過半数の議員数である。小選挙区制に於いて、公明党という半宗教組織を自民党議員が支持母体にしているからである。公明党の議員数の問題ではないのだ。公明票がなければ、自民党議員は半減する可能性もあるのだ。それが小選挙区制の悪い側面だ。公明党が民主党とくっついた場合、どういうことになるか。公明党は考えが違う政党とも、都合によってくっつくことが出来る政党なのだ。公明党としては、コウモリ党に成る以外、延命が出来ないということで、やはり苦渋の選択なのであろう。ともかく、結果として、国会議員の過半数で憲法改定の発案が出来るようになれば、公明党が憲法改定の鍵を握る。日本国の政治原理はぐずぐずのものに成ってしまう。奥の手による、小松法制局長官の解釈の変更である。安倍氏のやり方は、周辺人事で国の方向を変えてゆく。解釈の変更を主張してきた小松氏を外交関係から無理に任命したのだ。

そして、国会で答弁したように、憲法解釈の責任は、総理大臣たる自分が選挙で審判を受けるのだから、自分の責任で憲法解釈を変えられるのだと、国会と国会議員の存在を無視したような発言をした。こんな入れ知恵を誰がしたのだろう。自分の判断という気がしない。自衛隊の海外派兵をこんな簡単なやり方で可能にしては成らない。議会制民主主義というものの意味を理解していない総理大臣であり、これは失言というような種類のことではない。このままでは自分の存在に独裁権があるとでも解釈している恐ろしい人となる。一連の発言を自民党の長老の古賀氏がお坊ちゃん政治家と批判していたが、その理由が驚くべきもので、総理大臣は国民が分らないようにやるべきだというのだから、自民党には驚く。集団的自衛権の解釈を変更して、何をしようとしているかである。たぶんアメリカからの圧力があるのだろうが、同時に、武力的国家に成らないと、中国に負けるという意識もあるのだろう。

中国には原爆がある。軍事力の対抗ということなら、核武装まで行かなければならない。そういう軍事的な力しか、均衡が保たれないとしたら、人類はどこかで必ず滅亡する。不安がかなり現実的に成りつつある。日本国憲法の示す、平和主義は理想主義的ではあるが、対立より、友好によって、平和を模索するという道も必ずある。又見つけなければ人類に未来はない。日本国憲法は現実的ではないと言われ続けてきたが、軍事力バランスによる平和も、これまた現実的ではないことが見えてきている。どの道を選ぶとしても、平和への道は大変困難な道である。まず、日本政府は憲法で定められた、平和主義の努力をすることだ。現実にウクライナに対して、平和主義では何をする必要があるのか。そのためには、中途半端な軍事力など、百害あって一利なしだ。徹底した日本的平和主義の道を世界にアピールできるように、政府こそ模索する義務を憲法によって、決められている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村の神社と靖国神社

2014-03-25 04:17:49 | 地域


明神岳 10号 私の家から一番近くにそびえる、箱根の外輪山である。いつも見てはいるのだが、あまり描くことはなかった。これからは描くことに成りそうな気がする。里山の暮らしのようなものが、絵を描く何かのような気がしてきている。






私の住んでいる舟原には、お堂が2つある。一つが熊野神社であり、昨日の23日には例大祭があった。もう一つが秋葉神社である。その他水神様もあるようだ。どちらも私の家と同じ斜面のすぐ近くにある。神社があるような場所というのは、昔から良い場所だと思い、越してくる材料になった。村々には鎮守の氏神様がおられる。を見守り、祖先の祈りのある神社である。日本人の信仰はお寺に象徴される死者を弔う宗教と、日々の暮らしの無事や、豊かな実りを願う神社信仰とがある。村の鎮守の神社というものは、原始宗教に始まったのだろう。自然に対する畏敬の念が根源にある。大木を祭ったり、湧水を祭ったりしている。山や川や海も信仰の対象に成っている。ある意味幸せにも、日本人は自然崇拝の形を残して現代まで来た、数少ない民族なのだと思う。こうした村に残る神社信仰は国家というものができる前の時代からあるもので、縄文人の抱いた祈りの思いと、かなり近い感覚で自然への畏敬の念を祭ってきたはずである。

明治時代に、大教院という宗教管理組織のもとに、神社を統括する意味の組織ができ、戦後神社庁という形で、統一組織を作っている。その下部組織が神奈川県にもあり、熊野神社という系列の神社も登録しているところもある。正式な宗教法人の神社として登録すると、何らかの位で位置付けられ、上納金を払うことになる。そこで、多くの地方の氏神は、宗教組織とは離れ、村の守り神という昔からの立場を維持した。舟原の熊野神社もそういう意味では宗教法人ではないし、氏子も総代も存在しない。本来の形に近いし、また、自治会が運営を行う上では都合も良い。地域によっては、公共団体に対して、信教の自由と齟齬するという訴訟もある。舟原の熊野神社例大祭には、和留沢に住んでいる、石間さんという神主の方に来ていただき、取り仕切っていただく。村の鎮守の例大祭としては、とても良い加減のお祭りだと思う。のどかに、それなりの厳粛を持って取り行われた。

沖縄に残る信仰の場が何もない場所であるという事を、岡本太郎氏が書いていた。何もないという清浄な場を信仰の場にする。それは自然神の御魂の降りる空間というものを信仰することであろう。日本人の幸せ感は、この原始的感情と結びついて、初めて安心に暮らすことが出来たからではないか。舟原でも熊野神社として、上級の機関に登録されず、宗教法人でないということには、知恵を感じる味わいがある。異論なく自治会主催で執り行われている。この曖昧さこそ、日本人的であり、神社信仰の土地の氏神という共通認識なのではないだろうか。

神社神道に対する信仰は仏教より当然古く、卑弥呼の時代から各地域に存在したのだろう。出雲の神は神話時代から、その部族の信仰として、集まるよりどころとしてあり、文物とともに、全国に広がってゆく。伊勢神宮に関しては、天皇家と稲作の広がりと強く結び付きながら、全国に広がったのだろう。それは経済や技術と結びつきながら、地域にある村の鎮守の神様的なものを、鎮撫しながら、重なりながら、先進技術としての説得力を持ち、経済を支配して行く。それが弥生時代の幕開けを意味するのだろう。天皇家もこの時代にその大陸からの稲作技術を普及しながら、日本全体にその勢力を広げたのだろう。それは当然、伊勢神宮の信仰も伴っていた。奈良時代になると律令制度が確立され、国府には、国分寺があり、神社も国の行政機関と連携、一体化したものとして、全国に配置されてゆく。相模の国一之宮は寒川神社である。土地の霊を祭るものと、律令制度によって各地の神社も政治権力下に置かれるようになってゆく。

靖国神社はこうした日本の神社の在りようにかぶさるように、明治初年に政府によって作られる。この明治政府の宗教利用、逆にいえば、宗教の政府への加担の形は、小河原正道著の近代日本の戦争と宗教に詳しく書かれている。靖国神社は戦没者を英霊として祭り、「国光発揮」「忠勇」「義烈」を掲げて明治帝国主義を支える神社として、国家政策的に作られる。この背景には、大教院という政府の宗教統制組織が存在し、近代国家として政教分離のものとに政治は行われるが、神社に関しては宗教ではないという立場を取りながら、土地の信仰を巧みに政治と関係させてゆく。朝鮮には日本式神社が1000近く作られることになる。靖国神社は軍隊によって祭礼は採りしきられ、軍人軍属を祭ることを目的として創建されたものである。その意味で、集落の鎮守に始まる神社とは、全く異質な神社である。明治政府としては神社でなければならなかった理由は、天皇を中心とした、国の運営を考えていたからだろう。神としての天皇家の存在がある。しかし、天皇家はそもそも、伊勢神宮を中心とした神社と密接に関係してきた。このあたりは異論も多く、長くなりすぎたので、またあらためて考えてみたいと思う。
コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

防衛大学の卒業訓示

2014-03-24 04:46:54 | Peace Cafe


伊豆の入江 10号 朝日のように見えるが、夕日である。






安倍総理が防衛大学で卒業訓示を行った。全体を読んだ訳ではなく。一部テレビで放映されたのを聞いたのだが、あまりの発言に肝をつぶされた。日本近海の公海上において、ミサイル防衛のため警戒にあたる米国のイージス艦が攻撃を受けるかもしれない。これは、「机上の空論」ではありません。「現実」に起こりうる事態です。そのときに日本は何もできない、ということで、本当によいのか。(以上安倍訓示)だから、集団的自衛権の見直しが必要という総理大臣の主張です。実に大雑把に、こういう大切なことを、防衛大学の卒業生に訓示している。昨日はアンネの家を訪ねて根も葉もないようなセリフなのか、差別や戦争のない社会を目指すと誓っている。この人の発言は作者の居るセリフである。ということは、側近達がチラつかせる、極めて軍国主義的な差別的な、意見が目的地なのではないかと思わざる得ない。殉死した乃木大将や、殉死した卒業生の自衛官を褒め称えるというのも、卒業式にふさわしいとは思えない。

アメリカのイージス艦がどこで、何の為のミサイル防衛しているときに、どこの国から攻撃を受けた場合なのだろうか。現実と言っているのだから、日本近海で中国のミサイル防衛を考えている。日本が主張している領海内であれば、当然日本が反撃する権利は、現行法でもある。何も、集団的自衛権の見直しなど必要がない。これが、ミサイル防衛の為がいったん見直しが行われれば、拡大解釈され、中近東の紅海とか、黒海とかの場合はどうなるのか。日本の艦船、あるいは日本人の安全と保護という名目も在り得る。サハラ砂漠に展開する、日本企業が攻撃を受け、アメリカ軍が戦闘に入った。こういう時に自衛隊は出動できるのかである。そして、戦争というものは、こういうことが偽装されたとしても、始まってしまえば、発端など見えなくなる。両社の正義がぶつかり合うから戦争が繰り返される。しかも、前線の自衛隊が、突然戦闘を始めることがあるとすれば、それは日本の国益にとって、どういうことになるのか。文民統制どころではない。

戦争の危機はどんどん増している。特に北朝鮮の核武装について相当深刻に考えなくてはならない。こうして、時間が経過してきた中、間違いなく核武装のレベルだけは実践レベルに近づいているのだろう。北朝鮮の論理と同じで、軍事力で世界と肩を並べるには、核武装するしかないということになる。都知事選に出た、田母神氏や維新の党の石原氏はそういう考え方だと思う。安倍氏も同じ思想なのだと想像しているが、経済を前面に打ち出して、その軍国主義者的側面は小出しにしている。まずは、憲法改定を主張していた。それが出来ないとなれば、96条の3分の2条項を過半数にしようとした。それもできないとなれば、集団自衛権の解釈変更で、憲法改定をして軍隊を持つという、考えを実現させようとしている。だから、集団的自衛権の解釈変更の実態は、平和憲法改定を意味している。

アメリカという国が同盟国として、中国の攻撃を防いでくれると信じていること自体が、すでに危うい。アメリカの駐留軍は日本に対する抑止力の側面が強い。日本が軍事力強化をしないように、核武装をしないように、一応日本に居る必要がある。アメリカには日本を守り通す、そんな余裕はない、今回のウクライナ問題の対応でも、何が出来たというのだろう。日本は日本人で守るしかない。日本が、劣化して、嘗ての中国、朝鮮のように日本の侵略をうけるような状況にならないことである。開拓団まで送り込まれるような、自体に成らないことである。日本には耕作放棄地がやたらあるから、中国財閥が買い取って企業農業を始めるようなことにならないことだ。すでに、日本の山林や水源が目をつけられているという話も聞く。軍事力による戦争より、日本人劣化に伴う、自壊現象の方が現実に迫っている。人間は結局のところ、マネーゲームではなく、身を粉にして額に汗して働けなければだめだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田んぼが始まる

2014-03-23 04:17:41 | 稲作


蝶が岳の雲 10号 雲はなかなか面白い。雲は自由だ。どんな色でも描けるし、どんな形でも雲だ。だから、すべては描く人にゆだねられている。本当は、すべてのものが雲と同じで、自由に描いていいのだが、人間はこうだとか、山はこうだとか、自由になれるものでもない。





毎年、春分の日を田んぼの作業始め、としています。人間の体も心も春が来たと感じている。、たぶん種もみも春を感じているのではないかと思います。茶箱に入れてあった種もみを取りだす。無事保管が出来ただけでも、ありがたいことだ。桜の開花が、高知、鹿児島とはじまって、今のところ例年通りの春の到来。

3月21日、9時から種もみを籾洗いしました。

小田原漁港に行って、海水を貰ってきました。その海水で、籾を良く浸して、付け込んで、浮いたものを取り除きました。例年同じようにしましたが、今年は、8番の田んぼの種もみを使いましたが、少し浮く量が少なかったようです。全部で18キロの種もみを使い、2キロぐらいが浮いた状態です。塩水選ではなく、海水選ですから、それほど充実していなくても浮きません。何故言われている、塩水選の濃度で、種籾の厳しい選別をしないかと言えば、それほど厳しくする必要がないと考えているからです。全く選別をしなかった年もありますが。病気が出たということは在りません。むしろ選別するという考え方が間違っているのではないかと、内心思っています。良いものもある、悪いものもある。これが自然だと思います。だから、今回の種もみも、8番田んぼのもので、欠ノ上の平均的な所という考えです。一般に行われる温湯消毒というのもしたことがありません。もちろん薬剤の消毒もしません。特段のことをせずに、20年一度も病気の出た経験がありません。たぶん、消毒というのは、予備的な、安全対策ということで、万が一まで考えてのことなのでしょう。加えて機械苗という、とても環境の悪い促成栽培の苗作りだからかと思います。セルトレーを、田んぼの苗床で管理するという形では、今までの自然にゆだねた方法で、丈夫な苗が出来ます。

そのあと、10時から久野川に種籾を浸けて在ります。




種籾は種まき予定の、4月19日の前日まで、川に付けておきます。川の水は9度でした。ほぼ1カ月川に浸けて置くことに成ります。翌朝見に行くと、8度でした。一般に浸種は1週間程度と言われますが、出来れば長めの方が良いと考えています。長めの方が、発芽抑制物質が流されるのでしょう。発芽がそろうし、発芽率も良いからです。その後の寒さ対応力も高まるような気がしています。自然の稲は、川岸で倒れ、冬を越し、徐々に水にさらされ、水温が上がり、水が引き。そして発芽するはずです。何カ月も水の中に居ることもあるでしょう。実際に、正月元旦から、川に付けたこともあります。これは経験したこともない良い発芽でした。面倒なので、今は春分の日から、種まきまでです。昨年、袋の網が豪雨で破れ、少し種もみが減りました。今年はそこで位置を変え水路にしました。水温は時々計りに行きます。絶対に14,5度以下です。これを越えると、発芽が始まります。最近川の温度が上がっており、油断はできません。その場合は、急遽引き揚げて、水道水などで管理するしかありません。

11時から苗土の準備をしました。

種籾はセルトレーに播きます。その土は準備しました。ソバの糠と鶏フン堆肥を1袋づつ、混ぜながら土を山に積みこみました。この土を、3月30日に土振いを行います。土振いはした後、土嚢袋に入れておきます。そして、苗土を作るときには、籾がらクンタンをさらに混ぜます。昨年からこの方式にして、苗が前以上にいい感じになったような気がします。がっしりした、5葉期の分げつの始まった苗です。苗作りは最初の段階は、滞りのない成長が必要なようです。厳しい環境で育てるという考えもありますが、保温はある程度必要です。今年の保温は、穴空きビニールにします。竜巻のような風が吹くので、よほどしっかりと埋め込むつもりです。苗床の土は、冬の間に2度ほど堆肥を播いています。これを4月5日に耕して苗床の準備を行います。良い苗床は、当然良い土である必要があります。苗の根がセルトレーの底から、付き抜いて土壌深くに大きく広がることが最善です。水温が高く、日照が必要です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベビーシッター殺人?事件

2014-03-22 04:09:57 | 身辺雑記


海に続く道 10号 小田原にはこういう景色が沢山ある。放棄された山の畑から、海が見える景色だ。晴々としてなんとも言えなくいいものがある。





ベビーシッターに預けた子供が、どうも殺されたらしい。子供はもちろん、お母さんもさぞや辛いことだろう。どこか社会に出来ている狭間に起きた、悲劇のように見える。ベビーシッターに子供を預けるしか道のない親の状況がある。ベビーシッターがまさかという痛ましい事件である。残念なことに待機児童0を誇った、横浜市で起きた事件である。おかあさんの辛い気持ちを思うと、申し訳ないようなつらい思いである。それにしても、子供をめぐる殺人事件が頻繁に報道される。しかも、親が子供をいじめ殺してしまうというような、さらに地獄のような事件すらある。社会が病気にかかっている現象だろう。この幼児に対する病的な事件の頻発は、近年間違いなく目立っている。過去になかったとは言えないだろうが、未熟な大人が、弱い子供をいじめているのではないかという事件は、近年目立つ事は間違いない。何故、未熟な人間がベビーシッターに成ろうとしたのだろう。弱者が社会からいじめにあっているようなストレスの中に暮らしている。弱者がさらなる弱者をいじめてしまう姿。

ベビーシッター事件の真実は分らないが、ベビーシッターというものがウェブを通して、これほど広がっているとは知らなかった。考えてみれば、そういう社会背景が想像されるのだから、気がつかなかったことがうかつだった。子供を一時預け的にどこかに頼みたいという人が沢山いるはずである。待機児童0の横浜ですらそうなのだから、他の地域ではなおさら深刻なことだろう。私の家では子供ではないが、動物が沢山いる。動物と子供を比較するのは、不謹慎かもしれないが。動物たちを誰かに頼むことが出来ない為に、どこにも出かけることが出来ない。アニマルシッターがいるなら、きっと頼むだろう。無理に頼むのが、岩手の兄である。自分に小さな子供がいるとなれば、働きに出るにも、深刻なはずだ。どうもネットのこうしたベビーシッター組織ではトラブルが良くあるようだが、ネット情報の不確実性への対応は、普通の暮らしでは、他の道も思いつかない。ベビーシッターは資格も要らないし、許可制度もない。どこの誰とも分らないような場合も多々ある訳だ。ネット検索で出てくる業者は、結構安心して預けられそうなイメージを作り出している。

そういう業者に頼まざる得ない社会の現実がある。孤立した家族の置かれた状況を考えれば、悲しい社会。「無縁社会」「ワーキングプア」「格差社会」これらの問題を深刻化している原因は、経済構造にある。グローバル化した経済では、企業が利益を追求する合理性の前には、個人の生活や、社会の仕組みなど、無視してもかまわない。そうでなければ国際競争に負けるという資本の論理が貫かれる。負ければ、日本が貧しくなるのだから、格差どころではないだろうということが、盛んに言われる。どうも社会の行く先を間違えているようだ。国際競争に勝つということが、今よりましな社会に行けるのだろうかという疑問。政府に関して言えば、少子化担当大臣の発言や厚労大臣の発言が、事件が起きてから問題に気付いたというような、私と変わらない状況判断。横浜市には緊急の24時間子供の預り所がある。よこはまハピネスネットというものがあり、ここに頼むということは出来たのだろうか。

公的な、託児所の枠組みに入れない、沢山の子供たちがいる。そして、補助がないためにベビーシッターが高額になり、より安価な個人シッターに流れる現状は、お母さんが犠牲者に成っている。このお母さんもどれほど苦しかっただろうか。孤立して、不安を抱え、どうしたらいいのか判断もできなかったのではなかろうか。何か不安を感じながらも、ネットのベビーシッターを頼む以外思いつかない現状は広がっている。地域社会が失われている。それは都会だけではない。小田原の周辺部に当たる、舟原でも、子育てをご近所で手助けできるような状況ではない。それぞれ孤立していると言っても良いのだろう。一つの壁は個人情報である。来年度は自治会長をやる訳だが、全体の情報は全く知らない。先日そのことを相談に小田原市に行ってみたが、個人情報が盾に成り、相談しても無駄な感じだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウクライナ問題

2014-03-21 04:11:44 | Peace Cafe


山梨御坂町花鳥山 10号 やはり、おととしの桜である。こ年も行くつもりだ。藤垡の向昌院から近い場所だったが、子供の頃に行ったことはなかった。それでも記憶のどこかに、何か繋がっている匂いのようなものがある。北海道や、沖縄では、自分には絵をかける風景がないということがある。






ウクライナで起来ていることを考えてみたい。判断できるほどの知識もないのだが、ロシア、EU,アメリカ、そして日本。いずれの国の行動が正しいのだろうか。歴史認識というものは、立ち位置によって変わるのだと思う。私は満蒙開拓は侵略だと考えている。南米への移民とは、全く性格が異なる。満州はすでに人が暮らしている場所であった。そこに居た人をどかして、日本人が入って行った土地なのだ。住居すら、満州の人たちが暮らしていたに代わって入った開拓団である。大東亜共栄圏を掲げ、日本の権益の拡大が主目的である。一方見方を変えて言えば、自衛権の行使であり、日本の集団的自衛権の行使である。欧米の帝国主義から、大東亜を守るためには、日本が身を挺して対抗しなければならないということになる。しかし、その建前の下に実際に行われたことは、欧米に変わる帝国主義的進出と見られても仕方がないことを行った。

ウクライナのことを考えている。この国はとても複雑な国である。常に戦争の火種になる国である。それは民族的複雑さ。宗教的な対立。ヨーロッパと、アジアと、ロシアの狭間に存在する地勢的な問題。一筋縄ではいかない、複雑な性格を有する国家と考える。ソビエトの抑圧的政治が続いていた。その反動として、衛星各国は経済を軽視して独立をした。その流れを加速するために、又各々の権益の拡大の為に、EUもアメリカも支援を行った。しかし、日本でいえば、神奈川県が独立したようなことだから、経済的にはとてもアンバランスな国に成った。むしろソビエト時代の方が経済的に、あるいはエネルギー供給では良かったということになった。しかし、幸いなことにウクライナはソビエトの鉄鋼生産をになっていた地域のため、鉄鋼の価格が急騰して、経済的な自立を果たすことが出来た。その後世界経済がリーマンショック以降転落し、ウクライナ経済もギリシャ同様の国家破たんに近い状態に陥る。

そこで、EUに加盟して、EUの支援を背景に国家の再建を画策する。ところが、EUの突き付けた条件が、ヤヌコビッチ政権には不満で、ロシアの出した支援策に乗り換えることになる。すると、EU加盟に期待していた、ウクライナのEU側の権益を目的にした勢力が、暴力的な反撃に転じる。ロシアの報道ではネオナチズム集団と言われている。この反政府革命が成功して、ヤヌコビッチ政権はロシアに亡命することになる。ソビエトにしてみると、長い期間衛星国として利用してきた間に作られたロシア系住民の権利が、特にクリミヤ半島には存在する。ロシア系住民が多い。ロシアに所属していた時代の方が、ロシア特権を受けて良かったという人も多数存在する。一方キエフを中心としたウクライナにはEUに加盟して、ロシアの圧力を排したいという、国家自立の意識も強い。ギリシャと同様に、経済的展望がある訳ではないが、ロシアだけは嫌だという、ソビエトに抑圧された苦い思いもある。

日本政府としては中国を意識して、ロシアとの関係を深めようとしていた矢先だ。思わぬ同盟国によるロシア経済制裁である。理由も明確にしないまま、日本も同調させられている。ロシアが暴力的にクリミアを引き剥がした。というほど単純ではない。クリミヤが住民投票によってクリミヤ独立を選択し、ロシア所属を望んだ。ロシアからの抑圧の歴史の記憶を恐れたとしても、ロシアを選択するのだから、どれほどウクライナという国内に腐った問題があるかだ。果たして、国連での議論の国民投票が非合法であるという根拠はどこに成るのだろう。判断放棄したような、アメリカ従属のニュースしか流れない。ロシアの巧みなやり方に比べ、アメリカの外交力の低下が目立つ。経済であれ、軍事力であれ、ウクライナを干渉するということは、無駄なことだ。ウクライナ国内で、今後内戦が起きる可能性もある。日本が集団的自衛権の行使ということで、戦争に参加するようなことだけは止してほしい。まずは、冷静に、ウクライナ問題の本質を考えてみることだ。平和的手段で出来ることを考えてみることだ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水彩画教室 5

2014-03-20 04:07:49 | 水彩画


山北向山の桜 10号 これはおととしの桜だ。そろそろ桜の季節に近づいている。






絵を描くには、その目的や意味を明確にしておく必要がある。楽しいから描くでもいいし、描いていれば人生が充実するのでというのも良い。しかし、ただ描いているだけでは、進歩というものがない。衰退しているのに気付かないのでは、楽しい訳がない。絵を描く楽しさは、未知の、人生の深遠に踏みこんでゆく、緊張感である。今だ到達したことのない世界に触れているのかもしれないという、深い感動を経験できることが、絵を描く醍醐味なのだ。だから、現状維持でなく、常に今を否定して、未来に向かう気持ちで取り組まなくてはならない。そのためには絵を描いている意味を、明確にしておく必要がある。5月の底抜けに明るい日差しに輝く、草原に咲くやまフジを描くとする。明るさの中にあるものは、自分もそこに所属する喜びかもしれない。人生の安心と、希望かもしれない。日々を生きる充実まで見えるかもしれない。ボナールの絵には、そうした明るさのその先にある、悲しい影まである。色や形や意味を通して、ボナールののぞいた人生の深遠が見えるから、絵画なのだ。

絵を深めてゆくためには、自分の様式というものが必要である。絵の世界を探求するには、自分の絵の方法論のようなものが必要である。マチスのやり方があり、ボナールのやり方がある。絵画する思考の上で、ある一貫性がなければ、自分の内的世界を深く追及して行くことはできない。そうでないと、頭を使わない写す機械に成り下がる。しかし、様式というものは、絵の世界では出つくされたように存在する。若い内に要領よく絵を描くために、ボナール方式です。マチス方式です。中には珍しい聞いたこともない外国の人のやり方を取り入れて、自己流だと主張する要領のよい人も多い。大体に世間はそれに騙されてしまうから、要領の良い人が目立つことになる。その為に評価された人ほど自滅する。絵を描く要領を教えたり、教わったりするのが、学校であったり、絵画教室であったりする。しかし、要領から入ると、必ずその人の人間にに至ることはないから、頭打ちに成り、さらに別の要領を探すことになる。それでも、絵を深めるには様式が必要なのだ。

まず、自分というものを確認する作業が必要である。それは自分が所属している世界の確認から始まる。出来上がった絵をあれが好きだとか、これが良いとかではなく、自分が見ているものが何かである。世界はすべて目に写っている。その中から、何が自分の目指す世界なのかを、考えなくてはならない。花が美しい。これも材料である。雲を見ていると夢を感じる。これも材料である。山を見ると自分が同化して行く。これも材料である。絵を描くという目で、世界を見つめ、又自分の内部世界も見つめ、そして、自分が絵にしたいものはどうもこれらしいということを掴まなければならない。その目的が確認できない内に、様式を身につけてはならない。自分の方向を、繰り返し探らなくてはならない。その後に、自分のやり方を確立しなくてはならない。こういう順番である。いつまでも自分の様式を方法を見つけられないのも、自分の絵画の意味の確認が出来ないということである。

木を描こうとする。木の幹をどう表現するのか考えたときに、棒一本もあれば、立体として事細かく描く場合もある。どれが正解というのでなく、木というものをどういうものと考え、木が自分にとって何なのかが分らなければ、実は描くことはできない。自分の絵ではその木がどんな意味をなすのか。このことを探り、深めてゆくためには、自分の描き方、迫り方の方法の確立が必要なのだ。だから人から借りてきた方法では、問題の核心に迫ることではなく、どこか他人の完成した絵に似ている、すでにある絵画世界のまねに成って終わる。自分が木を見ているという原点に立って、どこまでその木を描こうという世界観に迫れるかである。このあたりの整理が出来ないまま、絵を描いた所で堂々巡りで終わるばかりだ。様式を持つことは危険ではあるが、恐れていたとしても先に進めない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国会の無意味化

2014-03-19 04:14:29 | Peace Cafe


庭の眺め 10号 具体的にどこということではなく、日々眺めている庭が絵に出てくる。記憶を描いている。見ていて記憶する。その記憶はいつどこで現われるか分らない。





国会の中継をラジオで時々聞く。最近の質問はテレビ向けということで、パネルを出して分りやすくやろうということらしいが、これがラジオでは、見えないのだから、分りづらい事に成った。平日の昼間、国会審議をテレビで見ていられる人は、お年寄りくらいだろう。国会質問で、答弁させることで、何かを成果を得ようという野党の質問は、少ない。結果を出すための質問というより、テレビを見ている人に、自分をアピールしようという意識の質問が目立つ。また政府の答弁も、質問に答えているというより、はぐらかしている場面が大半である。馬鹿にして、質問の幼稚さをあざ笑っているようなことも多い。又周辺のヤジもいい大人がばかばかしい限りだ。そういうことを含めて、わざと政府の不誠実をアピールしようとする質問になる。最終的には多数決でどうせ決まってしまうのだから、国会の質問を形式的なもので結構というか、儀式的な通過儀礼にしているということに見える。一応やりましたというだけの無駄な国会に成ってきた。

それを強く確認したのが、NHK会長籾井氏の罷免問題である。この変わった人が、NHKの会長にふさわしいと考える人は、まずは少ないだろう。就任会見のとんでもない発言を思えば、即罷免が当然である。しかし、取り消したのだからもう済んだこと、というのが国会の認識のようだ。取り消すというような性格の発言の訂正ではない。内容としては信念であるが、発言の場を間違えたという弁解だ。NHKの職員も可哀そうなことだ。理事は社会常識ということで、辞職願いを預かったということだ。こんな社長の会社では、やりきれないのが普通だ。こんな非常識な人が会長にふさわしいというのが、日本の公共放送ということだから、日本の社会の異常事態であると考えなければならない。国会の追及も厳しく行われている。しかし、黙って耐えていれば、おしまいということで、苦虫をつぶして耐えているだけの不毛。どう考えても、もったいないと思う。農業改革など重要な場面であるにもかかわらず、実態の議論はどこで行われるのだろうか。

TPP交渉もかなり、重要なことに成っている。しかし、この議論も外交交渉ということで、経過は国会審議を通しても、国民には知らされていない。このままでは結論だけが示されて、政府一任ということになってしまう。外交交渉であるとしても、最終判断は国民が行うべきである。政府が決めたということでは済まない日本の進路を決めるような問題だ。農家にとっては生活のかかった、重要な判断に成る。たぶん農家だけでなく、将来、EUのような、経済連合から国家統合まで、可能性としてはある条約の問題だ。出だしがずさんでは、成るものもならない。そして一番重要な問題は、平和憲法のことである。平和憲法の、文字通りの解釈では、日本の防衛がまっとうできないので、解釈を広げようということが出てきている。簡単にいえば、自衛隊が海外の紛争に参加できるようにするということだ。それを集団自衛権の拡大解釈で行おうとしている。憲法の解釈論からいえば、ありえないことだ。

ところが、小松法制局長官は以前からこれを解釈可能としてきた人で、前例を越えて安倍氏はこの人を任命した。安倍氏はアメリカとの同盟関係を重視しているのだと思う。アメリカから要請もあるのだと思う。しかし、現在の国際情勢は、短銃んにアメリカとの2国関係を考えていればいい状況ではなくなってきた。アメリカが中国と接近し、日本の国益を損ねる場面は必ず起こると考えていた方が良い。例えば、ウクライナで戦闘がおこり、アメリカ軍が出ることになったとして、日本軍も出た方が良いということになる。出ざる得なくなる。そこまで平和憲法がないがしろにされることになる。これは解釈の範囲とは到底言えない。憲法の改定を行うべき案件であろう。世界のあらゆる紛争に対して、集団的自衛権と範囲だと、内閣が決めれば、自衛隊は出動できる。ウクライナの邦人の救出などを理由にする。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

じゃがいもの植え付け

2014-03-18 04:21:01 | 自給


北海道の湖 10号 林の向こうに、湖が見えるところに興味を持った。手前の樹木が、線に成って、奥の風景を遮っている。その兼ね合いがどういうことになるのかと思って描いた。





じゃがいもは毎年必ず作る作物である。3月16日にも秋に植えたじゃがいもを掘り出して食べているから、ほぼ一年中自給で食べることが出来る。一昨年あたりから、収量がとても増えてきたので、狭い面積でも自給分は十分にできる。中段の雛の鶏舎の前にある、15㎡ほどの畑にだけ作っている。10年も春も秋も連作をしているが、特に問題は起きていない。じゃがいもはどんな土地でもできるものなのだろう。アイルランドの冷涼で石ころだらけの土でも作られている。しかし、土地が出来ていないと、収量は少ないものだ。種イモから思えば、4,5倍にしかならなかった。そんな作物だと思って長年、20キロの種イモで100キロを収穫するという、効率の悪い感じで作ってきた。しかし上手く作れば、20倍にはなるということを一度経験して、少し耕作法を変えた。10キロの種イモが200キロに成るのが普通のことだと農家の方から聞いた。今年は種イモは9キロである。100キロが目標である。

種イモは買ってきた男爵である。家にあるのは結局食べてしまい。毎年買ってくる。結局、それの方が良く出来る気がしている。ウイルスの感染があるのかもしれない。3月10日ごろ、種イモを準備する。芽の出具合を見て芽と根の出る所があるように切る。浴光育芽をする。切ったものは直射光の当たる、暖かい窓辺に乾くまで置いておく。しっかりした芽を一つだけ残し、あとの芽は取ってしまう。一つの重さは、40グラムから80グラム。いもは切り口がしっかりと乾き、腐敗しにくくなる。小さいものは丸いままで植える。灰をまぶすというようなことはしない。畑には十分堆肥を入れる。他他の土にすることが重要になる。冬の間に完熟堆肥をたっぷりと入れて十分に耕す。ジャガイモを植える直前にもう一度耕す。直前にやれば雑草対策に成る。よほどのことがなければ、草取りはしないで済む。40から50センチ置きに溝を掘り、溝底に植えてゆく。後で土寄せが楽な為と、霜の害が幾らか防げる。足の大きさに併せ、かかとに一つ、つま先に一つという感じで、足の前後に植えてゆく。深さは4センチくらい地中に植えるようにする。丁寧にやるなら植えた後しっかりと押さえる。

3月半ばが植えこみ時期である。桜が咲く頃にじゃがいもの芽が出るようにする。早く植えて、霜にあたらなれば収量は上がるが、早ければ霜でやられる確率が高くなる。畑で芽が出てからは、芽欠きはやらなくても良い。小さい芋になるといわれるが、良い土ならその恐れも少ない。芽がそこそこの大きさに成った時、(3,4週間後)土寄せは必ず必要。出来るだけ株もとに土を寄せて置く。畝の上にじゃがいもがあるように見える。特にその後は収穫まで、やることがない。収穫は葉が黄色く枯れたなら収穫。私の場合畑にそのままに置き、食べる必要な時に掘りだす場合もある。表面ががさついてくるが、食べることに支障はない。掘りだして冷蔵保管が出来るならば掘り出したい。その辺に置いておくくらいなら、畑でそのままの方が、痛みも少ないようだ。味は男爵が好きだ。色々のジャガイモを作ってみたのだが、結局は男爵いもが一番のこのみだ。

秋ジャガには、出島を作ってきたが、今年は少し違うものをやるのも良いかと思っている。畑は水はけが良いことが一番の条件。堆肥を沢山使っても、水はけが良い土壌に成ればよいじゃがいもが出来る。秋ジャガは春ジャガが沢山出来た年は作らない。秋ジャガの方が美味しいという人もいるが、大して変わらないと思っている。男爵好きだからかもしれない。秋ジャガは収量が少ないが手間は春よりさらに楽だ。十分に堆肥を入れて、すき込み、7月に春ジャガを畑から取り除いたなら、すぐに堆肥を入れてすき込んで9月初めの植え付けの準備をしておく。やはり植え付け寸前に耕して植え付けを行う。いつ連作でダメになるのかと思いながら、もう10年に成るが、作らないかった年もあることはあるが、大体の年作ってきたが、大丈夫のようだ。良く連作の障害の話があるが、経験したことがない。じゃがいもは自給する手間がとても少ない。全部で4時間あれば出来る作物だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍氏の本音と村山談話

2014-03-17 04:16:51 | Peace Cafe


丘の畑 10号 傾斜地が続き、昔畑だった場所が、自然に戻ろうとしている。その遷移ともいえるような変化に引きつけられる。







安倍氏が参議院予算委員会の答弁で、村山談話及び小泉談話の継承を発言をした、と言っていいのだろう。到底本音とは思えない。安倍支持者達はここまでの発言をするとは考えていなかっただろう。この姿が、安倍氏の木偶人形説の根拠である。どうも発言のすべてが誰かが書いた、セリフを覚えているような感じがする。あの福島原発完全コントロール発言もそうだった。憲法改定手法でも、最近の憲法解釈変更でも、同じ人間が自分の言葉で発言をしているなら、石原氏のようになるのが普通のはずだ。子供の頃から政治家の家で育ち、後継者として育てられ、自分の立場、役割、能力を自覚している結果、こういうことになる。育ちが良いのか悪いのか。国民にとっては、この本音がごまかし続けられる状態は実にやっかいなことだ。もしかしたら本音などないのかもしれない。あの瑞穂の国、美しい日本だって、本音だとすればやっていることと矛盾しすぎだ。

近現代史はある意味玉虫色だ。どうとでも解釈はある。国の立場が違えば、違って見えて当たり前だ。日本が卑屈になることはないが、間違いを認め謝罪した以上、潔く受け入れるべきだ。そのことを覆そうという行動は、国際社会では最も許されないことになる。正義がどこにあるか以上に、一度認めた事は、実に重いということである。村山談話、小泉談話から日本は外交を進める他ないのである。若い人たちの間で、近隣諸国との歴史的事実認識がおかしいという意見が、WEBでの論調があるらしい。それもいたしかたないことではあるが、相手の立場に立って考えるという事もしてみてほしい。自動車事故でも被害者と加害者とが、直接示談交渉をするのは極めて難しい。等人同士では会わないようにというのが、保険会社の人の注意事項である。直接やるとこじれるものなのだ。事故の責任分担は20対80とかなっているものだ。日本政府が認めた侵略行為も、実際は複雑である。しかし被害者に対して、恩恵も受けたはずだ等言った所で、問題がこじれるばかりだ。

日本が取るべき態度は、過去の反省を潔く受け入れることだ。その上で、きちっとした正義を主張する。そうでなければ、領土問題や、経済問題にまで、過去の歴史が利用されることになる。一度出したものを覆すという姿勢は、国際的な信頼感を失う結果に成る。この点をアメリカ政府も指摘している。日本の侵略戦争の問題では、立場と見方によっては、歴史的事実も様々な角度から考えることが出来る。それは今起きているウクライナ問題でも、ロシアの報道では、欧米の扇動によって、大統領が追われた。ナチズムだということになっている。歴史認識というものは、常にそうした宿命のなかにある。真実も見る角度で、様々に見えるものだ。だからこそ、村山談話を今更覆すことは、どこに真実があるかという以上に、世界から信頼されない国なる。しかし、世界にも理性や正義はある。日本が一貫した正しい態度を貫いてゆけば、日本の本当の姿を理解する人たちもいる。いまさら、過去をあげつらい、おかしな宣伝をしている国より信頼されるはずだ。

村山談話では、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。」としている。侵略の証拠がないとか、あるとかいう議論は外交の場に於いては、未来の視点に立てば妨害行為に他ならない。日本政府としては、その後の小泉総理も村山談話を踏襲した政府見解を出した。安倍政権に成って、見直しのニュアンスが出てきたことが、世界から顰蹙を買っているのだ。こうしたことが問題にされること自体が、日本の弁解説明が、さらに日本のイメージ低下に成っている。安倍氏がやっと明確にしたことは、遅きに失したが、発言があったことで次の展開につながる。悪かったということは認めて、今更蒸し返す方がおかしいというところまで持ってゆくしかない。日本が、そういう平和国家に成れば、自ずと世界は正しい見方をしてくれるはずだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする