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石垣島と小田原の2地域生活

2021-12-28 04:37:56 | 石垣島


 石垣島と小田原の2地域居住の選択して、4年目に入っている。最初の予定ではもう少し頻繁に小田原に戻るつもりだったのだが、コロナが広がり、気楽には移動ができなくなった。そのためにかなり石垣島生活の方が長くなっている。

 計画ではアトリエカーによる小田原までの写生旅行とか、台湾旅行なども考えていたのだが、今のところ出来ないことになった。小田原での農業が出来ない事も、石垣で農業を始めるきっかけになったかもしれない。

 農業をしている気持ちが好きなのだと思う。石垣で農業を見ているだけという暮らしでは物足りなくなったのかもしれない。石垣の素晴らしい環境の中で、田んぼをやりたいという気持ちが抑えられなくなったのかもしれない。

 石垣の稲作の将来も沖縄本島や与那国島の稲作と同じ経過をたどるように見える。普通の農家が稲作の継続が難しくなる。販売力のある農業法人が規模を拡大してゆくのだろう。その結果経営の合理性のない田んぼは耕作放棄されてゆくのではないだろうか。

 そんな思いが強くなり、自給のためのイネ作りを石垣島でも始めた。そのことから、石垣島で田んぼ仲間が出来た。移住してきた同じような気持ちの人ばかりなので気心が知れている。また田んぼを始めたことで、石垣島の農業者と話す機会が出来た。すこしづつ実態が見えたきたこともある。

 石垣島はSDGS推進の自治体である。にもかかわらず稲作農業がその推進項目にはない。持続可能な地域であるためには食糧自給は不可欠である。農業の中で考えれば、稲作ほどSDGSに相応しい農業はない。何しろ5000年も同じ場所で継続できた農業なのだ。

 農家がやれない田んぼが増えるのであれば、市民が耕作を始めることが重要になる。また地域の安定のためには必要なことだと思う。そのためには市民が稲作技術を持たなければならない。自給菜園のように、自給のイネ作り技術を学ぶ場が必要だ。

 そんなことを考えている内に、楽観農園作りを始めることになった。これが石垣生活に大きな変化になった。興味が次々に湧いてくるし、課題も次々に出てくる。頭の中にはいつも楽観農園作りが占めていることになった。そうなると小田原の農業のこととどうしても距離が出来る。

 小田原の田んぼが気にならないわけではないのだが、今作っている田んぼのことを思うと、もう手一杯と言うことになる。小田原には能力の高い人達が沢山いるから、私が出る幕も、ほとんど無いと言うことになる。今は石垣の楽観農園にかけろと言うことなのだろう。

 これは2地域居住の当初の計画とは少し違うことだが、計画にはコロナのことは入れていなかったのでおきた変更と言うことになる。ただ、本質的なところで考えてみると、都会生活の危うさというものは予感していたので、石垣島に来たと言うこともある。何かが都会では起こるだろうという予測が当たったのかもしれない。

 都会が良いとか、地方が良いとか言うのでは無い。移動が難しくなったと言うことなのだろう。岸田内閣では石垣島でも5G通信が使えるようにしてくれるらしい。地方も通信インフラが整えば、かなり状況が変わるきがする。石垣島で都会と連絡を取りながら仕事が出来る時代が来るかもしれない。

 小田原には一月末頃行くつもりだ。しかし、石垣島の田植えが2月半ばにはある。気が気では無い。石垣島で田んぼを始めれば、けっこう難しい行き来になる気もする。オミクロン次第と言うこともある。あと一年間はいずれにしても、何かを決めると言うことは難しいだろう。

 2地域居住もコロナによって、かなり考えが変わってきた。暮らし方というものは結局の所始めて、その状況次第で変化してゆくものだろう。余り決めつけて考えても仕方がない。小田原の暮らしがあるので、こうした石垣の暮らしを軌道に乗せられた。

 いつも絵のことがある。絵を描く為には小田原や、甲府盆地の景色を見に行きたい。理由はよく分からないのだが、自分の中をたどってゆくとどうしても、そうした風景がある。その風景と石垣の風景との関係を確認したくなる。

 記憶の中の風景を描いている。いつか石垣島の風景が記憶になるのだろうか。たぶん、子供の頃に眼に焼き付いたものはやはり変わらないもののような気もする。この先自分の絵がどこに行くのかはわからないのだが。最近描きたいものが見えだした気がするときがある。

 明確ではないのだが、よい絵でもなく、立派な絵でもなく、自分が描く方角が少し見えてきたような気がする。既存の絵画から抜け出られそうな気がしてきた。ダメでもいいじゃが絵の上でも、言えるようになってきたようだ。いい加減でも良いというのではない。

 原点に回帰するというようなことでもない。この先に新しく見えてくるものがありそうな気がしてきたのだ。それが2地域拠点の成果なのかもしれない。暮らしがあって絵である。その人間が変わらなければ絵は変わらない。最後は人間次第と言うことだろう。

 人間が一歩進めば、絵も一歩進む。歳をとり身体を動かさ、絵に専念するようになって、絵が陳腐になると言うことが私にはありそうだ。私絵画は暮らしがあって絵が生まれる。石垣島で絵に専念する計画は間違っていたと言うことになる。

 絵を描く以前に、自分がやりたいことをやる生活がなければ、絵に現われてくるものもない。こういうことはそれぞれのことなのだろう。他の人のやり方は参考にならない。私には農業をやるという身体の動かし方が、絵を描くと言うことには良いらしい。

 コロナな蔓延下の暮らしが一番大事なことが何かを教えてくれたようだ。作品の発表は難しくなったコロナ社会。その結果、私絵画という意味で存在している芸術としての絵画の意味がより明確になった。絵画が社会性を失ったときに、何が残ったのかと言うことである。

 これが現時点での2地域居住の中間報告になる。中間報告は絵で示されていると言いたいのだが、それは私が言うことでは無く、見る人が判断する事になる。何の報告も無いじゃないという意見もあるような気もする。どうとでも解釈できる報告なのだが、日曜展示は続けて、絵の報告はしてゆくつもりだ。

 

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